Q 2: What is Ulleungdo's largest neighboring island?
答 : 鬱陵島には、竹嶼(韓国名竹島 : Jukdo)と観音島と言う二つの隣接島がありますが、そのうち竹嶼が最大です。韓国側では独島/竹島(Liancourt Rocks)も鬱陵島郡の一部であると考えていますが、東南に92kmも遠く離れているため、隣接島と考えるのは難しいでしょう。韓国名独島は欧米ではLiancourt Rocks、また日本で竹島と呼ばれています。韓国側では日本の竹島と同じ漢字をJukdo(日本名竹嶼)に当てるため、一部の人にとってわかりづらくなっているようです。
地理 既に述べたように、Jukdo(竹嶼)は鬱陵島の最大の隣接島で、その東海岸から沖へ約2.2km、鬱陵島の苧洞港北からは約4kmのところにあります。面積は約207,818k㎡(約51エーカー)です。現在13エーカーの耕作地があります。島の形は松かさに似ており、頂上の辺りにかなり平坦な土地が広がっています。海面から約116mの高さにあり、峻険な崖に囲まれていますが、一箇所だけ島の上部に登ることが出来る険しい小道があります。1993年に螺旋階段が建設されて、観光客への利便性を上げてその呼びこみに期待がもたれました。船着場も建設されました。現在島には一組の父子が暮らしているのみですが、1960年代にその父親が始めて移住したときには4、5家族が既に暮らしていたとの事です。飲料水がなく、雨水を溜めて生活しています。(参照(韓国語))
気候 この島は海洋性気候で雨は多く、年平均降雨量は1,236.2mmで、8-9月は月平均降雨量より24%多いけれど、ほぼ年間を通して平均して降ります。また降雪量も多く、年平均57.8日です。年平均気温はかなり低く、12.3°Cで平均最高気温は8月の 26°C、平均最低気温は1月の-1.0°Cです。(参照(韓国語))
(写真は竹嶼の衛星画像です。)
様々な呼び名 竹島(日本名 竹嶼)の名称は、明らかにその島に沢山の竹が生えていることに由来します。1694年に行われた李朝鮮王朝による検察 の際に、この鬱陵島東沖約2kmの所に浮かぶ島は、海長竹が一面に生えていると記述されました。この島はまた、武陵島, 于山島, 防牌島, 大于島, 大干島, 松竹島, 松島, デソムと呼ばれてきました。なお、これに反対の意を唱える韓国人もいます。
島の歴史 鬱陵島の隣接島である竹嶼はが朝鮮の文献史上最初に登場したのは、おそらく1412年で、それによると12人の人々が朝鮮東岸の高城近くの港に舟でやって来て、"流山國島"(鬱陵島の古名である于山國島のつづり間違い)からやってきた、と述べたとあります。役人に証言した中で、彼等は11家族全60名以上が武陵島という名の島に住んでいたけれど、その後移住し、今は"本島"に住んでいると話しています。つまり、"主なる島"が"于山國島"で、その附属島が"武陵島"だということが分かります。このことから、附属島とはほぼ確実に鬱陵島の隣接島である竹嶼であることが分かります。その島が現在の竹島/Liancourt Rocks/独島であるはずがありません。現竹島は92km離れておりしかもただの岩で出来た島で食物を栽培する土も飲み水も殆ど無く、12家族60人以上を養うことは出来ないからです。. (1412- 太宗實綠)
さらに、1416年江原道の観察使を務めたことのある戸曹参判朴習が、武陵島(=鬱陵島)のそばに小島があって、その田は 50余結になるが、入って行く途中の路が、やっと1人が通行できる程度の幅で、並んで行く事はできないと言います。彼が鬱陵島と竹嶼のどちらについて話しているのかはっきりしませんが、鬱陵島には狭い侵入路がいくつもあることからして、竹嶼であると思われます。朴習は中国に派遣される前の1411年から1412年の間と帰国後の1413年、江原道の観察使(知事)であったことからして、この文章の前の分に出てくる家族について話をしていたのかもしれません。もしくは公的記録にはでていない家族の話かもしれません。(1416 -太宗實綠)
右の地図は、金正浩 の"靑邱島"(1834).という地図帖からの拡大図です。地図の端の1目盛りは10里、つまり約4kmを表しています。つまり、地図にある東沖の"于山"と書かれた小さな島は鬱陵島の約4km沖にあることになり、それは鬱陵島の隣接島である竹嶼であることはほぼ確実です。 既に述べたように、1694年の李朝鮮王朝による検察の後、鬱陵島観察使の張漢相はこの鬱陵島東沖約2kmの所に浮かぶ島には、海長竹が一面に生えていると記述しました。また1711年には、鬱陵島観察使の朴錫昌 は鬱陵島の地図を描きますが、所謂 于山島と書かれた島があります。そこには"海長竹田"の文字もありました。この島が、
1694年に張漢相が鬱陵島の東沖2kmに浮かぶと記述した島と同じ島であることはほぼ確実です。この島が竹の生える土さえ無い岩礁である竹島/Liancourt Rocks/独島であるはずがありません。
1786年、鬱陵島観察使の金昌胤は防牌島は大島(本島)の東沖三里(1.2km)の所に在ると報告しました。
1794年、鬱陵島観察氏の韓昌國は、" 防牌島" "竹島" と"翁島"という三つの島を鬱陵島沖に確認します。しかし、彼はそれぞれの島の距離は100歩しかないとしており、実際の鬱陵島周囲の地理を正確に表していないため、どの島の記述であるのかはっきりと分かりません。
1807年、鬱陵島観察使の李泰根は"于山島"は鬱陵島のその場所の北にあり、周囲が約2、3里(0.8-1.2km)であると報告しています。
1882年、高宗も、鬱陵島には松竹島、時には松島,もしくは竹島と呼ばれる、隣接島があると言い、竹嶼について言及しています。(参照)
地図 1700年代前期から1899年にかけての殆どの韓国の鬱陵島図では、竹嶼は"于山島"もしくは"于山"と名付けられいます。例えば、右の鬱陵島図は1884から1894年という、鬱陵島に韓国人が移住を始めた後に作製されたものですが、鬱陵島の東沖に"于山"と明記された島が描かれています。この島は、ほぼ確実に竹嶼であることは間違いありません。
韓国人は于山島が竹島/Liancourt Rocks/独島であると主張していますが、そうした主張を裏付ける韓国の地図も文献もなに一つありません。実際、韓国側の地図では、竹島/Liancourt Rocks/独島は、どの名称にしても、全く描かれたことが無いのです。ほぼ全ての証拠が于山島は鬱陵島の隣接島である竹嶼であると言っているのです。
韓国の鬱陵島図
竹嶼のビデオ (ビデオ2がよい)
韓国KBSテレビの竹嶼のドキュメンタリー(視聴するにはログインが必要)
1711年 - 朴昌錫「鬱陵島圖形」
1882年 - 4月7日 高宗が于山島は鬱陵島の隣接島であると述べたこと
参照
問1 : 竹島/独島は、6世紀以来韓国の一部と言うのは本当?
問3 : なぜ韓国の古地図は鬱陵島を二つの島として描いているの?
問4 : 世宗実録地理志は竹島/Liancourt Rocks/独島について記述している?
Looks great, Kaneganese, as usual.
ReplyDeleteThank you, Gerry
ReplyDeleteI couldn't organize the links at the bottom neatly somehow...
70 percent of Japanese think "Takeshima is Japanese territory"
ReplyDelete【 public opinion poll 】2008.8.4 18:31
73.7% people who were asked about Takeshima in the Sea of Japan answered "I think it is Japanese territory" 80 percent was exceeded in man 40, one's fifties, and a woman in one's fifties. The answer assumed to be "Japanese Government thinks that they had to insist on the owning right more strongly" was high with 75.0%.
Sankei Shimbun
Kaneganese,
ReplyDeleteI heard about that survey on Korean news this morning. That seems pretty high for Japan.
By the way, I just sent you an email, so please check your mailbox.
Great job again, Kaneganese!
ReplyDeleteお疲れ様でした。