竹島問題の歴史

8.3.10

1974年 - 5月22日~24日 - 東亜日報「秘話 第一共和国 276-278 : 第十一話 李承晩と日本 4-6」

第五次日韓会談の韓国側代表、兪鎮午は、回想「韓日会談が開かれるまで」(1966)によると、1951年4月(7日か?)朝日新聞紙上に掲載された日本と連合国との平和条約を読んでその内容が韓国に不利である内容があることに驚き、意見書を作成して韓国としての意見を主張する準備を始めます。彼はまず「歴史上から見て、我が領土として主張することが出来る島が、どれとどれであるかを知るため」、歴史学者であった崔南善のところを尋ね、以下のような助言を受けます。

1. 「独島の来歴を、即座に、私が確信を持てる程に説明してくれた」
2. 李承晩大統領
韓国の領土であると主張する対馬は「根拠が確実」ではないこと
3. 「木浦と日本の長崎、中国の上海を連結する三角形の中心となる海中に、「パラン島」という島」があり、「我が国の領土としてこの際に確実にしておくのが良いだろう」

意見書作成にあたって、「大韓民国が対日平和条約の署名国の一つとなることを要求する」ことは、「大統領の活動に一任することにし、ここには入れないことにした。」ようです。また意見書は、4、5個の条項から構成されており、領土問題中、「「パラン島」は、実存するかどうかが確実でなく、自信がなかったが、たとえ実存しないにしても、入れておいて害になることも無いだろうと して、独島とともに平和条約第二条に追加するように要求した。」とあります。意見書は外交委員会の委員たちと外務部長官卞栄泰との協力ももとに行われ、「特に、作成した意見書の英訳は、卞長官が直接に専担し、一字一字、精密に検討した。」後に、6月初め頃にはすでに大統領顧問である米国人が加筆した上で、すでに米国政府に送られたようです。

このように、1966年時点での兪鎮午の記憶によると、6月以前に作成された韓国政府による平和条約への意見書には対馬の要求は取り下げ、竹島と波浪島を韓国領土として明記するようアメリカに働きかける内容となっていたはずです。しかし、アメリカの公文書を確認すると、実際に韓国側からの米国への領土条項に関する要求は、1951年4月頃に歴史学者崔南善によって明確にその権原を否定されたにも関わらず、7月9日までは明らかに続いていたことが分かります。また、竹島(独島)と波浪島の要求は、韓国の梁裕燦米国大使より、ダレス国務長官顧問(後に国務長官を1953年1月21日 - 1959年4月22日の間つとめた。)に対して同年7月19日に突然行われますが、二島について知識がなかったアメリカ当局は、「ワシントン中捜したが、ドク島とパラン島を特定できなかった」し、「韓国大使館にも聞いたが、ドク島は鬱陵島または竹島の近くであろうパラン島もそうかもしれない」という全く要領を得ない回答を得ます。(新羅・朝鮮時代を通じて1947年になるまで韓国人は現竹島の領有権を宣言したことはただの一度もなく、当然その地図に領土としての記載がただの一度も無かったので、特定できないのは当然です。)そこで、1951年8月10日、米国国務次官補ディーン・ラスクは韓国外務省に対し、「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張されたことがあるとは思われません。」と正式に通知します。

この兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」(1966)は以後の戦後日韓関係を研究した著作によく引用されますが、15年後に回想録として書かれたものである為か、竹島問題を考える上で大変重要な事実関係についての錯誤があるようです。以下はこの兪鎮午の回想録を元に書かれたと思われる東亜日報の特集記事です。重複する点も多いのですが、対日講和条約の草案が、当時そのまとめ役となっていたダレス米国務長官顧問によって連合国並びに韓国を初めとする関係各国の意見を取り入れながら修正、作成されたという事実がある以上、韓国側の意見書の内容とその提出時期、米国の反応をより綿密に検討していくことは大変重要であると思われます。

(この記事はyabutarouさんのご紹介(こちら)で、翻訳はmatsuさん、翻訳協力はchaamieyさんです。皆様有難うございました。)

東亜日報 1974年5月22日
秘話 第一共和国 276
第十一話 李承晩と日本 4
独島領有権をめぐって韓日間紛糾しきり
対日平和条約草案に 所有権明記せず


日官憲 漁民慰霊碑破壊

1953年6月27日、日本島根県の官憲30余名が日本海上保安庁の巡視船に分乗し、独島に上陸して「独島遭難漁民慰霊碑」を破壊し「島根県島(訳注:隠岐が抜けている)五個村竹島」という・・を立てた。このような狼藉に、韓国政府は日本外務省に抗議するとともに、警察(警官)をして日本人がたてた独島日本領土権識を撤去せしめた。7月12日には日本島根県の第八海上管内の保安庁所属巡視船「へくら」が独島付近に接近し、韓国警備艇の銃撃を受けたこともあった。独島領有権をめぐる韓日間の紛糾は、このような頻繁な小規模衝突を誘発し、李承晩執権期間内に絶えることなく継続した。日本は独島問題について、1960年3月26日現在で41回の「対韓抗議」をするほどだった。韓日会談代表であり、特に対日平和条約草案の修正作業に参与した兪鎮午(ユ・ジノ)氏は「独島を平和条約に明記せずに残しておいたために紛争の種を残した」として「草案修正」作業当時を次のように回顧した。

1951年3月末、法務部法務局長の洪璡基(ホン・ジンギ)が、対日平和条約の草案を掲載した日本の朝日新聞をもって兪鎮午をたずねた。「草案内容中には、我が国の利害関係に関わる部分が少なくなく、帰属財産の処理規定は我が国に不利な結果を招来するようだ。」兪鎮午が、草案内容を検討した結果、帰属財産処理規定は、不利どころではなく、韓国にとって明らかに危険なものであった。草案4条A項の規定には、韓国内にある日本財産処理と日本内の韓国財産処理は、韓日両国間の「特別協定」で決定されることになっていた。「韓国財産の85パーセントにもなる帰属財産処理を日本と協議して決めろとは、これは韓国の独立を日本と協議して決めるのと同じこと」だと兪鎮午は考えた。帰属財産は、米軍政法令33号のより、米軍政庁に帰属し、「韓米間の財政および財産に関する・・協定」で、その財産一切を韓国政府が米軍政から譲渡されたものである。この協定で、帰属財産に関する完全な所有権をすでに取得しているので、日本とまたいかなる協議をする理由も、少しもなかったのである。「もし、日本がこの財産処理に関して何か言うことがあるとしても、それは財産を帰属せしめ所有した米国に対して言うことであり、韓国を相手にすることではない」というのが兪鎮午の見解であった。

帰属財産規定のほかに、草案2条の韓国領土についての規定も兪鎮午にとって不満であった。2条のA項には、韓国の付属島嶼として、済州島、 巨文島、鬱陵島だけが例示されており、韓半島の付属島嶼を全部列挙するのは不可能であるばかりでなく、不必要ではあるが、韓日間の紛争となりうる島嶼、例えば、独島のようなものは韓国の領土であることを平和条約の中に明記されなければならない、と考えた。日本の新聞にまで平和条約の草案が発表された以上、利害関係国である韓国にも草案を送付するであろうと、その事実を洪璡基に確認したが、「わからない」と言う。時を争う問題だと焦燥した兪鎮午は、数日前、駐米大使から新たに国務総理となった張勉から、「いつでも、どんなことでも、私に会う必要があれば、必ずたずね てきてほしい。どんなに忙しくても必ず会うから」と言われていたことを思い出し、張勉をたずねて、あれこれと平和条約草案について話し、韓国政府の意見書 を至急に作成して発送する必要があると強調した。張勉総理は、兪鎮午の主張を首肯したが、米国政府から送られた平和条約の草案が韓国政府に来てい るのかさえも知らなかった。秘書官たちに各方面を調べさせたが、誰も知らないと言った。問題の「草案」 の行方を捜すことができず、その日は無駄にしたが、2・3日後、張勉総理が兪鎮午を急いで呼ぶので、慶南道庁内の国務総理室をたずねると、ある書類を手にして・・して いた。「平和条約草案は、もう2週間前に大統領に届いていたのに、ある秘書の引き出しの中に今まで入れたままにしていたのだそうだ」

「草案」を手にした兪鎮午は、洪璡基とともに綿密に検討した。兪鎮午は、意見書作成の準備に着手し、まず初めに尋ねたのは崔南善であった。対馬は日本が奪取歴史上、韓国領土と主張できるのは、どの島であるかを知るためであった。六堂・崔南善は、記憶力がよく、独島の来歴について色々と根拠をあげ、兪鎮午が確信できるだけの説明をした。兪鎮午は続いて、対馬島について訊ねた。「李承晩博士が、対馬はわが領土だとしきりに言いますが、根拠が確実なことですか?」崔南善は、にこりと笑って首を左右に振った。対馬島に関して李承晩は、1948年8月20日、「我々は、対馬島を韓国に返還することを日本に要求する」と主張し、「対馬島は、上島と下島の二島からなり、韓日両国の中間に位置するものであるが、数百年前日本が奪取したものだ」と強調した。これより前、政府修立前の1948年2月19日、立法議院で、立法議員である許用亀ほか59人の署名を受け、対馬島朝鮮領土復帰建議を対日講和会議に建議しようとしたことがあった。提案理由は「対馬島は元来、新羅に属したもので、日本の長崎からは119マイルにもなるのに、釜山からは33マイルにすぎずに非常に近く、二つの主島からなるので「二島(トゥソム) と命名されたこと」などであった。(朴舜在 パク・スンジェ記者)

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東亜日報 1974年5月23日
秘話 第一共和国 277
第十一話 李承晩と日本 5
平和条約草案にパラン島追加要求
海上踏査の結果、実存せず、外交的失敗


島の名前さえも、明らかでなく

崔南善(チェ・ナムソン)は、諮問した兪鎮午(ユ・ジノ)に次のように言った。「木浦・長崎・上海を連結する三角形の中心の海中に「パラン島」があるが、島の表面が浅く、波の中に沈んだり現われたりするという。「パラン」とは、水が青い ことから言うのか、波の中に消えたり現われたりするので「波浪」というのか確実ではないが、いずれにしろ、その島を我々の領土としておくのが良いだろ う。」海図に「スコトラロック」(SCOTRA ROCK)という暗礁として表示された「パラン島」は、北緯33度10分東経120度に位置し、済州西南方180キロメートルであり、木浦から290キロ メートル、長崎から450キロメートル、上海から320キロメートルの海上にあって、この「島」が対日平和条約に明記されさえすれば、韓国の領域は済州の 西南方に大いに広がることになるのであった。対日平和条約草案の修正作業は、張勉(チャン・ミョン)国務総理と金俊淵(キム・ジュンヨン)法務長官が李承晩大統領に会って「帰属財産処理と領土問題は修正しなければならない」と懸命に説明したが、どうにもならなかった。李承晩大統領は、駐日連合軍司令官「ダグラス・マッカーサー」が自分にこの問題について善処すると約束したことをあげ「平和条約修正要求は必要ない」と反対した。政府側は、「ムチオ」駐韓アメリカ大使に会って平和条約草案の不当性を説明し、李承晩大統領を説得してくれるように要請した。「ムチオ」は、平和条約担当の米国大統領特使「ジョン・フォスター・ダレス」が「誤った考えを持っているようだ」として、協力することを約束した。

外務部の中に外交委構成

「ムチオ」の李承晩への説得が功を奏したのか、1951年4月16日、外務部の中に対日平和条約を扱う外交委員会を設け、草案修正のための意見書作成を開始した。委員は、金俊淵(キム・ジュンヨン)、崔斗善(チェ・ドゥソン)、裴廷鉉(ペ・ジョンヒョン)、兪鎮午(ユ・ジノ)などであり、監事は、洪璡基(ホン・ジンギ)、李建鎬(イ・ゴノ)などであった。意見書作成の過程で、韓国を平和条約の署名国の一つとして要求するのかについて論戦が起こった。署 名国になれば、日本に対し戦勝国の地位となり、戦争賠償はもちろん、その他の全ての問題で有利な地位に立つことになるが、これは純粋に外交的というよりは 政治的な性格のものであり、平和条約草案についての部分的意見を述べる意見書に含ませるのはふさわしくないと判断して含ませないことにし、その要求の成否 は大統領に一任した。意見書には、帰属財産と領土問題、漁業ライン問題などをのせた。特に領土問題の中で、「パラン島」の実存の当否は確実ではな かったが、たとえ実存しなくてものせておいて害になることもないだろうと結論し、独島とともに条約2条(済州島、巨文島、鬱陵島)に追加することを要求す ることにした。意見書は卞栄泰(ピョン・ヨンテ)外務長官が精密に検討し、直接英訳した。

1951年6月の初め。卞長官は外交委員達に、韓国政府のメモランダムをすでに米国政府に送ったと報告し、英文からなるメモランダム文書を配った。これを見た兪鎮午は、吃驚した。外交委員会が作成した意見書に非常に長い前文がつき、内容も1、2項が追加されており、前文は奇怪で本文で展開した法理論と相衝する(あいいいれない)内容のものがあった。「誰がこんなことをしたのだ」と問う兪鎮午に、卞栄泰は、大統領の米国人顧問「クルレン」が加筆したと答えた。加筆で問題が起こったので、卞栄泰は、配布したメモランダム書面を回収していったが、すでに米国政府に発送したあとであり、これ以上議論しても仕方がなかった。

意見書加筆で逆効果

メモランダムを送った結果、帰属財産と関連して平和条約の2条(訳注:4条の誤り)B項が新たに追加されたことは外交の大きな収穫であったが、「クルレン」が加筆をしなかったならば、米国がこのほかの要求事項を聞いてくれた可能性もあったと兪鎮午は残念であった。兪鎮午は、帰属財産に関する修正について、その後、韓日会談代表として参加して、手ひどい経験をしたと述べている。兪鎮午は、平和条約草案修正に帰属財産だけが反映され、その他のものはすべて拒否されたことは遺憾であり、「特に、独島を平和条約に明記しなかったことは、 長く続く紛争の種を残した処置であった」と述べ、「駐日連合軍司令部がマッカーサー・ラインを引く時にも、独島を「マッカーサー」ラインの外側にし、日本 漁船が独島にまで出漁できないようにしたのに、それを平和条約に明記しないことは理解しがたいことであった」と付け加えた。「パラン島」 は、1951年8月、韓国山岳会(会長洪鐘仁)が、海軍の協力を得て、海図に表示された海上(済州西南方180キロメートル)を探査したが、発見できな かった。兪鎮午は、平和条約草案修正対米メモランダムに「パラン島」が入ったことで、外交公文書に、実存しもしない島を領土だと主張して、取り返しのつか ない失敗をしてしまった」と回顧している。(朴舜在パク・スンジェ記者)

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東亜日報 1974年5月24日
秘話 第一共和国 278
第十一話 李承晩と日本 6
日本政府、独島が表示された韓国の切手発行に抗議
日本の海上巡視船 被撃事件も議論に


新種類500万枚ずつ発行

独島領有権をめぐる韓日間の紛糾は、独島が表示された切手にまで広がった。逓信部が1954年9月20日に、独島の風景をのせた2ファン、5ファン、10ファンの新切手を各500万枚ずつ発行すると、日本の外務省は抗議をしてきた。「日本外務省は、駐日韓国代表部の対し韓国政府が発行した、日本の領土である「竹島」が表示された切手について、次のように抗議する。韓国から最近日本に郵送されてきた郵便物に、日本領土である「竹島」が表示された3種類の切手が貼られている。切手には韓国語で「大韓民国郵政」という語とともに「独島」と印刷されている。日本政府は、何度も、韓国政府に対し、明確な日本領土である「竹島」を韓国が不法占領していることを抗議してきた。韓国政府が日本政府の抗議を引き続き無視し、ここにきて「竹島」が表示されている切手を発行することは、韓国政府が日本の領有についての傲慢な主張を宣伝するためのものだ。日本政府は韓国政府の非友好的行為に厳重に抗議するものであり、その是正を要求するものである。日本政府は日本の島である「竹島」が表示されている韓国の切手について、とることの出来るすべての措置を留保している所である。」

韓国政府に通告するこのような日本政府の抗議を駐日代表部は次のように一蹴した。「日本外務省は、口上書で、韓国政府の独島占領についての日本政府の抗議を韓国政府が継続して無視したというが、日本政府は韓国政府が独島が韓国領土であることを、何度もはっきりと明らかにしていることを想起すべきである。韓国政府は、特に1954年9月25日付けの、駐日代表部覚書で、国際法上も歴史的記録からも独島が韓国領土であるという充分な証拠を提示したと深く信ずるところである。韓国が独島に領土管轄権を適法に行使することは、疑心の余地なき確固としたものである。よって、日本外務省が韓国の独島「不法占拠」を云々する主張は、まったく根拠がないことを認証するものだ。「独島切手」発行について、日本外務省は、韓国政府が独島領有についての傲慢な主張の宣伝をする企図だというが、前にも指摘したとおり、独島は韓国領土であることが明らかであり、「独島切手」発行は韓国政府の管轄権に属するものである。

日本政府政府の態度は内政干渉

韓国の切手発行についての日本政府の態度は、不当な韓国への内政干渉と変わらない。上に言及したごとく、駐日代表部は、日本政府が明白な韓国領土である独島を表示した切手発行について抗議する立場にないことを確信するものである。」日本外務省は、「独島切手」以外にも独島近海における日本海上保安庁の巡視船「被撃」事件についても抗議してきた。

1954年11月30日付の抗議口上書

「日本外務省は、駐日韓国代表部に対し、日本領土である「竹島」を不法占有中の韓国官憲により日本海上保安庁巡視船が不法な砲撃を受けたことについて、次のように抗議するものである。海上保安庁の巡視船「おき」と「へくら」は、1954年11月21日の朝、巡視のため「竹島」近海に到着した。「へくら」が「竹島」の西北方3マイルの海上に接近した時、その島を不法占領中の韓国官憲が午前6時58分から7時の間に5発の砲撃を加えた。「竹島」領有権紛争の平和的で最終的な解決のため、日本政府は、韓国領土に対し、国際司法裁判所に提訴することを提議したことがある。韓国は日本の提議を拒否したばかりでなく、「竹島」に警備兵力を駐屯させた。韓国はこれまでその島の不法占領を継続しており、駐屯官憲が日本船舶に発砲までした。日本政府は、韓国政府のこのような行動の継続は国際平和と安全をおびやかすものであるとの深刻な憂慮をせざるを得ない。日本政府は、韓国政府官憲のこのような不法に対し、強く抗議を提起するとともに、「竹島」から韓国官憲の即刻的な撤収を要求するものであり、銃砲を含む全ての装備の撤去も求めるものである。日本政府は、また韓国政府の公式的な謝罪を要求し、今後このような不法行為が再発しないように、砲撃事件を起こした責任者を即刻的に処罰することを含む法的措置をとることを要求するものである。日本政府は、もし韓国政府が日本政府のこのような要求を引き続き拒否するならば、この問題によって惹起されるすべての紛糾の責任は、全て韓国にあることを宣言するものである。」(朴舜在 パク・スンジェ記者)

参考
1966 - 2月 - 兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」(上)『思想界』1966年2月号

サンフランシスコ平和条約と韓国による竹島侵略 

ミニ歴史
1951 - 7月9日 韓国の梁裕燦大使がダレス国務長官顧問に対馬を要求⇒即座に断られる
The Korean Ambassador then asked whether the Islands of Tsushima was to given to Korea under the terms of the treaty, stating that Tsushima properly belonged to Korea. Ambassador Dulles took exception to this statement and pointed out that Japan had been in full control of Tsushima for a very long period of time; the treaty therefore did not affect the present status of Tsushima as a minor Japanese island.

1951 - 7月12日 韓国政府は七月一二日、条約草案に書かれている連合国の中に韓国を含めること、日本が対馬に対する権利を放棄すること、韓日間のすべての条約を無効とすること、など一〇項目からなる覚書をアメリカに送った(東亜日報、七月一三日)

1951 - 7月18日 再度、①韓国を対日戦に参加した交戦国と認めること、②日本は韓国に対して、政府所有と個人所有を問わず、すべての財産請求権を放棄する こと、③韓国を対日講和の調印国とすること、④韓国と日本との間の漁労水域を明白に決定すべきこと、⑤日本は対馬、波浪島(実在しない島であるが、当時、 韓国政府部内では存在するとされていた)および東海(日本でいう日本海)内にある独島に対する要求を放棄することなど五項目の覚書をアメリカに提出した (東亜日報、ニニ日)。

1951 - 7月19日 韓国の梁裕燦大使がダレス国務長官顧問に対馬の要求を断念することを再確認されるものの、"独島"と"波浪島"を要求
Mr. Dulles noted that paragraph 1 of the Korean Ambassador’s communication made no reference to the Island of Tsushima and the Korean Ambassador agreed that this had been omitted. Mr. Dulles then inquired as to the location of the two islands, Dokdo and Parangdo. Mr. Han stated that these were two small islands lying in the Sea of Japan, he believed in the general vicinity of Ullungdo. Mr. Dulles asked whether these islands had been Korean before the Japanese annexation, to which the Ambassador replied in the affirmative. If that were the case, Mr. Dulles saw no particular problem in including these islands in the pertinent part of the treaty which related to the renunciation of Japanese territorial claims to Korean territory.

1951 - 7月26日 韓国がアメリカに対して三たび講和条約案の修正を要求した。①韓国内の日本および日本人の財産(請求権・債権)を放棄すること、②日本に ある韓国および韓国人の財産は日本にある連合国民の財産と同様に返還されるべきこと、③新たなる漁業協定が締結される時まで、マッカーサー・ライン(マッ カーサーが軍事統制と日本漁船の操業制限のために引いた線)を存続させるべきこと、などである(東亜日報、ニ八日)

1951 - 8月2日 韓国の梁裕燦大使からアチソン国務長官へ書簡:第4条の日本による財産請求権の放棄、第9条にある漁業協定が締結されるまでのマッカーサーライ ンの存続、第21条に第15条(a)を加えることを要求。(問題の日本が放棄する領土を規定した第2条には言及しないが、第21条には韓国が第2条での利 益を受ける権利を有する、とされている。)

1951 - 8月3日 Mr.Robert A Feareyのメモ:国務省情報局のBoggsがワシントン中捜したが、ドク島とパラン島を特定できなかった、韓国大使館にも聞いたが、ドク島は鬱陵島または竹島の近くであろう、パラン島もそうかもしれない、とのことであった

1951 - 8月10日 米国国務次官補ディーン・ラスクが韓国外務省に対し、アメリカが竹島は韓国領ではないと判断したことを通知。「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁 は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張 されたことがあるとは思われません。」