竹島問題の歴史

7.3.14

1864 Japanese Map entitled 大日本海陸全圖, by Seiken Gengyo and Ebisuya Shoshichi

I am pretty sure we have discussed this map before, but I cannot find it on this site. What do we know about this map and the mapmaker? I have a renewed interest in it.

I notice that many of the Japanese place names on the map are in katakana, including Matsushima (マツシマ), but Ulleungdo is labeled in kanji (竹島 -Takeshima). Likewise, other larger islands. such as Tsushima (對馬), are labeled in kanji, but their smaller, neighboring islands are generally labeled in katakana. Is it possible the mapmaker used a system whereby he labeled larger, main islands in kanji and smaller, nearby islands in katakana to show they were close enough to be considered neighboring islands of the larger island?

If such a system was used, maybe the "Matsushima" (マツシマ) on this map was not referring to Liancourt Rocks, but rather to Ulleungdo's neighboring island of Jukdo (竹島)? That would explain why the two islands are so close together on this map and similar maps and why Matsushima is drawn as one island instead of two.




79 comments:

  1. Hi, Gerry.

    It was printed "マツシマ" in Katakana chatacter.
    We can check it in a more clear copy here.

    http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T10_37_UT02000429.html

    I'm glad to find your posting.

    官許
    文久四甲子年新春
    東都書肆 小舟町三丁目照峰町
    笑壽屋庄七梓
    竹口瀧三郎刻

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  2. Sorry, a map publisher name in your version is "惠比壽屋"
    The "笑壽" is pronounced same "惠比壽(Ebisu)".

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  3. Thank you, 小嶋日向守.


    I notice that many of the Japanese place names on the map are in katakana, including Matsushima (マツシマ), but Ulleungdo is labeled in kanji (竹島 -Takeshima). Likewise, other larger islands. such as Tsushima (對馬), are labeled in kanji, but their smaller, neighboring islands are generally labeled in katakana. Is it possible the mapmaker used a system whereby he labeled main islands in kanji and their neighboring islands in katakana?

    If such a system was used, maybe the "Matsushima" (マツシマ) on this map was not referring to Liancourt Rocks, but rather to Ulleungdo's neighboring island of Jukdo (竹島)? That would explain why the two island are so close together on many similar maps and why Matsushima is drawn as one island instead of two.

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  4. (註釈の翻刻文)

    古来皇國ノ地圖官庫秘府ノ御本ハ知ラズ坊間流布ノ刊本ハ
    何レモ全備シテ誤脱ナキハ未見及バズ唯往年地學ニ名ヲ轟シタリシ
    水府赤水先生ノ輿地全圖ハ紙幅少クテ微細ニコソ書記サレ子(予?)錯誤ハ
    大方アラヌヤウナリ同人ノ撰述ニ猶刊布セザルモノ一種希ニ世ニ傳タルヲ
    在下鈔録シオキタレハ彼此參考シ加之海路ノ里數ヲ少ク精密ニ増潤
    シテ新ニ海陸日本圖ト号然ハアレト寡聞淺學ニテ倉皇中ニ
    業ヲ卒タシ(レ?)ハ猶オモヒカケ又(ヌ?)過失ハ少ナカラシ(ン?)
            江都 整軒玄魚圖書

    (常用漢字・平仮名による読み下し文)

    古来皇国の地図、官庫、秘府の御本は知らず、坊間流布の刊本は、
    何れも全備して、誤脱なきはいまだ見るに及ばす。ただ往年地学に名を轟かしたりし
    水府赤水先生の輿地全図は、紙幅少なくて微細にこそ書記され、かねて錯誤は
    大方あらぬようなり。同人の撰述になお刊布せざるもの一種まれに世に伝わりたるを
    在下鈔録しおきたれば、かれこれ参考し、これに海路の里数を加え、少しく精密に増潤して、新たに、『海陸日本図』と号す。然らばあれど、寡聞浅学にて倉皇中に
    業を卒たれば、猶思いがけぬ過失は少なからん
            江都 整軒玄魚図書

    (現代日本語による意味解釈)

    古来から日本国の地図というものは、公的な文書庫にあるものや、機密文書(幕府の重要書庫に納められている伊能図を指すか)などは別として、市中に流布している刊行の本は、どの地図や本も、全てが備わっていて誤植や遺漏がないといものは、今まで見たことがありません。
    ただ往年に、地理学に名を轟かした、水戸の長久保赤水先生の輿地全図は、紙幅が狭くても微細に書きつけされていて、前もっての錯誤はほとんどの見あたらないようです。彼が図に表し、註釈を加えた地図で、まだ刊行出版されていなかった種類のものが、珍しく世の中に伝わっていて、それらを手元に集めて記録しておきましたので、それをあれこれと参考にして、またそれに海路の里程を加えて、もう少し精密なものにして、新たに、『海陸日本図』と名付けました。

    こういう理由ではありますが、私が耳にしたり、学んだりしたことは不十分な身であり、慌ただしい最中の出版となりましたので、まだ予想もしない間違った点が少なくないかも知れません。

            江戸の都 整軒玄魚図書

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  5. Gerry,

    The Japanese did not have such a distinguish system with Kanji-or-katakana character.
    The difference of Kanji or Katakana is only design from an aesthetic point of view.

    And, this map is a direct descendant of Nagakubo Sekisui's map.

    改正日本輿地路程全図
    http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/zn/sekisui/y2.jpg
    http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/zn/sekisui/y-10.html

    Therefore, Matsushima on this map is Liancourt Rocks definitely.

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  6. Gerry,
    Welcome back!

    >Is it possible the mapmaker used a system whereby he labeled main islands in kanji and their neighboring islands in katakana?

    It’s very interesting way of thinking that Japanese do not think of.

    But, as Kojima-san says, this map follows Nagakubo Sekisui’s map as the mapmaker himself writes in the right side of the map. (Kojima-san has written the text in above comment)

    So this マツシマshould be Liancourt Rocks even though it is not drawn in two islets.

    At this time of the period Japanese might think 竹島(鬱陵島)belong to Oki district.

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  7. 大日本海陸全圖

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_00/index.data/tyosa-siryo.pdf
    舩杉力修
    「大日本海陸全図」
    水戸藩の地理学者・長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を参考に、海路の里数を加えた日本図である。江戸の絵師・整軒(梅素亭)玄魚が編集し、文久4年(1864)に江戸の恵比寿屋庄七が刊行したものである。整軒玄魚の日本図は嘉永6年(1853)、7年にも刊行されていることから、本図は改訂版といえる。隠岐諸島の北西に、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)を描いている。竹島、松島ともに、隠岐諸島と同じ黄色で彩色されていることが注目される。江戸時代末期には両島が隠岐国として認識されていたことが分かる。

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  8. 大日本海陸全圖

    http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA37802047

    大日本海陸全圖
    [長久保赤水作] ; 整軒玄魚圖
    古地図史料出版, [19--]


    地図資料: 曲尺2寸2分30里. (N41°--N30°)
    整軒玄魚序
    竹口瀧三郎刻
    対象範囲:蝦夷より種子島、屋久島、沖永良部、鬼界島まで、八丈島、唐太、クナシリ、朝鮮國南端(釜山)を含む
    原本の出版事項:東都 [江戸] : 恵比壽屋庄七 , 文久4 [1864]

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  9. 大日本海陸全圖 嘉永七甲寅年(1854)

    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=9,19,0,a
    9. 大日本海陸全圖;大日本海陸全圖 完(元題簽) / 江都 整軒玄魚圖書;竹口瀧三郎刻
    官許 嘉永七甲寅年新春 -- 東都書肆 小舟町三丁目照降町 惠比壽屋庄七梓 -- 木版 (色刷) -- 1舗 -- 73.0×99.5cm(24.5×16.6cm)


    作者の序文によれば長久保赤水の日本図を参考にし、海路の里数を精密にするなどして編成したものである。本図刊行の前年にはペリーやプチャーチンが来航しており、国防あるいは外交上の必要からか、この頃から日本図に蝦夷地全体が描かれるようになるが、津軽以南の図形に比べて著しく均整を崩しており、前述のように、赤水図などの日本図をもとに、急遽蝦夷部分を付け足した感がある。整軒玄魚には、前年に同名の図があり、これには本図よりさらに形の不正確な蝦夷が、貼り出しで継がれている。

    http://servi.lib.meiji.ac.jp:9001/StyleServer/calcrgn?cat=Ashida&item=/009/009-019-00-00.sid&wid=950&hei=700&lang=en&style=simple/ashida_view.xsl&plugin=false


    http://servi.lib.meiji.ac.jp:9001/StyleServer/calcrgn?cat=Ashida&item=/009/009-019-00-00.sid&wid=950&hei=700&lang=en&style=simple/ashida_view.xsl&applet=true&plugin=false&browser=win_ie

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  10. 浮世絵文献資料館
    http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/aiueo-zenesi/ke-zenesi/gengyo-baisotei.html

    ☆ げんぎょ ばいそてい 梅素亭 玄魚
    〔文化14年(1817)~ 明治13年(1880)2月7日・64歳〕

     
     ☆ 安政二年(1855)
     
     ◯『吉原細見年表』
      ◇吉原細見
      『新吉原仮宅便覧』安政二年十二月 一枚刷(色刷)玉屋山三郎板
         署名「応需 玄魚」
         改印「卯十二」「玉山」
     
     ☆ 安政七年(1860)
         
     ◯『吉原細見年表』
      ◇吉原細見
      『新吉原細見記』安政七年春 縦中本 
         序「安政七庚申新春 梅素亭玄魚記」
         袋(図柄は遊女の立姿図)「申の春新刻」「花柳園板」「玄魚画」
         「【新吉原/仲之町/五十間道】玉楼蔵板 讃岐屋幸助 蔦屋松蔵」
     
     ☆ 没後資料
     
     ◯『浮世絵師便覧』p225(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)
      〝玄魚(ゲンキヨ)
       宮城氏、俗称喜三郎、浮世絵専門にあらざれ共、挿画、奉灯の画多し、明治十二三年頃死〟
     
     ◯『名人忌辰録』下巻p29(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)
      〝宮城玄魚 梅素
       通称三郎(ママ)、号玉杓子、器用なる質にして書画篆刻をもなし、戯文戯作をもしたり。明治十三年二月七日歿す、歳六十四。谷中天王寺に葬る〟  
     
     ◯『狂歌人名辞書』p72(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)
      〝梅索(ママ)玄魚、樗堂、又、呂成と号す、通称宮城喜三郎、東京浅草三好町の傭書家にして画、俳句、狂歌を善くす、明治十三年二月七日歿す、年六十四、谷中天王寺に葬る〟  
     
     ◯「日本小説作家人名辞書」p739(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)
      〝玄魚
    通称宮城喜三郎、梅素玄魚、樗堂、呂成、整軒、楓園蝌蚪子、水仙子、小井居、楓阿弥と号す。江戸浅草三好町の筆耕、俳諧を児島大梅及守村抱儀に学ぶ。師匠なしでびら画の名人と称せられた。明治十三年(1879)二月七日歿、年六十四。谷中天王寺に葬る。「浪輝黄金鯱」三編(慶応三年刊)の合作者の一人〟  
     
     ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)
      〝玄魚
       【生】文化十四年(1817)  【歿】明治十三年(1880)二月七日-六十四
       【画系】          【作画期】弘化~慶応
    宮城氏、俗称喜三郎、整軒・風園。蝌蚪(カト)子・水仙子・小井居・梅素亭などの数号あり。父は喜斎玄魚、名は貞雄、俗称喜三郎といひて本石町四丁目に住し大経師を以て業とす、国学を岸本由豆流に学び、詠歌に秀逸多しといふ、梅素玄魚は即ち其が長子にして十五歳の時浅草諏訪町の書画骨董舗金子吉兵衛方に雇はれ二十歳の時之れを辞して家に帰る、後ち摺物の図案及び草双紙の袋絵などに独特の意匠を凝らし書画共に能くしたりき、又、安政二年十月江戸大地震ありし時彼の考案にて鯰の樣々に扮装したる戯画を出版せしに意外に好評を博し、都下の各絵双紙店にて数万枚を売尽せしかば、重ねて版下を講ふ者陸続として彼が家に集まりしと云ふ、純粋の浮世絵師にはあらざれども、浮世絵と関係深きを以て姑くこゝに載す。墓所、谷中天王寺〟
     
     ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)
      ◇「文化一四年 丁丑」(1817) p190
      〝宮城玄魚生る。(梅素・玉(*一字不明)子等の号あり、浮世絵を画き、草草紙の見返しに多く画けり。
       明治十三年二月七日歿す。行年六十四歳)〟
     
      ◇「安政二年 乙卯」(1855) p235
      〝正月、雄斎国輝と宮城玄魚の画ける『俳人百家撰』出版〟
     
      ◇「慶応元年(四月十八日)乙丑」(1865) p242
      〝此頃より、絵合流行し、此年芳幾・是真・京水・幾丸・鳥居清満(六代歟)鄰春・玄魚等の合作『花吹雪』二冊出版、蓋し絵合なり〟
     
     ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊
      ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44
      〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟
     
     ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p88(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)
      〝玄魚(げんぎよ)
       宮城喜三郎、梅素亭、整軒、楓園、水仙子、小井居などの数号がある。経師屋の息子として、少年の頃から骨董商に傭われその後これを辞し、摺物の図案、草双子の袋絵等に独特の意匠をこらしていた。安政二年の大地震には、絵を主題とした各種の戯画を出して、頗る売れたという。その後も各種の諷刺画を描いている。純粋の浮世絵師ではないが、非常の関係密接な人である。文化十四年生れ、明治十三年、六十四才で歿している〟
     
     ◯「日本古典籍総合目録」(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)
       作品数 … 10   
       画号他 … 宮城・呂成・整軒・梅素玄魚・宮城呂成・玄魚・整軒玄魚・宮城玄魚・梅素亭
             梅素亭玄魚
       分 類 … 歌謡(都々逸等)3・地図2・合巻1・往来物1・風俗(吉原細見)1・建築1・消防1
       成立年 … 嘉永5年  (1点)
             安政3・7年(3点)
             慶応3年  (1点)

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  11. 宮城玄魚
    http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/miyagiGengyo.htm
    宮城玄魚(みやぎげんぎょ/みやぎはるな)・桜素亭玄魚/梅素亭玄魚/宮城梅素(みやぎばいそ)     文化13年12月~明治13年2月7日(1816-1880)・・・文化14年説あり

        書画家・経師屋。本名、宮城喜三郎。父、宮城彦三郎。東京日本橋石町4丁目で生まれ浅草に住む。名、貞雄。号、整軒・桃園・科斗子・水仙子・小井居・梅素・楓阿弥等。黄表紙や浮世絵の絵や文章には梅素亭玄魚を名乗った。15歳で浅草の書画骨董家万屋金子吉兵衛の丁稚となる。御家流(おいえりゅう)書家武田交米に師事。また、国学者で歌人の岸本由豆流(きしもとゆずる:1789-1846)の門に入り、和歌でも有名となる。父の老いにより20歳で家に戻り父の家業を手伝うが、書画の版下を得意とし、注文も多かったことから、経師職を辞め専らこれに従事し、小説の版下でも有名となった。活字の秀英体B型仮名書風の版下を作り、活版印刷の成立に大きな貢献をした。また、千社札・絵ビラに使われる江戸文字を創った。発句を守村抱儀に師事、狂歌を良く詠み、狂文も綴った。なお、仮名垣魯とも交流があった。64歳。著書:「大工注文往来」、「 開化漢語用文」 。

    墓は、谷中霊園 甲4号3側。さくら通りに面する。正面「宮城玄魚墓」。

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  12. Thank you for helping me with this map and for giving me your opinions on Matsushima (マツシマ) being written in katakana.

    However, the fact that this map was based on on Nagakubo Sekisui's map does not disprove my theory. First, on Nagakubo's map, Matsushima was written in kanji, not in katakana. Why did the 1864 mapmaker change the name from kanji to katakana?

    Second, on the 1864 map, Matsushima was drawn a little smaller and closer to Ulleungdo than it was on Nagakubo's map. Why did the 1864 mapmaker make those changes?

    Actually, even on Nagakubo Sekisui's 1779 map, we cannot be sure that Matsushima was referring to Liancourt Rocks since it was drawn as one island, not two, and had text near it saying that it was in sight of Korea.

    1779 was more than eighty years after the Japanese-Korean dispute over Ulleungdo, when An Yong-bok said that Ulleungdo's neighboring island of Usando (于山島) was also called "Matsushima" (松島).

    Even if Nagakubo believed Matsushima to be Liancourt Rocks when he made his map in 1779, maybe the mapmaker in 1864 believed Matsushima to be Ulleungdo's neighboring island of Jukdo. In 1882, for example, King Kojong said that Ulleungdo's neighboring island of Jukdo was also called "Songdo" (松島), which is pronounced "Matsushima" in Korean. Again, maybe the 1864 mapmaker was referring to Ulleungdo's Jukdo.

    By the way, here is a link to English information on Nagakubo Sekisui

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  13. Did the 1864 mapmaker change any of the other names on Nagakubo's 1779 map from kanji to katakana of did he change only the name for the island labeled "Matsushima"?

    If he only changed the name for "Matsushima," then that could suggest that the 1864 mapmaker had more information on the island than Nagakubo had in 1779 and changed the name to show that it was a neighboring island of Ulleungdo.

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  14. 長久保赤水は、竹島・松島の情報を『隠州視聴合記』から得たと思われる。
    『隠州視聴合記』は、松島の具体的地理的形態を記さない。そこで「2つの岩」ではなく1つの丸い形(島であるという意味の記号)として長久保赤水は地図化したものと考えられる。

    整軒玄魚は地理学者でなく、浮世絵師であった。よってその地理的情報は不正確であってもやむを得ない。当時の江戸で、竹島・松島の正確な情報を得るのは難しかったと思われる。長久保赤水の図を「写す」うちに、デフォルメがひどくなっていたのではないか。

    漢字でなくカタカナを使うのは、スペースの問題と考えられる。
    隠岐の地名も、布施→フセ、福浦→フクウラ、後鳥羽帝→後トバ帝、後醍醐→ゴタイコ
    のように、画数の多い漢字はカタカナで書いている。

    当時の江戸で、鬱陵島の隣に竹嶼の描いてある地図(お手本)を手に入れることが出来たか?
    外国の地図を得ることは鎖国下にあっては不可能であり、鬱陵島の隣に竹嶼がある、という情報自体を得ることが出来なかったと思われる。

    安龍福は、彼の知識にあった「子山島」(「于山島」が誤って書かれたもの)が、米子の漁師たちが認識している「松島」であると勝手に思い込んだ。
    その認識は2005年に発見された「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」に記録されていたが、一般に知られていたわけではなかった。
    江戸の整軒玄魚にその情報が伝わっていたとは考えられない。
    朝鮮王朝実録に、安龍福が「松島は子山島だ」と言っている内容があるが、整軒玄魚が朝鮮王朝実録を読んだとは思えない。


    『隠州視聴合記』に「(竹島から)高麗を見ると」という記述があり、「高麗を見る」視点にある場所(竹島)は「高麗」ではない。
    『隠州視聴合記』の著者は、「竹島」を「高麗ではない」と認識していた。
    長久保赤水もその認識を受け継いで、「(竹島から)高麗を見ると」という記述をしている。
    ただ、長久保赤水は竹島・松島の正確な位置(緯度・経度)がよくわからないため、竹島・松島付近の緯度・経度を描かなかった。彼は八丈島の緯度・経度も描いていない。

    長久保赤水は「竹島・松島」の緯度・経度を描かず、着色もしなかった。しかし整軒玄魚は隠岐と同じ色に着色し、「大日本海陸全図」という表題のもとに描いている。整軒玄魚は竹島・松島を、隠岐国に属する日本領土と考えていたことが分かる。
    長久保赤水と整軒玄魚の時代の変化は、ここを読み取る必要があるのではないか。

    整軒玄魚に「竹島」は朝鮮の鬱陵島である、という認識があったのか。
    その認識があれば「大日本海陸全図」には載せないはずである。
    隠岐の沖にある竹島は朝鮮の鬱陵島である、という認識は当時の一般の日本人にはなかったのではないかと思われる。
    知っていたのは幕府上層のごく一部と、対馬藩の一部だけなのではないか。

    長久保赤水も、「竹島」は朝鮮の鬱陵島である、という認識は持っていなかったのではないか。

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  15. I have a copy of this map that I just had framed. It is hanging in my entryway.

    https://scontent-a-dfw.xx.fbcdn.net/hphotos-frc1/t1.0-9/1002661_10203589913447924_1327900935_n.jpg

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  16. We should call Mr.Bevers' house as "US Takeshima research center".

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  17. If anyone want to have this map for interior art item.
    The new print of this old map is available for purchase for a mere $15.

    古地図史料出版株式会社
    http://www33.ocn.ne.jp/~kochizu/
    http://www33.ocn.ne.jp/~kochizu/kaisya.htm

    全商品復刻版

    大日本海陸全図(文久日本全国図) 文久四年作(1864 version) 東都笑寿屋版
    単品での価格1575円

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  18. Sorry, Japan's sales tax rose to 8 percent from 5 percent in this month.
    Perhaps, it costs ¥1,620 without shipping costs.

    http://www33.ocn.ne.jp/~kochizu/mokuroku2.htm

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  19. 小嶋日向守,

    What do you think an original of the 1864 map might cost in Japan?

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  20. The current prices of original antique map "大日本海陸全圖".

    near mint ¥300,000~
    excellent ¥130,000~¥300,000
    very good ¥100,000~¥130,000
    good     ¥ 70,000~¥100,000

    That would be a reasonable price depending on the conditions.

    Their Ukiyoe prints map with natural dye color fades easily by the UV ray, lamp lights and closed acid paper .

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  21. I paid only $150 for mine, but it was not in very good condition. There were a few tears, and it was coming apart at many of the folds. The paper is very thin and light.

    It was professionally framed under UV-protected glass and on top of special matting. It also has a back covering that helps seal it from dust.

    It may still fade over time, but it is such a beautiful map that it seemed a waste to just leave it folded up in some special storage box.

    LINK TO MAP COVER

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  22. 大日本海陸全図の値段です。

    Price for大日本海陸全図

    http://www.kosho.or.jp/book/keyword/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E9%99%B8%E5%85%A8%E5%9B%B3/1,100,1,0/

    文久元年、文久3年、文久4年とあるようです。

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  23. Matsu,

    The link below shows what is printed on the map I own. Does that mean that some of the maps were made before 1864?

    My 1864 Map

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  24. Here is the prototype version of Seiken-Gengyo's map
    嘉永六年(1853) 鈴亭森田桑藏版
    大日本海岸全圖 整軒玄魚圖 (東北大学図書館狩野文庫)
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08291001/img/CJA08291001-1.jpg
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08291001/img/CJA08291001-3.jpg

    The revised version in 1854 is almost approach to perfection.
    嘉永七年(1854) 惠比壽屋庄七版
    大日本海陸全圖 整軒玄魚圖 (明治大学図書館蘆田文庫)
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=9,19,0,a

    Here is the perfect version in 1864.
    文久四年(1864) 惠比壽屋庄七版
    大日本海陸全圖 整軒玄魚圖 (東北大学図書館狩野文庫)
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08294001/img/CJA08294001-1.jpg
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08294001/img/CJA08294001-3.jpg
    http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/map/l/0D021660000000000.jpg

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  25. Interesting! Thank you, 小嶋日向守.

    By the way, on the 1853 map, what is written between 是 and 高麗? Also, what is the symbol on the island for Matsushima? It is a little blurred.

    ReplyDelete
  26. Gerry,

    I am not sure if 1861 and 1863 edition really exists.
    The booksellers say so.

    As I commented above, Prof. Funasugi says there are 1853, 1854, and 1864 editions.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    大日本海陸全圖
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_00/index.data/tyosa-siryo.pdf
    舩杉力修
    「大日本海陸全図」
    水戸藩の地理学者・長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」を参考に、海路の里数を加えた日本図である。江戸の絵師・整軒(梅素亭)玄魚が編集し、文久4年(1864)に江戸の恵比寿屋庄七が刊行したものである。整軒玄魚の日本図は嘉永6年(1853)、7年にも刊行されていることから、本図は改訂版といえる。隠岐諸島の北西に、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)を描いている。竹島、松島ともに、隠岐諸島と同じ黄色で彩色されていることが注目される。江戸時代末期には両島が隠岐国として認識されていたことが分かる。
    7/3/14 22:20
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ReplyDelete
  27. Gerry,

    大日本海岸全図 整軒玄魚 鈴亭森田桑蔵板 嘉永6(1853)年
    筑波大学附属図書館 電子展示 高精細画像
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-7.html
    是ヨリ高麗国見ユ
    竹  マツ


    Matsuさん
    筑波大学附属図書館 電子展示 高精細画像の
    官板実測日本地図 (伊能忠敬作成) 開成所 慶応3(1867)年
    の隠岐を拡大したら、「桂島」が描かれていました。これは貴重ですね。
    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-8.html

    それと、札幌の古書店で売りに出ている、大日本海陸全圖は、販売時の袋付きで、刷り立てのような状態らしい文久元年版ということで、これも極めて貴重だと思います。

    以前の高札競売を思い出すと不安です。あれは、たった350万円の予算を国や県が出し渋ったために、韓国人に買い取られて、おかしな薬品処理をされてしまった上、捏造解釈されてしまっています。
    比較的安価なのですから、貴重な古地図は、保存が確かな、然るべき處に保存して貰いたい。

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  28. Thank you, 小嶋日向守, but what does ヨリ and ユ mean in context of this sentence?

    是ヨリ高麗国見ユ

    Does 是ヨリ mean "here," or "this island," or "this place"? Also what does ユ mean at the end?

    ReplyDelete
  29. The word "是より" is "これより" or "この土地から".
    The word "見ゆ" means "見える" or "目に入る".

    Consequently, this sentence means as "この土地から高麗国が見える".

    From here You can see Korean land.
    or
    We can see the land of Korea at this place.
    or
    Korea is able to see from this Island.

    ReplyDelete
  30. 是ヨリ 高麗国 見ユ

    여기에서 고려국이 보인다.

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  31. I would like to correct my last sentence.
    Korea which is able to see from this Island.
    or
    Korea can be seen from this Island.

    By the way, why he wrote "マツ" for name of Matsushima?
    I think simple reason which this margin is too narrow to engrave as "松".

    ReplyDelete
  32. Thanks Chaamiey and 小嶋日向守.

    I am still curious about why Matsushima was written as マツシマ instead of 松島. I still feel it might have some significance, especially since this map was made in 1864, very near the time some Koreans were referring to Ulleungdo's neighboring island of Jukdo as "Songdo" (松島) or Songjukdo (松竹島).

    On THIS MAP, it seems rocks or smaller islands are written as シマ and the larger islands are written with 島. Otherwise, why didn't they write them all as either シマ or 島?

    On THIS MAP, Ulleungdo's neighboring island of Jukdo is written as マノ島, which also could be written as マノシマ. Doesn't マノシマ look a lot like マツシマ?

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  33. Gerry,

    I think the second map "磯竹島略図" was made by modern map drawer such as Sakai brothers from Mito clan.
    The map is very sophisticated look, but it is an imaginative work in fact.

    Please check 「まの嶋」in this hand-writing original map.

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tottori-museum/1696-01/8443.jpg

    It is not a western style map of dotted print by copper plate.

    However it has so accurate geographical features.

    ReplyDelete
  34. matsuさん、kaneganeseさん、他の皆様

    マノ島が、間にある島という意味で、「間の島」なのか、
    それとも「まの竹」がびっしり生えている「まの竹島」の略で「マノ島」なのか、

    これは、竹嶼が一面に竹が茂っていたという旧状から考えると、「まの竹島」説が優勢なのかと考えます。そうすると「マノ竹」の話になります。

    「まの竹」とは何なのか、これが意外と問題なんです。
    私の記憶では、杉原先生かどなたかが、孟宗竹説を採っていらした様に記憶していたので、
    つい先日も、決着した話かと思いまして、「マノ竹、すなわち孟宗竹(モウソウチク・モウソウダケ)と」言うようなコメントをしたのです。

    現代でこそ、孟宗竹は一般的になりましたが、江戸時代では孟宗竹は、本州の日本人にとってはまだまだ馴染みのないものだったと思います。

    私が、まの竹とは孟宗竹だろうと考えた理由は、元禄時代に、鮑を捕るのに、竹島(鬱陵島)のマノ竹を切って、一晩海水に漬けておき翌日引き上げると、大きな鮑が、浸けておいた竹の枝にくっついていて造作なく、鮑が捕れるという記述からです。

    しかし、調べてみましたら、韓国側の主張は、「海長竹」とは、メダケであるという説ですので、そうすると、マノ竹とは、メダケになることになります。

    メダケ(雌竹) 多年生常緑笹 学名Arundinaria simonii 別名オンナダケ・メダケ(女竹)、メンダケ(女竹)、ニガタケ(苦竹)、カワタケ(川竹)、ナヨタケ(弱竹)。
    ササの仲間としては大きくいが、竹としてはやさしいので女竹と呼ばれる。

    竹島の超大型の鮑をとるのに、メダケのような竹というよりは笹に近い小型の竹が、海長竹だという韓国側の主張には疑問を感じます。

    しかし、竹島雑誌の記述を読み直すと「大竹、まの竹」となっていて、これを別種の竹の枚挙と考えると、「大竹」とはあきらかに「孟宗竹」の方と考えられます。

    そうすると、マノ竹は、モウソウチク(孟宗竹) Phyllostachys heterocycla f. pubescensではなくて、マダケ(真竹) Phyllostachys bambusoidesのことかも知れないということになります。

    山陰地方の方言では、マダケを「マノタケ」という言い方をするのであれば、問題解決になりますので、どなたか御教示願います。

    ReplyDelete
  35. Thank you, 小嶋日向守. I think I have a general idea of what you are saying. Anyway, I think it is important to keep an open mind and consider a variety of theories.

    For example, concerning 間島, here is my theory of one possible evolution from 于山島 to 竹島:

    于山島 - 于島 - 干島 - 簡島 or 間島 - 竹島

    The characters 于(우) and 干(간) are easily confused, so 于山島 (우산도) became 干山島(간산도), which was reduced to 干島(간도), which is pronounced the same as 簡島(간도), which means "Bamboo Island," which can also be translated as 竹島(죽도).

    間島 may just be an abbreviated version of 簡島.

    By the way, 干島(간도 can be translated as "shield island," which can also be translated as 防牌島(방패도), which was one of the islands mentioned in the 1794 survey of Ulleungdo.

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  36. たくさん地図が出てきて、こんがらがりました。

    整理したいと思います。

    A. 整軒玄魚の地図 「大日本海陸全圖」

    ① 嘉永6年(1853) 「是ヨリ高麗国見ユ」、「竹」「マツ」
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08291001/img/CJA08291001-1.jpg
    東北大学 狩野文庫

    https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/kochizu/gazou/lime/3-7.html
    筑波大学 拡大可能


    ② 嘉永7年(1854)
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/exhibit/ex_search_detail?detail_sea_param=9,19,0,a
    明治大学
    作者の序文によれば長久保赤水の日本図を参考

    ③ 文久4年(1864) 
    http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/kano/kochizu/CJA08294001/img/CJA08294001-1.jpg
    東北大学 狩野文庫

    http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/map/l/0D021660000000000.jpg
    北海道大学

    B. Gerryさんの地図
    ①「THIS MAP」享保9年(1724)
    鳥取県立博物館所蔵 2.「竹嶋之図」【8440号】
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.data/8440.pdf

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.html
    竹島問題に関する調査研究 最終報告書(平成19年3月)
    絵図・地図資料
    (2)鳥取県立博物館所蔵
    2.「竹嶋之図」【8440号】
    ・全体図 (PDF 212KB)

    本文 舩杉力修論文 145p
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/index.data/11_c.pdf
    享保9年(1724)


    「松島」と島前の「千振」が結ばれている。 
    普通は、島後の「福浦」が「竹島」へ行く港



    ② SECOND MAP(1877)
    http://farm4.static.flickr.com/3061/2630360359_d543a3af5c_o.jpg

    明治10年 1877 太政官指令に関連 
    島根県から内務省への「伺い」に添付されて送られた地図。
    もともとは、鳥取藩の地図を参照したと思われる。


    C. 小嶋さんの地図(1696)
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tottori-museum/1696-01/8443.jpg
    小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tottori-museum/1696-01/
    田中邦貴サイト

    小谷伊兵衛(鳥取藩)が幕府に差し出した地図 
    竹島学習リーフレットの表紙 1696年


    もとの地図はこれ? 元禄9年(1696)1月作製
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.data/8443-01.pdf
    竹島問題に関する調査研究 最終報告書(平成19年3月)
    絵図・地図資料
    (2)鳥取県立博物館所蔵
    5.「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図」【8443号】
    ・全体図 (PDF 141KB)

    本文 舩杉力修論文 141p
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/index.data/11_c.pdf
    「元禄9年(1696)1月作製と推定される絵図である。」

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  37. 整軒玄魚「大日本海陸全圖」
    嘉永6年(1853) 「是ヨリ高麗国見ユ」、「竹」「マツ」
    「マツ」は、長久保赤水の地図にある「松島」、すなわち現竹島と考えられる。
    右下の注記に「赤水翁ノ原稿ヲ以」と長久保赤水の名前が出ており、嘉永7年(1854)版の序文によれば長久保赤水を参考にしているからである。

    「是ヨリ高麗国見ユ」については、長久保赤水の注記「見高麗猶雲州望隠州(高麗が見えることは、ちょうど雲州(出雲)から隠州(隠岐)が見えるのと同じである)」からとっているものと考えられる。いずれも、見ている地点は「高麗」ではないから、朝鮮領と考えていなかったのは明らかである。

    長久保赤水が参照した『隠州視聴合記』における
    「戌亥間行二日一夜有松島。又一日程有竹島。此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州、然則日本之乾地、以此州為限矣」の解釈においても、
    「見高麗如自雲州望隠州」の、「高麗を見ている地点」は、明らかに「高麗」ではないから、「此二島無人之地」を、朝鮮領と考えていなかったのは明白である。


    元禄9年(1696)
    「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図」鳥取県立博物館所蔵【8443号】
    「まの嶋」とある。
    位置からして、竹嶼と考えられる。松島は、別に大きく描かれている。
    松島は2島に描かれており、この「松島」が現竹島であることは疑えない。
    「まの嶋」と「松島」の混同は考えられない。


    享保9年(1724)ごろ
    鳥取県立博物館所蔵 2.「竹嶋之図」【8440号】
    「間島」とある。「まの嶋」のことであろう。元禄地図と比べると、地図がデフォルメされており、現実から遠ざかっている可能性がある。
    「松島」は別途、描かれており、「間島」と「松島」の混同は考えられない。


    明治10年(1877)
    「太政官指令」関連。正確には、その前年だから明治9年(1876)に作製されている。
    「マノ島」とある。鳥取藩の元禄図を参考にしているのではないか。


    整軒玄魚は江戸の浮世絵師であるから、幕府の資料や鳥取藩の資料を直接見ることが出来たとは思えない。よって「マノ島」という名前の情報を、整軒玄魚が得ることが出来たとは考えにくい。

    また、鬱陵島プロパーの地図は、当時は朝鮮王朝しか持っていなかったであろうから(つまり日本にはなかったであろうから)、整軒玄魚が嘉永6年(1853)「大日本海陸全圖」を描くに当たって、鬱陵島プロパーの地図を参照したとは考えにくい。つまり、彼は「竹嶼」についての知識は持ちえなかったと考えられる。

    ReplyDelete
  38. matsuさん
    まとめ御苦労樣でした。
    日本人の感覚では、漢字(楷書・行書・草書)や假名、同音の別の変体仮名を混用して、同一鋪頁内ではなるべく違う表記をするというのが粋であり、美意識なのですが、外国の方には奇異に感じられるのでしょう。
    マヤ文字を使用した人々が同様の美意識を持っていたようで、変体仮名のように同音の表音文字が複数あり、さらに漢字のような表意文字と併用していても、取り立てて意味があるわけではないのと共通します。

    地図整理の追加です。
    ③ 文久4年(1864)大日本海陸全図
    http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T10_37_UT02000429.html
    岡山大学 拡大可能

    http://luna.davidrumsey.com:8380/luna/servlet/detail/RUMSEY~9~1~23870~110022:Dai-Nihon-kairiku-zenzu---Seiken-Ge
    カリフォルニア大 拡大可能

    http://eastasia.digital-collections.de/en/fs1/object/display/bsb00080424_00001.html?monogrTitle_str=%7BDai-Nihon+kairiku+zenzu+%28%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E9%99%B8%E5%85%A8%E5%9B%B3%29%7D&hl=true&mode=simple&fulltext=%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2
    ドイツ国立バイエルン図書館

    参考  「増訂大日本輿地全図」.逸見豊次郎 
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka40/zouteidainihon-1864/15.jpg
    (長久保赤水系地図の同年(1864)のもので松島が漢字のもの)

    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B23/B2364052/1/_dl.html
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/kaken/kaken16-map/lime/10076904335.html
    筑波大「増訂日本輿地全圖」は、嘉永二年(1849)版 拡大可能

    ReplyDelete
  39. 小嶋さん

    ありがとうございます。

    「増訂大日本輿地全図」 逸見豊次郎 イツミ トヨジロウ
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/zouteidainihon-1864/
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_detail?detail_sea_param=years,9,190,0
    http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA68986603

    大変面白いですね。

    増訂大日本輿地全圖
    ① 嘉永2(1849)
    ② 元治甲子清和月(1864)
    清和月:旧暦4月の異称。

    「松島」の右上に小さな島がありますね。
    形からして、この「松島」は、鬱陵島すなわち「ダジュレー」ではないでしょうか?

    嘉永2年(1849)段階で、西洋地図の影響がみられるとすると、私の上記の説(整軒玄魚は竹嶼についての知識を持ちえなかった)はさっそく崩れるかもしれません。



    Gerry,

    増訂大日本輿地全圖 嘉永2(1849) 逸見豊次郎

    This 「松島」 might be “Dagelet”.

    ReplyDelete
  40. 逸見豊次郎

    読みは「へんみ」かもしれません。絵師の狩野一信(かのうかずのぶ)の異名とすると(1816-1863)とあり、元治元年(1864)は死の直後ということになります。


    http://ameblo.jp/3102-0310/entry-11607038720.html
    狩野一信(本名は逸見豊次郎)

    http://rnavi.ndl.go.jp/books/2011/09/000011244309.php
    人物名:狩野 一信
    別名:逸見,豊次郎,顕幽斎

    http://www.access21-co.jp/sinsaku/17sonota.html
    狩野 一信 かのう かずのぶ(1816-1863)絵師
    増上寺の五百羅漢図を描いた幕末の鬼才
    文化13年、江戸の骨董商の次男として生まれる。幼少から絵を好んだが、兄と争い家を出奔。大山石尊の御祷師と出会いその娘と結婚し婿養子となる。義母と折合いが合わず、妻と共に江戸各地を転々としながら、看板や提灯の絵を描いて暮らすが、安政2年の大火で財産を失って増上寺の子院源興院に身を寄せる。ここで了螢上人と出会い、源興院10世となった了螢上人のために「十六羅漢図」を描く。嘉永6年、了螢上人の依頼により、「五百羅漢図」全100幅の制作を開始。しかし、完成間近の96幅で死去する。その後、「五百羅漢図」は妻や弟子の手で完成され、増上寺に納められた。
    変名:辺見豊次郎、逸見一信、顕幽斎一信、墓所:東京都港区安蓮社


    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E4%B8%80%E4%BF%A1
    狩野 一信(かのう かずのぶ、文化13年(1816年)誕生日不明 - 文久3年9月22日(1863年11月3日))は、江戸時代後期の絵師。本姓は不明。通称、豊次郎(とよじろう)[1]。号は、顕幽斎。しかし、研究の進展により一信は生前に狩野姓を名乗った事はなく、「逸見一信」、或いは「顕幽斎一信」と呼ぶのが適切とする意見が強い。
    増上寺に全100幅にも及ぶ大作『五百羅漢図』を残した事で知られる。


    狩野 一信 の画像検索結果
    https://www.google.com/search?q=%E7%8B%A9%E9%87%8E+%E4%B8%80%E4%BF%A1&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=mDtDU9PUHoyOlQWz84CYCA&ved=0CDEQsAQ&biw=1366&bih=597


    http://kotobank.jp/word/%E7%8B%A9%E9%87%8E%E4%B8%80%E4%BF%A1
    狩野一信 かのう-かずのぶ
    1816-1863 江戸時代後期の画家。
    文化13年生まれ。江戸の人。狩野素川の門人。仏画を研究し,成田山不動堂の天井に竜・天人,壁に釈迦三尊などをえがき法橋(ほっきょう)となる。五百羅漢をえがいた100幅が,増上寺におさめられている。文久3年9月23日死去。48歳。本姓は逸見。通称は豊次郎。号は顕幽斎。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    序に
    元治甲子清和月 宕陰老人世弘 題於昌平學之九里香園
    とあります。

    「宕陰老人世弘」で検索すると
    http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/40727/1/ShakaiKagakuSogoKenkyu_13_2_Shima.pdf
    17pに
    塩谷甲蔵(1809~67)江戸時代後期の儒者。諱は世弘、字は毅侯、宕陰は号。(『国史大辞典』)とあります。


    「塩谷甲蔵」で引くと、水野忠邦のブレーンだったようです。「海防問題に強い関心を持ち」とあります。

    http://kotobank.jp/word/%E5%A1%A9%E8%B0%B7%E5%AE%95%E9%99%B0
    塩谷宕陰 【しおのや・とういん】
    生年: 文化6.4.17 (1809.5.30)
    没年: 慶応3.8.28 (1867.9.25)
    江戸後期の儒学者。名は世弘,字は毅侯,通称は甲蔵,宕陰は号。父桃蹊は医者として浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕えた。江戸愛宕山下に生まれ,文政7(1824)年昌平黌に入門,同学の安井息軒は終生の畏友であった。また11年松崎慊堂に入門。12年,翌天保1(1830)年と関西に遊び頼山陽と親しく交わった。2年父の没後,儒者として登用された。藩主水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となった。忠邦の退隠後は世子の輔導に当たる。弘化年間(1844~48)には海防問題に強い関心を持ち,『籌海私議』を著し,また清国の阿片戦争を聞き強い危機感から『阿芙蓉彙聞』を輯し,これらは広く迎えられた。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。徳川斉昭は藤田東湖を宕陰のもとに派し諮問している。文久1(1861)年将軍徳川家茂に拝謁,2年昌平黌の儒官となった。幕府の歴史編纂に従事中病に罹り没す。谷中天王寺に葬る。
    塩谷時敏『宕陰先生年譜』 (沼田哲)

    ReplyDelete
  41. 小嶋さん

    嘉永2年(1949)のオリジナルの地図を探してみたのですが、見つかりません。

    元治元年(1864)の「宕陰老人世弘」(塩谷宕陰)の序文つきのものしか存在しないのではないか、と思い始めました。

    とすると、逸見豊次郎が嘉永2年(1949)に作った地図は、元治元年(1864)に修正されているのはないか。塩谷宕陰であれば、西洋地図に接することが出来る立場にあったはずで、「松島」の図形の修正は、この段階なのではないかと思うようになりました。

    嘉永2年(1949)のオリジナル地図が実際に出てくれば、この考えもまた否定されるかもしれませんが。


    ちなみに、お値段。
    http://www.kosho.or.jp/book/keyword/%E9%80%B8%E8%A6%8B%E8%B1%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E/1,100,1,0/
    26万2500円です。
    ここには「嘉永2」とありますが、元治元年版ではないかとも思います。
    137×220 木版彩色 裏打

    明治大学の蘆田文庫でも嘉永二年に表示されていますが、
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_db?amp;year1=1848&year2=1854&from=years
    増訂日本輿地全圖;(増訂)大日本輿地全圖(元題簽) / 逸見豊次郎著 -- 嘉永二己酉年

    実際は、元治元年の序文つきのものです。
    9-190
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_detail?detail_sea_param=years,9,190,0
    128.2×236.0cm


    ずいぶん大きな地図のようです。
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/kaken/kaken16-map/lime/10076904335.html
    大きさ: 137.8×236.8 cm
    タテに張り出した(継ぎ足した)部分を数えたり、数えなかったりしているのかもしれません。

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  42. この逸見豊次郎の地図は
    すでにGerryさんによって触れられていました。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/09/1864-japanese-map-shows-2-similar.html

    ReplyDelete
  43. 逸見(へんみ)さんですか。なるほど。筑波大所蔵の『増訂大日本輿地全圖』の正しい年代にも気が付きませんでした。御教示有り難う御座います。

    嘉永版が見つからない以上、時代的に考えて、文久の改訂版で、竹嶼らしき島があらたに書き足されたのかもしれません。しかし、これは、蛇足がついただけの現竹島と見るか、ダジュレーと見るかは人それぞれだと思います。

    たしかに他の赤水系の地図は、ずっと竹島・松島だけで、その廻りに竹嶼らしき属島など描かれた物はないのに、逸見の地図にだけ描かれているのは面白いですね。アルゴノートのある外国の地図の影響が現れ始めた時代の推定に役立ちます。

    海外のオークションの値段も興味がありますので、そういうサイトで赤水系の地図を追ってみます。
    http://www.pbagalleries.com/view-auctions/catalog/id/328/?page=7

    重鐫日本輿地全圖 天明三年(1783)
    http://www.pbagalleries.com/view-auctions/catalog/id/328/lot/99733/?url=%2Fview-auctions%2Fcatalog%2Fid%2F328%2F%3Fpage%3D7

    大日本海陸全圖 文久四年(1864)
    http://www.pbagalleries.com/view-auctions/catalog/id/328/lot/99787/?url=%2Fview-auctions%2Fcatalog%2Fid%2F328%2F%3Fpage%3D7

    新刻大日本全圖  元治二年(1865)
    http://www.pbagalleries.com/view-auctions/catalog/id/328/lot/99780/?url=%2Fview-auctions%2Fcatalog%2Fid%2F328%2F%3Fpage%3D7

    竹島・松島に廻りに小さな島嶼があるのは、やはり逸見さんの地図ぐらいですね。
    http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/pub/kaken/kaken16-map/lime/10076904335.html
    地図の右上に、蝦夷カラフト紙中狭きが故にここに略す、と貼り足しに断り書きがあるのも改訂版だからでしょう。

    尤も嘉永年間でも、広い視点の地図は出版されていました。
    大日本沿海要疆全圖 嘉永七年(1854) 工藤東兵
    http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/each/09/09-008/09-008-0-0.01.017-l.jpg
    朝鮮海と大日本海という名称も面白いですが、竹島・松島は、属島を示さない赤水系の踏襲です。篠田雲鳳女史とあるのも、興味深いです。

    属島を示さないことは、こちらも同様ですので、
    増訂大日本国郡輿地路程全図 嘉永五年(1852)
    http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/each/09/09-156-2/09-156-2-0.05.018-l.jpg

    逸見の嘉永版(1849年)のものも、属島を描いていなかった可能性が大きいように思います。

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  44. 小嶋さま

    逸見豊次郎の図

    宕陰老人世弘 塩谷宕陰の序です。ご教示ください。


    南踏南海、西踵山陽、東北極奥羽三観乎。相洋七周覧乎。
    毛総之野、遊履所無蹠八九千里、毎夾長子玉地図。攀
    山・水・都邑田・、尋名蹟、訪古戦場、必対照而比検
    之。然予無九章学。至星度経緯、河岳勾・、州郡之広輪
    原・墳衍之曲面・隆、不能豪・測之、略領大勢而已。
    令閲是図・子玉、更加精緻。昔者見・敬所於京師。談及
    古戦蹟、敬所日中。履軒摂州人而所著通語於一谷鵯越
    地形・如也。学者・於地理、往々如此。予因以大驚焉。斯
    図之出也、・・如。予者・足坐焉。以指掌環中、可謂図経
    也。夫、元治甲子清和月、宕陰老人世弘、題於昌平学之九里
    香園。            二梅木凝之書

    「長子玉」は長久保赤水のこと
    訓点の位置が違うかもしれません。

    参考
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E8%B0%B7%E5%AE%95%E9%99%B0

    http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/shionoyaTouin.htm

    http://kambun.jp/writers/shionoya-toin.htm
    写真あり

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  45. This comment has been removed by the author.

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  46. 南踏南海、西踵山陽、東北極奥羽三觀乎。相洋七周覧乎。
    毛總之野、游屐所無蹠八九千里、毎夾長子玉地圗。攀
    山覜水瞻都邑田坰 、尋名蹟、訪古戦塲、必對照而比檢
    之。然予無九章學。至星度經緯、河嶽勾股、州郡之廣輪
    原隰墳衍之曲面窊隆、不能毫氂測之、畧領大勢而已。
    令閲是圗比子玉、更加精緻。昔者見豬?敬所於京師。談及
    古戰蹟、敬所日中。履軒攝州人而所著通語於一谷鵯越
    地形瞀如也。學者麤於地理、往々如此。予因以大警焉。斯
    圖之出也鹵莽如。予者亦足坐焉。以指掌寰中、可謂圗經
    也。夫、元治甲子清和月、宕隂老人世弘、題於昌平學之九里
    香園。            二梅木凝之書

    (印判) 鹽谷世弘  毅侯氏

    遊屐・逰屐・游屐 ユウゲキ 各地を巡り遊ぶこと。
    坰・垧・冏 ケイ 郊外
    毫氂・毫釐 ゴウリ 極めて少ない分量。
    鹵莽 ロモウ 軽率で不用心なこと

    覜 チョウ まみえる
    瞻 セン みる
    窊 ワ くぼむ
    麤・麁 ソ あらい はなれる
    瞀 ボウ、ム くらい
    寰 カン 天下

    九章算術には、鈎股弦の定理があります
    豬 の判読は自信がありません。

    大阪市立大学の前身と言うべき中井竹山・中井履軒の懐徳堂(内外の歴史研究者から市立大学と見なされて久しいです)に関係あるなら、外国の地図にも詳しかったと思います。
    私事ですが三十年ほど前に、浅草の今半別館を改築する際に、ひょんなことから、親父と私は、廃棄される唐紙二枚を貰って来ました。襖の内張を剥がしてみたら、その中に『草茅危言』の反古紙があったので、当時偶々、山片蟠桃と富永仲基に興味があった私は、妙に感心した覚えがあります。

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  47. 冒頭の印判の判読が欠落していました。

    山髙水長
    「山のごとく高く水のごとく長し」

    またコメントの「市立大学と見なされて」は、誤変換でした。「私立大学と見なされて」に訂正します。


    ところで、大日本沿海要疆全圖 嘉永七年(1854) 工藤東兵
    http://www.lib.meiji.ac.jp/ashida/display/each/09/09-008/09-008-0-0.01.017-l.jpg
    http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/contents/map/l/0D021630000000000.jpg
    篠田雲鳳は、工藤東兵の妻だそうです。
    こちらの地図には、朝鮮半島のすぐ近くに、「欝陵島」が別に載っています
    http://www3.library.pref.hokkaido.jp/DigitalLibrary/View.aspx?id=1650 
    北海道大学 大日本沿海要疆全圖 拡大可能

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  48. 小嶋さま
    ありがとうございました。

    さすがです。

    教えていただいてみると、文章の切り方が、間違えている所がたくさんありました。
    読んでいただいた漢字に従って、読み下して、解釈してみようと思います。


    南踏南海、西踵山陽、東北極奥羽三觀。
    乎相洋七周覧。乎毛總之野游屐所無蹠。

    南は南海を踏み、西は山陽に踵した。東北は奥羽の三觀を極めた。
    相模の海は七回もまわった。上野・下野、上総・下総の野は巡り歩いて行かない所はない。

    八九千里、毎夾長子玉地圗。
    そうして旅したのは合わせて、八九千里。いつも長子玉(長久保赤水)の地図をたばさんでいた。


    攀山覜水、瞻都邑田坰 、尋名蹟、訪古戦塲、必對照而比檢之。
    山を攀じ、水にまみえ、都会や田舎、郊外をまわり、名蹟を尋ね、古戦場をめぐり、いつも地図と実際を対照して確認していた。


    然予無九章學。至星度經緯、河嶽勾股、州郡之廣輪、原隰墳衍之曲面窊隆、
    不能毫氂測之、畧領大勢而已。
    しかし、私には九章の學が無い(数学や天文学を知らない)。
    星の高さ(北極星による緯度)経度、河や山の勾配、州郡の廣輪(面積の大小)、原隰(げんしゅう)(高原と低い湿地)、墳衍(ふんえん)(丘と平地)の曲面や窊隆(わりゅう)(低昂 凹凸)、
    これらをまったく測ることが出来ず、おおよそ大勢を知るのみである。

    今閲是圗、比子玉更加精緻。
    いま、この地図を閲覧して、子玉(長久保赤水)の地図と比べると、更に精緻を加えている。

    昔者、見猪敬所於京師。談及古戰蹟。
    敬所曰、「中履軒、攝州人、而所著『通語』、於一谷鵯越地形、瞀如也。
    學者麤於地理、往々如此。」

    *ここの解釈について
    履軒を「中井履軒」と知らせていただいたので読めました。
    「日中」ではなく、「中」は中井の略、日ではなく「いわく」ですね、
    『通語』は中井履軒の著書にありました。日本歴史の本のようです。

    「豬の判読は自信がありません。」とありましたが、「敬所」でひいて
    「猪飼敬所」とわかりました。そこで、

    むかし、猪飼敬所と京都で会った。
    古戰蹟の話になった時に、敬所が言った。
    「中井履軒は攝州の人であるが、その著書の『通語』では
    一谷(いちのたに)と鵯越(ひよどりごえ)の地形については何もわかっていない。(儒学の)学者と言われる人でも、地理についての知識がないのは、往々にしてかくのごとしである。」


    予因以大警焉。
    わたしは、大いに警せられたのであった。


    斯圖之出也、鹵莽如予者、亦足坐焉。
    地図が出ると、私のような軽率な者は、もう何処へも行かなくても良くなってしまう。

    以指掌寰中、可謂『圗經』也。
    指掌の中に天下があるので、まさに『図経』というべきであろう。

    夫、元治甲子清和月、宕隂老人世弘、題於昌平學之九里香園。 
    それ、元治甲子年(1864)四月、宕隂老人世弘、昌平學の九里香園に題す。
    (塩谷宕陰は1809年生まれなので、この時55歳。)

    南踏南海、西踵山陽、東北極奥羽三觀。
    乎相洋七周覧。乎毛總之野、游屐所無蹠。
    八九千里、毎夾長子玉地圗。
    攀山覜水、瞻都邑田坰 、尋名蹟、訪古戦場、必對照而比檢之。
    然予無九章學。至星度經緯、河嶽勾股、州郡之廣輪、原隰墳衍之曲面窊隆、
    不能毫氂測之、畧領大勢而已。
    今閲是圗、比子玉更加精緻。
    昔者、見猪敬所於京師。談及古戰蹟。
    敬所曰、「中履軒、攝州人、而所著『通語』、於一谷鵯越地形、瞀如也。
    學者麤於地理、往々如此。」予因以大警焉。
    斯圖之出也、鹵莽如予者、亦足坐焉。
    以指掌寰中、可謂『圗經』也。
    夫、元治甲子清和月、宕隂老人世弘、題於昌平學之九里香園。 

    中井履軒
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E5%B1%A5%E8%BB%92

    通語
    http://kaitokudo.jp/Kaitokudo1_cgi-bin/HtmlWordRep3.exe?HTML=BunkoMain&%5BDOCID-INSERT-%5D=37

    猪飼敬所
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E9%A3%BC%E6%95%AC%E6%89%80

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  49. 西は山陽、北は東北、そして南の南海というのは紀州までかあるいは四国まで行ったのでしょうか?
    当時の旅は歩いていくわけですから、日本各地を経巡ったという感慨が55歳の塩谷宕陰にはあったのでしょう。そして、彼の旅には常に長久保赤水の地図を携行していた。
    当時の赤水の地図の人気をうかがわせます。
    その赤水の地図を、更に精緻にしたもの、として逸見豊次郎の地図を褒めて、序を寄せているわけです。

    嘉永2年版1849の逸見豊次郎の地図で「松島」がダジュレーの形で描かれていたのかどうか、まだ現物を見られないのでわかりませんが、あるいは、この元治元年版1864年の地図が、「松島」をダジュレーの形で描いた嚆矢の地図ではないか、とも思います。

    いったい、どういう知的サークルの中で、この「間違い」が起こったのか?

    西洋地図を見られる立場にいた人間が、長久保赤水の地図の「松島」を、ダジュレーの形に変えてしまった、という局面だと思います。

    勝海舟「大日本国沿海略図」(慶応3)1867も、松島をダジュレーの形で描き、あわせてリアンクールも描いています。でもこれは、イギリスの海図の翻訳だと書いてあり、その素性がわかるわけです。

    著者である逸見豊次郎が、五百羅漢の絵師である狩野一信の別名だとすると、一体どうやってその情報を得たのか?
    序を書く人間は、箔をつけるためであって、実は製作にはそれほど深く関与していないのかもしれません。

    同年の整軒玄魚「大日本海陸全圖」は、松島は長久保赤水のままです。

    また同じ嘉永2年1849の、高柴英三雄「嘉永新増大日本国郡輿地全圖」も、長久保赤水によりながら、竹島・松島は反対になっていて、情報があいまいになっていることを伺わせます
    http://digital.staatsbibliothek-berlin.de/werkansicht/?PPN=PPN3346228819&PHYSID=PHYS_0006&USE=800
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04-e.html
    http://www.lib.meiji.ac.jp/perl/ashida/search_detail?detail_sea_param=loc,9,61,0
    http://ch.kanagawa-museum.jp/dm/kotizu/nihonzu/d_nihonzu05.html

    ちなみに、こちらのお値段。
    http://www.kosho.or.jp/book/keyword/%E9%AB%98%E6%9F%B4%E8%8B%B1%E4%B8%89%E9%9B%84

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  50. matsuさん
    なるほど。豬は猪飼の略でしたか。
    ありがとうございました、これで意味がすっきり通りました。

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  51. すぐに削除します。

    無関係な話題で恐縮ですが、matsuさんの関心を引きそうなニュースです。
    http://j.people.com.cn/94475/8594099.html

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576136?tocOpened=1
    国会図書館のデジタルの
    使琉球記 6卷
    [1] [64]
    この46コマめが、該当する記述のある部分ですので、書き起こしました。

    初九日庚寅晴卯刻見彭家山山列三峰東高而西下計自開
    洋行船十六更矣由山北過船辰刻轉丁未風用單乙針行十
    更船申正見釣魚臺三峰離立如筆架皆石骨惟時水天一色
    舟平而駛有白鳥無數繞船而送不知所自來入夜星影横斜
    月光破碎海面盡作火焰浮沉出沒木華海賦所謂陰火潛然
    者也舟人禀祭黒水溝按汪舟次雜録過黒水溝投生羊豕以
    祭且威以兵今開洋已三日莫知溝所琉球夥長云伊等往來
    不知有黒溝但望見釣魚臺卽酬神以祭海隨令投生羊豕焚
    帛奠酒以祭無所用兵連日見二號船在前約去數十里

    ReplyDelete
  52. 小嶋さん
    ありがとうございます。

    削除しなくても、尖閣をめぐる貴重な記録だと思います。

    新聞記事に
    “清の第7代皇帝・嘉慶帝(かけいてい)の時代に、「官僚らが、海路で琉球王国や冊封国(さくほうこく)の王の元へ行った際、釣魚島に上陸した」という一幕が記載されている。”

    とありますが、「上陸した」という記述はあるんでしょうか?
    海の難所の「黒水溝」をまつった、ということのようでもありますが。

    「望見釣魚臺」とだけあって、上陸していないようにも思います。

    だいたい、この「使琉球記」という書物は、既に前から知られているものではないでしょうか?
    オークションに出る、というニュースなのに、その内容が歪曲されて報道されているのではないでしょうか?

    あっているかどうか分かりませんが、点を入れてみます。

    初九日、庚寅晴。卯刻見彭家山、山列三峰、東高而西下。計自開
    洋行船、十六更矣。由山北過船。辰刻轉丁未風、用單乙針、行十
    更船、申正見釣魚臺。三峰離立、如筆架皆石骨。惟時、水天一色
    舟平而駛、有白鳥無數、繞船而送、不知所自來。入夜、星影横斜、
    月光破碎、海面盡作火焰浮沉、出沒木華海賦。所謂陰火、潛然
    者也。舟人禀祭黒水溝、按汪舟次雜録、過黒水溝、投生羊豕以
    祭、且威以兵。今開洋已三日、莫知溝所、琉球夥長云、伊等往來
    不知有黒溝、但望見釣魚臺、卽酬神以祭海、隨令投生羊豕、焚
    帛奠酒、以祭無所用兵。連日見二號船、在前約去數十里

    羊や豚を海に投げ入れて、海神を祭っているようにも思います。
    白い鳥(かもめでしょうか)が無数にやってきて、夜には星影さやかに月は冴え、海に映って火焔のようだ、と絶景を愛でているようにも思います。

    「釣魚臺」という島があることは琉球人によって昔から知られていたでしょうし、清国の領土だ、とはひとことも書かれていないように思います。

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  53. 白い鳥は、尖閣名物「あほうどり」かもしれませんね。

    ReplyDelete
  54. matsuさん
    コメント有り難う御座いました。
    「五月九日」は、嘉慶五年(1800年)のことで、
    維基文庫 使琉球記 巻三
    http://zh.wikisource.org/wiki/%E4%BD%BF%E7%90%89%E7%90%83%E8%A8%98/%E5%8D%B7%E4%B8%89
    にテキストがありました。

    「五月九日庚寅。晴。(中略)申の正刻(午後4時)に釣魚台が現れた。 3つの山が離れて立っており、筆架のようである。全て岩山である。このとき、海と空はひとつの色にとけあい、舟は静かにすべるようにゆき、無数の白鳥が舟をめぐっては送ってくれるのだったが、それがどこから来たともわからなかった。」
    原田禹雄著『尖閣諸島―冊封琉球使録を読む―』

    私も、「白鳥」とはアホウドリだと思います。名称を変更するべきとの意見のある、かつての呼称「沖の大夫」のほうがまさに相応しい情景だと思います。
    また、生け贄を捧げた祭祀は、船上で執り行われたようですから、魚釣島に上陸などしていないようですし、それには、「中外の界を越えた」という認識があることがわかりました。

    皆様
    昨日のコメントで「無関係の事」としましたが、昨夜からよく調べてみましたら、これは、尖閣諸島のみならず、竹島問題にも極めて関係のある祭祀の「謎」が隠されていることが分かりました。
    日本人は、海の中に「黒潮」または「黒瀬川」と呼ばれた海流というものが存在することを古くから知っていましたが、これは世界的には、「津波」同様ほとんど認識されていなかった概念だそうです。黒潮は、沖縄から太平洋岸を流れていますが、対馬暖流として、旧竹島(鬱陵島)や松島(現竹島)の周辺にも流れています。

    話は、張漢相による鬱陵島検察の記録文に関わります。
    「騎ト」「水臽」「水宗」の意味を考え直す必要がありそうだということです。

    朴世堂『西渓雑録』
    肅宗二十年八月二十二日(1694年10月10日)  崔世哲らが、鬱陵島に到着した日の「水
    臽」の記述

    「而、向東行舡之際、酉時量、驚涛蕩舟、十餘里間、幾不能渡、意謂水臽而然。是如乎。戌時量、又値怒涛排空。此亦水臽之一派。是齊。又經一宿。二十二日、卯時量有一泰山、堅臨。舡頭意謂、頃刻可到。而、波浪汹湧、帆檣無力、出入進退之間、自致遲延。」

    肅宗二十年九月十九日(1694年11月6日)  張漢相ら、三陟より出発した日の「水臽」の記述」

    「去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待風所、発船。緑由曽己馳報、為有在果。僉使、與別遣譯官・安慎徽、領率員役各人、及沙格并一百五十名、騎ト舡各一隻。汲水舡四隻、良中、従其大小分載。同日巳時量、因西風開洋。是如乎。戌時量、到大洋中、波涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水臽、而諸船為波浪、所觸一時渙散、莫適所向。是如乎。」

    ここには、自国の領域を越えるような危険な航海の安全を祈る祭祀に関わる
      「騎ト」の単語がありました。
    また、海の難所を示す水臽の記述があります。
       臽カンは、(勹+曰またはノ+一+日に見えるが、陥れるの旁とおなじ)
      水臽 つまり「淊」カン・ひたす で、淹エンに同じ
    臽は、人+臼(穴の形)」の会意文字で、穴の中へ人がおちこむことを示す。
    淊や淹は、この場合、深く広い海の水で沈め隠されてしまう所という意味。
     蔚陵島事績では、「水臽」ではなく、「水宗」となっている。

    蔚陵島事蹟 の同じ部分
    「去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津、待風所、發船。綠由曾已馳報、為有在果。僉使、與別遣譯官 安慎徽、領來諸役各人、及沙格并一百五十名、騎船各一隻。汲水船四隻、良中、從其大小分載。同日巳時量、囬西風開洋。是如乎。戍時、到大洋中、波濤險巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水宗、而諸波浪、所觸渙散、無適所向。是如乎。」

    ※ こちらには、航海の安全を祈る祭祀に関わる「騎ト」の単語が欠落しています。


    肅宗実録  肅宗二十年八月十四日己酉(1694年10月2日)
    漢相、以九月甲申、乘舟而行、十月庚子、還至三陟。言倭人往來固有迹、而亦未嘗居之。地狹多大木、水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也】亦不平、 艱於往來。
    「欲知土品、種麰麥而歸。 明年復往、可以驗之。」

    ※ 肅宗実録では、「水臽」ではなく、「水宗」となっています。

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  55. 肝付兼行といえば、海軍水路部長で、竹島に関係深い人物で、
    肝付兼太といえば、世が世ならばお殿様で、皆さん御存知の、スネ夫です(笑)。

    戦国武将の肝付兼篤(1562年~1609年)が、口永良部島と奄美大島の区間に、薩摩と琉球双方の人間にとって渡海困難で、国の境界となっていた危険な潮流があることを記しています。

    「肝付家文書」640号「肝付兼篤書状」
    慶長十四年(1609年)己酉、琉球国御征伐に依て、公軍卒八十余人を従へて、二月廿五日、喜入を発し指宿に次り、翌廿六日、山川に到る、諸軍勢三千余、同日に来着す、今日吉日たるの間各々乗船す。
    御供
    執事 新納十右衛門尉久信、志々目源左衛門尉、前田左近将監、比地黒八右衛門尉、中野助七、吉牟田新左衛門尉、志々目五郎右衛門尉、伊達斛兵衛尉、白尾玄蕃允、有馬藤右衛門尉、坂本善兵衛尉
    同廿八日、家久公山川に着御、公微恙によつて出仕し給はず、使者を以此旨を言上せらる、家久公より伊地知平右衛門尉を御使にて、今般渡海の労苦を謝し命ぜらる、重て別府舎人助を以て 公後陣の大将として、大嶋の壓たるべきの旨、仰出さる。
    三月三日、諸軍士号令に任せて各々平田氏へ、相聚り、御三殿の御判形法制の條書を仰渡さる。同日の夜半、順風に任せ兵船四十余艘一同に纜を解て出船。
    翌四日の晩、永良部嶋に着す。此間行程四十八里と云々。公の船は十一端帆、供船二艘内九端帆一つ五枚帆一つなり。
    翌五日、順風無きに依て滞在。

    同六日、永良部を出船。同七日の酉刻ばかりに大嶋深江の浦に着。
    其間百十余里許、天水が渡とて古より難儀の渡なりと言伝しかども、安々と渡海せし条諸天三宝の加護無疑と、各頼母敷ぞ思ひけるとなん。

    ※ ここは天水が渡といって、古来より難所と言い伝えられているが、こんなに安々と渡れたのは諸天三宝の加護疑い無し。頼もしいと思いけり

    かつて奄美大島までが、琉球領になっていた理由として、この黒潮の存在という自然条件があったからと考えられます。

    「三国名勝図会」で、落漈(らくさい) を以下のように説明しています。

    「薩摩地方より南島琉球へ往来するには、必ず七島海を過ぐ。七島海とは、屋久島より大島までの中間をいふ。七島其の中間にある故なり。北海東西七十里許の間、 波浪殊に高く、潮水常に東に注ぎ、迅速なること急流の如し。屋久島と口島との間は特に迅速にして其の勢い甚だ壮んなり。往来の舟船、其の順風の時は、急流を過ぎ得るといへども、風なき時は、必ず急流の為に東に落つること数十里にして、後止むといふ。是を七島灘と號して、舟人恐怖せざるはなし。琉球往来第一危険の処とす。」

    「唐土の書籍、此の海潮東流危険の状を載せて、落漈と名づく。七島海船路の一脉は、かかる潮勢なるに、七島海の西(西は、唐土の地方に向かふ。)に遠く距れば、又潮水西に注ぎ落つ。然れども東面に比すれば、其の勢寛緩なりとぞ。凡そ七島海路南北七十里許の間は、かく潮水各東西に注ぎ落つといへども、東西に五六十里も距れば、潮水常海の如くにして、急流の状なしといふ。」


    この「漈」 (サイ みぎわ)という字を中国の辞典で、調べてみましたら
    漈は、岸辺、河辺や水漈。 海底の深陷の箇所をいう方言、瀑布。
    とあり、水際という意味の他に、方言として、
    海底の深く陥(落ち)込んだところと言う意味で使っているようです。

    「淙」水のさらさら流れる音  淙潺

    どうも朝鮮の文書にある、水宗という言葉とは違う感じです。

    ところが、今日いろいろ調べて、尖閣と水宗に関係する重要な論文の存在を知りました。
    大阪大学の山内晋次氏の論文
    『近世東アジア海域における航海信仰の諸相』 PDF
    http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/handle/11094/7944
    mre_042_001A.pdf

    が、琉球使の「黒水溝」と朝鮮の「水宗」が詳しく述べられています。「水旨」という語も出ていました。しかし、「水臽」は出ていません。謎は深まりました。

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  56. 問題解決しました。「水臽」は、単に私の誤読であり、『西渓雑録』には、「水旨」と書かれているようです。
    つまり、「ノ+一+日」または「ク+日」という漢字は、「旨」という字の異体字らしいです。

    「水宗」を朝鮮の文書で、「水旨」と記載している文書として初めてのもののようですから、これは、「大発見」ということになります。

    朴世堂『西渓雑録』
    https://onedrive.live.com/?cid=d157f1fed027a184&id=D157F1FED027A184%21114

    画像一枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3609/3327686312_23b519642c_b.jpg
    四行目
    壑呈露沙汀樹木歴々可指新羅智證王聞于山國負
    ノ+一+曰 と判読して、「摘」(問題となる事柄を取り出して示すこと)と同じ意味で、手偏に臽と書く「掐」の異体字かと思っていましたが、
    ノ+一+日 と読んで、「旨」という字で、「指」(指をさして摘する)と考えた方が自然でした。

    画像二枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3382/3326850917_42dc3dc60c_b.jpg

    画像三枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3366/3326849315_1669b95be0_b.jpg

    左頁二~三行目
    間、幾不能渡、意謂水臽而然。是如乎。戌時量、又値怒涛
    排空。此亦水臽之一派。是齊。又經一宿。二十二日、卯時量
    ク+曰 を 臽 と読んでいましたが、
    間、幾不能渡、意謂水旨而然。是如乎。戌時量、又値怒涛
    排空。此亦水旨之一派。是齊。又經一宿。二十二日、卯時量
    に訂正します。

    画像四枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3628/3326849501_6edaa6d71a_b.jpg

    画像五枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3633/3327685374_4275044cd2_b.jpg
    (左頁側の七行目 (ノ+一+日)または(ク+日)
    涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水臽、而諸船
    ここも同様でした。
    涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水旨、而諸船
    に訂正します。

    画像六~九枚目
    http://farm4.static.flickr.com/3628/3327685574_85d825ee2f_b.jpg
    http://farm4.static.flickr.com/3595/3326850111_d226b62775_b.jpg
    http://farm4.static.flickr.com/3615/3326850303_9499110267_b.jpg
    http://farm4.static.flickr.com/3636/3326850535_d8808d3864_b.jpg

    申光璞による張漢相の蔚陵島事績を引用した部分では、全て「水宗」と書かれています。
    https://onedrive.live.com/?cid=d157f1fed027a184&id=D157F1FED027A184%21115

    次に、騎卜船とは、どんな船であったかということですが、
    水旨(水宗)祭という、海神に対する祭祀を行う船です。これは、朝鮮通信使が釜山から対馬に向かう洋上でおこなった祭祀とおなじ、「海の境界」を越える際に行われたようです。

    船上にしつらえた清浄な板の上に、飯や羹などの供物が並べられ、長い呪文を唱える祈りがおこなわれ、帆柱の下に置かれた米を海中に撒く儀礼をします。正装した船将たちが、銭、米、酒、生きた豚など種々の供物を犠牲として水中に投じて、海神に捧げて、鼓を叩いたそうです。

    想像するに、チャルメラを吹いたり、ドンドンと鼓を叩く楽隊のようなものが乗っていたイメージでしょうか。
    朝鮮通信使の各船が搭載する米の量が用途別に列挙されている資料には、
    「十二石四船成造及各項告祭祀水宗散米」とあり、水宗祭祀で海中に撒かれる米が準備されていたことがわかるそうです。、

    境界を越える行為として、朝鮮本土から、対馬や鬱陵島に渡るだけで、この騒ぎですから、鬱陵島からその先の現在の竹島に、張漢相たちが渡ったことなど有り得ないことがよく分かります。

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  57. 朝鮮の文書で400年間使用例がなかった「水旨」という熟語が、異体字ながら、300年前の文書に存在したことがわかりました。ヒの部分を草書体にすると、クに似た字体にはなるのですが、西渓雑録の文字は、下側の日が、楷書体であることから、異体字と見なします。これは、その異体字を日本の戸籍用の文字として完全に廃止しなかったことが、今回の確認につながったわけです。異体字を安易に排除してはならないことの教訓です。

    この「水旨」という言葉の判読は、重要なことなので、私が長い間誤読していたことについてあらためて弁明します。
    ノ+フ+日 または、ク+日と書く文字が存在します。
    http://glyphwiki.org/wiki/u2ff1-u2008a-u65e5
    http://glyphwiki.org/wiki/u81fd-itaiji-001
    この文字は、下が日となっているのですが、本来は、臼と書く文字
    u81fd-itaiji-001 (国際符号化文字集合・ユニコード統合漢字 U+81FD「臽」)
    の異体字として存在するのです。
    「臽」は、陥の旁の正しい形の字体なのですが、他にも戸籍用字体として
    http://glyphwiki.org/wiki/koseki-336790
    一番下の横棒が途切れている文字
    上側が、ノ一の文字
    http://glyphwiki.org/wiki/koseki-336800
    などがあります。
    したがって、臽カンの異体字と見たのも間違いではなかったのです。

    しかし、このほど、宗旨(しゅうし)替え致しました(笑)。
    ノ+一+日と書く文字について、「旨」の異体字の方であることが明確になりました。
    http://glyphwiki.org/wiki/u2ff1-u20089-u65e5
    http://glyphwiki.org/wiki/koseki-154550
    koseki-154550 (法務省 戸籍統一文字 154550)
    http://glyphwiki.org/wiki/u2ff1-u20089-u65e5-var-001
    つまり、現代の日本でも戸籍用の文字として存在することがわかりました。つまり
    この文字は、「旨」の異体字です。

    「水宗」と「水旨」が同じ意味の単語として存在することになりました。

    宗と旨は、一見意味が違う文字のように感じます。しかし、訓読みしますと、


    むね。述べたことの意向・意味。「右の旨、伝えておく」 むね。それを主な目標とすること。▽本来は「宗」と書く。「旨とする」


    むね。中心となるもの。また、主となる考え。

    宗旨をソウシと読んで、ともに、「むね」の意味に取る言葉の出典は、
    呂覧ともいう、『呂氏春秋』(中国戦国時代末、秦の呂不韋が食客らに諸種の学説を編集させて作らせた書)にあり、「宗旨ソウシ」「以道為宗=道ヲモッテ宗ト為ス」です。

    今回、張漢相が原文を書いた1694年の朝鮮の文書二つで、水旨と水宗が使われていることがわかったことにより、山内晋次氏が、『近世東アジア海域における航海信仰の諸相』で、
    「海の境界」を、日本側では「水旨」と呼び、朝鮮側では「水宗」と呼んでいたと推測される。」として、「日本側=「水旨」、朝鮮側=「水宗」という呼びわけ」としていることは少なくとも、肅宗二十年(1694年)の時点としては誤りであることが分かりました。

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  58. 小嶋さん

    日本側が鬱陵島に行くにあたって、毎年1年交代で大谷・村川が渡海しても、あまり遭難という記録は聞かない。(もちろん絶無ではないでしょうし、朝鮮に漂流して対馬経由で帰ってきた記録も確かにあったと思いますが、)それでも、船が良かったのか、技術が良かったのか、あまり悲壮感は持たずに米子の船乗りたちは鬱陵島に行っているように思います。

    ところが朝鮮側の記録を見ると、鬱陵島に行くにあたって、遭難の話がいっぱい出てくるし、なかなか行きづらいところにあったのではないか。

    「海の境界」としての「水宗」ないしは「水旨」は、近代の汽船が出来るまでは、人間にとって相当に意味のある「境界」だったのではないでしょうか?

    ちょうど山脈が、日本国内の昔の「国」(律令制の国。信濃とか甲斐とか)を分けているように、海についてのこうした自然の「境界」は、人間の交通をずいぶん規定していたのではないかと思います。

    考古学的に、鬱陵島からは本当に朝鮮半島系の遺物しか出ないのか、日本系の遺物は皆無なのか、とても興味があります。

    もっとも、そうすると尖閣のほうで言うと、中国から来て尖閣を越えてから海神をまつっているのは、ちょっと「やばい」のですけどね。もちろん国際法上は関係ありません。

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  59. matsuさん
    李奎遠が、1882年に鬱陵島を検察した日記にも、「水宗」と「告祀次 一児犢 行下餞別」
    という記述があります。

    高宗十九年五月九日(1882年 6月 24日)  (明治十五年六月二十四日)
    岩崎忠照の建てた標木の記述のあとに、「乗船離發以櫓力越一湫水宗」

    高宗十九年五月十日(1882年 6月 25日) (明治十五年六月二十五日)
    「流水深遠行跡極難越一湫水宗」

    高宗十九年五月十一日(1882年 6月 26日) (明治十五年六月二十六日)
    「時当辰巳越三水宗及到半洋風残水逆無路前進」

    田中邦貴さんのサイトの画像八枚目
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka98/prosecution/08.jpg
    右側頁七行目下に、「越一湫水宗」
    左側頁一行目下に、「越三水宗」

    五月九日の水宗が書かれた部分の画像は、田中さんのサイトにありません。

    また、出船した四月末の日記に「告祀」とあり、水宗祭祀の生贄と思われる子牛を餞別として貰っているようです。

    高宗十九年四月二十八日(1882年6月13日) (明治十五年六月十三日火曜癸未)
    「告祀次兒犢一頭行下餞別」と書くべき處を
    「告祀次兒犢一隻行下餞別」と書き誤ったので、右脇に「一」を挿入して、 「告祀次 一兒犢 行下餞別」と書いてあります。
    犢は、子牛・仔牛・兒(児)牛のことです。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka98/prosecution/05.jpg
    田中邦貴さんの画像五枚目の右側三行目から九行目を判読

    清明 二十八日癸未晴 仍留該浦待風 新立驛使招入錢文三兩行下 入島三隻船内上船
    則杆城船、沙工朴春達。從船一隻、江陵船也。一隻、襄陽船也。告祀次一兒
    犢(一隻トル) 行下餞別。次 元平海、及、柳生員、鄭書房、倶差下來 酬酌而去。
    寧海 三足●上使 報此到付 東營了移関一度書簡一度 并出付。入島
    營吏孫永泰 乙未 行上船沙格十七名 砲手六名 吹手二名 石手一名 刀(尺一ヤブレ)
    名 營吏一名 京行上下并十 從船二隻 各沙格 砲軍分載
    邱山洞 粟米二石行下 平海婢子等 粟米一石行下

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka98/prosecution/06.jpg
    同画像06枚目の左頁に裏書きされている下書きと思われる文章の推定判読

    (米一石行下)入島船三隻内上船則杆城船沙工朴春達 
    從船一隻内江陵一隻則襄陽也船中告祀次一兒犢
    行下平海郡沙工白米一石行下營吏孫永泰現
    身上船沙格十七名砲手六名吹手二名石手一名刀尺
    一名營吏一名京行上下并十員從船二隻各沙
    格砲軍櫓軍 分載苦待順風元平海
    柳生員鄭書房錢●●下來   東營了
    移關一度 及書簡一度 出付。
    二十九日甲申晴巳時量狀啓謄報并爲馳報三
    隻船同爲發船及到中洋風殘水逆逗留洋
    中夕陽東風少起終夜行船海色接天四方都無
    一點山如葉三隻飄飄乎大海之中此時(恃而無恐者惟)

    皆様
    李奎遠の「鬱陵島検察日記」は、1963年 大東文化研究 掲載」
    のものが、以前は、トロンペーパーさんのサイトにありました。
    これは、韓国人学者の判読文を伴う論文の引用でした。しかし、その韓国人学者による判読は誤読が多く、故意か偶然か、数行に渡って欠落していたり、特定の単語を意図的に抜かしたりしている低水準なものでした。
    現在見られるものでは、田中邦貴さんのサイトがもっとも詳しいようです。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/

    ReplyDelete
  60. 小嶋日向守さま

    >李奎遠が、1882年に鬱陵島を検察した日記「鬱陵島検察日記」

    確かに、きっちりと読み解いていかないといけないと思います。
    小嶋さんが、いま読み返してみても、間違いが見つかる、ということは、テキストの確定が出来ていないということだと思います。
    「1963年 大東文化研究 掲載」の翻刻のほかに
    たしか、李奎遠の孫娘(ひ孫だったかもしれません)に当たる人が、再解読したものがあったように記憶しています。

    ReplyDelete
  61. 皆様
    私が、「水旨」・「水宗」を重要視する理由は、それが李氏朝鮮の人々が、自分たちが考えた海洋に於ける境界であるからだけではありません。

    それにもまして重要なことは、「水宗」という祭祀には、水旨・水宗という危険な地点を無事越えたことを即座に国王に報告する「水宗牌」という制度をともなっていたことです。
    王命によって繰り出された水宗を越える船団の各船には、それぞれ木牌が具えられていて、これに、国王から任命された正使が、「何年何月何日に、無事に水宗を越えました」と書き記して、これを付き従う船に授け、帰国後政府に奏上するという儀式であったようです。

    これは、純祖十一年(1811年)に釜山と対馬の間の水宗を越えたときの、朝鮮通信使の正使・金履喬の記録、『辛未通信日録』巻三にある、下記の説明文から分かります。

    辛未閏三月十二日
    「四船各具。一面書年月日時無事過水宗、一面着押。及過水宗、即授此牌於従船、使之帰納釜鎮、転送莱府、以為状聞之地。」

    ※ 純祖十一年閏三月十二日 (1811年 5月 4日)  文化八年三月十二日 
    (日本の寛政暦では、この年の置閏月は二月であり、閏三月は存在しません)

    私は、前回のコメントで、1882年の李奎遠の鬱陵島検察日記にも、水宗祭祀が行われていた様子が読み取れる事を示しました。

    私が重要視するのは、鬱陵島検察使が、もし鬱陵島を越えて、現在の竹島を訪れていたことが一度でもあって、それによってそこを朝鮮の領土であると主張するなら、朝鮮王朝実録などの記録に、鬱陵島を越えてさらに水宗の儀式が行われていたことを証明する記述が存在しなければならないからです。

    このことは、1899年に鬱陵島を調査した禹用鼎の記した、「石島」を現在の竹島だと、無理なこじつけ主張をしてみたところで、そこに鬱陵島と現竹島の間で行われたであろう「水宗」祭祀の記述がないということは、当時の朝鮮の慣習および法から見て、論理破綻していることが証明されると考えます。


    ちなみに、肅宗二十年(1694年)の張漢相の鬱陵島検察使の際には、
    朝鮮王朝実録 肅宗實錄 に、「水宗」の用語があります。
    肅宗二十年八月十四日己酉(1694年10月2日)
    肅宗二十年十一月六日庚午(1694年12月22日)

    朝鮮本土から鬱陵島に向けて船出した初日に水宗祭祀の儀式が行われています。
    ちなみに八月の記事には、国王の言として、「然、時漢相所圖上山川道里、與輿地勝覽所載多舛、故或疑漢相所至、非眞鬱陵島也。」という疑いを掛けられているのが面白いです。

    ReplyDelete
  62. 小嶋さん

    >私が重要視するのは、鬱陵島検察使が、もし鬱陵島を越えて、現在の竹島を訪れていたことが一度でもあって、それによってそこを朝鮮の領土であると主張するなら、朝鮮王朝実録などの記録に、鬱陵島を越えてさらに水宗の儀式が行われていたことを証明する記述が存在しなければならないからです。

    面白いと思います。
    鬱陵島から竹島に行く海の状況がどうであったのか、全く記録がありませんね。
    そもそも鬱陵島を越えて、どこかに行った、という記録自体があるのでしょうか?


    >ちなみに八月の記事には、国王の言として、「然、時漢相所圖上山川道里、與輿地勝覽所載多舛、故或疑漢相所至、非眞鬱陵島也。」という疑いを掛けられているのが面白いです。

    別のところに行ったのではないかと疑われていたんですね。
    現場は苦労しているのに、中央の「えらいさん」は、全然理解していない。

    「舛」は「異」の意味でしょうか?

    「漢相所圖上」とあるので、張漢相が、報告として「図」を上げているのが確認できますね。
    今に伝わらないようですが、粛宗の官僚たちは、この図をなくしてしまったのでしょうか?

    ReplyDelete
  63. 舛という漢字に関しましては、別の字なのかも知れないと思って原文を調べてみましたが、誤読ではありません。背反するという意味で書かれています。

    http://sillok.history.go.kr/viewer/viewtype1.jsp?id=wsa_12008014_004&mTree=0&inResult=0&indextype=1
    こちらで原文が見られました。

    舛 セン 
    解字: 互いに反対方向を向いた左右の足の形から、そむく、くいちがう、の意を表す。
    (訓読みで、ますと読んで、「升(ます)」に当てるのは日本での用法。)

    肅宗が疑念を抱いた、張漢相が描いた地図をがどんなものであったかは興味が湧きますね。
    しかし、これは現代でも当てはまることですが、張漢相は、朝鮮知識人の通例として、全く独自に新しい地図を描いたとは考えにくいと思います。

    必ず、それ以前の地図を下敷きにして、報告書を作っていた筈です。『地理誌』、『輿地勝覧』を参考にして報告書を書いていることは、

    「且、聞、已行人之言、則、毎於夏月、風和時、往来、而一晝二夜之間、方可得達。是如為。臥乎所。『地理誌』、『輿地勝覧』中、「二日風便可到」之説、誠有所據。」
    から明らかです。

    それでも、「輿地勝覧」とは違っていると国王が訝ったわけです。

    申光璞が書写した張漢相の欝陵島事績に、張漢相の言い訳があります。
    画像九枚目 左頁三行目から五行目にかけて
    http://farm4.static.flickr.com/3636/3326850535_d8808d3864_b.jpg

    「為齊僉使、叚置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憒、不能収拾、叱分不喩、圖形一本。於為冩出。而此處、畫師不得己一行之人、依草本費日經営。而終至。畫乕遅延、至此不勝、惶 恐縁由并以馳報事。」


    (解釈)
    検察使の任務を遂行するに当たって、仮置きの(うたた寝しかできないような曲がりなりの寝所しかない)船に、三昼夜にわたって、あたかも穀類をあおって殻・塵などを分け除く道具の箕(み)であおったように、はげしく上下にゆれうごく波に揺られて、精神が何もわからくなるほど昏憒(こんかい)してみだれ、船酔いが酷くて収拾がつかないありさまでした。
    こんな悪い状況にかてて加えて、絵地図と書類を描きあらわして、提出しなければならないところなのに、専門職の絵師を検察使一行に参加させていなかったので、絵地図と書類を作成するのに日時を要して、ようやく作業がおわりました。
    さらに、畫乕(画虎)、すなわち、トラの絵を描いたつもりが犬に似てしまう。実力のないものが真似をして失敗してしまう故事成語のごときありさまで、素人が絵を描いたのでさらに遅延しました。それがこのような不始末なありさまという理由を、誠におそれおおい事ながら、取り急ぎ報告申し上げる次第であります。


    この言い訳にあるように、絵が下手すぎるといのはたぶん事実なのでしょう。それでも彼は、自分で見てきた正しい地形情報を、「輿地勝覧」を参考にしながら描いたのでしょう。

    国王の肅宗にしても、自分が送った検察使の最新の報告書よりも、古い地図や文献を正しいと信ずる感覚にも朝鮮人特有の気質が現れています。

    それでも私は、張漢相の描いた地図が、多少は後世に影響を与えていると考えます。それは以下の証拠から考えられるのです。

    張漢相の報告である鬱陵島事績には、鬱陵島に棲む動物として、イタチとネズミが書かれています。イタチがよく使われる「鼬」という字ではなく、つい柚(ゆず)や猫(ねこ)と誤読してしまいそうな、イタチ「㹨」(Unicode3E68) で書かれていることが特徴です。

    画像七枚目 左頁の六行目中ほどあたり
    http://farm4.static.flickr.com/3595/3326850111_d226b62775_b.jpg
    「毛則㹨鼡」(けもの類は、イタチとネズミ)

    これを手掛かりに調べてみると、

    「輿地圖」 (1736 - 1767)には、㹨となっていて、張漢相の報告にある鬱陵島の動植物の列挙がそのまま記載されていますので、この地図自体も、張漢相の報告を反映している可能性があります。
    http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles4.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F115%2F0014_1736_cms1530.jpg

    しかし後の海東地圖では、猫になっています。
    http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles9.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F232%2F0018_1700m_cms1530.jpg

    したがって、「輿地圖」 (1736 - 1767)には張漢相の圖の影響があると思います。

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  65. 皆様
    先だってのコメントで、日本人の「海流」の認識について書きましたが、これに関して、「海流」を「潮流」と勘違いあるいは、混同されている方がいらっしゃったようなので、これらは、全く似て非なるものであることを申し添えます。

    それにしても、歳月号フェリーの事故を見ても、韓国人が現在でも、海に対して不慣れであることがわかると思います。

    かつては済州島におもむく際にも、水宗儀礼が行われたそうです。これは、済州島が別の国であった時代の、いにしえの国境のなごりであり、李氏朝鮮時代には、この水宗はもう国境ではなくなっていたことは事実です。しかし、楽隊を揃えて、大量のお米や粟を、生米だけではなく、船の上で炊いて、御飯や煮物、汁物を作ってこれと合わせて、生きた豚や仔牛さえも海中の投入しなければ、恐ろしくて、短い海さえを渡ることが出来なかった大陸性の民族気質は、日本人の感覚とは懸け離れています。


    場所はことなりますが、昭和三年(1928年)に日本人が、記した朝鮮の習俗に当時まだ水宗儀礼が行われていた記載があるほどです。


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  66. 張漢相の言い訳部分の出典に思い違いによるミスがありました。
    「申光璞が書写した張漢相の欝陵島事績」ではなく、
    「朴世堂が『西渓雑録』に書写した張漢相の欝陵島事績」に訂正します。

    張漢相の航海に使われた「騎卜船」について考察してみます。
    「騎卜舡各一隻、汲水舡四隻」とありますので、「騎船(きせん)」と「卜船(ぼくせん)」はそれぞれ一隻ずつ別の船であった事が分かります。

    「僉使、與別遣譯官・安慎徽、領率員(領來諸)役各人、及沙格并一百五十名、騎卜舡各一隻。汲水舡四隻、良中、従其大小分載。」

    船団は六隻からなり、大小あったということですから、儒教的習慣から考えて、正使の乗った騎船が、最大の船であり、重要な祭祀を行う卜船も同程度の大船で、汲水船がそれよりも小さな船であったと考えるのが自然でしょう。

    「領率員(領來諸)役各人、及沙格并一百五十名」の解釈ですが、「并」を「あわせて」と読んで、総人数を150人とみるのが自然なのでしょうが、「并」を「ならびに」と読んで、検察正副使、通訳官、諸役人数名と、沙格は別にして、鬱陵島掃討伐軍としての一般兵員が150人という意味に解釈することも出来なくはないと思います。

    「沙格」というのは船を運航するための専門職の人員で、沙工と格軍の総称で、前者は船長、格軍は一般船員に相当するようです。当時の朝鮮の船一隻には、沙格が15~17名程度であったようです。したがって、150人が一般兵員のみの人数であれば、船団の総人員は、260人近い数であったとも考えられます。この数は、船団六隻ではけっして無理な数ではありません。

    これより百年前に、釜山から対馬に渡った記録である、『萬暦丙申秋冬通信使一行日本往還日記』によれば、宣祖二十九年(慶長元年・万暦二十四年)八月四日(1596年 9月 25日)、正使黄慎等、総勢309人で、四隻の船で出発しているからです。

    朝鮮の船に関しては、正確な史料がほとんどない中で、推定せざるをえないのですが、沙格が15~17名という推定の根拠は、

    景宗二年(1722年)三月に穀物五〇〇石(日本の270石に相当)を載せて済州島まで輸送した船の沙格は、17名で、同乗した役人は三名でした。

    英祖五年(1729年)八月に、済州島から海産物を載せて出帆した船の記録によれば、積み荷(量は不明)の他に、沙格が十六名に、同乗者八名という規模でした。

    英祖四六年 (1770年)二月、麻里舗倉から大米三六〇石(日本の194石に相当)を済州島に輸送した船の記録も同様とのことであり、
    さらに時代の下った高宗十九年(1882年)に李奎遠が、鬱陵島を検察した日記の
    四月二十八日(1882年6月13日) (明治十五年六月十三日火曜) にも
     「行上船沙格十七名」 とあるので、
    一隻の船を運航する沙格は、十七名前後であったという点が一致していますので、この人数の推定は正しいでしょう。時代に差があっても人数に差はありません。

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  68. 日本の弁才船は、戦国時代の関船から発達して、櫓と帆の併用による航海から、浸水のもととなる櫓穴を全て塞いで、ほとんど帆走のみの航海に切り替え、さらに帆をキャンバスに替え、少人数の操船と、逆風帆走となる間切り航海も可能にしたため、外洋航海が可能になりましたが、朝鮮の船舶にはそういった技術的発展がまったくありませんでした。

    朝鮮の船舶の規模を考える資料として、天理大学の長森氏による苦心の表が参考になります。

    出典http://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/2258/GKH021413.pdf
    長森美信『一八世紀朝鮮における対済州賑恤穀の輸送実態』天理大学学報27頁 表3。

    ・・・・・・・・ 朝鮮後期における官船の規模

    ・・・・・・・・・・戦船(板屋船)・・・戦船(統営上船)・・・・各鎮戦船
    本板長=船体長(尺)・・70~90・・・・・・・90・・・・・・・・・65
    広=幅(尺)・・・・・・18.4~30 ・・・・・・18.4 ・・・・・・・・15
    乗船者数(人)・・・・164~194・・・・・・194・・・・・・・・・178
    積載量(石) ・・・・・・ - ・・・・・・・・- ・・・・・・・・ -


    ・・・・・・・・・・兵船(防牌船)・・・ 亀甲船・・・・・海鶻船・・・・漕船
    本板長=船体長(尺) ・・39・・・・・・90+20=110 ・・・ -・・・・・ 57
    ・・・・・・・・・・・・・・・・ (上粧+船尾=全長)
    広=幅(尺)・・・・・・6.9 ・・・・・・・14.5・・・・・・・ - ・・・・・13
    乗船者数(人)・・・・ 17・・・・・・148~158・・・・・・・55・・・・・16
    積載量(石)・・・・・ 500・・・・・・・・- ・・・・・・・- ・・・・1000

    ※ 『備辺司謄録』第185冊、正祖二十一年(1797年)三月一日条
    金在瑾『朝鮮王朝軍船研究』、一潮閣、ソウル、1977年、132~133頁。
    金在瑾『韓国の船』、ソウル大学出版部、1994年、133~134頁、225頁、240頁。
    金龍國『田雲祥と海鶻船』、『学術院論文集』、人文社会篇13、ソウル、1974年。
    崔完基『朝鮮後期船運業史研究』、一潮閣、ソウル、1989年、39~40頁により作成。
    とのこと 

    ここで問題となるのは、長森氏の論文が、長さの「尺」と積載容積の「石」が日本の単位とは異なるのに、その換算を全く考慮していない点です。なぜ全く注意を払っていないのか、不思議でなりません。
    しかし、皮肉な言い方をすれば、それはある意味でもっともなことなのかもしれません。たとえ換算やその説明を論文で触れていたしていたとしても、朝鮮の度量衡が日本とは異なって、まったくあてにならなかったり、換算が不能なことが多々あって、却って注意しなければならないので、文科系の研究者の論文らしく、潔く敢えて無視するという方法を取られたのかもしれません。

    文科系の研究者の方は、長森氏に限らず、水宗祭祀の研究の、大阪大学の山内晋次氏の論文でも、台風や季節に関わる航海記時に関してさえも、太陰太陽暦とグレゴリオ暦の換算さえ、一切していない点も、私にはまったく理解できない「武勇」を感じます。(笑い)。

    朝鮮の度量衡については、次回のコメントで話題にしたいと思います。

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  69. 張漢相の記録に即して、この航海に使われた船の実態を推理して行きます。

    「去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待風所、発船。」

    張漢相が乗った「騎船」は、粛宗二十年九月十九日(1694年11月 6日)午前十時頃(前後一時間幅)、三陟府南面荘五里津から西風を待って帆を上げて出発しました。季節は、もう翌日には立冬を控えていて、本来の計画よりかなり遅れていたようです。

    慣習から考えて、「卜船」では、海に出てまもなく、飯炊きや羮を準備して、午後二時頃までには、豚や仔牛の生贄も捧げて、太鼓や鉦を鳴らして呪文を唱え、海神への祭祀が行われていたと考えられます。おそらく「騎船」でもそれに準じた儀式が行われたことでしょう。

    「同日巳時量、因西風開洋。是如乎。戌時量、到大洋中、波涛險巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水旨、而諸舡為波浪、所觸一時渙散、莫適所向。是如乎。」

    午後八時(前後一時間幅)頃、船団は、大洋中にさしかかり、波が荒く険峻で、海の中にある境界を作っている水宗(水旨)、いわば分水嶺のような危険な地帯に突入しました。幅1kmほどあった二つの水流に遭遇し、張漢相はこれを水旨だと判断しています。

    この日は太陰太陽暦の九月十九日ですから、当然の事ながら、四日前が十五夜で晩秋の満月でした。満月頃から前日の十八日までが大潮であり、この日は、寝待月であり、天文計算による月齢は 18.3で、中潮です。しかも、出発から十時間経過してかなり沖に到達していますから、これは潮流とは考えにくいです。しかも、もともと太平洋と違って、内湾的である日本海は、潮位差が小さいのです。これは、海水が大きく移動しようにも、ほとんど閉じこめられてしまっているので、潮汐による水位の変化が起きにくいためです。東から南の空に上っている月の潮汐力と、近づいている低気圧の影響で海面は多少膨らんでいるかもしれませんがそれは大きく影響するほどではないでしょう。したがって、この水流は、対馬海流であると判断できます。彼らには、強い水流だと感じたことでしょうが、その速度は黒潮本流の半分から三分の一程度の、1~1.5ノット程度だったと考えられます。

    午前零時(前後一時間幅)頃には、気象条件も悪くなりました。
    「漸入深洋、黒雲自北蔽天、而電光閃爍、影徹波心。狂風猝起、驟雨随至、怒涛翻空、[雲海相盪]、所乗船隻、若浮若没、危険网状。」

    天気が急変して強風と雷雨になりました。これは低気圧、もしくはそれにともなう寒冷前線の通過に遭遇した様子です。書かれてはいませんが、この嵐のもとでは、竹で編んで作られている帆を慌てて降ろしたと考えられます。

    この日の漢城の天気記録として、承政院日記に
    「晴、 四更, 月入東井星。五更, 電光。」とあり、粛宗実録にも、
    「電。月入東井星)とありますので、ソウルでは深夜四更にはまだ晴れていて、月や星が見えていたようです。
    東井星とは、「井」または「東井」という白道にある二十七または二十八の月宿(星宿)のひとつです。

    西洋星座では、ふたご座の足の部分にあたる星宿で、構成する星々は、双子座γ(ガンマ)星アルヘナ1.9等星、双子座μ(ミュー)星テジャト・ポステリオル2.9等星、双子座ξ(クサイ)星3等星、双子座ζ(ゼータ)星メクブタ4等星、双子座ε(イプシロン)星メブスタ3等星、ふたご座λ(ラムダ)星4等星、双子座36番星5等星、双子座ν(ニュー)星4等星で作られる、梯子を横にしたような形の星宿です。

    この夜の四更に、実際に五等星のような暗い星まで見えていたのかどうかは分かりません。本当はもう空が曇って来ていて 近くにある一等星の双子座α星カストルや双子座β星ポルックスだけが見えて、その近くに月が見えていた程度だったのかもしれません。いやそれどころか、朝鮮の天文記録は、暦上計算される場合には、実際に観測されていなくても、王朝実録に記載されることがありますから、星が見えていたのが確実とはいえません。

    ふたご座は、黄道十二星座ひとつであり、星占いでもお馴染みですが、黄道は、双子座δ(デルタ)星ワサトと双子座μ(ミュー)星、双子座η(イータ)星プロプスの付近を通っています。
    この場合は、月が東井に入ったというのは、月の位置のことで、正確には、月の通り道である白道は、黄道に対して5度8分ほど傾いていますが、天球上では、ほぼ近い位置を周期的に通るので、その位置は、どちらも計算で簡単に予測できるのです。

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  70. 承政院日記の記録では、七月末から十月末(1694年9月14日~12月16日)まで、三ヶ月以上にわたり、「陰」の日が数日あるものの「雨」の日が一日もなく、呆れるほど「晴」が続いています。別の時期の承政院日記の記録には、「雨」という記述があることもあり、天候記録の「陰」は曇りと解釈できて、雨の意味ではないのです。
    実際、九月には晴れという天候記録でありながら、雨の後に急に気温が下がったことで、国王の健康を心配する記述がありますので雨は降っている様子です。したがって漢城の天気記録を文字通りずっと晴れが続いていたするのは無理があります。承政院日記の記録は完全に信用できるわけではありません。

    しかし、この九月十九日の五更には雷雲が発達して、漢城で稲光が走っているのは事実と考えられます。ですから、電光だけでなく、首都の周辺のどこかで雨もふり、雷雨になっている地域があったことは確かだったと考えられます。

    「更」というのは、夜の長さを、五等分した時刻の単位です。「五更電光」とあれば、この五等分した三つめの「更」に稲妻が走ったという意味です。当時の朝鮮の暦法は、十二支による時刻は定時法ですが、夜の長さは日々の変化に合わせた対応をしてました。つまり「更」に関しては、不定時法ということになります。厳密な計算方法は下記のようになります。

    観測地点を漢城(ソウル)の昌徳宮に隣接する昌慶宮の観天台とします。
    座標は、世界測地系で、北緯37.577984°、東経126.995297°、標高は44mです。これで、グレゴリオ暦の1694年11月6日の計算をしたところ、
    日没が、17時31分で、市民薄明の終わりが、17時58分となりました。
    この日の陽の沈む方角は、北から東回りに見て方位250から251度となり、現在の仁川国際空港の南西にある舞衣島の北端方向になります。太陽は、舞衣島とその背後の実尾島の陰に日が沈みます。もっとも、標高44mに加えて、高さ2.2mの観点台には登った観測者の視点高度47.8mからの地平線までの見通し距離は、14.4㎞しかありませんので、金浦空港の手前の漢江に日が沈む形になります。日没方向の視野は開けていますので、日暮れの時刻を、日没から36分後の18時7分と仮定します。これがこの日の夜の始まりとなります。これは、当時の日本の貞享暦の日暮れの定義と同じです。ちなみに、航海薄明終わりは18時29分と計算されます。

    翌日の1694年11月7日の日の出は、
    市民薄明の始まりが、6時36分で、日の出は、7時3分です。
    日の出の方角は、方位109度から110度で、19㎞先に河南市の黔丹山(653m)があり、その背後には、雉岳山(1288m)から南に向かう尾根と、梅峰山(1095m)、白雲山1087mが控える位置関係になります。当時の日本の貞享暦の夜明けの定義で、6時27分では早すぎる感じがしますので、夜明けを、市民薄明始まりの6時36分と仮定します。
    この朝には、270㎞東にいる張漢相たちが夜明け前に遭遇した雨雲が掛かっていて、東の空は暗く、曙光は拝めなかったものと考えられます。

    これによって、前日の18時7分から、この朝の6時36分までの、12時間29分がこの日の夜の長さとなります。分に直すと、749分になります。これを五等分した、149分48秒が、1更の長さとなります。したがって、夜の始まりの18時7分に、三更分の449分24秒を足した1時36分24秒から4時6分12秒が、四更にあたります。まあ、これほど厳密ではないでしょうが、午前一時半から午前四時までの間に、月と双子座の星が見えていたのが、午前四時から午前六時半頃までは、ソウル近郊でも雷雨があったという理解になります。

    (なお、上記の時刻の計算は、韓国(日本とおなじ)標準時で計算してあり、地方真太陽時では、全ての時刻が約33分ずつ遅れることになります。)

    ソウルから三陟までは直線で東へ約200㎞程度の距離であり、船団は既に海岸から70㎞程度東に進んでいた頃だと思われますので、合わせて270㎞という距離から考えて、同じ低気圧に起因する雨雲でしょう。出発したときに帆に受けた風は、北西にあった低気圧に吹き込む西風だったようです。

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  71. この不安定な大気状態の下で嵐に遭遇したために、張漢相らが乗った「騎船」の乗船者は皆こぞって激しい揺れで倒れてしまいます。

    「舡中之人、莫[不失措]、舉皆昏倒之際、騎舡柂木、又従而折破尤無[制船]之望而強(之策難)。以櫓木、直挿於船尾及左右、[借以為力]、是乎乃。」

    「騎舡柂木」は、彼の子孫の申光璞が書写した蔚陵島事蹟では、「騎船柁木」となっていますが、柂は、漢字辞典によると、
    柂【名】 同“舵”。となっていますので、柂も柁も同じく舵の意味です。

    激しい波で舵の板が破損して折れてしまい、船の制御が利かなくなり、代わりに艪を船の廻りに挿してなんとか操船しています。

    「覆沒之患、迫在斯須。是如乎。風[雨漸息]、天又向曙、而島在北方、水勢東注。故、船中之人、[因此]甦醒、盡力櫓役、輾轉向島。」

    転覆や沈没の危険が迫る中、漸く雨の勢いが収まってきて、夜明けが近づいてきました。目指す島は北の方角にあるのに、海流は東に向かっているので、船のみんなははっと目が覚めたように力を振り絞って櫓を漕いで、島に向かって反転しました。

    ここは、さりげなく書かれていますが、船の構造が、櫓と帆の併用であり、櫓櫂を出す穴からの浸水の危険がある船という感じがします。また絶海の鬱陵島の東には、もう島が存在しないという認識であるからこそ、自分たちの生命に関わるので死力を尽くして漕ぎに漕いだ様子がわかる記述です。

    女優キム・テヒ(金泰熙)のTシャツやニューヨークタイムズの広告の地図という実例があるように、現代韓国人が受けている教育では、鬱陵島の位置が現実より半島近くにあったり、鬱陵島の正しい位置あたりに実際より遙かに大きな夢の独島とやらが存在するようです。韓国の天気予報のある異常に小さく描かれた日本列島も含めて、こんな妄想的な地理感覚を信じ込まされていると、万が一の水難事故の場合大変危険です。

    「巳時量、艱到島之南岸、繋纜石角、蹔時下陸」    
    午前十時(前後一時間幅)頃に、難儀しながらも島の南岸に到着し、纜(ともづな)を磯の岩角に結び、暫時上陸しました。
    「下陸」とありますが、これは上陸することです、日本人の感覚とは異なって、朝鮮では、船に乗ることを下船。上陸を下陸と表記していました。ややこしいですが、船に乗るときに梯子を使うせいか、上船するという表現のときもありますので、これは文脈から解釈せざるを得ません。

    炊飯之際、汲水船四隻、自南洋稍々来到。
    炊飯をしている頃に、四隻の汲水船は、少しずつ遅れながらも次第に到着しました。
    而卜舡叚不知所向。是如乎。卜船は一時行方不明になりましたが、
    酉時量又自南洋西至、各舡倶得免恙。
    午後六時頃に到着して各船恙なく到着しました。
    南岸無可舡泊處、乙仍乎。同日初昏、回泊于東南間涧口内、止宿
    九月二十日初昏つまり、暗くなってからたぶん七時から九時二十分頃までに、島の中を回航して東南の海峡状になっているところに碇泊しました。
    「澗」この言葉は、本来は、「山夾水也」つまり山峡にある浅い川の流れをいいます。
    この場所は、私には、大坂浦のいか島(苧洞里の北苧岩)のことを言っているように思えます。
    (以上 鬱陵島到着まで)

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  72. 朝鮮の度量衡について
    安龍福が身に付けていた腰牌に書かれていた「長四尺一寸」という身長を示すと思われる長さの問題を考えてみるのが、朝鮮の物差しを理解する一助であると思います。

    その前に、前回のコメントに誤記がありました。
    「五更電光」とあれば、この五等分した三つめの「更」

    「五更電光」とあれば、この五等分した五つめの「更」
    に訂正します。
    -----------------------------------------------------------------------------

    李氏朝鮮においては、量田尺、布帛尺、黄鍾尺、営造尺、礼器尺、(李朝)周尺という六種類の全く長さの異なる一尺が混在していました。
    量田尺の1尺が約100cm
    布帛尺の1尺が40~58cm 正値は46.8cm(布ぎぬの長さを測る尺) ばらつきが大きい。
    黄鍾尺の1尺が34~35cm (正値は34.10~34.82程度)ただし、 36.36cm説もある
    営造尺の1尺が30~31cm (31cm程が多く、1880~90年頃日本の曲尺30.303に同化)
    礼器尺の1尺が27~28cm
    李朝周尺1尺が20~20.8cm

    このように、量田尺を別にしても、五種類の長さの違う尺が存在し、それらが区別なく、「尺」と書かれて使われていたので、単に一尺と言っても、その長さを推定するには、使われた時代、用途、地方ごとに20㎝から60㎝の差があり、換算が困難なのです。

    インターネットで、現代日本人が、安龍福の身長についてどう解釈しているか調べてみると、以下の2例のように、いかにも厳密で生真面目な日本人的な発想で、考証に苦労しています。

    例1
    http://www.eonet.ne.jp/~shujakunisiki/m-49.html
    「身長を四尺一寸(124㎝)としているのは、あきらかに誤写である。」

    例2
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%BE%8D%E7%A6%8F
    「鯨尺であると思われる一尺あたり37.8787879cmで四尺一寸で(身長は、約155.3cm)となる。」

    現代の日本人より遙かに墨書された漢字の判読能力が高かった元禄時代の日本人が何人も何人も掛かって、何度も何度も見直したであろう、木札の文字「四尺一寸」に誤読は考えにくいでしょう。偶然の一致ながら、同時代の徳川綱吉が身長124cmであったという俗説があるくらいですから、「あきらかに誤写」とは言えないのです。

    また朝鮮の慶尚道東莱県釜山で書かれた木札を、日本の明治時代に細かく規定された数値で、しかも日本の布ぎぬ用の鯨尺で換算する根拠がなく、失礼ながら失笑を禁じ得ません。

    当時の朝鮮のものさしにはいろいろなものがあり、
    四尺一寸は、82cmから237cmあるいは440cmまでの換算が全て正しいのです。

    日本と同様に、人間の身長や建物や船など一般的な物の長さを測る場合は、ばらつきの少ない建築用の営造尺で測っていたと考える常識が、李氏朝鮮でも通じれば苦労はないのですが、日本の常識が通用する相手ではありません。

    しかし、安龍福が特別に小柄な人でもなく、雲を突くような巨人でもなかったことは、村川家の船頭の報告から窺い知れます。
    元禄五年三月二十六日の朝、五ツ時分 (1692年5月11日午前六時五十分前後頃)に、竹嶋内のイカ嶋へ到着した際、七十年以上なかったことに、初めて三十人ほどの朝鮮人たちに遭遇しました。その直後に、向こうから二人で船に乗り込んできた内の一人が、日本語を話し、別の島に行く予定だったが、遭難して漂着した云々と、口から出まかせを並べ立て、村川家の船や道具を盗んでいた言い訳を調子の良い嘘で言い逃れようとしたために、村川船の人々が身の危険と不安を覚えたという人物の正体こそ、この安龍福であったわけです。彼の体格が普通の大きさだったから、特別に小さいとか大きいとか敢えて書き留められていないのだと思います。

    参考として、デイリーNK 2012-01-31 10:52 知朴成国記者
    http://japan.dailynk.com/japanese/read.php?cataId=nk00100&num=15777

    ソウル大学解剖学教室のファン・ヨンイル、シン・ドンフン教授のチームは、15世紀から19世紀までの朝鮮時代の116人(男性67人、女性49人)の遺骨から採取した大腿骨を分析した結果、男性は161.1(± 5.6)㎝、女性148.9(± 4.6)㎝と分析された。
    この様な大型な過去の身長分析は初めてで、研究結果は米国の自然人類学誌(American Journal of Physical Anthropology)の最新号に掲載された。
    研究結果によると、朝鮮時代の平均身長は男性161㎝、女149㎝

    一方、江戸時代の日本の成人男性の平均身長は、157cm±2cm程度です。

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  73. 村川家の船頭と水主たちが出会った人物として、161cmだとしても、特に印象に残ることはない身長だという気がします。

    参考までに、日本人の遺骨からの推定身長としては、
    藤原清衡 161cm、 藤原基衡 168cm、藤原秀衡 160cm
    石田三成 156cm、伊達政宗 159.4cm、徳川家宣 160.0cm、徳川家重 156.3cm、徳川家慶 154.4cm、徳川家茂 156.6cm

    甲冑からの推定身長としては、
    源頼朝165cm、藤堂高虎190cm、織田信長170cm、前田利家180cm

    大柄伝承の人物としては、
    斎藤義龍197cm (母親の深芳野も187cmといわれる)
    徳川吉宗182cm
    安土桃山時代に、宣教師が馬揃えを見て185cm以上の武士が多いので驚いたという話もあるようですので、昔も身長の高い人間がいたことは当然ですが、鳥取藩や対馬藩の記録にも、安龍福の身長は特記されていないので、147cmから163㎝の幅に収まる身長だったと考えられます。

    では、「四尺一寸」の尺はどのくらいの長さなのでしょうか。

    参考までに中国の尺の変遷は以下のようです。
    周、春秋時代、戦国時代、前漢 1尺=22.5cm
    新、後漢 1尺=23.04~23.09cm
    魏 1尺=24.12cm
    隋代の小尺 約24.6 cm
    唐代の小尺 約24.55~24.6 cm
    ------------------------------------------------------------
    隋の大尺 約29.4 ~29.7cm
    唐の大尺 約29.4~31.1cm
    宋・元 1尺=30.72cm
    明(営造尺)尺=31.1~32.0cm
    清の康煕帝の頃(1654年~1722年)1尺=32cm
    清中頃 1尺=35cm
    清末期 1尺=36cm
    現代中国(1929年以降) 1尺=(1/3)メートル(約33.3 cm)

    縄文時代の建物跡から算出された縄文尺 1尺=35㎝

    明や清の一尺から考えて、安龍福の時代の朝鮮の営造尺は、32cm程度であったと考えるのが合理的ですが、それだと、身長は、131.2cmであったことになり、これでも小さすぎる気がします。
    黄鍾尺は、34.12cmとされるので、この四尺一寸は、139.9cmであり、まだ少し小さい気がします。

    では、日本の鯨尺と同じように、布ぎぬの測定に使われた、布帛尺ではどうでしょうか。計算上正しいと考えられる、布帛尺の一尺は、46.8cmであり、この布帛尺で計算すると、四尺一寸は、191.88cmとなり、こんどは大きすぎてしまうのです。
    しかも現存する布帛(ふはく)尺の実測は、48.91~49.24㎝ であり、
    李朝末期の布帛尺では、ほとんど50㎝前後ですので200~255.2cmになってしまいます。
    ただ、梁山郡で測定された物差しでは、四尺一寸は、160cmになり唯一妥当性のある数字になります。


    以下は、松田行藏 明治二十一年(1888年)『朝鮮国慶尚・忠清・江原道旅行記事』による実測です。

    呉服尺(布帛尺)の一尺を日本の曲尺で実測してcmに換算した対照表
    東 萊 府 47.88cm  曲尺で一尺五寸八分
    梁 山 郡 40.91cm  曲尺で一尺三寸五分
    彦 陽 縣 42.42cm  曲尺で一尺四寸
    新 寧 縣 42.42cm  曲尺で一尺四寸
    安 東 府 42.42cm  曲尺で一尺四寸
    龍 仁 縣 51.21cm  曲尺で一尺六寸九分
    陽 城 縣 50.30cm  曲尺で一尺六寸六分
    安 城 縣 51.21cm  曲尺で一尺六寸九分
    稷山縣立長場基51.21cm 曲尺で一尺六寸九分
    燕 岐 縣 57.88cm  曲尺で一尺九寸一分
    懐德縣芝溟里 53.03cm 曲尺で一尺七寸五分
    尚州化寧場基 51.52cm 曲尺で一尺七寸
    金山扶桑驛 54.85cm  曲尺で一尺八寸一分
    高麗 梅村 51.21cm  曲尺で一尺六寸九分
    咸安四巨里 56.06cm  曲尺で一尺八寸五分
    昌 原 府 54.24cm  曲尺で一尺七寸九分
    金海官場基 53.03cm  曲尺で一尺七寸五分
    龜   浦 52.12cm  曲尺で一尺七寸二分

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  74. 一方、李氏朝鮮末期の体積については、

    「殊に奇なるは一石十五斗を以て数ふるあれば、二十斗を以て数ふるあり。農家の枡と市場枡の差ある。況や各家随意の枡を所持する。」

    とあり、日本の農商務省の調査によれば、おおむね平安道、咸鏡道などの北部では15斗を一石としていて、京畿道、忠清道、黄海道などの中部では20斗を一石としている。しかし、一方では、4斗=一石の市枡も存在した。

    当時、数年間現地で、朝鮮半島の事情を研究した農商務省商工局員の徳永勲美氏によれば、朝鮮の「枡」には、「食枡・(家枡)」、「官枡」、「市枡」の三種があって、普通一石と称するのは、この枡(食枡)であり、二十斗のことを云い、日本の単位では、七斗八升に当たる。これを大斛(だいこく)または全石と称する。小斛(しょうこく)(十五斗)は政府向きに用いる枡目であって、平石とも称するということです。

    李氏朝鮮時代にあって、政府が済州島の窮民救済用に送った政府米の1000石は、日本の石に換算するには、0.54を乗算すれば算出できることになります。

    ただし、民間の船の積み荷の石は、正確な換算は不能です。1000石とあっても、民間の普通つかわれた「石」では、0.78を掛けて、日本の780石に相当すると計算上は考えられても、これは朝鮮の市場での石数の五倍に相当してしまうので、はじめの数値の1000石も、実際はこの市枡の200石でしかないかもしれず、数字がまったく信頼できないからです。

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  75. 張漢相たちの船の推定の話に戻ります。
    帰還時の記述は簡潔ながら、船団の構成と参加人員の推定に重要な手掛かりを与えてくれます。

    「大船一隻小船二隻在先、而餘三隻」という記述です。三隻が先行していて、張漢相が大船の騎船に乗り先行、もしくは、汲水船の一隻が水宗を見るようなパイロット役で先導していて、順番は不明ながら、もう一隻の汲水船とで、あい前後して航海している様子が読み取れます。

    残った三隻は、大船の卜船と残りの汲水船二隻が小船であったという推定で、この船団の組み合わせを考えて良さそうな記述です。

    「本月初四日、未時量、似有風便、故發船。到西邊澗口、則雨勢霏微、日又昏黒。而十月東風、誠不可易得。是乎等以。仍為開洋、六船齊發。子夜以前則舉火相準。是如可。丑時、以後大船一隻小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後亦不知所向。是乎矣。東風不止」

    解釈
    「粛宗二十年十月四日(1694年11月20 日)午後二時(前後一時間幅)頃、帰還に都合の良い風になりそうな様子なので船を出発させ、島の西辺の瀬戸(現在の台霞洞付近か)に到ったところ、雨の勢いは、ちらちら舞い落ちる程度の微かな降りになったが、陽は落ちてまた黄昏となり夜になった。そうしているうちに、十月の東風が起きて、大洋を渡るのに、容易には得られないような実に良い条件の風の様子であったので、六隻揃って出発した。午後十一時になる前頃から、篝火を焚いてお互いの船が見えるようにして航海していたが、午前三時以降の頃には、大船一隻と小船二隻が先にあったものの、後の三隻は遅れて船団から落伍してしまい、日の出の後も依然として、何処にいるのか所在がわからなくなってしまった。東の風は止まなかった。」

    なお、天文計算による、この日の旧竹島(鬱陵島)の北国浦(台霞洞)北緯37.497742、東経130.802879付近の日没は、日本標準時で午後五時四分、航海薄明の終わりは、午後六時四分で、 天文薄明の終わりは午後六時三十五分です。この頃には真っ暗ですが、月の入り時刻が、、午後八時七分であり、月齢は 2.9と三日月から一日後のまだ細い夕月です。

    承政院日記のソウルの天気も十月四日戊戌(1694年11月20日)は、前日に同じく「陰」であり、翌五日が「晴」とあります。四日の夕月が落ちる前までは、霧雨の雲の合間から、微かに月明かりがあった可能性があります。

    「初五日、亥末直抵三陟浦口。而落後小舡二隻、回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡[本月?]初六日、卯時量、亦為囬泊、於三陟浦口、為有在果。」

    解釈
    「先行していた三隻は十月五日の午後十時半を過ぎた頃に、三陟浦に到着した。落後した小船二隻は、荘五里の待風處に戻って碇泊した。もう一隻の大船は、十月六日の午前六時(前後一時間幅)頃に、三陟浦の泊地に帰還し、皆任務を無事に果たすことが出来た。」

    [本月?]と推定した部分は、ネズミによる齧損によって本文二字が欠けています。欠損している部分には、卜船に関わる漢字が書かれていたのかもしれません。しかしそこは読めなくとも、その一文字上の「大船」という文字がネズミに囓られずに残っていたのは幸運でした。

    先行した三隻に落伍したものの、荘五里の風除け港に戻った二隻が小船だったという記述と合わせて、翌日の朝もっとも遅れて帰還した船が、大船の卜船であることが、確定するからです。これによって、船団六隻の内訳が、騎船・卜船の二隻が同一規模の大船であり、小船四隻が汲水船であったことが確実になりました。

    続く部分も齧損により、失われていますが、文脈から書かれていた内容は推定出来ます。

    ●●風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水●●●●謂遠不過七八百里。是如乎。
    今番往返倶概三[日之間方?]可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。●●[以臆?]度計較。是乎矣。舡之疾鈍、風之順逆、遠者㮣●●[一倍?]遠則又不可以膠定為證。是齊。

    解釈
    「(三陟などからは)、風が強くて良く晴れた日に、高く登れば、水平線の上に鬱陵島の島影をあきらかに望むことができるので、島までの距離は、七八百里よりも遠くはないだろう。今度の航海の往復には、おおむね丸三日(三のあとに続く「日間」または「昼夜」の文字が欠損している)で到達することが可能であったので、これと比較して考えてみれば、済州島よりなお二倍も遠い距離にあるのだろう。憶測による比較であるので、船の速度や、順風や逆風の条件も違うだろうから、遠い方が概ね二倍も遠いだろうというのは、証拠をもとにした確定的なことではないことは言うまでもない。」

    これに続く部分の「冬天風高之日険海跋渉一百五十人得保性命者莫流国家之陰佑」という記述も、この船団の様子を知る上で貴重なものです。

    冬天、風高之日、険海跋渉、一百五十人、得保性命者、莫流。国家之陰佑。是。乎等以往返艱、苦之状不一而足而煩不散細陳、是斉。安慎徽、本以衰敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船後二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登祥。是乎矣。
    復命有限黽勉擔載寸寸前進之意分付以送。為乎弥。

    出発時の記述では、「及沙格并一百五十名」となっていて、「并」が、「ならびに」の可能性を完全には排除出来なかった部分でしたが、「得保性命者」という、この明確な記述により、「并」は、「あわせて」の意味であり、したがってこの航海に参加した総人員の数が、150人であったことが確定するからです。

    これによって、ほぼ確定できた、船団六隻の構成と総員150名の搭乗内訳表

    騎船 (大船) 沙格17名 同乗者14名 子牛2頭・豚2頭・水甕・糧秣・薪炭
    卜船 (大船) 沙格17名 同乗者14名 子牛2頭・豚2頭・水甕・糧秣・薪炭
    汲水船(小船) 沙格16名 同乗者6名 飲料水の水甕・糧食・薪炭
    汲水船(小船) 沙格16名 同乗者6名 飲料水の水甕・糧食・薪炭
    汲水船(小船) 沙格16名 同乗者6名 飲料水の水甕・糧食・薪炭
    汲水船(小船) 沙格16名 同乗者6名 飲料水の水甕・糧食・薪炭

    朝鮮では、樽を造る技術がないので、飲料水は水がめで用意されたと考えられます。
    子牛・豚を各二頭ずつとしたのは、通過に際して報告が必要であったため、帰路にも水宗旨儀礼が行われたか、あるいは出発時の正式な儀式前に、なにかの理由で生け贄が死んでしまった場合を考慮して推定したものです。また修理用の船大工道具や朝鮮漬の甕も忘れずに積載されていたはずです。

    現在までの史料研究でも、李氏朝鮮の鬱陵島検察使の船と航海能力では、現在の竹島に航海したり、領土経営を行うことは不可能であったことが明白なのですが、今後は、150人という総員の滞在日数や、糧食、重い水甕の積載重量などを研究すれば、船の大きさと積載量の推定も可能になり、張漢相の探険以降の検察使の航海でも、物理的に李氏朝鮮と現在の竹島の接点が何もないことの証左となると思います。

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  76. 張漢相の探険航海が行われた、粛宗の時代の大船がどの程度のものであったかを推測する研究データを見つけました。

    「粛宗代には底板長が大船72.5尺、中船60~65尺、小船57.5~65尺となった。」

    これによれば、大船の底板長さが、一尺を、31~32センチメートルとして、22.48~23.2メートルと計算出来ます。

    朝鮮の船の上部構造は、船首部分は舳先を尖がらせずに箱形で直線的な一方で、船尾は、舵を挟むように、船尾の左右に角のような囲い板があるデザインのものが伝統的です。したがって、船の全長は、25~27メートルと推定できるわけです。

    ただ、これはあくまでも、秀吉の朝鮮出兵時以来の、大勢の漕ぎ手を必要とする「戦船」のデータですので、探険航海の参加人員から考えても、櫓穴が多く開いた構造からも、鬱陵島への航海に用いられた船とは違うものと考えるべきでしょう。

    曩だっての、2014年5月4日(4/5/14 23:49)に、コメントしましたように、 天理大学の長森美信氏は、戦船(板屋船)は、本板長=船体長(尺)として、 70~90 尺、一隻の乗船者数を164~194 人とされていますから、搭乗人員から考えて大きく異なります。

    しかし、少なくとも大きさの点では、鬱陵島探険の「騎船」と「卜船」を同時代の張漢相たちが、「大船」と認定していたことからほぼ確実に推定できることになります。

    日本の弁才船と比較してみても、容積から考えて、積載トン数で、120トン程度はあっただろうと推定できます。

    文頭に示した、粛宗時代のデータは、
    『朝鮮王朝後期における船の文化』 李哲漢、李恩善 (翻訳:篠原啓方)
    http://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/bitstream/10112/5975/1/2-2_LEE.pdf
    によります。この論文は、一尺を、30.303センチメートルに換算しているという「日帝残滓」(笑い)はあるものですが、

    その部分を引用します

    戦船
     戦船は、朝鮮時代後期の水軍の主力艦であり、壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵略)において大活躍した板屋船の別名である。板屋船の名は、本来船体の上部に板屋をもう一層仮設し、上粧を施したことにちなんだもので、壬辰倭乱以降、この名が定着した。
     朝鮮時代後期の戦船と壬辰倭乱時の板屋船は同じものだが、時代が下るにつれ、その規模や定員、隻数には変化がみられる。後期における戦船の最大の変化は、船体の規模である。戦船には 3 種あり、統制使や水使(水軍節度使)の搭乗用(大船)70尺、中船55尺、小船47~50尺と、その規模も定められていた。だが戦船は次第に大形化していき、粛宗代には底板長が大船72.5尺、中船60~65尺、小船57.5~65尺となった。櫓の数も増え、左舷と右舷にそれぞれ12、全部で24の櫓を備えたものが登場するに至った。

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  77. 竹島問題をもっと身近に感じましょう。
    詩人の谷川俊太郎は、教科書にも出ていて若い人もよく知っていると思いますが、彼の最初の妻であった岸田衿子と、その妹の岸田今日子は、竹島の歴史に繋がりがあります。

    昭和ムーミン(1969・1972年)を知っている世代には、すでに「常識」かもしれませんが、現在STAP騒動でムーミンが再注目されるなか、ご覧になったことのない世代でも、昭和ムーミンの動画をインターネット上で検索すれば、1969年版の全65話中の32話と、1972年版の全52話中の27話分を視聴できます。その岸田今日子さんと村川家の関係です。

    www.yonago-toshokan.jp/files/16166.pdf
    引用します。

    「米子市立図書館 図書館だより 平成26年6月

    ☆美術館でムーミン展が始まります
     トーベ・ヤンソン生誕 100 年を記念して米子市美術館で「MOOMIN!ムーミン展」が開催されます。6 月14 日~7 月 13 日。日本初公開の150 余点を含む・習作等約200点を紹介する大規模な展覧会となります。 ところで皆さんは、テレビのアニメーションでムーミンの声を担当した岸田今日子さんの母上・秋子さんが米子市出身だったことはご存知でしたか? 江戸時代初期の竹島渡海で活躍した立町 2丁目にあった村川家が秋子さんの実家でした。彼女自身が翻訳・編集もできる才女で、菊池寛の認めるところとなり、仕事の縁で戯曲家・岸田国士と結ばれたのだそうです。「ムーミン展」は意外なところで縁を結んだ“里帰り”展でもあります。 市立図書館ではトーベ・ヤンソンやムーミンの関連展示をします。ご覧下さい。」


    ついでに今後のムーミン展の予定会場です。
    2014年6月14日~7月13日:鳥取県米子市/米子市美術館
    2014年7月23日~8月4日:北海道札幌市/丸井今井 札幌本店
    2014年8月8日~9月6日:広島県広島市/広島県立美術館
    2014年9月13日~10月26日:山形県米沢市/米沢市上杉博物館
    2014年12月11日~12月25日:大阪府大阪市/あべのハルカス近鉄本店
    2015年1月2日~2月15日:宮崎県宮崎市/みやざきアートセンター
    2015年3月20日~4月19日:岡山県岡山市/岡山県立美術館
    2015年4月25日~5月17日:愛知県名古屋市/松坂屋美術館

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  78. >岸田今日子さんの母上・秋子さんが米子市出身だったことはご存知でしたか? 江戸時代初期の竹島渡海で活躍した立町 2丁目にあった村川家が秋子さんの実家でした。彼女自身が翻訳・編集もできる才女で、菊池寛の認めるところとなり、仕事の縁で戯曲家・岸田国士と結ばれたのだそうです。

    知りませんでした。
    鬱陵島に行った村川家の人たちの中には「ムーミン声」の人がいたんですかね。
    そういえば、この当時、女性は一緒に鬱陵島に出かけていたんでしょうか?

    明治になれば、女たちも鬱陵島にいたみたいですが。

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