竹島問題の歴史

10.12.09

1948 - 12月12日 - 申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号

1947年7月、竹島にやってきた日本人と韓国人が遭遇し、その報告を受けた韓国政府は それまで韓国/朝鮮の東端は東経130度56分23秒の竹嶼(韓国名竹島 : Boussole Rock)(崔南善『朝鮮常識問答』(1947), 同『朝鮮常識』(1948))としてきたにも関わらず、突然「古い昔から我々の漁業場として、また国防の基地として、我々の堂々たる版図に属していたものである。」 と根拠の無い主張をし始めます。 8月16日から「朝鮮山岳会は当時名望ある各界の専門家たちをすべて招請して「鬱陵島学術調査隊」を組織し」(鄭秉峻, 2008 )し、総勢80名で鬱陵島・独島(竹島)の調査を2週間、行いました。そのうち、竹島へは天候に恵まれた8/20の5時間半ほどのみの滞在だったようです。

本論文は、調査隊の一員であった歴史学者の申奭鎬の報告書であると同時に、1950年代に行われる日韓政府の論争の韓国政府の論拠となっているもので、戦後の竹島問題を考える上で大変重要なものです。(「他方、過渡政府の調査団に合流した申奭鎬もまた1948年12月に歴史雑誌『史海』に韓国の独島領有権の歴史を証明する論文を投稿した。申奭鎬の文章は個人の資格でのものというよりは独島調査団の公式報告書の性格を持っていた。61申奭鎬は解放後はじめて独島領有権の歴史的根拠を学術的に扱ったわけであるが、彼が発掘した資料はその後韓国の独島領有権を証明する重要な根拠となり、彼の主張は主要な学問的指標となった。まとめて言うならば申奭鎬の文章は1947-48年の時点において作成された独島領有権関連資料・根拠の集大成であった。」(鄭秉峻, 2008 ))

このたび島根県総務課竹島資料室のご好意により複写を送って頂いたのでここに公開し、さらにmatsuさんが急ぎ翻訳して下さったものを、あわせて皆さんと共有したいと思います。ご本人のご希望により、matsuさんの翻訳の クロスチェックもかねていますので、内容とともにご検討下さい。(matsuさん、改めて感謝します。)

申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号
(檀紀四二八一年(1948年)12月12日発行) 89p~100p

目次
1はじめに
2独島の地勢と産物
3独島の名称
4三峰島と独島
5鬱陵島所属問題と独島
6鬱陵島開拓と独島
7日本の独島強奪
8日本領有以後の独島
9結論

1 はじめに
昨年の夏、独島の所属問題が新聞紙上に現れたことは世人周知のことである。独島は東海の真ん中、鬱陵島東南東の海上49浬(かいり)、北緯37度14分18 秒、東経131度52分22秒地点にある無人の孤島で、本来、鬱陵島に属するわが国の島であったが、露日戦争当時に日本がこの島を強奪したあと、今日に至 るまで日本本土に属する島とされている。日本の桎梏から解放された今日、我々がこの島を回収しなければならないことは言うまでもないことである。筆者は、 昨年8月16日から約2週間、民政長官・安在鴻先生の命令を受け、外務処日本課長・秋仁奉氏、文教部編修士・李鳳秀氏、水産局技術士・韓基俊氏とともに独島を実地踏査したことがあり、この一文を草して、独島が本来わが国に属する島であったことを明白にしようと思う。

2 独島の地勢と産物
独島は東西二個の主島と周囲に碁布する数十個の岩嶼で成立しているが、二千尋の水深を持つ東海の海底から見れば、まるで燭台のようにとがって立っている島で ある。東西両島の距離は約200メートル、東島は周囲約1浬(かいり)半、西島は周囲約1浬、高さは150メートル内外になる極めて小さな火山島である。 東島には噴火口が完全に残っており、ちょうどどんぶりを置いたように内部が空洞になっていて、噴火口底には東壁底面から海水が流通している。島全体が火成 岩で成立しているので、島上にはひとつの木も見えず、ただ雑草があちこちに叢生しているのみである。島岸は海蝕により岩がとりまいているが周囲がみな断崖 絶壁になっているため、島上に上ることができず、絶壁には奇怪な洞窟が多くあり、洞窟と付近の岩嶼には、アシカ(可支)俗称オットセイ(海驢)が群棲して おり、海底の無数の岩面には、コンブ(訳注:ワカメとの混同か)、アワビ、サザエ、海蔘、ウニ(雲丹)が無尽蔵に繁殖している。付近の海中にはイカ、サ バ、ヒラメその他の魚類が多くいる。本島に船を着けることができる場所は東島と西島の間しかなく、東島の西側に砂利の多い土地が百余坪あり、ここに昔鬱陵島の人と日本人が家を建てた場所が残っている。そして、ここから東島に登ることが出来るが、傾斜面が60度以上になるため普通の人は登ることができない。 また、東島の南のほうに数十坪の平地があるが、登るのが難しいだけでなく海風を防ぐことができないため、ここも利用することができない場所である。『朝鮮 沿岸水路誌』と鬱陵島人の言によれば、西島の西南部に少量の淡水が出るというが、あちこち調査をしてみたが、これを発見することが出来なかった。大体、本島は平地と飲料水がないために人が定住することが出来ないところである。しかし、水産業上、軍事上から見て非常に重要なところであると言わざるを得ない。

3 独島の名称
独島という称号の起源については明確な記録は無いが、鬱陵島庁に保管している光武十年(西紀1906)丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報告書に「本郡所属獨島」 とする記事があることから見て、たぶん高宗18年(西紀1881)の鬱陵島開拓以後、鬱陵島の住民が命名したようであり、東海の真ん中に孤独に立っている という理由で、このように命名されたようである。ところで光武九年(西紀1905日本の明治38年)露日戦争当時に日本軍がこの島を占領して以降、独島 という我が国の名称は消え、日本名の竹島(Dakeshima)と仏国名リヤンクール(Liancourt)、英国名ホネトゥ(Hornet)として現行 の海図上に表示されるようになった。元来、竹島は粛宗19年(西紀1693)以来、日本人が鬱陵島を指称する名称であるが、高宗時代(日本明治時代)に なって日本人が鬱陵島を松島と改称するようになると、本来の竹島名を独島に移して呼ぶようになったのである。日本の有名な植物学者、中井猛之進と、有名な 史学家、坪井九馬三は、日本の隠岐島の人たちが昔から独島を卵島と称していたとしているが(注1)、これは何の根拠もないものであり、故京城帝大教授田保橋潔先生が、『青丘學叢』第4号「鬱陵島名称について坪井博士の示教に答える」という論文で、すでに弁破したところである。そしてリヤンクール (Liancourt)は、憲宗15年(西紀1849)に仏国の捕鯨船リヤンクール号がこの島を発見してその船名により命名したものであり、ホネ トゥ(Hornet)は、哲宗6年(西紀1855)に英国の支那艦隊所属汽船ホネトゥ号がこの島を発見して、またその船名により名前をつけたものであ る。(注2)このように、独島である島に現在4つの名前があるが、元来この島は李朝の成宗朝に三峰島と称したようであり、粛宗朝に日本がこの島を我が国の領土として承認したものであって、近世に至って鬱陵島の人たちがもっとも多く利用する我が国に属する島である。

4 三峰島と独島
成宗実録を見ると、成宗二年から十二年まで(西紀1471~1481)三峰島に関する記事が多く見られる。三峰島は東海中にある島で、当時一つの謎となって いたところである。しかし、江原道と咸鏡道の人たちが軍役を免れ、税金を出さないようにするために、多くこの島に入るとして、国家ではこの島に人が往来す ることは厳禁し、数回にわたって捜討軍を組織し三峰島を捜索した。しかし捜討軍は一度も三峰島を発見できず、ただ永安道(咸鏡道)観察使 李克均が派遣さ れ、永興人の金自周等十二名が三峰島を眺め見てきたが、成宗実録に次のような金自周の報告記事がある。
兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻尙船五隻入送, 去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船(中略)二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。 亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’ 臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。(注3)(訳注 :この申奭鎬氏の原文は ”去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船”のあと、”向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,”の部分が成宗実録の原文から略されている。
金自周等は、三峰島に上陸できずに西へ島を7~8里(約3キロ)隔てて、島の東から眺めてきた(訳注 : 原文は西으로부티 섬을七八里(約三키로) 밖에두고)が、彼らの眺め見た三峰島は今の独島と少しも違う点がない。すな わち金自周が言う島北の三石が列立していたということは西島の西北方に高く立つ3つの岩を言うものであり、次の小島と岩石は東西両島間に列立する無数の岩嶼を言ったもの、中島は西島を指称したものであり、中島之西の小島は東島の東南方に高くそびえる岩嶼を言ったもので、大概、いまの独島の貌形を彷彿させ る。島の間に海水が流通するということも、また独島の条件に符号する。彼が海島の間に人形三十を見たというが、これはたぶん、アシカ(オットセイ)を人形 と誤認したもののようだ。要するに、独島は15世紀末葉、今から480余年前の成宗朝に我が国の人がこれを発見し三峰島と称したのであるが、当時国家では この島だけでなく鬱陵島にも人が往来することを厳禁したために、高宗十八年に鬱陵島を開拓する時まで四百余年間、再び史上に現れることは無かった。

5 鬱陵島所属問題と独島
今から250余年前、粛宗朝に、我が国と日本の間で鬱陵島に関する所属問題が起こり、しばらくのあいだ外交的にお互いが争ったことがある。この問題に関する 詳しいことは後日に記述することにして、ここでは、ただその梗概を略述し独島との関係を説明しようと思う。鬱陵島は、三国時代に于山国、高麗時代に鬱陵島、蔚陵島、芋陵島、羽陵島、武陵島、あるいは茂陵島と称し、我が国に属する島であることは二言を要しないが、高麗初葉顕宗朝(11世紀)に女真人の侵掠 により、島内の人民を内陸に移住させ、その後この島を空けておいたようだ。(注4)ところが高麗末葉から李朝初期にかけて(14世紀)江原道沿岸地方の人たちが多くこの島に移住して鬱陵島に再び人が住むようになった。しかし、この島は陸地から遠く離れているために往来が不便であるばかりでなく、風波により 溺死する人が続出し、またこの島に移住する人は大概、軍役と税金を逃避しようとする者ばかりであり、またこの島は、倭寇の侵掠を受ける憂慮があるため、太宗十七年(西紀1417)に、三陟人の金麟雨を鬱陵島按撫使に任命し、居民八十余名を刷還し、世宗七年(西紀1425)に、また金麟雨を派遣してふたたび 居民を刷還し、同二十年(西紀1438)に護軍の南薈を派遣し、居民六十余名を刷還し、本島に人が入って住むことを厳禁した。(注5)しかし、本島は漁採 の利益が大きいので、慶尚道、江原道沿岸の漁民の往来を全く防げることは出来ず、ただ人が入って住むことを厳禁しただけであった。このように鬱陵島を完全 に空島とした間に、日本の因幡・伯耆州(島根県 訳注:鳥取県の誤り)などの漁民がしばしば鬱陵島に来てまた漁採を始めたが、日本人は鬱陵島を磯竹島あるいは竹島と称した。鬱陵島に大竹が生じるためにこのような名前をつけたようである。ところが、粛宗十九年(西紀1693 日本元禄六年)に、我が国の慶尚道東莱の漁民安龍福一行と日本伯耆州の漁民が鬱陵島で出会って衝突が起こったため、我が国と日本の間に鬱陵島の所属問題が起こり、日本は自国の竹島に朝鮮 漁民の往来を禁じてくれとしてきたが、我が国では日本で呼ぶ竹島は我が国の鬱陵島と同一であり、日本漁民の往来を禁じるように主張し、多年間お互いに外交 戦をしたが、結局日本が理に屈し、粛宗二十三年(西紀1697 日本元禄十年)2月、江戸幕府から、竹島すなわち鬱陵島を朝鮮の領土として承認し、日本の漁民の往来を厳禁したことは、我が国の史料である粛宗実録、同文彙考、通文館志、そして日本側の史料である朝鮮通交大紀、本邦朝鮮往復書、通航一覧などに 明記されているところである。憲宗三年(西紀1837 日本天保八年)に、日本は竹島すなわち鬱陵島に密貿易した石見国浜田松原無宿八右衛門を死刑に処 し、我が国に対する約束は遵守されたことも、日本側の史料である外交誌稿、日本財政経済史料と、歴史地理第55巻第6号 樋畑雪湖の論文に引用した文書 「東海道宿宿村触」に明記されているところであり、日本は江戸幕府の末期まで竹島を朝鮮領土と承認し、日本漁民の往来を厳禁した。竹島すなわち鬱陵島を朝 鮮領土と承認した以上、その属島である独島、即ちいま日本人が言う竹島もまた朝鮮領土と承認したと見ることができるのである。

6 鬱陵島開拓と独島
鬱陵島所属問題が解決した以後も、わが国では以前の通り鬱陵島に人が行って住むことを禁止し、1年おきに1回ずつ平海郡守あるいは蔚珍県令を派遣し、居民の有無を巡審し、本島所産の大竹、香木、山蔘を採取し、アシカ(可支魚)を捕獲した。ところが、その後日本は幕府が倒壊して、所謂明治維新が起こり、幕府時代の全ての禁令が解除されたばかりでなく、海外進出を奨励したため、日本人は再び鬱陵島に進出し、鬱陵島を松島と変称し、千古手付かずの鬱蒼たる木材を盗伐した。このため高宗十八年(西紀1881 日本明治十四年)に、わが国から外務卿代理上野景範に厳重 な抗議をすると同時に(注6)副護軍李奎遠を鬱陵島検察使に任命し、島内外の形勢を稠密に調査した後に、従来の方針を変更し、鬱陵島に入って住む人を募集 した。(注7)このように、鬱陵島開拓令が発布され、何百年もかたく閉ざされていた門を開くことになると、江原道、慶尚道沿岸の人たちはもちろん、全羅道、忠清道地方からも移住する人が多く、鬱陵島の山谷はその歳に開拓され、翌年、島長を設置し、光武五年(西紀1901)に島長を郡守に昇格し、島内行政 を担当させた。鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言うのを聞けば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはすぐにこの島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したと話しており、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したというが、この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。すなわち日本が独島を強奪する一年前である光武八年(西紀1904 明治三十七年)に、日本の軍艦対馬が独島を調査した時に、鬱陵島 の漁民がこの島へ来て菰草小屋を建てて十日ずつ滞在し、海驢すなわちアシカをとっていたことを記録している。(注8)これにより、独島は鬱陵島開拓以後す ぐにわが国の領土になったことは明白である。このため、光武十年に鬱陵郡守が「我國所属獨島」と記録し中央政府に報告したのである。

7 日本の独島強奪
以上のように、独島は鬱陵島に付属する島であり、元来我が国に属することは明白であるが、光武九年(西紀1905 明治38年)、露日戦争当時に日本は、独島に人が住んでいないことを奇貨として、鬱陵島の古名、竹島をもってこの島に命名し、同年2月2日づけ(訳注 : 2月22日の間違い)で思いのまま自国領土に編入し、島根県隠岐島に付属 させ、(注9)海軍の補給基地として使用し(注10)、翌年すなわち光武十年陰三月に、隠岐島司東文輔以下十余名の官員を鬱陵島に派遣し、鬱陵郡守沈興澤 に独島が日本の領土になったことを宣言し、爾後朝鮮漁民の独島往来を禁じてくれと言った。アシカの産地として有名な重要な属島ひとつを失った郡守沈興澤 は、次のような報告書を作成し、道庁あるいは中央政府に提出したようである。

報告書
本 郡所屬獨島가、在於本郡外洋百餘里許이읍드니、本月初四日辰時量에、輪船一隻이來泊于郡内道洞浦、而日本官人一行이到于官舎하여、自云、獨島가今為日本領 地故로、視察次로来島이다인바、其一行則日本島根縣隠岐島司東文輔、及事務官神田西由太郎、税務監督局長吉田平吾、分署長警部影山岩八郎、巡査一人、會議 員一人、醫師、技手各一人、其外随員十餘人이、先問戸總人口土地及生産多少하고、次問人員及経費幾許諸般事務을以調査樣으로録去이합기 茲以報告하오니、 照亮하심을務望함
光武十年 丙午 陰三月五日

こ の報告書は、鬱陵島庁に保管されている副本(控)を転載したもので、これがどのように処理されたのかはまだ詳細に知ることが出来ないが、当時日本勢力がす でに韓国政府を支配し、国家全体の運命が重大危機に直面していたために、政府は独島のような小さな無人の孤島に対してかえりみる余裕が無かっただけでな く、抗争する能力も無かった。こうして、独島は無念にも日本に奪われ、独島という名前は消え、日本の名前である竹島として現行の海図上に現れることになっ たのである。


8 日本領有以後の独島
以上のように、日本は、独島を強奪し朝鮮人の漁採を禁じた。しかし、地理上からみれば、独島は日本の隠岐島から86浬(かいり)、島根県境市(訳注:鳥取県 の誤)から130浬にもなる遠距離にあり、わが国の鬱陵島からは僅かに49浬にしかならない近距離にあることから、日本が独島を強奪した後にも日本人より も鬱陵島の人たちがより多くこの島を利用していた。このために日本政府の記録である『朝鮮沿岸水路誌』と準政府記録である『韓国水産誌』に、独島は朝鮮に 属する島であると記載されている。『韓国水産誌』は、日本が独島を強奪してから3年後の隆熙二年(西紀1908)に、韓国政府農商工部水産課長・庵原文一 以下、日本人官吏を総出動して、朝鮮に属する島嶼を一つ残らず実地踏査した後に、その位置と産物その他を明記して編纂出版した本であり、その第1輯第1編 地理第7章沿岸の水路告示条に、竹島(Liancourtrock)すなわち独島を記載し、独島を朝鮮の属島と認定している。また『朝鮮沿岸水路誌』は、 最近1933年(昭和八年)に日本海軍省で『本州沿海水路誌』と同時に発刊した本で、これに朝鮮に附属する島嶼を総網羅し、その位置と地勢および産物を詳 細に記録したものであるが、その第3編 朝鮮東岸に、鬱陵島および竹島を記載してあり、独島を朝鮮に属する島と明記している。『韓国水産誌』は国立図書館 にもあり普通に見ることができるが、『朝鮮沿岸水路誌』は日本海軍が専用に書いた本であるため、普通には見ることが出来ないものであり、このたびの独島調査に功績の大きい海岸警備隊浦項基地所属艦艇太田号の艇長室に備置するものを偶然にも発見し、艇長趙丁右中尉の好意により暫時この本を借りて竹島に関する 全文を抄出したのであるが、まさにこの本こそ独島問題を解決するのに重大な鍵を握っているものである。第6節で述べたように、日本が独島を強奪する以前 に、独島は鬱陵島の人たちがアシカをとるために菰草小屋を建てて夏の季節に十日ずつ滞在した朝鮮に属する島であるという明証を得ることが出来ることにも、 この本の存在価値がある。(注8)万が一、独島が本来から日本に属する島であるならば、朝鮮の島嶼のみを網羅したこの二つの書籍に、きっと記載しなかった はずである。ところで、日本海軍省から『朝鮮沿岸水路誌』と同時に発刊された『本州沿海水路誌』第二巻日本海沿岸には(この本も太田号の艇長室に備置する ものを見た)、竹島の名称のみを載せており、『朝鮮沿岸水路誌』の方にその位置や地勢および産物を詳細に記録していることは、竹島すなわち独島が本来から 朝鮮に属する島であり、地理的にも朝鮮に属することが最も合理的なので、このようにしたものなのである。日本政府および準政府の記録であるこの二つの書籍 から、独島が朝鮮に属する島であることを十分に証明することができ、1930年(昭和五年)6月に発行された『歴史地理』第55巻第6号に収載された樋畑雪湖の「日本海にある竹島の日鮮関係について」という小論文にも、竹島と鬱陵島はいま朝鮮江原道に属する朝鮮の領土であり日本海の最東端に属している」と 記述され、竹島すなわち独島が朝鮮領土であると指摘されている。

9 結論
以上、朝鮮および日本の古記録と、このたび調査した資料により、独島が本来わが国の領土であることを証明したと考えるが、再びそれを簡単に要約すれば以下の通りである。

(1)独島は、成宗朝の三峰島と同一の島であり、15世紀から我が国の領土となった。
(2)粛宗朝に、日本は竹島(鬱陵島)を朝鮮の領土であると承認したことから、その属島である竹島(独島)もまた朝鮮の領土であると承認したと看做される
(3)日本海軍省が発行した『朝鮮沿岸水路誌』と、鬱陵島の古老・洪在現氏等の言によれば、独島は鬱陵島開拓以後、光武九年(西暦1904年、明治三十七年)まで鬱陵島の人々が利用していた朝鮮に属する島であることは明白である。
(4)光武十年丙午陰暦3月5日付の鬱陵郡守の報告書と、帝国地名辞典その他の日本の地理学の諸書によれば、露日戦争当時に日本が独島を強奪したことは明白である。
(5)独島は本来朝鮮に属す島であり、地理的に朝鮮に属すことが最も合理的な理由として、日本が独島を強奪した後にも『朝鮮沿岸水路誌』『韓国水産誌』等日本政府と準政府の記録と、日本の民間学者・樋畑雪湖はすべて独島を朝鮮の属島と認定した。
(6)現在の日本の漁区を画定したマッカーサー線(makerther line)(訳注:MacArthur Lineの誤り)から論じても、その線が独島東方海上12浬(かいり)地点を通過し、独島が朝鮮の漁区に属している。

以上、6つの理由により、私は独島を朝鮮領土に還元できたと確信するものである。外務当局は、必ず国民に良い結果を伝えてくれることを信じている。不充分で はあるが、これをもって独島問題を重大視しておられる民政長官・安在鴻先生への報告とすると同時に独島調査についての私の責任を彌縫しようと思う。このた びの調査に特別の周旋をしていただいた安在鴻先生以下の中央庁幹部各位と、調査に多くの便宜を図っていただいた慶尚北道地方課長・権大一氏、海岸警備隊太 田号艇長・趙丁右氏、鬱陵島司・徐二煥氏以下、鬱陵島官民各位、そして山岳会長・宋錫夏氏以下、鬱陵島学術調査隊員諸位に対して謝意を表すものである。


1『歴史地理』 第38巻第3号(大正10年9月刊)「鬱陵島」(中井猛之進)、『同』第56巻第1号(昭和5年刊)「竹島について」(坪井九馬三)、『青丘學叢』第4号(昭和6年5月刊)「鬱陵島名称について 坪井博士の示教に答える」(田保橋潔)

2『青丘學叢』第3号(昭和6年2月刊)「鬱陵島の発見とその領有」(田保橋潔)

3『成宗実録』 巻72 成宗7年10月丁酉(27日)

4『高麗史』巻4 顕宗9年11月丙寅、同10年7月己卯、同13年7月丙子

5『太宗実録』巻32 太宗16年9月庚寅、巻33 太宗17年2月壬戌、『世宗実録』巻29 世宗7年8月甲戌、巻81 世宗20年4月甲戌、巻82 世宗20年7月戊戌、『新増東国與地勝覧』巻45蔚珍県山川(蔚陵島)

6『日省録』高宗18年5月癸未、『同文彙考』付属編1辺禁2辛巳 禮曹判書以禁断蔚陵島代(伐か)木事 抵外務卿書 外務大輔答書

7『承政院日記』高宗18年壬午 6月5日己亥

8 『朝鮮沿岸水路誌』第3編 朝鮮東岸 竹島条に、「島上には、家屋を建築できる場所は極めて少なく、明治37年11月、軍艦対馬がこの島を実測するときに は、東方島に漁夫用の菰草小屋があったが、風浪のためひどく破壊してしまったという。毎年、夏になると、海驢を捕まえるために鬱陵島からこの島へ来る者が 数十名の多数に達する時があった。彼らは島上に小屋を建て、毎回約十日間仮居したという」と記録されている。

9『帝国地名辞典』(大田為三郎編 明治45年刊)下巻竹島(940~941頁)

10『歴史地理』第56巻第1号(昭和5年7月刊)坪井九馬三の「竹島について」

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*翻訳はmatsu氏による。
(091207翻訳着手 091209 091210一応完成)



鄭秉峻「 解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51) 」(2008)

以前検討した戦後の韓国の新聞記事、chaamiey & matsuさんによる翻訳等はこちらでGTOMRさんがまとめて下さっているので、下記を参照下さい。

サンフランシスコ平和条約と韓国による竹島侵略 : 韓国人の「独島」妄言は戦後になってから

1933年 『朝鮮沿岸水路誌 (Viewer 106ページ(本の86ページより))

その他関連投稿
Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 11

after1945 - "Geography for Middle School(中等地理)" by the Association of Gyeongbuk Geographers(慶北地理學會) admits Dokdo is outside of the territory of Korea

1945-1953 - Map of Korea (USA) (Geographia map Co., INC in New York) excludes Liancourt Rocks from Korea

1945-1953 - Map of Japan (USA) (Geographia map Co., INC in New York) includes Liancourt Rocks in Japan

1946 - Feb. 13 - "Conference with GHQ/SCAP concerning separation of the administration"

1950's - Korean Video: "Dokdo & the Peace Line"

1950's - Japan & Korea Argue Their Claims in 1950s Letters



1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_3 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_3
1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_4 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_5 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_5 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_5 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_6 1948 申奭鎬「独島所属について」『史海』第1号 1948 12月_7

100 comments:

  1. Matsuさん、長文翻訳お疲れ様でした~。


    とりあえずお経を


    勅令41号は出てこなかった・・・・・・
    勅令41号は出てこなかった・・・・・・
    勅令41号は出てこなかった・・・・・・
    勅令41号は出てこなかった・・・・・・



    2009.12.11

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  2. 今気が付きましたが明日が12月12日なんですね。この論文が出てから明日で実に61年が過ぎていることになります。何やら感慨深いものがありますねぇ…

    ぱっと読んだ所、突っ込みどころ満載でこれが公式文書の基礎になってしまったのかと思うと、多少お気の毒になってしまうほどですが、朝鮮山岳調査隊の面々といい、この論文といい、解放後たった2,3年でのことですから「日帝」の現地での教育レベルの高さももう少し評価されてもいいのではないかと思いました。(後年親日派認定された人がいるかもしれませんね。)

    それにしても長いので、読むだけでも一苦労かと思います。既に12時を過ぎてしまいました。取り敢えず、皆様おやすみなさい。

    (写真のアップロードが上手くいかなかったので、かなり見苦しくなってしまいました。また明日整えてみます。)

    ReplyDelete
  3. matsuさん、Kaneganeseさん、ありがとうございます。

    一読したところでは、韓国側の主張(論理)のほとんどが入っているようですね。これが「独島モンスター」の発祥なのだと思いを新たにしました。

    「5 鬱陵島所属問題と独島」の末で「竹島すなわち鬱陵島を朝鮮領土と承認した以上、その属島である独島、即ちいま日本人が言う竹島もまた朝鮮領土と承認したと見ることができるのである。」としていますが、何と独善的な論でしょう。もっとも見方を変えれば属島論を持ち出さないことには領有の根拠を示せないほど韓国にとって希薄な関係しかないということなのだと思います。

    精読の上、疑問点など出していくつもりです。よろしくお願いします。

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  4. 翻訳1件アップ

    独島領有権④ 黄相基
    1957年3月3日 東亜日報


    独島領有権④ 黄相基
    1957年3月3日 東亜日報

    (9)独島の領有権に関する合法的な継承
    このようないくつかのSCAPINの効力は、現代国際法上実効的な一般原則として、1948年8月15日大韓民国独立宣言と1948年12月12日国際連合の韓国承認によって、大韓民国は完全な独立国家の主体としてこれを継承したのだ。
      これにより、大韓民国においては当然の権利の行使として対日講和条約が効力を発生する1952年4月28日より3ヶ月前である1952年1月18日、独島を韓国領土に含む「隣接海洋主権に関する大統領宣言」を布告して大韓民国の領土限界を明確にした。
      この隣接海洋主権に関する大統領宣言は東海岸から170浬に限定され、友邦諸国においては既に数ヶ国が承認し、このような領海に関する主権宣言は、1947年8月1日、ペルーが海岸から200浬の地点に主権限界を宣言したのを始めとして、20世紀初期以来、世界各国で20余ヶ国が宣布した。漁業技術が高度に発達した今日では、過去の領海の限界を着弾距離を標準として3、4浬を主張した時代とは顕著な差異があることから、世界各国においてこのような主権宣言をしたのは正当な領海保障の推勢であり、20世紀の現代国際法上の一般原則として各々遵守しているのが今日の現実だ。

      そして1954年8月10日、独島には大韓民国において「灯台」を架設し、世界各国に通報すると同時に海洋警備隊をして独島に出漁する韓国漁民を保護させ、独島からの領海内の地下資源をしっかりと保護しているのは、主権の行使を合法的に行う領土支配だと言うことができる。

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  5. (10)無人島と局地に関する現代国際法と仲裁裁判所の判例
      現代国際法上、無人島と極地は空いているとして 領土の放棄や先占の対象となり得るというのがFAUCHILLEの学説として通例となっている。万一、無人島と極地が空いているとして先占の対象となるとか領土の放棄の原因となるとするならば、世界中の無数の極地と無人島を有する国家は、その無人島と局地を管理するために無益な努力と莫大な費用を支出しても所期の目的を達成することは困難であり、国際間で先占の侵略紛争が無限に展開されることになり、結果的には世界平和に脅威をもたらすことが前提となる。

      そういう理由から、現代国際法上、先占はまさに関係国に通告することが通例となっている。したがって、独島のような一株の樹木と飲料水さえも無い岩嶼を韓国が空けておいたからといって、日本が国際法上の先占の例を適用して一言の通告もなく領土を取得したと主張する外交覚書を提示するということは、日本の侵略根性が今も内在しているということを否認できない。

      ここで、独島の境遇と同一の仲裁裁判所の判例を挙げ、参考としたい。
      1933年4月、ノルウェーはデンマークの東グリーンランド島の一部を無主島と主張してこれに対する先占を仲裁裁判所に主張したことがあったが、この主張は認証されず、デンマークの勝訴に帰した判例がある。




    2009.12.12

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  6. Kaneganese様、matsu様、

    ご苦労様でした。

    1951年7月19日の梁―ダレス会談で独島+波瀾島要求が出てくる大元はこれだったのですね。
    (7月9日の第一回会談では対馬を要求、駄目と分かると2回目の会談で独島が出てきた訳ですが、その10日間の間にこの文献を検討したのでしょうかねえ・・・)

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  7. Makotoさん
    chaamieyさん
    pacifistさん

    有難うございます。matsuさんのおかげで大変貴重な資料を日本語で読むことが出来るようになりました。

    妄言の背景となった論理のいくつかが散見され、8月の愛国老人会の嘆願書が歴史については触れていない、かつ内容が違うことを考えると、申奭鎬氏が史料の歪曲解釈という遺伝子操作をしてウイルスベクターを作った可能性が高いですね。そのベクターを利用して遺伝子治療をし、まっすぐ歩き出すべく生まれた、「独島朝鮮領説」という赤子の細胞の一部が、史料の歪曲というひずみから自家撞着を起こして自己攻撃し始めるので更なる遺伝子治療を施し(于山島説や、その後勅令41号が見つかって石島説が生まれる)し、そうした過程で殺人ウイルスかモンスターが生まれて韓国人に感染し/飲み込んでいく...SF超大作のシナリオが出来そうです。(何かのパクリ? 確か韓国映画でそんなのありましたよね。)

    冗談はさておき、私が思うにこの論文で最も注目すべきは、現地調査を行って鬱陵島の住民から聞き取り調査を行ったであろう申奭鎬氏が当然のように「東海の真ん中に孤独に立っているという理由で、このように命名されたようである。」とした部分です。正直「言質を取った!」と思いました。さらに「鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、」とあるので、1900年以前にはソクト、トクソム、ドクソム等と言われていなかった事はほぼ確実でしょう。残念ながら、全て「独島」と漢字表記になっているようですが、ハングルで書かれてあれば、更なる証拠になったと思います。是非、他の調査員の記録も読みたいと思いました。

    ”3 独島の名称
    独島という称号の起源については明確な記録は無いが、鬱陵島庁に保管している光武十年(西紀1906)丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報告書に「本郡所属獨島」とする記事があることから見て、たぶん高宗18年(西紀1881)の鬱陵島開拓以後、鬱陵島の住民が命名したようであり、東海の真ん中に孤独に立っているという理由で、このように命名されたようである。

    三峰島説が早くも出ていますが、19世紀の韓国朝鮮の歴史資料に独島という名称が出てこないために王朝実録から捜し出して来たのでしょうが、これは大きな誤りでした。おかげで60年たった今でも半月城朴氏は、日本人からコケにされようが、馬鹿にされようが、壊れたレコードか、お経や呪文のように三峰説を唱え続けなければなりません。外交文書で政府が根拠として採用してしまったので、誤りとして認めることが出来なくなってしまったのです。

    "彼が海島の間に人形三十を見たというが、これはたぶん、アシカ(オットセイ)を人形と誤認したもののようだ。"

    三峰島については、5日前の報告にはこの人形は朝鮮人であろうと金自周自身が語ったことがハッキリ書かれています。ご先祖様をアシカだなんて。ネットの発達した今では”三峰島”と検索するだけで殆んど全ての記録が出てくるので、都合のいい部分だけを切り取って根拠としても瞬時に論駁されます。

    1470 - "Sambongdo(三峯島)" was just an another name of Ulleundo, not Takeshima/Dokdo (有人三十餘...其人衣白...然其大槪乃朝鮮人也).

    ”竹島すなわち鬱陵島を朝 鮮領土と承認した以上、その属島である独島、即ちいま日本人が言う竹島もまた朝鮮領土と承認したと見ることができるのである。”

    鬱陵島の住民が東海の真ん中に孤独に立っているとして命名した訳ですので、属島説は論理的に破綻・自己矛盾しています。

    ”鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し、あるいはコンブ(訳注:ワカメとの混同か)やアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したといい、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したという。”

    鬱陵島の住民の人たちの証言ですが、「きっと~といい」、というのは随分曖昧ですね。50年近く前のこととはいえ、85歳の方なら編入当時既に30歳を超えていたわけで、もう少し具体的なことを覚えていてもよさそうです。もっと詳細な証言の記録を読みたいです。
    世宗実録地理志に触れてはいないのに「清明な日、鬱陵島から見ることができる」と証言しているのが面白いです。後日世宗実録地理志の記述を歪曲解釈していくことにつながっていくのかもしれません

    ”『朝鮮沿岸水路誌』は日本海軍が専用に書いた本であるため、普通には見ることが出来ないものであり、このたびの独島調 査に功績の大きい海岸警備隊浦項基地所属艦艇太田号の艇長室に備置するものを偶然にも発見し、艇長趙丁右中尉の好意により暫時この本を借りて竹島に関する 全文を抄出したのであるが、まさにこの本こそ独島問題を解決するのに重大な鍵を握っているものである。”

    「すわ!大発見!」だったのでしょうね。

    ”日本の軍艦対馬が独島を調査した時に、鬱陵島の漁民がこの島へ来て菰草小屋を建てて十日ずつ滞在し、海驢すなわちアシカをとっていたことを記録している。” ”8『朝鮮沿岸水路誌』第3編 朝鮮東岸 竹島条に、「島上には、家屋を建築できる場所は極めて少なく、明治37年11月、軍艦対馬がこの島を実測するときには、東方島に漁夫用の菰草小屋があったが、風浪のためひどく破壊してしまったという。毎年、夏になると、海驢を捕まえるために鬱陵島からこの島へ来る者が数十名の多数に達する時があった。彼らは島上に小屋を建て、毎回約十日間仮居したという」と記録されている。”

    1900年初頭の日本の資料で鬱陵島の人と言えば当然日本人で韓国人は韓人だったのですが、当時の資料を読む際にはその点の文献批判は大変重要です。

    (以下リンクはインデックスからたどってください。)
    1902年 - 外務省通商局編纂「通商彙纂」
    この頃から多少鬱陵島からすでに出漁し始めたことが分かります。ただし、鮑を取っていたらしいのと、韓人と断っていないこと、また当時鬱陵島の朝鮮人は外洋に出る船を持っていなかったので、これは日本人と考えられます。

    1904 - Sep 25 - First Record of "Dokdo" for Liancourt Rocks (軍艦新高行動日誌)
    新高の報告では松島からやってくることが書いてありますが、韓人と断っていないので、ほぼ確実に日本人でしょう。和船を使っているようですし。

    1905 - January 5th - The Report about Laincourt Rocks by the captain of the naval ship Tsushima, Commander Sendo Takeo (對馬艦長海軍中佐仙頭武央"竹島報告")
    1905年1月の対馬の報告(1904年11月の調査結果)では仮小屋と夏に十日間ほど漁猟することが書いてあるだけで、どこから来たのか書いていません。

    1905 - June 15 - Japanese Cruiser Hashidate Surveys Takeshima (Liancourt Rocks) (橋立戦時日誌)
    戦艦橋立の日誌にはハッキリと中井と配下のものが隠岐から出漁していることが記録されています。

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  8. 追記
    ”江原道、慶尚道沿岸の人たちはもちろん、全羅 道、忠清道地方からも移住する人が多く”

    石島を「ドクソム」と発音する方言を持つ全羅道からの移住者が多いとしたのは、すでにyabutarouさんによって論破されましたね。

    ”『韓国水産誌』は、日本が独島を強奪してから3年後の隆熙二年(西紀1908)に、韓国政府農商工部水産課長・庵原文一以下、日本人官吏を総出動して、朝鮮に属する島嶼を一つ残らず実地踏査した後に、その位置と産物その他を明記して編纂出版した本であり、その第1輯第1編地理第7章沿岸の水路告示条に、竹島(Liancourtrock)すなわち独島を記載し、独島を朝鮮の属島と認定している。”

    「水路誌」もそうですが、「水産誌」も領土を規定するものではありません。そもそも、1905年の領土編入のあと、1908年、さらに1933年になってもなおもこうして韓国の水産誌や水路誌に竹島を記載し続けていることは、こうした書物が領土の規定と関係が無かったことを示しているのですけれど。

    韓国水産誌(1909)はこちらにあります。画像は田中さんのところのものです。
    鬱陵島の項には竹島のことが書いてありません。第1輯第1編地理には記載があるのでしょうか。申氏の言う1908年の版があるのなら、そちらも見てみたいですね。


    1『歴史地理』第56巻第1号(昭和5年刊)「竹島について」(坪井九馬三)
    1『青丘學叢』第4号(昭和6年5月刊)「鬱陵島名称について 坪井博士の示教に答える」(田保橋潔)
    2『青丘學叢』第3号(昭和6年2月刊)「鬱陵島の発見とその領有」(田保橋潔)
    文中『歴史地理』第55巻第6号「日本海にある竹島の日鮮関係について」(樋畑雪湖)
    以上4つの論文はmatsuさんからお借りしたことがあるので、お読みになりたい方はメールを下さい。

    10『歴史地理』第56巻第1号(昭和5年7月刊)坪井九馬三の「竹島について」
    は、1『歴史地理』第56巻第1号(昭和5年刊)「竹島について」(坪井九馬三)と同じでしょうか?

    また、1『歴史地理』 第38巻第3号(大正10年9月刊)「鬱陵島」(中井猛之進)とあるのは、坪井九馬三の間違いでしょうか。

    1921 坪井九馬三「鬱陵島」『歴史地理』第38巻3号、1921,P167という論文は手元にあるのですが。

    9『帝国地名辞典』(大田為三郎編 明治45年刊)下巻竹島(940~941頁)は持ち合わせていませんが、いずれにせよ注にあるものの、本文に見出せません。

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  9. さらに追記

    『韓国水産誌』を読み返して気がついたのは、この1909年の時点では「住人」というと、韓人を指していたと見られることです。逆に、日本人は「日本人」と書かれているようです。いつ頃逆転したのでしょうか。

    1905年 - 外務省通商局編纂「通商彙纂」 第50号

    ニ、 同島の輸出入品"の項の中で、"ランコ島"と言う名称で、竹島(Liancourt Rocks)が言及されています。"「トド」と称する海獣"を"昨年頃より鬱陵島民之を捕獲し始めたり"とありますが、この"鬱陵島民"に韓国人が含まれるか否かは不明です。ただし、この項において他に韓国人に関する記述が一切無いことから、このトド猟についても基本的に邦人の活動について著していると考えるのが自然でしょう。

    1907年頃に日本人の船を購入した鬱陵島の韓人のイカ漁が始まり、この頃から鬱陵島の韓人による漁業が始まった(出典忘れました。)とあったように記憶しています。韓国側の人口調査などもあわせて考える必要があると思われます。

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  10. matsuさん翻訳ごくろうさまです。いやあこれはたいへん興味深い。突っ込みどころ満載で、これだけをおかずにしてご飯を三百杯くらい食べられそうです。
    ざっと読んでみたところ、韓国においては、「高名な学者が推測で書いた文章が、韓国の利益になる内容である時、後世の人物によって歴史的事実に変換されてしまう」という法則が存在しているように思います。
    例を挙げてみましょう。”3 独島の名称”の部分に、

    ”独島という称号の起源については明確な記録は無いが、鬱陵島庁に保管している光武十年(西紀1906)丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報告書に「本郡所属獨島」 とする記事があることから見て、たぶん高宗18年(西紀1881)の鬱陵島開拓以後、鬱陵島の住民が命名したようであり、”

    とありますがこれはWeb竹島問題研究所・2009年5月のご意見・【質問1】

     ”平凡社『世界大百科事典』17巻(2007.9改訂新版)の竹島の項目に「1881年に朝鮮で独島の呼称ができたといわれ」とある”

    のネタ元のようです。実はキーワード”1881 독도”でgoogle検索してみると”1881年(高宗 18)から独島だと呼ぶようになった”という文章が山ほど出てくるわけですが、これが「独島所属について」で申奭鎬が”たぶん高宗18年(西紀1881)の鬱陵島開拓以後、鬱陵島の住民が(独島と)命名した”ようだと推測したに過ぎないものが歴史的事実に変換されてしまったものであるのが明らかです。”高宗18年以後命名した”と”高宗18年呼ぶようになった”では意味が違っていますが、そうゆう細かいことにはこだわらないタイプなのでしょう。

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  11. Kaneganese さん

    "彼が海島の間に人形三十を見たというが、これはたぶん、アシカ(オットセイ)を人形と誤認したもののようだ。"

    三峰島については、5日前の報告にはこの人形は朝鮮人であろうと金自周自身が語ったことがハッキリ書かれています。ご先祖様をアシカだなんて。

    成宗 72卷, 7年( 1476 丙申 / 명 성화(成化) 12年) 10月 22日 壬辰 3번째기사

    ○永安道觀察使李克均馳啓: “永興人金自周言: ‘往見三峯島, 且圖其形。’ 送自周以進。” 命問之, 自周對曰: “於鏡城海濱乘舟, 行四晝三夜, 見島屹然, 而有人三十餘, 列立島口, 有烟氣。 其人衣白, 形貌遠不能詳, 然其大槪乃朝鮮人也, 懼見執, 不能進也。” 賜襦衣二領。


    この文章では”有烟氣”とあるのが重要だと思います。”烟氣(けむり)”があったという以上誰か(またはアシカ)が三峰島で火を起こしたはずですが、アシカが例の小さい手でどうやって火を起こしたのか謎です。そもそもアシカは哺乳類なので火を怖がるはずではないでしょうか。



    申奭鎬氏が史料の歪曲解釈という遺伝子操作をしてウイルスベクターを作った可能性が高いですね。


    申奭鎬氏はもともと竹島が韓国である根拠について何も知らなかったわけで、彼が歪曲解釈したというよりは、必要に迫られて申奭鎬氏が暗中模索でいろんな情報をかきあつめて適当にそれらしい説を作り上げたところに、後世の人物が尾ひれ背ひれをつなぎ合わせたものではないかと私は考えます。
    韓国においては師匠にあたる学者が打ち立てた説はたとえそれが誤りであったとしても、その正しさを証明する義務が弟子筋の学者に負わされるようです。師匠にあたるシンヨンハ氏とその弟子である柳美林氏の関係がまさにそれです。

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  12. Kaneganeseさん
    ありがとうございました。
    翻訳を送ってから忙しくなって、しばらく投稿できませんでした。

    Chaamieyさん、
    チェックよろしくお願いします。急いでやったために間違いもあると思います。
    特に、皆の突っ込み所になっている所は、間違えていないか良く見てください。


    以下、翻訳をしながらの、若干のメモです。

    ◎新羅以来、ではなく、成宗時代から、とする。
    「于山国」は出てくるが、「于山島」は出てこない。
    この時には、まだ「萬機要覧」も「文献備考」も発見されていないようだ。

    ◎独島の所属問題が起こったのは、去年の夏(1947年夏)とする。
    東亜日報7月の記事と符号する。
    日本側の何らかの行動に対する対抗としてはじまった。
    このとき、「当然にわれわれのもの」と言っていた国史館長がこの論文の著者の申奭鎬

    ◎申奭鎬が「発見」した史料
    沈興澤報告(1906)「本郡所属獨島」
     鬱陵島庁に保管されている副本(控)
    宋炳基によればこの副本はすでに失われている。
       宋炳基『『竹島(独島)・欝陵島 歴史研究』(朴炳渉訳)(p9)

    「植物学者、中井猛之進と、史学家、坪井九馬三は、日本の隠岐島の人たちが昔から独島を卵島と称していたとしているが、これは何の根拠もないもの」
    『歴史地理』 第38巻第3号(大正10年9月刊)「鬱陵島」(中井猛之進)、
    『同』    第56巻第1号(昭和5年刊)「竹島について」(坪井九馬三)、

    この「卵島」(ラン島)はランコ島のことであろう。(あるいは、ラントウと呼んだか)

    『青丘學叢』第4号(昭和6年5月刊)「「鬱陵島名称について坪井博士の示教に答える」(田保橋潔)
    『青丘學叢』第3号(昭和6年2月刊)「鬱陵島の発見とその領有」(田保橋潔)

    申奭鎬は京城帝大史学科卒。 田保橋潔は申奭鎬の師匠にあたるか?


    成宗実録(1471~1481)「三峰島」

     申奭鎬の単なる「思い込み」か。客観的根拠はない。しかし、のちによく引用される。


    金麟雨と安龍福の話には、触れる程度
     安龍福について、特記する態度がない。于山島がないことと関係するか。

    八右衛門の話 
     外交誌稿、日本財政経済史料 樋畑雪湖の論文「東海道宿宿村触」

    高宗十八年(1881)の抗議

    光武五年(西紀1901)島長を郡守に昇格

    1900年の間違いである。 勅令41号は出てこない。
    勅令41号の存在は忘れられていた。

    85歳の洪在現の証言
      洪在現の別の記録の証言によれば洪在現がはじめて獨島に行ったのは
    1903年(卯年)である。(『獨島問題概論』1955)

    朝鮮沿岸水路誌(1933) 軍艦対馬の調査(1904)
      軍艦対馬の調査(1904)の原文には当たれない状況だった。
    まだ海軍の資料には手が届かなかったのであろう。

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  13. 申奭鎬 신석호 シン・ソクホ 1904~1981

    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=266391&v=44

    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=162852&v=43

    (写真)
    http://100.nate.com/dicsearch/pimage.html?s=&i=266391001&en=266391&p_i=&a_i=&e=1

    歴史学者 本貫は鵝洲 号は痴菴 慶尚北道出生.
    日本に渡り、正則英語学校に入学
    1921年 帰国して中東学校に入学
    1924年 卒業 京城帝国大学予科入学 中東学校校費生に選抜
    1926年 京城帝国大学法文学部史学科入学
    1929年 京城帝国大学法文学部史学科卒業
    1929年 朝鮮史編集会の嘱託に任命 後に、修史官補・修史官
    1934年 震檀学会発起
    1937年 中東学校教員
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    解放時 41才
    1945年国学大学教授,
    1945年国史館を政府機関として作り、館長になった。(41才)
    1945年李丙燾・金庠基とともに臨時中等国史教員養成所を設置して国史教員を養成
    1946年高麗大学校 文理科大学教授,(42歳)
    1947・8   韓国山岳会の第一次独島調査(8月16日から2週間)参加(43歳)
    申奭鎬「独島所属について」『史海』1(1948年12月)(44歳)
    1949年 文教部編修局長と高等考試委員(第2回から第16回まで)を歴任
    1951年 成均館大学校文理科大学教授,
    1951年 国史館を国史編纂委員会に改編,事務局長として多くの貴重史料を収集して出版するのに努力した。(47歳)
    『国史新講』(共著,1957)(53歳)
    1958年 韓国史学会を作ってその理事長になった (54歳)

    1960 「獨島の来歴」(『思想界』1960年8月)(56歳)
    1962年 高麗大学校で名誉文学博士学位を取得
    『朝鮮史料解説集』 (1964)(60歳)
    申奭鎬博士 華甲紀念 朝鮮時代硏究特輯 (史學硏究 18, 1964)
    1966年 学術院終身会員
    1966年 成均館大学校文科大学長
    1967年 韓国史学研究会を作ってその会長
    1970年 学校法人中東学院理事
    1972年 学校法人成均館大学理事
    1972年 嶺南大学校大学院長(71年説も)
    1973 痴菴 申奭鎬博士 古稀紀念論叢 (螢雪出版社)(69歳)
    1981 没(77歳)

    東学記念事業会副会長・民族文化推進会理事・国防史学会顧問・成均館顧問・韓国魂院会長・国際歴史学会韓国委員会副委員長・世宗大王記念事業会理事などを歴任

    参考文献 
    申奭鎬博士華甲紀念 朝鮮時代研究特輯(史学研究18,1964)
    痴菴申奭鎬博士古稀紀念論叢(蛍雪出版社,1973)

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  14. Kaneganeseさん

    『成宗実録』の引用、
    兵曹啓永興人金自周供云~ は、
    実はこのブログの

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1470-sambongdo-was-another-name-of.html

    からパクったものですが、申奭鎬の原文では「中略」となっているところがありました。
    よって、原文に忠実にするため、この部分を削除しておいたほうがよいと思います。

    それから、会話部分が「かぎかっこ」(‘’、“”)でくくられているところいついて、
    翻訳としてどうしようかと思いつつ中途半端になっていましたが、
    わかりやすいほうをとったほうがいいでしょうから、復活したほうがいいでしょう。

    よってこの引用は、

    兵曹啓: “永興人金自周供云: ‘本道觀察使, 以三峯島尋覓事, 遣自周及宋永老與前日往還金興、金漢京、李吾乙亡等十二人, 給麻尙船五隻入送, 去九月十六日於鏡城地瓮仇未發船(中略)二十五日西距島七八里許, 到泊望見, 則於島北有三石列立, 次小島, 次巖石列立, 次中島, 中島之西又有小島, 皆海水通流。 亦於海島之間, 有如人形別立者三十, 因疑懼不得直到, 畫島形而來。’ 臣等謂往年朴宗元由江原道發船, 遭風不至而還, 今漢京等發船於鏡城瓮仇未, 再由此路出入, 至畫島形而來, 今若更往, 可以尋覓。 請於明年四月風和時, 選有文武才者一人入送。” 從之。


    中略されているのは以下の文字です。

    向島, 同日到宿富寧地靑巖, 十七日到宿會寧地加隣串, 十八日到宿慶源地末應大,

    ところで、申奭鎬はこの部分のすぐあとの解説で、「島東から眺めてきたが」と書いていますが、「西距島七八里許, 到泊望見」とあるだけで、いつ東に回ったのか、よくわかりません。「島西」の誤植かもしれません。細かいところですが。

    しかし、これが欝陵島の「三本立」などの描写とすると、東にまわらないと見えないようにも思います。
    あるいは、北西方向から見たとすると、次に~、次に~、となるのは、「三本立」から東(北西から見て左、左へと)方向に見た描写となりますね。

    ReplyDelete
  15. >ところで、申奭鎬はこの部分のすぐあと
    >の解説で、「島東から眺めてきたが」

    興味深いです。「西距島七八里許」は「西へ島を隔てる=島の東から」という意味です。申奭鎬氏はきちんと訳せていたのかもしれません。
    しかし、半月城氏は申氏の論文を引用しながらも、「西からみた」と訳しております。半月城氏は西からみたことにしないと、鬱陵島周辺の島々であることを否定できないと考えて、このような誤訳を意図的にしたのやもしれませんね。
    http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/?page_id=282

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  16. yabutarouさん

    ”申奭鎬氏はもともと竹島が韓国である根拠について何も知らなかったわけで、”

    申奭鎬氏だけでなく昔も今も誰も知らないんでしょう。だって60年にわたって毎年10億円の予算を使って探し続けて一つも確実な領有の証拠が見つからず、さすがの内藤先生でさえ韓国が領有する根拠はないと明言されているわけですから。そもそも存在しないと考えるのが妥当ではないでしょうか。

    ”彼が歪曲解釈したというよりは、必要に迫られて申奭鎬氏が暗中模索でいろんな情報をかきあつめて適当にそれらしい説を作り上げたところに、”

    情報をかき集める際に ”成宗 7年10月 27日 条” の記述を取り上げ、”同年10月 22日 条”を読み落とした、という言い訳は決して受け入れられません。もし単なる杜撰だったとしたら、一般人ならまだしも学者としては完全に失格でしょう。非難に値すべきです。だって、5日”前”なのですから。明らかに自説に不都合なので故意に取り上げなかったのは明らかです。しかも1981年に亡くなるまで訂正された形跡はありません。その行為を私は歪曲であると判断し、”遺伝子操作”と表現しました。彼がもし学者としての良心・資格があるならば、三峰島の件は少なくとも取り上げるべきではなかったのです。”たぶん””~のようだ”と婉曲的に言ったとしても言い訳にさえなりません。彼の歪曲に基づいた説を韓国政府が無批判に採用して公式文書に載せて反論の根拠にしてしまった。最初の遺伝子設計に自己矛盾があったお陰で後世の韓国人たちは何度も手術を繰り返す(”後世の人物が尾ひれ背ひれをつなぎ合わせた”)事を強いられ、三峰島説をすでに植物人間状態であろうとも、栄養チューブにつないで巨額の国費=税金を無駄遣いし続け(所詮他人事ですけど。)、安楽死させることさえ出来なくなってしまったのです。

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  17. ”鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、独島は清明な日、鬱陵島から見ること ができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し、あるいはコンブ(訳注:ワカメとの混同か)やアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したといい、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したという。”

    ”鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し”の”きっと”の部分が重要です。これは洪在現は推測で述べただけであって、洪在現本人が発見したとは解釈できません。本人が発見したのなら”きっと”という表現は使うはずがありません。
    しかしながら『史的検証・竹島・独島』の77pの内藤正中氏の文章には以下のようにあり、あたかも洪在現本人が竹島(独島)を発見したかのごとき表現になっています。

    引用開始

    ”江原道の江陵から移住した洪在現は、東方にある独島を発見して出漁した経験を語った談話を残している。

    鬱陵島開拓当時、鬱陵島人はこの島を発見し、あるいはコンブ、ミミガイをとるために、あるいはザリガニをとるために、多数が独島に出漁しており、洪氏自身も十数回往来したと述べている。

    これは、ソウル大学校の申奭鎬教授が第一次学術調査当時八十五歳であった洪在現氏に直接会って話を聞いたことである(『独島』大韓公論社、一九六五年)。開拓令による国の支援を受けて島に入植した住民のなかには、はるか東方に位置する独島を目指して漕ぎ出し、漁業に従事していた者もいた。

    引用終わり

    引用中”ミミガイ”とあるのはアワビのことで、”ザリガニ”とあるのは可支=アシカの誤訳と思われます。
    ”鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し”の”きっと”の部分がなくなっています。

    開拓令で募集したのは農業に従事する人間だけのはずで、日本側の記録によれば鬱陵島開拓民が漁業に従事するようになったのは1900年以降日本人に教わって始めたもののはずです。
    matsuさんの文章に”洪在現の別の記録の証言によれば洪在現がはじめて獨島に行ったのは1903年(卯年)である。(『獨島問題概論』1955)”とあるのもこれを裏付けています。

    鬱陵島開拓が始まる前から全羅道民が鬱陵島で漁業に従事していたのは事実です。
    しかし宋炳基氏の主張によれば全羅道民が鬱陵島を往来している間に独島を目撃し、石の島という意味でトクソムと名付け、その存在が江原道・慶尚道民主体の鬱陵島開拓民に伝わって彼らの方言によってトルソムと呼ばれるようになりそれが勅令41号に石島と記載されたそうですが、申奭鎬の記述した洪在現の証言からはこれを裏付けることができません。
    竹島(独島)がトクソムと呼ばれていたのは歴史的事実ですが、これは”ソム”が島の古い表現であることを意味しているにすぎません。トクソムの”トク”が石と言う意味であることは文献によって裏付けられているわけではありません。ただそのように解釈すると韓国にとって都合がいいので韓国の学者がそのように主張しているだけです。
    宋炳基氏の『竹島(独島)欝陵島歴史研究』の第六章1991年に書かれた論文「欝陵島の地方官制編入と石島」の159pには、

    ”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」或いは「トルソム」と呼んでいる。”

    という文章があります。実は宋炳基氏のこの論文以前に書かれた竹島(独島)関連論文にすでに、

    ”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」と呼んでいる。”

    と言う表現が使われていたように記憶しています。ということは宋炳基氏はどこかから「トクソム」だけでなく「トルソム」とも呼んでいるという情報を入手して元の文章に書き足したことになります。
    しかしながらどこからこの「トルソム」情報を入手したのか説明されていません。宋炳基氏には論文を書く際に注釈で引用した文献をかたっぱしから挙げていく習性があるにもかかわらずです。

    この論文の141pに、

    ”故方鍾鉉教授の欝陵島紀行文「独島の一日」は石島と独島との関係を明らかにする上で重要な示唆が得られた。”

    とあり、163pに「独島の一日」からの引用として、

    ”最後に、この島(独島)の名前は、あるいは「石島」の意から来たのではないかと思われる。これは「トクソム」あるいは「トルソム」の二通りに呼べるが、ここで問題はこの独島の外形が全部石でできているように見えるということと、また「トル」をどこの方言で「トク」とするのかを解決すれば、この石島という名称がほとんど近い解釈になるのである。”

    とあります。注目すべきは方鍾鉉氏の文章 ”これは「トクソム」あるいは「トルソム」の二通りに呼べるが、”
    と宋炳基氏の文章 ”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」或いは「トルソム」と呼んでいる。”の表現上の類似です。

    方鍾鉉氏の文章は自らの国語学の知識を元に「石島」が「トクソム」あるいは「トルソム」の二通りに呼べることを指摘しただけにすぎず、決して鬱陵島の住民が独島を「トルソム」と呼んでいるのを聞いたわけではないのは明らかですが、あるいはひょっとすると宋炳基氏はそのように勘違いしてしまった可能性があるのではないかと私は推測します。
    言い換えると、宋炳基氏は旧来の文章、”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」と呼んでいる。”と方鍾鉉氏の文章”これは「トクソム」あるいは「トルソム」の二通りに呼べる”の二文をつなげて、

    ”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」或いは「トルソム」と呼んでいる。”

    という文章を作ったのであって、実は”鬱陵島の住民が独島を「トルソム」と呼んでいる”という情報はもともと存在していなかったのではないか、ということです。
    もちろんこれは私の憶測にすぎないのであって、現状では拙速に断定すべきではないと考えます。
    宋炳基先生はいまだご健在でいらっしゃるのでご本人に直接事の真相を伺ってみるのがよいと思います。

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  18. matsuさん

    申奭鎬の経歴の紹介、有難うございます。また、原文に忠実になるよう、修正することにします。ただし、どこが中略されたのかを明確にしたいと思います。

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  19. oppさん

    ”「西距島七八里許」は「西へ島を隔てる=島の東から」という意味です。申奭鎬氏はきちんと訳せていたのかもしれません。
    しかし、半月城氏は申氏の論文を引用しながらも、「西からみた」と訳しております。半月城氏は西からみたことにしないと、鬱陵島周辺の島々であることを否定できないと考えて、このような誤訳を意図的にしたのやもしれませんね。”

    有難うございます。この指摘は重要だと思います。matsuさんも”金自周等は、三峰島に上陸できずに西から島を7~8里(約3キロ)離れて島東から眺めてきたが、”と訳すときに悩まれたようですので、翻訳のクロスチェックを待って総合的に判断したいと思います。

    ちなみに、申奭鎬「獨島の来歴」(1960)の氏による該当箇所の説明部分です。

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  20. ちなみに、Oppさんの画像の想定箇所
    http://takeshima.cafe.coocan.jp/wp/wp-content/uploads/2009/12/sanpoto.jpg

    には、双項礁とよばれる2個の水中岩礁があります。



    玄圃や天府沖から東を見ると、
    見える”三本”は、竹岩、牛角岩、双布岩になりますが、

    三仙岩近くで見る三本は、牛角岩と双布岩の二つの岩、計三つになります。

    また、竹嶼から、観音島を挟んで三仙岩をみると、双布岩の二つの岩しか見ることができません。

    見る場所によって、三本が何であるか変わってきます。

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  21. Oppさん

    “「西距島七八里許」は「西へ島を隔てる=島の東から」という意味です。”

    ありがとうございます。
    完全に誤解していました。こういう間違いが他にもありうると思います。
    皆様のチェックをお願いして、正確に読み取りたいものだと思います。


    Kaneganeseさん

    “ちなみに、申奭鎬「獨島の来歴」(1960)の氏による該当箇所の説明部分です。”

    とありますが、申奭鎬「獨島の来歴」(1960)の画像、ぜんぶお持ちでしょうか?
    この1960年版「獨島の来歴」(雑誌『思想界』収集)は、1948年版の発展型の論文ですが、こちらも全訳してみたいと思います。
    この1960年版が、のちに1965年の『獨島』大韓公論社(獨島関係のいろいろな論文を集めた論文集)にそのまま収録されて、韓国で一般化したものと思います。

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  22. Kaneganeseさん、matsuさん
    「(方角)距(場所)(距離)」は成宗にも他の用例があります。半島の南部の海岸のほうなんですけど。ただ、安骨浦、薺浦、熊川、金丹串鎭の位置関係がわかりませんでした。
    http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mState=2&mTree=0&clsName=&searchType=a&query_ime=%E8%A5%BF%E8%B7%9D%E8%96%BA%E6%B5%A6%E6%B0%B4%E8%B7%AF&keyword=%E8%A5%BF%E8%B7%9D%E8%96%BA%E6%B5%A6%E6%B0%B4%E8%B7%AF
    成宗 187卷, 17年(1486 丙午 / 명 성화(成化) 22年) 1月 16日(癸亥) 2번째기사
    安骨浦, 西距薺浦水路七八里, 北距熊川水路五里、陸路二十餘里, 東距金丹串鎭二十餘里, 非防禦緊要之處。
    1. 안골포(安骨浦)는 서쪽으로 제포(薺浦)까지 수로(水路)로 7, 8리이고, 북쪽으로 웅천(熊川)까지 수로로 5리이고, 육로(陸路)로 20여 리이며, 동쪽으로 금단곶이진[金丹串鎭]까지 20여 리인데

    GTOMRさん
    奇石がある海底の様子を示したポンチ絵みたいなのを見たこと有ります。このあたりはスキューバーかなんかのメッカなんですかね。

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  23. matsuさん

    ”申奭鎬「獨島の来歴」(1960)の画像、ぜんぶお持ちでしょうか?”

    これは確かmatsuさんからお借りした資料の中にあったような記憶があるのですが...私の年代などの勘違いかもしれませんので、至急pdfファイルを送ります。もし、私の提示した画像が申奭鎬「獨島の来歴」(1960)でない場合は、お知らせ頂けますでしょうか?

    どちらにせよ、申奭鎬「獨島の来歴」(1960)の訳はこちらからも是非お願いしたいです。私の持っているものがもし違う論文だった場合は何とか手に入れたいと思います。

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  24. This comment has been removed by the author.

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  25. もう一つ別の可能性を考えてみました。

    西距島七八里許到泊 望見 則
    於島北有
    ①三石列立    三仙岩(牛角岩+双子岩)
    ②次小島       竹岩
    ③『次巌石列立』    錐山+老人峯 もしくは 孔岩脇のの二つの岩
    ④『次中島』       孔岩
    ⑤ 『中島之西又有小島』 香木亭沖の岩・
    皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇

    *この場合の問題事項:
    1.顕著な島で有る観音島と竹嶼を無視できるのか?
    2.竹岩と孔岩、香木亭沖の岩、が”島”と見ることができるのか? が問題だと思います。

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  26. Kaneganeseさん

    「獨島の来歴」(1960 『思想界』)間違いないと思います。

    画像が全部あることがわかったので、皆さんと確認しながら作業が出来ると思います。
    翻訳に取り掛かります。やや分量がおおいので、すこし時間をください。

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  27. この金自周の見た三峯島=独島の光景説は、申奭鎬の単なる「思い込み」としか思えませんが、これが学者の権威というやつで、誰も批判できなかったのかも知れませんね。
    「人形」はアシカだ、という言説をずいぶん見たように思います。
    国史館はのちの国史編纂委員会ですから、そのトップの説を誰も批判できなかったのでしょう。

    Kaneganeseさんご紹介の、申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960のこの部分の
    翻訳です。

    http://farm3.static.flickr.com/2607/4181687686_64a22e64e8_o.jpg

    漢文引用以降 7行目から

    この記録によれば、金自周等は、三峯島に上陸できずに、三峯島の東側7~8里の海上から、西側にむかって島を眺め見てきたことになるが、彼が言う三峯島の貌形は、今の独島と少しも違いがないものである。
    すなわち金自周が言う島の北側に三石が列立していたということは、西島の北方に高くそびえる3つの岩島を言うものであり、次の小島と岩石は東島と西島の間に無数に散在する岩を言ったものであり、中島は西島を指したものであり、中島の西側の小島は東島の東南方に高くそびえる岩の島を言ったものになり、大概、いまの独島をそのまま描いたものであり、島の間を海水が流通するということも、独島の条件に符号するものである。そして、島の間に見える人形のようなものは、たぶん、カジェ(海驢)を人形と誤認したのであろう。

    まったく1948年の時の説を変えていません。

    1948年から1960年まで12年、この間に崔南善のソウル新聞連載1953あり、黄相基の東亜日報連載1957(Caamieyさん翻訳中)あり、また、1953年と1954年の日韓政府間のやりとりは史料合戦でもありますから、ずいぶん史料が増えています。
    1960年版、翻訳にちょっと時間がかかりそうです。

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  28. yabutarouさん

    ”鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し、あるいはコンブ(訳注:ワカメとの混同か)やアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したといい、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したという。”(申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号(1948)")

    ”江原道の江陵から移住した洪在現は、東方にある独島を発見して出漁した経験を語った談話を残している。

    鬱陵島開拓当時、鬱陵島人はこの島を発見し、あるいはコンブ、ミミガイをとるために、あるいはザリガニをとるために、多数が独島に出漁しており、洪氏自身も十数回往来したと述べている。

    これは、ソウル大学校の申奭鎬教授が第一次学術調査当時八十五歳であった洪在現氏に直接会って話を聞いたことである(『独島』大韓公論社、一九六五年)。開拓令による国の支援を受けて島に入植した住民のなかには、はるか東方に位置する独島を目指して漕ぎ出し、漁業に従事していた者もいた。”(内藤正中『史的検証・竹島・独島』(2007)

    ””鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し”の”きっと”の部分がなくなっています。”(yabutarou)

    この指摘は重要です。申奭鎬氏の文章には”きっと””たぶん””~だろう”という曖昧な推測の言葉が散見されますが、後続の研究者たちがその曖昧な部分の事実関係を検証することなく、事実として取り上げてしまった様子が伺えます。

    『独島』(1965)大韓公論社を確認する必要があります。

    "注目すべきは方鍾鉉氏の文章 ”これは「トクソム」あるいは「トルソム」の二通りに呼べるが、”
    と宋炳基氏の文章 ”現在も欝陵島住民たちは独島を「トクソム」或いは「トルソム」と呼んでいる。”の表現上の類似です。""(yabutarou)

    この件に関しても更なる文献批判が必要なようです。

    有難うございました。

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  29. matsuさん

    有難うございます。

    ”金自周等は、三峯島に上陸できずに、三峯島の東側7~8里の海上から、西側にむかって島を眺め見てきたことになるが、彼が言う三峯島の貌形は、今の独島と少しも違いがないものである。”

    申奭鎬氏は「東から(島を西に隔てて)眺めた」と正しく漢文を解釈しているようですね。それが分かっただけでも気分が晴れる思いです。

    翻訳の件、師走の忙しい中本当に有難うございます。よろしくお願いします。

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  30. matsu さん

    大変お忙しいところ申し訳ありませんがお尋ねしたいことがあります。

    85歳の洪在現の証言
      洪在現の別の記録の証言によれば洪在現がはじめて獨島に行ったのは1903年(卯年)である。(『獨島問題概論』1955)

    matsu さんは『獨島問題概論』を入手されているようですが、この中で1952年12月4日に駐韓アメリカ大使から韓国政府に送られてきた文書についてどのように書かれているか教えてください。

    『史的検証・竹島・独島』の214pに”同年12月4日、独島を爆撃演習地として使用しないという内容の回答文書が駐韓アメリカ大使より送られてきたことがある”とあり出典が外務部『獨島問題概論』47pとあります。

    アメリカが独島を爆撃演習地として使用しないという回答した”ことを韓国政府はアメリカが独島を韓国領と認めた何よりの証拠であると主張しています。内藤正中氏の『竹島=独島問題入門』にもそのように書かれています。
    しかしサン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い (塚本孝) の10pを見ると12月4日の文書には次のような文章があったことがわかります。

    ”大使館は、外務部の通牒にある「独島」は・・・大韓民国の領土の一部である」との言明に注目します。合衆国政府のこの島の地位に対する理解は、ワシントンの韓国大使にあてたディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日付通牒において述べられています。”

    つまりこの12月4日の文書にはラスク書簡を持ち出して竹島は韓国領ではなく日本領であることを”回答した”部分があるわけですが果たしてこの部分は『獨島問題概論』に載っているのでしょうか?『獨島問題概論』には英文附録があるようですがどうでしょうか。

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  31. この申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号"より先に発行された朝鮮山岳会会長宋錫夏氏が1948年1月にまとめた報告書があります。この文書については今年の2月22日に報道されています。

    「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料(山陰中央新報 平成21年2月22日付) cache


    実は先日研究会の関係者の方からこの文書についての情報を頂いておりまして、読み返したところ、三峰島のことが既に書かれていました。(于山島・石島のことは当然なし。報道にあるように、むしろ于山島を鬱陵島としている。)

    という訳で、ひょっとして申奭鎬氏のオリジナル説ではない可能性もあります。

    こちらの方も、準備出来次第、投稿したいと思っています。

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  32. ”洪鐘仁の回顧によれば鬱陵島調査を提議したのは宋錫夏であり、特に宋錫夏は「何の値打ちもない無人島の石島」である独島に対して日本人たちがいつかは自分たちの領土であると主張するかもしれないので早く現地調査に着手し独島の現存状態を韓国国民に広く知らしめ独島が韓国の領土であると言う確固たる信念をもつようにしなければならないと提議したと言う。26さらに、宋錫夏は「独島が我々の領土であることを明らかにするために独島にまで調査団を派遣するのだという事実は事前に発表せず隠密に推進するのがよい」という意見を提示した。洪鐘仁の回顧は21年後のものであるが事実と符合する。1947年独島調査後寄稿した文章において洪鐘仁は独島調査は実行直前まで「外部発表を終始保留していたが、これは我々が当初から計画していた奇襲の行程であった」と述べていた。即ち調査隊は出発当時から独島調査を目的としていたのであり、対外的な発表のみを遅らせただけで、このような事情で調査隊の独島調査計画は彼らが鬱陵島に戻ったのちになって公表された。1947年総80余名の専門家が施行したこの独島調査は以後、韓国の独島領有権確認及び調査活動において重要な足固めとなった。”(鄭秉峻「 解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51) 」(2008) )

    この文章を読む限り、日本人が領有している竹島を”秘密裏に””強奪しようと”計画したのは、宋錫夏氏であったわけで、三峰島説を思いついたのは彼かもしれません。後に韓国が日本の竹島編入を”秘密裏に””強奪しようと”計画したとお門違いの非難を繰り返すのは、自分たちがそうした過去があるためなのかもしれません。

    それにしても、宋錫夏が三峰島の提唱者だったとすれば、”きっと””たぶん””~だろう”という申奭鎬氏の曖昧な言葉の訳が分かるような記がします。だからといって歪曲の誹りは免れないと思いますが。洪鐘仁の回顧なるものもいつか確認したいです。

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  33. Yabutarou さん

    結論から言うと、『獨島問題概論』の付録にのっている英文に、該当の文章はありません。

    それが、この文集の不備によるものか、あるいは故意に削除したものを載せたのか、すなわちアメリカ側の原本をさぐればこの文章があるのか、それともはじめからそんな文章は無かったのか、よくわかりません。

    塚本さん紹介の「資料3」にある「合衆国の1952年12月4日付け通牒」(10p)は、この英文付録6(Annex6、187号覚書)と同じものなのかどうか。
    同じもののようでもありますが、よくわかりません。

    内容は、1952年9月15日に米軍機が獨島で爆弾投下演習をしたことについて、
    11月10日付で韓国側からアメリカに抗議したことに対する、アメリカ大使館からの覚書であり、「第187号」というタイトルがついています。

    『獨島問題概論』47pの該当部分の記述は以下の通り。
    こうして1952年11月10日付で、外務部からこのような不祥事が再発しないように駐韓アメリカ大使館に抗議を提出した。(付録5参照)
    これに対し、1952年12月4日付の第187号覚書でアメリカ大使館から、そのような事実の確認調査は時日の経過で困難ではあるが、ともかく今後は同島を爆撃演習地として使用することはないだろうという趣旨を伝達してきており(付録6参照)、1953年1月20日付の駐韓国連軍連絡基地司令部からは、爆撃演習地としてリアンクール岩(獨島)を使用することを即時中止するのに必要な措置について、すべての管下部隊に指令したと報告してきた。(付録7参照)

    該当部分コピー送付可能です。Kaneganeseさん仲介していただけますか?

    『獨島問題概論』(1955)は、『韓日の和解』を書いた、1965年日韓条約締結時の駐日大使であった金東祚が、当時、政務局長として序文を書いており、彼の指示でまとめられた資料集のようです。(『韓日の和解』サイマル出版会1993刊 99p)

    一応、「マル秘」資料だったようですが、いつ「マル秘」がとけたのかはわかりません。

    幕張のアジ研の図書館にあり、著作権は切れているので全文コピー可能です。史料が痛んでいるのでスタッフコピーになり、やや費用がかかりますが。
    ガリ版ずりの資料集のような冊子です。

    http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA69393902

    獨島問題槪論 / 大韓民國外務部政務局 독도 문제 개론. -- (BA69393902)
    서울 : 大韓民國外務部政務局, 1955
    219, 129p. -- (外交問題叢書 ; 第11號)
    注記: ***記述は遡及データによる
    著者標目: 大韓民國外務部政務局대한민국 외무부 정무국

    所蔵図書館 1
    アジ研 遡韓 Ko||327||Ta10 15024102

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  34. 先のコメントでこの論文が源流と言いましたが、最初の1滴はもっと遡れるかもしれません。1947年7月23日付けの東亜日報に申奭鎬のコメントが掲載されていますが、少なくともそこまで遡れるわけです。さらに遡れるのか否か、申奭鎬はいかにして「独島」を知ったのか、そこのところが分かると良いのですが。

    韓国政府は「独島」をいつ知ったのでしょう。戦前においては、安龍福が鬱陵島の守護者として顕彰されていたり、独立運動家の文章に「独島」が出てきません。して見ると戦後のことと思われます。それに申奭鎬はどのようにかかわっているのでしょうか。

    「4 三峰島と独島」で「江原道と咸鏡道の人たちが軍役を免れ、税金を出さないようにするために、多くこの島に入るとして、国家ではこの島に人が往来することは厳禁し、数回にわたって捜討軍を組織し三峰島を捜索した。」としていますね。この三峰島を独島だとしていますが、これは怪しいですね。記述内容からすると、これまた鬱陵島のことなのではないでしょうか。

    『成宗実録』の描写がどこなのかは特定できないように思います。水掛け論になりかねない曖昧な記述であって証拠能力はないように思われるのです。それはそれで構わないと私は思っています。韓国側の主張を否定するには『成宗実録』の記述が特定の地域を描写したものと言えないことが示せれば、それで十分だからです。

    また仮に三峰島が竹島であっても、朝鮮が統治したわけではありません。せいぜい「発見」したというレベルの話ですので、韓国が竹島を占拠している根拠とはならないのではないでしょうか。『成宗実録』の記述を根拠として韓国に原始権限が認められるようなことはないと思われます。この点、国際法に明るい方のコメントをいただければと思います。

    2009.12.15

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  35. matsuさん
    Yabutarouさんの指摘は私も気がつきませんでした。内藤正中氏も「竹島=独島問題入門」で、当該韓国側資料に基づき外務省のパンフレットの「在日米軍の爆撃訓練施設として指定され日本の領土として扱われた」に反論してますね。この反論の中で「1953年3月19日の韓米合同委員会で演習地域の解除を決定した」とありますが、この文書も添付されてますでしょうか。できましたら、私にも資料をいただけないでしょうか。
    あと、申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960の訳を私のサイトでも使わせて下さい。(事後承諾申し訳ありません)

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  36. Oppさん 

    翻訳、どうぞお使いください。
    皆さんから訂正のチェックが入った所は、適宜直していきたいと思います。

    さしあたり、
    「西距島七八里許, 到泊望見」
    について申奭鎬が解説している部分の訳を

    「西から島を7~8里(約3キロ)離れて島東から眺めてきたが、」
    から
    「西へ島を7~8里(約3キロ)隔てて、島の東から眺めてきたが、」
    と訂正します。

    申奭鎬の原文の
    西으로부티 섬을七八里(約三키로) 밖에두고
    の 으로부티は、「へ」よりも「から」のほうが良いようにも思いますが、
    そうしないと、「島の東から」と解釈できていた申奭鎬の本意はわからないですよね。



    あっ
    申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960
    とありますが、こちらはまだ翻訳できていません。分量が多くて大変です。(汗)
    申奭鎬「独島所属について」『史海』1948のことですよね…。



    それから、『獨島問題概説』のほうですが、これだけでは文書の特定ができず、添付されているのかどうかよくわかりません。資料は、Kaneganeseさん経由でもらっていただければと思います。(添付付録の英文は全部で36本あります。全部を読み切って探すのは大変です。すみません。)

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  37. yabutarouさん
    oppさん

    資料を送りましたので、ご確認下さい。

    matsuさん

    資料を有難うございました。
    また、訳を少し変えておきました。多少色が違うので、直ぐ分かると思います。訳注として原文を付けておきました。

    2009.12.15 (chaamieyさんに倣って日付を入れてみることにします。)

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  38. "1933年4月、ノルウェーはデンマークの東グリーンランド島の一部を無主島と主張してこれに対する先占を仲裁裁判所に主張したことがあったが、この主張は認証されず、デンマークの勝訴に帰した判例がある。"


    chaamieyさん、翻訳ありがとうございました。

    東部グリーンランド事件においてデンマークが勝訴したのは、ノルウェーのイーレン外務大臣のデンマーク公使との会談での発言が禁反言の法理に触れたためにノルウェーの主張が無効化されたのであって、先占の法理自体が否定されたわけではありません。それをさも先占が否定されたかの如く述べるとは恣意的な解釈をしていますね。もっといえば悪意すら感じさせる物言いです。この手の不都合な事実の隠蔽は韓国側の論文ではよくあることです。代表的なのは、SCAPIN677の第6項を隠し、第3項のみを示して日本から竹島の統治権が移動したとする主張ですけれども、これも同類ですね。

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  39. 「洪在現陳述書」

    以下は、『獨島問題概論』(大韓民国外務部政務局1955)の35p~38pに収録されている「洪在現陳述書」の翻訳です。1947年8月20日の署名捺印があり、申奭鎬国史館長(当時)をはじめとする朝鮮山岳会の学術調査の時に書かれたものです。

    申奭鎬「独島所属について」『史海』1948に、

    鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したといい、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したという。

    と書かれる根拠になったもので、以後、申奭鎬氏は何回か洪在現氏の証言を引用して論文を書いています。しかし、洪在現氏が独島に行ったのは「今から45年前(卯年)から」と書かれており、はじめて独島に行ったのが19世紀の開拓直後のことではなく、1903年(卯年)のことであることがわかります。

    なお、洪在現氏は、洪淳七・独島義勇守備隊長の祖父にあたる人です。


    『陳述書

    我が家においで下さり、欝陵島の属島に関する認識をお尋ねになったことに対し、左のように陳述します。

    1.私は、今から60年前、江原道の江陵から移来し、今日まで本島に居住している洪在現です。年齢は85歳です。

    1.獨島が欝陵島の属島であることは、本島開拓当時から島民が周知する事実です。

    1.私も当時、金量潤と裴秀倹同志たちを伴い、今から45年前(卯年)から4~5回(あるいは45回)ほど、甘藿採取、猟虎捕獲のため往復した例があります。

    1.最後に行く時には、日本人の本船を借貸し、船主である村上という人と、大上という船員を雇傭し、カチ(あしか)捕獲をした例もあります。

    1.獨島は、天気清明な日であれば、本島から確かに眺望することができ、また、本島の東海から漂流する漁船は、昔から獨島に漂着することがしばしばあった関係から、獨島に対する島民の関心は、深く切実なものです。

    1.光武十年に、日本の隠岐島司一行の十余人が本島に渡来し、獨島を日本の所有だと無理に主張した事実は、私も知っていることです。

    1.当時、郡守の沈興澤氏は、隠岐島司一行の無理な主張に対し、反駁・抗議すると同時に、不当な日本人の威脅を排除するため、当時の郷長、田在恒ほか、多数の知事人たちと商議し、上府に報告したということは、私が当時聞いた事実です。

    1.私は、当時、田郷長在恒氏と交誼があり、また、しばしば衙門に出入りしていた関係で、本島の重要な案件であれば、ことごとく皆知っていました。

    1.日本人の隠岐島司一行が獨島を日本所有と主張したという伝聞を聞いた当時、島民、特に漁業者は、大いに憤慨していました。

    1.当時、郡守が上府に報告はしましたが、日本勢力がわが国を威圧していた当時の大勢のため、いかなる朗報も聞くことができずに合併になってしまったことは痛憤のことでした。

    西紀1947年8月20日 欝陵島南面沙洞170番地
    洪在現 印

    南朝鮮過渡政府 外務處  
    日本課長 秋仁奉 貴下』


    Kaneganeseさん、もしよければこの文書の画像をあげていただければと思います。

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  40. matsuさん

    翻訳、有難うございます。これはこれは、大変面白い資料ですね。

    今帰宅しましたので、すぐに画像を準備します。

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  41. みなさま

    いま翻訳と原文を見比べながら、重大な点に気付きました。

    まさに、いつ欝陵島の人たちが獨島を発見したか、という非常に重要な部分に関わるところですが、そのキイワードとして「きっと」と翻訳していたのはと「고ㅅ」(ㅅは下に入る)いう言葉ですが、じつはこの言葉は辞書にはなく、こうして活字としても出てこないのですが、これは「꼭」であろうとして「きっと」と訳しました。
    ところが、今考えるに、これは「곧」すなわち「ただちに」であろうと思います。

    よって申奭鎬は推定しているわけではありません。欝陵島の人たちは、開拓以後「すぐに、ただちに、早速、たちまち」獨島を発見したと言っている、と述べているわけです。

    Yabutarouさんは、まさにこの翻訳をもとに、上記コメントの論を組み立てておられるわけで、誠に申し訳ないことをしました。

    上記部分は、

    鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言うのを「聞けば」、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちは「すぐに」この島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したと「話しており」、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したというが、この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。

    となります。

    そして、まさしく、果たして欝陵島の人たちが、かれらの「証言」の通りに、開拓直後、「すぐに、ただちに」獨島を発見したのかどうか、この歴史的事実の究明が肝心になるわけです。

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  42. matsuさん

    ”6 鬱陵島開拓と独島”の

    鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言によれば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはきっとこの島を発見し、あるいはコンブ(訳注:ワカメとの混同か)やアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したといい、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したという。この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。

    以下に差し替えます。

    鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言うのを「聞けば」、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちは「すぐに」この島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したと「話しており」、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したというが、この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。

    11:41 AM
    に変更した箇所は

    4 三峰島と独島の
    「西から島を7~8里(約3キロ)離れて島東から眺めてきたが、」

    から

    「西へ島を7~8里(約3キロ)隔てて、島の東から眺めてきたが、」

    です。

    2009.12.15

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  43. 「7 日本の独島強奪」において「同年2月2日づけで思いのまま自国領土に編入し」とあるのですが、2月22日ですよね.タイプミスかと思いますが確認していただけますか?

    2009.12.15

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  44. Makotoさん

    有難うございます。鋭いですね。私は読み飛ばしていました。今原文を確認しましたが、”2月2日附”になっていますね。申奭鎬氏の勘違いでしょう。面白いので、matsuさんさえ良ければ、訳注として記録してておきましょう。

    2009.12.15

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  45. このスレ、議論の展開が早くて付いていけません~。


    matsuさん、
     「곳」はやっかいですが、文脈からすると、修正なさった翻訳のほうが合いますね。たぶん現代の「곧」の意味で使われていたのでしょう。

     ただ、「곧」には「すぐに」の意味のほかに「やがて」、「間もなく」の意味もあるので、この文章の状況からすれば、「すぐに」というよりは「ほどなく」くらいの訳語が合うのではないでしょうかね。



    Makotoさん、
     この記事の判例の紹介は判例の紹介になっていませんね。二つの事件の事実関係に共通するものがあってこそ判例が当てはまると言えるわけですが、この文では事実関係の簡単な紹介さえもなく、単に「先占の主張が否定された例がある」と言っているだけですからねえ、恐れ入ってしまいます。


     

    2009.12.15

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  46. chaamieyさん

    上の方で示した1948年1月の宋錫夏氏の報告、yahooの掲示板でyabutarouさんが原文を紹介し、chaamieyさんが訳されていることに気がつきました。あとで投稿するときに、これをお借りしてよろしいでしょうか?

    ”古色蒼然한 歷史的遺跡 鬱陵島를 찾어서”

    chaamiey氏の訳(2009/ 2/25)

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  47.  おやおや、そういう記事を翻訳していたんですね。すっかり忘れていた。どうぞお使いください。




    2009.12.15

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  48. "この記事の判例の紹介は判例の紹介になっていませんね。"

    chaamieyさん、おっしゃるとおりですね。

    この記事に限らず、論破されているのに平然と根拠として出し続けてくることに唖然とします。SCAPIN677にしろ同1033にしろ根拠にならないんだけれどもなぁ。SCAP/GHQの上部組織である極東委員会には領域主権を確定させる権限はありません。となれば、当然SCAP/GHQにも領域主権を確定させる権限は与えられていないわけで、SCAPIN677の第3項が意味するのは竹島の返還でなく、施政権の停止にすぎないのです。しかも第6項で「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と明記されているにもかかわらず、いまなお「国際法上も韓国領として認められたのだ」と言い張っているのは、どういう精神構造をしているのでしょうね。


    さらに不思議なのは、これほど明白に韓国の主張が出鱈目なものなのに、それを妥当なものとして「Dokdo」と単独表記した教科書を発行した出版社があることです。

    フランスの教科書に‘独島’と初めて表記
    http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=107222&servcode=A00

    【グローバルアイ】ヨーロッパから見た日本
    http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=122765&servcode=100&sectcode=100

    どんな史料を送って丸め込んだのやら。

    2009.12.16

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  49. 申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960
    の翻訳をしていて、こちらでは同じ文脈で「곳」ではなく「곧」を使っていることを確認しました。

    「独島所属について」『史海』1948
    鬱陵島開拓当初に江陵から本島に移住した85歳の古老、洪在現氏や、崔興昱氏、崔鶴穆氏の言うのを聞けば、独島は清明な日、鬱陵島から見ることができる島なので、鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちはすぐに(곳)この島を発見し、あるいはコンブやアワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したと話しており、洪在現氏自身も十回余りこの島へ往来したというが、この事実は日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』にも明記されている。

    「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960
    鬱陵島開拓当時に江陵から移住したという鬱陵島の古老、洪在現氏の言によれば(洪氏は第一次学術調査当時、筆者が直接お会いした方であるが、当時85歳の老人であった)鬱陵島開拓当時、鬱陵島の人は、すぐに(곧)この島を発見し、あるいはコンブ、アワビをとるために、あるいはアシカをとるために、何度も独島に出漁したということで、洪氏自身も十数回来往したと話していた。独島は日気が清明な日、鬱陵島から眺めることが出来る島であるから、鬱陵島開拓当時の人がこの島を発見しないことはありえず、彼らはたびたびこの島を利用したのは当然のことであり、この事実は日本海軍省で発行した『朝鮮沿岸水路誌』(第3編 鬱陵島及竹島)にも次のように明白に記録されている。
    「(前略)島上には家屋を建築できる場所は極めて少なく、明治三十七年十一月に軍艦対馬がこの島を実測するとき、東方島に漁夫用の菰草小屋があったが、風浪のためにひどく破壊してしまったという。毎年、夏になると海驢を捕まえるために鬱陵島からこの島へ来る者が数十名の多数に達する時がある。彼らは島上に小屋を建て、毎回約十日間仮居するという。」

    「すぐに」にしろ「ほどなく」にしろ、「鬱陵島に渡って行った開拓者たちは、開拓直後に独島を発見した」、と洪在現が証言している、ということだと思います。

    内藤正中氏の引用する『独島』(大韓公論社 1965年)に収録されている申奭鎬の論文は、この1960年のものの再掲ですから、ここで申奭鎬が書いていることは申奭鎬が洪在現から直接聞いた証言だ、という内藤氏の記述は、むしろ正しいことになるのですが、
    しかし、これはあくまで「証言」であって、それをもって、それがそのまま歴史的事実として認められるかどうかは、また別問題だと思います。

    独島の領有権を確立しようとしてはるばる本土からやってきた政府の役人に対して、迎合するようなことを言っている可能性はないのか。

    韓国の嶺南大学の金晧東という教授がいますが、開拓民はほとんど農業従事者だった、という研究を発表しています。

    また、1902年の日本側の鬱陵島の記録である「通商彙纂」でも、「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」と書いています。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/what-does-it-say-about.html

    さらに、洪在現は前掲した証言で、独島に行き始めたのは、45年前の卯年からだと明白に言っています。1947年の45年前の卯年は1903年(癸卯)です。

    洪在現はまた、
    本島の東海から漂流する漁船は、昔から獨島に漂着することがしばしばあった関係から、獨島に対する島民の関心は、深く切実なものです。

    と言っていますが、これは、日本編入の1905年以降、調査が行われた1947年までの、主として日本時代の記憶が、開拓当時に投影されているのではないか、とも思います。

    開拓当初から、すぐに独島を発見した、という洪在現の証言は、ひとつの証言として有力でないことはないと思いますが、これをもって証明されたとは言えないと思います。

    1948年6月の米軍の爆撃演習のために独島で死んだ漁夫は、鬱陵島から行っていた人も多かったのでしょうから、こうした出漁が、日本時代の戦前から続いていたのだと思います。

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  50. 鬱陵島開拓民はどうやって鬱陵島へ入植したのでしょうね。自分たちで船を操っていったのかな? それとも操船技術を持った誰かに送り届けてもらったのかな? 操船技術や適当な船がなけりゃ「独島」を発見したとしても渡航できないね。

    "これはあくまで「証言」であって、それをもって、それがそのまま歴史的事実として認められるかどうかは、また別問題だと思います。"というmatsuさんの指摘は妥当だと思います。半世紀ほど前の話を証言しているのですから、記憶違いや思い違いもあるでしょう。あるいは聞き手に誘導されていないかも考慮する必要があるでしょう。彼の証言のすべてを無批判に史実として採用することはできないと思います。本当は改めてインタヴューできればよいのですが、今となってはかないません。次善の策としては、時期を違えてインタヴューに応えたり、手記を公表しているでしょうから、それらを照合して吟味してみることですね。

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  51. matsu さん Kaneganese さんありがとうございます。メール届きました。やはり都合の悪い部分は抜けているようです。


    matsu さん

    今考えるに、これは「곧」すなわち「ただちに」であろうと思います。
    よって申奭鎬は推定しているわけではありません。欝陵島の人たちは、開拓以後「すぐに、ただちに、早速、たちまち」獨島を発見したと言っている、と述べているわけです。

    あちゃ~。。そうゆうことだったんですか。。。それでは17番目に書いた文章のうち、

    ”鬱陵島開拓が始まる前から全羅道民が鬱陵島で漁業に従事していたのは事実です。”

    よりも前の部分は撤回します。洪在現氏の話と宋炳基氏のドルソムの話を関連付けたのは、洪在現氏の孫の洪淳七・独島義勇守備隊長の手記のドルソムの話と絡めて論じようとしたからなわけですが失敗してしまいました。また改めて書き直します。

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  52. ちなみにこれが洪淳七氏の手記です長文ですがよろしければどなたか訳してください。「洪在現陳述書」と比べてみるといろんなことが分かってきます。ちなみにこの文章が書かれたのは1979年です。


    『この地が誰の地だと思うのか』


    지금 1979년으로부터 96년전 정확히 1883년 음력 4월 초8일 강원도 강릉에서 향후 10년을 예정으로 울릉도로 낙향한 할아버지께서 4일간 뱃길로 해서 지금의 울릉도 북면 현표동에 당도 하셨는데, 그 때 울릉도의 주민이라고는 고작 2가구가 살고 있었다.

    강릉를 떠나실 때 가지고 온 씨앗들은 바닷가에 젖어 못쓰게 되고 또 먼저 울릉도에 온 두 가구에게도 곡식의 씨앗들은 전연 없었다.그리하여 매일 산에서 칡을 캐고 바다에서 소라, 생복, 문어 등과 미역, 김 등 해초를 따다 생명을 유지하면서 울릉도와 강원도 간을 횡단 할 수 있는 배를 만들기 시작하셨다. 그러나 배를 만드는 데 필요한 연장들이 없기에 그 과정은 힘들고 진척이 늦었다.

    그러는 동안 하루는 높은 산에 오르게 되었는데 먼 동쪽바다에서 또 하나의 섬을 발견하였다.일찍이 읽은 바 있는 세종실록 및 동국여지승람 등 고서에서 밝힌 우산도, 지금의 독도임을 짐작케 되었고 건조 중이던 배를 재촉, 빨리 사람를 모아 독도에 가보기로 작정하였다.마침내 배가 완성 되었고 1897년 6월에 할아버지께서는 독도길에 오르게 되었으며 그 때 울릉도에서 향나무 한그루를 가져가서 독도 동도에 심으셨다.

    울릉도에 돌아 올 때에는 바다사자 세 마리를 잡아와서 울릉도 주민에게 골고루 나누어주고,칡과 소라나 생복 만으로 연명하던 주민들에게 지방질을 공급하게 된 것을 퍽 기뻐하시며 이후로는 지방질을 독도에서 얻어야 되겠다고 마음먹게 되었다.

    다음 해엔 전년보다 많은 인원을 동원하여 독도에 바다 사자를 잡으러 가셨는데 의외로 그 곳에서 일본인 무라카미란 사람 일행을 만나게 되어 대화 해 본즉 그 사람들은 생업으로 바다사자를 잡아 파는 동물상이라 하였다. 그 때 할아버지께서 이 섬은 자고로 우리 땅인지라, 앞으로는 두 번 다시 이 섬에 오지 말것을 얘기 하였다. 울릉도에서 같이 간 일행은 바다사자를 잡아 돌려보내고 할아버지께서는 일본인이 타고 온 배에 동승,일본으로 같이 가게 되었다.

     일본에 가신 할아버지께서는 그 곳 관헌에 울릉도와 일본 사이에 위치한 우산도, 지금의 독도는 한국의 땅인지라 앞으로 일본인의 출어는 금지 할 것을 당부하고 일본인이 내주는 배로 울릉도로 돌아오셨다고 내가 어릴 때 여러 번 무용담처럼 말씀 하셨다.

    또 할아버지께서는 나에게 각별히“고서에서 우산도 또는 석도로 기술되어 있는데 , 그 곳에 가서 본즉 섬이 돌로 되어있어서 나는 앞으로 그 섬을 돌섬으로 부르기로 정하셨다“고 항상 말씀하셨다.독도라는 명칭이 처음으로 기록에 나타나는 것은 1906년 음력 3월 5일 당시 울릉군수 심흥택이 강원도 관찰사에게 올린 보고 가운데 “본군 소속 독도” 라는 부분이다. 당시 칙령 41호 1900년 공포에 의해 울릉 군수가 울릉도와 죽도,석도를 관활케 되었는데, 1906년 3월 4일 일본 관리들이 울릉도에 와서 심흥택군수에게 독도가 일본 영토라는 통고를 하자 심군수가 급히 조정에 보고하는 문서에 독도라는 명칭을 사용하였다.

    할아버지께서는 항상 한문으로 석도라 한 섬이 돌섬이며,또 형태도 돌섬인데, 생긴 모습이 의젓하고 절해고도라서 독도라 한 것이, 또 새로운 이름으로 부르는 것이 마음에 거슬려 93세로 돌아가실 때까지 여러번 원망조로 말씀 하신적이 있다. 나 역시 지금 생각하면 차라리 석도로 계속 부르게 되었더라면 지금에 와서 일본이 매양 떼를 쓸 때 자기네 나라가 부르는 다케시마의 명칭에 대해서 한국은 어찌해서 이름도 가지가지인가, 또 한국의 말하는 독도는 바로 울릉도에 접근해 있는 죽도가 아닌가,그러므로 지금의 독도는 일본 고유의 영토 다케시마라는 주장을 못하도록 막을 수 있지 않았을까 하는 생각을 여러번 해본 적도 있다.

    이와같이 할아버지께서는 평생을 두고 돌섬은 우리 땅이며 울릉도의 속도인지라 울릉도 사람이 잘 보전해서 후손들에게 물려주어야 한다고 항상 말씀하셨다.

    해방후인 1948년 6월30일 울릉도 어민들이 독도에 출어 하였다가 미 5공군의 오폭으로 30여명이 폭탄에 맞아 죽은 사건이 있다.당시 경상북도 도지사가 독도에 위령비를 세울 때 할아버지께서 노구의 몸으로 독도에 같이 가셔서 조사를 낭독하셨는데, 그 조사속에서 “천지신명이여, 이 섬은 하늘이 주신 우리의 땅이며 예나 지금이나 우리 동포의 생활의 터전이기에 우리 동포가 아끼고, 또 지켜 나갑니다.오늘도 30여명의 우리동포는 돌섬의 수호신으로 이 섬을 지키고자 합니다.“라고 하시던그 애절한 목소리의 조사 끝 대목을 나는 지금도 생생히 기억하고 있다.

    독도에서 돌아 올때 풍랑을 만나 포항으로 해서 울릉도에 오는배 속에서 할아버지께서는 “순칠아, 네 이름의 순자는 돌림자고, 칠자는 네가 일곱 달만에 태어나서 이 할아버지가 애를 먹고 너의 생명을 구했기에 그렇게 지은 것이다. 할아버지가 없었다면 너의 생명은 벌써 이 하늘 아래 없어졌을 것인즉, 그러기에 너는 앞으로 멋있는 일을 해야 된다.할아버지는 울릉도를 개척했는데 요즘 밝은 세상에 어찌 독도를 그냥 둘 수 있느냐,힘든 일이지만 결코 독도를 그냥 둘 수는 없다“ 하시며 나의 손목을 힘껏 잡으시고 멀리 독도를 바라 보셨다.

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  53. 1952年の第二次学術調査隊以降の出来事を『獨島問題概論』その他の情報をもとに時系列順にまとめてみました。


    1952年         韓国政府が釜山の海軍当局に学術調査隊の竹島行きを申し入れ。(「リアンクール岩に韓国人」)

    1952年9月7日     釜山の海軍当局が学術調査隊の竹島行きを許可。

    ”竹島が駐留米軍の射爆場であることを当局が知らなかった”(「リアンクール岩に韓国人」)

    1952年9月       駐日アメリカ大使館、極東司令部に対し、釜山の海軍当局に許可しないように申し入れ(「リアンクール岩に韓国人」)

    1952年9月15日    米軍機が竹島で爆弾投下演習。鬱陵島漁民と学術調査隊が巻きこまれる。

    1952年10月3日    駐日アメリカ大使館からアメリカ国務省あて報告「リアンクール岩に韓国人」
    ”この岩はかつて朝鮮王国に属していた”
    ”(サンフランシスコ)条約の起草者は、この島を放棄すべき」地域の中に含めなかった。”
    ”竹島を日本政府の施設(駐留米軍の射爆場)として認定”
        
    1952年10月15日   駐韓アメリカ大使館から駐日アメリカ大使館への書簡
    ”当大使館は独島の領有権についての国務省の完全な情報をもっていないがその地位は未決定であるように見える”
    ”竹島を日本政府の施設(駐留米軍の射爆場)として認定することは竹島を日本領と認めることになるから問題である。”

    1952年11月5日    アメリカ国務省から駐韓アメリカ大使館へ書簡
    ”国務省はこの岩が日本に所属するという立場を取り駐米韓国大使にその旨伝えた”
    ”したがって竹島を日本政府の施設(駐留米軍の射爆場)として認定することは正当である”

    1952年11月10日   韓国政府外務部から駐韓アメリカ大使館に抗議を提出
    ”独島は・・・大韓民国の領土の一部である”
    ”このような不祥事(竹島に爆弾投下)が再発しないように”

    1952年12月4日    駐韓アメリカ大使館からアメリカ国務省へ書簡
    ”ラスク書簡で国務省が(竹島は日本領という)明確な立場をとったことを知らなかった。”
    ”韓国外務部にラスク書簡の立場を通牒した”

    1952年12月4日    駐韓アメリカ大使館から韓国政府外務部へ書簡
    ”大使館は、外務部の通牒にある「独島は・・・大韓民国の領土の一部である」との言明に注目します。合衆国政府のこの島の地位に対する理解は、ワシントンの韓国大使にあてたディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日付通牒において述べられています。”
    ”今後は竹島を爆撃演習地として使用することはないだろう”
    (Yabutarou解説 ・ 同一人物が同時期に書いた同一の文章に”竹島日本領”説と”射爆場の不使用”説の両方が書かれているということは、この二つの言説が矛盾しない概念であることを示している。したがってアメリカが竹島を射爆場として使用しないと韓国に通告したことは、アメリカが竹島を韓国領であると認めたわけではないのが明らか。)

    1953年1月20日    ”駐韓国連軍連絡基地司令部からは、爆撃演習地としてリアンクール岩(獨島)を使用することを即時中止するのに必要な措置について、すべての管下部隊に指令したと報告してきた”

    1953年2月27日    韓国国防部はアメリカが竹島が韓国領であると認めたと発表(『島根県竹島の新研究』)
    ”ウエイランドアメリカ極東軍司令官は今後同島周辺で爆撃演習を行わないと韓国政府に通告した”

    1953年3月4日     ”米国側は竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと発表している”(『島根県竹島の新研究』)

    1953年9月9日     独島(竹島)に関する日本政府声明に対する韓国政府反駁声明(『島根県竹島の新研究』)

    ”日本政府は一九四六年一月二十九日付 SCAPIN677号に言及して同覚書の「本指令は、ポツダム宣言の第二項に述べられた小島の領有権についての最終決定に関する連合国の政策として解釈されるものではない」という一文を指摘した。
     本覚書の趣旨についての日本の主張する所については韓国政府は、日本が旧敵国の領土の戦後における処分に関する連合国の基本政策についての極めて皮相なる見解をもっていると主張せざるを得ない。”
    ”再び韓国政府は前記SCAPIN677号は、日本の領土所有から小島を明らかに除いており、対日講和条約は日本の領土問題に関する限りこのSCAPINの条項と相容れない如何なる条項も規定していない事を日本政府に想起せしめたい。一方講和条約は全く実質的変更をなすことなく、本問題に関する総司令部の処分を確認したものと了解できるのである。”

    ”前記条約第一章第二項aに関して、日本政府は同条約には、独島が済州島、巨文島、及び鬱陵島の様に韓国領土の一部である事を明記していないといっている。しかしながら、これら三島を列挙したからとて、韓国沿岸の他の幾百の島々を韓国の領土から除外することにはならない。”
    ”日本政府は独島が日本領土の一部であるという前提のもとにかかる処置のとられたものと了解する旨のべている。
    しかしながら、かかる前提は全く日本政府によってなされた解釈であって何等根拠を有するものではない。反対に、日本政府は韓国政府が申し立てた抗議に対する回答として、昭和二十八年二月二十七日独島を米空軍が選定した演習場から除外する旨韓国政府に対し、米空軍司令官から公式に通告をうけた事実を了解すべきである。”
    (解説 ・ 日本の立場とラスク書簡=アメリカの立場は同じ。韓国政府によってなされた解釈の根拠はどこに???)        

    1954年         ヴァン・フリート特命報告書
    ”日本との平和条約が起草された時、韓国は獨島の権利を主張したが、合衆国は日本の主権の下に残すことを決定し、平和条約の日本が所有権を放棄する島々には含めなかった。韓国は合衆国の獨島に関する意向を内々に知っていたが、合衆国はその意向を公表しなかった。”

    1993年10月      金東祚 ”アメリカは韓国側が要求した独島を条約に明記することは受け入れなかったが、同時に日本領土の範囲から明白に除外し、独島が韓国領土であることを黙示的に承認した。”(『韓日の和解―日韓交渉14年の記録』)
    (解説 ・ 金東祚が『獨島問題概論』を編集した当時ラスク書簡を知っていて意図的に載せなかったのは明らか。”日本領土の範囲から明白に除外”されていても竹島が日本領と認識されていることは1950年9月11日付けアメリカ政府からオーストラリア政府への書簡で明らか。韓国側の要求によって”日本領土の範囲から明白に除外”されたわけではないのも時系列的に見れば明らか。)

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  54. 1953.02.27/03.03/03.04のWeyland 関係の原文お持ちの方おりましたらご紹介ください。http://dokdo-research.com/page9.html

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  55. 洪淳七氏の手記
    『この地が誰の地だと思うのか』(この文章が書かれたのは1979年)

    지금 1979년으로부터 96년전 정확히 1883년 음력 4월 초8일 강원도 강릉에서 향후 10년을 예정으로 울릉도로 낙향한 할아버지께서 4일간 뱃길로 해서 지금의 울릉도 북면 현표동에 당도 하셨는데, 그 때 울릉도의 주민이라고는 고작 2가구가 살고 있었다.

    今の1979年から96年前、正確には1883年陰暦4月初8日、江原道の江陵から、今後十年の予定で鬱陵島に落郷したおじいさんが、4日間の船旅をへて今の鬱陵島北面のヒョンピョ洞(현표=玄浦洞か)に渡島されたが、その時の鬱陵島の住民といえば、やっと2世帯が住んでいた。

    강릉를 떠나실 때 가지고 온 씨앗들은 바닷가에 젖어 못쓰게 되고 또 먼저 울릉도에 온 두 가구에게도 곡식의 씨앗들은 전연 없었다.그리하여 매일 산에서 칡을 캐고 바다에서 소라, 생복, 문어 등과 미역, 김 등 해초를 따다 생명을 유지하면서 울릉도와 강원도 간을 횡단 할 수 있는 배를 만들기 시작하셨다. 그러나 배를 만드는 데 필요한 연장들이 없기에 그 과정은 힘들고 진척이 늦었다.

    江陵を離れられる時に持って来た種は海辺で濡れて使えなくなり、また先に鬱陵島に来ていた二世帯にも穀物の種は全くなかった。そこで毎日山でクズ(葛)を掘り、海でサザエ、生のアワビ、タコなどや、ワカメ、ノリなどの海草を取って生命を維持しながら、鬱陵島と江原道の間を横断できる船を作り始めた。しかし船を作るのに必要な道具がないので、その過程は困難で進捗は遅かった。

    그러는 동안 하루는 높은 산에 오르게 되었는데 먼 동쪽바다에서 또 하나의 섬을 발견하였다.일찍이 읽은 바 있는 세종실록 및 동국여지승람 등 고서에서 밝힌 우산도, 지금의 독도임을 짐작케 되었고 건조 중이던 배를 재촉, 빨리 사람를 모아 독도에 가보기로 작정하였다.마침내 배가 완성 되었고 1897년 6월에 할아버지께서는 독도길에 오르게 되었으며 그 때 울릉도에서 향나무 한그루를 가져가서 독도 동도에 심으셨다.

    そんなある日、高い山に上ることになったが、遠い東側の海に、もう一つの島を発見した。かつて読んだことがある『世宗実録』および『東国輿地勝覧』などの古書に明らかな于山島、今の独島であると推察するようになり、建造中の船を催促、はやく人を集めて独島に行ってみることを決意した。ついに船が完成し、1897年6月に、おじいさんは独島への道にのぼることになり、その時、鬱陵島から香木一株を持っていって独島の東島に植えられた。

    울릉도에 돌아 올 때에는 바다사자 세 마리를 잡아와서 울릉도 주민에게 골고루 나누어주고,칡과 소라나 생복 만으로 연명하던 주민들에게 지방질을 공급하게 된 것을 퍽 기뻐하시며 이후로는 지방질을 독도에서 얻어야 되겠다고 마음먹게 되었다.

    鬱陵島に帰ってくる時には、海獅子(=sea lionアシカ)三匹を捉えて鬱陵島住民にまんべんなく分けてやり、葛とサザエや生のアワビだけで延命していた住民たちに脂肪質を供給することになったのをとても喜ばれ、以後には脂肪質を独島で得なければならないと決心するようになった。

    다음 해엔 전년보다 많은 인원을 동원하여 독도에 바다 사자를 잡으러 가셨는데 의외로 그 곳에서 일본인 무라카미란 사람 일행을 만나게 되어 대화 해 본즉 그 사람들은 생업으로 바다사자를 잡아 파는 동물상이라 하였다. 그 때 할아버지께서 이 섬은 자고로 우리 땅인지라, 앞으로는 두 번 다시 이 섬에 오지 말것을 얘기 하였다. 울릉도에서 같이 간 일행은 바다사자를 잡아 돌려보내고 할아버지께서는 일본인이 타고 온 배에 동승,일본으로 같이 가게 되었다.

    次の年には、前年よりも多い人員を動員して独島にアシカを捉えに行かれたが、意外にも、そこで日本人の村上という人の一行と出会うことになって対話をしてみると、その人々は生業でアシカを捉えて売る動物商だと言った。その時おじいさんは、この島は古い昔から私たちの土地であるから、これからはもう二度とこの島に来ないように話をした。 鬱陵島から一緒に行った一行はアシカを捉えて送りかえし、おじいさんは日本人が乗って来た船に同乗して日本に一緒に行くことになった。

    일본에 가신 할아버지께서는 그 곳 관헌에 울릉도와 일본 사이에 위치한 우산도, 지금의 독도는 한국의 땅인지라 앞으로 일본인의 출어는 금지 할 것을 당부하고 일본인이 내주는 배로 울릉도로 돌아오셨다고 내가 어릴 때 여러 번 무용담처럼 말씀 하셨다.
    日本に行かれたおじいさんは、そこの官憲に、鬱陵島と日本の間に位置する于山島、今の独島は韓国の土地であるから、これから日本人の出漁は禁止することを頼み、日本人が出してくれた船で鬱陵島に戻られたと私が幼い時に何度も武勇談のようにおっしゃった。

    또 할아버지께서는 나에게 각별히“고서에서 우산도 또는 석도로 기술되어 있는데 , 그 곳에 가서 본즉 섬이 돌로 되어있어서 나는 앞으로 그 섬을 돌섬으로 부르기로 정하셨다“고 항상 말씀하셨다.독도라는 명칭이 처음으로 기록에 나타나는 것은 1906년 음력 3월 5일 당시 울릉군수 심흥택이 강원도 관찰사에게 올린 보고 가운데 “본군 소속 독도” 라는 부분이다. 당시 칙령 41호 1900년 공포에 의해 울릉 군수가 울릉도와 죽도,석도를 관활케 되었는데, 1906년 3월 4일 일본 관리들이 울릉도에 와서 심흥택군수에게 독도가 일본 영토라는 통고를 하자 심군수가 급히 조정에 보고하는 문서에 독도라는 명칭을 사용하였다.

    またおじいさんは、私に格別に、「古書で于山島または石島と記述されているが、そこに行ってみたところ、島が石で出来ていたので、私はこれからその島をトルソムと呼ぶことに決めた」と、いつもおっしゃっていた。独島という名称が初めて記録に現れるのは、1906年陰暦3月5日、当時の鬱陵郡守沈興澤が、江原道観察使に上げた報告の中の「本郡所属独島」という部分である。当時、勅令41号の1900年の公布により、鬱陵郡守が鬱陵島と竹島、石島を管轄するようになったが、1906年3月4日、日本の官吏たちが鬱陵島に来て、沈興澤郡守に独島は日本の領土だと通告すると、沈郡守が急いで朝廷に報告する文書に独島という名称を使ったのだ。

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  56. 할아버지께서는 항상 한문으로 석도라 한 섬이 돌섬이며,또 형태도 돌섬인데, 생긴 모습이 의젓하고 절해고도라서 독도라 한 것이, 또 새로운 이름으로 부르는 것이 마음에 거슬려 93세로 돌아가실 때까지 여러번 원망조로 말씀 하신적이 있다. 나 역시 지금 생각하면 차라리 석도로 계속 부르게 되었더라면 지금에 와서 일본이 매양 떼를 쓸 때 자기네 나라가 부르는 다케시마의 명칭에 대해서 한국은 어찌해서 이름도 가지가지인가, 또 한국의 말하는 독도는 바로 울릉도에 접근해 있는 죽도가 아닌가,그러므로 지금의 독도는 일본 고유의 영토 다케시마라는 주장을 못하도록 막을 수 있지 않았을까 하는 생각을 여러번 해본 적도 있다.

    おじいさんは、常に漢文で石島という島がトルソムであり、また形態もトルソム(石島)であるが、できた姿が立派で絶海の孤島なので独島と言ったのが、また新しい名前で呼ぶことが心に障り、93才で亡くなる時まで何度も怨みの口調でおっしゃったことがあった。 私も、やはり今考えれば、いっそ石島とずっと呼んでいたならば、この期に及んで日本が毎度駄々をこねる時、自らの国が呼ぶ竹島の名称に対して、韓国はどうして名前もいろいろなのか、また韓国の言う独島はまさに鬱陵島に接近している竹島ではないか、従って今の独島は日本固有の領土の竹島だというような主張が出来ないように止めることができたのではないかという考えを何度もしてみたこともある。

    이와같이 할아버지께서는 평생을 두고 돌섬은 우리 땅이며 울릉도의 속도인지라 울릉도 사람이 잘 보전해서 후손들에게 물려주어야 한다고 항상 말씀하셨다.

    このように、おじいさんは一生を通してトルソムは私たちの土地であり、鬱陵島の属島であるから、鬱陵島の人間がよく保全して、子孫に譲らなければならないと常におっしゃっていた。

    해방후인 1948년 6월30일 울릉도 어민들이 독도에 출어 하였다가 미 5공군의 오폭으로 30여명이 폭탄에 맞아 죽은 사건이 있다.당시 경상북도 도지사가 독도에 위령비를 세울 때 할아버지께서 노구의 몸으로 독도에 같이 가셔서 조사를 낭독하셨는데, 그 조사속에서 “천지신명이여, 이 섬은 하늘이 주신 우리의 땅이며 예나 지금이나 우리 동포의 생활의 터전이기에 우리 동포가 아끼고, 또 지켜 나갑니다.오늘도 30여명의 우리동포는 돌섬의 수호신으로 이 섬을 지키고자 합니다.“라고 하시던그 애절한 목소리의 조사 끝 대목을 나는 지금도 생생히 기억하고 있다.

    解放後の1948年6月30日、鬱陵島の漁民らが独島に出漁したところ、アメリカ第5空軍の誤爆で30人余りが爆弾に当たって死んだ事件がある。当時、慶尚北道の道知事が独島に慰霊碑を建てる時、おじいさんは老駆の体で独島に一緒に行かれて弔辞を朗読されたが、その弔辞の中で、「天地神明よ、この島は天が与えられた私たちの土地であり、昔も今も私たち同胞の生活の根拠地なので、私たち同胞は大切にし、また守って行きます。今日も30人余りの我が同胞はトルソムの守護神としてこの島を守ろうとしています」と言われたその哀切な声の弔辞の最後の一節を、私は今でも生き生きと記憶している。

    독도에서 돌아 올때 풍랑을 만나 포항으로 해서 울릉도에 오는배 속에서 할아버지께서는 “순칠아, 네 이름의 순자는 돌림자고, 칠자는 네가 일곱 달만에 태어나서 이 할아버지가 애를 먹고 너의 생명을 구했기에 그렇게 지은 것이다. 할아버지가 없었다면 너의 생명은 벌써 이 하늘 아래 없어졌을 것인즉, 그러기에 너는 앞으로 멋있는 일을 해야 된다.할아버지는 울릉도를 개척했는데 요즘 밝은 세상에 어찌 독도를 그냥 둘 수 있느냐,힘든 일이지만 결코 독도를 그냥 둘 수는 없다“ 하시며 나의 손목을 힘껏 잡으시고 멀리 독도를 바라 보셨다.

    独島から帰ってくる時、風浪に会って、浦項から鬱陵島に来る船の中でおじいさんは、「スンチル(淳七)よ、お前の名前の淳の字は共通字で、七という字は、お前が七か月で生まれて、このおじいさんが苦労してお前の生命を助けたのでそう名づけたのだ。おじいさんがいなかったならば、お前の生命はすでにこの空の下に無くなっていたので、それだからお前はこれから素晴らしい仕事をしなければならない。おじいさんは鬱陵島を開拓したが、今の明るい世の中に、どうして独島をそのままにして置けるか。難しいことだが決して独島をそのままに置くことはできない」と私の手首を力いっぱいに捉えて、遠く独島を望まれた。

    (翻訳終わり)

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  57. ほとんど、「物語」の世界ですが、いくつか興味深いところがあります。
    はじめて独島に行ったのが「1897年6月」。
    証言よりも6年、早まっています。

    次の年、というのが、この翌年の1898年と言うことになるのかどうかわかりませんが、「日本人の村上という人の一行と出会」います、そしてかれらは、「生業でアシカを捉えて売る動物商」だといいます。

    しかし、「アシカを捉えて売る動物商」が登場するのは、もっとずっとあと、ひょっとして昭和になってからのことではないでしょうか。

    この「村上」という名前も、前掲の陳述書の中に、
    「最後に行く時には、日本人の本船を借貸し、船主である村上という人と、大上という船員を雇傭し、カチ(あしか)捕獲をした例もあります。」
    とあり、「船」も出てきて関連をうかがわせます。この固有名詞から年代を特定できるのかもしれません。

    そして、面白いのは、どうやら洪在現氏は、自らを安龍福になぞらえているようなふしがみえることです。
    独島で出会った日本人に、この島は古い昔から私たちの土地であるから、二度と来るなと言ってみたり、日本本土の「伯耆州」をおもわせる所に渡っていって、「そこの官憲に、鬱陵島と日本の間に位置する于山島、今の独島は韓国の土地であるから、これから日本人の出漁は禁止することを頼」んだり、この「武勇談」は、安龍福の話を自分の事として語っているかのようです。

    いずれにしても、こういう話を洪在現氏が孫の洪淳七氏に「語った」のは事実としても、その「語られている内容」を、そのまますべて「歴史的事実」と認定することはできないと思います。


    1948年の「独島の惨劇」も、新聞記事から6月8日に間違いないと思いますが、「6月30日」とする伝承は根強いようです。

    洪在現氏が死んだのは、93歳とありますから、85歳だった1947年の8年後、1955年ということになりましょうか。

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  58. yabutarouさん

    洪淳七氏の手記『この地が誰の地だと思うのか』のご紹介、有難うございます。

    ”「洪在現陳述書」と比べてみるといろんなことが分かってきます。ちなみにこの文章が書かれたのは1979年です。”

    在現翁が孫に本当にこのように語ったのだとすれば、「洪在現陳述書」『獨島問題概論』(大韓民国外務部政務局1955)35p~38pとは随分食い違いがあるようです。

    手記の該当部分の原文画像、お持ちでしたらご提供頂けないでしょうか? これと洪在現陳述書もそれぞれ検討する必要があると思われます。

    それにしても、何故韓国側が何故洪在現陳述書を大っぴらに宣伝しないのか、よく分かりました。これは証拠能力を自ら否定していますね。しかも、洪淳七は東北アジア歴史財団のホームページで独島偉人伝で紹介されているようですが、虚言癖のある人物のようです。安龍福と同じ傾向があるようです。

    独島義勇守備隊、95%が嘘!~『独島義勇守備隊に英雄は居なかった』

    (ネイバーテレビニュースの途中でPCがいつもフリーズしてしまいます。これを保存する方法、どなたかご存知ありませんか?)

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  59. そういえば、『獨島問題概論』(大韓民国外務部政務局1955)をmatsuさんからお借りしました。かなり膨大な資料です。少しづつスキャンして常連の方々に見て頂こうかと思っています。今、skydriveで常連の皆さんと論文や資料の共有化を計ろうと、整理しているところですが、年内は無理そうなので、年明けの早い時期にでも限定公開できればいいなと思っています。

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  60. matsuさん

    洪淳七氏の手記『この地が誰の地だと思うのか』の翻訳、有難うございます。

    読んでいて眩暈がしてきましたが、仰るとおり、いくつか面白いことも書いてありました。陳述書と比較したいので、この翻訳を使わせて下さい。

    また、あとで陳述書の漢字の部分だけ書き起こしますので、お時間のあるときにでも、ハングルの追加と翻訳をお願いできないでしょうか?

    よろしくお願い致します。

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  61. 素朴な疑問ですが、韓国・朝鮮では漁業権のようなものは無かったのでしょうか? また、鬱陵島島民は入植後しばらくは税金の免除を受けていたようですが、少なくとも1900年代に入ってからはそうではなかった筈で、島監が漁獲物に対して税を徴収する徴収した形跡はあるのでしょうか?

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  62. 洪在現陳述書の翻訳、上にありました。大変失礼しました。

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  63. matsuさん翻訳ありがとうございました。

    matsuさんとKaneganeseさんは洪淳七氏の手記が”洪在現氏が孫の洪淳七氏に「語った」ものである可能性をお考えのようですが私はそれは全くないと考えています。
    内藤正中/朴炳渉 『竹島=独島論争』の269Pの銀粒子なる人物のエッセイに次のような文章があります。

    ”(独島資料館に)洪淳七さんの手記というのも展示されていた。
     これはしかし、展示物としてたださっと見せるだけでなく、内容をきちんと一般人にも説明ぐらいはするべきだろう。
     義勇警備隊をどのように評価するのかは、昨今韓国でも論議が別れているようであり、私にはもちろん判断を下せる手がかりは、まったくない。(中略)
     ただし、手記の内容には問題がある。まず義勇警備隊として活動を開始した年代からして間違っており、その他の日付けにも間違いが多いことは、すでに三年ほど前から市民団体を中心に指摘されている。話として誇張に過ぎる部分も多く、資料としてそのまま信頼するのは確かに無理が有る。それは義勇警備隊OBに近い市民団体さえも認めていることであり、またこれに関連して、義勇警備隊の性格そのものに疑念を抱く見方も、韓国には現に存在している。”


    これをみれば分かるとおり洪淳七氏は韓国人の間ですら虚言癖のある人物として知られており、洪在現氏の話とは無関係の箇所にも嘘や誇張が多く見られます。
    というこは洪淳七氏の書いた洪在現氏自身が語ったとされる文章は、1979年当時の韓国側の竹島問題の研究水準に合わせて洪淳七氏が韓国の都合の良いようにでっち上げたものであるということを意味します。

    一例を挙げましょう。

    ”またおじいさんは、私に格別に、「古書で于山島または石島と記述されているが、そこに行ってみたところ、島が石で出来ていたので、私はこれからその島をトルソムと呼ぶことに決めた」と、いつもおっしゃっていた。独島という名称が初めて記録に現れるのは、1906年陰暦3月5日、当時の鬱陵郡守沈興澤が、江原道観察使に上げた報告の中の「本郡所属独島」という部分である。当時、勅令41号の1900年の公布により、鬱陵郡守が鬱陵島と竹島、石島を管轄するようになったが、1906年3月4日、日本の官吏たちが鬱陵島に来て、沈興澤郡守に独島は日本の領土だと通告すると、沈郡守が急いで朝廷に報告する文書に独島という名称を使ったのだ。”


    「于山島が独島であるという説」は1953年ごろ発見されたもので洪在現氏は知らなかったはず。
    「古書で独島を石島と記述されている」ものはない。1960年代後半に発見された石島=独島説に合わせて作られた言説と推定。
    「独島という名称が初めて記録に現れるのは沈興澤報告書」とあるが、これは1979年当時の韓国側の認識。1904年9月25日付の軍艦新高の日誌に、「韓人之を独島と書し」とあるのが知られるのはずっと後。
    洪淳七氏の説では洪在現氏が最初に独島に渡った1897年以降に自分で独島をトルソムと名付けたことになっているが、現在の韓国の定説は宋炳基氏が1991年に書いた論文にある「独島を目撃した全羅道民が石の島という意味でトクソムと名付け、その存在が江原道・慶尚道民主体の鬱陵島開拓民に伝わって彼らの方言によってトルソムと呼ばれるようになった」というもの。つまり洪淳七氏は1991年の宋炳基氏の説を知らなかった。
    また『獨島問題概論』にある 洪在現氏自身の証言によれば洪在現氏が最初に独島に渡ったのは1897年ではなく1903年。


    ただし、洪淳七氏の手記がでっちあげであることと、「洪在現陳述書」の内容の信憑性がどうであるかの議論は無関係であることは押さえておくべきであると考えます。


    Kaneganeseさん

    手記の該当部分の原文画像、お持ちでしたらご提供頂けないでしょうか?

    あるようなないような・・・もうちょっとまってください。

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  64. Yabutarouさん

    確かに、
    「こういう話を洪在現氏が孫の洪淳七氏に「語った」のは事実としても、」

    と書いたことは、われながら、あまりに「純心」にすぎたようです。

    事実は、「こういう話を洪在現氏が孫の洪淳七氏に語った、と1979年に洪淳七氏が書いている」ということだけでしょう。

    安龍福と洪在現の行動が似ている、というのも、孫の洪淳七のなかの洪在現像がそうなのだということに過ぎないのかもしれません。結局、これは「小説」なのでしょう。

    「古書で于山島または石島と記述されているが」と、しれっと書くあたりが、でっちあげの恐ろしいところです。
    たしかに、「古書で独島を石島と記述されているものはない。」ですね。



    ところで、
    「于山島が独島であるという説」は1953年ごろ発見されたもので

    とありますが、その発見者は誰で、それが書かれた論文は何でしょうか?

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  65. 「곳」について上記私のコメントの

    「「きっと」と翻訳していたのはと「고ㅅ」(ㅅは下に入る)いう言葉ですが、じつはこの言葉は辞書にはなく、こうして活字としても出てこないのですが、」という部分を削除し、以下に差し替えます。

    「「きっと」と翻訳していたのは「곳」という言葉です。「곳」は、「所」「場所」という意味ですが、ここではその意味では文意が通らず」

    あわせて、この直後の翻訳文の「日本海軍省から発行された『朝鮮沿岸水路誌』」を、1960年版と同じ「日本海軍省で発行した『朝鮮沿岸水路誌』」という表現に差し替えます。

    このほかにも誤りを見つけたらお知らせ下さい。

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  66. matsuさん


    ところで、「于山島が独島であるという説」は1953年ごろ発見されたものでとありますが、その発見者は誰で、それが書かれた論文は何でしょうか?


    私の知る限り「于山島が独島であるという説」が初めて韓国の文献に登場したのは、Web竹島問題研究所にある
    竹島問題研究会 > 最終報告書 > 資料編
    (6)「竹島/独島問題」に関する日韓両国往復外交文書(1952〜76) 福原裕二
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.html
    の32Pにある JULY 13 1953の韓国政府見解です。それ以前のことはわかりません。

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  67. Yabutarouさん
    ありがとうございます。

    「独島=于山島」説は、いわば「カルト独島教」の根本原理だと思いますが、
    申奭鎬「独島所属について」『史海』1948を翻訳しながら、ここには于山国は出てくるけれども于山島は出ていないなあ、と思っていました。
    一方で、Yabutarouさんが、前記に1953年ごろ、と書いていたので、
    直感的に、意外と新しいなあ、すなわち、遅いなあ、と感じていました。

    「それ以前のことはわかりません」とおっしゃっているので、さらに若干はさかのぼるのだろう、とも思います。

    いずれにしても、「下限」を文献で示してくださったので、1948年~1953年の間で
    「独島=于山島」説の起源を探すことになると思います。

    JULY 13(7月13日)1953とありますが、これは「7月13日の日本側見解に対する韓国側の反論」で、9月9日だと思います。

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  68. 独島=于山島説とは何かをまとめてみました。

    ①「安龍福」の話
    粛宗実録の安龍福の記事から
    松島は子山島、すなわち朝鮮領
    日本の関白が二島を朝鮮領と認める書契を出した

    増補文献備考1908の安龍福の記事も引用される(この文献では芋山島)

    ②「東海に二島」
    世宗実録地理志 新増東国輿地勝覧
    于山島 鬱陵島二島があって、お互いが遠くなく、晴れた日には良く見える
    東海に二島があることを古くから認識していた。
    鬱陵島とは別の島として于山島があるのだから、これは独島である。

    ③「于山は倭の所謂松島」
    萬機要覧、文献備考(増補文献備考)の輿地考の中の「輿地志」
    新羅の于山国の時代(512)からの領土とする

    輿地考の著者である申景濬の彊界考も援用される


    この基準で見ると、
    申奭鎬「獨島の来歴」(『思想界』)1960年8月には、①と②がある。③はまだない。
    申奭鎬「獨島所属について」(『史海』)1948年12月には、①安龍福に言及するが于山島の名はない。②はない。③もない。

    韓国政府見解(1953・9・9)
    ②があり、①もある。③はまだない。

    この韓国政府見解の直前の
    崔南善「鬱陵島と獨島」『ソウル新聞』1953(連載8.10~9.7)を検討すると、
    ①について、安龍福に言及するが、独島=于山島説はない。
    ②についても世宗実録地理志に言及するが、独島=于山島説とはいえない。
    ③は、ない。

    すなわち、崔南善「鬱陵島と獨島」1953には、独島=于山島説はない。

    また崔南善は、ずっと「トクソム」と言い続けているのが注目されます。



    ③の説が、いつ、誰によって始まったかも興味深いです。

    また、
    ④地図を使っての論説(地図に于山島が描かれている)は、③の説が出る前から論じられているようです。

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  69. matsuさん

    有難うございます。

    ”③の説が、いつ、誰によって始まったかも興味深いです。

    また、
    ④地図を使っての論説(地図に于山島が描かれている)は、③の説が出る前から論じられているようです。”

    これからはどの論文を訳すのか、検討しながら進めて効率的にやっていかないといけませんね。でも、こうした地道な作業は、本当に重要だと思います。

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  70. みなさん

    内藤正中氏の「竹島=独島問題入門」で、「1953年3月19日の韓米合同委員会で演習地域の解除を決定した」とありますが、これについて何かご存じないでしょうか?これまで私は、「アメリカは竹島に関する韓国との対応をアメリカの代表者ではなく使用者たる米軍がすることによって韓国の領有の正当化に利用されないようにしてきたのではないか」と考えていました(国際法上、軍はアメリカの代表にはなれず条約等の締結権もありません)。もし、内藤のいう韓米合同委員会の米代表が全権委任されており竹島の演習地解除をしたとなると考えを変更せざるを得ません。

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  71. oppさん
    「韓米合同委員会」というのはどのような組織なのでしょうか。韓米地位協定に基づく協議機関であるならば、領有権を云々できるようなものではないように思います。

    「竹島は日本領」との立場を米国は明らかにしていましたから、日本との交渉で決まったことを伝えただけなのではないでしょうか。その辺も調べてみたらよいと思います。

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  72. opp さん

    「1953年3月19日の韓米合同委員会」の件については私もかなり調べましたが「竹島=独島問題入門」以外にはどこにも言及されていません。
    断定はしませんが、あるいはガセネタではないかと考えています。「1953年3月19日の日米合同委員会」と混同されてしまった可能性があります。
    ”1953 3 19 미일합동 위원회(=日米合同委員会)” でグーグル検索すると該当する記述がたくさん出てくるのに、”1953 3 19 한미합동위원회(韓米合同委員会)では何も出てきません。韓国のネット上でも確認できないのは不可思議です。
    ”한미합동위원회 독도”=(韓米合同委員会 独島)で検索しても韓米合同委員会で独島について話し合った記録は出てきません。

    ”国際法上、軍はアメリカの代表にはなれず”とか”全権委任されており”という表現をみるとどうもopp さんはアメリカが演習地域の解除を決定し、それを韓国に通告したこと自体を「アメリカが竹島を韓国領と認めた」と解釈した上で立論していらっしゃるように思えますがどうなのでしょうか?
    opp さんはこの書き込みの19ほど前の書き込みで私が書き込んだ1952年の第二次学術調査隊以降の出来事を時系列順にまとめた年表をご覧になっていただけましたか。
    演習地域の解除決定とその通告が「アメリカが竹島を韓国領と認めた」ことを意味するという主張は韓国側の一方的なプロパガンダにすぎないというのが私の意見です。

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  73. OPPさん

    朝鮮大学校講師・琴秉洞の「独島問題とは何か」というサイトに  
          
    1953年3月19日、日米合同委員会で「竹島」を爆撃演習地から除くことになる。

    http://www9.ocn.ne.jp/~soshin/topics1htm.htm

    とあります。

    「日米合同委員会」とともに、同じ日に「韓米合同委員会」も開かれていたのでしょうか?


    また、1965年の国会の記録には

    「昭和二十八年三月十九日の日米合同委員会分科委員会が、竹島を演習場区域からこれを除外するということを決定した」
    という椎名外務大臣の答弁があります。

    「韓米合同委員会」は、「日米合同委員会」の間違いではないでしょうか?


    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/048/0512/04802260512008a.html

    参議院会議録情報
    第048回国会 本会議 第8号
    昭和四十年二月二十六日(金曜日)
      
    国務大臣(椎名悦三郎君)
    それから、竹島の問題についての御質問がございました。日米合同委員会が、昭和二十七年七月二十六日、在日米軍の使用する海上演習場として竹島を指定し、さらに昭和二十八年三月十九日の日米合同委員会分科委員会が、竹島を演習場区域からこれを除外するということを決定したことは、お説のとおりであります。竹島に対するわが国の主張は正しいと確信しておるが、国際司法裁判所等でその帰属を決定することによって、この問題を円満裏に解決したいと思っておる次第であります。


    この国会論議、非常に面白いです。
    社会党も、「竹島は日本領」としっかり主張していますね。


    森元治郎君 私は、日本社会党を代表して、椎名外務大臣の韓国訪問について御質問をいたします。(略)

    竹島、これは小さい島でありまするが、大きな問題であります。この帰属が問題になっているのはふしぎであります。というのは、この島は去る昭和二十七年の六月に、日米合同委員会で、日本はこれをアメリカの爆撃演習場として貸しまして、そして翌年の二十八年の三月にはアメリカからこれを返されて、解除に同意したのであります。こういういきさつなんです。日本のものであることは、これでも明々白々でありまするが、このような竹島をうやむやにしておいて、基本条約などというものはあり得ません。

    上記の椎名外相の答弁は、この質問に対する回答です。

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  74. Makotoさん。
    >「韓米合同委員会」というのはどのような組織なのでしょうか。
    私もわからないんですよね。

    yabutarouさん

    内藤は別のセンテンスで「日米合同委員会会場演習文科会の1953年3月19日の議事録(米韓合同委員会と同日)は、」とも書いてますね。ガセかな。

    >アメリカが演習地域の解除を決定し、それを韓国に通告したこと自体を「アメリカが竹島
    >を韓国領と認めた」と解釈した上で立論していらっしゃるように思えますが

    いえ。違います。まず、竹島の爆撃地指定ですが、
    ①旧安保条約→
    ②日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約第3条に基づく行政協定→
    ③行政協定に基づく日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」で竹島を指定

    となっており、正式な政府間の条約として成立してます。もし竹島をSF条約で放棄領土に含めていたらこのような条約を締結することはできません(無権限の行為になります)。そのあたり(竹島の主権は日本)は当然アメリカ政府もわかってますから、国務省が駐韓米大使館宛に出した書簡で「justified」としていることになります。
    http://en.wikisource.org/wiki/Confidential_Security_Information_about_Liancourt_Rocks
    The action of the United States-Japan Joint Committee in designating these rocks as a facility of the Japanese Government is therefore justified.

    「アメリカ政府」として韓国と合意なり交渉をすると韓国がプロパガンダに利用しかねず、日本に主権があるというアメリカの立場と齟齬をきたす恐れがあります。このため、アメリカは韓国との交渉は使用者たる「米軍(アメリカを代表できない)」に委ねたのではないかと考えています。則ち、政府と軍を使い分けることによって「アメリカ政府」は一環して竹島を日本領として扱った上で、国際法上の言質をとられないように韓国をあしらったということになります。ただ一つ気になったのが内藤のいう韓米合同委員会でした。このため、この委員会のメンバー構成等(アメリカ大使等が入ってないか)を知りたかったのです。

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  75. この国会の椎名外務大臣の答弁からすると、

    「日米合同委員会が、昭和二十七年(1952年)七月二十六日、在日米軍の使用する海上演習場として竹島を指定」した、ということは事実として認められると思います。

    すなわち、上にあるYabutarouさんの「年表」の一番最初に、この事実が来るのだろうと思います。

    そして、それを
    「”竹島が駐留米軍の射爆場であることを当局が知らなかった”」こと、
    だからこそ、
    「1952年9月7日     釜山の海軍当局が学術調査隊の竹島行きを許可。」
    したことは、

    アメリカ側がこの時点でも、韓国側に
    「日米合同委員会が、昭和二十七年七月二十六日、在日米軍の使用する海上演習場として竹島を指定」したという事実を伝えていないこと、
    すなわち、竹島は韓国とは関係がないので伝える必要がない、という認識を持っていたことを証拠付けているのではないかと思います。

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  76. matsu さん

    爆撃地指定は以下の経緯でなされてます。

    ●「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」1951年9月8日署名、1952年4月28日発効
    第一条〔駐留米軍の使用目的〕平和条約及びこの条約の効力発生と同時に、アメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内及びその附近に配備する権利を、日本国は、許宇し、アメリカ合衆国は、これを受諾する。この軍隊は、極東における国際の平和と安全
    の維持に寄与し、並びに、一又は二以上の外部の国による教唆又は干渉によって引き起された日本国における大規模の内乱及び騒じょうを鎮圧するため日本国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することができる。
    第三条〔行政協定〕アメリカ合衆国の軍隊の日本国内及びその附近における配備を規律する条件は、両政府間の行政協定で決定する。

    ●「日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約第3条に基づく行政協定」、1952年2月28日署名、1952年4月28日発効
    第2条
    日本国は、合衆国に対し、安全保障条約第1条に掲げる目的の遂行に必要な施設及び区域の使用を許すことに同意する。ここの施設及び区域に関する協定は、この協定の効力発生の日までになお両政府が合意に達していないときは、この協定第26条に定める合同委員会を通じて両政府が締結しなければならない。

    ●「行政協定に基づく日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」、1952年7月26日署名・発効
    日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約第3条に基づく行政協定第2条第1項に基づき、日本国がアメリカ合衆国に提供する施設及び区域
    附表2
    空軍訓練区域
    9 竹島爆撃訓練区域
     (一)北緯37度15分 東経131度52分の点を中心とする直径10マイルの円内
     (二)演習時間毎日24時間
    ------------------------------------

    「行政協定に基づく日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」の前に日米合同委員会があったんでしょうけど、同日に協定という条約を締結してます。また、ラスク書簡は国務省限りで駐韓米大使館も承知してませんでした。このため、ラスク書簡を1952年11月14日に知らされた駐韓米国大使館は「長い間間違った前提で活動していた」と国務省に回答してます。軍と大使館と主体は違ってますが、軍もラスク書簡を知っていたとも思えず、「1952年9月7日の釜山の海軍当局が学術調査隊の竹島行きの許可」はこの間違った前提での活動に該当するものと思います。
    http://en.wikisource.org/wiki/Possible_Methods_of_Resolving_Liancourt_Rocks_Dispute_between_Japan_and_ROK2
    We were subsequently made aware of the fact that Article 2(a) was not to be amended but had no inkling that that decision constituted a rejection of the Korean claim. Well, now we know and we are very glad to have the information as we have been operating on the basis of wrong assumption for a long time.

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  77. opp さん

    >>則ち、政府と軍を使い分けることによって「アメリカ政府」は一環して竹島を日本領として扱った上で、国際法上の言質をとられないように韓国をあしらったということになります。ただ一つ気になったのが内藤のいう韓米合同委員会でした。このため、この委員会のメンバー構成等(アメリカ大使等が入ってないか)を知りたかったのです。

    むう。。私は国際法には詳しくないのでいまいち意味が分かりませんが、

    1952年12月4日 駐韓アメリカ大使館から韓国政府外務部への書簡でラスク通牒に言及
    1953年3月4日  米国側は竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと発表

    この二つの歴史的事実がある以上opp さんの推論は事実上意味がないと思います。


    韓国語のこちらの記事にこんな記述かあります。

    1947년 조선산악회의 조사 때 해안경비대가 함정을 제공했으니 이번에는 해군이 배를 제공해줄 것으로 기대됐다. 그러나 이때는 전쟁 중이라 해군은 미군의 통제를 받고 있었다. 독도 영유권을 둘러 싼한일 갈등을 잘 알고 있던 미 군사고문단은 해군에 함정을 제공하지 말라고 지시 했다.

    ”独島領有権をかけてサンハンである葛藤をよく分かっていた米軍事顧問団は海軍に落とし穴を提供するなと指示した. ”とはよく意味が分かりませんが米軍が1952年の学術調査隊の竹島行きを許可したことは、決して米軍が竹島を韓国領と認めたからではないことを示していることは間違いなさそうです。

    また”1947年朝鮮山嶽会の調査の時の海岸警備隊が落とし穴を提供したから”とありますが、(鄭秉峻, 2008 )のPDFファイルの7Pにのっている米軍政当局の文書に”この島の終局的な帰属問題は日々迫りつつある対日平和会談において決定される問題である”とあるので、米軍政当局が1947年の学術調査隊の竹島行きを許可していたとしても、それは竹島を韓国領と認めたからではないのは明らかです。



    あと「日本国とアメリカ合衆国の間の安全保障条約第3条に基づく行政協定」ではアメリカが軍が使用しなくなった施設及び区域は日本政府に変換するという条文があったと川上健三の著書に書いてあったように記憶しています。

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  78. ↑ の翻訳改良です。

    1947년 조선산악회의 조사 때 해안경비대가 함정을 제공했으니 이번에는 해군이 배를 제공해줄 것으로 기대됐다. 그러나 이때는 전쟁 중이라 해군은 미군의 통제를 받고 있었다. 독도 영유권을 둘러 싼한일 갈등을 잘 알고 있던 미 군사고문단은 해군에 함정을 제공하지 말라고 지시 했다.


      1947年の朝鮮山岳会の調査の時に海岸警備隊が艦艇を提供したので、今度は海軍が船を提供してくれるものと期待された。しかし、この時は戦争中であり、海軍は米軍の統制を受けていた。独島領有権をめぐる韓日の葛藤をよく分かっていた米軍事顧問団は、海軍に艦艇を提供するなと指示した。



    2009.12.30

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  79. yabutarouさん。
    米軍の話を政府間の条約と同等なものとしている内藤等へ反論です。そもそも軍にそんな権限なんかないということです。ちょっと強引な部分がありますがマンションに例えてみます。

    Aさん:マンションの所有者(日本)
    Bさん:マンションの間借り人でDさんの息子(米軍)
    Cさん:マンションの間借り人の部屋に居座っている居候(韓国)
    Dさん:マンションに抵当権を設定しているAさんの債権者(アメリカ政府)

    Aさんのマンションを差し押さえられるのはDさんだけだった(ポツダム宣言)のですが、Aさんは借金を返済したのでその抵当権も消滅しました(サンフランシスコ条約)。Bさんも賃借契約が切れたのでAさんと再契約しました(竹島爆撃地指定)。Bさんは気分転換に部屋の模様替えをしました(爆撃演習の実施)。居候のCさんが「おいおい勝手に俺の部屋の模様替えをするな。元に戻せ」とBさんに要求しました(爆撃演習被害への抗議)。BさんはAさんに言って賃貸契約を解除するとともに(日本との爆撃演習地解除合意)、模様を元に戻しました(韓国への爆撃演習解除通知)。Aさんは、賃貸契約が終わったので部屋の空けわたしをCさんに要求しましたが、Cさんは所有権は俺にあると拒否しています。また、Cさんは「Bさんは俺の言うことを聞いて壁紙を元に戻した。これは俺に所有権があることを認めた証拠だ」と言ってます。しかしながら、所有権も抵当権もないBさんの言動はAさん所有権にいかなる影響を及ぼすものではなく、無権限のBさんの言動をもってCさんの所有権なんか証明はできません。
    竹島に話しを戻しますと、「使用者にしかすぎない米軍の言動を所有権(権原)の証明にはできない。管理瑕疵を防止するため韓国への通知なり調査許可を行ったのであろう。日本に竹島放棄を要求することもできたアメリカ政府は、結局サンフランシスコ条約で放棄を要求せず、条約後も一環して日本領の立場である」と書いてしまった後で、米韓合同委員会に米国の政府代表が入っていては格好がつかないので米韓合同委員会の性格を知りたかったのです。

    >1953年3月4日  米国側は竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと発表
    これですが、田村氏の著作ですよね?田村氏の本は手元にないのですが、もし出典が書かれていたら教えて下さい。というのもネットでもたまに「リアンクール島と言うのは、東島に有る大きな洞窟を李朝時代に李安窟と呼んでたからだ」と韓国が荒唐無稽な主張をしたと見かけるのですが、以前この一次史料を知りたくて調べたら田村氏の著作につきあたりました。しかし、田村氏の本には出典がかかれておらず一次史料が不明だったことがあります。他の人の著作でもこの1953年3月4日のことに触れたものを見たこともないので、裏がとれるまではペンディングにしておきたいと思います。竹島問題研究所に李安窟の件も含めて問い合わせしたいと思います。

    >(鄭秉峻, 2008 )のPDFファイルの7Pにのっている米軍政当局の文書に”この島の終局的な帰属問題は日々迫りつつある対日平和会談において決定される問題である”
    これは、貴重な情報をありがとうございます。原文を見たいところですね。オーストラリアの国立図書館にはあるようですが。。

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  80. 1953年3月19日に、もし「韓米合同委員会」が開かれていたのだとしたら、翌日の新聞に載っているのではないでしょうか?

    GTOMRさん、東亜日報は出ませんか?

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  81. この話に関係がありそうなのは、
    1953.02.28 東亜日報
    獨島漁民 恐怖一掃 空爆演習中止? 美軍? 保障


    1953.03.20 東亜日報
    題名不明(検索でひっからず、アドレス上から検索



    Mark MolvoのページにGeneral Weylandの話が出ていて、そこにも「アメリカが竹島を韓国の領土と認めたと歪曲しているというのがあります」が、
    原文がなぜかないのでどうやってこの内容を得たのかに興味があります

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  82. GTOMRさん
    さっそくありがとうございます。

    1953年2月28日は、上のYabutarou さんの年表に

    1953年2月27日    韓国国防部はアメリカが竹島が韓国領であると認めたと発表(『島根県竹島の新研究』)
    ”ウエイランドアメリカ極東軍司令官は今後同島周辺で爆撃演習を行わないと韓国政府に通告した”

    という、その記事でしょう。


    3月20日のほうは、もし19日に「韓米合同委員会」なるものがあったとしたら、出ているはずだと思いますが、この紙面で見る限り記事はないと思います。

    しかし、もし「日米合同委員会」だったにしても、当時の韓国の独島への関心からすると、日本からのニュースとして報道されていてしかるべきとも思います。これは「秘密」の話なんでしょうか? それとも少し遅れてでてくるのかどうか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    記事の画面がにじんで何とも読みにくいですが、半分「心眼」で読んで見ます。(笑)
    間違いがあると思います。
    専門用語などで、またこれまでに知られている事実からして、これはありえないというところがあったら指摘してください。

    1953.02.28 東亜日報
    獨島漁民 恐怖一掃 空爆演習中止? 美軍? 保障

    獨島漁民の恐怖一掃 空爆演習中止を アメリカ軍で保障
    1953-02-28 夕刊

    一時期、「獨島」の漁民を恐怖の中におとしいれていた「獨島」周辺攻撃演習は、韓国と国連国防局との協議で、隣接する住民達の不安を一掃することになるという。昨二十七日、国防局が発表したところによれば、去る九月十五日、国籍不明の飛行機の爆撃事件●●
    ●●●●●●●●●●我が政府と国連軍●●官●●●協議を行い、アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米国●●(空総か)司令官により保障されたとして、爆撃により●●を受けてきた漁民達も、●●には安心て漁労に従事できるようになったという。


    ところで、なぜ「獨島」にかぎかっこがついているんでしょうか。

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  84. chaamiey さん早速の翻訳ありがとうございます。


    opp さん

    >1953年3月4日  米国側は竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと発表
    これですが、田村氏の著作ですよね?田村氏の本は手元にないのですが、もし出典が書かれていたら教えて下さい。



    GTOMR さんも紹介しているロブモ氏のこちらのページ
    http://dokdo-research.com/page9.html
    の3/3/53の項目に駐韓アメリカ大使館の見解としてこんな文章があります。

    "any future communications to ROK Govt relating to Dokdo...would be transmitted through [the] Embassy so that there can be no possible misconception as to [the] US position, which as we understand it is that this Island [is] not...subject [to] Korean jurisdiction."

    さらにロブモ氏自身の解説にこうあります。

    The State Department would later look into the allegation that Weyland wrote such a letter and would conclude (by March 12) that he did not do so, nor was any such letter sent to the ROK Defense Ministry.
    国務省は、Weylandがそのような手紙を書いたという申し立てを、後で調査します。そして彼はそのようにしなかった、あるいは韓国の国防省に送られたそのような手紙はなかったと”三月十二日に”結論を出した。

    加えて3/5/53の項目にこうあります。

    Murphy also tells the Department that FEAF Headquarters can find no record of any letter from Weyland to the ROK Government on the subject


    これを見れば少なくとも米国側がWeylandが竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと確認したのは事実のようです。



    GTOMR さん

    Mark MolvoのページにGeneral Weylandの話が出ていて、そこにも「アメリカが竹島を韓国の領土と認めたと歪曲しているというのがあります」が、
    原文がなぜかないのでどうやってこの内容を得たのかに興味があります


    Mark Molvoの該当ページの一番上にとても小さい文字でこうあります。原文を見て書いたものと思われます。

    The majority of information provided on this webpage was obtained from File 322: "Liancourt Rocks", from the Seoul Embassy Records, Record Group 84, the National Archives at College Park, Maryland

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  85. アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米国●●(空総か)司令官により保障されたとして、


    アメリカの内部文書に ”FEAF Headquarters can find no record of any letter from Weyland to the ROK Government on the subject”とあるのをみると上の記事の文章はまるっきり作り話のようです。恐るべきチャレンジ精神です。。。

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  86. 1953年2月27日に、「アメリカが韓国に伝えたこと」、ないしは「それを韓国がどう受け取ったのかということ」、と言い換えたほうが正確かも知れませんが、
    これは、「独島教」というモンスターの生成に、おおきな役割を果たしているのではないかと思われます。

    それだけに、充分な資料を集めたいと思います。

    上記、東亜日報の翻訳は、まだ非常に不完全だと思います。
    「곳」の例もあります(冷汗)ので、慎重にしたいと思います。
    Chaamiey さん、見ていただけたら幸いです。

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  87. matsuさん、確かに印刷が滲んで見にくいですが、若干の修正意見を出して見ます。

    1953.02.28 東亜日報

    獨島漁民の恐怖一掃 空爆演習中止を アメリカ軍で保障
    1953-02-28 夕刊

      一時期、「獨島」の漁民を恐怖の中におとしいれていた「獨島」周辺攻撃演習は、韓国と国連国防局との協議で、隣接する住民達の不安を一掃することになるという。昨二十七日、国防局が発表したところによれば、去る九月十五日、国籍不明の飛行機の爆撃事件●●●●●●●「独島は、」その間我が政府と国連軍「当局間に完全合意を見て」、アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米国「軍総」司令官により保障されたとして、爆撃により「大打撃」を受けてきた漁民達も、●●には安心て漁労に従事できるようになったという。

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  88. Chaamieyさん
    ありがとうございます。

    新たに読んでいただいた部分は、その通りだと思います。

    実は、むしろ、読めていると思っている部分のほうが心配なのですが、
    なにしろ一番肝心な、
    「アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、」
    の部分ですが、これで間違いないでしょうか。これが違うと、またコケます(笑&汗)。

    それから、「UN(国連)国防局」なるものがあるんでしょうか。
    「国防側」かな、とも思います。

    さらに、誰が保障しているのか、という部分もこれまた非常に肝心なところですが、
    確かに、米国「軍」総司令官ともみえるのですが、パッチムが○のようにも見えます。

    これはWeylandと特定できているのであれば、「空」ではないか、とも思います。

    the Commander of the Far East Air Force (FEAF), General Otto Paul Weyland,

    これまでも紹介されているロブモ氏のサイト

    3/3/53: The American Ambassador to Korea, Ellis O. Briggs, sends a telegram to the State Department about a statement made on February 27 by the ROK Defense Minister. The Defense Minister was quoted in the Korean press as saying that the Commander of the Far East Air Force (FEAF), General Otto Paul Weyland, sent the ROK Defense Ministry a letter promising that no further bombing of Dokdo would take place; with the Minister implying that this letter was essentially a U.S. Government recognition of Korean sovereignty over Dokdo.

    http://dokdo-research.com/page9.html

    新訳案
    一時期、『獨島』の漁民を恐怖の中におとしいれていた『獨島』周辺攻撃演習は、韓国と国連国防局(側?)との協議で、隣接する住民達の不安を一掃することに「なった」という。昨二十七日、国防局(側?)が発表したところによれば、去る九月十五日、国籍不明の飛行機の爆撃事件「以来」「問題」●「であった」「独島は、」その間我が政府と国連軍「当局間に完全合意を見て」、アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米国「軍(空?)総」司令官により保障されたとして、爆撃により「大打撃」を受けてきた漁民達も、●●●は安心して漁労に従事できるようになったという。

    この記事のニュースソースは、韓国の「国防部」ですよね。
    上のロブモ氏のサイトでも、
    The Defense Minister was quoted in the Korean pressとあるように。

    ReplyDelete
  89. matsuさん、ほぼ読めたと思います。

    1953.02.28 東亜日報
    獨島漁民の恐怖一掃 空爆演習中止を アメリカ軍で保障
    1953-02-28 夕刊

      一時期、『獨島』の漁民を恐怖の中におとしいれていた『獨島』周辺攻撃演習は、韓国と国連「軍当局」との「合意」で、隣接する住民達の不安を一掃することになったという。昨二十七日、「軍当局」が発表したところによれば、去る九月十五日、国籍不明の飛行機の爆撃事件以来問題であった独島は、その間我が政府と国連軍当局間に完全合意を見て、アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米「極東」総司令官により保障されたとして、爆撃により大打撃を受けてきた漁民達も、●●●は安心して漁労に従事できるようになったという。



     「アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、」は、この記事にはそう書いてあると思います。もちろん、これは韓国側の受け止め方ということだと思いますけどね。




      ついでに翻訳情報を一つ。黄相基氏の「独島領有権」全6回のうち4回まで翻訳ずみですが、残る第5回と第6回は、この「独島領有権」の連載の前に連載された金基洙という人の「独島領有権問題」という寄稿の誤りを指摘するものなので、差し当たり翻訳はやめて、他のことをすることにします。



    2009.12.31

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  90. 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

    「アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し、今後、獨島付近には爆撃がないことを米「極東」総司令官により保障された」としていますが、これ逆なんじゃないですかねぇ? つまり、爆撃がないことを伝えられたので竹島の領有が認められたものと勝手な解釈をして「獨島は韓国の領土の一部であることを認定」されたのだと吹聴しているのではないでしょうか。米側の姿勢はラスク書簡以降、「竹島は日本領」で一貫しています。この立場は韓国側にも伝えられています。一度ならず何度もです。この記事の出る前の1952年12月にも伝えられていますし、翌年の1954年にはヴァン・フリート特使の勧告もなされています。このような状況の下で「独島は韓国領」だなんて言いますかねぇ。日本との協議の状況と照らし合わせて見る必要があるように思います。日本と爆撃地としないことを決定していて、韓国へはその結果を伝えたに過ぎないのではないかということです。

    それともう一点、国連軍は国際法の主体になれるのでしょうか。国連は主体たり得ると思いますが、国連軍はなれないように思います。したがって国連軍に領域主権を云々する権原はないのではないでしょうか。(国連を領有の権原にしたいなら、国際司法裁判所に付託することに同意すればいいんですよ。それは逃げて回っているくせして国連の威を借りようとするとは矛盾していますね。これってもしかしてエストッペルの原則違反の証拠になるのかな?)

    2010.1.1

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  91. 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

    Chaamieyさん
    ありがとうございます。

    誠に、これでほぼ読めたと思います。

    韓国側がどう受け止めたか、という意味で、これはとても重要だと思います。

    このときに、獨島=韓国領をアメリカが認めた、と韓国側は「信じ込んだ」わけで、「独島教」の成立に大きな役割を果たしたのだと思います。

    さらに、実際にはどうであったのか、つまりアメリカは実は認めてなんかいなかったのだ、ということを、実証的に文献で暴く作業が、韓国内でずっと行われてこなかったんだろうと思います。


    以下は韓国側の概論的記述です。

    金学俊『独島/竹島 韓国の論理』
    Hosaka Yuji訳 論創社 2004・5・14,2007・11・5増補版
    206~207p 増補版202p
    1952年7月26日に、日米安保条約の実施のための日米合同委員会が、日米行政協定第二条に根拠を置いて、独島を米軍の演習区域に指定した。日本政府はこの事実を挙げて、「アメリカが竹島を日本領と認めたのである」と宣伝した。しかし韓国政府の抗議によって、アメリカは1953年2月27日にこの島を米軍の演習区域から除くと発表したため、日本政府の主張は意味を失ってしまった。

    愼鏞廈『史的解明 独島(竹島)』韓誠訳1997・6・6刊 インター出版
    206p
    独島が米・日合同委員会によって米空軍の演習基地に決まったという風聞に大韓民国政府から抗議を受けた米空軍司令官は、1953年2月27日付けで独島を空軍の演習基地から除外するという公式書簡を発表した。(注4)
    (注4)往復文書 1953年9月9日付 韓国側口述書 資料集39~40p

    (参考)資料集=独島関係資料集 往復外交文書(1952~1976)
    「竹島/独島問題」に関する日韓両国往復外交文書(1952〜76)  福原裕二
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/4-6-01.pdf
    39~40p

    田村清三郎『島根県竹島の新研究』島根県総務課1965年10月 復刻版1996年3月
    上記「1953年9月9日付 韓国側口述書=韓国政府反駁声明」の翻訳
    150p(八)
    独島に対する声明の末尾で、日本政府は、「竹島は米駐留軍の演習地の一つとして選定されており、・・・日米合同委員会分科委員会は、昭和二十八年三月十九日竹島を演習地から除外することに決定した、云々」そして日本政府は独島が日本領土の一部であるという前提のもとにかかる処置のとられたものと了解する旨のべている。しかしながら、かかる前提は、全く日本政府によってなされた解釈であって何等根拠を有するものではない。反対に、日本政府は韓国政府が申し立てた抗議に対する回答として、昭和二十八年二月二十七日独島を米空軍が選定した演習場から除外する旨韓国政府に対し米空軍司令官から公式に通告をうけた事実を了解すべきである。


    金柄烈『史的検証 竹島・独島』岩波書店2007・4・26 内藤正中と共著
    214p
    1952年9月18日、韓国山岳会主催の第二次鬱陵島・独島学術調査のため調査団が派遣された。だがアメリカの爆撃演習により独島に上陸できずに帰ってきた。(182)
    韓国山岳会はそのことを韓国政府に知らせる。この知らせを受けた韓国政府は、1952年11月10日付で、同事件に関する資料提供と再発防止を要求する内容の公式文書を駐韓アメリカ大使に送った。これに対して、同年12月4日、独島を爆撃演習地として使用しないという内容の回答文書が駐韓アメリカ大使より送られてきたことがある。(183)
    また、同年12月24日、韓国国防部は、今後、独島周辺で、爆撃演習をしないというアメリカ極東軍司令官からの通報を受けたと発表した。(184)
    (182)外務部『独島問題概論』外交問題叢書11 外務部政務局1955 43-47p
    (183)上掲書47p
    (184)上掲書47p

    『獨島問題概論』韓国外務部政務局 1955
    47p(拙訳)
    こうして1952年11月10日付で、外務部からこのような不祥事が再発しないように駐韓アメリカ大使館に抗議を提出した。(付録5参照)
    これに対し、1952年12月4日付の第187号覚書でアメリカ大使館から、そのような事実の確認調査は時日の経過で困難ではあるが、ともかく今後は同島を爆撃演習地として使用することはないだろうという趣旨を伝達してきており(付録6参照)、
    1953年1月20日付の駐韓国連軍連絡基地司令部からは、爆撃演習地としてリアンクール岩(獨島)を使用することを即時中止するのに必要な措置について、すべての管下部隊に指令したと報告してきた。(付録7参照)

    *1955年のこの文献では1953年2月27日のことについては触れていない。
    (上記「付録5,6,7」(英文)をきっちりと翻訳してみる必要があると思います。)


    日本側は、上記の国会でのやりとりのように、

    「日米合同委員会が、昭和二十七年七月二十六日、在日米軍の使用する海上演習場として竹島を指定し、さらに昭和二十八年三月十九日の日米合同委員会分科委員会が、竹島を演習場区域からこれを除外するということを決定した」(椎名外相)

    「この島は去る昭和二十七年の六月に、日米合同委員会で、日本はこれをアメリカの爆撃演習場として貸しまして、そして翌年の二十八年の三月にはアメリカからこれを返されて、解除に同意したのであります。」(日本社会党 森元治郎議員)

    というストーリーのなかで、竹島をめぐっては日米間のやりとりで決まっているとして
    竹島=日本領の根拠としています。(それが正しいと思います)

    これに対し、同じ「物語」をめぐって、韓国側では

    事件は
    1952年9月18日、韓国山岳会主催の第二次鬱陵島・独島学術調査のため調査団が派遣された。(金柄烈)
    ことから始まり

    韓国政府は、1952年11月10日付で、同事件に関する資料提供と再発防止を要求する内容の公式文書を駐韓アメリカ大使に送った。(金柄烈)

    のであるが、

    これに対して、同年12月4日、独島を爆撃演習地として使用しないという内容の回答文書が駐韓アメリカ大使より送られ、
    また、同年12月24日、韓国国防部は、今後、独島周辺で、爆撃演習をしないというアメリカ極東軍司令官からの通報を受けたと発表した。(金柄烈)

    という「物語」で語り、

    さらには
    昭和二十八年二月二十七日独島を米空軍が選定した演習場から除外する旨韓国政府に対し米空軍司令官から公式に通告をうけた(1953年9月9日付 韓国側口述書)

    ことによって
    「アメリカ政府としても獨島は韓国の領土の一部であることを認定し」た、(東亜日報1953.02.28)
    という解釈を、勝手にしてしまったのだろうと思います。

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  92. matsuさん、1952年12月4日付の米大使館からの書簡って、米国の立場は「ラスク書簡」で伝えたとおりであるとの記載のあるものではないでしょうか。もしそうであるなら韓国は官民一体となって歴史を歪曲したことになりますね。
    幸い覚書の番号まで明らかになっているようですから、米国側の資料も当たって見るべきかと思います。韓国外務部編『獨島問題概論』との違いがみられるかもしれません。

    2010.1.1

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  93. OPPさん

    この一連のコメントのそもそもである

    内藤正中氏の「竹島=独島問題入門」で、「1953年3月19日の韓米合同委員会で演習地域の解除を決定した」とありますが、これについて何かご存じないでしょうか?

    についてですが、

    この「1953年3月19日の韓米合同委員会」なるものは、やはり「日米合同委員会」の間違いで内藤正中氏の「勘違い」なのではないでしょうか。あるいは韓国側の誰かの論文の誤解を、そのまま引き継いでいるのかも知れません。
    いずれにしても「実証史家」である内藤正中氏としては、どこかで注記をして、根拠となる一次史料を示すべきでしょう。

    OPPさんの紹介されたのは
    内藤正中『竹島=独島問題入門~日本外務省「竹島」批判~』2008.10.1刊 新幹社

    ですが、これとほぼ同じ内藤正中氏の文章が、韓国の嶺南大学の出している『獨島研究』NO4に「竹島問題の問題点~日本外務省の「竹島」批判~」として載っていて、半月城氏のサイトにあります。
    http://www.kr-jp.net/ronbun/naitou/naito-0806.pdf

    「韓米合同委員会」について記す「Point 8」は、12枚目 12/16。
    刊行日は2008年6月30日刊(16/16)で、こちらのほうが早いです。

    この『獨島研究』(6月30日刊)には、

    日米合同委員会海上演習場分科会の3月19日の議事録は、「竹島(リアンコールト列岩)爆撃場は今後在日米国空軍によって要求されないこと」と日米双方の合意を見た上で上申し、同日開催の合同委員会で承認されている。

    と、ありますが、新幹社版(10月1日刊)p55は、

    日米合同委員会海上演習場分科会の1953年3月19日の議事録(韓米合同委員会と同日)は、「竹島(リアンコールト列岩)爆撃場は今後在日米軍によって要求されないこと」と日米双方の合意を見た上で上申し、同日開催の合同委員会で承認されている。

    となっていて、「空軍」が消えて、「1953年」が加わって、
    OPPさんも指摘されているように、「(韓米合同委員会と同日)」という記述があります。

    遅いほうの版である新幹社版(10月1日刊)で、このように「(韓米合同委員会と同日)」と「書き加えて」いることは、
    内藤正中氏は、この「日米」「韓米」ふたつの合同委員会が同日に開かれていた、という認識を、確信的に持っていることになります。

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  94. Makotoさん

    この12月4日書簡は、これまたこの一連のコメントのきっかけになったものですが、
    Yabotarouさんのコメントからはじまります。(このページのずっと上のほうにあります)
    再掲します。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    matsu さんは『獨島問題概論』を入手されているようですが、この中で1952年12月4日に駐韓アメリカ大使から韓国政府に送られてきた文書についてどのように書かれているか教えてください。

    『史的検証・竹島・独島』の214pに”同年12月4日、独島を爆撃演習地として使用しないという内容の回答文書が駐韓アメリカ大使より送られてきたことがある”とあり出典が外務部『獨島問題概論』47pとあります。

    アメリカが独島を爆撃演習地として使用しないという回答した”ことを韓国政府はアメリカが独島を韓国領と認めた何よりの証拠であると主張しています。内藤正中氏の『竹島=独島問題入門』にもそのように書かれています。
    しかしサン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い (塚本孝) の10pを見ると12月4日の文書には次のような文章があったことがわかります。

    ”大使館は、外務部の通牒にある「独島」は・・・大韓民国の領土の一部である」との言明に注目します。合衆国政府のこの島の地位に対する理解は、ワシントンの韓国大使にあてたディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日付通牒において述べられています。”

    つまりこの12月4日の文書にはラスク書簡を持ち出して竹島は韓国領ではなく日本領であることを”回答した”部分があるわけですが果たしてこの部分は『獨島問題概論』に載っているのでしょうか?『獨島問題概論』には英文附録があるようですがどうでしょうか。
    ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    これに対する私の返信


    結論から言うと、『獨島問題概論』の付録にのっている英文に、該当の文章はありません。

    それが、この文集の不備によるものか、あるいは故意に削除したものを載せたのか、すなわちアメリカ側の原本をさぐればこの文章があるのか、それともはじめからそんな文章は無かったのか、よくわかりません。

    塚本さん紹介の「資料3」にある「合衆国の1952年12月4日付け通牒」(10p)は、この英文付録6(Annex6、187号覚書)と同じものなのかどうか。
    同じもののようでもありますが、よくわかりません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    こういう経緯ですが、
    Makotoさんがおっしゃるように「米国側の資料も当たって見るべき」だと思います。

    「12月4日書簡」は、アメリカから韓国に送られたわけですから、アメリカに「控え」があるか、韓国に「現物」が残っているかです。
    この「付録6」は、現物ではなく、1955年の資料整理の時にタイピングされたものでしょうから、「原物」は別にあるわけです。

    上記の
    塚本さん紹介の「資料3」にある「合衆国の1952年12月4日付け通牒」(10p)とこの英文付録6(Annex6、187号覚書)は、別のものではないか、とも思っています。

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  95. 数日覗いていないだけで、議論が大きく進展していたのに驚きました。今年はこの、独島という怪物の成育史をテーマに、戦後の日韓米等の資料を精力的にあたって行きたいと思います。近いうちに情報を整理したうえで、必要な資料を集めて行くつもりですので、ご協力お願いします。

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  96. Makotoさん

    塚本孝論文の載っているサイトです。

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/index.data/09.pdf

    非常に重要な論文だと思います。
    ・・・・・・・・・・・・・・・

    あわせて、ここで触れられている10月3日付書簡「リアンクール岩に韓国人Koreans on Liancourt Rocks」(あるいは「リアンクール岩の韓国人」)については、以下の半月城氏の本があります。さきほどのコメントとともにのせようと思って書き写していたのですが、長くなるのと、日本語訳を全文書き写すのが大変なのでカットしていました。上記の塚本論文にも言及されていますので、一部分ですが、せっかく写したので載せておきます。


    内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争 歴史資料から考える』新幹社 2007・3・1
    326p
    アメリカ大使館の秘密書簡(朴炳渉)

    書簡は、アメリカ軍による第二次竹島=独島爆撃事件を機に、駐日アメリカ大使館により作成され、国務省に送られました。書簡の背景を明らかにするために「第二次竹島=独島爆撃事件」の概要を尹漢坤氏の文から左記に引用します。なお、書簡は、アメリカの韓国史研究者であるロブモ氏により発見されました。(1)

    1952年9月15日午前11時ころ、米極東軍司令部所属の爆撃機が独島上空に出現し、独島を二回旋回した後、四個の爆弾を投下して南へ飛んでいった。当時、独島には二十余名の船員と海女が操業していたが、幸いにも人命被害はなかったようだ。
    ちょうど、国土究明事業で韓国山岳会の第二次鬱陵島・独島学術調査団一行三六名が9月18日に鬱陵島へ来ていたが、この時、(1948年についで)再度起きた独島爆撃の消息に接するようになった。一行は関係当局に電文を送り、この消息を伝え、調査団の安全な航海を保証してくれるよう要求した。しかし、一行が9月22日、二回目に独島(ママ)を出発し、午前11時ころ、独島付近2キロの海上に接近したとき、突然4台の飛行機が現われ、海上に爆弾を投下した。結局、再び上陸ができず、鬱陵島に帰還することになった。(2)

    (1)http://www.geocities.com/mlovmo/temp8.html#oct3
    (2)尹漢坤「米軍の独島爆撃と独島領有権」(韓国語)『独島特殊研究』法書出版社 2001年239p

    書簡
    発信 アメリカ大使館 東京 659 1952年10月3日
    受信 国務省 ワシントン
    件名  リアンクール岩の韓国人Koreans on Liancourt Rocks

    (原文印影・起こし、日本語翻訳あり)(省略)

    なお、(1)は、現在は、以下にあり
    http://dokdo-research.com/temp8.html#oct3

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  97. 52年12.04の資料は二つあり、
    駐韓米国大使館から韓国外務省へのNote 187、
    1952.12.04.USDOS 1952j. US Embassy in Korea "Note No.187 to ROK Ministery of Foreign Affairs" 1952/12/4 (USNARA/Doc. No: N/A)(on file with author)

    E. Allan Lightner, Jr. 在釜山アメリカ大使館から 米国務省北東アジア課への手紙
    1952.12.04.USDOS 1952f. Mr E Allan Lightner Jr (Charge d'Affairs ad interim US Embassy in Korea)"Foreign Service Despatch from US Embassy in Korea: Incident regarding Alleged Bombing of dokdo ISland(Lianocurt Rocks)" 1952/12/4 (USNARA/694.9513/12-452)
    というのがありますが、このNo.187の内容はわかりません。

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  98. Molvoのサイトとその他の経緯を見てみると、
    2/28日の報道は、3/3に、韓国政府は、Weylandの手紙を、かれらの(領有権)主張の為に使うためにおそらく歪曲していると述べており、そして3/5日にアメリカによって否定されていますね。

    1953.02.28. 獨島漁民 恐怖一掃 空爆演習中止? 美軍? 保障

    1953.03.03.USDOS 1953c "Incoming Teleagram to US Secretary of State from US Ambassador Briggs in Korea" 1953/3/3 (USNARA/694.95B13/3-353)
    発 The American Ambassador to Korea, Ellis O. Briggs
    宛 the State Department
    内容:(2/28の東亜日報に載った)2/27日の韓国国防大臣の声明
    1.FEAFのOtto Paul Weylandが韓国国防大臣に書いた、Dokdoをもう爆撃しないと約束した手紙で、これが韓国国防大臣によって、アメリカ政府がDokdoに対する韓国の主権を認める事をほのめかしている
    2.they believe the ROK Government has probably distorted the meaning of any such note from General Weyland to suit its own purposes.

    1953.03.04.1953.03.04 米国側は、竹島に対する韓国の領有権を承認した事実はないと発表
    (『島根県竹島の新研究』) 

    1953.03.05.
    発  American Ambassador to Japan, Robert Murphy
    宛  the State Department
    1.日本外務省がWeylandがの声明の報道にかんして アメリカ大使館に照会をしてきた

    2.Weylandが韓国国防相に出した手紙の記録は見つからない
    (Murphy also tells the Department that FEAF Headquarters can find no record of any letter from Weyland to the ROK Government on the subject)
    3.韓国政府は、

    1953.03.11.USDOS 1953d, "Outgoing Telegram to US Embassies in Korea and Japan from Mr. Dulles (Secretary of State") 1953/3/11 (USNARA/694.95B13/3-353 CS/H)
    発 Mr. Dulles (Secretary of State"
    宛 US Embassies in Korea and Japan
    内容:不明

    1953.03.17
    発 The American Ambassador to Japan, Robert Murphy
    宛  the State Department
    内容
    アメリカ大使館が、日本に対して通達した内容
    1.General Weylandの手紙は証拠がない
    (there was no evidence of General Weyland´s letter)
    2.”韓国が主張する独島の認識”は公式なアメリカの声明ではない
    (there was no official American statement recognizing the Korean claim to Dokdo)

    1953.03.19「日米合同委員会で竹島の米軍演習場指定解除」(田村)

    1953.03.03と03.04の原文資料が望まれるところです。
    原文をおそらく見ているのにもかかわらず、肝心なところの原文資料が何故か彼のサイトには欠落しているようです。

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  99. ここに出てくる中井猛之進博士の著書、欝陵島植物誌があります。(直接この投稿とは関係がありませんが)

    http://www.archive.org/details/reportonvegetati00naka

    15ページ目に欝陵島地図が記載あります。
    http://www.archive.org/stream/reportonvegetati00naka#page/n15/mode/2up

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