Below is a page from a 1904 Japanese text entitled "The History of Joseon Civilization" (朝鮮開化史 - 조선개화사), which was written by Tsuneya Seifuku (恒屋盛服). The page below is from the 3rd edition.
I noticed that it gives the eastern longitude of Joseon as 130° 35", which would be near but not including Ulleungdo, but I will not write anymore about this since I do not read Japanese.
I do not know if something has been posted about this before, but if it has, just let me know.
Information on the book can be found HERE.
Gerry,
ReplyDeleteThe author's name is Tsuneya Seifuku, and it was supervised by Kunitomo Shigeaki.
Thank you, Pacifist.
ReplyDeleteDoes it say anything else interesting?
Gerry,
ReplyDeleteThis is one of the documents Korean present as the proof Japanese recognized Takeshima/Dokdo as Korean territory. The text is very interesting, but confusing.
This is from what I wrote here.
1901(明治三四)年 - 恒屋盛服(Tsuneya Seifuku)「朝鮮開化史」
朝鮮の東端が130度35分である事を明記している。"金崗山の一支東海に入る六十余里峙立して鬱陵島となる一に蔚稜と書す即ち古の于山国なり後新羅に入る別名は武稜、羽稜共に字昔相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島と云ふ"と鬱陵島を説明している。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/blog-post_23.html
One of the branch range of 金崗山 runs into East Sea about 60 ri and become rising Ulleungdo. It is also written as "蔚稜", namely ancient Usanguk. Later, it became part of Shilla. The alter name is "武稜" and "羽稜" from the name closeness of the Chinese character. There are 6 large and small islets. The largest one is called Usando (Japanese call Matsushima)-Takeshima(Jukdo)."
I remember matsu said something interesting about the history of book or something, but I can't find where it is right now. GTOMR said something about it either here.
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html?showComment=1208183760000#c2235433983817141231
Thank you, Kaneganese.
ReplyDeleteUlleungdo's largest neighboring island is Jukdo, so, again, it sounds like this text was saying that Usando/Jukdo was the same island, just as the 1999 Korean newspaper article said.
Kaneganese,
ReplyDeleteHere are the links to 1901 edition on the Dokdo Guardian site:
Cover
Ulleungdo Info
Hello, long time no see!
ReplyDeleteAS kaneganese said,I wrote something on coment part below.
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Saturday, June 16, 2007
1902 Japanese Document Describing Ulleungdo
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I think it was May or June this year.
Sorry,all in Japanese.
and,kaneganese wrote opposite opinion. please read all.
The point is;
恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901)
quotes many from
『皇城新聞』1899・9・23
the issue which Gerry tlanslated the other day.
Compare the two text.
恒屋盛服 『朝鮮開化史』is in
国会図書館近代ライブラリー
Japan's Nationa Diet library
33/294コマ (34p~35p)
http://kindai.ndl.go.jp/BIBibDetail.php?tpl_wid=WBPL110&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=1&tpl_hit_num=1&tpl_bef_keyword=&tpl_action=&tpl_search_kind=1&tpl_keyword=&tpl_s_title=&tpl_s_title_mode=BI&tpl_s_title_oper=AND&tpl_s_author=&tpl_s_author_mode=BI&tpl_s_author_oper=AND&tpl_s_published_place=&tpl_s_published_place_mode=ZI&tpl_s_published_place_oper=AND&tpl_s_publisher=&tpl_s_publisher_mode=ZI&tpl_s_publisher_oper=AND&tpl_s_nengou=AD&tpl_s_published_year_from=&tpl_s_published_year_to=&tpl_s_ndc=&tpl_s_ndc_mode=ZI&tpl_s_heading=&tpl_s_heading_mode=ZI&tpl_s_heading_oper=AND&tpl_s_jp_num=40015085&tpl_s_toc=&tpl_s_toc_oper=AND&tpl_item_oper=AND&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_end_of_data=
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On this comment, I compared Ulleungdo part of these books and articles below, and found they resemble very much.
・田渕友彦『韓国新地理』(1905博文館)
・葛生修亮『韓海通漁指針』(1903黒龍会)
(=originally葛生修亮「韓国沿海事情」『黒龍』2号(1901 6月)
・恒屋盛服『朝鮮開化史』(1901博文館)
・『皇城新聞』1899光武3・9・23
・岩永重華『最新韓国実業指針』(1904・8・7)(朝鮮協会)
Sorry it is very long, and all in Japanese.
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田渕友彦『韓国新地理』(1905博文館)や葛生修亮『韓海通漁指針』(1903黒龍会)は、前から気になっていた資料なので、国会図書館で見てきました。
驚いたことに、田渕友彦『韓国新地理』の「欝陵島」の部分は、葛生修亮『韓海通漁指針』の該当部分を、一部省略・簡略化しながら、ほとんどそのまま、丸写しにしたものです。
当時は、著作権なんぞという観念はなかったんだなあ、と思った次第です。
となると、田渕の『韓国新地理』は、一次史料としての価値は、ほとんど無いように思います。
さらに、この本は、認識が混乱しているというか、編集が杜撰です。本文では「江原道」のところに欝陵島と「ヤンコ島」をについて記述しながら、巻頭地図では「竹島(リヤンコールト岩)」と載せており、ヤンコ島の名前はありません。もしかしたら、原稿が出来上がってしまってから、巻頭地図に最新情報を入れたのかもしれません。しかも、地図は「韓国全図」というタイトルですが、その中に「竹島(リヤンコールト岩)」という、日本領になってからの名称を入れているのも杜撰です。
また、ヤンコについて、葛生の『韓海通漁指針』で、「韓人及び本邦漁人、之をヤンコと呼び」(123p)とあるのを、田渕『韓国新地理』では、「俗に之をヤンコ島と称す」(308p)としていますが、もともとが「まる写し」だとすると、1905年段階でも本当に「ヤンコ島」と称していたのかどうか。一次史料としての価値は微妙です。
一方で、この本は、明治38年(1905)9月9日に、東京で有数の出版社である博文館から発行されており、「竹島(リヤンコールト岩)」の名前入りの地図が堂々とのっていることから、
日本政府は、竹島の領土編入を、1906年に鬱島郡守沈興澤に告げるまで「秘密にしていた」、という韓国側の議論には、大きな反証になると思います。
そこへいくと、葛生修亮『韓海通漁指針』(1903 1月4日発行 黒龍会)は、
全体が著者自身の実際の踏査に基づいており、一次史料として非常に貴重な本だと思います。
当時の欝陵島の様子が、生き生きと書かれています。でも、葛生自身は、実際に欝陵島まで行ってはいないのではないか、とも思えます。それは、欝陵島の項目については、~と云ふ。~と云ふ。という表現があいついで出てくるからです。
ヤンコ島について「欝陵島より東南の方約三十里」という距離感は、1里4キロで120キロと思えますから、1902年『通商彙纂』(実は西村警部報告5月30日付)の五十海里(90キロ)に比べると落ちます。
実は、この欝陵島とヤンコ島を記述した「沿海地理」の部分は、以前に雑誌『黒龍』に掲載した「韓国沿海事情」に増訂加除を加えたもの、とあり、『黒龍』2号(明治34 1901 6月発行)に、ほぼ同文がのっています。
よって、この報告に載っている時間の基準、「韓人及び本邦漁人之をヤンコと呼び」という時期は、本が発行された1903年ではなく、1901年6月の直前を基準に考えられると思います。
葛生自身、『韓海通漁指針』の前書きで、明治32年(1899)2月、初めて韓国に渡り、33年(1900)34年(1901)に実地調査をして、34年(1901)の8月中旬から11月上旬に『韓海通漁指針』を書いたとあります。そうすると、初めて韓国に渡った1899年2月から、雑誌刊行の1901年6月までの間に、この「ヤンコ」という表現を得ていることになります。
また、葛生は「ヤンコ島」の項目で、数年以前、山口県の潜水器船が、鮑(あわび)、海鼠(なまこ)、石花菜(てんぐさ)を求めて出漁し、無数の海馬(あしか)にさまたげられて漁にならなかったことを書き、数年以来、大分県の鱶(ふか)縄船が出漁していることを書き、昨年春季、実際に帰航した漁夫から取材したことを書いています。この「数年以前」「数年以来」や「昨年春季」の基準は、雑誌出版の1901年6月です。すなわち昨年春季は1900年春ということになります。また、韓人については、漁の記述はありません。
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しかし、遅くとも1901年の段階で「ヤンコ」として竹島=独島を認識していた「韓人」がいることは、やはり重要です。
1900年6月の赤塚=禹用鼎の合同調査の段階では、竹島=独島の存在は欝陵島に住む人間の認識の中には入っておらず、1902年4月の、日本人警察官駐在所の設置により、欝陵島の把握が格段に深まり、リャンコ島も欝陵島に住む人間の認識下に入ってきた、と考えていました。しかし、葛生によれば、1901年の「数年以前」から、山口県や大分県の日本漁民が「ヤンコ島」に出漁していたわけです。
これらの人たちは、欝陵島の港を根拠地にしていたことも考えられます。それは、この1902年10月16日『通商彙纂』(=5月30日付西村警部報告)に、日本人漁民が欝陵島の港を根拠に漁労活動をしていることが書かれているからです。
もしかしたら、こうした接触が、欝陵島の韓人たちにも「ヤンコ」の存在を知らしめていたのではないでしょうか。しかし、欝陵島には「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」(西村報告)でしたから、直接「ヤンコ島」に出向いていって漁をしていた韓人はいなかったのではないかと考えられます。
欝陵島に韓国人漁民がいないことは、古く、有名な
1894(明治27)2・18付『山陰新聞』の「朝鮮竹島(=欝陵島)探検」(松江 佐藤狂水)に「漁業は絶えて従事せるものなく、全く知らざるものの如し」とあり、
また、最近出た『欝陵郡誌』(2007・2・28刊 欝陵郡庁)(原文韓国語)に、
「開拓民が農業移民だったために、漁業に従事することを嫌がるこのような行動のため、独島をはじめとする欝陵島海域の漁業は、欝陵島漁民の主導下では行われず、日本漁民が主導するようになり、それが結局、1905年日本が独島を無住地として自国の領土に編入するという不幸の原因を提供することになったと見なければならない。」とあることからもうかがえます。(第二編 歴史 近代 197p)(「無住地」は「無主地」の誤り)
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なんと、一次史料の宝庫と考えた
葛生修亮 『韓海通漁指針』(1903黒龍会)の、欝陵島のくだりは、
その3分の1ほどが、
恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)からの引き写しでした。
著作権も何もあらばこそ、明治の人にとって、本を書くということは、ひとの文章を、ことわりもなく引用することと同じだったのでは、と思えるほどです。
欝陵島は、金剛山の一支脈。山の高さ四千尺。貝原益軒が日本の所属と言ったこと。
明治十五六年の頃、本邦人某工人を派して伐木に従事、韓廷が抗議。金玉均、白春培、徐敬秀。
貨物売却の時、口銭百分の二を官に納れ、木材には船一隻に百両を納れ、以て公然の密貿易。
・・・これらが、全く同じです。
恒屋盛服の『朝鮮開化史』は、1901(明治34)1・29刊ですから、葛生修亮としては、同年6月の雑誌『黒龍』掲載には、十分に引用が可能でした。
やれやれ、という感じですが、しかし、大きな違いは、恒屋盛服 『朝鮮開化史』が
「大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ」
という有名なくだりを書いていること。
ソウルにいた恒屋盛服は、文献を漁渉すれば、当然、『東国文献備考』や『萬機要覧』に行き当たったので、「于山島(日本人ハ松島ト名ク)」と書いたのでしょう。
ところが、『朝鮮開化史』から多くを引用している葛生修亮が、「于山島」という地名には全くふれていません。そして、その代わりに、漁師たちによる実際の名称である、「ヤンコ島」になっているのは、非常に注目されます。また葛生が「大小六島」説を否定していることも、何か現地のインフォーマントからの新情報があったのかもしれません。
そして、葛生修亮のインフォーマントになった韓人が、この段階で(1899年2月から1901年6月まで)、島の名前を、「石島」とも「独島」とも言い得る可能性があるのに、そちらを使わずに、「ヤンコ」とのみ、言っていることにも注目されます。
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さて、先日来の「引用の連鎖」ですが、
笑うべきことに、
恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)も、これまた、
かなりの部分が、あの有名な
『皇城新聞』1899(明治32) 光武3・9・23
の「欝陵島事況」のパクリでした。
金玉均、白春培、徐敬秀とならんでいるのを見て
はて、どこかで見たな、と思ってみたら、案の定でした。
『朝鮮開化史』の
大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ。
という有名なくだりも、
『皇城新聞』の、これまた有名な、
其附属した小六島中に、最著者は、于山島、竹島。
から来ているんですね。
最後に、もうひとつ、葛生『韓海通漁指針』(1903)120pに、
欝陵島について「支那人之れを松島と呼ぶ」と書いてあり、さすがは葛生、中国資料にもあたっていたか、と思いつつ、はて、中国では、当て字で「タケシマ」というのはあったけれど、「松島」ははじめてだなあ、と思っていたら、もと版の雑誌『黒龍』には、なんと「本邦人は松島と呼ぶ」とありました。
確かに「本邦」と「支那」は、字の形は似ていますが、日本と中国では大違い。なんとも罪作りなミスプリだなあ、と思った次第です。
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さて、今日は、外務省政務局長の山座円次郎が序文を書いている
岩永重華編『最新韓国実業指針』(1904年8月7日刊)についてです。
「江原道」の項目の中に欝陵島とヤンコ島が書かれており、序文を寄せた山座円次郎が、ヤンコ島=独島は韓国領だと認識していたことを示すものだ、とされています。
この本は、『韓国実業指針』という名前の通り、いろいろな情報をまとめたガイドブックのようなもので、実地にあらためて調査をしたというよりは、いろいろな材料をもとに編纂したものであることは、その例言にもあります。
「朝鮮協会」という団体が1902年の3月に出来て、その肝いりで、ハンディな産業紹介を目指したもののようです。
ところが、この本では、欝陵島について、「支那人之を松島と呼ぶ」(293p)と記述しています。あれっと思いました。
「支那人之れを松島と呼ぶ」とは、前回書いたとおり、「本邦人」とあるべきところを「支那人」とした、葛生修亮『韓海通漁指針』(1903)の、出版の際の誤植です。
とすれば、この記述は、『韓海通漁指針』を引いている、ということになります。
そう思ってみると、ずいぶんコンパクトにはなっていますが、『韓海通漁指針』と同じ言い回しが随所にあります。江原道の一番最初のところに、欝陵島とヤンコ島が出てくるのも同じです。
こうなると、テキスト・クリティークの上からは、むしろ、「有難いミスプリ」です。
前に指摘した田渕の『韓国新地理』ほど引用は露骨ではありませんが、この『韓国実業指針』の記述も、『韓海通漁指針』から引用したものと思われます。
つまり、この1904年段階での、「ヤンコ島」という名称それ自体も、欝陵島との関連性も、江原道に属するということも、ただ『韓海通漁指針』の認識を、そのまま受け継いで書いているのではないでしょうか。その意味で、この資料も、一次資料としての価値は低いと思います。
こうして、田渕友彦『韓国新地理』1905も、岩永重華編『韓国実業指針』1904も、
いずれも葛生修亮『韓海通漁指針』1903の認識を、そのまま移している、ということになります。
「ヤンコ島」という名称についても、一見、いろんな人がそう呼んでいたように思えますが、ひょっとしたら、葛生修亮が得た「ひとつの情報」が、「こだま」のように広がっているだけかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、ここで、問題なのは、この本には、外務省政務局長・山座円次郎ばかりでなく、
「朝鮮協会」の日下義雄理事長など8人が序文をよせており、なおかつ朝鮮協会理事・国友重章閲とあって、いわば「朝鮮協会」という、当時の朝鮮問題専門家たちが、「江原道に属して、欝陵島とヤンコ島がある」という認識を、オーソライズしてしまっていることです。
しかも、1904年8月という、中井養三郎が申請を出す、まさに直前の時期に、です。
この本は、8月に1版がでたあと、同じ年の9月に2版、10月に3版と続いて出ており、(「朝鮮協会会報」10、1905年4月・69p)
「購買者の重(おも=主)なるものは、府県庁、官公署、郡市役所、学校、公共団体、商業会議所、銀行、会社、貴衆両院議員等なり」とあります。もちろん、手前みそでもありましょうが、影響力はそれなりに大きかったと思います。
こういうこともあって、当時の日本人の「常識的理解」として、欝陵島にくっつく形でヤンコ島を理解していた、とも言えるのでしょう。そしてこれは、竹島(欝陵島)あっての松島(竹島=独島)という、日本人の伝統的理解にも添うものでしたから、受け入れやすかったのだろうと思います。
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ポイントは、次の2点です。
①「ヤンコ島」という名称について、一見、いろんな人がそう呼んでいたように思えますが、ひょっとしたら、葛生修亮が得た「ひとつの情報」が、「こだま」のように広がっているだけかもしれません。
「ヤンコ島」という名称それ自体も、欝陵島との関連性も、江原道に属するということも、ただ『韓海通漁指針』の認識を、そのまま受け継いで書いているのではないでしょうか。
その意味で、一次資料としての価値は低いと思います。
②(しかし)「朝鮮協会」という、当時の朝鮮問題専門家たちが、「江原道に属して、欝陵島とヤンコ島がある」という認識を、オーソライズしてしまっていることです。
しかも、1904年8月という、中井養三郎が申請を出す、まさに直前の時期に、です。
ご批判をお待ちします。
dear matsu,
ReplyDeleteGreat consideration, I admire you.
さすがに素晴らしい考察ですね。
ところで「韓国実業指針」には実際にヤンコ島が江原道に属すと書いてあるのでしょうか?
確かヤンコ島のことは書いてあるものの、韓国内での実業に必要だから付加的に書いたものであり、江原道に属すという意味ではないと解釈されていたのだとばかり思い込んでいましたが・・・
Thank you, matsu
ReplyDeleteI hope you will join more frequently.
"恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)も、これまた、かなりの部分が、あの有名な『皇城新聞』1899(明治32) 光武3・9・23の「欝陵島事況」のパクリでした。
金玉均、白春培、徐敬秀とならんでいるのを見てはて、どこかで見たな、と思ってみたら、案の定でした。
『朝鮮開化史』の
大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ。
という有名なくだりも、『皇城新聞』の、これまた有名な、其附属した小六島中に、最著者は、于山島、竹島。
から来ているんですね。"
matus said the sentence "大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ" was copied from 皇城新聞 article in 1899.
pacifistさん
ReplyDeleteこの件に関しては以前反論を書いたのですが、matsuさんの言う"「江原道に属して、欝陵島とヤンコ島がある」という認識を、オーソライズしてしまっていることです。"と言うのはかなり穿った見方で、この本は地理の本でさえないわけですし、当時日本人が鬱陵島を拠点に竹島へ出かけていたという事実から、経済圏に入っていたので追記されているのだと私は考えています。matsuさんも書いていらっしゃいますが、(当時の日本人の「常識的理解」として、欝陵島にくっつく形でヤンコ島を理解していた、とも言えるのでしょう。)これはある程度あり得る事で、だからこそこの当時他の漁業等の実業関係の指南書に鬱陵島と併記されていたのではないかと思っています。ただ、領土件の主張の証拠としては、東端が経度を明記してある以上、大変弱いものなのではないでしょうか。少なくとも、これらをもって山座や牧が竹島を韓国の領土だと知っていたと結論付ける内藤教授のような推論はどうかな、と思っています。こうしたある意味、誤記があったとしても、結局韓国側による実効支配の歴史が皆無であることは、調べれば分かることなのですから。
Kaneganese様
ReplyDelete付属の地図にもヤンコ島は含まれていませんね。竹島(Argonaut)と欝陵島は載っていますが。やはり私も今のところKaneganese様と同じ意見です。
今のところと言ったのは、タナカさんのサイトからは肝心の第3節の江原道の記述が読めないからです。http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/businessguide-1904/
この文章を是非読みたいですね。
I guess they are different recognization between 皇城新聞(A) and 朝鮮開化史(B).
ReplyDeleteA)鬱陵と其附属一小六島中に最著者 干山島 竹島
Ullunegdo and ⇒Ulluengdo(Dagelet)
Small six adjunctive island and
most prominent of Usando-Jukdo.⇒Jukdo(Boussole Rock)
B)鬱陵島となる一に蔚稜と書す即ち古の于山国なり後新羅に入る別名は武稜、羽稜共に字昔相近きに因る
大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島と云ふ
Big and small six islands
most prominent one is Usando(Japan so-called Matsushima)⇒Ullungdo(Dagelet/Matsushima)
Jukdo⇒Jukdo(Boussole Rock)
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Ulleungdo's largest neighboring island is Jukdo, so, again, it sounds like this text was saying that Usando/Jukdo was the same island, just as the 1999 Korean newspaper article said.
There are another similar text
ReplyDelete1902.03.韓国略誌 井原儀著 赤間関:和田善平,(明35.3)
近畿地方・・・・・・・・(注意の二)三陟は古へのX直国の都なり。 この沿岸より遥かに東方に鬱陵島(于山島即ち松島)あり、島中、松、杉の巨材を産し近海には鯨、海鼠の魚利あり。
Kyongi and Kwanwon-do area
(Notice 2)
Samchok is old capital of XX kingdom.
There are Ulluengdo(Usando,so-called Matsushima).There are big timber in the island,e.g.Pine tree and Cryptomeria and nearby the sea there are whale and sea cucumber.