竹島問題の歴史

23.6.07

竹島問題の歴史

竹島問題に関する日本側の出来事や文書等を、本サイトに掲載したものを中心に時系列に並べました。これからも随時追加・修正して行く予定です。なお、リンクにあるホームページを中心とした両国側サイトを参考・引用させていただきました。

江戸時代(1600 - 1867)

  • 1617(元和三)年 - 大谷九右衛門が竹島(鬱陵島)に漂着
    日本人による始めての鬱陵島の発見。米子で廻船業を営んでいた大谷甚吉は、越後から帰帆の途次に難風に遭い、竹島(鬱陵島)に漂着した。「竹島渡海由来記抜書控」
  • 1618(元和四)年 - 幕府の「渡航許可書」
    鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けた。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事した。両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていた。この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある松島(現在の竹島)は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになった。
  • 1635(寛永十二)年 - 幕府の「鎖国令」
    鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、日本人の海外への渡航を禁止した鎖国令を発した後、これらの島に対する渡海を禁じていたはずだが、そのような措置はなされなかった。
  • 1643(寛永ニ十)年 - 林羅山「本朝地理志略」(續々群書類従, 巻8所収)
    幕府儒官林羅山が朝鮮国信使申竹堂に贈呈した日本国地理書。隠岐国の最後に「隠岐海上有竹嶋多竹多鰒味甚美海獣曰葦鹿」と記載。
  • 1650年頃 - 鳥取の商人石井宗悦から大谷道喜当て書状
    "松島へ七八拾石之小船遣、鉄砲ニ而ミち打申候ハハバ、小島之事ニ候間、竹島江ミちにけさり、竹嶋之納所大分候ハんと市兵衛望被申候..."村川市兵衛が盛んに松島でアシカ漁をしている事を示すものがある「新修鳥取市史」
  • 1656 (明暦ニ)年頃 - 村上家「松島絵図」
    松島を単独で描いた絵図。入り江や周辺の岩礁などの位置が、韓国・国立海洋調査院が2001年に刊行した現代の竹島の海図とほぼ一致。また、絵図の右上に「松嶋之絵図、嶋之惣廻り壱里之内-」といった表記があり、二つの島からなる松島の周囲の長さなどが記されている。隠岐島や韓国・鬱陵島との距離表記もあり、鬱陵島から松島までの距離が約五十五キロとなっている。
  • 1657(明暦三)年 -
    この時期には既に、村川家単独で松嶋渡海を試みており、松嶋渡海に伴う利権をめぐっては大谷家との間に意見の違いが見られ、両者の意見調整を阿部に求め、万治元年には村川側の考えを詳しく阿部に伝える事となった。
  • 1658(万治元)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
    "将又竹嶋渡海筋松嶋へ之小舟之儀被仰越候、今度市兵衛方ニ様子具承候、去年市兵衛舟出候、着舟不申大分之損仕由、於然 "
  • 1659(万治二)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
    「阿倍四郎五郎儀 去る三月十六日相果て候 在生の打ちに末弟権八郎を養子致し 親同前に御老中には御心懸けられ有難し 来年より竹島の内松島へ貴船相渡す由・・・」
  • 1661(寛文元)年 - 亀山庄左衛門から大屋九右衛門への書簡
    "然者来丑ノ年竹嶋松嶋へ弥貴様 御舟御渡被成候筈市兵方と今度申談候左様ニ御意得年内より御支度可被成候 御仕合能帰朝之時分可預御左右候 将々竹嶋より桐之木御取寄大坂迄御届可被下候 大坂ニテ相良壱岐守殿蔵屋舗 迄御届可被成候 彼御留守居衆 深水仁兵衛殿川原又兵衛殿と申仁両人御座候 彼御方へ内々申遣置御断候ハゝ無 相違請取可被申遣存候 権八方へ二本程我等も一本可申受候 遠路乍御六借資入候 此方二而珍敷木ニテ御座候 間御無心申入候 壱岐守殿御屋 舗者今度村川市兵衛御存知ニて御座候 尚御参府之時分可得御意候 恐惶謹言"
  • 1667(寛文七)年 -斎藤豊仙 「隠州視聴合紀」
    出雲松江藩の齋藤豊仙が隠岐郡代として隠州(隠岐島)を巡察した際、見聞きしたことを採録した近世隠岐の地誌。
  • 1681(延宝九)年 -大谷九右衛門から巡見使宛請書
    「延宝九年酉ノ歳二御順見様宿申上候覚」三代目勝信の幕府巡検使に対する請書 "一、厳有院様御代竹嶋之道筋ニ弐十町斗廻リ申小嶋御座候 草木茂無御座岩ニ而御座候 廿四五年以前阿部四郎五郎様御取持を以拝領船渡海仕候 此小嶋ニ而茂みち之魚之油小宛所務仕候 右之小嶋江隠岐国 嶋後福浦より海上六十里余茂御座候御事
  • 1692(元禄五)年 - 「竹島一件」
    村川家が鬱陵島で、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇した。
  • 1693(元禄六)年 - 「竹島一件」
    大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇し、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰った。幕府の命を受けた対馬藩は、両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始したが、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたらなかった。
  • 1695(元禄)年12月24日 - 幕府から鳥取藩へ「御尋の御書付」
  • 1695(元禄)年12月25日 - 鳥取藩の回答書
  • 1696(元禄九)年 - 伯耆州太守「磯竹島覚書 地理局」
  • 1696(元禄九)年 - 小谷伊兵衛「磯竹島図」
    松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
  • 1696(元禄九)年 - 幕府の「渡航禁制令」
    幕府が竹島(欝陵島)渡航を禁止した際の通達。文書には松島(現在の竹島:Liancourt rocks)が含まれていない。
  • 1696(元禄九)年 - 「安龍福事件」
    安龍福が国禁を犯して日本へ密航。
  • 1724(享保九)年 - 『竹島考圖説』「竹島松島之図」
    松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
  • 1724(享保九)年 - 竹嶋之書附
    鳥取藩が幕府に提出した文書。「享保9年辰申年閏四月十六日」「伯耆国米子の者」「船二艘」。「竹嶋図(享保九甲辰閏4月江戸え書上ノ写)」には、松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
  • 1724(享保九)年4月、 - 「小谷伊兵衛ニ所持被成候竹嶋絵図之写」
    松島(現竹島)が、形状、位置共にほぼ正確に描かれている。
  • 1742(寛保二)年 - 松岡布政「伯耆民諺記」「伯耆民談記」
    続々群集類従に採録されている伯耆地方の一種の風土記
  • 1751-63(宝暦年間) 年- 「竹島図説」
    隠岐の松島として、現竹島が記述されている。
  • 1779(安永八)年 - 長久保赤水「日本輿地路程全図」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の記載。二島の間に「見高麗如自雲州望隠州」。(無彩色)
  • 1779(安永八)年 - 長久保玄珠「新刻 日本輿地路程全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州"。(隠岐も無彩色?)
  • 1785(天明五)年 - 林子平「三国通覧輿地路程全図」
    半島東部に島、図の中央右下に竹嶋(どちらも半島と同じく黄色)。「此嶋ヨリ隠州ヲ望、又朝鮮ヲモ見ル」・「朝鮮ノ持也」の註記
  • 1785(天明五)年 - 林子平「朝鮮八道之図」
    「三国通覧圖説」(1786年刊)の付図の写し。鬱陵島には「鬱陵島」と「于山国」の2つの名称が記載してある。
  • 1786(天明六)年 - 林子平「三国通覧図説」
    「三国通覧輿地路程全図」を作成した経緯を説明。それによると、日本周辺での有事に際しては、近隣との地理的関係が知れる地図が必要であると認識して、日本地図(=長久保赤水の「日本輿地路程全図」)を中心に置き、「三国通覧図説」に附図として収録された四枚の地図「朝鮮国全図」、「琉球国全図」、「蝦夷国全図」、「無人島大小八十余山之図」を繋いで、完成したという。
  • 1789(寛政元)年 - 長久保赤水「亜細亜小東洋圖」
    中国の時代ごとの地図十二枚を収録した地図帳「唐土歴代州郡沿革地図」のうちの一つ。"竹シマ(現鬱陵島)""松シマ(現竹島)"を"ヲキ"や日本と同じ赤褐色に彩色
  • 1787(天明7)年 - Dagelet島の発見
    鬱陵島がフランス軍艦学校のLepaute Dagelet教授によって発見され、"Dagelet"と名付けられた
  • 1789(寛政元)年 - Argonautの発見
    イギリスの探検家、James Colnettが鬱陵島を発見し、"Argonaut"と命名した。このダージュレー島とアルゴノート島はそれぞれ違う緯度と経度だった為に、後の欧米の地図では2つの鬱陵島が描かれる事になる。
  • 1790(寛政期)年代 - 木村蒹葭堂「華夷一覧図」
    「大清」を中心とする東半球図。隠岐西北に"松シマ"と"竹シマ"が日本と同じ朱に彩色
  • 1791(寛政三)年 - 長久保玄珠「新刻 日本輿地路程全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1795(寛政七)年 - 安部恭庵「因幡志」
  • 1796(寛政8)年 - 橋本宗吉「喎蘭新訳地球全図」
    鬱陵島が日本と同じ、朝鮮半島とは違う色で彩色されている。
  • 1801(享和元)年 - 矢田高当「長生竹島記」
    出雲の大社の人。竹島に渡航した水主からの伝聞のさらに伝聞"隠岐州と松島間160里、隠岐州と竹島間260里、 「これぞ聞伝(ききつた)ふ松島哉(かな)と遠見す本朝西海のはて也」 "
  • 1804(文化元)年 - 近藤重蔵守重「邊要分界圖考」「今所考定分界之圖」
    「マツシマ」「タケシマ」が記載。日本及び朝鮮と同じ赤で彩色。特筆すべきは、「岩瀬文庫」蔵の同図では、二島は地名が無く、ヲキノシマや日本と同様に青く彩られている。(朝鮮は黄色)
  • 1811(文化八)年 - 長久保玄珠「改正 日本輿地路程全圖 増修定本新分郡界」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(無彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1823(文政六)年 - 大西教保「隠岐(遠記)古記集」
    「隠州視聴合紀」を基礎としてそれを敷衍して詳述したもの。"亥の方四十里にして、松島あり。周り一里余にして、生木なき岩島といふ。"隠岐の漁夫の実見談など"隠岐と松島間40余里、隠岐と竹島の間70里"
  • 1827(文政十)年 - 中川顕允「石見外記」
    高田屋嘉兵衛の商船が"松竹二島ノ間ニ出デ"と記述
  • 1828(文政十一)年 - 因府・江石梁編述「竹島考」
  • 1830-1844(天保年間) - 「天保雑記十八」
    "隠岐の松島"の記述あり
  • 1830-1844(天保年間) - 「竹嶋渡海一件記 全」
    竹島事件の供述調書の抄録
  • 1833(天保三)年 - 長久保赤水「新刻日本輿地路程全図」
    無彩色図。竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1835(天保6)年 - 伊丹屋善兵衛他「唐土歴代州郡沿革地圖」
    1789(寛政元)年長久保赤水作成の改訂版。"竹シマ(現鬱陵島)""松シマ(現竹島)"が日本と同じ色で彩色。
  • 1836(天保七)年 - 竹島事件(竹島一件)
    濱田藩の御用船係を務めていた廻船問屋会津屋八右衛門(1798-1836)は、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島へ渡航し、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めた(一説には中国・東南アジアまで行ったとされる)。しかし後に幕府隠密、間宮林蔵に内情が知られ、天保7年(1836)、八右衛門と橋本三兵衛は処刑され、家老岡田頼母等は自刀した。一連の取調べの内容を記述した文書が多く残されており、その中で八右衛門と橋本三兵衛が松嶋(現竹島)に渡海する名目で竹嶋(現鬱陵島)に行くことにした経緯をそれぞれ証言した。つまり、当時の日本人は竹嶋(現鬱陵島)に関してはともかく、松嶋(現竹島)は日本の領内であると認識していたことが分かる。「竹嶋渡海一件記 全」
  • 1837(天保八)年 - 「竹嶋渡海禁止令」
    幕府による竹嶋渡海の禁止令が出されるが、この中にも松島(現在の竹島:Liancourt rocks)が含まれていない。
  • 1840~1860(天保年間)年 - 文鳳堂こと 山城屋忠兵衛「文鳳堂雑纂」
    "隠岐の松島"の記述あり
  • 1842(天保十三)年 - 岡嶋正義「因府年表」「因府歴年大雑集」
  • 1843(天保十四)年 - 松村九兵衛他「日本圖 : 天保再鐫改正」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)(無彩色)
  • 1846(弘化三)年 - 栗原信充「改正 日本輿地路程全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州"。現竹島に島根県隠岐諸島を指す「隠岐国」と同じ彩色を施した、「改正日本輿地路程全図」(1779年刊)の改訂版。
  • 1849(嘉永二)年 - 高柴英三雄「嘉永新増 大日本國郡輿地全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。(彩色)
  • 1849(嘉永ニ)年 - フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
  • 1853(嘉永六)年 - 整軒玄魚圖「大日本海岸全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(現鬱陵島)(無彩色?)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1854(安政元)年 - ロシア軍艦のパルラダ号(Pallada)が鬱陵島の位置を精測
    さきにコルネットがアルゴノートと呼んだ鬱陵島の位置として報告された経緯度が不正確である事が分かり、その後の欧米の地図では、アルゴノート島を点線で表したり、「現存せず」と注記したものが表れる。
  • 1854(安政元)年 - 松浦武四郎「竹嶋雑誌」
  • 1855(安政二)年 - 酒井喜煕「皇国総海岸図」
    水戸藩士の酒井が幕府所蔵の地図や水運関係者の聞き取り調査から作製。海岸の状況や港の施設、航路の距離・帆走方向を収録。松島(現在の竹島)と竹島(現在の鬱陸島)は無彩色。ただし、福岡県沖の御号島(現在の沖ノ島)も無着色。隠岐周辺の地図では、竹島渡海の港であった福浦(現在の隠岐の島町)付近に「松島竹島ハ亥子ノ間二当ル」と、当時の地図では初めて両島に至る航路の方角を示す表記が見つかり、隠岐島との間で交流があったことをうかがわせる。
  • 1857(安政四)年 - 「亜細亜小東洋圖」
    1790(寛政四)年の長久保赤水作成の改訂版。"竹シマ(現鬱陵島)""松シマ(現竹島)"を"ヲキ"や日本と同じ赤褐色に彩色している。
  • 1861(文久一)年 -佐藤政養 「新刊輿地全図」幕末を代表するメルカトル図法による世界地図。原図は1857年のオランダ製の航海用地図で、内容が詳しく正確なうえ、世界の主な都市・山川の一覧がある。佐藤政養は幕末から明治にかけての蘭学者・技術者で、勝海舟の塾で蘭学、測量術を学んだ。隠岐と朝鮮半島の中間に"タケ●●"と読める日本と同じ色で彩色された島がある。また、国境線と思しき点線がその島の朝鮮寄りの位置を通っている。
  • 1862(文久二)年 - 武田簡吾「新鐫万国航海図」イギリス人庸普爾地(John Purdy)氏が1845年に作成した地図を、1858(安政5)年に沼津の医師武田簡吾らが翻訳刊行したものである。本図は図右の英語によると1862年2月に横浜で作られた版である。ロシア使節プチャーチンの旗艦が伊豆下田港で地震のため大破し、その船にあった世界地図の補修の際に模写したものである。本来のより北方にタケシマともう一島が描かれている。国境線と思しき点線がその南を通っている。
  • 1862(文久二)年 - 井上治兵衞「日本郡國一覽」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)
  • 1864(元治元)年 - 逸見豐次郎「増訂 日本輿地全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色?)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1864(文久四)年 - 「大日本海陸全図」竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州" (*2)
  • 1865(元治二)年 - 松川半山譯 「新刻 大日本程路全圖」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の描写。竹島(鬱陵島)(彩色)のところに"見高麗猶望雲州隠州"
  • 1867(慶応三)年~1881(明治十四)年 - 太政類典
  • 1867(慶應三)年 - 勝海舟「大日本國沿海略圖;大日本沿海畧圖(元題簽)」
    "(明治大学蘆田文庫HPより)"仮に編としたが, 海舟の序文によれば, 昨今航海術が発達して船航が繁くなったので, 英国出版の地図が非常に精細なのを, わが家塾で刻して以て航行の便りとせしむとある。幕末に流行した翻訳日本図の代表的なものの一つである。南が上(普通の地図とは上下逆転)。凡例あり。序末福田に朱印。「伊豆諸港」として, 「江ノ浦・戸田浦・安良利浦・田子浦」4港の図を付す。黄色の表紙。 "
    竹島(アルゴノートの位置)(朝鮮半島と同色に彩色)、松島・ホウリルロック・セユル崎(現鬱陵島)(朝鮮半島と同色に彩色)、リユエンコヲルト ローツク(無彩色?)
  • 1867(慶應三)年 - 勝海舟「大日本國沿海略圖;大日本沿海畧圖(元題簽)」
    上と同版
  • 1868(慶応四)年 - 大谷勝廣「竹島渡海由来記抜書控」
    「元和四年竹島渡海御免之 御奉書頂載同年より竹島渡海相始め凡七拾八年之間無怠慢毎年渡海仕候」御公儀貢物上納は雖不仕と誠に空居之嶋甚吉見顕日本之土地広め御式帳戴之段抜群之働と御称美 因茲ニ三年振又は八九年自毎に参勤公方様江独礼御目見被爲仰付其上御紋御時服御尉斗目拝領竹島渡海之船江も御紋船印等拝領被爲仰付冥加之至 云々」江戸幕府は当時、鬱陵島を日本領土として認識していたことがわかる
  • 時代が特定できないもの - 「朝鮮竹嶋渡航始末記 全」「大谷家由緒實記」「朝鮮通交大紀」「竹島紀事」「通航一覧」池田家文書他松浦静山「甲子夜話 続編三」

明治時代(1868 - 1912)

  • 明治~大正 - 「大日本全國略圖」「大日本国全国図」
    竹島(現鬱陵島)、松島(現竹島)の位置が正確に記載されている。
  • 1870(明治三)年 4月- 佐田白茅「朝鮮国交際始末内探書」
    明治3年、外務省の佐田白茅が、朝鮮を訪問し日朝交渉を行った報告書。「竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末」と書いてあるが、その中に"松島"は竹島(鬱陵島)の隣島であり、これまでに掲載した書留等が何もない、つまりこの島に関する記録が何もない、と報告している。日本は江戸時代からLiancourt Rocks のことを"松島"と呼んでおり文書や地図なども存在することからも、ここでいう鬱陵島の"松島"はは日本の"松島"ではないことが分かる。韓国人が鬱陵島の隣接島、竹島(現竹嶼)を松島とも呼んでいた事は、1882年に、朝鮮政府の鬱陵島検察使、李奎遠は高宗に「鬱陵島の隣接島は竹島で、松島とも呼ばれる」と返答している事とも符合する。1875年の佐田による地図改訂新鐫朝鮮全図 では、竹嶼までしか描かれておらず、この"松島"が現竹島でないことが分かる。
  • 1870(明治三)年 - 橋本玉蘭「大日本四神全図」
    竹シマ(アルゴノートの位置)(朝鮮半島と同色に彩色)、松シマ・ホウリルロック・セユルサキ(現鬱陵島)(朝鮮半島と同色に彩色)、リユエンコヲルト ローツク(無彩色)
  • 1873(明治六)年 - 染崎延房編著「朝鮮国細見全図」
    鬱陵島の注記に"日本ニテハ竹島と云"、とありその南側に亐山島が描かれている。
  • 1873(明治六)年 - 海軍水路寮「朝鮮全図」
    亐山島が蔚島の西側に描かれている。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1874(明治七)年 - 北畠茂兵衛他「五畿八道朝鮮細見全図」
    亐山島が蔚陵島の西側に描かれている。さらに西の越松浦沖に小島あり。竹島(Liancourt Rocks)は描かれていない。
  • 1874年(明治七年)8月 - 南摩綱紀「内地誌略」
    日本地理の教科書。山陰道隠岐國項“此国ノ西北に当リテ松嶋竹嶋アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松嶋ヘ海路凡六十九里三十五町、竹嶋ヘ海路凡一百里四丁餘、朝鮮ヘ海路凡一百三十六里三十丁ト”
  • 1875(明治八)年 - 陸軍参謀局作製「亜細亜東部輿地図」
    左上の本来島がない位置に竹島、鬱陵島の位置に"松島"の記載があるものの、現在の竹島の位置には何の記載もない。
  • 1875(明治八)年11月 - 陸軍参謀局「朝鮮全図」
    左上の本来島がない位置に竹島、鬱陵島の位置に"松島"の記載がある。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1875(明治八)年 - 佐田白茅「改訂新鐫朝鮮全図」
    1870年「朝鮮国交際始末内探書」 著者による。竹嶼までしか描かれておらず、この"松島"が現竹島でないことが分かる。「朝鮮国交際始末内探書」 中の"竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末"の松島が現竹島では無いことが分かる。
  • 1875(明治八年) - 大槻修二「日本地誌要略」
    “其(隠岐)西北洋中ニ、松島竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ”
  • 1876(明治九)年 - 海軍水路寮「朝鮮東海岸図」
    ロシア海軍が作成した図が基になっている。この図には「オリウツ礁」「メコライ礁」というロシア名で、竹島を成す2つの主島、西島・東島が書かれている。
  • 1876(明治九)年 - 農商務省図書所属「朝鮮全図」
    1875年の陸軍参謀局「朝鮮全図」と同じ図。左上の本来島がない位置に"竹島"、鬱陵島の位置に"松島"がある。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1876(明治九)年 - 文部省「小学用地図」
    竹島と鬱陵島は「山陰道之図」の中で、隠岐島の北西の方角に描かれている。位置は正確性を欠くものの、「松島」(現在の竹島)、「竹島」(同鬱陵島)と当時の名称を記してある。
  • 1876(明治九)年 - 島根県の報告「(竹島の)由来の概略」
    明治政府が竹島(欝陵島)と他一島についての情報を必要とした1876年に、島根県に依頼して報告させた竹島の由来を伝える文書。
  • 1876(明治九)年7月 - 武藤平学「松島開拓之議」
    ウラジオストックに滞在中の商人、武藤平学が外務省へ出した請願書。"松島"という日本に所属すると思われる島を開拓できるよう申し入れた。それをきっかけに外務省で論議を重ねた結果、1880年に調査船を派遣し、その"松島"が実は鬱陵島であった事を確認した。
  • 1876(明治九)年 - 島根県の報告「渡海禁制のいきさつ」 島根県が明治政府に提出した「竹島渡航禁制のいきさつ」の書類。
  • 1876(明治九)年10月 - 島根県「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」
    内務省地理寮は地籍編纂のため、島根県に対して竹島(鬱陵島)について照会し、これに対して島根県が内務省に提出文書。島根県の報告を受けた内務省は「版図の取捨は重大の事件」であるため、1877年太政官の判断を仰いだ。
  • 1877(明治十)年 - 公文録 内務省之部 一 明治十年三月 2A-25-公2032
  • 1877(明治十)年 - 公文録 内務省之部 一 明治十年三月 2A-10-公2032 磯竹島略図含む
    内務省が1877年3月20日に出した通達で、鬱陵島と"他一島"が朝鮮の領土であるとされている。
  • 1877(明治十)年 - 陸軍参謀局「大日本全図」
  • 1877(明治十)年3月20日 - 太政官指令「日本海内竹島外一島~~本邦関係無之」
    公文録内務省部。鬱陵島と"外一島"が朝鮮の領土であることが明記されているが、"外一島"についての記述はない。アルゴノート島(竹島)とダージュレー島(松島)と考えられる。
  • 1877(明治十)年8月 - 陸軍編纂「原版朝鮮全国之写」
    鬱陵島の東に于山。鬱陵島から蔚珍まで赤い航路の点線
  • 1877(明治十)年 - 文部省出版 宮本三平「日本全図」
    左上の本来島がない位置に竹島、鬱陵島の位置に"松島"の記載がある。
  • 1878(明治十一)年 - 田辺太一「松島巡視要否ノ議」
    外務省公信局長 田辺太一。
  • 1878(明治十一)年 - 渡邊洪基「松島の儀」
    外務省記録局長の渡邊洪基がその文書「松島の儀」の中でLiancourt Rocksは日本の領土であることを明記した
  • 1878(明治十一)年1月 - 「日本地誌提要」
    「山陰道」隠岐國島嶼の項に「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳フ、穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町。」
  • 1879(明治十ニ)年 - 地理局発行「大日本府県管轄図」
  • 1880(明治十三)年7月 - 軍艦「天城」の調査
    日本政府は、混乱した鬱陵島周辺を調査し確認するため軍艦「天城」を派遣。当時誤って「松島」と称せられていたのが、鬱陵島であることが確認された結果、その後の刊行にかかる海図では、一貫して鬱陵島に該当する島を「松島」、今日の竹島に該当する島を「リアンコールト岩」と称した
  • 1881(明治十四)年 - 北澤正誠「竹島考證 上」
    1880年の軍艦天城による鬱陵島調査の経緯を著した
  • 1881(明治十四)年 - 北澤正誠「竹島考證 中」
  • 1881(明治十四)年 - 北澤正誠「竹島考證 下」
  • 1881(明治十四)年8月 - 「竹島版図所属考」
    竹島考証の要約本
  • 1881(明治十四)年 - 内務省地理局「大日本府県分轄図」
    左上の本来島がない位置に"竹シマ"、鬱陵島の位置に"松シマ"
  • 1882(明治十五)年 - 武田勝次郎編「大日本朝鮮支那全図」
    左上の本来島がない位置に"竹シマ"、鬱陵島の位置に"松シマ"(朝鮮半島と同色に彩色)、竹島(Liancourt Rocks)の位置に正確に2つの島からなる"リエンコルト・ロックス"(無彩色)の描写と記載がある。
  • 1882(明治十五)年 - 地理局「朝鮮国全図」
    鬱陵島の位置に"松島"がある。本来の位置に竹島(Liancourt Rocks)はない。
  • 1882(明治十五)年 - 鈴木敬作「朝鮮国全図」
    左上の本来島がない位置に"竹島"、鬱陵島の位置に"松島"がある。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1882(明治十五)年 - 木村「銅版朝鮮国全図」
    左上の本来島がない位置に"竹島"、鬱陵島の位置に"松島"がある。本来の位置に竹島(Liancourt Rocks)はない。
  • 1882(明治十五)~1883年 - 「公文別録」
    鬱陵島での日本人の活動について朝鮮政府より抗議を受けた明治政府が担当者を鬱陵島に派遣し、情況を調査し、邦人を連れて帰った際の記録。中央の考えとは違い、現地の法人と朝鮮人島民とは互恵的な関係を築いており、島長は邦人による木材の伐採を盗伐とは考えていなかったことが分かる。(Ref code : A03023617600)
  • 1883(明治十六)年11月12日 - 「朝鮮国蔚陵島出張檜垣内務少書記官復命ノ件」
    鬱陵島在住の邦人を退去させるために同島へ派遣された檜垣の記録。"故ニ今回御國人民ノ帰國ヲ聴クヤ愁容表ニ溢レ哀情甚タ切ニ殆ド兄弟親友ニ別ルガ如ク 或ハ行李ヲ擔ヒ或ハ荷物ヲ負ヒテ海岸マテ送リ来レリ 御國人民モ亦タ別レヲ惜ミ且差向キ其ノ窮困ヲ憐察シ私ニ米若干包ヲ恵恤セシト云フ 其相親睦セル斯ノ如キヲ以テ島長ノ他ハ御國人民ノ伐木スルヲ以テ敢テ意ニ介セス"など、朝鮮政府の意向にも関わらず、日本人と現地の人々が相互互恵的な関係を築いていたことが分かる。帰国の際、飢餓を防ぐために請われて米を寄付して帰った事まで記録されている。(Ref code : A03023617600)
  • 1883(明治十六年) - 水路雑誌
    1879年、及び1880年に軍艦天城が調査
  • 1883(明治十六)年 - 「蔚陵島ニ邦人渡航禁止審査決議ノ件並ニ決済」
    朝鮮政府から邦人による鬱陵島での材木伐採の抗議を受けた明治政府は。鬱陵島への日本人の渡航を禁止する。太政大臣三条実美の記録に「北緯37度30分東経130度49分ノ洋中ニ位スル一ノ島嶼即日本称竹島或ハ松島朝鮮称蔚陵島」とあり、Liancourt Rocksが鬱陵島の範囲に入っていないことと、日本が鬱陵島を竹島或いは松島と呼んでいたことが分かる。
  • 1887(明治十八)年 - 小松運編「朝鮮八道誌」
    百二十四度三十分に起こり百三十度三十五分に●く
  • 1886(明治十九)年3月- 海軍省「寰瀛水路誌 大日本沿海北西部 第一巻下」
    「隠岐全島」の記述があるが、竹島は全く載っていない。
  • 1886(明治十九)年12月- 海軍省「寰瀛水路誌 第二巻第二版 韓露沿岸」
    鬱陵島と共に「リアンコールト列島」の名前で竹島の記述がある。
  • 1886(明治19)年 - 大槻修二「改正日本地誌要略」
    「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」
  • 1887(明治ニ十)年 - 「大日本水産会報告」
    第65号では隠岐の漁業活動についての報告がある。冒頭に隠岐の島々の説明がなされているが、竹島に関する言及はない。
  • 1890(明治二三)年 - 「明治二十三年 往復簿 一 内閣記録局」
    鬱陵島への邦人上陸禁止についての記録。“北緯三十七度三十分西経八度五十七分(東京本丸天守基より起算)に位する日本称松島一名竹島朝鮮称鬱陵島の儀は従前彼我政府議定の義も有之日本人民妄に渡航上陸不相成○○心得…”当時日本人が鬱陵島を松島とも呼んでいた事が緯度経度の表示も含めて正確にわかる。
  • 1890(明治二三)年 - 高木怡荘「外国地理」
    北緯縦三十三度至四十三度 東経 縦百二十四度至百三十度
  • 1891(明治二四)年 - 海軍作成「日本本州九州及四国附朝鮮」
    正確な位置に鬱陵島("松島"と括弧書)、竹島(Liencourt Rocks)の位置に正確に2つの島からなる"リアンコールト岩"の描写と記載がある。
  • 1891(明治二四)年 - 谷口流鶯「受験応用万国小地誌」
    北緯縦三十三度至四十三度 東経 縦百二十四度至百三十度
  • 1894(明治二七)年 - 柴田源三郎編「明治二十七年 朝鮮全図」
    鬱陵島の東に于山島。鬱陵島から蔚珍まで赤い航路の点線と"時蔚珍得便 風二日到"の注記。竹島(Liancourt Rocks)はない。
  • 1894(明治二七)年 - 田中紹祥編「新撰朝鮮全図」
    松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1894(明治二七)年 - 東京地学協会編纂「朝鮮全図」
    鬱陵島(松島)の記述と描写。本来の位置に竹島(Liancourt Rocks)はない。
  • 1894(明治二七)年 - 清水常太郎「朝鮮輿地図」
    松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写無し。
  • 1894(明治二七)年 - 大田才次郎「新撰朝鮮地理誌」
    松島(経緯度を鑑みて鬱陵島)と朝鮮半島の間に竹島(幻のアルゴノート島に相当)が記載されている。竹島(Liancourt Rocks)は版図外、描写なし。総論で朝鮮国の東端を東経130度35分としている。
  • 1894(明治二七)年1月14日 - 山陰新聞"漁船改良丸の好果"
    隠岐の漁船が鬱陵島へ試験渡航した事の記事
  • 1894(明治二七)年2月18日 - 山陰新聞"朝鮮竹島探檢 (松江佐_狂水生投)."
    竹島(リャンコ島)についての記述がある
  • 1894(明治二七)年 - 足立栗園「朝鮮志」
    朝鮮国の東端を東経130度36分と定義(東京:東経139゚42' を基本地として西経9°6′)
  • 1894(明治二七)年7月 - 林正「新撰朝鮮国地図
    東経百二十四度三十分=百三十度三十五分
  • 1894(明治ニ七)年11月 - 水路部(現・水産庁)「朝鮮水路誌」
    総記地勢項において朝鮮の位置を"北緯33度15分より同42度25分 東経124度30分より同130度35分に至る"と規定(現竹島を除外)。朝鮮東岸の項に警戒すべき日本海の諸島として、リアンコールト列岩(北緯37度14分東経131度55分)、鬱陵島(一名松島)、ワイオダ島(北緯42度14分30秒東経137度17分)が列記されており、領土の規定ではなく日本人のための朝鮮周辺船舶航行のための書物であることが分かる。その他にも、例えば第三篇の最終項(朝鮮海峡)に明らかに日本領である対馬と壱岐の間の東水道が明記されている。ちなみに“朝鮮の北東東側に於て竹嶼を南南西1 1/4西凡そ2 3/4里に望む”と、竹嶼の記述もある。
  • 1895(明治ニ八)年3月 - 「公文類集」第十九編
    通商彙纂を毎月二回刊行
  • 1895(明治ニ八)年 - 吉倉清次郎「実測日清韓軍用精図」
    竹島(存在しない島・アルゴノート)、松島(現鬱陵島)が描かれている。松島(現鬱陵島)のすぐ東に国境線のような線が引かれている
  • 1895(明治ニ八)年 - 秋山四郎「外国地誌」
    位置 朝鮮は亜細亜州の東部に突出する半島国にして、北緯三十三度十分より四十三ぢにいたり、東経百二十四度十分より百三十度四十分にいたる。
  • 1896(明治ニ九)年 - 海軍水路局「朝鮮全岸」
    正確な位置に鬱陵島("松島"と括弧書)、竹島(Liancourt Rocks)の位置に正確に2つの島からなる"リアンコールト岩"の描写と記載がある。ただし、壱岐・対馬、九州北部、本州の一部までも記載されており、現竹島を朝鮮の領土としている訳ではない。朝鮮半島周辺の船舶航行のための地図であろう。
  • 1897(明治三十)年 - 「日本水路誌」
    現竹島の記述なし
  • 1897(明治三十)年 - 英国海軍「海図油谷湾至安島崎、付隠岐諸島・若狭湾」(複製)
    山口県から福井県に至る日本海沿岸が描かれ、隠岐島の北西に「Liancourt Rocks」(リアンコールト列岩)と記された竹島の記載がある。
  • 1898(明治三一)年 - 河合利喜太郎「亜細亜東部輿地図」
    陸軍参謀局が1875年に作成した『亜細亜東部輿地図』と同じ系譜の図である。松島(鬱陵)と書かれた東側に竹島と書かれているが、経緯度が正確ではないのが分かる。
  • 1899(明治三ニ) - 岩崎重三 池田鹿之助「新式万国地理」
    東経百二十四度三十分=百三十度三十五分
  • 1900(明治三三)年 - 山上万次郎「新撰大地誌 前編(世界之部)」
    教師用参考書 東は東経百三十度三十五分なる図満江〔註:豆満江)の口に至る
  • 1901(明治三四)年 - 恒屋盛服「朝鮮開化史」
    朝鮮の東端が130度35分である事を明記している。"金崗山の一支東海に入る六十余里峙立して鬱陵島となる一に蔚稜と書す即ち古の于山国なり後新羅に入る別名は武稜、羽稜共に字昔相近きに因る大小六島あり其中著名なるを于山島(日本人は松島と名く)竹島と云ふ"と鬱陵島を説明している。
  • 1902(明治三五)年 - 外務省通商局編纂「通商彙纂」
    外務省が編纂した領事報告の集大成。雑記、「韓国鬱陵島事情」として、鬱陵島の様子が詳しく記述されている。松島(現竹島)についての記述もある
  • 1902(明治三五)年 - 永田健助編「高等地理学講義」 
    百二十四度と四十度との間に跨り(我中国)…東経百二十四度より百三十一度に及び、
  • 1903(明治三六)年1月 - 東京 黒龍会 葛生修吉「韓海通漁指針」
    朝鮮近海の漁業のガイド。朝鮮の東端を東経130度35分と明記。欝陵島と同じ箇所にLiancourt rocksのことが書いてあるが、この本が領土を描いたものではない。欝陵島の位置が北緯130°45分~53分50秒、東経37°34分40秒~31分50秒の範囲として示されており、また、この本の最初の部分に「韓海沿岸略図」という朝鮮近海の地図がついており、これにも欝陵島は描かれているが、Liancourt rocksはない。
  • 1903(明治三六)年4月 - 小藤文次郎「朝鮮全図」
    正確な位置にUlleung-do(Matsu-shima)の描写があるが、本来の位置に竹島(Liancourt Rocks)はなし。
  • 1903(明治三六)年 - 佐田白茅「征韓論の旧夢談」
  • 1903(明治三六)年 - 「日本地理志料」
    「隠岐國」条「別有松島竹島、松島距隠地郡福浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」
  • 1904(明治三七)年2月20日 - 博文館「日露戦争実記 満韓新図」
    竹島と松島との間に国境線
  • 1904(明治三七)年2月23日 - 「日韓議定書」締結
    第四条の2項に"大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為軍略上必要ノ地点ヲ臨検収用スルコトヲ得ル事"とあり、軍略上必要な地点は日本政府が収容することが可能になった。従って、韓国側の"明治政府が日露戦争の為の戦略のために竹島の領土編入を秘密裏に行った"と言う主張は全くの出鱈目であることが分かる
  • 1904(明治三七)年3月 - 「日露戦争実記」
    附属の地図がまだ、架空のアルゴノート島を竹島として描写
  • 1904(明治三七)年6月 - 山本庫太郎「朝鮮移住案内」
    朝鮮の東端を130度35分と定義
  • 1904(明治三七)年7月 - 岩永重華「最新韓国実業指針」
    韓国で仕事をする日本人のためのガイドブック。朝鮮の東端を130度35分と定義(現竹島を除外)。付属の韓国全図にLiancourt Rocksの記載無し。江原道の項に“ヤンコ島 ; ヤンコ島 鬱陵島及我隱岐島の中間三十里の海上あり、全島居民なし、沿岸碇泊に便なれども薪材及飮料水を得難し、近海鮑海鼠石花菜等を産し、又鱶の捷息饒多なれども海馬の群に妨ばられ漁獲好果を得ずと云ふ。”とある。この頃には鬱陵島に多数の日本人が移住しており、現竹島まで行き漁をしていたことが分かっている。その為に鬱陵島での実業の様子を記録したものであると考えられる。
  • 1904(明治三七)年7月3日 - 中井養三郞「リャンコ島領土編入並二貸下願」
    竹島でアシカ猟を営んでいた隠岐の中井が乱獲を恐れて他者を排除するために独占権を得ようと、政府(内務・外務・農商務省)へ竹島の領土編入を願い出たもの
  • 1904年(明治三七)8月23日 - 「第一次日韓協約」
    日本の特命全権公使、林権助と韓国(李氏朝鮮)の外部大臣、尹致昊が調印した協約のこと。これにより韓国政府は、日本政府の推薦者を韓国政府の財政・外交の顧問に任命することとなった。
  • 1904(明治三七)年9月 - 矢津昌永「韓国地理」
    朝鮮の東端を東経130度58分とする。
  • 1905年(明治三八)年1月28日 - 明治三十八年一月二十八日閣議決定
    閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の所管とする
  • 1905年(明治三八)年2月15日 - 「内務大臣訓令訓第八十七号」
  • 1905年(明治三八)年1月28日 - 「島根県告示第四十号」
  • 1905年(明治三八)年1月28日 - 「島根県庶第十一号」
  • 1905年(明治三八)年2月22日 - 島根県知事が、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、島根県告示第40号で竹島の名称とともにその所属所管を明らかにする
  • 1905(明治三八)年2月24日 - 山陰新聞"隠岐の新島"
    山陰新聞が竹島が隠岐島司の所管になった県知事の告示を伝える
  • 1905(明治三八)年4月14日 - 「島根県令18号」
    海驢漁を許可制にする漁業取締規則改正
  • 1905(明治三八)年5月3日 - 「島根県地第90号」
    知事による測量命令及び島司による実測報告
  • 1905(明治三八)年5月17日 - 官有地台帳登録(第32号隠岐国、周吉、穏地、海士、知夫郡官有地台帳)
    島根県、竹島を隠岐国四郡の官有地台帳に登録
  • 1905(明治三八)5月20日 - 「乙農第805号」
    海驢漁の許可
  • 1905(明治三八)年5-6月 - 「官報 明治編」
  • 1905(明治三八)年6月 - 「日露戦争画報」
    「ああ竹島」と言う読者による日露戦争で有名になった竹島に対する賛歌が載っている。
  • 1905(明治三八)年 - 岡部福蔵「日本民族の新發展場萬韓露領地誌」
    朝鮮の東端を130度35分と定義。
  • 1905(明治三八)年 - 「韓国新地理」 (博文館)
    朝鮮の東端を130度58分と定義
  • 1905(明治三八)年6月5日 - 島根県知事、あしかの捕獲を許可制とする(中井養三朗外3名に対しアシカ漁業の許可をする)。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられた。
  • 1905(明治三八)年7月3日 - 山陰新聞"海戦記念絵葉書"
    日本海海戦で有名になった竹島の絵葉書についての記事
  • 1905(明治三八)年7月22日 - 海軍人夫38名竹島に上陸し、仮設望標を建てる
  • 1905(明治三八)年7月31日 - 「通商彙纂 第50号」
  • 1905(明治三八)年8月 - コンクリート基盤木造の海軍仮設望楼の建設(佐世保鎮守府司令長官から島根県知事への取り締まり要請)
  • 1905(明治三八)年8月6日 - 山陰新聞"竹島渡航"
    島根県の松永知事をはじめとする一行47-48人が竹島へ渡航する計画である事を伝えている。
  • 1905(明治三八)年8月19日 - 島根県知事松永武吉、随員3名とともに海軍用船京都丸にて竹島視察
  • 1905(明治三八)年8月22日 - 山陰新聞"松永知事の竹島視察"
    山陰新聞が松永武吉・島根県知事が8月19日に自ら新しい領土である竹島を巡視した事を伝える。
  • 1905(明治三八)年8月22日 - 山陰新聞"県庁内に海豚放養"
    竹島で捕獲された"海豚"のこども三頭を連れ帰って養育している事をつたえている。
  • 1905(明治三八)年9月5日 - 「ポーツマス条約」
    日露戦争の講和条約。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が各地で暴動を起こした。
  • 1905(明治三八)年10月 - 大韓帝国が英国宛に抗議文を発送
    同年10月17日発官報『第384号』によると、8月12日の第二次日英同盟第三条の条文について、大韓帝国の朴斉純外相がこれを非難し、駐韓イギリス公使と日本公使に抗議している。つまり、竹島編入についても、この時期韓国は抗議可能であった。
  • 1905(明治三八)年11月17日 - 「第二次日韓協約」(乙巳保護条約、韓国保護条約)
    日露戦争終結後に日本の特命全権公使、林権助と韓国の外部大臣、朴斉純が調印した協約のこと。高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、日本からの信頼を無くしていた大韓帝国に対しより信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。これにより韓国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となった。
  • 1905(明治三八)年 - 「公文類集」第29編
    日本の竹島領有宣言の過程
  • 1905(明治三八)年 - 奥村碧雲「鬱陵島見取図」
    奥村碧雲が明治38年に島根県の調査団の一行と共に、竹島、鬱陵島を調査した時のことをまとめて出版した本「竹島及鬱陵島」に付属していた地図。竹嶼、観音島の描写、記述あり。亭石浦"チョンドロボ"(現在の石浦)
  • 1905(明治三八)年 - 軍艦橋立の竹島調査
  • 1906年 - 「大日本史」
    1657年徳川光圀が尊王の目的で編さんを始め、1906年に完成した歴史書。"国郡誌"は、長久保赤水によって草稿が書かれ、明治時代に粟田寛によって新たに編修された。"隠岐国4郡"の項に"別に松島、竹島があり、これ(隠岐国)に属する(隠岐古記、隠岐紀行、案ずるに隠地郡の福浦より松島に至るには海上69里、竹島に至るには100里4町である。韓人は竹島を称して鬱陵島という。すでに竹島といい、松島といい、我が版図となした。智者を待つが知れない。ついては、以て考えに備える)"とある。
  • 1906(明治三九)年3月 - 奥原碧雲「中井養三郎氏立志伝」
    中井の聞き取り調査。中井が「朝鮮全岸」「朝鮮水路誌」などの海図を見て竹島を朝鮮領かと疑ったことが分かる。
  • 1906(明治三九)年3月11日 - 山陰新聞"竹島行決定"
    島根県の一行が新たに編入された領土である竹島への視察を決めた
  • 1906(明治三九)年3月27日 - 知事命による島根県役人の視察
    島根県第3部長神西由太郎外43名、竹島の実態を調査
  • 1906(明治三九)年4月1日 - 山陰新聞 "竹島土産"
    山陰新聞が島根県の一行が竹島と鬱陵島を訪問し、鬱島(鬱陵島)郡守・沈興沢に竹島を編入した事を伝える。沈は一行には何も言わずこれを歓迎し、後に上司に書簡を送り、その事を伝えた。沈はその書簡の中で、"独島"(Liancourt Rocks) が鬱島に属する、と書いたが、その島は鬱陵島から100里(40km)の所にある、と述べている事から、沈は実際はLiancourt Rocksがどこにあるのかさえ知らなかったことが分かる。
  • 1906(明治三九)年4月8日 - 山陰新聞"竹島渡航日記"
    ある人物による竹島への渡航日記。中井の名も見える。
  • 1906(明治三九)年4月30日 - 島根県地2034号
    知事による竹島借用許可、使用料(4円20銭)の徴収
  • 1906(明治三九)年 - 農商務省水産局「韓国水産業調査報告」
    朝鮮の東端を東経130度35分と定義
  • 1907年(明治四十)年 - 「ハーグ密使事件」
    大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた万国平和会議に皇帝の密使を送り、自国の外交権保護を訴えた事件。
  • 1907年(明治四十)年7月24日 - 「第三次日韓協約」
    ハーグ密使事件をうけて、韓国統監であった伊藤博文が事件を厳しく追及すると、高宗は子の純宗へ譲位した。第二次日韓協約によって日本の保護国となりすでに外交権を失っていた大韓帝国(朝鮮王朝)は、この条約により、高級官吏の任免権を韓国統監が掌握すること(第4条)、韓国政府の高級官吏に任命されるのは日本人であること(第5条)などが定められた。これによって、朝鮮の内政は完全に日本の管轄下に入った。
  • 1907(明治四十)年 - 「日本水路誌」
    本州北西岸、竹島(Liancourt rocks)
  • 1907(明治四十)年 - 「朝鮮水路誌」
    第2改版、第5編 日本海及朝鮮東岸、竹島(Liancourt rocks)、「竹嶼」の下に洋名の(Boussole Rock)
  • 1907(明治四十)年 - 小林杖吉「外国地理表解」 
    東経自百二十四度十二分至百三十度三十五分 北緯自三十三度十分至四十二度二分
  • 1908(明治四一)年 - 博愛館「島根県全図」
    竹島は描かれていないが、隠岐の西北に、伊能図にも描かれていた桂島が描かれている。
  • 1908(明治四一)年9月 - 「最近大韓国全図」
    鬱陵島はあるが、本来の位置に竹島(Liancourt Rocks)はない。
  • 1909(明治四ニ)年 - 「韓国水産誌」
    観音島を"鼠項島(ソコウトウ)"、現在の石浦を"亭石浦・チョンポドン"記述。鬱陵島の項に竹島の記述はない。韓国の東端を東経130度42分とする。
  • 1909(明治四ニ)年 - 陸地測量部「東亜輿地図」
    竹島は、島根県東部と鳥取県、隠岐を中心とした日本海沿岸を描いた「松江」の地図に見られ、隠岐諸島の北西部の鬱陵島には「韓国江原道」、竹島には「島根県隠岐」と行政区が記載。
  • 1910年(明治43)8月22日 - 「韓国併合条約」(正式名称=韓国併合ニ関スル条約)
    漢城で寺内正毅統監と李完用首相が調印、29日に裁可公布して発効。「韓国皇帝が韓国の統治権を完全かつ永久に日本国天皇に譲渡する」ことなどを規定。
  • 1910(明治43)年12月 - 足立栗園「朝鮮新地誌」
    朝鮮の東端を東経130度58分と定義
  • 1911(明治四四)年 - 「日本水路誌」
    第6巻、第2編 朝鮮東岸、竹島(Liancourt rocks)
  • 1911(明治四四)年 - 「朝鮮及南満洲地理教授備考
    極東 鬱陵島東端 東経百三十度五十四分
  • 1911(明治四四)年 - 井原儀「最新日本地理資料
    極東 鬱陵島(松島)の東端 東経百三十度五十四分 
  • 1911(明治四四)年4月 - 矢津昌永等「大日本地理集成」
    十三度二分(豆門江の沿岸の永遠近傍)極南は北緯三十三度四十六分(済州島XX浦に当る)極東は東経百三十度五十八分〔豆門江の江口)極西は東経百二十五度五分〔小乳X角永山串)なり。

大正時代(1912 - 1926)

昭和時代(1926 - 1989)

  • 1927(昭和ニ)年 - 島根県隠岐島庁「隠岐及竹島全図」
  • 1933(昭和八)年2月 - 島根県隠岐支庁発行「隠岐島誌」
  • 1933(昭和八)年 - 「朝鮮沿岸水路誌」
    第1巻 朝鮮東岸及南岸、竹島(タケシマ)。前各刊の朝鮮水路誌における「欝陵島」の項目が、「欝陵島及竹島」となっているが、説明には"竹島(竹嶼)は島(欝陵島)の東岸を距る一浬余の処に在り、周囲陟嶮其の頂扁平にして大樹密生す、高さ一二九米"とあり、この”竹島”は欝陵島属島の”竹嶼”のこと
  • 1934(昭和九)年 - 島根県隠岐島庁「隠岐及竹島全図」
  • 1935(昭和十)年 - 「朝鮮全図」
  • 1935(昭和十)年 - 「朝鮮現勢便覧」
    領土の東限は「慶尚北道鬱陵島竹島」、位置は「東経130度56分」
  • 1936(昭和十一) - 陸軍陸地測量部「地図区域一覧図」
    軍隊の運用のためその管区を定め、部隊を運用する為の地図
  • 1939(昭和十四)年4月24日 - 島根県隠岐郡五箇村議会、竹島を五箇村の区域に編入することを議決
  • 1940(昭和十五)年8月17日 - 島根県、竹島の公用を廃し、海軍用地として舞鶴鎮守府に引き継ぐ

 戦後(1945.8.15-)

  • 1943年11月27日 - カイロ宣言
  • 1945(昭和ニ十)年5月 - 海軍水路部発行「本州沿岸水路誌」
    隠岐列島及び竹島の項に竹島の記述がある
  • 1945(昭和ニ十)年6月 - 海軍水路部発行「朝鮮沿岸簡易水路誌」
    第1冊 "竹島は日本島根県でおおよそ 86海里, 鬱陵島で東南方へ約 50海里の朝鮮東海岸にある島"
  • 1945年07月26日 - ポツダム宣言
    ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」と明記されている。
  • 1945年08月15日 - 日本、ポツダム宣言を受諾
  • 1945(昭和ニ十)年11月1日 - 海軍省消滅に伴い、竹島は大蔵省所管になる
  • 1946(昭和ニ一)年1月29日 - SCAPIN第677号
    連合国司令部「若干の外郭地域の日本からの政治上及び行政上の分離に関する覚書」 竹島を日本の行政権から外すが、第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されている。
  • 1946(昭和ニ一)年2月21日 - 「勅令第97号」
    昭和二十年勅令第707号の改正 竹島に適用
  • 1946(昭和ニ一)年6月 - SCAPIN第1033号
    連合国司令部覚書「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」
    連合国はいわゆる「マッカーサー・ライン」を規定する同文書をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めた。その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記された。しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されている。
  • 1946(昭和ニ一)年11月18日 - 「勅令第548号」
    竹島に財産税法を施行
  • 1947(昭和ニニ)年 - 警察権の停止
    警察大学校資料
  • 1947年3月 - 米国国務省において対日講和に向けての最初の草案
    草案の根拠はSCAPIN667。その後、数度の若干の修正を経た草案(1949年11月付)は、GHQ外交局長兼アメリカ駐日政治顧問であるウイリアム・シーボルトにも送付された
  • 1947年09月16日 - SCAPIN 1778
    竹島を米軍射爆に指定。通知は日本側にのみなされた。第一次
  • 1949(昭和ニ四)年1月8日 - 李大統領が対馬返還要求
    李承晩大統領は政府樹立直後の1949年1月、新年記者会見で日本に対馬島返還を要求した
  • 1949年(昭和ニ四)年1月23日 - 漁船第12万栄丸が韓国船から銃撃うけ、船員1人死亡。
  • 1949年(昭和ニ四)年2月1日 - 韓国船から銃撃うけ、第6・第8ゆたか丸でも1人。
  • 1949年(昭和ニ四)年5月 4日 - 韓国船から銃撃うけ、大繁丸でも1人死亡。
  • 1949(昭和ニ四)年8月 - 海上保安庁発行「本州北西岸水路誌」
    隠岐列島及び竹島の項に竹島の記述がある
  • 1949年09月19日 - SCAPIN 2046
    SCAPIN-1033を廃止する旨の指令書
  • 1949年11月14日 - 駐日政治顧間代理(シーボルド)からバタワース国務次官補へ電報
    日本側の要請を受けたシーボルト駐日政治顧問がアメリカ国務省に対して、「竹島はもともと日本領だった」と提言した。正規の意見書(1949年11月19日付)でも、リアンクール岩(竹島)が
    我々の提案にかかる第3条において日本に属するものとして明記されることと提案した
  • 1950年 - オーストラリア政府の質問に対する米国の回答
    米国極東アジア事務局のロバート・A・フィアリー氏のメモ(日付なし)より。(『オーストラリア政府からの質問状に対する回答』より) 「内海の島々、隠岐列島、佐渡、奥尻、礼文、利尻、対馬、竹島、五島列島、琉球北部、伊豆諸島、などの永く日本領と認識されていた島々は日本が保持することになるであろうと考えられている。」
  • 1950(昭和ニ五)年7月 - 連合国総司令部覚書(SCAPIN第2160号)
    連合国総司令部は、竹島を米軍の海上爆撃演習地区として指定した。
  • 1951(昭和二六)年1月26日 - 韓国は独自に「対日講話会議に対する韓国政府の方針」を定める
  • 1951(昭和二六)年3月~4月 - 韓国軍艦による同国近海での日本漁船だ捕が多発。
    2カ月間で30隻がだ捕された。
  • 1951(昭和ニ六)年4月27日 - 韓国が対馬の領有権を主張
    韓国は米国務省に送った文書の中で、サンフランシスコ条約草案の「領土」部分に対して言及しながら、「韓国は正義が永久的平和の唯一の基盤という堅固な信頼で対馬島の領土的地位に対する完全な検討をすることを要請する」とし、「歴史的にこの島は韓国領土だったが日本によって 強制的、不法的に占領された」と言った。しかし、米国側は「対馬は日本が長期間にわたり完全に統治しており、平和条約は対馬の現在の地位に影響を及ぼさない」と答え、韓国の要求を拒否した。
  • 1951年7月12日 - 韓国はアメリカに対して、日本が対馬に対する権利を放棄することなどを含めた10項目の覚書を送る
  • 1951年7月18日 - 韓国は再度、アメリカに対して5項目の要求を行い、「独島・対馬島・波浪島」を韓国領に含めるように求めた。
  • 1951(昭和ニ六)年7月19日 - 北東アジア課朝鮮担当官(エモンズ)による会談覚書
    ダレス氏は韓国大使の伝達文第一項が対馬島に言及していないことを指摘し、韓国大使はこれが落とされたことに同意した。次いでダレス氏はドク島、パラン島二島の位置について尋ねた。ヤン氏は、これらは日本海にある小島であり、大体鬱陵島の近くだと思うと述べた。ダレス氏はこれらの島が日本の朝鮮併合前に朝鮮のものであったかどうかを尋ね、大使は肯定した。ダレス氏は、もしそうであれば条約中の日本による韓国領土の領土権放棄に関する適当な箇所にこれらの島を入れることについて、特に問題はないとした。
  • 1951(昭和ニ六)年7月19日 - 梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡
    米英両国によるサンフランシスコ平和条約草案内容を承知した韓国は、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出した。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及び波浪島(パラン島:存在しない架空の島)を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものであった。
  • 1951年7月26日 - 韓国政府は三度目の修正要求を提出する。
    新たな日韓漁業協定が締結されるまで「マッカーサー・ライン」が存続するように要請した。
  • 1951(昭和ニ六)年8月10日 - 「ラスク書簡」
    ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡は次の通り、明らかに竹島は日本の領土であるということが肯定されているものであった。 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」
  • 1951年8月16日 - 講和条約の最終案が発表される。
    韓国案の第二条A項の領土規定の修正は受けいれられなかった
  • 1951(昭和ニ六)年9月8日 - サンフランシスコ平和条約条約に調印。
    日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定した。(韓国領土に竹島は含まれず)
  • 1952(昭和ニ七)年1月18日 - 李承晩大統領の海洋主権宣言(李承晩ライン宣言)
    韓国大統領李承晩、海洋主権宣言により竹島の領有を主張。以後、日本漁船の拿捕や銃撃するなど竹島を武装占拠し、非武装であった日本政府に対して脅迫外交を開始。 1965年(昭和40年)の日韓漁業協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3,929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人(うち39人が死亡)を数えた。船はすべて没収され、漁民は長期間の抑留の後、処罰されて帰還した。李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国人・朝鮮人472人を収容所より放免し、韓国人密入国者の日本滞在の合法化として在留特別許可を与えた。完全に不法な要求であったが、防衛力を持たない当時の日本は韓国の要求を受け入れざるを得ず、以後これらの処遇は在日韓国・朝鮮人の既得権となったまま、今日に至っている。
  • 1952年01月28日 - 日本による抗議
    政府は、直ちに韓国側へ抗議を行い、海上保安庁では、銃撃をも伴う韓国側の激しい取締りから我が国漁船を保護するため、政府方針に基づき、巡視船を派遣し、漁船と韓国警備艇との間に割って入り煙幕を使用したり、巡視船が漁船を横抱き又はえい航して脱出する、あるいはだ捕寸前の漁船に接舷して、最悪でも乗組員だけは救出する等の困難な作業により、懸命にだ捕防止に努めた。以降、竹島周辺海域に常時巡視船を配備して監視を続けるとともに、我が国漁業者の安全確保の見地から被だ捕の防止指導等を行う。
  • 1952年04月28日 - サンフランシスコ講和条約発効。
  • 1952年(昭和二七)年2月11日 - 漁船第3石宝丸が韓国船に銃撃され、船員1人死亡。
  • 1952(昭和ニ七)年4月 - 「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。
  • 1952(昭和ニ七)年7月 - 日米行政協定
    米軍が引き続き竹島を訓練場として使用することを希望したことを受け、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(注:旧日米安保条約に基づく取り決め。現在の「日米地位協定」に引き継がれる。)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定するとともに、外務省はその旨を告示した。官報に(竹島爆撃機訓練地域として明記)。
  • 1952(昭和ニ七)年10月3日 - Koreans on Liancourt Rocks
  • 1952(昭和ニ七)年11月5日 - Confidential Security Information about Liancourt Rocks
    米国務省極東局北東アジア課長ケネス・T・ヤング発駐韓米国大使館臨時代理大使E・アラン・ライトナー宛て書簡
  • 1952(昭和ニ七)年12月4日 - CONFIDENTIAL SECURITY INFORMATION
    駐韓米国大使館臨時代理大使E・アラン・ライトナー発米国務省極東局北東アジア課長ケネス・T・ヤング宛て書簡
  • 1953(昭和ニ八)年1月12日 - 韓国政府、「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示する。
  • 1953(昭和ニ八)年2月4日 - 漁船第1大邦丸、第2大邦丸が済州島付近で韓国軍の銃撃をうけ、瀬戸重四郎(一説には重次郎)漁労長が射殺される。
  • 1953(昭和ニ八)年3月 - 日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定
  • 1953年04月20日 - 独島義勇兵を結成した韓国の青年が竹島に上陸
  • 1953年06月19日 - 島根県が県漁民に対し、竹島に関する漁業許可権を下す
  • 1953(昭和ニ八)年6月24日 - 隠岐高校水産科教官一行が事実確認のために竹島へ渡航隠岐高校水産科(現・隠岐水産高)の元指導教官、岩滝克己さんの証言。県の試験船からの情報を受け、事実確認のため五三年六月二十四日、学校の実習船に乗り込み、同僚ら十三人で渡航した。日本側の乱獲で絶滅したとされるニホンアシカが、多数生息していた状況を説明。鬱陵島からワカメやアワビ採取のため渡航し、夏から秋にかけて滞在するという三人の韓国漁民がおり、漁獲物の運搬でやってくる仲間の船がしけで来ず、食料が乏しいというので、持参した米とタバコを差し出すと大変喜び、「捕まえたアシカを料理してごちそうすると話した」という。
  • 1953(昭和ニ八)年6月27日 - 島根県、海上保安庁協働で竹島を調査し、韓国人6名に対し退去命令をし、「日本島根県隠岐郡五箇村」という領土標識(木柱)を建てる
  • 1953(昭和ニ八)年7月12日 - 竹島に上陸していた韓国の守備隊により、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した日本の海上保安庁巡視船に向け、発砲・銃撃される。以後、日本政府の抗議にも関らず竹島の武装化を進め、日本の艦船の接近は不可能となり、事実上の占領を実施する。
  • 1953 (昭和ニ八)年7月22日 - アメリカ国務省がラスク書簡の竹島日本所属を追認
    国務省北東アジア課バーマスター(L.Burmaster)による覚書 "日韓間リアンクール岩紛争のあり得べき解決策"
    「ディーン・ラスク国務次官補の1951年8月10日づけ通牒において述べられています。」
    これは竹島を爆撃して抗議をしてきた韓国へ対し、米国政府の公式見解として、ラスク書簡の見解はサンフランシスコ条約締結以降も有効であり、韓国はこの見解、すなわち竹島は日本領で有ると言う事を受け入れるべきだと述べている。
  • 1953(昭和二八)年9月 3日 - 韓国海軍が「李ライン侵犯船は撃沈する」と発表。
  • 1953年07月27日 - 朝鮮戦争終結
  • 1953年9月 - 韓国軍、竹島を軍事占領
  • 1953年10月17日 - 日本の国会議員が海上から竹島を調査
  • 1953年10月21日 - 島根県水産試験船・島根丸の船員と記者が竹島に上陸
  • 1953(昭和ニ八)年10月31日 - 日本弁護士連合会「李ライン問題に関する日本漁民拉致に対し韓国の反省を求める件(宣言)」
    人権擁護大会宣言・決議集“凡そ、1国の領海は、3海里を限度とすることは国際法上の慣行であり、公海内に於ける魚族其他一切の資源は人類共同の福祉の為めに全世界に解放せらるべきである。然るに、韓国大統領は、これを封鎖して、平和的漁船を拿捕し、漁民を拉致し且つ刑事犯人として処罰するが如きは国際正義に悖る行為である。よって、本委員会は、正義と平和の名において、茲に韓国の反省と漁船、漁民の即時解放を求め、以って、相倚り相助け東亜の再建に貢献することを期待する。”
  • 1953年10月23日 - 海上保安庁の巡視船2隻が竹島に近付いて韓国の領土標識を撤去し、日本の領土表示を設置
  • 1953年11月30日 - 駐日米国大使館公使参事官ウイリアム・T・ターナー(William T.Turner)による調書 "リアンクール岩(竹島)論争に関する覚書"
    韓国に対し、我々の以前の見解表明(ラスク書簡)を想起させる。日本との間で解決に至るべき
    強い希望を表明する。合衆国はこの問題にどのような形にせよ介入することを避けるよう努めるが
    衝突が続けばラスク書簡を公表しそこで表明された見解を反復せざるを得なくなるかもしれないと述べる。もし韓国がラスク書簡で表明された見解を受け入れられないなら仲裁裁判か国際司法裁判所への付託に向けた措置を取るべきだと示唆する。
  • 1954年(昭和ニ九)年2月10日 - 外務省の覚書「1954年2月10日付亜2第15号」
  • 1954(昭和ニ九)年8月 - 竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認された。韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認した。
  • 1954(昭和ニ九)年8月15日 - ヴァン・フリート特命報告書
    大統領特命大使ヴァン・フリートが使節団を率いて極東各国を歴訪して作成。非公式に竹島問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれるというアメリカの意向を韓国に伝達した等の事を大統領に報告。
    ・一方的な領海宣言(李承晩ライン)は違法である
    ・米国政府はサンフランシスコ講和条約において竹島は日本領土であると結論している
    ・この領土問題は国際司法裁判所を通じて解決されることが望まれる
  • 1950年代 - 竹島をめぐる論争における日韓それぞれの主張
  • 1954(昭和ニ九)年 - 韓国”独島切手”発行に対する公式抗議
  • 1954(昭和ニ九)年9月25日 - 韓国政府による「獨島領有に関する1954年2月10日付、亜2第15号、日本外務省の覚書として日本政府が取った見解に反駁する大韓民国政府の見解」
  • 1954(昭和ニ九)年9月25日 - 国際司法裁判所提訴についての口上書
    日本政府は、竹島紛争について、国際司法裁判所に付託して、公平な第三者の裁判による解決を韓国に提案。
  • 1954(昭和ニ九)年10月 - 韓国側は国際司法裁判所への付託の提案を拒否。
  • 1954(昭和ニ九)年11月16日 - 駐米日本大使館田中一等書記官との会談覚書 - 主題「リアンクール紛争を安全保障理事会に付託するとの日本の提案」
  • 1954(昭和ニ九)年11月17日 - 駐米日本大使館島公使との会談覚書 - 主題「リアンクール岩」
  • 1954(昭和ニ九)年11月30日 - 韓国守備隊が竹島に近づいた日本警備艇に砲撃する事件が発生。
  • 1955(昭和三十)年2月14日 - 漁船第6あけぼの丸が生月島沖で韓国軍艦に追突され沈没・船員21人が死亡。
  • 1955(昭和三十)年11月17日 - 韓国統合参謀本部が、「李ライン侵犯船は撃沈」と発表
    全日本海員組合が翌18日に「韓国の発表は不当」と中央執行委員会声明を発表。
  • 1958(昭和三三)年5月18日 - 「李ライン侵犯」で韓国に抑留されていた日本の漁船船員が全員釈放された。しかし、この後もだ捕が発生した。
  • 1959(昭和三四)年1月22日 - 韓国警備艇が日本漁船2隻をだ捕。2月4日にも一隻だ捕。
  • 1961(昭和三六)年12月26日 - 日本政府「韓国官憲による竹島の不法占拠に関する韓国政府への抗議について」
  • 1962(昭和三七)年3月 - 日韓外相会談
    日本政府が再度竹島問題の国際司法裁判所への付託を韓国に提案したが、韓国側からは前向きな反応が得られず。
  • 1964(昭和三九)年1月29日 - 漁船第22佐代丸が韓国沿岸で韓周警備艇に拿捕された。
    なお、52年から64年までの間に、韓国によってだ捕された漁船は232隻、2784人。拿捕の際の攻撃で5人が死亡したほか抑留中に収容所で相当数が死亡している。
  • 1965(昭和四十)年5月 - 韓国が米の日韓共同管理提案拒否
    朴正煕大統領がワシントンを訪問した際、ラスク米国務長官が日韓共同で灯台を建設して管理し、領有権争いをしないよう促したものの、韓国側が拒否
  • 1965(昭和四十)年6月22日 - 日韓基本条約調印
    「李承晩ライン」が廃止されるが竹島問題は紛争処理事項とされる
  • 1965-1976(昭和十四-五一)年 - 島根県知事、県議会議長連名で国に対して竹島の領土権確保を要望
  • 1977(昭和五二)年3月19日 - 島根県議会、竹島の領土権確立及び安全操業の確保について決議     
  • 1977(昭和五二)年4月27日 - 島根県竹島問題解決促進協議会(促進協)設立
  • 1977-1985(昭和五二-平成七)年 - 促進協、国に対して竹島の領土権の確立及び安全操業の確保を要望
  • 1987(昭和六二)年 - 竹島・北方領土返還要求運動島根県民会議設立
  • 1977-現在(昭和五二-現在)年 - 国への重点要望として竹島の領土権及び安全操業の確保を要望

平成時代(1989 - 現在)


参考:Yahoo!ニュース - 竹島問題

28 comments:

  1. Gerry,

    I posted this timeline as a trial. It is not perfect at all, so could you put this behind the other posts so that less people see this? Hopefully, near timeline in other language. And could you link this to Timeline Category? I don't know how to do it. And labels, too. Thank you.

    And thank you for the lot of tips. I will try those next time.

    By the way, I am thinking about translating "1905 - 外務省通商局編纂 通商彙纂 第50号" this week.
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1905/
    It was published 3 years later 1902 edition which I translated before. What do you think?

    ReplyDelete
  2. Kaneganese,

    The timeline looks good. You can fill it in as we add more posts.

    Since the timeline is linked in the top menu, I don't think we need to give it a label. Also, the reason you could not link it to the top menu is that I am the one who made the "top menu" post, so I am the only one who can edit it. Anyway, I have linked your post to the menu, so if you want to edit it or add more to it, can just go to top menu, click on Japanese Timeline, and then edit your timeline post.

    I don't think we need to put your timeline post behind the other posts; it looks good. We can just like it gradually move down as we add more posts.

    Sure, it would be great if you translated the 1905 document, but are you ready for another big project like that? Are you a glutton for punishment? Anyway, it should be easily this time since you translated the 1902 document, right?

    Well, thanks again for making that timeline. It should help people find the documents easier.

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  3. Gerry,

    Is there any specific reason you have arranged this timeline in descending order? I am just not used to this and feel weird. Can I make it in ascending order?

    By the way, 1905 document has only 3 pages for Ulleundo. I think it is not that difficult. Well, I hope so... (And I was going to say "next week", not this week.)

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  4. Kaneganese,

    No, there is no reason I put it in descending order, but I think you are right; we should change it to ascending order since that will tell the history in the order it happened.

    Yes, I noticed after I posted about it that the 1905 document was not as big as I thought it was it. Anyway, take your time on it, and thanks for pointing out the problem with the timeline.

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  5. Gerry,

    I just realized that the year of Watanabe's document in timeline in English still labeled as 1877. It is 1878.

    By the way I put all the post of the Japanese side in timeline. How does it look?

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  6. And I added Watanabe's profile to Glossary section. I think he has very interesting background and he was a exra-ordinarily intelligent man. No wonder he grasped the whole history and situation correctly, when other officials are still confused. It reminds me of current hopeless situation of foreign diplomacy policy of my country. Well, we are changing now, gradually at least.

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  7. Kaneganese,

    As Pacifist says, it looks great. I will update the English Timeline and Glossary soon, including fixing the date of the Watanabe document.

    As for Japan's current foreign policy, what do you see as the problem? Personally, I think Japan needs to fight fire with fire, stand up for her rights, and stop allowing Korea and China to write her history for her.

    Also, if the US congress wants to challenge Japan on history, which I think is stupid, then I think Japan should publicly accept the challenge and propose a joint historical research project to look into historical issues with the purpose of making the final report public. If Japan were to make such a proposal, I wonder if the US congress would be as enthusiastic as it is now about digging up old skeletons?

    Also, since the US is trying to put demands on Japan, Japan should return the favor and put demands on the US. For example, Japan should demand that the US government publicly state her interpretation of Article II of the 1951 San Francisco Treaty, and also publicly acknowledge the 1954 Van Fleet Report, which said, "When the Treaty of Peace with Japan was being drafted, the Republic of Korea asserted its claims to Dokto but the United States concluded that they remained under Japanese sovereignty and the Island was not included among the Islands that Japan released from its ownership under the Peace Treaty."

    As I said, if the US congress wants to put demands on Japan, then Japan should return the favor. Part of the problem today is that Japan has acted too passively over the past sixty years; it is time Japan started asserting herself.

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  8. Pacifist,

    I haven't explained all the incidnts and document, some of them are just brief one. If you find mistakes, please let me know.

    Gerry,

    While reading Watanabe's profile, I came to know that he opposed to Ito Hirobumi and Iwakura Tomomi who were trying to revise the treaty between U.S, saying hasty revision would harm the national interest.
    I think it is the beauty of Japanese society not to speak up what you really want to say and to try to avoid conflict and I love this tradition, but if you do that too much in the diplomatic relations, it will hurt both countries in the end. I think you know which country I am talking about.
    Anyway, technically, it is different what Watanabe was trying to do from what I said, but I think we need more man/woman of ability who has broad knowledge from histry to international relationship in MOFA like him.
    (As for U.S.congress, I hope more and more American listen to what Japanese say, since we just started to speak up. And I think American need to be more cautious about Chinese and Korean manipulating them. I understand U.S. people are generous to be open to all the immigrant and consider them as American, but I don't think those people don't consider themselves as the way American think they are. It is happening to Japanese society, too actually. The only difference is it is discrete or not.)

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  9. You guys are great!!!

    The followings are some important documets I think are important.

    1883 the document that clarify what Government meant by Matsuhisma/Takeshima

    image
    http://groups.msn.com/_Secure/0WgAAAK0coyXCx!k958TfUqaqhwKfLT4WJebMHPCnJ3ffsb2nIZFD2paqpOBugkAMKUgQAzKBZ5anXZfl3RaHsKih3dNwPgxiMsBkXWs2bov90S2PUTeLE6RWGJ0MxNzaAVzRipK1dBU/1822%EB.jpg?dc=4675584644896424898
    My horrble translation at Occidentalism
    http://www.occidentalism.org/?p=234#comment-5593


    1883
    Report of a secretary of Ministry of Home Affairs Higaki Naoe who made an official trip to Ullung-do in Korea”

    http://www.occidentalism.org/?p=463#comment-11888
    (two cents at Occidentalism)

    1839 the judgement to punish the fishermen to have visited Ulleungdo, saying that they would visit Dokdo/Takeshima
    image
    http://www.chosunonline.com/article/20061103000005
    document
    http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/tokaikin.html

    I am not good at translation. So pacifist and kaneganese, when you guys have time, please take care of them.
    <(_ _)>

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  10. ponta

    Welcome back!

    Thanks a lot for the information.

    BTW, the last one is the episode in 1836 not 1839, isn't it? Kaneganese already post the article in this site here.
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1836.html

    Anyway, I'm glad that you help us. Your English is better than mine, I think, especially when you argue with that frogman.
    If you don't want to translate them it's okay, we don't mind but please help us in any other way you can. Thanks a lot.

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  11. Thank you, Ponta!

    I am going to add those to the link section later

    Actually, the article in choson online ponta showed us tells us how Korean scholar(金文吉, not you again!) is ignorant of the issue.
    http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=72515&st=title&sw=%E9%87%91%E6%96%87%E5%90%89
    It is funny, isn't it?

    I was thinking to eraborate the incident more in the future. Since both prohibition (1696 and 1837)that happened after Ahn's incident and Yaemon's incident doesn't include Matsushima(today's Takeshima). Not only the testimony, but also the prohibithin by Shogunate tells us Matsushima was not the issue of the prohibition.

    You do realize I am not good at translating but Pacifist and Gerry are helping me greatly, right? I hope you would help us posting here, but any help in any ways would be appreciated, though.

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  12. Anonymous25/6/07 02:13

    Pacifist and Kaneganese.

    BTW, the last one is the episode in 1836 not 1839, isn't it?
    (あっ,本当だ!)Sorry, I didn't notice.
    You guys are really good at translation, and you do it so quick.
    I really appreciate it.<(_ _)>

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  13. Anonymous,

    You are ponta, aren't you?

    I was surprised at first because the name "anonymous" was once used by the frogman.. (^^)

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  14. oops, that's me.

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  15. 日本人の皆さんへ

    竹島関係のものをコピペで並べて見ました。
    見落とし、間違いも多いかと思いますので、気がつき次第、教えて頂けるとありがたいです。
    よろしくお願いいたします。

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  16. Kaneganese様

    ご苦労様です。
    こんなすごい「まとめ」は今まで無かったと思います。空前絶後、これで試験に出ても大丈夫(冗談です)。

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  17. 黙々とコピペしていたらこんなことになっていました。かえって見づらくなってしまったかもしれません。
    1870-80年代の公文録のあたり、いまいち理解していませんので、Pacifistさんの解説を待ちながら追加していくつもりです。

    今日、エンコリで面白いものを発見しました。(私のへんてこな書き起こしが引用されていました...)
    “1900年前後の鬱陵島及びLiancourt Rock付近の漁業”
    http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&page=2&nid=1876755

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  18. Kaneganese,

    Thanks a lot, this is the first and the largest piles of documents concerning the Liancourt rocks.
    great job!!!

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  19. Yeah, it's a great job

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  20. http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=407741006

    A Japanese map (1857) indicating Dokdo/Takeshia as Japanese territory was discovered. It was made by Japanese geographer of Mito local government, Nagakubo Sekisui(1717-1801)

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  21. oops, Kangegane's time line has already posted it.

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  22. Thanks Ponta!!

    Yes, I put the information in the timeline. I can't wait to see the original one. I will put them in the map link later.
    It is a good news since it coincides with Nagakubo's writing "見高麗猶望雲州隠州"near Takeshima( Today's Ulleundo) in his 1779 「日本輿地路程全図」map. It proves that he didn't think those two islands are not Japanese territory.
    I'm still adding the infromation, so if you find anything, let me know. Thank you.

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  23. 詳細年表、ありがとうございます。

    豊臣秀吉の朝鮮出兵以前、朝鮮出兵後、
    取決めが在ったかもしれませんが、
    その件、御存知でしょうか?

    昭和50年代辺りに
    豊臣秀吉の朝鮮出兵関連者の子孫の方から伺った御話があります。
    「朝鮮半島からの侵略が頻繁で執拗で、
    余りにもしつこ過ぎたので堪り兼ねて、
    朝鮮半島迄行って叩いて来なくてはならなくなり出兵した」そうです。
    目的が「暫くの間、侵略を掛けて来ない様にする為」
    だったのですぐに引揚げています。
    ------------
    その後
    ・鬱陵島の「空島〔うつしま?〕政策」。
    ・WW2前:朝鮮通信使が朝貢に来ていた、WW2後改変:朝鮮通信使が日本人に色々教えていた。
    ・鬱陵島に日本人が住んでいた。
    ・中華古文献にも鬱陵島は日本領土と記されていたのに、徳川五代将軍綱吉が朝鮮に譲歩してしまい、芋の普及に尽力していた青木昆陽が批難した。
    ・其れ迄頻繁だった朝鮮半島からの侵略が、ぴったり止んだ(or隠されている)?
    ・日本人漁師は、竹島・松島・りゃんこ島によく漁に出掛けている。
    等々、怪しげな情報が多々在ります。

    鬱陵島が日本領土だと書かれた中華の古文献を御存知でしょうか?大韓民国が、秀吉辺りから以前の論点を避けている様で気になります。日本人漁師は昔から南洋にも活発に出掛けていたので、日本海海域でも紀伊半島等離れた地域からの漁師達も操業して居た様です。鬱陵島は、結構すぐ発見確認出来たと思われます。
    私も調べてみますが、よろしければ御検証願えればと思います。

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  24. 竹島考証 (上) に詳しいです。

    また江戸時代以前の「竹島」関係の古い文献として、以下のようなものがありますよ。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a343tan1647-1881/
    北史巻九十四倭國傳 「竹島」
    日本風土記 侯継高 (1592年成立) 「他計甚麼」
    http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_d0263/bunko08_d0263_p0005.jpg
    全浙兵制録 (上記書に同じ) 「佗計志磨」

    日本書紀    「竹島」
    武備志 「佗計志磨」
    海東諸国記     「高島」
    図書編       「鷹島」

    また竹嶋(鬱陵島)が書かれている地図としては、16C末期 浄得寺所蔵日本圖屏風
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/07/1754-field-chart-of-japan-map-of-japan.html

    籌海図編(1562年) 鄭若曽

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2012/05/by-ken-kanamori-text-on-takeshima.html?commentPage=2
    松浦静山の竹島(鬱陵島)二島説
    竹嶋(鬱陵島)に言及した16世紀末の日本の文献『征韓偉略』

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  25. 今日は。西暦1861年の新刊輿地全圖は、こちらで見られますが、
    http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/detail/243220111124112820
    http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/zoomify/T10_12_UT02000377.html
    「タケ」島が日本の色になってゐるのは喜ばしいものの、
    その傍らの破線は國境でなく航路記録であるやうに見えます。
    ついでながら、
    http://ishiwi.iza.ne.jp/blog/list/2/
    尖閣前史研究ご笑覽ください。いしゐのぞむより。

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  26. 石井望 いしゐのぞむ さま

    はじめまして。Matsuと申します。

    この、佐藤政養「新刊輿地全図」文久元年 1861については、

    藤田元春「佐藤政養先生と其地図」『改訂増補 日本地理学史』昭和17年 刀江書院
    495p~523p(1984年 原書房 復刻)を、是非ご覧ください。

    1857年、オランダの書肆 セ・フ・ステムレル(S. F. Stemmler)から出た地図の「翻訳」なのだそうです。

    「竹島」とあるのは鬱陵島で、日本と同色に塗っているのは、この地図の作者が日本領と見ていたのだと思います。原文のオランダの地図は果たしてどっちなのでしょうか。まだ見たことがありません。

    点線で描かれている航路は、ラ・ペルーズの1787年(天明7年)の航路で、この時、ダジュレー島(鬱陵島)が「発見」されました。

    左下の 飛川 勝義邦 撰 とあるの文章は、勝海舟のもので、佐藤政養の師、とあります。
    藤田509p

    この地図は、以下の図書館にもあるようです。
    http://archives.c.fun.ac.jp/fronts/detail/reservoir/504625041a557207b700000a
    函館市中央図書館


    (参考)
    龍馬の兄弟子 佐藤与之助(政養)維新後も近代化に貢献
    http://www.ryozen-museum.or.jp/docs/NEWS-20121106-syukitokubetumidokoro2.html


    佐藤政養 wikipedia
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%94%BF%E9%A4%8A

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  27. 石井望様
    初めまして、「小嶋日向守」と申します。
    尖閣の歴史研究に於ける貴殿のご活躍、ご高名は夙に知られている處です。此方のサイトに貴殿の投稿を頂けますとは、まさに百万の味方を得た思いです。束縛のない鷹揚なお付き合いで構いませんので、今後とも御教示・御叱責頂けますよう、宜しくお願い申し上げます。

    皆様
    matsu様から、ラ・ペルーズのお話がでました。114名の乗員のうちの10人が科学者で、天文学者であり数学者でもあったダジュレーが、竹島(鬱陵島)の第一発見者であったことに因むものです。
    そこで、彼の航海記に描写されている、竹島(鬱陵島)の浜にいてラ・ペルーズの船を見るなり、慌てふためいて森に逃げ隠れた人々が、朝鮮人であったのか日本人であったのかを考察してみることは面白いと思います。

    そのときの「(磯)竹島々民」の狼狽ぶりと、数日後に遭遇する船に乗った日本人の興味津々な様子はあまりにも対照的です。その映画を見るような描写は航海記に譲るとして、

    十年ほど前に、「上海女王」に書いた拙文のまとめ直しです。

     田沼政権が、停滞では無かったことを証明する事実として、千五百石積の和洋中折衷船、「三国丸」の建造が上げられます。
     この船は、船殻構造から見ても革新的な船でした。独特な竜骨を持ち、肋骨の多さは、西洋式と思えるものの、隔壁と構築方法は、典型的なジャンク式であり、かつ外板の張り方を始めとして、水押・戸立がつくという、日本船外見をしたものであったようです。
     当時から、韃靼の陸地が見えるほどといわれたほどに、外洋航海をしていた、日本海航路行でありましたが、この俵物廻船海運に対して、耐航性と稼働率の倍増化を目指した設計であったようです。設計は、原三郎右衛門と大串五郎平によるものと考証されています。
     驚くべき事に、世界周航中のフランスのラペルーズは、天明七年六月に試験航海中の三国丸と偶然、遭遇し、見事なスケッチを残しています。 
     田沼意次のブレインは、田村元雄や平賀源内であったのですから、彼の時代が停滞していたというのは、当たらないでしょう。田沼意次という人物が賄賂にルーズだったと言う記録な何種類かあるのですが、すべて松平定信に近い人物から、松平政権以降に書かれており、史料批判に耐えないことが、言われて久しいです。
    田沼意次は、吉宗以降限界がきていた農本主義による年貢による財政から、既得権を与えるかわりに商人からの税を上げて、財政を立て直そうとした人物です。新田開拓が頭打ちになっていたことから、農本主義から脱する打開策を講じる必要があったのです。その先の計画は、幕府の海禁政策(いわゆる鎖国)をクリアー出来る、蝦夷地でのロシアとの交易・開国というものも視野に入れていました。しかしアイスランドや浅間山の噴火という自然災害によって、社会不安と政敵松平定信の世論操作により失脚し、田沼政権のブレインたちの夢もはかなく散ってしまいました。
     もし、松平定信の時代ではなく、田沼時代が続いていれば、大黒屋光太夫の後半生は全く違う物になり、日本の開国はずっと早くなり、引いては、李氏朝鮮にも影響を与え、洪大容(1731-1783)や朴趾源(1737-1805)といった偉大な朝鮮実学者たちとその息子たちがもっと活躍できる時代となり、朝鮮が自力で近代改革できた可能性さえあったろうにと考えます。

    三国丸の絵です。
    http://navy.ap.teacup.com/kanzo/45.html

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