竹島問題の歴史

31.10.12

1877 - 公文録 内務省之部「日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺」(明治10年3月)

田中邦貴氏「竹島問題」サイト(カラー画像)

D(02左)右大臣・参議の決定文書 明治10年3月20日
「太政官」の罫紙


立案 第二十号       同廿七日来  「牟田口」印

     明治十年三月廿日
 大臣  「岩倉」具視印    本局 「土方」印、「巌谷」印)
  参議  「大隈」重信印、「寺島宗則」印、「大木」喬任印
  卿輔(印等なし)

別紙、内務省伺、日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件。(Cをさす)
右ハ、元禄五年、朝鮮人入嶋以来、旧政府、該國ト往復之末、遂ニ本邦関係無之、相聞候段、申立候上ハ、
伺之趣、御聞置、左之通、御指令相成可然哉、此段相伺候也。
   御指令按
  書面(→「伺之趣」に朱字訂正)竹島外一嶋之義、本邦関係無

  之義ト、可相心得事

(02右)


(朱字)明治十年三月廿九日 朱印  誰の印? これ非常に重要
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B(03左~04右)
島根県→内務卿 地籍編纂の伺い 明治9年10月16日
これ以下はすべて「内務省」の罫紙

「日本海内、竹島外一島、地籍編纂方、伺」
御省、地理寮官員、地籍編纂莅檢之為、本縣巡回ノ砌、
日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ、別紙「乙第二十八号」之通、照會有之候處、
本島ハ、永禄中發見之由ニテ、故鳥取藩之時、元和四年ヨリ、元禄八年マテ、凡七十八年間、同藩領内、伯耆國米子町之商、大谷九右衛門・村川市兵衛ナル者、旧幕府ノ許可ヲ経テ、毎歳渡海、島中ノ動植物ヲ積帰リ、内地ニ賣却致シ候ハ、已ニ確証有之、今ニ、古書旧状等持傳候ニ付、別紙「原由ノ大畧」、「圖面」共、相副、不取敢、致上申候。
今回、全島實檢之上、委曲ヲ具ヘ、記載可致ノ處、
固ヨリ、本縣管轄ニ確定致候ニモ無之、且、北海百余里ヲ懸隔シ、線

路モ不分明、尋常帆舞船等ノ能ク往返スヘキニ非ラサレハ、
右大谷某、村川某カ傳記ニ就キ、追テ、詳細ヲ上申可致候。
而シテ、其大方ヲ推按スルニ、管内隠岐國ノ乾位ニ當リ、山陰一帯ノ西部ニ貫附スヘキ哉ニ相見候ニ付テハ、本縣國圖ニ記載シ、地籍ニ編入スル等之儀ハ、如何取計可然哉。
何分ノ御指令相伺候也。
           縣令佐藤信寛代理  島根縣参事 境二郎
明治九年十月十六日 
     内務卿 大久保利通 殿
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A(04左)内務省地理寮→島根県地籍編製係照会 明治9年10月5日
そもそもの始まり。

乙第弐拾八号(朱字 貼紙)
御管轄内、隠岐國某方ニ當テ、従来、竹島ト相唱候孤島、有之哉ニ相聞、固ヨリ、舊鳥取藩、商船往復ノ線路モ有之趣、
右ハ、口演ヲ以テ、調査方、及御協議置候儀モ有之、
加フルニ、地籍編製、地方官心得書、第五條ノ旨モ有之候得トモ、
尚為念、及御協議候條、右五條ニ照準、而テ、舊記古圖等、御取調、本省ヘ御伺相成度、此段、及御照会候也。
  明治九年十月五日 地理寮十二等出仕 田尻賢信
              地理大属  杦山栄蔵
島根縣  地籍編製係 御中


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B(島根県→内務省)の添付書類「原由ノ大畧」
(05左~08右)

磯竹島、一ニ竹島ト稱ス。隠岐國ノ乾位、一百二拾里許ニ在リ。周回凡十里許。山峻険ニシテ、平地少シ。川三条在リ。又瀑布アリ。然レドモ、深谷幽邃、樹竹稠密、其源ヲ知ル能ハス。
唯、眼ニ觸レ、其多キ者、
植物ニハ、五鬣松 紫稱檀 黄蘗 椿 樫 桐 雁皮 栂 竹 マノ竹 胡蘿蔔 蒜 款冬 蔉荷 独活 百合 牛房 茱萸 覆盆子 虎杖 アラキパ。
動物ニハ、海鹿 猫 鼠 山雀 鳩 鴨 鶸 鳧 鵜 燕 鷲 鵰 鷹 ナヂコアナ鳥 四十雀ノ類。
其他、辰砂、岩緑青アルヲ見ル。
魚貝ハ、枚挙ニ暇アラス。就中、海鹿、鮑ヲ物産ノ最トス。
鮑ヲ獲ルニ、夕ニ竹ヲ海ニ投シ、朝ニコレヲ上レハ、鮑枝葉ニ着クモノ夥シ。其味絶倫ナリト。
又、海鹿一頭、能ク數斗ノ油ヲ得ヘシ。

(06右)
次ニ一島アリ。松島ト呼フ。周回三十町許。竹島ト同一線路ニ在リ。隠岐ヲ距ル八拾里許。樹竹稀ナリ。亦魚獣ヲ産ス。
(「松島」に言及しているのは、ここだけ)

永禄中、伯耆國會見郡米子町商、大屋(後大谷ト改ム)甚吉、航シテ越後ヨリ歸リ、颶風ヲ遇フテ、此地ニ漂流ス。遂ニ、全島ヲ巡視シ、頗ル魚貝ニ富ルヲ識リ、歸國ノ日、検使安部四郎五郎(時ニ幕名ニ因リ米子城ニ居ル)ニ、彼趣ヲ申出シ、以後、渡海セント請フ。
安部氏、江戸ニ紹介シテ、許可ノ書ヲ得タリ。
實ニ、元和四年五月十六日ナリ。

従伯耆國米子、竹島、先年舩相渡之由候。然者、如其今度致渡海度之段、米子町人 、村川市兵衛・大屋甚吉申上付テ 達上聞候之處、不可有異儀之旨被仰出間 被得其意渡海之儀 可被仰付候。恐々謹言。

(06左)
 五月十六日      永井信濃守 尚政
              井上主計頭 正就
              土井大炊頭 利勝
              酒井雅楽頭 忠世
松平新太郎殿

當時 米子同町ニ、村川市兵衛ナル者アリ。大屋氏ト同シク、安部氏ノ懇親ヲ得ルカ故ニ、両家ニ命セラル。然レトモ、本島ノ發見ハ、大屋氏ニ係ル。





(07右)
此ヨリ毎歳、間断ナク渡海、漁猟セリ。
幕府、遠陬ノ地、本邦版圖内ニ入ルヲ称シ、船旗等ヲ與エ 殊ニ登営謁見セシメ、屡、葵章ノ服ヲ給ス。後 甚吉、島中ニ没ス。[墳墓、今尚 存スト云フ]。
 元禄七年甲戌ニ至リ、朝鮮人上陸スル者、若干ナリ。ソノ情、測ル可カラス。且、船中人數ノ寡少ナルヲ以テ歸リ、是ヲ訴フ。
明年 幕命ヲ得、武器ヲ載セテ到レハ其人恐レテ遁レ去ル。残ル者ニ二人 [アヒチヤン トラヱイ]アリ。即チ捕縛シテ歸ル。命アリ、江戸ニ致シ、本土ニ送還ス。
同年 彼國ヨリ、竹島ハ朝鮮ニ接近ナルヲ以テ、頻リニ其地ニ属センコトヲ請フ。幕府ニ議シテ、日本管内タルヘキノ證書上ラハ、以後 朝鮮ニ漁猟ノ権ヲ與フ可キノ命アリ。彼國、此ヲ奉ズ。此ニ因テ、同九年丙子正月、渡海ヲ禁制セラル。(ここ混乱あるか?)
(07左)
 先年 松平新太郎 因州伯州領知ノ節、
 相窺之 伯州米子ノ町人村川市兵衛
 大屋
甚吉 竹島ヘ渡海至干今雖致漁候。
 向後、竹島ヘ渡海ノ儀、制禁可申付
 旨、被仰出ノ由、可被存其趣候。恐々
 謹言

 正月二十八日    土屋相模守
              戸田山城守
              安部豊後守
              大久保加賀守
  松平伯耆守殿


(08右)
元和四年丁巳ヨリ、元禄八年乙亥ニ至テ、凡七十八年ナリ。[因ニ云フ 隠岐國、隠地郡、南方村、字福浦ノ辧才天女社ハ、當時 大谷村川両家 海波平穏祈祀ノ為メニ建立スル所ナリ。今ニ至テ 本社修繕ヲ加フルニ當レハ 必ス之ヲ両家ニ告ク] 相傳フ當時 柳澤氏の變アリ。幕府、外事ヲ省ルコト能ハス。遂ニ茲ニ至ルト云フ 。今、大谷氏傳フ所、享保年間ノ製圖ヲ縮冩シ、是ヲ附ス。
尚 両家所蔵ノ古文書等ハ、他日謄冩ノ成ルヲ俟テ、全備セントス。

C 
以下、内務省の調査結果=内務省の伺いの添付文書1号~4号
いずれも元禄時代のことのみ記す。
「松島」(=現竹島)への言及なし。

C-1(08左~10左)
一号」 「元禄九年正月、旧政府評議之旨意」
元禄竹島一件、決着の場面。江戸城の白書院。老中4人。
丙子 元禄九年 正月二十八日
天龍院公、御登城、御暇御拝領被遊候上、於御白書院、御老中御四人御列座ニテ、戸田山城守様、竹島ノ儀ニ付、御覺書一通、御渡被成。
先年以来、伯州米子ノ町人両人、竹島ヘ罷越致、漁候處、
朝鮮人モ、彼島ヘ参、致漁、日本人入交リ、無益ノ事ニ候間、
向後、米子ノ町人、渡海ノ儀、被差留トノ御儀、被仰渡候也。

同是ヨリ前、正月九日、
三澤吉左衛門方ヨリ、直右衛門、御用ニ付、罷出候様ニトノ儀ニ付、参上仕候處、豊後守様、御逢被成、御直ニ被仰聞候ハ、
竹島ノ儀、中間衆、出羽守殿、右京太夫殿ヘモ、遂、内談候。
竹島、元、シカト不相知事ニ候。伯耆ヨリ渡リ、漁イタシ来リ候由ニ付、松平伯耆守殿ヘ相尋候處、因幡・伯耆ヘ附属ト申ニテモ無之候。
米子町人両人、先年ノ通リ、船相渡度ノ由、願出候故、其時ノ領主、松平新太郎殿ヨリ、按内有之、如以前、渡海仕候様ニ、新太郎殿ヘ、以奉書、申遣候。酒井雅楽頭殿、土井大炊頭殿、井上主計頭殿、永井信濃守殿、連判ニ候故、考見候ヘハ、大形、台徳院様御代ニテモ可有之哉ト存候。先年ト有之候ヘトモ、年數ハ不相知候。
右ノ首尾ニテ、罷渡リ、漁仕来候マテニテ、朝鮮ノ島ヲ日本ヘ取候ト申ニテモ無之、日本人居住不仕候。道程ノ儀、相尋候ヘハ、伯耆ヨリハ百六十里程有之、朝鮮ヘハ四十里程有之由ニ候。然ハ、朝鮮國ノ蔚陵島ニテモ可有之候哉。
夫トモニ、日本人居住仕候カ、此方ヘ取候島ニ候ハハ、今更遣シカタキ事ニ候ヘトモ、左様ノ証據等モ無之候間、此方ヨリ構不申候様ニ被成、如何可有之哉。
又ハ、對島守殿ヨリ、蔚陵島ト書入候儀、差除返簡仕候様、被仰遣、返事無之内、對島守殿死去ニ候故、右ノ返簡、彼國ヘ差置タル由ニ候。左候ヘハ、刑部殿ヨリ、蔚陵島ノ儀、被仰越候ニ及ヒ申間敷カ、又ハ、兎角竹島ノ儀ニ付、一通リ刑部殿ヨリ書翰ニテモ、可被差越ト思召候哉。
右三様ノ御了簡、被成思召寄、委可被仰聞候。蚫取ニ参リ候迄ニテ、無益島ニ候處、此儀ムスホホレ、年来ノ通交、絶申候モ、如何ニ候。御威光、或ハ武威ヲ以テ、申勝ニイタシ候テモ、筋モナキ事申募リ候儀ハ、不入事ニ候。
竹島ノ儀、元シカト不仕事ニ候。例年、不参候。異国人、罷渡候故、重テ不罷越候様ニ、被申渡候様ニト、相模守殿ヨリ、被申渡候元バットイタシタル事ニ候。無益ノ儀ニ、事オモクレ候テモ、如何ニ存候。刑部殿ニハ、御律儀ニ候間、
始如此申置候處、今更ケ様ニハ、被申間敷トノ御遠慮モ可有之カト存候。其段ハ、少モ不苦候。我等、宜敷様ニ、了簡可仕候間、思召ノ通リ、無遠慮可被仰聞候。其方達モ、存寄リ無遠慮可被申候。同シ事ヲ、幾度モ申進候段、クドキ様に存候エトモ、異国ヘ申遣候事ニ候故、度々、存寄申遣候間、思召寄、幾度、被仰聞候様ニト存候。御事繁内ニ候故、今少シ筋道ヲモ付候上ニテ、達上聞可申ト存候。
右申渡候口上ノ趣、其方覺ノ為ニ、書付遣候トノ御事ニテ、御覺書御直ニ、御渡被成候故、受取拝見仕候ト、只今ノ御意ノ趣有、増落着申候様ニ奉存候。左候ハハ、以来、日本人ハ、彼島ヘ御渡被遊間敷トノ思召ニ候哉、ト伺申候ヘハ、如何ニモ其通ニ候。重テ、日本人、不罷渡候様ニト思召候由、御意被成候故、竹島ノ儀、返被遣候ト申手ニ葉ニテモ無御坐候哉、ト申上候ヘハ、其段モ其通リニ候島ニテモ無之候上ハ、返シ候ト申筋ニテモ無之候。此方ヨリ、構不申、以前ニ候。此方ヨリ誤リニテ候共、不被申事ニ候 。
右、被仰遣候趣トハ、少シクイ違ヒ候ヘトモ、事オモクレ可申ヨリ、少ハクヒ違候トモ、軽ク相濟申候方、宜敷候間、此段、御了簡被成候様ニトノ御事故、トクト落着申候。罷歸リ、刑部大輔ヘ可申聞ヨシ申上候テ、退坐仕ル。
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C-2 (11左~12右)
二号」 対馬から朝鮮譯官ヘ達書

先太守、因竹島事、遣使於貴国者、両度使事、未了。不幸、早世。由是、召還使人。不日、上船、入覲之時、問及、竹島地状方向。拠實具對、因以、其去本邦太遠、而去貴国却近。恐、両地人殽雑、必有潜通・私市等弊。隨即下令、永不許入往漁採。夫、釁隙生於細徴、禍患興於下賎、古今通病、慮寧勿預。是以、百年之好、偏欲彌篤。而、一島之微、遼付不較、豈非両邦之美事乎。茲念南宮應慇懃修書、使本州代傳盛謝、爾譯使俟回掉之日。口伸母遺。
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C-3 (12左~13左)
第三号 該國来柬 朝鮮国礼曹参議から対馬への来翰
朝鮮国禮曹参議 李善溥→日本国對馬州刑部大輔拾遺 平義真
朝鮮国禮曹参議 李善溥 奉書
日本国對馬州 刑部大輔拾遺 平公 閣下

春日暄和、緬惟動静珎瑟、嚮慰無已。
頃因訳使、回自貴州。細伝左右、面托之言。備悉委折矣。
鬱陵島之為我地、輿図所載、文跡照然。無論彼遠此近、疆界自別、貴州既知。鬱陵島与竹島、為一島而二名。則、其名雖異、其為我地、則一也。
貴国下令、永不許入往漁採。辞意丁寧、可保久遠、無他、良幸良幸。
我国、亦、当分付官吏、以時検察、絶両地人往来、殽雑之弊矣。

昨年、漂氓人、濱海之事、率以舟楫為業、颿風焱忽易及、飄盪以至冒越重溟、轉入貴国。豈可以此有所致疑於違定約、而由他路乎。
若其呈書、誠有妄作之罪。故、已施幽極之典、以為為懲戢之地。叧勑沿海、申明禁令矣。益務誠信、以全大體、更勿生事、於邊彊庸非彼此之所大願者耶。
左右既有、面言於譯使、而然、且無一介行李、奉書契、以来者、似是、左右深念旧約不欲規外、送差之意。故、先此修牘、展布多少、送于莱館。使之轉致、統希諒炤。不宣。
戊寅 三月 日
禮曹参議 李善溥

C-4 (14左)
四号、本邦回答、及び口上書
「本邦回答」
C-4の1
日本国對馬州 刑部大輔拾遺 平義真 奉復
朝鮮國 禮曹大人 閣下

向領華椷憑審、貴国穆清嘔喩倍恒。
承諭、前年、象官超溟之旧、面陳竹島之一件、繇是左右克諒情由示以両国永通交誼、益懋誠信矣。至幸至幸。示意、即已啓逹東武了。
故、今修牘略布余蘊、附在館司舌頭。時維春寒、更希加愛、総惟鑒察。不宣。
元禄十二年 己卯 正月 日
對馬州刑部大輔拾遺  平義真
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C-4の2 (15左~18右)口上之覚(第四号の2)
口上之覚

一、竹嶋之儀ニ付、数年来、何角与被申通候処、存之外、公儀江能被聞召分候而、宜被仰付候故。其段、訳官江、被申渡候処、御聞届候ニ而、御書簡被差渡候御書面不宜候得共、刑部大輔殿御心を被尽候而、首尾能相済、今度、返翰被差渡候。竹嶋之一疑、此度ニ而、無残所相済、朝鮮国之御望之通ニ相済、両国之大幸、此事候。
元来、竹嶋之儀、貴国より数年被捨置、其上、段々不念成儀有之故、八十余年、日本人渡り来候故、先年、因州之者、貴国之漁民を召捕罷帰、東武江申上候付、貴国之漁民、重而不罷渡様ニ、可申遣之旨、被仰出候。
依之、先、対馬守殿より、以使者申達候。其御返簡ニ、被得其意候。竹嶋江罷越候段、不届ニ
候故、則罪科ニ申付候以来之儀迄、堅申付候与之御返簡ニ候得共、紛敷御文章有之候故、其侭差置候而者、以来、又出入可有之事之端与存候故、再使者差渡候処、其後者、右之御書面与振替り、日本人犯越侵渉仕候間、不罷渡候様ニ可申付之旨、御認被差下候故、対州江茂不申越候而、使者存寄之趣申達候而、御返簡請取不申候内、不幸ニ而、先対馬守殿被相果候故、使者其侭帰国仕候。
乍然、竹嶋之儀、貴国之欝陵嶋ニ紛無之様ニ承及候通、具ニ申聞候付、幸刑部大輔殿、参府被仕候時節故、於東武、被申上候者、竹嶋之儀、朝鮮国より数年捨置、其後、御届可申時分茂、度々不念仕候故、をのつと日本之属嶋之様ニ成来候故、被仰越候段者、御尤千万ニ奉存候得共、元来、朝鮮国之地ニ紛無之、輿地図ニも慥ニ有之候。誠信を以、通交仕事ニ候間、此段、御聞分被遊、日本人渡海被差止被下候者、御誠信之至与、別而忝可奉存由、内々私迄、願被申候通、礼義正しく、誠を以、御老中迄、被申上候得者、則達上聞、被聞召分候而、向後、日本人渡海を可被差留由、被仰出候。
幸、訳官招可申由、申上置候故、訳官罷渡候節、右之趣、面談ニ而、委細可申渡之旨御差図故、先年、訳官江、口上ニ而申達候。然上者、今度者、厚く御礼も可有之与存候処、『可保久遠無他、良幸々々』与迄ニ而、御礼之心茂、無之御文章、不宜候而、御不誠信成御仕形与存候。
貴国、被欠捨懇候上、御不念多候処、手前を被顧候心者、曽而無之、剰非をも飾、殊被仰越候趣茂、前後之主意も違、一々首尾不都合ニ候。此段、真直ニ被申上候ハヽ、不首尾成のミならす、事も調不申、其上、以来迄、東武之思召も悪敷、朝鮮国之御為行々宜間敷候得共、刑部大輔殿役目之事ニ候故、東武江者、礼を尽し、誠を以、
朝鮮国より之被申分、尤与被思召候様ニ、色々御心を被尽候而、被仰上候故、首尾能相済、貴国ニ者御心遣も無之、竹嶋国籍ニ帰し申候段、偏ニ刑部大輔殿、隣交之間ニ御心を被尽候故ニ而候。
今度之儀、朝鮮国之被成掛、又者、被仰越様理ニ当り候付、相済候与思召候而者、以来迄之御了簡違ニ可罷成候、一々ニ者、不申候共、御存之事ニ候間、跡先得与御思慮被成候ハヽ、御得心可被成候。

一、御書簡之内ニ、竹嶋之儀、首尾能被仰出候段、以使者、可申遣儀ニ候処、訳官江申含遣候段、約條之外ニ、使者遣間敷与之了簡ニ而、可有之由被仰聞候。公儀より、為被仰出事ニ候故、以使者、可申越事ト思召段、御尤ニ存候。被仰聞候通、公儀より被仰出候儀者、何とても、態使者を以、参判江申達候例ニ而候得共、右之通、兼而訳官相招可申之由、被申上置候故、幸、訳官招可申之由ニ候。左候ハヽ、其節、訳官江面談ニ而、申含候得者、以使者申渡候同前ニ、聢与仕たる事与、東武ニ者被思召候而、其通、被仰付候。依之、任御差図、訳官江、口上ニ而、申含候。歳條之外ニ、使者遣間敷与之心入ニ而者、無之候用事有之節者、使者遣不申候而、不叶事ニ候、此段も、御了簡与者相違仕候間、以来之為与存、是又、申入置候。左様御心得可被成候。
右之條々、最早、首尾能事済申たる上ニ、又々申達候段、不入事之様ニ候得共、我等役目ニ付、最初より両国思召入之様子、具ニ見聞仕候処、貴国之御心入与、対州之心入与、くひ違有之候故、以来、共ニ御了簡違等候而者、幾久敷、不申通候而不叶事候処、左候而者、大切ニ被存候以後之為ニ候間、我等存候通之訳、能々東萊迄申届、朝廷方江も慥ニ転達仕候様ニ、与被申越候故、如此候。以上。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

C(18左~19右)
内務省から右大臣岩倉具視への伺い 明治10年3月17日

内務卿大久保利通代理内務少輔前島密→右大臣岩倉具視
別紙添付書類 上掲のもの4通
嶋地第六百六十四号   印(02右と同じもの)

「日本海内、竹島外一島地籍編纂方、伺」

竹島所轄之儀ニ付、島根縣ヨリ、別紙伺出、取調候處、該島之儀ハ、元禄五年、朝鮮人入島以来、別紙書類ニ摘採スル如ク、元禄九年正月第一号、旧政府評議之旨意ニ依リ、二号、譯官ヘ達書、三号、該國来柬、四号、本邦回答、及ヒ口上書等之如ク、則、元禄十二年ニ至リ、夫々往復相濟、本邦関係無之相聞候得共、版圖ノ取捨ハ重大之事件ニ付、別紙書類、相添、為念、此段、相伺候也。

明治十年三月十七日
内務卿 大久保利通代理 内務少輔 前島密
右大臣 岩倉具視殿

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3月27日 決定通知来る?(Dの最初の行)
E 決定の通知(朱書き加筆)明治10年3月29日
(朱書)
伺之趣 竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事
明治十年三月二九日
・・・・・・・・・・・・・・・・
Bの添付地図(磯竹島略図)


173 comments:

  1. matsuさんのご依頼により、新しい投稿をしました。こちらで議論を深めて頂ければ幸いです。(北澤の「竹島考証」と渡辺の「松島の議」も後日新しくしたいと思います。)

    画像がうまく配置できないので、夜帰宅してからまた試してみます。
    matsuさんのつけたA~Eの番号、アジ歴のファイルのページ番号やコメントを、黒字にしてそのまま残してあります。

    ReplyDelete
  2. Kaneganeseさん
    ありがとうございました。

    漢字ばかりがたくさん並んで読みにくいと思いますが、これが、いわゆる1877年(明治10年)「太政官指令 竹島外一島、本邦関係無之」の原文史料です。

    重要な資料であるにもかかわらず、これまで全文が翻字されたことがなかったので、あげてもらいました。
    どのようにして「竹島外一島、本邦関係無之」という太政官指令の決定がなされたのかを明らかにすることは重要だと思います。
    間違いもあると思いますので、検討していただければと思います。

    ページ番号は田中邦貴さんサイトのカラー版によっています。
    ABCDEは時間順に私が勝手につけた文書の記号です。

    結論から言えば、島根県側の「伺い」に言う「松島」すなわち「外一島」は、現竹島のことですが、内務省の調査史料(C-1~4)は、元禄時代の「竹島」=鬱陵島のことしか調査しておらず、これを受けた太政官での審議でも、「松島」=外一島については、全く審議・検討されていないのではないかと思います。

    そもそも渡邊洪基の『松島之議』の年代考証をしていたのも、この「太政官指令」との関係を知りたいためでもありました。内藤正中『竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史』(2000)では、渡邊洪基の島根県への問い合わせがきっかけとなって、明治9年に島根県側から地誌編纂の伺いが出た、と考えているようです。131p

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    これは、以下のページのコメントの続きです。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2012/09/1876-watanabe-koukis-second-opinion-on.html?showComment=1351302794480

    25/10/12 10:28 以降
    コメント数が200を超えると、一番上か一番下のnewerまたはnewestをクリックして、一枚めくらないといけないので、見にくかったと思います。

    時間順にそって整理して再掲すれば、以下の通りです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    A 明治9年10月5日
    内務省地理局から島根県に問い合わせ(内務省地理局は、それ以前に島根県を巡検した。)
    B文書の添付資料。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    B 明治9年10月16日
    島根県から内務省に伺い。
    Aのわずか11日後に提出。すでに内々で調査依頼が来ていた。

    Bの添付書類(島根県の調査結果。「とりあえず」提出したもの。大谷・村川の文献による)
    「原由ノ大畧」
    竹島渡海免許
    竹島渡海禁止
    「地図」(全体の最後に収録)

    「松島」に言及。この松島、および地図の松島は、現竹島である。

    内務省の罫紙に書かれている。よって、このB文書は、島根県からの原本ではなく、内務省の写しである。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    C 明治10年3月17日
    内務省が島根県の伺いについて調査し、判断。右大臣あてに伺い。
    島根県の伺いから5ヶ月かかっている。

    Cの添付資料 C-1~4
    一号
    二号
    三号
    四号
    添付資料は、「磯竹島事略」「竹島記事」からの抜粋であり、元禄時代の「竹島」についてのみ考証している。
    「松島」への言及は一切ない。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    D 明治10年3月20日
    内務省の伺いから3日後。
    右大臣と参議の会議で決定した。(=太政官の決定)
    (これだけが太政官の罫紙。ほかは内務省の罫紙。)

    右大臣・岩倉具視、参議・大隈重信(大蔵卿)、寺島宗則(外務卿)、大木喬任(司法卿)の4人の印鑑がある。

    この日、明治10年3月20日は、西南戦争の西郷軍との「田原坂」激戦の当日である。
    政府はあわただしい中で決定した。

    太政大臣の三条実美、参議の大久保利通・伊藤博文は、明治天皇に随って京阪神にいる。
    参議の山県有朋・黒田清隆は、九州の西郷軍征討の戦場にいる。

    (当時の大臣と参議)
    太政大臣  三条実美
    左大臣   (空席)
    右大臣   岩倉具視
    参議
    大久保利通(内務卿)
    大隈重信(大蔵卿)
    大木喬任(司法卿)
    寺島宗則(外務卿)
    伊藤博文(工部卿)
    山県有朋(陸軍卿)
    黒田清隆(北海道開拓長官)

    9人のうち、5人は不在。
    残り4人、東京にいた右大臣の岩倉具視と参議3人で決定した。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    明治10年3月27日 通知?

    E 明治10年3月29日 決定通知
    太政官指令。伺いの通り。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・



    原テキストと翻刻は、以下のところにあります。

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/index1.html
    カラーで見やすいので、これを基本にしました。

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A07060000300?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a9dai318/

    http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/shisho_jpn/naimu_ukagai.pdf

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a25kou2032-18770329/

    http://take8591.web.fc2.com/06web/1877outside/0400naimu/0000.htm

    最後のtake8591さんのところに起こしがあり、参考にさせていただきました。というか、ほぼそのままそのままコピペさせていただいて土台にしています。
    ただし、C-2「口上之覚」は長いので起こせなかったようです。
    この部分については、島根県サイトの資料集に、解読があります。221~222p
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04c.data/shiryou-4-1-8.pdf

    また、半月城氏のサイトの各所と、彼の本に、一部の翻刻と口語訳があります。
    内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社2007 80~95p 314~325p

    それから、島根県の、杉原隆「明治10年太政官指令 竹島外一島之儀ハ本邦関係無之 をめぐる諸問題」は、この資料の読解の手引きとなる論文です。

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/-04.pdf#search='%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E7%B1%8D%E3%83%8B%E7%B7%A8%E7%BA%82+%E6%9D%89%E5%8E%9F+%E5%B3%B6%E6%A0%B9'

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  3. 「竹島他一島」は総て、「鬱陵島と竹嶼」の事ですね。
    下記、御先祖様方からの無言のメッセージ、御覧下さいませ。
    それで、決まりですよ。

    【語源】<松島・竹島・夫婦島・対馬>
    http://blogs.yahoo.co.jp/nao_a_jp/folder/452734.html

    <「島」の名付け方 >
    日本古来の習わしから、「島名」にも付け方のパターンが在ります。
    では、その最もよく見られるパターンを…。

    古来、日本人漁民の御先祖様方は、
    海に出て行って岩礁や島を見付けると、漁をする時の目印として、
    取敢えず「竹島」「松島」等の名を付けて来る癖が在りました。
    「犬のタロ・ポチ・シロ」、「猫のミケ・タマ」みたいなものです(^_^)b。


    ☆「竹・松・夫婦」の島と岩礁 ☆
    確定した名や名称が無い岩礁や島に、取敢えず付ける名として、
    よく好んで上記の名が付けられました。

    そして後に、「そのまま島名として確立した」場合も在るし、
    「別名を考えて付け直した」場合も在ります。


    <松島・松嶋>
    小さな島や岩礁等にも松が生えて居る事があり、
    そこからもよく好んで名づけられました。

    また、松が生えていなくても、
    「松」の音読み「しょう」からの連想で
    漢字「小」に掛けて「小さい・可愛い・綺麗」等の意味を込めて
    「松島〔まつしま〕」と名付ける事もよく在りました。
    日本中に「松島・松嶋」がいっぱい在るのは、そういった経緯からです。


    <竹島・竹嶋>
    「竹島・竹嶋」も日本では古来よく好んで付けられた名で、
    大抵は「対になった岩礁や小さめの島」に名付けられています。

    漢字「竹」は「ケ」が2つ対になって居る事から、
    岩礁や島が(大まかに見て)二つ対になって居る様に見える島や岩礁に、
    好んで付けられた名の一つです。

    「竹が生えている」との理由で名付けられた例としては、
    領土確定前の現韓国領「于山島」が且て「竹嶋・竹嶼」等と呼ばれた他、
    日本国内では「竹生島」等が在ります。


    <夫婦島>
    これも、日本古来よく好んで付けられた島名・岩礁名。
    竹島同様、岩礁や島が対になって居る場合にしばしば、
    「対の『夫婦』に見立てて、夫婦島」と名付けられました。

    精神的信仰や崇拝の対象となっている場合も在り、
    その場合はよく「締縄」が張られている事が在ります。

    岩礁自体を信仰しているわけではありませんが、
    それが象徴する夫婦の仲に例え、
    「夫婦が仲善く長年寄り添って
    共に世間の荒波にも腰を据えてどっしりと構えて耐え忍びながら
    助け合いながら円満に過ごす事を象徴する」
    精神的祈願の象徴となって居ます。


    <対馬の場合>
    古来、朝鮮半島方面からの侵略が頻繁で激しかった島。
    万葉の時代には既に、防人達の間では「嫌な守備場所」として知られていました。
    「対馬の守〔かみ〕」として対馬宗家となった一族は、守備が大変だった様です。
    島の名は、馬との繋がりが在ります。

    「馬顔型の島が、対になった島」・「対になった、馬が居る島」、
    等から名称が付けられたとも言われます。
    少し大き目の島なので、確実な区別と統治の為に
    正式な名称が考慮されて名付けられました。

    対馬の馬は、
    元寇などで来寇した軍が取り残した馬と、
    防御する日本軍の馬の掛け合わせとも言われます。



    <余談:締縄・主連縄・注連縄・しめなわ>
    昔々、神道の方より伺った御話より…。

    日本列島「北は樺太・千島列島~ずっと途中の諸島を含み~南は沖縄諸島迄の全体」は、「締縄・主連縄・注連縄・しめなわ」=「結界」と成って居ます。
    神社等の締縄から出ている紐状のもの等は、日本列島主幹から南や北に連なる小諸島を、象徴的に表現して居ます。

    太平洋の東西で、東は南北アメリカ大陸海岸沿い、西は日本列島が、地球の微調節地域であります。
    そして、禁忌に関する「結界」ともなって居ます。
    その為、各地に、それに関する信仰も在ります。
    最近は随分、情報工作で穢されて来ていますが、古来の南北米大陸原住民信仰にも、古来の日本の伝承にも、そういった伝承も含まれていた様です。
    太平洋の両端で地球の主な微調節を遣って居る訳ですが、住民達としては出来たら御手柔らかに願いたいものですね。

    アイヌも沖縄も共に日本全体が「縄文文化圏」「主連縄連合」「日本人遺伝子系列」となって居ます。

    ReplyDelete
  4. Kaneganese様
    些末な事で済みません。
    「嶋地方六百六十四号」を「嶋地第六百六十四号」と訂正願います。

    http://www.daiichipan.co.jp/
    第一パンの草書体の字です。

    ReplyDelete
  5. 小嶋日向守様

    ご指摘ありがとうございました。
    さっそく訂正いたしました。

    『西渓雑録』の方の訂正も赤字で示してあります。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/05/1693-1703.html?showComment=1352699113130

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  6. Nao_at_jp様

    外一島の件ですが、竹嶼が明治政府に公式に発見されるのは、軍艦天城が派遣されてからなので、この文書のうち、島根県の外一島は松島=現竹島、内務省の松島は明らかに一貫して鬱陵島(ただし、タイトルの「外一島」は島根県の伺に対する回答なので、この限りではない。)だと思われます。内務省はこの時点で松島が鬱陵島か、鬱陵島以外の新しい開発可能な島「外一島」であるかの判断を避けたのではないでしょうか。

    その後明治14,15年にかけ(恐らくは天城の調査や北澤の調査を受けて)、この明治10年の外一島は松島ですなわち、朝鮮の鬱陵島という最終判断が下され、これが明治政府の正式な認識だといえると思われます。

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  7. 1877年太政官指令は竹島/独島を日本の版図外と指令した、といいたがる方々はどこそこにいらっしゃいますが、太政官指令文の「伺之趣竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」という二十三文字からそういうことを証明した人は見たことが無いですねえ。


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  8. 「米国ウィスコンシン大学に独島研究所を設立する」

    韓国経済新聞2012/12/11


    キム・ソンウン北米韓人教授協議会長「古地図収集だけで独島は守れない」


    「独島が韓国の地であることを国際社会に知らせるためには、古地図を収集するようなことだけにとどまってはいけません。多様な分野で独島に関する知識を蓄積する学問的努力が必要です。」

    キム・ソンウン北米韓人教授協議会(KAUPA)会長(ウィスコンシン大学経済学科教授・写真)は、10日、韓国経済新聞のインタビューで「日本は独島領有権挑発のために長年の時間研究して来ただけに、学問的には私たちが劣勢。」と言いながら、このように明らかにした。

     北米韓人教授協議会はアメリカとカナダ地域の韓国人教授 4000人余りが会員として参加している団体で、この日アメリカ・ウィスコンシン大学ミルウォーキーキャンパスで「独島領有権問題に対する視覚」という主題で学術会議を開いた。この学会には、歴史・政治分野を含めて地理・音楽・コミュニケーションなど多様な分野の専門家たちが参加し、多角度から独島について論議した。国際紛争解決分野の権威者であるポール・ヒュース・メリーランド大学教授、テリー・ロリック海戦大学(Naval War College) 教授と国際法専門家ショーン・フォン弁護士などが参加した。

    キム教授は、「このセミナーを通じて外国の学者と専門家たちが独島問題に関する問題点を認知して関心を持つようになったことが最大の成果」と語り、「このような学問的試みが続けば国際社会でも独島は韓国の地という事実が自然に認識される」と付け加えた。協議会では今回の学術会議の内容を整理して、来年初めに本として発行する計画だ。

    キム教授は、ウィスコンシン大学ミルウォーキーキャンパスの中に「独島研究所」を設立する案も推進中だ。ウィスコンシン大学は、独島を韓国領土として表記している大東輿地図を含めて旧韓国末当時の韓国に関する記録を相当数保有している。キム教授は、「韓国政府は、もう独島問題は国際問題であることを認めなければならない。」と指摘した。彼は、「日本が引き続いて独島領有権を巡って挑戦して来る状況で、韓国政府が独島関連の問題はないとだけ言うことには限界がある。」と述べた。彼は、「むしろ国際的にこの問題に対して関心が持たれるようにして、関連研究を蓄積して私たちに役立つように活用しなければならない。」と強調した。


    ミルウォーキー(アメリカ)=チョ・スヨン記者

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  9. Kaneganese さん、

    スレッド関係ありませんが、悲しいお知らせです。


    竹島関係でもお世話になった、Anpontan さんこと、Bill Sakovichさんが亡くなったそうです。

    http://ampontan.wordpress.com/2012/12/23/ichigen-koji-268/#comment-41572

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  10. 二か月近く経っての亀レスです。


    matsuさんのコメント(1/11/12 08:14)に次のようにあります。

    (引用)
    Bの添付書類(島根県の調査結果。「とりあえず」提出したもの。大谷・村川の文献による)
    「原由ノ大畧」
    竹島渡海免許
    竹島渡海禁止
    「地図」(全体の最後に収録)

    「松島」に言及。この松島、および地図の松島は、現竹島である。
    (引用ここまで)


     ここで「この松島、および地図の松島は、現竹島である。」となぜ言うことができるのか、がポイントでしょうね。

     たぶん、大方の人は、原由の大略における松島の描写と磯竹島略図における松島の図は「誰が見たって」現竹島を指しているではないか、とおっしゃると思うのですが、そこに落とし穴がありそうで・・・・・・。

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  11. pontaさん

    驚きました。これから本格的に英文の添削をお願いしようと思っていたのに、ショックです…日本にとって大きな損失です。ご冥福をお祈りします。

    ReplyDelete
  12. Chaamieyさん
    レス、ありがとうございます。

    伺いを立てている島根県の側の認識としては、
    竹島=鬱陵島、松島=外一島=現竹島=独島であることは動かないと思います。
    準拠しているものが、大谷・村川の文献しかないからです。

    問題は、審議した側である内務省、さらには決定を下した太政官において、「外一島」についての吟味が全くなされていない、ということだと思います。

    ここにあげられている(添付されている)文献は、「元禄竹島一件」のものだけです。
    そしてここには、「松島=現竹島(=独島)」についての言及は、全くありません。これは明白です。
    すなわち島根県の言う「外一島」についての吟味は、全くなされていないのだと思います。

    あるいは、元禄竹島一件のときには、「朝鮮の鬱陵島」、「日本の竹島」というふたつの名称がありました。「外一島」をこの時の「朝鮮の鬱陵島」と誤解したのかもしれません。


    それにしても、この時の太政官の決定は、右大臣の岩倉具視(公家)と、参議の大隈重信(佐賀)・大木喬任(佐賀)・寺島宗則(薩摩)の4人で決めています。
    竹島=鬱陵島についての知識があった長州の人間が加わっていれば、もっとまともな審議が出来たのかもしれません。

    桂小五郎=木戸孝允は、この時はまだ存命でしたが(この年に死亡)、参議ではありませんでした。師である吉田松陰の指示で、竹島(=鬱陵島)開拓を目指したことのある木戸孝允が、参議としてこの決定にかんでいたら、別の形の審議になっていたのかもしれません。また、同じ松陰の弟子である伊藤博文も、このとき参議ではありましたが、この決定には参加しませんでした。

    もちろん、そうした、ある意味、ずさんな審議の結果だとしても、この決定は、「太政官の決定」として「有効」だとは思います。

    また、「日本領でないこと」と「朝鮮領であること」が全く別のものであることは、明白な道理です。ただし、ここで「竹島=鬱陵島」については、元禄竹島一件の結果をふまえて、「朝鮮領と認めた」とは言えると思います。

    もうひとつ、外務卿である寺島宗則がこれに判を押しているのが注目されます。
    寺島宗則は、武藤平学の「松島開拓之議」を知っていたはずです。すでに明治9年7月、東京の外務省に出されていたからです。
    戸田敬義の「竹島渡海之願」(明治10年1月)も、既に出されていましたが、これは東京府知事あてだったので、寺島宗則はあるいは知らなかったのかもしれません。

    渡邊洪基の松島之議がこの決定にからんでいるのかいないのか、非常に興味があるところです。
    しかし、もし、かんでいたのだとしたら、この太政官決定の記録自体にその痕跡があるはずです。それが、全くないので、内務省があげたこの件には、外務省はかんでいないのかもしれません。
    そうすると、この「外一島」は、シーボルト以来混乱していた松島=鬱陵島だとする、今、日本で優勢な議論は、あるいは成り立たないのではないかとも思います。

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  13. >この「外一島」は、シーボルト以来混乱していた松島=鬱陵島だとする、今、日本で優勢な議論は、あるいは成り立たないのではないかとも思います。


     太政官指令の解釈においてはしばしば「松島=鬱陵島」と言うことが述べられるわけですが、それを言うときには、それは現代の我々が明治政府の書類を検討した結果としての客観的な事実として述べていることなのか、それとも指令を下す時点での内務省あるいは太政官の主観的認識について述べているものなのか、の違いを区別しておく必要があると思います。

     現代の我々が明治政府の書類を検討した上での結果論として言うならば、太政官指令にいう「外一島=松島」は実は「鬱陵島」のことであったという事実は確定と言えるでしょう。一方、指令を下す時点での内務省あるいは太政官の認識として竹島は何だと考え松島は何だと考えたのかについては、まあ、少なくとも、「竹島というのは朝鮮の鬱陵島である」と考えたはずですが、「外一島」(松島)については、matsuさんもおっしゃるように吟味が全くなされていない(というか、正確には、吟味した形跡が確認できない)ためにはっきりしません。

     しかし、今回、matsuさんが資料を丹念に確認なさったおかげで、参議兼外務卿である寺島宗則が太政官指令の決裁にはんこを押していたことを知りました。これは重要なことです。外務省の知見が内務省の伺いや太政官の最終決定に反映されていた可能性が現実味を帯びてきます。

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  14. >問題は、審議した側である内務省、さらには決定を下した太政官において、「外一島」についての吟味が全くなされていない、ということだと思います。

     
     内務省の伺い文書も太政官の決裁文書も、説明として出てくるのは「竹島」のことばかりであるのに結論としては「竹島ほか一島」についての判断を下しているわけですから、公文書としてはどちらも矛盾(松島についての説明の欠落)を抱えているように見えます。
     この矛盾に見えるものは伺いを起案した内務省の担当者自身でも自覚するはずのものです。ところがそういう文書を関係者の皆が問題なく承認している。ということは、何らかの形でその矛盾に見えるものは実は矛盾ではない、という確認が行われて、皆が納得していたのだろうと思います。



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  15. 1枚目3行目の「本局」のしたにハンコがふたつあります。
    「土方」「巖谷」と読めます。
    また1行目には「牟田口」というはんこがあります。

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/index1.html
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/002.jpg

    「土方」「巖谷」は、太政官大書記官「土方久元」「巌谷修」、
    「牟田口」は太政官少書記官「牟田口元学」ではないかと思います。



    明治10年の太政官の名簿があります。

    職員録 明治10年
    太政官職員録明治10年2月6日改

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A09054290600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2009072214054074508&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

    3コマ
    大書記官
    土方久元
    巌谷修

    4コマ
    少書記官
    牟田口元学

    2コマ目と3コマ目には、岩倉具視、大隈重信、大木喬任、寺島宗則の名前が見えます。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「土方久元」「巌谷修」「牟田口元学」いずれも有名な人のようです。

    土方久元 ひじかた ひさもと
    http://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83

    幕末・明治の志士。政治家。伯爵。土佐生。土佐藩郷士土方久用の子。幼名は大一郎、名は楠左衛門、号は秦山。土佐勤皇党に参加し、藩命で上京、三条実美の信を得て、学習院御用掛となり七卿落ちに随行。中岡慎太郎と共に薩長連合実現に尽力した。のち明治政府に出仕し、のち元老院議官・宮中顧問官・枢密顧問官・農商務大臣等を歴任した。著に『回天実記』。大正7年(1918)歿、86才。

    土方久元 ひじかた-ひさもと
    1833-1918 幕末-明治時代の武士,政治家。
    天保(てんぽう)4年10月6日生まれ。土佐高知藩士。三条実美(さねとみ)の衛士,学習院御用掛となる。中岡慎太郎らと薩長同盟の成立に尽力した。明治20年第1次伊藤内閣の農商務相。同年宮内大臣となり,翌年枢密顧問官を兼任。大正7年11月4日死去。86歳。通称は楠左衛門。号は秦山。著作に「回天実紀」。

    wiki
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83



    巌谷一六(本名は修)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%8C%E8%B0%B7%E4%B8%80%E5%85%AD

    巌谷 一六(いわや いちろく、天保5年2月8日(1834年3月17日) - 明治38年(1905年)7月12日)は、滋賀県出身の政治家、書家。本名は修(幼名は辨治)、字を誠卿といい、一六は号で、別号に古梅・迂堂・金粟道人などがある。
    児童文学者の巌谷小波は子。いとこの美濃部鏘次郎の曾孫に岡田卓也元イオン社長、玄孫に岡田克也外務大臣がいる。
    天保5年(1834年)、近江国甲賀郡水口(現在の滋賀県甲賀市)に生まれる。父玄通は水口藩の侍医であったが、一六が6歳の時に亡くなり、母とともに京都に赴き、書・漢籍・医術を学んだ。明治元年(1868年)、新政府の官吏となり、内閣大書記官・元老院議官・貴族院議員などを歴任した。能書家としても知られ、明治の三筆の一人と称される。初め中沢雪城に師事して菱湖流を学び、明治13年(1880年)に来日した楊守敬から六朝書法を学んで独自の書風を確立した。各体をよくし、特に行草書は瀟洒な風をなしている。明治38年(1905年)、72歳で没した。明治時代初期の役所の公休日は、「1」と「6」の付く日で、その日は筆を持つ日と決めて、「一六」という号をつけたと言い伝えられている。


    牟田口 元学
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9F%E7%94%B0%E5%8F%A3%E5%85%83%E5%AD%A6

    牟田口 元学(むたぐち げんがく、弘化元年12月26日(1845年2月2日) - 大正9年(1920年)1月13日)は明治時代の鉄道経営者・事業家。号は鷹村。
    佐賀藩士牟田口利左衛門の長男として生まれる。成長の後戊辰戦争で官軍に従事し功績を認められ官吏になる。明治維新後工部省、文部省、農商務省などに出仕するが、大隈重信の明治十四年の政変に伴って下野を強いられ、立憲改進党の掌事となる。
    その後、東京馬車鉄道の社長を歴任。同社は明治33年(1900年)に東京電車鉄道と改称され明治39年(1906年)には東京電気鉄道、東京市街鉄道と合併して東京鉄道となる。明治44年(1911年)に市営化されるまで経営に敏腕を振るう。このほか播但鉄道、小倉鉄道などの私鉄だけではなく、大正瓦斯や日清生命の経営にも参画した。大正5年(1916年)には貴族院議員に勅撰された。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    このひとたちが段取りをして、右大臣・参議がハンコを押した、ということでしょう。

    土方久元には、日記が残っているようです。

    http://www.comp.tmu.ac.jp/library/collection/hijikata.pdf#search='%E5%9C%9F%E6%96%B9%E4%B9%85%E5%85%83'

    土方久元文書仮目録  東京都立大学付属図書館。
    何か書いているかもしれません。

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  16. Kaneganese 様

    >竹嶼が明治政府に公式に発見されるのは、軍艦天城が派遣されてからなので
    (その点不勉強で失礼します)そうだとすると、江戸時代に描かれていた地図や文献も、関心を持つまでは明治政府に認識されていなかった、という事なのでしょうね。

    色々検証していて発見した事が在りまして、皆さん、それぞれに検証していらっしゃる様ですが、振り仮名がないのでどう読んでいらっしゃるのか解りませんので、御存知かも知れませんが、
    「鬱陵島<ほか>一島」ではなく
    「鬱陵島<そと>一島」との解釈の様ですね。
    朝鮮半島の古地図に、『鬱陵島<内>圖』『鬱陵島<外>圖』が在ります。
    文字通り、「鬱陵島の<内部の>地図」「鬱陵島<外部の>地図」です。
    『鬱陵島内圖』には、鬱陵島の内部が描かれています。
    『鬱陵島外圖』には、鬱陵島の周辺諸島詳細が描かれています。

    但し、いずこも同じですが、記録係が、「伝聞や以前の書類等を参照して居た」様ですので、ピックアップの仕方などによって、事実と必ずしも合致していない事も多々あります。
    この解釈の考慮に入れて、「他一島」ではなく「外一島」と書かれた、のかもしれないと思いますが、いかがでしょうか?

    日本と朝鮮だけでなく、諸外国とも、相互に地図の参照を行っていて、
    ・模写版で、そのままの記述に従ってそのものを書き写した地図
    ・模写版だけれど、自国での呼称に書き換えている地図
    ・模写版で、自国での検証を部分的に描き込んだ地図
    などなど、模写の際に存在しうるパターンが組み込まれたものが、現存する各国先人方が残している地図となっていて、竹島検証でも多々見られる混同状態が生じて居る様ですね。誤謬模写しかり。
    といったポイントで、現在、他の検証もしている所です。

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  17. 名古屋大学大学院の池内敏教授は、その最新著作『竹島問題とは何か』において、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に関して、島根県が提出した磯竹島略図と原由の大略を紹介した後に、次のように書いています。


     こうして伺書に添付された文書・地図双方から、島根県が「竹島」「松島」を一括するものとして伺書を出したことが明らかである以上は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と題された伺書にいう「竹島外一島」が「竹島(鬱陵島)」と「松島(現在の竹島)」を指すことには議論の余地がない。(146p)


     これは、matsuさんが、28/12/12 00:51に書かれた、「伺いを立てている島根県の側の認識としては、竹島=鬱陵島、松島=外一島=現竹島=独島であることは動かないと思います。準拠しているものが、大谷・村川の文献しかないからです。」ということと同じだと思います。

     私は、ここで、「議論の余地がない」とか「動かない」というのは、一応はそのとおりだとしても、厳密に言えば、「誰の立場から見て」そう言えるのか、ということを一度は考える余地があると思っています。「誰が見たってそうじゃないか」というのが普通の理解であることは承知していますが。

     実際問題として、今地球上にいる何十億の人間のうち、磯竹島略図と原由の大略を見せられて(もちろんそれぞれの国の翻訳付きでいいですが)、「ああ、竹島というのは韓国の鬱陵島で、松島というのは竹島とか独島とかいう島のことだろ?」と言える人間が果たして何パーセントいるだろうか、ということがひっかかるのです。
    (↑ chaamieyさんは正月から酔っぱらったままでいる疑いあり?)

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  18. これは、人によって意見がわかれるのではないでしょうか。

    私は、竹島ほか一島ということは、素直に考えて、名前の知られていなかった島のことを指していると思います。さらに、附属の「磯竹島略図」にも竹嶼がマノ島として書かれていること。この両方の見地から、ほか一島とは、マノ島 (マノダケ島・つまり竹嶼) だと思います。
    もし、それが松島(現在の竹島)のことだとしたなら、松島と書いたと思うのです。こう考える理由は、松島(現竹島)を帰属の問題のある島だとした形跡が、歴史的にも見あたらないからです。

    佐田伯茅が、明治3 年に朝鮮に行ったときの報告書の竹島・松島も、当時の朝鮮の人々の言動から、鬱陵島と竹嶼のことだと考えられます。

    結局、外一島とは、「アルゴノート」または「竹嶼」のどちらかであるか断定できないが、少なくとも、現在の竹島のことではないと言えると思います。

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  19. Chaamieyさん

    次ニ一島アリ。松島ト呼フ。周回三十町許。竹島ト同一線路ニ在リ。隠岐ヲ距ル八拾里許。樹竹稀ナリ。亦魚獣ヲ産ス。

    これを冒頭の
    磯竹島、一ニ竹島ト稱ス。隠岐國ノ乾位、一百二拾里許ニ在リ。周回凡十里許。山峻険ニシテ、平地少シ。川三条在リ。又瀑布アリ。然レドモ、深谷幽邃、樹竹稠密、其源ヲ知ル能ハス。

    とあわせて読めば、島根県の伺いにある「竹島」と「外一島」が
    竹島=磯竹島=現鬱陵島
    外一島=松島=現竹島=独島
    であることは、動かないと思います。

    添付された地図(磯竹島略図)にある「松嶋」も、現竹島=独島であることは「誰が見ても」間違いないでしょう。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/

    伺いをたてた島根県側の認識としては、そうであった、ということは認めざるを得ないと思います。


    ただし、この文献で明らかなように、内務省は「外一島」について吟味していないことは明らかですし、それ受けた太政官決定においても、「外一島」について、まったく吟味・審議はされていません。

    よって、実態を把握せず、不十分な吟味のまま、「竹島=鬱陵島」も「外一島=松島=現竹島=独島」も、あわせて「本邦関係無之義」と結論付けてしまった。つまり太政官としては、非常に杜撰な決定をしてしまったのだ、ということになると思います。

    であるからこそ、明治14年に内務省の西村捨三からの問い合わせにより、この決定にある「外一島=松島」が、「現竹島=独島」から、「鬱陵島」に変わってしまったのだ、と思います。

    明治14年には、この「明治10年太政官決定における外一島=松島」が、「鬱陵島」と解釈=認識されていたことも、また動かない事実だと思います。



    小嶋さん
    「佐田伯茅が、明治3 年に朝鮮に行ったときの報告書の竹島・松島も、当時の朝鮮の人々の言動から、鬱陵島と竹嶼のことだと考えられます。」

    竹嶼を「松島」と呼んだ文献は、日本にも、朝鮮にもありません。
    文献的根拠のない「希望的憶測」は、むしろ韓国側の得意とするところですが、混乱を招くだけだと思います。

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  20. お二方のレス、ありがとうございます。

     私が今、わけの分からんようなことを言い出したのは、もちろん「外一島とは何か」を考えるためではあるのですが、今回はすぐにその結論に行きつくのでなく、その出発点というか前提というか、入口の問題を少し確認して見たいと思っています。

     私の今回の問題設定は、島根県が提出した磯竹島略図と原由の大略を読んだ場合に、そこに書かれている「竹島」とは「鬱陵島」のことであり「松島」というのは「竹島/独島」のことであると「誰でも」分かるのか、ということです。

    matsuさんからは「誰でも分かる」という意味の回答をいただいたものと理解しますが、実は私は「誰でも分かる」とは言えないのではないかと思っています。

    磯竹島略図と原由の大略に書かれている「竹島」とは「鬱陵島」のことであり「松島」というのは「竹島/独島」であると分かるのは、その人が鬱陵島や竹島/独島に関してあらかじめ「知っている」からこそ分かるのではないか、と考えるのですが、こういう考えについてはどう思われますか?

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  21. 内務省史料の「磯竹島略図」は、近代的に洗練されていますが、島根県が内務省に送った元の図は、以下の地図のようなものであったと私は考えます。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/tottori-museum/1696-01/8443.jpg

    この図で見ると、マノ島(まの嶋)は、かなり大きめに描かれています。一方、松島(現竹島)は、明らかに二つの島からなっています。この図をみて、「ほか一島」を松島とするのはどう考えてもおかしいと思います。

    次に、竹嶼を「松島」と呼んだ文献は、日本にも朝鮮にも現存しないとしても、佐田が聞いた報告は、当時の朝鮮の意見を元にしています。彼らが、竹嶼を、和人のいう松島と考えていたと理解することができます。
    しかも、当時の朝鮮人たちが、現在の竹島に対して問題認識していた証拠もありません。

    私の意見の根拠の一つは、明治八年(1875年)の 佐田白茅の「改訂新鐫朝鮮全図」が、竹嶼までしか描かれていないからです。彼の考えていた、松島は、現竹島ではないことが分かるからです。明治三年(1870年)の「朝鮮国交際始末内探書」 中の松島が、現竹島では無いことが分かります。これを希望的憶測と断定されても同意致しかねます。
    島名混乱期ですから、複数の人々が書いた資料中の松島を断定するのは尚更、無理があります。見解の相違でしょう。

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  22. 和田春樹 『領土問題をどう解決するか』平凡社新書657 
    2012年10月15日刊

    この資料についての記述があります。
    本文をあげ、続く→で私の注記と批判を記します。

    192p~194p「竹島に関する明治政府の太政官決定」

    明治維新をなしとげて、近代国家の道を歩み出した日本は、近隣諸国との関係を整理し、国境の画定を進めたわけですが、1876(明治9)年2月、朝鮮に強引に迫って、日朝修好条規を結び、朝鮮を開国させました。しかし、この条約では国境画定問題は触れられていませんでした。その点を補ったのが、1877年3月29日の太政官決定です。

    →この太政官決定が、明治国家の「国境画定」とリンクしている、という証拠はない。「国境画定問題」を補った、とするのは和田氏の恣意的発言にすぎない。
    すでに武藤平学の「松島開拓之議」(明治9年7月)を受け取っていた外務省がもし関与しているとすれば、その反映が添付資料などに表れるはずである。しかし、その形跡はまったくない。すなわち、この太政官決定には、外務省の関与の形跡は認められない。外務省が関与しない「国境画定」はありうるのだろうか。


    この決定は、堀和生氏が1987年の論文「1905年日本の竹島領土編入」で明らかにしました。

    →堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集24』(1987年3月)97p~125p 

    1876年10月、日本の内務省地理寮が島根県に「竹島」(鬱陵島)の件について問い合わせを行いました。日本と朝鮮との間で島の国境画定が問題になるとすると、この島が中心的な問題になるのは、当然のことでした。

    →内務省地理寮が島根県に問い合わせたのは、「竹島」の件であって、「「竹島」(鬱陵島)」の件ではない。この時にはまだ「竹島」が「鬱陵島」であることを、内務省地理寮も、島根県も知らなかった。問い合わせを受けた内務省の調査によって、「竹島」が実は「鬱陵島」であることがわかってくる。
    鬱陵島が朝鮮領であることは、江戸幕府も認め、明治政府も争っていない。よって「この島」(「鬱陵島」)が、国境画定の「中心的な問題」となるのは「当然のこと」と言うよりも、既に確定していたともいえる。


    島根県は調査をして、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺い」を地図とともに提出しました。「磯竹島略図」(図15)と題されたその地図には「磯竹島」(鬱陵島)が記され、その島の南東、隠岐との間に小さな「松島」が描かれています。「竹島外一島」とは、鬱陵島と竹島=独島を意味しているのは明らかです。

    →島根県側の認識は、確かにその通りであった。大谷・村川の文献にしか準拠していないのだから、当然である。

    内務省の方でも独自に調査し、島根県の報告と合わせ、「この両島は朝鮮領であり日本のものではないと結論を出した」と堀氏は書いています。

    →内務省の「独自」の調査は、「元禄竹島一件」の文献についてだけであった。
    「この両島は朝鮮領であり日本のものではないと結論を出した」というが、
    島根県の認識していた「両島」を、内務省が正しく吟味していないことは、上の添付資料の分析から明らかである。内務省が調査した「元禄竹島一件」の文献では、竹島すなわち鬱陵島について記述しているのみで、松島すなわち現竹島=独島についての言及は一切ない。つまり、内務省の調査では、「外一島」についての吟味は、全くなされなかった。
    堀和生の記述は、前掲論文103p


    この件の史料は、国立公文書館所蔵の『公文録』明治10年3月に収録された「日本海内竹島外一島地籍編纂伺」です。

    →すなわちこの史料である。

    内務省は、1877年3月17日、太政官にこの件で伺いを出します。付属書類の中には、竹島は「隠岐国ノ乾(北西)位一百二拾里許ニ在リ」とし、「次ニ一島アリ松島ト呼フ」「隠岐ヲ距ル八拾里許」と記しており、「外一島」とは松島(現在の竹島)であることを明記しています。

    →この記述は、島根県側の文書の中にあるものである。内務省は、そのまま附属書類としたのであって、内務省が自ら作成したものではない。


    太政官の審査で、内務省の見解が正しいと判断され、3月20日、次のような文書が起草され、岩倉具視以下の承認を仰ぎます。
    「別紙内務省の伺い、日本海内竹嶋外一嶋の地籍編纂の件
    右は元禄五年朝鮮人入嶋以来、旧政府は該国と往復の末、遂に本邦とは関係これなしと相聞こえ候段申し立て候上は、伺いの趣、お聞き置き、左の通り御指令相成りしかるべき哉、この段相伺い候なり」
    該国とは朝鮮国のことです。17世紀の幕府の措置がくわしく検討されました。

    →「太政官の審査で、内務省の見解が正しいと判断され、」とあるが、
    太政官が新たに何らかの「審査」をして、この件についての吟味を加えた形跡はない。太政官の「審査」では、単に「書面」という文字を「伺之趣」に朱字訂正しているのみで、内容について立ち入った形跡はなく、そのまま決定してしまっている。
    「17世紀の幕府の措置がくわしく検討されました。」とあるが、検討されたのは、竹島(鬱陵島)についての幕府の措置だけで、松島についてはまったく検討されていない。

    付された御指令案通り、1877年3月29日指令が出ます。
    「伺之趣、竹島外一嶋之儀、本邦関係無之儀ト可相心得事」
    鬱陵島と竹島を一体ととらえ、この二島は朝鮮の領土であるとの心象をえて、日本の領土ではないと宣言したのです。これによって日本としては朝鮮との間の領土画定を果たしたといえます。

    →「鬱陵島と竹島を一体ととらえ」ということは、証明できていない。
    竹島(現竹島)についての検討は、内務省の吟味にも、太政官の決定にも無いのである。「鬱陵島と竹島を一体ととらえ」たというのは和田氏の恣意的解釈にすぎない。


    この堀氏の発見は大きな反響をよびました。竹島問題を研究している島根大学教授内藤正中氏、名古屋大学教授池内敏氏などは堀氏の主張を支持しました。しかし、拓殖大学教授の下條正男氏は、「「竹島外一島」の一島が松島(現在の竹島)を指すのかそうでないのか判然としない」とこの太政官決定の意義を無視しようとしています。そして、外務省もこの太政官決定を無視しつづけています。外務省のパンフレット『竹島問題を理解するための10のポイント』には、この重大な決定のことはまったく出てこないのです。他方、韓国政府は、この太政官決定をきわめて重視しています。

    →韓国側が、自分に有利な資料を重視するのは、わざわざ念押しするまでもなく、しごく当然である。
    ここで和田氏は、参照できたはずの杉原隆論文「「竹島外一島之儀本邦関係無之について」再考―明治14年大屋兼助外一名の「松島開拓願」を中心に」(2009)を無視している。


    和田氏のこの著作出版後に出された
    池内敏『竹島問題とは何か』名古屋大学出版会 2012年12月20日刊
    第7章「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の解釈について(書き下ろし)では
    この資料の全文翻刻(および一部現代語訳)を載せている。

    池内敏氏は、この中で(146p)

    こうして伺書に添付された文書・地図双方から、島根県が「竹島」「松島」を一括するものとして伺書を出したことが明らかである以上は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」と題された伺書にいう「竹島外一島」が「竹島(鬱陵島)」と「松島(現在の竹島)」を指すことは議論の余地がない。

    とする。しかし、それに続いて、こう述べている。

    それら島根県提出文書および旧幕府から引き継いだ関連文書【5】~【9】(対馬藩と朝鮮政府の交渉記録、幕府の判断)を検討した内務省は、竹島を「本邦とは関係ない」と結論づけた。

    すなわち、池内氏であっても
    「竹島と松島を」、ではなく「竹島を」、としか書けないのである。
    ここに重要な意味がある。
    内務省は「竹島=現鬱陵島」についてのみしか判断しておらず、「外一島=松島=現竹島=独島」については何の判断もしていない。

    (ここで関連文書【5】~【9】とは、すなわち上記の「C-1」「C-2」「C-3」「C-4の1」「C-4の2」である。)

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  23. 小嶋さん

    私は、「島根県が内務省に送った図」は、「磯竹島略図」そのものだと考えています。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/

    これも「見解の相違」でよいと思います。


    「佐田伯茅が、明治3 年に朝鮮に行ったときの報告書の松島」については
    「竹嶼を「松島」と呼んだ文献は、日本にも朝鮮にも現存しない」ということを確認しただけで、
    「見解の相違」を残しておきましょう。

    「希望的憶測と断定されても同意致しかねます。」
    とは、小嶋さんからすればその通りだと思います。

    実は、私自身が言っていることにも、「希望的憶測」は多々あると思われ、それを、多くの人が納得できるだけの根拠を、どれだけ提示できるかにかかっているのだと思います。

    上記「佐田伯茅が、明治3 年に朝鮮に行ったときの報告書の松島」について、私は、
    松島については十分な文献がないので、「朝鮮領になった経緯はわからない」。すなわち、「朝鮮領になっているかどうかもわからない」と読むのではないかと思っています。これも「希望的憶測」ですかね(笑)

    竹島 松島 朝鮮附属ニ相成候始末
      此儀ハ 松島ハ竹島ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付 是迄掲載セシ書留モ無之 竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間 朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処 当時ハ以前ノ如ク無人ト相成 竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ 人參等自然ニ生シ 其餘漁産モ相應ニ有之趣相聞ヘ候事

    地図については、
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/kaiteishinsenchosenzenzu-1875/


    chaamieyさんの
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/54261804.html
    「松島」は「于山島」を指していたのではないか
    は、説得力のある説だと思います。

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  24. 上記「松島は」を、「地図の右下の島は」、「于山島」を指していたのではないか

    に急いで訂正しておきます。

    この地図にあらわれた朝鮮側の認識に、「松島」はそぐわない気がするからです。

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  25. こちらに投稿するのは初めてかもしれません。よろしくお願いします。
    ----------
    磯竹島略図と原由の大略に書かれている「竹島」とは「鬱陵島」のことであり「松島」というのは「竹島/独島」であると分かるのは、その人が鬱陵島や竹島/独島に関してあらかじめ「知っている」からこそ分かるのではないか、と考えるのですが、こういう考えについてはどう思われますか?
    ----------
    私は、Chaamieyさんの指摘に同感です。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a10kou2032-1877/
    こんな地図を送り付けられたって、何だかよく解らないでしょう。
    当時、政府は大日本沿海輿地全図とか、亜細亜東部輿地図といった高精度の近代的地図を持っていたのだから、これらの地図で島の同定を試みたはずです。
    島根県は鬱陵島を(磯)竹島、現在の竹島を松島と呼ぶ地図を持ち、政府は鬱陵島を松島、現在の竹島をリエンコヲルトロックと呼ぶ地図(しかも、良い地図!)を持っているという状況です。
    太政官布告で現在の竹島を放棄したと主張することは、島根県伺書にいう松島がリエンコヲルトロックと同一であることを政府が知っていたと主張することと同義です。しかし、そのような議論がなされた証拠や資料は存在しません。また、当時の資料から容易に導き出せる結論とも思えません。
    Chaamieyさんが主張するように、今だから島根県伺書の松島=リエンコヲルトロックだと言えるのであって、当時島根県と政府のやりとりの中で松島=リエンコヲルトロックという共通認識があったとはとても思えません。
    結論を言えば、島根県も政府も従前からの地理認識を変えることのないまま(齟齬が解消されないまま)太政官布告は発せられたのだと思います。

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  26. 堀和生「1905年日本の竹島領土編入」『朝鮮史研究会論文集24』(1987年3月)97p~125p 

    「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」該当部分の記述です。
    →以下は私のコメントです。


    103p
    まず、内務省が二つの島の所属について、最初に決定をせまられた。1876年10月内務省地理寮が地籍を編纂するために、島根県に同県の沖にある「竹島」なる島の情報を照会したことが契機となった。(19)
    (19)この件については、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」(太政官編『公文録』1877年 内務省之部 国立公文書館所蔵)による。

    →この注(19)は、まさにこの資料

    そこで島根県当局は、17世紀の大谷・村川両家による竹島=鬱陵島開拓の経緯を取調べ、竹島と松島=独島の略図を付し、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」として内務省に提出した。つまり、島根県当局は、松島を竹島の属島と理解していたため一括して取り扱ったのであった。

    →「一括して取り扱った」のは歴史的事実であるが、「属島と理解していた」かどうかはわからない。「島根県当局は、松島を竹島の属島と理解していた」というのは、文献的に実証されていない堀の恣意的な解釈である。


    内務省は、独自に元禄期の「竹島一件」の記録を調べ、島根県の「伺」の情報と合わせ検討したうえで、この両島は朝鮮領であり日本のものではないと結論を出した。

    →堀は「両島」と記すが、内務省の調査は竹島(鬱陵島)についてだけである。


    しかし、「版図ノ取捨ハ重大ノ事件」であるため、同省は翌77年3月17日太政官に「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出して、その判断をあおいだ。付属書類中で、「外一島」とは松島であると明記され、その位置と形状も正しく記述されていた。

    →内務省の付属書類に「「外一島」とは松島であると明記」されている史料が存在するのだろうか? 前記注(19)が、まさにこの資料だが、これには「外一島」とは松島であるとは「明記」されていない。また、この付属書類は、島根県が作成したもので、内務省が独自に作成したものではない。


    太政官調査局の審査では内務省の見解が認められ、次のような文章が起草された。
    別紙内務省伺日本海内竹嶋外一嶋地籍編纂之件 右ハ元禄五年朝鮮人入嶋以来旧政府該国ト往復之末遂ニ本邦関係無之相聞候段申立候上ハ 伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉 此段相伺候也
       御指令按
    「伺之趣」竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事
    この指令按は、右大臣岩倉具視、参議大隈重信、寺島宗則、大木喬任等によって承認決定された。

    →「等」の意味は何か? 参議だけでなく、太政官の役人もこの決定に参与した、という意味付けか?
    なお、上記池内敏の最新刊『竹島問題とは何か』の翻刻(140p、352p)には、岩倉具視と大隈重信について印影不明として記名されていない。カラー版で見れば明確に読み取れるし、堀和生もすでに読み取っていたわけで、あえて不明として残す理由はない。


    そして、同年3月29日正式に内務省に指令された。即ち、当時の日本の最高国家機関たる太政官は、島根県と内務省が上申してきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を日本領に非ずと公的に宣言したのであった。この指令は4月9日付で内務省から島根県に伝えられ、現地でもこの問題に決着がつけられた。

    →決着したはずであったが、明治14年には、この明治10年太政官決定における「外一島」=松島とは、現竹島=独島ではなく、「鬱陵島」のことと理解されるに至った。
    この太政官決定の意味付けが明治14年には変更された、と解釈すべきであろう。

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/-04.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%86%85%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E7%B1%8D%E7%B7%A8%E7%BA%82%E6%96%B9%E4%BC%BA+%E6%9D%89%E5%8E%9F%E9%9A%86+%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C'

    http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf

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  27. puracyakaさん

    「太政官布告で現在の竹島を放棄したと主張することは、島根県伺書にいう松島がリエンコヲルトロックと同一であることを政府が知っていたと主張することと同義です。しかし、そのような議論がなされた証拠や資料は存在しません。」

    賛成です。

    内務省も太政官も、島根県伺書にいう松島については「無視した」としか読み取れません。

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  28. puracyakaさん、同意いただき、ありがたいです。puracyakaさんはその先までコメントを書かれましたが、今はあまり先まで進まず、ことがらを一つずつ確認したいと思います。

    ある物を見たとき、それについてあらかじめ知っていなければ、それをそれとして認識することはできないはずです。初めて見たのであれば、第一の反応は「これは何だ?」となるでしょう。南洋に出向いた昔の日本人が初めて「象」という動物を見たとき、あるいは現代でも、山の中で今まで見たことのないキノコを発見したときのことなどを考えれば分かると思います。

    したがって、私は、次の命題が成立すると考えます。

    「地球上には二種類の人間がいる。磯竹島略図と原由の大略を読んで、そこに書かれている「竹島」とは「鬱陵島」のことであり「松島」というのは「竹島/独島」であることが分かる人間とそういうことは分からない人間の二種類である。その二種類の区分を決定するものは、その人が鬱陵島や竹島/独島に関してあらかじめ知っているかいないかである。


    これについては、皆さん、いかがでしょうか。




    それから、「今はあまり先まで進まず」と自分で言いながら、一つだけ先のことを書いておきます。

     上のmatsuさんのコメントの最後の一文「この太政官決定の意味付けが明治14年には変更された、と解釈すべきであろう。」は極めて重要な指摘です。そのとおりです。意味付けが明治14年に「変更された」のです。

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  29. puracyaka様
    よろしくお願いします。ご意見に同意です。ただ細かい話では、思い違いをされているようです。「大日本沿海輿地全図」とは、普通、伊能図のことを指します。これには、鬱陵島も現竹島も記載されていません。この地図を参考にしても、各島の同定はできません。

    それとも、その改訂版とでもいうべき勝海舟による「大日本国沿海略図」のことでしょうか。あるいは、増訂大日本輿地全図 逸見豊次郎 元治元年(1864) あたりのことでしょうか。

    似た名称のものでは、明治になってからのものでは、以下のようなものがあります。
    大日本輿地新圖 松田直撰 明治九年(1876年)六月
    (竹島と松島の記載無く、隠岐の西に桂島の記載がある地図)
    大日本輿地全圖 廣澤信房 明治十年三月
    (アルゴノートを破線で示した竹島と、鬱陵島の松島、隠岐に名称だけ桂島の記載)
    大日本輿地全圖 田中致知 明治十二年十一月
    (アルゴノートを破線で示した竹島と、鬱陵島の松島、隠岐に名称だけ桂島の記載)

    これらは、全体的には「高精度の近代的地図」ではありますが、鬱陵島や現竹島の周辺は、まだ不正確で、各島の同定に用いることはできないものです。

    また、亜細亜東部輿地図 明治八年(1875年)に関しましては、
    アルゴノートの「竹島(竹嶌)」と鬱陵島の「松島」がありますが、リァンクール岩(現竹島)は、記載されていません。ただし、「桂島」という名称だけは、隠岐のすぐ近くに記載されています。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/05/1894-jissoku-chosen-zenzu-by-so-mokan.html

    したがって、
    「当時、政府は大日本沿海輿地全図とか、亜細亜東部輿地図といった高精度の近代的地図を持っていたのだから、これらの地図で島の同定を試みたはずです。」

    これはちょっと無理です。些末なことですみません。

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  30. matsu様

    私が、内務省版の「磯竹島略図」に関して、それを島根県から送られた「まさにそのもの」だと考えない理由は、この図が、銅板印刷によるものと考えているからです。磯竹島周辺の海を表す部分が、水平な細密線で描かれていて、名称の記載が、銅板に鏡文字で彫られたものを刷った印刷物のように思えるのです。
    島根県から送られたものは、正・副あるいはその予備があったとしても、精々合計三点程度であり、手書きの地図であったと思うのです。

    一方、内務省でこれを省内の会議や、最終的な参議に廻した資料では、恐らく三十部近く印刷する必要があり、このため銅板印刷になったのではないか。おそらく、例の酒井兄弟たちのような、元水戸藩士で銅板地図作製の腕を持った人物による印刷ではないかと考えているからです。

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  31. 小嶋日向守さんは、いろんなことにお詳しいですね。驚きます。

    私は印刷のことはまるで分かりませんが、磯竹島略図を改めて見れば、周囲に枠線があったりして、直接の手書きではなくて、なるほど印刷物のように見えます。

    ただ、小嶋日向守さんが元図であろうとおっしゃる図面と磯竹島略図とではずいぶん島の様子が違いますから、内務省が書き換えたとは思いにくいのですが、いかがでしょうか。

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  32. 小嶋さま
    役人が後世への資料として公文書に残した地図ですので、私はやはり実際の会議で参考資料として使用されたものが残されているだと思います。


    さて「松島」については、内務省が調べて作った文書にはまったく「松島」があらわれてきません。元禄竹島一件で、朝鮮との交渉では、松島についてはまったくふれられていないので当然ともいえます。
    しかし、上の二人の論者は、勝手な想像をしています。

    堀和生
    「島根県当局は、松島を竹島の属島と理解していたため一括して取り扱ったのであった。」
    「太政官は、島根県と内務省が上申してきた竹島=鬱陵島と松島=独島をセットにする理解に基づいて、両島を日本領に非ずと公的に宣言したのであった。」

    上にも書きましたが、内務省も太政官も、島根県の言ってきた「松島」については何もわからなかったので、単に無視しただけなのかもしれません。

    和田春樹
    「太政官の審査で、内務省の見解が正しいと判断され(略)岩倉具視以下の承認を仰ぎます。(略)17世紀の幕府の措置がくわしく検討されました。(略)
    鬱陵島と竹島を一体ととらえ、この二島は朝鮮の領土であるとの心象をえて、日本の領土ではないと宣言したのです。これによって日本としては朝鮮との間の領土画定を果たしたといえます。」

    お二人とも碩学の実証主義の歴史家といわれる人たちですが、意外と文献に基づかないで、勝手なことを言っているなあ、と思います。

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  33. matsu様
    会議で使用された地図であることは間違いないと思います。あくまでも参考意見です(笑)。

    Chaamiey様・matsu様ほかの皆様へのお願い
    私が何事にも散漫なことがバレてしまいお恥ずかしい限りです。恥かきついでに、話題が全然違うので恐縮なのですが、実は、12月の初め頃から、投稿しようと思いながら、なかなか機会がなく、ついそのままになっていたことがあるのです。それは、李奎遠の「鬱陵島検察日記」の解読と翻訳の研究協力を願いしたいということなのです。

    田中邦貴さんのところに、史料の写真と田中さん判読によるテキストがあります。(下記の李瑄根氏のテキストも参考にされているようです)
    http://www.tanaka-kunitaka.net/ulleungdo/prosecution/

    また、トロンさんのところにも、解説とテキストがあります。
    http://take.toron.jp/ronshyu/dokdo/tanken6a.html
    こちらのテキストは、「獨島」大韓公論社1965年11月によるものらしく、元の論文は、李瑄根氏による、「大東文化研究」1963年掲載というもののようです。

    田中さんのサイトの写真と、二つのテキストを読み比べてみると、このテキストは、なんだか怪しいのです。韓国人研究者らしく、「雜(雑)」という字をを「離」と誤読しているなど簡単な文字の誤読のみならず、例えば、「可支魚」という言葉が史料には有るのですが、テキストには出ていないなど、テキストの文字になっていない部分に重要な情報がありそうなのです。李瑄根氏が、途中に出てきた同じ熟語と、次に出てくる同じ熟語の間の部分を、ミスか故意か、数行に渡って飛ばしてしまっている部分もあります。複数の原文著者による推敲のあとで、文章の一部が、所謂「見せ消し」になっている部分も多いので、その部分はテキストから落とされている所為もあるのですが、それらも重要だと思えるのです。

    さらに、興味深いことは、この史料の紙の裏に、このテキストの未知の下書きが隠されているようなのです。画像をダウンロードして水平反転させると、鏡文字となっている未知のテキストを大まかながら、読み取ることが出来ます。フォトショップなどで画像処理する必要もあります。

    スレッドとは、話題が違うので、恐縮なのですが、私はスレッドを立てられませんので、常連の皆様も、時間を見つけて是非この文献を調べて欲しいと思っていました。このスレッドの内容と時期が近い1882年頃の朝鮮人による鬱陵島検察の記録ですので、投稿しました。

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  34. 小嶋日向守様

    「大日本沿海輿地全図」→「大日本国沿海略図」の誤記でした。
    ご指摘ありがとうございました。

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  35. この文献をもとにいえることをまとめると、以下のようになると思います。

    1.「外一島」を「もうひとつの鬱陵島」とする理解は、このテキストからは成立しない。

    2.島根県の伺いにある「松島」についての具体的吟味は、内務省・太政官ともに行われていない。

    3.形式的には、島根県のいう松島、すなわち現竹島=独島について、日本の版図外とした、と言いうる。

    4.ただし現実の松島(現竹島=独島)について、太政官政府がどう認識していたかは、このテキストからはわからない。

    5.よって、当時の日本の最高国家機関である太政官が、現竹島=独島を十分に認識した上で、これを日本の版図外、あるいは朝鮮領と認めていた、という主張は成立しない。

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  36. 小嶋さん

    李奎遠の「鬱陵島検察日記」の解読、ぜひやりたいです。

    初六日の記事に
    海邊石●上立標木長六尺廣一尺書之曰『大日本國松島槻谷明治二年二月十三日岩崎忠照建之』

    とあり、明治2年(1869年)に、日本人が鬱陵島を「松島」と呼んでいたことを証明する重要な文献でもあります。

    また十三日のところに
    則于山之称鬱陵、即如耽羅之称済州

    とあって、于山島とは鬱陵島の別名だと断言しています。

    Kaneganeseさん、スレッドたてられますか?

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  37. 小嶋日向守さん、私もかつて鬱陵島検察日記の全文の確認と日本語訳が作れたらいいなと思ったことはあるのですが、何せ漢文の長文なのでちょっとお役に立てそうにありません。



    それで、というわけでもないですが、せっかく書き始めたのでスローペースの「外一島論」を続けさせてもらいます。

    「あらかじめ知っているからこそ分かる」というのは当然の理だと思いますが、そうすると、島根県からの伺いを受け取った内務省の官僚たちは、いったい「分かるグループ」の人たちであったのか、それとも「分からないグループ」の人たちであったのか。

    池内先生は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺と題された伺書にいう竹島外一島が竹島(鬱陵島)と松島(現在の竹島)を指すことには議論の余地がない」とおっしゃるわけですが、1876年当時の内務省官僚が「分かるグループ」の人たちであったならば、おっしゃるとおりだということになります。しかし、もし「分からないグループ」であったならば、内務省の官僚たちは「この竹島と松島というのは一体どういう島なのだ?」という反応をしたことでしょう。つまりその場合には「議論の余地がない」どころか、まさに今から調査をしたり議論を開始しなければならない状況であったということになります。

    どちらであるかの検証あるいは説明をせずに、単に「島根県の書類を見ればそれは明らかだ」というのは、自分が島根県の書類に書かれた二つの島が鬱陵島と竹島/独島であることが分かるために1876年の内務省官僚も当然に分かったものと無意識のうちに結論づける、根拠のない思い込みではないかと思うのです。

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  38. 上のpuracyakaさんのコメントにもありましたが、太政官指令が鬱陵島と竹島/独島を放棄したと主張することは、島根県の伺いにいう「竹島」と「松島」が「鬱陵島」と「リエンコヲルトロック」であることを政府が分かっていたと主張することと同義です。

    だとすると、そういうことを主張したい人たちは、内務省の官僚たちが島根県からの伺いを受け取った時点でそういうことを分かっていた(それが分かるだけの鬱陵島と竹島/独島に関する知識をあらかじめ持っていた)ことを論証するか、それができないならば、その後の調査によってそういうことを確認したということを論証しなければなりません。しかし、そういう論証は見たことがありません。

    実際には、その後の内務省の調査において島根県のいう「竹島」については朝鮮の鬱陵島であろうということが確認された(上のmatsuさんの投稿本文のC-1「第一号」、C-3「第三号」)ことになりますが、「松島」については審議した形跡が見えないために、「松島」とは何だと判断されたのかは不明であり、問題として残っているのです。

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  39. 太政官指令は竹島/独島を版図外と決定したと主張している人たちが、論理上当然に求められるそういう論証をすることもなく、おそらくはそういう論証が必要であるということに気づくこともなく、無邪気(?)に「島根県の書類がそうなっているからそーなのだ」と見当はずれのことを言っているのを見て、次の歌が浮かんで来ました。





    ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば

    ただ有明の 月ぞ残れる  (後徳大寺左大臣)



    外一島 論ずる方を 眺むれば

    ただ磯竹の 略図残れる

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  40. 太政官指令について、確実に言えそうなことを並べて見ます。

    1 島根県が質問したのは「竹島」と「松島」の二島についてである。

    2 その「竹島」と「松島」は、現代の我々が見れば明らかに鬱陵島と竹島/独島であると分かる。しかし、当時の内務省や太政官の役人の目にどう見えたのかは検証が必要。

    3 内務省はその後の調査により「竹島」は朝鮮の鬱陵島だと判断した。「松島」については何だと判断したかは不明。

    4 内務省~太政官は「竹島」と「松島」を「本邦とは関係ない」と判断した。文言は「本邦とは関係ない」だが、その実質の意味は、判断理由からすれば「朝鮮のもの」と考えていた。
      つまり、「松島」は、どこにあるどういう島だと判断されたのかは現在明らかではないものの、少なくとも言えることは、「鬱陵島とは別の島」であり、鬱陵島を版図外と認定するのと同時に同じく版図外と認定して良い島だと考えられたことになる。


      明治十年の太政官指令発出の時点までの事情として確認できるのは、以上のようなところでしょうか。

      なお、上で、内務省も太政官も松島については無視したのではないかという見方も出されましたが、内務省が島根県にあてて明治14年11月12日付けで「書面松島の義は最前の指令のとおり本邦とは関係無きものと心得るべし」という再指令を出したことからすると、明治十年には「松島」についてもやはり指令は出ていたのでしょう。
     その「松島」は同時に「竹島」であり「鬱陵島」でもあったのではないかという「一島説」については、次に書きます。

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  41. いつのまにか入口論を過ぎて先まで進んでしまいました。

     太政官指令問題とは、その指令にいう「外一島」(=松島)が果たして今言うところの竹島/独島を指していたのかどうか、という問題であるわけですが、その答え自体は太政官指令から4年後の文書によって、既に判明しています。答えは、二つ上に書いた内務省から島根県あての明治14年11月12日付け再指令「書面松島の義は前回の指令のとおり本邦とは関係無きものと心得るべし」にあります。

     この再指令は、内務省が「松島開墾之儀」(松島を開拓したいという申請)を処理するに際して、外務省に対し、「竹島と松島は太政官指令で版図外となっているんだけど、松島についてその後何か変更があった?」と質問して、外務省から「お尋ねの朝鮮国の蔚陵島すなわち竹島松島の件は版図外のままで別に変更なし」という回答を得た上で発したものです。

     「鬱陵島すなわち竹島松島」とする外務省の三名一島の説明を了知しつつ「書面松島の義は前回の指令のとおり本邦とは関係無きものと心得るべし」と通知したわけですから、ここで、内務省が明治十年太政官指令では「松島」という名前で把握していた島が「鬱陵島」であると解釈されていることが分かります。「外一島」の正体はここで明らかになっています。「鬱陵島」だったわけです。決して今言うところの竹島/独島を指していたのではありません。

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  42.  そして、松島は竹島であり鬱陵島であるという内務省の考えは、内務省が明治16年3月31日に全国の各府県長官宛てに出した「日本称松島、一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民妄ニ渡航上陸不相成」という通達で重ねて確認することができます。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/12/1883-mar-1-island-that-japan-call.html


     内務省が太政官に伺いを出す時点で「松島」という名前で把握していた島は実は「松島=竹島=鬱陵島」であったというのは確定した事実です。したがって、太政官指令は竹島/独島を版図外としたのだという主張は、まずそれ自体が錯覚に基づく根拠のないもので全く証明されていないものですが、加えて、明治14年と明治16年の資料で明確に否定されます。この問題は一応決着していると言ってもいいと思います。

     ただ、この結論自体は分かるとしても釈然としないものが残る感もあります。

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  43. 釈然としないのは、内務省~太政官には指令を出す時点から「松島=竹島=鬱陵島」という三名一島の理解があったのかどうか、という点です。太政官指令文の「竹島外一嶋之義」という言葉と「松島=竹島=鬱陵島」という三名一島の理解は、一見したところでは結び付きにくい印象があります。

     この点がはっきりしないと太政官指令の全体像が把握できないので、何かもやもやした感じが残り、「松島=竹島=鬱陵島」という結論自体の信頼性にも少しばかり陰がさす、というところでしょうか。

     しかし、この問題は、要するに、最初から三名一島の理解であったのか、それとも、最初はそうではなかったが後で変わったのか、の二者択一ですから、どちらに推定するほうがより矛盾が少ないかという観点で詰めていけば良いのでしょう。私自身の意見としては、後で変わったのだと思っています。

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  44. 内務省~太政官が指令発出の時点において既に「松島=竹島=鬱陵島」であることを知っていたのかそれとも後で知ったのか、もし後で知ったのであれば、それなら指令発出の時点では「松島」を何だと思っていたのか、ということは、現在判明している資料によってはなかなか確定できないことだろうと思います。

     しかし、太政官指令問題を考える際に、その結論は果たしてそんなに大事なものでしょうか。私はそうでもないと思います。

     指令発出の時点において「松島」をどう考えていたかは結局良く分からないとしても、その後、明治政府は「松島=竹島=鬱陵島」であるという前提のもとに、「松島は前回の指令のとおり版図外である」というように太政官指令を解釈運用したり、「その島については朝鮮政府との約束もあるから日本人は勝手に行くな」と、遠く離れた岩礁は全く含めることなくただ一つの島(鬱陵島)に対してのみ渡航禁止を通達したりしたわけです。太政官指令が鬱陵島と竹島/独島を版図外(朝鮮領)としていたのならば、当然、その両方を渡航禁止とすべきですが実際はそうなっていません。鬱陵島の一島のみを版図外として扱うのが「竹島」と「松島」をめぐっての明治政府の最終的な態度でした。

     こういう事実が確認されていることが重要なのであって、この事実を前にしては、指令文の「外一島」がもともと何を意図していたのかなどということは、分からないなら分からないでもいい、どうでもいいような問題に思えて来るのです。

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  45. 池内先生は、その著『竹島問題とは何か』において、明治14年11月12日付け再指令「書面松島の義は前回の指令のとおり本邦とは関係無きものと心得るべし」や内務省が明治16年3月31日に全国の各府県長官宛てに出した「日本称松島、一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民妄ニ渡航上陸不相成」とする通達などの史料を用いて太政官指令の意味を解こうとする島根県の研究会関係者の試みに対して、「意図的に混乱を持ち込んでいる」と酷評しています。

     (太政官が現竹島を版図外と指示したという)「受け入れたくない史実を真正面から受け止めきれないから、本来、そこに存在しない島名混乱の影響などというものを外から持ち込んで、矛盾の多い主張を押し通そうとせざるを得なくなっている」のだそうです。(149p)
     
     しかしながら、上の二つの史料は太政官指令が結局どういうものであったかを解釈する上で重要な史料であるわけで、これらを用いて考察することは、「竹島とも松島とも呼ばれる鬱陵島」という三名一島の認識をどの時点まで遡らせることができるかという点ではなお議論の余地があるとしても、基本的には正しい方向を向いているわけですから、「意図的に混乱を持ち込んでいる」などという批判は見当はずれです。

     しかも、その思考が磯竹島略図に固着したままで、当時の官僚たちが何をどう考えただろうかということに全く想像が及ばない人がそんなことを言っているのを見ると、いささか滑稽な印象も受けます。

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  46. 長くなってしまいました。以上、外一島論というか、その論じ方について、一応これで終わります。ひとりでしゃべっていて、ふと周りを見たら誰もいなかった、なんてことになりかねないので・・・・。

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  47. >(太政官が現竹島を版図外と指示したという)「受け入れたくない史実を真正面から受け止めきれないから、本来、そこに存在しない島名混乱の影響などというものを外から持ち込んで、矛盾の多い主張を押し通そうとせざるを得なくなっている」のだそうです。(149p)

    島根県の地理認識と明治政府の地理認識に齟齬(=島名混乱)があったことは明らかです。島名混乱の影響を外から持ち込むどころか、所与の条件そのものです。
    島根県の地理認識と明治政府が地理認識に齟齬あり、その齟齬が解決されることもなかった。そういった状況下では、明治政府が自らの地理認識に従って竹島・松島を特定するということは当然有りうることです。(そういう意味で、島名混乱の影響は明らかにあります。)
    島名混乱の意味も、竹島問題が生じるはるか以前に明治政府自ら太政官布告の松島=鬱陵島と解釈したことの意味も認めようとしない池内氏の態度は誠に疑問です。

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  48. おっしゃるとおりだと思いますが、磯竹島略図で全てが明白だと考える以上は島名混乱の影響など有るはずもないので、その影響を具体的に考えてみようという発想が全く湧いて来ないんでしょうねえ。


     島名混乱の影響が無かったというのは、つまり内務省~太政官は磯竹島略図に書かれている磯竹島を鬱陵島と見て松島をリエンコヲルトロックと見たということであり、島名混乱の影響が有ったというのは、磯竹島略図に書かれている磯竹島をアルゴノートの位置にある竹島と見て松島をダジュレー島の位置にある松島と見た、ということになります。


     池内さんは、太政官指令は島名混乱の影響を全然受けていないという立場ですが、影響を受けていたこと、言い換えれば、太政官指令の外一島=松島は鬱陵島の位置にある松島であったことを、また別の角度から論じて見ます。キーワードは、内務権大書記官の西村捨三さんが明治14年11月29日付島地第1114号外務省あて照会文書の別紙甲号に書き足した「外一島ハ松島ナリ」という言葉です。
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html



     

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  49. 明治10年3月太政官決定をめぐるクロノロ(=「松島」の解釈)

    明治10年3月 太政官決定(「松島」について吟味なしに決定) 

    渡辺洪基『松島之議』(1、2)(『竹島考證』11号、12号)
     「松島」について、外国の地図・地名事典で検討。
    島根県への問い合わせと実地調査を提案。

    『竹島考證』では、明治9年7月~11月の文書と編年されている。
    ただし、明治10年「太政官決定」には、渡辺洪基の議論は全く反映されていない。
    よって、渡辺の議論は、「太政官決定」以降の、明治10年の文書ではないか?

    田邊太一は「松島は、朝鮮の鬱陵島」と認識していた(下げ札)
    明治10年4月25日 瀬脇寿人「明治10年平信号第一」『竹島考證』14号
     明治10年6月25日 瀬脇寿人「公信第3号 明治10年6月」『竹島考證』17号
     
    ウラジオストックの瀬脇寿人からの電信への「下げ札」=コメントである。
     公信局長の田邊太一は、海外からの公信を直接受けとる立場にあった。
    下げ札をしたのは、この日付の、そう後にはならないのではないか。

    →明治10年に、松島=鬱陵島の認識がある?

    田邊太一 松島巡視について、甲乙丙丁の論をまとめる 

    まだ西南戦争の最中である(=明治10年)
    乙の意見に「西南勦定ノ後、海軍モ無事閑暇ノ時アルベケレバ」とある。
    西郷の自刃は、明治10年9月24日。少なくとも甲乙丙は、それ以前の文書か?

    →松島巡視は、結局、しばらく行われず。

    これらの文書が『松島関係書類』としてまとまる。
    北澤正誠が『竹島考証』明治14年8月で、一括して引用しているが、
    その時には、すでにまとまっていた。(まとまったのがいつかはわからない)


    明治13年9月 戦艦『天城』の調査 松島は鬱陵島、竹島は竹嶼。決着。
     報告:明治13年9月13日 水路局長 海軍少将 柳楢悦(『竹島考証』24号)


    北澤正誠『竹島考証』明治14年8月に完成


    明治14年11月29日
    内務省・西村捨三の外務省への問い合わせ 
    太政官決定の「外一島=松島」について、その後、朝鮮と何かの交渉があったのか?

    (杉原論文)
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html


    外務省の回答 明治14年12月1日
     明治10年太政官決定の「松島」とは、朝鮮の鬱陵島である。
     「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」1島3名説
     =「松島」の解釈変更 


    明治16年3月31日
    内務省の命令「日本称松島、一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民妄ニ渡航上陸不相成」

    松島は鬱陵島と確定。日本人は鬱陵島から退去。

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  51.  田中さんの頁に次の3文書があります。

     http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/
     我邦人朝鮮国所属蔚陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)へ渡航し、妄に伐採木切木者有之趣客歳七月中朝鮮政府より照会有之候。
       竹島版図考壱冊為御参考差出候
       明治十六年三月一日 外務
       別紙:大朝鮮国から大日本国外務卿井上馨への書簡

     http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a26kou3461/
     我邦人朝鮮国所属蔚陵島(我邦人竹島又は松島と唱ふ)へ渡航し、妄に伐採木切木者有之趣客歳七月中朝鮮政府より照会有之候。
       明治十五年十二月十六日 外務卿 井山馨  
       明治十六年三月一日  太政大臣三條實美殿 竹島版図考壱冊為御参考差出候 上申之趣聞届候事

     http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a357chou83/
     北緯三十七度三十分、西経八度五十七分(東京本丸天守基より起算)に位する日本称松島(一名竹島)朝鮮称蔚陵島の儀は、従全彼我政府議定の義も有之日本人民妄に渡航上陸不相成候、條心得●●之様其管下へ諭達可●●●●内達候也。
       明治十六年三月三十一日 内務卿


     明治十六年三月一日付文書は外務省から太政官への伺い書です。これに対する決定が明治十六年三月三十一日に為され、内務卿から各部署に通達しました。
     ここで明らかな事は、朝鮮から「朝鮮国所属蔚陵島」への渡航上陸禁止を求めたのに対し、日本は「朝鮮称蔚陵島」への渡航上陸禁止を決定したことです。日本は「朝鮮国所属蔚陵島」を認めなかったのです。これは当然です。元禄期の交渉において、日朝の合意は「両国ともに空島政策を執る」であり、「両地人殽雑、必有潜通・私市等弊・・・永不許入往漁採(対馬から朝鮮譯官ヘ達書)」にしたのですから、「日本称松島(一名竹島)」は従前どおり係争地域だったのです。

     外務省からの伺いには、「竹島版図考」が添付されています。この事から、明治10年の「竹島外一嶋之義、本邦関係無」は最終決定ではなく、最終決定の為の調査を外務省に命ずるものだったと解されます。
     又、「領土の放棄は明示的に為されなければならない」旨の法理があると聞きます。この法理が何時の判例に基づくのかは知りませんが、明治10年には経緯度を記さずに「本邦関係無」とし、明治16年には経緯度を示して渡航上陸禁止を通達しています。ここには、何かの理由があるのでしょうか。


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  52. 明治10年太政官指令は、その文言からすれば、島根県からの質問に対する最終決定のつもりで出されたものと思います。

     鬱陵島の位置情報については、明治10年太政官指令の時点では政府は鬱陵島の位置を正確に把握できていなかったでしょうし、もともと太政官指令は島根県が「竹島」と「松島」について質問して来たことに対する回答ですから、位置を明示できなくとも観念的には対象の島は特定されています。

     一方、明治16年の通達の場合は、既に天城の調査によって外務省が鬱陵島の位置について正確に把握していて、内務省としてもその情報は共有できていたことになります。それに、明治16年通達は各県に対して一方的に通知されたものです。多くの県は、松島とか竹島とか朝鮮の鬱陵島とか言われても良く知らなかったでしょう。ですから、位置が分かっている以上その位置は伝える必要がある、と考えられたはずです。

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  53. そもそも論から言うと、内務省地理局は島根県に対し、「竹島」についての情報を出せ、と命じたものが、島根県は、余計な(?)「松島」についても尋ねてきた。

    そこで、内務省はへそをまげて、「竹島」についてだけ調べて、「松島」については知らんぷりを決め込み、そのまま結論を出した。

    太政官では、ろくな審議もせずに、内務省のいう通りに「めくら判」を押した。


    まったく根拠のない憶測です。(笑)

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  54. 大西俊輝『日本海と竹島』第四部  
    元禄の領土紛争記録「竹島紀事」を読む
    2012年10月17日 刊  東洋出版

    この資料の「一号」から「四号」まで(C-1~C-4)の原文と現代語訳が、全部、ここにあります。すなわち、内務省のよった資料は、すべて『竹島紀事』に書かれていた文書であることがわかります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「一号」 「元禄九年正月、旧政府評議之旨意」
    大綱三八段(元禄九年一月) 38-00、38-01
    第二冊 「竹島紀事 三」506p~509pに現代語訳
    第三冊 909~911pに原文 

    「二号」「譯官ヘ達書」 対馬から朝鮮譯官ヘの達書
    大綱四四段(元禄九年十月①) 44-03
    第二冊 「竹島紀事 四」596p~597pに現代語訳
    第三冊  949~950pに原文

    「三号」 「該國来柬」 朝鮮国礼曹参議から対馬への来翰
    大綱五三段(元禄十一年四月) 53-01、
    第二冊 「竹島紀事 五」693p~696pに現代語訳
    第三冊 987~988pに原文 

    「四号」「本邦回答、及び口上書」
    大綱五五段(元禄十二年一月) 55-01、55-03
    第二冊 「竹島紀事 五」716p~717pに現代語訳
    第三冊 997pに原文
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    杉原論文では、「三号」と「四号」について、『磯竹島事略』からの引用もあるとしているので、かえってわかりにくくなっていると思いますが、内務省で調査にあたった人物は、実は『竹島紀事』だけを見て、この文書を作ることができたことになります。

    12p~14p
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/-04.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%86%85%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E7%B1%8D%E7%B7%A8%E7%BA%82%E6%96%B9%E4%BC%BA+%E6%9D%89%E5%8E%9F%E9%9A%86+%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C'


    韓国側の論調では、内務省では、5か月にわたって、江戸時代の記録を徹底的に調査して、その結果、「竹島外一島は版図外」という結論が出されたのだ、というのですが、実は、確かに日付は5か月後ではありますが、たった一冊の本を読んだだけで出された結論かもしれません。

    まあ、『竹島紀事』はそれなりに読み込んだのでしょうが。

    それでも、なぜこの4つ記事によって「元禄竹島一件」の全貌を代表させることができたのか、やや疑問です。

    審議をさせられた太政官の偉いさんたちも、実は何だかわからないまま決定を下しているのではないか、とも思えてしまいます。

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  55. 独島問題100問100答(『新東亜』誌2000年5月号より抜粋)
    独島学会長 慎鏞廈(シン・ヨンハ)教授(元ソウル大学教授)
    独島問題の基礎資料の提示 曺亨均訳 2007年12月15日 ソウル弘益斎 刊

    49p 
    問42 日本の領土管理の責任部署である日本の内務省も、独島と鬱陵島を朝鮮の領土として認知したか

    日本の内務省も独島と鬱陵島を朝鮮の領土として確実に認知していた。日本の内務省(内務大臣大久保利通)は、1876年(明治9年)日本の国土の地籍を調査して近代的地図を編製する事業を実施する際、島根県の地理担当責任者より東海(日本海)にある竹島(=鬱陵島)と松島(=独島)を島根県の地図に編入させるべきや否やの可否に関する質疑書を1876年10月16日付けの公文書で接収した。
    日本の内務省は約五カ月間に亘って島根県が提出した附属文書だけでなく、朝鮮の粛宗年間(日本の元禄年間)に安龍福事件を契機として朝鮮と交渉した関係文書をすべて精密に調査してみた結果、鬱陵島(竹島)と独島(松島)は朝鮮の領土であり、日本と関係のないものであるとの結論を下した。
    日本の内務省はそのような結論を下したが、領土を地図に入れるとか入れないとかの問題は領有権にかかわる重大事案なので、内務省単独で最終決定を下すことにはならず、国家の最高機関たる太政官(総理大臣府、右大臣岩倉具視)の最終決定を仰ぐべきであるとの判断の下に、1877年(明治10年)3月17日、質稟書(質問書)を附属文書とともに太政官に上申した。日本の内務大臣代理が太政官右大臣に提出した質稟書の要旨は、①竹島(鬱陵島)及びその他の一島の地籍編纂にたいし、その所属管轄の問題で島根県より内務省へ質稟書が送られてきたけれども、②内務省が島根県より提出された諸書類と、そして1693年朝鮮人(安龍福―引用者)が日本に入国後朝鮮政府とのやりとり往復文書を検討してみた結果、③内務省の意見としては竹島(鬱陵島)及びその他の一島は日本とは無関係の地として(朝鮮の附属領であると)結論を下したのだが、④地籍を調査して日本国の版図への編入の可否は重大なる事案であるに鑑み、太政官の最終決定を仰ぎますというものであった。
    日本国の内務省は、ここに添えて朝鮮の粛宗年間(日本の元禄年間)における朝鮮との往復文書類と、「竹島及びその他の一島(竹島外一島)」の一島とはすなわち「松島(独島)」を指している旨、説明する文書を添えた。

    「次に一島がありますが、松島(独島のことー引用者)と呼びます。周囲はほぼ三〇町歩程度であり、竹島(鬱陵島のことー引用者)と同一線路にあります。隠岐からの距離は八〇里程度であります。樹木や竹は稀です。海獣が出ます。」
    すなわち日本の内務省が1696年1月の徳川幕府の将軍が鬱陵島(竹島)と独島(松島)を朝鮮の領土として再確認し決定した時の書類を筆写整理して太政官に提出した質稟書の附属文書に、「次に一島がありますが、松島と呼びます。」として「その他の一島」が松島(独島)であることを明確に明かしているのである。日本の内務省は約五カ月間の再調査の結果、「鬱陵島(竹島)」及びその他の一島なる独島(于山島、松島)は日本と関係ない所であり、朝鮮の領土と判断決定したのである。しかし領土に関わる取捨選択はきわめて重大な問題なので、その最終決定を国家最高機関の太政官に要請したのであった。

    問43 だとすれば、当時日本の最高国家機関である太政官は鬱陵島の独島をどの国の領土と判定したか

    太政官は本件を検討してみて、鬱陵島(竹島)及びその他の一島(松島)は内務省が判断しているようにやはり日本とは何らの関係のない所であり、朝鮮の領土であると判定する旨最終決定を下した。太政官(右大臣岩倉具視)はまず内務省の質稟書を接収して検討の後、調査局長の起案により1877年3月20日、「稟議した趣旨の竹島(鬱陵島)外一島(松島、独島)の件に対して、本邦は関係なきことを心得べきこと」という指令文を作成して、これを最終決定した。
     日本の最高国家機関である太政官は最終決定したこの指令文を1877年3月29日、正式に内務省に下達して指令の手続きを完了した。日本の内務省はこの指令文を1877年4月9日付けで島根県に下達し、現地においてもこの問題を完全に終結することになった。日本の明治政府の最高国家機関である太政官は1877年3月29日付けで「鬱陵島と独島は日本と関係のない所であり、朝鮮の領土である」と最終決定を下した指令文を再確認して、公文書により内務省と島根県に下達したのである。
    当時、鬱陵島・独島が朝鮮の領土であり、日本の領土ではないという1877年3月29日付けの日本最高国家機関の最終決定は、それに先んずる徳川幕府の将軍が1696年1月28日に下した決定と同じく、画期的なものであった。明治維新当時の日本の最高国家機関の太政官が鬱陵島・独島は朝鮮の領土であり、日本の領土ではないという要旨の最終決定を下して内務省と島根県に公文書に指令したことは、「独島は韓国の領土である」という真実を日本側の資料が再確認した決定的な資料であり、今日において日本政府が無理押しをする、すなわち独島が日本の領土だという主張の虚構性を証明する決定的な日本の公文書といえよう。

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  56.  100問100答の42,43に対しては、次の歌を献呈しておきましょう。


    大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立(小式部内侍)


    外一島 絵図の印象の 強ければ まだふみも見ず 後の通達



     さて、matsuさんが再三にわたり疑問を呈しておられる、太政官では十分な審査が行われなかったのではないか、という見方についてですが、太政官では内務省の伺いからわずか3日後に伺いを承認する案を作成しているということは、これは、案外と、内務省から太政官への説明が非常に良く納得できるものであったからかも知れません。

      内務省から太政官への伺いの趣旨は、江戸幕府が朝鮮国と約束したことは新政府においても維持するという方針でいいんですよね、という念押しであったわけで、これはまず妥当な判断ですから太政官としても異議は無かったでしょう。内務省からは、併せて、その具体的対象である「竹島」と「松島」というのはかくかくしかじかの島である、という説明も行われたはずですが、これについても、「なるほど、分かった。」という感じであっさりと納得できるものだったと考えられます。

    「竹島」は朝鮮の鬱陵島である、との説明が行われたことは容易に想像がつきます。これは元禄竹島一件の史料がある話ですから、太政官でもあっさりと納得できたでしょう。では、鬱陵島とは別に、もう一つ、あっさりと朝鮮のものだと納得できる島は何だったかと言うと、その後に地殻変動のせいで沈没してしまったのかどうかは定かではないですが、明治の初期のころまではあのあたりに「于山島」という島があったことは皆さん御存知だと思います。私は、内務省は「松島というのは鬱陵島の近傍にある于山島です」と説明したのではないかと推定しています。そう考えるのがいろいろな矛盾が少ないように思うのです。

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  57. Take_8591さん
    田中さんの頁の3文書、ご紹介、ありがとうございました。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a26kou3461/
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a357chou83/


    この資料のもとの資料は、以下のものだと思います。

    朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件

    国立公文書館> 内閣> 公文録> 外務省> 公文録・明治十六年・第十三巻・明治十六年三月~四月・外務省
    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A01100245200?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%88%91%E9%82%A6%E4%BA%BA%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9B%BD%E6%89%80%E5%B1%9E%E8%94%9A%E9%99%B5%E5%B3%B6&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&

    「公第二七二号(明治15年12月16日)」(1コマ~2コマ)
    「追て」(追加)(2コマ)、
    「大朝鮮国 禮曹判書 李會正 呈書」壬午年(1882年=明治15年)6月(3コマ~4コマ)
    「諭達案」(4コマ~5コマ)
    「竹島版図所属考」(北澤正誠)(6コマ~17コマ)
    「経度緯度の問い合わせ」内務→内閣(明治16年3月8日)(17~18コマ)
    秘 「外甲124号」(明治16年2月22日)参議の会議【閣議決定】(19コマ)
    決定を乞う文書(明治16年2月20日)(20コマ)
    「上第五号」(決定を下す理由)(21コマ~23コマ) これ面白い!
    「指令案」(23コマ)
    「諭達案」(23コマ)
    「諭達案」松方正義→三条実美(明治16年2月20日)(24コマ)
    刑法第373条(参考)(25コマ)
    日韓貿易規則第九則(参考)(26コマ)

    これを見ながら、田中さんの読みを補ってみます。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    明治十六年 公文録 外務省三月四月
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a26kou3461/

    02
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a26kou3461/2.jpg

    公第二七二号

    我邦人、朝鮮国所属蔚陵島(我邦人竹島又ハ松島ト唱フ)ヘ渡航シ、妄ニ伐木致候者有之趣、客歳七月中、朝鮮政府ヨり照会有之候間、即チ申禁可致旨、相答置候処、尚又、今般、別紙甲之通リ、照会有之候。就テハ、今後、尚渡航者有之候テハ、彼政府ヘ対シ、交際上不都合ノミナラズ、我政府ノ禁令、人民ニ及バザルヲ示スノ嫌ナキ能ハズ。
    依テ、朝鮮政府ヘハ、竹添弁理公使ヲ以テ申禁可致旨、返翰差遣ハシ可、申シ候。
    且、此末、心得違ヒ無之様、乙号草案之意ヲ以テ、内務卿ヨリ各府県へ諭達相成候様、仕度候。
    尤、右諭達之義ハ、近時、京城変乱ニ付、彼国政府ト條約交換有之際ニテ、同国使節モ滞京中ノ事ニ

    03
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a26kou3461/3.jpg

    候ヘハ、其等ニ因縁候様ニ世上ヘ感触ヲ来シ候テハ、不都合ニ被存候間、諭達文中ニモ、該島ニ付、朝鮮政府トノ議定セシ年月ヲ挿入致置、従来朝鮮国ニ属シ、特ニ今日ニ定ムルモノニ非ザルヲ引證シ、諭達ノ意ハ、単ニ該島ノ位置ヲ明示シ、渡航ヲ禁ズルニ止マルモノニ有之候。右之次第ニ付、御発令ノ義モ、朝鮮使節帰国相成候上ニ有之候様仕度、御願上申候也。

    明治十五年 十二月十六日 外務卿 井上馨
    太政大臣 三條實美殿

    追テ、右諭達ニ背キ、該島ニ至リ、私ニ売買ヲ為ス者有之時ハ、日韓貿易規則第九則ニ拠テ処分シ、又、樹木ヲ盗伐スル者有之時ハ、我刑法第三百七十三條ニ拠テ処分スベキモノト被存候間、右之趣ハ、予メ司法卿ヨリ各裁判所ニ内訓有之候様、致度候。
    竹島版図考 壱冊、 為御参考、差出候。

    上申之趣、聞届候事。
    明治十六年三月一日
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    公文類集 第七編
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a11rui97/3.jpg

    別紙
    甲号 
    大朝鮮国 禮曹判書 李會正 呈書
    大日本国 外務卿 井上馨 閣下
     謹茲照会者、弊邦欝陵島、非間界也。頃因
    貴国人斫樹伐木、早奉書契、藉蒙
    貴朝廷、另許禁止。弊邦委遣 検察使 李奎遠、周視島界、帰
     言、斫採仍前無改。 豈
    貴朝廷不及立禁、而民猶冒犯、否疑深訝。滋耑●奉質望
    貴朝廷、照諒設法
    婉諭厳防、母踏前謬、幸甚幸甚。敬問
    台●辰安。不宣。
    壬午年六月 日
    禮曹判書 李會正



    「検察使 李奎遠」という文言が見えます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    明治二十三年 往復簿 一 内閣記録局
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a357chou83/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka40/2a357chou83/4.jpg
    04
    北緯三十七度三十分、西経八度五十七分(東京本丸天守基ヨり起算)ニ位スル、日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前、彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民、妄ニ渡航上陸、不相成候條、心得違無之様、其管下へ諭達可被●旨、及内達候也。
    明治十六年 三月三十一日 内務卿
    各府県長官宛 親展

    文面がかなり違う。どちらが、実際に出たものか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    大変に面白い資料だと思います。
    確か、『日本外交文書』に活字化されてのっていたものではないかとも記憶しています。

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  58. matsuさま
    往復簿04の本文末の判読は
    「諭達可致此旨、及内達候也。」で、「致」と「此」だと思います。

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  59.  竹島外一島の解釈は、元禄竹島一件の解釈と同期している様に思えます。これは、解釈者の希望が資料解釈に及び、「本邦関係なし」の理由が元禄竹島一件決着の理由と同じであると考えるからでしょう。

     ① 独島派:元禄期に竹島と松島の領有権を放棄した。⇒竹島と松島は本邦関係なし。
     ② 竹島派:元禄期に竹島のみの領有権を放棄した。⇒竹島とマノ島は本邦関係なし。

     独島派は、安龍福供述等を根拠に「元禄期に竹島と松島の領有権を放棄した」と主張しました。これに対して、竹島派は、日朝で交換された文書を根拠に「元禄期に交わされた文書に松島は登場しない。元禄期に放棄されたのは竹島のみである。」と反論しました。
     この議論は、竹島派に分がありそうです。独島派の持ち出した証拠は弱すぎます。

     この様な状況下で、「竹島外一島綴り」が発見されました。
     独島派は、元禄竹島一件記録を基に明治政府が「竹島と松島は本邦関係なし」と判断した事明らかであるから、元禄期の判断も又「竹島と松島を放棄する」であったと認められる。と主張しました。

     この時点では、外一島を「松島」にするか「マノ島」にするかの文言解釈の争いであり、これは水掛け論に終始します。決着を着けるには新しい証拠が必要です。証拠がなければ、元々の争点である「元禄竹島一件の決着内容」に戻らざるを得ません。


     ここに新しい説が登場します。
     ③ 元禄期に竹島のみの領有権を放棄した。⇒竹島と松島は本邦関係なし。

     幕末期に、誤認により、元禄期の竹島の西北に新しい島が発見されます。この誤認した島に「竹島」の名を付けました。そして、元禄期の竹島を「松島」と名付づけました。その後、誤認は解消され、該島は元禄期に竹島と呼ばれ、明治期は松島と呼ばれている島となりました。
     ③の説は、明治政府はこの「竹島とも松島とも呼ばれる島」を放棄したのであり、「元禄期に竹島のみの領有権を放棄した」と矛盾しない。というものです。
     その後、明治政府は「竹島とは松島であり、外一島も又松島である」と通達しました。③の説は補強されたのです。


     (注)これは、半月城通信等を読んで私が創作した議論です。

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  60.  ③ 元禄期に竹島のみの領有権を放棄した。⇒竹島と松島は本邦関係なし。
     この説には、理解できない点が多くあります。

     
     独島派の主張は、元禄期に竹島と松島の領有権を放棄した事実は、「竹島外一島綴り」で確認された。というものです。③の説は、独島派に対し、「明治政府は元禄期に竹島と松島の領有権を放棄した事実を認める」の言質を与えた効果を生み出しています。

     ③の説は、「竹島と松島は本邦関係なし」を認めているのです。独島派は、「元禄期の竹島と松島を寄越せ」と要求するでしょう。竹島派が「島名混乱期を経て生まれた、竹島とも松島とも呼ばれる島」を引き渡すと言っても、独島派は納得しないでしょう。
     尚、「竹島と松島は本邦関係なし」を決定した時、未だ「竹島とも松島とも呼ばれる島」を確認していないのです。

     ②の説は「竹島とマノ島は本邦関係なし」ですから、「島名混乱期を経て生まれた、竹島とも松島とも呼ばれる島」を引き渡すと言えば済む話です。
     又、明治13年の軍艦天城の調査も必要です。「本邦関係なし」の対象物を確認する必要があるからです。③の説だと、隠岐の西北に日本が領有権を主張すべき島が存在し得ませんから、軍艦天城の調査は必要ありません。
     「竹島とは松島であり、外一島も又松島である」の通達は、②の説を補強しているとも解されます。

     ③の説は、明治政府中央と島根県の間に意識のズレが存した事を前提としています。この意識のズレを中央政府は認識できる立場にいました。しかし、この意識のズレを調整した事実が「竹島外一島綴り」に記録されていません。この瑕疵は③の説の根拠を弱くします。

     http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/t-siebold1840.gif
     又、1840年の「シーボルトの図」には、経緯度が記されています。
     島名混乱期の決定であればこそ、島名に具体性を持たせる為に、経緯度を記すべきではないでしょうか。


     池内氏の「本来、そこに存在しない島名混乱の影響などというものを外から持ち込んで、矛盾の多い主張を押し通そうとせざるを得なくなっている。(149p)」は、とりあえず妥当と判断します。

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  61.  Chaamieyさんからレスがあったので、「22/1/13 19:57」辺りへのレスを作成していると、ドカンと記事が溜まっていました。
     ここの議論は早いですね。足腰の弱った老人には付いて行けません。韓ドラの方が面白いから、ついついこちらへの足が遠のいてしまいます。
     池内敏「竹島問題とはなにか」は読んでみようと、金策に励んでいるところです。
     大西俊輝の4部作の内「隠州視聴合紀のもの」は読んだことがありますが、あれが残り3つもあるのか・・・。しんどいなぁ
     

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  62.  take_8591さん、太政官指令は日本の竹島領有権主張に何の影響も及ぼさないどうでもいい話だと私は思っているのですが、大問題であるかのように言う人たちが多いので私なども反論を書いたりしています。そして、いざ反論をするとなると話のタネはけっこう多いので、何だか延々と続きそうですね。

     「竹島外一島の解釈は、元禄竹島一件の解釈と同期している」との御指摘はそのとおりだと思います。太政官指令はその意図としては江戸幕府の決定を再確認しようとしたに過ぎないものですから。

     ところがその過程で江戸幕府が判断していなかった「松島」なるものを判断に混入させてしまった。つまり内務省~太政官は江戸幕府の判断の解釈を「間違えた」のだと思います。しかし、後年になって松島=竹島=鬱陵島という事実を知り、明治16年通達によって政府見解を最終的に江戸幕府の決定に同期させるに至った、ということだと思います。つまり③の改良型が正解だという考えです。


     ところで、matsuさんが「文面がかなり違う。どちらが、実際に出たものか。」とおっしゃるのは、一つは04のことだと思いますが、もう一つはどれのことなんですか?

    ReplyDelete
  63. 失礼しました。

    明治二十三年 往復簿 一 内閣記録局
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/2a357chou83/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka40/2a357chou83/4.jpg
    (小嶋さん、訂正ありがとうございました。)

    北緯三十七度三十分、西経八度五十七分(東京本丸天守基ヨり起算)ニ位スル、日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前、彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民、妄ニ渡航上陸、不相成候條、心得違無之様、其管下へ諭達可致此旨、及内達候也。
    明治十六年 三月三十一日 内務卿
    各府県長官宛 親展

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    4コマ 左
    諭達案
    北緯三十七度三十分、東経百三十度四十九分ノ洋中ニ在ル蔚陵島(我国人、竹島又ハ松島ト唱フ)、朝鮮国ノ版図タルハ、元禄年中、既ニ我政府ト朝鮮国政府トノ間ニ議定スル所ニ有之●●、我国人民、妄ニ該島ニ渡航スルモノ●之●ニ付、尓後、心得違ヒ無之様、管下人民ヘ告諭可致此旨、●達候事。

    5コマ
    付箋 本文経緯度ハ水路局長取調ニ依ル

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    23コマ
    内達案
    内務卿
    北緯三十七度(挿入)三十分、東経百三十度四十九分ニ位スル、日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前、彼我政府議定ノ儀モ有之、日本人民、妄ニ渡航上陸、不相成候條、心得違ノ者無之様、各地方長官ニ於テ諭達可致旨、其省ヨリ可相達此旨、及内達候也。
    明治十六年 三月一日  太政大臣
    内務卿 山田顕義殿

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「どちらが、実際に出たものか。」というのは、かなり間の抜けたコメントでありまして、
    明治23年の段階で、「あの時に出た指令は、一体どういうものでしたっけ?」という問い合わせに答えて、記録局が引っ張り出してきた文書なので、これが「実際に出たもの」に、決まっていますね。

    しかし、「西経」になっているのがひっかかって、実際には「東経」で出たんじゃないか、と一瞬思ってしまって、こういうつぶやきになりました。

    最初の案が
    蔚陵島(我国人、竹島又ハ松島ト唱フ)、朝鮮国ノ版図タルハ、元禄年中、既ニ我政府ト朝鮮国政府トノ間ニ議定スル所ニ有之

    とあったのが
    日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前、彼我政府議定ノ儀モ有之

    と変わって確定していったのがわかりますね。

    「朝鮮国ノ版図タルハ」を消し、「元禄年中」を消したのは、どういう意図だったのでしょうか。

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  64. 最初の「公第二七二号」外務卿・井上馨から 太政大臣・三條實美あての文書で

    近時、京城変乱ニ付、彼国政府ト條約交換有之際ニテ、同国使節モ滞京中ノ事ニ候ヘハ、其等ニ因縁候様ニ世上ヘ感触ヲ来シ候テハ、不都合ニ被存候間、

    というのは面白いですね。

    「京城変乱」というのは、「壬午軍乱」のことだと思います。日本人に犠牲者が出たので「済物浦条約」を結び、その交換のための使節(朴泳孝の一行だと思います)が東京に滞在中なので、鬱陵島を朝鮮領土だとして日本人を退去させるのが、朝鮮使節との取引のように日本国内で受け取られては都合が悪いので、

    という意味だと思うのですが、

    該島ニ付、朝鮮政府トノ議定セシ年月ヲ挿入致置、従来朝鮮国ニ属シ、特ニ今日ニ定ムルモノニ非ザルヲ引證シ、

    もともと元禄時代の江戸幕府の決定なのだとして、明治時代の日本人を納得させようという意図が、井上にはあったのではないかと思います。

    実際に鬱陵島に行っていた日本人たち(大倉組など)は、日本の利権のもとにあるものと思っていたのかもしれません。

    井上としては、「弱腰」と受け取られないよう、江戸時代の決定であることを前面に出そうとしたのだと思います。

    最終的に、松方正義をはじめとする参議たちの議論の結果、それもぼかされた形にする建議となった、ということでしょうか。(21コマ~24コマ)

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A01100245200?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%88%91%E9%82%A6%E4%BA%BA%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9B%BD%E6%89%80%E5%B1%9E%E8%94%9A%E9%99%B5%E5%B3%B6&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&

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  65. Chaamieyさん

    > 太政官指令は日本の竹島領有権主張に何の影響も及ぼさないどうでもいい話だと私は思っている

     同意です。
     日本政府は韓国が竹島を不法占拠した期日を明らかにしていないのですが、李ライン発動の日とすると、既に62年が経過しています。壬辰の年は一回りしたのです。すると、韓国が占拠の合法性を証明するまでは、1905年の島根県編入の合法性は領土問題ではありません。奪われたものだから奪い返したという説明は、合法性の主張ではありません。
     その後、韓国による独島領有が1905年以前に存在していたことを証明しない限り、島根県編入の合法性は争点になりません。
     「竹島外一島」問題は、たぶん領土問題とはならないと思われ、単純に歴史的興味から追求している問題に過ぎません。


    > 大問題であるかのように言う人たちが多いので私なども反論を書いたりしています。

     だから、大問題でなくても良いのです。
     ただ、Nao_at_jpさんの“「竹島他一島」は総て、「鬱陵島と竹嶼」の事ですね。”という投稿を無視しているのが、不満なのです。


    > 内務省~太政官は江戸幕府の判断の解釈を「間違えた」のだと思います。

     「間違えた」合理的理由はあるのでしょうか。
     「竹島外一嶋之義、本邦関係無」を最終決定したのであれば、アルゴノート島の存在を確信していなければなりません。
     アルゴノート島が架空の島であるとの情報を明治政府は入手していなかったのでしょうか。架空の島である可能性は知っていた筈です。この可能性を除去する事なく最終決定したという言い訳は通用しません。
     又、大阪商人に聞けば、リャンコ島を現認した人物を探すのは容易だったでしょう。その人物に磯竹島略図をみせたら、「ここに描かれている松島は、北海道航路上にある松島に似ている」との供述を得ることができた筈です。可能性を除去する事なく最終決定したという言い訳は通用しません。
     「間違えた」合理的理由は示されていません。


    > 明治16年通達によって

     間違いは誰にでもあるでしょう。
     しかし、「版圖ノ取捨ハ重大之事件ニ付」太政官判断を仰ぎ、その決定を受けたのです。それが「間違えた」と判明した場合、一官僚の一片の通達によって修正できるものでしょうか。

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  66.  「外一島」とは何か。
     本スレッドは、Nao_at_jpさんの“「竹島他一島」は総て、「鬱陵島と竹嶼」の事ですね。”という投稿から始まります。しかるに、この前提で投稿している人はいません。“島根県が質問したのは「竹島」と「松島」の二島についてである。(Chaamieyさん)”が常連の方々の常識のようです

     しかし、“(「松島」に言及しているのは、ここだけ)”との疑問が示され、又、“島根県の伺いにある「松島」についての具体的吟味は、内務省・太政官ともに行われていない。(matsuさん)”と嘆きます。こうした疑問を解決することなく、「外一島=松島」の前提を崩さないのは、「1876年の内務省官僚も当然に分かったものと無意識のうちに結論づける、根拠のない思い込みではないかと思うのです。(Chaamieyさん)」

     磯竹島略図から、「竹島外一島」の「竹島」とはどの範囲であるかを考えて見ます。

     「磯竹島略図」というタイトルから判断して、この図に示されている全ての島の全体が「竹島」です。一応、隠岐島は、その全部が描かれてないので省きます。「外一島」はどこにも描かれていません。原由ノ大畧にある「次ニ一島アリ」は、「外一島」の説明ではなく「竹島」の説明であること明らかです。「外一島」はこの図の外に描かれていると解さざるを得ません。


     次に、「磯竹島略図」は「竹島」のみを描いたのではなく、その周辺も併せて著したものとします。この場合、「竹島」そのものを示した部分と、「外一島」を示した部分と、竹島への航路の途上にある島を示した部分とに分けられます。朝鮮と隠岐島が描かれているのですから「竹島への航路の途上にある島」の存否と特定をしなければなりません。
     「竹島」はどこか。それは、磯竹島とされている島のことです。マノ島は「マノ島」であり、「竹島」ではありません。原由ノ大畧に「磯竹島、一ニ竹島」とあるのですから、「竹島」は「マノ島」を包含した概念ではありません。
     ここに「外一島」は「マノ島」であることが明らかになりました。近くにある「マノ島」を外して、遠くにある「松島」を「外一島」とする理由がありません。
     松島は、竹島への航路の途上にある島なのです。

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  67.  次に、島根県の伺書を検討します。

     先ず「日本海中ニ在ル竹島調査ノ儀ニ付キ、別紙「乙第二十八号」之通、照會有之候處」となっています。
     「乙第二十八号」は「御管轄内、隠岐國某方ニ當テ、従来、竹島ト相唱候孤島、有之哉ニ相聞」ので、「本省ヘ御伺相成度、此段、及御照会候也」を求める内容のものです。
     この地理寮役人の「竹島」認識と島根県の「竹島外一島」認識は一致しなければなりません。

     地理寮役人からの情報を大集成した明治初年編纂の『日本地誌提要』は、隠岐の項に「西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。」と記しています。地理寮役人は、この認識により「乙第二十八号」を発したのです。
     当然、この「土俗が伝えている」情報を島根県も承知しており、両者の竹島松島認識は一致しています。そして、島根県伺は「照會有之候處」とするのですから、そのタイトルである「竹島外一島」に松島が入り込む余地がないのです。

     地理寮から竹島のみの伺いを要求された島根県が、松島をも併せて請求するべきだと考えて「外一島」を付加した。旨の主張がありますが、希望的解釈が過ぎると思います。
     竹島松島両島を認識して出された「乙第二十八号」に基づき作成された「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に「松島」が入り込む余地はありません。

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  68. matsuさん、了解しました。

     外務省の内達案は、確かに、決して新政府が鬱陵島を放棄するのではないということを強調したかったようです。これに対して、太政大臣の内達案では「朝鮮国ノ版図タルハ」や「元禄年中」を削除して少しぼかした表現にした理由は、ちょっと見当がつきませんね。ただ、島の名の表示方法が変わったことについては、多少の想像が湧いて来ます。

    外務省の内達案・・・・・・蔚陵島(我国人、竹島又ハ松島ト唱フ)
    太政大臣の内達案・・・・・・日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島

     太政大臣が、もし、かつて太政官が内務省に指示した「竹島外一島」は今後はこういうふうに解釈しろ、ということまで考えていたと仮定するならば、その場合の表現としては、外務省の文言よりも太政大臣の文言のほうが適当だろうと思うのです。三名一島であるけれども主たる名前は「松島」であって、このほかに「竹島」という島は無いのだよ、という気持ちをにじませているかのような・・・・・・・まあ、これは何も確たる話ではありませんが。


     take_8591さん、たくさんの詰問(?)をいただいたようですが、そういう質問がありますと更に説明を加えることができるので、話を進めやすくなります。たぶん、どの御指摘にも一応のお答えはできると思っているのですが、急ぐ話でもないので少しずつ答えて参りましょう。

     今後、仮に竹島問題が国際司法裁判所に係属することとなった場合、太政官指令問題は、韓国政府は力説するでしょうが、歴史的事実が正確に裁判官に伝わるならば大した争点にはならないだろうと思います。むしろ、日本政府が一体何と答弁するだろうかということに興味が湧きますね。


     ところで、皆さん、今日ほかの人から教えてもらったのですが、機会があったら『現代用語の基礎知識2013』の「竹島問題」の記事を読んで見てください。ちょっと驚きました。

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  69.  まず「外一島=マノ島」説についてですが、島根県から内務省へ伺いが出される経緯として take_8591さんがおっしゃるような経緯があったとしても、やはり、現に提出された磯竹島略図や原由の大略が示すものが決め手になると思います。

     原由の大略では、竹島について説明した後に「次に一島あり、松島と呼ぶ」との説明があるわけですから、島根県が質問している「竹島外一島」は「竹島と松島」であると読むのが最も自然であろうと思います。

     また、明治14年に島根県令が「松島開墾願い」を内務省に進達する際に、松島は内務省からの指令によって本邦関係無しと認識していたことを述べ、さらにこの件を処理するために、内務省の書記官が明治14年11月29日付島地第1114号外務省あて照会文書において太政官指令とはこういうものであると説明する際に、「外一島ハ松島ナリ」と言う言葉を書き足していることからすると、島根県令も内務省の書記官も「外一島」は「松島」と理解していたことが分かります。

     当時の当事者たちが「外一島」は「松島」と理解していた以上、我々もその前提で議論するほかないと思います。

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  70. 一部繰り返しになりますが、私の解釈は以下の通りです。

    1.伺いをたてた島根県の認識は、すべて大谷・村川の文献に依拠している。
    よってその認識は、江戸時代の米子での認識であり、すなわち、竹島(磯竹島)は鬱陵島、松島は現竹島=独島を意味している。
    それは、島根県が伺いを立てるに当たって提出した地図=磯竹島略図にあてはめても矛盾しない。よって磯竹島略図の磯竹島は現鬱陵島、松島は現竹島=独島である。

    2.内務省は伺いの審査にあたって、島根県の提出した文書を写した。それが現在残る、内務省の罫紙に書かれた文書である。そこには、竹島(磯竹島)と松島についての記述があり、内務省でその解釈について疑問をはさんだり、変更したりしたことを示す文書は存在していない。

    3.内務省は伺いの審査にあたって、元禄竹島一件の顛末を記録した対馬藩の文書『竹島紀事』によって判断した。そして、判断の根拠を示す証拠の文献として、第一号「旧政府評議之旨意」二号「譯官ヘ達書」三号「該國来柬」四号「本邦回答及ヒ口上書」の4文書を添付した。これら4文書の中には、「竹島」「鬱陵島」という文言はあるが、「松島」という文言は一切ない。よって、「松島」については何等の判断もしていないと考えられる。
    付言すれば元禄竹島一件の際、日本と朝鮮の間で松島が問題になったことは一度もなかった。

    4.しかし内務省は島根県の伺いと同じ「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」という表題で太政官に伺いを出した。「外一島」の意味について、内務省は何の説明もしていない。「島根県の提出した文書の写し」からの変更はない、とも解釈できる。

    5.太政官は、「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」という表題の内務省の伺いについて、「伺之趣竹島外一島之儀本邦関係無之儀ト可相心得事」という決定を下した。そのさい、竹島外一島について、内務省から提出された文書の内容に新たな解釈を加えたり、変更したりしていない。

    さらに
    6.このテキストには、「ダジュレー」「アルゴノート」「リエンコヲルト岩」など西洋起源の文言は、一切あらわれない。よって、シーボルト以来の「竹島」「松島」をめぐる混乱は、このテキストには反映されていないと考えられる。

    7.「マノ島」は、磯竹島略図に記載されており、その位置からして「竹嶼」と考えられるが、島根県の文書、および内務省、太政官の文書も「マノ島」について、一切の言及はない。よって、「マノ島」について、内務省および太政官で何らかの審議をしたとは考えられない。
    よって、この文書に関連して、“「竹島他一島」は総て、「鬱陵島と竹嶼」の事ですね”とする解釈は、到底、成立しない。

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  71. matsuさん

     元禄竹島一件の際、日本と朝鮮の間で松島が問題になったことは一度もなかった。(matsuさん)

     これは、日本政府の一貫した主張ですね。
     「日朝が書簡を交換し、鬱陵島を朝鮮に渡した」旨の説明が、元禄竹島一件を説明する古文書に何度も現れます。しかし、現竹島に関しては、交換書簡等に現れることがないので、「日本と朝鮮の間で松島が問題になったことは一度もなかった」と主張しました。対して、韓国は、安龍福供述程度の証拠しか示せず、交換した文書の解釈を争点としませんでした。ところが、「竹島外一島綴り」が発見され、現在に至っているわけです。


     提示されたmatsuさんの1~6に同意します。しかし、結論(7)だけが違います。
     この文書に関連して、“「竹島他一島」は総て、「鬱陵島と竹嶼」の事ですね”とする解釈は、成立する。

     これは、「次に一島」を、外一島の説明と捉えるか、竹島への順路を示したに過ぎないと捉えるかの違いです。
     また、島根県は竹島を地籍編纂伺いするに際し、松島をも含めて伺うべきだと考えたか、「北海百余里ヲ懸隔シ、線路モ不分明」なので途中にある松島の説明は省けないと考えたのかの違いです。尚、地籍編纂方伺で示される「北海百余里ヲ懸隔シ」た島は、竹島であって松島ではありません。

     ところで、「日本海内竹島外一島 地籍編纂方伺」は、なぜ「日本海内竹島松島 地籍編纂方伺」ではないのでしょうか。当時の島根県に「北海に2島あり」は常識であり、1905年に「竹島がなくなるのは寂しいから」旨の理由で新島に「竹島」と名付けたのです。これほど大事な松島の名前を「外一島」と無機質な名前にするでしょうか。

     さらに、「地籍編纂の伺い」の書式はどの様なものだったのでしょうか。
     現在の国土地理院は100km離れた2つの島を一葉の「伺い書」で「地籍編纂」を開始することはありません。明治初年も同様だったのではないでしょうか。
     だから、明治中央政府の誰もが、島根県伺いが松島を含むものであるとは考えなかったのです。
     

     以上、「外一島=マノ島」説の根拠を述べました。いずれも、明確な根拠ではありません。
     では、「外一島=松島」説には、この程度の根拠を凌駕する根拠があるのでしょうか。

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  72. matsuさん

    > 「外一島ハ松島ナリ」と言う言葉を書き足していることからすると、島根県令も内務省の書記官も「外一島」は「松島」と理解していたことが分かります。

     この解釈は、6項(シーボルト以来の「竹島」「松島」をめぐる混乱は、このテキストには反映されていないと考えられる)に違背するのではないでしょうか。
     明治14年の「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」の松島は、「ダジュレー島」であり、元禄期の松島ではありません。西村捨三の「外一島ハ松島ナリ」は、「シーボルト以来の竹島松島をめぐる混乱」を前提としたものです。竹島一島綴りとは異なる空間認識で付け書きしたものであり、「シーボルト以来の竹島松島をめぐる混乱」を除去したmatsu解釈6項に違背します。


     http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html
     明治14年11月12日に、島根県令の境二郎が提出した「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を検討します。

     この伺いは「十年四月御指令後、或ハ御詮議相変リ、本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」を趣旨としています。この趣旨の解釈は、次の二つがあろうかと思います。
     ア)10年に元禄期の松島を版図外と指令されましたが、その後詮議が変わり、元禄期の松島を版図内と定められたのでしょうか。
     イ)10年に元禄期の竹島のみを版図外と指令されましたが、その後詮議が変わり、元禄期の竹島を「松島」と名称変更され、これを版図内と定められたのでしょうか。

     アの場合、この伺いは、宛先を内務大臣・農商大臣とする正式な伺い書であり、内々に尋ねるものではありません。こんな無礼な伺い書がありえるのでしょうか。10年指令に不満があれば、再度伺いを建てれば良いのであり、根拠も示さず「10年指令は変更になりましたか」と伺っているのです。この解釈には無理があります。

     イの場合、外一島が元禄期の松島を意味しない場合に成り立つ解釈です。単純に、10年指令で元禄期の松島は版図外とされませんでしたので、「松島開墾」の願いが提出されれば、これを受理するしかありません。
     しかし、その出願内容を仔細に検討すると、どうやら元禄期の竹島に「松島」の名を冠して出願したと読み取れます。中央政府では、一旦「竹島」を版図外とし、同じ島を「松島」と名付けて版図内とする様に「御詮議相変リ」たのでしょうか。
     これは、帝国主義国家がよく使う手口です。「あんたが言ってるのは竹島だろ。俺が持ってるのは独島だよ。」という手口です。


     では、伺い書の「松島」とはどういう島なのでしょうか。原由ノ大畧と比較してみます。

     その距離を伺い書は「浜田ヨリ海上距離凡八十三里」とあります。1里4kmとすると、330km程になり、元禄期の竹島に相当します。しかし、原由ノ大畧は、竹島を隠岐から120里と記し、松島を隠岐から80里と記しています。伺い書の松島を元禄期の松島とするのに、一応の理はあります。

     島の状況を伺い書は、「其景況東西凡四五里南北三里余周廻十五六里、島山ニシテ海岸ヨリ頂ニ至ル凡一里半雑樹森在古木稠茂シ其間幾多ノ渓流且ツハ平坦ノ地アリ地味膏腴水利モ亦便僅カニ一隅ヲ拓クモ数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク其他採藻漁業ノ益全島ノ福利測ル可ラズ」とします。
     原由ノ大畧は、竹島を「周回凡十里許。山峻険ニシテ、平地少シ。川三条在リ。又瀑布アリ。然レドモ、深谷幽邃、樹竹稠密、其源ヲ知ル能ハス。唯、眼ニ觸レ、其多キ者、植物・・・動物・・・」と記し、松島を「周回三十町許・・・樹竹稀ナリ。亦魚獣ヲ産ス。」と記します。
     伺い書の「松島」は原由ノ大畧の「松島」とは異なるものです。隠岐の西北に2島しかなければ、伺い書の「松島」は原由ノ大畧の「竹島」となります。


     以上、明治14年の伺い書を通じて、明治9年の地籍編纂方伺のタイトルにある「外一島」を検討しましたが、島根県が「外一島」を松島としていたとするのは無理があります。マノ島とするほうが矛盾が少ないと思われます。

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  73.  西村捨三は、内務省伺いのタイトルである「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」に(外一島ハ松島ナリ)と付け書きします。
     この事により、太政官指令は、「伺之趣 竹島松島之儀 本邦関係無之儀 ト可相心得事」となります。

     西村捨三は、元禄期の竹島をタイトルの「竹島」に当てはめ、ダジュレー島に「松島」を当てはめているのです。
     西村捨三は、原由ノ大畧の「次に一島あり松島」は、太政官指令に含まれないとしているのです。
     西村捨三は、島根県伺いの「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の外一島が、「次に一島あり松島」の松島ではないと理解していたと認められます。

     西村捨三は、マノ島を考慮していません。しかし、「日本海内竹島外一島」が示す範囲は明らかにしています。

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  74. コメントの流れに「混乱」が生じてしまったようですね。

    take_8591さん、

    >「外一島ハ松島ナリ」と言う言葉を書き足していることからすると、島根県令も内務省の書記官も「外一島」は「松島」と理解していたことが分かります。

     これは私が書いたものです。そして、これは、「外一島」は「マノ島」ではないことを言うために書いたものに過ぎません。「松島」がどういう島であるかは、また別の説明を要します。

     私の意見は、take_8591さんが2/2/13 18:01でお書きになった「西村捨三は、・・・・・・ダジュレー島に「松島」を当てはめているのです。」と同じです。

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  75. 繰り返しで恐縮ですが、

    「マノ島」は「磯竹島略図」に記載されているが、この文書「日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺」において、島根県の文書、および内務省、太政官の文書のどの文書にも、「マノ島」について、一切の言及がない。従って、「マノ島」について、この文書で何かの決定が下されたとは言えない。

    すみませんが、これ以上の言葉は出てきません。

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  76. さて、これまで話題に上っている
    明治14年11月12日に、島根県令の境二郎が提出した「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」は、大いに検討に値する文献だと思います。

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.html

    原文の影印が島根県のHPにのっていますが、ネットでは公開はされていないのか、探せません。
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.data/hankintokou.pdf

    島根県のHPにある原文ですが、テンとマルを入れて読みやすくしてみます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    明治14(1881)年
    『朝鮮國蔚陵島へ犯禁渡航ノ日本人ヲ引戻之儀ニ付伺 自明治十四年七月至明治十六年四月』〔外務省外交史料館所蔵 ※外務省記録3-8-2-4(3門8類2項4号)〕

    内務 権大書記官 西村捨三発  外務書記官あて照会(明治14年11月29日)

    島地第一一一四号
    日本海ニ在ル竹島松島之義ハ、別紙甲号之通、去明治十年中、本邦関係無之事ニ伺定相成、爾来、然カ相心得居候処、今般、島根県ヨリ、別紙乙号之通、申出候次第ニヨレハ、大倉組社員ノ者、航到伐木候趣ニ相聞候。*「然カ」は「然ク」でしょうか?
    就テハ、該島之義ニ付、近頃朝鮮国ト、何歟談判・約束等ニ相渉リタル義ニテモ、有之候哉。
    一応、致承知度、此段、及御照会候也。
    明治十四年十一月廿九日 内務 権大書記官 西村捨三
    外務書記官 御中




    内務 権大書記官 西村捨三発 外務 書記官あて照会 別紙乙号
    (日本海内松島開墾之儀ニ付伺、明治14年11月12日)

    日本海内 松島開墾之儀ニ付 伺
    当管内、石見国・那賀郡・浅井邨、士族・大屋兼助外一名ヨリ、『松島開墾願書』差出シ、其旨趣タル、
    該島ノ義ハ、同郡浜田ヨリ、海上距離凡八十三里、酉戌ノ方位ニ当リ、無人ノ孤島ニ有之候処、
    東京府下、大倉喜八郎設立ノ『大倉組』社員、片山常雄ナルモノ、木材伐採ノ為メ、海軍省『第一廻漕丸』船ニテ、本年八月、該地渡航ノ際、右兼助、浜田ヨリ乗込、同航、実地見分候処、
    其景況、東西凡四五里、南北三里余、周廻十五六里、島山ニシテ、海岸ヨリ頂ニ至ル、凡一里半、雑樹森在、古木稠茂シ、其間、幾多ノ渓流、且ツハ平坦ノ地アリ。地味膏腴、水利モ亦便、僅カニ一隅ヲ拓クモ、数十町歩ノ耕地ヲ得ヘク、其他、採藻・漁業ノ益、全島ノ福利、測ル可ラズ。移住開墾適当ノ地ニ付、同志ヲ浜田地方ニ募リ、資金ヲ合セ、自費ヲ以テ、草莱ヲ開キ、大ニ遺利ヲ起サン、トノ義ニ有之候処、
    該島ノ義ハ、過ル明治九年、地籍取調ノ際、本県地籍編入ノ義、内務省ヘ相伺候処、同十年四月九日付書面、「竹島外一島ノ義は、本邦関係無之義ト可相心得」旨、御指令相成、
    然ルニ、前述、当度大倉組、渡航・伐木候場合ニ就キ、推考候得は、
    十年四月、御指令後、或ハ御詮議相変リ、本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟。
    該島、果シテ、本邦地盤ニ候得は、兼助等願意、事業経費ノ目論見、資金支出ノ方法、及同志者規約等、詳悉取調、更ニ相伺候様致シ度、別紙相添、此段相伺候也。
      明治十四年十一月十二日
            島根県令 境二郎
     内務卿 山田顕義殿
     農商務卿 西郷従道殿




    外務省の返信起案文書(明治14年12月1日付け、11月30日起草)

    明治十四年十一月三十日起案文
    公第二六五一号
            公信局長
    内務 権大書記官、西村捨三殿
    外務 権大書記官 光妙寺三郎

    朝鮮国蔚陵島即竹島松島之儀ニ付、御聞合之趣、閲悉候。
    右は、先般、該島江我人民ノ渡航、漁採・伐木スル者有之趣ニテ、朝鮮政府より外務卿江照会有之候付、
    査究候処、果シテ右様之事実有之趣ニ付、既ニ撤帰為致、爾後、右様之儀、無之様、申禁ニ及置候旨、該政府江照覆置相成候。
    右、回答申達候也。
         十四年十二月一日

    以上、影印
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.data/hankintokou.pdf


    『県治要領』(明治14〜15年) 〔島根県所蔵〕
    明治15年1月の条(明治15年1月31日)

    三十一日
    去年十一月十二日付ヲ以、日本海内松島開墾ノ義ヲ、内務・農商務ノ両卿ニ稟議シ、至是、内務卿ヨリ其指令ヲ得ル。如左。

    書面松島ノ義ハ、最前指令ノ通、本邦関係無之義ト可相心得。
    依テ、開墾願ノ義ハ、許可スヘキ筋ニ無之候事。
    但本件ハ、両名宛ニ不及候事。

    影印
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/takeshima04_j.data/kenchiyoryo.pdf

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  77. ここでポイントは、明治10年の「松島」についての認識と、この明治14年の「松島」についての認識は、違うということです。

    この明治14年の「松島」は、鬱陵島であることは疑いありません。
    だからと言って、この文書をもって、明治10年の「松島」も実は「鬱陵島」であったのだ、と結論することは、混乱をもたらす、というのが、池内敏氏の主張だと思います。
    その主張は正しいと私は思います。

    さて
    >「この伺いは「十年四月御指令後、或ハ御詮議相変リ、本邦版図内ト被定候儀ニ可有之歟」を趣旨としています。この趣旨の解釈は、次の二つがあろうかと思います。
     ア)10年に元禄期の松島を版図外と指令されましたが、その後詮議が変わり、元禄期の松島を版図内と定められたのでしょうか。(略)

    アの場合、この伺いは、宛先を内務大臣・農商大臣とする正式な伺い書であり、内々に尋ねるものではありません。こんな無礼な伺い書がありえるのでしょうか。10年指令に不満があれば、再度伺いを建てれば良いのであり、根拠も示さず「10年指令は変更になりましたか」と伺っているのです。この解釈には無理があります。」

    とありますが、
    「10年指令は、変更になりましたか」とうかがう「根拠」として、

    「松島」と呼ばれる島に、
    東京府下、大倉喜八郎設立ノ大倉組の社員、片山常雄なるものが、木材伐採の為、「海軍省の船で」、本年八月、渡航している

    わけですから、
    これは、公式許可のもとに行われているのではないか、と当然考えるわけで、

    「10年指令は、変更になりましたか」と問い直すには十分な根拠だと思います。
    何が「無礼」なのか、私にはわかりません。

    ただし、
    「10年に「元禄期の松島」を版図外と指令されましたが、その後詮議が変わり、「元禄期の松島」を版図内と定められたのでしょうか。」
    ではなくて、

    「10年に「島根県がお伺いした松島」を版図外と指令されましたが、その後詮議が変わり、「島根県がお伺いし、その時に版図外との判断をいただいた松島」について、新たに版図内と定められたのでしょうか。」です。

    そして、その答えは、
    「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」での「漁採・伐木」について、「朝鮮政府より」苦情が来ているので禁止したとしたうえで

    「書面松島ノ義ハ、最前指令ノ通、本邦関係無之義ト可相心得」というのですから、

    「最前指令」の「松島」とは、「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」、すなわち「朝鮮国の鬱陵島なのだ」という解釈が、この段階で新たに出現した、と考えればよいのだと思います。

    これは、明治10年の「松島」とは、そもそも明治10年の時から「鬱陵島」であった、という杉原隆氏の議論とは別のものです。

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  78. Chaamieyさん
    > コメントの流れに「混乱」が生じてしまったようですね。

     matsuさん、Chaamieyさん、ごめんなさい。

     私の思い込みの強さ・勘違いで、ご迷惑をおかけしました。

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  79. matsuさん

     明治14年、大屋兼助から「松島開墾願書」が出されました。島根県は、明治10年の指令が「竹島のみを版図外とする」旨だったので、これを受理し、「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を中央政府に送りました。中央政府は、伺い書が「松島」の名を冠したものであっても、実質「竹島」を意味するものであったので、明治10年の指令に反する伺いとして処理しました。
     これが、私の理解する事件の顛末です。


     さて、
    > 「松島」と呼ばれる島に、
    > 東京府下、大倉喜八郎設立ノ大倉組の社員、片山常雄なるものが、木材伐採の為、「海軍省の船で」、本年八月、渡航している
    > わけですから、
    > これは、公式許可のもとに行われているのではないか、と当然考えるわけで、
     とされますが、

     島根県が「公式許可のもとに行われている」と判断できる理由は何でしょうか。
     たぶん、大屋兼助の「松島開墾願書」からはこれ以上の情報は記されていなかったでしょう。「公式許可のもとに行われている」の文言も無かったと思います。
     島根県は、大屋兼助から「公式許可のもとに行われている」の言質をとったのでしょうか。大屋兼助はかかる発言をする筈がありません。又、島根県は、大屋兼助に「公式許可のもとに行われている」ことの調査を命ずるべきでしょう。調査を命じた痕跡はありません。
     要するに、大屋兼助の「松島開墾願書」に「海軍省の船で」の文言が存したとしても、それを以って、「公式許可のもとに行われている」とは判断できず、結果的に誤った判断であるのだから、かかる判断があったと推定するには無理があります。


    > 何が「無礼」なのか、私にはわかりません。

     一商人の発言を基に、その発言内容(公式許可のもとに行われている)の存否を確認することなく、太政官指令は「その後詮議が変わり」ましたかと、変わったことを前提に「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を提出するのは、十分に「無礼」であると考えます。


    > 「最前指令」の「松島」とは、「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」、すなわち「朝鮮国の鬱陵島なのだ」という解釈が、この段階で新たに出現した、と考えればよいのだと思います。

     島根県からの伺い書の日付は、明治十四年十一月十二日です。内務権大書記官西村捨三が外務書記官に照会を発したのは、明治十四年十一月廿九日です。この時までに、西村捨三は「外一島ハ松島ナリ」の付書きをします。
     この間17日しかありません。
     この短い期間に、太政官指令が改定されたとはとても思えません。しかも、太政官会議(稟議)が開催されたとの情報はありません。
     すると、元々10年の指令は「元禄期の竹島のみを版図外とする」旨だったと解するのが相当です。

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  81. take_8591さん、3/2/13 08:10 了解しました。

     matsuさんの上の論旨に基本的に賛成ですが、いくつかの補足を付させてもらいます。こうやって議論が進むと、書きたいことが次々に現れます。

    >この明治14年の「松島」は、鬱陵島であることは疑いありません。だからと言って、この文書をもって、明治10年の「松島」も実は「鬱陵島」であったのだ、と結論することは、混乱をもたらす、というのが、池内敏氏の主張だと思います。その主張は正しいと私は思います。


     それはそうだと私も思いますが、池内さんとか、matsuさんが14/1/13 13:50で紹介なさった竹内さん http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf  という人などは、明治14年のできごとを明治10年まで遡らせることは話にならないと批判することで全てを否定できたつもりになっておられて、明治14年のできごとを通じて太政官指令を解明しようとする方向自体が間違いなのだという印象を一般に与えているわけでして、これはこれでまた別の「混乱」を引き起こしています。もっとも、彼らには彼らなりの論理がありますが、それは少し先で触れたいと思います。

     上でmatsuさんが列挙された明治14年の往復文書に、もう一つ、内務省の西村権大書記官殿が外務省に質問書を送るに当たって添付した別紙甲号(太政官指令がどういうものであるかを説明する文書)を上げておきます。ここにある「外一島ハ松島ナリ」という言葉が全てを物語っているような気がしています。


    甲号
      日本海内竹島外一島地籍編纂方伺(外一島ハ松島ナリ)
     竹島所轄之義ニ付島根県ヨリ別紙伺出取調候処、該島ノ義ハ元禄五年朝鮮人入島以来別紙書類ニ摘採スル如ク元禄九年正月第一号旧政府評議ノ旨意ニヨリ二号訳官へ達書三号該国来柬四号本邦回答及ヒ口上書等ノ如ク則チ元禄十二年ニ至リ夫々往復相済ミ本邦関係無之相聞ヘ候得共版図ノ取捨ハ重大ノ事件ニ付別紙書類相添 為念此段相伺候也
      明治十年三月十七日  内務少輔
        右大臣殿       (付箋書類略ス)
    指令
     伺之趣竹島外一島ノ義本邦関係無之義ト可相心得事
      明治十年三月廿九日

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  82. >「最前指令」の「松島」とは、「朝鮮国蔚陵島即竹島松島」、すなわち「朝鮮国の鬱陵島なのだ」という解釈が、この段階で新たに出現した、と考えればよいのだと思います。


     このように考えて良い理由について、少し補足させてもらいます。


     内務省から外務省への質問文書「島地第1114号」は、「日本海にある竹島松島の義は、別紙甲号のとおり、去る明治10年に本邦関係無しと定められ、以後そのように心得ておりましたところ・・・・・・」という文章で始まります。ここでは「竹島と松島」の二島が版図外という認識が示されていますが、これは太政官指令が「竹島外一島」を版図外としたとおりの認識です。なお、「竹島松島」と続けて書いてありますが、別紙甲号に例の「外一島ハ松島ナリ」という注記が付けられているので、この「竹島松島」は明確に「竹島と松島の二島」という意味です。

     これに対して、外務省の光妙寺さんの回答文書は、「朝鮮国蔚陵島即ち竹島松島の儀についての御質問を拝見しました。」という書き出しで始まります。「蔚陵島即ち竹島松島」とは、「蔚陵島であり竹島でもあり松島でもある」という意味になります。

     この回答の仕方は変です。役所でも民間でも、大きな組織の公式文書というものは、だいたい相手が言って来た用語をそのまま使用して回答するのが一般的だと思います。ところが、内務省の西村さんは「竹島と松島」と説明したのに対し、外務省の光妙寺さんは勝手に「朝鮮国蔚陵島即ち竹島松島の儀」と変えた表現で回答して来ました。

     表現が違っても中身は同じだ、という場合もあります。しかし、この場合は表現が違うとおりに中身も違っています。質問者が述べた2島は回答では1島に変化して1島は消滅しており、しかも外務省の光妙寺さんは中身を変えながら「あなたが聞いてきたのはこのことですが」と言っているわけです。

     ここは、太政官指令を解釈する上で極めて重要な場面です。当時の内務省官吏にとってもそうですし、太政官指令の謎を解明しようとする現代の私たちにとっても同じです。このやりとりは、この時点まで内務省は「松島=竹島=鬱陵島」を知らなかったこと、それ故に外務省の書記官はそのことを内務省に教える必要があると判断して現に教えたことを示しています。(なお、内務省に教えるに当たって、「松島=竹島=鬱陵島」を知らなかった内務省のメンツを潰さないように、内務省の見解には誤りがあるなどと露骨に指摘することはせず、サラッと結果だけを述べています。)

     そして、この説明を受けた後に、内務省は島根県に「書面松島の義は、最前の指令の通り本邦関係無きものと心得るべし」と回答しました。この文面自体には、太政官指令の意味あるいは解釈についての何の変化も見られません。島根県から「松島」について聞かれていたのでその松島については従前どおりと回答しただけのことです。これを受け取った島根県としても、何の変化も感じることはありませんでした。「前回の指令のとおり松島はやっぱり版図外」というだけの結果でした。

     しかし、内務省の官吏たちの思考の中で変化は生じました。「鬱陵島とは別の島であるが鬱陵島と同じく朝鮮のものだ」と考えていた「松島」が、実はそれこそが鬱陵島であることを知ったことになります。そして、外務省から説明を受けて、「松島」のほかに「竹島」という島は存在しないことも知ったでしょう。別に、太政官会議を開いて指令の変更を議決したというような話ではありません。指令の解釈の変更というか指令の対象物の理解の変更とでも言ったらいいのでしょうか。目には見えないものです。ただし、地図を使って語るならば目に見える形になります。

     「松島」という島の正体が判明してそれまで内務省が理解していたものとは違っていたことが分かっても、どちらにしても版図外だという結論自体は変える必要は無かったわけですから、変化はまだこの時点では外部に表明されることはありませんでした。明治16年になって、変化した後の認識が通達として発されることになります。

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  83. Chaamieyさん

    > matsuさんが14/1/13 13:50で紹介なさった竹内さん http://www.kr-jp.net/ronbun/msc_ron/takeuchi-1108.pdf  という人

     竹内猛:竹島問題研究会中間報告書「杉原レポート」批判を http://take8595.blogspot.jp/ にテキストUPしておきました。テキストコピー用にお使いください。

     ここに、次の文章があります。

     第一の理由は、文書担当者たちが明治一〇年の「太政官指令」で使われている「竹島外一島」について検討する際、具体的な島名が省略されている「外一島」の方には何ら関心を持たず、したがって検討もしなかった(と推察される)からである。
     「竹島外一島」における「外一島」という表現は、「外一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであり、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島と見なされていたことを示唆している。
     これと同じことは、たとえば「大屋兼助外一名」についても言えるであろう。ここで具体的氏名の省かれた「外一名」は「大屋兼助」と一体的に扱われる、文書の中では自己を主張しない存在である。したがって「外一名」のことは、細かいことを問題にするのでなければとりあえず無視して構わない、文書上では「大屋兼助」に従属する存在といえる。


     これは、matsuさんが 2/2/13 01:56 で指摘される
      ----------------------------------
    2.内務省は伺いの審査にあたって、・・・竹島(磯竹島)と松島・・・の解釈について疑問をはさんだり、変更したりしたことを示す文書は存在していない。
    3.内務省は伺いの審査にあたって、元禄竹島一件の顛末を記録した対馬藩の文書『竹島紀事』によって判断した。・・・これら4文書の中には、「竹島」「鬱陵島」という文言はあるが、「松島」という文言は一切ない。よって、「松島」については何等の判断もしていないと考えられる。
    4.しかし内務省は・・・太政官に伺いを出した。「外一島」の意味について、内務省は何の説明もしていない。・・・。
    5.太政官は、・・・決定を下した。そのさい、竹島外一島について、内務省から提出された文書の内容に新たな解釈を加えたり、変更したりしていない。
      ----------------------------------

     の理由を、竹内氏は
      ----------------------------------
     「外一島」は「竹島」のことが決まれぱそれに連動して一体的に帰属が定まる島であることを含意した言い回しであり、帰属を独自に検討する必要がない島、すなわち属島と見なされていたことを示唆している。
      ----------------------------------

    と説明していると理解できます。

     すなわち、竹島とマノ島は「連動して一体的に帰属が定まる島である」から、外一島=マノ島と捉えた内務省は「松島については何等の判断もしていないと考えられる」。
     しかし、松島は、竹島記事に出現しない島であり、竹島とは歴史的経緯が異なると考えられ、「連動して一体的に帰属が定まる島」とは言えません。故に内務省は松島について何らの判断をしなかったのです。

    .

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  84. 海軍の船だという「第一廻漕丸」について検索してみると

    次のサイトがあって。
    http://homepage3.nifty.com/jpnships/library/m14_senmei_list2.htm

    明治14年の「船名録」に「第一廻漕丸」の名前が出てきます。

    番号 船名 種類 トン数 管轄名 船主
    177 第一廻漕丸 風帆 300 海軍 海軍造船所

    http://homepage3.nifty.com/jpnships/library/Library.htm

    明治14年の「船名録」について
    明治14年6月3日に岡田利七により編集・出版された船名録に掲載されている汽船・風帆船(船舶番号1番から515番の船舶)を原本の記載内容にできるかぎり忠実に採録した。原本の凡例には「此書は海事に関わる人々のために出版せるものにして汽船風帆船を問わず都(すべ)て免状を有する船舶のみを記載せり 免状に記せる番号を以って船舶の順次を定め且つ其船の種類、噸数、馬力、保険附、管轄の地、及び船主の姓名等を記し以って看官(みるひと)の便に供す」とある。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    これにより、明治14年には、「第一廻漕丸」とういう船が実際にあって、「海軍」の管轄であることがわかります。
    ということは、境二郎の報告にあるように、東京の「大倉組」の社員が、「木材伐採」のために、海軍の船を使って松島=鬱陵島に行っていた、ということも歴史的事実であるように思われます。

    明治10年の段階では、田邊太一が
    松島は朝鮮の鬱陵島なので、日本人は開拓出来ない、と下げ札をして、開拓の申請を却下していたのですが、

    明治10年4月25日 瀬脇寿人「明治10年平信号第一」 『竹島考證』14号の下げ札
    明治10年6月25日 瀬脇寿人「公信第3号 明治10年6月」 『竹島考證』17号の下げ札


    明治14年には、日本国の「海軍省」の船が、堂々と松島=鬱陵島に「木材伐採」に行く人間を運んでいることになります。

    杉原論文によれば、榎本武揚があっせんしているようです。
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/-04.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E5%86%85%E7%AB%B9%E5%B3%B6%E5%A4%96%E4%B8%80%E5%B3%B6%E5%9C%B0%E7%B1%8D%E7%B7%A8%E7%BA%82%E6%96%B9%E4%BC%BA+%E6%9D%89%E5%8E%9F%E9%9A%86+%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C'
    15p(残念ながら、注記がなくて、これがどこに書いてあるのかわかりません。)


    武藤平学や斉藤七郎兵衛や戸田敬義といった、いわばベンチャー企業(?)として鬱陵島の開拓をねらっていた個人たちは排除され、明治新政府の後ろ盾を得ていた「大倉組」には、海軍もついて、実際に鬱陵島での「木材伐採」事業を行っていたのではないかと思います。

    李奎遠の鬱陵島検察日記(壬午年5月=1882年=明治15年)に出てくる、鬱陵島にいる日本人たちとも年代があうと思います。

    明治14年11月30日起案 公第二六五一号 外務権大書記官 光妙寺三郎のいう「朝鮮政府より外務卿江照会」があって、「爾後右様之儀無之様申禁ニ及置候旨該政府江照覆」したのにもかかわらず、
    翌年、壬午年5月(朝鮮暦)=1882年=明治15年にも、日本人は鬱陵島で「斫樹伐木」を続けています。「大朝鮮国 禮曹判書 李會正 呈書」壬午年六月「斫採仍前無改」

    明治10年の「版図外」の指令は、このころには、実際の効力をあまり持たなくなっていたのではないかとも思います。


    ところで、上記の杉原論文によれば(16p)、島根県令の境二郎は天保7年(1836年)生まれで、吉田松陰の弟子でした。「日本海内松島開墾之儀ニ付伺」を出した明治14年(1881年)には、だいたい45歳ごろです。

    同じ長州の出身であり、吉田松陰とも縁のある
    井上馨(天保6年1836年生まれ)45歳ごろ
    山県有朋(天保9年1838年生まれ)43歳ごろ
    伊藤博文(天保12年1841年生まれ)40歳ごろ
    が明治政府の高官となっているなかで、「問い合わせ」をするのは、それほど敷居が高くなかったのではないかとも思います。

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  85. 朝鮮国所属蔚陵島ヘ我国民渡航禁止ノ件

    国立公文書館> 内閣> 公文録> 外務省> 公文録・明治十六年・第十三巻・明治十六年三月~四月・外務省
    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A01100245200?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%88%91%E9%82%A6%E4%BA%BA%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9B%BD%E6%89%80%E5%B1%9E%E8%94%9A%E9%99%B5%E5%B3%B6&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&

    21コマ~24コマ 起こしておきます。
    明治16年2月20日の文書「上第五号」です。



    上第五号

    別紙外務省上申、朝鮮国属嶋蔚陵島ヘ日本人民渡航禁止ノ件、審査決議如左。

    北緯三十七度三十分、東経百三十度四十九分ノ洋中ニ位スル一ノ島嶼、即チ、日本称竹島、或ハ松島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、往古、孰レノ所領タル確定セズト難モ、我慶長年間、宗対馬守ヨリ朝鮮政府ニ照会シ、所属論ヲ提出シタレドモ、論旨徹セズ、其後、元禄六年ヨリ同十二年ニ至ル迄、七年間数回ノ往復ヲ経テ、遂ニ両政府ニ於テ其所属論ヲ確定シタルコトハ、別冊『竹島版図所属考』記載ノ通タリ。

    付テハ、我人民、該島ニ渡航スル儀ハ無之筈ナレドモ、悠久ノ歳月間、狡黠ノ細民、或ハ竊カニ往テ漁業ヲナシ、或ハ伐木ヲナス者、往々有之ト察セラレタリ。是、別紙甲号の照会アル所以ナリ。然リト難モ、其地位タル、我隠岐国ト距離相遠カラズ。加之、我国ニ於テ称呼スルコト、恰モ我地名ト異ナラザルヲ以テ、純然タル我ガ所領ト誤認スルモ●深ク咎ム可カラズ。

    故ニ、外務卿ハ申請シテ、内務卿ヨリ各地方長官ニ告諭シ、人民心得違アル者ヲ告戒セシメントスルハ、至当ノ事トス。

    但、其禁令ヲ犯シ、密商ヲナス者ハ、貿易規則第九則ニ照シ、樹木ヲ盗伐スル者ハ、刑法第三百七十三条ニ照シ、処分セシメンコトヲ請フノ趣、上申追書ニ有之。右、貿易規則ニ拠リ処分スルハ当然ナリト難モ、刑法三百七十三条ハ、単ニ竹木鉱物、川澤湖海ニ於テ、人ノ生養シタル産物ヲ竊取スルヲ刑スルニ止リ、我国禁ヲ犯シ、外国ニ赴キ云々シタル者ヲ刑スルノ正条ニ非ザルニ似タリ。然レバ、密商ヲナス者ハ貿易規則ニ、重軽罪ヲ犯ス者ハ我刑法ニ拠リ処分可致旨、司法卿ヨリ各裁判所ヘ内訓有之方、妥当ナリト認視ス。

    右ニ由リ、指令内達案、左ノ通ニテ可然上申候也。

    指令案
    上申之趣、聞届候事。明治十六年三月一日 

    内達案
    内務卿
    北緯三十七度三十分、東経百三十度四十九分ニ位スル、日本称松島(一名竹島)、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ、従前、彼我政府議定ノ儀モ有之、日本人民、妄ニ渡航上陸、不相成候條、心得違ノ者無之様、各地方長官ニ於テ諭達可致旨、其省ヨリ可相達此旨、及内達候也。
    明治十六年 三月一日  太政大臣
    内務卿 山田顕義殿


    司法卿
    今般、別紙ノ通、内務卿ヘ相達候ニ付、右ニ違犯シ、於該嶋、密商ヲナス者ハ、日韓貿易規則第九則ニ照シ、重軽罪ヲ犯ス者ハ、我刑法ニ照シ処分可致旨、各裁判所長ヘ内訓可致置此旨、及内達候也。
    明治十六年 三月一日  太政大臣
    司法卿 大木喬任殿


    明治十六年二月二十日
    参事院議長 山県有朋代理
    参議 松方正義

    太政大臣 三條實美殿

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  86. take_8591さん、竹内論文のテキスト化、お疲れ様です。今後、引用の必要が生じたときには利用させてもらうかも知れません。



     「解釈変更」の補足の続きです。内務省が出した3つの関係通達を並べて見ます。

    明治10年太政官指令に基づく内務省指令(島根県あて)
     「書面竹島外一嶋之義本邦関係無之義ト可相心得事」

    明治14年内務省の再指令(島根県あて)
    「書面松島ノ義ハ最前指令ノ通本邦関係無之義ト可相心得」

    明治16年太政大臣の指示に基づく内務省通達(各県あて)
    「日本称松島、一名竹島、朝鮮称蔚陵島ノ儀ハ従前彼我政府議定ノ義モ有之、日本人民妄ニ渡航上陸不相成」


     明治16年通達によって「竹島」と「松島」についての新しい解釈が対外的に通知されたことになります。ただ、この通達は、太政官指令の解釈変更を説明することを目的として発出されたわけではありません。明治16年通達は、上のmatsuさん御紹介の「上第五号」で分かりますが、鬱陵島に日本人が勝手に出入りすることを防がなければいけないという外務省の意向に基づくものであり、内務省はそのことを各県に通知する役目を担っただけです。ただ、通達が出るに至った経緯はそうであっても、通達それ自体は、他の県に対しては別ですが、島根県に対しては、過去の指令は今後はこういうふうに理解すべし、という意味を併せ有するものであったと言えます。

     そして、「竹島」と「松島」についての解釈を変えたということは、すなわち明治10年太政官指令は誤りであった(正確に言うと、誤りを含んでいた)ということになります。明治10年の内務省~太政官は、本当は鬱陵島である島を鬱陵島とは気づかずに鬱陵島ではない別の島と考えて版図外と判断するという間違いをしていたわけです。

    なお、1/2/13 07:06でtake_8591さんから、

    >「版圖ノ取捨ハ重大之事件ニ付」太政官判断を仰ぎ、その決定を受けたのです。それが「間違えた」と判明した場合、一官僚の一片の通達によって修正できるものでしょうか。

    という問いがありましたが、ご覧のとおり明治16年通達は外務大臣の建議によって太政大臣が内務大臣に指示して出させたものです。それが過去の太政官指令の意味を変更する内容を含んでいたとしても問題のない顔ぶれだと言えます。

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  87.   内務省が「松島」という名前で把握していた島が実は鬱陵島であったと判明したということは、地図の上で言えば、内務省~太政官は、ダジュレー島の位置に書かれた松島を「松島」として理解していたことになります。実体としては鬱陵島である島をそれと気づかないまま「松島」と捉えていたわけです。
     そうすると、当然、アルゴノート島の位置に書かれた竹島を「竹島」であり鬱陵島であると理解していたことになります。

      ところで、その当時、アルゴノート島は地図に破線で表示されていたり、中にはアルゴノート島に「存在しない」というコメントを付した地図もあったのだから、内務省や太政官という国家最高機関がアルゴノート島は存在しないという事実を分からなかったはずはない、という議論もあります。しかし、そういう主張がそれ以上具体的に証明されたことはありません。

      太政官に伺う前に内務省は独自の調査を行って、元禄竹島一件のことを調べ出していました。そこには「竹島」という島があってそれは「鬱陵島」であるとして日朝間で現実に問題となった記録がありました。地図に「竹島」という島があるのを見て、これは存在しない、と考える理由はなかろうと思います。破線で描かれた島だからと言って、必ず「この島の実在は疑わしい」と理解されるとも限らず、逆に、「良く分からないがここには島がある可能性がある」と見る人だっていたかも知れません。

     また、良く引用される『大日本府県分割図』(明治14年内務省作成)の「大日本全国略図」では、アルゴノートの位置に「竹島」を、ダジュレーの位置に「松島」を描いています。太政官指令の4年後の地図にアルゴノートの竹島を描いているわけですから、指令の時点で内務省がアルゴノートの位置に「竹島」があると考えていたのは確実でしょう。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/fukenbunkatsuzu-1881/

      以上のとおり、内務省~太政官はアルゴノートとダジュレーを「竹島」と「松島」と見ていたと解釈するほかはありません。内務省~太政官の「竹島」と「松島」に関する認識の中には、当時「リエンコヲルトロック」などと書かれていた現竹島のことは全く入っていなかったのです。
      よって、太政官指令は現竹島を版図外と指示したものではなかったことが明らかになりますし、内務省はアルゴノートに見事にだまされていたわけですから、池内さんの「本来、そこに存在しない島名混乱の影響などというものを外から持ち込んで」という批判も間違いだということになります。

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