Q 3: Why did old Korean maps show Ulleungdo as two islands?
答 : 1145年、韓国の史書「三國史記」は朝鮮半島東沖に"于山国"があったと記述しています。それはまた、鬱陵島の別名であり、溟州(現在の朝鮮東岸の江陵市)の真東にある一つの島として描かれています。さらに、その島の面積は100里とあります。しかしながら、左の地図(八道總圖)に見られるように、1530年頃までに鬱陵島は二つの島に分かれます。一つは"鬱陵島"。もう一つは"于山島"です。一体どうして二つに別れてしまったのでしょうか?
1412 - "主なる島"が"流山國島"で、附属島が"武陵島"
1412年、12人の人々が朝鮮東岸の高城近くの港に舟でやって来て、"流山國島"(鬱陵島の古名である于山國島のつづり間違い)からやってきた、と述べたました。つまり、彼等は鬱陵島からやってきたわけです。役人に証言した中で、彼等は、60名ほどが武陵島という名の島に住んでいたけれど、その後移住し、今は"本島"に住んでいると話しています。この事から、"武陵島"が二つの島のうち小さい方で、"流山國島"が主島であることが分かります。1400年代鬱陵島は"武陵島"と記述されることが殆どでした。
次に挙げるのは、太宗実録と言う記録の中で、当該箇所が記載されている部分です。
命議政府議處流山國島人 江原道觀察使報云 流山國島人 白加勿等十二名 求泊高城 於羅津言曰 予等生長武陵 其島內人戶十一 男女共六十餘 今移居本島 是島自東至西自南至北 皆二息 周 回八息 無牛馬水田 唯種豆一斗出二十石 或三十石 麥一石出五十餘石 竹如大椽 海錯果木皆在焉 竊慮此人等逃還 姑分置于通州高城扞[杆]城
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政府の命による流山國島人について、江原道観察使は、流山國島人の白加勿ら12名が高城於羅津に来泊し「私達は武陵で育ったが、その島の内、11戸の男女合わせ60人余りが今この島(流山國島)に移住した。この島は、東から西までと南から北までそれぞれ2息(約16キロメートル)、周囲が約8息(約96キロメートル)、牛・馬・水田はなく、唯一豆が1斗から20石あるいは30石、麦は1石から50石余り採れる。大垂木のような竹、海と錯覚する果実の木など色々ある。」と言っていると報告した。これよりこの人たちが逃げ帰るのを憂慮し、しばらく通州、高城、扞城に分け住まわせた。
1412年の出来事は、鬱陵島(于山国)に隣接島があることが始めて描写されたもので、このことは朝鮮王朝の役人が于山島が主島で、鬱陵島(武陵島)がそれより小さな隣接島であると認識し始める事につながりました。この記録に出てくる隣接島が、鬱陵島最大の隣接島で東岸約2.2kmにある竹嶼であることは、ほぼ確実です(鬱陵島の隣接島のうち、最大なのはどの島?)。というのも、于山島が主島で鬱陵島(武陵島)がその隣接島と考えられていたので、韓国の古地図においては于山島が鬱陵島の西に描かれていなければなりません。そして、実際その通りになっています。右の図は上にあげている1530年の韓国の古地図(八道總圖)の該等部分の拡大図ですが、これは鬱陵島を二つの島として描いた最初の韓国の地図になります。
韓国人は于山島は竹島/Liancourt Rocks/独島の古名であると主張していますが、この1412年の記録にある島は60名以上の人間が暮らしていたとあるので、それはありえません。本当の竹島/Liancourt Rocks/独島は、60名もの人々の生活を支えるだけの土や水が存在しない、ただの荒涼とした岩礁に過ぎないからです。
1416 - やっと1人が通行できる程度の狭い道がある、傍の小島
1416年の"太宗実録"によると江原道の観察使を務めたことのある朴習が、鬱陵島)の傍に小島があるとまたしても発言しています。彼はまた、人々がその島に住んでいるといっているのですが、鬱陵島とその付属島のどちらについていっているのか定かではありません。しかし、彼はその島に入って行く途中の路が、やっと1人が通行できる程度の幅で、並んで行く事はできないと言います。ということは、その島とは鬱陵島の隣接島である竹嶼である可能性が、侵入路が沢山ある鬱陵島である可能性より高いといえます。
庚寅/以金麟雨爲武陵等處安撫使 戶曹參判朴習啓: “臣嘗爲江原道都觀察使, 聞武陵島周回七息, 傍有小島, 其田可五十餘結。 所入之路, 纔通一人, 不可竝行。 昔有方之用者率十五家入居, 時或假倭爲寇。 知其島者, 在三陟, 請使之往見。” 上可之, 乃召三陟人前萬戶金麟雨, 問武陵島事, 麟雨言: “三陟人李萬嘗往武陵而還, 詳知其島之事。” 卽召李萬。 麟雨又啓: “武陵島遙在海中, 人不相通, 故避軍役者, 或逃入焉。 若此島多接人, 則倭終必入寇, 因此而侵於江原道矣。” 上然之, 以麟雨爲武陵等處安撫使, 以萬爲伴人, 給兵船二隻、抄工二名、引海二名、火㷁火藥及糧, 往其島, 諭其頭目人以來。 賜麟雨及萬衣笠靴
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太宗実録 太宗 十六年 九月 庚寅條
かつて私が江原道 都観察使であった時に聞いたが、 武陵島の周回が 7息で、傍に小島がありその島には田が50結ほどあった。その島へ入って行く道は大変狭くようやく一人の人間が通行できる程度で、並んで歩く事はできないとの事だ。かつて方之用と言う者がおり、15家族を従えて住んおり、時には仮倭(後期の倭寇の多くは朝鮮人などであった : 訳注)として盗みを働いたという。その島を知る人物が三陟にいるので是非行ってその人に武陵島について尋ねるように。 "王はよい助言だと考え、三陟の住人で前将軍の金麟雨を呼んで武陵島について尋ねた。" 金麟雨は「三陟人の李万が武陵に行って戻ったことがあり、その島について詳しく知っているはずです。」と言い、すぐに李万を召還した。麟雨が言うには、「武陵島は遠く海の中にあり、互いに往来することが出来ないので、軍役を避ける者が時々逃げ込んで行くのです。もしこの島に多くの人が接するようになれば、必ず侵犯して日本からやって来て盗みを働くでしょう。このようにして江原道を徐々に侵犯するやもしれません。」 王は納得し、金麟雨を武陵地域の安撫使に任命し、李万を伴わせて、兵船 2尺、抄工 2人、引海 2人、銃と火薬、食料を携えその島へ行き、島の頭目人を諭して、戻ってきた。王は金麟雨に衣服、かさ、靴を褒美に与えた。"
1416年の記録で江原道の観察使を務めたことのある朴習が、鬱陵島)の傍に小島があると発言していることに注目して下さい。彼は、その島には田が50結ほどあり、侵入路は大変狭い道であったと述べています。鬱陵島の隣接島である竹嶼には一つしか侵入路がありませんが、鬱陵島にはいくつも島への侵入路があります (問2を参照)。彼はまた、15家族が島に住んでいたと聞いており、そうした事からこの島が竹島/Liancourt Rocks/独島である可能性はほぼ排除されます。現実の竹島/Liancourt Rocks/独島は、15の家族をも支えるだけの土や水が存在しない、ただの荒涼とした岩礁に過ぎないからです。かつて私が江原道 都観察使であった時に聞いたが、 武陵島の周回が 7息で、傍に小島がありその島には田が50結ほどあった。その島へ入って行く道は大変狭くようやく一人の人間が通行できる程度で、並んで歩く事はできないとの事だ。かつて方之用と言う者がおり、15家族を従えて住んおり、時には仮倭(後期の倭寇の多くは朝鮮人などであった : 訳注)として盗みを働いたという。その島を知る人物が三陟にいるので是非行ってその人に武陵島について尋ねるように。 "王はよい助言だと考え、三陟の住人で前将軍の金麟雨を呼んで武陵島について尋ねた。" 金麟雨は「三陟人の李万が武陵に行って戻ったことがあり、その島について詳しく知っているはずです。」と言い、すぐに李万を召還した。麟雨が言うには、「武陵島は遠く海の中にあり、互いに往来することが出来ないので、軍役を避ける者が時々逃げ込んで行くのです。もしこの島に多くの人が接するようになれば、必ず侵犯して日本からやって来て盗みを働くでしょう。このようにして江原道を徐々に侵犯するやもしれません。」 王は納得し、金麟雨を武陵地域の安撫使に任命し、李万を伴わせて、兵船 2尺、抄工 2人、引海 2人、銃と火薬、食料を携えその島へ行き、島の頭目人を諭して、戻ってきた。王は金麟雨に衣服、かさ、靴を褒美に与えた。"
1417 - 観察使が竹、生苧、木製品などを于山島から持ち帰る
1417年2月14日、大宗実録に観察使金麟雨が于山島から戻ってきて、大竹、水牛皮、生苧、綿子、検撲(木業)木などの物産品を持ち帰った事が記録されています(参照) 。彼はまた、その島に15家族86人が住んでいたことを報告しています。これは、于山島が主島である鬱陵島のことで、隣接島の竹嶼ではない更なる証拠です。それは明らかに竹島/独島(Liancourt Rocks)のことではありません。現実の竹島/Liancourt Rocks/独島は、鬱陵島から92km離れた竹、生苧、木製品などの報告書にあった物産が採れるような島ではなく、ただの荒涼とした岩礁に過ぎないからです。
次に挙げるのがその1417年2月14日の記録です。
按撫使金麟雨還自于山島, 獻土産大竹、水牛皮、生苧、綿子、檢樸木等物, 且率居人三名以來。 其島戶凡十五口, 男女幷八十六。 麟雨之往還也, 再逢颶風, 僅得其生
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大宗実録17年丁酉二月壬戌条 (1417年2月5日)
安 撫使(検察使)の金麟雨が于山島から戻り、土産に大竹、水牛皮、生苧、綿子、検撲(木業)木などの物を持ち帰り献上した。住民を3名連れて帰った。島には 15戸の家族が住んでおり、人数は男女全員で86人である。島から帰還する際、再び台風に遭遇し、何とか生きて帰ることが出来た。”
1417 - 鬱陵島は"于山武陵地域"と記される。 大宗実録17年丁酉二月壬戌条 (1417年2月5日)
安 撫使(検察使)の金麟雨が于山島から戻り、土産に大竹、水牛皮、生苧、綿子、検撲(木業)木などの物を持ち帰り献上した。住民を3名連れて帰った。島には 15戸の家族が住んでおり、人数は男女全員で86人である。島から帰還する際、再び台風に遭遇し、何とか生きて帰ることが出来た。”
この記録で再び、上記の1412年の記録で鬱陵島の隣接島を、“武陵島”としたのと同じく、于山島が鬱陵島の主島であると考えられていることがはっきりと記述されました。このことは、1417年の2月8日の記録で鬱陵島を"于山武陵等處(地域)"としており、つまり于山が先にあることから二島のうち、より大きい島であることが推測されます。この地域名は、李朝朝鮮の役人が鬱陵島を単なる二つのそれぞれ独立した島というより、一つの包括的な地域であると考えていた証拠ではないでしょうか。 次に挙げるのがその1417年2月8日の記録です。
「太宗實錄」 卷 三十三, 太宗 十七年 二月 乙丑條 乙丑
命右議政韓尙敬、六曹、臺諫, 議刷出于山、武陵居人便否, 僉曰: “武陵居人, 勿令刷出, 給五穀與農器, 以安其業, 仍遣主帥撫之, 且定土貢可也。” 工曹判書黃喜獨不可曰: “勿令安置, 依速刷出。” 上曰: “刷出之計是矣。 彼人等曾避役安居, 若定土貢,有主帥, 則彼必惡之, 不可使之久留也。 宜以金麟雨仍爲安撫使, 還入于山武陵等處, 率其居人出陸。” 仍賜衣笠及靴, 且賜于山人三名各衣一襲。 命江原道都觀察使, 給兵船二隻, 選揀道內水軍萬戶千戶中有能者, 與麟雨同往
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大宗実録17年二月乙丑条 (1417年2月8日)
右議政韓尚敬が6人の大臣に命じ、于山武陵から住 民をどう退去させるか協議した。皆このように言った。「武陵の住民を退去させない方がよいでしょう。五穀を給付し、農機具を与えて、安心して農業をさせま しょう。そして帥撫使(武官?)を派遣して年貢を定めればよいではないですか。」 しかし、工曹判書の黄喜だけは反対し、「彼等を定住させずに、速やかに退去させるべきです。」と申し上げた。 王曰く「住民を退去させるのがよいであろう。これ らの人民は今まで使役を逃れのんきに暮らしてきた。もし年貢を定めて武官を常駐させれば、必ず恨みを持つだろう。よって、これ以上長く停留させるわけには いかない。金麟雨を安撫使に留めておき、于山武陵地域にもう一度派遣して住民を島から退去して本土へ戻るよう引率させよう。」 王は(金麟雨へ)衣類、笠、及び靴を、また于山の住民3人に衣服を1揃いずつ与えた。そして江原道の観察使に命じ、兵船二隻を供給し、道内の水軍の中から有能な者を選んで麟雨に同行させるよう言った。
1417 - 倭寇が"于山武陵"を襲撃 命右議政韓尙敬、六曹、臺諫, 議刷出于山、武陵居人便否, 僉曰: “武陵居人, 勿令刷出, 給五穀與農器, 以安其業, 仍遣主帥撫之, 且定土貢可也。” 工曹判書黃喜獨不可曰: “勿令安置, 依速刷出。” 上曰: “刷出之計是矣。 彼人等曾避役安居, 若定土貢,有主帥, 則彼必惡之, 不可使之久留也。 宜以金麟雨仍爲安撫使, 還入于山武陵等處, 率其居人出陸。” 仍賜衣笠及靴, 且賜于山人三名各衣一襲。 命江原道都觀察使, 給兵船二隻, 選揀道內水軍萬戶千戶中有能者, 與麟雨同往
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大宗実録17年二月乙丑条 (1417年2月8日)
右議政韓尚敬が6人の大臣に命じ、于山武陵から住 民をどう退去させるか協議した。皆このように言った。「武陵の住民を退去させない方がよいでしょう。五穀を給付し、農機具を与えて、安心して農業をさせま しょう。そして帥撫使(武官?)を派遣して年貢を定めればよいではないですか。」 しかし、工曹判書の黄喜だけは反対し、「彼等を定住させずに、速やかに退去させるべきです。」と申し上げた。 王曰く「住民を退去させるのがよいであろう。これ らの人民は今まで使役を逃れのんきに暮らしてきた。もし年貢を定めて武官を常駐させれば、必ず恨みを持つだろう。よって、これ以上長く停留させるわけには いかない。金麟雨を安撫使に留めておき、于山武陵地域にもう一度派遣して住民を島から退去して本土へ戻るよう引率させよう。」 王は(金麟雨へ)衣類、笠、及び靴を、また于山の住民3人に衣服を1揃いずつ与えた。そして江原道の観察使に命じ、兵船二隻を供給し、道内の水軍の中から有能な者を選んで麟雨に同行させるよう言った。
1417年8月6日の太宗実録で次のように記録されました。
「太宗實錄」卷 三十四, 太宗 十七年 八月 己丑條
倭寇于山武陵
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太宗実録太宗 十七年 八月 己丑條(1417年8月6日)
倭寇が于山島と武陵島を襲った。
この記録でまたしても于山島が武陵島より先に言及されていることにお気づきでしょうか。つまり、またしても于山島が主島であり、武陵島がその付属島である事を示していると考えれれます。-----
太宗実録太宗 十七年 八月 己丑條(1417年8月6日)
倭寇が于山島と武陵島を襲った。
1425 - 観察使が"于山武陵等安撫使"の称号を与えられる。
1425年8月8日の世宗実録によると、金麟雨は“于山武陵等安撫使”(于山武陵地域の監察官)に任命されており、ここでも于山が先であることからも于山がより大きな島であったことが分かります。
「世宗實錄」 卷 二十九, 世宗 七年 八月 甲戌條
甲戌以前判長鬐縣事金麟雨 爲于山武陵等處按撫 初江原道平海人金乙之李萬金亐乙金等 曾逃居武陵島 歲丙申 國家遣麟雨 盡行刷還 癸卯 乙之等男婦共二十八名 復逃入本島 今年五月 乙之等七人 留其妻子於本島 乘小船潛到平海郡仇彌浦 發覺 監司囚之 本郡馳報於是復爲刷還 麟雨率軍人五十名 備軍器齎三月粮 浮海而去 島在東海中 麟雨三陟人也
甲戌以前判長鬐縣事金麟雨 爲于山武陵等處按撫 初江原道平海人金乙之李萬金亐乙金等 曾逃居武陵島 歲丙申 國家遣麟雨 盡行刷還 癸卯 乙之等男婦共二十八名 復逃入本島 今年五月 乙之等七人 留其妻子於本島 乘小船潛到平海郡仇彌浦 發覺 監司囚之 本郡馳報於是復爲刷還 麟雨率軍人五十名 備軍器齎三月粮 浮海而去 島在東海中 麟雨三陟人也
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世宗実録 世宗七年八月条 (1425年8月8日)
王(世宗)は金麟雨を再び于山武陵地域安撫使に任命した。1416年、 金乙之、李萬金、亐乙金ら、武陵島に住む平海の元住人の逃亡者を連れ帰った。1423年には金乙之を含む23人の男女が島へ逃げ戻った。その 年5月、金乙之を含む7人の住民が妻や子を島に残して小さな船で海を渡り、平海の港へ密かに戻った所で発見された。監司は彼等を逮捕し、緊急の命令を出し て島に残る住民を、村から一掃して連れ戻すように指示した。50人の人員と軍事物資を載せ、3ヵ月後金麟雨は船に乗り込み、出立した。その島は、東の海中 にある。金麟雨は三陟の出身。
以上見てきた全ての記録で、于山島が鬱陵島の主なる島であり、武陵島はその隣接島であることが推察されます。鬱陵島の隣接島である竹嶼は、鬱陵島の東沖にあることから、(鬱陵島であるはずの)于山島は西にあることになり、そのことは1690年代に安龍福の起こした竹島一件以前の朝鮮の殆どの古地図が于山島を鬱陵島の西側に描いている理由を説明しています。
また、李朝朝鮮王朝の役人は時に、二島を武陵島、あるいは"于山武陵等處(地域)"と呼んだりもしました。しかし、いずれにせよ上記の記録から朝廷の役人にとって二島がそれぞれ大変近くて基本的にはある一つの地域、島嶼部であると考えていたからだと思われます。
また、これらの記録から、于山島が現在の竹島/Liancourt Rocks/独島では無いことも、また明確であるわけです。
参照
問1 : 竹島/独島は、6世紀以来韓国の一部と言うのは本当?
問2 : 鬱陵島の隣接島のうち、最大なのはどの島?
問4 : 世宗実録地理志は竹島/Liancourt Rocks/独島について記述している?
問5 : 「新增東國輿地勝覽」(1530)は竹島/Liancourt Rocks/独島について記述している?
Kaneganese,
ReplyDeleteThanks for your job.
またまたお疲れ様でした!
Kaneganese様
ReplyDelete1417年の記述の中に「それは勿論、その島が竹島/Liancourt Rocks/独島の事を言っているのではないことは無いのです。」という箇所がありますが、二重否定になっていますので、訂正をお願いいたします。
And it certainly was not referring to Dokdo (Liancourt Rocks), ですから、「それが竹島/独島(Liancourt Rocks)のことを言っているのではない事は確かです」または「それは明らかに竹島/独島(Liancourt Rocks)のことではありません」くらいのところでしょうか。
pacifistさん
ReplyDeleteあ、本当ですね。ご指摘ありがとうございました。早速修正します。
GJ
ReplyDeleteご苦労様です。m(_ _)m