竹島問題の歴史

23.10.07

1901年 大韓帝国地理書「大韓地誌」玄采著附属江原道地図

Gerryの投稿の日本語訳です。原文はこちら ↓
1901 "Daehanjiji" (大韓地誌) Map of Korea's Gangwon Province

1901年に発行された大韓帝国の地理書「大韓地誌」とそのの附属の江原道地図です。著者は玄采、発行は廣文社です。地図では"于山"が鬱陵島の隣接島として描かれており、さらにその位置から言って鬱陵島の隣接島である竹嶼であることは間違いないでしょう。韓国側は于山島が"獨島(独島)(竹島/Liancourt Rocks)"の古名である、と主張しますが、この地図も、そしてその他の多くの地図も 、それが真実ではない事を示す証拠になっています。

1899年の大韓帝国皇城新聞の記事 によると、于山島竹島が鬱陵島の最も顕著な島である、とあります。韓国の歴史学者は、"于山島竹島"を二つの別々の島である、と解釈していますが、韓国の古文献や古地図の例では、こうした場合はむしろ一つの島が、二つの異なる名前を持っていた、と考えるのがより適切だと思われます。"于山島竹島"と、"于山島"が"竹島"の前に来ていますよね?この事は、たとええこれが二つの島を指していたとしても、于山島の方が先に来ていることからより大きな島である事を示しています。鬱陵島の隣接島の竹嶼は竹島/Liancourt Rocksより遥かに大きいので、やはりこの竹嶼が"于山島"と呼ばれていた事を示しているのです。それに、鬱陵島から92kmも離れた竹島/Liancourt Rocks/独島が、本当に鬱陵島の隣接島として認識されていたのでしょうか?

1900年、大韓帝国は鬱陵島を江原道の一郡として昇格します。その勅令41号に於いてそのことが公布され、鬱陵島、竹嶼(竹島)、そして石島が郡を形成するとされました。その前年の皇城新聞の記事に最も顕著な島、として書かれた于山島はこの勅令では何もふれられていません。このことから、唯一考えられるのは、(新聞記事の)"竹島"と"于山島"が一つの島に対する二つの名前であり、大韓帝国政府が"竹島"を"于山島"の代わりに正式な名称として採用した、ということです。さらに、韓国側はこの勅令に出てくる"石島"が竹島/Liancourt Rocks/独島のことだ、と主張していますが、これを肯定する地図はおろか、文献すら韓国にはなに一つありません。石島は、文字通り石の島であり、鬱陵島の周囲に無数にある岩礁を示す総称として使われたのではないでしょうか?

No comments:

Post a Comment

Note: Only a member of this blog may post a comment.