竹島問題の歴史

23.10.07

1711年 鬱稜島に派遣された検察官朴昌錫の残した碑文

Gerryの投稿の日本語訳です。原文はこちら ↓
Ulleungdo Inspector Bak Chang-seok's (朴昌錫) 1711 Inscription

この写真は、三陟の将軍で1711年に鬱稜島に派遣された検察官朴昌錫の残した碑文を刻んだ石の拓本と考えられるものです。

碑文は次のように書かれてあるようです。

辛卯五月初九日到泊于
倭舡倉以爲日後憑考次
萬里凔溟外將軍駕彩舟
平生仗忠信履險自無憂
搜討官折衡將軍三陟營將
兼僉節制使朴錫昌拙句刻
石于卯方軍官折衝朴省三
折衝金壽元
倭學閑良朴命逸
軍官閑良金元聲
都沙工崔紛
江陵通引金(燮?)
營吏金(?)興
軍色金孝良
中房朴一貫
及唱金時云
庫直金危玄
食母金世長
奴子金禮發
使令金乙奉

漢文読解が正確に行えるかどうかわからないため、この碑文をあえて訳しませんでしたが、この碑文の言わんとするところは、いつ、そしてどこにこの碑文を刻んだのか、また、検察官一行のそれぞれの肩書きと氏名を書き連ねたものであるようです。Web竹島研究所のサイト からこの写真をお借りしました。訳がどこかにあるかもしれません。(訳注:全訳は無し)

朴昌錫は、この竹島問題にあっては大変重要な人物です。というのも、1711年の検察の際に鬱稜島の地図を書き残しており、その地図に描かれた于山島が、鬱稜島の隣接島である竹嶼を示しているからなのです。実際、他の多くの韓国の古地図でも、于山島は、ほぼ間違いなく鬱稜島の隣接島である竹嶼として描いているのですが、韓国人はいつも、これらの地図にある于山島は、現在の竹島(韓国名独島=ドクト)で、単に便宜所上鬱稜島の隣に描かれているに過ぎない、と主張します。実際、Steve Barber(Toadface)氏はこうした主張を以前は繰り広げていました。(最近はそうした主張をすることがありませんが。)朴昌錫の地図がその他の地図とは異なっている点は、于山島の上に"所謂于山島"だけではなく、"海長竹田"とも書かれていることにあります。海長竹は、7メートル近くにも成長するある特定の種類の竹であるため、韓国人が自信を持ってこの地図に描かれた于山島が"独島"だ、などと言い張ることが出来ないのです。というのも、竹島(Liancourt Rocks)というのは、竹が生育するのに必要な土壌が存在しない不毛の岩に過ぎないからです。

幸いなことに、独島博物館の館長を含む韓国人の中に、これらの古地図に描かれた于山島は竹嶼である、と認める人々が出始めました 。その代わり、彼らは今度はこう主張し始めています。こうした古地図は不正確であるので、むしろ(1690年後半に2度日本へやって来た)安龍福という水夫の”倭の松島は于山島”という証言に注目すべきである、と言う訳です。言い替えれば、朝鮮政府の高官である人物の描いた地図を無視し、代わりに皆が認める偽証だらけの罪人の言う言葉だけを信じるべきである、といっている事になるのですが、韓国人は不思議とこれを疑問に思わないようです。彼らは又、安龍福が「松島(現在の竹島=Liancourt Rocks)と鬱陵島の距離は朝鮮半島の海岸から鬱陵島間での距離より遠い」「鬱稜島よりずっと大きい」などの、不正確な証言を行っていることも、別に気にならないようです。実際、安の証言には辻褄が合わないことが大変多いのですが、他に竹島に対する領有権の主張を支えるような地図は全く無く、古文書についてもほぼ無きに等しいため、安龍福のこの証言が最大の望みであることから、そうした矛盾点は気にしないようです。

右の地図は、朴昌錫が鬱陵島の検察中に描いた1711年の地図「鬱陵島圖形」です。ところで、地図の中央に三つの顕著な峯が描かれていますね?これは、鬱陵島の別名が三峯島であることの証拠の一つです。韓国側は、この"三峯島"が竹島(韓国名:独島)の別名であると主張しています。それを証明するような地図や古文書など何も無いのに、です。一方、"三峯島"が鬱陵島の別名であることを示す文書等はあるのです。

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