竹島問題の歴史

7.8.08

問4 : 「世宗実録地理志」は竹島/Liancourt Rocks/独島について記述している?

Gerryの投稿の日本語訳です。原文はこちら ↓
Q 4: Did King Sejong's geography text mention Dokdo?

 : 韓国人は、竹島/Liancourt Rocks/独島が1454年の「世宗実録地理志」の中で言及されていると主張します。その記述は世宗莊憲大王実録の付録として書かれています。朝鮮半島東岸にある蔚珍の町の記述の中で、鬱陵島について"于山武陵の二島"として記述しています。韓国人はこの"武陵"島が鬱陵島で、"于山"島がが竹島/Liancourt Rocksであると主張し、次の一節をその証拠にしています。

于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見 新羅時 稱于山國 一云鬱陵島. 地方百里

韓国側の主張
韓国側は上記の一節において説明されている距離は二島間のもので、蔚珍と二島の間の距離ではない、と主張しています。また、鬱陵島は朝鮮半島から見えるが、その隣接島は見えないので、この于山は鬱陵島の東南92kmにあり、、鬱陵島の山の上から稀に見ることが出来る竹島/Liancourt Rocks/独島だといいます。さらに、鬱陵島の2.2km東沖にある付属島の竹嶼は、特別に"清明"な日でなくても見えるので、この于山は竹嶼ではあり得ない、といいます。

韓国側の主張の問題点
こうした韓国側の主張にはいくつも問題点があります。

第一に、この2島は蔚珍の真東にあると記述されており、どちらも同じ緯度に無ければなりませんが、実際は鬱陵島(北緯37° 30')と竹島/Liancourt Rocks(北緯37° 14')はそれぞれ違う緯度にあります。

(右の写真では、鬱陵島が朝鮮半島東岸の三陟の山から遥か遠くに見える。)

第二に、問題の一節は朝鮮半島東岸の蔚珍の地理について説明している箇所で、その中で蔚珍とその周囲にある各場所との方角や距離を記述しているのです。"于山武陵"二島の方角は蔚珍の真東(在縣正東)にあるわけですから、その二島までの距離は明示されていない以上「単に見える距離にある島々である」と記述されているのです。

第三に、韓国側のこの一節についての解釈が正しいとすると、この二島が一体どこにあるのか分からないことになり、何をいっているのか不明な一節になってしまいます。朝鮮の人々は蔚珍の真東にあることだけは分かっているけれど、どれほど遠くにあるのか分からない、という事態になってしまうのです。極端な話、この解釈では日本海の反対側、さらには地球の反対側にあってもおかしく無くなってしまうのです。

第四に、この文章では。"于山武陵"がかつては一島であったともいっています。つまり、かつて一島だと認識されていた鬱陵島に実は(訳注 : 居住可能な)隣接島である竹嶼がある事を後に発見した、ということになる訳です。竹嶼は鬱陵島の最大の隣接島で、東に2.2kmしか離れていないので、その島は鬱陵島から東南に92kmも離れた竹島/Liancourt Rocksではなく、この竹嶼であるはずです。

第五に、韓国の古地図で于山島と鬱陵島を二島として描いた最初の地図は1530年の八道總圖です。その地図(右図参照)では于山島を鬱陵島の真西に描いており、つまり、鬱陵島東南92kmにある竹島/Liancourt Rocks/独島であるはずが無いことが分かります。于山島も独島/竹島(Liancourt Rocks)も、鬱陵島の反対側にあるはずです。

鬱陵島には竹嶼(韓国名竹島)と言う、東沖2.2kmにある隣接島があります。この世宗実録地理志に出てくる二島は鬱陵島とその竹嶼です。この文書のなかの于山島が鬱陵島なのか,それともその隣接島なのかと言う事に関しては議論があります(参照)。が、上に示したように私が検討して来た結果と、その他の地図などの証拠に基づいて結論付けるならば、この1454年の世宗実録地理志に出てくる于山島が竹島/Liancourt Rocks/独島でないことははっきりしています。

世宗実録地理志の全文
以下は「世宗実録地理志」の蔚珍県の記述の全文です。鬱陵島までの方位と距離をあらわした一節を赤で示しています。

蔚珍縣

知縣事一人。

本 高句麗于珍也縣, 新羅改今名爲郡。 高麗稱蔚珍縣, 本朝因之。【縣人諺傳古名半伊郡, 又仙槎郞。】藥師津、【在縣南。】骨長津。【在縣北。】四境, 東距海口八里, 西距慶尙道安東任內小川縣六十三里, 南距平海三十七里, 北距三陟三十二里。 戶二百七十, 口一千四百八十三。 軍丁, 侍衛軍三十八, 舡軍七十, 守城軍四。 土姓五, 林、張、鄭、房、劉; 續姓一, 閔。【榮川來, 鄕吏。】厥土肥塉相半, 俗業海錯, 崇習武藝, 墾田一千三百五十一結。【水田三分之一。】土宜五穀, 桑、麻、柿、栗、梨、楮。 土貢, 蜂蜜、黃蠟、鐵、胡桃、石茸、五倍子、川椒、藿、漆、鹿脯、狐皮、狸皮、獐皮、虎皮、猪毛、大口魚、文魚、水魚、全鮑、紅蛤。 藥材, 茯苓、當歸、前胡、白芨、五味子、人蔘。 土産, 篠蕩。 鹽盆六十一。 磁器所一, 在縣北十里薪谷里。 陶器所一, 在縣北十二里甘大里。【皆品下。】皇山石城。【周回六百十六步五尺, 時以爲邑城內有四泉一池, 泉則雖大旱, 皆不渴, 池則大旱或渴。】溫川在縣北四十四里興富驛西仇水亏勿山洞。 驛三, 興富、【古名興府。】德神、【古名德新。】守山。【古名壽山。】烽火四處, 全反仁山在縣南,【南準平海沙冬山, 北準竹津山。】竹津山、【北準竹邊串。】竹邊串、【北準亘出道山】亘出道山。【北準三陟可谷山。】于山、武陵二島在縣正東海中。【二島相去不遠, 風日淸明, 則可望見。 新羅時, 稱于山國, 一云鬱陵島。 地方百里, 恃險不服, 智證王十二年, 異斯夫爲何瑟羅州軍主謂于山人愚悍, 難以威來, 可以計服, 乃多以木造猛獸, 分載戰舡抵其國, 誑之曰: “汝若不服, 則卽放此獸。” 國人懼來降。 高麗太祖十三年, 其島人使白吉土豆獻方物。 毅宗十三年, 審察使金柔立等回來告: “島中有泰山, 從山項向東行至海一萬餘步, 向西行一萬三千餘步, 向南行一萬五千餘步, 向北行八千餘步, 有村落基址七所。 或有石佛像鐵鍾石塔。 多生柴胡蒿本石南草。 我太祖時, 聞流民逃入其島者甚多, 再命三陟人金麟雨, 爲按撫使, 刷出空其地。 麟雨言: “土地沃饒, 竹大如柱, 鼠大如猫, 桃核大於升。 他物稱是。”】

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蔚珍県 

県知事が一人いる。 

高句麗時代の元の名称は于珍也県で新羅時代に現在の名称に変わり、郡になった。高麗時代には蔚珍県と呼ばれており、現王朝期も同じ名称でまだ呼ばれている。県の住民は、過去には半伊郡もしくは仙槎郞と呼ばれた、と言っている。

藥師津は県南部にあり、骨長津は県北部にある。県境は、東は海岸までの8里、西は慶尙道安東任內小川県までの63里、南は平海までの37里、北は三 陟までの32里である。270の池があり、人口は1430。軍隊は侍衛軍〈陸軍?〉が38人、水軍が70人、城の近衛軍が4人である。住民の名前は林、 張、鄭、房、劉である。栄川から来た郷吏の閔と言う姓もある。土地の半分は肥沃であるが、残りは違う。漁労で生計を立てているが、皆とても武芸を崇敬して いる。1351結の土地を耕し、その3分の1は稲田である。その他、五穀, 桑、麻、柿、栗、梨、楮(こうぞ)などを生産している。貢物としては、蜂蜜、黃蠟、鐵、胡桃、石茸、五倍子、川椒、藿、漆、鹿脯、狐皮、狸皮、獐皮、虎 皮、猪毛、大口魚、文魚、水魚、全鮑、紅蛤。薬草は、茯苓、當歸、前胡、白芨、五味子、人蔘がある。地場産物は61あり、篠竹、大きい竹と塩を含む。磁器 の製作所が薪谷里の北方10里の所に、陶器の製作所は甘大里の北方12里の所にある。製品は余り質がよくない。皇山石城は周囲が徒歩616歩5尺で、時に 村になっている。城内には泉が4つ、池が1つある。池は旱魃の厳しい時は干上がってしまうが、泉は決して涸れない。仇水亏勿山洞西部の興富駅北方44里の ところに、温泉がある。駅は興富(古称は興府)・德神(古称は德新)・守山(古称は壽山)の3つである。狼煙を挙げる場所が4ヶ所あり、そのうち一つは平 海沙冬山の南、竹津山の北の全反仁山にある。2つ目は竹津山で、竹邊串の北にある。3つ目は竹邊串で、亘出道山の北にある。最後は亘出道山で、三陟可谷山 の北にある。

県の真東(在縣正東)の沖に于山、武陵という2つの島がある。二島との距離はさほど遠くなく、晴天で風のある日にはよく見える。新羅の時代には、于山國あるいは鬱陵島と呼ばれた。面積は100里である。

大変険しい土地で、征服するのが難しいと思われたが、智證王十二年 (512 A.D.)に、異斯夫という者が何瑟羅州軍の長となり、こう言った。「于山人は無知で野蛮なので、武力で征服するのは困難である。そこで、知略を施さなけ ればならない。」彼は恐ろしく獰猛そうな猛獣を木で作り、複数の軍の船に分載して島へ行き、住民へこう告げた。「もし服従しなければ、猛獣達を島へ放して お前達を食わせてしまうぞ。」島の住民は、恐れおののいて出てきて、服従した。

高麗太祖十三年(930 A.D.)に、その島の住民は白吉と土豆を使いにして貢納した。毅宗十三年には、審察使の金柔立たちが(島から)帰還しこう述べ た。「島の中央に大きな山がある。頂から海岸までの距離は、東へ1万歩、西へ1万3千歩、南へ1万5千歩、北へ8千歩である。島には7つの村の跡がある。 石仏像、鉄鐘、石塔もある。柴胡、蒿本、石南草が沢山自生している。

我が太祖の時代(1392 ~1398 A.D.)に、多くの人が島へ逃げ込んだ、と伝えられる。三陟の住民である金麟雨が再び按撫使に任命されて島へ向かい、島の住民を強制的に退去させ、空島とした。金麟雨はこう報告している。「島の土地はとても肥沃で、竹は柱の如く太く、鼠は猫の如く大きい。桃の種は升のように大きい。その島の産物は、皆そんな具合である。」

以上見てきたように、全ての証拠が、韓国人が主張している「世宗実録地理志の中の于山島は現在の竹島/Liancourt Rocks/独島である」と言う説をほぼ全否定しています。于山武陵は単なる鬱陵島の別名です。竹島/Liancourt Rocks/独島は、いかなる名称でもこの文章の中ではあらわれません。

参照(韓国古地図等) 参照
問1 : 竹島/独島は、6世紀以来韓国の一部と言うのは本当?
問2 : 鬱陵島の隣接島のうち、最大なのはどの島?
問3 : なぜ韓国の古地図は鬱陵島を二つの島として描いているの?
問5 : 「新增東國輿地勝覽」(1530)は竹島/Liancourt Rocks/独島について記述している?

12 comments:

  1. Kaneganese,

    Great job. Your format looks much better than mine.

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  2. Kaneganese,

    またしてもご苦労様でした!

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  3. Keneganese,

    ミス入力が終わりの方にありました。ウサン武陵破綻なる・・・の「破綻なる」は「は単なる」ですよね。

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  4. Thanks, Gerry

    pacifistさん

    いつもありがとうございます。破綻...嫌な響き。

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  5. Gerry,

    The "Recent Comment" corner at the right doesn't work nowadays. If somebody writes at off topic postings, nobody will notice it.
    Can you repair it? Thanks.

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  6. Wow! It suddenly appeared when I posted an opinion...

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  7. 韓国は『世宗実録地理誌』に「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見」とあるのを根拠に竹島の領有を主張しています。それは「二島相去不遠」とあるのを「二島は互いに遠くなく」と読むからから可能な解釈です。

    しかし「二島相去不遠」は「二島はともども遠くなく」とも読み下せます。こう読むと視点を蔚珍県においていることになり、「蔚珍県から遠くなく、その距離は好天に恵まれ清明であるならば望み見ることができるほどだ。」と言っていることになります。この方が下條さんの指摘する「規式」と呼ばれる地理誌作成マニュアルに準拠したものになります。

    問題は「二島相去不遠」の「相」を「ともども」と読むことの妥当性です。「互いにと読むのが普通だ」とする反論が予想されるのですが、今のところ漢和辞典を出典として「そう読める」としか反駁のしようがありません。もっと確かな反論ができないものでしょうか。例えば『世宗実録地理誌』に「相」を「ともども」と読む例が他にもあれば不自然な読み方でないと主張できるのですが……。それが難しいようならば、他の文献における用例でもよいと思います。


    それと「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見」の出典は何なのでしょうか。『太宗実録』では一島論で記述されていたのが『世宗実録』では二島論が展開されています。この違いはなぜ生まれたのか、その辺りを解明していくことで見えてくるものがあるような気がします。

    どうもこの一島論から二島論への遷移は党争の臭いがする。二島論を主張した側が勝利したので「二島相去不遠」と書かれているのであって、一島論のままならこのような記述はなかったのではないか、つまり現実を反映した地理認識とは言い難いのではないか、というのが私の仮説です。

    『史記』がそうであったように、『朝鮮王朝実録』も王統の正統性を主張するものです。してみれば史実だけが書かれているわけでなく、歪曲・捏造されていることもあるでしょうし、書かれていない重要事項もあるはずです。確かに史料として第一級のものとは思いますが、そこに書かれていることがすべて事実だと思いこんでしまうことは、歴史の真相とは乖離してしまう可能性のあることを認識しておく必要があるのではないでしょうか。(たとえば、この部分を蔚珍から見ているというと「于山島は鬱陵島の陰に隠れてしまうから見えない」と反駁されます。しかし、それは後の世の認識でしょう。于山島が鬱陵島の東にあると認識が一般化するのは18世紀半ば以降のことです。)

    2010.3.10

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  8. 行行重行行 與君生別離 相去萬餘里 各在天一涯 道路阻且長 ・・・・・

      「相去 遠」で検索したら一番上にこの詩が出てきたので引用します。これは、たぶん「相去」の用法の標準的なものではないかと思うのですが、「相」に「ともども」という意味があるにしても、「相去」と言う場合はやはり「互いに離れて」の意味でしょう。

     「互いに」とは何処と何処を指すのかは、「相去」の前に出てくる言葉で判断できるはずですが、この詩の場合は「詩の作者である私」と「君」であることが自明なので、「相去」の主語としては省略されています。

      敢えて書くとすれば、「君我相去萬餘里」でしょうか。自分のことは省略して「君相去萬餘里」でもいいのかも知れません。比較の起点は「私」であるのは自明ですから。

     「于山武陵二島 在縣正東海中 二島相去不遠 風日淸明 則可望見」の場合も、「相去」は「互いに離れて」の意味であるのは同じだと思います。

      この場合、何処と何処が「互いに」離れているのかという話になりますが、規式が働いているのだとすれば、「最も近くの陸地から」という当然の前提は省略して、客体である「二島」について述べたものと解釈できるのではないでしょうか。




    2010.03.10

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  9. だいぶ古い記事に関するコメントになり申しわけありません。
    竹島問題を考える上でとても参考になるサイトなので、少し疑問に思ったことを述べさせてもらいたいと思います。

    回答のはじめのところに「真東にある」とかかれていますが、「二島在県正東海中」は「二つの島が江原道蔚珍縣における東海にある」と訳すべきではないでしょうか?現在少し中国語を勉強していますが「正」はそれほど強い意味を持ちませんし、東海は韓国では日本海を意味します。

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  10. 「正」に「・・・・における」という意味があるならそういう解釈ができるのかもしれませんが、どうなんでしょう。

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  11. 質問ですさん

    こんにちは

    「世宗実録地理志」のような地理誌には規式という記述の方法があり、ある地点からどの方角、どの距離に問題の地があるか、ということが記述されていなければなりません。もし仰せのように無理に「東海」を「日本海」と読み替えてしまうと、二島がどこにあるか、つまり県からどの方角・距離にあるかが不明になってしまいます。これでは地理誌の役割を果たせません。全文を読むとそれはより明瞭になります。他の地は「在縣北」「在縣南」などとあり、東西南北が県からの方角を表していることがお分かりでしょうか? 

    また、古来「東海」の呼称は本来渤海を表す名称であり、現在の日本海ではありません。また近世以降に描かれた「八道総図」 『 新増東国輿地勝覧』等にかかれた「東海」は朝鮮半島のごくごく沿岸部を示したもので、日本海を指す地名としても、稀に使われ始めたのは、近代以降のことです。大韓帝国政府の公文書や当時の新聞にも「日本海」の名称で記されていることから明らかです。

    よって、この「東海」を「日本海」と読み替えることは出来ないでしょう。

    「二島相去不遠, 風日淸明, 則可望見」を「二島は晴れの日は(県=朝鮮半島から)見える」と解さずに、韓国側が「二島が互いに近いので晴れの日には互いに見える」と解釈するのも、この二島が県からどの距離にあるかが分からないため、地理誌の記述としては不適切なのも同じ理由からです。

    東海呼称に関しては、下記も参考になさってください。

    Web竹島問題研究所
    実事求是  〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜
    第28回 竹島問題と日本海呼称問題(韓国マスコミの国際世論工作)

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima05-j.html

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  12. ☆「東海」は「東シナ海」

    「東海」「南海」は、中華大陸から見ての表記です。

    昔の地図をたくさん見ていると、

    中華大陸の南側の海には「南海」、
    中華大陸の東側の海には「東海」=「現在の東シナ海」、

    の表記が殆どです。さすが中華です。


    朝鮮半島の地図で「東海」は「半島内の陸の地名」には在ります。
    同様な地名は日本にも「東海地方」が在ります。

    朝鮮の地図でも「東海」の表記が在る物は
    中華から見た「東海」で、
    その西の端は「黄海」に頭を突っ込んだ形で
    「東海」と書いて在ります。

    やはり現在の「東シナ海」の事です。

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