竹島問題の歴史

5.12.07

"Wayurok" (臥遊錄) - Ulleungdo (鬱陵島 - 울릉도)

The following is a description of Ulleungdo from the "Wayurok" (臥遊錄), which is a collection of travel logs that was made sometime during the Joseon Dynasty. I am just putting it up for reference, hoping that it gets translated over time. (Link to the Text)

鬱陵島
[주:新羅史曰于山國島名鬱陵]. 地誌
鬱陵或曰武陵. 亦曰羽陵登高望之. 三峰岌嶪, 撑空. 而南峰稍低. 日初出時. 風恬浪靜. 則衆峰攢靑. 岩壑呈露. 沙汀樹木. 歷歷可指. 新羅智證王. 聞于山國負險不服. 命伊湌異斯夫爲阿瑟羅州軍主(阿瑟羅江陵)往討之. 斯夫以爲于山愚頑負險. 難以力服. 易以計下. 乃多造木獅子. 分載戰艦誑之曰. 伱不急下. 當放此獸摶噬之. 國人恐懼來降. 及高麗太祖十三年. 島人使白吉土豆獻方物. 毅宗聞羽陵地肥廣可立州縣, 遣溟州道監倉金柔立往視. 回啓曰島中有大山從山頂向東行至海濱一萬三千餘步向南行一萬五千步向北行八千餘步有村落基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡藁本石南草土多嵓石民不可
居遂寢厥後崔忠獻議以武陵土壤膏沃多珍木海錯遣使視之有村墟屋址宛然於是移東郡民實之使還多以海中珍怪之物來獻其後屢爲風濤所蕩覆舟人多物故乃還其民及我朝太宗大王時聞流民迯入者甚多命三陟人金麟兩爲按撫使刷出空其地麟兩言島中土地沃腴竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是云世宗大王二十年遣縣人南灝率數百人往搜逋民盡俘金九等七十餘人出來成宗大王二年有告別有三峰島者乃遣朴宗元往覔之因風濤不得泊而還同行一船泊羽陵島只取大竹大鰒魚以歸啓曰島中無人矣嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島島
有大山三峰尤峻發島三面皆壁立萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日大君梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹林其脩大若篔簹竹林旣窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草倭方伐竹採藥留渠守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見麋鹿態獐往往越海出來朝日纔高三丈則島中黃雀群飛來接竹邊串[주:島中竹實特時漂出形如大慱暴海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭筒比多有之] 

蔚陵島說
鵝溪蔚陵島在東海之中距海濱不知其幾百里也每秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟撗抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者亦翩翩渡海而來及至海濱垂趐自墮爲光童所捕者數矣漁人舟子或凜到島傍見萊根蔬葉隨水出來而四面皆蒼岩鐵壁只有一洞門可捫蘿而入慮有防守者彷徨躅躑不敢近而回棹者有之居是島者未知爲何許人或疑其避役逃罪之輩自相婚嫁漸至繁盛或疑其獠蠻之種據有是島非自近始或疑其果有之

則豈無一番舟楫之往來豈無一物可交貨有無於他境乎疑者不一無所歸宿終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕豈退之所謂桃源之說誠荒唐者歟噫仙神之說尙矣所謂蓬萊方丈瀛洲未知果眞有而崑崙玄圃見之者抑誰歟如使神仙不有則已有之則是島也妥知蓬萊崑崙之一而異人仙客之所在耶一幅布帆便風高掛則不過一晝夜之頃可以致身其間而世之羣疑衆惑從此可破旣不得此則令人徒費引領東望而空入於夢想吟咏之中悲夫  


 

11 comments:

  1. Anonymous8/12/07 12:42

    今朝投稿した文を若干修正してこちらに転載します。

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    おとといヤフー掲示板に書いた投稿に問題点が見つかったのでこれを修正する文章を書きました。私はこれをヤフー掲示板に投稿しようと思いましたが大変難解な上にどうでもいい内容のように思えてきたのでヤフーには投稿せずに代わりにここに投稿します。
    修正前  「去此」の「此」は寧海であり朝鮮半島である。
    修正後  「去此」の「此」は寧海かもしれないし寧海ではないかもしれないが朝鮮半島である。(僧侶が寧海に着いた時と朴世堂が「蓋二島去此不甚遠」と書いた時とにかなり時間的に隔たりがあるために寧海と断定は出来ないが文章の構造を考えれば寧海と考えるのが自然)

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    昨日のNo.16029の投稿の朝鮮日報の「西溪雑録」・「臥遊録」の解釈についてさらに検討を加えた結果解釈を変更すべきとの結論に達しましたので報告させていただきます。

    まず「臥遊録」の記述を紹介します。

    嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島島有大山三峰尤峻發島三面皆壁立萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日大君梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹林其脩大若篔簹竹林旣窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草倭方伐竹採藥留渠守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云
    蓋二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見麋鹿熊獐往往越海出來朝日纔高三丈則島中黄雀群飛來接竹邊串
    (盖(がい)二島は「蓋(けだし)二島」の、「麋鹿態獐」は「麋鹿熊(くま)獐」の誤り)

    かつて一人の僧侶に出会ったが(彼は)壬辰之乱の時に日本の捕虜となって日本の船に伴われて鬱陵島に行ったと自称して島には大きな山が三つあり(中略・鬱陵島の様子を説明)同じような捕虜七人と夜のうちにお互い語り合って夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。
    思うに二島はここからそれほど離れているわけではなくひとたび風に乗れば至ることができる。于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができないが、鬱陵(島)はすこしばかり山々がそびえ立っていて風に吹かれて起こる波が静まればいつでも見ることが出来る。麋(おおじか・シカ科の哺乳類)や鹿・熊・獐(ノロ・哺乳類)がしばしば海を越えて(朝鮮半島に)やって来る。朝日の高さがわずか三丈の時に島の中のすずめが群れを成して竹邊串に飛来してくる。

    No.16029では「到寧海地面云盖二島去此不甚遠」について「素直に読めば寧海(寧海は朝鮮半島の地名)と二つの島(鬱陵島と于山島)との間の距離が遠くないと言っているように私には思えます」と私は書きました。これは文章の構造を考えれば間違っていませんが文章の内容を考えれば問題があることに気がつきました。。
    私はNo.16029を書いた時点では一番最後の「來接竹邊串」まで僧侶の語った内容であると解釈していました。しかし捕虜として鬱陵島に連れてこられた人間が鬱陵島から朝鮮半島にもどって来た時に鬱陵島の様子について語るだけでなく半島から于山島が見えるとか鬱陵島から半島に動物が渡ってくるなどといった半島と二つの島との関係について知っていてそれについて語るのは不自然です。
    そこで改めてこの文章を見直した結果以下のことがわかりました。
    朝鮮日報の記事では「朴世堂はこの文で船に乗って鬱陵島へ行ってから帰って来た僧侶から伝えて聞いた話を記録しながらこのようにに言及した。」とあります。おそらく僧侶の話は「以來日纔晡已到寧海地面」の部分までだと思います。つまりかつてたまたま出会った僧侶が「壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島」と称して「島有大山三峰尤峻(中略)已到寧海地面」と言ったということになります。つまり僧侶は鬱陵島について語っただけで半島と二つの島との関係について語ったわけではないということです。
    「蓋二島去此不甚遠」以下の文章は僧侶の話ではなく朴世堂自身が二島と朝鮮半島の関係について推測して記述した文章だと考えられます。
    そこで問題になるのが「去此」の「此」がどこを指すかという点ですが私はやはり朝鮮半島を指していると考えます。「蓋二島去此不甚遠」の前の文章に「天のまさに暁ならんとして発船し来日の纔(ひたた・わずか)に晡(申・午後3時)なるを以てすでに寧海地面に到ると云う」とあり鬱陵島と朝鮮半島との間の距離が近いことを示唆する文章があるわけですから後ろに続く「蓋二島去此不甚遠」も鬱陵島と朝鮮半島との間が近いという意味の文章が来たほうが文脈として適切ではないかと考えます。
    それに世宗実録地理誌の「二島相去不遠」のように「相去(お互いの距離)」であれば「鬱陵島から見て・・・于山島から見て・・・」と視点を変えて解釈することもあるいは可能かもしれませんが、「去此(ここからの距離)」の此は一点でしかありえません。となると一点つまり朝鮮半島から于山島と鬱陵島の両方が見えると解釈するほかありません。「島中黄雀群飛來接竹邊串」が明らかに朝鮮半島と二つの島の関係について述べているという点ともし鬱陵島から于山島を見たのであれば「鬱陵島から見た」と明示されていないのは文章としておかしいという点は前回の説明と変わりありません。



    ちなみにこちらがおとといヤフー掲示板に書いた投稿です。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16028

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16029

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16030

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  3. 薮太郎様;

    寧海の近くにChuk-sando丑山島と呼ばれる島が、寧海沖10里(4KM)に存在するとかかれておりました。此の島は竹が茂っている事が書かれています。また、與地圖書など朝鮮の記録にも倭寇と関連して度々でてきます。
    現在はそのような島は無く、丑山里/面と呼ばれる、砂の堆積で島と陸が繋がったような地形が寧海沖にあります

    D'anvilleのRoyalume de coreeにも、Sampo(Samchok:三陟)の南、Ning-hay(寧海:Younghae)と鬱陵島の間、即ち鬱陵島から見て南西にTchain chang taoが書かれています。韓国は是を独島と、恥知らずの歪曲主張を行っております。

    ひょっとすると、当時の朝鮮の認識は、東海沖の二島は、このChuk-san-do丑山島と鬱陵島、もしくは于山島と鬱陵島を混同している事は考えられないでしょうか?

    そうすると、
    1.鬱陵島が高く、于山島が低いと言った事、
    2.主に1711以前の地図及びD'anville等の欧州製作の地図に、于山島が西や南西に地図上書かれていること。
    に合致します。
    (但し、朝鮮図には、鬱陵島の西及び南西に子山島/于山島と、その南西に丑山島と、三つが書かれています。

    発音を比較してみます。
    Tchain-chang-do (D'anville/恐らく中国で発音と思われる)
    Chuk -san-do丑山島
    Je -san-do子山島
    U -san-do于山島

    U-Si-Guk?于尸山國
    U-Si-san-Guk?于尸山國
    U-san-Guk于山国


    余談ですが、私の海での経験上、茅ヶ崎の海上50-100M付近から1.5Km離れた烏帽子岩を見ると、曇りの日はかすかに見える程度になります。これらを考えると、鬱陵島の東岸から2Km離れているJUKDOや寧海の東岸から4Km離れていたとされるChuk-san doは、恐らく天気が曇り霧が発生すると見ずらくなることが予想されます。

    P/S,どなたか、1402年の混一疆理歴代国都之図の鬱陵島付近の拡大図持っておられる方がいらっしゃいましたらお手数ですが、寧海や三陟の付近にどんな地名が書かれているか、ご教授お願いいたします。(特に、三陟、平海、寧海と丑山付近についてです。)

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  4. gtomr,

    It's quite interesting. I want to hear Gerry's opinion. (Gerry, although I think you are now out of Korea to spend the holiday season, please consider about this matter when you come back. Merry Christmas!)

    Gerry, he found a document about Chuk-sando(丑山島), which was located 10-ri from 寧海. The island is not present today any more because it is now adjoined the land and is called as 丑山里/面
    today.

    He suggested a possibility that the two islands in ther east sea in old documents may have been Ulleungdo and Chuk-sando (丑山島).

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  5. GTOMR さん,


    ひょっとすると、当時の朝鮮の認識は、東海沖の二島は、このChuk-san-do丑山島と鬱陵島、もしくは于山島と鬱陵島を混同している事は考えられないでしょうか?


    そのような可能性があるかどうかはともかくとして、私はこの臥遊錄の于山島はあくまで観念的存在であって実際に存在する特定の島を表しているとはっきりと断定できるものではないと考えます。
    あいまいな事柄に対して十分な根拠もなく断定的な主張をしてしまうとかえって信憑性が薄くなってしまうんですよ。
    十分な根拠があるかどうかは調べてみないとわからないわけですからいろんな可能性を追求していくことはよいことだと思います。

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  6.  薮太郎様
     お返事有難うございます。 
    >あいまいな事柄に対して十分な根拠もなく断定的な主張をしてしまうとかえって信憑性が薄くなってしまうんですよ。

     この事は小生は充分自覚している所存でございます。臥遊錄に寧海が出てきた上、臥遊錄の文章をよく考察されている薮太郎様なら何か知っているとの期待からこちらに投稿しましたが、小生が”臥遊錄中の于山島”についてそれが丑山島の可能性を断定しているのではない事をご理解い頂ければと思います。確かに小生の文章を読んでいると誤解を生じさせかねない書き方をしております。”当時”と書いてしまっている為。私が述べたかったのは、地図上の于山島の位置が主に北東に移る前の当時を意識していたのですが、改めて読み直してみると、私の書き方が少し雑だったと思います。

     朝鮮人は1711年以降は、主に北東に竹嶼が書かる様になりますが、それ以前の地図に西や南西に書いたのは何か意味があるように思えるのです。どこからか、地図書きが何か西や南西に島を書くような情報元や理由が有るように思えて仕方がないのです。たまたま私は欧州製作の中国図、朝鮮図を整理、分析している折に鬱陵島(Fanglingtao)の南西に有るTchaing chang taoが鬱陵島の内側にあるのを見て以前朝鮮側の江原道図及び慶江原道の地図を追っていたときにでてきた丑山島の件を思い出しました。薮太郎様の仰るとおり確実な証拠を掴めれば何か新たな新発見に繋がると思うのですが、私の力ではそれが出来ないと自覚している為、薮太郎様を初め諸兄の知恵を拝借したいと思いまして投稿してみました。私は竹島問題に関しては地図、地理を中心に物事を考えている為、恐らくは全般的に詳しい薮太郎様を初めこちらに参加されている諸兄なら、何かのついでに思い当たる節がでてくるのでは、と期待しております。なにか有りましたら、その都度皆様ご教授いただけたら幸いです。
     皆様よいお年を。

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  7. ヤフー掲示板から転載します。



    Web竹島問題研究所に朝鮮日報の朴世堂の「欝陵島」の記事についての下条正男氏の見解が載っています。

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-2/takeshima04-h.html

    下条氏は「天將曉發船以來日纔已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。

    私は
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/wayurok-ulleungdo.html#comment-c5688470978957831432
    で「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。

    これは朴世堂が朝鮮半島と欝陵島との間の距離を実際よりもかなり近い距離にあると認識していた可能性を示唆しているのではないかと私は考えます。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16058

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  8. GTOMRさん

    経緯を知っている者として、貴方が丑山島の件を断定的な主張をしているのではなく、むしろ慎重に資料を集めようとしていることはよく分かりますので、そんなに気を使わなくても大丈夫ですよ。yabutarouさんも見解を述べるほど当該事項に関して御存じなかっただけなのかも知れませんし。

    勿論、偶然の一致である可能性は高く、断定的に述べるべきではないと言う意見には同意しますが、それを念頭において、あらゆる角度で検討して行くことはむしろ重要だと思います。そもそも研究とはそういうもので、ちょっとした疑問や"気付き"、そして何より面白いと思うことが思わぬ発見につながることも多いと思います。私としては個人的な意見としての、また、ユニークな見解としてのこうしたご意見を拝聴したいな、と思っています。(専門家がご覧になっている可能性もありますし。)それに、今回のことは一笑に付すほどの荒唐無稽な話では決してないと思います。少なくとも、それを否定するに十分な証拠が出るまでは、あくまでも仮説として色々調べることには何の障害もないです。

    そもそもFlying Usandoが朝鮮古地図において何故西や東、そして北だけでなく南や南西にまで描かれたのか、もっと合理的な説明があってもよいかと思っています。Gerryの石島説も最初は単なる面白い意見だと持って聞いていたのですが、古地図との整合性が見出されるにつれて、信憑性が高まってきましたよね。ですから、GTOMRさんもご自分が面白いと思われることを追求して行く事をお勧めします。そして願わくば気にせずにこちらでご意見を書きこんでおいていただければ、あとで新たな資料が出てきたときなどに皆で改めて検討出来ると思います。(すぐに反応出来ないのは心苦しいのですが...一応読んでいます。)ここでは嘘は禁止ですが、間違いは許容されるのです。所詮我々は素人なのですから、誤りを指摘されれば、修正すればよいのです(←ここ重要)。証拠不十分で断定する、誤りを修正せずにあちらこちらで垂れ流すなどといった○○面に陥ることは避けたいですけれど、ね。

    それより、数日前にエンコリで投稿されていたNAVERの観音島の地形図と小于島の形状の比較、あれは素晴らしいですね。びっくりしました。yabutarouさんのサイトの地図でも大体は分かりますが、この図と比べるとより明確に相似性が証明できます。是非こちらで紹介して下さい。(新たに投稿しましょうか?)偶然の一致にしては細部まで似すぎているので、同じ島であると断定してもよいと思われます。本来、韓国の方は17世紀末(推定)にこのように正確な地図を残した先祖を誇りに思うべきなのでしょうが、于山島を独島だといいつのるばっかりにそれを許されない、この矛盾した現実に正直滑稽さと憐れみさえ覚えてしまいます。

    Yabutarouさん

    下條先生のご見解の紹介ととヤフーの投稿の転載、ありがとうございます。時間が取れ次第、yabutarouさんの解釈を含めて下條先生の反論も英文で紹介したいと思っています。(年明け以降になりそうですけれど。)

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  9. There are another record about Ulluengdo on 『臥遊錄』 which referenced from 李山海's 『鵝溪遺稿』「蔚陵島説」
    cf:李山海 1539-1609c.a.

    1629-1703.『臥遊録』「蔚陵島説」
    鵝溪蔚陵島在東海之中 距海濱不知其幾百里也 每秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗 則自嶺東望之 如一后蒼烟撗抹 於水天之間 獨眞珠府與此島

    最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也 箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者 亦翩翩渡海 

    而來及 至海濱垂趐 自墮爲光童所捕者數矣漁人舟子或凜 到島傍見萊根蔬葉隨水出來 而四面皆蒼岩鐵壁 只有一洞門 可捫蘿而入慮有防守者 

    彷徨躅躑不敢近而回棹者有之居是島者未知爲何許人或疑其避役逃罪之輩自相婚嫁漸至繁盛或疑其獠蠻之種據有是島非自近始或疑其果有之

    則豈無一番舟楫之往來豈無一物可交貨有無於他境乎疑者不一無所歸宿終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕豈退之所謂桃源之說誠荒唐者歟噫 

    仙神之說尙矣所謂蓬萊方丈瀛洲未知 果眞有而崑崙玄圃見之者抑誰歟如使神仙不有則已有之則是島也妥知蓬萊崑崙之一而異人仙客之所在耶

    一幅布帆便風高掛則不過一晝夜之頃可以致身其間而世之羣疑衆惑從此可破旣不得此則令人徒費引領東望而空入於夢想吟咏之中悲夫

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  10. Im not sure where I shuold post this topic...


    ・望洋亭記 鵝溪 李山海 http://blog.naver.com/zxcvbnm7997?Redirect=Log&logNo=10045358329
    余自少時。喜爲文辭。以爲文可學而能也。求古人之書而讀之。記於心而誦於口。久之。試書之。文雖成而陋不足觀。旣而思之。文者。以氣爲主。氣之不充而能爲文者未之有也。昔太史公周覽四海名山大川。得於氣而發於言。故其文疏宕奇健。變化無窮。余則生乎偏方。而亦不能盡國中之奇觀。無怪乎文之鹵莽如是也。及謫嶺東。過洛山而觀日出。過臨瀛而望鏡浦寒松之勝。過召公臺而望蔚陵之縹緲。中心已自喜幸。而及登望洋亭。見天容海色之蒼然淵然。而其大無外。其闊無涯。其深無極。然後始有以盡平生之壯觀。而浩浩乎匈中。若與曩時異矣。百川滔滔。日夜不止。則知氣之必養其本原。而爲文不可不混厚深遠。三光繞天。出沒無停。則知氣之不使有間斷。而爲文不可不純實猛健。蛟龍鯨鯢。噴薄紛挐。則知氣之務要雄勇。而爲文不可不動盪發越。蜃樓鰲嶼。隱現明滅。則知氣之務要沈着。而爲文不可不奇古幽眇。風濤怒號。振撼坤軸。銀山玉峯。素車白馬。橫馳逆走於雪花氷雹之中。則知氣之務要凌厲。而爲文不可不巉截峻拔。風恬波靜。鏡面如拭。上有一天。下有一水。而水天相涵於空明有無之中。則知氣之務要凝定。而爲文不可不溥博淵泓。凡天地之間。萬物之變。可驚可愕。可喜可娛。使人憂。使人悲者。無不收攬於是亭之上而助吾之氣。則其發於文者。衆體百態。無不兼備。而其視前日之記誦剽竊者。果何如也。噫。以眇然之身。登亭而俯仰。則不啻如糠粃蜉蝣之微。而天之蒼蒼。地之茫茫。海之浩浩。物之林林。百怪千變。無不驅入於方寸之中。而爲己之用。則其亦壯矣。一壺村釀。自酌自飮。蒼顔白髮。兀然頹於其中。則天地一衾枕也。滄海一溝瀆也。古今一須臾也。是非也得喪也榮辱也欣戚也。無不消融蕩滌。而與造物者相揖於混沌鴻濛之域。其亦快矣。其壯也如是。其快也如是。則氣焉有未充。又焉有餒之者乎。然後把筆伸紙。試書吾胸中之所有。則其必有擊節而嘆賞者矣。余之有得於是亭者。不其韙歟。亭在郡北三十里濱海斷岸之上。故太守蔡候所建云。月日。記。

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  11. GTOMR

    Thank you for an interesting passage. Is it the original "鵝溪" by 李山海? From those materials, it is obvious that Pak's 『臥遊録』「蔚陵島説」is talking about the visibility from peninsula, not from Ulleungdo.

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