竹島問題の歴史

6.12.07

1923年 島根県誌


以下の記述は島根県誌(1923年6月)に掲載された竹島(リアンクール岩、リャンコ島)についての興味深い読み物で、簡単な竹島の歴史が述べられています。
この文章には中井養三郎が明治政府にリャンコ島を日本に編入して欲しいとの請願を行った前後のいきさつが書かれていて、その点で貴重な資料です。

韓国の学者たちは日本軍が韓国併合の第一歩としてリアンクール岩(竹島・独島)を編入したのだと最近言い始めていますが、この文書を読むと編入の影にそのような邪悪な計画はなかったということが分かります。無主の島であり、無人島であった竹島(リアンクール岩)は、日本の実業家がこの岩島の利用法を思い立ち、その島を安全に開発したいと願ったために編入されたのです。


以下、口語訳です。

(原文をお読みになりたい方は写真をクリックしてご覧ください。)





第5章 竹島

隠岐の西北約85海里(155.1km)、石見の国の浜田から150海里(277.8km)、朝鮮の欝陵島から東南50海里(92.6km)のところにある。朝鮮では独島と書く。日本海にある小島で、朝鮮の欝陵島と共に日本海を東西に横断する海底山脈の上に位置し、その周囲の海は極めて深い。東西2つの主島とその周囲に並ぶ数個の小島とから成り、2つの島のうち一島は周囲15町(1635m)、高さ380尺(115.14m)でもう一つの島は周囲10町(1090m)、高さ226尺(68.478m)である。2つの島を合わせて周囲は約1里(4km)である。一本の狭い海峡(長さ180間=354.6m、巾5~60間=98.5~118.2m、水深5尋=7.6m)をはさんで2つの島が相対峙している。主島の周囲は奇観を呈する洞窟に富み、アザラシやアシカのすみかとなっている。島全体がほとんど不毛の禿岩の状態で、海風の為に樹木一本もなく、南面にだけわずかに雑草が生えているだけである。周囲全体が断崖のため登ることができない。海峡の両側に狭い平地の小石の浜が2~3箇所あるが、いずれも波を避けられない。そのため、船が停泊する場所がなく、さらに、航海する船の目標物として便利でありながら島には飲料水がない。周囲の小島もいずれも扁平で、上端をわずかに海面上に出しているだけである。

竹島は日本海の航路にあたり、1849年(嘉永2年)にフランス艦船リアンクール号による発見以来リアンクール岩の名前で呼ばれた。本県ではこれをリャンコ岩と俗称した。わが国では徳川時代に欝陵島を竹島、リャンコ岩を松島と呼んでいた。ところが明治時代になって、海軍水路部が編纂した水路誌で誤って欝陵島を松島と呼んでしまったため、元の松島つまりリャンコ岩を竹島と転じて呼ぶことになった。しかしながら、本県の海岸地方では今でも昔の名前のまま、欝陵島を竹島と呼ぶことがむしろ普通であり、このように竹島は同名異島の観を呈し、混乱を起こすもとになることがある。明治36年(1903年)に伯耆の国の中井養三郎がこの島(リャンコ岩)の漁獲を企画し、日章旗を建てた。翌37年(1904年)には各方面から競争して濫獲するようになり、種々の弊害が起きそうであった。この時点では中井はこの島を朝鮮の領土だと考え、上京し農商務省に話をして朝鮮政府に貸下げの請願をしようとした。偶々海軍水路部もリャンコ岩の所属を確かめようとして日韓両国からの距離を測定したところ、日本の方が10里(40km)近く、また日本人が島の経営を行っていることから、日本領に編入すべきものとした。そこで中井はリャンコ島の領土編入並びに貸下げ願いを内務、外務、農商務の三省に提出、三省は島根県庁の意見も聞き、閣議で領土編入を決定し、名前を竹島と命名し、隠岐島司の所管とした。


島根県告示第40号(明治38年2月22日)
北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐から西北85海里にある島嶼を竹島と呼び、ただ今から本県所属の隠岐島司の所管と定める


明治38年(1905年)の日本海海戦の際にわが国の東郷艦隊がロシア艦アリヨール以下第2艦隊を追撃包囲して捕獲したのはこの島の南方18海里の海上であり、当時の戦報にリアンコート岩(リアンクール岩)の名前がしばしば報じられた為、この島は広く日本人に知られるようになった。
アザラシは毎年4~5月ごろから7月まで多く海上に遊泳し、6月ごろ子育てをするので、出漁者は欝陵島を根拠地として漁を行い、隠岐島西郷町にある中井氏経営による竹島漁猟合資会社が猟獲業を経営した。明治38年6月の創立という。

1 comment:

  1. Good Job ! Pacifist

    Did you wrote all of this? お疲れさまです。

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