下の地図は1736~1767年の間に作成されたと考えられる朝鮮の地図集である「輿地圖」のうち江原道と鬱陵島を描いたものです。江原道の地図は「關東道」という古称で呼ばれています。これらはソウル大学奎章閣韓国学研究院の所蔵です。
この江原道図について興味深いのは、鬱陵島に"鬱陵干山兩島" ("干"山は"于"山の記述ミスだと思われます。)と書かれている事です。この事実は、この二島が隣り合わせにある事を意味していると考えられます。 このように二島が併記されているということは、于山が鬱陵島の単なる隣接島であるためだと思われます。また鬱陵島の文字が先に来ている事から、鬱陵島の方が大きな島であると考えられます。この考えは同じ地図帖(第五冊)の下の鬱陵島図によって追認されます。その図では于山島は鬱陵島の東岸に小さな島として描かれており、その小島には"所謂 干山島"と書かれています。ところで、鬱陵島図の于山島にも江原道図と同じ記述ミス("干"山島)があることがお分かりでしょうか。また、于山島以外に鬱陵島の南岸に5つの小さな島が描かれていることに注意して下さい。これは、韓国の鬱陵島図に共通する特徴です。似たような地図はここで見られます。
世宗実録 地理志(1454)の中で、鬱陵島は蔚珍縣の項でこう記述されています。
于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠 風日淸明則可望見韓国はこの記述を"于山"が"独島"(竹島/Liancourt Rocks)である証拠としており、この文中の距離は独島(竹島/Liancourt Rocks)と鬱陵島の間の距離であると主張しています。("武陵島"は鬱陵島の別名です。)しかし、日本はこの距離は蔚珍縣と鬱陵島と于山島二島の距離を意味している、と主張しています。下の二つの地図はこの二島を隣接島として描いており、日本の主張の正しさを裏うちしています。
ちなみに、上記の世宗実録の記述の中で于山が武稜(鬱陵島)の前に来ていますね。つまり、この文が書かれた時代には于山が鬱陵島より大きな島と考えられていた事を意味しています。このことは、朝鮮の鬱陵島古地図では于山が鬱陵島の東ではなく西に描かれていたことを説明しています。
江原道図と鬱陵島図のどちらも下のように注記が添付されています。江原図には域内の人口や田畑の数などが記載されています。又、鬱陵島図には島の大きさと動植物のリストが記載されています。
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