We have heard that a voyage was made from Yonago (米子) of Hoki Province to Takeshima (Ulleungdo) in a previous year, which has led to a desire to go again. Concerning the application of Murakawa Ichibee and Oya Jinkichi of Yonago, we have spoken to the Shogun (Tokugawa Hidetada), and he listened to the request without seeming to have any objection and has granted their request. Therefore, I humbly convey this to you.Link to the Japanese Version
May 16 (1618)
Nagai Sinanonokami Naomasa
Inoue Kazuenokami Masatsugu
Doi Ohinokami Toshikatsu
Sakai Utanokami Tadayo
To Matsudaira Shintaro (Feudal lord of Tottori domain)
A study of the territorial dispute between Japan and Korea over Liancourt Rocks, a small cluster of barren, rocky islets in the Sea of Japan that Japanese call Takeshima and Koreans call Dokdo.
2.6.07
1618 - Permission Given to the Oya and Murakawa Families
The following is a translation of a 1618 document sent to the feudal lord of Tottori Domain, giving the Oya and Murakawa families of the castle town of Yonago permission to make voyages to Takeshima (Ulleungdo). The permission was written by ministers of the Shogunate.
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Pacifist,
ReplyDeleteThank you for the translation. I have made a few minor edits to the translation and would like to ask a couple of questions.
First, I changed "Tottori county" to "Tottori domain" which is how it was translated in the Shimane Prefecture brochure.
Also, was Matsudaira Shintaro the feudal lord of "Tottori domain" or of "Houki domain"? Wasn't Houki the old name Tottori prefecture, or at least the western part of the prefecture? If Houki was the old name for Tottori prefecture, then maybe we can write Houki with Tottori in parentheses, such as the following:
Houki (Tottori) domain
Also, does the Chinese character 殿 at the end of 松平新太郎殿 mean "feudal lord"?
Finally, is there no original document or is this just what was reported in the 島取藩史? If it was just reported in the 島取藩史, then do you know the date of the 島取藩史? And how would you translate 島取藩史? What does 藩 mean in Japanese?
Anyway, you must have read my mind because I was wanting a translation of that paragraph.
Thanks
Pacifist,
ReplyDeleteBy the way, when you make a post, there is a button with a quotation mark (") on it on the menu bar. If you have a quote in your post, you can highlight the quote and then press that button to show it as a quote in the post. It will show the quote as indented text, which helps separate it from the part of the post that is not a quote. I think it looks better than drawing lines to separate the explanation from the quote.
Sorry. I had one more question.
ReplyDeleteConcerning the part of your translation that is in parentheses, it is possible that the sentence might read as follows?
"As I have explained to you, concerning the application by Ichibee Murakawa and Jinkichi Oya of Yonago to travel to Takeshima (Ulleungdo), as they had done in a previous year, there is no objection and you make grant the request."
Gerry,
ReplyDeleteThanks, I will use the quotation mark next time.
BTW, 殿 (dono) or 様 (sama) is used when you write to somebody and it means "Mr", Just like ゲリー殿 (Mr. Gerry).
藩 (han) is a feudal clan, a county, or a feudal domain. It was a kind of country in those days.
Tottori han(鳥取藩) was a large han including Inaba (Inab no kuni or Inshu) and Houki (Houki no kuni or Hakushu).
The permission was from the Oya family's documents I think, although the same permission can be read in the 鳥取藩史 (history of Tottori han).
Gerry,
ReplyDeleteAs for the last question, yes I think that is not wrong, I just translated as the original orders of sentences untouched as possible, but you may correct it to make it natural English.
Gerry,
ReplyDeleteCorrection: the report was from one of the documents Shimane prefecture reported to Meiji government when the government asked details of "Takeshima and another one island" in 9th year of Meiji (1876).
Thanks Pacifist.
ReplyDeleteDo you have a link to Meiji document?
pacifist,
ReplyDeleteGood job!
I am going to add those document to the J-document section and link to your post.
Gerry,
ReplyDeleteI found this document at 半月城's site (pro-Korean site), I will post some other documents found at the site later (after translating them).
Also I found an interesting Meiji document at アジア歴史資料センター.
http://www.jacar.go.jp/
It is a document in 1881 when Japan was asked by Korea to call back the Japanese in Ulleungdo. The document included a topic that the warship Amagi saw matsushima and measured the location of Matsushima. It located N 37 degree 48 min, E 130 degree 32 min. Is this Liancourt rocks?
Pacifist,
ReplyDeleteThat Amagi document sounds interesting, but wasn't it the Amagi that determined that "Matsushima" was actually Ulleungdo? Did they mention a different set of coordinates for Ulleungdo?
No, those coordinates do not sound like Liancourt Rocks. In fact, the 130.32 degree east longitude coordinate is very close the 130.35 degree longitude Korea's 1899 Daehanjiji said was Korea's eastern most boundary.
I look forwary to seeing your translation of that document.
Gerry,
ReplyDeleteYou are right.
The document says that the first measurement I wrote above took place in 1878. It also says that Amagi re-visited the island called Matsushima in 1880 and found it was Ulleungdo and that there is another island called "Takeshima" but they got to know that it was only a small islet.
Sorry Gerry, it was about the "Takeshima and another island" but this small islet may be almost certainly Jukdo, not Liancourt rocks.
はじめて投稿させていただきます。
ReplyDelete「竹島渡海免許」を「異国への渡海免許」などと妙な拡大解釈をして江戸幕府が竹島(鬱陵島)を朝鮮領と認識していた証拠であるなどという論を広めて回っている人や団体がありますが、そのような考えは成り立たないと思います。
江戸幕府は外国との窓口を支那およびオランダを担当する長崎奉行のほか、琉球は薩摩藩、蝦夷は松前藩、そして朝鮮は対馬藩に任せていました。この老中連署による奉書の宛先が鳥取藩主である松平新太郎宛てになっていることからするなら、竹島を朝鮮領と考えていなかった証拠と言えるのではないでしょうか。朝鮮領と認識していたなら対馬藩に任せたはずです。
渡海免許を朱印船貿易の朱印状のごときものと解するから「異国への渡海免許」などという我田引水的な解釈をするのであって、写しが1通しか見つかっていないことをもって異例なものとして、いかにもいかがわしい対応を取った如く言っていますけど、竹島の開発事業許可書と考えるなら写しが1通しか見つかっていないから異例とは言えないのではないかと思います。新田開発とか金山開発・銀山開発などを許可する印判状はいくらも出されています。この「竹島渡海免許」もそういう類いのものだったと思うのですがどんなもんでしょ?
Makoto様
ReplyDelete仰るとおりだと思います。
しかしながら、日本での「常識」を韓国の洗脳教育で染まった方たちに伝え、理解してもらうのは至難の業です。少しずつ事実を積み上げて説得していくことしかないと思っています。
Makoto様
ReplyDeleteコメントありがとうございます。
内藤正中氏らは渡海免許を朱印状であったかのごとく歪曲して解釈するだけにとどまらず、そもそも朱印状そのものの解釈も間違っているようです。朱印状自体が”異国”との”貿易許可書”だけではなかった、という基本的事実をご存じないのではないしょうか。
学研のサイトより
*しゅいんじょう【朱印状】
戦国(せんごく)時代から江戸(えど)時代初期(しょき)にかけて,将軍(しょうぐん)や大名が朱肉(しゅにく)の印(いん)をおして使用した公文書。軍事命令(ぐんじめいれい)や領地(りょうち)の授与(じゅよ),法令(ほうれい)の発布(はっぷ),外交文書などに用いられた。◇朱印(しゅいん)は花押(かおう)の代用として使われはじめ,黒印(こくいん)よりは重いものとされた。江戸(えど)時代には将軍(しょうぐん)だけが朱印(しゅいん)をおすことができた。
仰るとおり、朝鮮の地と考えていたなら対馬藩を通さない渡海・交易はありえませんし、少なくとも竹島一件以前において鬱陵島と竹島(当時の竹島と松島)が日本の領土ではないと考えていたことだけはありえないと思っています。色々検討した結果、今では私は次のように考えています。斉藤豊仙は隠岐の所属だと思っており、鳥取藩は自国(=伯耆、因幡)ではないが幕府が直接管轄する日本領、大谷村川両家は自分たちが拝領した朱印地・黒印地のようなもの、とそれぞれ解釈していたのではないかと。最近、石見銀山を訪れる機会があったのですが、天領跡地を実際に見ると、その思いを新たにしました。
pacifist さんへ
ReplyDelete確かに至難だと思います。私には中立公平な記述がされていると読める下條正男著『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書)を「史実を平然とねじ曲げたり、韓国人を侮蔑する箇所があって感心しなかった。」(http://www.toyo-keizai.co.jp/news/essay/2007/post_672.php)と評してしまうような人々を相手にしなければならないのですから。
彼国の「独島」は科学としての歴史の問題でなく、宗教の問題になってしまっているのではないかと思います。彼らにとっては事実なんかどうでもいいんですよ。「独島は韓国領土」「独島は日帝による侵略の最初の犠牲の地」として反日のシンボルとしておきたいのでしょう。いわば「独島教」ですね。自分たちのアイデンティティーを反日に置かずにいられないという彼らの精神構造は、私のような凡人には理解しかねます。
説得すべきは韓国人ではなく、日本の政財官界をはじめとする各界の指導層であり、世界の指導的立場にある人々だと思います。こちらの方はこのサイトで進めているような歴史地理学的な研究成果を受け入れてくれるでしょうから。そして韓国の主張はおかしいと世界中の人に指摘されないと彼らは納得できないんじゃないかと思うのです。(それでも日本のロビーにより阻まれたなんて言い出しかねませんけどね。そんなこと言い出せば韓国が世界の笑い者になるだけです。)
その意味で私は昨年11月、韓国『中央日報』は「『国際機構に諮問し資料を検討、独島が適切と判断』…仏教科書出版社」と伝えた件を注目しています。 http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=107261&servcode=A00§code=A00
竹島の帰属は「日本国との平和条約」(いわゆる「サンフランシスコ平和条約」)によって日本に帰属と確定しています。これを覆すには日韓の間で新たな条約が締結されるなどの手続きなしにはなしえません。このフランスの教科書出版社がどのような根拠から竹島を独島へと書き改めることとしたのか、詳細が分かると良いのですが……。「国際機構に諮問し資料を検討」ってどこの機関なんだろ。領土紛争の資料検討なら国際司法裁判所でしょうに。
Kaneganeseさんへ
ReplyDelete朝鮮の領有したことのない島を領有していたことにしようとするから無理が出るんですよ。昔ならこんなマイナーなテーマに興味を持つのはごく限られた人でしたが、今はネットのおかげで私のような凡人でもいろいろ知ることができるようになりました。専門家といわれる人の中にも相当怪しい人がいることがバレてしまっていますね。もっと叩いてさしあげましょう。いいかげんな事を言っている似非専門家を駆逐するにはそれが一番かと思います。
さて「斉藤豊仙は隠岐の所属だと思っており、鳥取藩は自国(=伯耆、因幡)ではないが幕府が直接管轄する日本領、大谷村川両家は自分たちが拝領した朱印地・黒印地のようなもの、とそれぞれ解釈していたのではないかと。」とのKaneganeseさんの考えは理解しましたが、コメントは差し控えさせてください。『隠州視聴合記』の解釈などがポイントとなる話かと思いますが、勉強不足でコメントし得る域に達していませぬゆえ。「国代記」の「然則日本之乾地、以此州為限矣」をどう読むかですよね。「隠州」のこととも読めますし、「竹島及び松島」のこととも読めます。(「隠州なわけないでしょ。悩むことないよ」と言われてしまいそうですが、ちょっと引っかかるんですよ。竹島及び松島のことだとしたら「以此島為限矣」で良いはず。それをしなかったのはなぜか。半月城こと朴炳渉さんは「州はシマとは読まない」と言っていますが、州の字義から言うとシマと読むんですよね。字義を調べるなら国語辞典である広辞苑より漢和辞典の方が適切なはずですが、漢和辞典にはしっかりシマと読めると書かれているので彼は広辞苑で逃げていますね。州は中洲のことなのです。転じて国、行政区画を意味するようになったと。ちょっと待てよ、州は島々という意味合いで使うことってあるのかな。二島の言い換えとして島でなく州を用いたならわからなくもない。)ということで、暫し猶予をくださいませ。
Makotoさん
ReplyDelete日本の歴史学者(梶原秀樹)や経済学者(堀和生・内藤正中)で竹島に関する著書のある人物は、”いいかげん”どころか、全くの嘘を垂れ流しており、恐怖感すら覚えます。日本人一人一人が”所謂専門家”の言うことを鵜呑みにせずに、一次資料を基に彼らの言い分を検証すると、その恣意性が一目瞭然なのですが。ですから、Makotoさんのように資料を読んで判断しよう、という態度が一番望ましいものだと思います。このブログに関しても、間違等発見されましたら、是非お知らせ下さい。異論も大歓迎です。
領有権の問題に関しては、以下の二点において、既に日本の主張が正しいことが明確だと私は思います。あとは仰るとおり、国内外に向けて広報していくことが重要な課題になってくると思っています。
①1905年の日本による領土編入以前に朝鮮・韓国が竹島を領有していたという具体的証拠がただの一つも無いこと
②日本人がアシカ猟をしたり、日本海海戦に絡んで海軍が望楼を建設したり実効支配していたのに、1906(明治三九)年3月27日に島根県の役人が視察の際に鬱陵島に立ち寄って編入の旨を伝えるまで、韓国は全くその事実に気がつきもせず、知った後も抗議どころか統監府への事実照会さえしなかったこと。(彼らの言い訳のように外交権が事実上奪われていましたが、実際は同時期に統監府に抗議して"日本人による韓国の領土収奪を阻止”していた事実がありますので、抗議しなかったのではなく、大韓帝国政府の内部調査の結果日本人の言う新竹島がかれらの竹島とは違い、独島なるものは朝鮮の領域ではないことに中央政府が気がついたのだと推測されます。)
so... is Ulleungdo japanese land?
ReplyDeletewhat do you want to say? Gerry..
you are squeezing out so hard.. from nothing..
this is just permission.. even if it matters.. it's ulleungdo, not dokdo