竹島問題の歴史

21.6.07

1836年 - 会津屋八右衛門による竹嶋一件と「竹嶋渡海一件記 全」

元禄時代の日朝間の鬱陵島をめぐる領土争いである竹嶋一件と区別して、「竹島事件」とも称されるこの出来事は、石見国濱田の地を舞台にして天保年間に起こった事件です。(写真は、昭和10年(1935)12月23日に浜田市松原自治協会によって建てられた、内閣総理大臣海軍大将岡田啓介の書による「会津屋八右衛門氏頌徳碑」。島根県サイトより)
濱田藩の御用船係を務めていた廻船問屋会津屋八右衛門(1798~1836)は、慢性的な藩の財政難を見かね、鎖国の掟を破り、竹嶋と呼ばれた現在の鬱陵島へ渡航し、漁業伐木だけでなく、異国船との交易も進めました(一説には中国・東南アジアまで行ったとされる)。家老岡田頼母、その家臣橋本三兵衛はこれを黙認。天保元年(1830)から数年で何十万両もの利益を上げ、それによって浜田藩は窮乏から脱したといわれます。6年余りを経たのち、薩摩藩の密貿易を内偵中であった幕府隠密、間宮林蔵に内情が知られ、天保7年(1836)、八右衛門と橋本三兵衛は処刑され、岡田頼母等は自刀しました。幕府に対しては反逆者ですが、地元にとっては藩の窮乏を救った海の男として讃えられています。
このいわゆる竹島事件は、竹島領有問題において大変重要です。八右衛門等の松嶋(現竹島)へ渡海する名目で竹嶋(現鬱陵島)へ渡海することにした、という供述から、幕府が当時の竹嶋(現鬱陵島)への渡海は禁止したものの、当時の松嶋(現竹島)への渡海は禁じていなかったことが分かるからです。韓国の研究者の中に、この事件をもって日本が鬱陵島と現竹島を放棄したと主張する人がいますが、これらの事実から、この竹島事件はむしろ彼らの主張を退ける証拠となるのです。
一連の取調べの内容を記述した文書が多く残されており、その中で八右衛門と橋本三兵衛が松嶋(現竹島)に渡海する名目で竹嶋(現鬱陵島)に行くことにした経緯をそれぞれ証言しています。つまり、当時の日本人は竹嶋(現鬱陵島)に関してはともかく、松嶋(現竹島)は日本の領内であると認識していた事を示しています。ここに、そのひとつである八右衛門の供述書「竹嶋渡海一件記 全」の一部を紹介します。 原本画像と英語訳はこちら

「竹嶋渡海一件記 全」東京大学附属図書館所蔵 より
(略)
内存書取調文面之儀者兼而到悲讒候次第ニ而者竹嶋之外ニ松嶋ト唱石見国海岸ママ子之方ニ當リ海上七八拾里斗相隔候小嶋有之右松竹両嶋とも全空嶋ト相見其侭被差置候も残念之至ニ付草木伐出漁業をもいたし候ハハ自己之徳用而己ニ無之莫太之御国益ニも可有之ト見込右ニ付周防守様へ冥加銀差出方之儀者稼試候上歩合取極可申旨両嶋渡海儀内願仕候事の良自筆下を以相認同八月日不覚
(略)
同月十八日江戸詰荻右衛門方ママ私へ向書状至来文面之趣意者竹嶋之儀日出之地共難差極候付渡海目論見相止可申来候付其節始而右之次第承案外之至ニ而志願空敷相成残念ニ存即日三兵衛方へ右来状持参いたし頼母勘弁之儀相頼置其後様子尋ニ罷越候処右様江戸表ママ申来候上者竹嶋之方相止松嶋之方渡海いたし試可申分被仰聞候趣三兵衛申聞候付松嶋之儀者小嶋ニ而見込無候得共江戸表ヘハ右嶋の名目残
(略)

(「八右衛門とその時代」森須和男氏による口語訳)
住所不定八右衛門(39歳)による供述
(略)
天保2年(1831)8月某日、村井荻右衛門様へ内存書を持参した。内存書には、「竹嶋のほかに石見国海岸より北のほうに当たる海上7,80里ばかり隔てたところに松嶋(現在の竹島)と唱える小島があり、この松嶋竹嶋両島とも全くの空島と思われるので、そのまま置いておく事は残念でならない。草木を刈り出し、漁業もすれば私の徳用(利益)のみならず、莫大な国益となると見込まれます。周防守様への冥加銀を差出す額は試に渡海してみて歩合を取り極めることとし、両島への渡海願いを内諾していただくように」としたためた。
(略)
岡田様のお許しを頂いて渡海出来るように橋本三兵衛に頼んでおいたところ、正月18日、江戸詰村井荻右衛門様より私宛に書状が送られてきた。竹嶋は日出之地(日本)であると極めがたいので、渡海計画はやめるように、とのことであった。予想に反した返事なので、残念でならず、橋本三兵衛方にこの書状を持参して、再度岡田様にお許しをいただけるよう頼んでおいた。しばらくして、橋本三兵衛に様子を尋ねにいったところ、江戸表よりの伝言は、竹嶋はやめて松嶋へ渡海を試してみてはどうだろうか…というものだった。松嶋は小島で見込みがないので、江戸表には松嶋へと名目を残しておき、竹嶋へ渡海を試してみてはどうか。
(略)

事件の経済的背景
濱田藩55,400石の財政は、藩主松平康任による老中首座になるための浪費などにより、困窮を極めており、その金策に困っていた家老岡田頼母は年寄松井図書、勘定方橋本三兵衛とともに、幕府による鎖国に反する可能性はあるけれど利益の大きい抜け荷交易(密貿易)を黙認しました。

事件の政治的背景
当時の濱田藩主松平周防守康任(まつだいらすおうのかみやすとう)は、文化9年(1812)奏者番となり、文政9年(1826)に老中職、そして天保5年(1834)には老中首座という政界のトップにまで上り詰めます。当時、康任と頭角を現し始めた水野越前守忠邦らと、主導権を争っていたのは大久保加賀守忠眞(おおくぼかがのかみただざね)でした。しかし、天保7年(1936)忠眞により、康任はその姻戚である仙石左京の起こした但馬出石藩のお家騒動「仙石一件」に連座させられて老中を辞職、代わって藩主となった康爵(やすたか)も陸奥国棚倉へ転封させられます。八右衛門らの起こした竹嶋事件についても責任を問われ、康任は永蟄居のまま天保12年(1841)江戸で亡くなります。その後、病死した忠眞、松平和泉守乗寛(まつだいらいずみのかみのりひら)に代わり、天保10年に水野忠邦は老中首座となり、天保の改革で知られる一時代を切り開くことになります。

3 comments:

  1. Is the monument in the picture a monument to Aizuya Yaemon?

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  2. Gerry,

    Yes, the monument in the picture is a monument for Yaemon. It was founded by the local people in 1935 almost 100 years after he was executed. The epitaph on the monument was written by Okada Keisuke(岡田啓介), the Admiral and the prime Minister of Japan to commemorate Yaemon, according to Shimane Prefecture HP.
    http://www.pref.shimane.lg.jp/gyokogyojo/zaisan/05hatiemon.html
    "写真は、昭和10年(1935)12月23日に浜田市松原自治協会によって建てられた、内閣総理大臣海軍大将岡田啓介の書による「会津屋八右衛門氏頌徳碑」。"

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  3. 素朴な疑問ですが、「竹嶋は日出之地(日本)であると極めがたいので」あれば、当時の竹嶋(欝陵島)を日本とする可能性を完全に否定した言い方ではないですよね。
    ご紹介の文献を見る限りに於いてはですが、竹嶋(欝陵島)が日本かどうか明確ではないので、松嶋への渡海を奨められたと読めるので、筆者の方が書かれた「幕府が当時の竹嶋(現鬱陵島)への渡海は禁止したものの、当時の松嶋(現竹島)への渡海は禁じていなかった」こととは、ちょっと違うような気がします。

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