竹島問題の歴史

3.6.07

1876年島根県の報告「渡海禁制のいきさつ」

以下は1876年に島根県が明治政府に提出した「竹島渡航禁制のいきさつ」の書類です。文中の「アヒチャン トラエイ」は安龍福と他一名のことです。 最後の方の「幕府二議シテ日本管内タルヘキノ証書上ラハ」(幕府に議して日本管内たるべき証書上らば)というのは解釈が難しいところです。 「もし将来幕府の会議で日本の管内だとする書付が出てくれば、日本領であるので朝鮮には漁業権のみ与える」(つまり現時点でそのような証拠がないので朝鮮領ということになる)という意味なのか、「幕府の会議で日本の管内だとする書付が出てきたので、朝鮮には漁業権のみ与える」(つまり日本領だが漁業権のみ与える)という意味なのか、古文読解力のある方に是非ご意見をいただきたいところです。 また、幕府が竹島(欝陵島)を日本領内と考えていたことも示されており、幕府が大谷、村川両家に船の旗を贈ったり、謁見した際に葵のご紋入りの衣類を何度か与えたことも書かれていて史実と一致します。

 當時 米子同町ニ村川市兵衛ナル者アリ大屋氏ト同シク安部氏ノ懇親ヲ得ルカ故ニ両家ニ命セラル 然レトモ本島ノ發見ハ大屋氏ニ係ル 此ヨリ毎歳間断ナク渡海漁猟セリ 幕府遠陬ノ地 本邦版圖内ニ入ルヲ称シ船旗等ヲ與エ 殊ニ登営謁見セシメ 屡 葵章ノ服ヲ給ス 後甚吉島中ニ没ス [墳墓今尚 存スト云フ]

 元禄七年甲戌ニ至リ朝鮮人上陸スル者若干ナリソノ情測ル可カラス 且 船中人數ノ寡少ナルヲ以テ歸リ是ヲ訴フ

明年幕命ヲ得 武器ヲ載セテ到レハ其人恐レテ遁レ去ル 残ル者ニ二人 [アヒチヤン トラヱイ]アリ 即チ捕縛シテ歸ル 命アリ江戸ニ致シ本土ニ送還ス

 同年 彼國ヨリ竹島ハ朝鮮ニ接近ナルヲ以テ頻リニ其地ニ属センコトヲ請フ 幕府ニ議シテ日本管内タルヘキノ證書上ラハ 以後 朝鮮ニ漁猟ノ権ヲ與フ可キノ命アリ 彼國此ヲ奉ズ 此ニ因テ同九年丙子正月渡海ヲ禁制セラル

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