韓国側は、1905年1月28日の編入時に、官報ではなく島根県によって告示がなされた事、同年11月17日に締結された第二次日韓協約 によって外交権が事実上奪われた事などを理由に、竹島の島根県編入を知った後も日本へ抗議をしなかったのではなく「出来なかった」と主張しています。しかし、本文書によって、大韓帝国政府が韓国の領土の竹辺を日本人が勝手に売買した事を知った後、統監府へ照会を行い、"日帝は、露日戦争終結直後、江原道蔚珍郡竹辺浦に設置した望樓を撤去する際、望樓長と日本商人が結託して望樓土地を侵奪しようと試み、 6ヶ月間にわたる紛争と交渉があったが、韓国議政府の努力によって阻止された。(愼鏞廈(1997) (cache) )"実例が明らかになりました。
日帝は、露日戦争終決直後、江原道蔚珍郡・竹辺浦に設置した望樓を撤去する際、望樓長と日本商人が結託して望樓土地を侵奪しようと試み 6ヶ月間にわたる紛争と交渉があったが、韓国議政府の努力によって阻止された例もあった。(愼鏞廈「日帝の 1904~5年 独島侵奪試図とその批判」 )つまり、これらの公文書によって、韓国側の”外交権がなかった為に抗議出来なかった”とする主張には根拠がなく、実際は1906年4月当時の大韓帝国政府は自国領土を日本が”侵奪”しようとする行為に対して抗議する権利を保有・実行、そして成功していたことが分かります。事実、大韓帝国は同年3月になってようやく竹島が正式に日本領になった事を知らされた後も、政府として抗議はおろか、統監府への照会さえも行っていないようです。何故竹辺の件では行った照会さえ竹島ではしなかったのか?
それはつまるところ、「独島」が自国領であるとの鬱島郡守 沈興澤の報告を江原道觀察署理・春川郡守 李明來から受けた大韓帝国政府が調査を命じた後、その誤り、つまり”独島”は鬱陵島の付属島である竹嶼(韓国名竹島)ではなく、実はLiancourt Rocksであり韓国領土外であることが判明したため、統監府に抗議を行わなかったと考えるのが自然でしょう。この辺りの事情をうかがい知ることのできる公文書が存在しないのか、韓国政府が公開しないのか、大韓帝国政府が調査の結果どのような処置を行ったのか推測する以外の手立てはありません。が、同年統監府からの鬱島郡の所属島嶼とその郡庁の設置年を照会された際に、鬱島郡の範囲を「東西60里(24km)、南北40里(16km)、合わせて200余里(80km : 周囲)」(皇城新聞7月13日)と、事実上竹島が鬱島郡の範囲外である事を公式回答していることは、この事を裏付けるものです。また、1900年前後に発行された大韓帝国の地理の教科書等も全て、日本の資料と同じく朝鮮の東限が東経130°35′~58′となっており、東経131°55′にある竹島/Liancourt Rocksはその範囲外と明確に規定されていることも、また同様です。
なお、これら内部来去案は、GTOMRさんが発見・紹介して下さいました。翻訳はmatsuさんのものをたたき台に、chaamieyさんのご意見も取り入れながら、行いました。
內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條 (韓国国史編纂委員会サイト )
울진의 근북면 죽변포 망루를 일본인이 사적으로 매매한 것은 불법이니 금지시킬 것
(文書番号)照會 第三號
(発送日)光武十年二月二十六日(1906年02月26日)
(発送者)內部大臣勳一等 李址鎔
(受信者)議政府參政大臣 朴齊純 閣下
現接 江原道觀察署理春川郡守李明來의 第十六號報告書內開
頃於上月十三日에 接閱蔚珍郡守 尹宇榮 報告書즉 內槪
本郡近北面竹邊浦望樓 留駐之日本海軍이 今爲撤歸이온바
今陰曆十二月二十七日 日本商人 高賀者 來到郡廳曰
竹邊浦所在望樓與地段을 並爲買得於望樓長인즉 自郡으로 認許公文成給이라하온바
郡守가 不可自下擅便故로 玆에 報告等因이하기
高賀者居住姓名과 何月日에 給價幾許買得과 望樓長之姓名居址을
幷即詳探報來하야 以爲轉報케는事로 指飭以送이더니
即接該郡守報告 內開
即到指令를 承準하와 招致高賀 詳問事狀인즉
自己는 日本佐賀縣三養基郡鳥棲洞二百十三番戶 而姓은佐賀오名은亦次오
望樓長은 高橋오 名은淸重이오 居住는日本佐世保海兵團詰兵所오 居址는 不知이온바
上年十月日 駐箚撤歸之時에 給一百八十圓 買得望樓 而址地는 不爲買賣이온니
基址之隨家는意有常例하야 地段幷買之意로 前有所告이다故로 緣由報告等因을
據査하온즉
蔚珍郡竹邊浦望樓은 日本海軍이軍用暫駐타가 已爲撤歸이온바
今此日本商民高賀亦次가 望樓長高橋淸重에게 私相賣買云者가 非徒違越定章이오라
萬不近理이하기
玆以仰佈하오니 査照하신 후 迅辦交涉하시와 即行禁止케하시고 示明하시믈 爲要.
內部大臣勳一等 李址鎔 議政府參政大臣 朴齊純 閣下
光武十年二月二十六日
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること
(文書番号)照会第3号
(発送日)1906年2月26日
(発送者)内部大臣李址鎔
(受信者)議政府參政大臣朴齊純
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日(書き起こし文には陰暦とあるが、新暦では1906年1月21日に当り、この日は日曜日で、しかも1月13日に蔚珍郡守尹宇榮から江原道觀察署理春川郡守李明來へこの件に関して報告がすでになされているので、新暦12月27日の誤りと推測される。)に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可する公文書を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、佐賀亦次という。望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。(もしくは ”以前そう告げていたので、土地も併せて買いたい”の意か。)」ということである。
(李明來もしくは李址鎔の言葉)この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、(李址鎔は)ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ
1906年2月26日
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號. (韓国国史編纂委員会サイト )
울진의 근북면 죽변포 망루 및 부속건물을 일본인에게 매각함을 조회
(文書番号)議政府 照會 第五十六號 內部
(発送日)光武十年四月十七日(1906年04月17日)
(発送者)議政府參政大臣 朴齊純
(受信者)內部大臣 李址鎔 閣下
(決済者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第三號 照會는接到하와
以蔚珍郡竹邊浦所在 望樓與地段 私相賣買禁止一事로
準即行文 日本統監□하고 業經照覆在案이온바
現樓該統監照覆內開
去月十四日 以蔚珍郡竹邊浦望樓賣却一事 接到貴第十三號照會 當經閱悉
準即行文 我佐世保海軍鎭守府 調査事實 仍接復開
該望樓所用建物及營造物 以代金收納後 擧越他人之意 賣却於佐賀縣人古賀亦次
去年十二月二十七日 業經受領代金 然該敷地決無賣却等因
準此照覆 照亮爲盼等因이하기
玆에 照會하오니 照亮하심을 爲要.
議政府參政大臣 朴齊純 內部大臣 李址鎔 閣下
議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長
參政大臣 局長 調査課長 一課長
光武十年四月十七日
光武十年四月十一日 裁定 課員
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號
蔚珍郡近北面竹邊浦の望樓及び付属建物を日本人に売却したことについての照会
(文書番号)議政府照会第56号 内部(内務省)
(発送日)1906年4月17日
(発送者)議政府參政大臣 朴齊純
(受信者)内部大臣 李址鎔
(決裁者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、(日本の韓国)統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。
先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。
このような照会結果であったので、内容を確認されたい。
議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へ
1906年4月17日
울진의 근북면 죽변포 망루를 일본인이 사적으로 매매한 것은 불법이니 금지시킬 것
(文書番号)照會 第三號
(発送日)光武十年二月二十六日(1906年02月26日)
(発送者)內部大臣勳一等 李址鎔
(受信者)議政府參政大臣 朴齊純 閣下
現接 江原道觀察署理春川郡守李明來의 第十六號報告書內開
頃於上月十三日에 接閱蔚珍郡守 尹宇榮 報告書즉 內槪
本郡近北面竹邊浦望樓 留駐之日本海軍이 今爲撤歸이온바
今陰曆十二月二十七日 日本商人 高賀者 來到郡廳曰
竹邊浦所在望樓與地段을 並爲買得於望樓長인즉 自郡으로 認許公文成給이라하온바
郡守가 不可自下擅便故로 玆에 報告等因이하기
高賀者居住姓名과 何月日에 給價幾許買得과 望樓長之姓名居址을
幷即詳探報來하야 以爲轉報케는事로 指飭以送이더니
即接該郡守報告 內開
即到指令를 承準하와 招致高賀 詳問事狀인즉
自己는 日本佐賀縣三養基郡鳥棲洞二百十三番戶 而姓은佐賀오名은亦次오
望樓長은 高橋오 名은淸重이오 居住는日本佐世保海兵團詰兵所오 居址는 不知이온바
上年十月日 駐箚撤歸之時에 給一百八十圓 買得望樓 而址地는 不爲買賣이온니
基址之隨家는意有常例하야 地段幷買之意로 前有所告이다故로 緣由報告等因을
據査하온즉
蔚珍郡竹邊浦望樓은 日本海軍이軍用暫駐타가 已爲撤歸이온바
今此日本商民高賀亦次가 望樓長高橋淸重에게 私相賣買云者가 非徒違越定章이오라
萬不近理이하기
玆以仰佈하오니 査照하신 후 迅辦交涉하시와 即行禁止케하시고 示明하시믈 爲要.
內部大臣勳一等 李址鎔 議政府參政大臣 朴齊純 閣下
光武十年二月二十六日
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內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること
(文書番号)照会第3号
(発送日)1906年2月26日
(発送者)内部大臣李址鎔
(受信者)議政府參政大臣朴齊純
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日(書き起こし文には陰暦とあるが、新暦では1906年1月21日に当り、この日は日曜日で、しかも1月13日に蔚珍郡守尹宇榮から江原道觀察署理春川郡守李明來へこの件に関して報告がすでになされているので、新暦12月27日の誤りと推測される。)に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可する公文書を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、佐賀亦次という。望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。(もしくは ”以前そう告げていたので、土地も併せて買いたい”の意か。)」ということである。
(李明來もしくは李址鎔の言葉)この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、(李址鎔は)ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ
1906年2月26日
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號. (韓国国史編纂委員会サイト )
울진의 근북면 죽변포 망루 및 부속건물을 일본인에게 매각함을 조회
(文書番号)議政府 照會 第五十六號 內部
(発送日)光武十年四月十七日(1906年04月17日)
(発送者)議政府參政大臣 朴齊純
(受信者)內部大臣 李址鎔 閣下
(決済者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第三號 照會는接到하와
以蔚珍郡竹邊浦所在 望樓與地段 私相賣買禁止一事로
準即行文 日本統監□하고 業經照覆在案이온바
現樓該統監照覆內開
去月十四日 以蔚珍郡竹邊浦望樓賣却一事 接到貴第十三號照會 當經閱悉
準即行文 我佐世保海軍鎭守府 調査事實 仍接復開
該望樓所用建物及營造物 以代金收納後 擧越他人之意 賣却於佐賀縣人古賀亦次
去年十二月二十七日 業經受領代金 然該敷地決無賣却等因
準此照覆 照亮爲盼等因이하기
玆에 照會하오니 照亮하심을 爲要.
議政府參政大臣 朴齊純 內部大臣 李址鎔 閣下
議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長
參政大臣 局長 調査課長 一課長
光武十年四月十七日
光武十年四月十一日 裁定 課員
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號
蔚珍郡近北面竹邊浦の望樓及び付属建物を日本人に売却したことについての照会
(文書番号)議政府照会第56号 内部(内務省)
(発送日)1906年4月17日
(発送者)議政府參政大臣 朴齊純
(受信者)内部大臣 李址鎔
(決裁者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、(日本の韓国)統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。
先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。
このような照会結果であったので、内容を確認されたい。
議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へ
1906年4月17日
また、竹島は日露戦争中の日本海海戦の主戦場となった事から、広くその名が正確な位置とともに知れ渡る事となりました。日露戦争の華やかな報道とともに、領土編入による「リャンコ島」「リヤンクール岩」といった従来の呼称が、官報 を始め各メディア によって新名称「竹島」と訂正される様子が当時の資料から明確になっています。1905年の時点において、こうした報道は当時東京を始め日本に多数居住していた韓国人にとっては当然周知の事実であったと考えられますし、また韓国においても現地語で報道された 内容などから、「旧リャンコ島が竹島という日本領土となった事実を韓国人が全く気付かなかったために日本政府に抗議できなかった」となどいうことはありえなかったでしょうし、1906年に気がついた後も抗議はおろか、今回明らかになったように抗議可能であったにも関わらず統監府への抗議どころか照会さえ行っていないことから、大韓帝国政府は1906年の時点で竹島を自国領土外であると考えていた事は明白です。
参照 :
1905 - January 28th: the decision to incorporate Takeshima in to Shimane by a Cabinet meeting (公文類集第29編 竹島編入閣議決定)
1905 - Feb 24 - Takeshima Incorporated into Shimane Prefecture (山陰新報 "隠岐の新島")
1905 - May 29 , 30 & June 5- An Extra of Official Gazette "The War Report of The Japan Naval Battle"
1905 - June 3 - Japanese Magazine ”The True Record of Russo-Japanese War (日露戦争実記")
1905 - Jul 3 - "Postcards to Commemorate Naval Battle" (山陰新報 " 海戦記念絵葉書")
1905 - Aug 6 - Japanese Officials to Visit Takeshima (山陰新報 "竹島渡航")
1905 - Aug 22 - "Governor Matsunaga Inspects Takeshima" (山陰新報 "松永知事の竹島視察")
1905 - Aug 22 - "Sea Pigs" Near Takeshima (山陰新報 "県庁内に海豚放養")
1906 - Mar 11 - "Voyage to Takeshima Decided" (山陰新報 "竹島行決定")
Kaneganese様、matsu様、GTOMR様、
ReplyDeleteご苦労様です。貴重な資料です。皆様の多大な努力に感謝いたします。
matsuさんがシンヨンハ論文を訳してくださったことがきっかけで、面白いことが分かりました。こういう思わぬ発見があるので、竹島研究はやめられません。GTOMRさんの資料収集能力も本当に素晴らしいです。朴齊純による日英同盟への抗議の件に関しても引き続き研究して行きたいですね。
ReplyDelete皆様
内部去来案について、日本語訳とその解釈について目を通してご意見頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
ReplyDelete実は「内部来去案」を、全部完全に解読し切っている訳ではありません。
誤読もあると思います。
また、ネット上の資料であって、原文を見ているわけではないので、不完全なところもあると思います。文字化けとおぼしきところも、すべて正しいかどうか不安です。
みなさんのご協力をお願いします。
それから、この資料のいちばん最初に出ている
江原道觀察署理・春川郡守・李明來の「第十六號報告書」(内部への報告)
さらには、2番目の資料にある、
大韓帝国側から、実際に日本側の統監府に出した「第十三號照會」が見つかると、さらに状況ははっきりすると思います。
以前のコメントにも書きましたが、
この愼鏞廈論文を翻訳した時には、
この事例の持つ意味、(すなわち、当時、抗議が可能であり、実際に行い、結果を出しているのに、竹島のケースではまったくそれが行なわれなかったこと)
には、気がつきませんでした。
Kaneganeseさんの慧眼に感服します。
この記事は面白いですね。竹島編入が韓国政府に報告されたのと時期も同時期、関わった政府高官もほぼ同じですか。これじゃあ抗議できなかったなんて言えませんね。
ReplyDeleteKaneganeseさん、
コメントを書いてみるとは言ったものの、これは難解ですね。私にはmatsuさんの解読以上のことはできそうにないです。
まあ、強いて言うならば、第3号のうち、
[そこで蔚珍郡守が考えるには]
「土地が、その上に建っている建物の持ち主のものであるのは、常例ではあるが、
土地もあわせて買うというのは、前からその土地を所有していた、と告げているので、ここに報告いたします」[ここまでが蔚珍郡守の報告]
の部分は、これは佐賀亦次による説明の続きであるような気もします。「故」までが引用ではないかと思うのです。
「土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが常例なので、土地もあわせて買いたいと思い、前からその土地を所有していた者に申し入れた、ということなのでここに報告いたします」となるのではないかと。いや確信は持てないのですがね。
それから、56号の末尾「ここに(朴齊純から李址鎔に)照会するので、照亮なさいますように。」は、日本語に訳するならば、「このような照会結果であったので、了知してください。」で良いかと思います。
しかし、シン・ヨンハ先生はさすがに独島問題の権威です。すばらしい研究成果を残しておられます。
ReplyDeleteChaamieyさま
ReplyDeleteありがとうございます。
この形になる前に、試行錯誤をしている部分が、まえのポストのコメントにあります。そちらも見ていただけるとうれしいです。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/10/1905-june-5-tokyo-asahi-shimbun.html
chaamieyさん
ReplyDeleteありがとうございます。ご指摘の箇所、ちょうど訳しづらくてmatsuさんにお尋ねしようと思っていたところです。本当に助かります。
Chaamieyさま
ReplyDeleteありがとうございます。
アドバイスをいただいて、一日、よく考えてみて、謎がとけてきました。
上年十月日駐箚撤歸之時에 給一百八十圓 買得望樓 而址地는 不爲買賣이온니
基址之隨家는 意有常例하야 地段幷買之意로 前有所告이다 故로 緣由報告等因을 據査하온즉
これが難物で、一体どこまでが、誰の言葉なのか、実はよく理解できていなかったのですが、お話のように、この後半までを高賀(古賀)亦次の主張、と考えると謎が解けます。
次のように考えます。
百八十圓を払って、「望楼(とその土地も)」を買ったはずなのに、「その址地については、売買はしていない」ということであるが、(たとえば、望楼長の高橋が言っているが)、
「土地が、その上に建っている建物の持ち主に従うということは、常例の有るところであり、土地もあわせて買う意思であることは、前にも告げた所で有る」(「前有所告」は、「前に告げた所有り」)と、高賀は主張している」、と郡守が報告してきたので、
江原道觀察署理がさらに調べてみると、・・・・
このように考えると、この疑問が解けます。
だいたい、この段階で「址地は、不爲買賣(址地は、売買しませんでした)」と高賀(古賀)自身が認めてしまっているとすると、そもそも彼が郡庁に交渉に来た意味もわからなくなるし、また、それをさらに韓国側として日本側に交渉してくれ、という意味も、実はよくわからなくなってしまっていたのです。
さらに、これは、やや考えすぎかもしれませんが、
給一百八十圓 買得望樓 而址地는 不爲買賣이온니
のうち、給一百八十圓 買得望樓のあとに、あるいは、「幷地段」(または「幷址地」)というような文字が抜けているのではないかとも疑われます。(「址地」が重なって、起こしのときに抜け落ちた)。
それは、高賀がずっと、望楼と土地をセットで述べてきているからです。
このサイトの「起こし」は「高賀」を「佐賀」とするなど、また、小嶋日向守さんご指摘の「陰暦十二月二十七日」も、「陰暦」は間違いではないかと思われるふしもあり、そうした可能性もあるのではないかと思います。
それだけに、この文書の「現物」ないし「影印版」を見たいと思いますが、ネットにはないんでしょうねえ。(GTOMRさんの「神通力」で見つからないかしらん)
小嶋日向守さんご指摘の「陰暦十二月二十七日」の件ですが、二つ目の文献に、同じ「十二月二十七日」が出てきています。そこで、この文献の「陰暦」がまちがいで、そのまま新暦と考えても良いのかもしれません。
テキストをむやみに恣意的に変えるは、もちろんご法度ではありますが、この「陰暦」を間違いと考えると、つじつまは合います。
私の解釈です。
ReplyDelete內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること
(文書番号)照会第3号
(発送日)1906年2月26日
(発送者)内部大臣李址鎔
(受信者)議政府參政大臣朴齊純
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可状を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、高賀亦次という。望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。」ということである。
この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ
1906年2月26日
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號
蔚珍郡近北面竹邊浦の望樓及び付属建物を日本人に売却したことについての照会
(文書番号)議政府照会第56号
(発送日)1906年4月17日
(発送者)議政府參政大臣朴齊純
(受信者)内部大臣李址鎔
(決済者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、日本の韓国統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。
先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。
このような照会結果であったので、内容を確認されたい。
議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へ
古賀なる人物が、最初は土地を買ったと言っていたのに、蔚珍郡守が改めて話を聞いたときには土地は買っていないと言ったのは矛盾しているようですが、あまり気にしなくても良いと思います。多分、最初は土地の売買について「望楼長と話はついている」とでも言って、それを当局が「売買があった」と解釈したのでしょう。だから、改めて問われれば、まだ契約したり売買代金を払ったりしたわけではないので、売買はしていないと答えたのでしょうね。
ReplyDelete土地の売買はまだ成立していなかったという前提で考えて差し支えないと考えます。
「前有所告」はやっかいですが、「告」には「たずねる」、「請う」という意味もあるので、「前に有する所に請うた。」ではないかと思います。
ReplyDeleteさて、照会第3号(内部大臣から參政大臣あて)の最後の段落、すなわち、
ReplyDeleteこの報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
は、誰の言葉なのか、についてですが、御覧のとおり、私は、これはすべて内部大臣の言葉であるとして書きました。これが内部大臣の言葉でなくて、内部大臣に報告して来た江原道觀察署理春川郡守の言葉であるとすると、内部大臣は参政大臣に何の意見も言っていないということになるので、それはおかしいと思うのです。
ただし、別の解釈もあります。
別の解釈は、「玆以仰佈하오니」の読み方、すなわち、玆(ここに)以(もって)仰(仰ぎ、または頼り)佈(行き渡る、展開する)に続く「하오니」ですが、これを「してきたので」と読むべきものならば、「観察署理が方針を伺って来たので」となり、それ以降の「内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。」
ReplyDeleteのみが内部大臣の意見だということになります。
「仰」という文字があるので、大臣間の言葉というよりも観察署理・郡守から内部大臣に宛てた言葉と見るほうが正しいのかも知れないと思うのです。
この解釈でいけば、次のようになります。
內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること
(文書番号)照会第3号
(発送日)1906年2月26日
(発送者)内部大臣李址鎔
(受信者)議政府參政大臣朴齊純
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可状を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、高賀亦次という。望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。」ということである。
この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わない。
このように報告して来たので、内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ
1906年2月26日
ただ、この読み方は、「地方官が問題があると言って来たので、あとはあんたによろしく頼むよ」という形になるので、大臣の文書としてはちょっとヘンです。
どういう読み方が正しいのか、確かにネット上の書き起こし文だけでは、文の区切り方その他微妙な部分が読み取れないので難しいですね。
Chaamieyさん
ReplyDeleteありがとうございます。
すばらしいです。
家に帰ってきたら、お父さんが宿題をすべてやってくれてしまっていた、というような気分で、ちょっぴり悔しくもあり、また嬉しくもあり、というような気持ちです。
とても、わかりやすいと思います。
二つだけ、言わせてください。
最後の、
「蔚珍郡竹邊浦望樓은 日本海軍이軍用暫駐타가 已爲撤歸이온바
今此日本商民高賀亦次가 望樓長高橋淸重에게 私相賣買云者가 非徒違越定章이오라
萬不近理이하기」
が、結局、誰の言葉なのか。
これは、当時の大韓帝国の政治を考える上で、とても大事なことだと思います。
大韓帝国のたそがれの中で、いわば「正気」を保っていた人たちが、
地方官僚レベルの「江原道觀察署理・春川郡守・李明來」なのか、
それとも「內部大臣・勳一等・李址鎔」という中枢の政治家なのか。
愼鏞廈も指摘しているように、この「內部大臣・李址鎔」と「議政府參政大臣・朴齊純」は、大韓帝国を日本に売った「乙巳五賊」のうちの2人であり、そうした人たちの評価を考える上でも、どちらなのかが気になります。
そして、これは竹島のケースと比較して考える時も、なにせ、「登場人物」が同じわけですから、重要になると思います。
もうひとつ。
「古賀亦次」は、結局、「望楼長・高橋清重」に騙されたのでしょうか。
「一百八十圓」という金額が、今の貨幣価値でどのくらいになるのか分かりませんが、
彼自身は、望楼と土地を、両方買ったと思っていたわけでしょうから、やや哀れを感じさせる展開です。望楼長という職は、海軍の軍人、ないしは役人がつとめていたのか、それとも民間人の、やはり商人だったのか。
ここで、望楼長・高橋について、古賀が「居住는日本佐世保海兵團詰兵所오 居址는 不知」と言っているのが、とても面白いと思います。高橋は、金だけ受け取って「とんずら」してしまったのか、いずれにしても連絡がつかなくなって、あぐねた「古賀」が、地元の郡庁に何とかしてくれ、と頼み込んだのが発端、ということになるのでしょうか。
ちょっと小説めいた想像がふくらんでしまいますが、
こいう一次資料は、いろいろな人の肉声が聞こえるようで、本当に面白いです。
chaamieyさん
ReplyDeletematsuさん
ありがとうございます。ずいぶん見えてきましたね。原文を確認出来ればもっと多くの情報が得られる可能性もありますが、今ある資料での解釈では、一番話が通じるものになっていると思います。登場人物が入り乱れ、また、引用に次ぐ引用ではっきりしない部分も多く、matsuさんの仰るように、いろんな想像をかき立てられる話です。これらのことを踏まえて、もう一度英訳を練り直したいと思います。この事例は、”同様の案件で実際に日本に抗議しているのに竹島に関してまったく抗議どころか問い合わせさえしなかった”大韓帝国政府が公式に竹島の領有権を放棄し日本の領土として認めた証拠として、国際法上の意義も大きいと思います。
とにかく、この資料から大韓帝国がたとえ民間人でも日本人の土地取得について大変敏感で問題視していたこと。実際に統監府に抗議をかねて確認し、禁止させることが出来たこと。などがわかります。
また、日本側の統監府も誠実に対応していたことがよくわかります。皇城新聞1906年7月13日の記事からも、統監府が領土領域に関しては同じく丁寧に対応し、大韓帝国政府と連絡を取り合っていたことがわかり、鬱陵島を領土に編入しなかった事実を考え合わせると、明治政府が領土的野心のために竹島を秘密裏に編入した、という説がいかにばかばかしいか、よくわかります。当時の明治政府に領土的野心がなかったとは言いませんし、国家としては領土保全、それに伴う権益の確保は義務であり当然の権利であると私は思いますが。帝国主義真っ盛りのご時世で、このプロセスは結構ほめられる部類のものだと思います。
>結局、誰の言葉なのか。
ReplyDeleteそれは、「하오니」を「(相手が)してきた」と読むのか、「(自分が)するので」、または「(自分が)したので」と読むのかによって違ってくるようです。
>「古賀亦次」は、結局、「望楼長・高橋清重」に騙されたのでしょうか。
高橋望楼長がこの件にどういう形で関わっていたのかは、この2件の文書からは読み取れませんね。シン・ヨンハ大先生は「二人が結託して」と言っているようですが。
>望楼長という職は、海軍の軍人、ないしは役人がつとめていたのか
望楼の建物と付属設備はロシア・バルチック艦隊の日本海侵入を監視するために日本海軍が建てたものですから、望楼長は海軍の軍人ですね。
>高橋は、金だけ受け取って「とんずら」してしまったのか
望楼建設の経費は海軍の予算から出ているはずで、それを売り払ったならば、代金は海軍の公金収入になったはずです。なお、私は180円には土地代は入っていないと思います。
>地元の郡庁に何とかしてくれ、と頼み込んだのが発端、ということになるのでしょうか。
騙された話であれば郡庁ではなくて海軍に言うはずなので、たぶんそうではなかったのでしょう。
ま、いろいろ考えることはできますが、限界がありますね。
それはともかく、Kaneganeseさんがまとめておられるように、韓国政府が統監府に照会する気があってそれを実行したということを示すこの2件の文書は価値がありますね。
解釈が分かれる部分はKaneganeseさんにハシでも倒して決めていただくとして(笑)、英訳文での情報発信に期待します。
唐突に、しかも頓珍漢なコメントですが、ご容赦下さい。
ReplyDelete不動産に関して、日本では、古くから建物・工作物・立木などを、土地とは切り離して、売買するという伝統があります。一方、韓国には、そのような不動産の売買概念が成熟していたのでしょうか。この観点から考えてみると、あるいは、誤解に基づいたものであったのではないかという気もします。
古賀亦次氏の名誉に関して、「佐賀県三養基郡鳥棲(洞)213番地」というと、現在の鳥栖市中心部ですから、御子孫の方もいらっしゃると思うのです。
小嶋日向守さん、
ReplyDeleteおっしゃるとおりで、この件については、韓国政府は不法な土地売買であると認識したわけですが、なぜそうなったのかという理由はこれら2件の文書からは不明です。
シン・ヨンハ氏は「望樓長と日本商人が結託して望樓土地を侵奪しようと試み」と書いていますが、その資料として挙げているのはこの2件の文書だけであるわけです。この2件の文書からそういう表現ができるものか疑問です。
このへんの経緯は、竹島問題を論ずるには直接関係のないことなので、あまり深入りする必要はなさそうですね。
小嶋日向守 さん
ReplyDeleteうちのご先祖様も、”江戸っ子は土地を持たないのが粋”だとかで、土地は借りたままで家を購入したか建築したかで所有していたそうです。おかげで東京大空襲で家を失った後、そこを出て行く羽目になってしまったそうですが。朝鮮の人々の間では住んでしまった家の土地はその人のものも同然、と言うような振る舞いをする悪しき慣習があり、それを大正期に大挙して移住してきた人々が大阪等で同じことをして日本人との摩擦を生み出してきた、と言うような資料も多々あるようです。戦後の焼け野原の東京での同様な行為は実際にかなり多かったらしく、我が叔母などは、某韓流ドラマの大ファンではありますが、このことをいつまでもいつまでも恨みがましく言い続けています。半島でどのような土地売買の法律、慣習があったのかわかりませんが、単にそうした文化の違いによる勘違いであったのかもしれません。もしくはそれを知っていた古賀氏がその権利?を主張しようとしたのか。(現在の住所がわかるんですか。確かにプライバシーの問題も、考慮する必要がありますね。ご指摘ありがとうございます。)
出来る限りこの資料を正確に解釈するためにいろんな可能性を考えることは大切です。そういう意味でも、皆さんの知恵や疑問を出し合って討論しあう、こうした作業はある意味とてもしんどいけれど、また同時にわくわくと楽しいものです。
ただ、ご存知のとおり、土地の売却が実際に行われようとしていたのか、単なる勘違いであったかどうかは竹島問題にとっては実は重要ではなく、ポイントは、日本人が韓国の土地を侵奪し(ているように思ったが実際の経緯は不明な点が多い)ていると信じた大韓帝国政府が、この件に関して実際に統監府に抗議の意を持って正式な照会を行っていた(一方で竹島については調査を命じた後何の記録もなく、もしくは公開されておらず、この抗議を行わなかった、と韓国政府さえ解釈している)、ということですよね。
chaamieyさんの仰るように限界もありますし、原文を目にする可能性が低い以上、ある時点でいづれかの解釈を採用することにしたいと思います。はしはなんですから、他の解釈も成り立つことを匂わせながら工夫して翻訳したいと思っています。投稿する上でも何とか原文を入手したいものですが。
Chaamieyさま
ReplyDelete望楼長は、当然、海軍の軍人ですよね。
「私的売買=私相賣買」にまどわされて
民間人と一瞬でも考えたのは、とんでもないあやまりでした。
この行為は、「払い下げ」というようなものに当たるのでしょうから、
古賀亦次氏(すみません、氏をつけます。確かに古賀さんの子孫の方がいらっしゃると思います。)が払ったお金は、当然、国庫に入ったのだと思います。
それから、彼が金を払ったのが12月27日、蔚珍郡廳をおとずれたのも、旧暦を新暦と考えれば、同じ12月27日ですから、金を払ってすぐその足で郡廳をおとずれたことになります。
このときには、高橋望楼長の「居址는不知」という状況ではなかったのでしょう。ですから、「とんずら」云々という疑いを古賀氏が抱いたとしても、それはあとのことで、「発端」ではありません。これも、前回の私のコメントは、間違いです。
しかし、古賀亦次氏の主観的な認識としては、「望楼與地段」(望楼と土地)を、ともに望楼長から買った、と思っていたと思います。
日本商人 高賀者 來到郡廳曰
竹邊浦所在望樓與地段을 並爲買得於望樓長인즉 自郡으로 認許公文成給이라하온바
ところが、佐世保からの日本側の回答は、「望樓所用建物及營造物」=望楼につかった建物と営造物は売ったが、「然該敷地決無賣却」=土地は売っていない、と答えてきたわけです。
ここがポイントで、日本政府(海軍)としては、韓国の土地を日本の民間人に売った、ということを認められなかったのでしょう。
そして、これこそ、抗議・働きかけができた証拠、として重要なのだと思います。
高橋望楼長が、どんな話を古賀氏にしていたかは、不明というほかはありません。
建物と、その土地についての関係は、当時の大韓帝国の法律・習慣がわからないと、わかりませんね。
「前有所告」についてですが、
給一百八十圓 買得望樓 而址地는 不爲買賣이온니
基址之隨家는意有常例하야 地段幷買之意로 前有所告이다
このなかの「有所」は、所有と関係があるように、私自身、解釈のはじめのころに考えていたのですが、「地段幷買之意로 前有所告」は、
「地段、幷びに買う之(の)意(意思)로(「로」は、「として」、あるいは日本語をしては「を」) 前に告げる所有り」で、「所有」という言葉とは関係ない、と思います。
この投稿を、以下の内容で修正したいと思っています。(修正前の内容は、matsuさんがコメント欄に残してくださっているので、なにかあったらそちらを参照することが出来るかと思います。)
ReplyDelete內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
蔚珍の近北面竹邊浦の望樓を日本人が私的に売買したのは不法なので禁止させること
(文書番号)照会第3号
(発送日)1906年2月26日
(発送者)内部大臣李址鎔
(受信者)議政府參政大臣朴齊純
江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
先月13日に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日(書き起こし文には陰暦とあるが、新暦では1906年1月21日に当り、この日は日曜日で、しかも1月13日に蔚珍郡守尹宇榮から江原道觀察署理春川郡守李明來へこの件に関して報告がすでになされているので、新暦12月27日の誤りと推測される。)に日本商人高賀という者が蔚珍郡庁に来て、「竹邊浦所在の望楼とその土地を望楼長から買得したので、蔚珍郡庁からその認可する公文書を交付してほしい」ということである。郡守としては、自分の一存で処理することが出来ないので、報告するということであった。
そこで、高賀という人物の住所・姓名、ならびに何月何日にいくらで買得したのか、さらに望樓長の姓名・住所を速やかに詳しく調べて報告せよと指示したところ、蔚珍郡守から次の報告があった。
指令を受けて、高賀を招致して詳しい事情を聞いたところ、「自分は、日本の佐賀県三養基郡鳥棲洞213番地の、佐賀亦次という。望樓長は高橋淸重と言い、その居所は日本佐世保海兵団の詰所であるが、住所は知らない。去年十月、駐屯していた日本海軍が撤収する時に180円を出して望楼を買った。しかし、土地は買っていない。土地は、その上に建っている建物の持ち主のものであるのが普通なので土地も併せて買いたいと思い、前所有者に申し入れた。(もしくは”以前そう告げていたので、土地も併せて買いたい”の意か。)」ということである。
(李明來もしくは李址鎔の言葉)この報告に基づき調査をしたが、蔚珍郡竹邊浦の望楼は、日本海軍が軍用に暫く駐屯していて既に撤収したのであるが、今、日本商人の高賀亦次が望樓長の高橋淸重から私的に買い取ったというのは法律に違反するものでいかにも理に合わないことなので、(李址鎔は)ここに報告するので内容確認のうえ速やかに交渉され、即刻禁止させてそれを明示されるよう願う。
內部大臣勳一等李址鎔より議政府參政大臣朴齊純閣下へ
1906年2月26日
內部來去案 第1冊, 光武10年4月17日條, 議政府照會 第56號
蔚珍郡近北面竹邊浦の望樓及び付属建物を日本人に売却したことについての照会
(文書番号)議政府照会第56号 内部(内務省)
(発送日)1906年4月17日
(発送者)議政府參政大臣 朴齊純
(受信者)内部大臣 李址鎔
(決済者)議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長
貴第3号照会を受けて、蔚珍郡竹邊浦の望楼と土地の私的売買禁止の件について、(日本の韓国)統監に照会し回答を得た。回答は次のとおりである。
先月14日、蔚珍郡竹邊浦の望楼売却について貴第13号照会を受け取ったが、その照会に基づき日本の佐世保海軍鎭守府に文書を送って事実を調査したところ、その報告によれば、その望楼用の建物と設備は、代金收納後に全て他人に譲渡することとし、佐賀県人である古賀亦次に売却した。昨年12月27日に既に代金を受領したが、その敷地は売却していない。以上回答するので承知されたい。
このような照会結果であったので、内容を確認されたい。
議政府參政大臣朴齊純より内部大臣李址鎔閣下へ
議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長
參政大臣 局長 調査課長 一課長
1906年4月17日
1906年4月11日 裁定 課員
Kaneganeseさん、
ReplyDelete第56号を英訳されるときに、
(決済者)とあるのは(決裁者)に修正してください。英語では多分違う単語になるでしょうから。
それと、末尾の「議政大臣 參贊 秘書課長 文書課長 參政大臣 局長 調査課長 一課長」は書かなくて良いと思います。想像するに、これは、この決裁文書の起案にハンコをつくべき人の職名をあらかじめ表示したものだろうと思います。最後の「課員」も同じです。したがって、相手方(内部大臣)に通知された文書の内容をなすものではないと思われます。
「1906年4月11日 裁定」というのは、この文書が裁定された日付なので、これも相手方に通知された文書の内容をなすものではないので、省略したほうが良いと思います。
chaamieyさん
ReplyDelete了解しました。
「決済」と「決裁」、とんだ変換ミスで、失礼しました。
ReplyDeleteさすがのナイス・チェック、ありがとうございます。
さて、自分なりに、段落を切りながら、たどたどしく読んでいたのを、皆さんのおかげで、ここまで解読できて、とても嬉しくい思っています。
とてもわかりやすい訳になっていると思いますが、
ひとつだけ、気になるところがあります。
それは、古賀が2回目の調査で、「しかし、土地は買っていない」と言い切っているところです。
この段階で、土地の問題を放棄しているとすると、土地の売買をめぐって日本側と交渉する必要もなくなってしまいますし、次に続かなくなります。
アドバイスをいただいて読んだように、
給一百八十圓 買得望樓
而址地는 不爲買賣이온니 基址之隨家는意有常例하야 地段幷買之意로 前有所告이다
180円を出して望楼を買った。
而るに、址地は 買賣はしないということであるが、
土地は、その上に建っている建物の持ち主に随うのが常例であり、
土地も併せて買いたいという意思を、前にも告げている。」と、(高賀が)言っている・・
と読むのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
これをうけとった議政府の側でも、
貴第三號 照會는接到하와 以蔚珍郡竹邊浦所在 望樓與地段 私相賣買禁止一事로
として、
「望樓與地段」 私相賣買禁止一事
となっており、
問題になっているのは、「望楼と土地」であることがわかります。
This is not directly related with this Uljing watching tower issue.
ReplyDeleteOn 1906 Korean Imperial officially protested against Rusia through diplomatic route?
1.1906.10.26 Report 1 (1) 龍岩浦之露國人占有地
2.1907.07.13 report 3 (3) [龍岩浦 露國人所有土地建物? ?? 現況調査 件]
GTOMR,
ReplyDeleteThank you for the interesting reports.
It looks like the day Korean protested to Russian was 1 June, 1903. It was before Japan-Korea Protectorate Treaty on Nov. 17, 1905.
Sorry I didnt check carefully it.
ReplyDelete