竹島問題の歴史

10.6.07

1894 Article on an Ulleungdo Inspection

The following is an February 18, 1894 (明治 卄七年) San-in Shimbun article on Ulleungdo, entitled "朝鮮竹島探檢 (松江佐_狂水生投)." Liancourt Rocks is talked about in the second page of the article. (Click on the pieces of the article to enlarge.)

More old San-in Shimbun articles can be found in a PDF file on Mr. Tanaka Kunitaka's Web site at the following address: http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/03.pdf




27 comments:

  1. Gerry,

    This article is relating about an isolated island called "Riranko-to".

    It comprised of three islets. There are hundreds of sea lions and groups of whales are swimming around there. It will need big ships to catch these large sea animals in the future. Warm current and cold current collides around here so this area seems to be good place for them etc.

    The whole article was a report of Ulleungdo. They saw "Riranko-to" en route to Ulleungdo. But they wrote that the area around "Riranko-to" would be a important place for fishery.

    BTW, the 27th year of Meiji is 1894.

    Thanks for the interested article!

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  2. Thank you, Pacifist. That was fast.

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  3. About whale hunting around Sea of Japan and neaby Korean water.(SRY I forgot it from which articles.)There was boom for whale hunting aroud the water in late of 1890's.

    1848 Cherokee (USA)with American style whale hunting system.

    On 1889 Dydymov(Russian Lieutenant)start whale hunting around Korean peninsula with Norway whale hunting system(use the whale gun).This system are used for hunting Blue Whales長須鯨.
    (around this ara,estimated sail speed around 10-12kont).Russian whale hunting activities are under the cooperation with Navy.

    1894 a russian whale ship were lost and the whale activities by Russia had temporary stopped.on 1894 Rusian Lieutenant Keisering restarted whale hunting aactivities.
    Those whale meat were exported to Nagasaki長崎、and

    1898 There establishe Angro-Russia whale hunting assosiation.

    Then 1899 Keisering had negotiate with Korean throung Russian ambassador about Concession(lease)for whaleship base.
    1.麻田浦 2.長箭津 3.長生浦
    Also Russian temporary stayed and claim the Consession toward Ullegundo.

    Japan also established whale hunting company in 1899
    日本遠洋漁業株式会社 with Norway hunting system.

    Japan monopolize those whale activivies after Russo-Japan war in 1905.

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  4. Gerry,

    Incidentally, the name 佐藤狂水生投 means "Sato crazy-water 生(o) posted", which means anonymous. 生 is used to indicate names because it is often used for Japanese names such as Kazuo (和生). 投 means throwing, in this case posting.

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  5. Pacifist,

    That's interesting. So you are saying that the article was posted annonymously?

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  6. Gerry,

    Yes, it's anonymous but it has not a grave meaning. He disclosed his family name (Satoh). He may be a reporter with a name Satoh Taro, or Satoh Jiro or Satoh something.

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  7. matsuさん

    岩崎弥太郎の竹島・松島探険の新規ポスティングをお願いしましたが、oppさんもkaneganeseさんもお忙しいようですので、一計を案じて、此方に寄生させてもらうことにしました。

    彌太郎は安政7年から明治6年5月3日までに、10種12冊の日記を残しています。
    しかし全ての期間が連続しているわけではなく、断続的で日記が空白のこともあります。
    多くの人が関心をもつ坂本龍馬暗殺の時期の日記も空白です。
    翻刻本の書誌情報は以下の通りです

    ---------------------------------------------------------------------------------
    岩崎彌太郎/著、岩崎彌太郎岩崎彌之助傳記編纂會/編『岩崎彌太郎日記』[岩崎彌太郎岩崎彌之助傳記編纂會/1975年(昭和50年)10月30日]

    タイトル:岩崎彌太郎日記
    著者:岩崎彌太郎
    編者:岩崎彌太郎岩崎彌之助傳記編纂會(東京都千代田區丸の内二丁目六-二 丸の内八重洲ビル三二二區)
    発行者:岩崎彌太郎岩崎彌之助傳記編纂會
    印刷所:凸版印刷株式會社(東京都台東區台東一丁目五番)
    非売品
    形態:単行本、22cm
    頁数:672ページ、675ページ(あとがき含む)
    発行日:1975年(昭和50年)10月30日

    《目次》
    序文
    解説
    日記本文
      一 瓊浦日録 乾坤
      二 扈從日録
      三 公用日記 ※(慶應四年一月八日で終わっている)
      四 瓊浦日歴 其一 ※慶応三年九月まで
      五 崎陽日暦 其貳
      六 瓊浦日歴 其参
      七 瓊浦日歴 其四 ※(瓊浦日歴四冊は慶応四年十二月末で終わる。)
      八 滞坂日誌 乾坤 ※明治二年一月~明治三年十二月
      九 辛未歳日歴
     一〇 壬申日歴
    岩崎彌太郎書翰
    あとがき

    ------------------------------

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  8. 岩崎弥太郎日記
    p168からp173

    慶応三年四月

    二十五日 雨、淸岡半四郎來談、去後喫午飯、入商會與森田、山崎談話久之、衝
    雨訪岩村八郎、不遇、訪山本龍二郎、不遇囘寓、後藤氏より手簡來云、三澤氏
    乞借ノ金受取ノ手形百兩ニ、此上減少トモ何とも、所置ニ任セ候樣申來、右ニ
    付直樣晋三を呼に遣し、右手形ヲ渡シ、拂込月限相立來リ候ヘバ百金ヲ渡シ借[貸]
    遣候樣申含置、雨不絶、樓上置酒、松井氏ヲ呼不來、呼山崎來、淸岡半四郎亦
    來云、千屋寅之助今夕來、誘余及森寺大和、兄亦同行若何、於是(與)淸岡山崎
    相携出、到濱町、千屋亦來、將入圓山、千屋云、吾少シ有事故、早速到君所ト
    テ引返ス、遂(入) 嘉滿屋置酒、再携小村[妓の名]輩數名、入新築樓、淸岡、森寺兩人ヘ
    大夫二人都路、大和路ヲ與ヘ、余ハ興盡、乘籃輿辭去、山崎亦投宿、夜已半ヲ


    二十六日 霽、到商會、錢穀ノ會計大略月賦ヲ山崎、森田ノ二子ニ爲致、午前到
    後藤氏、訪松井氏、松井氏云、今井純正來、明夕與兄會吾舎セシメントス、若
    何、予曰幸甚、辭出、小曾根淸三良來訪、窃ニ朝鮮貿易ノ事ヲ談ズ、岩村八郎
    ニ内々相謀ラシム、且白糸代價シラベノ事ヲ托ス、未時到大浦、到ヲールト商
    會帆前船ノ談判ヲ決、代價合貳萬五千ドル、漸五百ドルヲ引カシム、貳萬四千
    五百ドル、六月中ニ壹萬四千ドル相渡シ、殘壹萬五百ドル八月ニ相渡ス樣約シ
    置、歸途入異人店、買襟並襟結、代四圓一歩、遂入嘉滿樓、與小曾根右約ヲ以
    テナリ、久之小曾根來、且談且飲、興情未盡、遂携小村、鶴羽入新築樓、小曾
    根先去、余亦随出、小村將誘余嘉滿樓、余辭去囘寓、有小不平之事、就枕一睡、
    八ツ時比ヨリ再ビ不能睡、昧爽ニ到ル、此日淸岡半四郎宰府歸途中、時津より
    書狀ヲ越ス

    二十七日 着洋服、到後藤氏、談以昨日ヲールト條約之事、午後與(島村)勇次郎
    行出島、行大浦、買洋服アリ金無之、遂到ヲールト氏洋服ノ相談ヲ致ス、ヲー
    ルト氏ヨリ人ヲ遣シ同行、價不廉不買、歸途入嘉滿樓小酌、微醉囘寓、着一睡
    豁目已薄暮、小曾根淸三郎來去、後藤氏家僕熊次來云、主人ヘ不都合ノ事アリ
    周旋被下度、何分速ニ御苦勞被下、余不能辭、到後藤、談以事故、後藤亦早速
    承知ナリ、談話久之、淸岡半四郎來云、大村より指掛リ申入度有之事、引返ス、
    余不聞事故、直囘寓、心淸氣澄、上架樓納涼風、隔水燈光閃映、絃聲闐然、夜
    三更ニ近乃寐

    二十八日 霽、朝到後藤氏、談以君公御上京廷引之事、後藤氏亦不平、余意以松
    竹二島(松島、竹島)開拓之事説、吾公則吾公、亦喜事ノ主也、豈有不奮起之理哉、
    然則京師之行立決矣、於是後藤氏亦同余意、後藤氏行大浦、借ヲールト氏之船、
    將期日發港、是日午前訪岩村八郎不遇、未牌到後藤氏、云、ヲールト氏ノ船ヲ
    借リ得タリ、何日ヲ期ン、余對以明後日、談笑囘寓、命酒獨酌、田中幸藏携後
    藤氏之手簡來訪、此人長測量學、明後日乘組ノ事ヲ托ス、去後之寐

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  10. 二十九日 曇、早起昨日伺濟商會役人月金ノ書附ヲ調べ、高橋勝右(衛門)ヘ渡ス
    且談ヲールト帆前船買受約條之月賦、勝右衛門無子細承知ノ樣子ゆへ下階去、
    須臾又到勝右衛門處、勝右衛門集山崎森田、ヲールト氏月賦ノ書附ヲ以冷笑而
    談ズル樣子、山崎、森田二子當時買受難シナド談シ居ル、余意不快、到後藤氏
    談以事故、參政(より) 直之進亦竹島ノ行ヘ携ヘ去候被命、直之進ヲ卽時呼立、
    參政ヨリ附屬ノ行を命ズ、午前到ヲールト氏、乘船ノ日限ヲ問、云後刻相調返
    答致シ候樣申ニ付、卽返ル、未時岩村八郎來談、問以朝鮮之事、置酒饗八郎、
    醉裏明後日余將航海、子意若何、於是八郎躍然乞同行、八郎去後到松井氏、酌
    酒久之、到後藤氏、置酒且談且飲、夜已三更、松井氏余ニ先去ル、余歸途顚墜
    橋上、危甚

    三十日 霽、將發竹島之行、是日衆客來談、俗務鞅掌、精神殆疲勞、五時後置酒、
    松井氏亦來久之、山崎着旅装來、ヲールトノ舟七字發帆ノ由申來、於是寓舎ノ
    樓下より小舟ニ掉シ、松井山崎同乘、寓樓主森田並勇次郎輩數見送リ到大浦訣
    別、是時已八時ナリ、船タカボコ(高鉾島) ニ至テ泊ス

    五月一日

    五月六日 舟入唐津港、日已午後ヲ過、早速與山崎直(之進)上陸、到新成方、尋
    吉田八右衛門、少々風邪出勤不致由、櫻井某ヲ問、近鄕ニ出不廻由、於是不得
    止、街市ニ入投宿、松井、田中、岩村ノ輩亦來浴場、置酒談話久之、松井、田
    中ノ輩船へ囘、余與山崎醉話多時寐

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  11. 七日 霽、早朝令到山崎直訪吉田八右宅、石炭ノ事ヲ談論、漸明日午時迄ニ五萬
    斤丈ケ積入候樣約置、晡時到船、須臾八右衛門輩亦來談話久之去、余亦上陸、
    置酒與山崎直飲、夜二更乃寐

    八日 晴、早起令山崎直到滿島、石炭ヲ受取、余獨留、吉田八右衛門來談、唐津
    領惣山石炭引受買取呉候樣申談ズ、随分談判ニヨリ引受可申、何分一ト先ヅ出
    崎致シ、決議可致樣申談ズ、午前辭去、余寓樓ニ上、頻望山崎之囘寓、是日午
    時迄ニ石炭請受候ヘバ、早速出帆ノ手譯ナリ、日已二字近シ、松井山崎來云、
    今日器械ノ傷ミ居候樣申立、船將不發港、明日明後(日)亦修覆出帆不調由ナリ、
    余憤然到船、船將ヲ責、實以傷ミゆヘ、是非共明夜迄滯船ノ段申出ゆヘ、余與
    松井決策、陸路通、歸崎致ス由申入上陸、夜置酒久之、寐

    九日 早起、天將雨、余頗狐疑、松井傍ヨリ是非決意發程ヲ促ス、余亦奮然匆々
    喫飯、與松井並水夫梅太郎、辭唐津、山崎直之進ヲシテ石炭ノ談判ヲ決(セ)シ
    ム、路經山間、モモノ川[桃ノ川]ニ到テ喫飯セントス、店ナシ、不得止投一酒肆、乞焼
    酎久之出、二字漸到有田山、雨、馬借ニテ喫飯ス、輿ト馬ト周旋セシム、不時
    ゆヘ不相調由申來、四字前勉強發有田山、到ハサミ[波佐見]日已沒、足痛甚、於是里正
    ノ宅ニ到リ辯論漸駕籠貳ツ出サシム、雨甚點濕透衣、夜半比達川棚、(到)里正
    宅、里正ニ船ヲ周旋セシム、風雨ゆへ不調段申來、不得止投宿街市、問酒、無
    之由、與松井相對一笑、夜已二字ヲ過乃寐

    十日 雨不止、八字比少止、船子ヲ促シ舟ヲ發ス、海上風惡ゆへ欲囘棹[楫]、余不可、
    勉強シテ搖櫓セシム、梅太郎亦加勢致、午後雨來風勢忽轉、順風滿帆、衆皆大
    喜ス、二字後船達時津、奮然勉歩、五時入崎陽、與松井訪後藤氏、囘寓衆皆欣
    然款接、殆有歸鄕之態、置酒森田ヲ呼、醉盡而止

    十一日 霽、入商會、談公事、到後藤氏、大ニ談志意之所根底、薄暮置酒寓樓架
    上、松井氏來、小曾根、田中浩造亦來、盡醉去、浩造金一圓借[貸]シ呉候樣申談、
    卽時ニ投與ス、是日山崎直之進歸來

    十二日 雨、九字到後藤氏談話、囘寓入商會、二字後囘寓、夜山本龍次郎來談ス、
    置酒久之去、是日大坂より朱蓮船(朱林船)入港、由井畦三郎來、近來諸方ノ遊學生色々
    金ヲ相談有之、不得止勢ナリ、於是好古(弥太郎のあざ名) 一社ノ長ト(ナ)リ、浪
    子(士)ヲ一月五圓金ヲ以、羅集致候樣被命ナリ、十字雨甚、點燈讀書、三字比寓舎
    主來云、大水大水、匆惶起見、波浪撞衝全屋、已漂ノ勢ナリ、街市人聲喧闐、
    水勢如矢、器物屋板不知數、盤旋去、夜漸明、後藤氏ニ到問安否、歸途旋市街、
    臨河之屋宅蕩然無迹、漂沒ノ人亦多有之由、希代ノ大水ト云

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  12. 皆さま 
    岩崎弥太郎日記の慶應三年四月十九日の記述です。

    十九日 曇、後藤参政ニ至ル、参政曰、才谷社中合テ十六人、毎日月
    五圓ヲ乞フ、今日大洲(藩)舟、將發帆、先ヅ金百圓ヲ才谷(龍馬)ヘ與ヘヨ、於是森田晋三ニ命、百圓ヲ爲持遣ス處、才谷より書状ヲ以百圓ハ士官へ投ズ、我一人ノ給金ハ如何致呉候哉と尋越、右ニ付再参政ニ至る、参政曰、ソレハ過時彼自来談、事已決、不用再投金云々、再才谷へ委細掛合致候處、又々才谷より此度登坂ハ無餞儀事ニ候ヘバ、是非五十圓借用申度段申来、遂決意、我ヨリ贐別として金五十圓自分持参才谷寓へ到り投與ス、此金森田へ談、公金借用ス、才谷喜悦、出酒且飲且談、大ニ當時人物條理ノ論ヲ發、日已迫黄昏辭去、到参政、再發當時條理之論、久之返寓、今日大洲船へ(土居)市太郎上乗り命ズ、浪華ニテ馬袴、越後シマ相求来候様託置


    岩崎弥太郎が、坂本龍馬に餞別を渡す記述があります。このことは、いろは丸沈没事件に奔走して、四月三十日には広島に滞在していたことが分かっている坂本龍馬の日記と合わせて考えて、岩崎弥太郎の航海に加わった、水主の梅太郎が、坂本龍馬の変名の才谷梅太郎とは別人であることが分かります。


    この十日ほど後になって、岩崎弥太郎、松井周助、山崎直之進らは、後藤象二郎の命により、竹島と松島の開拓視察のため、英国貿易商人ウィリアム・J・オールト[William John ALT]から借用(弥太郎日記二十八日の記述)、もしくは買い受け(弥太郎日記二十九日の記述)した船で、四月三十日の夜八時に長崎を出帆しました。


    慶応三年四月三十日(1867年6月2日) 長崎出港(ただし当日は長崎港内の高鉾島に泊)
    慶應三年五月一日(1867年6月3日) この日の早朝に出港と思われる。
    慶應三年五月六日(1867年6月8日) この日の昼過ぎに唐津に入港

    高鉾島の 緯度32.715738 東経129.832392 および、慶應三年五月一日(1867年6月3日)から計算される、長崎高鉾島の日の出は5時15分(日本標準時)になります。したがって、この日の夜明けは、それより36分ほど早い、午前4時39分頃と計算できます。ところが、高鉾島からの日の出の方角は、方位63と計算され、この方角には、標高401メートルの英彦山の山頂方向に完全に一致してしまいます。しかも、前日午後から曇ってきてこの日は雨だったと考えられますので、出港は早くても五時過ぎであったと考えられます。

    以下は弥太郎日記の空白期間の天候の記録です。

    陰暦と陽暦の日付 萩  厳原 長崎
    四月晦日(6/2)  晴れ 曇り 曇り
    五月一日(6/3)  雨  雨  雨
    五月二日(6/4)  雨  曇り 晴れ
    五月三日(6/5)  晴れ 晴れ 雨
    五月四日(6/6)  晴れ 晴れ 晴れ
    五月五日(6/7)  晴れ 晴れ 晴れ
    五月六日(6/8)  晴れ 晴れ 晴れ

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  13. 小嶋さん

    「岩崎彌太郎日記」紹介、ありがとうございます。

    慶応三年四月(1867)
    二十六日 窃ニ朝鮮貿易ノ事ヲ談ズ

    二十八日 霽、朝到後藤氏、談以君公御上京廷引之事、後藤氏亦不平、余意以松竹二島(松島、竹島)開拓之事説、吾公則吾公、亦喜事ノ主也、豈有不奮起之理哉、

    たしかに、竹島、松島が出てきますね。すごい!

    「松竹二島(松島、竹島)」となっていますが、これは、原文がそうなっているのでしょうか? あるいは、原文は「松竹二島」だけで、(松島、竹島)は翻刻者の注のようなものなのでしょうか。(影印はありますか?)

    読み方(切り方)ですが、
    霽。朝到後藤氏。談以君公御上京廷引之事、後藤氏亦不平。
    余意以松竹二島(松島、竹島)開拓之事説吾公、則吾公亦喜事ノ主也。豈有不奮起之理哉。
    ではないでしょうか?

    「後藤氏」は、後藤象二郎なんですね!

    二十九日
    參政(より) 直之進亦竹島ノ行ヘ携ヘ去候被命、

    三十日 霽、將發竹島之行

    五月六日 舟入唐津港
    とありますが、
    八日 器械ノ傷ミ居候樣申立、船將不發港、
    となって、有田や波佐見を見て

    十日 船子ヲ促シ舟ヲ發ス 
    五時入崎陽

    とあって、長崎にもどってしまったんでしょうか?

    このあとに船は竹島(鬱陵島)に行ったんでしょうか?

    まさにGerryさんご紹介の、大日本海陸全圖(1864)の時代であり、竹島(鬱陵島)は、開拓可能な日本の島と見ていたのでしょうかね。

    それにしても、「松竹二島」をしっかり認識している証拠の文献だと思います。

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  14. 小嶋さん

    解説、ありがとうございます。

    これは、小嶋さんの
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2014/01/original-text-of-chinese-documents.html?showComment=1394209107295#c8786791549764829630
    8/3/14 01:18 コメントへの返事です。おっしゃるように、これから岩崎弥太郎日記の内容解釈の作業はこちらでおこないたいと思います。

    後藤象二郎は、岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助の舅なんですね。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E5%A4%AA%E9%83%8E

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%BC%A5%E4%B9%8B%E5%8A%A9



    確認したいのですが、岩崎弥太郎一行の「竹島(鬱陵島)航海」は、結局行われなかった、ということでよろしいのでしょうか。ヲールト(長崎にいた商人でしょうか)の船を借りて唐津までは行ったけれど、結局そこで終わった、と。
    岩崎弥太郎一行は憤然として、陸路、長崎に帰った、ということでしょうか?

    「英国貿易商人ウィリアム・J・オールト[William John ALT]」が、何らかの理由で船を出すことを止めたのでしょうか?

    八日 器械ノ傷ミ居候樣申立、船將不發港。

    は、一体何が起こったのか。「器械ノ傷ミ」は何かの口実でしょうか。


    関連して、坂本龍馬の「海援隊」は、結局、竹島(鬱陵島)に行っているんでしたっけ?

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  15. WILLIAM J. ALT はイギリス人貿易商人で、グラバーとともに長崎にいたんですね。
    それから、大阪、横浜に移る。明治初期の有力な外国人政商といったところでしょうか。
    鬱陵島の情報も独自に知っていたかもしれませんね。

    http://www.nfs.nias.ac.jp/page019.html

    William John Alt was born April 4, 1840 in Greenwich, England. At the age of twelve he
    entered the Merchant Service. Seven years later he joined the Customs Service in China, but left for Nagasaki later the same year after the port was opened to foreign trade. He registered with the British Consulate in Nagasaki January 6, 1860 as a general commission agent. Like his fellow young merchant-adventurer from Britain, Thomas Glover, William Alt made a considerable fortune in the first decade of the foreign settlement by trading tea, marine products, ships and weapons.

    The headquarters of Alt & Co. was located on the Nagasaki waterfront at No. 7 Oura.
    Situated behind this building at Oura Nos. 18, 19 and 20 were the tea firing warehouses where tea from the neighboring countryside was dried by hundreds of workers on rotating shifts which operated twenty-four hours a day. The coal warehouses were at Oura No. 45, along the water below Minamiyamate. High upon the hill of Minamiyamate overlooking the harbor, Alt built a huge private residence at Nos. 14, 14A and 29. The majestic house still stands and is one of the great tourist attractions at Glover's Garden.

    From early on, Alt was an active member in governing the foreign community at Nagasaki.
    In June 1861 he was appointed one of three members of a committee to head the newly
    created Chamber of Commerce, and in February of the following year he was elected one of three original members of the Municipal Council. Alt also provided the foreign settlement one of its two fire engines -- Glover & Co. having the other.

    Although William Alt was the driving force behind Alt & Co. in Nagasaki, he had a number of partners over the years. His original partner was Herbert M. Wright (1860), then came H.P Simpson (1862), Walter M. Norton (1864) and John R. Hooper (1867). When Alt left Nagasaki for Osaka in 1868, Norton also left the firm. By the beginning of 1871, Henry Hunt was signing for Alt & Co. in Nagasaki and running affairs there. He was assisted by Fredrick Hellyer, a nephew of Alt who had come to Nagasaki in 1868 to work for the company. In 1872, after Alt had returned to England, Hellyer became Hunt's partner in Alt & Co. In 1881, Alt & Co. disappeared from the roster of foreign companies in Nagasaki. Both Hunt and Hellyer (joined by his brother Thomas) opened their own companies in town, with the former taking over all of Alt's former insurance concerns.

    We know a fair amount about Alt's private life as well, thanks to records kept by his wife and presented (in edited form) to the City of Nagasaki by their great granddaughter, the Viscountess Montgomery of Alamein in 1985. Upon his way home to England in 1863, Alt met and fell in love with Elisabeth Earl, the sixteen-year-old daughter of George Windsor Earl, the Magistrate of Province Wellesley at the Straits of Malacca. After completing his work in England, William Alt returned to Australia, where he and Elisabeth were married at Adelaide on September 15, 1864. The two newlyweds then proceeded to their new home in Nagasaki.

    William and Elisabeth Alt had eight children, six daughters and two sons. The first four children were born in Japan and the remaining ones in England. The Alts lived in Nagasaki until 1868, when they moved to Osaka so that William could pursue business interests in the newly-opened foreign settlement there. They stayed there only eighteen months before moving on to the settlement at Yokohama.

    Because of William's poor health, in 1871 the Alts returned to England, settling initially in Surrey. They later moved to London and purchased a house in Kensington. They also had a villa at Rappallo in Italy, where William went in winter to ease his bronchial troubles. He died there on November 9, 1908 at the age of sixty-eight.

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  16. 小嶋さん

    岩崎弥太郎とオールトは深い関係にあったようですね。

    竹島=鬱陵島に行くためには、船がいるわけで、その部分をおさえていたのが、当時の貿易商人だったのでしょう。「海援隊」の話も出てきます。しかし、岩崎弥太郎は、鬱陵島に行って何をしようとしていたのでしょうか?

    http://www.uwosh.edu/home_pages/faculty_staff/earns/althouse.html

    A Friend of Iwasaki Yataro

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  17. matsuさん

    岩崎弥太郎が、松島・竹島航海に用いた船がどんな船であったかを調べることは、重要ですね。その点で、matsuさんが教えて下さった、オールトのヨットの情報は興味深いです。

    Alt's early financial success is indicated by the fact that he commissioned Scottish shipbuilder James Mitchell to construct a yacht in the spring of 1861, less than two years after his arrival in Nagasaki. A large number of foreign residents turned out on the morning of July 20, 1861 for the launching ceremony at the "Aberdeen Yard" in Naminohira (present-day Matsugae-machi). The ceremony is described in colorful detail in the English-language press:

    On arriving at the Yards we found everything just as we expected . . . There was the little vessel, her masts already stepped, all ready to be started into her new life, gaily adorned, in Chatham dockyard style, with scores of flags and pennants. . . All pronounced ready, the signal given, the dog-shores knocked away, the Champagne sprinkled, the name Phantom' given and the pretty little vessel slid gently towards her future element; unfortunately however before she had accomplished the necessary distance the ground which has only recently been made and not yet piled, gave way in consequence of which she gently heeled over, and thus stayed the further proceeding until next tide. Of course for the first few moments a feeling of disappointment and some anxiety prevailed but on examination it was found that the mass of planks forming her cradle was effectually supporting her all along the bilge, and all were put immediately at ease by the assurance that there was no strain or the slightest other hurt. A large party of the company then adjourned to breakfast at the hospitable table of Messrs. Alt and Wright, and there, with many congratulations, toasted, " Success to the Phantom". . .

    William Alt and his friends waited for the tide to rise in Nagasaki Harbor before returning to Naminohira to complete the launching. Although not documented in Japanese and virtually forgotten in Nagasaki today, the launching of the sixty-foot, thirty eight-ton "Phantom" is noteworthy in that the vessel was Japan's first yacht and that Mitchell's "Aberdeen Yard" was Nagasaki's first Western-style shipyard. It was, indeed, the "phantom yacht."


    この船は英語のヨットの意味から考えても、オールトが1861年に個人遊行(レジャー)用に作らせた船でしょうが、数年経って、他人に貸したり、または売る気になっていたことも考えられます。もっとも、このヨットは、岩崎弥太郎たちが、航海に使った船としては、小さすぎる様に思えます。しかし、即座にこの船ではなかったと断定することは出来ません。造船年、定員、船の速度と航海日程、および金額について示唆に富んでいます。

    弥太郎たちが航海に使用した船については、
    司馬遼太郎氏が、「藩の汽船」(『竜馬がゆく・朱欒の月』の章)と妄想していますし、翻刻本の例の「怪説者」も「英国オールト商会の汽船で」(岩崎弥太郎日記p8の解説)としていて「汽船」と考えている「研究者」もいるようです。

    しかし、私は、汽船(汽帆船)ではなく、帆船であったと思うのです。その理由は、岩崎弥太郎日記にあります。

    二十六日 「ヲールト商會帆前船」
    二十九日 「ヲールト帆前船」
    三十日 「ヲールトノ舟七字發帆ノ由」
    となっていて、汽船とは書かれていないからです。

    帆前船とは、広義には和船もヨットも含まれる帆船全般を示しうる言葉です。霞ヶ浦の帆引き船や往時の弁才船を言う場合もあるでしょう。しかし、今でも懐かしい響きをもって使う「帆前船」という言葉は、イメージ的には西洋式帆船のことを指すでしょう。それも、スループ(1本マストに縦帆のスループ。後代の戦闘用の軍艦区分のスループの意味ではない)や、ヨット(.縦帆の小型の帆船)よりも大きな、スクーナー(2本以上のマストに縦帆)や、バーク(最後部のマストだけが縦帆で、他のマストは横帆)、およびシップ(三本以上の全マストに横帆のみを持つ)のような大型の西洋式帆船を指していう言葉ではないでしょうか。

    この時代は、機関が付いた船であったなら、弥太郎は、汽船と記したはずです。

    また五月一日に長崎を出て、五月六日に唐津では時間が掛かりすぎです。この五日間にどこかに行っていたと考えることができます。この謎の五日間に関しては、もっとも良い条件の風を得た航海であったならば、五月一日からの二日半で、竹島(鬱陵島)への航海が出来た可能性もあります。帰りも上手い具合に逆に風が吹いてくれて、残り二日と少しで、六日の昼過ぎに唐津入港というのは出来過ぎた話になりますが。

    もし、汽船だったならば、この時代にも無風でも時速5から6ノットで航海できました。
    洋式高速帆船で真艫(ちなみに船が真後ろから風を帆に受けることがマトモの語源です)によい風を受ければ、14から15ノットぐらい出せた可能性があります。帆船は、逆風でもジクザグに航海すればどの方向にも航海可能ですが、無風では動けません。

    今夜は時間がありませんので、オールトが商売で扱っていた船と、気象条件については、明日考察したいと思います。

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  18. matsuさん他の皆さま
    岩崎弥太郎が竹島への航海に使用した船が特定できました。
    やはり、汽船ではなく、純然たる帆船でした。
    1862年に、米国ニューヨークで建造されたもので、
    排水量386トン、全長39.0m全幅8.4m の木製帆船バークでした。

    バークとは洋式帆前船の形式名称で、通常三本(あるいはそれ以上)の帆柱(檣)があり、前方の檣(しょう)には横帆をそなえ、最後尾の檣にのみ縦帆を有するものです。
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Barkskibs_staende_rigning2.png

    また、弥太郎たちは、オールトからこの船を借りたのではなく、購入していました。

    調査に時間が掛かりましたが、説明が込み入ったことになりますので、その前に、坂本龍馬の竹島航海計画についておさらいします。

    6/10/12 00:30(2012年10月6日)に、こちらの
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2012/09/1876-watanabe-koukis-second-opinion-on.html
    でもコメントしましたが、

    坂本龍馬の慶応三年三月六日付けの印藤聿宛の箇条書き書簡では、坂本龍馬は、下関出発下関帰還の計画で、行ってただ帰るだけで三日の暇を要するだろう。これは、あくまでも下関からとして、という意味の事を書いています。

    「下の関ヨリ行テ下の関ニ帰ル
     彼島ニ行て唯かへれバ三日のひまとるべし。
     但し下の関より。」
    手紙全文は長いので、原文を確認される方は、以下のサイトを参照願います。
    http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E6%89%8B%E7%B4%99
    慶応3年3月6日付印藤肇宛(京都大学附属図書館蔵)

    この当時、土佐藩は、クスノキから取れる樟脳を輸出産品の柱としていましたので、竹島(鬱陵島)にはクスノキの若木もあるらしいことに関心をしめしています。
    龍馬の書簡から、竹島にかかわる部分のみ抜き書きして現代文でまとめてみます。

     先日、三吉周亮様が下関へ帰るときのことだったと思いますが、三吉様の事が話題になりました。彼の人柄が誤解されていて心配です。
    竹島へ行ってみようという計画については、三吉周亮様が、熱心に賛同してくれて、近日中に再び下関に出て、決定がなされることになりました。
    私(龍馬)は、返事を待っている所なのですが、今現在の問題だけで忙しいところなので、竹島調査行という三吉周亮様の遠大な政策には、諸人が従わないのではないかと残念に思っています。私、坂本は、一人でも竹島に行ってみたいと思っています。
    大洲藩の蒸気船の伊呂波丸を近いうちに借りることが出来る予定です。
    竹島は、地図上で計算をすると、距離は九十里ほどでしょう。
    先頃、井上聞多が、竹島に渡った者に、問い質したところ距離は、百里ということで、大体、同じでした。その島に渡った者の話では、楠の木によく似た木があって、新しい木があるほか、一里以上、二里ほどもあるだろうと思われる平地もあるということでした。
    島の流れは、十里ばかりなりということで、私(龍馬)が、曾て、長崎で聞いた話と同様な話でした。これは、話の元になったのが同じ話なのではないかと疑ってもいます。
    下関から竹島に行って下関に帰るには、ただ行って帰るだけで、三日の暇を取ることになるでしょう。
    船(伊呂波丸)の借入が出来たら、竹島行きの航海が、実行に移されるでしょうから、賛同者を募集する方法があれば、君たちが同行するかしないか前もって聞いておきたいし、行かないなら希望者を募らなければと思います。お金の問題もあるので、寄付してくれれば助かります。ただし自分一人でやるには、予算が足りません。手元にも少しはあるのですが、予算は、十ケ月の期限で四百両を借りたいと思います。
    尽力して貰うことが叶うなら、生前の大幸であるので、よろしくお願いしたい。
    頼み申し上げたいこととしては、三吉慎蔵と、君(印藤聿)が、一緒に行くことがもし無理ならば、代わりに、山に登って、材木を見て、木の名を確かめたり、土地を見て、稲や、麦について、山にては、桑の木や、ハゼの木が、その地で植生できるのかどうかを見る者を、また、もう一人は、海に入って、貝類、魚類、海草などを見る能力のあるものを、お世話して戴けないだろうかということです。頼みたいことと言うのはまさにこのことです。
    上記の件は、私、坂本龍馬の一生の思い出として、良林や、海中の品類も良いものを得ることができるならば、人を移住させて、万物の時を得るをよろこび、諸国の浪生らに命じて、この土地を開拓すべきという思い千万なのです。

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  19. 龍馬の手紙で、竹島に言及したもう一通の手紙は、短いものです。文中にある小曽根英四郎は、岩崎弥太郎日記に書かれている、小曽根清三郎の弟です。

    慶応三年四月六日付け 伊藤助大夫宛書簡

    今日ハ金子御入用と存候得バ、小曽根英四郎みせ番頭清吉を以て、六百両さし出申候。
    残弐百両ハ竹島の為ニ今シバらく借用仕置候間、其御心積奉願候。
    早々頓首々。
       四月六日   龍
     伊藤九三老兄   直柔
       足下


    このように、竹島(鬱陵島)への航海は、もともと坂本龍馬が、いろは丸を用いて、慶応三年の五月頃に行われる予定であったものですが、いろは丸が、四月二十三日夜十一時頃に紀州藩の明光丸と衝突事件を起こして、沈没してしまいましたので、坂本龍馬と海援隊による竹島(鬱陵島)への航海は実現しませんでした。
    龍馬は、四月十九日に岩崎弥太郎と会い、その数日前には、後藤象二郎と話をしています。しかし、後藤象二郎が、岩崎弥太郎に竹島への航海を命じたのは、いろは丸沈没の報告を受けてのことというわけではなさそうです。これは、紀州藩の明光丸が、長崎に入港して、長崎奉行所へ衝突事件の報告を行ったのが、四月二十九日の夕刻であったので、この時には、すでに弥太郎たちの竹島・松島航海は実行に移されつつあったからです。

    いろは丸は、大洲藩の所有する「伊呂波丸」という船で、三本帆柱の汽帆船であり、160トン、全長54.0m全幅5.4mの鉄製、蒸気機関スクリュー船です。龍馬たちは、平仮名で「いろは」と記していたので、現在は、「いろは丸」と表記されることが多いようです。

    従来の想像図では、内輪船として描かれていましたが、平成22年に、「新発見」された、『白帆注進外国船出入注進』の伊呂波丸の絵図によって確認できるように、内輪船ではなく、勝海舟の『海軍歴史』のとおり、スクリュー船でした。
    『白帆注進外国船出入注進』は、天保15年(1844)から慶応4年(1868)まで長崎港に入港した艦船計208隻以上の船の絵が描かれている佐賀藩の記録資料です。

    いろは丸は、1862年、英国バーミンガム・グリーノックで建造された船で、文久三年(1863年)九月に薩摩藩が購入し、それを慶応元年(1865年)十一月に長崎のボードウィンが買い取ったのち、慶応二年(1866)十二月に大洲藩が購入し「伊呂波丸」と改名したものです。平成二十二年四月に、大洲藩が「伊呂波丸」を購入した時のポルトガル語の契約書が見つかり、大洲藩は、ボードウィンからではなく、ポルトガル人領事・ロウレイロより、4万メキシコパタカで購入したものだと判明しました。メキシコパタカは、メキシコペソに同じで、この場合は、4万ドルに同じです。
    大洲藩の国島六左衛門に購入を勧めたのは、他ならぬ坂本龍馬でしたが、大洲藩内で問題となり、責任を取らされた国島は十二月に切腹しました。

    この船を坂本龍馬たちの「亀山社中」が、慶応三年三月から借り入れを申し込み、一回の航海十五日間を五百両で、大洲藩と契約していたものです。薩摩藩の組織であった「亀山社中」が、四月に、土佐藩出資の「海援隊」と名を変えましたので、事件時は、「海援隊」の「いろは丸」となっています。
    これは、龍馬が、隊士の菅野覚兵衛と高松太郎宛てた四月二十八日付けの手紙で、海援隊という名前になったことを知らせているので、名称が変わった直後であったことが分かります。

    長々と説明したのは、いろは丸は、機帆船であり、無風でも5~6ノット程度の航海が可能であったと考えられることです。実際、紀州藩の船と衝突したときは、深夜23時頃に霧の中でも航海していました。この船の賃料が、15日間で、500両であったことです。
    500両は、ドルに換算すると、約667ドルです。

    この時代のドルと両の通貨の換算は、考え方によって、667ドルから2000ドルまでいろいろ幅があり、異論もあると思います。しかし大方のところは、667ドル程度とするのが普通です。(この理由は、あらためて別コメントで詳しく説明します。)

    この667ドルという金額に対して、岩崎弥太郎日記で、弥太郎が竹島探険のために、オールトと取り交わした、2万4500ドルという金額が、機帆船ではない通常の帆船であることからみて、借用料ではなく、購入費用として考えるべき金額であることを示します。

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  20. 土佐藩所有の洋式船舶所有年次・取得金額の一覧です。

    安政二年(1855年)  船名未詳(建造) 1006両
    安政六年(1859年)以降  躍霊丸(建造)

    文久三年(1863年)四月  南海丸(購入) 英商ウィルキンソン 11万5000ドル

    慶応二年(1866年) 空蝉 (購入)
    慶応二年(1866年)十一月 蜻蛉(箒木)(購入) 英商オールト 2万3000ドル
    慶応二年(1866年)十二月 胡蝶(元薩摩所有)(購入)蘭ボードウィン7万ドル

    慶応三年(1867年)二月 夕顔 (購入) 英商オールト 15万5000ドル
    慶応三年(1867年)三月 羽衣 (購入)  1万3500ドル
    慶応三年(1867年)六月 横笛 (購入) 1万7000ドル
    慶応三年(1867年)六月 若紫(南海船) (購入) 英商グラバー 7万5000ドル
    慶応三年(1867年)七月 乙女 (購入) 英商オールト 2万4500ドル
    慶応三年(1867年)以降  紅葉の賀 (購入) 英商オールト 19万5000ドル
    明治三年(1870年) 鶴 (購入) 英商オールト      10万ドル

    -------------------------------------------------------------------------

    次に土佐藩所有の詳しい船舶データをまとめてみます。

    南海丸 鉄製汽船 内輪   1856年 排水量412t 100馬力 全長55.8m全幅 9m 11万5000ドル

    蜻蛉(箒木)  鉄製汽船 内輪   排水量60t 30馬力全長23.6m 全幅5.4m 2万3000ドル
    胡蝶  鉄製汽船 外輪   1862年 排水量146t 150馬力 全長42.9m全幅8.1m
    (別資料274t全長60m 全幅8m) 7万㌦
    空蝉   汽船 不明    1863年 排水量116t 150馬力 全長38.1m 全幅7.2m
    夕顔  鉄製汽船スクリュー 1863年 排水量659t 150馬力 全長64.8全幅8.1m (別資料では全長: 61.8m  全幅: 7.2m)15万5000ドル
    若紫(南海)木製汽船スクリュー1866年 排水量140t 25馬力全長25.2m全幅6m  7万5000ドル
    紅葉賀 木製汽船      1867年 排水量1000t 300馬力 19万5000ドル
    鶴   鉄製汽船      1870年 排水量431t 100馬力  10万ドル
    羽衣  木製帆船スクーナー 1860年 排水量186t 全長34.2m全幅6m 1万3500ドル
    横笛  木製帆船スクーナー 1863年 排水量265t全長34.8m全幅8.4m 1万7000ドル
    乙女  木製帆船バーク   1862年 排水量386t全長39m全幅8.4m 2万4500ドル
    大極丸 木製帆船スクーナー 1855年 (元は慶応二年(1866)三月二十日に薩摩藩が6300または1万2000ドルで購入した) 1万1100ドル
    順海丸 木製二檣の帆船
    船名不詳 木製帆船スクーナー     排水量 68t      8000ドル

    ※大極丸(WildWave)スクーナーは、鹿児島に向け長崎から出港した翌日の慶応二年五月二日未明に、五島列島の中通島潮屋崎沖で嵐に遭遇沈没したという説がある。
    一方、海援隊が、慶応二年十月二十八日プロシア商人・チョルチーを経て、薩摩藩の帆船大極丸を購入した。その後なんらかの理由で、土佐藩所有となった大極丸が、順海丸(Hudson)であり、初代大極丸沈没による二代目の大極丸で、船名不詳の船舶も同船なのかもしれません。

    岩崎弥太郎の慶応三年四月二十六日の日記では
    「未時到大浦、到ヲールト商會帆前船ノ談判ヲ決、代價合貳萬五千ドル、漸五百ドルヲ引カシム、貳萬四千五百ドル、六月中ニ壹萬四千ドル相渡シ、殘壹萬五百ドル八月ニ相渡ス樣約シ置き」となっていました。

    おそらく、弥太郎は約束通り、六月末までに、一万四千ドルを支払って、八月の残金支払いを待たずに、七月朔日付けで、この帆船の所有権をオールトから譲り受けた契約であったのだと思います。

    2万4500ドル金額とオールトからという条件で、岩崎弥太郎が竹島・松島航海に使用した船は、乙女丸  木製帆船バーク   1862年 排水量386t全長39m全幅8.4m と特定できました。

    蛇足ながら、龍馬のいろは丸についても研究が進んでいますが、船中八策を起草した船舶として有名な夕顔丸についても、昭和五十六年末(1981年)に高知県内の仁井田神社で絵馬が発見されて以降、近年、研究が進み、船中八策起草の船室が復元されるほどになっています。
    夕顔も、1863年イギリスで建造され、慶応三年二月に英商オールトより15万5千ドルで購入されています。

    http://ji5isl.exblog.jp/11435041
    http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~ryoma/hitou70.pdf
    (小松茂久氏記事 平成21年にロンドンの海事博物館で検査報告書がみつかった。 ※次号で同氏による若干の訂正記事あり)

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  21. 小嶋さん
    興味深い資料をたくさん、ありがとうございます。

    >坂本龍馬の竹島航海計画

    >この当時、土佐藩は、クスノキから取れる樟脳を輸出産品の柱としていましたので、竹島(鬱陵島)>にはクスノキの若木もあるらしいことに関心をしめしています。

    >先頃、井上聞多が、竹島に渡った者に、問い質したところ距離は、百里ということで、大体、同じでした。
    >その島に渡った者の話では、楠の木によく似た木があって、新しい木があるほか、一里以上、二里ほどもあるだろうと思われる平地もあるということでした。

    「井上聞多」は、後の井上馨ですが、
    この当時から「竹島」に興味を示していたことがわかり、面白いです。

    明治16年に鬱陵島からの日本人引き上げを指示したのは井上が外相の時だったと記憶しています。


    ただ、当時の井上聞多は、この「竹島」について、「鬱陵島」だとの認識は持っていなかったのではないかと思います。あくまで「隠岐の北西にある、資源の豊かな竹島」だったのではないでしょうか?

    結局、鬱陵島の特産は、欅(けやき)(=槻)で、楠はあまり出てこないように思います。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a26kou3461/

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  22. 前回のコメントの補足です。
    「霧の中でも」では、意味が不明確でしたので、「霧の中の風がない時でも」に訂正します。

    瀬戸内海の海霧ハンドブック
    http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00388/mokuji.htm
    瀬戸内海の霧は、前線などに伴う悪天候の際に発生する前線霧(混合霧)と、晴天の良い夜間に発生する放射霧や移流霧に大別できる。いずれの場合も、風の弱い時に海面の冷却によって発生する。


    matsuさんコメントありがとうございます。

    龍馬も弥太郎も井上も三吉も無論のこと、当時の日本人が、竹島を、朝鮮に属する鬱陵島とは、全く考えていないのは明らかです。開拓すべき日本の無人島と考えているのです。私が、竹島(鬱陵島)と書いているのは、一般読者の誤解を避けるためで、出来れば、単に竹島と書きたかったぐらいです。

    データに関してですが、
    勝海舟の「船譜」など、船舶の古い資料を調べると、それぞれ誤記や齟齬があります。
    数字のデータはもとより、オランダ語学習から入った幕末の知識人にありがちな、外国人名のカタカナ表記とそれをさらに誤読した表記があることです。
    ヲールトが、オールトは問題ないとしても、ゴロウエルが、グラバー、チョルチーが、ショルティーかジョルジュかとはなかなか思いつきません。
    一番面白いのは、ウィルヲンソンで、ウィルキンソンの「キ」を「ヲ」と誤読しているのは、以前に、渡邊洪基の『松島の儀』の解読で、キーペルスをオーペルスと誤読していたのに気がついた経験がなかったら、即座には気が付かなかったでしょう。

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  24. 竹島(鬱陵島)の樹木相でもっとも特徴的なのは、マノ竹、すなわち孟宗竹であったことは言うまでもありません。

    樹木では、matsuさんの仰るとおり、明治二年の「槻谷」の表杭と、明治二十六年の山陰新聞の記事に、「最も樹木に富み、就中、欅の良木ありと雖とも十数年前より本邦人屢々伐木に來り海邊便利の地は伐採し盡したるの有樣なりしも未だ山中往々良材に乏しからず。」とありますから、みごとな欅が生えていたことは間違いないでしょう。
    ケヤキ(欅、学名: Zelkova serrata)は、ニレ科ケヤキ属の広葉樹で、冬には美しい樹形をあらわにして葉を全て落としてしまい、常緑樹ではありません。

    一方、弥太郎や龍馬の土佐など、西日本や関東南部の低地の森は、照葉樹林帯に属し、遠くから見ると、緑の山が黒っぽく見える常緑広葉樹の森です。クスノキ、タブノキ、シイ、ツバキなどが多く、他に落葉広葉樹も混じり、さらに、モミ・ツガ・イヌマキの常緑針葉樹も混じって生える植生です。。これは、黒潮の影響によるものですが、こうした森は、日本海側の多雪地帯の低地の森にも見られます。

    したがって、対馬暖流の影響と多雪という土地柄から、鬱陵島は、温帯性の広葉樹に富み、南方系の樹木も生えた鬱蒼とした樹木相だったと考えられ、後述する記録と一致します。

    そもそも、鬱陵島、欝陵島、茂陵島は、木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも暗い森に覆われた山という意味で名付けられたもので、羽陵島、武陵島、于山島、亏山島も、同音の字を用いて、同じ島を表した名称であることが、漢字が読める人間には明白です。

    したがって、私は、鬱陵島の低山地は、照葉樹も多く、クスノキも生えていたと思います。
    ちなみに日本は明治後半には、台湾においてクスノキのプランテーションを経営し、当時最大の生産国となっていたそうなので、竹島(鬱陵島)は、南国の高知県や台湾ほど、クスノキの植生に適してるわけではありませんが。

    以前に、matsuさんと解読した、松浦武四郎の『竹島雑誌』に見る竹島の樹木相は、以下のとおりで、樟木に似た樹木があると明記されています。樟木とはクスノキです。

    栴檀木
    朱檀、黒檀共にアリ。実形ハ扼子[くちなし梔子、栀子]ノ如ニシテ白色。
    ○烏木(コクタン)

    タイダラ
    ハンノ木ノ如ク、又樟木ニ似タリ。米子辺、往々此木アリト云リ。
    ○タイタラ オホタラか。オホタラ、漢名 刺楸[はりぎり、刺揪] ハリキリ

    黄栢[きはだ](蘗木)(キハダ) 山茶(ツバキ) 栂(トガ) 槻(ツキ) 大竹 マノ竹

    拘骨[ひいらぎ、枸骨](ヒイラキ)
    葉ハ、機樹葉ノ如シ。木色赤シテ、葉先手ニタツ。本邦ノ榧ニ似リ。
    ○枸骨 一名、十大功労葉。

    檍[オク、ヨク、もちのき、あおき](ヨク)
    カシノ類、名曰万歳。
    ○本草、所謂檍は、冬青ニシテ、モケノキ万年枝ト云モ、冬青[そよご]ハ捴名ナリ。
    (注:「モケノキ」は「モチノキ」か)

    茱萸[ぐみ、茱茰] 胡頽子[ぐみ、胡頹子](コリミ) 苺(イチゴ) 虎杖(イタトリ)

    以上ノ産物ハ、元禄六年、渡島ノ人面タリ見ル所ヲ掲ケテ、米子ノ市人、大谷・村川ノ両氏ヨリ江戸官人ニ呈スル所ノ書ヲ以テ証トセリ
    --------------------------------------------------
    上記の樹木を現代的に同じ順に考察すれば
    センダン(栴檀、学名: Melia azedarach)は、センダン科センダン属の落葉高木。別名、オウチ(楝)、アミノキ。
    コクタン(黒檀、学名:Diospyros ebenum)は、カキノキ科カキノキ属の熱帯性常緑高木。別名エボニー、黒木。
    キハダ(黄檗、黄膚、黄柏。学名 Phellodendron amurense)はミカン科キハダ属の落葉高木。
    ハリギリ(針桐、学名:Kalopanax septemlobus)は、ウコギ科の落葉広葉高木。
    タラノキ属(タラノキぞく、学名:Aralia、和名漢字表記:楤の木属)はウコギ科の一属
    ハンノキ(榛の木。学名:Alnus japonica)は、カバノキ科ハンノキ属の落葉広葉高木。
    クスノキ(樟、楠、Cinnamomum camphora)は、クスノキ科ニッケイ属の常緑広葉高木。
    ツバキ(椿、海柘榴)[2]またはヤブツバキ[1](藪椿、学名: Camellia japonica)は、ツバキ科ツバキ属の常緑樹。照葉樹林の代表的な樹木。
    サザンカ(山茶花、学名: Camellia sasanqua)は、ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹
    ツガ(栂、学名:Tsuga sieboldii)は、マツ科ツガ属に分類される常緑針葉樹。別名トガ
    ケヤキ(欅、学名: Zelkova serrata)は、ニレ科ケヤキ属の落葉高木。ツキ(槻)ともいう。
    ヒイラギ(柊・疼木・柊木、学名: Osmanthus heterophyllus)は、モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
    モチノキ(黐の木)とはモチノキ科の植物の一種。学名:Ilex integra。別名ホンモチ。
    本州、四国、九州、南西諸島、台湾、中国中南部に分布する常緑高木である。
    アオキ(青木、学名: Aucuba japonica)は、ガリア科またはアオキ科(Aucubaceae)[4]アオキ属の常緑低木。
    カシ(樫、橿、櫧)とは、ブナ科の常緑高木の一群の総称。コナラ属Quercus中の常緑性の種をカシと呼ぶ。シイ属Castanopsisも別名でクリガシ属と呼ばれる。またクスノキ科の一部にも葉の様子等が似ていることからカシと呼ばれるものがある。
    ソヨゴ(冬青、学名:Ilex pedunculosa Miq.)は、モチノキ科モチノキ属の常緑広葉小高木。
    グミ(茱萸、胡頽子)はグミ科グミ属(学名:Elaeagnus)の植物の総称で、果実は食用になる。常緑または落葉の低木
    イタドリ(虎杖、痛取、Fallopia japonica)とは、タデ科の多年生植物で樹木ではありませんが、別名は、スカンポ、イタンポ、ドングイ、ゴンパチ。茎を折って食べると酸味があります。
    東京周辺ではスカンポと言い、私も母親に教わって、ハイキングの時に道端に生えているものを囓った経験があります。青リンゴのような味がして美味しいものです。

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    朝鮮側の張漢相の調査による樹木名の記録と比較しても、同種の広葉樹が豊富なことが理解できます。

    蔚陵島事蹟
    所謂樹木、盡是、冬栢、紫檀、側栢、黃薜、金木、嚴木、槐木、榆木、楮、椒、楓、桂樹、栢之類而 其中、冬紫檀、最多。松木、直木、榛木、橡等木、叚終無一株

    西渓雑録
    所謂樹木、盡是、冬栢、紫檀、側栢、黄檗、金椢木、嚴木、槐木、榆椵木、桑、楡、楮、椒、楓、檜樹、栢之類。而、其中、冬栢、紫檀、最多。是乎弥。松木、真木、欅、榛、橡小等、木叚、終無一株

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  25. 鬱陵島に楠は無いようです。

    小嶋日向守様、matsu様、鬱陵島のクスノキについて、松浦武四郎『竹島雑誌』と坂本龍馬『慶応3年3月6日付印藤肇宛書簡』の紹介をありがとうございます。大変興味深く読ませて頂きました。少し蛇足を加えます。

    中井猛之進『東亜植物』岩波全書(1935)によると、鬱陵島は海抜600m以下では暖帯植物が良く繁るが、樟脳をとるクスノキ(Cinnamomum camphora)は無く、この木は朝鮮では済州島にだけ産するとされています。ただし、クスノキ科(Lauraceae)ではイヌグスともいわれるタブノキ(Machilus thunbergii)はあります。

    坂本龍馬が「其島ニ渡る者の咄しニ楠木ニよく似てありしもの広くハ新木在之」と書いているのは、タブノキのことかもしれません。

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  27. 1894年の山陰新聞記事をテキスト化しました。
    漢字は原文を尊重しましたが、日本語を母語としない人も考慮して、変体仮名は現行平仮名にし濁点を加え、句読点と読みがなを適宜補いました。

    明治廿七年二月十八日 山陰新聞

    ●朝鮮竹島探檢(松江佐藤狂水生投)
    客歳、水產上に關し隱岐國各漁村遊歴の際、偶々(たまたま)竹嶋
    出航の議あり。余兼ねて遠海漁業の必要を感じ、常に
    誘導し居るも未だ其業を果さゞるを憾(うら)めり。依て茲(ここ)
    に端緒を開かんと欣然其の擧を賛成し、奮つて準備
    に着手す。遂に漁夫其他乗組員十一人にて船を艤し、
    六月四日、嶋前解纜、島後福浦港に順風を待つ。同月廿
    四日を以て出帆したり。元来我一行の乗込める船は
    鰤(ブリ)釣に使用するものにて船体差程堅牢ならず。加ふ
    るに糧食器具等充分に積荷せるを以て、殆んど船中
    に満つ、僅かに居處を存するのみ。故に船は吃水線よ
    り露出する尺餘なり。之を以て一意海上平穩を祈れ
    り。

    竹嶋は隱岐より西北八十餘里の洋中に孤立し、船を
    駛する五十餘里に至る頃ろ一ヶの孤嶋あり。俗之れ
    をリランコ島と云う。其周圍凡そ一里許りにして三
    ヶの嶋嶼より成れり。此嶋に海獣海驢(トド)棲息し數百頭
    を以て數ふべく、其呌聲囂々として喧しく、此近海は
    鯨族の群遊ありて實に無比の捕鯨場たり。鯨種は充
    分の調査を遂けざるも多分長須坐頭ならん。之れを
    捕ふるには遠洋漁業の仕組にて滊船、或は風帆船の
    補助を仰ぐにあらざれば能はざるべし。此より三十
    餘里を隔てゝ竹嶋あり。海流に就て曰はんに、リラン
    コ島は寒暖海流の堺界線として可なるべし。何とな
    れば日本領海より此の嶋までは、暖流即ち黒潮の支
    流にして、以北は寒流即ち來滿派の流域なり。盖(けだ)し暖
    氣は北赤道海流を源とし、其一支派臺灣の東を流れ
    沖縄島に沿ひ分岐して其本流は太平洋の方に向ひ
    支流は九州の西部より對島海峡より日本海に入る。
    寒流は阿哥科海の北西より來り、黒龍江の前面を過
    ぎ日本海の西の半分を流るゝ派なり。鯨族のリラン
    コ近海に出沒するは即はち寒流暖流の相交る處に
    して、海水の温度能く其來遊に適するならん。
    六月廿七日(出帆より四日目)竹島を距る凡そ一里
    餘の沖より逆風に壁し、次第に強風となり波浪は益
    々動搖して屢々(しばしば)船中に浸入す。剩へ降雨瀕々にして

    船中一層困難を覺へたり。殊に積荷の過分にして何
    時海中へ投棄するの不幸に至らんと覺悟を極め愈(いよい)
    よ嶋に近(ちかづ)くに随いて、風伯益々威を逞ふし加之山颪(やまおろ)し
    を吹き、船を傾け、殆ど転覆するかと疑う計りなり
    しも幸にして難を免れたり。斯く意外の荒(あらし)に遇へた
    る爲め豫想の港に入ること能はず。辛ふじて着嶋し
    たり。
    本嶋は八道中の一なる、江原道に属する島嶼にして
    本名を鬱陵島と云う。本邦人は竹嶋と稱す。内地なる
    蔚珍より東三百五十幹里(朝鮮の一里は我が三町
    五十一間餘に當る)の處に位し、風順なれば二日に
    して至ると云う。往昔は于山國と稱して殆んど無人
    嶋なりしも近世朝鮮政府は人民を移住せしめ、今は
    三百餘戸の多きに達す。又た毎年多少の移住民あり
    て開拓に從事せり。
    島の周回十二三里にして、全島悉く山嶺にして殆ん
    ど平坦の地なし。唯だ僅かに渓谷の地、稍(や)や平地の状
    を爲せるのみ。故に耕地は畑のみにして田地無く、最
    も樹木に富み、就中、欅の良木ありと雖ども十数年前
    より本邦人屢々伐木に來り海邊便利の地は伐採し
    盡したるの有樣なりしも未だ山中往々良材に乏し
    からず。周邊海岸は斷崖磊砢(らいら)として港灣に乏しく只

    だ東南に一小港あるのみ。此地を洞道と云ふ。
    氣候は、冬季寒威酷烈にして春季四月の候まで山上
    雪を頂く。夏季は日中極暑八十七八度にして、朝暮は
    恰も初秋の如く淸涼を覺へり。
    嶋民の家屋は、矮小にして雨露を凌ぐに足るべき粗
    屋にして、其最も不完全なるは、樹枝を堆積し庵の如
    くし其内に棲む。故に外見薪を積みし處かと思ひり。
    土人は性質温柔質朴にして常に耕作を專業とす。漁
    業は絶て從事するものなく全く知らざるものゝ如
    し。只た和布は島地の重要の物産にして盛に之を採
    取し、之れ多く内地へ輸出して其價貴く又た稅金の
    代用をなす。

    風俗の特に異なるは、夫婦の別ありと長幼序ありと
    にて、孔孟の教を慕ふが如し。今其例を云はんに中等
    以上の家屋は數多の小室に分つ、其内男室と婦人室
    とありて各居を異にす。婦人は、男子の親密なる朋友
    と雖とも語を交ゆる無く、又た絶て近づくることを
    禁するものゝ如し。朝鮮人は概して喫煙を嗜むもの
    にして、甚しきは野外に出て耕作に從事するとき鍬
    を手にしながら煙管を喰(くは)ひて土を耕すが如きは奇
    なり。又た長者を尊敬するの風ありて面前にて喫煙
    を爲すを憚り、必らず背後に隱て喫す。父母の前も亦
    然り。又朝鮮人は身体の下部を露すを嫌ひ賤むの風
    あり。故に本邦人の彼地に至るもの先づ注意すべき
    は婦人に遠ざかると、脚部を露はさる樣常に股引を
    穿つ等にあり。之彼國人の大に感情に關するを以て
    なり。
    本嶋の管理は、島司ありて全嶋を總轄(そうかつ)し又た各處に
    執事と稱するものを置き分轄す(恰も日本の組長
    の如し)巡査は土着のもの嶋中三人あり。毎年朝鮮
    内地より舊三月より五月まで官吏派出す。此官吏は
    豫め政府へ三ヶ月間幾何の税金を納め着島の上は
    恣に嶋民より物産を以て税を徴収し官吏は之を内
    地に輸送して利益の収入を得るものなりき故に往
    々苛酷に課税するを以て、内地より派出の官吏を見
    る蛇蝎の如し。又た官吏は固より公共の精神なく一
    に自己の利益を謀るに汲々たり。

    島地を開墾するを見るに、先づ山林へ火を放つて燒
    き其灰燼となるを待て、鋤鍬を施して播種する故に
    土壌豊沃にして、未だ曾て肥料を施すが如きことな
    し。作物の主なるものは麥大豆にして、麥は島民の常
    食たり。
    水産物は大に望みを属すべきものあり。其主なる魚
    類は鰛、鰤、鯖、鰹等にして、介類は鮑、貼貝、牡蠣な
    り。藻類は和布、天草、アラメ、カジメ、海羅海苔等な
    り就中(なかんづく)鮑の如きは、頗る蕃殖せるを以て數年前より
    九州地方より採鮑に來り、頗る利潤を得て歸ると云
    ふ。亦鯨鯢の來游あり
    此地は、明治廿三年日本朝鮮両國間の訂約によりて
    成りたる通漁規則の範圍内なるを以て、我が漁船は
    該規則に基き出漁するを得るにより、漁業上大(おほい)に便
    益あり。殊に日本海に孤立し我が縣下とは最も近接
    せるの便ありて、彼の九州地方の比にあらず。風の順
    なるを待て、一帆彼の地に達すべく、斯る地位を占む
    る吾が地方の如きは、沿海漁業に孜々(しし)として他の好
    漁場に着目せず其姑息に安(やすん)ずるときは徒に他地方
    の漁夫に利を穫らるゝを以て、奮ふて此等多利なる
    朝鮮近海に出漁し盛んに漁業に從事せば國家經濟
    を益すること幾何(いくばく)ぞ。


    字義補釈
    ※客歳(かくさい) 去年、昨年
    ※一意(いちい) ひたすら
    ※三百五十幹里、 三百五十韓里の誤植か。
    ※磊砢(らいら) 石などが重なり合っているさま
    ※鯨鯢(雄クジラと雌クジラ)
    ※孜孜(しし) つとめ励むさま

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