竹島問題の歴史

22.1.10

1960 - 申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』), Part 2

1960 - 申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』), Part 1 に続く、後半部分(5~結論)を掲載します。matsuさんによる翻訳は初稿であり、皆さんのご意見を伺いながらこちらで内容とともにチェックして参りたいと思います。よろしくお願い致します。(matsuさん、翻訳有難うございました。)


申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960(126p~137p)
高麗大学校 文理大学教授 国史

5 鬱陵島開拓と独島帰属
鬱陵島所属問題が解決した以後も、わが国では以前のように空島政策をとり、鬱陵島に人が入って居住することを禁止し、しばしば捜討官を派遣してこれを管理した。大体一年おきに一回ずつ平海郡守あるいは蔚珍県令を捜討官に任命して居民の有無を巡審し、本島特産の香木、竹、山蔘などを採取し、カジェ(可支)を捕まえて来たが、特に鬱陵島の香は有名であり、ソウルの宰相家で非常に愛用した。そして徳川幕府でも、竹島(鬱陵島)を朝鮮領土と認定した後、日本漁民の往来を厳禁し、憲宗三年(西紀1837 日本天保八年)に秘密に鬱陵島に入り伐本(訳注:伐木か)した浜田の巨商・無宿八衛門を捕えて死刑に処し我が国に対する約束を厳守したが、明治維新以後、日本政府が従来の鎖国政策を捨てて国民の海外進出を奨励するようになると、日本人は空島であった鬱陵島に着眼し、これを松島と呼んで外務省に松島開拓願を提出したこともあり(武藤學平(訳注:武藤平學の誤)、児玉真易など)、密かにここに行き、千古手付かずの鬱蒼たる山林を採伐する者もいた。しかし、わが国ではこのような事実を全然知らずにいた。高宗十八年(1881 日本明治十四年)5月に、鬱陵島捜討官が本島で伐木している日本人7名を発見し政府に報告したため、政府では初めて日本人が密航する事実を知り、礼曹をして粛宗時代の約束された事実をもって日本の外務卿代理・上野景範に厳重な抗議を提出させると同時に、副護軍・李奎遠を鬱陵島検察使に任命して鬱陵島の形勢を調査し、従来の空島政策を変更してこの島を開拓することに決定し入住者を募集した。

このように、鬱陵島開拓令が発布され、五百年間かたく閉ざされていた門が開かれると、江原道、慶尚道沿岸の人たちは言うまでもなく、遠く全羅道地方からも移住する人が多く現われ、鬱陵島の山野はその歳に開拓され、翌年島長を設置し、光武五年(1901)に島長を郡守に昇格させたので(訳注:1900年の誤)、鬱陵島の開拓と同時に独島もわが国の所有となり鬱陵島の人たちが多くこれを利用した。鬱陵島庁に保管されている光武十年丙午陰三月五日付 鬱陵郡守・沈興澤の報告書の冒頭に「本郡所属獨島」という言葉があり、梅泉野録 巻五光武十年丙午4月5日条に「鬱陵島の東の百里の海上にひとつの島があり、獨島という。昔は鬱陵島に属していたが、倭人が強引にその領土だとして審査して行った。(距鬱陵島洋東百里、有一島、曰獨島、旧属鬱陵島、倭人勒稱其地、審査而去)」と記録されている。この二つの記録により、日本が独島を強奪する前に独島がわが国の領土だということは確実に証明することができるのであるが、鬱陵島開拓当時に江陵から移住したという鬱陵島の古老、洪在現氏の言によれば(洪氏は第一次学術調査当時、筆者が直接お会いした方であるが、当時85歳の老人であった)鬱陵島開拓当時、鬱陵島の人はすぐにこの島を発見し、あるいはコンブ、アワビをとるために、あるいはカジェをとるために、何度も独島に出漁したということで、洪氏自身も十数回来往したと話していた。独島は日気が清明な日、鬱陵島から眺めることが出来る島であるから、鬱陵島開拓当時の人がこの島を発見しないことはありえず、彼らがしばしばこの島を利用したのは当然のことであり、この事実は日本海軍省で発行した朝鮮沿岸水路誌(第三編 鬱陵島及竹島)にも次のように明白に記録されている。
「(前略)島上には家屋を建築できる場所は極めて少なく、明治三十七年十一月に軍艦対馬がこの島を実測するとき、東方島に漁夫用の菰草小屋があったが、風浪のためにひどく破壊してしまったという。毎年、夏になると海驢を捕まえるために鬱陵島からこの島へ来る者が数十名の多数に達する時がある。彼らは島上に小屋を建て、毎回約十日間仮居するという。」

この記事は、日本が独島を強奪する1年前の1904年、(光武八年 明治三十七年)に日本の軍艦対馬号が独島を調査した時に、鬱陵島の漁民が毎年夏数十名ずつこの島へ来て、・・で・・した小さな家を建てて十余日ずつ滞在し、カジェ(海驢)を捕っているのを見て記録したもので、独島が鬱陵島の人たちによって最も効果的に利用されたわが国の領土であったことを証明する重要な資料の一つである。日本政府は1954年2月10日付けの覚書で、ここに記録された鬱陵島の漁民は、日本人と日本人に雇用された朝鮮人であるとして、我々の主張を反駁したが、日本人が鬱陵島に居住するようになったのは、1910年、韓日合邦以後、または1905年保護条約締結以後のことであったので、対馬号が独島を調査した1904年には、まだ一人の日本人も鬱陵島に住んでいなかった。よって日本政府の見解は成立し得ないものである。(訳注:この「日本人が鬱陵島に居住するようになったのは」以降の記述は、申奭鎬のまったくの事実誤認)

以上説明したことでも、独島が韓国の領土であったということを充分に証明したといえるのであるが、この他に、2つのより重要な日本側の記録を上げることが出来る。一つは、1923年(大正12年)島根県教育会で編纂発行した島根県志であり、その中に独島を貸下するために日本領土に編入することを猛烈に運動した島根県人の中井養三郎が、独島は韓国領土と信じていたために東京に行き、韓国政府からその島の譲渡を獲得するため、農商省(訳注:務が欠か)に交渉しようとしたというもので、もう一つは1905年(明治38年)に発行した田淵友彦の韓国新地志(訳注:韓国新地理の誤)(帝国百科全書第134編)で、独島を鬱陵島とともに韓国領土と明記したものだ。中井養三郎の活動については次項でまた論ずるが、「彼は独島を韓国の領土と信じていたため、東京に行き韓国政府からその島の譲渡を獲得するために農商務省で交渉した」ということは、独島が本来韓国領土だという確証して余りあるものである。そして田淵友彦の韓国新地理は、日本が独島を島根県に編入して半年後に発行した本である。日本が独島を島根県に編入したのが1905年2月22日であり、この本の発行の日付が同年9月9日である。それなら、この本の原稿は独島を島根県に編入する前後のいつかに執筆されたものであろう。万一、著者が独島を島根県に編入したことを知っていれば、これが日本領土だったのであれば、著者はこれを韓国新地志から除去したはずである。ところがこれを我が国の領土として記録したのであるから、古来、独島は韓国の領土として日本に広く知られていたことを、また証明するものである。

6 日本の独島強奪と日本人の独島についての観念
以上のように、独島は鬱陵島開拓以後、鬱陵島の人たちが最も効果的に利用した名実相符のわが国の領土であったが、日本は1905年(光武九年 明治38年)2月22日付の島根県告示第40号で、これを竹島と称し島根県に編入した。これより先、1903年9月29日に、島根県人・中井養三郎が、独島で海驢を捕まえることが有利な事業であることを知り、竹島領土編入及貸下願を内務・外務・農商務の3大臣に提出したが(訳注:1904年の誤)、日本政府は長い間これを処決していないでいたのが、1905年1月28日の内閣会議で竹島を日本領土に編入することを決定し、同年2月22日付け島根県告示でこれを発表したのである。島根県志の中に「中井は竹島を朝鮮領土と信じていたために、東京に行き韓国政府に島嶼の譲渡を申請することを彼に許可するように農商務省に説得しようとした」という記事があるが、これはたぶん日本政府も竹島を韓国領土と知っていて中井の許可願を処理しなかったため、中井は東京に上がり、彼に韓国政府に申請させてくれるようにと農商務省に交渉したようである。要するに、独島が韓国の領土であるために、日本政府は1903年9月29日に提出した中井の「竹島領土編入及貸下願」を長い間処理しないでいたが、1904年(明治37年)2月6日に露日戦争が起こり、日本軍が我が国に上陸したのと同時に、同月23日に韓日議定書を締結し、我が国の土地を思いのままに収用し、同年8月22日に第一韓日協約を締結し、わが国政府の各部に日本人あるいは日本人が推薦する外国人の顧問官を設置し、我が国の内政外交を思いのままに処置できたので、1905年2月22日に独島を島根県に附属せしめ、中井に独島の海驢捕獲権を許可し、1906年すなわち光武十年4月8日(陰3月4日)、隠岐島司・東文輔など十余名の官員を鬱陵島に送り、郡守・沈興澤に独島が日本領土に決定されたということを通告した。鬱陵島唯一の属島でありカジェ(可支)の産地として有名な独島を失うことになった鬱陵郡守・沈興澤は、光武十年丙午三月五日付で次のような報告書を作成して政府に上申した。

本郡所屬 獨島가 在於本郡外洋百里이읍드니 本月初四일辰時量에 輸船一隻이 來泊于郡内道洞浦、而日本官人一行이 到于官舎하여 自云 獨島가 今為日本領地 故로 視察次 来島이다인 바 其一行 則日本島根縣 隠岐島司東文輔 及事務官神田西由太郎 税務監督局長吉田平吾 分署長警部影山岩八郎 巡査一人 會議員一人 醫師、技手各一人、其外随行者十餘人이 先問戸總・人口・土地及生産多少라고 次問人員及経費幾許 諸般事務를 以調査樣으로 録去이암기 茲以報告하오니 照亮하심을 務望함
(訳注:語句は、1948年『史海』に記録されているものとやや異なる)

この報告書は、鬱陵島庁に保管されている副本を転載したものである。海泉野録(訳注:梅泉野録の誤)にも、前項ですでに引用したように光武十年丙午四月条に倭人が強引に独島を日本領土だと言って審査していったという記事があることを見ると、この沈興澤の報告書は中央に報告され新聞にも報道されたようだ。なぜなら海泉野録は、黄玹が全羅南道の求礼で主に皇城新聞と大韓毎日申報を見て記述したものであるからだ。わが国政府ではこの問題をどのように処理したかわからないが、この時露日戦争は決定的段階に到達し、日本の勝利がほぼ確定し、このため韓国に対する日本の圧力がより加わって、国家全体の運命が重大な危機に直面しており、政府は独島のような小さな無人の孤島についてかえりみる余裕が無かっただけでなく、抗争する能力も無く、また親日米国人スティブンス(stivns ママ)が外交顧問官としていたために、たぶんこの問題は黙殺されてしまったのだろう。

以上のように、日本は独島を強奪したが、地理上独島は日本の隠岐島から60浬(ママ)、島根県のサカイ(境)市(訳注:鳥取県の誤)から130浬にもなる遠い距離にあり、わが国の鬱陵島からは僅かに49浬にしかならない近い距離にあることから、日本が独島を強奪した後にも日本人よりも鬱陵島の人たちがより効果的に利用した。このため日本人たちは、大概この島を朝鮮の所属と認識した。1930年(昭和五年)6月に発行した『歴史地理』(第55巻第6号)に載せられている樋烟雪湖(訳注:樋畑雪湖の誤)の「日本海にある竹島の日鮮関係について」という小論文に、竹島と鬱陵島はいま朝鮮江原道に属し、朝鮮の領土であり、日本海の最東端に属している」と記録されて独島は朝鮮領土であると認定されており、日本政府各機関で編纂した韓国水産誌と朝鮮沿岸水路誌もまた、これを朝鮮の所属と記録した。韓国水産誌は日本が独島を強奪してから3年後の隆熙二年(1908)に、韓国政府の農商工部に□用(訳注:一字欠。任用か)された水産課長・庵原文一など、日本人官吏が総出動して韓国に属する島を一つ残らず実地踏査し、その位置と地勢、産物などを細密に調査した後、編纂出版した本であり、その第1輯水路告示条に竹島すなわち独島を記録し、朝鮮の属島と認定した。朝鮮沿岸水路誌は、1923年(訳注:1933年の誤)(昭和八年)に日本海軍省で発刊した本で、これも朝鮮に附属する島を総網羅し、その位置と地勢および産物を記録したものであるが、その第三編朝鮮東海岸に鬱陵島と竹島を記述し、独島を朝鮮に付属する島と認定した。ところで日本海軍省から朝鮮沿水路志(訳注:朝鮮沿岸水路誌の誤か)と同時に発刊した本州沿岸水路(訳注:本州沿海水路志の誤か)第二巻日本海沿岸にも竹島が載せられているが、朝鮮沿岸水路志に載せられている竹島の記事と比較すれば差異が大きい。朝鮮沿岸水路志には、竹島の位置や地勢および産物を詳細に記録しているのに対し、本州沿岸水路志にはただ竹島の名称のみが載せられているだけである。これは竹島すなわち独島が昔から朝鮮に属する島であり、地理的に朝鮮に付属させることが合理的だからである。

結論
以上を要約すれば、独島は、朝鮮初期に于山島、または三峯島と呼んでいたわが国の領土であり、世宗実録地理志と成宗実録、東国輿地勝覧などの古文献に明記されたところであり、粛宗時代に鬱陵所属問題が起こったとき、安龍福の特別な活動によって日本が鬱陵島とともに子山島(于山島)すなわち独島もわが国の領土として承認したもので、これは粛宗実録と文献備考、通文館志に明記されているところであるが、高宗時代に鬱陵島を開拓した以後、鬱陵島の属島として鬱陵島の人たちにより最も効果的に利用された名実相符のわが国の領土であることは、我が国の史料である鬱陵郡守沈興澤の報告書と梅泉野録に記載されているだけでなく、日本側の史料である朝鮮沿岸水路誌と韓国水産誌、島根県志、田淵友彦の韓国新地志などに明記されたところで、少しも疑う余地のないところである。ところが、日本はこのような歴史的事実を無視して、ただ1905年2月22日付の島根県告示で独島を日本領土に編入したことを合法的であるとして、国際法を持ち出してその領土権を主張しているのである。私は法律には門外漢で法的条文と解釈はわからないが、他人の国の領土を、相対国と何等の商議もなく、一介の地方官署の告示で自己の領土に編入するということは、常識に反する不法な行動であるばかりでなく、独島編入当時の両国の政治的関係を考える時、実に強盗行為としか言いようのないものである。前にすでに説明したように、日本は島根県人の中井養三郎が「竹島領土編入及貸下願」を提出したので1905年2月22日に独島を島根県に編入したものであるが、中井が編入願を提出したのはこれより一年半前の1903年9月29日である。(訳注:1904年の誤であり、実際には半年前である)万一、独島が本来から日本の領土であったのなら、中井が願書を提出した時にすぐにこれを許諾したことであろう。これが韓国領土であるために許諾せずにいたが、露日戦争が起こり韓国を完全に支配した時にこれを一個の地方官署の告示で編入したのだから、強盗行為でなければ詐欺行為と言うべきものである。(終)

参考 :

1960 - 申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』), Part 1

1470 - "Sambongdo(三峯島)" was just an another name of Ulleundo, not Takeshima/Dokdo

1900 - Japanese map of Ulleungdo (赤塚正助 鬱陵島山林概況)

1900 - "Uldo-gi" (鬱島記), by U Yong-jeong (禹用鼎)

1900 - Imperial Edict Makes Ulleungdo a County of Gangwon Province (大韓勅令第41号)

1901 - "Daehanjiji" (大韓地誌) Map of Korea's Gangwon Province (玄采)

1901 - No Korean Fishermen on Ulleungdo in 1901 (Kim Ho-dong (김호동) The History of Dokdo & Ulleungdo (독도, 울릉도의 역사) )

1902 - Japanese Document Describing Ulleungdo (外務省通商局編纂 通商彙纂)

1902 - German map of "Japan und Korea"

1903 - The Fishery Guide of Sea around Korea (黒龍会 韓海通漁指針)

1903 - Mar 30 - "Hwangseong Sinmun": "于山島에 二百二十名" (皇城新聞)

1903 - German Map of Japan which was owned by German Embassy

1904 - February 20th Japanese map of Korea and Manchuria (満韓新図 日露戦争実記)*

1904 - September 29 - Petition to Incorporate Ryanko-to (Liancourt Rocks) (中井養三郎 リャンコ島領土編入並二貸下願 )

1904 - Sep 25 - First Record of "Dokdo" for Liancourt Rocks (軍艦新高行動日誌)

1905 - "Trade Documents" by MOFA (外務省通商局編纂 通商彙纂)

1905 - January 5th - The Report about Laincourt Rocks by the captain of the naval ship Tsushima, Commander Sendo Takeo對馬艦長海軍中佐仙頭武央"竹島報告")
1933 - 朝鮮沿岸水路誌
(112コマ)(89p)(句読点追加)「島上ニハ、前記ノ如ク家屋ヲ建築スベキ地、極メテ乏シク、明治37年11月、軍艦対馬ノ此ノ島ヲ實査セシ際ハ、東方島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ、風浪ノ為、甚シク破壊シアリト謂フ。毎年、夏季ニ至ラバ、海驢猟ノタメ、鬱陵島ヨリ渡来スルモノ數十名ノ多キニ及ブコトアリ。彼等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ、毎囘約10日間、假居ストイフ。」

1948 - Jan. - OOLNUNGDO, HISTORIC ISLAND OF KOREA(古色蒼然な 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して)
1948 - 12月12日 - 申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号
『鬱陵島と独島-韓日交渉史の一側面』(1953年 崔南善)
1470年代 「三峯島」は、金漢京の嘘で、その実態は鬱陵島 成宗実録
15世紀の三峯島 (国際法からみる竹島問題

15 comments:

  1. Anonymous22/1/10 21:01

    >光武五年(1901)に島長を郡守に昇格させたので、鬱陵島の開拓と同時に独島もわが国の所有となり・・・・・・


      この書きぶりからすると勅令41号は検討ずみのようですが、その割には、「勅令41号の石島がすなわち独島である」なんてことは書いてないのですよね。
      ここでも、現代の韓国人が言う「石島が独島だ」はウソだということが分かります。


    2010.1.22

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  2. 突っ込みどころ満載ですね。ザッと読んで気になったところをあげてみます。

    「鬱陵島の開拓と同時に独島もわが国の所有となり鬱陵島の人たちが多くこれを利用した。」と突然独島が登場しますね。しかしどのように利用したのかは詳述されていません。これでは「知っていた」レベルの話ですね。「発見」は18世紀には未成熟な権原とされています。ということで、他の形態による領有主張がなされている必要があるのですが、それはなされていません。1900年10月の勅令第41号は、領有の宣言というよりも国内的な行政区画を明確化したとか解せないものです。


    洪在現の竹島渡航の時期は何時ごろだったのでしょう。日本人が鬱陵島から竹島に出漁するようになる以前に渡ったのであれば領有の根拠の一つとし得ますが、後から渡ったのであれば領有の根拠としにくいです。また、渡航の事実があったとしても、国がそれを支配の事実としない限りは領有の根拠とはできないのが国際法上の約束です。そのような手続きをしたという証拠は見当たりません。そういう国際慣習法の知識のないところで議論しているのが韓国側の決定的欠陥ですね。(もっともそれを良いことに韓国内では虚言を以て国民を騙しているのですが。)


    『朝鮮沿岸水路誌』の記事は「鬱陵島からこの島へ来る者」としていて、それが朝鮮人なのか日本人なのかは明らかにしていません。この記事を韓国の領有の根拠とすることはできません。


    ともかく韓国に求められているのは、1905年当時、朝鮮によって竹島が実効的に支配されていた証拠を提示することです。それがなされない限り、韓国側に竹島の領有を主張する権利はありません。


    2010.1.22

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  3. Anonymous23/1/10 19:30

    島嶼巡礼
    鬱陵島方面(六)
    絶壁ごとに森林鬱蒼、あたかも洋上の仙境
    森また森、至るところ衝岩絶壁
    可頭峰の海上観

    東亜日報 1928.09.06

    碧波寄せる白砂場、風霜を経た老香木

      鬱陵島の身の上は千余年にわたり変遷多く、波乱が重なるほど伝説も多く、風霜を経た話○○○○○○○○人々が生活を始めたのはわずかに四十五年前からのことだ。昔からこの島に住んだという者はなく、このような伝説を○○○○○○○○。○○○○○○もの言わぬ青山流水と奇岩怪石あるのみで、衝岩絶壁に○○○○数百年の香木が当代の風霜を声もなく伝えるのみだ。洋々たる東海のきれいな水が白沙場○○溶解した奇岩の○○○○○○銀波金波○○○数百年を経た香木が○○○○○○さながら洋上の仙境だ。

    いたるところ森林鬱蒼、鳥類の海上楽園
     ○○○○○○四方里七十二、七千三百余町歩に森林が鬱蒼として手入れをする者もなく、あたかも彼らの楽園のように半空に飛び、○○陸地では見ることのできない奇妙な鳥たちを
    この島の○○○○始めたのは私がこの島に八月二十二日○○○○○○○○発動船に身を預け、下は百余尋の海水、○○○○○五百尺から千余尺近い○○この島を○○○○○これはまず、この島の生まれたさまを○○○○○○○○○○。水雷岩を右に見て可頭峰○○○○高さ○百四十尺の断崖が海岸に立っている。


    可頭峰○○○○、通九味の石屏風
     この峰に登れば清明な日には朝鮮の江原道はもちろん日本の地が見えるということで、日本人が国見峯と好き勝手に名前を付けた。絶壁に樹木が生い茂り、また滝が水泡となって落ち、海へ注ぐ。
      波騒ぐ白沙場へ水祭○○○○○○○○○通九味○○○○秘伝の薬草○○○○○○○○○○○○○○この島に○○○○○○○○○九種類の味を○○○として、この浦の名を通九味と呼ぶという。数百尺にもなろうかという高い岩がこの浦を屏風のよう取り巻いている。

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  4. Anonymous23/1/10 19:33

    唯一の史的資料、観察使一行の刻字
      この村の岩に文字が刻まれているが、それは観察使李圭遠が開国四百九十二年春、この島に開拓令発布の準備として視察に来たときに刻んで行ったものだ。これを見れば、そのときまではこの浦にだけ出入りをしていたものと推察される。
      石には「観察使」と横に彫られ、その下に「李圭遠」と縦に彫られており、多少離れて随員として「高宗八、徐相植、劉○祐、沈宜○、朴(以下未詳)」など、今でも辛うじて文字が見えるのは以上の五名で、さらにその下に営吏として「孫永泰」と彫られている。


    開拓当初に移住した八旬老人の伝言
      通九味から少し○○○○○○○石門洞を望んで発動船で南面の事務所がある南陽洞に○○○既に日が高い。
      ここには開拓令○○○四十五年当初に最初に移民として来た四家族中の一つの家があるが、その人は、七十四歳になる老人とは言うもののむしろ百歳生きても足りないほど○○○元気な金鐘洙老人だ。彼は全羅南道康津の人で、開国四百八十九年、英国東洋艦隊の大砲の音が全南三島に騒乱を及ぼすときに難を避けてこの島に来たと言い、無人島から現在に至るまで子息孫子が生まれたことの外には話しとして伝えるものはないという。鬱陵島の伝説は、この老人のこの言葉がそのままそうであると言える。




    本日の翻訳確率60%




    2010.01.23

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  5. chaamieyさん

    有難うございました。(多忙のため、コメントできませんでした。)

    ”この峰に登れば清明な日には朝鮮の江原道はもちろん日本の地が見えるということで、日本人が国見峯と好き勝手に名前を付けた。”

    鬱陵島が秘境で無くなるにつれて「規式にそった"本来朝鮮半島からどのように見えるか”という記述だった表現が鬱陵島から見た時の記述に摩り替わっていることが見てとれます。それにしても、”鬱陵島の国見峯”から日本の方を見て日本の地が見える、ということは、つまり日本のある方面で鬱陵島から望見可能な唯一の場所、竹島が日本の地だと鬱陵島の日本人に考えられていた、と推測ができるかと思います。論理的には。

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  6. Anonymous30/1/10 05:39

    This comment has been removed by the author.

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  7. Anonymous30/1/10 05:50

    新刊 『独島ㆍ鬱陵島 研究』
    [連合ニュース]  2010.01.28


    (ソウル=連合ニュース) キム・ユング記者= ▲独島・鬱陵島研究= 東北アジア歴史財団独島研究所が発行した企画研究叢書で、5人の研究者が歴史学、考古学、地理学的観点から独島と鬱陵島を眺望した論文5編を載せている。
      保坂祐二世宗大学教授の「高宗と李奎遠の于山島認識の分析」は、19世紀末に独島の名称が于山島から石島、独島に変わった原因を考察した。イム・ドクスン忠北大学名誉教授は、「独島の機能、空間価値と所属」において、政治地理学、地政学的視点から見た独島の機能と価値を考察し、ホン・ソンドク全州大学教授の「17世紀後半の韓日外交交渉と鬱陵島」は17世紀末の安龍福拉致事件で示された朝鮮の外交的対応を分析した。
      この外、朴・サムホン建国大学教授の「明治初年の太政官文書の歴史的性格」、オ・カンウォン東北アジア歴史財団副研究委員の「古代の鬱陵島社会と集団に関するいくつかの問題」が収録されている。

    東北アジア歴史財団 295ページ 1万2千ウォン






    Kaneganeseさん、「国見峯」の件は、たぶん世宗実録地理誌などの記述とは関係がないのだろうと思います。


    2010.1.30

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  8. chaamieyさん、新刊紹介ありがとうございました。

    本当に「考察」なんだろうか。新たな独島神話の創作なのではないかと疑ってしまう私。

    読まずに批判するわけにいかないから、とりあえず読んでみましょうかね。

    いずれにしても初期消火が大事。大火事にしてしまっては手がかかっていけない。

    2010.1.30

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  9. Anonymous30/1/10 18:13

    Makotoさん、読みます?

    「于山島から石島、独島に変わった」と言っている時点で既に・・・・・・(以下省略)(^^;

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  10. "「于山島から石島、独島に変わった」と言っている時点で既に・・・・・・(以下省略)(^^;"

    省略部分はたぶん私も一緒です。確かに「于山島から石島、独島に変わった」と言っている時点で既にアレかとは思いますが、孫子の兵法に従うなら読むしかないでしょう。気が重いけど。...といって、誰かが翻訳してくれないと私は読めないんだけれども。

    2010.1.30

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  11. Anonymous3/2/10 23:51

    島嶼巡礼 鬱陵島方面(七)

    古い火田の跡に豊作伝える別天地
    海金剛を○○○○○○
    海上にそびえる石窟岩

    東亜日報 1928.9.7

    海抜二千余尺上に古い火田の跡

     この島の伝説をどうしても聞きたくてわざわざ八十歳に近い老人を訪ねたが、別にこれというほどの話も聞くことはできず、南陽洞からは海抜二千余尺になる「黄土坎」の峠を越えて四十余里にかけて至るところ森林で、川の水が流れる音のみで、陸地の音とは異なる○○○音があちこちに聞こえ、半島の土を恋しくさせる。二千余尺の高さの峰に至るまで、傾斜が多少急でないところにはトウモロコシとキビが植えられていて、これは○○火田の跡だという。
    ○○○○○○○○四十余里を進めば再び海辺に至るが、そこが台霞洞だ。

    海中小魚が招いた小学校の珍事実
     大体において鬱陵島の建物は大雑把に言えば日本の山陰地方のものと似ており、壁も広く、○○も広く、煙突も広い。木が○○○○○○、全部が広く○○○○○、風が強いので○○を高くすることができず、○○○○○大きな石で押さえている。○○を見れば○○○○○不安な気分が家を見るたびに起こってくる。
      台霞洞には日本人尋常小学校が一つあり、生徒は72人で、朝鮮の児童が68人、日本の児童は残り4人だけだ。半島では見ることのできない変わった現象で、その理由は、この村の前の海で「イカ」という魚が多く採れる年に数十戸の日本人が移住したときに小学校を建てたが、何年も経たず「イカ」が採れなくなったので皆故郷に帰ってしまったためだという。「イカ」というのは水中の小さな魚なのだが、その魚がこの学校を作り、その魚が彼らを○○したことになる。

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  12. Anonymous3/2/10 23:54

    白髪老人の顕夢、城隍堂の物語
     今、島庁がある道洞が○○○○以前にはここがこの島の○○○○○○○○、ここは水田も相当にあり、村が○○○○広がっている。ここに城隍堂があるが、鬱陵島の建物として伝説を残すのはおそらくこの堂があるだけだ。約七十年前、江原道の月松萬戸(今の平海)南冥が国の命を受けこの島を視察○○○○○○○○○○○○「自分はこの島の○○で、○○○○○○女妓と通引(下人)をこの島に置いていくべし、さもなければ大きな災いを受けるであろう」と言って服を隠したことがあったが、尋常ではない○○○○○○、ともかく予定どおりに○○帆船を帰途についた。どうしたことか風浪が甚だしく船を到底操ることができなくなり、○○○○○○○○再び船を○○○○○、無人絶島に○○二人を解き放して再び船を○○○○したところ、果たして順風に当たり、その船は無事に帰りついたが、前記の二人は○○○○○○毎日二人で泣いてばかりいたが、○○○○手首を○○死んだといい、その後、人々がその場所に城隍堂を建てて○○○○○○と伝えられる。


    待風坎の伝説と海堀の絶勝仙境
     そこから再び船に乗って島を巡り始めると、待風坎に沿って北面へと船は向かう。待風坎というのは、妙に香木洞○○○半月形に曲がった所で、以前に全羅道から薬草を採ろうと○○船に糧食を大量に積んでこの島に来て、薬草も採り、森林も鬱蒼としているので思うままに伐木し新しく木船を○○○風が治まるのを待って出発したというので待風坎と呼ぶのだという。見上げれば絶壁、○○○見れば奇岩怪石ばかりのこの島の海岸は決して海金剛○○ない。船が岩窟を過ぎ千七百余尺の高さの錐山(錐のように○○が○○)に沿って進むとまた海堀があり○○○○○○には香木が香気を漂わせているのがこの島とこの場所の風景を○○○○○○描き出すこともできず言葉で伝えることもできない絶勝の風景だ。船は○○○このような断崖美を巡って進む。





    (品質無保証翻訳)2010.02.03

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  13. chaamieyさん

    無保証翻訳、有難うございます。(確かにこれでは訳しづらいですね。)

    1928年になっても半島の朝鮮人はイカを知らなかったことに驚きました。ソウルの人だったからでしょうか?

    それにしても、この伝説、どこかで聞いたような気がすると思ったら、したのページにある話に非常によく似ています。時代が全く違うし、場所も台霞と道洞と違いますが、こうした伝説というか、言い伝えがずっと残っていたのでしょうか。1690年代の安龍福の伝説を洪在現の孫がまるで自分の祖父のように語ってしまう、これと同じ構造なのでしょうか。何れにせよ、1800年代半ばでさえ鬱陵島が如何に半島の朝鮮人にとって生きて帰ることさえ保障されない未開の地であったことが1928年の鬱陵島住民の間でも常識であったことがうかがえるエピソードですね。

    鬱陵島の童男童女神と金麟雨

    藤田明良(天理大学)

    文献史でもフィールドワークの重要性は常識になっているが、離島を対象とすることが多いと、現地を訪れるのはなかなか容易ではない。済州島や黒山島では現地調査の成果を、論文に盛り込むことができたが、中国の舟山群島などは、活字にした後で訪れている。韓国の島を扱った最初の拙稿「十五世紀の鬱陵島と日本海西域の交流」(『神戸大学史学年報』8、『日本史学年次別論文集・中世1・1993年』学術文献刊行会に再録)も、文献だけで書いたもので、出口晶子さんに抜刷を渡した際、「どの宿に泊りましたか?」と聞かれて冷汗をかいたものである。以来、宿願であった鬱陵島調査は2000年11月、荒野泰典さん率いる立教大学日本学研究所の調査団に同行させてもらい、ようやく実現した。3日間で陸と海から島を周回し、さらに最高峰の聖人峰(986m)も踏査するという強行軍であったが、おかげで多くの知見を得ることができた。その中から、島の伝承にまつわるエピソードを紹介したい。

    鬱陵島の西北海岸に位置する台霞里のほぼ中央に、聖霞神堂という名をもつ祠堂がある。堂前の説明板によれば、この島の開拓以後、住民たちが豊作や豊漁を祈願して毎年三月三日にここで祭を行うほか、島内で新造船が進水する際には、常にこの神に安全祈願をしているという。ここに祭られているのは、「童男童女神」という幼い男女である。この珍しい祭神について、説明板はこんな伝承を紹介していた。

    朝鮮王朝時代の初期、鬱陵島の住民を撤収する空島政策が決定された。安撫使に任命された金麟雨一行が兵船二隻で来島し、台霞洞を宿営地に定め、島内を捜索をして島民を集めた。それが完了した日の晩、翌日の出帆に備えて早めに就寝した金麟雨の夢に、海神が現われて「汝らが陸地に帰るとき、島民の中から童男と童女を一組、島に残していけ」と命じたのである。おかしな夢だと思いながらも翌朝、予定どおり出航しようしたところ、突然暴風が起こり、待機していても、風波はますます強くなるばかりである。ついに金麟雨は一組の童男童女を呼び出して言った。「宿営地に筆と墨を忘れてきたから、取りに行って来てくれないか」。船からおりて走っていく二人が、森の中に姿を消すやいなや、暴風はおさまった。金麟雨は急いで出航を命じ、船はまたたく間に島から離れていった。筆と墨を発見できなかった二人が、海岸に戻ってきた時には、すでに船は水平線の彼方に消えていたのである。こうして金麟雨は島民刷還の任務を終えたが、島に残した二人の安否が気になっていた。数年後、彼は再び鬱陵島への巡察を命じられることになった。島に着くと前の宿営場所に直行したが、そこで目にしたのは、抱擁したまま白骨化したあの童男童女であった。金麟雨は二人の霊魂を慰撫するため、その地に祠堂を築いて祭祀をおこなったが、それがこの神堂の遠い起源だという。

    思わぬところで金麟雨と再会した私は、少なからず驚いた。この名を知る人は朝鮮史専攻者でもほとんどいないと思うが、前述の拙稿に登場する人物の中で最も印象に残っていたのが、彼だったからである。1403年から約五百年間、朝鮮王朝政府は絶域の孤島であることを理由に、鬱陵島への往来や居住を禁止し、時には軍船を派遣して入島民の刷還(強制退去)を実施してきた。これを空島政策というが、金麟雨はその初期にあたる十五世紀前半に、刷還の責任者である安撫使に三回も任命された人物である。実は彼は、もともと鬱陵島の対岸にある三陟の人で、以前から島に出入しており実情を良く知っていた。その金麟雨の話を江原道観察使が国王に伝え、さらに彼自身が王宮に出向いて進言して、按撫使に任命されるのである。一回目は、島から三人だけを連れ帰って人口・耕地・産物などを報告、これをもとに議論した政府の決定によって、二回目は島民全員を捜索して刷還した。その功で沿岸部の県知事に抜擢されるが、その後、島民の一部が戻っていることが判明し、また島に赴き刷還を実施したのが三回目である。

    伝承に見える童男童女を残したのが、按撫使として渡った二回目、二人の屍を発見したのが三回目にあたると考えられるが、実はこの二回目の渡島は、文献史料からいうと謎の多い事件なのである。他とは異なり、この刷還だけが『朝鮮王朝実録』に復命記事が見えないだけでなく、刷還作戦の実施期間中に、鬱陵島が倭寇の襲撃されたという記事が載っているのである。拙稿では刷還の強行とこの倭寇との間の関連性を推論してみたが、それ以後、この問題について考えは進んでいなかった。そういうわけで、島でめぐりあった童男童女の伝承には、文献からは知りえない歴史のひだの一端が見え隠れしているような強い印象を持った。

    説明板に書かれた話では、金麟雨を善玉として描き、童男童女を他の人たちが本土に帰るために犠牲となった殉死者と伝えている。だがこの話のなかで、海神の位置付けが落ち着かないような気がするのは、私だけだろうか。生贄を求めた悪役としての性格が曖昧である。なぜ海神は幼い二人を、島に残すように命じたのだろうか。そもそもこの海神は何の表象なのだろうか。堂内にある漢文の「聖霞神堂縁起」では、海神は倭人が信仰していたように書かれている。だがこの縁起ができたのは、今から僅か25年前である。1978年、鬱陵郡守(郡庁の長官)が大々的に神祭を挙行して、「聖霞神堂」の称号を奉った時に作られたもので、現在掲げてある墨書牌も1984年に郡守が奉納したものだ。現在の建物や堂地も、この頃から整備が進んだらしいが、その理由について聞き取りをしそこなったのは残念である。

    鬱陵島の歴史は領有問題との関連で論じられることが多い。拙稿ではそこから離れて、国家の論理と海の生活者の動向のズレに注目し、「治国安民」を掲げる空島化に抵抗し、離島への渡航と居住が繰り返される背景として、半島沿海民の旺盛な海上活動への志向を読み取ろうとした。この島に郡が置かれ居住が公認されるのは1900年のことである。だが、1882年の調査でも76名の日本人と、その倍近い140名の朝鮮人(内115名が全羅南道出身!)が把握されているように、それ以前からこの島には不法居住者たちがいた。海神のお告げで島に残った童男童女への信仰が、もし1900年以前から「島民」のなかで培われてきたのなら、かつての伝承はもう少し違う形だったかもしれない。二人を島に残す時に金麟雨がつかった口実が、説明板では「筆と墨」を取りに行かせたことになっていたが、忘れたのが「キセル」となっているパターンもあるという。十五世紀に煙草を吸うキセルが存在するはずがないが、むしろキセルの話のほうが素朴な古体を伝えているような気もする。

    鬱陵島は現在、観光開発の真っ只中にある。旅荘がどんどんビルに変わり、海岸の岩壁にはコンクリートの遊歩道が伸びている。二年前は工事中だった周回道路もすでに完成し、台霞里への道中も曲がりくねった細い山道に胆を冷やすことはもうないだろう。だが、観光の目玉は「絶景」と「海鮮」だけではない。独島記念館やロープウエイで登る眺望館も新設されたように「国境」による相乗効果が期待されている。島の外観だけではなく歴史情報も、「愛国」の文脈に沿って改変されつつあるのである。二年前の調査の時、私はかつて棲息していた「可支」(カジェ:ニホンアシカのこと)に関する聞き取りをおこなったが、この海獣の記憶が領有問題と結びついて再編されていることを強く感じた。

    機会があれば、この島を再訪して、古い伝承の発掘を試みてみたいが、それにはしばらく時間が必要かもしれない。

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  14. Anonymous4/2/10 20:21

     「イカ」は、日本語の「イカ」のことなのか、それとも別の魚で当時「イカ」と呼ばれるものがいたのか、この記事からは良く分かりません。記者が日本語でいう「イカ」の話を聞いて「魚」のことだと誤解したのかも知れませんけどね。

     伝説については、確かにそっくりですね。たぶん、元は一つのものがいろいろなバリエーションで伝わった、というところでしょうか。

     このシリーズ、翻訳はろくにできませんが、ここまで竹島/独島のことが出てこないということは確認できます。

    2010.2.4

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  15. Anonymous21/3/10 13:23

    (引用)この報告書は、鬱陵島庁に保管されている副本を転載したものである。海泉野録(訳注:梅泉野録の誤)にも、前項ですでに引用したように光武十年丙午四月条に倭人が強引に独島を日本領土だと言って審査していったという記事があることを見ると、この沈興澤の報告書は中央に報告され新聞にも報道されたようだ。なぜなら海泉野録は、黄玹が全羅南道の求礼で主に皇城新聞と大韓毎日申報を見て記述したものであるからだ。わが国政府ではこの問題をどのように処理したかわからないが、この時露日戦争は決定的段階に到達し、日本の勝利がほぼ確定し、このため韓国に対する日本の圧力がより加わって、国家全体の運命が重大な危機に直面しており、政府は独島のような小さな無人の孤島についてかえりみる余裕が無かっただけでなく、抗争する能力も無く、また親日米国人スティブンス(stivns ママ)が外交顧問官としていたために、たぶんこの問題は黙殺されてしまったのだろう。(引用終わり)



     ということは、「独島は韓国領土である」などという認識は韓国政府内部では全く共有されていなかったことを示している、と言えそうです。



    2010.03.21

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