竹島問題の歴史

17.12.09

1948 - Jan. - OOLNUNGDO, HISTORIC ISLAND OF KOREA(古色蒼然な 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して)

本稿は1947年8月16日から2週間、総勢80名で鬱陵島・独島(竹島)の調査を行った朝鮮山岳会の会長、宋錫夏による調査報告書です。韓国政府の正式報告書ともいえる1948年12月12日発行の申奭鎬「独島所属について」に先立つこと11ヶ月の1948年1月に発行されました。この文書については今年の2月22日に山陰中央新報で報道されました。(「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料(山陰中央新報 平成21年2月22日付) cache

著者の宋錫夏は、「民族主義系列の歴史・民俗・学術界に名望の高い学者であった」(鄭秉峻, 2008 )人物のようです。「洪鐘仁の回顧によれば鬱陵島調査を提議したのは宋錫夏であり、特に宋錫夏は「何の値打ちもない無人島の石島」である独島に対して日本人たちがいつかは自分たちの領土であると主張するかもしれないので早く現地調査に着手し独島の現存状態を韓国国民に広く知らしめ独島が韓国の領土であると言う確固たる信念をもつようにしなければならないと提議したと言う。」 「独島が我々の領土であることを明らかにするために独島にまで調査団を派遣するのだという事実は事前に発表せず隠密に推進するのがよい」という意見を提示した」(鄭, 2008 )とのことで、民族主義的な観点からこの調査を提議し、しかもそれを関係国日本(当時、竹島の漁業権を日本人が所有していることは韓国政府も承知していた。)などに通知することなく行ったという事実は、彼がまさに領土拡張主義によって独島/竹島の強奪を計画していたともいえるでしょう。

また、「震檀学会は小中学校の国史・地理教科書をすでに1945年10月初めに完成した。 (≪매일신보≫ 1945. 10. 5)」(鄭, 2008 )とのことですから、この地理の教科書に韓国の東限が何と記載されていたか、大変興味のあるところです。宋は韓国歴史学会の震檀学会設立の発起人で、当時委員長をしていました。つまり、仮にその教科書に慶北地理學會によって戦後発行された中等地理のように極東 東経一三〇度五六分(●陵島東端))のような竹島を韓国の東限から除外する記載があったとしたら、もしくは独島について韓国領であると明記されていなかった場合、歴史の専門知識がある人物であるにも関わらず、自国領土ではない可能性の高い島を、当該国が連合国の占領下で独立を奪われて外交的に抗議することが出来ない隙を狙って確固たる根拠無く秘密裏に調べて強奪する準備をした、との非難に値することでしょう。

本稿の特徴として、高麗史の于山国を鬱陵島としていたり、石島説や勅令41号はまだ取り上げられていませんが、三峰島の記述が見られます。現在の韓国政府の主張の基礎を成したものの一端が見受けられるもの、かなり異なる内容と言えるでしょう。

資料は島根県竹島資料室や関係者の皆さんのご好意で、ここに画像を公開します。大変読みづらいので、原文の書き起しを 猛の竹島掲示板控帳 の このページ から借用しました(管理人さん、事後承諾になってしまいますが、ご覧になっておられたらコメントくださると嬉しいです。)。元はhanmaumy氏のようですが、リンク切れになっています。韓国語部分の邦訳はchaamiey氏(2009/ 2/25)によるものです。

古色蒼然한 歷史的遺跡
鬱陵島를 찾어서 !
鬱陵島学術調査隊長 
宋 錫夏

浦 項에서 水路一百二十四海里 東쪽바다속에 世上에서 저바림을 받은 것 같은 鬱陵島가 史上에 낱아나기는 新羅 智證王十三年 [A.D. 512]이며, 至今으로부터 一千四百三十餘年 前이다. 그後 高麗 太祖十三年때에 土民 白吉 土豆 等이 方物을 밧쳤으므로 正位와 正朝벼슬을 주었다. 또 毅宗十一年 [A.D.1159]에 溟州監倉 金柔立을 보내여 본 結果 村落基(訳注 : 墓の誤りか)地 七個所와 石佛 鐵鍾 石塔 等은 있으나 住民이 살기에는 不便하다고 報告하였다. 그後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]에는 按撫使 金麟雨가 鬱陵島에서 大竹水牛皮綿子 檢樸木 等을 獻上하였다고 한다.
이들 歷史的記錄은 同島 北西便 遺跡地域에서 出土하는 遺物로 能히 說明할수있다. 그러나 世宗地理誌나 常識的으로 알려진 큰대(大竹) 큰복숭아(大桃) 같은 것은 只今은 影子조차 없고 다만 香나무가 옛날의 자최를 말하듯 絶壁우에 겨우 남어있을 따름이다. 鬱陵島의 人煙은 數次의 無人島時代를 격근 후 只今으로부터 六十四年 前에 開拓民의 移住로부터 始作하야 現在에 이르렀는데 現存한 當時의 移民은 겨우 한 사람이 沙洞이라는 데 남어있을 따름이다.
이네들의 移住當時의 産物이든 木材는 그後 濫伐로 因하야 한 폭이도 없고 全島에있는 寄鳥 곽새와 바다의 特産 全鰒은 只今은 滅種에 갔가워 이番 調査에도 發見못했다.


鬱陵島에서 다시 東便으로 四十八海里를 가면 떼의 脚光을 받은 독섬(獨島)이 있다. 東西 독섬으로 되여 西쪽섬이 좀 크서 高度百五十七米突이며 西島는 噴火口가있으나 只今은 막혀서 그 下部에는 바다물이 들낙날낙한다. 兩島의 사이에는 陷沒한 殘骸가 남아있어 이 殘骸를 이번 調査隊에서는 獅子섬이라고 命名했다.
歷史的으로는 李朝 成宗三年에서 十二年(1472-1481)까지 十年間 이 섬의 問題가 沸騰하야 朴宗元을 敬差官으로해서 우리나라 逃潛者를 찾으려고 한일이 있으며 富寧人金漢京等이가서 逃潛民에 劫을대여※ 上陸못하고 圖形만 그려왓다한다. 所謂三峯島搜覽問題이다. 現在 島民의 唯一한 生命線的 産業은 烏賊魚 漁業이다. 七·八·九月의 석달 동안은 島民의 거진 全部의 男子는 夕陽만되면 發動機船으로 바다에 나가 왼밤동안 捕獲해서 아츰 일즉이 歸浦한다. 이 바다의 惠澤이 全島民 一萬五千의 生命을 이어준다.
(1) 萬頃蒼波! 漁物에 漁民은 生活을 걸고
(2) 兩島末端及獅子島 [中央] 右는 西島
(3) 本島頂上에서 鳥目瞰한 것
(4) 三峰島全景
(5) 鬱陵島의 特産品 오징어
(6) 오징어 乾燥作業에 熱中하는 어린이들

              * * * * *
OOLNUNGDO, HISTORIC ISLAND OF KOREA

By Song Suk Ha

Oolnungdo, a small island off the eastern coast of the Korean Peninsula , officially appeared in the history of Korea in 512,A.D., in the 13th year of King Chidung’s reign in the Dynasty.The native population of this isle subsequently sought acquaintance with the Koryu Dynasty sent a mission to the island which reported back to the court that the isle did not seem to be a very habitable place.

Down to the Lee Dynasty, King Taichong in 1417, A.D., sent a pacification mission to the isle which brought back home a number of souvenir articles including bamboo trees and buffalo hides. Relics discovered in the northwestern part of the isle in recent years attest to the historic connections of the island with the peninsula. Big bamboo trees, peaches and other rare products of the island as recorded in the popular history are difficult to find nowadays.

After remaining uninhabited for a longtime, pioneer immigrants began to pour into the isle about 64 years ago. Of these first immigrants, one person is still living at Sadong on the island. At that time the island was known for the production of timber, but reckless deforestation since has stripped the isle of practically all timber resources. At present the isle prides itself on the cuttle-fish catching. For three monthsfrom July, every year, almost all inhabitants of the isle leave their homes towards sunset and spend the whole night in catching the prized fish until they return home with their catch the morning.

The population of the island is 15,000 who look to the sea for earning their livelihood.One can reach the island from Pohang Harbor on the mainland by sailing about 124 nautical miles.About 48 miles farther east of the island,there is the twin-isle of Toksum where outlaws often sought refuge in the past.

(1) Island inhabitants engaged in the fishing. their sole living trade.
(2) The Lion Island adjacent to Oolnung Island.
(3) A bird's-eye-view from atop the island peak.
(4) A view of Sambong Island.
(5) The cuttle-fish, key product of Oolnung Island.
(6) Children drying the cuttle-fish.

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(chaamiey氏による韓国語部分の翻訳。)

古色蒼然たる歴史的遺跡
鬱陵島を尋ねて!
   
鬱陵島学術調査隊長 宋 錫夏

   浦項から水路124海里、東方海上の世の中から忘れられたような鬱陵島が歴史に現れるのは、新羅・智証王の13年(西暦512年)であり、今から 1430余年前だ。その後、高麗・太祖の13年に、土民白吉、土豆等が方物を奉って来たので位階と官職を与えた。また毅宗の11年(西暦1159年)に 溟州監倉・金柔立を送り、その結果、村落基(訳注:墓の誤りか)地7ヶ所と石仏、鉄鍾、石塔等はあるが住民が暮すには不便であるとの報告を得た。その後、李朝・太宗の17年 (西暦1417年)には按撫使・金麟雨が鬱陵島から大竹、水牛の皮、綿子、検樸木などを献上したと言う。

  これらの歴史的記録は、同島 の北西辺の遺跡地域から出土する遺物で良く説明できる。しかし、世宗地理誌や常識的に知られた大竹、大桃などは今は影さえなくて、ただ香木が昔の礼服のよ うに絶壁にかろうじて残っているだけだ。鬱陵島の人煙は数次の無人島時代を経た後、 今から64年前の開拓民移住から始まって現在に至っているが、現存する当時の移民はわずかに一人が沙洞というところに残っているだけだ。

  彼らの移住当時の産物であった木材は、その後の乱伐によって一本もなく、全島にいるガクセ(鳥)と海の特産である全鰒は今は滅種に近く、このたびの調査でも発見できなかった。



   鬱陵島から再び東へ48海里を行けば、時の脚光を浴びたドクソム(独島)がある。東西ドクソムになっており、西側の島が少し大きく高さ157メートル強 であり、 西島は噴火口があるが今は塞がっていて、その下には海水が出入りしている。両島の間には陥没した残骸が残っていて、この残骸を今回の調査隊では「獅子島」 と命名した。

  歴史的には、李朝・成宗の3年から12年(1472-1481年)までの10年間、この島の問題が沸騰し、朴宗元を敬差 官として我が国の逃潜者を捜そうとしたことがあり、富寧の人金漢京らが行って逃潜民を捕まえようとしたが上陸できず、地図だけ書いて帰って来たという。い わゆる三峯島捜覧問題だ。現在、島民の唯一の基礎的産業はイカ漁だ。7、8、9月の3ヶ月間は、島民のほとんど全部の男たちが夕陽のころになれば発動機船で海に出て夜通し捕獲し、朝早く帰港する。この海の恵沢が全島民一万五千人の生活を支えている。

Reference :

東北アジア歴史財団のデジタルアーカイブ

鄭秉峻「 解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51) 」(2008)

以前検討した戦後の韓国の新聞記事、chaamiey & matsuさんによる翻訳等はこちらでGTOMRさんがまとめて下さっているので、下記を参照下さい。

サンフランシスコ平和条約と韓国による竹島侵略 : 韓国人の「独島」妄言は戦後になってから

その他関連投稿
Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 11

after1945 - "Geography for Middle School(中等地理)" by the Association of Gyeongbuk Geographers(慶北地理學會) admits Dokdo is outside of the territory of Korea

1945-1953 - Map of Korea (USA) (Geographia map Co., INC in New York) excludes Liancourt Rocks from Korea

1945-1953 - Map of Japan (USA) (Geographia map Co., INC in New York) includes Liancourt Rocks in Japan

1946 - Feb. 13 - "Conference with GHQ/SCAP concerning separation of the administration"

1950's - Korean Video: "Dokdo & the Peace Line"

1950's - Japan & Korea Argue Their Claims in 1950s Letters

16 comments:

  1. 本稿の特徴として、

    1. 『高麗史』から引用し、于山国の記述を鬱陵島の記述としている。
    2. にも関わらず、于山島を独島として考えていない。
    3. 現在の韓国政府の主張であるドクソム=石島説や石島を鬱陵島の付属島と規定した1900年の勅令41号が取り上げられていない。
    4. 竹島の記述に続き、別の段落で三峰島について記述があり、竹島の説明のようでもあるが、「逃潜者を捜そうと」とするなど、人の住めない無人島である竹島ではありえない記述が正確に引用されている。
    5. さらに三峰島と同じ段落で鬱陵島の烏賊漁についての説明があることから、宋は三峰島は鬱陵島のこととしている可能性もある。

    4.と5.の点については、実際に原文を見ないと分からなかったことです。単に鬱陵島と竹島を混同している可能性もありますが、ひょっとして宋はこの時点では三峰島を鬱陵島だと正しく認識していたという可能性は無いでしょうか?

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  2. と、思ったら、写真のキャプションに”(4)三峯島全景”とあります。これは鬱陵島?竹島?

    英語キャプションがかすれて見えません。

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  3. 此処
    デジタルアーカイブはありますが、写真がありません。

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  4. と思ったら、写真確認されていたのですね。 すみません。

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  5. GTOMRさん

    有難うございます。

    大きさから言うと、やはり竹島でしょう。

    Wikiの写真の、ちょうど反対側から眺めると、この形になりそうですね。南東側海上から見ると、このように三つ峯(一番右はなだらか過ぎて、峯には見がたいですけれど。)があるようにも見えます。これは、宋氏は三峯島を逃潜者つまり人が住める島だと言いながら、独島を歴史書に書かれてあるとしたいがために三峯島に比定する目的を持って印象操作をしようとかなり意図的にこの写真を選んだのかもしれません。三峯島は北側から島に近づいたはずです。

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  6. ただ一人の生き残り

    鬱陵島の人煙は数次の無人島時代を経た後、今から64年前の開拓民移住から始まって現在に至っているが、現存する当時の移民はわずかに一人が沙洞というところに残っているだけだ。

    とありますが、このただ一人の生き残りは、洪在現のことでしょうか。

    洪在現の住所は、陳述書に
    「欝陵島南面沙洞170番地」とあります。

    1947年-64年前=1883年 開拓民移住

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    洪淳七氏の手記

    今の1979年から96年前、正確には1883年陰暦4月初8日、江原道の江陵から、今後十年の予定で鬱陵島に落郷したおじいさんが、4日間の船旅をへて今の鬱陵島北面のヒョンピョ洞(현표=玄浦洞か)に渡島されたが、その時の鬱陵島の住民といえば、やっと2世帯が住んでいた。

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  7. 一通り読んでみて感じたのは、印象操作をしようとしているなという点です。「無価値な無人の石島」を人の住める価値ある島と見せようとしているように感じられました。竹島のことと鬱陵島のことがごっちゃになっていて、予備知識のない者が読んだならば小さなしかし峻険な岩体である竹島を人の住める地と錯誤しかねません。

    『太宗実録』の金麟雨の件は「于山島」となっていたはずです。これを鬱陵島のこととして記しているのでしょうか。そうだとしたら「于山島=独島=竹島」という今日の韓国政府の主張を真っ向から否定しますね。つまり于山島≠独島ということで、「512年から我が領土」との韓国の主張が覆されてしまいます。逆な言い方をするなら「于山島=独島」との主張が後の創作であると示唆しているのではないでしょうか。

    いずれにしても1905年の日本の編入以前に朝鮮が実効支配していたことを証明する事実は示されていませんね。

    あと細かなことですが、最初から3行目「村落基地」とあるのは「村落墓地」の誤りですよね。

    2009.12.18

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  8. Makotoさん

    有難うございました。

    ”あと細かなことですが、最初から3行目「村落基地」とあるのは「村落墓地」の誤りですよね。”

    原文確認しましたが、どうも「基地」になっているようですので、訳注として「墓」地を入れておきました。こういう細かいご指摘、とても助かります。今後ともよろしくお願い致します。

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  9. 経緯が分かりませんが、大発見の資料が出たようですね。



      韓国政府は勅令41号の石島は独島ではないことを知っていた

      韓国政府は勅令41号の石島は独島ではないことを知っていた

      韓国政府は勅令41号の石島は独島ではないことを知っていた

      韓国政府は勅令41号の石島は独島ではないことを知っていた




    2009.12.18

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  10. In the 1948 document, it mentions that the group named one of the rocks around the two main islets of Dokdo as 獅子섬 or 獅子島, which translates literally as "Lion Island." However,the word "lion(獅子) was not referring to the land animal, but to the "sea lion." The Korean name of "sea lion" is 바다사자 (海獅子), which literally means "sea lion." By the way, the above 1948 reference is more evidence that Koreans did refer to some rocks as "islands."

    Off the southwest shore of Ulleungdo near Tugu Peak (투구봉), there are two sea lion caves named "Big Lion Cave" (큰사자굴) and "Small Lion Cave" (작은사자굴). You can see them on this Ulleungdo Map.

    In an 1786 inspection report, Kim Chang yun (金昌胤) reported going to "Sea Lion Cove" (可支仇味 - Gaji Gumi) and finding two caves in the side of the mountain there, where they surprised a group of sea lions. His group shot and killed two of them. An old Korean name of sea lion was "Gaji" (可支). It is very possible that the two caves were the same caves that Koreans today refer to as "Big Lion Cave" and "Little Lion Cave."

    On his 1882 map (鬱陵島外島), Lee Gyu-won drew sea caves in almost the exact same place as Big Lion Cave and Little Lion Cave appear today. He labeled one of the caves as "Gaji Cave" (可支窟), which, of course, means "Sea Lion Cave."

    Also, just offshore of Big Lion Cave and Little Lion Cave is a rock that Koreans today refer to as "Lion Rock" (사자암). You can see it on THIS MAP. In his 1794 inspection report, Han Chang-guk (韓昌國) reported going to a place around Ulleungdo that he referred to as "Gajido" (可支島), which means "Sea Lion Island." It is very possible that the rock that Koreans today refer to as "Lion Rock" was the same place that Inspector Han referred to as "Gajido" in 1794.

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  11. GTOMRさんの資料の翻訳1件アップ

    妄想的主張捨てよ
    崔外相、日本の独島領有権に反駁
    1962.1.31 東亜日報



      崔徳新外務部長官は、30日午前、「独島が厳然たる我が領土であるのは国際法上も歴史的にも明らかなこと」と語った。崔長官は、最近、日本の池田首相が日本衆議院において独島の領有権を主張したのは「まことに遺憾なこと」と述べ、日本はこのような妄想的主張を捨て去り、「韓日間の友好と信義、ひいては東北アジアの平和と安全に貢献するよう望む」と付け加えた。

      続いて、長官は、池田首相も言ったようにこの問題は韓日会談とは無関係であり、「我々の独島領有権主張が、良い雰囲気の中で開かれている韓日会談に影響を与えないことを望む。」と語った。

      崔長官は、日本は独島に対する先占権を主張するが、彼らは1905年1月の日本閣議決定と同年2月の県告示を根拠としているところ、これはむしろ1905年の前には独島が自己の領土ではなかったことを反証することになると述べ、日本の国内法によって一方的に決定されたのは国際法上何らの効力を発生させ得ないことは明らかであると論評した。

      長官は、日本側においてこの問題を国際司法裁判所に提出する場合これに応ずるのかという記者の質問に、「そのときに決めること」と答えた。崔長官は、また、金鐘泌中央情報部長が東南アジア旅行を終えて2月下旬に日本を訪問するという一部報道については、「知らない」と言い切った。





    2009.12.19

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  12. chaamieyさん

    有難うございます。翻訳していて虚しくなるのではないかと懸念していますが、こうした地道な作業が何か重要な発見のきっかけになることも考えられますので、引き続きよろしくお願い致します。

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  13. 鄭秉峻の論文(2008)に面白い話が載っています。

    団長の宋錫夏は独島の調査に行っていないというのです。

    「出発前日に若干のハプニングがあった。高血圧症であった団長宋錫夏が道に迷って夜遅く疲労困憊して宿に戻ってきたことと、蝶博士石宙明の一行4名が山に登ったのち聖人峰中腹で道に迷い下山できなかったことだ。このため宋錫夏と石宙明らは独島行に参加することができなかった。38(12p)

    38 홍종인, 1978 上記引用文 164ページ. 」

    上記引用文とは、
    26 홍종인, 1978 「다시 獨島문제를 생각한다」 『신동아』11월호 163~164ページ。
    (洪鐘仁1978「再び独島問題を考える」『新東亜』11月号163~164ページ)


    すなわち、宋錫夏は「現場を見ていない」ことになります。そんな宋錫夏は、独島に関する具体的なイメージを持ち得なかったのではないでしょうか。

    そこで、彼の英語の文章では、独島に関する記述は最後の一文だけです。しかもかなり混乱しています。

    About 48 miles farther east of the island, there is the twin-isle of Toksum where outlaws often sought refuge in the past.

    「さらに、その島(鬱陵島)から約48マイル東に、トクソムという2個の島があるが、そこは、過去に無法者たちがしばしば隠れ家としてひそんでいたところだ。」


    Toksumに逃げ込んだoutlawたちは、水が無いために生きてはいけなかったはずですが・・。

    とにかく、宋錫夏は、トクソムは「人の住める島」だという認識を持っていたのではないかと思います。


    このため、韓国語の記述でも、三峯島=独島=人が住める島、と理解していたのではないかと思われるふしがあります。


    韓国語の翻訳引用
    鬱陵島から再び東へ48海里を行けば、時の脚光を浴びたドクソム(独島)がある。東西ドクソムになっており、西側の島が少し大きく、高さ157メートル(「強」はないと思います)であり、西島は噴火口があるが今は塞がっていて、その下には海水が出入りしている。両島の間には陥没した残骸が残っていて、この残骸を今回の調査隊では「獅子島」と命名した。

    に続けて

    歴史的には、李朝・成宗の3年から12年(1472-1481年)までの10年間、この島の問題が沸騰し、朴宗元を敬差官として我が国の逃潜者を捜そうとしたことがあり、富寧の人金漢京らが行ったが「逃潜民に脅されて」(元のサイトの注※による)上陸できず、地図だけ書いて帰って来たという。いわゆる三峯島捜覧問題だ。

    元のサイト=猛の竹島掲示板控帳 

    http://take8591.wiki.fc2.com/wiki/%E5%8F%A4%E8%89%B2%E8%92%BC%E7%84%B6%E4%B8%80%20%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E9%81%BA%E8%B7%A1%20%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6%E3%82%92%E6%8D%9C%E3%81%97%E3%81%A6


    逃潛民에 劫을대여※
    ※ 逃潛民(도망하여 숨은 사람)에 위협 당하여

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ここで「この島の問題が沸騰した」という「この島」が、はたして鬱陵島のことなのか、独島のことなのか。

    すぐその次に続く「イカ漁の話」は、完全に鬱陵島のことなので混乱するのですが、文脈上、「この島」は、独島のことだと言えるようにも思います。それは、英文の宋錫夏の認識がそうだからです。

    申奭鎬は、三峰島の人形をアシカだと考えていましたが、宋錫夏は、「逃潜者」たる人間と考えていたのでしょう。
    しかし、二人とも、「成宗実録の三峯島=独島」という点では認識が一致していたのではないかと思います。

    この二人の「碩学の誤解」が、後世を惑わせたのではないでしょうか。


    鬱陵島에서 다시 東便으로 四十八海里를 가면 떼의 脚光을 받은 독섬(獨島)이 있다. 東西 독섬으로 되여 西쪽섬이 좀 크서 高度百五十七米突이며 西島는 噴火口가있으나 只今은 막혀서 그 下部에는 바다물이 들낙날낙한다. 兩島의 사이에는 陷沒한 殘骸가 남아있어 이 殘骸를 이번 調査隊에서는 獅子섬이라고 命名했다.
    歷史的으로는 李朝 成宗三年에서 十二年(1472-1481)까지 十年間 이 섬의 問題가 沸騰하야 朴宗元을 敬差官으로해서 우리나라 逃潛者를 찾으려고 한일이 있으며 富寧人金漢京等이가서 逃潛民에 劫을대여※ 上陸못하고 圖形만 그려왓다한다. 所謂三峯島搜覽問題이다. 現在 島民의 唯一한 生命線的 産業은 烏賊魚 漁業이다. 七•八•九月의 석달 동안은 島民의 거진 全部의 男子는 夕陽만되면 發動機船으로 바다에 나가 왼밤동안 捕獲해서 아츰 일즉이 歸浦한다. 이 바다의 惠澤이 全島民 一萬五千의 生命을 이어준다.

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  14. この「もとサイト」には、最後に次の文があります。

    (引用)
    (古色蒼然한 歷史的遺跡 鬱陵島를 찾어서 !/송석하/국제보도 3권1호(신년호) pp.328 /국제보도연맹/국립중앙도서관 소장,
    텍스트는 이 자료를 소개해 주신 '벙이'님의 글을 인용했고, 판독하지 못한 몇 글자를 정밀하게 분석후 기재하였음. 목이(?) --> 폭이, 때 --> 떼, 劫(?) -->劫)

    ※ 逃潛民(도망하여 숨은 사람)에 위협 당하여

    이 글은 1947년 8월 16일부터 8월 28일까지의 제1차 울릉도•독도 학술조사단 파견이 있은 직후 쓰여진 글로, 당시까지도 독도는 '독섬'이라 호칭하고 있었음을 시사하고 있어, 독도의 어원을 규명하는데 중요한 의미가 있다 할 것이다.

    대한제국 칙령 제41호상 石島(돌섬)는 독섬인 獨島임이 더욱 분명해 진다.


    (翻訳)
    古色蒼然たる歴史的遺跡欝陵島を尋ねて!   ソン・ソクハ
    国際報道 3巻1号(新年号) pp.328
    国際報道連盟 国立中央図書館所蔵

    テキストは、この資料を紹介して下さった「ポンイ」さんの文を引用し、判読できないいくつかの文字を精密に分析後に記載した。
    목이(?) --> 폭이, 때 --> 떼, 劫(?) -->劫)

    ※逃潜民(逃亡して隠れた人)に威嚇されて

    この文は、 1947年8月16日から8月28日までの第一次鬱陵島・独島学術調査団派遣があった直後に書かれた文で、当時までも独島は「トクソム」と呼んでいたことを示唆しており、独島の語源を糾明するのに重要な意味があると言えるだろう。

    大韓帝国勅令第41号上の石島(トルソム)は、トクソムである独島であることが、より一層明確になる。

    翻訳終わり

    1947年当時、独島は「トクソム」とよばれていたことが一次資料として確認できます。
    崔南善1953もずっとトクソムと書いていますね、

    ただしこれにより、上記の主張のように
    「大韓帝国勅令第41号上の石島(トルソム)は、トクソムである独島であることが、より一層明確になる。」とは、まったく考えられません。

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  15. こうして一次資料をみてみると、韓国人が独島のことを、

    「トクソム」とよび、「独島」「獨島」と書いている、ということはいくつかの資料で確認できますが、

    「トルソム」とよび、「石島」と書いている、ということを示す当時の史料はありません。

    軍艦新高の「リアンコルド岩、韓人之ヲ独島ト書シ」、という資料は
    リアンコルド岩を、韓人は「石島」とは書かなかった、という証拠としても読めるのではないかと思います。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/02.jpg
    (うしろから3行目)

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/1904-sep-25-first-record-of-dokdo-for.html

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  16. matsuさん

    ”鄭秉峻の論文(2008)に面白い話が載っています。
    団長の宋錫夏は独島の調査に行っていないというのです。”

    これは重要な点です。私も上記論文を読んだときにへーっと思ったのですが、この論文と関連付けることを怠っていました。

    ”すなわち、宋錫夏は「現場を見ていない」ことになります。そんな宋錫夏は、独島に関する具体的なイメージを持ち得なかったのではないでしょうか。”
    ”とにかく、宋錫夏は、トクソムは「人の住める島」だという認識を持っていたのではないかと思います。”

    本論文は1948年のシンソクホの論文と比べて特に、二島の認識の混乱振りが際立っています。しかし、よく考えればこれは朝鮮王朝時代を通じて一貫している共通認識だと思います。

    1.人の住めるはずの島が東方、鬱陵島の方角にあるはずだが誰も現場を見ていないので、ハッキリしない。(一島説と二島説の混在。)
    2.あるとすれば、本土からの視界に入る距離の、本土と鬱陵島を結ぶ直線上にあるはず。(だから本土から眺めた場合重なって見え、地図に二島あるのに一島しか見えなくても不思議に思わない。)
    3.どこにあるかよく分からないが、とにかくそれは鬱陵島の付属島で朝鮮の領土ある。

    これは鬱陵島の東2kmほどにある、断崖絶壁に囲まれて一見人を寄せ付けないけれど、上り口を見つければ上部の広大な平地で人が住める鬱陵島の付属島、竹嶼の存在が、この混乱ぶりをの原因だと言えるでしょう。1906年の大韓帝国政府はこの間違いに気づき、総督府に照会を行わなかったと推察されますが、1947年の韓国過渡政府はそれを知ってかしらずか、はたして歴史を歪曲し、日本人から領有権を通告されたにも関わらず、国際法に従わずにむしろ強奪した、ということではないでしょうか。

    洪鐘仁1978「再び独島問題を考える」『新東亜』11月号、を確認する必要がありますね。今後の課題です。

    ”申奭鎬は、三峰島の人形をアシカだと考え”

    宋はどうやら竹島についての知識が乏しいようですので、前にも言ったように申奭鎬が5日前の日記を読み飛ばすとは考えられないので、推察ですが、やはり申が三峯島を鬱陵島ではなくむりやり竹島に比定するために、1948年、資料の我田引水的解釈(=遺伝子操作)を試みたのではないでしょうか。

    「トクソム」「トルソム」については今一度整理しなおす必要がありますね。さらに文献の解読を進める中でやっていきましょう。事実と推測をきちんと分ける必要があります。韓国人の論理を聞いていると、この二つを峻別せずに曖昧さを利用して自分の都合のいい部分だけを取り出して、自説に取り入れてしまう傾向があるようです。本来研究者がやってはいけないタブーを、平気でやってしまっていることに恐ろしさを感じないのでしょうか。こんないい加減なことでは世界では通用しません。

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