その論文の中で申奭鎬は、成宗実録の記述からほぼ確実に鬱陵島に比定される三峯島を、 資料の恣意的な解釈をして人の住めない竹島であると断定するという、素人目にも明羅かな致命的ミスを犯します。彼はその過ちを訂正することなく、結 果として韓国政府が日本政府との外交交渉をする際も、公式見解として取り上げられ、その主張の根幹をなすものとなってしまいます。
本論文 は、申奭鎬による12年後の1960年に書かれた論文です。この度、matsuさんのご好意で原文とその翻訳をこちらに公開させて頂くことが出来まし た。翻訳は初稿であり、matsuさんのご希望で、皆さんのご意見を伺いながらこちらで内容とともにチェックして参りたいと思います。よろしくお願い致し ます。(matsuさん、翻訳お疲れ様でした。)Part 1では、1~4を、そして次のPart 2では残りの5~結論を掲載します。
申奭鎬「獨島の来歴」(雑誌『思想界』)1960(126p~137p)
高麗大学校 文理大学教授 国史
1 問題の提起
2 独島の地勢と産物
3 独島に関する古文献とその称号
4 鬱陵島所属問題と独島
5 鬱陵島開拓と独島所属
6 日帝の独島強奪と日本人の独島についての観念
1 問題の提起
独 島に対する所属問題が、現在韓日会談の重要な議題になっていることは世人が皆知っていることであるが、この問題が初めて提起されたのは14年前の檀記 4280(1947)年の夏のことである。独島は東海の真ん中、鬱陵島東南方の海上49浬(訳注:海里)、東経131度52分22秒、北緯37度14分 18秒の海上に位置する無人の孤島であり、鬱陵島との距離は49浬であるのに対して、日本の隠岐島との距離は約その倍の83浬にもなる。地理的な関係から 見て独島は鬱陵島に属するのは当然であるばかりでなく、歴史上もまたわが国のものであり、8・15解放と同時に米軍が日本に進駐した後、1945年9月5 日付で米国の最初の対日方針を発表し「日本の主権は、本州・北海道・九州・四国の四大島に限る」とし、同年10月13日の連合軍最高司令部の公示第42号 で日本人の漁業区域の限界線を決定したマッカーサー・ライン(Makatherline ママ)を発表したが、その線が独島の東方12浬の海上を通過して いたため、我々は獨島が当然わが国の領土に編入されると思っていた。ところが、1947年(檀記4280)7月11日にアメリカ極東委員会が「日本の主権 は、本州・北海道・九州・四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定されることになる」と対日基本政策を発表すると、日本は、独島は日本の領土である という世論を起こした。ここに、わが国で初めて独島問題が発生し、同年8月16日から約2週間、韓国山岳会の主催で第一次学術調査団が独島に行くことにな り、政府でもいろいろな処置をとった。このとき筆者は、独島の歴史を調査せよという民政長官・安在鴻先生の命令を受け、第一次学術調査団に参加して鬱陵島 と独島を踏査して帰り、『史海』創刊号に「独島所属について」という小品を発表して、独島が歴史上地理上わが国の領土だということを証明したことがあった が、韓日会談開催以後、外務部の外交史料調査委員会の委員となり、現文教部長官の李丙壽(イ・ビョンド)博士と共に独島についての史料を調査し、数次、日 本側の主張に反駁する文書を作成したことがあるが、ここにこの文を書いて、独島は本来わが国の領土であったことを一般国民にご理解いただこうと思う。とこ ろが原稿の期限が迫って充分な説明が出来なかったばかりでなく、文章もきちんと整えられなかったことを遺憾に思う。
2 独島の地勢と産物
独 島の歴史的事実を記述する前に、読者の理解を助けるために一体独島はどのような島であるのかをまず説明しよう。独島は、東西二個の主島と、周囲に点々と散 りばめられた無数の岩の島で成立しているが、東島の東南方に燭台のようにとがって立っている岩の島があり、遠くから見るとまるで3つの峯から成立している 島のようである。そこで成宗朝にこの島を三峯島と言ったようである。東西両島の距離は約200メートル、東島は周囲約1浬半、西島は周囲約1浬、高さは二 つの島とも150メートルになる極めて小さな火山島であり、東島には噴火口が完全に残っており、ちょうど椀を伏せて置いたように内部が空洞になっていて、 東壁の下部は穴が開いていて海水が流通している。島全体が火成岩で成り立っているので、島の上には一株の木もなく、ただ雑草があちこちに少しずつあるのみ である。島の周囲はどこも切り立ったような絶壁となっていて島の上に上ることが出来ず、絶壁には奇怪な洞窟が多くあり、洞窟と付近の岩にはカジェ(海驢) が多く棲殖している。カジェは欝陵島の人がオットセイをさして言うもので、わが国の古記録には、みな可支魚と記録されている。そして独島の周囲の海の中の 無数の岩には、コンブ、ワカメ、ウニ(雲丹)、アワビなどが無尽蔵に繁殖し、付近の海中にはクジラ、サメ、イカやその他の魚類が多くいる。独島に船を着け ることができる場所は東島と西島の間にしかなく、東島の西側に砂利の多い土地数百坪があるが、毎年夏になると、鬱陵島の人がここに臨時に小さな家を建てて 魚をとる。(訳注:1948年版では、この部分は「ここに昔鬱陵島の人と日本人が家を建てた場所が残っている」となっていた。「日本人」が消えている)す る。(訳注:何かの誤植)そして、ここから東島に登ることが出来るが、傾斜面60度以上にもなり、東島の南のほうの中腹に数十坪の平地があるが、登るのが 難しいだけでなく海風を防ぐことができず利用することが出来ない場所である。日本海軍省で発行した朝鮮沿岸水路誌によれば、西島の西南部に少量の淡水が出 るとしているが、あちこち調査をしてみたが発見することが出来なかった。要するに独島は、平地と飲料水が無いために人が定住することが出来ないところであ るが、水産業上、軍事上非常に重要なところで、露日海戦当時日本軍がここを貯炭所として使用したという。
3 独島に関する古文献とその称号
独 島名称の由来について、欝陵島の人たちの中で、ある人はこの島は東海の真ん中に寂しくあるので独島といったという人もおり、またある人はこの島全体が岩す なわち石(トル)で成立しているので、慶尚道方言で石(トル)をトクというので、石の島という意味でトクトと言ったという人もおり、そのどれが正しいのか は知ることが出来ないが、これが初めて記録に出てくるのは、光武十年(1906)である。鬱陵郡庁に保管されている光武十年丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報 告書の中に「本郡所属獨島」という文言があり、韓末の志士黄玹の海泉野録(訳注:梅泉野録の誤)巻五 光武十年丙午四月条にまた獨島という言葉があること を見れば、韓末の高宗時代からこの島を獨島としたことは明白なことである。たぶん高宗十八年(1881)に鬱陵島を開拓した以後、鬱陵島の住民がこのよう に命名したのであろう。ところが、光武九年(1095(訳注:1905年の誤) 明治三十八年)露日戦争当時、日本がこの島を強奪した後から、独島という 我が国の名称は消え、日本名の竹島(Dakeshima)と仏国名リヤンクル(Liancourt)、英国名ホネット(Hornet)として世界の海図上 に表示された。元来、竹島は、粛宗十九年(1693)以来日本人が鬱陵島を指称したものであるが、高宗時代(明治時代)に日本が鬱陵島を松島と改称し、竹 島の称号を独島に移してつけたものである。リヤンクルは、憲宗十五年(1894(訳注:1849の誤))にフランスの捕鯨船リヤンクル号がこの島を発見し てその船名により命名したものであり、ホネットは、哲宗六年(1855)に英国支那艦隊所属汽船ホネット号がこの島を発見して、またその船名により名づけ たものである。このように独島ひとつの島に対して現在4つの名称があるが、朝鮮初期からわが国は、この島を于山島あるいは三峯島と言い、江原道蔚珍県に附 属させたのである。
世宗実録 巻153、地理志江原道蔚珍県条にその附属島嶼として于山島と武陵島を列挙し、次のように二つの島の位置と相互関係 を記録した。すなわち「于山・武陵 二島は県(蔚珍)の正しく東方の海中にあるが、二島の距離は遠くはなく、日気が清明ならば互いに望み見ることが出来 る。」(于山武陵二島、在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見)と記録されている。武陵島は、高宗時代(訳注:高麗時代の誤か)から使用された 鬱陵島の別称である。蔚珍東方の海の中には、鬱陵島と独島以外のほかの島はなく、鬱陵島と独島は日気が清明な時、お互いに望み見ることが出来、世宗実録地 理志の于山島、武陵島の記事とまさに同じであり、武陵島は鬱陵島の別称であるから、于山島は独島に違いないのである。そして、成宗時代に編纂されたわが国 の有名な地理書籍である『東国輿地勝覧』の中にも、蔚珍県の属島として于山島と鬱陵島が記録されている。ただ、東国輿地勝覧の注の中に「一説に于山と鬱陵 はもともと同じ島だ---一説、于山鬱陵本一島」という句節があり、また三国時代に鬱陵島を于山国とした事実がある。そこで日本の外務省は、この二つの事 実をあげて、1954年2月10日付の覚書で于山・鬱陵の同一島説を主張し、于山島を独島であるとする我々の主張に反駁してきたが、しかし于山島と鬱陵島 をそれぞれ別の島と区別して記録した輿地勝覧の本文を捨てて、参考として記録された注の一節をとって于山島と鬱陵島を同じ島であるとする日本側の解釈は正 常ではなく、三国時代の于山国と世宗実録地理志および輿地勝覧の于山島は、国と島の区別があり性質が全然違うものであり、日本側の主張は于山島を独島とす る我々の主張にどんな影響も与えることが出来ないものである。そして、粛宗実録 巻三十 粛宗二十二年九月戊寅条に、東莱の漁民・安龍福が鬱陵島に入り、 自称松島に住むという倭人に出会って「松島は子山島であり、またわが国の地だ。お前が敢えてここに住むのか---松島、即子山島、此亦我國地、汝敢住此 耶」と言い、次の日子山島に入って倭人を逐い出し、飄風にあって日本の隠岐島に入ったことが記録されている。安龍福の事件は次項で再び論ずることにする が、安龍福の言う子山島は于山島の誤記であり、増補文献備考には芋山島と記録されており、今の独島に違いないのである。以上、3つの記録から、世宗朝以 後、独島を于山島と呼び、江原道蔚珍県に付属させたことを知ることが出来る。
以上のように、朝鮮初期に独島を于山島としたばかりでなく、三峯島としたこともあった。
成 宗実録によると、成宗二年から十二年まで(1471~1481)の間に三峯島に関する記事が多く見られる。三峯島は東海の中にある島で、初めには誰も一度 も行くことが出来ない謎のような島であった。しかし、軍役を逃避し税金をのがれた江原道、永安道(咸鏡道)の流民が多くこの島に入り住んでいるという話が あったので、国家ではこの島に人が入ることを厳禁し、数回にわたって捜討軍を組織してこの島を捜索した。しかし捜討軍は一度もこの島を発見できず、ただ成 宗七年に永安道観察使・李克均が派遣した永興人の金自周等十二名が、三峯を眺め見て来たことがあった。成宗実録巻七十二、成宗七年十二月丁酉(27日)条 に記されている金自周の言によれば「彼は9月16日に鏡城の瓮仇未浦を出発し、25日に西側から7~8里ほど三峯島を眺め見たが、島の北のほうに三石が列 立し、次に小島があり、次に岩石が列立し、次に中島があり、中島の西のほうにまた小島があるが、みな海水が流通し、島の間に人の形のようなものが三十ばか り並んで立っていたので怖くなり、島に行くことが出来ず島形を描いて来た」と記録している。(九月十六日、於鏡城甕仇未發船・・・二十五日、西距島七八里 許、到泊望見、即於島北、有三石列立、次小島、次岩石列立、次中島、中島之西、又有小島、皆海水通流、亦於海島之間、有如人形列立者三十、因疑懼、不得直 到、畫島形而來)この記録によれば、金自周等は、三峯島に上陸できずに、三峯島の東側7~8里の海上から、西側に向かって島を眺め見てきたことになるが、 彼が言う三峯島の貌形は、今の独島と少しも違いがないものである。すなわち金自周が言う島の北側に三石が列立していたというのは、西島の北方に高くそびえ る三つの岩島を言うものであり、次の小島と岩石は東島と西島の間に無数に散在する岩を言ったものであり、中島は西島を指したものであり、中島の西側の小島 は東島の東南方に高くそびえる岩の島を言ったものとなり、大概、いまの独島をそのまま描いたものであり、島の間を海水が流通するということも独島の条件に 符号するものである。そして島の間に見える人の形のようなものは、たぶん、カジェ(海驢)を人形と誤認したのであろう。
要するに、独島は我が国の人がまず発見したもので、朝鮮時代に于山島または三峯島といい江原道蔚珍県に附属させた、我が国の領土であることは明白な事実である。
4 鬱陵島所属問題と独島
鬱 陵島は、三国時代に于山国、高麗時代に鬱陵島、または蔚陵、芋陵、羽陵、武陵、茂陵島などと表示された我が国の領土であることは二言を要しないことであ る。ところが高麗初期の顕宗朝に今の咸鏡道地方に住んでいた女真人が、しばしば島に侵入し住民を拉致していったので、島内の人民を内陸に移住させ、長い間 この島を空けておいた。高麗末期から李朝初期にかけて、江原道沿岸地方の人が多くこの島に移住して鬱陵島に再び人が住むようになったが、本来、この島は陸 地から遠く離れているばかりでなく、風波による溺死者が続出し、またこの島に移住する者は大概、軍役と税金を逃避しようとする者ばかりであり、また当時盛 んであった倭寇の侵掠を受ける憂慮があるため、朝鮮・太宗十七年(1417)に、三陟人の金麟雨を鬱陵島按撫使に任命して居民八十余名を内陸に刷還し、世 宗七年(1426)に再び金麟雨を派遣して再次居民を刷還し、同二十年に護軍の南薈を派遣して居民六十余名を刷還し、鬱陵島に人が入って住むことを厳禁し た。しかし、本島は漁業の利益が大きいので、東海沿岸の漁民の往来をいちいちみな防げることは出来ず、ただ人が入って定住することを禁じただけであった。
こ のように鬱陵島を完全に空島とすると、日本の因幡・伯耆(島根県 訳注:鳥取県の誤り)方面の漁民がまたしばしば鬱陵島に来て漁業をしたが、壬辰倭乱以 後、日本人は鬱陵島を磯竹島あるいは竹島と呼んで来往した。ところが粛宗十九年(1693 日本元禄六年)に、東莱の漁民、安龍福一行が鬱陵島に入ったと ころ、日本の伯耆州の漁民と出会って争いが起こり、まさに朝日両国間に鬱陵島所属問題が起こって、数年間外交戦を展開することになった。この問題について は、我が国の史料である粛宗実録、同文彙考、通文館志、増補文献備考と、日本側の史料である朝鮮通交大紀、本邦朝鮮往復書、通航一覧に詳細に明記されてお り、故京城帝国大学教授 田保橋潔が「鬱陵島の発見とその領有」という題目で青丘學叢(第三号)に発表したことがあるが、独島に関係する事実を説明しな かったので、ここでは主にこの点について論述しようと思う。
粛宗実録 粛宗二十年二月辛卯条と二十二年九月戊寅条、および文献備考巻31蔚珍県条 によれば、安龍福は本来能櫓軍出身で卑賤な人であるが、性質が豪侠でまた日本語をよくした。粛宗十九年春に同業の朴於屯など40余名とともに漁業のため鬱 陵島に入ったが、日本の伯耆州の漁民(大谷九右衛門など)と出会い争ったあげく、安龍福・朴於屯の2名が日本の漁民に捕まり、玉岐島(隠岐島)に行くこと になった。安龍福が隠岐島に着いて、島主に鬱陵島の朝鮮領土であることを主張し、「朝鮮人が朝鮮の土地に入ったのに、なぜ私をここに捕まえてきたのか」と 抗議すると、隠岐島主は仕方なく安龍福をその上典(訳注:主人)である伯耆州太守・松平新太郎(池田光政)に移送した。安龍福は伯耆州に着いてまた同じ主 張をし、日本漁民の鬱陵島出入を厳禁してくれと要請したが、伯耆州太守は鬱陵島がもともと朝鮮領土であることを知っていたのか、安龍福を厚くもてなすと同 時に、関白(幕府将軍)に言って鬱陵島が日本の領土ではないという書契を作って与え、江戸(東京)、長崎、対馬島を経て、本国に送還した。(訳注:安龍福 が実際には江戸に行っていないことは日本側史料で証明されている。)しかし安龍福が対馬島に着いた時、対馬島主である宗義倫がこの事件を契機に鬱陵島を奪 う考えを起こし、まず安龍福が持っている伯耆州太守の書契を奪い取り、安龍福を日本領土の竹島に侵入した犯越罪人であるとして、同年11月に差倭(対馬島 倭使の称号)橘真重(多田興左衛門)を釜山に派遣し、安龍福を押送すると同時に礼曹に書契を送り、朝鮮漁夫の竹島侵入を禁止させてくれと要求した。倭人が 言う竹島は鬱陵島を言うもので、我が国でもこの事実を斟酌していた。しかし当時政権を握っていた南人の左議政・睦来善と右議政・閔黯が、三百年のあいだ空 けて置いた島のために隣国と事件を起こすのは良い方策ではないとして、校理・洪重夏を慰接官にして釜山に送り、差倭・橘真重を[接貴するとともに、今後、 待國](訳注:接待と貴国の誤植)接待するとともに、今後、貴国の竹島に人が入ることを厳禁するという意味の礼曹覆書(回答書契)を作り差倭に伝達した。 この礼曹覆書は竹島を日本領土と認定したものであるが、しかしその冒頭に「我が国は漁民を取り締まり、外洋に出られないようにしている。我が国の鬱陵島と いえども遠く離れているので任意に往来することを許していないのであり、ましてその外の地は尚更である」(弊邦禁束漁民、使不得出於外洋、難弊境之鬱陵 島、不許任意往来、況其外乎)という語句を記録し、竹島と鬱陵島を違う島と区分して鬱陵島は我が国の土地であるということを明示した。ところが礼曹覆書の 中にこの語句がある以上、鬱陵島を奪おうという倭人の計画は成立しないので、差倭の橘真重はこの文句を削除してくれと言って礼曹覆書を受け取らず、翌年粛 宗二十年二月に対馬島主が再び人を送って鬱陵の二字を削除してくれと要請したが、これは実に狡猾な外交だと言わざるを得ないのである。ところで、この時、 我が国は甲戌更化という政変が起こり、倭人に対して柔和政策を取っていた南人が政界から去り、少論の南九萬・尹趾完が政権を握ることになり、南九萬等は強 硬政策をとって、鬱陵島と竹島は同じ島であるとして一島二名説を主張し、倭人の奸計を弁破した。ところが対馬島主もすでに始めた事をそのまま止めることは 出来ず、爾後数年間、ずっと竹島を日本領土と主張していたのであるが、日本の主張は歴史的理論上成立しないことなので、粛宗二十二年(1696年 日本元 禄九年)に徳川幕府は、役に立たない小さな島をめぐって隣国と争うのは良くない事であるとして、対馬島主に命じて、竹島すなわち鬱陵島を朝鮮領土と承認し 日本漁民に竹島来往を禁ずることにした。ここに鬱陵島所属問題は完全に解決されたのであり、この時日本は鬱陵島だけでなく独島もまた我が国の領土と認定し たということは、次のような安龍福の第二次伯耆州談判に明白に現れている。
粛宗十九年に安龍福が日本から帰り、東莱府使と慰接官洪重夏に彼が伯耆 州で鬱陵島所属問題を談判したということを報告したが、国家では龍福の言葉を信じないで倭人と争っており、彼は大いに憤慨して粛宗二十二年春に蔚山に行 き、興海人・劉日夫、寧海人・劉奉石、平山浦・李仁成、楽安人・金吉成、延安人・金順立と順天の僧・雷憲、勝淡、連習、霊律、丹責などあわせて16名の漁 夫と会い、鬱陵島に行けば魚をたくさん捕まえられると言ってこの者たちを誘って鬱陵島に行き、また再び倭人と出会った。安龍福は「鬱陵島はもともと我が国 の土地であるが、お前達はどうして越境、侵入するのか」と言って叱ると、倭人が答えて言うには「私達は松島に住む者で、魚を採ってここに来たのですが、今 すぐに帰ります」と言った。安龍福は再び「松島はすなわち子山島(于山島)であり、これまた我が国の土地だ。お前達は、敢えてそこに住むというのか」と 言って、翌日船をこいで子山島に行くと、倭人たちは・・を・・して飯を炊き、魚を焼いていた。安龍福一行は長い棒を振って叩き壊すと、倭人は船に乗って逃 亡した。安龍福は再びこれを追跡し、飄風にあって再び玉岐島(隠岐島)に到着したが、安龍福は隠岐島主に合い「年前に私がここに来た時、鬱陵・子山島等を 朝鮮の土地と定めて関白の書契まで受け取ったが、お前の国はこれを無視して今また我が領土を侵犯したが、これはいかなる道理か----頃年吾入來此處、以 鬱陵 子山等島、定以朝鮮地界、至有關白書契、而本國不有定式、今又侵犯我境、是何道理」と抗議すると、島主は伯耆州太守に報告し処理すると答えた。しかし長い 間連絡がなかったので、安龍福は憤怒を抑えきれず、船に乗ってすぐに伯耆州に入り、偽って鬱陵・子山両島監税官と名乗り、人を送って伯耆州太守に通告する と、太守が人と馬を送って迎接した。ここに安龍福は青帖裏を着て、黒布のカッ(訳注:冠帽)をかぶり、皮の履物をはき、輿に乗り、他の人たちは馬に乗って 太守の居所へ入って、これに対座して「前日、私が二つの島のことで書契を受けたことは明白であるのに、対馬島主が書契を奪取し、中間でいろいろ事実を偽造 し何回も差倭を送り不法横侵するので、私が関白に上疏して、対馬島主の罪状をひとつひとつ告げよう」と言って、李仁成をして上疏文を書かせ、太守に伝達し た。この時江戸(東京)に参勤していた対馬島主の父、宗義真がこの事実を知り、伯耆州太守に懇請してこの上疏文を上げられないようにしたので、伯耆州太守 はその上疏文を関白に上げないことにしたが、前日鬱陵島に犯越した倭人15名を処罰すると同時に安龍福に言うには「二つの島はお前の国に属するものである から、以後再び犯越するものがいたり、また対馬島主が横侵したりすることがあれば、図書と訳官を送れ。そうすれば、重罪に処するであろう」と言って、糧食 を与え、差倭を定めて護送するようにした。
以上は、主に粛宗実録(二十二年八月壬子と九月戊寅条)にある安龍福の話によって記録したものであり多 少の誇張もあるようである。彼が伯耆州に行き鬱陵島問題を談判し関白に上疏しようとしたことは、日本側史料である通航一覧(巻三十七)にも記録していると ころであり、彼の主張が日本に重大な影響を与え、最後には徳川幕府をして竹島すなわち鬱陵島を我が国の領土として承認させ、日本漁民の鬱陵島往来を禁じる ことになったのであるが、ここで一番重要なことは安龍福が鬱陵・子山両島監税官と仮称し、鬱陵島と子山島を我が国の領土と主張したことと、伯耆州太守がこ れを承認したことである。子山島は先に説明した通り于山島の誤記であり、独島に間違いないのである。こうして、独島は今から260余年前、粛宗二十二年 (1696)に日本がすでに我が国の領土として承認したものであると言えよう。最後にここに添記することは、安龍福が倭人と闘争したことは実に痛快なだけ でなく、彼の功労が非常に大きいにもかかわらず、国家ではこれを犯越罪人として拘束し、最後には配流したが、誠に痛嘆すべきことであると言わざるを得な い。
高麗大学校 文理大学教授 国史
1 問題の提起
2 独島の地勢と産物
3 独島に関する古文献とその称号
4 鬱陵島所属問題と独島
5 鬱陵島開拓と独島所属
6 日帝の独島強奪と日本人の独島についての観念
1 問題の提起
独 島に対する所属問題が、現在韓日会談の重要な議題になっていることは世人が皆知っていることであるが、この問題が初めて提起されたのは14年前の檀記 4280(1947)年の夏のことである。独島は東海の真ん中、鬱陵島東南方の海上49浬(訳注:海里)、東経131度52分22秒、北緯37度14分 18秒の海上に位置する無人の孤島であり、鬱陵島との距離は49浬であるのに対して、日本の隠岐島との距離は約その倍の83浬にもなる。地理的な関係から 見て独島は鬱陵島に属するのは当然であるばかりでなく、歴史上もまたわが国のものであり、8・15解放と同時に米軍が日本に進駐した後、1945年9月5 日付で米国の最初の対日方針を発表し「日本の主権は、本州・北海道・九州・四国の四大島に限る」とし、同年10月13日の連合軍最高司令部の公示第42号 で日本人の漁業区域の限界線を決定したマッカーサー・ライン(Makatherline ママ)を発表したが、その線が独島の東方12浬の海上を通過して いたため、我々は獨島が当然わが国の領土に編入されると思っていた。ところが、1947年(檀記4280)7月11日にアメリカ極東委員会が「日本の主権 は、本州・北海道・九州・四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定されることになる」と対日基本政策を発表すると、日本は、独島は日本の領土である という世論を起こした。ここに、わが国で初めて独島問題が発生し、同年8月16日から約2週間、韓国山岳会の主催で第一次学術調査団が独島に行くことにな り、政府でもいろいろな処置をとった。このとき筆者は、独島の歴史を調査せよという民政長官・安在鴻先生の命令を受け、第一次学術調査団に参加して鬱陵島 と独島を踏査して帰り、『史海』創刊号に「独島所属について」という小品を発表して、独島が歴史上地理上わが国の領土だということを証明したことがあった が、韓日会談開催以後、外務部の外交史料調査委員会の委員となり、現文教部長官の李丙壽(イ・ビョンド)博士と共に独島についての史料を調査し、数次、日 本側の主張に反駁する文書を作成したことがあるが、ここにこの文を書いて、独島は本来わが国の領土であったことを一般国民にご理解いただこうと思う。とこ ろが原稿の期限が迫って充分な説明が出来なかったばかりでなく、文章もきちんと整えられなかったことを遺憾に思う。
2 独島の地勢と産物
独 島の歴史的事実を記述する前に、読者の理解を助けるために一体独島はどのような島であるのかをまず説明しよう。独島は、東西二個の主島と、周囲に点々と散 りばめられた無数の岩の島で成立しているが、東島の東南方に燭台のようにとがって立っている岩の島があり、遠くから見るとまるで3つの峯から成立している 島のようである。そこで成宗朝にこの島を三峯島と言ったようである。東西両島の距離は約200メートル、東島は周囲約1浬半、西島は周囲約1浬、高さは二 つの島とも150メートルになる極めて小さな火山島であり、東島には噴火口が完全に残っており、ちょうど椀を伏せて置いたように内部が空洞になっていて、 東壁の下部は穴が開いていて海水が流通している。島全体が火成岩で成り立っているので、島の上には一株の木もなく、ただ雑草があちこちに少しずつあるのみ である。島の周囲はどこも切り立ったような絶壁となっていて島の上に上ることが出来ず、絶壁には奇怪な洞窟が多くあり、洞窟と付近の岩にはカジェ(海驢) が多く棲殖している。カジェは欝陵島の人がオットセイをさして言うもので、わが国の古記録には、みな可支魚と記録されている。そして独島の周囲の海の中の 無数の岩には、コンブ、ワカメ、ウニ(雲丹)、アワビなどが無尽蔵に繁殖し、付近の海中にはクジラ、サメ、イカやその他の魚類が多くいる。独島に船を着け ることができる場所は東島と西島の間にしかなく、東島の西側に砂利の多い土地数百坪があるが、毎年夏になると、鬱陵島の人がここに臨時に小さな家を建てて 魚をとる。(訳注:1948年版では、この部分は「ここに昔鬱陵島の人と日本人が家を建てた場所が残っている」となっていた。「日本人」が消えている)す る。(訳注:何かの誤植)そして、ここから東島に登ることが出来るが、傾斜面60度以上にもなり、東島の南のほうの中腹に数十坪の平地があるが、登るのが 難しいだけでなく海風を防ぐことができず利用することが出来ない場所である。日本海軍省で発行した朝鮮沿岸水路誌によれば、西島の西南部に少量の淡水が出 るとしているが、あちこち調査をしてみたが発見することが出来なかった。要するに独島は、平地と飲料水が無いために人が定住することが出来ないところであ るが、水産業上、軍事上非常に重要なところで、露日海戦当時日本軍がここを貯炭所として使用したという。
3 独島に関する古文献とその称号
独 島名称の由来について、欝陵島の人たちの中で、ある人はこの島は東海の真ん中に寂しくあるので独島といったという人もおり、またある人はこの島全体が岩す なわち石(トル)で成立しているので、慶尚道方言で石(トル)をトクというので、石の島という意味でトクトと言ったという人もおり、そのどれが正しいのか は知ることが出来ないが、これが初めて記録に出てくるのは、光武十年(1906)である。鬱陵郡庁に保管されている光武十年丙午陰三月五日付の鬱陵郡守報 告書の中に「本郡所属獨島」という文言があり、韓末の志士黄玹の海泉野録(訳注:梅泉野録の誤)巻五 光武十年丙午四月条にまた獨島という言葉があること を見れば、韓末の高宗時代からこの島を獨島としたことは明白なことである。たぶん高宗十八年(1881)に鬱陵島を開拓した以後、鬱陵島の住民がこのよう に命名したのであろう。ところが、光武九年(1095(訳注:1905年の誤) 明治三十八年)露日戦争当時、日本がこの島を強奪した後から、独島という 我が国の名称は消え、日本名の竹島(Dakeshima)と仏国名リヤンクル(Liancourt)、英国名ホネット(Hornet)として世界の海図上 に表示された。元来、竹島は、粛宗十九年(1693)以来日本人が鬱陵島を指称したものであるが、高宗時代(明治時代)に日本が鬱陵島を松島と改称し、竹 島の称号を独島に移してつけたものである。リヤンクルは、憲宗十五年(1894(訳注:1849の誤))にフランスの捕鯨船リヤンクル号がこの島を発見し てその船名により命名したものであり、ホネットは、哲宗六年(1855)に英国支那艦隊所属汽船ホネット号がこの島を発見して、またその船名により名づけ たものである。このように独島ひとつの島に対して現在4つの名称があるが、朝鮮初期からわが国は、この島を于山島あるいは三峯島と言い、江原道蔚珍県に附 属させたのである。
世宗実録 巻153、地理志江原道蔚珍県条にその附属島嶼として于山島と武陵島を列挙し、次のように二つの島の位置と相互関係 を記録した。すなわち「于山・武陵 二島は県(蔚珍)の正しく東方の海中にあるが、二島の距離は遠くはなく、日気が清明ならば互いに望み見ることが出来 る。」(于山武陵二島、在縣正東海中、二島相去不遠、風日清明、則可望見)と記録されている。武陵島は、高宗時代(訳注:高麗時代の誤か)から使用された 鬱陵島の別称である。蔚珍東方の海の中には、鬱陵島と独島以外のほかの島はなく、鬱陵島と独島は日気が清明な時、お互いに望み見ることが出来、世宗実録地 理志の于山島、武陵島の記事とまさに同じであり、武陵島は鬱陵島の別称であるから、于山島は独島に違いないのである。そして、成宗時代に編纂されたわが国 の有名な地理書籍である『東国輿地勝覧』の中にも、蔚珍県の属島として于山島と鬱陵島が記録されている。ただ、東国輿地勝覧の注の中に「一説に于山と鬱陵 はもともと同じ島だ---一説、于山鬱陵本一島」という句節があり、また三国時代に鬱陵島を于山国とした事実がある。そこで日本の外務省は、この二つの事 実をあげて、1954年2月10日付の覚書で于山・鬱陵の同一島説を主張し、于山島を独島であるとする我々の主張に反駁してきたが、しかし于山島と鬱陵島 をそれぞれ別の島と区別して記録した輿地勝覧の本文を捨てて、参考として記録された注の一節をとって于山島と鬱陵島を同じ島であるとする日本側の解釈は正 常ではなく、三国時代の于山国と世宗実録地理志および輿地勝覧の于山島は、国と島の区別があり性質が全然違うものであり、日本側の主張は于山島を独島とす る我々の主張にどんな影響も与えることが出来ないものである。そして、粛宗実録 巻三十 粛宗二十二年九月戊寅条に、東莱の漁民・安龍福が鬱陵島に入り、 自称松島に住むという倭人に出会って「松島は子山島であり、またわが国の地だ。お前が敢えてここに住むのか---松島、即子山島、此亦我國地、汝敢住此 耶」と言い、次の日子山島に入って倭人を逐い出し、飄風にあって日本の隠岐島に入ったことが記録されている。安龍福の事件は次項で再び論ずることにする が、安龍福の言う子山島は于山島の誤記であり、増補文献備考には芋山島と記録されており、今の独島に違いないのである。以上、3つの記録から、世宗朝以 後、独島を于山島と呼び、江原道蔚珍県に付属させたことを知ることが出来る。
以上のように、朝鮮初期に独島を于山島としたばかりでなく、三峯島としたこともあった。
成 宗実録によると、成宗二年から十二年まで(1471~1481)の間に三峯島に関する記事が多く見られる。三峯島は東海の中にある島で、初めには誰も一度 も行くことが出来ない謎のような島であった。しかし、軍役を逃避し税金をのがれた江原道、永安道(咸鏡道)の流民が多くこの島に入り住んでいるという話が あったので、国家ではこの島に人が入ることを厳禁し、数回にわたって捜討軍を組織してこの島を捜索した。しかし捜討軍は一度もこの島を発見できず、ただ成 宗七年に永安道観察使・李克均が派遣した永興人の金自周等十二名が、三峯を眺め見て来たことがあった。成宗実録巻七十二、成宗七年十二月丁酉(27日)条 に記されている金自周の言によれば「彼は9月16日に鏡城の瓮仇未浦を出発し、25日に西側から7~8里ほど三峯島を眺め見たが、島の北のほうに三石が列 立し、次に小島があり、次に岩石が列立し、次に中島があり、中島の西のほうにまた小島があるが、みな海水が流通し、島の間に人の形のようなものが三十ばか り並んで立っていたので怖くなり、島に行くことが出来ず島形を描いて来た」と記録している。(九月十六日、於鏡城甕仇未發船・・・二十五日、西距島七八里 許、到泊望見、即於島北、有三石列立、次小島、次岩石列立、次中島、中島之西、又有小島、皆海水通流、亦於海島之間、有如人形列立者三十、因疑懼、不得直 到、畫島形而來)この記録によれば、金自周等は、三峯島に上陸できずに、三峯島の東側7~8里の海上から、西側に向かって島を眺め見てきたことになるが、 彼が言う三峯島の貌形は、今の独島と少しも違いがないものである。すなわち金自周が言う島の北側に三石が列立していたというのは、西島の北方に高くそびえ る三つの岩島を言うものであり、次の小島と岩石は東島と西島の間に無数に散在する岩を言ったものであり、中島は西島を指したものであり、中島の西側の小島 は東島の東南方に高くそびえる岩の島を言ったものとなり、大概、いまの独島をそのまま描いたものであり、島の間を海水が流通するということも独島の条件に 符号するものである。そして島の間に見える人の形のようなものは、たぶん、カジェ(海驢)を人形と誤認したのであろう。
要するに、独島は我が国の人がまず発見したもので、朝鮮時代に于山島または三峯島といい江原道蔚珍県に附属させた、我が国の領土であることは明白な事実である。
4 鬱陵島所属問題と独島
鬱 陵島は、三国時代に于山国、高麗時代に鬱陵島、または蔚陵、芋陵、羽陵、武陵、茂陵島などと表示された我が国の領土であることは二言を要しないことであ る。ところが高麗初期の顕宗朝に今の咸鏡道地方に住んでいた女真人が、しばしば島に侵入し住民を拉致していったので、島内の人民を内陸に移住させ、長い間 この島を空けておいた。高麗末期から李朝初期にかけて、江原道沿岸地方の人が多くこの島に移住して鬱陵島に再び人が住むようになったが、本来、この島は陸 地から遠く離れているばかりでなく、風波による溺死者が続出し、またこの島に移住する者は大概、軍役と税金を逃避しようとする者ばかりであり、また当時盛 んであった倭寇の侵掠を受ける憂慮があるため、朝鮮・太宗十七年(1417)に、三陟人の金麟雨を鬱陵島按撫使に任命して居民八十余名を内陸に刷還し、世 宗七年(1426)に再び金麟雨を派遣して再次居民を刷還し、同二十年に護軍の南薈を派遣して居民六十余名を刷還し、鬱陵島に人が入って住むことを厳禁し た。しかし、本島は漁業の利益が大きいので、東海沿岸の漁民の往来をいちいちみな防げることは出来ず、ただ人が入って定住することを禁じただけであった。
こ のように鬱陵島を完全に空島とすると、日本の因幡・伯耆(島根県 訳注:鳥取県の誤り)方面の漁民がまたしばしば鬱陵島に来て漁業をしたが、壬辰倭乱以 後、日本人は鬱陵島を磯竹島あるいは竹島と呼んで来往した。ところが粛宗十九年(1693 日本元禄六年)に、東莱の漁民、安龍福一行が鬱陵島に入ったと ころ、日本の伯耆州の漁民と出会って争いが起こり、まさに朝日両国間に鬱陵島所属問題が起こって、数年間外交戦を展開することになった。この問題について は、我が国の史料である粛宗実録、同文彙考、通文館志、増補文献備考と、日本側の史料である朝鮮通交大紀、本邦朝鮮往復書、通航一覧に詳細に明記されてお り、故京城帝国大学教授 田保橋潔が「鬱陵島の発見とその領有」という題目で青丘學叢(第三号)に発表したことがあるが、独島に関係する事実を説明しな かったので、ここでは主にこの点について論述しようと思う。
粛宗実録 粛宗二十年二月辛卯条と二十二年九月戊寅条、および文献備考巻31蔚珍県条 によれば、安龍福は本来能櫓軍出身で卑賤な人であるが、性質が豪侠でまた日本語をよくした。粛宗十九年春に同業の朴於屯など40余名とともに漁業のため鬱 陵島に入ったが、日本の伯耆州の漁民(大谷九右衛門など)と出会い争ったあげく、安龍福・朴於屯の2名が日本の漁民に捕まり、玉岐島(隠岐島)に行くこと になった。安龍福が隠岐島に着いて、島主に鬱陵島の朝鮮領土であることを主張し、「朝鮮人が朝鮮の土地に入ったのに、なぜ私をここに捕まえてきたのか」と 抗議すると、隠岐島主は仕方なく安龍福をその上典(訳注:主人)である伯耆州太守・松平新太郎(池田光政)に移送した。安龍福は伯耆州に着いてまた同じ主 張をし、日本漁民の鬱陵島出入を厳禁してくれと要請したが、伯耆州太守は鬱陵島がもともと朝鮮領土であることを知っていたのか、安龍福を厚くもてなすと同 時に、関白(幕府将軍)に言って鬱陵島が日本の領土ではないという書契を作って与え、江戸(東京)、長崎、対馬島を経て、本国に送還した。(訳注:安龍福 が実際には江戸に行っていないことは日本側史料で証明されている。)しかし安龍福が対馬島に着いた時、対馬島主である宗義倫がこの事件を契機に鬱陵島を奪 う考えを起こし、まず安龍福が持っている伯耆州太守の書契を奪い取り、安龍福を日本領土の竹島に侵入した犯越罪人であるとして、同年11月に差倭(対馬島 倭使の称号)橘真重(多田興左衛門)を釜山に派遣し、安龍福を押送すると同時に礼曹に書契を送り、朝鮮漁夫の竹島侵入を禁止させてくれと要求した。倭人が 言う竹島は鬱陵島を言うもので、我が国でもこの事実を斟酌していた。しかし当時政権を握っていた南人の左議政・睦来善と右議政・閔黯が、三百年のあいだ空 けて置いた島のために隣国と事件を起こすのは良い方策ではないとして、校理・洪重夏を慰接官にして釜山に送り、差倭・橘真重を[接貴するとともに、今後、 待國](訳注:接待と貴国の誤植)接待するとともに、今後、貴国の竹島に人が入ることを厳禁するという意味の礼曹覆書(回答書契)を作り差倭に伝達した。 この礼曹覆書は竹島を日本領土と認定したものであるが、しかしその冒頭に「我が国は漁民を取り締まり、外洋に出られないようにしている。我が国の鬱陵島と いえども遠く離れているので任意に往来することを許していないのであり、ましてその外の地は尚更である」(弊邦禁束漁民、使不得出於外洋、難弊境之鬱陵 島、不許任意往来、況其外乎)という語句を記録し、竹島と鬱陵島を違う島と区分して鬱陵島は我が国の土地であるということを明示した。ところが礼曹覆書の 中にこの語句がある以上、鬱陵島を奪おうという倭人の計画は成立しないので、差倭の橘真重はこの文句を削除してくれと言って礼曹覆書を受け取らず、翌年粛 宗二十年二月に対馬島主が再び人を送って鬱陵の二字を削除してくれと要請したが、これは実に狡猾な外交だと言わざるを得ないのである。ところで、この時、 我が国は甲戌更化という政変が起こり、倭人に対して柔和政策を取っていた南人が政界から去り、少論の南九萬・尹趾完が政権を握ることになり、南九萬等は強 硬政策をとって、鬱陵島と竹島は同じ島であるとして一島二名説を主張し、倭人の奸計を弁破した。ところが対馬島主もすでに始めた事をそのまま止めることは 出来ず、爾後数年間、ずっと竹島を日本領土と主張していたのであるが、日本の主張は歴史的理論上成立しないことなので、粛宗二十二年(1696年 日本元 禄九年)に徳川幕府は、役に立たない小さな島をめぐって隣国と争うのは良くない事であるとして、対馬島主に命じて、竹島すなわち鬱陵島を朝鮮領土と承認し 日本漁民に竹島来往を禁ずることにした。ここに鬱陵島所属問題は完全に解決されたのであり、この時日本は鬱陵島だけでなく独島もまた我が国の領土と認定し たということは、次のような安龍福の第二次伯耆州談判に明白に現れている。
粛宗十九年に安龍福が日本から帰り、東莱府使と慰接官洪重夏に彼が伯耆 州で鬱陵島所属問題を談判したということを報告したが、国家では龍福の言葉を信じないで倭人と争っており、彼は大いに憤慨して粛宗二十二年春に蔚山に行 き、興海人・劉日夫、寧海人・劉奉石、平山浦・李仁成、楽安人・金吉成、延安人・金順立と順天の僧・雷憲、勝淡、連習、霊律、丹責などあわせて16名の漁 夫と会い、鬱陵島に行けば魚をたくさん捕まえられると言ってこの者たちを誘って鬱陵島に行き、また再び倭人と出会った。安龍福は「鬱陵島はもともと我が国 の土地であるが、お前達はどうして越境、侵入するのか」と言って叱ると、倭人が答えて言うには「私達は松島に住む者で、魚を採ってここに来たのですが、今 すぐに帰ります」と言った。安龍福は再び「松島はすなわち子山島(于山島)であり、これまた我が国の土地だ。お前達は、敢えてそこに住むというのか」と 言って、翌日船をこいで子山島に行くと、倭人たちは・・を・・して飯を炊き、魚を焼いていた。安龍福一行は長い棒を振って叩き壊すと、倭人は船に乗って逃 亡した。安龍福は再びこれを追跡し、飄風にあって再び玉岐島(隠岐島)に到着したが、安龍福は隠岐島主に合い「年前に私がここに来た時、鬱陵・子山島等を 朝鮮の土地と定めて関白の書契まで受け取ったが、お前の国はこれを無視して今また我が領土を侵犯したが、これはいかなる道理か----頃年吾入來此處、以 鬱陵 子山等島、定以朝鮮地界、至有關白書契、而本國不有定式、今又侵犯我境、是何道理」と抗議すると、島主は伯耆州太守に報告し処理すると答えた。しかし長い 間連絡がなかったので、安龍福は憤怒を抑えきれず、船に乗ってすぐに伯耆州に入り、偽って鬱陵・子山両島監税官と名乗り、人を送って伯耆州太守に通告する と、太守が人と馬を送って迎接した。ここに安龍福は青帖裏を着て、黒布のカッ(訳注:冠帽)をかぶり、皮の履物をはき、輿に乗り、他の人たちは馬に乗って 太守の居所へ入って、これに対座して「前日、私が二つの島のことで書契を受けたことは明白であるのに、対馬島主が書契を奪取し、中間でいろいろ事実を偽造 し何回も差倭を送り不法横侵するので、私が関白に上疏して、対馬島主の罪状をひとつひとつ告げよう」と言って、李仁成をして上疏文を書かせ、太守に伝達し た。この時江戸(東京)に参勤していた対馬島主の父、宗義真がこの事実を知り、伯耆州太守に懇請してこの上疏文を上げられないようにしたので、伯耆州太守 はその上疏文を関白に上げないことにしたが、前日鬱陵島に犯越した倭人15名を処罰すると同時に安龍福に言うには「二つの島はお前の国に属するものである から、以後再び犯越するものがいたり、また対馬島主が横侵したりすることがあれば、図書と訳官を送れ。そうすれば、重罪に処するであろう」と言って、糧食 を与え、差倭を定めて護送するようにした。
以上は、主に粛宗実録(二十二年八月壬子と九月戊寅条)にある安龍福の話によって記録したものであり多 少の誇張もあるようである。彼が伯耆州に行き鬱陵島問題を談判し関白に上疏しようとしたことは、日本側史料である通航一覧(巻三十七)にも記録していると ころであり、彼の主張が日本に重大な影響を与え、最後には徳川幕府をして竹島すなわち鬱陵島を我が国の領土として承認させ、日本漁民の鬱陵島往来を禁じる ことになったのであるが、ここで一番重要なことは安龍福が鬱陵・子山両島監税官と仮称し、鬱陵島と子山島を我が国の領土と主張したことと、伯耆州太守がこ れを承認したことである。子山島は先に説明した通り于山島の誤記であり、独島に間違いないのである。こうして、独島は今から260余年前、粛宗二十二年 (1696)に日本がすでに我が国の領土として承認したものであると言えよう。最後にここに添記することは、安龍福が倭人と闘争したことは実に痛快なだけ でなく、彼の功労が非常に大きいにもかかわらず、国家ではこれを犯越罪人として拘束し、最後には配流したが、誠に痛嘆すべきことであると言わざるを得な い。
参考 :
1470 - "Sambongdo(三峯島)" was just an another name of Ulleundo, not Takeshima/Dokdo
1744 - Chungwanji (春官志) - "Ulleungdo is called Sambongdo (三峰島)" (李孟休 春官志 鬱陵島 爭界)
1948 - Jan. - OOLNUNGDO, HISTORIC ISLAND OF KOREA(古色蒼然な 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して)
1948 - 12月12日 - 申奭鎬「独島所属について」『史海』創刊第一号
『鬱陵島と独島-韓日交渉史の一側面』(1953年 崔南善)
1470年代 「三峯島」は、金漢京の嘘で、その実態は鬱陵島 成宗実録
15世紀の三峯島 (国際法からみる竹島問題)
Kaneganeseさん
ReplyDeleteありがとうございます。
同じ申奭鎬の論文で、似ている表現も多いですが、
1948年から1960年に、12年の間にずいぶん変わっています。
申奭鎬は韓国側の文献探しの中心にいた人でしょうから、
韓国側の集めている史料の変化がたどれます。
誤植がおおいので参りました。
まちがいを見つけましたらお知らせください。
"慶尚道方言で石(トル)をトクというので、石の島という意味でトクトと言ったという人もおり、"
ReplyDelete石(トル)をトクというのは全羅道の方言で、石島を標準語または慶尚道方言でトルソムと呼んでいたのを、全羅道南部沿岸漁民が石島(トクソム)と言ったのが伝わってトクソムと呼ぶようになったのではなかったでしょうか。ドクソム(独島)という呼び名が開拓時代からもともとあって、それが全羅道沿岸漁民がドクソム(石島)と聞き違え、慶尚道や江原道から移住した鬱陵島住民がトルソム(石島)と解釈し始めて、勅令に記載されたのでしょうか?誰だどの説を説いているのかわからなくなってしまいました。
江陵から移住した洪老人が1947年にドクソムと発言していたので、申奭鎬は石をドクと読むのが慶尚道や江原道の方言だと勘違いしたのでしょうか。
もっと合理的かつ事実に基づいた一貫した説明がほしいものです。