朝鮮政府は「竹島一件」の後、1694年、
江原道三陟鎮営将・張漢相(1656‐1724)を鬱陵島調査に派遣しました。(張漢相は、顕宗年間(1660~1674)に慶尚左水使や会寧府使をつとめた張シギュの息子で、1676年に武科に合格し、宣伝官となった。1682年、訓練院副正として通信使とともに(対馬経由で)日本に行った
(柳美林、2007)。)張漢相の鬱陵島調査の報告としては、
外後裔の申光璞によってまとめられた『欝陵島事蹟』がこれまで知られてきました。この資料は「1978年、「鬱陵島・独島学術調査団」が鬱陵島で入手したもので、国史編纂委員会所蔵。張漢相の鬱陵島捜討の記録から、彼の外後孫の申光璞が
(壬寅の年=1722,1782,1842,1902,1962年
)に整理したもの」(宋炳基,1999)、ということです。
一方
朴世堂(1629∼1703)は朝鮮中期の学者・文臣で、礼曹・刑曹の参議を経て、1694年(肅宗 20)(65歳頃)承旨に特進し、翌年、工曹判書(判書=大臣)を経て、吏曹判書・刑曹判書を勤めました。『西渓雑録』は議政府潘南朴氏家(西渓宗宅)に代々伝わってきた古文書の一つで、西渓朴世堂の11代の子孫である朴チャンホ氏が、韓国学中央研究院蔵書閣に寄託したものであるようです(
潘南朴氏の家の古文書 )。
この朴世堂「鬱陵島」は、大きく4つの部分で構成されています
(柳美林、2007)。(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分。(2)文禄の役のときに捕虜となったが日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容(本格的な調査に先立って、派遣した軍官の結果報告とそれに基づく自身の意見を述べているこの部分は、
申光璞本には含まれておらず、おそらくこれが現代人の目に触れるのは初めてのことであると思われます)。(4)同年1694年9月20日から10月3日まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容です。
まず注目すべきは、朴世堂が(2)で、「
天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った。二島(于山島と欝陵島)はここ(朝鮮半島東岸の寧海)からはそれ程遠くはない)」とし、韓国側の捏造解釈である、『世宗実録地理志』の一文「
二島相去不遠風日清明則可望見」が「二島はお互いに離れていないので晴れた日に(互いに)見える」が誤りで、従来の日本側の主張である、「二島(于山島と欝陵島)は、互いに離れていないので(朝鮮半島の江原道襄陽縣から)晴れた日に見える。」との解釈が正しかったことを改めて証明していることです。当時の鬱陵島は無人の辺境の孤島であり中央政府は正確な地理を把握しておらず、于山島が鬱陵島の西にある別の島なのか、同じ島なのかさえも明確ではありませんでした。当然鬱陵島および于山島が朝鮮半島からどのくらいの距離にあるかも正確に把握されておらず、朴世堂も張漢相もその点(朝鮮半島から鬱陵島までの距離)について議論しているのです。『新増東国輿地勝覧』を引用した部分においても下記のように鬱陵島の古い名が于山
國であり、晴れた日に朝鮮半島の高所から見える距離にあることを記述しています。
鬱陵島 新羅史曰于山國島名鬱陵地名百里
地誌鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌嶪撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢靑岩壑呈露沙汀樹木歷歷可
また、柳氏は「
天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」のうち、「二島(于山島と欝陵島)はここ(朝鮮半島東岸)からはそれ程遠くはない)」と明記されている前半の部分とのつながりを無視し、後半の部分のみを独立させて「鬱陵島から(
天候が晴れているとか、高いところへ登って初めて)于山島が見える」と解釈していますが、先に述べたようにそもそもこれは”鬱陵島から”ではなく”朝鮮半島から”二島がどう見えるかについて考察した文章であり、于山島をそもそも半島から見えるはずの無い竹島に比定することは文脈を逸脱しています。二島が朝鮮半島からさほど遠くない、との前提で記述されているこの文章では、于山島も当然朝鮮半島から遠くないとの前提で書かれていることは明確です。いずれにせよ現竹島は朝鮮半島から見えないだけでなく、鬱陵島の高所から、例え晴天の日であっても目視できる日数は年間10日以下(恐らく秋から冬にかけての年間3、4日)であることが明らかになっており、”晴天の日”であれば必ず鬱陵島の高所から見えるわけでは決して無いのです。ましてや『新增東國輿地勝覽』にあるように鬱陵島から現竹島は「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる」などということはあり得ません。そもそも竹島には樹木がありません。
ところで柳氏は「4番目の部分は、張漢相の『鬱陵島事蹟』に書かれている内容とほぼ同じである。」(
『海洋水産動向 1250号』, 2007)と述べています。しかし、実際に(4)の部分を、鬱陵島調査の報告書としてこれまで知られてきた
『欝陵島事蹟』(作成年代不明・外後裔の申光璞による)と較べると、大きく異なる点があることに気づきます。前半は内容はほぼ同じですが、筆写本『鬱陵島事蹟』の記述に欠けている部分が多々見られること、また使用されている漢字が間違いや省略されがちであったり、より口語的であること、などが分かります。特に、竹島問題では重要なポイントである、当時鬱陵島に多数生息していたと思われるニホンアシカ
(可支魚)の描写の部分では、文意が通らないにもかかわらず、”可支魚(アシカ)”が”魰魚(蛸)”に入れ替わっており、不自然さがぬぐえません。(ただし、申本を参照することで、朴本の欠損している箇所が類推できます。)
さらに注目すべきは後半部分で、それぞれ全く異なった内容になっています。朴世堂「鬱陵島」の張漢相自身の捜討報告(4)は最後に朝鮮半島から鬱陵島が見える様子等を述べてから、その後の検察報告に見られる文体(鬱陵島から持ち帰ったものを列記する)を踏襲しており、一つの報告書としてまとまりがありますが、、
申光璞本は、日本に対する鬱陵島の防衛前線としての意義、不思議な洞窟の話、最終日の様子等を述べて最後に日本との関係における鬱陵島の位置を述べて終わっています。竹田など既出の内容もあり、”張漢相の鬱陵島捜討の記録から、彼の外後孫の申光璞が(後年)整理した”ために、転記ミスが多く、また報告書としての形式を逸脱しているのでしょうか。これが朝廷に提出された報告書と同一であるとは考えがたく、内容の解読・解釈については特に慎重になる必要があります。(ただし、朴本にも少ないものの、漢字の間違い/省略の可能性が残る。)
また、張漢相は竹島と思われる島を”東南方向(わずか)120kmにある鬱陵島(72.82km²)の1/3未満の島”(実際は92kmで、面積は1/700以下。西島(0.10km²)、東島(0.07km²))と記録しており、この島について正確な認識が全く無かったことが伺えます。ましてや竹島=于山島であるといった認識はおろか、
安龍福 の報告した「倭の松嶋=于山島」との記述は無く、「
東方五里許有一小島不甚高大而海長竹叢生於一面是齊」の一文によってむしろ、張漢相の後を受けた
検察史朴昌錫「鬱陵島圖形」の竹嶼に「所謂于山島 海長竹田」と書かれる など、それまで于山島は西にある鬱陵島と同じ大きな島と認識されていたものが、これにより、以後次第に
于山島=竹嶼であると朝鮮本土において認識され始める きっかけとなったことが分かります。
また、もし張漢相がこの竹島と見られる東南にある大きな島を朝鮮領土であると認識していたなら、何故彼は9/20-10/4までの2週間もあった鬱陵島の滞在期間にその大きな島を調べに行こうとさえしなかったのでしょうか?現在の韓国側が主張するように、512年の新羅時代から竹島が鬱陵島の付属島であったと考えていたなら、当然その調査は視察任務の範囲内であったはずです。しかも日本人の痕跡についての詳細な報告と鬱陵島の本土防衛の地としての価値を説いているにも関わらず、です。これらの事実から
むしろ張においては、竹島は防衛する必要の無い島、つまり「朝鮮領土ではない島」との認識であったと推測されます。さらに、張漢相のこの報告は地図とともに朝廷に提出されたにも関わらず、『承政院日記』等の公式記録にこの東南の島についての記述がないようです。つまり、
この島(竹島)の存在は当時の朝鮮王朝に無視された、言いかえれば、時の政権が領土として主張する権利を公式に放棄したに等しいと言えるでしょう。
大韓帝国は1906年に再びその領有主張の権利を放棄します が、
1948年頃になって突然、竹嶼であるはずの于山島を竹島と言い張り、武力を持って不法占拠したまま今日に至っている のは周知の事実です。
以下は朴世堂「鬱陵島」(B)のYabutarouさんによる翻訳(2)と、
以前の投稿 を元にしたmatsuさんによる翻訳((3)~(4)+申本のみの箇所)です。解釈できなかった部分もあり、是非皆さんで検討したいと思い、一気に全文掲載することにしました。両者を並べて比較することはもとより、両書とも全文を通して読む機会はなかなか無いと思います。比較しながら通して読むことによって、また新たな知見が得られることもあるかと思います。("(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分”の訳については、
こちらを参照のこと。)
A 申光璞書『蔚陵島事蹟』
B 朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」
(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分(B(朴世堂『西渓雑録』 鬱陵島)のみ。翻訳なし。)
B 朴世堂『西渓雑録』
鬱陵島 [新羅史曰于山國島名鬱陵地名百里]
鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌嶪撑空而南峯稍低日初出時風恬浪靜則衆峯攢靑岩壑呈露沙汀樹木歴々可指新羅智證王聞于山國負險不服命伊湌異斯夫爲阿瑟羅州軍主阿瑟羅江陵往討之斯夫以爲于山愚頑負險難以力服易以計下乃多造木獅子分載戰艦誑之曰爾不急下當放此獸搏噬之國人恐懼來降及高麗太祖十三年島人使白吉土豆獻方物毅宗聞羽陵地肥廣可立州縣遣溟州道監倉金柔立往視回啓曰島中有大山從山頂向東行至海濱〈??(一萬三)〉千餘步向南行一萬五千步向北行八千步餘〈???(有村落)〉基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡藁本石〈??(南草)〉土多岩石民不可居遂寢厥後崔忠獻議以武〈???(陵土壤)〉膏沃多珍木海錯遣使視之有村墟屋址宛然〈???(於是移)〉東郡民實之使還多以海中珍怪之物來獻其後〈??(屢爲)〉風濤所蕩覆舟人多物故乃還其民及我朝太宗大王時聞流民迯入者甚多命三陟人金麟兩爲按撫使刷出空其地麟兩言島中土地沃腴竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是云世宗大王二十年遣縣人金灝率數百人往搜逋民盡俘金九等七十餘人出來成宗大王二年有告別有三峰島者乃遣朴宗元往覔之因風濤不得泊而還同行一船泊羽陵島只取大竹大鰒魚以歸啓曰島中無人矣
(2)文禄の役の際に捕虜となり日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。
嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島々有大山三峯尤峻發島三面皆壁立萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日大若梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹林其脩大若篔簹竹林旣窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草倭方伐竹採藥留渠守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不〈??(登最)〉高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則〈???(尋常可)〉見麋鹿態獐往々越海出來朝日纔高〈??(三丈則)〉島中黃雀群飛來投接竹邊串[島中竹實時々漂出形如大愽棊海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭箆多有之]
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かつて一人の僧侶に出会ったが(彼は)壬辰之乱の時に日本の捕虜となって日本の船に伴われて鬱陵島に行ったと自称して島には大きな山が三つあり(中略・鬱陵島の様子を説明)同じような捕虜七人と夜のうちにお互い語り合って夜明け前に船を出発させたが、当日午後三時(もしくは日暮れ)になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。思うに二島はここからそれほど離れているわけではなくひとたび風に乗れば至ることができる。于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができないが、鬱陵(島)はすこしばかり山々がそびえ立っていて風に吹かれて起こる波が静まればいつでも見ることが出来る。麋(おおじか・シカ科の哺乳類)や鹿・熊・獐(ノロ・哺乳類)がしばしば海を越えて(朝鮮半島に)やって来る。朝日の高さがわずか三丈の時に島の中のすずめが群れを成して竹邊串に飛来してくる。
(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容。
江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既<??>海舡隻。乙仍于。不得己新造。為乎矣。物力不齊、畢役未易、而八月已半、風高可慮。叱分不喩舡造間、海路遠近、偵探之意。曽已面禀、為有等以、擇取、此處、軽快漁小舡二隻、給其格粮、而、土着軍官中一人、差定渡海。為有如乎。
江原道三陟鎮の営将が、馳報を為す事。嶺東(江原道)や嶺南(慶尚道)には、既(既存の)・・・(船が無いので)、やむを得ず、(船を)新造した。物資も人力も整わず、(船の新造工事は)容易には終わらなかったが、すでに8月も半ばとなり、風が強くなることが憂慮されるので、新造船を作っている間、海路の遠近を偵探することにしたことについてはすでに直接(備辺司に)申し上げた通りである。此處(三陟)の、軽快な小さな漁船二隻を徴発して、それぞれ水夫と食糧を与え、土着の(三陟の)軍官の中の一人に命じて、(鬱陵島に)渡海させた。
軍官・崔世哲、回還言内矣。身依分付、去月十六日乗舡。而二隻、其沙格、営下待風。為如可。十八日。本鎮前洋八十里許、荘五里津頭、止宿。一日後、二十日、酉時量、幸得順風、二隻、一時掛帆、開洋。
軍官の「崔世哲」は、帰って来て次のように報告した。(以下、軍官「崔世哲」の報告)命令を受け、先月(8月)16日に乗船した。二隻とその水夫は、三陟鎮の陣営で風待ちをした。8月18日、本鎮(三陟鎮)の前洋、八十里ばかりにある「荘五里」の港まで行き、宿泊した。(荘五里港で)一日を過ごしたあと、8月20日の夜6時ごろ、幸いにも順風を得たので、二隻が一斉に帆をかけて出港した。
経夜行船。翌日、日未出時、一点島形、宛然於雲際矣。日出後、雲水徴茫、不見其形。而、向東行舡之際、酉時量、驚涛蕩舟、十餘里間、幾不能渡、意謂水臽而然。是如乎。戌時量、又値怒涛排空。此亦水臽之一派。是齋。又経一宿。
夜じゅう船を走らせ、翌日(8月21日)の日の出前に、一つの島の形が、雲のきわにはっきりと見えた。(しかし)日の出の後には、雲と海ばかりがぼんやり見えるだけで、島の姿は見えなくなってしまった。そのまま東に船を走らせたが、夜の6時ごろ、驚くほど大きな波が船を襲い、10余里(4キロあまり)のあいだ、船をあやつることができなくなった。これがいうところの「水臽」(みずのあな)というものではないかと思う。夜8時ごろ、また大きな波に襲われたが、これまた「水臽」の一派だろう。また一夜を(船中で)過ごした。
二十二日、卯時量、有一泰山、堅臨。舡頭意謂、頃刻可到。而、波浪汹湧、帆檣無力、出入進退之間、自致遲延。未時量、菫菫得到、其島北岸。則、地勢絶険、舡泊處極難。乙仍于。就、其風残處、蹔時下陸。而、山石巉岩、連抱之木、簇立掩翳。上不能見天。下不能着足。止泊後、風勢不順、有難行舡。是齋。島之東北、有小岐立石九所。而、相距百餘歩許。是齋。
8月22日、朝6時ごろ、大きな山が絶壁のようにそそりたつ姿が見え、船頭が、そろそろ(鬱陵島に)着いても良いころだと言った。しかし波は荒れており、帆の力は無力で、行ったり来たりしているうちに、ずいぶんと時間がかかってしまった。ようやく、午前10時ごろ、島の北岸に到着しました。(島の北岸の)地勢は絶険で、船を着けるのが極めて困難だった。そこで、風がおさまったところで、しばし上陸した。上陸すると、山石は高くそびえる岩であり、連抱の木は、むらがりたって、影となって覆っていた。上は天を見ることができず、下は船を止める所がない。船を止めたあとも、風勢が不順で、船を進めることができなかった。島の東北には、小さい岐(山)のような立石が、九か所有り、そのおたがいの間の距離は、百餘歩ばかりだった。
翌日風殘、後回泊於南岸。則有竹田、三處。頗有斫取之跡。而、亦有、数<???>伐者抛棄者。是乎等以。其中十餘箇、載<???>。為有弥。又有、大釜二坐。食鼎二坐。而體制非<??>之産。是乎弥。又有轆轤、引舡之機。而難<???>人之所為。是齋。巌穴之間、可支魚、或睡或<??>故、諸人持杖、搏殺二口。
翌日、(8月23日)、まだ風が残っていたが、南岸に回って停泊した。そこには、竹田が三か所あったが、非常にたくさん切り取られたあとがあった。そしてまた、いくつかの・・があり、切り取られて、放棄されていた。そのなかの10個余りは、・・・に載せられていた。(・・を載せていました。)また、大きな釜が2個、食事用に使う鼎が2個あり、そのかたちは(我が国の)産物ではないようだ。また、轆轤があった。これは船を引く道具だ。これも(我が国の)人がつくったものとは見えなかった。岩穴の間には、可支魚が、あるいは、・・し、あるいは・・していました。そこで人々は、杖を持って、2匹を搏殺した。
以来、為有於、淹留七八日間、環其島而周視。則、不過百餘里之地。其間、不無平坦可行之地。而、大木如麻撑天、終不得着足。或有、数馬場竄自可入之地。而、数少人丁、疑惧在心、不敢突入。終不得登山。是齋。
それ以来、滞留していた7~8日の間に、その島をまわって周囲を視察した。その結果、島の大きさ(周囲)は、100余里足らずだった。そこには、平坦で、歩いて行けるような場所も無くはなかた。しかし、大木が麻のごとく繁って、まるで天を支える支柱のようで、ついに、そこに行くことは出来なかた。また馬が何頭か、自ら入って行けそうな所もあったが、(調査隊の)人数も少なく、恐怖心もあったので、あえて突入しなかった。そして、ついに最後まで、山に登ることも出来なかった。
三十日、丑時。適逢東風、還為発舡。而終日、無事行舡矣。戌時量、微有電光、強風駆雨。驚涛猝怱、帆竹折倒、於舡中。舡後板木裂缺、傾覆之患、迫在斯須。舡中諸人、自分必死、是如乎。熟麻大索及鉄釘、適有預備。故。或結或着、艱以得済。為有在果。所謂狂風、本来東風。故、舡隻如飛。九月初一日、戌時量、幸得還泊。是乎弥。往還道里、通計、則、晝夜、並七日。是乎矣。海中、無他一點小島止泊。是乎弥。此外、別無所告之事。是如為。臥乎味納。於為有。臥乎所。
8月30日、午前2時。東風が吹き、帰路につくため出港した。その日は、終日、無事に航海した。(しかし、)夜20時ごろ、雷が光り、強風が吹いて、雨が降った。大きな波が襲い、竹の帆柱が折れて船の中に倒れた。船の板も砕け、今にも転覆しそうな恐れが迫り、船の中の人は、みな必死だった。熟麻の大索(太いロープ)や鉄釘をあらかじめ適切に備えていたので、(太い綱で)縛ったり、(鉄の釘を)打ち付けたりして困難をやり過ごすことができた。いわゆる柱風と呼ばれる東風が吹いてきたために船は飛ぶように進んだ。9月1日、夜20時ごろ、幸いにも(三陟に)帰り着くことが出来た。往還のみちのりは、あわせて、14昼夜(並七日 7×2)だった。(途中の)海中には、(鬱陵島の)ほかに、船をつけるような小島ひとつなかった。このほかには、別に報告するようなことはない。
往返之間、晝夜七日、是如為有矣。以其小舡、而、帆幅亦少、所受風力不多。故。與波涛出没。而、自致遅延。是在果。大舡矱帆、必有愈於小舡。是乎矣。七晝夜、雖半之三日有餘。則、一日之間、似難得達、是則可慮。是乎弥。且、聞、已行人之言、則、毎於夏月、風和時、往来、而一晝二夜之間、方可得達。是如為。臥乎所。『地理誌』、『輿地勝覧』中、「二日風便可到」之説、誠有所據。是<???>此短晷(ひかげ)使不可、白日可到。而黒夜行、舡越其<??> 所着、則、漂流可慮。是齋。
往復の間、昼夜7日は、かくのごとしである。船は小さく、帆の幅もせまく、従ってその受ける風力も少ない。ゆえに、波に翻弄され、非常に時間がかかってしまった。もし、大きな船で行けば、今回のような小舟に比べて、穏やかに行けるであろう。(往復にかかった)7昼夜は半分(の日程で済んだ)としても3日あまりかかることになる。つまり一日の間では到達は難しいと考えられる。しかし、かつて鬱陵島に行った人の言葉を聞けば、すなわち、毎年夏の月の、風のおだやかな時に往来するならば、一昼二夜の間に到達できるという。『(世宗実録)地理誌』や『輿地勝覧(東国輿地勝覧)』の中に、「二日風便可到」と説かれているが、誠に根拠のあることである。(この部分、とくに前半は不明)昼のうちに着けないで、夜の航行になれば、漂流することも憂慮される。
所謂、已斫之大竹<??>来為有去乙。取而視之、則、無異於西南、進■<???>大小。是乎弥。且、見、所謂殺得以来之可支魚、則<??>足輿「海狗」「斑獺」同類、而、異名者也。平海・通川等地、多有其種云。元非稀貴之物。是齋。苧枝竹、蓋叢蒨於原隰(さわ)之間云、可想、曩時人居之舊址。是乎弥。釜鼎之排置者、似是、倭人捉得可支魚、煮取其油、而、抛棄之物也。且、聞、鈹生苔蝕、已至剥落、云似非近年之所置。而、彼人之不常来往、據此可想。是去乎。
いわゆる、(日本人によって)大竹が切り取られている問題については、(島の)西南の部分も同じである。(ここ不明)また、いわゆる捕殺して持ち帰ったという可支魚を(張漢相が実際に)見たが、これはすなわち、「海狗」や「班獺」の同類で、異名のものである。平海や通川等の地(いずれも朝鮮半島東海岸の地名。三陟の近く)では、その種類のものが多いと云い、それほど珍しい動物ではない。苧枝竹は、湿った原に生えているものだという。(ここは、不明)けだし、曩時(かつて)人が住んでいた跡地だと思われる。釜や鼎が廃棄されて放置されているのは、倭人が捕殺した可支魚の脂をとるのに使い、それを放棄したもののようである。かつ、(軍官の報告を)聞けば、錆びていて苔(こけ)が生え、すでに剥落しているというので、これらのものが放棄されたのは、近年のことではないのであろう。だから、彼人(日本人)が、常に(鬱陵島に)やって来ているのでは無いことは、これらのことからも想像できる。
浅慮如是。惶恐敢陳。是齋。舡役、則、一両日間、可以畢役、是乎所。待風発船。計料。緑由並以馳報。為臥乎事。甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
以上、浅慮は、かくの如くですが、おそれながら(自分の意見を)のべた。(新造船を造る)船役は、あと一両日の間に終わるでしょう。(船が完成したら)風を待って発船しようと考えている。以上、報告いたします。甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に報告した。
(4.a)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(A,Bどちらもある部分。)
A 甲戌九月日、江原道三陟營将・張漢相、馳報內、蔚陵島被討事。
B 甲戌九月初二日、営将張漢相、馳報備局。江原道三陟鎮右営将、為馳報事、鬱陵島捜討事。
1694年9月、江原道三陟鎮右営将張漢相が報告した鬱陵島捜討の事。
A 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津、 待風所、發船。綠由曾已馳報、為有在果。
B 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待風所、発船。緑由曽已馳報、為有在果。
去る9月19日朝10時頃、三陟府の南面荘五里津の待風所から発船した事についてはすでに報告したとおりである。
A 僉使、與別遣譯官・安慎徽、領來諸役各人、及沙格并一百五十名、騎 船各一隻、
B 僉使、與別遣譚官・安慎徽、領率員役各人、及沙格并一百五十名、騎ト舡各一隻。
(三陟)僉使(の張漢相)は、別遣の譯官である安慎微とともに、諸役の各人、および船員(漕ぎ手)などあわせて150人を領率して、卜(ぼく)船(大きい船)2隻にそれぞれ乗船した。
A 汲水船四隻、良中、從其大小分載。
B 汲水舡四隻、良中、従其大小分載。
4隻の補給船に(荷物の?)大小によって(荷物を?)分載させた。
A 同日巳時量、囬西風開洋。是如乎。
B 同日巳時量、因西風開洋。是如乎。
同日朝10時頃に西風が吹いたので、(出航した。)
A 戍時、 到大洋中。波濤險巇之勢、五里許二處。是乎所。
B 戌時量、到大洋中、波涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。
午後8時頃、大洋に出たが、波浪が危険で激しい勢いが五里ばかりのうちに、二箇所あった
A 必是水宗、而諸 波浪、所觸 渙散、無適所向。是如乎。
B 必是水臽 、而諸船為波浪、所觸一時渙散、莫適所向。是如乎。
これはきっと「水宗」というものであろう。高波を避けられず、波浪のために船団がばらばらになり、所在が分からなくなってしまった。
A 同月二十日、子時、
B 同月二十日、子時量、
9月20日夜中の12時頃に、
A 漸入深洋、黑雲自北蔽天、而電光閃爍、影澈波心。
B 漸入深洋、黒雲自北蔽天、而電光閃爍、影徹波心。
深い外洋にゆっくり入っていった。黒雲が北からやってきて天を蔽い、電光が閃いて波に影が映っていた。
(*注:Aに「流」はない。)
A 狂風猝起、驟雨隨至、怒濤翻空、雲海相盪。
B 狂風猝起、驟雨随至、怒涛翻空、<●●>、
狂風が(にわかに)起こり、続いてにわか雨が降り始め、怒涛が空に翻り、(雲も海も、たがいにゆらぎ)
A 所乗船隻、若浮若沒、危險罔狀。
B 船隻、若浮若没、危険(网)状。
乗っていた船は浮くがことく、沈むがごとく、危険な状態になった。
A 船中之人、莫不失措 、舉皆惛倒之際、騎船柁木、又從而折破尤、無制船之策。
B 舡中之人、莫<●●●>、舉皆昏倒之際、騎舡柂木、又従而折破 <●●●●>之望而。
船中の人々は正気を失わないものはなく皆昏倒してしまい、その際に騎船の舵の木が折れて船を制御できなくなった。
A 難以櫓木、直挿於 尾及 左右、借以為力。是乎乃。
B 強以櫓木、直挿於 船尾及左右、<●●●●> 是乎乃。
強いて櫓木を船尾と左右に直接挿し、(?)
A 覆敗之患、迫在須臾。是如乎。
B 覆没之患、迫在斯須。是如乎。
転覆と沈没の恐れが 須臾の間(=すぐそこ)まで迫って来た。
A 風 雨漸息、 天又向曙、 島在北方、水勢東走。
B 風<●●●>、天又向曙、而島在北方、水勢東注。
風雨がようやく収まり、空は明け、北方に島が見えて海の流れは東に向かっていた。
A 船中之人、 因此 甦醒、盡力櫓役、轉展向島。
B 故、船中之人、<因此>甦醒、盡力櫓役、輾轉向島。
船中の人々はこれによって覚醒し力の限り櫓を漕ぎ、島へ向った。
A 巳時、 艱到島之南。 繋纜石角、暫時下陸。
B 巳時量、艱到島之南岸、繋纜石角、蹔時下陸。
午前9時から11時の間、何とか島の南岸に到着し、岩に船を係留して暫く島に降りた。
A 炊飯之際、汲水船四隻、 稍稍來到。而卜船叚不知所向。是如乎。
B 炊飯之際、汲水船四隻、自南洋稍々来到。而卜舡叚不知所向。是如乎。
そして料理をしているときに補給船が四隻、ようやく南よりやってきた。しかし卜船は、どこに向かったか、所在が分からない。
A 酉時、 又自南洋而到、各船俱得免恙。
B 酉時量又自南洋西至、各舡倶得免恙。
午後5時から7時の間、(卜船は)南よりやってきた(西→而?)。どの船も恙無く大波を逃れたようだ。
A 而南岸無 船泊處、
B 南岸無可舡泊處、乙仍乎
南岸には船を泊めるところが無かった。
A 東南間涧口內、止宿。
B 同日初昏、回泊于東南間涧口内、止宿。
その日の黄昏時に東南の湾に回航して宿泊した。
A 自二十日、 至十月初三日、留住之間、恒雨少日、
B 後、自二十一日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日、
(9月)21日から10月3日の(鬱陵島)滞在の間、ずっと雨が降り晴れの日は少なかった。
A 九月 雪積交下。中峯腰上、雪積尺餘。是齊。
B 九月二十八九日、雨雪交下。中峯腰上、積雪尺許。是齋。
9月28、29日の両日雨雪が降った。中峯の中腹より上は1尺余りの積雪があった。
A 島之四方、乗船環審、則、懸岸撑空、層立壁岸。
B 島之四方、乗船環審、則、懸崖撑空、層巌壁立。
島の四方を船に乗って見て回ったが、空に届くかのごとく崖が聳え立ち、層状の岩が壁のように立っていた。
A 或有空缺、 澗水成流、似是大旱不渴。
B 或有空缺處、澗水成流、似是大旱不渇。
また、そうした岩の間をぬって、谷の水が流れとなっており、(その量は豊富で)大旱魃にも渇することはないようだ。
A 而、其間細流乾溪、不可殫記。是齊。
B 而、其間細流乾渓、不可殫記。是齊。
そのほかの小さな川や、乾いた谷については、すべてを書きつくすことはできない。
A 其周回、二日方窮、則、其間道里、不過百五六十里乎弥。
B 蓋其周回、二日方窮、則、其間道里、不過百五六十里之地。是乎弥。
その(=島の)周回は2日で窮まり、その間の道程は150~160里に過ぎないと思われる。
A 南濱海邊、有篁竹田土處。 是遣。
B 南邊海濱、有篁竹田三處、東西北三方、亦有篁竹田十一處、是遣。
南の海浜に、篁竹田が三か所ある。東西北の三方には、また有篁竹田が十一か所ある。
A 東方五里許、有一小島。不甚高大、 海長竹、叢生於一面。
B 東方五里許、有一小島。不甚高大、而海長竹、叢生於一面。是齊。
東方五里ばかりのところに、一つの小島がある。それほど高くも大きくもなく、海長竹が一面に叢生している。
A 霽雨■捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌崇相面、此所謂三峯也。
B 両霽雲捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、此所謂三峯也。
雨が晴れ、雲が巻き上がった(快晴の)日、山に入って中峯(聖人峰)に登った。南北の二つの峰はたかだかと向かい合い、これが、いわゆる三峯である。
A 西望大関嶺、逶迤之狀。
B 西望大関嶺、逶迤之狀。
西を望めば、大関嶺(朝鮮本土の山)が、うねうねとしているのが見える。
A 東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。 不過三百餘里。
B 東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不過三百餘里。
東に海中を望めば、一島がはるか辰方(東南方向)にある。その(島の)大きさは鬱陵島の三分之一に満たず、遠さ(そこまでの距離)は、三百餘里を過ぎることはない。
A なし
B 而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是齋。
そして、南と北の方角は、両方とも杳茫として、水と天(海と空)は同じ青一色であり、その区別がつかない。(訳注)西と東には見えるものがあるが、南と北の両方向には海と空以外に見えるものはない。
A 北至二十餘里、 南近四十餘里、 回互徃來。
B 自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十 里、北至三十餘里。互回往来。
中峯から、西の海濱に至るまでは三十餘里。東は二十餘里。南は、ほぼ四十里。北は三十餘里である。ぐるっと往来ができる(?)。
(*最後の「互回徃來」の意味わからず。(Aは「回互徃來」)ぐるっと往来ができる(?)。)
A 西望遠近、臆度如斯。 是齊。
B 四望遠近、臆度<●●●>。是齋。
四つの方角の遠近について、おしはかるに、以上のようである。
A 西望大谷中、有一人居基地三所。又、有人居基地、二所。
B 西邊大谷間、有 人居基址三処。又、有<●●●●> 所
西の大きな谷の中に、人の住んだあとが3箇所見える。さらにまた、別の、人の住んだあとが(2箇所見える。)
A なし
B 北邊長谷、又有人居基址二所。
北の長い谷にもまた、人の住んだあとが2箇所ある。
A 東南長谷、 亦有人居基地 七所。石葬十九所。
B 東南長<●●●>居基址二所、西南間大谷、有基址七所、石葬<●●●>。是齋。
東南の長い(谷にもまた、人の)住んだあとが2箇所、西南の間の大谷に、住んだあとが七所、石葬が<●●●>見える。
A 船泊處、則、東南間口、 僅容四五隻之處。而、東南岸、則亦非可藏處。是遣。而、東南風、則亦非可藏處。是遣。此處
B 舡泊處、則、東南間澗口、厪容四五隻<之?>地。
船泊處は、則ち、東南間口の谷口にある、厪かに(わずかに)四五隻を容れるところであるが、ここも、東南の風は避けられない。
A 此?、有三釜三鼎、而二釜一鼎、則破傷。 軆樣、非我國之制也。
B 此?<有>釜二鼎、而二釜一鼎、則破傷。釜鼎軆樣、非我國之制也。
ここ(道洞と思われる東南の谷の口の港)には、三釜三鼎があり、また二釜一鼎があったが、破損していた。釜鼎の軆樣は、我國の製品ではない。
A 鼎、則、無足無盖、 可炊二斗米。
B 鼎、則、無足無盖、其大可炊二斗米。
かなえには足もフタもなく、その大きさは米を2斗(20升)炊けるほどである。
A 釜、則、廣經尺許、深可二尺、容盛 四五桶。
B 釜、則、廣径尺許、深可二尺、容盛水五六桶。是齋。
釜は、廣さが、直径1尺(30cm)ばかり、深さが二尺(60cm)ほどで、
容積は、水を五六桶、盛ることができるほどである。
A 西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。
B 西邊大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而所。
西方の大谷は、谷が潤って川となっている。川沿いが広く開けている様子は、ここが島中で最大である。
A 所泊處船隻可避東南風。 而西風 難避、無非在前泊船之所。
B 泊舡處 可避東南北風。而西風則難避。元非 船泊之所。
船をとめるところは、東・南・北の風を避けることができる。しかし、西風は避けることが出来ない。もとは、船がとまるところではなかった。
A 又有一鼎、可炊米斗、 亦是彼物。
B 而又有一鼎、可容斗米之炊。而亦是彼物。是乎弥。
また一鼎があり、1斗の米を炊くことができる大きさがある。これも彼ら(日本の)ものである。
A 北邊 岸上、有轆轤。亦非我國所造。
B 北邊浦岸上、有轆轤。亦非我人所造。是齋。
北の浦の海岸に、轆轤(船を引く道具)がある。またわが国の人が造ったものではない。(日本のものである)
A 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、以下則土山。
B 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、腰下則土山。
島中、山が重畳としている。その中腹以上はみな石のやまであり、中腹以下は土の山である。
A 而、山勢絕險、洞壑深邃。樹木連抱參天而蔽日者、不知其幾許。
B 而、山勢絶險、洞壑深邃。連抱樹木參天而蔽日者、不知幾其許。
そして、山は険しく、谷は深い。連なる樹木が天に達して、太陽を蔽っており、その(樹木の)数が知れない(ほど多い)。
A 積年空棄之地、人跡不到。
B 叱分不喩、積年空棄之地、人迹不到。
(かぞえきれないくらい?)何年にもわたって、むなしく棄てられた地となっており、人が訪れたことがなかった。
A 故、藤葛盤結、朽草木添阜排擠錯絕卒非人 所可通逕。
B 故、藤葛盤結、 有難排躋 卒非人力之所可通逕。
ゆえに、藤や葛がかたく生い茂り、(朽ちた草や木が丘のようになり)、人力でなければ、それをおしのけて通行することはできない。
A 小小澗谷、不可窮探。
B 小小澗谷、不暇窮探。是齊。
小さな谷は、その有様を尽くして探究することができない。
A 所謂樹木、盡是、
B 所謂樹木、盡是、
樹木をのべれば
A 冬栢、紫檀側栢、黃薜、金 木、嚴木、槐木、榆木、
B 冬栢、紫檀側栢、黄檗、金椢木、嚴木、槐木、椵木、
冬栢、紫檀、側栢(コノテガシワ?)、黄檗、金椢木(クヌギ?)、嚴木、槐木、榆木
A 楮、 椒、楓、桂樹、栢之類。
B 桑、楡、楮、椒、楓、檜樹、栢之類。
桑、楡、楮、山椒、楓、檜樹、栢の類。
A 而、其中、冬紫檀、 最多。
B 而、其中、冬栢紫檀、最多。是乎弥。
その中で冬栢と紫檀が最も多い。
A 松木、直木、■木、橡等、木叚、終無一株。
B 松木、真木、欅 、橡等、木叚、終無一株。
松、槙、欅、橡、などの小木は終に一株も無かった。
A 而、羽則烏鷗、毛則貓兒而已。
B 而、羽則烏鷗。毛則㹨鼠而已。
そして、鳥類は、からす、かもめ。獣は、猫とねずみだけである。
A 此外、別無飛走之屬。
B 此外、他無飛走之屬。是乎所。
このほかに、飛走之屬(動物)は、いない。
A 既無人居、又無木實可食。
B 既無人居、又無木宲可食。而然是乎、喩亦甚可怪。是齋。
すでに、人の住処はなくなり、また木の実の食べられるものもない。
A 而水族、則只有 魰魚、 而沿邊石堆處、或十、或百、成羣穴居、大如駒犢、小如犬豕。
B 水族、則只有可支魚。而沿邊石堆處、或十、或百、成群穴居、大如駒犢、小如犬豕。是乎弥。
また、水族は、ただ可支魚(アシカ)だけがいて、沿岸の石の堆積したところに、あるいは10、あるいは100と群れをなして穴居しており、大きいものは「馬」や「子牛」ぐらい、小さいものは「いぬ」や「ぶた」ぐらいである。
A 間有生鰒、 付諸岸磧者、軆小 味薄。
B 間有生鰒、之附諸岩磧者、軆小而味薄。是齊。
あわびがあって、岩についているが、体は小さく、味はうすい。。
A 四方浦邊、破船板木、片片飄着者、處處有之。
B 四方浦邊、破船板木、片片漂着者、處處有之。
四方の海岸には、破船の板木が、ばらばらになって漂着しているところがあちこちにある。
A 而、或 鉄釘、 或 木釘、或 腐傷者、
B 而、或<着●●>、或着木釘、或有腐傷者、
また、あるいは(鉄釘)、あるいは木の釘があり、腐っているものもある。
A 而審其稍木之制 則彼我無別。已為裂破。
B なし
(そして、その木のけずりかた(?)は、彼らのものとわれわれのものと、同じである。すでに、裂破している。)
A 而、東南崖岸、漂散最多。
B 而、東南崖<●●●>最多。是齋。
東南の崖に(漂着物は)最も多い。
A 竹田 東南麓三處、最多。而毎處可 落皮牟三十餘石。
B 竹田中、東南麓三處、最大。<而每処可>落皮牟三十餘石。是乎弥。
竹田中、東南麓の三か處が最大(最多)である。そのいずれも、三十餘石の米?をまくだけの面積(広さ)がある。
A 且兩田、斫竹尤多。其傍斫置、 數千竿。
B 且兩田、斫竹尤<●●●●> 置者、無慮數千竿。
かつ、兩田は、切りだした竹が最も多い。切り出しておいてあるのが、無慮、數千竿になる。
A 而、或有陳枯者、或有未乾者。
B 而、或有陳枯者、或有<●●●>。是齋。
すでに枯れたものもあれば、まだのものもある。
A 自東南間從谷中、向 竹田 十五里許、有小路處。
B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、有小路。
東南の渓谷のなかから、南に向かって、竹田に至るまで、15里(6キロ)ばかりの、小さな道が続いている。
A 此、必取竹者、徃來 逕。
B 此 必取竹 徃來之逕。是齋。
これは、きっと、竹を取るために往来した道である。
A 大抵環一島、皆名山。四面壁立。又 斷缺處、則兩峽成間流水潺湲而已。
B 大抵環一島、皆石山。四面壁立。而少有罅缺處、則兩峽成澗流水潺湲而已。
おおよそ、島のまわりは、みな石山で、四面は壁のように立っている。山が切れている所が少しあるが、すなわち両側の山の斜面が谷となって、さらさらと水が流れているだけである
A 只一西方山麓、開成洞門、大川流出、
B 只一西山方麓、開成澗門、大川流出、
ただひとつ、西方の山麓に、谷がひらけ、大川が流出している。
A 而沙礫堆積、不能成浦、船泊甚難。
B 而沙礫堆積、不能成浦、舡泊甚艱。是乎弥。
しかし、沙礫が堆積し、浦(港)となることはできず、船を泊めるのは、甚だ難しい。(そして)
A 中有峯巒嵯峨、洞壑、回互雖。無寬豁處、猶可開疊。
B 中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎於。
そして、島の中には、高くそびえる山があり、谷があり、島の中の交通は不便でいききが難しい。広い土地がなく、開墾すべきところがない。
A 至於殘山平峽處、或有人居基地、石葬而墓木連抱。
B 至扵殘山平夷處、或有人居基址、石葬而墓木連抱、廃垣石堆而己。
山間の平坦になっているところに至れば人の住んだあとがあることもあるが、石葬の墓に、木が抱きかかえるように連なり、廃れた石垣がうずたかく積まれているだけである。
(4.b)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(Bのみ、Aなし。)
B 即不知、何代所居而落棄成、土人迹不到者、又不知其幾百年。是乎弥。
すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、崩落して棄てられ土となることを人が遮ることがでなくなって幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。
東南澗口、自舡泊處、至竹田、終次大樹。皮上有刀刻字、迹而住兵衛、又四郎、彌吉等三人之名。以倭書刻之。而無姓卒、似是下倭之所為。
東南の谷口の、船着場から竹田の終わるあたりにかけて、大きな樹の皮の表面に、刀で刻んだ文字のあとがある。そこには、「住兵衛」「又四郎」「彌吉」という三人の名が、倭の書きかたで刻んである。それは、姓がないことからみて、身分の低い倭人がしたことであろう
且其刻痕、完合、有若自然成字之状。則可想其年久。是乎弥。
さらに、その刻痕は、自然に文字になったように見える。だから、きっと随分昔のものなのであろう。
且、釜鼎之或破、或完者銹生苔蝕意、非近年之所置是齊。本月。
そして、釜や鼎(かなえ)の、あるいは破損し、破損していない完全なものも、ひどく錆ついていることからみて、近年に放置されたものではないのであろう。
初四日、未時量、似有風便、故發船。到西邊澗口、則雨勢霏微、日又昏黒。而十月東風、誠不可易得。是乎等以。仍為開洋、六船齊発。子夜以前則舉火相準。是如可。丑時、以後大船一石小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後亦不知所向。是乎矣。
今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船し、島の西にある谷口についた。(今の「台霞洞」か?)。雨が激しく、日も射さずに真っ暗だったが、10月の東風は、誠に容易には得難いものであったから、海にむけて出発することにした。六隻の船が一斉に出発した。夜中の12時以前は、お互いに火を掲げて目じるしとしたが、翌日の午前2時以降、大船一隻、小船二隻が先になり、あとの三隻は落後して、日の出のあとは、行方がわからなくなった。
東風不止初五日、亥末直抵三陟浦口。
東風は、やまず吹き続け、10月5日、亥の刻のおわりに(=午後11時ごろ)三陟の浦口に到着した。(4日の午後に出発して、翌5日の午後11時に到着とすれば、所要30時間前後か)
而落後小舡二隻、回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡<●●>
一方、落後した小船二隻は、荘五里の待風處に回泊していた。
(*大■<●●>は未詳。)
初六日、卯時量、亦為囬泊、於三陟浦口、為有在果。
(落後した小船二隻は)10月6日、午前6時ごろに、また三陟の浦口に回泊した。
(「為有在果」は、ありがたいことだ、くらいの意味か?この他にもたくさん出てくる。)
<??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<????> 謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶●●<???>可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。
(記録によると風の吹いている日に)高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形が浮かび上がって見えるとあり、(朝鮮半島から)鬱陵島までは、七八百里にすぎないとある。いま、鬱陵島から帰ってきて審査してみると、済州島より倍くらい遠い。
<???>度計較。是乎矣。
船のはやい、おそい、風の順逆(といった理由で)どのくらい遠いかをはっきりと証し立てることはできない。(?)
舡之疾鈍、風之順逆、遠者㮣 <??>遠則又不可以膠定為證。是齊。
船のはやい、おそい、風の順逆・・・(*あと不明)
冬天、風高之日、険海跋渉、一百五十人、得保性命者、莫流。国家之陰佑。是乎等。
冬の風の強い日、危険な海を跋渉し、総勢150人の生命が保たれたのは、国家の陰(かげ)なる佑(たす)けがあったからこそである。
以往返艱、苦之状不一而足而煩不散細陳、是斉。
往復の艱苦の状況は、あえて細かく述べる必要もないであろう。
安慎徽、本以衰敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船後二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登祥。是乎矣
(訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が瘡疾(皮膚の病気)となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。
復命有限黽勉擔載寸寸前進之意分付以送。為乎弥
復命までの時間が限られており、(*以下不明。次のものを朝廷に送る、というような意味か)
所謂可支魚、搏殺取皮、大中小三領。篁竹五尺許、四箇。紫檀香二土莫。監封上、送於本道監営。以為轉達。備局之地。為乎弥
いわゆる可支魚(=アシカ)、殺して皮をとったもの、大中小、三領。篁竹の五尺ばかりの大きさのもの、四箇。紫檀香、二土莫(「土莫」は単位か)。以上を監封して、本道(江原道)の監営から備辺司に送った。
捜討栍木左隻一斤、本島圖形一本、及輿地勝覧一巻、并以軍官賷(もたらす)特上送、為齊僉使、叚置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憒 不能収拾、叱分不喩、圖形一本。於為冩出。而此處、畫師絶無故。不得己一行之人、依草本費日経営。而終至畫乕遅延、至此不勝、煌恐縁由并以馳報事。
捜討して得た生木一斤、本島(鬱陵島)の図形(地図)一本。および『輿地勝覧』一巻を、あわせて軍官にもたせて(朝廷に)上送する。僉使(張漢相)は、三陟帰還後3昼夜、精神が疲労のあまり収拾がつかない。鬱陵島の地図を作成するにあたり、ここ(三陟?)には畫師(絵師)が絶無なので、やむをえず、一行の人の草本により何日もかけて作成したが、そのためこのように遅延してしまった。恐惶にたえない。以上、報告いたします。
9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(Aのみ。Bなし。)
A 大槩(概)、島在三千里海洋之中、船隻不得、任意徃來。おおよそ、鬱陵島は、陸地から3000里の海洋中にあり、船が得られなければ、任意に往来ができない。
則、雖有彼國橫占之舉、除防無策。よって、日本が鬱陵島を占領したとしても、それを防ぐ策はない。
欲設堡鉄、則人民無止接之策。防衛拠点を設置しようとしても、人民と日本人が接触するのを防ぎようがない。(ここ不明)*「鉄」は別字か?
所謂開垦處、樹木陰翳、藤葛成藪。九月積雪、寒氣倍冬。いわゆる開垦所は、樹木がおいしげり、藤や葛が藪となっている。九月にも積雪があり、寒氣は冬に倍する。
夜半風殘之時、依然、如兒啼女哭之聲、喧嘩碎長之聲、錚錚耳邊漸近。夜半に風が殘っている時には、依然として(前と変わらず)、子供の泣くような、女の哭くような聲や、喧嘩の碎長(?)の聲が、錚錚として耳邊に漸近する。
船頭擬其、魍魎海毒之舉妖、或慮率備犯之患。船頭は、それは、魍魎・海毒が妖をなすのだと言い、あるいは、慮率備犯の患があるのかと言う。
吹囉放砲、撀鼓作聲、則瞬息不聞。ラッパを吹き、砲を放ち、鼓を撀って、聲を出すが、たちまち、瞬時に、聞こえなくなる。
環島之時、至一處、日暮繋船、巖下炊飯。環島の時、ある處に至って、日が暮れて船を繋ぎ、巖の下で炊飯したことがあった。
次船、則沙磧履磨中、有涇之狀。次船は、沙磧によって履磨中で、はるか遠くにいた。(*不明)
與安慎徽、同步行三里許、則自中峯、逶迤一脉、山麓都是、層巖高壁、至而遙開豁。(訳官の)安慎徽とともに、3里(1.2キロ)ばかり歩くと、中峯からうねうねとした一脈があり、山麓はみな層をなす高い巖壁であり、はるかにひらけていた。
由此路望見、則連及山腰、疊石成穴。この路から望見すると、山腹に連なるところに疊石の穴があった。
與慎徽相議曰、此穴、不無害人、毒物移船、於他處矣。(訳官の)安慎微と相談して得た結論は、此の穴は、きっと人に害となり、毒物は船に移って他所に及ぶであろうということであった。
到三更後、天雨猝下、風浪大作、震雷電光、動山掀海、俄以雨止。三更(午後11時から午前1時)に到った後、突然に雨が降り、風浪が大いに起こり、雷が震え稲妻が光り、山を動かし海を掀(?)したが、にわかに雨がやんだ。
烟霞满島、遙聞、巖穴中眾人之聲。立於船頭、望見、則燈燭煒煌。煙霞が島に满ち、遙かに巖穴中から大勢の人の聲が聞こえた。船の先頭に立って望見すると、すなわち、燈燭が輝煌としていた。
明日、食後、欲知其夜聞異狀、更泊其處。使軍官・朴忠貞、及砲手二十餘名探知、次入送巖穴。そのあくる日、朝食後、前夜に聞いた異狀の正体を知ろうと思い、さらにその地に停泊した。軍官の朴忠貞、及び、砲手二十餘名をして探知せしめんと、次ぎつぎに巖穴に入送させた。
則、久而不出、疑其陷坎、使人呼出。ところが、いつまでたっても出てこないので、穴に落ちたのではないかと疑い、人をやって呼び出した。
則、忠貞先出、曰、すると、(軍官の)忠貞が先ず出てきて、こう言った。
「穴內三十餘步、豁然開敝。「穴の內は三十餘步、豁然として開け、ひろびろとしている。
四層築砌、累石皆錬磨、玉色、有文彩也。四層の砌(石畳)を築き、累石は皆、錬磨して、玉色をしており、文彩がある。(*砌:セイ 軒下などの敷き詰めた石畳。 みぎり。石を積み重ねる)
十餘間瓦家、甚極奢麗、丹青、及戶牖之制、非泛然我國搆屋之規則。十餘間の(大きさの)瓦家は、きわめて奢麗で、丹青や戶舖の制は、およそ我が國の搆屋の規則ではない。
模樣大異、無他見物。而、近入簷下、その様子はは大に異なり、他で見たことがない物である。そこで、近よって簷下に入っていくと、(*簷:エン 屋根の重みを受ける竹のひさし)
則如硫黃・腐肉之嚊、滿鼻敝口、不能遠行、亦分明說道。」是去乙。則ち、硫黃や腐肉のような嚊(におい)が滿鼻敝口し、遠くへ行くことができず、また、それが何か分明に説明することもできない。」
僉使、多率船卒六十餘名、親自入見、果如忠貞所告。そこで、僉使が多くの船卒、六十餘名を率いて、親しく自ら入って見ると、果たして忠貞の告げたとおりであった。
屋上、藤葛盤結之中、階砌庭城之內、蕭灑無一累之塵、非人所居處。屋上に藤や葛が盤結する中、また階砌(階段や石畳)や庭城の內は、蕭麗にして、まったく塵も無く、人の所居している處ではない。
則、強入非関、分叱、不喩心迷、宜不忍近入簷下。だから、強入することができず、僉使も、心迷をとりのぞくことができず、簷下に入ることができなかった。(*[使] が抜けているか。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・回船之日、自中峯霞氣、漸廣及於海中。回船の日、中峯より霞が上がり、次第に海中へと広がった。
大如朿山、不知何物、浮沈數度、超出半空、向入山中。何者かわからない山のように大きなものが、海で数回浮き、沈みしたかと思うと、半空に超出し、山中に入っていった。(*東は別字か?)
風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀、此其他島有異者也。風雨が大いに起こったが、カミナリのような音ではなかった。その動きは山が崩れるようであり、それは、他の島とは異なる、特異なものである。
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所謂竹田、處ゝ有之。而上項四千處叚、いわゆる竹田は、島のあちこちにある。その4000か所は、(不明)
小處二十餘石落只之地。大處三十餘石落只。而皆可引水、作畓(水田)處。是齊。小さいものでも、二十餘石の米を播くくらいの面積がある。大きいものは、三十餘石の米を播くくらいの面積がある。みな、水を引くことが出来て、水田とすることが出来る。
樹木中、紫檀、可作棺板。皆在於山腰落巖之間。樹木の中でも、紫檀は、棺板を作ることができる。みな、山の中腹の岩の間にある。
古昔人民居基地、宛然未泯、則其為空棄、不過百餘年之前。昔の人が住んだあとは、滅びずにありありと残っており、ここを空棄の地としてから、まだ100年あまりしかたっていない。
溪有洞口、若慮備寇之策、則一夫當百夫之地。島の谷には、洞窟が開いており、ここに拠って日本人の寇を防ぐ策をとれば、すなわち、一人が百人を防ぐに足る土地となるであろう。
彼船雖欲久為結船、而風浪若開、則船必不保之勢。日本の船が、長く島に繋いでおこうとしても、風浪がひとたび起これば、船はそのままの姿勢を保つことができないのだ。
登島山峯、審望彼國之域、則、杳茫無眼杓之島。其遠近、未知幾許。島の山に登って、彼国(日本)の域を審望したが、杳茫として、眼につくだけの島はない。だから日本までの距離は、いまだに不明である。
而地形、似在於彼我間。鼎釜、取竹之路、彼人所為。そして鬱陵島は、日本と朝鮮の国境地帯にあるようだ。鼎も釜も、竹を取る路も、みな、日本人のなしたことだからである。
緑由馳報狀。以上馳報を為す。
壬寅春、外後裔、永陽、申光璞書。壬寅の年の春、(張漢相の)外後裔、永陽・申光璞が書す。(*「永陽」は申光璞の号か)