竹島問題の歴史

4.3.09

1693-1703年 朴世堂『西渓雑録』(張漢相「蔚陵島事蹟」)

「到寧海地面云盖二島 去此不甚遠一颿風可至」

鬱陵島と于山島の二島が朝鮮半島から遠くないことを明記した、この一文でおなじみの朴世堂『西渓雑録』に、張漢相の「蔚陵島事蹟」が引用されている部分があり、それが今まで知られてきた張漢相の外後裔、「申光璞」氏の書による写し〔1977/78年に発見された〕の記述と大きく食い違うことがGTOMR氏によって指摘されました。張漢相の「蔚陵島事蹟」自体、1693年~1696年に起こった一連のいわゆる竹島一件において朝鮮王朝がこれを元に日本側に何か、特に竹島、さらには松嶋の領有権を主張することはありませんでした。また、申光璞版の「蔚陵島事蹟」は、それまで朝鮮側には、欝陵島に関する知識が十分でなかったこともあり、記述が錯綜としています。朴世堂版の記述は申光璞版に比べてより詳しく、"丸い円を最初に書いて、此の文章どおり読んで記入していくと、全く同じ地図ができる”が、申光璞版では同じように書いていっても地図が完成しない、とのGTOMR氏によるご指摘もありました。(matsu氏も「(申光璞版は)テキスト全体をみると、内容が前後するところがあり、あるいは錯簡があるのかもしれません。」との感想を述べていらっしゃいます。)また、GTOMR氏のいう”別の文書の張の報告の引用、および他の捜討官は皆「可支魚」を報告しているのに、此の文章では「鮫魚」に改竄されている事”という、申光璞版の内容の信憑性への疑問、さらに書写年代の不明も大変気になるところではあります。

以下に、お二人による各版の書き起こしを掲載し、漢字の解読を進めたいと思っています。また、文の内容等について皆さんのご意見を頂戴したいと思っています。よろしくお願いいたします。(「」内はchaamiey氏による解読。(「」)になっているものは、GTOMR氏との読みが違う部分です。)なお、この投稿は検討の結果を反映して後日大幅に書き換える予定です。書き換えの記録は、コメント欄をもってかえさせて頂きたいと思っています。

朴世堂『西渓雑録』

(3-1)江原道三陟鎮営将為馳報事嶺東嶺南既<??>
(3-2)海舡隻乙仍于不得己新造為乎矣 物力不齋畢得未
(3-3)易而八月半風高可慮?不喩舡造間海路遠近
(3-4)偵探之意曽己面禀為有■擇取此處軽快漁小船
(3-5)二隻給其格粮而土着軍官中一人差定渡海為有
(3-6)如乎軍官崔世哲回還言内矣身依分付去月十六日
(3-7)乗船而二隻其沙格営下待風為如可十八日本鎮前洋
(3-8)八十里許荘五里津頭止宿一日後二十日酉時量幸将
(3-9)順風二隻一時掛帆開洋経夜行船翌日日未出時一
(3-10)点島形宛然於雲際矣日出後雲水徴茫不見
(3-11)其形而向東行舡之際酉時量驚涛蕩舟十餘里
(3-12)間幾不能渡意謂水臽而然是如乎戌時量又値怒涛
(3-13)排空此亦水臽之一派是齋又経一宿二十二日卯時
(3-14)有一泰山壁臨舡頭意謂頃刻可到而波浪汹湧帆
(3-15)播無力出入進退之間自致遲延未時量菫菫涛到
(3-16)其島北岸則地絶険船舶所極難乙仍于就其
(3-17)風残暫時下陸而山石巉岩連抱之木簇立掩
(3-18)翳上不能見天下不能着之止泊後風勢不順有
(3-19)難行舡是齋島之東北有小岐立石九所而相距百
(3-20)餘歩許是齋翌日風残■回泊於南岸則
(3-21)有竹田三所頗有伐取之跡而亦有数<???>
(3-22)伐者抛棄者是乎■其中十餘箇載<???>

(4-1)為有於又有大釜ニ坐食鼎ニ坐而體●非<??>
(4-2)之産是乎於又有轆轤引舡之機而難<???>
(4-3)人之所為是齋巌穴之間可支魚或●<??>
(4-4)故諸人持杖搏殺二口以来為有淹留七八日還間
(4-5)周視則不過百餘里之地其間不無平坦可行
(4-6)之地而大木如麻撑天終不得着之或有数馬場
(4-7)究自可入之地而数少人丁●惧在心不敢突入終不
(4-8)涛登山是齋三十日丑時還逢東風還為発舡而
(4-9)終日無事行舡矣戌時量徴有電光強風駆雨
(4-10)驚涛捽悉帆竹折倒於中舡渡板木裂缺傾
(4-11)覆之患迫在斯須舡中諸人自分必死此是如乎熟
(4-12)麻大索及鉄釘適有預備故或結或着艱困難以
(4-13)●済為有在果所謂柱風夲来東風故舡隻如飛 
(4-14)九月初一日戌時量幸●還泊是乎於往還道里
(4-15)通許則晝夜並七日是乎矣海中無他一小島
(4-16)止泊是乎於此外別無所告之事是如為?乎味納於
(4-17)為有臥乎所往返之間晝夜七日是如為有矣以其小舡
(4-18)而帆幅亦少所受風力不多故輿波涛出没而自致遅
(4-19)延是在果大舡矱帆必有愈於小舡是乎矣七晝夜雖
(4-20)半之三日有餘則一日之間似難涛達是則可慮是乎
(4-21)於且聞已行人之言則毎於夏月風和時往来而
(4-22)一晝二夜之間方可●達是如為臥乎所地理誌輿地
(4-23)勝覧中二日風便可到之説誠有所據是<???>
(4-24)此短使不可白日可到而黒夜行舡越其<??> 

(5-1)所着則漂流可慮是齋所謂已斫之大竹<??>
(5-2)来為有去乙取而視之則無異於西南 進上<??>
(5-3)大小是乎於且見所謂殺得以来之可支魚則<??>
(5-4)之輿海狗班獺同類而異名者也平海通川等地
(5-5)多有其種云元非稀貴之物是齋苧枝竹蓋叢●
(5-6)蒨於原濕之間云可想曩時人居之址是乎於
(5-7)釜鼎之排置者似是倭人殺得可支魚處取其油
(5-8)而抛棄之物也且聞鈹生苔蝕已至剥落之似非近
(5-9)年之所置而彼人之不常来往據此可想是去乎
(5-10)浅慮如是惶恐敢陳是齋舡後則一両日間可
(5-11)以畢後是乎所待風発船計料緑由並以馳報
(5-12)為臥乎事 甲戌九月初二日営将張漢相馳報備局
(5-13)江原道三陟鎮右営将為馳報事鬱陵島捜討伐 
(5-14)事去九月十九日巳時量自三陟府南面荘五里津頭
(5-15)風所発船縁由曽已馳報為有在果検使輿別遣譚
(5-16)官安慎徽領率員役各人及沙格併一百五十名騎
(5-17)ト舡各一隻汲水舡四隻良中従其大小分載同日巳
(5-18)量因西風開洋是如乎戌時量到大洋中波
(5-19)涛険峨之勢五里許二処是乎所必是水●而諸船
(5-20)為波浪所觸一時?散莫適所向是如乎同月二十
(5-21)日子時量漸入深洋黒雲自北蔽天而電光閃爍
(5-22)影徹波心狂風捽起驟雨堕至怒涛翻空<●●>
(5-23)船隻若浮若没危険
舡中之人莫<不失措>
(5-24)拳皆昏倒之際騎舡舵木又従而折破<●無制船>

(6-1)之望西強以櫓木直挿於船尾及左右<借以為力>
(6-2)是呼乃覆没之患迫在斯須是如乎風<風
雨漸息>
(6-3)天又向曙而島在北方水勢東往故船中之人<因此>
(6-4)甦醒盡力櫓役輾轉向島巳時量艱到島之南
(6-5)岸繋纜石角暫時下陸炊飯之際汲水船四隻自
(6-6)南洋稍々来到而卜舡叚不知所向是如乎酉時量
(6-7)又自南洋西至各舡倶涛免恙南岸無可舡泊
(6-8)己仍乎同日初昏回泊于東南間洞々内也宿渡
(6-9)二十一日至十月初三日留住之間恒雨少日九月二十八九
(6-10)雨雪交下中峯腰上積雪尺許足齋島之四方
(6-11)乗船環審則懸崖撑空層巌壁立或有空缺
(6-12)處澗水成流以是大旱不渇而其間細流●渓
(6-13)不可弾記是齋蓋其周二日方窮則其間道里
(6-14)不過百五六十里之地是乎於南邊海濱有篁竹田三所
(6-15)東西北三方亦有篁竹田十一処是遣東方五里許
(6-16)有小一島不甚高大而海長竹叢生扵一面是齋両
(6-17)霽雲棬之日山登中峯則南北兩峯岌嶪相向
(6-18)此所謂三峯也西望大関嶺逶迤之狀東望海中
(6-19)有一島杳在辰方而其大未満欝島三分之一遠不
(6-20)過三百餘里南北西方則杳茫無際水天一色
(6-21)齋自中峯西至海濱三十餘里東至二十餘里南近
(6-22)四十里北至三十餘里互回往来四望遠近臆度<●●●>
(6-23)是齋西邊大谷間有人居基祉三処又有<●●●>
(6-24)所北邊長谷又有人居基祉二所東南長<●●●>

(7-1)居基址(地)ニ所西南間大谷有基址(地)七所石葬<●●●>
(7-2)是齋舡泊處東南間洞々厪容四五隻<之䖏>
(7-3)地而東南風則亦非可藏可●䖏是遣此䖏<有>
(7-4)釜二鼎而二釜一鼎則破傷釜鼎軆樣非我國
(7-5)之制也鼎則無足無盖其大可炊二斗米釜則廣經
(7-6)尺許深可二尺容盛水五六桶是齋西邊大谷溪澗成
(7-7)川沿邊開豁此處為最而所泊舡處可避東南北
(7-8)風而西風則難避之非船泊之所而又有又有一鼎可容
(7-9)斗米之炊而●是彼物是乎於北邊浦岸上
(7-10)非我人所造是齋島中崗巒重疊而山腰
(7-11)以上則皆是石角腰下則土山而山勢絶險洞壑深
(7-12)邃連抱樹木參天而蔽日者不知幾其許●不喩
(7-13)積年空棄之地人遮不到故藤葛磐結有難排
(7-14)擠卒非人力之所可通逕小小澗谷不暇窮探是齋
(7-15)所謂樹木盡是冬栢紫檀側栢黄蘗金椢木嚴
(7-16)木槐木椵木桑楡楮椒楓檜樹栢之類而其中
(7-17)冬栢紫檀最多是乎於松木真木欅橡小木暇
(7-18)終無一株而羽則鳥鷗毛則柚兒而已此外他無飛走
(7-19)之屬是乎所既無人居又無木宲可食而然是乎喩
(7-20)亦甚可怪是齋水族則只有可支魚沿邊石堆處
(7-21)或十或百成群穴居大如駒犢小如犬豕是乎於間有
(7-22)生鰒之附諸山名磧者軆小而味薄是齋四方浦邊
(7-23)破船板木片片漂着者處處有之而或<鉄釘>
(7-24)或着木釘或有腐傷者而東南崖<●●●> 

(8-1)最多是齋竹田中東南麓三處最大<而每処可>
(8-2)落皮牟三十餘石是乎於且兩田斫竹龙<多其傍斫>
(8-3)置者無慮數千竿而或有陳枯者或有<未幹者>
(8-4)是齋自東南間從谷中向至竹田有十五里許有小
(8-5)路此必取竹泩來之逕是齋大抵環一島皆「石」山四面壁
(8-6)立而少有罅缺處則兩崍成間流水潺湲而已只一
(8-7)西山方麓開成洞門大川流出 而沙礫堆積 不能成浦
(8-8)船泊甚難是乎於中有峯密嵯峨洞壑面互雖無
(8-9)寬豁䖏猶可開墾是乎於至扵殘山平夷處或有人
(8-10)居基址石葬墓木連抱廃垣石堆而己即不知何代所
(8-11)居而落棄成土人遮不到者又不知其幾百年是乎於
(8-12)東南間間自舡舶處至竹田終次大樹皮上有刀刻字
(8-13)●而佳(住)兵衛又四郎弾吉等三人之名以倭書刻之而
(8-14)姓名似之下倭之所為且其刻痕完合有若自然成
(8-15)字之状則可想其年久是乎於且釜鼎之或破或完者
(8-16)銹生其蝕意非近年之所置是齋卒月初四日未時
(8-17)量似有風便故発船到西邊間間則雨勢霏徴日又
(8-18)昏黒而十月東風誠不可易●是乎恵仍為開洋
(8-19)六船齋発子夜以前則拳火相準是如可丑時以凌
(8-20)大船一隻小船二隻在先而餘三隻落後日出後●不知所
(8-21)向是乎矣東風不止初五日亥末直抵三陟浦口而落
(8-22)後小舡二隻面泊於荘五里待風為乎於大船<●●> 
(8-23)初六日卯時畳亦為面泊於三陟浦口為有在果<??>
(8-24)風時登高瞭望則清明之日島形浮見水<????> 

(9-1)謂遠不過七八百里是如乎今番往返倶●●<???>
(9-2)可濤達則此諸済州猶有一倭之遠是乎所<???>
(9-3)度●較是乎矣舡之疾鈍風之順達衛遠者㮣 <??>
(9-4)遠則又不可以●定為證是齋冬天風高是之日険海
(9-5)跋渉一百五十人濤保性命者莫●   国家之佑是
(9-6)乎等以往返艱苦之状不一而●而煩不散佃凍是斉
(9-7)安慎徽卒以裏敗之人渇病之餘瘡疾満身乗船凌(後)
(9-8)二十餘日濕腫迭出於両股間勢難登●是乎矣
(9-9)復命有限●勉擔載寸寸前進之意分付以送
(9-10)為乎於所謂可支魚取皮大中小三領篁竹五
(9-11)尺許四箇紫檀香二土莫監封上送於卒道監営
(9-12)以為伝達●局之地為乎於捜討生木圧隻一片卒
(9-13)島圖形一卒及輿地勝覧一巻併以軍官實特上
(9-14)送為齋検使暇置三晝夜簸蕩之餘精神昏憤
(9-15)不能収拾●不愈圖形一卒於為冩出而此處書師
(9-16)絶無故不●己一行之人依草卒費日経営絵而終至
(9-17)書●遅延至此不勝惶恐縁由併以馳報事  

以下はmatsu氏 による、cms氏のサイト の翻訳と、申光璞『蔚陵島事蹟』の書きおこしです。あわせて検討したいと思い、いったん掲載します。(後に削除、または独立した投稿をするかもしれません。)

申光璞書 張漢相「蔚陵島事蹟」

(1)蔚陵島事蹟
表紙
(2)甲戌九月日、江原道三陟營将・張漢相、馳報內、蔚陵島被討事。
(訳注)
・甲戌年は、肅宗20年。1694年。すなわち元禄7年。
「竹島一件=鬱陵島争界」の始まった翌年である。安龍福の一回目の来日の翌年。肅宗実録によれば、張漢相の鬱陵島捜討は、9月19日(甲申)から10月6日(庚子)まで。この年の9月は29日までなので、あわせて17日間となる。鬱陵島滞在期間は、本文にある通り、9月20日から10月3日までの13日間。
・「被討」は「捜討」の誤記か。

肅宗実録(肅宗20年8月14日己酉条)
漢相、以九月甲申、乘舟而行、十月庚子、還至三陟。言倭人往來固有迹、而亦未嘗居之。地狹多大木、水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也】亦不平、 艱於往來。欲知土品、種麰麥而歸。 明年復往、可以驗之。

~出発から鬱陵島到着まで~

去九月十九日、巳時量(午前10時ごろ)、自三陟府南面荘五里津待風所、發船。

綠由曾已馳報、為有在果。
僉使、與別遣譯官・安慎微、領來諸役各人、及沙格并一百五十名、
騎船各一隻、汲水船四隻良中、從其大小分載。
同日巳時量(午前10時ごろ)、囬西風開洋。是如乎。

(訳注)
「有在果」は、原サイト掲載者は「僉使の名前」とするが、僉使は張漢相自身であろう。「譯官」は日本語通訳。このあとの鬱陵島捜討にも同行する。日本人と出会うことを予想しての鬱陵島行きである。


戍時(午後8時)、到大洋中。波濤險巇之勢、五里許二䖏。是乎。
所必是水宗、而諸波浪、所觸渙散、無適所向。是(3)如乎。

(訳注)
(2)-2-3字  「震」→「䖏」

同月二十日、子時(午前0時)、
漸入深洋、黑雲自北蔽天、而電光閃爍、影流澈波心。
狂風猝起、雨隨至、怒濤翻空、雲海相盪。
所秉船隻、若浮若沒、危險罔狀。
船中之人、莫不失措、舉皆惛倒之際、騎船柁木、又從而折破龙、無制船之策。
難以櫓木(4)直揷扵尾、及左右借以為力。是乎。
乃覆敗之患、迫在須●。是如乎。

風雨漸息、天又向曙、島在北方、水勢東走。
船中之人、因此甦醒、盡力櫓役、轉展向島。

巳時(午前10時)、艱到島之南。繁纜石角、暫時下陸。
炊飯之際、汲水船四隻、稍稍來到。而卜船■、能不知所向。是如乎。

酉時(夕方6時)、又自南洋而到、各船俱得免■
而南岸無船泊䖏、東南問涧口內、止宿。

(訳注)
・(4)-8-2 「無」抜け。 而南岸船泊䖏→而南岸無船泊䖏 南海岸には船着場なし。東南で止宿したのは、今の「道洞」か。

~島のあらまし。竹田。竹嶼。~
自二十(5)日、至十月初三日、留住之間、
恒雨少日、九月雪積、交下中峯腰上、雪積尸餘。是齊。

島之四方、秉船環審、則、懸岸撐空、層立壁岸。或有空缺、澗水成流、似是大旱不渴。
而、其間細流、幹溪不可殫記。是齊。

其周回、二日方窮、則、其聞道里、不過百五六十里乎。

■南濱海邊、有篁竹田、土䖏是遣。
東方五里許、有一小島、不甚高大。海長竹、叢生於一(6)面。

(訳注)
・有笪所田→有篁竹田
・海長竹叢生
竹嶼の説明。すでに「海長竹」が「叢生於一面」とある。1711年の「鬱陵島図形」の「所謂于山島」の記述と同じ。

~中峯に登る。「独島」を見る。~
霽雨■棬之日、入山、登中峯。則南北兩峯、岌崇相面、此所謂三峯也。
西望大関嶺、逶迤之狀。
東望海中、有一島。杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。不過三百餘里。
北至二十餘里、南近四十餘里、回互徃來。
西望遠近■度如斯。是齊。
西望大谷、中有、一人居基地、三所。又、有人居基地、二所。
東南長谷、亦有人居基地、七所。石葬十九所。

(訳注)ここまでは、中峯からの展望の説明と考えられる。「東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一、不過三百餘里」の「一島」は、竹島=独島のことと解釈されている。次の「北至二十餘里、南近四十餘里、回互徃來」は、島の大きさをあらわす文言か。


~船着き場の説明。日本人の器物を発見。~
(7)船泊䖏、則、東南間口、僅容四五隻之䖏。而、東南岸、則亦非可藏䖏。
是遣此䖏、有三釜三鼎、而二釜一鼎、則破傷軆樣、非我國之制也。
鼎則、無足無盖、可炊二斗米。
釜則、廣經尺許、深可二尺、容盛四五桶。

西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此䖏為最而所泊䖏。
船隻可避東南風。而西風難避、無非在前泊船之所。

又有一鼎、可炊米斗、亦是彼物。(8)此邊岸上、有轆轤。亦非我國所造。

(訳注)
・「西方大谷」は今の「台霞」か?
・この「鼎」や「釜」や「轆轤」は、日本製のもの。大谷・村川の漁民たちが使用していたものと考えられる。

~島の自然地理学的説明 樹木・動物・水産物~
島中、崗巒重疊。而、山腰以上則皆是石角、以下則土山。
而勢絕險、洞壑深邃、樹木連抱。參天而蔽日者、不知其幾許。
積年空棄之地、人跡不到。
故、藤葛磐結、朽草木添阜排。擠錯絕卒、非人所可通逕。小小澗谷、不可窮探。

所謂樹木、盡是、冬栢、紫側栢、黃薜金木、嚴木、槐木、榆木、楮、椒、楓、桂樹、栢之類。而(9)其中、冬紫檀、最多。松木、直木、■木、橡等木、■終無一株。

而羽則鳥鷗、毛則貓兒而已。此外、別無飛走之屬。既無人居、又無木實可食。

而水族、則只有魰魚、而沿邊石堆䖏、或十、或百、成羣穴居、大如駒犢、小如犬豕。
間有生鰒、付諸岸磧者、軆小味薄。

(訳注)
・「魰魚」というのが、アシカのことか。
・「生鰒」=アワビと思われる記述もあるが、「軆小味薄」と評判は良くない。

~破船の板木~
四方浦邊、破船板木、片片飄着者、處處有之。而、或鉄釘、或木釘、或腐傷者、而審其稍木之制 (10)則彼我無別。已為裂破。

~東南崖岸の竹田~
而、東南崖岸、漂散最多竹田。東南麓三處、最多而每■可落皮牟、三十餘石。
且兩田、斫竹龙多。其傍斫置、數千竿、而或有陳枯者、或有未幹者。

自東南間、從谷中、向竹田十五里許、有小路處。此、必取竹者、徃來逕。

~島の概要~
大抵、環一島、皆名山。四面壁立、又斷缺䖏、則、兩崍成間、流水潺湲而已。
只一西方山麓、開成洞門、大川(11)流出、而沙礫堆積、不能成浦、船泊甚難。

中有峯巒、嵯峨洞壑、回互雖。無寬豁䖏、猶可開疊。
至於殘山平峽䖏、或有人居基地、石葬、而墓木連抱。
大㮣、島在三千里海洋之中、船隻不得、任意徃來。
則、雖有彼國橫占之舉、除防無策。欲設堡鉄、則人民無止接之策。

(訳注)
(11)-2-3  密→巒 
(11)-3-7  科→平

所謂開垦䖏、樹木陰翳、藤葛成藪。九月積雪、寒氣倍冬。
夜半風殘之時、依然、如(12)兒啼女哭之聲、喧嘩碎長之聲、錚錚耳邊漸近。
船頭擬其魍魎海毒之舉、妖或慮率備犯之患。吹囉放砲、撀彀作聲、則瞬息不聞。


~ある怪奇のエピソード~
環島之時、至一處、日暮繋船、巖下炊飯。
次船、由沙磧、履磨中有遙之狀、與安慎微(訳官)同。
步行三里許、則自中峯逶迤一脈、山麓都是、層巖高壁、而遙開豁。
由此路望見、則連及山腰、疊石穴。與慎微相議曰、此(13)穴、不無害人、毒物移船、扵他䖏矣。

到三更後、天雨猝下、風浪大作、震雷電光、動山掀海、俄以兩止。
煙霞满島、遙聞巖穴中、眾人之聲、立扵船頭、號望見、則燈燭輝煌。

明日、食後、欲知其夜開異狀、更泊其處、
使軍官・朴忠貞、及砲手二十餘名探知、次入送巖穴。
(訳注)
(13)-6-13 八→入

則、久而不出、疑其陷坎、使人呼出。
則、忠貞先出、日「穴內三十餘步、豁然開敞、四層簷 (14)砌、
累石皆錬磨玉色、有文彩也。
十餘間尾家甚或極奢䴡、丹青、及戶舖之制、非泛然我國搆屋之規則、模樣大異。無他見物。而、近入簷下、則如硫黃・腐肉之嚊、滿鼻敝口、不能遠行、亦分明說道。」

是、去乙、僉使多率船卒六十餘名、親自入見、果如忠貞所告。

屋上藤葛、盤結之中階、砌庭城之內、蕭■無一累之塵、非人所居䖏。
則、強入非闋僉、不(15)喻心迷宜、不忍近入簷下。

~回船之日~
回船之日、自中峯霞氣、漸廣及扵海中。
大如東山、不知何物、浮沈數度、超出半空、向入山中。
風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀、此其他島有異者也。
(訳注)
(15)-3-11  八→入

~総括 竹田と樹木について~ 
所謂竹田、䖏䖏有之。而上項四千䖏■、小䖏二十餘石落只之地。大處三十餘石落只。
而皆可引水、作水田處。是齊。

樹木中、紫檀可作棺板。皆在扵山腰落巖(16)之間。

(訳注)
(15)-7-12 ?→作
(15)-7-13 (抜けている) 水田(一文字)

~総括 日本との関係~
古昔人民居基地、宛然未泯、則其為空。棄不過百餘年之前。
溪有洞口、若慮寇之策、則一夫當百夫之地。
彼船難欲、乆為結船、而風浪若開、則船必不保之勢。

(訳注)
(16)-1-10  完→宛

登島山峰、審望彼國之域、則、杳茫無眼杓之島。其遠近、未知幾許。而地形、似在於彼我間鼎釜。
取竹之路、彼人所為。緑由馳報狀。

壬寅春、外後裔、永陽、申光璞書。

(訳注)
この「壬寅」年は、いつか?
「外後裔」と書いているところからすれば、数世代の後か。

1722年 壬寅 景宗2 享保7 康熙61  
1782年 壬寅 正祖6 天明2 乾隆47  
1842年 壬寅 憲宗8 天保13 道光22  
1902年 壬寅 光武6(高宗) 明治35 光緒28  
1962年 壬寅   昭和37

朴世堂『西溪雑録』(p1 ), (p2 ), (p10 ), (p11

70 comments:

  1. 鬱陵島事蹟についてはこちらで検討してきたものです。

    Korean Translation of Jang Han-sang's 1694 Inspection Record

    また、matsuさんのコメントを以下に転載します。

    朴世堂について、柳美林『海洋水産動向 1250号』(2007・11・20)
    の、前回翻訳した部分の直後に、以下のような記述があります。
    参考になると思いますので、翻訳します。(4pの半ば以降)

    http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/wys2/file_attach/2008/05/06/1210030788-33.pdf

    GTOMRさんが紹介している、最初の部分の記述について、
    「1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容」とあります。

    (以下、翻訳)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    しかし、このような記録に対し、日本側は、「東南方向にぼんやりと見える島」が独島である根拠としては弱いと否定してきた。ところが、今回、張漢相と同時代の人物である西渓・朴世堂(1629~1703)の鬱陵島関連の記録を綿密に分析して見た結果、朝鮮時代に于山島(独島)を確かに認知していたという事実が明らかになった。朴世堂の文章は、2001年に、11代の子孫が、蔵書閣に「西渓・・古文書」を寄託し、世に知られるようになったが、これまでは概要が紹介されていたのみで(注9)、全文が翻訳されたことはなく、「于山島」に関連する重要な事実は明らかにされていなかった。

    朴世堂の「鬱陵島」にあらわれる于山島に関する記述

    朴世堂(注10)の「鬱陵島」(注11)は、大きく4つの部分で構成されている。1番目は『新増東国輿地勝覧』を引用した部分。2番目は、壬辰倭乱のときに捕虜となったが日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。3番目、1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容。4番目、同年1694年9月20日から10月3日まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容、となっている。このうち、4番目の部分は、張漢相の「鬱陵島事蹟」に書かれている内容とほぼ同じである。朴世堂は、2番目の部分で、前述の僧侶から伝え聞いた話を伝え、自分の意見を付け加えているが、ここに于山島が独島であることを示す重要な記述が以下のように含まれている。

    (注9)キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル『鬱陵島・独島 歴史地理史料研究』韓国海洋水産開発院 2006 p124参照

    (注10)朴世堂は、17世紀の思想界を風靡した碩学であったが、自由奔放な思惟体系のために、当時、朱子学を信奉していた老論の学界から「斯文乱賊」と罵倒された。彼の文集『西渓集』は、『韓國文集叢刊』に入っているが、「鬱陵島」が書かれている『西渓雑録』は刊行された文集には入っておらず、未分類資料となっている筆写本である。このため、史料の存在は一般に知られていない。

    (注11)「鬱陵島」は、朴世堂が、他の人の文章や、他の人から聞いた話を引用しながら、自分の意見を付け加える形態になっている。朴世堂はこの文章で、「鬱陵島」と「于山島」を確然と区別して言及している。彼の言及から推論してみると、于山島はまさしく独島をさしているという事実を明確に知ることが出来る。さらに、朴世堂が生きた時代は安龍福事件があった時期であり、朴世堂は、当時安龍福事件で重要な役割を果たした領議政・南九萬の妻男(妻の男きょうだい)である。南九萬は、死刑とされた安龍福を配流の刑に減刑するのに多大な功があった。朴世堂と南九萬が、しばしば書信のやりとりをしていた事から考えると、朴世堂は、南九萬から安龍福が日本に渡っていった事と、そこで鬱陵島についての領有権を主張してきた事実を聞いて知っていたことも推測される。全部で16ページからなっているが、筆写本の状態が良くなく、時折、欠字がある。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (翻訳終わり)

    朴世堂の「鬱陵島」については、この柳美林論文が出た時に、
    「僧侶の話」について、随分議論がありましたが、
    張漢相の報告について焦点が当たったことは、あまりないのではないかと思います。

    そして、これまでGTOMRさんの起こしていただいたものを見ると、前半の
    「1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容」
    には、比較的詳細な鬱陵島とその周辺の様子についての記載はある一方で、独島=竹島についての記述はないようです。

    独島=竹島は、やはり張漢相が中峯に登って初めて朝鮮側として認識(視認)されたものの、まったく当時の朝廷の関心はひかず、そのまま忘れ去られたものと思われます。

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  2. Thanks to Matsu, GTOMR, and Kaneganese.

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  3. chaamieyさんが漢字の読解を追加して下さったので、ここに貼っておきます。後ほど追加します。

    (3-17)風残「處」?時下陸而山石巉岩連抱之木族立掩
    (3-18)「翳」上不能見天下不能着●●泊凌風勢不順有
    (3-19)難行舡是齋島之東北有小岐立石九所而相距百
    (3-20)餘歩許是齋翌日風残波面泊於南岸則
    (3-21)有竹田三所頗有伐取是跡而亦有数<???>
    (3-22)伐者抛棄者是乎●其中十餘箇載<???>

    (4-1)為有「於」又有大釜ニ「坐」「食」「 」ニ「坐」而體●非<??>
    (4-2)之「産」是乎「於」又有轆轤引舡之機而難<???>
    (4-3)人之所為是齋巌穴之間可支魚或●<??>
    (4-4)故読人時杖撲殺二口以来為有淹留七八日還其
    (4-5)島「而」周視則不過百餘里之地其間不無「平」坦可行
    (4-6)之地時大木如麻欅天終不●着●或有数馬●
    (4-7)●月可入之地而数少「人」丁●「惧」在「心」不●突入終●
    (4-8)涛登山是齋三十日丑時還逢東風還為発舡而
    (4-9)終「日」無事行舡矣戌時量徴有電光強風駆而
    (4-10)驚涛「捽」「悉」帆竹折倒於舡中舡凌板木裂袂●澒
    (4-11)覆之患迫在斯澒舡諸人自分必此是如乎熱
    (4-12)麻大索及鉄釘適有預備故或続或着難以
    (4-13)●済為有在果所謂柱風今来東風故舡隻如飛 
    (4-14)九月初一日戌時量幸●還泊是乎「於」●還道里
    (4-15)通許則晝夜並七日是乎矣海中無他一點(=点)小島
    (4-16)●泊是乎「於」此外別無所「告」之事是如為?乎味●●

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  4. 申光璞書「蔚陵島事蹟」と朴世堂「鬱陵島」の張漢相報告部分をくっつけてみました。

    前半は、意外なほど、良く一致しています。
    しかし、後半になって、両者が、なぜ今に残る文を「選択」したのか、やや不思議です。

    両方とも、張漢相が備辺司、あるいは朝廷に提出した「鬱陵島捜討報告」とでもいうべき原文をもとに、それぞれが書写した文章であると思いますが、そして、後半部分も張漢相の「原本」にあったのだと一応考えてよいと思いますが、
    両者の後半部分を、そのまま直接タテにつないでも一貫しないようにも思います。また、入れ子のようにつないでも、うまくはまらないような気もします。

    皆さんは、どうお考えでしょうか?

    なお、この作業は、昨3月3日の夕方に、GTOMRさんのポストにあった朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」をコピーして、申光璞書「蔚陵島事蹟」と比較したもので、その後『西渓雑録』のほうは、さらにブラッシュアップされていると思います。

    双方の漢字がもっとしっかりと読み取れた時に、またこの作業をしてみる必要があると思っています。



    A 申光璞書「蔚陵島事蹟」
    B 朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」

    A(2)甲戌九月日、江原道三陟營将・張漢相、馳報內、蔚陵島被討事。
    B 甲戌九月初●、営将張漢相、馳報備局。
    江原道三陟鎮右営将、為馳報事、鬱陵島捜討事。

    A 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津、 待風所、發船。
    B 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待風所、発船。

    A 綠由曾已馳報、為有在果。
    B 緑由曽巳馳報、為有在果。

    A 僉使、與別遣譯官・安慎微、領來諸役各人、及沙格并一百五十名、
    B 検使、輿別遣譚官・安慎微、領率●役各人、及沙格併一百五十名、

    A 騎 船各一隻、汲水船四隻、良中、從其大小分載。
    B 騎ト舡各一隻。汲水舡四隻、良中、従其大小分載。

    A 同日巳時量、囬西風開洋。是如乎。
    B 同日巳時量、因西風開洋。是如乎。

    A 戍時、 到大洋中。波濤險巇之勢、五里許二䖏。是乎所。
    B 戌時量、到大洋中、波涛険厳之勢、五里許二処。是乎所。

    A 必是水宗、而諸波  浪、所觸渙散、  無適所向。是(3)如乎。
    B 必是水●、●諸船為波浪、所髑一時冥骸、莫適所向。是如乎。

    A 同月二十日、子時、
    B 同月二十日、子時量、

    A 漸入深洋、黑雲自北蔽天、而電光閃爍、影流澈波心。
    B 漸入深洋、黒雲自北巌天、而電光閃楽、影 徹波心。

    A 狂風猝起、 雨隨至、怒濤翻空、雲海相盪。
    B 狂風梓起、●雨随至、怒涛翻空、<●●>、

    A 所秉船隻、若浮若沒、危險罔狀。
    B   船隻、若浮若●、危険網状。

    A 船中之人、莫不失措、舉皆惛倒之際、騎船柁木、又從而折破龙、無制船之策。
    B 舡中之人、莫<不失措>、拳皆昏倒之際、騎舡舵木、又従而折破<●無制船>【6】之望西。

    A 難以櫓木(4)直揷扵 尾及左右、借以為力。是乎。
    B 強以櫓木、  直挿於船尾及左右、<借以為力>是呼。

    A 乃、覆敗之患、迫在須臾。是如乎。
    B 乃、覆凌之患、迫在斯須。是如乎。

    A 風雨漸息、   天又向曙、 島在北方、水勢東走。
    B 風<風雨漸息>、天又向曙西、島在北方、水勢東注。

    A   船中之人、因此甦醒、  盡力櫓役、轉展向島。
    B 故、船中之人、<因此>甦醒、儘力櫓役、伝傳向島。

    A 巳時、 艱到島之南。 繁纜石角、暫時下陸。
    B 巳時量、難到島之南岸、繋●石角、暫時下陸。

    A 炊飯之際、汲水船四隻、稍稍來到。而卜船■、能不知所向。是如乎。
    B 炊飯之際、汲水船四隻、

    A 酉時、又自南洋而到、各船俱得免■。
    B     自南洋西至,各舡倶涛免●。

    A 而南岸無船泊䖏、
    B  南岸無可舡泊䖏、己仍乎

    A          東南問涧口內、止宿。
    B 同日初昏、睡面泊于東南間凋●内●宿凌。

    A 自二十(5)日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日、
    B 自二十一日、  至十月初三日、留住之間、亘両少日、

    A 九月      雪積交下。中峯腰上、雪積尸餘。是齊。
    B 九月二十八九日、両雪交下。中峯腰上、積雪尺許。足齋。

    A 島之四方、秉船環審、則、懸岸撐空、層立壁岸。
    B 島之四方、乗船環審、則、壁崖撑空、層巌壁立。

    A 或有空缺、 澗水成流、似是大旱不渴。
    B 或有空●䖏、潤水成流、以是大早不渇。

    A 而、其間細流幹溪、 不可殫記。是齊。
    B 而、其間佃流●冥●、不可弾記。是齋。

    A 其周回、二日方窮、則、其聞道里、不過百五六十里乎。
    B 蓋其周、二日方窮、則、其間道里、不過百五六十里之地。是乎●。

    A ■南濱海邊、有篁竹田土䖏。是遣。
    B  南邊海濱、有笪竹田三所、東西北三方、亦有笪竹田十一所、足遣。

    A 東方五里許、有一小島。不甚高大。   海長竹、叢生於一(6)面。
    B 東方五里許、有小一島。不甚高大、而大而海長竹、叢生扵一面。是齋。

    A 霽雨■棬之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌崇相面、此所謂三峯也。
    B 両霽雲棬之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、此所謂三峯也。

    A 西望大関嶺、逶迤之狀。
    B 西望大関嶺、逶迤之狀。

    A 東望海中、有一島。杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。不過三百餘里。
    B 東望海中、有一島。杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不?過三百餘里。

    A 北至二十餘里、南近四十餘里、回互徃來。
    B 而南方西方、即杳茫無際、水天一色。是齋。自中峯、西至海濱、三十餘里。東至二十餘里。南近四十里。北至三十餘里。西面泩来。

    A 西望遠近、■度如斯。是齊。 
    B 四望遠近、憶<●●●>。是齋。

    A 西望大谷中、有一人居基地三所。又、有人居基地、二所。
    B 西邊大谷間、有 人居基祉三処。又、有<●●●>所。

    A なし
    B 北邊長谷、又有人居基祉二処。

    A 東南長谷、              亦有人居基地七所。石葬十九所。
    B 東南長<●●●>【9】居基祉ニ所。西南間大谷、有基祉七所。石葬<●●●>。是齋。

    A(7)船泊䖏、則、東南間口、僅容四五隻之䖏。
    B   舡泊䖏、則、東南間潤●、僅容四五隻<之䖏>地。

    A 而、東南岸、則亦非可藏䖏。是遣。
    B 而、東南風、則亦非可藏可●䖏。是遣。

    A 此䖏、有三釜三鼎、而二釜一鼎、則破傷。  軆樣、非我國之制也。
    B 此䖏<有>釜二鼎、而二釜一鼎、則破傷。釜鼎軆樣、非我國之制也。

    A 鼎、則、無足無盖、  可炊二斗米。
    B 鼎、則、無芝無盖、其大可炊二斗米。

    A 釜、則、廣經尺許、深可二尺、容盛 四五桶。
    B 釜、則、廣經尺許、深可二尺、容盛水五六桶。是齋。

    A 西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此䖏、為最而所泊䖏。
    B 西邊大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此䖏、為最而所泊舡䖏。

    A 船隻可避東南風。而西風難避、無非在前泊船之所。
    B   可避東南北風。而西風則難避。元浦船泊之所。

    A    又有一鼎、可炊米斗、   亦是彼物。
    B 而又有又有一鼎、可容斗米之炊。而●是彼物。是乎●。

    A(8)此邊岸上、有轆轤。亦非我國所造。
    B   北邊岸上、有轆轤。亦非我人所造。是齋。

    A 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、以下則土山。
    B 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、腰下則土山。

    A 而、 勢絕險、洞壑深邃。樹木連抱參天而蔽日者、不知其幾許。
    B 而、山●絶險、洞壑深邃。連抱樹木參天而蔽日者、不知幾其許。

    A     積年空棄之地、人跡不到。
    B ●不喩、積年空棄之地、人遮不到。

    A 故、藤葛磐結、朽草木添阜排擠錯絕卒非人  所可通逕。
    B 故、藤葛磐●、   有難排擠  卒非人力之所可通逕。

    A 小小澗谷、不可窮探。
    B 小小澗谷、不暇窮探。是齋。

    A 所謂樹木、盡是、
    B 所謂樹木、盡是、

    A 冬栢、紫側栢、黃薜、金 木、嚴木、槐木、榆木、
    B 冬栢、紫測栢、黄檗、金椢木、嚴木、槐木、榆木、

    A 楮、   椒、楓、桂樹、栢之類。
    B 桑、楡、楮椒、楓、檜樹、栢之類。

    A 而(9)其中、冬紫檀、最多。
    B 而、  其中、冬栢紫、最多。是乎●。

    A 松木、直木、■木、橡等木、■終無一株。
    B 松木、真木、欅橡、小木暇、 終無一株。

    A 而、羽則鳥鷗、毛則貓兒而已。
    B 而、羽則鳥鷗。毛則柚兒而已。

    A 此外、別無飛走之屬。
    B 此外、他無飛走之屬。是乎所。

    A 既無人居、又無木實可食。
    B 既無人居、又無木實可食。而●是乎、喩亦甚可怪。是齋。

    A 而水族、則只有魰魚、而沿邊石堆䖏、或十、或百、成羣穴居、大如駒犢、小如犬豕。
    B 水族、則只有可支魚。而沿邊石堆䖏、或十、或百、成羣穴居、大如駒犢、小如犬豕。是乎●。

    A 間有生鰒、付諸岸磧者、軆小 味薄。
    B 間有生鰒、付諸岸磧者、軆小而味薄。是齋。

    A 四方浦邊、破船板木、片片飄着者、處處有之。
    B 四方浦邊、破船板木、片片漂着者、處處有之。

    A 而、或鉄釘、或木釘、或腐傷者、
    B 而或<鉄釘>、或着木釘、或有腐傷者、

    A 而審其稍木之制 (10)則彼我無別。已為裂破。
    B なし

    A 而、東南崖岸、漂散最多。
    B 而、東南崖<●●●>【8】最多。是齋。

    A 竹田  東南麓三處、最多。而每■可  落皮牟三十餘石。
    B 竹田中、東南麓三處、最大。<而每処可>落皮牟三十餘石。是乎●。

    A 且兩田、斫竹龙多。其傍斫置、    數千竿。
    B 且兩田、斫竹龙<多其傍斫>置者、無慮數千竿。

    A 而、或有陳枯者、或有未幹者。
    B 而、或有陳枯者、或有<未幹者>。是齋。

    A 自東南間從谷中、向  竹田  十五里許、有小路處。
    B 自東南間從谷中、向南至竹田、有十五里許、有小路。

    A 此、必取竹者、徃來 逕。
    B 此 必取竹  泩來之逕。是齋。

    A 大抵環一島、皆名山。四面壁立、又斷  缺䖏、則兩崍成間流水潺湲而已。
    B 大抵環一島、皆名山。四面壁立、而少有●缺䖏、則兩崍成間流水潺湲而已。

    A 只一西方山麓、開成洞門、大川(11)流出、
    B 只一西山方麓、開成洞門、大川    流出、

    A 而沙礫堆積、不能成浦、船泊甚難。
    B 而沙礫堆積、不能成浦、船泊甚難。是乎●。

    A 中有峯巒嵯峨、洞壑、回互雖。無寬豁䖏、猶可開疊。
    B 中有峯密嵯峨、洞壑、面互雖。無寬豁䖏、猶可開墾、是乎●。

    A 至於殘山平峽䖏、或有人居基地、石葬而墓木連抱。
    B 至扵殘山平峽䖏、或有人居基址、石葬墓木連抱、廃垣石堆而己。

    (ここまで)
    以下、Aなし
    B 即不知、何代所居西落棄成、土人遮石到者、又不知其幾百年。是乎●。

    東南間間、自舡舶䖏、至竹田、終次大樹。
    次上有刀刻字、●而往兵衛、又四郎、弾吉等三人之名。以倭書刻之。
    而無姓名、似之下倭之所為。
    且其刻痕、完●、有若自然成字之状。則可想其●●。是乎●。
    且、釜県之或破、或完者●生其蝕意、非近年之所畳之齋卒月。

    初四日、未時畳、似有風便、故発船。
    到西邊間間、則両勢霜微、日又昏黒。
    而十月東風、誠不可易●。是乎●。
    仍為開洋、六船齋発子夜。●前則拳火相準。是如可。

    丑時、以凌大船一石小船二隻、在先。
    而餘三隻、落凌日出凌●●知所向。是乎●。東風不●

    初五日、●●直抵三陟浦。●而落凌小舡二隻、面泊於荘五里、待風䖏、為乎●大船<●●> 

    初六日、卯時畳、亦為面泊、於三陟浦口、為有在果。<??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形漂見、水<????> 謂遠不過七八百里。是如呼。
    今番泩返倶●●<???>可●達、則此諸、済州猶有一倭之遠是乎所。
    <???>度●較。是乎矣。
    舡之疾鈍、風之順達、衛遠者㮣 <??>遠則又不可以●定為證。是齋。
    冬天、風高是之日、険海●渉、一百五十人、●保性命者、莫●国家之陰佑。是乎●。
    ●泩返難、若之状不一而●而煩不散佃凍、是斉。
    安慎徽、卒以裏敗之人、渇●之餘、瘡疾満身。

    乗船凌二十餘日、瀑●送出、於而●間勢難登●。是乎●
    復命有●●勉●載寸寸前進之意分付以送。為乎●

    所謂可支魚、撲殺取皮、大中小三領。竹五尺許、四箇。紫檀香二土莫。監封上、送於卒道監。●以為伝達。●局之地。為乎●

    捜討生木圧隻一斤、卒島圖形一卒、及輿地勝覧一巻、併以軍官實特上送、為齋検使、暇置三書夜、●蕩之餘、精神昏憤 不●収拾●不愈圖形一卒。於為●出
    而此䖏、書師絶無故。不●己一行之人、依草卒費日経営絵
    而終至書●遅延、至此●勝、煌恐像由併以馳報事。
    (B 終わり)

    以下、Aのみ Bなし

    A 大㮣、島在三千里海洋之中、船隻不得、任意徃來。
    則、雖有彼國橫占之舉、除防無策。欲設堡鉄、則人民無止接之策。
    所謂開垦䖏、樹木陰翳、藤葛成藪。九月積雪、寒氣倍冬。
    夜半風殘之時、依然、如(12)兒啼女哭之聲、喧嘩碎長之聲、錚錚耳邊漸近。
    船頭擬其魍魎海毒之舉、妖或慮率備犯之患。吹囉放砲、撀彀作聲、則瞬息不聞。

    環島之時、至一處、日暮繋船、巖下炊飯。
    次船、由沙磧、履磨中有遙之狀、與安慎微同。
    步行三里許、則自中峯逶迤一脈、山麓都是、層巖高壁、而遙開豁。
    由此路望見、則連及山腰、疊石穴。與慎微相議曰、此(13)穴、不無害人、毒物移船、扵他䖏矣。
    到三更後、天雨猝下、風浪大作、震雷電光、動山掀海、俄以兩止。
    煙霞满島、遙聞巖穴中、眾人之聲、立扵船頭、號望見、則燈燭輝煌。
    明日、食後、欲知其夜開異狀、更泊其處、
    使軍官・朴忠貞、及砲手二十餘名探知、次入送巖穴。
    則、久而不出、疑其陷坎、使人呼出。
    則、忠貞先出、日「穴內三十餘步、豁然開敞、四層築(14)砌、
    累石皆錬磨、玉色、有文彩也。十餘間、尾家、甚、或(ない衍字)極奢䴡(麗)、丹青、及戶舖之制、非泛然我國搆屋之規則。模樣大異、無他見物、而、近入簷下、則如硫黃・腐肉之嚊、滿鼻敝口、不能遠行、亦分明說道。」
    是、去乙僉使多率船卒六十餘名、親自入見、果如忠貞所告。
    屋上、藤葛盤結之中、階砌庭城之內、蕭■無一累之塵、非人所居䖏。
    則、強入非闋僉、不(15)喻心迷、宜不忍近入簷下。

    回船之日、自中峯霞氣、漸廣及扵海中。
    大如東山、不知何物、浮沈數度、超出半空、向入山中。
    風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀、此其他島有異者也。

    所謂竹田、䖏䖏有之。而上項四千䖏■、小䖏二十餘石落只之地。大處三十餘石落只。而皆可引水、作水田處。是齊。

    樹木中、紫檀可作棺板。皆在於山腰落巖(16)之間。

    古昔人民居基地、宛然未泯、則其為空棄、不過百餘年之前。
    溪有洞口、若慮寇之策、則一夫當百夫之地。
    彼船難欲、久為結船、而風浪若開、則船必不保之勢。

    登島山峰、審望彼國之域、則、杳茫無眼杓之島。
    其遠近、未知幾許。而地形、似在於彼我間鼎釜。
    取竹之路、彼人所為。緑由馳報狀。
    壬寅春、外後裔、永陽、申光璞書。

    (A 終わり)

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  5. This time I copied Matsu's A part, then I check and overwrite it with reading B. When I was overwriting B on A part, I felt "A" have tendency to omits difficult Chinese chraractor nowadays but B dont omit and it is written better gramatical order than A.

    And the B's last part is typical style of inspector's report ,on the other hand, A's last part seems Literaturely style.
    Typical inspector's detailed report e.g. 1786 1807 1827 1831.they write "Evidence local products of Ulleungdo"on last part usually, but A dont have.
    Im really much interesting that when "A" was re-writen.

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  6. matsuさん

    ありがとうございます。matsuさんのAB比較での検討は漢字の読解のヒントにもなりますね。いずれにせよ、こうした形での両文書の比較は大変興味深いものです。韓国の研究者はこうしたことに学問的興味を見出さないのでしょうか?


    chaamieyさんが送ってくださった漢字読解の続きを後ほど追加したいと思います。

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  7. Im not sure it is correct or not but they said it is 1722?
    And I serched there are the same name here .
    and here
    If it is same person, it would be in between 正宗(1752-1800) to 純宗(1800-1834)so 壬寅 would be 1782.

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  8. (5-16)官安慎「徽」領率「員」役各人及沙格併一百五十名騎

    (5-19)涛険「峨(高くけわしい)」之勢五里許二処是乎所必是水●「而」諸船

    (5-22)影徹波心狂風「捽(つかむ)」起「驟(走る、にわかに)」雨「堕」至怒涛翻空<●●>

    (5-23)船隻若浮若「没」危険網状

    (6-5)岸繋「纜(ともづな)」石角暫時下陸炊飯之際汲水船四隻自

    (6-6)南洋西至各舡倶涛免●南岸無可舡泊䖏
     ↓
    (6-6)南洋稍(ようやく)々来到而卜舡叚(かりる、かす)不知「 」向是如乎酉時量

    (6-7)(この一行抜けている)又自南洋而至各舡倶涛免恙南岸無可舡泊處


    (6-7)(これ以下、一行ずつ繰り下げ)己仍乎同日初昏睡面泊于東南間凋●内●宿凌自

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  9. 導入..インドラ私の名前...私パレンバン、国から来..お客様の情報は、感謝の

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  10. (6-10)乗船環審則壁崖撑空層巌壁立或有空「缺(欠ける)」

    (6-11)處「澗(谷、谷川)」水成流以是大早不渇而其間「細」流●「渓」

    (6-13)不過百五六十里之地是乎「於」南邊海濱有笪竹田三所

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  11. 日本人3人の名前が、朴世堂『西渓雑記』「鬱陵島」(B)に見えますが、
    3人目は「弾吉」ではなく、「彌吉」(やきち)ではないでしょうか?
    その昔、「冒険ダン吉」という漫画がありましたが、やはり「ダン吉」や「たまきち」より
    「やきち」のほうが当時の日本人の名前としてはふさわしいように思います。

    この3人について、張漢相が、
    「名前だけで姓が無いので、身分の低い者ではないか」、と分析しているのは、
    日本人社会についてそれなりに知っていることを示しています。
    張漢相(1656~1724)は、1682年(26歳頃)に、徳川綱吉の将軍襲職祝賀の朝鮮通信使の一員として日本に来ているだけに、ある意味で日本通だったのかも知れません。

    それにしても、この日本人3人は、大谷・村川の関係者と思われますが、米子の漁師たちでもあったのでしょうか。

    自分の名前を刀で刻んで残してくる、というのは、修学旅行の学生みたいですが、
    これだけ画数の多い漢字を、刀で刻んでいる、ということは、自分の名前を漢字で書けたことを示しており、当時の日本人の識字率も問題としても興味を惹かれます。

    一方で、張漢相がその日本人の名前の漢字を、しっかり書き取って残している、というのも、朝鮮側の史料に残る日本人の名前が、奇妙なものが多いだけに注目されます。

    一人目は、「往兵衛」(おうべえ)でしょうか? それとも「住兵衛」(じゅうべえ)?

    東南間間、自舡舶䖏、至竹田、終次大樹。
    次上有刀刻字、●而往兵衛、又四郎、弾吉等三人之名。以倭書刻之。
    而無姓名、似之下倭之所為。
    且其刻痕、完●、有若自然成字之状。則可想其●●。是乎●。
    且、釜県之或破、或完者●生其蝕意、非近年之所畳之齋卒月。

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  12. (7-2)是齋舡泊「處」則東南間「洞」「々」「厪(=僅)」容四五隻<之䖏>

    (7-3)地而東南風則亦非可藏可●「處」是遣此䖏<有>

    (7-9)斗米之炊而●是彼物是乎「於」北邊「浦」岸上有轆

    (7-11)以上則皆是石角腰下則土山而山「勢」絶險洞壑深

    (7-17)冬栢紫最多是乎「於」松木真木欅橡小木暇

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  13. (8-12)東南間間自舡舶「處」至竹田終次大樹「皮」上有刀刻字

    (8-13)●而「佳(または「住」)」兵衛又四郎「彌」吉等三人之名以倭書刻之而無

    (8-14)姓名似之下倭之所為且其刻痕完「全」有若自然成

    (8-15)字之状則可想其「年」「久」是乎「於」且釜「鼎」之或破或完者

    (8-16)●生其蝕意非近年之所「置」「是」齋卒月初四日未時

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  14. (7-19)之屬是乎所既無人居又無木實可食而「然」是乎喩

    (7-20)亦甚可怪是齋水族則只有可支魚而沿邊石堆䖏

    (7-21)或十或百成羣穴居大如駒犢小如犬豕是乎「於」間有

    (8-2)落皮牟三十餘石是乎「於」且兩田斫竹龙<多其傍斫>

    (8-6)立而少有「罅(ひび、すき)」缺䖏則兩崍成間流水潺湲而已只一

    (8-8)船泊甚難是乎「於」中有峯密嵯峨洞壑面互雖無

    (8-9)寬豁䖏猶可開墾是乎「於」至扵殘山平峽䖏或有人

    (8-11)居西落棄成土人遮石到者又不知其幾百年是乎「於」

    (8-19)六船齋発子夜「以」前則拳火相準是如可丑時以凌

    (8-20)大船一「隻」小船二隻在先而餘三隻落凌日出凌●●知所

    (8-21)向是乎「矣」東風不●初五日「亥」「末」直抵三陟浦「口」而落

    (8-22)「渡」小舡二隻面泊於荘五里待風䖏為乎「於」大船<●●> 

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  15. 張漢相が朝鮮通信使として日本に来ていたというのは初耳でした。

    当時の通信使は釜山から対馬、壱岐を経て北九州沿岸~瀬戸内海~鞆の浦経由で大坂まで船で行き、さらに陸路で江戸に向かうという経路を取っていましたからかなり日数もかかり、その間日本人と触れ合う機会も多かったものと思われます。

    直接は関係ないですが興味深いお話でした。

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  16. chaamiey様

    ありがとうございます。後で修正したいと思います。

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  17. (9-1)謂遠不過七八百里是如「乎」今番泩返倶●●<???>
    (9-2)可「濤」達則此諸済州猶有一倭之遠是乎所<???>
    (9-5)跋「バツ、ふむ」渉一百五十人「濤」保性命者莫●国家之陰佑是
    (跋渉=山川を歩き回る)

    (9-6)乎●●泩返「艱(苦しむ、むずかしい)」「苦」之状不一而●而煩不散佃凍是斉
    (9-7)安慎徽卒以裏敗之人渇「病」之餘瘡疾満身乗船「渡」
    (9-8)二十餘日「濕(=湿)」「腫」「迭」出於而●間勢難登●是乎「矣」
    (9-9)復命有「限」●勉「擔(=担)」載寸寸前進之意分付以送
    (9-10)為乎「於」所謂可支魚「搏(手でなぐる)」殺取皮大中小三領「篁(=竹林)」竹五
    (9-11)尺許四箇紫檀香二土莫監封上送於卒道監「営」
    (9-12)以為伝達●局之地為乎「於」捜討生木圧隻一斤卒
    (9-13)島圖形一卒及輿地勝覧一巻併以軍官實特上
    (9-14)送為齋検使暇置三書夜「簸」蕩之餘精神昏憤
    (簸蕩=揺れ動く)
    (9-15)不「能」収拾●不愈圖形一卒於為「冩」出而此䖏書師
    (9-16)絶無故不●己一行之人依草卒費日経営絵而終至
    (9-17)書●遅延至此「不」勝「惶」恐「縁」由併以馳報事  


    これで一回、最後まで行き着いたけれども、読めない字が多いです。むずかしい。

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  18. (9-14)三書夜 → 三「晝」夜

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  19. chaamiey様

    ありがとうございます。ほんと、難しいです。{ }でくくったのは私が解読したものですが、殆どありません…

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  20. You guys are doing a great job.

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  21. Chaamieyさま 

    ありがとうございます。
    解読していただいたものも含め、前回のくだりを、次のように読んでみました。

    (8-12)東南澗口、自舡舶處、至竹田終、以大樹皮上、有刀刻字(8-13)迹。
    而、住兵衛、又四郎、彌吉等、三人之名。以倭書刻之。

    東南の谷口の、船着場から竹田の終わるあたりにかけて、大きな樹の皮の表面に、刀で刻んだ文字のあとがある。
    そこには、「住兵衛」「又四郎」「彌吉」という三人の名が、倭の書きかたで刻んである。

    而無(8-14)姓、本似是下倭之所為。

    それは、姓がないことからみて、身分の低い倭人がしたことであろう。

    且其刻痕、完合有若自然成(8-15)字之状。則、可想其年久。是乎於。

    さらに、その刻痕は、自然に文字になったように見える。だから、きっと随分昔のものなのであろう。

    且、釜鼎之或破、或完者(8-16)銹生若蝕意、非近年之所置。是齋。

    そして、釜や鼎(かなえ)の、あるいは破損し、破損していない完全なものも、ひどく錆ついていることからみて、近年に放置されたものではないのであろう。

    (ここでいったん話は終わり)

    本月、初四日、未時(8-17)量、似有風便、故・・・





    Pacifistさま

    張漢相が朝鮮通信使に随う一員として日本に来た、という話のネタもとは、前回も書きましたように、Gerryさんの紹介された柳美林論文の注です。

    柳美林『海洋水産動向 1250号』(2007・11・20) 3ページの注

    http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/wys2/file_attach/2008/05/06/1210030788-33.pdf

    (注7)『朝鮮王朝実録』『紀年便考』によれば、張漢相は、顕宗年間(1660~1674)に慶尚左水使や会寧府使をつとめた張シギュの息子で、1676年に武科に合格し、宣伝官となった。1682年、訓練院副正として通信使とともに日本に行ったことがある。

    以上は翻訳で、前回のコメントでは、さらに蛇足をつけました。(再掲でごめんなさい)

    張漢相の生年(1656)から、彼の鬱陵島捜討時(1694年)の年齢は38歳頃となります。また、1682年、朝鮮通信使とともに張漢相が日本に行ったのは26歳ごろのことです。この1682年(粛宗8年)の通信使は、日本では天和2年で、5代将軍・徳川綱吉の襲封祝賀の通信使でした。この時の正使は、尹趾完ですが、この人は鬱陵島争界の時にも登場します。

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  22. matsuさん、

    且其刻痕、完合有若自然成字之状。則、可想其年久。是乎於。

    この部分ですが、

    且其刻痕、完合有若自然成。字之状 則可想其年久是乎於。

    と読むのはいかがですか。つまり、

    「さらに、その刻痕(つまり字体を指している)は、整っているあるいは自然なものである。字の状態を見れば、きっと随分昔のものなのであろう。」

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  23. (5-4)訂正。「班」→「斑」

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  24. Chaamieyさま

    ご指摘、ありがとうございます。

    樹に刻まれていた文字は、皮の自然の模様のようになっていたので、相当に古いものだ、という意味になるのではないかと思っています。

    この3人の名前は、ひょっとしたら、大谷・村川の時代のものではなく、さらに前の秀吉の時代に鬱陵島は日本に占領されていましたから、その時の雑兵の名前か、などと、あらぬ妄想ばかり広がります。

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  25. 話を整理したいと思いますが、そもそも、GTOMRさんが、この朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」を紹介されたのは、申光璞書「蔚陵島事蹟」(1977年または1978年に新たに発見された)の記録としての信憑性に疑問を呈されたからだと思います。申光璞版は、最後に「彼國之域」の記述があり、これについては、Gerryさんが、韓国側(柳美林論文2007)の解釈が違うのではないか、という問題提起をされたものでした。

    そこで、申光璞書「蔚陵島事蹟」(A)と、朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」(B)がどちらも張漢相が書いたものと認められるかどうか、ということです。

    前半については、一致点が多いですが、AはBを一部省略しながら進んでいます。
    しかし、Aのみにあらわれるところもあり、この解釈がポイントになるでしょう。

    後半ですが、両者共通点の分かれ目から、Bはしばらく同じ話が続いています。
    Bは、そのまま、最後までなだれこんでおり、その内容は、GTOMRさん指摘のように、その後の「捜討使」の報告内容と似た記載が多くあります。

    Aはここで、Bのもととなったテキスト(それはたぶん張漢相の報告書原文かその良質な写しと思われます)からはなれて、独自のことを書き始めますが、果たしてその部分が、もとの原文にあったのか、ということだと思います。

    そこで、Aの後半を、Bの後半のどこかの中に、はさみこめる可能性があるか、という議論になると思います。

    内容的には、張漢相が書いていてもおかしくない内容だとは思います。

    A 申光璞書「蔚陵島事蹟」のこの部分の内容について、柳美林論文(上掲)は、
    「日本に対する防備策」そして「洞窟の中の様子」と整理しています。

    「蔚陵島事蹟」(注6)(翻訳 再掲)
    このテキストは、15ページからなっており、ここには、朴世堂の「鬱陵島」にはない部分が含まれている。ひとつは、日本に対する防備策についての議論であり、もう一つは軍官と張漢相が目撃した洞窟の中の様子についての記録である。

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  26. matsuさん、

    >樹に刻まれていた文字は、皮の自然の模様のようになっていたので

     なるほど、その読みのほうが当たっていそうです。


    というわけで、

    kaneganeseさん、修正お願いします。

    (8-14)姓名似之下倭之所為且其刻痕完「全」有若自然成

        ↓

    (8-14)姓名似之下倭之所為且其刻痕完「合」有若自然成


    それから、これも。

    (8-21)三陟浦「口」

    (8-22)渡小舡二隻面泊於荘五里待風「處」為乎「於」大船

     

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  27. 2回目行きます。

    (3-3)易而八月「已」

    (3-4)偵探之意曽己面「禀」為有小「以」「捧」

    (3-5)二隻「給」「其」格「粮(=食糧)」

    (3-6)如「乎」軍官崔世哲

    (3-8)八十里許荘五里「津」頭「止」宿

    (3-10)点島形宛然於雲際矣日出凌雲水「徴」茫「不」見

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  28. (3-13)排空此亦水百之一流「是」齋又「経」一宿

    (3-14)有一泰山壁「臨」

    (3-16)其島北岸則地「勢」絶険船

    (3-17)風残處「暫」時下陸而山石巉岩連抱之木簇(=群がる)立掩


    (3-22)伐者抛棄者是乎「小」「竹」

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  29. chaamiey様

    ありがとうございます。取り急ぎ訂正を書き加えました。

    matsuさん

    申版の鬱陵島事蹟は、粗雑なものの、朴版に無い情報もあり、面白いですね。どういった背景でいつ写されたものなのでしょうか。オリジナルはもっと長くて詳細なものだったのでしょうか?自称専門家の柳氏が本格的に考証学を行ってくれるともっといろいろなことがわかって面白いと思います。

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  30. (4-1)為有於又有大釜ニ坐食「鼎」ニ坐

    (4-4)故「諸」人「持」杖「搏」殺(搏殺=撲殺)二口

    (4-5)島西周視則不過百餘里之地其間不無「平」坦可行

    (4-6)之地「而」大木

    (4-7)●月可入之地而数少人丁●惧在心不「敢」突入終「不」

    (4-9)終日無事行舡矣戌時量徴有電光強風駆「雨」

    (4-10)驚涛捽悉帆竹折倒於舡中舡「渡」板木裂缺(=欠ける)「傾」

    (4-11)覆之患迫在斯「須(すべからく)」舡「中」諸人自分必「死」此是如乎熱

    (4-12)麻大索及鉄釘適有預備故或「結」或着「艱(=困難)」以

    (4-13)●済為有在果所謂柱風「夲(ホン、はやくすすむ)」来東風


     じっくり読んだら(4-9)から(4-13)あたりの乗組員の必死の奮闘ぶりが伝わって来て、こわかったろうなあと感情移入してしまった。

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  31. 皆さん、素晴らしいです。自分に能力がなく、ただ読ませていただいているだけですが、皆様のお力に敬服しています。

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  32. (4-14)九月初一日戌時量幸●還泊是乎於「往」還道里

    (4-15)通許則晝夜並七日是乎矣海中無他一「點(=点)」小島

    (4-16)「也」泊是乎於此外別無所「告」之事是如為?乎味●●


    (4-18)「而」帆幅亦少所受風力不多故輿波涛出「没」而「自」致遅

    (4-21)於且聞「已」行人之言則毎於夏月風和時「往」来而

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  33. 前回の続きです。
    樹の皮に刻まれた日本人3人の名前を見たあとからです。
    Chaamieyさんの解読を一部使わせていただいています。
    独自に読んでいるところもあり、完全とも思えませんので、ご議論いただければと思います。いいかげんに飛ばしている所もたくさんあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    本月、初四日(10月4日)、未時(8-17)量(午後2時ごろ)、
    似有風便、故発船。到西邊澗口。
    則、雨勢■微、日又(8-18)昏黒。而十月東風、誠不可易得、是乎■。
    仍為開洋。(8-19)六船齋発。

    今月(10月)4日、午後2時ごろ、
    風の具合が良いようだったので、発船し、島の西にある谷口についた。(今の「台霞洞」か?)
    雨が激しく、日も射さずに真っ暗だったが、10月の東風は、誠に容易には得難いものであったから、海にむけて出発することにした。六隻の船が一斉に出発した。

    (ここに、Aの「出船之日・・・」の悪天の様子が入れれば入りうる。)

    子夜(夜中の12時)以前、則拳火相準。是如可。
    丑時以後(翌日午前2時以降)、(8-20)大船一隻、小船二隻、在先。
    而餘三隻、落後、日出後、応不知所(8-21)向。是乎矣。

    夜中の12時以前は、お互いに火を掲げて目じるしとしたが、
    翌日の午前2時以降、大船一隻、小船二隻が先になり、
    あとの三隻は落後して、日の出のあとは、行方がわからなくなった。

    (夜の光のほうが、互いの所在を知るにはむしろ容易で、夜が明けるとかえって視界に入らなくなってしまった、ということであろうか。司令官の張漢相は、たぶん「大船」に乗っている。)

    東風不止、初五日(10月5日)、亥(午後10時)末、直抵三陟浦口。

    東風は、やまず吹き続け、10月5日、亥の刻のおわりに(=午後11時ごろ)
    三陟の浦口に到着した。
    (4日の午後に出発して、翌5日の午後11時に到着とすれば、所要30時間前後か)

    而、落(8-22)後小船二隻、回泊於荘五里待風處。為乎於。大■<●●>。
    一方、落後した小船二隻は、荘五里の待風處に回泊していた。大■<●●>は未詳。

    (8-23)初六日(10月6日)、卯時量(午前6時ごろ)、亦為回泊於三陟浦口。為有在果。
    (落後した小船二隻は)10月6日、午前6時ごろに、また三陟の浦口に回泊した。
    (「為有在果」は、ありがたいことだ、くらいの意味か?この他にもたくさん出てくる。)

    <??>(8-24)風時、登高瞭望。
    則、清明之日、島形漂(浮?)見。水<????> 9-1)謂、遠不過七八百里。是如乎。
    今番往返倶於●<???>(9-2)可得達、則比■済州、猶有一倍之遠。是乎所。

    (ここは、よくわからない。半分は推量。)
    (三陟に着いてから)、高きに登って瞭望すると、
    良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形がはるかに見える。
    (朝鮮半島東岸の)三陟から、鬱陵島までは、七八百里にすぎない。
    いま、鬱陵島から帰ってきて、その距離を済州島と比べてみると、済州島より倍くらい遠い。
    (このあとの1702年の捜討使の李浚明も、済州島との距離を比べて、鬱陵島は済州島より倍遠いと言っている。)
    ●肅宗実録 1702年  肅宗28年5月28日
    三陟營將李浚明、倭譯崔再弘、還自鬱陵島、獻其圖形及紫檀香、靑竹、石間朱、魚皮等物。鬱陵島、間二年、使邊將輪回搜討、已有定式。而今年 三陟當次、故浚明乘船 于蔚珍 竹邊津、兩晝夜而還歸、比 濟州 倍遠云。


    <???>(9-3)度●較。是乎矣。
    (ここは不明。)

    舡之疾鈍、風之順逆、遠者■<??>(9-4)遠則又不可以●定為證。是齋。
    船のはやい、おそい、風の順逆・・・(あと不明)

    冬天風高之日、険海(9-5)跋渉、一百五十人、得保性命者、
    莫●   国家之陰佑。是(9-6)乎●。

    冬の風の強い日、危険な海を跋渉し、総勢150人の生命が保たれたのは、国家の
    陰(かげ)なる佑(たす)けがあったからこそである。

    以往返艱苦之状、不一而是而煩、不叙細陳。是斉。
    往復の艱苦の状況は、あえて細かく述べる必要もないであろう。

    (9-7)安慎徽、本以■敗之人。渇病之餘、瘡疾満身。
    乗船後(9-8)二十餘日、濕腫迭出、於両股間、勢難登●。是乎矣。

    (訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が・・・となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。

    (9-9)復命有限、●勉、擔載寸寸、前進之意、分付以送。(9-10)為乎於。
    復命までの時間が限られており、(以下不明。次のものを朝廷に送る、というような意味か)

    所謂可支魚、搏殺取皮、大中小、三領。
    篁竹五(9-11)尺許、四箇。紫檀香、二土莫。
    監封上送。於本道監営。(9-12)以為伝達、備局之地。為乎於。

    いわゆる可支魚(=アシカ)、殺して皮をとったもの、大中小、三領。
    篁竹の五尺ばかりの大きさのもの、四箇。
    紫檀香、二土莫。(「土莫」は単位か)
    以上を監封して、本道(江原道)の監営に送るので、備辺司に伝達を願う。

    捜討生木左隻一斤。
    (不明。捜討使に任命された時のシンボルの木の左側の半分? これは考えすぎか。)

    本(9-13)島圖形一本。及『輿地勝覧』一巻。并以軍官、實特上(9-14)送。為齋。
    本島(鬱陵島)の図形(地図)一本。および『輿地勝覧』一巻を、あわせて軍官にもたせて(朝廷に)上送する。

    (なぜ、あえてわざわざ『輿地勝覧』を朝廷に送るのか。朝廷に『輿地勝覧』が無かったとも思えないが・・。)

    僉使、■置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憤、(9-15)不能収拾、●不愈。
    圖形一本、於為冩出。而此䖏、畫師(9-16)絶無。
    故不得己、一行之人、依草本、費日経営。
    而、終至(9-17)書●、遅延至此。不勝惶恐。
    縁由、併以馳報事。  

    僉使(張漢相)は、三陟帰還後3昼夜、精神が疲労のあまり収拾がつきません。
    鬱陵島の地図を作成するにあたり、ここ(三陟?)には畫師(絵師)が絶無なので、
    やむをえず、一行の人の草本により何日もかけて作成しましたが、そのためこのように遅延してしまいました。恐惶にたえません。以上、報告いたします。

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  34. 中峯に登り、周囲をみるところをやってみます。
    AとBを比べながら行きます。

    A 霽雨   ■棬之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌崇相面、   此所謂三峯也。
    B 雨(6-17)霽雲棬之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、(6-18)此所謂三峯也。
    雨が晴れ、雲が巻き上がった(快晴の)日、山に入って中峯(聖人峰)に登った。
    南北の二つの峰はたかだかと向かい合い、これが、いわゆる三峯である。

    A 西望大関嶺、逶迤之狀。
    B 西望大関嶺、逶迤之狀。
    西を望めば、大関嶺(朝鮮本土の山)が、うねうねとしているのが見える。

    A 東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。 不過三百餘里。
    B 東望海中、(6-19)有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不(6-20)過三百餘里。
    東を望めば、海中に一島が有り、はるか辰方(東南方向)にある。
    その(島の)大きさは鬱陵島の三分之一未満であり、遠さ(そこまでの距離)は、わずかに三百餘里である。

    A なし
    B 而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是(6-21)齋。
    そして、南と北の方角は、両方とも杳茫として、水と天(海と空)は同じ青一色であり、その区別がつかない。
    (訳注)西と東には見えるものがあるが、南と北の両方向には海と空以外に見えるものはない。

    A              北至二十餘里、南近四十餘里、回互徃來。
    B 自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近(6-22)四十里、北至三十餘里。
    互回徃來。

    中峯から、西の海濱に至るまでは三十餘里。東は二十餘里。南は、ほぼ四十里。北は三十餘里である。ぐるっと往来ができる(?)。

    (訳注)中峯に登って、東西南北、それぞれ何里、という数え方には先例がある。
    Aだけを読んではよくわからなかったのが、Bを見ると、中峯からまわりを見ていることがよくわかる。南の方向は、海濱が見えないため「近」とあいまいな言い方になっているのだろうか。
    最後の「互回徃來」の意味わからず。(Aは「回互徃來」)ぐるっと往来ができる(?)。

    『新増東国輿地勝覧』
    (高麗)毅宗十三年 王聞 欝陵 地廣土肥 可以居民。遣溟州道監倉 金柔立 往視。
    柔立 回奏云。 島中有大山 従山頂 向東行 至海 一萬餘歩。 向西行 一萬三千餘歩。
    向南行 一萬五千餘歩。 向北行一萬餘歩。 有村落基址 七所。或有石佛 鐵鍾 石塔。
    多生 柴胡 藁本 石南草。


    A 西望遠近、■度如斯。是齊。 
    B 四望遠近、憶<●●●>。(6-23)是齋。

    四つの方角の遠近について、おしはかるに、以上のようである。

    (訳注)
    Aは西望となっているが、Bの四望が正しいようである。
    B<●●●>は、ちょうど紙の破れている部分であるが、Aを参照して、それと同じ
    「度如斯」のような文字の右側だけが残っている、とも見える。

    A 西望大谷中、有一人居基地三所。又、有人居基地、二所。
    B 西邊大谷間、有 人居基址三所。又、有<●●●●>(6-24)所

    西の大きな谷の中に、人の住んだあとが3箇所見える。
    さらにまた、別の、人の住んだあとが(2箇所見える。)

    (訳注)
    台霞洞あたりのようすが、中峯から見えたのかもしれない。

    Aの「一人居基地」(ひとりが住めるくらいの大きさの家?)が正しいと見るべきか、
    この「一」を衍字(Aが写す時にまちがえていれた)と見るべきか。
    そうすると、この二つの「人居基地」の違いは何か?
    <●●●●>は、4文字くらい入りそうだが、5文字となるとやや窮屈
    「又有<●●●●>所」は全部で7文字程度。
    「又有人居基地二所」(8文字)をそのまま入れると、やや窮屈か。

    A なし
    B 北邊長谷、又有人居基址二所。
    北の長い谷にもまた、人の住んだあとが3箇所見える。

    A 東南長谷、             亦有人居基地七所。石葬十九所。
    B 東南長<●●●>(7-1)居基址二所、西南間大谷、有基址七所、石葬<●●●>。(7-2)是齋。

    東南の長い(谷にもまた、人の)住んだあとが2箇所、
    西南の間の大谷に、住んだあとが七所、石葬が<●●●>見える。
    <●●●>は、Aを使えば、「十九所」

    (ここで、この話は切れる)
    (次に)
    舡泊處は、則ち・・・


    Aではわからなかったことが、Bにより随分良く分かります。またBの破れた部分をAにより補うことが出来ます。

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  36. Basically my question is from the report on 1694.10.15"肅宗 20년" as follows;
    司啓辭三陟僉使張漢相, 去月十九日發船到蔚陵島, 今月初六日還到三陟, 初九日使其軍官持馳報備邊司文狀及地圖來納, 當此風高之節, 行中員役皆得無事回來, 誠爲多幸, 張漢相上送報狀及地圖, 竝爲封進, 以備睿覽之意, 敢啓, 答曰, 知道。

    The record clearly states the date but "A"had no detailed date description so I wonder which record was quoted for the record on 10.15 above.
    Then I found "B" ,describing same date with report above, in addition, I can easily understand about Ulluengdo geography reading B but it was difficult to understand when reading from "A".
    I felt "A" seems to be kind of "Memoir回顧録" coz it is litereture style and not date description on the other hand "B" seems the reported document itself, or the copy from the reported document.

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  37. (6-2)是呼乃覆「没」之患

    (6-3)天又向曙「而」島

    (6-4)甦醒「盡(ジン、つくす)」力櫓役「輾(テン、めぐる)」「轉(テン、ころがる)」向島巳時量「艱(=困難)」到島之南

    (6-6)(6-6)南洋稍々来到而卜舡叚不知「所」向是如乎酉時量

    (6-7)「又」「自」南洋西至各舡倶涛免「恙(=事故)」南岸無可舡泊「處」

    (6-8)己仍乎同日初昏「回」泊于東南間「洞」「々」内「也」宿「渡」自

    (6-9)二十一日至十月初三日留住之間「恒」「雨」少日九月二十八九

    (6-10)日「雨」雪

    (6-11)乗船環審則「懸」崖

    (6-12)處「澗」水成流以是大「旱(ひでり、または陸)」不

    (6-13)不可弾記是齋蓋其周「回」二日

    (6-14)不過百五六十里之地是乎於南邊海濱有「篁(=竹林)」竹田三所

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  38. (6-15)東西北三方亦有「篁」竹田十一「処」「是」遣東方五里許

    (6-16)有小一島不甚高大而「×」「×」海長竹叢生扵一面是齋両

    (6-19)有一島杳在辰方而其大未満欝島三分之一遠不「×」

    (6-20)過三百餘里而南「北」西方「則」杳茫無際水天一色是

    (6-22)四十里北至三十餘里西面「互」「回」「往」来四望遠近「臆」「度」

    (6-24)所北邊長谷又有人居基祉二「所」東南長

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  39. GTOMRさんの紹介された備辺司謄録

    備辺司謄録 粛宗20年10月15日

    http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=bb_048_001_11_2750

    숙종 20년 甲戌十月十五日
    鬱陵島地圖
    司啓辭三陟僉使張漢相, 去月十九日發船到蔚陵島, 今月初六日還到三陟, 初九日使其軍官持馳報備邊司文狀及地圖來納, 當此風高之節, 行中員役皆得無事回來, 誠爲多幸, 張漢相上送報狀及地圖, 竝爲封進, 以備睿覽之意, 敢啓, 答曰, 知道。

    비변사에서 아뢰기를
    "삼척첨사 장한상(張漢相)이 지난달 19일 배를 띄워 울릉도에 도착하고 이달 초6일 삼척에 돌아왔습니다. 초9일 그 군관을 시켜 비변사에 치보(馳報)할 문서 및 지도(地圖)를 갖고 와서 바쳤습니다. 바람이 센 계절을 맞이하여 일행 원역(員役)이 모두 무사히 돌아왔으니 참으로 다행한 일입니다. 장한상이 올려 보낸 보고서 및 지도를 아울러 봉하여 올려 예람(睿覽)에 대비함을 감히 아룁니다."
    하니, 알았다고 답하였다.

    (試訳です)
    備邊司から申し上げるには、
    「三陟僉使の張漢相が先月の十九日に發船して蔚陵島に到り今月の六日に三陟に還到しました。九日にその軍官に命じて馳報の文狀と地圖を持たせて來て、これを備邊司に納めました。この風の強い季節に當たり行中の員役が皆な無事に回來することを得て誠に多幸です。張漢相が上送した報狀と地圖をあわせて封進し以て睿覽之意に備えます。」
    と申し上げた所、「わかった。」と答えた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    というわけで、
    10月6日に三陟に帰ってきた張漢相は、9日には、その報告書と地図を軍官によって備邊司に届けているのが確認されます。
    それは、粛宗も「睿覽」となっています。
    この報告が10月15日付けですから、粛宗が見たのは、その直後でしょうか。

    この「馳報」が、Bのもとになった「報告書」なのでしょうか。

    そして、この「地図」はどうなってしまったのでしょうか?

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    なお、この捜討をめぐって、張漢相が罷免の危機にあっていたようです。

    前記 GTOMRさん紹介の備辺司謄録の7日後に次の記事があります。

    備辺司謄録
    鬱陵島往來船隻
    숙종 20년 甲戌十月二十二日

    http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=bb_048_001_11_2810

    今十月二十一日大臣•備局堂上引見入侍時領議政南所啓, 卽接江原監司啓本, 則三陟僉使張漢相, 鬱陵島往來船隻造成之際, 差使員分定雜物, 未免有過濫之弊, 竝與漢相而論罪矣, 第聞江原道沿海各邑, 曾無體大船隻造成之事, 故其所任使之人, 猝然當之, 事多生疏, 許多雜物, 旣難斟酌, 則設有濫傷之弊, 元無大段深咎之事, 且漢相乘危涉險, 往來於累朝所不通之地, 雖不必以此爲渠之功勞, 亦不必以微細之事, 輒加譴責, 況以差員生疏之罪, 竝及於僉使, 似涉至 (過) 重, 張漢相合有容恕之道矣, 上曰, 差使員則固有濫徵之罪, 而至於竝罷張漢相, 則實涉過重, 勿罷可也。

    이달 21일 대신과 비국당상을 인견 입시하였을 때 영의정 남구만(南九萬)이 아뢰기를
    "방금 강원감사의 계본(啓本)을 본즉 삼척첨사 장한상(張漢相)이 울릉도를 왕래할 배를 조성할 때에 차사원(差使員)이 잡물을 배정하였으니 지나친 폐단이 아닐 수 없으므로 장한상과 아울러서 파직이 되어야 한다고 논하였습니다. 들은즉 강원도 연해 각 읍에는 본래 몸통이 큰 배를 조성한 일이 없었으므로 책임을 맡은 사람이 갑자기 담당하여 일에 생소한 점이 많다고 하였습니다. 허다한 잡물을 짐작하기가 어려웠을 것이나 설령 범람한 폐단이 있었을지라도 본래 대단히 허물할 일은 없습니다. 또 장한상은 위험한 배를 타고 험한 바다를 건너 여러 세대 불통인 곳을 왕래하였습니다. 비록 굳이 이것을 그의 공로로 삼을 것은 없으나 또한 미세한 일로 곧 견책을 가할 필요는 없습니다. 더구나 차사원의 생소한 죄로 인하여 아울러 첨사에게까지 미침은 과중한 듯하니, 장한상에게 관용하는 일이 있어야겠습니다."
    하니, 임금이 말하기를
    "차사원에게는 진실로 지나치게 거둔 죄가 있으나 장한상까지 아울러서 파직하는 문제에 있어서는 실로 과중하니 파직치 않는 것이 좋다."
    하였다.

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  40. 朴世堂について、Yahoo! Koreaの記事を翻訳します。誤りがありましたら、ご教示下さい。

    http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?subtype=enc&pk=13718300&field=id&p=%EB%B0%95%EC%84%B8%EB%8B%B9

    朴世堂 박세당 1629∼1703 (仁祖7~肅宗 29)

    朝鮮中期の学者・文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は潘南。
    1660年(顕宗1)(31歳頃)、増広文科に壯元(首席)で合格し、成均館典籍に叙授された後、礼曹佐郎、兵曹佐郎・正言などを経て、
    1664年(35歳頃)、副修撰である時、黄海道暗行御史になった。
    1667年(38歳頃)、修撰。翌年、吏曹佐郎になったが、就任せず、杖刑を受けた後、同じ年、冬至使書状官として清国を往復した。
    その後、礼曹・刑曹の参議を経て、
    1694年(肅宗 20) (65歳頃)の甲戌換局以後、少論が重用されると、承旨に特進し、
    翌年、工曹判書を経て、吏曹判書・刑曹判書を勤めた。(注:「判書」は大臣)

    1703年(74歳頃)、判中樞府事で耆老所に入ったが、《思辨録》を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、「斯文乱賊」のレッテルを貼られ、官職を削奪されて配流の途中、玉果で死んだ。すぐに李寅燁の上訴により伸寃になった(罪がはれた)。

    彼の学問と思想は、当時、丙子胡乱と朋党政治の激化で国力が弱化し、民生は塗炭の苦しみに落ちていた時期を背景とする。朋党政治に対する嫌悪と、改革意識をもとに成立しており、当時の統治理念である朱子学を批判し、中国中心の学問的態度に懐疑的で、政治・社会に対する改革意識が著しかった。対外政策においては、崇明排清をやめ、親清政策により実利を追い求めることを主張した。
    このように、実学派の先駆け的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点で出発したが、 自主意識が強く、自由奔放な独創性を持っていた。著書に 《西渓先生集》 《思弁録》 《南華経註解刪補》 《穡経》 《山林経済》 などがある。諡号は文貞。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (翻訳終わり)( 朴世堂の年齢は私が入れてみました。誕生日がわかりませんが・・・)

    1694年(肅宗 20)の9月~10月に張漢相が鬱陵島に派遣されたころには、朴世堂は権力の中枢近くにいたことになり、その報告書に直接接する機会があったと思われます。また、朴世堂は、前掲のように、当時の領議政(総理大臣)であった南九萬の、妻の兄弟でした。

    「甲戌換局」は1694年(肅宗 20) の4月におこった政変。「南人」政権から「少論」政権に変わる。背景に「張禧嬪」と「廃妃閔氏」の対立。この政変で「張禧嬪」側が凋落し、「少論」の南九萬などが執権した。


    なお、この朴世堂についてのYahoo! Koreaの記事は、すでに2008年1月に半月城氏のサイトで紹介されています。
    http://www.han.org/a/half-moon/hm130.html#No.953
    「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2008.1.3 Yahoo!会議室「竹島」No.16083
    (注4) 朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)

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  41.  matsuさん御紹介の文献にまでは頭がまわりませんので、ひたすら漢字の判読を続けます。


    (7-1)居基「址または地」ニ所西南間大谷有基「址または地」七所石葬

    (7-5)之制也鼎則無「足」無盖其大可炊二斗米釜則廣經

    (7-7)川沿邊開豁此「處」為最而所泊舡「處」可避東南北

    (7-8)風而西風則難避「之」「非」船泊之所而又有一鼎可容

    (7-9)斗米之炊而「無」是彼物是乎於北邊浦岸上有轆


    (7-13)積年空棄之地人遮不到故藤葛磐「結」有難排


    (7-15)所謂樹木盡是冬栢紫「檀」「側」栢黄「蘗(きはだ)」金椢木嚴

    (7-16)木槐木「椵」木桑楡楮椒楓檜樹栢之類而其中

    (7-17)冬栢紫「檀」最多是乎於松木真木欅橡小木暇


    (7-19)之屬是乎所既無人居又無木「宲」可食而然是乎喩

    (7-20)亦甚可怪是齋水族則只有可支魚而沿邊石堆「處」

    (7-21)或十或百成「群」穴居大如駒犢小如犬豕是乎於間有

    (7-22)生鰒「之」「附」諸「山」「名」磧者軆小而味薄是齋四方浦邊

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  42. kaneganeseさん、

    (6-16)と(6-19)の「×」はそこに文字が無いという意味なので、削除お願いします。

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  43. matsuさん

    大変興味深い情報をありがとうございます。鬱陵島検察が予算としても、そして航海としても大変困難を極める大事業であったことが窺えますね。何故、李朝初期に鬱陵島に賦役等を逃れるために人々が流入したのか、そしてどうして朝廷が鬱陵島を空島としたのか、よく分かります。韓国人がこうした資料を読んで、年に数回晴れた日に高いところに上ってようやく先端が見えることがある、鬱陵島のはるか92km先の日本側にある竹島を、現代の常識をあてはめて「朝鮮時代から鬱陵島の付属島嶼としていたはずだ」とすることがいかに愚かしいことか、気が付いてくれるといいですね。

    朴世堂についても、1694年にはまさに権力の中枢にいたわけで、張漢相の報告書を直接手にする機会があったと推測されます。そのことから、この資料の価値が大変高いことが分かります。これがいつごろ誰によって書写されたのか、もっと具体的に分かるといいですね。柳氏の論文を翻訳してくださった中に、「朴世堂の文章は、2001年に、11代の子孫が、蔵書閣に「西渓・・古文書」を寄託し、世に知られるようになった」とありますが、蔵書閣とは、どこなのでしょうか?

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  44. chaamieyさん

    了解しました。

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  45. (8-5)路此必取竹泩來之逕是齋大抵環一島皆「石」山四面壁

    (8-6)立而少有罅缺「處」則兩崍成間流水潺湲而已只一

    (8-9)寬豁䖏猶可開墾是乎於至扵殘山平「夷」「處」或有人

    (8-11)居「而」落棄成土人遮「不」到者又不知其幾百年是乎於


    (8-15)字之状則可想其「年」「久」是乎「於」且釜「鼎」之或破或完者

    (8-16)「銹(さび)」生其蝕意非近年之所置是齋卒月初四日未時

    (8-17)「量」似有風便故発船到西邊間間則「雨」勢「霏(もや)」「徴」日又

    (8-18)昏黒而十月東風誠不可易●是乎「恵」仍為開洋

    (8-20)大船一隻小船二隻在先而餘三隻落「後」日出「後」●「不」知所

    (8-21)向是乎矣東風不「止」初五日亥末直抵三陟浦口而落

    (8-22)「後」小舡二隻面泊於荘五里待風處為乎於大船 

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  46. (8-24)風時登高瞭望則清明之日島形「浮」見水

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  47. (4-16)「止」泊是乎


    (9-1)謂遠不過七八百里是如乎今番「往」返倶●●


    (9-6)乎「等」「以」「往」返状不一

    (9-7)安慎徽卒以裏敗之人渇病之餘瘡疾満身乗船凌(「後」)

    (9-8)二十餘日濕腫迭出於「両」「股」間

    (9-12)以為伝達●局之地為乎於捜討生木圧隻一「片」卒

    (9-15)不能収拾●不愈圖形一卒於為冩出而此「處」書師

    (9-16)絶無故不●己一行之人依草卒費日経営絵而終至


    2回目終了。これくらいが限界です。

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  48. chaamieyさん

    ありがとうございます。お疲れ様でした。

    これから最終解読分を書き入れますが、問題が無ければ明日の夜に、かっこを外して完成させようと思います。

    申版の報告書と比較するためにmatsuさんの分析法を採用させて頂こうと思います。

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  50. kaneganeseさん、

    多少なりとお役に立てば幸いです。

    一つ追加します。

    (6-3)水勢東「往」

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  51. (3-9)順風二隻一「時」

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  52. (5-5)多有其種云元非稀貴之物之齋苧枝折「蓋(おおう)」「叢(くさむら)」

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  53. 「藏書閣」について

    韓国の2か所のサイトを翻訳します。「書き換え」の可能性があるので原文も残しておきます。間違いを発見されたらご教示ください。
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    http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9E%A5%EC%84%9C%EA%B0%81

    장서각(藏書閣)은 현재 한국학중앙연구원에 부속된 한국학 전문 도서관이다. 원래는 1918년 창덕궁에 설립된 조선 왕가의 여러 도서 자료들을 모은 서고가 왕실도서관으로 설립된 이름이였다.

    藏書閣は、現在、韓国学中央研究院に付属する韓国学専門図書館である。元来は、1918年、昌徳宮に設立された、朝鮮王家のいろいろな図書や資料を集めた書庫が、王室図書館として設立された名称であった。

    원래 왕실도서관의 기능을 담당한 규장각은 구한말 그 기능이 축소되었다. 1864년 고종이 즉위하자 규장각에 소장된 어제(御製), 어필(御筆), 선원보첩(璿源譜牒)등은 종친부로 이관되었다. 또한 1868년에 경복궁이 중건되면서 많은 서적들이 다시 종친부로 넘어 오게 되었다.

    元来、王室図書館の機能を担当した奎章閣は、旧韓末、その機能が縮小された。1864年、高宗が即位すると、奎章閣に所蔵されていた御製、御筆、璿源譜牒などは、宗親府に移管された。また、1868年に景福宮が重建されて、多くの書籍はまた宗親府に移された。

    1908년에 대한제국의 궁내부는 규장각 기구를 개편하여 전모과,도서과,기록과,문사과를 설치하고 규장각,홍문관,집옥재,춘방등의 서적을 정리하여 사간동 인수관으로 옮겼다. 1909년에는 이러한 장서들 10만여권을 제실도서라 명명하여 제실도서관을 건립하고자 하였으나 실현되지 못했다.

    1908年、大韓帝国の宮內府は、奎章閣の機構を改変し、典謨課、図書課、記録課、文書課を設置し、奎章閣、弘文館、集玉齋、春坊などの書籍を整理し、司諫洞 仁壽館に移した。1909年には、こうした蔵書10万余巻を帝室図書と命名し、帝室図書館を建立しようとしたが、実現しなかった。

    1911년 2월 이왕직관제가 설치되고 6월에 적상산사고본의 실록 5,519책과 선원보각의 자료들과 흩어진 전적을 수집하여 이왕직장서각을 건립하였다. 1915년에는 창덕궁 낙선재에 4층건물을 지어 이관하였으며 1918년 신축서고의 편액을 장서각이라 지었다.

    1911年2月、李王職官制が設置され、6月に赤裳山史庫本の実録5519冊と璿源寶閣の資料など、そしてばらばらになっていた典籍を収集し、李王職藏書閣を建立した。1915年には、昌徳宮 樂善齋に4層の建物を建てて移管し、1918年、新築書庫の扁額を「藏書閣」と掲げた。

    1945년 미군정청은 이왕직을 구왕궁사무청으로 개편하고 장서각도서를 관장하게 하였다. 6.25사변동안 많은 도서가 소실되었으며 이때 적상산사고본 조선왕조실록 1,760권 900책을 북한으로 반출해 갔다.

    1945年、米軍政庁は、李王職を旧王宮事務庁に改編し、藏書閣図書を管掌させた。6.25事変(訳注:朝鮮戦争)の時は、多くの図書が焼失したが、この時、赤裳山史庫本 朝鮮王朝実録1760巻900冊を北朝鮮に搬出していった。

    1955년 6월에 창경원사무소로 관리가 이관되었으며 1969년에는 문화재관리국 장서각사무서가 신설되어 관리를 맡게되었다.

    1955年6月に、昌慶苑事務所に管理が移管され、1969年には文化財管理局藏書閣事務所が新設され、管理を担当するようになった。

    1981년 대통령령 제10,588호 '문화재관리국직제개정령'에 의해 한국정신문화연구원으로 이관되었다.

    1981年、大統領令第10588号、「文化財管理局職制改訂令」により、韓国精神文化研究院に移管された。

    조선왕조의 왕실족보류,어제어필류, 왕실탁본자료,왕실고문서류, 군영자료,구한말의 한글소설등 8만여 책에 달하는 다양한 한국학관련 자료들이 소장되어 있다.

    朝鮮王朝の王室族譜類、御製、御筆類、王室拓本資料、王室古文書類、軍営資料、旧韓末のハングル小説など、8万余冊に達する多様な韓国学関連資料が所蔵されている。

    경기도 성남시 분당구의 1981년에 건축된 지상 2층 지하1층 규모의 건물에서 자료를 보관하고 있으며 일반도서 및 마이크로필름자료의 열람이 가능하다.

    京畿道城南市盆唐区に、1981年に建築された地上2階、地下1階規模の建物に、資料を保管しており、一般図書およびマイクロフィルム資料の閲覧が可能である。


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    二つ目です。やや情報に違いがあります。

    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?i=183072#

    장서각 [藏書閣]

    1911년에 설립된 도서관.
    1911年に設立された図書館

    이왕직도서관(李王職圖書館)이라고 한다. 조선시대에는 책•문서들을 보관하도록 궁궐에 여러 전각들을 세웠는데, 세종 때는 집현전, 세조 때는 홍문관, 정조 때는 규장각 등이 있었다.

    李王職圖書館と言う。朝鮮時代には、書籍・文書などを保管するため、宮殿にいろいろな殿閣を建てたが、世宗時代には集賢殿、世祖時代には弘文館、正祖時代には奎章閣などがあった。

    한말 고종 때 규장각•홍문관•집옥재(集玉齋)•춘방(春坊)•4사고(四史庫) 등에 있던 책들을 사간동(司諫洞)에 있는 인수관(仁壽館)으로 옮기고 서고를 새로 지어 장서각을 세우고자 했으나, 1910년 한일합병으로 중단되었다.

    韓末、高宗時代、奎章閣・弘文館・集玉齋・春坊・四史庫などにあった書籍を、司諫洞(訳注:地名)の仁壽館に移し、書庫を新たに建てて藏書閣を作ろうとしたが、1910年の韓日合邦で中断された。

    일제강점기 조선총독부는 황실령 제34호에 의거하여 새로 이왕직관제를 정하면서, 규장각이나 사고의 서적들을 이왕직도서관에서 관장하게 했다.
    日帝協占期、朝鮮総督府は、皇室令第34号に依拠し、新たに李王職官制を定め、奎章閣や史庫の書籍を李王職圖書館に管掌させた。

    그러나 실제로는 총독의 명령에 따라 모든 도서들을 조선총독부 취조국(取調局)으로 옮겼다.

    しかし、実際には、総督の命令により、すべての図書を朝鮮総督府取調局に移した。

    이로 인해 이왕직에서는 그밖의 서적, 즉 각 군영에서 모은 구위대(九衛隊) 수장도서들과 창덕궁 선원전에 있던 책들을 따로 보관해 두고, 여기에 새로 책들을 모아 1911년 6월 19일 '이왕직장서각'을 설립했다. 1918년 서고 이름을 '장서각'으로 지었다.

    これにより、李王職には、その他の書籍、すなわち、各軍営で集めた九衛隊収蔵図書や、昌德宮璿源殿にあった本を別に保管しておき、そこに新たに本を集め、1911年6月19日、「李王職藏書閣」を設立した。
    1918年、書庫の名前を「藏書閣」とした。

    1937년 이왕직박물관이 덕수궁으로 옮겨진 뒤 그 남은 자리인 창경궁 영춘헌(迎春軒) 북쪽으로 옮겨졌다.

    1937年、李王職博物館が德壽宮に移ったあと、その跡地である昌慶宮迎春軒の北側に移された。

    1948년에 미군정은 이왕직을 구왕궁사무청(舊王宮事務廳)으로 개편해 장서각을 관장하게 했다.

    1948年に、米軍政は、李王職を舊王宮事務廳に改編し、藏書閣を管掌させた。

    1955년 장서각을 구왕궁사무청 대신 창경원사무소에서 관리하도록 했으며, 1961년 9월 13일 처음 일반인에게 공개되어 열람이 허용되었다.

    1955年、藏書閣を、舊王宮事務廳にかわり昌慶苑事務所に管理させるようにし、1961年9月13日、初めて一般人に公開し、閲覧が許容された。

    1969년 11월 5일 대통령령 제4263호에 의거해 다시 문화재관리국으로 권리가 넘겨졌다가, 1981년 11월 5일 대통령령 제10588호에 의거해 장서각 도서 모두가 한국정신문화연구원 도서관으로 옮겨졌다.

    1969年11月5日、大統領令第4263号により、ふたたび文化財管理局に管理が移ったが、1981年11月5日、大統領令第10588号に依拠し、藏書閣の図書すべてが、韓国精神文化研究院図書館に移された。

    책들은 주로 왕실관계의 귀중한 자료들로, 조선태조호적원본(朝鮮太祖戶籍原本)•조온정사공신녹권(趙溫定社功臣錄卷) 등의 고문서류, 어제류(御製類)나 금•은•옥•죽으로 만든 책문류(冊文類)•종친류(宗親類) 등의 왕실관계 자료, 각 사의 등록(騰錄)•일기•의궤류(儀軌類), 관안(官案)•방(榜)•보류(譜類), 도형류(圖形類)•궁체(宮體)로 씌어진 한글소설류 등이 보관되었다.

    書籍は、主に王室関係に貴重な資料であり、朝鮮太祖戶籍原本、趙溫定社功臣錄卷などの古文書類。御製類や、金・銀・玉・竹で作った冊文類、宗親類などの王室関係資料。各司の騰錄・日記・儀軌類。官案・榜・譜類。圖形類•宮體(訳注:朝鮮時代の宮女たちが書いたやわらかく端正なハングルの書体)で書かれたハングル小説類などが保管されてきた。

    총 도서수는 한국본 1만 2,297종 4만 2,562권, 고문서 3,729종 5,184권이다. 그밖에 중국본 1,151종 2만 7,313권, 일본본 1,431종 1만 3,662권이다.

    総図書数は、韓国本1万2297種、4万2562巻。中国本1151種、2万7313巻。日本本1431種、1万3662巻である。

    장서각은 여러 차례 가지고 있던 책들에 대한 도서목록을 정리해 〈이왕가도서실장서목록 李王家圖書室臧書目錄〉(1914)•〈이왕가도서목록 李王家圖書目錄〉(1918)•〈이왕가장서각고도서목록 李王家臧書閣古圖書目錄〉(1924, 1935)•〈장서각도서중국판총목록 臧書閣圖書中國版總目錄〉(1972)•〈한국판보유편 韓國版補遺篇〉(1972) 등을 편찬했다.

    藏書閣は、数次にわたり、所蔵する書籍について図書目録を整理し、「李王家圖書室臧書目錄」(1914)、「李王家圖書目錄」(1918)•「李王家臧書閣古圖書目錄」(1924, 1935)、「臧書閣圖書中國版總目錄」(1972)、「韓國版補遺篇」(1972)などを編纂した。

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  54. 『朴世堂・・古文書』は、『朴世堂 宗宅 古文書』でした。
    「宗宅」は、日本で言う「本家」「分家」の「本家」にあたる言葉だと思います。韓国の関連サイトを翻訳します。

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    http://www.nomadbook.co.kr/shop/shopdetail.html?brandcode=017011000061&search=&sort=brandname

    『西渓  朴世堂 宗宅 古文書』
    朴世堂と思われる肖像画があります。



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    http://koreandb.nate.com/square/hankuk/info?pos=info&sn=0&psn=

    반남박씨가의 고문서(潘南朴氏の家の古文書)
    반남박씨서계종택(潘南朴氏西渓宗宅)

    여기 소개하는 고문서 및 기타 자료는 의정부 반남박씨가(서계종택)에 대대로 전해오던 고문서로, 서계 박세당의 11대손인 박찬호 씨가 한국학중앙연구원에 기탁한 것입니다.

    潘南朴氏の家の古文書
    潘南朴氏西渓宗宅
    ここに紹介する古文書及びその他の資料は、議政府潘南朴氏家(西渓宗宅)に代々伝わってきた古文書で、西渓 朴世堂の11代の子孫である朴チャンホ氏が、韓国学中央研究院に寄託したものである。

    이 자료는 경기도 북부지방에서 전해지는 거의 유일한 고문서로, 아직 학계와 일반에 공개되지 않은 서계의 친필 묵적과 각종 유문의 초고들을 비롯하여, 고문서 약 200여점, 고서 150여책, 초상화 4점 으로 구성되어 있습니다.

    この資料は、京畿道の北部地方で伝えられてきたほぼ唯一の古文書で、まだ学界や一般に公開されていない西渓の親筆の墨跡と各種の遺文の草稿をはじめとして、古文書約200余点、古書150余冊、肖像画4点からなっている。

    300년 세월 속에서도 고스란히 보존되어 후인들의 눈길을 기다려 왔던 이 자료들 중에서도, 특히 박세당의 홍패와 시권, 그의 아버지 박정의 교서는 보물급에 해당하는 내용과 품격을 지니고 있습니다.

    300年の歳月の中、そっくりそのまま手付かずに伝えられ、後人たちの目に触れるのを待っていたこの資料のなかでも、特に 朴世堂の紅牌(訳注:文科の会試に合格した人に与えた赤い紙の合格証)や詩巻、彼の父親である朴チョンの校書は、国宝級にあたる内容と風格を持っている。

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  55. matsuさん

    情報とその翻訳、ありがとうございました。つまりはこの『西渓雑録』は朴世堂の真筆になるのでしょうか。だとすると、第一級資料ですね。

    ”1911年2月、李王職官制が設置され、6月に赤裳山史庫本の実録5519冊と璿源寶閣の資料など、そしてばらばらになっていた典籍を収集し、李王職藏書閣を建立した。1915年には、昌徳宮 樂善齋に4層の建物を建てて移管し、1918年、新築書庫の扁額を「藏書閣」と掲げた。”

    悪辣な日帝総督府の仕業でしょうか?

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  56. 親筆(朴世堂本人が直接書いたもの)かどうかは、わかりません。
    また、「300年の歳月の中、そっくりそのまま手付かずに伝えられ」とあるのも、翻訳しておいて言うのも何ですが、そのまま受け取っていいのかどうかも分かりません。

    このあたりは、柳美里論文にあった、
    「朴世堂の文章は、2001年に11代の子孫が蔵書閣に「西渓宗宅古文書」を寄託し、世に知られるようになったが、これまでは概要が紹介されていたのみで(注9)、全文が翻訳されたことはなく・・・・」
    (注9)キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル『鬱陵島・独島 歴史地理史料研究』韓国海洋水産開発院 2006 p124参照

    この「概要を紹介」したという(注9)論文に詳しいのかも知れませんが、この論文は、ネットではつかまえられませんでした。

    しかし、 張漢相の鬱陵島捜討が1694年、朴世堂が死んだのが1703年で、少なくともそれまでには『西渓雑録』は成立していたと思われますから、このテキストの筆写年代はさておき、(これも何代目かの子孫が書き写したものかも知れませんが)、同時代の人が残した、非常に貴重な資料であると言えると思います。


    ところで、肅宗実録に、張漢相が鬱陵島に「土地の具合を調べるためソバを植えた」という話がありますが、この部分が、先の、A、B、ともにありません。
    「ソバを植えた」話がのっている文献が、別にあったのかもしれません。

    肅宗実録(肅宗20年8月14日己酉)
    漢相、以九月甲申、乘舟而行、十月庚子、還至三陟。言倭人往來固有迹、而亦未嘗居之。地狹多大木、水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也】亦不平、 艱於往來。
    「欲知土品、種麰麥而歸。 明年復往、可以驗之。」

    ここには、「来年、また行って確かめてみよう」とありますが、それはたぶん実現しなかったのでしょう。
    あるいは、これは単に口頭の報告だったのかもしれません。


    それにしても、『承政院日記』に、「張漢相の報告」について、何か載っていても良いように思いますが、どうなのでしょうか。

    A 申光璞書「蔚陵島事蹟」
    B 朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」
    これらは、ともに、いわば、単なる「私人の記録」であって、「朝鮮王朝としての正式の記録」ではありません。

    『承政院日記』に無いとすれば、この「東南方向に島がある」という張漢相の情報自体が、当時の朝廷の関心をまったく引かなかったことになります。

    ましてや、この「東南に見える島」が、「新羅以来の朝鮮の領土である于山島」であるというような認識を、張漢相も、当時の朝鮮王朝の朝廷も、まったく持っていなかった、ということを逆に証明しているのではないかと思います。

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  57. (4-8)「得」登山是齋三十日丑時還逢東風還為発舡而

    (4-13)「得」済為有在果所謂柱風夲来東風故舡隻如飛 

    (4-14)九月初一日戌時量幸「得」還泊是乎於往還道里

    (4-22)一晝二夜之間方可「得」達是如為臥乎所地理誌輿地

    (8-18)昏黒而十月東風誠不可易「得」是乎恵仍為開洋

    (9-2)可「得」達則此諸済州猶有一倭之遠是乎所


     上の「得」を充てた字は皆同一の文字で、見た目にはなかなか「得」には見えないのですが、意味からするとどうも「得」(~するを得た。~するを得なかった。)のように思われます。

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  58. 最初の部分を解釈してみます。

    この部分は、柳美林女史の言う4つの内容のうち、「1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容」の部分ですが、こうして全文が紹介されたのは、日韓を通じて初めてではないでしょうか?
    (あるいは、もうすでに、どこかに柳美林による翻刻と翻訳が、載っているのかもしれませんが。)

    Chaamieyさんが、ここまで読んで下さったので、ようやくおぼろげながらわかってきました。Chaamieyさんが、ご自分の解釈を示されるかな、と思ってしばらく待ってみましたが、とりあえず、試訳してみます。例によって、これは、私の一つの解釈ですので、みなさまのご意見を聞かせてください。

    紙の破れの部分、<???>であらわされていますが、数が多くないようでいて、これがなかなか難物です。これのために意味が取れなくなる所が、かなりあります。
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    (3-1)江原道三陟鎮営将、為馳報事。
    江原道の三陟鎮の営将が速報する。

    嶺東・嶺南、既<??>(3-2)海舡隻。乙仍于。不得己新造。為乎矣。

    嶺東(江原道)や嶺南(慶尚道)には、既(既存の)・・・(船が無いので)、やむを得ず、(船を)新造した。
    3-2-4 ?→乙

    (訳注)備辺司謄録10月22日付(前掲)の、張漢相が罷免されそうになった事件から見て、張漢相は鬱陵島行を前に、船を新造したのではないかと推定される。


    物力不齋、畢得未(3-3)易、而八月已半、風高可慮。?不喩舡造間、海路遠近、(3-4)偵探之意。

    物資も人力も整わず、(船の新造工事は)容易には終わらなかったが、
    すでに8月も半ばとなり、風が強くなることが憂慮されるので、
    新造船を作っている間、海路の遠近を偵探することにした。
    3-2-20 後→得
    3-2-21 末→未
    3-3-12 ?→不

    曽己面禀、為有■、擇取、此處、軽快漁小舡(3-5)二隻、給其格粮、而、土着軍官中一人、差定渡海。為有(3-6)如乎。

    そこで、すでに直接命じていた通り(?)(不明)、
    此處(三陟)の、軽快な小さな漁船二隻を徴発して、それぞれ水夫と食糧を与え、土着の(三陟の)軍官の中の一人に命じて、(鬱陵島に)渡海させた。

    3-4-11 小以→■(何の字かわからないが、一文字)
    3-4-12 捧→擇か?
    3-4-16 処所→處
    「捧取」は「擇取」=「徴発する」のような意味か

    軍官・崔世哲、回還言内矣。
    軍官の「崔世哲」は、帰って来て次のように報告した。
    (以下、軍官「崔世哲」の報告)

    身依分付、去月十六日(3-7)乗舡。而二隻、其沙格、営下待風。為如可。
    命令を受け、先月(8月)16日に乗船しました。二隻とその水夫は、三陟鎮の陣営で風待ちをしました。

    十八日。本鎮前洋(3-8)八十里許、荘五里津頭、止宿。
    8月18日、本鎮(三陟鎮)の前洋、八十里ばかりにある「荘五里」の港まで行き、宿泊しました。
    3-7-19 卒→本

    一日後、二十日、酉時量、幸得(3-9)順風、二隻、一時掛帆、開洋。

    (荘五里港で)一日を過ごしたあと、8月20日の夜6時ごろ、幸いにも順風を得たので、二隻が一斉に帆をかけて出港しました。
    3-8-22 将→得

    経夜行船。翌日、日未出時、一(3-10)点島形、宛然於雲際矣。日出後、雲水徴茫、不見(3-11)其形。

    夜じゅう船を走らせ、翌日(8月21日)の日の出前に、一つの島の形が、雲のきわにはっきりと見えました。(しかし)日の出の後には、雲と海ばかりがぼんやり見えるだけで、島の姿は見えなくなってしまいました。
    3-9-11 ?→経
    3-10-12 凌→後

    而、向東行舡之際、酉時量、驚涛蕩舟、十餘里(3-12)間、幾不能渡、意謂水臽而然。是如乎。
    そのまま東に船を走らせましたが、夜の6時ごろ、驚くほど大きな波が船を襲い、10余里(4キロあまり)のあいだ、船をあやつることができなくなりました。これがいうところの「水臽」(みずのあな)というものではないかと思います。

    3-12-9、10 八日→臽(カン 小さい落とし穴 あな)

    (訳注)『肅宗実録』に、水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也】とあるのと同類のものか。
    肅宗実録(肅宗20年8月14日己酉)
    漢相、以九月甲申、乘舟而行、十月庚子、還至三陟。言倭人往來固有迹、而亦未嘗居之。地狹多大木、水宗【海中水激處, 猶陸之有嶺也】亦不平、 艱於往來。欲知土品、種麰麥而歸。 明年復往、可以驗之。


    戌時量、又値怒涛(3-13)排空。此亦水臽之一派。是齋。又経一宿。

    夜8時ごろ、また大きな波に襲われたが、これまた「水臽」の一派でしょう。また一夜を(船中で)過ごしました。
    3-13-6 百→臽(カン 小さい落とし穴 あな)
    3-13-9 流→派

    二十二日、卯時量、(3-14)有一泰山、壁臨。舡頭意謂、頃刻可到。

    8月22日、朝6時ごろ、大きな山が絶壁のようにそそりたつ姿が見え、船頭が、そろそろ(鬱陵島に)着いても良いころだと言いました。
    3-14-11 項→頃

    而、波浪汹湧、帆(3-15)播無力、出入進退之間、自致遲延。
    未時量、菫菫得到(3-16)、其島北岸。

    しかし波は荒れており、帆の力は無力で、行ったり来たりしているうちに、ずいぶんと時間がかかってしまいました。
    ようやく、午前10時ごろ、島の北岸に到着しました。
    3-15-18,19 ●●→菫菫

    則、地勢絶険、舡舶所極難。乙仍于。就、其(3-17)風残處、暫時下陸。

    (島の北岸の)地勢は絶険で、船を着けるのが極めて困難でした。
    そこで、風がおさまったところで、しばし上陸しました。
    3-16-15 ?→乙


    而、山石巉岩、連抱之木、簇立掩(3-18)翳。上不能見天。下不能着之。止泊後、風勢不順、有(3-19)難行舡。是齋。

    上陸すると、山石は高くそびえる岩であり、連抱の木は、むらがりたって、影となって覆っています。上は天を見ることができず、下は船を止める所がありません。船を止めたあとも、風勢が不順で、船を進めることができませんでした。

    巉:サン、ザン けわしい、高くそびえる
    3-17-17 族→簇 むらがる ソウ ソク
    3-18-11 ●→之?
    3-18-12 ●→止?
    3-18-14 凌→後

    島之東北、有小岐立石九所。而、相距百(3-20)餘歩許。是齋。

    島の東北には、小さい岐(山)のような立石が、九か所有り、そのおたがいの間の距離は、百餘歩ばかりでした。

    翌日(8月23日)風殘、■回泊於南岸。則(3-21)有竹田、三所。頗有伐取之跡。
    翌日、(8月23日)、まだ風が残っていましたが、南岸に回って停泊しました。そこには、竹田が三か所ありましたが、非常にたくさん切り取られたあとがありました。
    3-20-10 海→■
    3-20-11 面→回
    3-21-10 是→之

    而、亦有、数<???>(3-22)伐者抛棄者。是乎■。
    そしてまた、いくつかの・・があり、切り取られて、放棄されていました。
    3-22-8 小竹→■(1文字)この文字、他にもたくさん見える。

    其中十餘箇、載<???>。(4-1)為有於。
    そのなかの10個余りは、・・・に載せられていました。(・・を載せていました。)

    又有、大釜二坐。食鼎二坐。而體●非<??>(4-2)之産。是乎於。

    また、大きな釜が2個、食事用に使う鼎が2個あり、そのかたちは(我が国の)産物ではないようでした。

    又有轆轤、引舡之機。 而難<???>(4-3)人之所為。是齋。
    また、轆轤がありました。これは船を引く道具です。これも(我が国の)人がつくったものとは見えませんでした。


    巌穴之間、可支魚、或●或<??>(4-4)故、諸人持杖、搏殺二口。
    岩穴の間には、可支魚が、あるいは、・・し、あるいは・・していました。そこで、人びとは、杖を持って、2匹を搏殺しました。

    以来、為有於、淹留七八日間、還其(4-5)島而周視。
    則、不過百餘里之地。

    それ以来、滞留期間が7~8日間あったので、その島をまわって周囲を視察しました。その結果、島の大きさ(周囲)は、100余里足らずでした。

    4-4-19の次に「間」あり
    4-5-2 西→而

    其間、不無平坦可行(4-6)之地。而、大木如麻撑天、終不得着之。

    そこには、平坦で、歩いて行けるような場所も無くはありませんでした。しかし、大木が麻のごとく繁って、まるで天を支える支柱のようで、ついに、そこに行くことは出来ませんでした。

    4-6-8 欅→撑  支柱 ささえばしら
    4-6-12 ●→得 
    4-6-14 ●→之 

    或有、数馬場(4-7)究自可入之地。而、数少人丁、●惧在心、不敢突入。終不(4-8)得登山。是齋。
    また馬が何頭か、自ら入って行けそうな所もありましたが、(調査隊の)人数も少なく、恐怖心もあったので、あえて突入しませんでした。
    そして、ついに最後まで、山に登ることも出来ませんでした。
    4-6-19 ●→場? 
    4―7-1 ●→究?
    4-7-2 月→自

    この「不無~」と「或有~」は対句と見られる。
    両方とも、「終不得」(ついにできなかった)で終わっている。

    (訳注)
    この段階で、すでに登山が企画されているが、はたせなかった。


    三十日、丑時。還逢東風、還為発舡。而(4-9)終日、無事行舡矣。

    8月30日、午前2時。東風が吹き、帰路につくため出港しました。その日は、終日、無事に航海しました。

    戌時量、徴有電光、強風駆雨。(4-10)驚涛捽悉、帆竹折倒、於舡中。
    舡渡板木裂缺、傾(4-11)覆之患、迫在斯須。舡中諸人、自分必死、此是如乎。

    (しかし、)夜20時ごろ、雷が光り、強風が吹いて、雨が降りました。大きな波が襲い、竹の帆柱が折れて船の中に倒れました。
    船の板も砕け、今にも転覆しそうな恐れが迫り、船の中の人は、みな必死でした。

    熟(4-12)麻大索及鉄釘、適有預備。故。或結或着、難以(4-13)得済。
    熟した(?)麻や、太い綱で縛ったり、鉄の釘を打ち付けたり、それぞれが対策をとりました。結んだり、また装着したり、休む間もありませんでした。
    4-11-19 熱→熟

    為有在果。所謂柱風、夲来東風。故、舡隻如飛。 
    しかし、幸いにも、いわゆる柱風が来たり、風が常に吹き続け、東風により船は飛ぶように進みました。
    夲:トウ もと 早く進む 勢い良く進む。

    (4-14) 九月初一日、戌時量、幸得還泊。是乎於。
    9月1日、夜20時ごろ、幸いにも(三陟に)帰り着くことが出来ました。

    往還道里、(4-15)通許、則、晝夜、並七日。是乎矣。
    往還のみちのりは、あわせて、14昼夜(並七日 7×2)です。

    8月18日(三陟鎮の陣営発)、19日、20日、21日、22日、23日、24日、25日、26日、27日、28日、29日、30日、9月1日(以上14日間か)

    海中、無他一點小島(4-16)止泊。是乎於。
    (途中の)海中には、(鬱陵島の)ほかに、船をつけるような小島ひとつありませんでした。

    此外、別無所告之事。是如為。臥乎味納。於(4-17)為有。臥乎所。
    このほかには、別に報告するようなことはありません。
    ●→納 ●→於


    (訳注)ここまでが、軍官の報告。以降は、張漢相の分析。


    往返之間、晝夜七日、是如為有矣。
    往復の間、昼夜7日は、かくのごとしである。

    以其小舡、(4-18)而、帆幅亦少、所受風力不多。故。輿波涛出没。而、自致遅(4-19)延。是在果。大舡矱帆、必有愈於小舡。是乎矣。

    船は小さく、帆の幅もせまく、従ってその受ける風力も少ない。
    ゆえに、波に翻弄され、非常に時間がかかってしまった。
    もし、大きな船で行けば、今回のような小舟に比べて、穏やかに行けるであろう。

    七晝夜、雖(4-20)半之三日有餘。則、一日之間、似難涛達、是則可慮。是乎(4-21)於。

    (往復にかかった)7昼夜の半分は3日だから、片道では3日あまりかかることになる。よって、一日の間では到達は難しいことが憂慮される。

    且、聞、已行人之言、則、毎於夏月、風和時、往来、
    而(4-22)一晝二夜之間、方可得達。是如為。臥乎所。

    しかし、かつて鬱陵島に行った人の言葉を聞けば、すなわち、毎年夏の月の、風のおだやかな時に往来するならば、一昼二夜の間に到達できるという。

    『地理誌』、『輿地(4-23)勝覧』中、「二日風便可到」之説、誠有所據。

    『(世宗実録)地理誌』や『輿地勝覧(東国輿地勝覧)』の中に、
    「二日風便可到」と説かれているが、誠に根拠のあることである。


    (訳注)
    張漢相は、『(世宗実録)地理誌』や『輿地勝覧(東国輿地勝覧)』による地理的知識を持っている。


    是<???>(4-24)此短使不可、白日可到。
    而黒夜行、舡越其<??> (5-1)所着、則、漂流可慮。是齋。
    (この部分、とくに前半は不明)昼のうちに着けないで、夜の航行になれば、漂流することも憂慮される。
    ●→短

    (訳注)ここまでが、鬱陵島への往復の航海についての分析。
    以下、鬱陵島の資源、日本人との関係等についての張漢相の分析。

    所謂、已斫之大竹<??>(5-2)来為有去乙。
    取而視之、則、無異於西南、進■<???>(5-3)大小。是乎於。

    いわゆる、(日本人によって)大竹が切り取られている問題については、(島の)西南の部分も同じである。(ここ不明)
    西は両か?

    且、見、所謂殺得以来之可支魚、則<??>(5-4)之輿「海狗」「班獺」同類、而、異名者也。平海・通川等地、(5-5)多有其種云。元非稀貴之物。是齋。

    また、いわゆる殺して得て持ち帰ったという可支魚を(張漢相が実際に)見たが、これはすなわち、「海狗」や「班獺」の同類で、異名のものである。平海や通川等の地(いずれも朝鮮半島東海岸の地名。三陟の近く)では、その種類のものが多いと云い、それほど珍しい動物ではない。

    5-4-11 将→得
    5-5-12 之→是

    苧枝竹、蓋叢(5-6)蒨於原濕之間云、可想、曩時人居之■址。是乎於。

    苧枝竹は、湿った原に生えているものだという。(ここは、不明)
    けだし、曩時(かつて)人が住んでいた跡地だと思われる。
    曩:ドウ・ノウ さきに 昔。以前。かつて。
    5-5-16 折→竹
    5-6-15 地→址
    「叢蒨」は、不明。この二語でむらがり、はえる、というような動詞と思われる。

    (5-7)釜鼎之排置者、似是、倭人殺得可支魚、處取其油、(5-8)而、抛棄之物也。且、聞、鈹生苔蝕、已至剥落、之似非近(5-9)年之所置。

    釜や鼎が廃棄されて放置されているのは、倭人が殺して得た可支魚の脂をとるのに使い、それを放棄したもののようである。
    ●→殺
    ●→得
    かつ、(軍官の報告を)聞けば、錆がひどく、すでに剥落しているというので、これらのものが放棄されたのは、近年のことではないのであろう。

    而、彼人之不常来往、據此可想。是去乎。
    だから、彼人(日本人)が、常に(鬱陵島に)やって来ているのでは無いことは、これらのことからも想像できる。

    (5-10)浅慮如是。惶恐敢陳。是齋。
    以上、浅慮は、かくの如くですが、おそれながら(自分の意見を)のべました。

    舡役、則、一両日間、可(5-11)以畢役、是乎所。待風発船。計料。

    (新造船を造る)船役は、あと一両日の間に終わるでしょう。
    (船が完成したら)風を待って発船しようと考えています。
    後→役

    緑由並以馳報。(5-12)為臥乎事。
    以上、報告いたします。

    甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に速報します。 

    5-12-9,10,11 ●●→初二日
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    以上、配下の地元三陟の軍官による「下見」の鬱陵島行を踏まえて、張漢相の分析や、今後の計画が述べられています。このあとの本報告に入ってくる内容が、すでにこの段階で張漢相の認識として、やや固まりつつあるのが見受けられます。

    一方で、「東南の島」については、この段階では、全く視野にありません。

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  59. matsu様

    柳美林『海洋水産動向1250号』(2007・11・20)の紹介を有難うございます。その注に記されている張漢相は、「1682年、訓練院副正として通信使とともに日本に行ったことがある。」に大変興味を引かれました。

    matsu様が述べられたように、張漢相(1656~1724)は「ある意味で日本通だったのかも知れません。」に同意します。張漢相が『蔚陵島事蹟』で「審望彼國之域」や「地形似在扵彼我間」などと書いている理由がよく分かりました。

    彼は通信使に随行した渡った対馬や安龍福が連行された隠岐の位置を知っていたからこそ、蔚陵島の山峰に登り、海防の見地から日本の地域を審らかに望んだのでしょう。

    しかし日本の地域は、「杳茫無眼杓之島」「杳茫トシテ眼杓ノ島無シ」でした。

    「杳」は「くらい」が本義ですが、「遥か」「遠い」「広い」などの意味があり、「茫」は「水が遠くつづいたさま」で、「眼杓」は目標・目的・目印ですから、「杳茫トシテ眼杓ノ島無シ」は「遥か遠くまで海が広がり目標とした日本の島は無かった」と、私は解釈します。

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  60. Gerry Bevers様

    I am very interested in the fact that 張漢相 was a member of the Korean diplomatic delegation dispatched to Japan in the year 1682. The career of 張漢相 in 柳美林『海洋水産動向 Vol. 1250』(2007) was translated into Japanese by Mr. matsu, to whom I am grateful.

    The Korean diplomatic delegation in the Edo period sailed to Tsushima Island and left for Edo, the capital of the Tokugawa Shogunate. In that journey an exchange of goodwill in literature and thought between the Koreans and Japanese intellectuals is well known.

    I think 張漢相 had a sufficient knowledge of the Japanese territory. The Tsushima clan, which paid his first visit to the Japanese territory, claimed inspection of Ulleungdo in the year 1614, though it was rejected promptly. In the two years of 1692 and 1693, a conflict of fishing places and products between Koreans and Japanese occurred in Ulleungdo. The Japanese fishermen departed from Oki Island, where they put a base. 張漢相 must have considered Tsushima and Oki islands a threat to the safety of Ulleungdo.

    Therefore, I interpret 「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」 as follows: We climbed the island’s peak and looked carefully toward the Japanese territory, but over the vast ocean we did not see any Japanese islands that have been marked (as a threat to the safety). So the distance (to the Japanese islands) cannot be known.

    Thank you very much.

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  61. Hi Arare,

    The fact that Jang Han-sang (張漢相) went to Japan as part of a diplomatic delegation in 1682 is interesting, but it does not seem to have much relevance to his 1694 survey of Ulleungdo since Koreans did not seem to have much interest in Ulleungdo prior to the An Yong-bok incident in 1693. Therefore, I do not think Ulleungdo or Takeshima (Liancourt Rocks) would have been a topic of discussion during Jang's trip to Japan in 1682.

    In regard to the record of Jang's 1694 Ulleungdo inspection, I would translate the Chinese pretty much the way Koreans have translated it, but I interpret it differently.

    登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許

    섬의 산위에 올라 저 나라의 땅을 자세히 바라보면 묘망(杳茫)하여 눈에 띄이는 섬이 없어 거리가 얼마나 되는지 딱히 알 수가 없었다.

    If you climb the island's peak[s] and look closely at that country's (Japan's) territory, it (Japan's territory) is distant and hazy and there are no prominent islands, so the distance (to mainland Japan) cannot be known for sure.

    In my opinion, the key phrase in the sentence is 無眼杓之島, which means "no prominent island." The Korean equivalent of 眼杓 is 눈에 뜨이는, which means "prominent," "conspicuous," or "remarkable." A Korean synonym for 눈에 뜨이다 is 두드러지다. In the same report, Jang had already said that he had seen an island to the southeast of Ulleungdo that he judged to be about 120 kilometers away and less than one third the size of Ulleungdo, so he would not have been saying that he did not see any islands, but only that he did not see any "prominent islands." Apparently, Jang did not consider an island "less than one third the size of Ulleungdo" to be very "remarkable" or "prominent," and, therefore, not much of a threat.

    Take care.

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  62. Arare,

    By the way, the passage after the above passage is also interesting:

    登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許而地形似在扵彼我間鼎釜取竹之路彼人所為

    If you climb the island's peak[s] and look closely at that country's (Japan's) territory, it (Japan's territory) is distant and hazy and there are no prominent islands, so the distance (to mainland Japan) cannot be known for sure. The shape of the island (Ulleungdo) is like that of a pot placed between them and us, so it seems they made the path for hauling bamboo.

    The fact that Jang say that Ulleungdo was like a pot placed between Japan and Korea is more evidence that he considered Ulleungdo to be the boundary of Korea, not the island he saw "120 kilometers" southeast of Ulleungdo.

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  63. matsuさん、

     私は漢字の当てっこをするのがせいぜいです。解釈はmatsuさんに期待します。

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  64. 皆さんお疲れ様です。

    ご尽力頂いたのに『西渓雑録』の分析が中途半端になってしまって申し訳ありませんでした。実は保養と観光も兼ねて、3月末山陰を旅してきました。島根の関係各所も訪ね、資料等を頂いて参りました。また活動を再開したいと思っています。よろしくお願いします。

    arareさん

    張漢相の外子孫が「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」 の一文を写したことで現在の竹島と思われる島を“日本の島と認識していなかった”可能性は読み取ることが出来る、というロジック自体は随分こじつけに思えるものの、否定しません。が、残念ながら実際は張漢相はこの島を訪ねてもいませんし、距離や大きさも実際とはかけ離れたもので、唯一正しいのは方角のみ。また、彼が積極的にこの島を朝鮮所属のものであると認識していた記述などの証拠は無く、さらに対馬経由で日本に渡ったために日本の方角が東南ではなく南方であると考えていたことも否定出来ないと考えます。当時の朝鮮朝廷による鬱陵島の位置認識はまだまだ曖昧で于山島が西にある鬱陵島と同じ大きさの島ではなく、東にある竹嶼であることさえ、正確に把握されていませんでした。本当に隠岐と鬱陵島の位置関係を把握していたなら、そう記載していたはずですが、そのような形跡はありません。彼は地図を残しているようですが、それを受け継いだはずの以降の検察史の官製地図に現竹島が描かれていないことを併せて考えると、確実この島を”朝鮮の付属の島”と判断していたとは言い難い。

    地図だけでなく、matsuさんの仰る様に「東南方向に島がある」記述が『承政院日記』に無いことは、当時の朝鮮王朝の朝廷がこの島の存在を看過したことを意味しており、ましてそれが「新羅以来の朝鮮の領土である于山島」という現在韓国政府が主張している島などと認識していなかったことが逆に証明されている、そのことだけがこの文書から唯一確実に言えることでしょう。

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  65. Gerry Bevers様

    Thank you for your response.

    You translated 「地形似在扵彼我間鼎釜。取竹之路彼人所為」 “The shape of the island (Ulleungdo) is like that of a pot placed between them (Japan) and us (Korea), so it seems they made the path for hauling bamboo.”

    But I mark a period before 「鼎釜」, and translate 「・・。鼎釜取竹之路彼人所為。」 “Kettles and pots and the path for hauling bamboo were made by Japanese.”, because 張漢相 writes in the previous chapter 「有三釜三鼎・・非我國之制也」. It means “There were three pots and three kettles. They were not made by our country.”

    Further, I do not think the island between Japan and Korea to be Ulleungdo.

    I interpreted 「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」 as follows: We climbed the island’s peak and looked carefully toward the Japanese territory, but over the vast ocean we did not see any Japanese islands (Tsushima and Oki) that have been marked (as a threat). So the distance to the Japanese islands cannot be known.

    The following sentence 「而地形似在扵彼我間」 would have relevance to the last phrase「其遠近未知幾許」.

    Therefore, I interpret 「其遠近未知幾許而地形似在扵彼我間」 as follows: So the distance to the Japanese islands cannot be known. The situation of the Japanese islands (Tsushima and Oki), however, seems to be between (mainland) Japan and Korea.

    日本語で説明します。

    Gerry Bevers氏の「地形似在扵彼我間鼎釜。取竹之路彼人所為。」の訳は、2チャンネル「現代語訳教えて下さい」(536-539)にある読み方、「而して地形は彼我の間に在りて鼎釜に似たり。取竹之路は彼の人の為る所。」を参考にしたと思われます。
    http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/kobun/1175520639/450-550

    「而地形似在於彼我間鼎釜」を日本式に返り点(カッコ内)をつければ、「而シテ地形ハ似(下)タリ在(二)リテ於彼我ノ間(一)ニ鼎釜(上)ニ」となります。

    しかしこれは、見事な回答を寄せられた2チャンネル氏も、「地形似在於彼我間鼎釜。取竹之路彼人所為・・この後半部分、ちょっと自信なし。」と云っておられるように、「鼎釜」で文章を切ったため、このような読み方も出来るということでしょう。私は、張漢相が「有三釜三鼎、而二釜一鼎、則破傷軆樣、非我國之制也。」と書いているので、「鼎釜」は「取竹之路」とともに「彼(日本)の人の為る所」と考えます。

    「地形ハ於彼我ノ間ニ在リ」の「地の形」は、“topography”ではなく、土地の有様・様子・状態の意味と思います。その土地が日本と朝鮮との間に在ることを示すのでしょう。

    次の「(地形)ハ鼎釜ニ似タリ」の「地形」は“topography”の意味でよいでしょう。朴世堂『西渓雑録』にある『蔚陵島事蹟』は「鼎」と「釜」を、「鼎則無足無盖其大可炊二斗米釜則廣經尺許深可二尺容盛水五六桶」と説明していますから、「鼎」は大きな鍋、「釜」は壺のようなものではないかと思います。

    欝陵島の地形(topography)が、形体のかなり異なる「鼎釜」に似るというのは、奇妙ですが、周りが高く中央部が窪んでいる、阿蘇火山のカルデラ(ポルトガル語で大鍋の意)のようなものを想像することは出来ます。事実、欝陵島には「島の中央から北部にかけて一邊二・五キロに達する三角形の大カルデラがある」とされています(春本篤夫:欝陵島『日本地理風俗体系17』新光社, 1930)。ただし、「火口底は島で最も廣い平地で、面積百五十町歩に達する」とあり、大きいとは言えます。しかし、島の最高峰である標高984mの聖人峯もまた、島のほぼ中央に在り、私は、欝陵島が中央部の窪んだ「鼎」或いは「釜」に似た島とは思いません。

    「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」は、前述の2チャンネル氏に従い、「島の山峰に登りて審らかに彼國之域を望むに、則ち杳茫として眼杓之島無し。 其の遠近未だ幾許なるかを知らず。」と読みます。

    私は、これを「島の山峰に登り審らかに彼(日本)國の領域を望んだが、遥か遠くまで海が広がり目標とした日本の島(対馬と隠岐)は無かった。(従って)其の距離がどれ程になるかは分からなかった。」と解釈します。

    次の「而地形似在扵彼我間」は、「而して地形は彼我の間に在るに似たり」と読めますから、「しかしながら、土地(対馬と隠岐)の様子は日本(本土)と朝鮮の間に在るが如くである。」と、私は理解します。

    皆様、いろいろ有難うございました。

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  66. ポスティングから、五年が経過しました。この間に人々の関心も高まり、インターネットの史料検索により、こちらで、鬱陵島事績のテキストを参照される方もおられると思いますので、2014年4月現在の判読本文を投稿します。
    水旨(水宗)、騎卜船という語句から、朝鮮の人々が認識していた海中の境界を越えるときの祭祀儀礼制度を伴っていたことが判明しました。

    朴世堂『西渓雑録』

    (1-1) 欝陵島 [新羅史曰于山國島名欝陵地名百里]
    (1-2)欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌嶪撑空
    (1-3)而南峯稍低日初出時風恬浪静則衆峯攢青岩
    (1-4)壑呈露沙汀樹木歴々可指新羅智證王聞于山國負
    (1-5)險不服命伊湌異斯夫爲阿瑟羅州軍主阿瑟羅江陵徃 ※徃は、往の異体字
    (1-6)討之斯夫以爲于山愚頑負險難以力服易以計下乃多
    (1-7)造木獅子分載戰艦誑之曰爾不急下當放此獸搏噬之
    (1-8)國人恐惧来降及高麗太祖十三年島人使白吉土豆獻方
    (1-9)物毅宗聞羽陵地肥廣可立州縣遣溟州道監倉金柔
    (1-10)立徃視回啓曰島中有大山從山頂向東行至海濱[一萬三]
    (1-11)千餘步向南行一萬五千步向北行八千步餘[有村落]
    (1-12)基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡藁本石[南草]


    (2-1)土多岩石民不可居遂寢厥後崔忠獻議以武[陵土壤]
    (2-2)膏沃多珎木海錯遣使視之有村墟屋址宛然[於是移]
    (2-3)東郡民宲之使還多以海中珍怪之物来獻其後[屢爲]
    (2-4)風濤所蕩覆舟人多物故乃還其民及我朝 太宗大
    (2-5)王時聞流民逃入者甚多命三陟人金麟兩爲按撫使
    (2-6)刷出空其地麟兩言島中土地沃腴竹大如杠鼠大如猫桃
    (2-7)核大於升凡物稱是云 世宗大王二十年遣縣人金灝率
    (2-8)数百人往搜逋民盡俘金九等七十餘人出來 成宗大
    (2-9)王二年有告別有三峯島者乃遣朴宗元往覔之因風
    (2-10)濤不得泊而還同行一舡泊羽陵島只取大竹大鰒魚以
    (2-11)歸 啓曰島中無人矣

    (2-12)嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至
    (2-13)欝陵島々有大山三峯尤峻發島三面皆壁立萬
    (2-14)仞南邊稍開豁然乱山若犬牙撑列水底舟道極
    (2-15)險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶
    (2-16)而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日
    (2-17)大若梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹
    (2-18)林其脩大若篔簹竹林既窮而原野夷曠有
    (2-19)村居墟落山多珎木藥草倭方伐竹採藥留渠
    (2-20)守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船
    (2-21)以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一
    (2-22)颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不[登最]
    (2-23)高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則[尋常可]
    (2-24)見麋鹿態獐往々越海出來朝日纔高[三丈則]

    (3-0)島中黃雀群飛來投竹邊串
    (3-0a)[島中竹實時々漂出形如大愽棊海女拾之爲雜佩
    (3-0b)篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭箆多有之。

    (3-1)江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既無●[渡?]
    (3-2)海舡隻。乙仍于。不得己新造。為乎矣。物力不齊、畢役未
    (3-3)易、而八月已半、風高可慮。叱分不喩、舡造間、海路遠近
    (3-4)偵探之意。曾已面禀、為有等以、擇取、此處、軽快漁小舡
    (3-5)二隻、給其格粮、而、土着軍官中一人、差定渡海。為有
    (3-6)如乎。軍官・崔世哲、回還言内矣。身依分付、去月十六日
    (3-7)乗舡。而二隻、其沙格、営下待風。為如可。十八日。本鎮前洋
    (3-8)八十里許、荘五里津頭、止宿。一日後、二十日、酉時量、幸得
    (3-9)順風、二隻、一時掛帆、開洋。 経夜行船。翌日、日未出時、一
    (3-10)點島形、宛然於雲際矣。日出後、雲水微茫、不見
    ※微に訂正 雲水微茫は漢文で使用例多し

    (3-11)其形。而、向東行舡之際、酉時量、驚涛蕩舟、十餘里
    (3-12)間、幾不能渡、意謂水旨而然。是如乎。戌時量、又値怒涛
    (3-13)排空。此亦水旨之一派。是齊。又經一宿。二十二日、卯時量
    (3-14)有一泰山、堅臨。舡頭意謂、頃刻可到。而、波浪汹湧、帆
    (3-15)檣無力、出入進退之間、自致遲延。未時量、堇堇得到、
    ※堇は菫・僅の異体字

    (3-16)其島北岸。則、地勢絶險、舡泊處極難。乙仍于。就、其
    (3-17)風殘處、蹔時下陸。而、山石巉岩、連抱之木、簇立掩
    (3-18)翳。上不能見天。下不能着足。止泊後、風勢不順、有
    (3-19)難行舡。是齊。島之東北、有小岐立石九所。而、相距百
    (3-20)餘歩許。是齊。 翌日風殘、後回泊於南岸。則●[到?]
    (3-21)有竹田、三處。頗有斫取之跡。而、亦有、数●●●[?千竿而?]
    (3-22)伐者抛棄者。是乎等以。其中十餘箇、載●●●[?架乾竹?]

    (4-1)為有弥。又有、大釜二坐。食鼎二坐。而體制非●●[我國?]
    (4-2)之産。是乎弥。又有轆轤、引舡之機。而難●●●[彼國?]
    (4-3)人之所為。是齊。巌穴之間、可支魚、或睡或●●[乳在?]
    (4-4)故、諸人持杖、搏殺二口。以来、為有弥、淹留七八日間、環其
    (4-5)島而周視。則、不過百餘里之地。其間、不無平坦可行
    (4-6)之地。而、大木如麻撑天、終不得着足。或有、数馬場
    (4-7)竄自可入之地。而、数少人丁、疑惧在心、不敢突入。終不
    (4-8)得登山。是齊。三十日、丑時。適逢東風、還為發舡。而
    (4-9)終日、無事行舡矣。戌時量、微有電光、強風驅雨、
    (4-10)驚涛猝怱、帆竹折倒、於舡中舡後板木裂缺、傾
    (4-11)覆之患、迫在斯須。舡中諸人、自分必死、是如乎。熟
    (4-12)麻大索及鐵釘、適有預備。故。或結或着、艱以
    (4-13)得濟。為有在果。所謂狂風、本来東風。故、舡隻如飛。
    (4-14)九月初一日、戌時量、幸得還泊。是乎弥。往還道里、
    (4-15)通計、則、晝夜並七日。是乎矣。海中、無他一點小島
    (4-16)止泊。是乎弥。此外、別無所告之事。是如為。臥乎味納。於
    (4-17)為有。臥乎所。往返之間、晝夜七日、是如為有矣。以其小舡、
    (4-18)而、帆幅亦少、所受風力不多。故。與波涛出沒。而、自致遅
    (4-19)延。是在果。大舡矱帆、必有愈於小舡。是乎矣。七晝夜、雖
    (4-20)半之三日有餘。則、一日之間、似難得達、是則可慮。是乎
    (4-21)弥。且、聞、已行人之言、則、毎於夏月、風和時、往来、而
    (4-22)一晝二夜之間、方可得達。是如為。臥乎所。『地理誌』、『輿地
    (4-23)勝覧』中、「二日風便可到」之説、誠有所據。是●●●
    (4-24)此短晷使不可、白日可到。而黒夜行、舡越其●●

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  67. (5-1)所着、則、漂流可慮。是齊。 所謂、已斫之大竹●●
    (5-2)来為有去乙。取而視之、則、無異於西南、進[慮?]●●●
    (5-3)大小。是乎弥。且、見、所謂殺得以来之可支魚、則●●[有鰭?]
    (5-4)足與、海狗、斑獺、同類、而、異名者也。平海・通川等地、
    (5-5)多有其種云。元非稀貴之物。是齊。苧枝竹、葢叢
    (5-6)蒨於原隰之間云、可想、曩時人居之舊址。是乎弥。
    (5-7)釜鼎之排置者、似是、倭人捉得可支魚、煮取其油、
    (5-8)而、抛棄之物也。且、聞、鈹生苔蝕、已至剥落、云似非近
    (5-9)年之所置。而、彼人之不常来往、據此可想。是去乎。
    (5-10)淺慮如是。惶恐敢陳。是齊。舡役、則、一両日間、可
    (5-11)以畢役、是乎所。待風發船。計料。緑由並以馳報。
    (5-12)為臥乎事。 甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
    (5-13)江原道三陟鎮右営将、為馳報事、欝陵島捜討[伐]
    (5-14)事。去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待
    (5-15)風所、発船。緑由曽已馳報、為有在果。僉使、與別遣譯
    (5-16)官・安慎徽、領率員(領來諸)役各人、及沙格并一百五十名、騎
    (5-17)ト舡各一隻。汲水舡四隻、良中、従其大小分載。同日巳
    (5-18)時量、因西風開洋。是如乎。戌時量、到大洋中、波
    (5-19)涛險巇之勢、五里許二處。是乎所。必是水旨、而諸舡
    (5-20)為波浪、所觸一時渙散、莫適所向。是如乎。同月二十
    (5-21)日、子時量、漸入深洋、黒雲自北蔽天、而電光閃爍、
    (5-22)影徹波心。狂風猝起、驟雨随至、怒涛翻空、[雲海相盪]、所乗
    (5-23)船隻、若浮若没、危険网状。舡中之人、莫[不失措]、
    (5-24)舉皆昏倒之際、騎舡柂木、又従而折破尤無[制船]

    (6-1)之望而強(之策難)。以櫓木、直挿於船尾及左右、[借以為力]、
    (6-2)是乎乃。覆沒之患、迫在斯須。是如乎。風[雨漸息]、
    (6-3)天又向曙、而島在北方、水勢東注。故、船中之人、[因此]
    (6-4)甦醒、盡力櫓役、輾轉向島。巳時量、艱到島之南
    (6-5)岸、繋纜石角、蹔時下陸。炊飯之際、汲水船四隻、自
    (6-6)南洋稍々来到。而卜舡叚不知所向。是如乎。酉時量
    (6-7)又自南洋西至、各舡倶得免恙。南岸無可舡泊處、
    (6-8)乙仍乎。同日初昏、回泊于東南間涧口内、止宿。後、自
    (6-9)二十一日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日、九月二十八九
    (6-10)日、雨雪交下。中峯腰上、積雪尺許。是齊。島之四方、
    (6-11)乗舡環審、則、懸崖撑空、層巌壁立。或有空缺
    (6-12)處、澗水成流、似是大旱不渇。而、其間細流乾渓、
    (6-13)不可殫記。是齊。盖其周回、二日方窮、則、其間道里、
    (6-14)不過百五六十里之地。是乎弥。南邊海濱、有篁竹田三處、
    (6-15)東西北三方、亦有篁竹田十一處、是遣。東方五里許、
    (6-16)有一小島。不甚高大、而海長竹、叢生於一面。是齊。雨
    (6-17)霽雲捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、
    (6-18)此所謂三峯也。西望大関嶺、逶迤之狀。東望海中、
    (6-19)有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不
    (6-20)過三百餘里。而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是
    (6-21)齊。自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近
    (6-22)四十里、北至三十餘里。互回往来。四(西)望遠近、臆度[如斯]
    (6-23)是齊。西邊大谷間、有人居基址三処。又、有[人居基地、二]
    (6-24)所北邊長谷、又有人居基址二所。東南長[谷、有人]

    (7-1)居基址二所、西南間大谷、有基址七所、石葬[十九所]
    (7-2)是齊。舡泊處、則、東南間澗口、厪容四五隻[之處]
    (7-3)地。而、東南風、則亦非可藏處。是遣。此處[有三]
    (7-4)釜二鼎、而二釜一鼎、則破傷。釜鼎軆樣、非我國
    (7-5)之制也。鼎、則、無足無盖、其大可炊二斗米。釜、則、廣径
    (7-6)尺許、深可二尺、容盛水五六桶。是齊。西邊大谷、溪澗成
    (7-7)川、沿邊開豁。此處、為最而所。泊舡處 可避東南北
    (7-8)風。而西風則難避。元非舡泊之所。而又有一鼎、可容
    (7-9)斗米之炊。而亦是彼物。是乎弥。北邊浦岸上、有轆
    (7-10)轤。亦非我人所造。是齊。島中、崗巒重疊。而、山腰
    (7-11)以上、則皆是石角、腰下則土山。而、山勢絶險、洞壑深
    (7-12)邃。連抱樹木參天而蔽日者、不知幾其許。叱分不喩、
    (7-13)積年空棄之地、人迹不到。故、藤葛盤結、[朽草木添阜]、有難排
    (7-14)躋、卒非人力之所可通逕。小小澗谷、不暇窮探。是齊。
    (7-15)所謂樹木、盡是、冬栢、紫檀側栢、黄檗、金椢木、嚴
    (7-16)木、槐木、椵木、桑、楡、楮、椒、楓、檜樹、栢之類。而、其中、
    (7-17)冬栢、紫檀、最多。是乎弥。松木、真木、榛、橡等木、叚(葭)
    (7-18)終無一株。而、羽則烏鷗。毛則㹨鼠而已。此外、他無飛走
    (7-19)之屬。是乎。所既無人居、又無木宲可食。而然是乎、喩
    (7-20)亦甚可怪。是齊。水族、則只有可支魚。而沿邊石堆處、
    (7-21)或十、或百、成群穴居、大如駒犢、小如犬豕。是乎弥。間有
    (7-22)生鰒、之附諸岩磧者、軆小而味薄。是齊。四方浦邊、
    (7-23)破舡板木、片片漂着者、處處有之。而、或[着鐵釘]、
    (7-24)或着木釘或有腐傷者[而審其稍木之制則彼我無別已為裂破]而東南崖[岸漂散]

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  68. (8-1)最多。是齊。竹田中、東南麓三處、最大。[而毎處可]、
    (8-2)落皮牟三十餘石。是乎弥。且兩田、斫竹尤[多、其傍斫]
    (8-3)置者、無慮數千竿。而、或有陳枯者、或有[未乾者]。
    (8-4)是齊。自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、小
    (8-5)路。[處]此必取竹[者]、徃來之逕、是齊。大抵環一島、皆石山、四面壁
    (8-6)立。而少有罅缺處、則兩峽成澗流水潺湲而已。只一
    (8-7)西山方麓、開成澗門、大川流出、而沙礫堆積、不能成浦、
    (8-8)船泊甚艱。是乎弥。中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無
    (8-9)寬豁處、猶可開墾、是乎弥。至於殘山平夷處、或有人
    (8-10)居基址、石葬而墓木連抱、廢垣石堆而己。即不知、何代所
    (8-11)居而落棄成、土人迹不到者、又不知其幾百年。是乎弥。
    (8-12)東南澗口、自舡泊處、至竹田、終次大樹。皮上有刀刻字、
    (8-13)迹而、住兵衛、又四郎、彌吉等三人之名。以倭書刻之。而無
    (8-14)姓卆、似是下倭之所為。且其刻痕、完合、有若自然成
    (8-15)字之状。則可想其年久。是乎弥。且、釜鼎之或破、或完者
    (8-16)銹生苔蝕意、非近年之所置是齊。本月初四日、未時
    (8-17)量、似有風便、故發船。到西邊澗口、則雨勢霏微、日又
    (8-18)昏黒。而十月東風、誠不可易得。是乎等以。仍為開洋、
    (8-19)六船齊發。子夜以前則舉火相準。是如可。丑時以後
    (8-20)大船一石、小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後亦不知所
    (8-21)向。是乎矣。東風不止初五日、亥末直抵三陟浦口。而落
    (8-22)後小舡二隻、回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡[本月?]
    (8-23)初六日、卯時量、亦為囬泊、於三陟浦口、為有在果。●●
    (8-24)風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水●●●●[?上雲氣中所?]

    (9-1)謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶概三[日之間方?]
    (9-2)可得達、則比諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。●●[臆?]
    (9-3)度計較。是乎矣。舡之疾鈍、風之順逆、遠者㮣●●
    (9-4)遠則又不可以膠定為證。是齊。冬天、風高之日、険海
    (9-5)跋渉、一百五十人、得保性命者、莫流。 国家之陰佑。是。
    (9-6)乎等以往返艱、苦之状不一而足而煩不散細陳、是斉。
    (9-7)安慎徽、本以衰敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船後
    (9-8)二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登祥。是乎矣。
    (9-9)復 命有限黽勉擔載寸寸前進之意分付以送。
    (9-10)為乎弥。所謂可支魚、搏殺取皮、大中小三領。篁竹五
    (9-11)尺許、四箇。紫檀香二土莫。監封上、送於本道監営。
    (9-12)以為轉達。備局之地。為乎弥。捜討栍木左隻一片、本
    (9-13)島圖形一本、及輿地勝覧一巻、并以軍官賷持上
    (9-14)送、為齊僉使、叚置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憒、
    (9-15)不能収拾、叱分不喩、圖形一本。作?為冩出。而此處、畫師
    (9-16)絶無故。不得己一行之人、依草本費日經営。而終至、
    (9-17)畫乕遅延、至此不勝、惶恐、縁由并以馳報事。

    次から蔚陵島事蹟のみ所載の部分が続きます。

    (a5-12)大槩島在、三千里、海洋之
    (a5-13)中、船隻不得、任意徃來、則、雖有彼國橫占
    (a5-14)之舉、除防無策、欲設堡鉄、則、人民無止接
    (a5-15)之策、所謂、開垦處樹木陰翳、藤葛成藪、九
    (a5-16)月積雪、寒氣倍冬夜半風殘之時、依然如

    (a6-1)児啼女哭之聲、喧嘩碎長之聲、錚々耳邉、
    (a6-2)漸近、船頭擬其、魍魎海毒之舉、妖或慮率
    (a6-3)備犯之患、吹囉放砲撀、鼓作聲、則、瞬息不
    (a6-4)聞。環島之時、至一處日暮、繋船巖下、炊飯
    (a6-5)次船、則、沙磧履磨中有涇之狀、與、安慎徽、
    (a6-6)同步行三里許、則、自中峯逶迤一脉山麓、
    (a6-7)都是層巖高壁、而至遙開豁由此路望見、
    (a6-8)則、連及山腰疊石成穴與、慎徽相議曰、此
    (a6-9)穴不無害人毒物移船於、他處矣到、三更
    (a6-10)後、天雨猝下、風浪大作、震雷電光、動山掀
    (a6-11)海、俄以雨止、烟霞满島、遙聞巖穴中眾人
    (a6-12)之聲立扵、船頭望見、則、燈燭煒煌明日食
    (a6-13)後、欲知其夜、聞異狀更泊其處、使軍官、朴
    (a6-14)忠貞及砲手二十餘名、探知次入送巖穴、
    (a6-15)則、久而不出疑其陷坎、使人呼出、則、忠貞
    (a6-16)先、出曰穴內三十餘步、豁然開敝、四層築砌、

    (a7-1)累石皆錬磨玉色有文彩也、十餘間瓦
    (a7-2)家、甚極奢麗、丹青及戸牖之制、非泛然我
    (a7-3)國搆屋之規則、模樣大異無他見物而近
    (a7-4)入簷下、則、如硫黃腐肉之嚊滿鼻、敝口不
    (a7-5)能遠行、亦分明說道、是去乙僉使、多率船
    (a7-6)卒六十餘名、親自入見果如忠貞所、告屋
    (a7-7)上、藤葛盤結之中、階砌庭城之内蕭灑無
    (a7-8)一累之塵非人所居處、則、強入非関、兺不
    (a7-9)喩、心迷宜不忍近入簷下、回船之日、自中
    (a7-10)峯、霞氣漸廣及於海中大如朿山不知何
    (a7-11)物浮沈數度超出半空向入山中風雨大
    (a7-12)作非電震之聲、而、動如崩山之狀、此其他
    (a7-13)島有異者也。所謂、竹田處々有之、而、上項
    (a7-14)四千處叚小處二十餘石、落只之地大處
    (a7-15)三十餘石、落只而皆可引水作畓處是齊。
    (a7-16)樹木中紫檀可作棺板皆在於山腰落巖

    (a8-1)之間、古昔人民居基地、宛然未泯則其為
    (a8-2)空棄不過百餘年之前、溪有洞口、若慮備
    (a8-3)寇之策、則、一夫當百夫之地、彼船雖欲久
    (a8-4)為結船、而風浪若開、則船必不保之勢、登
    (a8-5)島山峯審望、彼國之域、則杳茫無眼杓之
    (a8-6)島、其遠近未知幾許、而地形似在於彼我
    (a8-7)間鼎釜取竹之路、彼人所為緑由馳報狀

    (a8-8)壬寅春外後裔永陽申光璞書

    なお、 水宗・水旨に関しては、こちらのコメントを
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2014/03/1864-japanese-map-entitled-by-seiken.html

    2012年までのテキスト判読に関しては、こちらを御参照下さい。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2009/05/1693-1703.html

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  69. 小嶋さん

    ありがとうございます。
    すごいです。

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