竹島問題の歴史

11.5.09

1693-1703年 朴世堂『西渓雑録』と申光璞『蔚陵島事蹟』

朝鮮政府は「竹島一件」の後、1694年、江原道三陟鎮営将・張漢相(1656‐1724)を鬱陵島調査に派遣しました。(張漢相は、顕宗年間(1660~1674)に慶尚左水使や会寧府使をつとめた張シギュの息子で、1676年に武科に合格し、宣伝官となった。1682年、訓練院副正として通信使とともに(対馬経由で)日本に行った(柳美林、2007)。)張漢相の鬱陵島調査の報告としては、外後裔の申光璞によってまとめられた『欝陵島事蹟』がこれまで知られてきました。この資料は「1978年、「鬱陵島・独島学術調査団」が鬱陵島で入手したもので、国史編纂委員会所蔵。張漢相の鬱陵島捜討の記録から、彼の外後孫の申光璞が(壬寅の年=1722,1782,1842,1902,1962年)に整理したもの」(宋炳基,1999)、ということです。

一方朴世堂(1629∼1703)は朝鮮中期の学者・文臣で、礼曹・刑曹の参議を経て、1694年(肅宗 20)(65歳頃)承旨に特進し、翌年、工曹判書(判書=大臣)を経て、吏曹判書・刑曹判書を勤めました。『西渓雑録』は議政府潘南朴氏家(西渓宗宅)に代々伝わってきた古文書の一つで、西渓朴世堂の11代の子孫である朴チャンホ氏が、韓国学中央研究院蔵書閣に寄託したものであるようです(潘南朴氏の家の古文書 )。

この朴世堂「鬱陵島」は、大きく4つの部分で構成されています(柳美林、2007)。(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分。(2)文禄の役のときに捕虜となったが日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容(本格的な調査に先立って、派遣した軍官の結果報告とそれに基づく自身の意見を述べているこの部分は、申光璞本には含まれておらず、おそらくこれが現代人の目に触れるのは初めてのことであると思われます)。(4)同年1694年9月20日から10月3日まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容です。

まず注目すべきは、朴世堂が(2)で、「天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った。二島(于山島と欝陵島)はここ(朝鮮半島東岸の寧海)からはそれ程遠くはない)」とし、韓国側の捏造解釈である、『世宗実録地理志』の一文「二島相去不遠風日清明則可望見」が「二島はお互いに離れていないので晴れた日に(互いに)見える」が誤りで、従来の日本側の主張である、「二島(于山島と欝陵島)は、互いに離れていないので(朝鮮半島の江原道襄陽縣から)晴れた日に見える。」との解釈が正しかったことを改めて証明していることです。当時の鬱陵島は無人の辺境の孤島であり中央政府は正確な地理を把握しておらず、于山島が鬱陵島の西にある別の島なのか、同じ島なのかさえも明確ではありませんでした。当然鬱陵島および于山島が朝鮮半島からどのくらいの距離にあるかも正確に把握されておらず、朴世堂も張漢相もその点(朝鮮半島から鬱陵島までの距離)について議論しているのです。『新増東国輿地勝覧』を引用した部分においても下記のように鬱陵島の古い名が于山國であり、晴れた日に朝鮮半島の高所から見える距離にあることを記述しています。

鬱陵島 新羅史曰于山國島名鬱陵地名百里
地誌鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌嶪撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢靑岩壑呈露沙汀樹木歷歷可

また、柳氏は「天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」のうち、「二島(于山島と欝陵島)はここ(朝鮮半島東岸)からはそれ程遠くはない)」と明記されている前半の部分とのつながりを無視し、後半の部分のみを独立させて「鬱陵島から(天候が晴れているとか、高いところへ登って初めて)于山島が見える」と解釈していますが、先に述べたようにそもそもこれは”鬱陵島から”ではなく”朝鮮半島から”二島がどう見えるかについて考察した文章であり、于山島をそもそも半島から見えるはずの無い竹島に比定することは文脈を逸脱しています。二島が朝鮮半島からさほど遠くない、との前提で記述されているこの文章では、于山島も当然朝鮮半島から遠くないとの前提で書かれていることは明確です。いずれにせよ現竹島は朝鮮半島から見えないだけでなく、鬱陵島の高所から、例え晴天の日であっても目視できる日数は年間10日以下(恐らく秋から冬にかけての年間3、4日)であることが明らかになっており、”晴天の日”であれば必ず鬱陵島の高所から見えるわけでは決して無いのです。ましてや『新增東國輿地勝覽』にあるように鬱陵島から現竹島は「天候が清明であれば山頂の樹木及び山麓の海岸を歴々見ることができる」などということはあり得ません。そもそも竹島には樹木がありません。

ところで柳氏は「4番目の部分は、張漢相の『鬱陵島事蹟』に書かれている内容とほぼ同じである。」(『海洋水産動向 1250号』, 2007)と述べています。しかし、実際に(4)の部分を、鬱陵島調査の報告書としてこれまで知られてきた『欝陵島事蹟』(作成年代不明・外後裔の申光璞による)と較べると、大きく異なる点があることに気づきます。前半は内容はほぼ同じですが、筆写本『鬱陵島事蹟』の記述に欠けている部分が多々見られること、また使用されている漢字が間違いや省略されがちであったり、より口語的であること、などが分かります。特に、竹島問題では重要なポイントである、当時鬱陵島に多数生息していたと思われるニホンアシカ(可支魚)の描写の部分では、文意が通らないにもかかわらず、”可支魚(アシカ)”が”魰魚(蛸)”に入れ替わっており、不自然さがぬぐえません。(ただし、申本を参照することで、朴本の欠損している箇所が類推できます。)

さらに注目すべきは後半部分で、それぞれ全く異なった内容になっています。朴世堂「鬱陵島」の張漢相自身の捜討報告(4)は最後に朝鮮半島から鬱陵島が見える様子等を述べてから、その後の検察報告に見られる文体(鬱陵島から持ち帰ったものを列記する)を踏襲しており、一つの報告書としてまとまりがありますが、、申光璞本は、日本に対する鬱陵島の防衛前線としての意義、不思議な洞窟の話、最終日の様子等を述べて最後に日本との関係における鬱陵島の位置を述べて終わっています。竹田など既出の内容もあり、”張漢相の鬱陵島捜討の記録から、彼の外後孫の申光璞が(後年)整理した”ために、転記ミスが多く、また報告書としての形式を逸脱しているのでしょうか。これが朝廷に提出された報告書と同一であるとは考えがたく、内容の解読・解釈については特に慎重になる必要があります。(ただし、朴本にも少ないものの、漢字の間違い/省略の可能性が残る。)

また、張漢相は竹島と思われる島を”東南方向(わずか)120kmにある鬱陵島(72.82km²)の1/3未満の島”(実際は92kmで、面積は1/700以下。西島(0.10km²)、東島(0.07km²))と記録しており、この島について正確な認識が全く無かったことが伺えます。ましてや竹島=于山島であるといった認識はおろか、安龍福 の報告した「倭の松嶋=于山島」との記述は無く、「東方五里許有一島不甚高大而海長竹叢生於一面是齊」の一文によってむしろ、張漢相の後を受けた検察史朴昌錫「鬱陵島圖形」の竹嶼に「所謂于山島 海長竹田」と書かれる など、それまで于山島は西にある鬱陵島と同じ大きな島と認識されていたものが、これにより、以後次第に于山島=竹嶼であると朝鮮本土において認識され始める きっかけとなったことが分かります。

また、もし張漢相がこの竹島と見られる東南にある大きな島を朝鮮領土であると認識していたなら、何故彼は9/20-10/4までの2週間もあった鬱陵島の滞在期間にその大きな島を調べに行こうとさえしなかったのでしょうか?現在の韓国側が主張するように、512年の新羅時代から竹島が鬱陵島の付属島であったと考えていたなら、当然その調査は視察任務の範囲内であったはずです。しかも日本人の痕跡についての詳細な報告と鬱陵島の本土防衛の地としての価値を説いているにも関わらず、です。これらの事実からむしろ張においては、竹島は防衛する必要の無い島、つまり「朝鮮領土ではない島」との認識であったと推測されます。さらに、張漢相のこの報告は地図とともに朝廷に提出されたにも関わらず、『承政院日記』等の公式記録にこの東南の島についての記述がないようです。つまり、この島(竹島)の存在は当時の朝鮮王朝に無視された、言いかえれば、時の政権が領土として主張する権利を公式に放棄したに等しいと言えるでしょう。大韓帝国は1906年に再びその領有主張の権利を放棄します が、1948年頃になって突然、竹嶼であるはずの于山島を竹島と言い張り、武力を持って不法占拠したまま今日に至っている のは周知の事実です。

以下は朴世堂「鬱陵島」(B)のYabutarouさんによる翻訳(2)と、以前の投稿 を元にしたmatsuさんによる翻訳((3)~(4)+申本のみの箇所)です。解釈できなかった部分もあり、是非皆さんで検討したいと思い、一気に全文掲載することにしました。両者を並べて比較することはもとより、両書とも全文を通して読む機会はなかなか無いと思います。比較しながら通して読むことによって、また新たな知見が得られることもあるかと思います。("(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分”の訳については、こちらを参照のこと。)

A 申光璞書『蔚陵島事蹟』
B 朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」


(1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分(B(朴世堂『西渓雑録』 鬱陵島)のみ。翻訳なし。)
B 朴世堂『西渓雑録』 
鬱陵島
 [新羅史曰于山國島名鬱陵地名百里]
鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌嶪撑空而南峯稍低日初出時風恬浪靜則衆攢靑岩壑呈露沙汀樹木々可指新羅智證王聞于山國負險不服命伊湌異斯夫爲阿瑟羅州軍主阿瑟羅江陵往討之斯夫以爲于山愚頑負險難以力服易以計下乃多造木獅子分載戰艦誑之曰不急下當放此獸噬之國人恐來降及高麗太祖十三年島人使白吉土豆獻方物毅宗聞羽陵地肥廣可立州縣遣溟州道監倉金柔立往視回啓曰島中有大山從山頂向東行至海濱〈??(一萬三)〉千餘步向南行一萬五千步向北行八千〈???(有村落)〉基址七所或有石佛鐵鍾石塔多生柴胡藁本石〈??(南草)〉土多石民不可居遂寢厥後崔忠獻議以武〈???(陵土壤)〉膏沃多珍木海錯遣使視之有村墟屋址宛然〈???(於是移)〉東郡民實之使還多以海中珍怪之物來獻其後〈??(屢爲)〉風濤所蕩覆舟人多物故乃還其民及我朝太宗大王時聞流民入者甚多命三陟人金麟兩爲按撫使刷出空其地麟兩言島中土地沃腴竹大如杠鼠大如猫桃核大於升凡物稱是云世宗大王二十年遣縣人灝率數百人往搜逋民盡俘金九等七十餘人出來成宗大王二年有告別有三峰島者乃遣朴宗元往覔之因風濤不得泊而還同行一船泊羽陵島只取大竹大鰒魚以歸啓曰島中無人矣

(2)文禄の役の際に捕虜となり日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。
嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至鬱陵島々有大山三峯尤峻發島三面皆壁立萬仞南邊稍開豁然亂山若犬牙撑列水底舟道極險狹難入登岸則白沙平鋪長松列植山開望濶而江水流出緣江行十餘里則篔簹作藪不見天日大梁柱小不减椽杠又穿藪行十餘里則有竹林其脩大若篔簹竹林旣窮而原野夷曠有村居墟落山多珍木藥草倭方伐竹採藥留渠守船鄰船適有同俘七人夜與相語天將曉發船以來日纔晡已到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不〈??(
登最)〉高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則〈???(尋常可)〉見麋鹿態獐往々越海出來朝日纔高〈??(三丈則)〉島中黃雀群飛來接竹邊串[島中竹實時々漂出形如大愽棊海女拾之爲雜佩篔簹及竹亦或漂出一節有數尺者宜箭多有之]
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かつて一人の僧侶に出会ったが(彼は)壬辰之乱の時に日本の捕虜となって日本の船に伴われて鬱陵島に行ったと自称して島には大きな山が三つあり(中略・鬱陵島の様子を説明)同じような捕虜七人と夜のうちにお互い語り合って夜明け前に船を出発させたが、当日午後三時(もしくは日暮れ)になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。思うに二島はここからそれほど離れているわけではなくひとたび風に乗れば至ることができる。于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができないが、鬱陵(島)はすこしばかり山々がそびえ立っていて風に吹かれて起こる波が静まればいつでも見ることが出来る。麋(おおじか・シカ科の哺乳類)や鹿・熊・獐(ノロ・哺乳類)がしばしば海を越えて(朝鮮半島に)やって来る。朝日の高さがわずか三丈の時に島の中のすずめが群れを成して竹邊串に飛来してくる。

(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容。
江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既<??>海舡隻。乙仍于。不得己新造。為乎矣。物力不齊、畢役未易、而八月已半、風高可慮。叱分不喩舡造間、海路遠近、偵探之意。曽面禀、為有等以、擇取、此處、軽快漁小舡二隻、給其格粮、而、土着軍官中一人、差定渡海。為有如乎。
江原道三陟鎮の営将が、馳報を為す事。嶺東(江原道)や嶺南(慶尚道)には、既(既存の)・・・(船が無いので)、やむを得ず、(船を)新造した。物資も人力も整わず、(船の新造工事は)容易には終わらなかったが、すでに8月も半ばとなり、風が強くなることが憂慮されるので、新造船を作っている間、海路の遠近を偵探することにしたことについてはすでに直接(備辺司に)申し上げた通りである。此處(三陟)の、軽快な小さな漁船二隻を徴発して、それぞれ水夫と食糧を与え、土着の(三陟の)軍官の中の一人に命じて、(鬱陵島に)渡海させた。

軍官・崔世哲、回還言内矣。身依分付、去月十六日乗舡。而二隻、其沙格、営下待風。為如可。十八日。本鎮前洋八十里許、荘五里津頭、止宿。一日後、二十日、酉時量、幸得順風、二隻、一時掛帆、開洋。

軍官の「崔世哲」は、帰って来て次のように報告した。(以下、軍官「崔世哲」の報告)命令を受け、先月(8月)16日に乗船した。二隻とその水夫は、三陟鎮の陣営で風待ちをした。8月18日、本鎮(三陟鎮)の前洋、八十里ばかりにある「荘五里」の港まで行き、宿泊した。(荘五里港で)一日を過ごしたあと、8月20日の夜6時ごろ、幸いにも順風を得たので、二隻が一斉に帆をかけて出港した。


経夜行船。翌日、日未出時、一点島形、宛然於雲際矣。日出後、雲水徴茫、不見其形。而、向東行舡之際、酉時量、驚涛蕩舟、十餘里間、幾不能渡、意謂水臽而然。是如乎。戌時量、又値怒涛排空。此亦水臽之一派。是齋。又経一宿。

夜じゅう船を走らせ、翌日(8月21日)の日の出前に、一つの島の形が、雲のきわにはっきりと見えた。(しかし)日の出の後には、雲と海ばかりがぼんやり見えるだけで、島の姿は見えなくなってしまった。そのまま東に船を走らせたが、夜の6時ごろ、驚くほど大きな波が船を襲い、10余里(4キロあまり)のあいだ、船をあやつることができなくなった。これがいうところの「水臽」(みずのあな)というものではないかと思う。夜8時ごろ、また大きな波に襲われたが、これまた「水臽」の一派だろう。また一夜を(船中で)過ごした。

二十二日、卯時量、有一泰山、臨。舡頭意謂、頃刻可到。而、波浪汹湧、帆無力、出入進退之間、自致遲延。未時量、菫菫得到、其島北岸。則、地勢絶険、舡泊處極難。乙仍于。就、其風残處、時下陸。而、山石巉岩、連抱之木、簇立掩翳。上不能見天。下不能着。止泊後、風勢不順、有難行舡。是齋。島之東北、有小岐立石九所。而、相距百餘歩許。是齋。

8月22日、朝6時ごろ、大きな山が絶壁のようにそそりたつ姿が見え、船頭が、そろそろ(鬱陵島に)着いても良いころだと言った。しかし波は荒れており、帆の力は無力で、行ったり来たりしているうちに、ずいぶんと時間がかかってしまった。ようやく、午前10時ごろ、島の北岸に到着しました。(島の北岸の)地勢は絶険で、船を着けるのが極めて困難だった。そこで、風がおさまったところで、しばし上陸した。上陸すると、山石は高くそびえる岩であり、連抱の木は、むらがりたって、影となって覆っていた。上は天を見ることができず、下は船を止める所がない。船を止めたあとも、風勢が不順で、船を進めることができなかった。島の東北には、小さい岐(山)のような立石が、九か所有り、そのおたがいの間の距離は、百餘歩ばかりだった。


翌日風殘、回泊於南岸。則有竹田、三。頗有斫取之跡。而、亦有、数<???>伐者抛棄者。是乎等以。其中十餘箇、載<???>。為有。又有、大釜二坐。食鼎二坐。而體非<??>之産。是乎。又有轆轤、引舡之機。而難<???>人之所為。是齋。巌穴之間、可支魚、或或<??>故、諸人持杖、搏殺二口。
翌日、(8月23日)、まだ風が残っていたが、南岸に回って停泊した。そこには、竹田が三か所あったが、非常にたくさん切り取られたあとがあった。そしてまた、いくつかの・・があり、切り取られて、放棄されていた。そのなかの10個余りは、・・・に載せられていた。(・・を載せていました。)また、大きな釜が2個、食事用に使う鼎が2個あり、そのかたちは(我が国の)産物ではないようだ。また、轆轤があった。これは船を引く道具だ。これも(我が国の)人がつくったものとは見えなかった。岩穴の間には、可支魚が、あるいは、・・し、あるいは・・していました。そこで人々は、杖を持って、2匹を搏殺した。

以来、為有於、淹留七八日間、其島而周視。則、不過百餘里之地。其間、不無平坦可行之地。而、大木如麻撑天、終不得着。或有、数馬場自可入之地。而、数少人丁、惧在心、不敢突入。終不得登山。是齋。

それ以来、
滞留していた7~8日の間に、その島をまわって周囲を視察した。その結果、島の大きさ(周囲)は、100余里足らずだった。そこには、平坦で、歩いて行けるような場所も無くはなかた。しかし、大木が麻のごとく繁って、まるで天を支える支柱のようで、ついに、そこに行くことは出来なかた。また馬が何頭か、自ら入って行けそうな所もあったが、(調査隊の)人数も少なく、恐怖心もあったので、あえて突入しなかった。そして、ついに最後まで、山に登ることも出来なかった。

三十日、丑時。逢東風、還為発舡。而終日、無事行舡矣。戌時量、有電光、強風駆雨。驚涛猝怱、帆竹折倒、於舡中。舡板木裂缺、傾覆之患、迫在斯須。舡中諸人、自分必死、是如乎。熟麻大索及鉄釘、適有預備。故。或結或着、以得済。為有在果。所謂風、来東風。故、舡隻如飛。九月初一日、戌時量、幸得還泊。是乎
。往還道里、通、則、晝夜、並七日。是乎矣。海中、無他一點小島止泊。是乎。此外、別無所告之事。是如為。臥乎味納。於為有。臥乎所。
8月30日、午前2時。東風が吹き、帰路につくため出港した。その日は、終日、無事に航海した。(しかし、)夜20時ごろ、雷が光り、強風が吹いて、雨が降
った。大きな波が襲い、竹の帆柱が折れて船の中に倒れた。船の板も砕け、今にも転覆しそうな恐れが迫り、船の中の人は、みな必死だった麻の大索(太いロープ)や鉄釘をあらかじめ適切に備えていたので、(太い綱で)縛ったり、(鉄の釘を)打ち付けたりして困難をやり過ごすことができた。いわゆる柱風と呼ばれる東風が吹いてきたために船は飛ぶように進んだ。9月1日、夜20時ごろ、幸いにも(三陟に)帰り着くことが出来た。往還のみちのりは、あわせて、14昼夜(並七日 7×2)だった。(途中の)海中には、(鬱陵島の)ほかに、船をつけるような小島ひとつなかった。このほかには、別に報告するようなことはない。

往返之間、晝夜七日、是如為有矣。以其小舡、而、帆幅亦少、所受風力不多。故。波涛出没。而、自致遅延。是在果。大舡矱帆、必有愈於小舡。是乎矣。七晝夜、雖半之三日有餘。則、一日之間、似難達、是則可慮。是乎。且、聞、已行人之言、則、毎於夏月、風和時、往来、而一晝二夜之間、方可得達。是如為。臥乎所。『地理誌』、『輿地勝覧』中、「二日風便可到」之説、誠有所據。是<???>此短晷(ひかげ)使不可、白日可到。而黒夜行、舡越其<??> 所着、則、漂流可慮。是齋。
往復の間、昼夜7日は、かくのごとしである。船は小さく、帆の幅もせまく、従ってその受ける風力も少ない。ゆえに、波に翻弄され、非常に時間がかかってしまった。もし、大きな船で行けば、今回のような小舟に比べて、穏やかに行けるであろう。
(往復にかかった)7昼夜は半分(の日程で済んだ)としても3日あまりかかることになる。つまり一日の間では到達は難しいと考えられる。しかし、かつて鬱陵島に行った人の言葉を聞けば、すなわち、毎年夏の月の、風のおだやかな時に往来するならば、一昼二夜の間に到達できるという。『(世宗実録)地理誌』や『輿地勝覧(東国輿地勝覧)』の中に、「二日風便可到」と説かれているが、誠に根拠のあることである。(この部分、とくに前半は不明)昼のうちに着けないで、夜の航行になれば、漂流することも憂慮される。

所謂、已斫之大竹<??>来為有去乙。取而視之、則、無異於西南、進■<???>大小。是乎
。且、見、所謂殺得以来之可支魚、則<??>輿「海狗」「獺」同類、而、異名者也。平海・通川等地、多有其種云。元非稀貴之物。是齋。苧枝竹、蓋叢蒨於原隰(さわ)之間云、可想、曩時人居之址。是乎。釜鼎之排置者、似是、倭人得可支魚、取其油、而、抛棄之物也。且、聞、鈹生苔蝕、已至剥落、似非近年之所置。而、彼人之不常来往、據此可想。是去乎。
いわゆる、(日本人によって)大竹が切り取られている問題については、(島の)西南の部分も同じである。(ここ不明)また、
いわゆる捕殺して持ち帰ったという可支魚を(張漢相が実際に)見たが、これはすなわち、「海狗」や「班獺」の同類で、異名のものである。平海や通川等の地(いずれも朝鮮半島東海岸の地名。三陟の近く)では、その種類のものが多いと云い、それほど珍しい動物ではない。苧枝竹は、湿った原に生えているものだという。(ここは、不明)けだし、曩時(かつて)人が住んでいた跡地だと思われる。釜や鼎が廃棄されて放置されているのは、倭人が捕殺した可支魚の脂をとるのに使い、それを放棄したもののようである。かつ、(軍官の報告を)聞けば、錆びていて苔(こけ)が生え、すでに剥落しているというので、これらのものが放棄されたのは、近年のことではないのであろう。だから、彼人(日本人)が、常に(鬱陵島に)やって来ているのでは無いことは、これらのことからも想像できる。

浅慮如是。惶恐敢陳。是齋。舡役、則、一両日間、可以畢役、是乎所。待風発船。計料。緑由並以馳報。為臥乎事。甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。

以上、浅慮は、かくの如くですが、おそれながら(自分の意見を)のべた。(新造船を造る)船役は、あと一両日の間に終わるでしょう。(船が完成したら)風を待って発船しようと考えている。以上、報告いたします。甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に報告した。  

(4.a)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(A,Bどちらもある部分。)
A 甲戌九月日、江原道三陟營将・張漢相、馳報內、蔚陵島被討事。
B 甲戌九月初二日、営将張漢相、馳報備局。江原道三陟鎮右営将、為馳報事、鬱陵島捜討事。
1694年9月、江原道三陟鎮右営将張漢相が報告した鬱陵島捜討の事。

A 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津、 待風所、發船。綠由曾已馳報、為有在果。
B 去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津頭、待風所、発船。緑由曽馳報、為有在果。
去る9月19日朝10時頃、三陟府の南面荘五里津の待風所から発船した事についてはすでに報告したとおりである。

A 僉使、與別遣譯官・安慎、領來諸役各人、及沙格并一百五十名、騎 船各一隻、
B 使、別遣譚官・安慎、領率員役各人、及沙格一百五十名、騎ト舡各一隻。
(三陟)僉使(の張漢相)は、別遣の譯官である安慎微とともに、諸役の各人、および船員(漕ぎ手)などあわせて150人を領率して、卜(ぼく)船(大きい船)2隻にそれぞれ乗船した。

A 汲水船四隻、良中、從其大小分載。
B 汲水舡四隻、良中、従其大小分載。
4隻の補給船に(荷物の?)大小によって(荷物を?)分載させた。

A 同日巳時量、囬西風開洋。是如乎。
B 同日巳時量、因西風開洋。是如乎。
同日朝10時頃に西風が吹いたので、(出航した。)

A 戍時、  到大洋中。波濤險巇之勢、五里許二。是乎所。
B 戌時量、到大洋中、波涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。
午後8時頃、大洋に出たが、波浪が危険で激しい勢いが五里ばかりのうちに、二箇所あった

A 必是水宗、而諸   波浪、所觸   渙散、無適所向。是如乎。
B 必是水 、而諸船為波浪、所觸一時渙散、莫適所向。是如乎。
これはきっと「水宗」というものであろう。高波を避けられず、波浪のために船団がばらばらになり、所在が分からなくなってしまった。

A 同月二十日、子時、
B 同月二十日、子時量、
9月20日夜中の12時頃に、

A 漸入深洋、黑雲自北蔽天、而電光閃爍、影澈波心。
B 漸入深洋、黒雲自北蔽天、而電光閃爍、影徹波心。
深い外洋にゆっくり入っていった。黒雲が北からやってきて天を蔽い、電光が閃いて波に影が映っていた。
(*注:Aに「流」はない。

A 狂風猝起、雨隨至、怒濤翻空、雲海相盪。
B 狂風起、驟雨随至、怒涛翻空、<●●>、
狂風が(にわかに)起こり、続いてにわか雨が降り始め、怒涛が空に翻り、(雲も海も、たがいにゆらぎ

A 所船隻、若浮若沒、危險罔狀。
B    船隻、若浮若没、危険()状。
乗っていた船は浮くがことく、沈むがごとく、危険な状態になった。

A 船中之人、莫不失措 、舉皆惛倒之際、騎船柁木、又從而折破、無制船之策。
B 舡中之人、莫<●●●>、皆昏倒之際、騎舡木、又従而折破 <●●●●>之望而。
船中の人々は正気を失わないものはなく皆昏倒してしまい、その際に騎船の舵の木が折れて船を制御できなくなった。

A 難以櫓木、直挿於 尾及  左右、借以為力。是乎乃。
B 強以櫓木、直挿於 船尾及左右、<●●●●> 是乃。
強いて櫓木を船尾と左右に直接挿し、(?)

A 覆敗之患、迫在須臾。是如乎。
B 覆没之患、迫在斯須。是如乎。
転覆と沈没の恐れが 須臾の間(=すぐそこ)まで迫って来た。

A 風 雨漸息、 天又向曙、  島在北方、水勢東走。
B 風<●●●>、天又向曙、而島在北方、水勢東注。
風雨がようやく収まり、空は明け、北方に島が見えて海の流れは東に向かっていた。

A    船中之人、  因此 甦醒、盡力櫓役、轉展向島。
B 故、船中之人、<因此>甦醒、盡力櫓役、輾轉向島。
船中の人々はこれによって覚醒し力の限り櫓を漕ぎ、島へ向った。

A 巳時、  艱到島之南。  纜石角、暫時下陸。
B 巳時量、到島之南岸、繋纜石角、時下陸。
午前9時から11時の間、何とか島の南岸に到着し、岩に船を係留して暫く島に降りた。

A 炊飯之際、汲水船四隻、     稍稍來到。而卜船不知所向。是如乎。
 炊飯之際、汲水船四隻、自南洋稍々来到。而卜舡叚不知所向。是如乎。
そして料理をしているときに補給船が四隻、ようやく南よりやってきた。しかし卜船は、どこに向かったか、所在が分からない。

A 酉時、 又自南洋而到、各船俱得免
 酉時量又自南洋西至、各舡倶免恙。
午後5時から7時の間、(卜船は)南よりやってきた(西→而?)。どの船も恙無く大波を逃れたようだ。

A 而南岸無  船泊
B   南岸無可舡泊處、仍乎
南岸には船を泊めるところが無かった。

A             東南內、止宿。
B 同日初昏、回泊于東南間涧口内、止宿。
その日の黄昏時に東南の湾に回航して宿泊した。

A    自二十日、  至十月初三日、留住之間、恒雨少日、
B 後、自二十一日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日、
(9月)21日から10月3日の(鬱陵島)滞在の間、ずっと雨が降り晴れの日は少なかった。

A 九月         雪積交下。中峯腰上、雪積餘。是齊。
B 九月二十八九日、雨雪交下。中峯腰上、積雪尺許。是齋。
9月28、29日の両日雨雪が降った。中峯の中腹より上は1尺余りの積雪があった。

A 島之四方、船環審、則、懸岸空、層立壁岸。
B 島之四方、乗船環審、則、懸崖撑空、層巌壁立。
島の四方を船に乗って見て回ったが、空に届くかのごとく崖が聳え立ち、層状の岩が壁のように立っていた。

A 或有空缺、  澗水成流、似是大旱不渴。
B 或有空缺處、澗水成流、似是大旱不渇。
また、そうした岩の間をぬって、谷の水が流れとなっており、(その量は豊富で)大旱魃にも渇することはないようだ。

A 而、其間細流乾溪、不可殫記。是齊。
B 而、其間細流渓、不可殫記。是齊。
そのほかの小さな川や、乾いた谷については、すべてを書きつくすことはできない。

A   其周回、二日方窮、則、其道里、不過百五六十里乎
B 蓋其周回、二日方窮、則、其間道里、不過百五六十里之地。是乎
その(=島の)周回は2日で窮まり、その間の道程は150~160里に過ぎないと思われる。

A 南濱海邊、有篁竹田土處。 是遣。
B 南邊海濱、有篁竹田三處、東西北三方、亦有篁竹田十一、是遣。
南の海浜に、篁竹田が三か所ある。東西北の三方には、また有篁竹田が十一か所ある。

A 東方五里許、有一小島。不甚高大、  海長竹、叢生於一面。
B 東方五里許、有一島。不甚高大、而海長竹、叢生於一面。是齊。
東方五里ばかりのところに、一つの小島がある。それほど高くも大きくもなく、海長竹が一面に叢生している。

A 霽雨■之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌崇相面、此所謂三峯也。
B 両霽雲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、此所謂三峯也。
雨が晴れ、雲が巻き上がった(快晴の)日、山に入って中峯(聖人峰)に登った。南北の二つの峰はたかだかと向かい合い、これが、いわゆる三峯である。

A 西望大関嶺、逶迤之狀。
B 西望大関嶺、逶迤之狀。
西を望めば、大関嶺(朝鮮本土の山)が、うねうねとしているのが見える。

A 東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。  不過三百餘里。
B 東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不過三百餘里。
東に海中を望めば、一島がはるか辰方(東南方向)にある。その(島の)大きさは鬱陵島の三分之一に満たず、遠さ(そこまでの距離)は、三百餘里を過ぎることはない。

A なし
B 而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是齋。
そして、南と北の方角は、両方とも杳茫として、水と天(海と空)は同じ青一色であり、その区別がつかない。(訳注)西と東には見えるものがあるが、南と北の両方向には海と空以外に見えるものはない。

A     北至二十餘里、 南近四十餘里、 回互徃來。
B 自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十 里、北至三十餘里。互回往来。
中峯から、西の海濱に至るまでは三十餘里。東は二十餘里。南は、ほぼ四十里。北は三十餘里である。ぐるっと往来ができる(?)。
(*最後の「互回徃來」の意味わからず。(Aは「回互徃來」)ぐるっと往来ができる(?)。)

A 西望遠近、臆度如斯。   是齊。 
B 四望遠近、臆度<●●●>。是齋。
四つの方角の遠近について、おしはかるに、以上のようである。

A 西望大谷中、有一人居基地三所。又、有人居基地、二所。
B 西邊大谷間、有  人居基址三処。又、有<●●●●>  所
西の大きな谷の中に、人の住んだあとが3箇所見える。さらにまた、別の、人の住んだあとが(2箇所見える。)

A なし
B 北邊長谷、又有人居基址二所。
北の長い谷にもまた、人の住んだあとが2箇所ある。

A 東南長谷、                   亦有人居基地 七所。石葬十九所。
B 東南長<●●●>居基址二所、西南間大谷、有基址七所、石葬<●●●>。是齋。
東南の長い(谷にもまた、人の)住んだあとが2箇所、西南の間の大谷に、住んだあとが七所、石葬が<●●●>見える。

A 船泊、則、東南間口、  僅容四五隻之。而、東南岸、則亦非可藏。是遣。而、東南風、則亦非可藏處。是遣。此處
B 舡泊處、則、東南間澗口、厪容四五隻<之?>地。
船泊處は、則ち、東南間口の谷口にある、厪かに(わずかに)四五隻を容れるところであるが、ここも、東南の風は避けられない。

A 此?、有三釜三鼎、而二釜一鼎、則破傷。    軆樣、非我國之制也。
B 此?<有>釜二鼎、而二釜一鼎、則破傷。釜鼎軆樣、非我國之制也。
ここ(道洞と思われる東南の谷の口の港)には、三釜三鼎があり、また二釜一鼎があったが、破損していた。釜鼎の軆樣は、我國の製品ではない。

A 鼎、則、無足無盖、   可炊二斗米。
B 鼎、則、無足無盖、其大可炊二斗米。
かなえには足もフタもなく、その大きさは米を2斗(20升)炊けるほどである。

A 釜、則、廣經尺許、深可二尺、容盛  四五桶。
B 釜、則、廣尺許、深可二尺、容盛水五六桶。是齋。
釜は、廣さが、直径1尺(30cm)ばかり、深さが二尺(60cm)ほどで、
容積は、水を五六桶、盛ることができるほどである。


A 西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。
B 西邊大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而所。
西方の大谷は、谷が潤って川となっている。川沿いが広く開けている様子は、ここが島中で最大である。

A 所泊處船隻可避東南風。  而西風  難避、無非在前泊船之所。
B 泊舡處   可避東南北風。而西風則難避。元非 船泊之所。
船をとめるところは、東・南・北の風を避けることができる。しかし、西風は避けることが出来ない。もとは、船がとまるところではなかった。

A   又有一鼎、可炊米斗、    亦是彼物。
B 而又有一鼎、可容斗米之炊。而是彼物。是乎
また一鼎があり、1斗の米を炊くことができる大きさがある。これも彼ら(日本の)ものである。

邊  岸上、有轆轤。亦非我國所造。
北邊浦岸上、有轆轤。亦非我人所造。是齋。
北の浦の海岸に、轆轤(船を引く道具)がある。またわが国の人が造ったものではない。(日本のものである)

A 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、以下則土山。
B 島中、崗巒重疊。而、山腰以上、則皆是石角、腰下則土山。
島中、山が重畳としている。その中腹以上はみな石のやまであり、中腹以下は土の山である。

A 而、勢絕險、洞壑深邃。樹木連抱參天而蔽日者、不知其幾許。
B 而、山勢絶險、洞壑深邃。連抱樹木參天而蔽日者、不知幾其許。
そして、山は険しく、谷は深い。連なる樹木が天に達して、太陽を蔽っており、その(樹木の)数が知れない(ほど多い)。

A      積年空棄之地、人跡不到。
B 叱分不喩、積年空棄之地、人迹不到。
(かぞえきれないくらい?)何年にもわたって、むなしく棄てられた地となっており、人が訪れたことがなかった。

A 故、藤葛結、朽草木添阜排擠錯絕卒非人   所可通逕。
B 故、藤葛結、     有難排   卒非人力之所可通逕。
ゆえに、藤や葛がかたく生い茂り、(朽ちた草や木が丘のようになり)、人力でなければ、それをおしのけて通行することはできない。

A 小小澗谷、不可窮探。
B 小小澗谷、不暇窮探。是
小さな谷は、その有様を尽くして探究することができない。

A 所謂樹木、盡是、
B 所謂樹木、盡是
樹木をのべれば

A 冬栢、紫側栢、黃薜、金  木、嚴木、槐木、榆木、
B 冬栢、紫檀側栢、黄檗、金椢木、嚴木、槐木、木、
冬栢、紫檀、側栢(コノテガシワ?)、黄檗、金椢木(クヌギ?)、嚴木、槐木、榆木

A 楮、      椒、楓、桂樹、栢之類。
B 桑、楡、楮、椒、楓、檜樹、栢之類。
桑、楡、楮、山椒、楓、檜樹、栢の類。

A 而、其中、冬紫檀、  最多。
B 而、其中、冬栢紫檀、最多。是乎弥。
その中で冬栢と紫檀が最も多い。

A 松木、直木、■木、橡等、木、終無一株。
B 松木、真木、欅  、橡、木、終無一株。
松、槙、欅、橡、などの小木は終に一株も無かった。

A 而、羽則鷗、毛則貓兒而已。
B 而、羽則烏鷗。毛則鼠而已。
そして、鳥類は、からす、かもめ。獣は、猫とねずみだけである。

A 此外、別無飛走之屬。
 此外、他無飛走之屬。是乎所。
このほかに、飛走之屬(動物)は、いない。

A 既無人居、又無木實可食。
B 既無人居、又無木宲可食。而然是乎、喩亦甚可怪。是齋。
すでに、人の住処はなくなり、また木の実の食べられるものもない。

A 而水族、則只有 魰魚、 而沿邊石堆、或十、或百、成羣穴居、大如駒犢、小如犬豕。
B   水族、則只有可支魚。而沿邊石堆處、或十、或百、成群穴居、大如駒犢、小如犬豕。是乎
また、水族は、ただ可支魚(アシカ)だけがいて、沿岸の石の堆積したところに、あるいは10、あるいは100と群れをなして穴居しており、大きいものは「馬」や「子牛」ぐらい、小さいものは「いぬ」や「ぶた」ぐらいである。

A 間有生鰒、  付諸岸磧者、軆小  味薄。
B 間有生鰒、附諸岩磧者、軆小而味薄。是
あわびがあって、岩についているが、体は小さく、味はうすい。。

A 四方浦邊、破船板木、片片飄着者、處處有之。
B 四方浦邊、破船板木、片片漂着者、處處有之。
四方の海岸には、破船の板木が、ばらばらになって漂着しているところがあちこちにある。

A 而、或    鉄釘、 或  木釘、或  腐傷者、
B 而、或<着●●>、或着木釘、或有腐傷者、
また、あるいは(鉄釘)、あるいは木の釘があり、腐っているものもある。

A 而審其稍木之制 則彼我無別。已為裂破。
B なし
(そして、その木のけずりかた(?)は、彼らのものとわれわれのものと、同じである。すでに、裂破している。)

A 而、東南崖岸、漂散最多。
B 而、東南崖<●●●>最多。是齋。
東南の崖に(漂着物は)最も多い。

A 竹田   東南麓三處、最多。而毎處可   落皮牟三十餘石。
B 竹田中、東南麓三處、最大。<而每処可>落皮牟三十餘石。是乎弥。
竹田中、東南麓の三か處が最大(最多)である。そのいずれも、三十餘石の米?をまくだけの面積(広さ)がある。

A 且兩田、斫竹多。其傍斫置、     數千竿。
B 且兩田、斫竹<●●●●> 置者、無慮數千竿。
かつ、兩田は、切りだした竹が最も多い。切り出しておいてあるのが、無慮、數千竿になる。

A 而、或有陳枯者、或有未者。
B 而、或有陳枯者、或有<●●●>。是齋。
すでに枯れたものもあれば、まだのものもある。

A 自東南間從谷中、向   竹田   十五里許、有小路處。
B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、有小路。
東南の渓谷のなかから、南に向かって、竹田に至るまで、15里(6キロ)ばかりの、小さな道が続いている。

A 此、必取竹者、徃來  逕。
B 此 必取竹   徃來之逕。是齋。
これは、きっと、竹を取るために往来した道である。

A 大抵環一島、皆名山。四面壁立。又   斷缺、則兩成間流水潺湲而已。
B 大抵環一島、皆石山。四面壁立。而少有罅缺處、則兩成澗流水潺湲而已。
おおよそ、島のまわりは、みな石山で、四面は壁のように立っている。山が切れている所が少しあるが、すなわち両側の山の斜面が谷となって、さらさらと水が流れているだけである

A 只一西方山麓、開成洞門、大川流出、
B 只一西山方麓、開成門、大川流出、
ただひとつ、西方の山麓に、谷がひらけ、大川が流出している。

A 而沙礫堆積、不能成浦、船泊甚難。
B 而沙礫堆積、不能成浦、泊甚。是乎
しかし、沙礫が堆積し、浦(港)となることはできず、船を泊めるのは、甚だ難しい。(そして)

A 中有峯巒嵯峨、洞壑、回互雖。無寬豁、猶可開疊。
B 中有峯巒嵯峨、壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎於。
そして、島の中には、高くそびえる山があり、谷があり、島の中の交通は不便でいききが難しい。広い土地がなく、開墾すべきところがない。

A 至於殘山平峽、或有人居基地、石葬而墓木連抱。
B 至扵殘山平夷處、或有人居基址、石葬墓木連抱、廃垣石堆而己。
山間の平坦になっているところに至れば人の住んだあとがあることもあるが、石葬の墓に、木が抱きかかえるように連なり、廃れた石垣がうずたかく積まれているだけである。

(4.b)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(
Bのみ、Aなし。)
B 即不知、何代所居而落棄成、土人不到者、又不知其幾百年。是乎弥。
すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、崩落して棄てられ土となることを人が遮ることがでなくなって幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。

東南澗口、自舡泊處、至竹田、終次大樹。皮上有刀刻字、兵衛、又四郎、吉等三人之名。以倭書刻之。而無姓卒、似下倭之所為。
東南の谷口の、船着場から竹田の終わるあたりにかけて、大きな樹の皮の表面に、刀で刻んだ文字のあとがある。そこには、「住兵衛」「又四郎」「彌吉」という三人の名が、倭の書きかたで刻んである。それは、姓がないことからみて、身分の低い倭人がしたことであろう

且其刻痕、完合、有若自然成字之状。則可想其年久。是乎
さらに、その刻痕は、自然に文字になったように見える。だから、きっと随分昔のものなのであろう。

且、釜之或破、或完者銹生蝕意、非近年之所置是齊。本月。
そして、釜や鼎(かなえ)の、あるいは破損し、破損していない完全なものも、ひどく錆ついていることからみて、近年に放置されたものではないのであろう。

初四日、未時量、似有風便、故船。到西邊澗口、則雨勢霏、日又昏黒。而十月東風、誠不可易。是乎等以。仍為開洋、六船発。子夜以前則火相準。是如可。丑時、以大船一石小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後不知所向。是乎矣。
今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船し、島の西にある谷口についた。(今の「台霞洞」か?)。雨が激しく、日も射さずに真っ暗だったが、10月の東風は、誠に容易には得難いものであったから、海にむけて出発することにした。六隻の船が一斉に出発した。夜中の12時以前は、お互いに火を掲げて目じるしとしたが、翌日の午前2時以降、大船一隻、小船二隻が先になり、あとの三隻は落後して、日の出のあとは、行方がわからなくなった。

東風不止初五日、亥末直抵三陟浦口。
東風は、やまず吹き続け、10月5日、亥の刻のおわりに(=午後11時ごろ)三陟の浦口に到着した。(4日の午後に出発して、翌5日の午後11時に到着とすれば、所要30時間前後か)

而落後小舡二隻、泊於荘五里、待風處、為乎<●●> 
一方、落後した小船二隻は、荘五里の待風處に回泊していた。
(*大■<●●>は未詳。)

初六日、卯時、亦為泊、於三陟浦口、為有在果。
(落後した小船二隻は)10月6日、午前6時ごろに、また三陟の浦口に回泊した。
(「為有在果」は、ありがたいことだ、くらいの意味か?この他にもたくさん出てくる。)

<??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形、水<????> 謂遠不過七八百里。是如。今番往返倶●●<???>可達、則此諸、州猶有一之遠是乎所。
(記録によると風の吹いている日に)高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形が浮かび上がって見えるとあり、(朝鮮半島から)鬱陵島までは、七八百里にすぎないとある。いま、鬱陵島から帰ってきて審査してみると、済州島より倍くらい遠い。

<???>度較。是乎矣。
船のはやい、おそい、風の順逆(といった理由で)どのくらい遠いかをはっきりと証し立てることはできない。(?)

舡之疾鈍、風之順、遠者㮣 <??>遠則又不可以定為證。是
船のはやい、おそい、風の順逆・・・(*あと不明)

冬天、風高之日、険海跋渉、一百五十人、保性命者、莫流。国家之陰佑。是乎等。
冬の風の強い日、危険な海を跋渉し、総勢150人の生命が保たれたのは、国家の陰(かげ)なる佑(たす)けがあったからこそである。

以往返艱、苦之状不一而而煩不散細陳、是斉。
往復の艱苦の状況は、あえて細かく述べる必要もないであろう。

安慎徽、本以衰敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登。是乎矣
(訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が瘡疾(皮膚の病気)となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。

復命有限勉擔載寸寸前進之意分付以送。為乎
復命までの時間が限られており、(*以下不明。次のものを朝廷に送る、というような意味か)

所謂可支魚、搏殺取皮、大中小三領。篁竹五尺許、四箇。紫檀香二土莫。監封上、送於道監営。以為達。局之地。為乎
いわゆる可支魚(=アシカ)、殺して皮をとったもの、大中小、三領。篁竹の五尺ばかりの大きさのもの、四箇。紫檀香、二土莫(「土莫」は単位か)。以上を監封して、本道(江原道)の監営から備辺司に送った。

捜討隻一斤、島圖形一、及輿地勝覧一巻、以軍官賷(もたらす)特上送、為齊僉使、置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏 不能収拾、叱分不喩、圖形一。於為冩出。而此處、師絶無故。不己一行之人、依草費日経営。而終至畫乕遅延、至此不勝、煌恐縁由以馳報事。
捜討して得た生木一斤、本島(鬱陵島)の図形(地図)一本。および『輿地勝覧』一巻を、あわせて軍官にもたせて(朝廷に)上送する。僉使(張漢相)は、三陟帰還後3昼夜、精神が疲労のあまり収拾がつかない。鬱陵島の地図を作成するにあたり、ここ(三陟?)には畫師(絵師)が絶無なので、やむをえず、一行の人の草本により何日もかけて作成したが、そのためこのように遅延してしまった。恐惶にたえない。以上、報告いたします。

9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(Aのみ。Bなし。)
A 大槩(概)、島在三千里海洋之中、船隻不得、任意徃來。おおよそ、鬱陵島は、陸地から3000里の海洋中にあり、船が得られなければ、任意に往来ができない。
則、雖有彼國橫占之舉、除防無策。よって、日本が鬱陵島を占領したとしても、それを防ぐ策はない。
欲設堡鉄、則人民無止接之策。防衛拠点を設置しようとしても、人民と日本人が接触するのを防ぎようがない。(ここ不明)*「鉄」は別字か?

所謂開、樹木陰翳、藤葛成藪。九月積雪、寒氣倍冬。
いわゆる開所は、樹木がおいしげり、藤や葛が藪となっている。九月にも積雪があり、寒氣は冬に倍する。

夜半風殘之時、依然、如兒啼女哭之聲、喧嘩碎長之聲、錚錚耳邊漸近。
夜半に風が殘っている時には、依然として(前と変わらず)、子供の泣くような、女の哭くような聲や、喧嘩の碎長(?)の聲が、錚錚として耳邊に漸近する。
船頭擬其、魍魎海毒之舉妖、或慮率備犯之患。船頭は、それは、魍魎・海毒が妖をなすのだと言い、あるいは、慮率備犯の患があるのかと言う。
吹囉放砲、鼓作聲、則瞬息不聞。ラッパを吹き、砲を放ち、鼓をって、聲を出すが、たちまち、瞬時に、聞こえなくなる。
環島之時、至一處、日暮繋船、巖下炊飯。環島の時、ある處に至って、日が暮れて船を繋ぎ、巖の下で炊飯したことがあった。

次船、沙磧履磨中、有之狀。次船は、沙磧によって履磨中で、はるか遠くにいた。(*不明)
與安慎、同步行三里許、則自中峯、逶迤一、山麓都是、層巖高壁、至而遙開豁。(訳官の)安慎とともに、3里(1.2キロ)ばかり歩くと、中峯からうねうねとした一脈があり、山麓はみな層をなす高い巖壁であり、はるかにひらけていた。
由此路望見、則連及山腰、疊石穴。この路から望見すると、山腹に連なるところに疊石の穴があった。
與慎相議曰、此穴、不無害人、毒物移船、矣。(訳官の)安慎微と相談して得た結論は、此の穴は、きっと人に害となり、毒物は船に移って及ぶであろうということであった。

到三更後、天雨猝下、風浪大作、震雷電光、動山掀海、俄以雨止。
三更(午後11時から午前1時)に到った後、突然に雨が降り、風浪が大いに起こり、雷が震え稲妻が光り、山を動かし海を掀(?)したが、にわかに雨がやんだ。
島、遙聞、巖穴中人之聲。立船頭、望見、則燈燭煌。煙霞が島にち、遙かに巖穴中から大勢の人の聲が聞こえた。船の先頭に立って望見すると、すなわち、燈燭が輝煌としていた。

明日、食後、欲知其夜聞異狀、更泊其處。使軍官・朴忠貞、及砲手二十餘名探知、次入送巖穴。
そのあくる日、朝食後、前夜に聞いた異狀の正体を知ろうと思い、さらにその地に停泊した。軍官の朴忠貞、及び、砲手二十餘名をして探知せしめんと、次ぎつぎに巖穴に入送させた。
則、久而不出、疑其陷坎、使人呼出。ところが、いつまでたっても出てこないので、穴に落ちたのではないかと疑い、人をやって呼び出した。
則、忠貞先出、曰、すると、(軍官の)忠貞が先ず出てきて、こう言った。
「穴三十餘步、豁然開「穴の三十餘步、豁然として開け、ひろびろとしている。
四層築砌、累石皆錬磨、玉色、有文彩也。四層の砌(石畳)を築き、累石は皆、錬磨して、玉色をしており、文彩がある。(*砌:セイ 軒下などの敷き詰めた石畳。 みぎり。石を積み重ねる)
十餘間瓦家、甚極奢、丹青、及之制、非泛然我國搆屋之規則。十餘間の(大きさの)瓦家は、きわめて奢麗で、丹青や舖の制は、およそ我が國の搆屋の規則ではない。
模樣大異、無他見物。而、近入簷下、その様子はは大に異なり、他で見たことがない物である。そこで、近よって簷下に入っていくと、(*簷:エン  屋根の重みを受ける竹のひさし)
則如硫黃・腐肉之嚊、滿鼻敝口、不能遠行、亦分明道。」是去乙。則ち、硫黃や腐肉のような嚊(におい)が滿鼻敝口し、遠くへ行くことができず、また、それが何か分明に説明することもできない。」
僉使、多率船卒六十餘名、親自入見、果如忠貞所告。そこで、僉使が多くの船卒、六十餘名を率いて、親しく自ら入って見ると、果たして忠貞の告げたとおりであった。

屋上、藤葛盤結之中、階砌庭城之、蕭
無一累之塵、非人所居屋上に藤や葛が盤結する中、また階砌(階段や石畳)や庭城の、蕭麗にして、まったく塵も無く、人の所居しているではない
則、強入非分叱、不心迷、宜不忍近入簷下。だから、強入することができず、僉使も、心迷をとりのぞくことができず、簷下に入ることができなかった。(*[使] が抜けているか。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・回船之日、自中峯霞氣、漸廣及海中。回船の日、中峯より霞が上がり、次第に海中へと広がった。

大如山、不知何物、浮沈數度、超出半空、向入山中。
何者かわからない山のように大きなものが、海で数回浮き、沈みしたかと思うと、半空に超出し、山中に入っていった。(*東は別字か?)

風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀、此其他島有異者也。
風雨が大いに起こったが、カミナリのような音ではなかった。その動きは山が崩れるようであり、それは、他の島とは異なる、特異なものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
所謂竹田、處ゝ有之。而上項四千處叚
いわゆる竹田は、島のあちこちにある。その4000か所は、(不明)
二十餘石落只之地。大處三十餘石落只。而皆可引水、作畓(水田)處。是齊。小さいものでも、二十餘石の米を播くくらいの面積がある。大きいものは、三十餘石の米を播くくらいの面積がある。みな、水を引くことが出来て、水田とすることが出来る。
樹木中、紫檀、可作棺板。皆在於山腰落巖之間。樹木の中でも、紫檀は、棺板を作ることができる。みな、山の中腹の岩の間にある。

古昔人民居基地、宛然未泯、則其為空棄、不過百餘年之前。
昔の人が住んだあとは、滅びずにありありと残っており、ここを空棄の地としてから、まだ100年あまりしかたっていない。

溪有洞口、若慮
寇之策、則一夫當百夫之地。島の谷には、洞窟が開いており、ここに拠って日本人の寇を防ぐ策をとれば、すなわち、一人が百人を防ぐに足る土地となるであろう。
彼船欲久為結船、而風浪若開、則船必不保之勢。日本の船が、長く島に繋いでおこうとしても、風浪がひとたび起これば、船はそのままの姿勢を保つことができないのだ。

登島山、審望彼國之域、則、杳茫無眼杓之島。其遠近、未知幾許。
島の山に登って、彼国(日本)の域を審望したが、杳茫として、眼につくだけの島はない。だから日本までの距離は、いまだに不明である。
而地形、似在於彼我間。鼎釜、取竹之路、彼人所為。そして鬱陵島は、日本と朝鮮の国境地帯にあるようだ。鼎も釜も、竹を取る路も、みな、日本人のなしたことだからである。
緑由馳報狀。以上馳報を為す
壬寅春、外後裔、永陽、申光璞書。壬寅の年の春、(張漢相の)外後裔、永陽・申光璞が書す。(*「永陽」は申光璞の号か)


58 comments:

  1. Kaneganese様

    Thanks a lot for your great endevour!

    BTW, 張漢相が武官になり通信使の一員として日本に来た時はまだ張禧嬪が禧嬪という身分になる前ですから張という苗字が同じだけで関係ないのでしょうか。

    張禧嬪は1688年に王子(後の景宗)を産んでおり、これ以降粛宗に取り立てられていきます。

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  2. This comment has been removed by the author.

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  3. pacifist様

    「張禧嬪」の情報、ありがとうございます。下條先生の「竹島は日韓どちらのものか」に、そのあたりの政争の話が載っていましたが、さすがに張漢相とのつながりまではありませんでしたね。私もそれ以上のことは分かりません…

    皆様
    長くなって申し訳ありませんが、是非目を通してご意見を下さい。

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  4. 全体を通してみると不可解なところがあります。

    まず、張漢相が訪れたときは秋の季節風(台風?)の影響で荒れた天候のときであったこと(行きも帰りも大荒れだったと記載されていますし、滞在中も殆ど雨模様であったことが全体から読み取れます。まず、この点が大事なポイントです。

    1)快晴の日に山に登ったとありますが、「両霽雲棬之日」は「快晴」ではなく、荒れた天候の合間のある日に雨が一時的に上がり晴れ間が見えた時、あるいは雨が上がり雲の切れ目から陽が差したような状況をさしているのではないでしょうか。雲ひとつない「秋晴れ」の日があったとは前後の文章からはどうしても想像できません。

    2)だとすれば、大雨の後の足場の悪い時に雨が一時的に上がったからといって峻険な山に登るのはおそらく困難を伴ったと思われます。8月末の軍官の報告では(その時は風は強くても雨は降っていなかったのに)山に分け入るのは困難だったとあるからです。

    本当に張漢相は山に登ったのかどうか、疑問だと思います。

    3)山の上から東側に300余里ある島が見えたとしている箇所は一番問題の箇所です。朝鮮の里(0.4km)で計算すると120km(Liancourt Rocksなら92km)離れた島を雨上がりの晴れ間の日に見たとすれば、驚くほどの幸運です。快晴の日でも年に何回かしか見えないLiancourt Rocksが本当にこの時見えたのでしょうか。

    私は張漢相は実際には山に登っていない、300余里東に島影も見ていない、・・・と想像します。島のあちこちから眺めた状況などから報告書を書いたのではないでしょうか。東側300余里にある島についてはどこで知識を得たかは不明ですが・・・

    いずれにせよ、張漢相がこのはるかかなたの島を朝鮮領と考えていたとは思えません。その点は皆様と同じ考えです。

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  5. Wow! That is a long post, and it looks like a good one.

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  6. Kaneganeseさま

    ありがとうございます。
    朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」が、全体として紹介されたのは、これがはじめてではないかと思います。

    こうした一次資料を、丁寧に読んで、
    その意味を、自分の頭で考える、という作業はとても大事だと思います。

    解釈に意見が違うのは当然だし、
    何人もの人が考えを表示しあっていけば、その中から共通点も見出せていくでしょう。


    韓国側は、これができていない。

    いわば、「解釈の独占権」が、国家にあって一般市民にない、というのが一番の問題だと思います。

    学者たちも、国家による「解釈の独占」に、誰一人、反対しようとしていない、ということも。

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  7. Thanks, Gerry

    After the discussion in Japanese, I'm going to translate them into English later. It is very important to read whole document and compare both document. They look similar, but the difference is apparent and critical.

    matsuさん

    素人にも分かるような詭弁を弄し、都合のよい一文だけ取り出して解釈することは、決して韓国の国益にかなうことではないことを柳さんに自覚して頂きたいです。それを批判しない韓国の学会やマスメディアも同罪でしょう。それは、学問の自殺であり、国家の信用を失わせることになると思います。誰かそうした広い視野を持った勇気のある韓国人が出てくるといいですね。大韓民国がこのあと何千年も続くにはこうした国家による恣意的な歴史歪曲は癌になると思います。

    ところで昨日の真夜中に気がついたのですが、朴世堂『西渓雑録』は、別の版もあるようです。そちらは字は欠けていないようですが、若干違うようです。

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  8. Blogger Kaneganese said...

    ところで昨日の真夜中に気がついたのですが、朴世堂『西渓雑録』は、別の版もあるようです。そちらは字は欠けていないようですが、若干違うようです。

    Please adavice which website we can check it?

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  9. GTOMR,

    What I got is just a few pages, and I don't know if it is available on the net. I heard there are few copies of Pak's book. I'll ask the person who gave it to me for the rest of the pages. It has no holes like the one we had been deciphering.

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  10. Kaneganeseさま

    朴世堂『西渓雑録』鬱陵島の最初の部分ですが、柳美林論文では確かに4つの部分にわけていますが、最初の二つは、むしろ『臥遊錄』を写した部分、とすべきだということに気がつきました。

    柳美林は、最初の二つを
    (1)『新増東国輿地勝覧』を引用した部分
    (2)文禄の役の際に捕虜となり日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。

    としていますが、
    『臥遊錄』を見てみると、まったく同じで、朴世堂がわざわざ『新増東国輿地勝覧』を見て引用したのではなく、『臥遊錄』をそのまま写しただけだということがわかります。

    よって、
    (2)文禄の役の際に捕虜となり日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分。
    も、もちろん、朴世堂みずから僧侶から聞いた体験談ではなく、『臥遊錄』の写しに過ぎないことが分かります。

    朴世堂『西渓雑録』鬱陵島の最初の部分
    最初のページ
    http://farm4.static.flickr.com/3609/3327686312_23b519642c_b.jpg
    2ページ目
    http://farm4.static.flickr.com/3382/3326850917_42dc3dc60c_b.jpg
    3ページ目
    http://farm4.static.flickr.com/3366/3326849315_1669b95be0_b.jpg

    冒頭の「地誌」という文字は、臥遊錄にはありますが、朴世堂の写本にはありませんね。

    『臥遊錄』
    最初のページ
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004801&imgsize=

    2ページ目
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004802&imgsize=

    3ページ目
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004811&imgsize=

    つぎのページ(空白)
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004812&imgsize=

    活字起こし
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?mode=&page=&fcs=&fcsd=&cf=&cd=&gb=&aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=009&aa20no=24513_009_0038&pageid=&gnd1=&gnd2=


    僧侶が、鬱陵島に行ったというのが
    嘗遇一僧、自稱壬辰之亂俘入日本、丙午隨倭船、至鬱陵島。
    とあり、
    壬辰之亂(1592年)後の「丙午」の年ですから、1606年。
    朴世堂までは時代がはなれすぎているわけですね。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『臥遊錄』については、あるいは、この「僧侶の話」が話題になっていた時に、詳しい情報があったかもしれませんが、韓国の百科事典サイトを翻訳しておきます。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    와유록[ 臥遊錄 ]
    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=291004&v=43
    조선 후기에 편찬된 기행 시문 선집(選集). 12권 12책. 한문필사본. 조선 후기에 많아지는 문인들의 산수 유람의 편의를 위하여 역대 산수 유람에 대한 시와 문장을 모아 편찬하였다. 편자는 밝혀져 있지 않다.

    臥遊録
    朝鮮後期に編纂された紀行詩文選集。12巻 12冊。漢文筆写本。
    朝鮮後期に多くなる文人たちの山水遊覧の便宜のため、歴代の山水遊覧についての詩や文章を集めて編纂した。編者は不明。

    유만주(兪晩柱)의 흠영 欽英에 그의 족조(族祖) 유척기(兪拓基)가 우리 나라의 문집에 실린 유기(遊記)를 취선하고 부를 나누어 합편하여 와유록을 만들었다고 하였으나, 천수가 맞지 않는다.

    兪晩柱の『欽英』に、彼の族祖・兪拓基が我が国の文集に載せられた遊記を取選して部に分けて合編し、『臥遊録』を作ったとしているが、年代が合わない。

    유람의 대상 지역은 금강산이 가장 많고, 지리산•묘향산•가야산•송도 등에 대한 것도 상당한 양에 이른다. 그밖에 백두산•울릉도•두타산 등에 대한 것도 있다.

    遊覧の対象地域は、金剛山が一番多く、智異山・妙香山・伽揶山・松都(開城)などについても相当量にのぼる。その他に、白頭山・鬱陵島・頭陀山などについてのものもある。

    자료의 문체적인 성격도 매우 다양하다. 가장 주를 이루는 것은 산수유기(山水遊記)이며, 송서류(送序類)도 상당한 양을 차지하고 있다. 소수이기는 하지만 서독류(書牘類)도 있다. 또 고시(古詩)를 중심으로 한 한시 자료를 취택한 것도 상당수에 이르고 있다. 이와 같은 복합적인 구성은 다양한 와유(臥遊)의 자료를 제공하기 위한 것이다.

    資料の文体的な性格も非常に多様である。最も多いのは山水遊記で、送序類も相当な量を占める。少数ではあるが書牘類もある。また古詩を中心に漢詩資料もかなりの数を取択している。このような複合的な構成は、多様な「臥遊」の資料を提供するためである。

    이 책의 제목인 와유 라는 말에서 드러나듯이 직접 가보지 못하는 사람에게 대리충족의 역할을 하기 위하여 특정한 승경의 유적과 모습, 연혁 등을 자세히 적은 산수유기뿐만 아니라 승경에서의 유흥을 기록한 시나 문을 다양하게 실어온 것이다. 직접 산수를 찾지 않더라도 기록을 통해 산수의 흥을 돋우기 위하여 이러한 체제를 택한 것이다.

    この本の題目である「臥遊」という言葉にも現われているように、直接行って見られない人の代理充足の役割を果たすため、特定の勝景の遺跡や姿・沿革などを詳らかに書いた山水遊記をはじめ、勝景での遊興を記録した詩や文も多様に載せている。直接に山水を尋ねなくても、記録を通して山水の興を得るためにこのような体裁を選んだのである。

    이 책은 우리 나라 명승지와 그곳에 있는 문화유산의 실태, 산수 유람의 풍속과 당시 사람의 세태 등을 살필 수 있는 중요한 자료이다. 국문시가의 연행, 가무의 풍속, 독서 습관, 특정지역의 구비문학 등 매우 다양한 분야를 연구하는 데에 소중한 자료가 된다.

    この本は、我が国の名勝地とそこにある文化遺産の実態、山水遊覧の風俗と当時の人の世相などを察することができる重要な資料である。国文詩歌の連行(流行?)、歌舞の風俗、読書習慣、特定地域の口碑文学など非常に多様な分野を研究する重要な資料になる。

    또 이 책에는 다른 문헌에 보이지 않아 그 존재가 알려지지 않은 글들이 상당수 수록되어 있어 자료적 가치가 높다. 고려 익장(益莊)의 낙산사기 洛山寺記, 고려 무외(無畏)의 달마산기 達摩山記, 박은(朴誾)의 유천마산록 遊天磨山錄, 남곤(南袞)의 유백사정기 遊白沙汀記, 윤춘년(尹春年)의 유관서관동록서 遊關西關東錄序, 김수온(金守溫)의 증숭은도자서 贈崇隱道者序, 조현(趙玄)의 동국명산동천주해기서 東國名山洞天註解記序•제명산동천지해후 題名山洞天誌解後, 필자를 알 수 없는 유금강산서 遊金剛山序•유천축산록 遊天竺山綠 등이 그러한 예이다.

    またこの本には、他の文献に見えず、その存在が知られていない文章等かなり多数収録されていて、資料的価値が高い。
    高麗・益荘の「洛山寺記」、高麗・無畏の「逹摩山記」、朴誾の「遊天磨山録」、南袞の「遊白沙汀記」、尹春年の「遊関西関東録序」、金守温の「贈崇隠道者序」、趙玄の「東国名山洞天註解記序」・「題名山洞天誌解後」、筆者不明「遊金剛山序」・「遊天竺山緑」などがそうした例である。

    한국정신문화연구원 장서각 도서에 있고, 같은 곳에서 표점하여 영인하고 출판하였다.

    韓国情神文化研究院、蔵書閣の図書にあり、同所で表点して影印出版した。

    참고문헌 臥遊錄 解題(이종묵, 한국정신문화연구원, 1997)
    参考文献 臥遊録 解題(イ・ジョンムク韓国情神文化研究院, 1997)

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    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「韓国情神文化研究院、蔵書閣の図書」といえば、この
    朴世堂『西渓雑録』と同じところが所蔵していることになります。


    Kaneganeseさんがご覧になった、別の写本、というのは、この「臥遊錄」の部分のことではないでしょうか。

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  11. 朴世堂『西渓雑録』をめぐっては、Yabotarou01さんとararenomotoさんたちのあいだで、2007年暮れから08年にかけて、Yahoo掲示板で論争がありました。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=
    1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16028&thr=16028&cur=16028&dir=d

    この時、この「僧侶の話」は、直接、朴世堂自身が聞いたものとして、また鬱陵島や于山島についての論評も、朴世堂の直接のものとして、解釈されていたように思います。

    ところが、この朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」の前半部分は、上の画像で比べてわかるように、『臥遊錄』「鬱陵島」の文章と、全く同じです。

    Yabotarouさんは、早くから、この『臥遊錄』を紹介されていますが、この『臥遊錄』の著者は、朴世堂とは別人ではないでしょうか。
    すなわち、すでに世に出ていた『臥遊錄』の中の「鬱陵島」という文章を、朴世堂が筆写したものが、この朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」の前半部分だと思います。

    そう考える根拠は、年代です。
    このお坊さんが倭の船で鬱陵島に行ったというのは、「丙午」の年です。
    これについて、私は1606年と考えます。

    Ararenomotoさんは、逆に、朴世堂の生存年代(1629~1703)から、1666年と解釈されていますが、
    壬辰之亂(1592年)(慶長の役まで考えても1598年まで)の捕虜が、その捕虜になった話と関連づけて語るには、1666年では遠すぎると思います。

    また、秀吉の戦争の捕虜たちが、徳川幕府との和平交渉によって、朝鮮に帰っていくのも17世紀の初めのことで、1606年とすれば年代があいます。この当時はまだ、日本側の船が、鬱陵島に頻繁に入れたのだと思います。そして、この倭人たちは、竹をとり、薬草をとっていた。このお坊さんも、逃げ出した、ということではなくて、同じ倭人の船で寧海に来たのだろうと考えます。

    とすると、この僧侶の話を聞いて、鬱陵島や于山島の情報を書き留めたのは、『臥遊錄』の著者、ということになります。

    そして、ここでは、

    嘗遇一僧、自稱壬辰之亂俘入日本、丙午隨倭船、至鬱陵島。

    「かつて一人の僧にあった」と一人称で語られており、僧侶の話を聞いたのは、『臥遊錄』の著者の体験、ということになります。

    それは、1606年からそれほど遠くない17世紀の前半のことで、鬱陵島についての朝鮮側の知識は、非常に不十分な時代であったと考えられます。

    ReplyDelete
  12. matsuさん

    素晴らしい。そのとおりだと思います。今確認しましたら、私の見たものは確かにご紹介の『臥遊録』と同じものでした。そして、一部写し損じと思われるところを除いて『西渓雑録』とほぼ一致しています。『新増東国輿地勝覧』の抜粋であるには間違いありませんが、面白いことに、「于山島 鬱陵島 一云武陵 一云羽陵 二島在縣正東海中 三峯岌嶪撑空 南峯稍卑 風日淸明則峯頭樹木 及山根沙渚 歷歷可見 風便則二日可到 一說于山鬱陵 本一島 地方百里 」という、一節が『臥遊録』と朴世堂『西渓雑録』にはありません。

    ちなみに、『臥遊録』についてはGerryがこちらで紹介しています。

    "Wayurok" (臥遊錄) - Ulleungdo (鬱陵島 - 울릉도)Yahoo!での討論はよく存じ上げていないのですが、1606年に帰国した僧から『臥遊録』の著者が聞いた話、とするほうが辻褄が合うようです。柳氏にしろ、Ararenomoto氏(arare氏と同一人物?私は例え違うブログや掲示板であっても、同じテーマのもので違うIDを使う人物は信用しないことにしています。Steve Barber氏の存在を完全に無視するの理由のひとつです。)にしろ、韓国側の論者にとってこの部分が朴世堂のオリジナルではなく『臥遊録』の丸写しであることを無視、または否定することは何か意味のあることなのでしょうか?朝鮮半島から鬱陵島までの距離が論点になっていることが明らかになるために不都合だと思ったのでしょうか?

    ちなみに、当該ポストでGTOMRさんが大変興味深いコメントをされています。There are another record about Ulluengdo on .『臥遊録』「which referenced from 李山海's 『鵝溪遺稿』「蔚陵島説」
    http://www.itkc.or.kr/index.jsp?bizName=MK&url=/MK/MK_NODEVIEW.jsp%3Fseojiid=kc_mk_h001%26gunchaid=av003%26muncheid=01%26finid=003
    cf:李山海 1539-1609c.a.

    1629-1703.『臥遊録』「蔚陵島説」
    鵝溪蔚陵島在東海之中 距海濱不知其幾百里也 每秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗 則自嶺東望之 如一后蒼烟撗抹 於水天之間 獨眞珠府與此島

    最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也 箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者 亦翩翩渡海 

    而來及 至海濱垂趐 自墮爲光童所捕者數矣漁人舟子或凜 到島傍見萊根蔬葉隨水出來 而四面皆蒼岩鐵壁 只有一洞門 可捫蘿而入慮有防守者 

    彷徨躅躑不敢近而回棹者有之居是島者未知爲何許人或疑其避役逃罪之輩自相婚嫁漸至繁盛或疑其獠蠻之種據有是島非自近始或疑其果有之

    則豈無一番舟楫之往來豈無一物可交貨有無於他境乎疑者不一無所歸宿終置是島於茫昧恍惚無何有之鄕豈退之所謂桃源之說誠荒唐者歟噫 

    仙神之說尙矣所謂蓬萊方丈瀛洲未知 果眞有而崑崙玄圃見之者抑誰歟如使神仙不有則已有之則是島也妥知蓬萊崑崙之一而異人仙客之所在耶

    一幅布帆便風高掛則不過一晝夜之頃可以致身其間而世之羣疑衆惑從此可破旣不得此則令人徒費引領東望而空入於夢想吟咏之中悲夫

    ReplyDelete
  13. ”朴世堂と張漢相は皆日本側から独島が朝鮮地という確認を受けた肅宗の時の漁夫安竜福と同時代人物という点で
    これらの認識はもっと重要な意味を持つというのだ。”(朝鮮日報)
    http://toron.chu.jp/take/krmaps/bokuseidou.html

    ”1629-1703.『臥遊録』「蔚陵島説」
    鵝溪蔚陵島在東海之中 距海濱不知其幾百里也 每秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗 則自嶺東望之 如一后蒼烟撗抹 於水天之間 獨眞珠府與此島”

    なるほど、柳氏はじめ韓国側の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」の一節が安龍福と同時代の朴世堂の私見で、安龍福より時代が古い『臥遊録』からの引用であっては困る理由が分かってきました。

    ReplyDelete
  14. matsu さん


    Yabotarouさんは、早くから、この『臥遊錄』を紹介されていますが、この『臥遊錄』の著者は、朴世堂とは別人ではないでしょうか。
    すなわち、すでに世に出ていた『臥遊錄』の中の「鬱陵島」という文章を、朴世堂が筆写したものが、この朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」の前半部分だと思います。


    なるほど。あらためて調べてみると朴世堂が『臥遊錄』の編者であるとはどこにも書かれていないようです。


    また、秀吉の戦争の捕虜たちが、徳川幕府との和平交渉によって、朝鮮に帰っていくのも17世紀の初めのことで、1606年とすれば年代があいます。この当時はまだ、日本側の船が、鬱陵島に頻繁に入れたのだと思います。そして、この倭人たちは、竹をとり、薬草をとっていた。このお坊さんも、逃げ出した、ということではなくて、同じ倭人の船で寧海に来たのだろうと考えます。


    これについては半月城氏も指摘されていますが、和平交渉による捕虜の帰還は対馬経由以外にありえないはずです。それに捕虜帰還以外の目的でとっくに戦争の終わっている1606年に日本人の乗った船が捕虜を鬱陵島に連れて行くはずはありませんが、日本人が捕虜を帰還させる目的で鬱陵島に連れていったのであれば「捕虜同士語り合って鬱陵島から逃げ出した」と僧侶が語っているのは不自然です。つまり僧侶の話には何らかの嘘があると思われます。
    私は僧侶の話は国禁であるはずの鬱陵島入島を正当化するためのいいわけの可能性があると考えます。ただし鬱陵島の状況について非常に詳しく語っていることを考えれば、僧侶本人が鬱陵島に行ったことがあるか少なくとも鬱陵島に行った人の情報を僧侶が知っていたとは信じられます。「日本人が竹をとり、薬草をとっていた」というのも事実でしょう。

    ReplyDelete
  15. 『臥遊録』解題、というのがありましたので、翻訳しておきます。
    (多すぎて入らないので、次のコメントに入れます)

    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/HajeView.jsp?aa10up=kh2_je_a_vsu_24513_000&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84%20AA50


    これを見ると、『臥遊録』は、17世紀中葉には成立していたことになります。
    すなわち、 朴世堂の時代には、もうこの文章は存在していた、ということです。

    これについては、2007年暮れからのYahoo論争の時に、すでに半月城さんが指摘しています。

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16083
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16084#under-deli
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16086#under-deli

    (上記2からの引用)
    ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます。(注3)
     それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見られます。(引用終わり)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    すなわち
    「両書共通の種本」(「鬱陵島」)→『臥遊録』→ 朴世堂『西渓雑録』
    または、
    「両書共通の種本」(「鬱陵島」)→『臥遊録』
    「両書共通の種本」(「鬱陵島」)→ 朴世堂『西渓雑録』
    であって、
    朴世堂『西渓雑録』→『臥遊録』ではないことがわかります。

    ここで、「両書共通の種本」(=「鬱陵島」)とは、
    「『新増東国輿地勝覧』からの記述」(柳美林の(1))+「僧侶の話」(柳美林の(2))です。

    柳美林論文では、この「鬱陵島」の記述を、朴世堂自身の見解のようにとっていますが、やはり時代が違うと思います。


    さて、次に、『臥遊録』目録、というものがあります。つまり、『臥遊錄』の目次です。
    全12巻のうち、第8巻の最後のほうに、この「鬱陵島」がのっています。

    卷八      鬱陵島 地誌 四九

    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?mode=&page=&fcs=&fcsd=&cf=&cd=&gb=&aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_001&aa15no=001&aa20no=24513_001_0001&gnd1=&gnd2=&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84&rowcount=10


    これを見ると、この「鬱陵島」の場合、アンソロジーである『臥遊録』の中で、「原著者」の名前のあるべきところに、「地誌」とあります。「地誌」は、すなわち『新増東国輿地勝覧』からの抜粋、ということを意味すると思います。つまり「柳美林の(1)」にあたる部分について、原著者の名前を「地誌」としてあげているということです。そして、(2)にあたる部分の原著者の名はありません。私は、『臥遊録』の「編者」自身が(誰であるかは未詳ですが)、そのまま(2)「僧侶の話」の著者である可能性もあるのではないか、とひそかに思っています。

    いずれにしても、「僧侶の話」は、17世紀前半から中盤にかけて、実際に僧侶から話を聞いた人物によって書かれました。重要なことは、この年代は、安龍福事件、さらには張漢相の派遣よりも、かなり前だ、ということです。そしてその時代は、朝鮮側の鬱陵島についての情報が、非常に不足していた時代です。

    こうした背景を考えるとき、この話は、はたして、柳美林のいうように「鬱陵島から、于山島(=独島)を見た話」なのか、それとも、「東海岸から、鬱陵島および于山島を見た話」なのか。

    GTOMRさんが紹介された、李山海の「蔚陵島説」を見ると、(『臥遊録』の同じ第8巻にあります。「鬱陵島」よりも、少し前に収録されています。=上掲の「目次」参照。李山海の号である「鵝溪」が、著者名として書いてあります。)

    ここにも、東海岸から鬱陵島を見る、という話があります。

    蔚陵島、在東海之中。距海濱、不知其幾百里也。
    每秋冬之交、陰曀捲盡、海氣澄朗、則自嶺東望之、如一后蒼烟、撗抹於水天之間。
    (「后」は「片」の起こしミス)

    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/VolView.jsp?aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=009&aa20no=24513_009_0027

    蔚陵島は、東の海の中にあり、東海岸を隔てて、距離が何百里になるか知れない。
    毎年、秋と冬の交わりの頃、薄暗い雲がすっきりと晴れて、海の空気が清明な時に、
    嶺東(江原道)から眺めれば、まるで一切れの青い煙が、水平線の向こうに横たわっているようである。

    「東海岸から鬱陵島を見る」という話は、実は、この『西渓雑録』の(4)でも、張漢相が捜討から帰ってきた時に、東海岸に帰り着いてから、また鬱陵島を望み見たことが書かれています。
    (前のポストの「8の24」から「9の2」までの部分)(なお、この「倭」は「倍」)

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/03/1693-1703.html


    そして、この「鬱陵島」の(2)「僧侶の話」でも、「于山と鬱陵を見る」という話は、話者の視点が「寧海」に移ってからの記述として現われます。

    天將曉發船、以來日纔晡、已到寧海地面云。盖二島、去此不甚遠、一颿風可至。
    于山島勢卑、不因海氣極淸朗、不登最高頂、則不可見。鬱陵稍峻、風浪息則尋常可見。

    すなわち、于山が低く、鬱陵が高い、というのを、まだ鬱陵島にいた時に鬱陵島から于山島を見た、とすると、記述の視点が行ったり来たりします。一方、東海岸から見た時の見え方である、とすると記述の順序とあいます。

    よって、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に、高い所に登らなければ見えない」というのは、「鬱陵島から、于山島を見た話」ではなく、「東海岸から、于山島・鬱陵島を見た話だ」ということになると思います。

    ここで指摘したいことは、このブログでずいぶん前に紹介されていた、GTOMRさんの説です。
    すなわち、東海岸から鬱陵島をみると、あたかも1島ではなく、2島のように見えることがある、ということです。

    この時代に参照されている「地誌」である『新増東国輿地勝覧』は、于山島・鬱陵島の2島説をとり、2島は、ほぼ同じ大きさで、于山島のほうが本土に近く、鬱陵島の西側にある、という地理観です。その地理観をもって、東海岸から見た于山島・鬱陵島の記述をしているのではないかと思うのです。

    実は、上記の話は、そもそも「此」の意味するものが「寧海」である以上、言わなくても、すでにわかっている話ではあります。しかし、こうした時代背景を考えても、これは、「東海岸から、鬱陵島(および幻の于山島)を見た話」であって、「鬱陵島から于山島(=独島)を見た話ではない」ということが、補強されるかと思います。

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  16. 臥遊錄 解題の翻訳です。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/HajeView.jsp?aa10up=kh2_je_a_vsu_24513_000&keywords=%E8%87%A5%E9%81%8A%E9%8C%84%20AA50

    臥遊錄 解題

    12巻の筆写本。唯一本で、蔵書閣に所蔵されている。四周単辺。半郭23.3×16.2cm。烏糸欄。半葉 11行 24字。双行註。本の大きさ 31.5×20cm、楮紙による綿装本。表題に『臥遊録』とあり、「李東景印」「李王家図書之章」という蔵書印が毎巻の初めのページに押されている。

    編纂者は不明であるが、17世紀中葉までの資料だけが収録されており、17世紀中葉の「山水癖」のあった人物が編纂した本と推定される。文集などの資料から取択して編纂し、原資料の注釈も大部分そのまま収録している。原資料で遊記と遊山詩が別々に編集されていても、この本では同時に載せ、見やすいようになっている。

    『臥遊録』は、大部分の個別作品の下に筆者名を載せているが、そうではない場合には、筆写者が原筆者の名前が分からなかったため書かなかったものと推定される。ただ “失名”になっている作品があるが、これは許筠が逆謀の罪で死刑にされたため忌諱したものと見られる。著者を確認しにくい資料もあり、資料自体が既存の文献に見えない逸文である。

    資料の配列順序は非常に無秩序である。各巻の中では筆者の生存時期順に配しているが、巻を分けた基準はわからない。部分的な錯簡も見える。[遊頭流録](金宗直)の19面から載せられている内容は、[続頭流録](金馹孫)の錯簡であり、[遊頭流録]の19面からの内容は、許穆の[泛海録]の最後の部分に載せられている。筆写本にこのような錯簡が生じたのは、製本過程での失敗と見られる。

    奎章閣にも筆写本7冊の『臥遊録』が伝わっており、基本的な性格は同じであるが、その体裁や収録資料は違う。蔵書閣本の『臥遊録』は、筆者の身分と時代、性向が非常に多様だが、奎章閣本の『臥遊録』は、概して朝鮮中期以後の老論に属する人物が残した遊山記録を中心としている。

    遊覧地域も、蔵書閣本は全国の名山や海外まで及んでいるが、奎章閣本は松都(開城)と 関東(江原道)、関北(咸鏡道)だけが載せられていて、蔵書閣本のほうがより完全な体系を備えている。また、蔵書閣本は、遊山詩、贈序類、稗説類など、多様な文体のものを収録しているのに比べ、奎章閣本は山水遊記がほとんど大部分を占めている。朝鮮中期までは重複する作品もあるが、後期のものは重複しないので、蔵書閣本と奎章閣本を合わせれば、より完全な『臥遊録』となる。

    「臥遊」とは、『宋史・宗炳伝』に由来する用語で、山水画をもって遊覧の代わりをする、という意味である。非常に生動感ある遊記や図画・記録などを称えるときに言う。したがって『臥遊録』とは、該当の山水を直接遊覧することが出来ない人に代理充足の機会を与えることや、老年の慰みにするという目的がまず内包された名称である。このような山水遊覧の記録は、他の人の遊覧の道案内として、また新しい遊覧記録の創作の時の参考書の役割も果たした。朝鮮後期の金昌翕(1653〜1722)は、金鋼山遊覧に蔵書脚本『臥遊録』を持参したと言う。

    我が国の山水遊覧記録は、林椿、李仁老、李奎報の時代に現われ始め、高麗後期から朝鮮時代になってさらに増えた。特に朝鮮前期には遊覧の範囲が拡がって、同じ所について、多くの文人たちが、同時に記録を残した。朝鮮後期には、遊山がさらに多くなり、非常に膨大な記録も登場した。そして個人が著わした遊覧記録が独立した成冊となり、『臥遊録』のような遊覧文学選集が出るようになった。

    『臥遊録』に載せられた遊覧記録の作者たちは、その世界観と遊覧の目的によって、さまざまな遊覧態度を見せている。儒家的世界観を明確に現わす作者は、山水遊覧を通じて、心性を修養しこれを治民にまで拡充することを目的にして、性理学的事物観を遊覧過程で見せている。また学問的考証を通じて仏家や道家、その外の民間風俗を批判したり、仏家や道家の思想が盛られた地名を儒家的なものに変えたりした。道家系列の作者は、道家の名残を伝えるとか、避世の場所を提示しようとする意識を見せた。しかし大部分の遊覧記録は、特定の世界観を立てない、一般の文人たちが書いたもので、これらは遊覧を浩然之気の涵養方法としたり、文学修業の重要な修練過程と見た。また、金時習のように不遇な境遇に置かれた人は、社会に対する怒りを遊覧を通じて発散しようとした。

    【資料的特性及び価値】

    『臥遊録』の資料的価値は高い。第一、他の文献に見えない作品が多く収録され、該当の作家に対する研究に役立つ。第二、当時の文士たちが読んだ書目が紹介され、中国書籍の流入の様相と、文士たちの読書範囲がよく分かる。第三、各地の文化遺跡に対する言及を通じて、該当する時期の文化遺跡の存在とその状態がよく分かる。第四、遊覧に向かい合う事を通じて、当時の人情物態がよく分かる。五番目、遊覧の風俗で国文詩歌の連行過程が見られる。六番目、各地の遊覧地と係わる詩文を紹介することで、特定の詩人の文学と人生を研究するのに役立つ。(翻訳終わり)(以下の陶山記の解題は省略)

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  17. 連休明けから突然仕事が忙しくなって毎日残業でへろへろになってしまいなかなか時間がとれなかったのですが、これから少しずつ漢文の訳について検討していきたいと思います。
    朴世堂『西渓雑録』の(1)「『新増東国輿地勝覧』を引用した部分」と(2)「文禄の役の際に捕虜となり日本の船に乗って鬱陵島に行き、帰ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録した部分」はもともと私の訳なのでもっとよい訳があればどなたか指摘していただきたいと思います。



    ただその前に韓国の主張に対しての私の考えを述べておきたいと思います。

    柳美林氏の『蔚陵島事蹟』 についての主張は次のようなものであるようです。


    『蔚陵島事蹟』には「東望海中有一島。杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。不過三百餘里」と鬱陵島から竹島/独島が見えたという記述がある一方で、「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」と鬱陵島から日本が見えなかったとする記述がある。
    竹島=独島は見えたが日本が見えなかったということは張漢相は竹島/独島を日本の領土であると認識していなかったことになる。したがって竹島/独島が韓国の固有領土であるのは明らかである。


    まず「竹島/独島は見えたが日本が見えなかったということは張漢相は竹島/独島を日本の領土であると認識していなかった」という理屈は間違ったものではないと私は思います。
    ただ私が問題にしたいのは「日本の領土でないのだから韓国の領土である」という発想です。日本の領土でないからといって韓国の領土であるとはかぎりません。日本でも韓国でもない無主地であった可能性もあるわけで、韓国の領土であると断定できる根拠はないと考えます。
    言うまでもありませんが、私はただの思いつきでこんな主張をしているわけではありません。竹島を巡る論争には長い歴史があるわけで、これを正しく理解するためには先行する研究者の論説にどのようなものがあるかを詳しく調べておく必要があります。
    いわゆる「良心的知識人」と韓国側から呼ばれている学者の一人である名古屋大学教授の池内敏氏の論文に『青丘学術論集、「隠州視聴合紀」の解釈をめぐって』と題するものがあります。

    http://www.kr-jp.net/ronbun/ikeuchi/ikeuchi.html

    この論文は「隠州視聴合紀」について論じたものですが、上記のurlにある該当論文の本文の一番最後十一ページ目にこのようにあります。

    「この史料をもって、竹島/独島が当時の日本の版図から外れたものと認識されていたとするのは妥当だとしても、それがすなわち朝鮮領だということにはならない。(中略)したがってこの「隠州視聴合紀」なる史料は竹島/独島の帰属を示す歴史的根拠として使用することは日韓いずれの側にとっても適当でなく、そうした議論の現場から退くべきものである。」

    これを読めば「日本の領土でないのだから韓国の領土である」という発想は良心的なものではないことがわかります。
    問題はなぜ柳美林氏はそのような発想に至ったかという所にあります。それは間違いなく鬱陵島から竹島/独島が見えたという記述があるからです。
    韓国の学者は「鬱陵島から竹島/独島は見える。歴史的に鬱陵島から見える島は鬱陵島の属島と見なされてきた。したがって竹島/独島は歴史的にみて韓国領である。」このような三段論法を使っています。
    問題は「歴史的に鬱陵島から見える島は鬱陵島の属島と見なされてきた。」という部分にあります。このような主張に根拠はありません。
    恐らくは世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相距不遠風日清明則可望見」の「望見」はもともと「蔚珍県から于山武陵二島から見える」という意味だったものを韓国の学者の誰かが「鬱陵島から于山島が見える」と読み替えて、「鬱陵島から見える于山島は竹島/独島としか考えられないから古来より竹島/独島は韓国領であった」と主張していたものを、さらに後世の別の学者がこの主張を基にして「朝鮮半島では古来より鬱陵島から見える島を鬱陵島の属島であり韓国領であると認識していた」という解釈を「創出」し、鬱陵島から竹島/独島が見えている写真を大量に集めることによって韓国側の主張の「正しさ」を「より確実に補強」することを「可能」にしたものと思われます。一種のマッチポンプです。
    もちろんこのようなものは底の知れた嘘でしかありません。私がジェトロ図書館で発掘して chaamieyさんに翻訳を依頼した崔南善の「鬱陵島と独島」(1953年)では于山島は鬱陵島または竹嶼のことであると記述されています。
    これを見れば現在の韓国では疑いようのない歴史的真理となっている「于山島は竹島/独島である」とか「世宗実録地理志には鬱陵島から于山島が見えると書いてある」といった発想も1953年当時にはまだ十分浸透していなかったことがわかります。「まだ浸透していなかった」ということは要するに創られたものであり歴史的にずっとそのように考えられてきたのではないということを意味しています。

    (続きます。続きは数日かかると思います。しばらくお待ちください。)

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  18. hint:「回船之日」に「中峯」に登るか。

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  19. matsuさん

    『臥遊録』の解題の翻訳、ありがとうございます。大変参考になりました。いずれにせよ、朴世堂『西渓雑録』の最初の部分が朴世堂自身の手による記述ではなく、17世紀中葉までに既に成立した(1606-1650か)文の転記であったことは間違いないようですね。

    ”『臥遊録』に載せられた遊覧記録の作者たちは、その世界観と遊覧の目的によって、さまざまな遊覧態度を見せている。…しかし大部分の遊覧記録は、特定の世界観を立てない、一般の文人たちが書いたもので…”

    鬱陵島の二つの記録の作者がどういった性質のものか、是非韓国の研究者の研究結果を知りたいものです。

    yabutarouさん

    お忙しいのにありがとうございます。お時間のあるときで結構ですが、この文章は大変重要ですので、よろしくお願いいたします。崔南善「鬱陵島と独島」(1953年)、読みたいですね。

    chaamieyさん

    私も、最後の一文はあまり天気がよくなかった最終日に中峯に上った際の様子だったと解釈しています。(そもそも、この申版は、朝廷に提出した正式な報告書の前段階の日記/草稿のようなもので、朴世堂の写したものが正式な報告書に近い内容なのではないか、と考えています。)

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  20. 申光璞『蔚陵島事蹟』で、最後の日に鬱陵島の中峯に再度登山したと勘違いしていたことに気がつきました。(実際は朴版で帰還後に朝鮮半島の高所から鬱陵島を眺めている。)お詫びするとともに後ほど本文を訂正させていただきますので、ご了承下さい。

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  21. お待たせしました。続きです。

    『蔚陵島事蹟』には、「登島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之島其遠近未知幾許」とあります。鬱陵島から外国の島が見えることがありうると考えたからこそ張漢相は「島の山に登って、彼国(日本)の域を審望した」のであることが大変重要です。たとえ結果的に見えなかったとしてもです。
    つまり『蔚陵島事蹟』のこの記述は韓国側の主張とはむしろ逆に、当時の朝鮮人は鬱陵島から見える島を必ずしも朝鮮領土と認識していたわけではないことを証明しています。

    同じような鬱陵島から見える島についての記述が『承政院日記』の英祖45年(1769 年)10月16日の条にあります。
    国王英祖が家臣の元仁孫に対して鬱陵島についての文書に書き込むべき内容を指示している文章に次のようにあります。

    上曰, 提調與曾經三陟營將解事者, 畫鬱陵島峯巒形勝, 蘆竹·冬春柏·鰒·藿·㺚獸等物以入。紫檀香立於山頂者, 異於花卉, 書名以標。日本山望見者, 亦書標以入, 可也。

    該当ページ(見れないかも)

    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result_s.jsp?M=0&oflag=0&set_id=2916&selK=1&selT=1&query=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%B1&sinfo=&list_per_page=10&chkID=0&opAll=0&opP=0&opA=0&opB=0&opR=0&opT=0&opG=0&opW=0&qAll=&qP=&qA=&qB=&qR=&qT=&qG=&qW=&idS=&idE=&tc=2&pc=2&cp=1&startpos=0&pos=0&a1=&a2=&a3=&a4=&a5=&a7=&a6=&a8=

    英祖45年(1769 年)10月16日の条をクリック(見れない場合はこちら)

    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_king_list.jsp?kid=SJW-F45


    「日本山望見者, 亦書標以入, 可也。」・「日本の山を望見した(する)ということもまた書に記入すると良いだろう。」とあります。
    この記述は鬱陵島を掃討した三陟営将が鬱陵島から見た竹島を日本の山=日本領として報告した記録があったのかあるいは別の事情があったのか私にはよくわかりませんが、少なくとも国王英祖が鬱陵島から外国の島が見えることがありうると考えていたのは明らかです。

    要するに、「鬱陵島から見える島は朝鮮領土である」という認識を記述した歴史的資料は一つもないにもかかわらず、「鬱陵島から見える島は朝鮮領土である」わけでないという認識を記述した歴史的資料が二つあるということなります。
    となると歴史的に見て「鬱陵島から見える島は必ず朝鮮領土である」とは考えられていなかったということになります。(終わり)

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  22. >当時の朝鮮人は鬱陵島から見える島を必ずしも朝鮮領土と認識していたわけではない 


     なるほど、そういうことになりますね。

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  23. 藪太郎さんのお話の続きの記録にはこんなものもありますね。

    1769.10.17承政院日記 45년
    仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。上曰, 然乎? 仍命出去, 監煎以來, 仁孫退出。上曰, 藥房提調, 持湯劑更爲入侍。仁孫持湯劑進伏。陽澤進湯劑, 上進御訖。諸臣以次退出

    1769.11.27承政院日記 45년
    又啓曰, 鬱陵一島, 距倭境不遠, 島中物産, 禁其私取, 法意甚嚴, 而近聞該道蔘貨, 遍行於傍近列邑, 多有現官贖公者, 傳說狼藉, 至及於都下, 此必奸細貪利之民, 冒法採取, 而地方官之矇未覺察, 極爲可駭, 請三陟前府使徐魯修挐問嚴査。上曰, 依啓。

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  24. 鬱陵一島, 距倭境不遠

    "The one island, Ulleungdo, is not far from Japanese area".

    (As I have insisted, 境 does not always mean "border". In this case, 境 means "area". if the author wanted to mean "border", he should have written as 国境 or something different...)

    It is apparent that Korean people in those days believed that Ulleungdo was their eastern limit.

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  25. Yes, very, very interesting passages.

    Could I get some opinions on how to translate the following sentence?

    仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。

    ------------------------

    1769.10.16 承政院日記 45년
    上曰, 提調與曾經三陟營將解事者, 畫鬱陵島峯巒形勝, 蘆竹·冬春柏·鰒·藿·㺚獸等物以入。紫檀香立於山頂者, 異於花卉, 書名以標。日本山望見者, 亦書標以入, 可也。

    1769.10.17 承政院日記 45년
    仁孫曰, 鬱陵島地圖入之, 而日本山則無所望見, 故不爲畫矣。上曰, 然乎?

    1769.11.27 承政院日記 45년
    又啓曰, 鬱陵一島, 距倭境不遠, 島中物産, 禁其私取, 法意甚嚴, 而近聞該道蔘貨, 遍行於傍近列邑, 多有現官贖公者, 傳說狼藉, 至及於都下, 此必奸細貪利之民, 冒法採取, 而地方官之矇未覺察, 極爲可駭, 請三陟前府使徐魯修挐問嚴査。上曰, 依啓。

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  26. 英祖実録 45年10月14日条と16日条、
    および11月29日条に、つぎの記事があります。
    あわせて考えるとよいと思います。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ○英祖実録 45年10月14日条 2番目の記事

    http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wua_14510014_002&tid=&pos=0&mTree=0&inResult=0&clsName=&indextype=1&searchType=a&keyword=&keyword2=&setlist_K=&setlist_W=&detail=0&opH=0&opAll=0&opP=0&opA=0&opB=0&opC=0&opQ=0&chkID=0&qH=&qAll=&qP=&qA=&qB=&qC=&qQ=&idS=&idE=&tabid=w

    領議政洪鳳漢奏曰“聞鬱陵島産人蔘, 商買潛入採之, 倭人若知之, 恐有爭桑之患矣。” 仍請曰: “我國文獻不足, 今於鬱陵島事, 無所考證。 自今博採前後文蹟, 作一冊子, 以爲事大交隣文字好矣。” 上允之。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ○英祖実録 45年10月16日条 1番目の記事
    http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wua_14510016_001&tabid=w

    命提調元仁孫, 與曾經三陟營將解事者, 圖畫鬱陵島峰巒形勝物産以入。
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    ○英祖実録 45年11月29日条 1番目の記事
    http://sillok.history.go.kr/inspection/insp_king.jsp?id=wua_14511029_001&tabid=w

    又啓“ 鬱陵島 地近倭境, 故物産之禁其私取者, 法意甚嚴, 而近聞本島蔘貨, 遍行傍邑, 多有現發屬公者云。 地方官之矇然不察, 極爲駭然。 請 三陟 府使 徐魯修 拿問嚴處。” 從之。

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  27. BTW anyone found the records about the Ulluengdo inspsction by 朴錫昌 on 1711 in 實録 or 備辺司 or 承政院日記 and so on?

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  28. 英祖45年10月16日の記事には「日本山望見」とある一方で10月17日の記事には家臣仁孫が「日本山則無所望見, 故不爲畫矣。(日本の山は見えないので書には書かなかった)」とあるので、この記述から当時の朝鮮王朝が竹島を日本領と見なしていたと断言することはできないのではないかと私は考えます。
    国王英祖は鬱陵島と日本(隠岐)が近いことを知っていてもしかして日本の山が見えるのではないかと推測しただけかも知れません。
    ただその場合でも国王英祖が鬱陵島から外国の島が見えることがありうると考えていたのは明らかです。
    国王英祖が鬱陵島から望見するような位置に朝鮮領土である于山島があるという知識を持ち合わせていなかったのも明らかなことです。

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  29. お待たせしました。「(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容。」の訳ができました。下の訳が私のものです。



    江原道三陟鎮営将、為馳報事。
    江原道の三陟鎮の営将が速報する
    江原道の三陟鎮の営将が報告した事情について
    ・これはタイトルと思われ。馳報の馳は国王や朝廷に報告する時につけるもので訳す必要なし。

    物力不齋、畢得未易、而八月已半、風高可慮。?不喩舡造間、海路遠近、偵探之意曽己面禀
    物資も人力も整わず、(船の新造工事は)容易には終わらなかったが、すでに8月も半ばとなり、風が強くなることが憂慮されるので、新造船を作っている間、海路の遠近を偵探することにした。そこで、すでに直接命じていた通り(?)
    物資も人力も整わず、(船の新造工事は)容易には終わらなかったが、すでに8月も半ばとなり、風が強くなることが憂慮されるので、新造船を作っている間、海路の遠近を偵探することにしたことについてはすでに直接(備辺司に)申し上げた通りです。
    ・禀は目上の人物に使う表現では?

    営下待風為如可。
    営下待風為如可。

    為有於、淹留七八日間、還其島而周視
    滞留期間が7~8日間あったので、その島をまわって周囲を視察しました。
    滞留していた7~8日の間に、その島をまわって周囲を視察しました。

    熟麻大索及鉄釘、適有預備故或結或着、難以得済為有在果。
    した(?)麻や、太い綱で縛ったり、鉄の釘を打ち付けたり、それぞれが対策をとりました。幸いにも、
    麻の大索(太いロープ)や鉄釘をあらかじめ適切に備えていたので、(太い綱で)縛ったり、(鉄の釘を)打ち付けたりして困難をやり過ごすことができました。
    ・「為有在果」は「このような事情でこのようなことになった」という意味ではないかと私は推測します。

    所謂柱風、夲(?)来東風。故、舡隻如飛。
    いわゆる柱風が来たり、風が常に吹き続け、東風により船は飛ぶように進みました。
    いわゆる柱風と呼ばれる東風が吹いてきたために船は飛ぶように進みました。
    ・夲は奔か???

    七晝夜、雖半之三日有餘。則、一日之間、似難涛達、是則可慮。是乎於。
    (往復にかかった)7昼夜の半分は3日だから、片道では3日あまりかかることになる。よって、一日の間では到達は難しいことが憂慮される。
    (往復にかかった)7昼夜は半分(の日程で済んだ)としても3日あまりかかることになる。つまり一日の間では到達は難しいと考えられる。
    ・三日有餘は片道ではなく往復の所要時間。大船なら小船の半分でいけると仮定して往復三日なら片道は一日半、一日の間では到達できない。

    所謂殺得以来之可支魚
    いわゆる殺して得て持ち帰ったという可支魚を
    いわゆる捕殺して持ち帰ったという可支魚を

    倭人殺得可支魚
    倭人が殺して得た可支魚
    倭人が捕殺した可支魚

    鈹生苔蝕、已至剥落、
    錆がひどく、すでに剥落しているというので、
    錆びていて苔(こけ)が生え、すでに剥落しているというので、

    甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に速報します。 
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に報告した。 

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  30. yabutarou様

    ありがとうございます。

    matsuさん、皆様

    朴世堂『西渓雑録』「鬱陵島」の(1)、(2)の部分が申光璞書『蔚陵島事蹟』のものとなっていました。異なる部分を太字で(ただし読めなかったものを赤字にしました。どなたかお分かりになる方は教えてください。)、欠損部分を〈??〉であらわし、申版の該当部分を参考のために括弧書きにしました。

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  31. yabutarouさま

    「(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容」の訳
    ありがとうございます。

    こうした異見をもとにして、読みが正しくなり、深まり、発展するのだと思います。
    ほとんどが、読みなおして下さったものが正しいと思いますが、若干、異見もあります。

    ① >江原道三陟鎮営将、為馳報事。
    >これはタイトルと思われ

    タイトル説に賛成です。
    でも「事情について」ではなく、「江原道三陟鎮の営将が、馳報を為す事」ぐらいの感じではないでしょうか。

    ② >馳報の馳は国王や朝廷に報告する時につけるもので訳す必要なし
    これは、ひとつ、教えていただきました。

    ③>物力不齋、畢得未易、而八月已半、風高可慮。?不喩舡造間、海路遠近、偵探之意、曽己面禀。
    >ことについてはすでに直接(備辺司に)申し上げた通りです。
    >禀は目上の人物に使う表現では?

    これも、その通りだと思います。こうすると、「面」が生きます。

    ③ >営下待風、為如可。

    いわゆる「吏読(りとう)」部分については、くっつけてしまうと、漢字としての意味をとらなければならない本文のところと、いわば「おくりがな」の働きである「吏読(りとう)」との区別がつかなくなるので、何らかの表示が必要と思います。
    御指摘のように、「まる。」ではなく「てん、」で結ぶほうがよいのでしょうね。

    また、たとえば
    営下待風(為如可)。
    というような方法もあるのではないでしょうか。

    ④ >為有於、
    淹留七八日間、還其島而周視
    滞留していた7~8日の間に、その島をまわって周囲を視察しました。
    これもYabutarouさんが正解だと思います。

    なお、「為有於」は、実は私もまちがえていたのですが、前につく吏読の部分だと思います。
    巌穴之間、可支魚、或●或<?、?>故、諸人持杖、搏殺二口、以来(為有於)。


    ⑤ >熟麻大索及鉄釘、適有預備、故或結或着、難以得済為有在果。

    熟麻の大索(太いロープ)や鉄釘をあらかじめ適切に備えていたので、(太い綱で)縛ったり、(鉄の釘を)打ち付けたりして困難をやり過ごすことができました。

    これも、このほうがはるかに良いと思います。
    「熟麻」というものがあるんでしょうか。


    ⑥ >・「為有在果」は「このような事情でこのようなことになった」という意味ではないかと私は推測します。

    わたしも、「為有在果」は、「ありがたいことに」、というような意味があるのかと思っていましたが、実は「吏読」であって、単なる「過去」をあらわすだけのようです。


    ⑦ >所謂柱風、夲(?)来東風。故、舡隻如飛。

    これも、ご指摘のように
    いわゆる柱風と呼ばれる東風が吹いてきたために船は飛ぶように進みました。
    のほうが、良いと思います。

    ⑧ >・夲は奔か???
    ほかにも「夲」の字があり、それらをみると、この字は基本的には「本」ではないかと思います。
    が、「来」は動詞でしょうから、「奔」のほうがふさわしい気もします。

    ⑨ >七晝夜、雖半之三日有餘。則、一日之間、似難涛達、是則可慮。是乎於。
    (往復にかかった)7昼夜の半分は3日だから、片道では3日あまりかかることになる。よって、一日の間では到達は難しいことが憂慮される。
    (往復にかかった)7昼夜は半分(の日程で済んだ)としても3日あまりかかることになる。つまり一日の間では到達は難しいと考えられる。
    ・三日有餘は片道ではなく往復の所要時間。大船なら小船の半分でいけると仮定して往復三日なら片道は一日半、一日の間では到達できない。

    これも、なるほど、と思いました。無理やりにこじつけていたのが、解けた感じです。


    ⑩ >所謂殺得以来之可支魚
    いわゆる殺して得て持ち帰ったという可支魚を
    いわゆる捕殺して持ち帰ったという可支魚を
    >倭人殺得可支魚
    倭人が殺して得た可支魚
    倭人が捕殺した可支魚

    原文には、「捕」にあたる文字がないと思いますが。

    ⑪ >鈹生苔蝕、已至剥落、
    錆がひどく、すでに剥落しているというので、
    錆びていて苔(こけ)が生え、すでに剥落しているというので、

    確かに「苔」が抜けていました。
    「蝕」は「腐蝕」の意味だと思います。動詞が逆のようですが、
    でも、気分としては、「錆びていて苔(こけ)が生え」で良いのだと思います。

    ⑫ >甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に速報します。 
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に報告した。 

    「速報」を「報告」にするのは理解できますが、
    ここは、「以上報告いたします」のような、張漢相の報告文の最後の部分を、朴世堂がそのまま筆記したのではないでしょうか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    この「(3)1694年9月2日、張漢相が軍官の報告をもとに備辺司に報告した内容」は、

    これまで、本文のテキストが韓国側でも全文紹介されたことがなく、かつ、張漢相の本報告を考える上でもいろいろな示唆に富む、貴重な記録だと思います。

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  32. matsuさん


    ① >江原道三陟鎮営将、為馳報事。
    >これはタイトルと思われ

    タイトル説に賛成です。
    でも「事情について」ではなく、「江原道三陟鎮の営将が、馳報を為す事」ぐらいの感じではないでしょうか。

    確かにそちらの方がより漢文の訳っぽいと思います。私の訳は現代語に近いものになっています。このような文章表現の差やです・ます調とだ・である調の違いはどちらか一方に統一すべきと考えます。


    ⑩ >所謂殺得以来之可支魚
    いわゆる殺して得て持ち帰ったという可支魚を
    いわゆる捕殺して持ち帰ったという可支魚を
    >倭人殺得可支魚
    倭人が殺して得た可支魚
    倭人が捕殺した可支魚

    原文には、「捕」にあたる文字がないと思いますが。

    より自然な文章にするために「得」を「捕」に意訳しました。

    ⑫ >甲戌九月初二日、営将、張漢相 馳報備局。
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に速報します。 
    甲戌(1694)年、(肅宗20年)9月2日。営将・張漢相が備辺司に報告した。 

    「速報」を「報告」にするのは理解できますが、
    ここは、「以上報告いたします」のような、張漢相の報告文の最後の部分を、朴世堂がそのまま筆記したのではないでしょうか。


    この文章がもともと備辺司で張漢相が報告した言葉を書記が聞き取ってそのまま文章にしたものであり、それを朴世堂が模写したのであろうということは下のサイトから推測できます。

    朝鮮王朝実録
    LYCOS掲示板「竹島(=独島)の帰属問題」

    http://www.han.org/a/half-moon/hm089.html

    私はこの文章は書記が書き加えたものであると考えましたが、張漢相が語った内容なのか書記が書き加えたものなのかはっきりとは判断しかねます。
    まあ「以上報告いたします」でもよいのではないでしょうか。

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  33. (4.a)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容(A,Bどちらもある部分。)

     甲戌九月日、江原道三陟營将・張漢相、馳報內、蔚陵島被討事。
    1694年9月、江原道三陟鎮右営将が、鬱陵島捜討について急ぎ報告したことを、三陟営将の張漢相が急ぎ報告します。
    1694年9月、江原道三陟鎮右営将張漢相が報告した鬱陵島捜討の事。
    ・鬱陵島を捜討したのは張漢相本人


    去九月十九日、巳時量、自三陟府南面、荘五里津、待風所發船、綠由曾已馳報、為有在果。
    去る9月19日朝10時頃、三陟府の南面、荘五里津の待風所から発船したかつての報告によると、
    去る9月19日朝10時頃、三陟府の南面荘五里津の待風所から発船した事についてはすでに報告したとおりです。

    戌時量、到大洋中、波涛険巇之勢、五里許二處。是乎所。
    午後8時頃、大洋に出たが、波浪が危険で激しい勢いが五里ばかり続く所が二箇所あった。(→五里ばかりのうちに、二箇所あった)
    午後8時頃、大洋に出たが、波浪が危険で激しい勢いが五里ばかりのうちに、二箇所あった。

    所秉船隻、若浮若沒、危險罔狀。
    浮くがことく、沈むがごとく、危険な状態である。
    乗っていた船は浮くがことく、沈むがごとく、危険な状態になった。

    船中之人、莫不失措 、舉皆惛倒之際、騎船柁木、又從而折破龙、無制船之策。
    船中の人々は(茫然自失となり)、皆倒れてしまった。舵の木が折れて(制御不能となった。)
    船中の人々はうっかりして皆昏倒してしまい、その際に騎船の舵の木が折れて船を制御できなくなった。

    覆敗之患、迫在須臾。是如乎。
    転覆と沈没の恐れ、その必須が迫っていた。
    転覆と沈没の恐れが 須臾の間(=すぐそこ)まで迫って来た。

    船中之人、  因此 甦醒、盡力櫓役、轉展向島。
    そこで船中の人々は回復して力の限り櫓を漕ぎ、島へ向かった。
    船中の人々はこれによって覚醒し力の限り櫓を漕ぎ、島へ向かいました。

    九月         雪積交下。中峯腰上、雪積尺餘。是齊。
    9月28、29日の両日雨雪が降った。中峯の腰の上まで積雪があった。(?)
    9月28、29日の両日雨雪が降った。中峯の中腹より上は1尺余りの積雪があった。

    其周回、二日方窮、則、其間道里、不過百五六十里乎。
    思うに、その(=島の)周回は2日で窮まるものとみられ、その周囲のみちのりは、150~160里の地に思われる。
    その(=島の)周回は2日で窮まり、その間の道程は150~160里に過ぎないと思われる。

    東方五里許、有一小島。不甚高大、海長竹、叢生於一面。
    東方五里ばかりのところに、一つの小島がある。甚だしく高くも大きくもなく、海長竹が一面に叢生している。
    東方五里ばかりのところに、一つの小島がある。それほど高くも大きくもなく、海長竹が一面に叢生している。

    東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未滿蔚島三分之一。  不過三百餘里。
    東を望めば、海中に一島が有り、はるか辰方(東南方向)にある。その(島の)大きさは鬱陵島の三分之一未満であり、遠さ(そこまでの距離)は、わずかに三百餘里である。
    東に海中を望めば、一島がはるか辰方(東南方向)にある。その(島の)大きさは鬱陵島の三分之一に満たず、遠さ(そこまでの距離)は、三百餘里を過ぎることはない。

    北邊長谷、又有人居基址二所。
    北の長い谷にもまた、人の住んだあとが3箇所見える。
    北の長い谷にもまた、人の住んだあとが2箇所ある。

    西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。
    西のはずれの大谷は、谷が川となっている。川沿いは、広く開けており、ここが、島のもっとも西である。
    西方の大谷は、谷が潤って川となっている。川沿いが広く開けている様子は、ここが島中で最大である。
    ・「此處、為最而」の「最」は「西方」ではなく「沿邊開豁」では?

    所泊處船隻可避東南風。  而西風  難避、無非在前泊船之所。
    船をとめるところは、東・南・北の風を避けることができる。しかし、西風は避けることが出来ない。(もとは、船がとまるところではなかった?)
    船をとめるところは、東・南・北の風を避けることができる。しかし、西風は避けることが出来ない。もとは、船がとまるところではなかった。

    故、藤葛磐結、朽草木添阜排擠錯絕卒非人   所可通逕。
    ゆえに、藤や葛がかたく生い茂り、(朽ちた草や木が丘のようになり)、それをおしのけて人が通行するのは、とても不可能である。
    ゆえに、藤や葛がかたく生い茂り、(朽ちた草や木が丘のようになり)、人力でなければ、それをおしのけて通行することはできない。
    ・「人力の所にあらずんば通逕すべからず」か?これは余り自信がありません

     大抵環一島、皆石山。四面壁立。而少有罅缺處、則兩崍成澗流水潺湲而已。
    おおよそ、島のまわりは、みな石山で、四面は壁のように立っている。山が切れている所は少ないが、二か所、谷となって、流水のながれがあるところがある。

    おおよそ、島のまわりは、みな石山で、四面は壁のように立っている。山が切れている所が少しあるが、すなわち両側の山の斜面が谷となって、さらさらと水が流れているだけである。
    ・「而已」は「のみ」

    至於殘山平峽處、或有人居基地、石葬而墓木連抱。
    人の住んだあとがあるが、石葬の墓に、木が抱きかかえるように連なり、廃垣の石がうずたかいだけである。
    山間の平坦になっているところに至れば人の住んだあとがあることもあるが、石葬の墓に、木が抱きかかえるように連なり、廃れた石垣がうずたかく積まれているだけである。

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  34. Yabutarouさま

    読み直してくださったところ、ほぼすべてに、ああ、なるほど、と思えて、異議はありません。
    私自身もひっかかっていたところがほぐれて、大変わかりやすくなっていると思います。
    こうして皆さんで読み込んでいくのは、とても意義の有ることだと思います。


    いくつかについてのみ、私見を述べます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    甲戌九月初二日、営将張漢相 馳報備局。

    >備辺司で張漢相が報告した言葉を書記が聞き取ってそのまま文章にしたものであり

    という部分には賛成できません。張漢相は、口頭で報告をしたのではなく、彼自身が書いた文章で(紙で)備辺司に報告したと思います。

    「承政院日記」の場合は、確かに史官たちが国王や廷臣たちの議論をその場で書きとったものでしょうが、張漢相の捜討のような報告は、文書でなされたと私は思います。
    であればこそ、彼の家系にその報告文の草案が残ったのだと思います。

    私は、B「朴世堂版」は、備辺司に残っていた、あるいは備辺司から朝廷に報告された文書を、朴世堂がそのまま写したもので、張漢相の捜討直後の備辺司への報告書。
    A「申光璞版」のほうは、捜討が終わって少し時間がたってからの、「建白書」のような性格を持った「第二の報告書」が残ったのではないかと思っています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    船中之人、莫不失措 、舉皆惛倒之際
    船中の人々はうっかりして皆昏倒してしまい、その際に

    「うっかりして」は、ややそぐわない感じがします。
    「失措せざるものなし」でしょうが、「正気を失わないものはなく」ぐらいではないでしょうか。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。

    「為最而」では意味がとおらないので、最後の「而」を「西」と読みました。
    「而」を次の冒頭におけば、意味はとおりますね。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    A 無非在前泊船之所。
    B 元非 船泊之所
    となっており、

    A 申光璞の、写し間違いだと思います。
    B のままに、もとは船がとまるところではなかった、でよいと思います。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    このように、Aだけではわからなかったのが、Bでわかるところがたくさんあります。

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  35. matsu さん

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    甲戌九月初二日、営将張漢相 馳報備局。

    >備辺司で張漢相が報告した言葉を書記が聞き取ってそのまま文章にしたものであり

    という部分には賛成できません。張漢相は、口頭で報告をしたのではなく、彼自身が書いた文章で(紙で)備辺司に報告したと思います。

    「承政院日記」の場合は、確かに史官たちが国王や廷臣たちの議論をその場で書きとったものでしょうが、張漢相の捜討のような報告は、文書でなされたと私は思います。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


    私がこれを口頭で報告をしたと判断したのは文中に「為有如乎」・「為如可」・「是齋」・「是乎於」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」といった一見意味のなさそうな語句がなぜ使われているのかを私なりに考えてみたからです。
    「承政院日記」のサイトでキーワード「為有如乎」・「為如可」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」で検索してヒットした文をざっと読んでみると、これらの語句が会話の場面で使用されるものであることがわかります。

    「承政院日記」
    http://sjw.history.go.kr/main/main.jsp

    私はこれを見てこれらの語句は書き言葉よりはむしろ話し言葉に多く使われる言語表現ではないかと考えました。
    「是在果」・「為有在果」は日本語の「でした」に当たる言葉を漢訳したものではないかと推測しました。


    matsuさんはこれらの語句が「吏読(りとう)」であるとお考えのようです。
    実は私は吏読という言葉の意味が分かりませんでした。
    私の大学時代の専攻は歴史学ではなくて哲学であって私の漢文の知識は私が大学時代に中国の清代の儒教の一派である考証学についての講義を受けた時のものです。
    当然朝鮮半島に特有の言語表現には詳しくありません。。

    考証学について
    http://www.tabiken.com/history/doc/G/G096R200.HTM

    そこで吏読についてあらためて調べてみましたが、どうもよくわかりません。。

    下のアドレスのpdfファイルにはこのようにあります。

    「吏文」とは、中国でいう「吏牘文」(吏牘体)と同義で、官庁の書記官(胥吏)が用いた公文書用の文体のこと。朝鮮では主として外交文書に用いられる文体を指す。いわゆる「吏読」(朝鮮語の助詞や助動詞を表す漢字を送り仮名のように用いたもの)とは異なる。

    『吏文』と『吏文輯覽』
    http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/ribun.pdf

    この文章では吏読とは朝鮮語の助詞や助動詞を表す漢字を送り仮名のように用いたものであり胥吏の文体は吏読ではないということになります。

    一方下のサイトにはこのようにあります。

    吏読は,広義には口訣・郷札などを含め,漢字を借りた朝鮮語の表記法全般を指す。狭義には吏読文における漢字による朝鮮語表記を指す。吏読文とは,胥吏などが行政文書を作る際に用いた漢字表記の散文を主に指すが,同様の文体で書かれた民間の書簡文についても吏読文と称する。

    朝鮮語学小辞典 - 吏読
    http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/cgi-bin/enc/korenc.cgi?%E5%90%8F%E8%AA%AD

    この文章では吏読とは漢字を借りた朝鮮語の表記法全般であり胥吏の文体は吏読であることになります。どうも双方で説明がくいちがっているようです。

    ともかく「為有如乎」・「為如可」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」などの語句は官庁の書記官(胥吏)が用いた公文書に使われたもののように思えます。
    書記の書く文体ということならばたとえ張漢相の報告に関する文書が存在していたとしても、それを張漢相が口頭で報告したものを書記が記録したと解釈できるのではないでしょうか。

    ReplyDelete
  36. yabutarou さま
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    吏読(りとう、이두(イドゥ))とは、漢字による朝鮮語の表記方法の1つである。名詞・動詞語幹などの実質的部分は主に漢語が用いられ、文法的部分に吏読が主に用いられる。

    以下は、養蚕経験撮要(1415年)に見られる吏読の例である。1.は漢文、2.は吏読文(下線部が吏読、カッコ内は吏読の翻訳)、3.は吏読部分をハングル表記(現代語式のつづり)したものである。


    1. 蠶陽物大惡水故食而不飲(蚕は陽物にして大いに水を悪(にく)む、故に食して飲まず)

    2. 蠶段陽物是乎等用良水氣乙厭却桑葉叱分喫破爲遣飲水不冬(蚕ハ陽物ナルヲモッテ水気ヲ厭却、桑葉ノミ喫破シ飲水セズ)

    3. 蠶딴 陽物이온들쓰아 水氣을 厭却 桑葉뿐 喫破하고 飲水안들

    http://wiki.wowkorea.jp/?word=%E5%90%8F%E8%AA%AD

    より抜粋。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    吏読【りと】
    ハングル制定以前の古代朝鮮で,朝鮮語を漢字で記すために発案された表記法。〈りとう〉とも読まれ,〈吏吐〉〈吏道〉とも書かれる。広義には,漢文を膠着語である朝鮮語で訓読する場合に助詞・助動詞等を表す〈吐〉の一種をいい,日本の宣命,祝詞の送り字に似る。

    http://kotobank.jp/word/%E5%90%8F%E8%AA%AD
    同上

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    すなわち、吏読(りと、りとう)とは、漢文を読み下すための、送り仮名のようなものですが、実際に漢字を使って書き表しているわけで、口頭(オーラル)というよりは、文書のなかに書きこまれるているものといえるのではないでしょうか。
    「吏」という字があるように、もともと官僚の事務に関わるようなものだったのでしょうが、こういう文体で書く人が、一般的に普通にいたのだと思います。

    沈興澤の報告文のように、吏読の部分は、漢字で書いていたのが、次第にハングルにおきかわっていったのではないでしょうか。

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  37. matsu さん


    「吏」という字があるように、もともと官僚の事務に関わるようなものだったのでしょうが、こういう文体で書く人が、一般的に普通にいたのだと思います。

    当時胥吏以外に官庁で扱う文書にこのような文体で書く者がいたかどうかは、私にはわかりません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    うっかりして」は、ややそぐわない感じがします。
    「失措せざるものなし」でしょうが、「正気を失わないものはなく」ぐらいではないでしょうか。

    これはとくに争うべきものでもないのでmatsu さんの「正気を失わないものはなく」でよしとしましょう。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。

    「為最而」では意味がとおらないので、最後の「而」を「西」と読みました。

    「西」を「而」と書き間違えたということでしょうか。
    これはそうかもしれないしそうでないかもしれないとしか言いようがありません。

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  38. 大変長らくお待たせしました。(4.b)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容です。



    即不知、何代所居而落棄成土人遮不到者、又不知其幾百年。是乎弥。
    即不知、何代所居而落棄成土人遮不到者又不知其幾百年。是乎弥。
    すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、また、落棄がすでに土となっており、人がここを訪れなくなって、それが幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。
    すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、崩落して棄てられ土となることを人が遮ることがでなくなって幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。
    ・「遮不到」は「さえぎる(カバーする)ことができない」

    初四日、未時量、似有風便、故発船。到西邊間間、則雨勢霏徴、日又昏黒。
    今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船し、島の西にある谷口についた。(今の「台霞洞」か?)。雨が激しく、日も射さずに真っ暗だったが、
    今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船した。島の西にある谷口に至ったところで、雨が激しくなりもやがかかってきて、日も射さずに真っ暗になってしまったが、

    而餘三隻、落後日出後●不知所向。是乎矣。
    而餘三隻落後日出後●不知所向。是乎矣。

    <??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見、水<????> 謂遠不過七八百里。是如呼。今番(=審か?)往返倶●●<???>可濤達、則此諸、済州猶有一之遠是乎所
    (三陟に着いてから)、高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形がはるかに見える。(朝鮮半島東岸の)三陟から、鬱陵島までは、七八百里にすぎない。いま、鬱陵島から帰ってきて、その距離を済州島と比べてみると、済州島より倍くらい遠い。
    (記録によると風の吹いている日に)高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形が浮かび上がって見えるとあり、(朝鮮半島から)鬱陵島までは、七八百里にすぎないとある。いま、鬱陵島から帰ってきて審査してみると、済州島より倍くらい遠い。

    ・「風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見」は「世宗実録地理志」の「風日清明、則可望見」、「大東地志」の「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」とよく似た表現である。
     「謂遠不過七八百里」には「謂」とある以上これは張漢相がそのように考えていたわけはなく、誰かが張漢相に「遠不過七八百里」と言ったということ。
     朝鮮半島と鬱陵島との距離が七百里・七八百里と記した文献があったと私は記憶している。
    以上のことから考えて、「登高瞭望」は張漢相が自分で登って眺めたのではなく本にそのように書いてあった、「今番」より前の部分は何らかの文献を引用したものであると考えます。

    舡之疾鈍、風之順達、衛遠者㮣 <??>遠則又不可以●定為證。是齋。
    船のはやい、おそい、風の順逆・・・(*あと不明)
    船のはやい、おそい、風の順逆(といった理由で)どのくらい遠いかをはっきりと証し立てることはできない。
    ・たぶん。。。

    安慎徽、卒以裏敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船凌二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登●。是乎矣
    (訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が・・・となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。
    (訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が瘡疾(皮膚の病気)となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。

    送於卒道監営。以為伝達。●局之地。為乎於
    本道(江原道)の監営に送るので、備辺司に伝達を願う
    本道(江原道)の監営から備辺司に送りました。
    ・「卒道監営において備局の地に伝達をなすをもって送る」ちがっているような・・・。よくわかりません。。

    捜討生木圧隻一斤、
    (*不明。捜討使に任命された時のシンボルの木の左側の半分? これは考えすぎか。)
    捜討して得た生木一斤、
    ・この程度に訳しておけばよいと思います。

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  39. yabutarouさん

    お忙しいところ、本当にありがとうございます。これで最後の申版のみの部分を除いてすべて見ていただいたことになります。matsuさんの反応を待ってもう一度必要箇所を訳しなおして投稿したいと思っています。

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  40. yabutarouさま

    反応がおそくなってすみません。
    埋もれてしまうとポストのありかを探すのが大変です。(笑)

    前半の3つについては、もうこれにて終了、で良いと思います。
    而か西かは、朴世堂の筆記ミスというよりは、書かれたテキストを我々がどう読むか、という問題だと思います。

    さて、後半の「(4.b)9/20-10/3まで」のほうですが、
    ①即不知、何代所居。而落棄成土、人遮不到者、又不知其幾百年。是乎弥。

    もとのポスト
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/03/1693-1703.html

    (8-10)居基址石葬墓木連抱廃垣石堆而己 即不知何代所
    (8-11)居 而落棄成土 人遮不到者又不知其幾百年

    この(8-11)-4の「棄」は「葉」ではないでしょうか?
    落葉成土 「落葉が土となる」、それほど長い間。という意味で、張漢相が実見した風景をのべているのではないかと思います

    「遮」は 「迹」 セキ あと ではないでしょうか?
    「人跡未踏」の「跡」と、「迹」は同じではないでしょか

    (7-13) 積年空棄之地、人遮不到
    これも「迹」 だと思います。
    この(7-13)の「棄」と、(8-11)の「葉」は、違う文字に見えます。

    「すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、また、「落葉」がすでに土となっており、人がここを訪れなくなって、それが幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。」

    ② 雨が激しくなりもやがかかってきて、日も射さずに真っ暗になってしまったが、

    これは、私がいいかげんにしていたところを、きっちりフォローしていただいたと思います。異議はありません。

    ③落後、が前につくのも、そのとおりだと思います。

    ④ <??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見、水<????> 謂遠不過七八百里。是如呼。今番(=審か?)往返倶●●<???>可濤達、則此諸、済州猶有一倍之遠是乎所

    ここは「?」が多過ぎて、すなわちテキストが破れていて読めないのですから、解釈は難しいところだと思います。

    「謂」はたしかに、張漢相自身の考えでは無く、誰かがそのように言っている(あるいは書いてある)、という意味だと思います。
    私は、張漢相が鬱陵島から三陟に帰ってきてから、実際に高い所に登って鬱陵島を見たのだと解釈しましたが、確かに、文献の引用説もありうると思います。
    「清明之日」という言い方が、実体験というよりは、「清明之日には~」という意味にとれますね。

    (8-23)初六日卯時畳亦為「回」泊於三陟浦口為有在果<??>
    (8-24)風時登高瞭望則清明之日島形浮見水<????> 
    (9-1)謂遠不過七八百里是如乎今番往返倶●●<???>
    (9-2)可濤達則「比」諸済州猶有一「倍」之遠是乎所<???>


    ⑤⑥つぎのふたつは異議ありません。

    ⑦送於卒道監営。以為伝達。●局之地。為乎於
    この●は「備」ですね。 「備局」=「備辺司」の意。

    この報告を書いている段階で、張漢相の現在地としては、まだ三陟にいるのではないでしょうか。一番最後近くに、「此處畫師絶無」(ここには絵師がまったくいない)と書いているように、まだ僻遠の地にいるように思います。
    「本道(江原道)の監営から、備辺司に送りました。」とすると、江原道監営(=道庁所在地)にいることになるのではないでしょうか。

    ⑧最後は、わたしにもよくわかりません。

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  41. yabutarouさん、matsuさん

    ありがとうございました。ご指摘いただいた点を修正し、できる限りである調に統一しました。

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  42. Kaneganese様
    matsu様
    三年前に、『蔚陵島事蹟』と『西渓雑録』の判読比較研究が投稿されていたときには、議論の経過は読んでいましたが、私は時間が取れずに、判読にも議論にも参加できませんでした。
    このほど、スレッドを検索して、判読文と原文を比較してみましたら、判読不能とされていた文字の幾つかを判読することが出来ました。今更ながらのことで、恐縮なのですが、研究の補足になれば思いと指摘させて頂きます。

    『西渓雑録』の方で、
    原文3頁の06行目 「八月已半、風高可慮、■不喩、船造間」
    原文7頁の12行目 「參天而蔽日者不知幾其許、■不喩、積年空棄」

    この見慣れない字は、「叱分不喩」です。
    朝鮮漢文特有の表現で、かなり長い時代に渡っていろいろな文献で「叱分不喩」の使用例があります。順番を逆にした例として「則奉行爲重,島主爲輕分叱不喩」と「分叱不喩」の用い方もあります。

    http://s-space.snu.ac.kr/bitstream/10371/9985/1/law_v47n3_464.pdf
    叱分不喩/(叱+分)不喩[뿐안디] -뿐만 아니라
    この例文でも、今回の『西渓雑録』の使用例のように、「叱分」が一つの文字として書かれているようです。
    意味は、「それだけでなく」というような、言葉を加えて調子を整えるような語句なのかもしれません。日本語の表現、「剰(あまっさ)え」「糅(か)てて加えて」のようなで悪条件が重なる意味合いがあるのかどうかはわかりません。

    ところで、しかるの「叱」シツという字には、と口偏に「さじのひ」匕のUnicodeの53F1
    と口偏に、数字の七と書く、叱𠮟」(口へんに七、U+20B9F)があります。
    現実の文字運用上は「叱」と「𠮟」に区別がないです。
    叱」と「𠮟」です。

    ブラウザーによっては、括弧内の文字が
    表示されない場合もあります。

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  43. Kaneganese様
    文字の訂正有り難う御座いました。
    判読した文字の訂正・補足の追加をまたお願いします。

    すでにmatsuさん他の皆さんにより指摘されている文字もあるかもしれませんが、悪しからず御容赦下さい。

    まず西渓雑録からです。

    画像1枚目
    左頁4行目 「樹木★歴々可指」 の 「歴」が抜け漏れています。

    画像3枚目
    右頁1行目「雀群飛來接竹邊串」の接は、「投」です。「雀群飛來投竹邊串」
    右頁2行目「慱暴」の暴は、「棊」です。慱は博?かもしれません
    右頁3行目「筒比」ではなく、「箆」です。 箆=篦(の=やだけ)
    右頁5行目「齋畢得」は「齊畢役」
    右頁7行目「面禀、為有■、擇取」は「面禀、為有等以、擇取」
    左頁4行目「有一泰山、壁臨」は壁ではなく「堅」です。
    左頁5行目「播無力」は「檣無力」です。 檣は、(ほばしら)。
      ♪見よ檣頭に 思ひ出の Z旗高く翻へる の歌詞でお馴染み。
    左頁6行目「舡舶所極難」を「舡泊處極難」
    左頁7行目「風殘處、暫時下陸」の暫は「蹔」です。
    左頁8行目「下不能着之」は「下不能着足」。足です。
    左頁10行目「齋翌日風殘、■回泊」は、「齊 翌日風殘、後回泊」
    左頁11行目「三所。頗有伐取之跡」は、「三處。頗有斫取之跡」
    左頁12行目「是乎■。其中」は、「是乎等以。其中」

    画像4枚目
    右頁1行目「為有於」は、「為有弥」。また、「而體●非」は、「而體制非」
    右頁2行目 「之産。是乎於」は、「之産。是乎弥」
    右頁3行目「齋巌穴之間、可支魚、或●或」は、「齊。巌穴之間、可支魚、或睡或」
    右頁4行目「還」を「環」
    右頁6行目「終不得着之」を「終不得着足」
    右頁7行目「究自可」は、「竄自可」に、「丁、●惧在心」は、「丁、疑惧在心」です。
    竄ザン(かくれる・のがれる)
    右頁8行目「齋三十日、丑時。還逢東風」は、「齊。三十日、丑時。適逢東風」」
    右頁9行目「徴有電光」を「微有電光」
    右頁10行目「捽悉、帆竹折倒、於舡中。舡渡」を「猝怱、帆竹折倒、於舡中。舡後」
    転覆を避けるため帆檣(帆柱)ではなく上に横に渡した帆桁の竹あるいは、竹で作ってある帆を猝怱(急いで)、自分たちで切ったのではないでしょうか。
    日本の船でも、帆は筵などであり、丈夫な手織りの木綿帆布を使用したのは、播州高砂の工楽松右衛門による十八世紀後半なので、当時の朝鮮の船はジャンクの様な竹の帆ではないでしょうか。
    右頁11行目 「自分必死、此是如乎」は、此を削除して、「自分必死、是如乎」
    右頁12行目 「難」を「艱」
    左頁1行目 「所謂柱風、夲来東風。」を「所謂狂風、本来東風。」
    左頁2行目 「是乎於」を 「是乎弥」
    左頁3行目 「通許」を「通計」
    左頁4行目 「是乎於」を「是乎弥」
    左頁6行目 「輿波涛出沒」を 「與波涛出沒」
    左頁8行目 「似難涛達」を「似難得達」
    左頁9行目 「於且」を「弥且」
    左頁12行目 「此短 使不可」を「此短晷使不可」 晷(ひかげ)という字を挿入

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  44. 判読追加分です。
     
    画像五枚目
    右頁 3行目 「是乎於」を 「是乎弥」
    右頁 4行目 「之輿」を「足與」に、「班獺」を「斑獺」
    右頁 6行目 「濕」を「隰」に、「人居之■址。是乎於」を「「人居之舊址。是乎弥」
    濕=湿でなく、阝偏なので、隰(さわ)
    右頁 7行目 「殺得可支魚、處取其油」を、「捉得可支魚、煮取其油」
    右頁 8行目 「之似非近。」を「云似非近」
    右頁12行目 「甲戌九月初●●」を「甲戌九月初二日」
    左頁 3行目 「曽巳」を「曽己」、に、「検使、輿別遣 譚」を「僉使、與別遣譯」
    左頁 4行目 「安慎微」を「安慎徽」に、「併」を「并」
    左頁3行目 「必是水●、而諸船」は、 「必是水臽、而諸船」
       臽カンは、(勹+曰またはノ+一+日に見えるが、陥れるの旁とおなじ)
      水臽 つまり淊カンで、淹エンに同じ
    臽は、人+臼(穴の形)」の会意文字で、穴の中へ人がおちこむことを示す。
    淊や淹は、この場合、深く広い海の水で沈め隠されてしまう所という意味。
     蔚陵島事績の「水宗」は、臽を草書体の「宗」と誤読したものか

    画像一枚目の四行目 「樹木歴々可指」の書き方も同じようなので、指で構いませんが、
    最後の「指」は、手偏に臽と書く「掐」かも知れません。その場合の意味は「摘」と同じですので、「見えるので、指し示して指摘できる」で意味は変わりません。

    左頁10行目 「狂風梓起」を「狂風猝起」
    左頁12行目 「拳」ではなくて「舉」(擧・挙に同じ)。 「舵」を「柂」に。

    画像六枚目
    右頁 5行目 「暫時」を「蹔時」
    右頁 7行目 「各舡倶涛免」を 「各舡倶得免」
    右頁12 行目 「其間細流●渓」は、「其間細流乾渓」
    左頁2行目 「是乎於」を「是乎弥」
    左頁5行目 「霽雲棬」は「霽雲捲」 (木偏でなく手偏の捲く)

    画像七枚目
    右頁 1行目 「有基址(地)」は「「有基址」
    右頁 3行目 「則亦非可藏可●。是遣。此●」を「則亦非可藏處。是遣。此處」
    右頁 5行目 「釜、則、廣經」を「釜、則、廣径」
    右頁 9行目 「而●是彼物。是乎 於」を「而亦是彼物。是乎弥」
    左頁1行目 「藤葛磐結」 を 「藤葛盤結」
    左頁2行目 「擠卒非人力」を「躋卒非人力」、「是齋」を「是齊」。  ★躋(のぼる)
    左頁4行目 「木、槐木、榆木」を「木、槐木、椵木」
    「真木、欅、橡小木暇」を 「真木、榛、橡等、木叚」
    ★「ホ」のような字は「等」の草書体、叚は仮に同じ。
    ★榛は泰(画像3)のユニード9FB9「龹」の書き方から類推。また(画像5)の舉擧や與の書き方からみて欅なら上部を詳細に書くのではないと思います。
    左頁9~10行目 「於。間有生鰒、●附諸岩磧者、軆小而味薄。是齋。」を
    左頁10行目  「弥。間有生鰒、之附諸岩磧者、軆小而味薄。是齊。」に訂正

    画像八枚目
    右頁 2行目 「是乎弥。且兩田、斫竹龙」を「是乎弥。且兩田、斫竹尤」
     ★「龙」ユニード2EF0「⻰」は、「龍・竜」の毛沢東(共産党)簡体字書体で、「尤」という字では有りません。蔚陵島事績の方も「尤」に訂正です。
    元サイトがなぜこんな間違いをしたのか、漢字を知らない韓国人ならではという気がします。因みに龍がこんな書体になっているのは、「龍」の「立」と「月」を除いた旁部分の草書体の形だからで、「育龙」のような書き方は昔からあります。

    右頁 6行目 「則兩崍成」を「則兩峽成」 旁が来の崍ではなく、夾(はさむ) 峽=峡
    右頁 8行目 「船泊甚難」を「舡泊甚艱」、「是乎於」を「是乎弥」
    右頁 10行目 「石葬⺣墓木」は、「石葬而墓木」と、而が入ると思います。
     ★ユニコード2EA3の「⺣」(れんが)は、使用しているパソコンの環境によっては、表示されず、縦に細長い□になっている場合もあります。
    右頁 11行目 「土人遮不到者」を 「土人迹不到者」
    右頁 12行目 「東南間間、自舡舶處」を 「東南澗口、自舡泊處」
    左頁1行目 「迹而佳(住)兵衛、又四郎、弾吉」は「迹而、住兵衛、又四郎、彌吉」
    左頁2行目 「而無姓名、似之下倭之所為」は、「而無姓卒、似是下倭之所為」
    左頁3行目 「是乎於。且、釜県」は、「是乎弥。且、釜鼎」
    左頁4行目「其蝕意、非近年之所置是齋。卒月」は、「苔蝕意、非近年之所置是齊。本月」
    左頁5行目「発船。到西邊間間、則雨勢霏徴」は、「發船。到西邊澗口、則雨勢霏微」
    ★(霏微で熟語(学習研究社漢字源では、霏微:「雨や雪などがちらつくさま」)
    左頁6行目 「誠不可易●。是乎恵。」は、「誠不可易得。是乎等以。」
    左頁7行目「子夜以前則拳火相準。是如可。丑時以凌」は、「齊發。子夜以前則舉火相準。是如可。丑時以後」
    左頁8行目「落後日出後●不知所」は、「落後日出後亦不知所」
    左頁10行目「面泊於荘五里、待風處、為乎於大船」は「回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡」
    左頁11行目「亦為面泊」を「亦為囬泊」   ★囬=回
    左頁12行目「島形浮見、水」は、「島形隱見於、水」 (こざと)阝偏に正+ヨ+心は「隠」

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  45. 従来の判読で、
    画像三枚目の
    右頁7行目に、「曽己面禀」とありましたので、

    画像五枚目の
    左頁 3行目は、 「曽巳馳報」を「曽己馳報」と訂正しましたが、
    曽=曾ですから、己(おのれ)ではなくて、已(すでに)で、曾已のようです。
    曽巳、曾巳、曽己、曾己、曽已、曾已のそれぞれを検索してみましたが、漢文としては、曾已(曽已)の使用例が見つかります。
    遵いまして、ともに「曽已面禀」と「曽已馳報」に訂正します。


    画像九枚目
    右頁1行目 「是如呼」を「是如乎」に訂正
    右頁2行目 「可濤達、則此諸、済」 を 「可得達、則此諸、濟」
    右頁3行目「度●較」を「度計較」、「風之順達、衛遠者」を「風之順逆、遠者」。★衛トル
    右頁4行目 「不可以●定為證。是齋。冬天、風高是之」を「不可以膠定為證。是齊。冬天、風高之」★是トル
    右頁5行目 「一百五十人、濤保性命者、莫●」は、「一百五十人、得保性命者、莫流。」
    「沙」か「沭」のような形の字は、草書体の「流」です。
    右頁6行目「苦之状不一而●而煩不散佃凍」は、「苦之状不一而 足 而煩不散 細陳」
    右頁7行目 「卒以裏敗之人」は、「本以衰 敗之人」 で、「乗船凌」は、「乗船後」
    右頁8行目 「於両股間勢難登●」は、「於両股間勢難登祥」
    右頁9行目 「復命有限●勉擔載寸寸前進」は、 「復命有限黽勉擔載寸々前進」
    黾=黽 で、黽勉(びんべん)は、つとめはげむこと。精を出すこと。努力。 擔は担に同じ、肩に載せる。かつぐ。になう。
    右頁10行目「為乎於」を 「為乎弥」
    右頁11行目「送於卒道監営」は、「送於本道監営」
    右頁12行目「以為伝達。●局之地。為乎於。捜討生木圧隻一斤、卒」は、
    「以為 轉達。備局之地。為乎 弥。捜討 栍木 左隻一 片、本」 (轉=転、備=俻)
    左頁1行目 「島圖形一卒、及輿地勝覧一巻、併以軍官實特上」
    は、 「島圖形一 本、及輿地勝覧一巻、并以軍官 賷 持 上」
    原文は、U+8CEB 賫で書かれていますが、U+8CF7 賷(もたらす)と同じです。正字体は、 齎(U+9F4E )の異体字なので、「齎持上」としたほうが良いかもしれません。

    左頁2行目 「為齋検使、暇置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憤」
        は、 「為齊僉使、叚置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憒」
    簸(ハ)は、箕であおる。ひる。簸蕩で、箕であおったように、はげしくゆれうごくこと。
        昏憒(こんかい) 何もわからず憒(みだ)れること

    左頁3行目 「不能収拾●●不愈圖形一卒。於為冩出。而此處、書師」
    は、  「不能収拾、叱分不喩、圖形一本。於為冩出。而此處、畫師」

    左頁4行目 「不●己一行之人、依草卒費日経営。★終至」
    は、 「不得己一行之人、依草本費日經営。而終至」

    左頁5行目 「 書●遅延、至此不勝、煌 恐縁由併以馳報事。」
    は、 「畫乕遅延、至此不勝、惶 恐縁由并以馳報事。」
    乕は虎の異体字なので、畫乕で「画虎」の意味。
    画虎類狗 〈故事成語〉とらの絵をかいたつもりが犬に似てしまう。実力のないものが真似をして失敗してしまうこと。
    この文章の場合、素人が絵を描いたの時間が掛かったという良いわけになる。

    以上が、ざっとみて気が付いた「西渓雜錄」本文の判読と訂正意見です。

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  46. 続いて、蔚陵島事蹟の判読と確認をしてみました。

    そのまえに、

    元サイトが韓国のサイトで、誤読箇所が大量にあったものを、matsuさんほかの皆さんによって、かなり訂正がされています。しかし今回、見直してみてまだ誤読や、訂正すべき箇所が見つかりました。

    最初に気になるのは、元サイトの判読テキストを見て、「 処 = 處 」という文字です。
    これが28字も使われています。原文では、23文字くらいが、處の異体字の「䖏」で書かれています。「䖏」の中が、細長い四角形(俗に言う豆腐)になって、表示されない人も多いのではないでしょうか。

    私の勝手な推測では、matsuさんのモニターまたは、テキストを編集しているワープロソフトでは表示されていて、Kaneganeseさんが、編集に使用しているワープロソフトでは表示されていないように思います。(下衆の勘繰りかも知れません)

    元サイトでは、ちゃんとこの文字で書かれているのですが、ブラウザー上で、コピー&ペーストして、ワープロソフトに移すと、例えばMS明朝フォントなどでは表示されないので見落としてしまう可能性があるということです。

    もう一度、この文字を説明します。
    虍(虎頭とらがしら)+匆です。「豦」Unicodeの458f 原文では22箇所
    虍(虎頭とらがしら)+処が、正字体(JIS515Dまたは(u8655)で、原文では4箇所
    虍(虎頭とらがしら)+处と書く (u2ff8-u864d-u5904) もあります。 原文では1箇所
    虍(虎頭とらがしら)+豕にちかいような、「豦」 Unicodeの8C66 字が1箇所

    原文の字は、厳密には、u20045 (@7)という漢字フォントにもっとも近い書体です。
    http://glyphwiki.org/wiki/u20045

    Kaneganeseさんは、この文字を判読不能文字として「?」にしている箇所が多数あり、一方matsuさんによる判読で正字体の「處」としてテキスト化している部分も有ります。

    私のお願いは、多くの読者の為に、この際、この「蔚陵島事績」の判読テキストでは、全て「處」に統一して、「 ? 」や「お豆腐」は無くしたほうがよいと思います。


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  47. 蔚陵島事蹟の判読・訂正(上)

    画像一枚目
    右頁 5行目
    官安慎 微領來諸役各人及沙格并一百 微を「徽」に訂正
    官安慎 徽領來諸役各人及沙格并一百
    左頁 5行目          
    澈波心狂風猝起 雨隨至怒濤翻空雲 流(削除済)に、「驟」を挿入
    澈波心狂風猝起驟雨隨至怒濤翻空雲
    左頁6行目   
    海相盪所 秉船隻若浮若沒危險罔狀船 秉ヘイ(柄の意)を「乗」に訂正
    海相盪所 乗船隻若浮若沒危險罔狀船
    左頁8行目
    木又從而折破 龙無制船之策難以櫓木 龙(竜)を「尤」に訂正
    木又從而折破 尤無制船之策難以櫓木


    画像二枚目
    右頁1行目
    直揷扵尾及左右借以為力是乎乃覆敗 揷扵を挿於に訂正
    直挿於尾及左右借以為力是乎乃覆敗
    ※覆敗之患 ━覆敗之患━ふくはいのうれい
    中国春秋時代の越の美女であった西施という者が、胸を病んで、しばしば苦しそうに胸をかかえて顔をしかめていたのを、村の醜女が美しいしぐさと思って真似たということから、いたずらに人のまねをして物笑いになることをいう。
    ★この部分は、書写者がこの故事成語の知識から、覆沒を「覆敗」と誤読したもの。
    右頁7行目
    酉時又自南洋而到各船俱得免■而南 ■(虫+恙の異体字)を「恙」に訂正
    酉時又自南洋而到各船俱得免恙而南
    左頁3行目
    之四方秉船環審則懸岸撐空層立壁岸 乗は訂正済、撐を「撑」に訂正
    之四方乗船環審則懸岸撑空層立壁岸
    左頁6行目
    方窮則其間道里不過百五六十里乎■ 間(訂正済)、■を「弥」に訂正
    方窮則其間道里不過百五六十里乎弥 (草書体の弓偏は、方に近い形になる)


    画像三枚目
    右頁1行目
    面霽雨■棬之日入山登中峯則南北兩 棬を「捲」に訂正
    面霽雨■捲之日入山登中峯則南北兩    ■は雲の誤字か
    右頁6行目
    西望遠近■度如斯是齊西望大谷中有    ■を「臆」に訂正
    西望遠近臆度如斯是齊西望大谷中有
    左頁1行目
    船泊■則東南間口僅容四五隻之處而    ■を「處」に訂正
    船泊處則東南間口僅容四五隻之處而
    左頁2行目
    東南岸則亦非可藏處是遣此■有三釜    ■を「處」に訂正   
    東南岸則亦非可藏處是遣此處有三釜


    画像四枚目
    右頁3行目
    土山而 勢絶險洞壑深邃樹木連抱參     山の入れ忘れを訂正
    土山而山勢絶險洞壑深邃樹木連抱參
    右頁5行目
    人跡不到故藤葛磐結朽草木添阜排擠     磐を「盤」に訂正
    人跡不到故藤葛盤結朽草木添阜排擠
    右頁7行目
    探所謂樹木盡是冬栢紫 側栢黃薜金      紫檀の檀を挿入
    探所謂樹木盡是冬栢紫檀側栢黃薜金
    左頁2行目
    ■終無一株而羽則鳥鷗毛則貓兒而已     ■を叚、鳥を烏(カラス)に訂正
    叚終無一株而羽則烏鷗毛則貓兒而巳

    ※魰は、一見鮫という字と混同しそうだが、魚偏に文である。鱧。文魚、鰩魚、あるいは人魚のこと。つまり、人魚とかエイのような、鱗が無くて花の紋様があるような魚という意味。日本でいう、鱧(ハモ)のことではない。ただ口が尖った鰻のような滑らかな肌の魚という意味では形状になんとなく共通する点がある。「可支魚」を「魰魚」と書いているのは単なる誤記とは言えない。
    ニホンアシカは、1981年と1985年に岡山県で、2003年に鳥取県でそれらしい目撃例があるので、不法占拠者を早く放逐して、竹島本来の自然景観に復元したいものである。

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  49. 蔚陵島事蹟の判読・訂正(下)

    画像五枚目
    右頁2行目
    最多竹田東南麓三處最多而每?可落    每?を「毎處」に訂正
    最多竹田東南麓三處最多而每處可落
    右頁3行目
    皮牟三十餘石且兩田斫竹龙多其傍斫      龙(竜)を「尤」に訂正
    皮牟三十餘石且兩田斫竹尤多其傍斫
    右頁4行目
    置數千竿而或有陳枯者或有未幹者自      幹を「乾」に訂正
    置數千竿而或有陳枯者或有未乾者自
    右頁7行目
    山四面壁立又斷缺處則兩崍成間流水      崍を「峽=峡」に訂正
    山四面壁立又斷缺處則兩峽成間流水
    左頁4行目
    葬而墓木連抱---------大●(既)、島在三千里海洋之   ●(既)U3ba3は、㮣=槩に訂正
    葬而墓木連抱---------大槩(概)、島在三千里海洋之
       

    画像六枚目
    右頁5行目
    次船 由沙磧履磨中有 遙之狀與安慎 微      由を則、遙を涇、微は徽に訂正
    次船 則沙磧履磨中有 涇之狀與安慎 徽
    右頁6行目
    同步行三里許則自中峯逶迤一脈山麓         脈は脉に訂正
    同步行三里許則自中峯逶迤一脉山麓
    右頁7行目
    都是層巖高壁而 遙開豁由此路望見      至の欠落を訂正      
    都是層巖高壁而至遙開豁由此路望見
    右頁8行目
    則連及山腰疊石 穴與慎微相議曰此 成が欠落を訂正、徽を徽に訂正
    則連及山腰疊石成穴與慎徽相議曰此
    左頁3行目
    海俄以雨止煙霞满島遙聞巖穴中衆人 兩は雨に訂正済み、 煙と衆を、烟、眾に訂正
    海俄以雨止烟霞满島遙聞巖穴中眾人
    左頁4行目                
    之聲立於船頭號望見則燈燭煒煌明日食 號が余計なのでトル 輝は煒に訂正
    之聲立扵船頭 望見則燈燭煒煌明日食 
    左頁8行目
    先出曰穴內三十餘步豁然開敞四層築 簷は築に訂正済み、 敞を「敝」に訂正
    先出曰穴內三十餘步豁然開敝四層築


    画像七枚目
    右頁2行目
    家甚極奢䴡丹青及戸舖之制非泛然我  Unicode4D21の䴡は麗 舖は、牖に訂正
    家甚極奢麗丹青及戸牖之制非泛然我 片+戸+甫の牖は「まど」
    右頁7行目
    上藤葛盤結之中階砌庭城之内蕭■無  蕭■無の ■は、灑「そそぐ」
    上藤葛盤結之中階砌庭城之内蕭灑無
    右頁8行目
    一累之塵非人所居處則強入非闋僉[*]不 闋僉[*]不は、「関、兺不」に訂正
    一累之塵非人所居處則強入非関分叱不 門+爽の様な字は、關(画像3の大関嶺)と同じ字。僉か合のような字は、Unicode517A兺・兺で「分叱」の合わせ字「兺不喩=分叱不喩すなわち叱分不喩」、「糅てて加えて」の意
    http://glyphwiki.org/wiki/u517a

    左頁1行目
    喻心迷宜不忍近入簷下回船之日自中      喻は、喩に訂正。
    喩心迷宜不忍近入簷下回船之日自中
    左頁2行目
    峯霞氣漸廣及於海中大如東山不知何  東を朿(とげ)に訂正束
    峯霞氣漸廣及於海中大如朿山不知何 抹香鯨の尾を目撃したか?
    左頁6行目
    四千處■小處二十餘石落只之地大處  處■を「處叚」に訂正
    四千處叚小處二十餘石落只之地大處
    左頁7行目
    三十餘石落只而皆可引水作水田處是齊 作は訂正済み、畓Unicode7553 (水田)
    三十餘石落只而皆可引水作畓(水田)處是齊


    画像八枚目
    右頁2行目
    空棄不過百餘年之前溪有洞口若慮 備の入れ忘れを、訂正
    空棄不過百餘年之前溪有洞口若慮備
    右頁3行目
    寇之策則一夫當百夫之地彼船 難欲久 久の異体字 乆は訂正済み、 難を「雖」に訂正
    寇之策則一夫當百夫之地彼船 雖欲久
    右頁5行目
    島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之 峰は峯を使っている
    島山峯審望彼國之域則杳茫無眼杓之

    以上です。

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  50. 小嶋日向守様

    大変な作業だったともいます。本当にありがとうございました。

    とりあえず、「西渓雜錄」の訂正をしてみました。赤字部分です。時間を見つけて引き続き「蔚陵島事蹟」のほうも取り組みたいと思います。

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  52. Kaneganese様
    貴重な連休の一日を、「宿題」に費やさせてしまって恐縮でした。

    皆様
    崔世哲の先遣隊と、張漢相の本隊が鬱陵島を探検した、粛宗二十年(元禄七年)の八月と九月は、どのような天候であったのかを検討してみようと思います。これは、張漢相らが、本当に現在の竹島を見たのかどうかに関わる重要な意味があると思います。

    手始めに、粛宗二十年八月と粛宗二十年九月の太陰暦をグレゴリオ暦の日付と対応させ、
    李氏朝鮮の首都漢城の天候記録について、承政院日記の天気記録を付記させた表をつくってみました。
    データは以下のサイトから採りました。
    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_year_list.jsp?wid=1680&wnodeid=99790

    陰暦月日 (日付の干支) グレゴリオ暦の年月日、 漢城の天候記録
    八月一日 (丙申)  1694年09月19日  晴
    八月二日 (丁酉)  1694年09月20日  晴
    八月三日 (戊戌)  1694年09月21日  晴
    八月四日 (己亥)  1694年09月22日  晴
    八月五日 (庚子)  1694年09月23日  晴
    八月六日 (辛丑)  1694年09月24日  晴
    八月七日 (壬寅)  1694年09月25日  晴
    八月八日 (癸卯)  1694年09月26日  晴
    八月九日 (甲辰)  1694年09月27日  晴
    八月十日 (乙巳)  1694年09月28日  晴
    八月十一日(丙午)  1694年09月29日 ☆陰
    八月十二日(丁未)  1694年09月30日  晴
    八月十三日(戊申)  1694年10月01日  晴
    八月十四日(己酉)  1694年10月02日  晴
    八月十五日(庚戌)  1694年10月03日  晴
    八月十六日(辛亥)  1694年10月04日 データ欠落 (崔世哲ら、十六日乗船風待)
    八月十七日(壬子)  1694年10月05日  晴
    八月十八日(癸丑)  1694年10月06日  晴
    八月十九日(甲寅)  1694年10月07日  晴
    八月二十日(乙卯)  1694年10月08日  晴   (崔世哲、二十日の酉時に出港)
    八月廿一日(丙辰)  1694年10月09日  晴
    八月廿二日(丁巳)  1694年10月10日  晴   (崔世哲ら、鬱陵島に到着) 
    八月廿三日(戊午)  1694年10月11日  晴
    八月廿四日(己未)  1694年10月12日  晴
    八月廿五日(庚申)※ 1694年10月13日  晴
    八月廿六日(辛酉)  1694年10月14日  晴
    八月廿七日(壬戌)  1694年10月15日  晴
    八月廿八日(癸亥)  1694年10月16日  晴
    八月廿九日(甲子)  1694年10月17日  晴
    八月三十日(乙丑)  1694年10月18日  晴    (丑時。適逢東風、還為発船)
    九月朔日 (丙寅)  1694年10月19日  晴   (先遣調査隊、戌時に無事帰還)
    九月二日 (丁卯)  1694年10月20日  晴
    九月三日 (戊辰)  1694年10月21日  晴
    九月四日 (己巳)  1694年10月22日  晴
    九月五日 (庚午)  1694年10月23日  晴
    九月六日 (辛未)  1694年10月24日  晴
    九月七日 (壬申)  1694年10月25日  晴
    九月八日 (癸酉)  1694年10月26日  晴
    九月九日 (甲戌)  1694年10月27日  晴
    九月十日 (乙亥)  1694年10月28日  晴
    九月十一日(丙子)  1694年10月29日  晴
    九月十二日(丁丑)  1694年10月30日  晴
    九月十三日(戊寅)  1694年10月31日  晴
    九月十四日(己卯)  1694年11月01日  晴
    九月十五日(庚辰)  1694年11月02日  晴
    九月十六日(辛巳)  1694年11月03日  晴
    九月十七日(壬午)  1694年11月04日  晴
    九月十八日(癸未)  1694年11月05日  晴
    九月十九日(甲申)  1694年11月06日  晴 (張漢相ら、三陟の五里津より発船)
    九月二十日(乙酉)  1694年11月07日  晴   (鬱陵島南岸に到着)
    九月廿一日(丙戌)  1694年11月08日  晴
    九月廿二日(丁亥)  1694年11月09日  晴
    九月廿三日(戊子)  1694年11月10日  晴
    九月廿四日(己丑)  1694年11月11日  晴
    九月廿五日(庚寅)  1694年11月12日   晴
    九月廿六日(辛卯)  1694年11月13日  晴
    九月廿七日(壬辰)  1694年11月14日 ☆陰
    九月廿八日(癸巳)  1694年11月15日  晴
    九月廿九日(甲午)  1694年11月16日 データ欠落
    十月朔日 (乙未)  1694年11月17日 ☆陰
    十月二日 (丙申)  1694年11月18日  晴
    十月三日 (丁酉)  1694年11月19日 ☆陰
    十月四日 (戊戌)  1694年11月20日 ☆陰   (未時量、似有風便、故發船)
    十月五日 (己亥)  1694年11月21日  晴
    十月六日 (庚子)  1694年11月22日  晴 (卯時量)、三陟浦へ帰還)
    十月七日 (辛丑)  1694年11月23日  晴
    十月八日 (壬寅)  1694年11月24日  晴
    十月九日 (癸卯)  1694年11月25日  晴
    十月十日 (甲辰)  1694年11月26日 ☆陰
    十月十一日(乙巳)  1694年11月27日  晴
    十月十二日(丙午)  1694年11月28日  晴
    十月十三日(丁未)  1694年11月29日  晴
    十月十四日(戊申)  1694年11月30日  晴

    結果は以上の通りです。承政院日記の記録では、この73日間で、雨の日が一日もなく、呆れるほど「晴」が続いています。数少ない「陰」には☆印を付けました。
    承政院日記の他の期間では、「雨」という記述もないわけではなく、たとえば、粛宗十八年五月廿一日(庚午) には、雨とあるので、「陰」は雨のことではなく、「曇」を示すことになります。しかしこれは、張漢相ら探検隊一行が、雷雨と風で翻弄されたという印象とは、あまりに乖離があります。

    張漢相の記録「自二十一日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日」の期間は、さすがに漢城でも、「陰」の日が四日あるものの、「雨」の記録はありません。漢城の天気記録を文字通り、晴れが続いていたと解釈するのは無理があるようです。

    観測上の曇りの定義は、現代でも気象庁の定義(雲量が9割以上と、上層雲と中下層雲の比率でも異なる)と国際的な定義(雲量が8分の7以上)では、少しことなりますし、観測上の定義による、「薄曇り」は天気予報や、一般の感覚では、「晴れ」として扱われるなど、曇りか、晴れかの分類は一概には決められません。実際、日本でも、過去の天気記録と現在の天気概況とでは、晴れの基準に違いが見られます。
    http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/12649/1/004511.pdf
    江戸時代の日記天気記録と気象庁の天気概況の相違 (市野美夏さんpdf)

    しかし、それにしても、承政院日記の天候記録は、秋の天気としては「晴」れが多すぎます。この天候記録は、一日を通じたものではなく、朝堂の時など一定の時刻のみの天候記録なのか、国王に対して「晴」と書くべきであるという精神的バイアスが掛かっているのか、謎です。もっと詳しく調べてみる必要がありそうです。

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  53. 西渓雑録の訂正追加です。

    慱(タン)か博(ハク)か判読に悩んだ漢字は、どちらでもありませんでした。
    正しい判読は、「搏」(ハク)でした。この字は、
    摶(タン)という字と、一見同じに見えて、実にややっこしいのです。
    摶(タン・まるめる)は、(紡錘のように)手で丸くまるめるという、全く意味の違う別字です。
    搏(ハク・うつ・とる)で、たたくの意味です。

    画像1枚目
    左頁7行目
    「伱不急下當放此獸摶噬之」 ではなく、「搏噬」が正しい判読ですので、
    「爾不急下當放此獸搏噬之」 となります。噬はかじることなので、

    解釈は、もと「搏撃吞噬」という成語から、搏噬(ハクゼイ)で、攻撃を加えて陥落させること、侵略して併呑すること。

    画像3枚目
    右頁の冒頭は
    島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大慱暴 は、
    島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大搏棊 となります。
    「搏棊」の棊は、棋の異体字ですので、「搏棋」と同じ熟語です。


    画像8枚目
    左頁11行目
    初六日、卯時畳 を
    初六日、卯時量 に訂正


    画像7枚目
    左頁6行目
    毛則柚鼠而已。 は、
    毛則㹨鼠而已。 に訂正。

    柚は、㹨(Unicode3E68) イタチですね。柚(ゆず)ではありません。
    画像二枚目右頁の猫という字とは違うので、猫ではないと判断できます。
    張漢相の報告にある鬱陵島の動植物を列挙している、「輿地圖」 (1736 - 1767)でも、㹨となっています。
    http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles4.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F115%2F0014_1736_cms1530.jpg

    しかし後の海東地圖では、猫になっています。
    http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles9.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F232%2F0018_1700m_cms1530.jpg

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  54. 承政院日記の天候記録をもう少し詳しく調べてみました。
    期間は、前回の投稿と同じ
    粛宗廿年八月朔日(丙申)  1694年09月19日 から、
    粛宗廿年十月十四日(戊申) 1694年11月30日 までです。
    この間の日記の記述から、天象に関わる記事を抜き出しました。

    粛宗廿年
    八月十五日(庚戌)  1694年10月03日 晴 ○ 巳午未時, 雷動·電光, 雨雹, 狀如鳥卵。申時, 雷動·電光。初昏一二更, 電光。
    (午前十時前頃から午後二時過ぎ頃まで、雷が落ちたり稲妻が光った。雨や雹が降り、小鳥の卵ほどであった。午後四時前から午後五時前頃にも雷が響いて電光が走った。日没後の薄暗くなった頃の、18時16分から、4時間59分12秒後の、23時15分まで、雷が光っていたという意味になります。なぜこのように、解釈できるかは、後述します。)

    八月十七日(壬子)  1694年10月05日 晴 ○ 雷動·下雨。二三更電光。

    八月十八日(癸丑)  1694年10月06日 晴 ○ 夜三更, 月暈。○ 卯時辰時, 有霧氣。

    八月二十日(乙卯)  1694年10月08日 晴 ○ 四五更, 月暈。

    八月廿一日(丙辰)  1694年10月09日 晴 ○ 夜五更, 月入井星。
    ○ 忠淸監司書目, 忠州等十四邑, 七月二十五日以後, 連次霜降, 各穀被傷, 至於綿田, 則酷被災損, 全無所收, 給災一款, 令該曹稟處事。
    ○ 京畿監司書目, 廣州等二十二邑呈, 以本月二十五日, 雨雹交下, 大者如拳, 小者如鴨卵, 鳧雁蟾蛙之屬, 無數觸死, 田畓各穀, 慘被災毒, 分等給災事, 令廟堂稟處事。

    八月廿五日(庚申)  1694年10月13日 晴 ○ 藥房啓曰, 秋氣漸高, 曉寒憀慄 八月

    九月四日(己巳)   1694年10月22日 晴 ○ 忠淸監司書目, 陰城等地, 雨雹交下, 事係變異事。
    ○ 平安監司書目, 江界下雪, 成川等地十八邑, 雨雹, 泰川等九邑, 風雷大作, 雨雹交下, 今二十日夜, 平壤又爲雷動事。

    九月五日(庚午)   1694年10月23日 晴 ○ 五更, 流星出北斗星上, 入東方天際, 狀如鉢, 尾長二三尺, 色赤。

    九月七日(壬申)   1694年10月25日 晴 ○ 辰巳時, 日暈兩珥, 暈上有冠, 暈下有履。午未時, 日暈。

    九月八日(癸酉)   1694年10月26日 晴 ○ 五更, 流星出畢星上, 入東方天際, 狀如拳, 尾長二三尺許, 色赤, 光照地。

    九月十九日(甲申) 1694年11月 6日 晴 ○ 四更, 月入東井星。五更, 電光。

    九月廿一日(丙戌)  1694年11月 8日 晴 ○ 申時, 日有左珥, 一更電光, 三更雨雹, 狀如豆。四更, 雷動電光。

    九月廿三日(戊子) 1694年11月10日 晴
    ○ 四更, 木星犯軒轅星·南大星, 月暈, 廻木星。五更, 月暈, 廻木星。
    ○ 藥房啓曰, 雨後寒氣陡緊, 伏未審此時, 聖體, 若何? 咳嗽失音之候, 已盡平復否乎? 中宮殿氣候, 亦何如?
    (晴れという天候記録でありながら、雨の後に急に気温が下がったことを薬房が心配していますので、やはり雨は降っています。寒冷前線の通過でしょうか。この雨が、鬱陵島にいた張漢相たちに降ったことになります。湿度が高く、月や惑星にかさが掛かっています。)

    九月廿四日(己丑) 1694年11月11日 晴 ○ 辰時至午時, 日暈。
    ○ 開城留守書目, 本月二十一日三更量, 雷震兼發, 雨雹交下, 事係變異事。

    九月廿五日(庚寅) 1694年11月12日 晴 ○ 江華留守書目, 本月二十一日, 子時, 雷動, 事係變異事

    九月廿七日(壬辰) 1694年11月14日 陰
    九月廿八日(癸巳) 1694年11月15日 晴 ○ 藥房啓曰, 冬月迫近, 寒氣自緊, 伏未審此時, 聖體調攝氣候, 若何?

    十月朔日(乙未)   1694年11月17日 陰
    十月二日(丙申)   1694年11月18日 晴 ○ 二三更, 電光。四五更, 雷動電光。
    十月三日(丁酉)   1694年11月19日 陰
    十月四日(戊戌)   1694年11月20日 陰
    十月十日(甲辰)   1694年11月26日 陰
    十月十二日(丙午)  1694年11月28日 晴 ○ 初昏, 流星出河鼓星上, 入乾方天際, 狀如拳, 尾長二三尺許, 色赤。

    ※「更」というのは、夜の長さを、五等分した時刻の単位です。「三更雨雹」とあれば、この五等分した三つめの「更」に雨や雹が降ったという意味です。当時の朝鮮の暦法は、大統暦から、時憲暦への過渡期であり暦法に混乱が見られる時期ですが、十二支による時刻は、定時法です。しかし、夜の長さは日々変化していきますので、この「更」に関しては、不定時法ということになります。

    ソウルの緯度経度で、1694年10月2日の計算をしてみましたら、
    日没が、18時16分で、市民薄明の終わりが、18時42分となりました。
    夜の始まる日暮れを、日没から26分後のこの時刻と仮定してみます。なお当時の日本の貞享暦の定義ならば、夜の始まる時刻はあと10分間ほど遅くなります。さらに陽が沈む方角が水平線が見えるような所であれば、最大限19時12分の航海薄明の終わりまで、ごく僅かながら薄明かりがあるという計算になりますが、この当時の朝鮮の王宮であった昌徳宮から、この日の陽の沈む方角は、北から東回りに見て方位266度の方向になりますので、その方向には、現在のソウル市西部の桂陽山がありとてもそんな時刻まで薄明は続きません。したがって、この日の夜の始まりを、市民薄明の終わりの、18時42分と仮定するのは妥当だと思います。実際にはもう少し早い可能性が高いと思います。

    次に、翌日の、1694年10月3日の日の出は、方位94度で6時31分となります。市民薄明の始まりは、6時5分です。 この東の方角にも、條里峰から北に続く、高さ400~600メートルほどの山々がありますので、夜明けを6時5分と仮定します。

    これによって、前日の18時42分から、この朝の6時5分までの、11時間23分がこの日の夜の長さとなります。分に直すと、683分になります。これを五等分した、136分36秒が、1更の長さとなります。したがって、夜の始まりの18時42分に、二更分の273分12秒を足した、23時15分が、二更の終わりと計算できます。

    (なお、上記の時刻の計算は、韓国(日本とおなじ)標準時で計算してあり、地方真太陽時では、全ての時刻が約33分ずつ遅れることになります。)

    鬱陵島を張漢相たちが探検していた日の前後は、やはり朝鮮本土でも天気が悪く、曇りで湿度の高い日が続いていたことがわかりました。竹島が観望出来たのは奇跡的です。

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  55. 前々回のコメントで、「搏棊」の棊は、棋の異体字ですので、「搏棋」と同じ熟語ですとしましたが、こちらは、字をよく見ると、手偏ではなく、「博」らしいので、ひろいを意味する、「博」または、「愽」に訂正すべきなのか思い悩みました。

    西渓雑録では「博棊」と書かれていますが、同じ文章がある別本の
    臥遊録では、崩し字の偏の筆の持って行き方から、立心偏(りっしんべん)の「愽棊」でした。下記の十一行目右列
    http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004811&imgsize=

    「竹が大きくて、まるでなにかの木のようだ」という漢文自体の意味に沿って考えると、「愽棊」という種類の木であると解釈すべきですので、「棊」という字を調べてみました。

    『説文』には、「博棊」とあり、「博棊」でも正しかったことになります。清代の段玉裁『說文解字注』の説明の中に、「從木」という解釈もありました。日本では、棋盤の材質としては、常緑針葉樹の榧(かや)が高級品とされますが、やはり常緑針葉樹の樅(もみ)でも、碁盤・棋盤は作れますので、朝鮮で、その用途材に用いられた種類の木を、張漢相が「愽棊」と呼称したのだと解釈しなおします。つまり「博」でも良いのですが、折角、字を覚えたので、

    画像3枚目
    右頁の冒頭は
    島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大慱暴 は、慱(タン)でなく愽(ハク)の
    島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大愽棊 と「愽棊」に再訂正します。

    --------------------------------
    話題を鬱陵島の天候に戻します。

    以前に話題にした、「歴史天候データベース」が吉村稔先生のところでとっくに再開していたことを、つい先日知りました。
    http://hwdb.yamanashi.ac.jp/index_hw.html

    対馬の厳原での天気記録と比較すると、張漢相が竹島を見たと思われる日は、十月一日か二日だったと思われます。

    元禄七年九月廿五日 1694年11月12日 厳原 「曇り」
    元禄七年九月廿六日 1694年11月13日 厳原 「曇り・晴れ」
    元禄七年九月廿七日 1694年11月14日 漢城「陰」
    元禄七年九月廿八日 1694年11月15日  鬱陵島「雨雪」  厳原「曇り」
    元禄七年九月廿九日   1694年11月16日  鬱陵島「雨雪」  厳原「晴れ」
    九月二十八・九日、雨雪交下。中峯腰上、積雪尺許。是齊。
    十月朔日 1694年11月17日 漢城「陰」   厳原 「晴れ」
    雨霽雲捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、此所謂三峯也。西望大関嶺、逶迤之狀。東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不過三百餘里。而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是齊。自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十里、北至三十餘里。互回往来。四望遠近、臆度[如斯]是齊。

    雨霽  雨が止んで空がすっきり晴れること
    雲捲  雲が根こそぎ巻き取られること 

    十月二日 1694年11月18日 漢城「晴」   厳原 「晴れ」
    十月三日 1694年11月19日 漢城「陰」   厳原 「晴れ」
    十月四日 1694年11月20日 漢城「陰」   厳原 「雨」
    本月初四日、未時量、似有風便、故發船。到西邊澗口、則雨勢霏微、日又昏黒。而十月東風、誠不可易得。是乎等以。仍為開洋、六船齊發。子夜。以前則舉火相準。是如可。丑時、以後大船一石小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後亦不知所向。是乎矣。
    十月五日 1694年11月21日 漢城「晴」   厳原 「曇り・晴れ」
    東風不止初五日、亥末直抵三陟浦口。而落後小舡二隻、回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡
    十月六日 1694年11月22日 漢城「晴」   厳原 「晴れ」
    [本月]初六日、卯時量、亦為囬泊、於三陟浦口、為有在果。

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  56. 小嶋日向守さま

    申光璞『蔚陵島事蹟』の訂正が終わりました。ご確認頂ければ幸いです。小嶋さんが沢山解読して下さったので、matsuさんの訳も訂正しなければならないですね…

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  57. Kaneganese様 再チェック終わりました。

    島中黃雀群飛來投接竹邊串  の「接」が余計ですので
    島中黃雀群飛來投 竹邊串  のように削除願います。


    足輿「海狗」「斑獺」同類、 は、輿ではなく、
    足與「海狗」「斑獺」同類 与えるの「與」です。


    A 霽雨■捲之日、 霽雨鷰捲之日
    B 両霽雲捲之日、 雨霽雲捲之日  
    (西渓雑録の雨は、兩と似ていますが、隣の行にある「南北两(両)峯」のように、
    真ん中に縦棒のない字体の両を使用しています。この文字は、崩してありますが、
    Unicode u4e24の「两」を使用していますので、明確に雨とわかります。
    http://glyphwiki.org/wiki/u4e24


    B 則亦非可藏處。是遣。此?<有>釜二鼎、而二釜一鼎 ?をとって
    B 則亦非可藏處。是遣。此處<有>釜二鼎、而二釜一鼎 處に訂正

    B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、有小路。 ふたつめの「有」をトル
    B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、 小路。


    B 中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎於   於を
    B 中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎弥   弥に訂正

    B 至扵殘山平夷處、或有人居基址、石葬而墓木連抱、廃垣石堆而己。 扵を
    B 至於殘山平夷處、或有人居基址、石葬而墓木連抱、廢垣石堆而己 於に訂正
    (草書体では、⺘手偏のように見えるのは方偏で、方のように見えるのは弓偏です)

    メモ
    西渓雑録で「蒿本」、臥遊録で「藁本」
    藁が正字体で、蒿本=藁本(ヤブニンジンの根)  生薬

    菫菫=堇堇=僅僅 西渓雑録の字体は「堇堇」
    日本人にとっては、「菫」(花のスミレの菫(キン)より、「飢饉」の「饉」や、「僅(わず)か」の「僅」の旁の「堇」の字のほうが、少ないという意味の漢字として馴染みがあるが、草冠のすみれの菫でも、意味は同じで、少ないと言う意味になる。ただし、この文章の場合は、副詞なので意味は、「ようやくその島に北岸に到達した」になる。

    葢叢=蓋叢 異体字

    齊と齋は、別字。 齊=斉で整う。齋=斎は、祭りの準備が整うことに限定。

    ------------------------------------
    蔚陵島事績の訂正箇所

    風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀。 之が、漏れていました
    風雨大作、非電震之聲。而動如崩山之狀。 震之聲の箇所に挿入願います。

    また原文中では、「處々」のような箇所は、おどり字「々」を使用しています。
    韓国の原サイト同様、Kaneganeseさんの翻刻も、「處處」と同じ字を反復させています。
    しかし、下記の一箇所が、ひらがな用のおどり字「ゝ」ですので、

    所謂竹田、處ゝ有之。而上項四千處叚 「處々」または處處に
    所謂竹田、處處有之。而上項四千處叚 したほうが、良いかと思います。

    ---------------------------------------
    訂正は以上ですが、補足です。

    「西渓雜錄」のネズミに囓られたような部分は、文字の一部が残っていて判読可能な部分があります。これは、単に〈●●●〉にせず、出来る限り情報を反映させたいと考えました。また文脈から、失われた文字が推定できる処もありますので、(推定)として補足してみました。


    江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既〈●●〉 無は読み取れます
    江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既無〈渡?〉 「渡」は推定


    頗有斫取之跡。而、亦有、数〈???〉 
    頗有斫取之跡。而、亦有、数〈千竿而?〉 (千竿而」は推定)


    是乎等以。其中十餘箇、載〈???〉。
    是乎等以。其中十餘箇、載〈●乾竹?〉。 (乾竹は推定)


    而體制非〈???〉之産。是乎弥。
    而體制非〈我國?〉之産。 是乎弥 (我國は確度の高い推定)

    可支魚、或睡或〈??〉故、諸人持杖、搏殺二口。
    可支魚、或睡或〈⺤ㄏ〉故、諸人持杖、搏殺二口。   (坐在は推定)


    無異於西南、進■〈???〉大小。是乎弥。
    無異於西南、進慮〈???〉大小。是乎弥。 (慮は推定)

    所謂殺得以来之可支魚、則〈??〉
    所謂殺得以来之可支魚、則〈有鰭?〉 有の一部と魚偏が読み取れます。

    B 又従而折破 <●●●●>之望而。
    B 又従而折破尤、無<●●>]之望而。 「尤無」は明確に読み取れます。

    A 西望遠近、臆度如斯。   是齊。 
    B 四望遠近、臆度<・ロ斯>。是齋。 如のロと斯の斤は読み取れます

    B回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡<●●> 
    回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡<本月>    「本月」は確度の高い推定

    謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶●●<???>
    謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶概三<日之間、方> 「日之間方」は確度の高い推定

    可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。<???>
    可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。<??臆?>

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  58. 画像八枚目の最後の行を推定してみました。
    風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<????>

    風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<上雲氣中、所>

    こんな感じの文章だったのだろう思います。
    ----------------------------------------------------
    また、mastuさんが、二年前に指摘された、
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/06/2010-dokdo-institute-of-yeungnam.html
    李瀷「欝陵島」の『星湖僿説』にある、
    朝廷遣武臣張漢相 往審之 南北七十里東西六十里 木有冬柏・・・・
    の一文は、
    「自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十里、北至三十餘里。互回往来。四望遠近、臆度[如斯]是齊。西邊大谷間、有人居基址三処。」
    の後、
    「所謂樹木、盡是、冬栢」の間のどこかに入っていたのかもしれませんが、あるいは李瀷が、40+30と30+30を、単純に足し算して、「星湖僿説」に新たに書いただけのような気もします。
    ----------------------------------------------------

    それから、洞窟の中にあった建物に関してですが、
    「四層築砌、累石皆錬磨玉色有文彩也、十餘間瓦家、甚極奢麗、丹青及戸牖之制、非泛然我國搆屋之規則」
    という記述は、洞窟の中にあって、朱塗りの柱や、緑色の連子窓があったということから、弁天様などを祀って、航海の安全を祈願するために、村川・大谷の両家が造営したもので、
    現在の江の島神社の中津宮のような社殿だったのではないかと思います。
    http://www.enoshimajinja.or.jp/gosaijin/nakatsumiya.html
    元禄二年(1689年)再建の社殿が再現されています。

    鬱陵島のどこかの洞窟を発掘すれば、まだ敷石などの遺構が見つかるかもしれません。
    また、洞窟内で、二酸化硫黄や、硫化水素などの火山性ガスがたまっていたと考えれば、硫化水素は、低濃度では卵の腐った臭い(腐卵臭)がするので、奇妙な匂いの説明も付くのではないでしょうか。

    元禄のこの頃は、三捗などに津波被害をもたらした1681 年 の韓国東海岸地震の後であり、鬱陵島の火山活動にも影響を与えていたのかもしれません。この火山活動に関して考えれば、10700年前頃から始まり、9300年前に起きた有名な鬱陵隠岐テフラ(火山灰)をもたらした大規模な活動が、今後数千年以内に再び起これば、将来鬱陵島も竹島もなくなってしまうかも知れません。

    ------------------------
    承政院日記による天気記録を訂正します。
    八月十四日(己酉) 1694年10月02日 は、晴としていましたが、私のミスで、
    「朝霧夕雨」でした。
    ○ 昧爽至辰時, 有霧氣。
    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result_list.jsp?mode=w&sjwid=SJW-D20080140

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