tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post8048424882928969582..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: 1693-1703年 朴世堂『西渓雑録』と申光璞『蔚陵島事蹟』Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger58125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-87817095539978445972012-12-31T20:51:48.927+09:002012-12-31T20:51:48.927+09:00画像八枚目の最後の行を推定してみました。
風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<????>
↓...画像八枚目の最後の行を推定してみました。<br />風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<????><br />↓<br />風時、登高瞭望、則清明之日、島形隱見於、水<上雲氣中、所><br /><br />こんな感じの文章だったのだろう思います。<br />----------------------------------------------------<br />また、mastuさんが、二年前に指摘された、<br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/06/2010-dokdo-institute-of-yeungnam.html<br />李瀷「欝陵島」の『星湖僿説』にある、<br />朝廷遣武臣張漢相 往審之 南北七十里東西六十里 木有冬柏・・・・<br />の一文は、<br />「自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十里、北至三十餘里。互回往来。四望遠近、臆度[如斯]是齊。西邊大谷間、有人居基址三処。」<br />の後、<br />「所謂樹木、盡是、冬栢」の間のどこかに入っていたのかもしれませんが、あるいは李瀷が、40+30と30+30を、単純に足し算して、「星湖僿説」に新たに書いただけのような気もします。<br />----------------------------------------------------<br /><br />それから、洞窟の中にあった建物に関してですが、<br />「四層築砌、累石皆錬磨玉色有文彩也、十餘間瓦家、甚極奢麗、丹青及戸牖之制、非泛然我國搆屋之規則」<br />という記述は、洞窟の中にあって、朱塗りの柱や、緑色の連子窓があったということから、弁天様などを祀って、航海の安全を祈願するために、村川・大谷の両家が造営したもので、<br />現在の江の島神社の中津宮のような社殿だったのではないかと思います。<br />http://www.enoshimajinja.or.jp/gosaijin/nakatsumiya.html<br />元禄二年(1689年)再建の社殿が再現されています。<br /><br />鬱陵島のどこかの洞窟を発掘すれば、まだ敷石などの遺構が見つかるかもしれません。<br />また、洞窟内で、二酸化硫黄や、硫化水素などの火山性ガスがたまっていたと考えれば、硫化水素は、低濃度では卵の腐った臭い(腐卵臭)がするので、奇妙な匂いの説明も付くのではないでしょうか。<br /><br />元禄のこの頃は、三捗などに津波被害をもたらした1681 年 の韓国東海岸地震の後であり、鬱陵島の火山活動にも影響を与えていたのかもしれません。この火山活動に関して考えれば、10700年前頃から始まり、9300年前に起きた有名な鬱陵隠岐テフラ(火山灰)をもたらした大規模な活動が、今後数千年以内に再び起これば、将来鬱陵島も竹島もなくなってしまうかも知れません。<br /><br />------------------------<br />承政院日記による天気記録を訂正します。<br />八月十四日(己酉) 1694年10月02日 は、晴としていましたが、私のミスで、<br />「朝霧夕雨」でした。<br />○ 昧爽至辰時, 有霧氣。<br />http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result_list.jsp?mode=w&sjwid=SJW-D20080140小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-17634474336193481722012-12-07T00:57:08.053+09:002012-12-07T00:57:08.053+09:00Kaneganese様 再チェック終わりました。
島中黃雀群飛來投接竹邊串 の「接」が余計です...Kaneganese様 再チェック終わりました。<br /><br />島中黃雀群飛來投接竹邊串 の「接」が余計ですので<br />島中黃雀群飛來投 竹邊串 のように削除願います。<br /><br /><br />足輿「海狗」「斑獺」同類、 は、輿ではなく、<br />足與「海狗」「斑獺」同類 与えるの「與」です。<br /><br /><br />A 霽雨■捲之日、 霽雨鷰捲之日<br />B 両霽雲捲之日、 雨霽雲捲之日 <br /> (西渓雑録の雨は、兩と似ていますが、隣の行にある「南北两(両)峯」のように、<br />真ん中に縦棒のない字体の両を使用しています。この文字は、崩してありますが、<br />Unicode u4e24の「两」を使用していますので、明確に雨とわかります。<br />http://glyphwiki.org/wiki/u4e24<br /><br /><br />B 則亦非可藏處。是遣。此?<有>釜二鼎、而二釜一鼎 ?をとって<br />B 則亦非可藏處。是遣。此處<有>釜二鼎、而二釜一鼎 處に訂正 <br /><br />B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、有小路。 ふたつめの「有」をトル<br />B 自東南間渓谷中、向南至竹田、有十五里許、 小路。 <br /><br /><br />B 中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎於 於を<br />B 中有峯巒嵯峨、澗壑、回互雖。無寬豁處、猶可開墾、是乎弥 弥に訂正<br /><br />B 至扵殘山平夷處、或有人居基址、石葬而墓木連抱、廃垣石堆而己。 扵を<br />B 至於殘山平夷處、或有人居基址、石葬而墓木連抱、廢垣石堆而己 於に訂正<br /> (草書体では、⺘手偏のように見えるのは方偏で、方のように見えるのは弓偏です)<br /><br />メモ<br />西渓雑録で「蒿本」、臥遊録で「藁本」<br />藁が正字体で、蒿本=藁本(ヤブニンジンの根) 生薬<br /><br />菫菫=堇堇=僅僅 西渓雑録の字体は「堇堇」<br />日本人にとっては、「菫」(花のスミレの菫(キン)より、「飢饉」の「饉」や、「僅(わず)か」の「僅」の旁の「堇」の字のほうが、少ないという意味の漢字として馴染みがあるが、草冠のすみれの菫でも、意味は同じで、少ないと言う意味になる。ただし、この文章の場合は、副詞なので意味は、「ようやくその島に北岸に到達した」になる。<br /><br />葢叢=蓋叢 異体字<br /><br />齊と齋は、別字。 齊=斉で整う。齋=斎は、祭りの準備が整うことに限定。<br /><br />------------------------------------<br />蔚陵島事績の訂正箇所<br /><br />風雨大作、非電震聲。而動如崩山之狀。 之が、漏れていました<br />風雨大作、非電震之聲。而動如崩山之狀。 震之聲の箇所に挿入願います。<br /><br />また原文中では、「處々」のような箇所は、おどり字「々」を使用しています。<br />韓国の原サイト同様、Kaneganeseさんの翻刻も、「處處」と同じ字を反復させています。<br />しかし、下記の一箇所が、ひらがな用のおどり字「ゝ」ですので、<br /><br />所謂竹田、處ゝ有之。而上項四千處叚 「處々」または處處に<br />所謂竹田、處處有之。而上項四千處叚 したほうが、良いかと思います。<br /><br />---------------------------------------<br />訂正は以上ですが、補足です。<br /><br />「西渓雜錄」のネズミに囓られたような部分は、文字の一部が残っていて判読可能な部分があります。これは、単に〈●●●〉にせず、出来る限り情報を反映させたいと考えました。また文脈から、失われた文字が推定できる処もありますので、(推定)として補足してみました。<br /><br /><br />江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既〈●●〉 無は読み取れます<br />江原道三陟鎮営将、為馳報事。嶺東・嶺南、既無〈渡?〉 「渡」は推定<br /><br /><br />頗有斫取之跡。而、亦有、数〈???〉 <br />頗有斫取之跡。而、亦有、数〈千竿而?〉 (千竿而」は推定)<br /><br /><br />是乎等以。其中十餘箇、載〈???〉。<br />是乎等以。其中十餘箇、載〈●乾竹?〉。 (乾竹は推定)<br /><br /><br />而體制非〈???〉之産。是乎弥。<br />而體制非〈我國?〉之産。 是乎弥 (我國は確度の高い推定)<br /><br />可支魚、或睡或〈??〉故、諸人持杖、搏殺二口。<br />可支魚、或睡或〈⺤ㄏ〉故、諸人持杖、搏殺二口。 (坐在は推定) <br /><br /> <br />無異於西南、進■〈???〉大小。是乎弥。<br />無異於西南、進慮〈???〉大小。是乎弥。 (慮は推定)<br /><br />所謂殺得以来之可支魚、則〈??〉<br />所謂殺得以来之可支魚、則〈有鰭?〉 有の一部と魚偏が読み取れます。<br /><br />B 又従而折破 <●●●●>之望而。<br />B 又従而折破尤、無<●●>]之望而。 「尤無」は明確に読み取れます。<br /><br />A 西望遠近、臆度如斯。 是齊。 <br />B 四望遠近、臆度<・ロ斯>。是齋。 如のロと斯の斤は読み取れます<br /><br />B回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡<●●> <br /> 回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡<本月> 「本月」は確度の高い推定<br /><br />謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶●●<???><br />謂遠不過七八百里。是如乎。今番往返倶概三<日之間、方> 「日之間方」は確度の高い推定 <br /><br />可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。<???><br />可得達、則此諸、濟州猶有一倍之遠是乎所。<??臆?><br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6210781259944400292012-12-02T19:29:32.089+09:002012-12-02T19:29:32.089+09:00小嶋日向守さま
申光璞『蔚陵島事蹟』の訂正が終わりました。ご確認頂ければ幸いです。小嶋さんが沢山解...小嶋日向守さま<br /><br />申光璞『蔚陵島事蹟』の訂正が終わりました。ご確認頂ければ幸いです。小嶋さんが沢山解読して下さったので、matsuさんの訳も訂正しなければならないですね…Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-89857219775503464692012-11-30T01:36:05.592+09:002012-11-30T01:36:05.592+09:00前々回のコメントで、「搏棊」の棊は、棋の異体字ですので、「搏棋」と同じ熟語ですとしましたが、こちらは...前々回のコメントで、「搏棊」の棊は、棋の異体字ですので、「搏棋」と同じ熟語ですとしましたが、こちらは、字をよく見ると、手偏ではなく、「博」らしいので、ひろいを意味する、「博」または、「愽」に訂正すべきなのか思い悩みました。<br /><br />西渓雑録では「博棊」と書かれていますが、同じ文章がある別本の<br />臥遊録では、崩し字の偏の筆の持って行き方から、立心偏(りっしんべん)の「愽棊」でした。下記の十一行目右列<br />http://yoksa.aks.ac.kr/jsp/aa/ImageView.jsp?aa10up=&aa10no=kh2_je_a_vsu_24513_009&aa15no=&aa20no=24513_009_0038&pageno=&imgnum=JE_A_24513_009_004811&imgsize=<br /><br />「竹が大きくて、まるでなにかの木のようだ」という漢文自体の意味に沿って考えると、「愽棊」という種類の木であると解釈すべきですので、「棊」という字を調べてみました。<br /><br />『説文』には、「博棊」とあり、「博棊」でも正しかったことになります。清代の段玉裁『說文解字注』の説明の中に、「從木」という解釈もありました。日本では、棋盤の材質としては、常緑針葉樹の榧(かや)が高級品とされますが、やはり常緑針葉樹の樅(もみ)でも、碁盤・棋盤は作れますので、朝鮮で、その用途材に用いられた種類の木を、張漢相が「愽棊」と呼称したのだと解釈しなおします。つまり「博」でも良いのですが、折角、字を覚えたので、<br /><br />画像3枚目<br />右頁の冒頭は<br />島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大慱暴 は、慱(タン)でなく愽(ハク)の<br />島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大愽棊 と「愽棊」に再訂正します。<br /><br />--------------------------------<br />話題を鬱陵島の天候に戻します。<br /><br />以前に話題にした、「歴史天候データベース」が吉村稔先生のところでとっくに再開していたことを、つい先日知りました。<br />http://hwdb.yamanashi.ac.jp/index_hw.html<br /><br />対馬の厳原での天気記録と比較すると、張漢相が竹島を見たと思われる日は、十月一日か二日だったと思われます。<br /><br />元禄七年九月廿五日 1694年11月12日 厳原 「曇り」<br />元禄七年九月廿六日 1694年11月13日 厳原 「曇り・晴れ」<br />元禄七年九月廿七日 1694年11月14日 漢城「陰」<br />元禄七年九月廿八日 1694年11月15日 鬱陵島「雨雪」 厳原「曇り」<br />元禄七年九月廿九日 1694年11月16日 鬱陵島「雨雪」 厳原「晴れ」<br />九月二十八・九日、雨雪交下。中峯腰上、積雪尺許。是齊。<br />十月朔日 1694年11月17日 漢城「陰」 厳原 「晴れ」<br />雨霽雲捲之日、入山登中峯。則南北兩峯、岌嶪相向、此所謂三峯也。西望大関嶺、逶迤之狀。東望海中、有一島、杳在辰方。而其大、未満欝島三分之一。遠不過三百餘里。而、南北両方、即杳茫。無際水天一色。是齊。自中峯、西至海濱三十餘里、東至二十餘里、南近四十里、北至三十餘里。互回往来。四望遠近、臆度[如斯]是齊。<br /><br />雨霽 雨が止んで空がすっきり晴れること <br />雲捲 雲が根こそぎ巻き取られること <br /><br />十月二日 1694年11月18日 漢城「晴」 厳原 「晴れ」<br />十月三日 1694年11月19日 漢城「陰」 厳原 「晴れ」<br />十月四日 1694年11月20日 漢城「陰」 厳原 「雨」<br />本月初四日、未時量、似有風便、故發船。到西邊澗口、則雨勢霏微、日又昏黒。而十月東風、誠不可易得。是乎等以。仍為開洋、六船齊發。子夜。以前則舉火相準。是如可。丑時、以後大船一石小船二隻、在先。而餘三隻、落後日出後亦不知所向。是乎矣。<br />十月五日 1694年11月21日 漢城「晴」 厳原 「曇り・晴れ」<br />東風不止初五日、亥末直抵三陟浦口。而落後小舡二隻、回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡 <br />十月六日 1694年11月22日 漢城「晴」 厳原 「晴れ」<br />[本月]初六日、卯時量、亦為囬泊、於三陟浦口、為有在果。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-90088176728703072012012-11-29T01:43:32.971+09:002012-11-29T01:43:32.971+09:00承政院日記の天候記録をもう少し詳しく調べてみました。
期間は、前回の投稿と同じ
粛宗廿年八月朔日(丙...承政院日記の天候記録をもう少し詳しく調べてみました。<br />期間は、前回の投稿と同じ<br />粛宗廿年八月朔日(丙申) 1694年09月19日 から、<br />粛宗廿年十月十四日(戊申) 1694年11月30日 までです。<br />この間の日記の記述から、天象に関わる記事を抜き出しました。<br /><br />粛宗廿年<br />八月十五日(庚戌) 1694年10月03日 晴 ○ 巳午未時, 雷動·電光, 雨雹, 狀如鳥卵。申時, 雷動·電光。初昏一二更, 電光。<br />(午前十時前頃から午後二時過ぎ頃まで、雷が落ちたり稲妻が光った。雨や雹が降り、小鳥の卵ほどであった。午後四時前から午後五時前頃にも雷が響いて電光が走った。日没後の薄暗くなった頃の、18時16分から、4時間59分12秒後の、23時15分まで、雷が光っていたという意味になります。なぜこのように、解釈できるかは、後述します。)<br /><br />八月十七日(壬子) 1694年10月05日 晴 ○ 雷動·下雨。二三更電光。<br /><br />八月十八日(癸丑) 1694年10月06日 晴 ○ 夜三更, 月暈。○ 卯時辰時, 有霧氣。<br /><br />八月二十日(乙卯) 1694年10月08日 晴 ○ 四五更, 月暈。<br /><br />八月廿一日(丙辰) 1694年10月09日 晴 ○ 夜五更, 月入井星。<br />○ 忠淸監司書目, 忠州等十四邑, 七月二十五日以後, 連次霜降, 各穀被傷, 至於綿田, 則酷被災損, 全無所收, 給災一款, 令該曹稟處事。<br />○ 京畿監司書目, 廣州等二十二邑呈, 以本月二十五日, 雨雹交下, 大者如拳, 小者如鴨卵, 鳧雁蟾蛙之屬, 無數觸死, 田畓各穀, 慘被災毒, 分等給災事, 令廟堂稟處事。<br /><br />八月廿五日(庚申) 1694年10月13日 晴 ○ 藥房啓曰, 秋氣漸高, 曉寒憀慄 八月<br /><br />九月四日(己巳) 1694年10月22日 晴 ○ 忠淸監司書目, 陰城等地, 雨雹交下, 事係變異事。<br />○ 平安監司書目, 江界下雪, 成川等地十八邑, 雨雹, 泰川等九邑, 風雷大作, 雨雹交下, 今二十日夜, 平壤又爲雷動事。<br /><br />九月五日(庚午) 1694年10月23日 晴 ○ 五更, 流星出北斗星上, 入東方天際, 狀如鉢, 尾長二三尺, 色赤。<br /><br />九月七日(壬申) 1694年10月25日 晴 ○ 辰巳時, 日暈兩珥, 暈上有冠, 暈下有履。午未時, 日暈。<br /><br />九月八日(癸酉) 1694年10月26日 晴 ○ 五更, 流星出畢星上, 入東方天際, 狀如拳, 尾長二三尺許, 色赤, 光照地。<br /><br />九月十九日(甲申) 1694年11月 6日 晴 ○ 四更, 月入東井星。五更, 電光。<br /><br />九月廿一日(丙戌) 1694年11月 8日 晴 ○ 申時, 日有左珥, 一更電光, 三更雨雹, 狀如豆。四更, 雷動電光。<br /><br />九月廿三日(戊子) 1694年11月10日 晴 <br />○ 四更, 木星犯軒轅星·南大星, 月暈, 廻木星。五更, 月暈, 廻木星。<br />○ 藥房啓曰, 雨後寒氣陡緊, 伏未審此時, 聖體, 若何? 咳嗽失音之候, 已盡平復否乎? 中宮殿氣候, 亦何如?<br />(晴れという天候記録でありながら、雨の後に急に気温が下がったことを薬房が心配していますので、やはり雨は降っています。寒冷前線の通過でしょうか。この雨が、鬱陵島にいた張漢相たちに降ったことになります。湿度が高く、月や惑星にかさが掛かっています。)<br /><br />九月廿四日(己丑) 1694年11月11日 晴 ○ 辰時至午時, 日暈。<br />○ 開城留守書目, 本月二十一日三更量, 雷震兼發, 雨雹交下, 事係變異事。<br /><br />九月廿五日(庚寅) 1694年11月12日 晴 ○ 江華留守書目, 本月二十一日, 子時, 雷動, 事係變異事<br /><br />九月廿七日(壬辰) 1694年11月14日 陰<br />九月廿八日(癸巳) 1694年11月15日 晴 ○ 藥房啓曰, 冬月迫近, 寒氣自緊, 伏未審此時, 聖體調攝氣候, 若何?<br /><br />十月朔日(乙未) 1694年11月17日 陰<br />十月二日(丙申) 1694年11月18日 晴 ○ 二三更, 電光。四五更, 雷動電光。<br />十月三日(丁酉) 1694年11月19日 陰<br />十月四日(戊戌) 1694年11月20日 陰<br />十月十日(甲辰) 1694年11月26日 陰<br />十月十二日(丙午) 1694年11月28日 晴 ○ 初昏, 流星出河鼓星上, 入乾方天際, 狀如拳, 尾長二三尺許, 色赤。<br /><br />※「更」というのは、夜の長さを、五等分した時刻の単位です。「三更雨雹」とあれば、この五等分した三つめの「更」に雨や雹が降ったという意味です。当時の朝鮮の暦法は、大統暦から、時憲暦への過渡期であり暦法に混乱が見られる時期ですが、十二支による時刻は、定時法です。しかし、夜の長さは日々変化していきますので、この「更」に関しては、不定時法ということになります。<br /><br />ソウルの緯度経度で、1694年10月2日の計算をしてみましたら、<br />日没が、18時16分で、市民薄明の終わりが、18時42分となりました。<br />夜の始まる日暮れを、日没から26分後のこの時刻と仮定してみます。なお当時の日本の貞享暦の定義ならば、夜の始まる時刻はあと10分間ほど遅くなります。さらに陽が沈む方角が水平線が見えるような所であれば、最大限19時12分の航海薄明の終わりまで、ごく僅かながら薄明かりがあるという計算になりますが、この当時の朝鮮の王宮であった昌徳宮から、この日の陽の沈む方角は、北から東回りに見て方位266度の方向になりますので、その方向には、現在のソウル市西部の桂陽山がありとてもそんな時刻まで薄明は続きません。したがって、この日の夜の始まりを、市民薄明の終わりの、18時42分と仮定するのは妥当だと思います。実際にはもう少し早い可能性が高いと思います。<br /><br />次に、翌日の、1694年10月3日の日の出は、方位94度で6時31分となります。市民薄明の始まりは、6時5分です。 この東の方角にも、條里峰から北に続く、高さ400~600メートルほどの山々がありますので、夜明けを6時5分と仮定します。<br /><br />これによって、前日の18時42分から、この朝の6時5分までの、11時間23分がこの日の夜の長さとなります。分に直すと、683分になります。これを五等分した、136分36秒が、1更の長さとなります。したがって、夜の始まりの18時42分に、二更分の273分12秒を足した、23時15分が、二更の終わりと計算できます。<br /><br />(なお、上記の時刻の計算は、韓国(日本とおなじ)標準時で計算してあり、地方真太陽時では、全ての時刻が約33分ずつ遅れることになります。) <br /><br />鬱陵島を張漢相たちが探検していた日の前後は、やはり朝鮮本土でも天気が悪く、曇りで湿度の高い日が続いていたことがわかりました。竹島が観望出来たのは奇跡的です。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-21037858325175775222012-11-28T01:51:39.547+09:002012-11-28T01:51:39.547+09:00西渓雑録の訂正追加です。
慱(タン)か博(ハク)か判読に悩んだ漢字は、どちらでもありませんでした。...西渓雑録の訂正追加です。<br /><br />慱(タン)か博(ハク)か判読に悩んだ漢字は、どちらでもありませんでした。<br />正しい判読は、「搏」(ハク)でした。この字は、<br />摶(タン)という字と、一見同じに見えて、実にややっこしいのです。<br />摶(タン・まるめる)は、(紡錘のように)手で丸くまるめるという、全く意味の違う別字です。<br />搏(ハク・うつ・とる)で、たたくの意味です。<br /><br />画像1枚目<br />左頁7行目<br />「伱不急下當放此獸摶噬之」 ではなく、「搏噬」が正しい判読ですので、<br />「爾不急下當放此獸搏噬之」 となります。噬はかじることなので、<br /><br />解釈は、もと「搏撃吞噬」という成語から、搏噬(ハクゼイ)で、攻撃を加えて陥落させること、侵略して併呑すること。 <br /><br />画像3枚目<br />右頁の冒頭は<br />島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大慱暴 は、<br />島中黃雀群飛來投竹邊串[島中竹實時々漂出形如大搏棊 となります。<br />「搏棊」の棊は、棋の異体字ですので、「搏棋」と同じ熟語です。<br /><br /><br />画像8枚目<br />左頁11行目<br />初六日、卯時畳 を<br />初六日、卯時量 に訂正<br /><br /><br />画像7枚目<br />左頁6行目<br />毛則柚鼠而已。 は、<br />毛則㹨鼠而已。 に訂正。<br /><br />柚は、㹨(Unicode3E68) イタチですね。柚(ゆず)ではありません。<br />画像二枚目右頁の猫という字とは違うので、猫ではないと判断できます。<br />張漢相の報告にある鬱陵島の動植物を列挙している、「輿地圖」 (1736 - 1767)でも、㹨となっています。<br />http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles4.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F115%2F0014_1736_cms1530.jpg<br /><br />しかし後の海東地圖では、猫になっています。<br />http://blog.naver.com/storyphoto/viewer.html?src=http%3A%2F%2Fblogfiles9.naver.net%2Fdata32%2F2008%2F7%2F19%2F232%2F0018_1700m_cms1530.jpg<br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-47266004593989233972012-11-26T18:53:17.563+09:002012-11-26T18:53:17.563+09:00Kaneganese様
貴重な連休の一日を、「宿題」に費やさせてしまって恐縮でした。
皆様
崔世哲...Kaneganese様<br />貴重な連休の一日を、「宿題」に費やさせてしまって恐縮でした。<br /><br />皆様<br />崔世哲の先遣隊と、張漢相の本隊が鬱陵島を探検した、粛宗二十年(元禄七年)の八月と九月は、どのような天候であったのかを検討してみようと思います。これは、張漢相らが、本当に現在の竹島を見たのかどうかに関わる重要な意味があると思います。<br /><br />手始めに、粛宗二十年八月と粛宗二十年九月の太陰暦をグレゴリオ暦の日付と対応させ、<br />李氏朝鮮の首都漢城の天候記録について、承政院日記の天気記録を付記させた表をつくってみました。<br />データは以下のサイトから採りました。<br />http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_year_list.jsp?wid=1680&wnodeid=99790<br /><br />陰暦月日 (日付の干支) グレゴリオ暦の年月日、 漢城の天候記録<br />八月一日 (丙申) 1694年09月19日 晴<br />八月二日 (丁酉) 1694年09月20日 晴<br />八月三日 (戊戌) 1694年09月21日 晴<br />八月四日 (己亥) 1694年09月22日 晴<br />八月五日 (庚子) 1694年09月23日 晴<br />八月六日 (辛丑) 1694年09月24日 晴<br />八月七日 (壬寅) 1694年09月25日 晴<br />八月八日 (癸卯) 1694年09月26日 晴<br />八月九日 (甲辰) 1694年09月27日 晴<br />八月十日 (乙巳) 1694年09月28日 晴<br />八月十一日(丙午) 1694年09月29日 ☆陰<br />八月十二日(丁未) 1694年09月30日 晴<br />八月十三日(戊申) 1694年10月01日 晴<br />八月十四日(己酉) 1694年10月02日 晴<br />八月十五日(庚戌) 1694年10月03日 晴<br />八月十六日(辛亥) 1694年10月04日 データ欠落 (崔世哲ら、十六日乗船風待)<br />八月十七日(壬子) 1694年10月05日 晴<br />八月十八日(癸丑) 1694年10月06日 晴<br />八月十九日(甲寅) 1694年10月07日 晴<br />八月二十日(乙卯) 1694年10月08日 晴 (崔世哲、二十日の酉時に出港)<br />八月廿一日(丙辰) 1694年10月09日 晴<br />八月廿二日(丁巳) 1694年10月10日 晴 (崔世哲ら、鬱陵島に到着) <br />八月廿三日(戊午) 1694年10月11日 晴<br />八月廿四日(己未) 1694年10月12日 晴<br />八月廿五日(庚申)※ 1694年10月13日 晴<br />八月廿六日(辛酉) 1694年10月14日 晴<br />八月廿七日(壬戌) 1694年10月15日 晴<br />八月廿八日(癸亥) 1694年10月16日 晴<br />八月廿九日(甲子) 1694年10月17日 晴<br />八月三十日(乙丑) 1694年10月18日 晴 (丑時。適逢東風、還為発船)<br />九月朔日 (丙寅) 1694年10月19日 晴 (先遣調査隊、戌時に無事帰還)<br />九月二日 (丁卯) 1694年10月20日 晴<br />九月三日 (戊辰) 1694年10月21日 晴<br />九月四日 (己巳) 1694年10月22日 晴<br />九月五日 (庚午) 1694年10月23日 晴<br />九月六日 (辛未) 1694年10月24日 晴<br />九月七日 (壬申) 1694年10月25日 晴<br />九月八日 (癸酉) 1694年10月26日 晴<br />九月九日 (甲戌) 1694年10月27日 晴<br />九月十日 (乙亥) 1694年10月28日 晴<br />九月十一日(丙子) 1694年10月29日 晴<br />九月十二日(丁丑) 1694年10月30日 晴<br />九月十三日(戊寅) 1694年10月31日 晴<br />九月十四日(己卯) 1694年11月01日 晴<br />九月十五日(庚辰) 1694年11月02日 晴<br />九月十六日(辛巳) 1694年11月03日 晴<br />九月十七日(壬午) 1694年11月04日 晴<br />九月十八日(癸未) 1694年11月05日 晴<br />九月十九日(甲申) 1694年11月06日 晴 (張漢相ら、三陟の五里津より発船)<br />九月二十日(乙酉) 1694年11月07日 晴 (鬱陵島南岸に到着)<br />九月廿一日(丙戌) 1694年11月08日 晴<br />九月廿二日(丁亥) 1694年11月09日 晴<br />九月廿三日(戊子) 1694年11月10日 晴<br />九月廿四日(己丑) 1694年11月11日 晴<br />九月廿五日(庚寅) 1694年11月12日 晴<br />九月廿六日(辛卯) 1694年11月13日 晴<br />九月廿七日(壬辰) 1694年11月14日 ☆陰<br />九月廿八日(癸巳) 1694年11月15日 晴<br />九月廿九日(甲午) 1694年11月16日 データ欠落<br />十月朔日 (乙未) 1694年11月17日 ☆陰<br />十月二日 (丙申) 1694年11月18日 晴<br />十月三日 (丁酉) 1694年11月19日 ☆陰<br />十月四日 (戊戌) 1694年11月20日 ☆陰 (未時量、似有風便、故發船)<br />十月五日 (己亥) 1694年11月21日 晴<br />十月六日 (庚子) 1694年11月22日 晴 (卯時量)、三陟浦へ帰還)<br />十月七日 (辛丑) 1694年11月23日 晴<br />十月八日 (壬寅) 1694年11月24日 晴<br />十月九日 (癸卯) 1694年11月25日 晴<br />十月十日 (甲辰) 1694年11月26日 ☆陰<br />十月十一日(乙巳) 1694年11月27日 晴<br />十月十二日(丙午) 1694年11月28日 晴<br />十月十三日(丁未) 1694年11月29日 晴<br />十月十四日(戊申) 1694年11月30日 晴<br /><br />結果は以上の通りです。承政院日記の記録では、この73日間で、雨の日が一日もなく、呆れるほど「晴」が続いています。数少ない「陰」には☆印を付けました。<br />承政院日記の他の期間では、「雨」という記述もないわけではなく、たとえば、粛宗十八年五月廿一日(庚午) には、雨とあるので、「陰」は雨のことではなく、「曇」を示すことになります。しかしこれは、張漢相ら探検隊一行が、雷雨と風で翻弄されたという印象とは、あまりに乖離があります。<br /><br />張漢相の記録「自二十一日、至十月初三日、留住之間、恒雨少日」の期間は、さすがに漢城でも、「陰」の日が四日あるものの、「雨」の記録はありません。漢城の天気記録を文字通り、晴れが続いていたと解釈するのは無理があるようです。<br /><br />観測上の曇りの定義は、現代でも気象庁の定義(雲量が9割以上と、上層雲と中下層雲の比率でも異なる)と国際的な定義(雲量が8分の7以上)では、少しことなりますし、観測上の定義による、「薄曇り」は天気予報や、一般の感覚では、「晴れ」として扱われるなど、曇りか、晴れかの分類は一概には決められません。実際、日本でも、過去の天気記録と現在の天気概況とでは、晴れの基準に違いが見られます。<br />http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/12649/1/004511.pdf<br />江戸時代の日記天気記録と気象庁の天気概況の相違 (市野美夏さんpdf)<br /><br />しかし、それにしても、承政院日記の天候記録は、秋の天気としては「晴」れが多すぎます。この天候記録は、一日を通じたものではなく、朝堂の時など一定の時刻のみの天候記録なのか、国王に対して「晴」と書くべきであるという精神的バイアスが掛かっているのか、謎です。もっと詳しく調べてみる必要がありそうです。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-76754873499567914282012-11-26T18:19:07.715+09:002012-11-26T18:19:07.715+09:00This comment has been removed by the author.小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-10193487551218754972012-11-24T19:54:22.329+09:002012-11-24T19:54:22.329+09:00小嶋日向守様
大変な作業だったともいます。本当にありがとうございました。
とりあえず、「西渓雜錄...小嶋日向守様<br /><br />大変な作業だったともいます。本当にありがとうございました。<br /><br />とりあえず、「西渓雜錄」の訂正をしてみました。赤字部分です。時間を見つけて引き続き「蔚陵島事蹟」のほうも取り組みたいと思います。<br /><br />Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-79884869649560988842012-11-21T00:55:28.220+09:002012-11-21T00:55:28.220+09:00蔚陵島事蹟の判読・訂正(下)
画像五枚目
右頁2行目
最多...蔚陵島事蹟の判読・訂正(下)<br /><br />画像五枚目<br />右頁2行目 <br />最多竹田東南麓三處最多而每?可落 每?を「毎處」に訂正 <br />最多竹田東南麓三處最多而每處可落<br />右頁3行目 <br />皮牟三十餘石且兩田斫竹龙多其傍斫 龙(竜)を「尤」に訂正 <br />皮牟三十餘石且兩田斫竹尤多其傍斫<br />右頁4行目 <br />置數千竿而或有陳枯者或有未幹者自 幹を「乾」に訂正 <br />置數千竿而或有陳枯者或有未乾者自<br />右頁7行目 <br />山四面壁立又斷缺處則兩崍成間流水 崍を「峽=峡」に訂正 <br />山四面壁立又斷缺處則兩峽成間流水<br />左頁4行目 <br />葬而墓木連抱---------大●(既)、島在三千里海洋之 ●(既)U3ba3は、㮣=槩に訂正<br />葬而墓木連抱---------大槩(概)、島在三千里海洋之<br /> <br /><br />画像六枚目<br />右頁5行目 <br />次船 由沙磧履磨中有 遙之狀與安慎 微 由を則、遙を涇、微は徽に訂正<br />次船 則沙磧履磨中有 涇之狀與安慎 徽<br />右頁6行目 <br />同步行三里許則自中峯逶迤一脈山麓 脈は脉に訂正<br />同步行三里許則自中峯逶迤一脉山麓<br />右頁7行目 <br />都是層巖高壁而 遙開豁由此路望見 至の欠落を訂正 <br />都是層巖高壁而至遙開豁由此路望見<br />右頁8行目<br />則連及山腰疊石 穴與慎微相議曰此 成が欠落を訂正、徽を徽に訂正<br />則連及山腰疊石成穴與慎徽相議曰此<br />左頁3行目<br />海俄以雨止煙霞满島遙聞巖穴中衆人 兩は雨に訂正済み、 煙と衆を、烟、眾に訂正<br />海俄以雨止烟霞满島遙聞巖穴中眾人<br />左頁4行目 <br />之聲立於船頭號望見則燈燭煒煌明日食 號が余計なのでトル 輝は煒に訂正<br />之聲立扵船頭 望見則燈燭煒煌明日食 <br />左頁8行目<br />先出曰穴內三十餘步豁然開敞四層築 簷は築に訂正済み、 敞を「敝」に訂正<br />先出曰穴內三十餘步豁然開敝四層築<br /><br /><br />画像七枚目<br />右頁2行目<br />家甚極奢䴡丹青及戸舖之制非泛然我 Unicode4D21の䴡は麗 舖は、牖に訂正<br />家甚極奢麗丹青及戸牖之制非泛然我 片+戸+甫の牖は「まど」<br />右頁7行目<br />上藤葛盤結之中階砌庭城之内蕭■無 蕭■無の ■は、灑「そそぐ」<br />上藤葛盤結之中階砌庭城之内蕭灑無<br />右頁8行目<br />一累之塵非人所居處則強入非闋僉[*]不 闋僉[*]不は、「関、兺不」に訂正<br />一累之塵非人所居處則強入非関分叱不 門+爽の様な字は、關(画像3の大関嶺)と同じ字。僉か合のような字は、Unicode517A兺・兺で「分叱」の合わせ字「兺不喩=分叱不喩すなわち叱分不喩」、「糅てて加えて」の意<br />http://glyphwiki.org/wiki/u517a <br /><br />左頁1行目<br />喻心迷宜不忍近入簷下回船之日自中 喻は、喩に訂正。<br />喩心迷宜不忍近入簷下回船之日自中<br />左頁2行目<br />峯霞氣漸廣及於海中大如東山不知何 東を朿(とげ)に訂正束<br />峯霞氣漸廣及於海中大如朿山不知何 抹香鯨の尾を目撃したか?<br />左頁6行目<br />四千處■小處二十餘石落只之地大處 處■を「處叚」に訂正<br />四千處叚小處二十餘石落只之地大處 <br />左頁7行目<br />三十餘石落只而皆可引水作水田處是齊 作は訂正済み、畓Unicode7553 (水田)<br />三十餘石落只而皆可引水作畓(水田)處是齊<br /><br /><br />画像八枚目<br />右頁2行目<br />空棄不過百餘年之前溪有洞口若慮 備の入れ忘れを、訂正<br />空棄不過百餘年之前溪有洞口若慮備<br />右頁3行目<br />寇之策則一夫當百夫之地彼船 難欲久 久の異体字 乆は訂正済み、 難を「雖」に訂正<br />寇之策則一夫當百夫之地彼船 雖欲久<br />右頁5行目<br />島山峰審望彼國之域則杳茫無眼杓之 峰は峯を使っている<br />島山峯審望彼國之域則杳茫無眼杓之<br /><br /> 以上です。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-5925368984635019152012-11-21T00:46:02.634+09:002012-11-21T00:46:02.634+09:00This comment has been removed by the author.小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-22752484870741943452012-11-21T00:38:55.347+09:002012-11-21T00:38:55.347+09:00蔚陵島事蹟の判読・訂正(上)
画像一枚目
右頁 5行目
官安慎 微領來諸役各人及沙格并一百...蔚陵島事蹟の判読・訂正(上)<br /><br />画像一枚目<br />右頁 5行目 <br />官安慎 微領來諸役各人及沙格并一百 微を「徽」に訂正<br />官安慎 徽領來諸役各人及沙格并一百<br />左頁 5行目 <br />澈波心狂風猝起 雨隨至怒濤翻空雲 流(削除済)に、「驟」を挿入<br />澈波心狂風猝起驟雨隨至怒濤翻空雲<br />左頁6行目 <br />海相盪所 秉船隻若浮若沒危險罔狀船 秉ヘイ(柄の意)を「乗」に訂正<br />海相盪所 乗船隻若浮若沒危險罔狀船<br />左頁8行目 <br />木又從而折破 龙無制船之策難以櫓木 龙(竜)を「尤」に訂正<br />木又從而折破 尤無制船之策難以櫓木<br /><br /><br />画像二枚目<br />右頁1行目<br />直揷扵尾及左右借以為力是乎乃覆敗 揷扵を挿於に訂正<br />直挿於尾及左右借以為力是乎乃覆敗<br />※覆敗之患 ━覆敗之患━ふくはいのうれい <br />中国春秋時代の越の美女であった西施という者が、胸を病んで、しばしば苦しそうに胸をかかえて顔をしかめていたのを、村の醜女が美しいしぐさと思って真似たということから、いたずらに人のまねをして物笑いになることをいう。<br />★この部分は、書写者がこの故事成語の知識から、覆沒を「覆敗」と誤読したもの。<br />右頁7行目<br />酉時又自南洋而到各船俱得免■而南 ■(虫+恙の異体字)を「恙」に訂正<br />酉時又自南洋而到各船俱得免恙而南<br />左頁3行目 <br />之四方秉船環審則懸岸撐空層立壁岸 乗は訂正済、撐を「撑」に訂正<br />之四方乗船環審則懸岸撑空層立壁岸<br />左頁6行目 <br />方窮則其間道里不過百五六十里乎■ 間(訂正済)、■を「弥」に訂正 <br />方窮則其間道里不過百五六十里乎弥 (草書体の弓偏は、方に近い形になる)<br /><br /><br />画像三枚目<br />右頁1行目 <br />面霽雨■棬之日入山登中峯則南北兩 棬を「捲」に訂正 <br />面霽雨■捲之日入山登中峯則南北兩 ■は雲の誤字か<br />右頁6行目<br />西望遠近■度如斯是齊西望大谷中有 ■を「臆」に訂正 <br />西望遠近臆度如斯是齊西望大谷中有<br />左頁1行目<br />船泊■則東南間口僅容四五隻之處而 ■を「處」に訂正 <br />船泊處則東南間口僅容四五隻之處而<br />左頁2行目<br />東南岸則亦非可藏處是遣此■有三釜 ■を「處」に訂正 <br />東南岸則亦非可藏處是遣此處有三釜<br /><br /><br />画像四枚目<br />右頁3行目<br />土山而 勢絶險洞壑深邃樹木連抱參 山の入れ忘れを訂正 <br />土山而山勢絶險洞壑深邃樹木連抱參<br />右頁5行目 <br />人跡不到故藤葛磐結朽草木添阜排擠 磐を「盤」に訂正 <br />人跡不到故藤葛盤結朽草木添阜排擠<br />右頁7行目 <br />探所謂樹木盡是冬栢紫 側栢黃薜金 紫檀の檀を挿入 <br />探所謂樹木盡是冬栢紫檀側栢黃薜金<br />左頁2行目 <br />■終無一株而羽則鳥鷗毛則貓兒而已 ■を叚、鳥を烏(カラス)に訂正<br />叚終無一株而羽則烏鷗毛則貓兒而巳<br /><br />※魰は、一見鮫という字と混同しそうだが、魚偏に文である。鱧。文魚、鰩魚、あるいは人魚のこと。つまり、人魚とかエイのような、鱗が無くて花の紋様があるような魚という意味。日本でいう、鱧(ハモ)のことではない。ただ口が尖った鰻のような滑らかな肌の魚という意味では形状になんとなく共通する点がある。「可支魚」を「魰魚」と書いているのは単なる誤記とは言えない。<br />ニホンアシカは、1981年と1985年に岡山県で、2003年に鳥取県でそれらしい目撃例があるので、不法占拠者を早く放逐して、竹島本来の自然景観に復元したいものである。<br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6114776924252360582012-11-19T19:54:32.080+09:002012-11-19T19:54:32.080+09:00続いて、蔚陵島事蹟の判読と確認をしてみました。
そのまえに、
元サイトが韓国のサイトで、誤読箇所...続いて、蔚陵島事蹟の判読と確認をしてみました。<br /><br />そのまえに、<br /><br />元サイトが韓国のサイトで、誤読箇所が大量にあったものを、matsuさんほかの皆さんによって、かなり訂正がされています。しかし今回、見直してみてまだ誤読や、訂正すべき箇所が見つかりました。<br /><br />最初に気になるのは、元サイトの判読テキストを見て、「 処 = 處 」という文字です。<br />これが28字も使われています。原文では、23文字くらいが、處の異体字の「䖏」で書かれています。「䖏」の中が、細長い四角形(俗に言う豆腐)になって、表示されない人も多いのではないでしょうか。<br /><br />私の勝手な推測では、matsuさんのモニターまたは、テキストを編集しているワープロソフトでは表示されていて、Kaneganeseさんが、編集に使用しているワープロソフトでは表示されていないように思います。(下衆の勘繰りかも知れません)<br /><br />元サイトでは、ちゃんとこの文字で書かれているのですが、ブラウザー上で、コピー&ペーストして、ワープロソフトに移すと、例えばMS明朝フォントなどでは表示されないので見落としてしまう可能性があるということです。<br /><br />もう一度、この文字を説明します。<br />虍(虎頭とらがしら)+匆です。「豦」Unicodeの458f 原文では22箇所<br />虍(虎頭とらがしら)+処が、正字体(JIS515Dまたは(u8655)で、原文では4箇所<br />虍(虎頭とらがしら)+处と書く (u2ff8-u864d-u5904) もあります。 原文では1箇所<br />虍(虎頭とらがしら)+豕にちかいような、「豦」 Unicodeの8C66 字が1箇所<br /><br />原文の字は、厳密には、u20045 (@7)という漢字フォントにもっとも近い書体です。<br />http://glyphwiki.org/wiki/u20045<br /><br />Kaneganeseさんは、この文字を判読不能文字として「?」にしている箇所が多数あり、一方matsuさんによる判読で正字体の「處」としてテキスト化している部分も有ります。<br /><br />私のお願いは、多くの読者の為に、この際、この「蔚陵島事績」の判読テキストでは、全て「處」に統一して、「 ? 」や「お豆腐」は無くしたほうがよいと思います。<br /><br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-30083439985819429352012-11-19T00:59:39.502+09:002012-11-19T00:59:39.502+09:00従来の判読で、
画像三枚目の
右頁7行目に、「曽己面禀」とありましたので、
画像五枚目の
左頁 3...従来の判読で、<br />画像三枚目の<br />右頁7行目に、「曽己面禀」とありましたので、<br /><br />画像五枚目の<br />左頁 3行目は、 「曽巳馳報」を「曽己馳報」と訂正しましたが、<br /> 曽=曾ですから、己(おのれ)ではなくて、已(すでに)で、曾已のようです。<br />曽巳、曾巳、曽己、曾己、曽已、曾已のそれぞれを検索してみましたが、漢文としては、曾已(曽已)の使用例が見つかります。<br />遵いまして、ともに「曽已面禀」と「曽已馳報」に訂正します。<br /><br /><br />画像九枚目<br />右頁1行目 「是如呼」を「是如乎」に訂正<br />右頁2行目 「可濤達、則此諸、済」 を 「可得達、則此諸、濟」<br />右頁3行目「度●較」を「度計較」、「風之順達、衛遠者」を「風之順逆、遠者」。★衛トル<br />右頁4行目 「不可以●定為證。是齋。冬天、風高是之」を「不可以膠定為證。是齊。冬天、風高之」★是トル<br />右頁5行目 「一百五十人、濤保性命者、莫●」は、「一百五十人、得保性命者、莫流。」<br /> 「沙」か「沭」のような形の字は、草書体の「流」です。<br />右頁6行目「苦之状不一而●而煩不散佃凍」は、「苦之状不一而 足 而煩不散 細陳」<br />右頁7行目 「卒以裏敗之人」は、「本以衰 敗之人」 で、「乗船凌」は、「乗船後」<br />右頁8行目 「於両股間勢難登●」は、「於両股間勢難登祥」<br />右頁9行目 「復命有限●勉擔載寸寸前進」は、 「復命有限黽勉擔載寸々前進」<br /> 黾=黽 で、黽勉(びんべん)は、つとめはげむこと。精を出すこと。努力。 擔は担に同じ、肩に載せる。かつぐ。になう。<br />右頁10行目「為乎於」を 「為乎弥」<br />右頁11行目「送於卒道監営」は、「送於本道監営」<br />右頁12行目「以為伝達。●局之地。為乎於。捜討生木圧隻一斤、卒」は、<br /> 「以為 轉達。備局之地。為乎 弥。捜討 栍木 左隻一 片、本」 (轉=転、備=俻)<br />左頁1行目 「島圖形一卒、及輿地勝覧一巻、併以軍官實特上」<br /> は、 「島圖形一 本、及輿地勝覧一巻、并以軍官 賷 持 上」 <br />原文は、U+8CEB 賫で書かれていますが、U+8CF7 賷(もたらす)と同じです。正字体は、 齎(U+9F4E )の異体字なので、「齎持上」としたほうが良いかもしれません。<br /><br />左頁2行目 「為齋検使、暇置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憤」<br /> は、 「為齊僉使、叚置三晝夜、簸蕩之餘、精神昏憒」<br /> 簸(ハ)は、箕であおる。ひる。簸蕩で、箕であおったように、はげしくゆれうごくこと。<br /> 昏憒(こんかい) 何もわからず憒(みだ)れること<br /><br />左頁3行目 「不能収拾●●不愈圖形一卒。於為冩出。而此處、書師」<br /> は、 「不能収拾、叱分不喩、圖形一本。於為冩出。而此處、畫師」<br /> <br />左頁4行目 「不●己一行之人、依草卒費日経営。★終至」<br /> は、 「不得己一行之人、依草本費日經営。而終至」<br /><br />左頁5行目 「 書●遅延、至此不勝、煌 恐縁由併以馳報事。」<br /> は、 「畫乕遅延、至此不勝、惶 恐縁由并以馳報事。」<br /> 乕は虎の異体字なので、畫乕で「画虎」の意味。<br />画虎類狗 〈故事成語〉とらの絵をかいたつもりが犬に似てしまう。実力のないものが真似をして失敗してしまうこと。<br />この文章の場合、素人が絵を描いたの時間が掛かったという良いわけになる。<br /><br />以上が、ざっとみて気が付いた「西渓雜錄」本文の判読と訂正意見です。<br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-88863613487887986812012-11-18T19:52:47.292+09:002012-11-18T19:52:47.292+09:00判読追加分です。
画像五枚目
右頁 3行目 「是乎於」を 「是乎弥」
右頁 4行目 「之輿」を...判読追加分です。<br /> <br />画像五枚目<br />右頁 3行目 「是乎於」を 「是乎弥」<br />右頁 4行目 「之輿」を「足與」に、「班獺」を「斑獺」<br />右頁 6行目 「濕」を「隰」に、「人居之■址。是乎於」を「「人居之舊址。是乎弥」<br /> 濕=湿でなく、阝偏なので、隰(さわ)<br />右頁 7行目 「殺得可支魚、處取其油」を、「捉得可支魚、煮取其油」<br />右頁 8行目 「之似非近。」を「云似非近」<br />右頁12行目 「甲戌九月初●●」を「甲戌九月初二日」<br />左頁 3行目 「曽巳」を「曽己」、に、「検使、輿別遣 譚」を「僉使、與別遣譯」<br />左頁 4行目 「安慎微」を「安慎徽」に、「併」を「并」<br />左頁3行目 「必是水●、而諸船」は、 「必是水臽、而諸船」<br /> 臽カンは、(勹+曰またはノ+一+日に見えるが、陥れるの旁とおなじ)<br /> 水臽 つまり淊カンで、淹エンに同じ<br /> 臽は、人+臼(穴の形)」の会意文字で、穴の中へ人がおちこむことを示す。<br /> 淊や淹は、この場合、深く広い海の水で沈め隠されてしまう所という意味。<br /> 蔚陵島事績の「水宗」は、臽を草書体の「宗」と誤読したものか<br /><br />画像一枚目の四行目 「樹木歴々可指」の書き方も同じようなので、指で構いませんが、<br /> 最後の「指」は、手偏に臽と書く「掐」かも知れません。その場合の意味は「摘」と同じですので、「見えるので、指し示して指摘できる」で意味は変わりません。<br /><br />左頁10行目 「狂風梓起」を「狂風猝起」<br />左頁12行目 「拳」ではなくて「舉」(擧・挙に同じ)。 「舵」を「柂」に。<br /><br />画像六枚目<br />右頁 5行目 「暫時」を「蹔時」<br />右頁 7行目 「各舡倶涛免」を 「各舡倶得免」<br />右頁12 行目 「其間細流●渓」は、「其間細流乾渓」<br />左頁2行目 「是乎於」を「是乎弥」<br />左頁5行目 「霽雲棬」は「霽雲捲」 (木偏でなく手偏の捲く)<br /><br />画像七枚目<br />右頁 1行目 「有基址(地)」は「「有基址」<br />右頁 3行目 「則亦非可藏可●。是遣。此●」を「則亦非可藏處。是遣。此處」<br />右頁 5行目 「釜、則、廣經」を「釜、則、廣径」<br />右頁 9行目 「而●是彼物。是乎 於」を「而亦是彼物。是乎弥」<br />左頁1行目 「藤葛磐結」 を 「藤葛盤結」<br />左頁2行目 「擠卒非人力」を「躋卒非人力」、「是齋」を「是齊」。 ★躋(のぼる)<br />左頁4行目 「木、槐木、榆木」を「木、槐木、椵木」<br /> 「真木、欅、橡小木暇」を 「真木、榛、橡等、木叚」<br /> ★「ホ」のような字は「等」の草書体、叚は仮に同じ。<br /> ★榛は泰(画像3)のユニード9FB9「龹」の書き方から類推。また(画像5)の舉擧や與の書き方からみて欅なら上部を詳細に書くのではないと思います。<br />左頁9~10行目 「於。間有生鰒、●附諸岩磧者、軆小而味薄。是齋。」を<br />左頁10行目 「弥。間有生鰒、之附諸岩磧者、軆小而味薄。是齊。」に訂正<br /><br />画像八枚目<br />右頁 2行目 「是乎弥。且兩田、斫竹龙」を「是乎弥。且兩田、斫竹尤」<br /> ★「龙」ユニード2EF0「⻰」は、「龍・竜」の毛沢東(共産党)簡体字書体で、「尤」という字では有りません。蔚陵島事績の方も「尤」に訂正です。<br />元サイトがなぜこんな間違いをしたのか、漢字を知らない韓国人ならではという気がします。因みに龍がこんな書体になっているのは、「龍」の「立」と「月」を除いた旁部分の草書体の形だからで、「育龙」のような書き方は昔からあります。<br /><br />右頁 6行目 「則兩崍成」を「則兩峽成」 旁が来の崍ではなく、夾(はさむ) 峽=峡<br />右頁 8行目 「船泊甚難」を「舡泊甚艱」、「是乎於」を「是乎弥」<br />右頁 10行目 「石葬⺣墓木」は、「石葬而墓木」と、而が入ると思います。<br /> ★ユニコード2EA3の「⺣」(れんが)は、使用しているパソコンの環境によっては、表示されず、縦に細長い□になっている場合もあります。<br />右頁 11行目 「土人遮不到者」を 「土人迹不到者」<br />右頁 12行目 「東南間間、自舡舶處」を 「東南澗口、自舡泊處」<br />左頁1行目 「迹而佳(住)兵衛、又四郎、弾吉」は「迹而、住兵衛、又四郎、彌吉」<br />左頁2行目 「而無姓名、似之下倭之所為」は、「而無姓卒、似是下倭之所為」<br />左頁3行目 「是乎於。且、釜県」は、「是乎弥。且、釜鼎」<br />左頁4行目「其蝕意、非近年之所置是齋。卒月」は、「苔蝕意、非近年之所置是齊。本月」<br />左頁5行目「発船。到西邊間間、則雨勢霏徴」は、「發船。到西邊澗口、則雨勢霏微」<br /> ★(霏微で熟語(学習研究社漢字源では、霏微:「雨や雪などがちらつくさま」)<br />左頁6行目 「誠不可易●。是乎恵。」は、「誠不可易得。是乎等以。」<br />左頁7行目「子夜以前則拳火相準。是如可。丑時以凌」は、「齊發。子夜以前則舉火相準。是如可。丑時以後」<br />左頁8行目「落後日出後●不知所」は、「落後日出後亦不知所」<br />左頁10行目「面泊於荘五里、待風處、為乎於大船」は「回泊於荘五里、待風處、為乎弥大舡」<br />左頁11行目「亦為面泊」を「亦為囬泊」 ★囬=回<br />左頁12行目「島形浮見、水」は、「島形隱見於、水」 (こざと)阝偏に正+ヨ+心は「隠」小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-79958023210576230592012-11-18T00:46:16.306+09:002012-11-18T00:46:16.306+09:00Kaneganese様
文字の訂正有り難う御座いました。
判読した文字の訂正・補足の追加をまたお願い...Kaneganese様<br />文字の訂正有り難う御座いました。<br />判読した文字の訂正・補足の追加をまたお願いします。<br /><br />すでにmatsuさん他の皆さんにより指摘されている文字もあるかもしれませんが、悪しからず御容赦下さい。<br /><br />まず西渓雑録からです。<br /><br />画像1枚目<br />左頁4行目 「樹木★歴々可指」 の 「歴」が抜け漏れています。<br /><br />画像3枚目<br />右頁1行目「雀群飛來接竹邊串」の接は、「投」です。「雀群飛來投竹邊串」<br />右頁2行目「慱暴」の暴は、「棊」です。慱は博?かもしれません<br />右頁3行目「筒比」ではなく、「箆」です。 箆=篦(の=やだけ)<br />右頁5行目「齋畢得」は「齊畢役」 <br />右頁7行目「面禀、為有■、擇取」は「面禀、為有等以、擇取」<br />左頁4行目「有一泰山、壁臨」は壁ではなく「堅」です。<br />左頁5行目「播無力」は「檣無力」です。 檣は、(ほばしら)。<br /> ♪見よ檣頭に 思ひ出の Z旗高く翻へる の歌詞でお馴染み。<br />左頁6行目「舡舶所極難」を「舡泊處極難」<br />左頁7行目「風殘處、暫時下陸」の暫は「蹔」です。<br />左頁8行目「下不能着之」は「下不能着足」。足です。<br />左頁10行目「齋翌日風殘、■回泊」は、「齊 翌日風殘、後回泊」<br />左頁11行目「三所。頗有伐取之跡」は、「三處。頗有斫取之跡」<br />左頁12行目「是乎■。其中」は、「是乎等以。其中」<br /><br />画像4枚目<br />右頁1行目「為有於」は、「為有弥」。また、「而體●非」は、「而體制非」<br />右頁2行目 「之産。是乎於」は、「之産。是乎弥」<br />右頁3行目「齋巌穴之間、可支魚、或●或」は、「齊。巌穴之間、可支魚、或睡或」<br />右頁4行目「還」を「環」<br />右頁6行目「終不得着之」を「終不得着足」<br />右頁7行目「究自可」は、「竄自可」に、「丁、●惧在心」は、「丁、疑惧在心」です。<br /> 竄ザン(かくれる・のがれる)<br />右頁8行目「齋三十日、丑時。還逢東風」は、「齊。三十日、丑時。適逢東風」」<br />右頁9行目「徴有電光」を「微有電光」<br />右頁10行目「捽悉、帆竹折倒、於舡中。舡渡」を「猝怱、帆竹折倒、於舡中。舡後」<br /> 転覆を避けるため帆檣(帆柱)ではなく上に横に渡した帆桁の竹あるいは、竹で作ってある帆を猝怱(急いで)、自分たちで切ったのではないでしょうか。<br />日本の船でも、帆は筵などであり、丈夫な手織りの木綿帆布を使用したのは、播州高砂の工楽松右衛門による十八世紀後半なので、当時の朝鮮の船はジャンクの様な竹の帆ではないでしょうか。<br />右頁11行目 「自分必死、此是如乎」は、此を削除して、「自分必死、是如乎」<br />右頁12行目 「難」を「艱」<br />左頁1行目 「所謂柱風、夲来東風。」を「所謂狂風、本来東風。」<br />左頁2行目 「是乎於」を 「是乎弥」<br />左頁3行目 「通許」を「通計」<br />左頁4行目 「是乎於」を「是乎弥」<br />左頁6行目 「輿波涛出沒」を 「與波涛出沒」<br />左頁8行目 「似難涛達」を「似難得達」<br />左頁9行目 「於且」を「弥且」<br />左頁12行目 「此短 使不可」を「此短晷使不可」 晷(ひかげ)という字を挿入<br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-66714321856101390522012-11-12T14:45:13.130+09:002012-11-12T14:45:13.130+09:00Kaneganese様
matsu様
三年前に、『蔚陵島事蹟』と『西渓雑録』の判読比較研究が投稿され...Kaneganese様<br />matsu様<br />三年前に、『蔚陵島事蹟』と『西渓雑録』の判読比較研究が投稿されていたときには、議論の経過は読んでいましたが、私は時間が取れずに、判読にも議論にも参加できませんでした。<br />このほど、スレッドを検索して、判読文と原文を比較してみましたら、判読不能とされていた文字の幾つかを判読することが出来ました。今更ながらのことで、恐縮なのですが、研究の補足になれば思いと指摘させて頂きます。<br /><br />『西渓雑録』の方で、<br />原文3頁の06行目 「八月已半、風高可慮、■不喩、船造間」<br />原文7頁の12行目 「參天而蔽日者不知幾其許、■不喩、積年空棄」<br /><br />この見慣れない字は、「叱分不喩」です。<br />朝鮮漢文特有の表現で、かなり長い時代に渡っていろいろな文献で「叱分不喩」の使用例があります。順番を逆にした例として「則奉行爲重,島主爲輕分叱不喩」と「分叱不喩」の用い方もあります。<br /><br />http://s-space.snu.ac.kr/bitstream/10371/9985/1/law_v47n3_464.pdf<br />叱分不喩/(叱+分)不喩[뿐안디] -뿐만 아니라<br />この例文でも、今回の『西渓雑録』の使用例のように、「叱分」が一つの文字として書かれているようです。<br />意味は、「それだけでなく」というような、言葉を加えて調子を整えるような語句なのかもしれません。日本語の表現、「剰(あまっさ)え」「糅(か)てて加えて」のようなで悪条件が重なる意味合いがあるのかどうかはわかりません。<br /><br />ところで、しかるの「叱」シツという字には、と口偏に「さじのひ」匕のUnicodeの53F1<br />と口偏に、数字の七と書く、叱𠮟」(口へんに七、U+20B9F)があります。<br />現実の文字運用上は「叱」と「𠮟」に区別がないです。<br />叱」と「𠮟」です。<br /><br />ブラウザーによっては、括弧内の文字が<br />表示されない場合もあります。<br /><br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-70382467543460359102009-07-10T12:37:43.680+09:002009-07-10T12:37:43.680+09:00yabutarouさん、matsuさん
ありがとうございました。ご指摘いただいた点を修正し、できる...yabutarouさん、matsuさん<br /><br />ありがとうございました。ご指摘いただいた点を修正し、できる限りである調に統一しました。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-52843104375260202962009-07-06T22:51:58.871+09:002009-07-06T22:51:58.871+09:00yabutarouさま
反応がおそくなってすみません。
埋もれてしまうとポストのありかを探すのが大...yabutarouさま<br /><br />反応がおそくなってすみません。<br />埋もれてしまうとポストのありかを探すのが大変です。(笑)<br /><br />前半の3つについては、もうこれにて終了、で良いと思います。<br />而か西かは、朴世堂の筆記ミスというよりは、書かれたテキストを我々がどう読むか、という問題だと思います。<br /><br />さて、後半の「(4.b)9/20-10/3まで」のほうですが、<br />①即不知、何代所居。而落棄成土、人遮不到者、又不知其幾百年。是乎弥。<br /><br />もとのポスト<br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/03/1693-1703.html<br /><br />(8-10)居基址石葬墓木連抱廃垣石堆而己 即不知何代所<br />(8-11)居 而落棄成土 人遮不到者又不知其幾百年<br /><br />この(8-11)-4の「棄」は「葉」ではないでしょうか?<br />落葉成土 「落葉が土となる」、それほど長い間。という意味で、張漢相が実見した風景をのべているのではないかと思います<br /><br />「遮」は 「迹」 セキ あと ではないでしょうか?<br />「人跡未踏」の「跡」と、「迹」は同じではないでしょか<br /><br />(7-13) 積年空棄之地、人遮不到<br />これも「迹」 だと思います。<br />この(7-13)の「棄」と、(8-11)の「葉」は、違う文字に見えます。<br /><br />「すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、また、「落葉」がすでに土となっており、人がここを訪れなくなって、それが幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。」<br /><br />② 雨が激しくなりもやがかかってきて、日も射さずに真っ暗になってしまったが、<br /><br />これは、私がいいかげんにしていたところを、きっちりフォローしていただいたと思います。異議はありません。<br /><br />③落後、が前につくのも、そのとおりだと思います。<br /><br />④ <??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見、水<????> 謂遠不過七八百里。是如呼。今番(=審か?)往返倶●●<???>可濤達、則此諸、済州猶有一倍之遠是乎所<br /><br />ここは「?」が多過ぎて、すなわちテキストが破れていて読めないのですから、解釈は難しいところだと思います。<br /><br />「謂」はたしかに、張漢相自身の考えでは無く、誰かがそのように言っている(あるいは書いてある)、という意味だと思います。<br />私は、張漢相が鬱陵島から三陟に帰ってきてから、実際に高い所に登って鬱陵島を見たのだと解釈しましたが、確かに、文献の引用説もありうると思います。<br />「清明之日」という言い方が、実体験というよりは、「清明之日には~」という意味にとれますね。<br /><br />(8-23)初六日卯時畳亦為「回」泊於三陟浦口為有在果<??><br />(8-24)風時登高瞭望則清明之日島形浮見水<????> <br />(9-1)謂遠不過七八百里是如乎今番往返倶●●<???><br />(9-2)可濤達則「比」諸済州猶有一「倍」之遠是乎所<???><br /><br /><br />⑤⑥つぎのふたつは異議ありません。<br /><br />⑦送於卒道監営。以為伝達。●局之地。為乎於<br />この●は「備」ですね。 「備局」=「備辺司」の意。<br /><br />この報告を書いている段階で、張漢相の現在地としては、まだ三陟にいるのではないでしょうか。一番最後近くに、「此處畫師絶無」(ここには絵師がまったくいない)と書いているように、まだ僻遠の地にいるように思います。<br />「本道(江原道)の監営から、備辺司に送りました。」とすると、江原道監営(=道庁所在地)にいることになるのではないでしょうか。<br /><br />⑧最後は、わたしにもよくわかりません。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-1095196122461759832009-07-03T21:06:06.943+09:002009-07-03T21:06:06.943+09:00yabutarouさん
お忙しいところ、本当にありがとうございます。これで最後の申版のみの部分を除...yabutarouさん<br /><br />お忙しいところ、本当にありがとうございます。これで最後の申版のみの部分を除いてすべて見ていただいたことになります。matsuさんの反応を待ってもう一度必要箇所を訳しなおして投稿したいと思っています。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-11953598245255129222009-07-03T15:44:55.902+09:002009-07-03T15:44:55.902+09:00大変長らくお待たせしました。(4.b)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した...大変長らくお待たせしました。(4.b)9/20-10/3まで、張漢相が捜討した状況を備辺司に報告した内容です。<br /><br /><br /><br />即不知、何代所居而落棄成<b>、</b>土人遮不到者、又不知其幾百年。是乎弥。<br />即不知、何代所居而落棄成土人遮不到者又不知其幾百年。是乎弥。<br />すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、<b>また、落棄がすでに土となっており、人がここを訪れなくなって、</b>それが幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。<br />すなわち、何代の(いつの時の)所居であったか、知ることができないのであり、<b>崩落して棄てられ土となることを人が遮ることがでなくなって</b>幾百年になるのか、また知ることが出来ないのである。<br />・「遮不到」は「さえぎる(カバーする)ことができない」<br /><br />初四日、未時量、似有風便、故発船。到西邊間間、則雨勢霏徴、日又昏黒。<br />今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船し<b>、島の西にある谷口についた。(今の「台霞洞」か?)。雨が激しく、日も射さずに真っ暗だったが、</b><br />今月(10月)4日、午後2時ごろ、風の具合が良いようだったので、発船し<b>た。島の西にある谷口に至ったところで、雨が激しくなりもやがかかってきて、日も射さずに真っ暗になってしまったが、</b><br /><br />而餘三隻、落後日出後●不知所向。是乎矣。<br />而餘三隻落後<b>。</b>日出後●不知所向。是乎矣。<br /><br /><??>風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見、水<????> 謂遠不過七八百里。是如呼。今番(=審か?)往返倶●●<???>可濤達、則此諸、済州猶有一<b>倍</b>之遠是乎所<br /><b>(三陟に着いてから)、高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形がはるかに見える。(朝鮮半島東岸の)三陟から、鬱陵島までは、七八百里にすぎない。</b>いま、鬱陵島から帰ってきて、その距離を済州島と比べてみると、済州島より倍くらい遠い。<br /><b>(記録によると風の吹いている日に)高きに登って瞭望すると、良く晴れた日には、島(鬱陵島)の形が浮かび上がって見えるとあり、(朝鮮半島から)鬱陵島までは、七八百里にすぎないとある。</b>いま、鬱陵島から帰ってきて審査してみると、済州島より倍くらい遠い。<br /><br />・「風時、登高瞭望、則清明之日、島形浮見」は「世宗実録地理志」の「風日清明、則可望見」、「大東地志」の「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」とよく似た表現である。<br /> 「謂遠不過七八百里」には「謂」とある以上これは張漢相がそのように考えていたわけはなく、誰かが張漢相に「遠不過七八百里」と言ったということ。<br /> 朝鮮半島と鬱陵島との距離が七百里・七八百里と記した文献があったと私は記憶している。<br />以上のことから考えて、「登高瞭望」は張漢相が自分で登って眺めたのではなく本にそのように書いてあった、「今番」より前の部分は何らかの文献を引用したものであると考えます。<br /><br />舡之疾鈍、風之順達、衛遠者㮣 <??>遠則又不可以●定為證。是齋。<br />船のはやい、おそい、風の順逆<b>・・・(*あと不明)</b><br />船のはやい、おそい、風の順逆<b>(といった理由で)どのくらい遠いかをはっきりと証し立てることはできない。</b><br />・たぶん。。。<br /><br />安慎徽、卒以裏敗之人、渇病之餘、瘡疾満身。乗船凌二十餘日、濕腫迭出、於両股間勢難登●。是乎矣<br />(訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が<b>・・・</b>となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。<br />(訳官の)安慎徽は、本来、頑強な人ではないが、病気のために全身が<b>瘡疾(皮膚の病気)</b>となり、乗船後二十餘日にして、両股間に濕腫が迭出し、勢難登●となった。<br /><br />送於卒道監営。以為伝達。●局之地。為乎於<br />本道(江原道)の監営<b>に送るので、備辺司に伝達を願う</b><br />本道(江原道)の監営<b>から備辺司に送りました。</b><br />・「卒道監営において備局の地に伝達をなすをもって送る」ちがっているような・・・。よくわかりません。。<br /><br />捜討生木圧隻一斤、<br />(*不明。捜討使に任命された時のシンボルの木の左側の半分? これは考えすぎか。)<br />捜討して得た生木一斤、<br />・この程度に訳しておけばよいと思います。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-39124663971102189632009-07-03T15:27:13.920+09:002009-07-03T15:27:13.920+09:00matsu さん
「吏」という字があるように、もともと官僚の事務に関わるようなものだったのでしょ...matsu さん<br /><br /><br />「吏」という字があるように、もともと官僚の事務に関わるようなものだったのでしょうが、こういう文体で書く人が、一般的に普通にいたのだと思います。<br /><br />当時胥吏以外に官庁で扱う文書にこのような文体で書く者がいたかどうかは、私にはわかりません。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />うっかりして」は、ややそぐわない感じがします。<br />「失措せざるものなし」でしょうが、「正気を失わないものはなく」ぐらいではないでしょうか。<br /><br />これはとくに争うべきものでもないのでmatsu さんの「正気を失わないものはなく」でよしとしましょう。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。<br /><br />「為最而」では意味がとおらないので、最後の「而」を「西」と読みました。<br /><br />「西」を「而」と書き間違えたということでしょうか。<br />これはそうかもしれないしそうでないかもしれないとしか言いようがありません。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-44630397281146880152009-06-27T22:14:28.397+09:002009-06-27T22:14:28.397+09:00yabutarou さま
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吏読(りとう、이두(イドゥ))とは、...yabutarou さま<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />吏読(りとう、이두(イドゥ))とは、漢字による朝鮮語の表記方法の1つである。名詞・動詞語幹などの実質的部分は主に漢語が用いられ、文法的部分に吏読が主に用いられる。<br /><br />以下は、養蚕経験撮要(1415年)に見られる吏読の例である。1.は漢文、2.は吏読文(下線部が吏読、カッコ内は吏読の翻訳)、3.は吏読部分をハングル表記(現代語式のつづり)したものである。<br /><br /><br />1. 蠶陽物大惡水故食而不飲(蚕は陽物にして大いに水を悪(にく)む、故に食して飲まず) <br /><br />2. 蠶段陽物是乎等用良水氣乙厭却桑葉叱分喫破爲遣飲水不冬(蚕ハ陽物ナルヲモッテ水気ヲ厭却、桑葉ノミ喫破シ飲水セズ) <br /><br />3. 蠶딴 陽物이온들쓰아 水氣을 厭却 桑葉뿐 喫破하고 飲水안들 <br /><br />http://wiki.wowkorea.jp/?word=%E5%90%8F%E8%AA%AD<br /><br />より抜粋。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />吏読【りと】<br />ハングル制定以前の古代朝鮮で,朝鮮語を漢字で記すために発案された表記法。〈りとう〉とも読まれ,〈吏吐〉〈吏道〉とも書かれる。広義には,漢文を膠着語である朝鮮語で訓読する場合に助詞・助動詞等を表す〈吐〉の一種をいい,日本の宣命,祝詞の送り字に似る。 <br /><br />http://kotobank.jp/word/%E5%90%8F%E8%AA%AD<br />同上<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />すなわち、吏読(りと、りとう)とは、漢文を読み下すための、送り仮名のようなものですが、実際に漢字を使って書き表しているわけで、口頭(オーラル)というよりは、文書のなかに書きこまれるているものといえるのではないでしょうか。<br />「吏」という字があるように、もともと官僚の事務に関わるようなものだったのでしょうが、こういう文体で書く人が、一般的に普通にいたのだと思います。<br /><br />沈興澤の報告文のように、吏読の部分は、漢字で書いていたのが、次第にハングルにおきかわっていったのではないでしょうか。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-59793120649907442332009-06-25T23:35:07.088+09:002009-06-25T23:35:07.088+09:00matsu さん
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甲戌九月初二日、営将張漢相 馳報備局。
...matsu さん<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />甲戌九月初二日、営将張漢相 馳報備局。<br /><br />>備辺司で張漢相が報告した言葉を書記が聞き取ってそのまま文章にしたものであり<br /><br />という部分には賛成できません。張漢相は、口頭で報告をしたのではなく、彼自身が書いた文章で(紙で)備辺司に報告したと思います。<br /><br />「承政院日記」の場合は、確かに史官たちが国王や廷臣たちの議論をその場で書きとったものでしょうが、張漢相の捜討のような報告は、文書でなされたと私は思います。<br /><br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br /><br />私がこれを口頭で報告をしたと判断したのは文中に「為有如乎」・「為如可」・「是齋」・「是乎於」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」といった一見意味のなさそうな語句がなぜ使われているのかを私なりに考えてみたからです。<br />「承政院日記」のサイトでキーワード「為有如乎」・「為如可」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」で検索してヒットした文をざっと読んでみると、これらの語句が会話の場面で使用されるものであることがわかります。<br /><br />「承政院日記」<br />http://sjw.history.go.kr/main/main.jsp<br /><br />私はこれを見てこれらの語句は書き言葉よりはむしろ話し言葉に多く使われる言語表現ではないかと考えました。<br />「是在果」・「為有在果」は日本語の「でした」に当たる言葉を漢訳したものではないかと推測しました。<br /><br /><br />matsuさんはこれらの語句が「吏読(りとう)」であるとお考えのようです。<br />実は私は吏読という言葉の意味が分かりませんでした。<br />私の大学時代の専攻は歴史学ではなくて哲学であって私の漢文の知識は私が大学時代に中国の清代の儒教の一派である考証学についての講義を受けた時のものです。<br />当然朝鮮半島に特有の言語表現には詳しくありません。。<br /><br />考証学について<br />http://www.tabiken.com/history/doc/G/G096R200.HTM<br /><br />そこで吏読についてあらためて調べてみましたが、どうもよくわかりません。。<br /><br />下のアドレスのpdfファイルにはこのようにあります。<br /><br />「吏文」とは、中国でいう「吏牘文」(吏牘体)と同義で、官庁の書記官(胥吏)が用いた公文書用の文体のこと。朝鮮では主として外交文書に用いられる文体を指す。いわゆる「吏読」(朝鮮語の助詞や助動詞を表す漢字を送り仮名のように用いたもの)とは異なる。<br /><br />『吏文』と『吏文輯覽』<br />http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/ribun.pdf<br /><br />この文章では吏読とは朝鮮語の助詞や助動詞を表す漢字を送り仮名のように用いたものであり胥吏の文体は吏読ではないということになります。<br /><br />一方下のサイトにはこのようにあります。<br /><br />吏読は,広義には口訣・郷札などを含め,漢字を借りた朝鮮語の表記法全般を指す。狭義には吏読文における漢字による朝鮮語表記を指す。吏読文とは,胥吏などが行政文書を作る際に用いた漢字表記の散文を主に指すが,同様の文体で書かれた民間の書簡文についても吏読文と称する。<br /><br />朝鮮語学小辞典 - 吏読<br />http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/cgi-bin/enc/korenc.cgi?%E5%90%8F%E8%AA%AD<br /><br />この文章では吏読とは漢字を借りた朝鮮語の表記法全般であり胥吏の文体は吏読であることになります。どうも双方で説明がくいちがっているようです。<br /><br />ともかく「為有如乎」・「為如可」・「是在果」・「是乎矣」・「為有在果」・「是如乎」などの語句は官庁の書記官(胥吏)が用いた公文書に使われたもののように思えます。<br />書記の書く文体ということならばたとえ張漢相の報告に関する文書が存在していたとしても、それを張漢相が口頭で報告したものを書記が記録したと解釈できるのではないでしょうか。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-73338939479739173312009-06-19T01:40:53.628+09:002009-06-19T01:40:53.628+09:00Yabutarouさま
読み直してくださったところ、ほぼすべてに、ああ、なるほど、と思えて、異議は...Yabutarouさま<br /><br />読み直してくださったところ、ほぼすべてに、ああ、なるほど、と思えて、異議はありません。<br />私自身もひっかかっていたところがほぐれて、大変わかりやすくなっていると思います。<br />こうして皆さんで読み込んでいくのは、とても意義の有ることだと思います。<br /><br /><br />いくつかについてのみ、私見を述べます。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />甲戌九月初二日、営将張漢相 馳報備局。<br /><br />>備辺司で張漢相が報告した言葉を書記が聞き取ってそのまま文章にしたものであり<br /><br />という部分には賛成できません。張漢相は、口頭で報告をしたのではなく、彼自身が書いた文章で(紙で)備辺司に報告したと思います。<br /><br />「承政院日記」の場合は、確かに史官たちが国王や廷臣たちの議論をその場で書きとったものでしょうが、張漢相の捜討のような報告は、文書でなされたと私は思います。<br />であればこそ、彼の家系にその報告文の草案が残ったのだと思います。<br /><br />私は、B「朴世堂版」は、備辺司に残っていた、あるいは備辺司から朝廷に報告された文書を、朴世堂がそのまま写したもので、張漢相の捜討直後の備辺司への報告書。<br />A「申光璞版」のほうは、捜討が終わって少し時間がたってからの、「建白書」のような性格を持った「第二の報告書」が残ったのではないかと思っています。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />船中之人、莫不失措 、舉皆惛倒之際<br />船中の人々はうっかりして皆昏倒してしまい、その際に<br /><br />「うっかりして」は、ややそぐわない感じがします。<br />「失措せざるものなし」でしょうが、「正気を失わないものはなく」ぐらいではないでしょうか。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />西方大谷、溪澗成川、沿邊開豁。此處、為最而。<br /><br />「為最而」では意味がとおらないので、最後の「而」を「西」と読みました。<br />「而」を次の冒頭におけば、意味はとおりますね。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />A 無非在前泊船之所。<br />B 元非 船泊之所<br />となっており、<br /><br />A 申光璞の、写し間違いだと思います。<br />B のままに、もとは船がとまるところではなかった、でよいと思います。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />このように、Aだけではわからなかったのが、Bでわかるところがたくさんあります。Anonymousnoreply@blogger.com