竹島問題の歴史

20.9.08

1899 Report of Ulleungdo by Japanese warship Maya

This is a report of Ulleungdo by the Lieutenant Junior Grade of Navy (海軍中尉)Furukawa of a warship Mayadated September 27th, the 32nd year of Meiji (1899). It was almost the same period as the Hwangseong Sinmun (皇城新聞) article “Ulleungdo Situation (鬱陵島 事況)” on September 23rd 1899.

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/hwangseong-sinmun-1899-sep-23-ulleungdo.html

http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/05/1899923.html


The information in the report was mainly from a man from Shimane prefecture Amano Genzo who had lived there for 5 years. There is no particular interesting mentioning in the report, it referred to the circumference of Ulleungdo as 13-ri (52km) and it also mentioned that it lacked in flat places because of steep mountains. It said that there were 500 Korean families with population of about 2,000 while Japanese population was only about 100. It was 150 until May or June that year. The place where the many Japanese stayed was 東洞 (Todong), where 15 families with 30 people lived. At 南陽洞 (south part of Ulleungdo) there were four families with seven people and at 通亀尾 (south part of Ulleungdo) three families with 9 people. According to the Hwangseong Sinmun article, Korean population was 300 families and Japanese population was about 200. It is interesting that Korean overestimated Japanese population and Japanese overestimated Korean population.


The report said that Korean people dwelt next to the land they cultivated themselves so their houses were scattered, they only formed 8 village communities. It also said that Korean people were full-time farmers, cropping soybeans but some village communities had a few little ships and some of them did fishing and hunting but the catch was not so large (僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ).


As to the Island Supervisor (島監) 裵季周, the report mentioned that he lived at 東洞 and that he was a good-natured man who could understand Japanese language. He was appointed to the post four years before and he visited Japan and inspected Tsuruga and Matsue during one year from May 1898 until May 1899. There had been another Island Supervisor before but he was disliked by villagers for some reasons and was expelled.








22 comments:

  1. gtomr,

    Thanks. I think these are different reports. The navy officer (Liutenant Junior Grade) visited Ulleungdo with the naval ship Maya on 25th September.

    Whether the person 高雄書記生 was on the same navy ship is not clear, but the MOFA officer may have used some of the civilian ship services that set sail from 竹邊. It was the time Korea asked Japan to withdraw Japanese residents so that both of the Japanese govertnment and Japanese navy needed to gather information on Ulleungdo and Japanese residents.

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  2. Thanks, pacifist

    This is very important documents for all of us and a great find. Good job!

    I heard 高雄 of MOFA was on the same ship from matsu. I'm pretty sure he's going to give us more information on this soon.

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  3. Kaneganese,

    Thanks for your comment. I posted this article because I thought it would be some of help to understand the situation around Ulleungdo in the late 19th century, although it didn't refer to Liancourt Rocks.

    Additionally, I found that Japanese people and Korean people lived in the same island very amicably in those days, which made me glad.

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  4. Anonymous23/9/08 02:37

    This report of 軍艦摩耶 is surely made at the same time when 高雄書記生of MOFA visited Ulleungdo on September 25th 1899, as GTOMR has suggested.

    Maybe Japanese original will be found at the same site GTOMR showed, but the original report written in Japanese can also be seen in 『駐韓日本公使館記録』13 (515 page) 各領事館往復(17)公第二八号.(which is in 国会図書館)

    As you can trace the word 帝國 軍艦 摩耶 on the 2nd line of 復命書(2nd article), 高雄書記生 of 元山領事館 started 元山 August 26th 1899.
    But for bad weather he stayed in Pusan, and could reach Ulleung island on September 25th.
    He landed on 南陽洞 and met 畑本吉藏 and 天野源藏.

    So, the date and the situation is the same.

    I think Maya’s report was sent to the Navy, and Takao’s report was sent to 元山領事館, and to MOFA in Tokyo.

    高雄 also met “嘗テ該島ニ赴キタル釜山税関長「ラポード」”(Raporte) ,when he was staying in Pusan.
    (울릉도에 갔다 온 부산세관장 라포르의 설명을 들으니)

    This is very important document to show the situation in Ulleungdo in1899, just before 勅令41号 in 1900.

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  5. matsu様

    Thanks a lot. It seems that 高雄書記生 was on the same naval ship Maya.

    I didn't notice that the website gtomr introduced included a report (I only saw the first letter), which included the words 摩耶艦 and 天野源蔵.

    BTW, the reports were slightly different to each other. To follow is a comparison of the researches on population.

    東海岸 East coast
    東洞 18戶 25명
    茂洞 2戶 3명

    Naval report:
    東洞 15戸 30名
    茂洞 2戸 3名

    北海岸 North coast
    (Naval report in brackets)
    竹岩 1戶 3명 (the same)
    寧洞 2戶 9명 (no description)
    䤟洞 1戶 4명 (錐山? 1戸 4名)
    玄洞 1戶 20명 (玄浦? 1戸廿名)
    通龜尾 1戶 9명 (3戸 9名)
    (竹岩 1戸 3名) 

    Naval report also included 西部 (Western area): 昌洞 2戸 8名 and 南部 (Southern area): 南陽洞 4戸 7名.

    It seems that the naval officer and 高雄書記生 researched on their own.

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  6. To follow is a machine translation of the text on the website gtomr introduced:

    “鬱陵島の 樹木 伐採圏は前に 韓国 政府がロシア人に譲与したことだが, 我が国の人々がハム部に至る盗伐する仕事があると言ったら 帝国 軍艦 摩耶に便乗してその島へ行って調査した後, 伐木を禁止しなさいという命令を伝達して, また 盗伐者らを便宜上軍艦に乗せて連れて帰って来るとか, または後を警戒した後直ちに去るようにするとか, もし直ちに退去することができない事情があったら期限を決めて退去するように命じなさい.”
    増えた意味を 別紙 第1, 第2号と一緒に今年 8月 21日及び 22日付け 京城 駐在 林 特命全権公使の訓令で受けました. それで 巡査部長 管谷新平を同行と同月 26日午前 6時 摩耶艦に便乗して目的地に向けました. ところでいくばくもなくていい天気ではなくてしばらく江原道 長箭彎で退いてから次捺印 27日午前 7時雨風を冒して出発したが風浪がもっとひどくて航海が自由ではなかったのでまた装填だけ近くに帰ろうと思ったがそんなことができなかったです.
    28日までも同じ状況で目的地に到逹する希望がなかったから仕方なく軍艦をまず 釜山に寄港することに決めて 29日午後 4時に釜山に到着しました. 直ちにこの実は及び 同艦が天気が好きになるのを待ってまた鬱陵島に向けるまで滞在することかの可否を第3号と一緒に工事に稟議したら, 30日に第4号と一緒にどんな 回訓があるまで釜山に滞在しなさいという電報命令を受けました. そしてまた 9月 2日第5号と一緒に 摩耶艦がまた鬱陵島に向けて出発するまで滞在しながら任務を遂行しなさいという内容の電報訓令を受け付けました.
    釜山滞在の中で先に鬱陵島に行って来た釜山税関長ラポールの説明を聞いたら, 現在居住中の 日本人は男女合わせて皆 200余人に達すると言いました. これが果して事実なら到底軍艦に皆を乗せることができないだけでなく, 特に鬱陵島は停泊する場所がないから沿岸に少しの間しか 遊泊できないので退去を言い付けても軍艦 遊泊 時間の内に果して退去することができるゴッインジの点に対してはなにぶん不可能のようでした. それで執行が終わるまでとどまりながらまた軍艦が回航して来る時まで待つか話す第6号内容を 9月 2日に上申しました.
    同月 6日に至って第7号のような 布逹文を持って上陸して主な日本人を集めてこれを一般にポダルして場合によっては 2, 3日間その島に滞在しながら地方官たちと協動してすべての事を斡旋受けた後また軍艦が回航するのを待って撤収するとか, どのようにしても 実地の状況を見ながら適当な措置を取りなさいという内容の 回電に接しました. それでこの訓令を受けて 同月 18日鬱陵島に向けて出発したが再び悪天候によって慶尚道 蔚山でしばらく風浪を避けるのを 5日間, 24日午前 5時に出発, 25日午前 5時やっと鬱陵島に到着しました.
    ところがこの島には前で記述したところのように停泊場もなくて特に嵐後には荒波によって自由に上陸することができなくて島を一回り帰って来た後やっと東南面の海岸で上陸誌を見つけることができました. ちょうど風浪が少し鎮まったから艦長に 2, 3日間を停泊しながら待とうが, あるいは何日後再び回航して帰って来なさいと要求しました. しかし艦長は再び風浪がおこるようになれば乱を避けるに値する場所もなくて行ってからまた回航して来ることも容易くないだけでなく, もう 大和艦との交代期間も切迫したので回航することができるか可否も予測しにくいから今から上陸させれば 7時間を 遊泊してお腹で帰って来るのを 帰艦を待つはずだからなるべく早く調査を終えて帰って来なさいと言いました. それで仕方なくそんなことに決めて 7時間を待ってくれるのを頼んで辛うじて 南陽洞と言う所に上陸しました.
    その村には谷の間に日本人家屋君のひったくっていて 8人が居住していたが, その中主な寝る 島根県 隠岐国 西郷中町 138番(回)平民 畑本吉蔵と 同 伯耆国 東伯村 95番(回)平民 天野源蔵 二人で, 自分が親分と言いながら何人を使役させて伐木していると言いました. そしてこの二人に各所に散在している者等に対してその地名と人員, 湖などを調査したら次のようでした.

    東海岸
    東洞 18戸 25人 茂洞 2戸 3人

    北海岸
    竹岩 1戸 3人 寧洞 2戸 9人
    洞 1戸 4人 玄洞 1戸 20人
    通亀尾 1戸 9人  

    以上 79人外に女と子供達を合わせれば現在人員は皆 100人位だが, 去年から今年春までは 1,560人に達したが今年 3月に撤収したと言って, そしてこの 79人の中 畑本, 天野 二人を除いた主な寝る 12人でその声明(名前)は次の通りです.

    島根県 田中 政春
    〃 福葉 勝太郎
    隠岐国知天郡岡村 脇田 正太郎
    島根県松江市 山本 克衛
    〃 西濱 福太郎
    島根県濱町 田波 音次郎
    大分県豊後西伯郡 仲西 秋太郎
    〃 石井 利三郎
    島根県知天郡 由井 留次郎
    隠岐国浦郷村 備前屋 某
    〃 門 万太郎
    隠岐国安東町 深田 甚太郎

    この 12人はほとんど皆 7ヶ所に散在しているから 元籍 などを調査することができなかっただけでなくこれらを呼び起こそうと思っても軍艦の停泊時間が短いから仕方なく親分柄である 畑本吉蔵・天野源蔵 二人に樹木を盗伐してはいけない理由を覚ましてくれた後, さっそく一同が協議して退去しなければならないという意味を聞かせました.
    すると彼らは今年 7月に来るようになっている船舶がいまだに来なかったが, 近日の中へ来るはずなのでそのお腹に退去することを明日すなわち 26日に集合させて命令を伝達すると答えました. それで第7号の電報訓令主旨によって第8号の 布逹文 何通を作成して二人の人に与えて各所に散在している主な者に交付して必ず 11月 30日まで撤収しなければならないという主旨を教えてあげるようにして第9号と一緒に 在住者の一同を代表して退去するという覚書きを提出するようにしました. このようにしてお腹で帰って来てその日午後に出発して 26日午後 5時釜山に到着すると直ちに第10号と一緒に概略的な電報を工事に復命しました.
    しかしこの島にいる我が国の人々が樹木を採伐するようになったことはこの島の 都監 すなわち 島守とも言う韓国管理(現在この島の図鑑は 〓季周という自任&#41の公式許可を得て樹木の大きさによってここに相当な伐木料を納めて採伐することなので, 我が国の人々を指目して盗伐者と言うことは理に適当ではなくてほとんど売買によることだと思うと正しいだろう. それなら今これら我が国の人々に退去を命じてもこの島の図鑑という者に 売木行為を厳禁するという訓令を下げなかったらいくら行かなくて再び今日のように我が国の人が移住しないと予測することはできません. 現在我が国の人々がこの島に移住するようになったことはたいてい 5年前の事でほとんど家を建てて土着民のような生活をしていたし, ひたすら 槻松を伐採するとかを製造してかたがた鬱陵島で出る豆を輸出することを職業にしています.
    この島には田がなくて 土民らは豆科組, 記章類を株式にするのに, 我が国の人々が渡った以来米穀, 玉洋木, 雑貨類を輸入して来たから, 土民たちは品物の売買や交換などに非常に便利だと感じて図鑑を含めて一般土民たちに至るまで我が国の人々が増えるように願って, その間互いの関係が非常に平穏で絶対にうるさい仕事はなかったと言います. 収入貨物は主に 伯耆国境 または 濱田港で 100石 ないし 200石を 和船に積んで年間 3回すなわち 1回は 3月に, 2回は 5月に, 3回は 7月に来ると言います. そして伐採した樹木と豆などの輸出品は 敦賀・馬関・博多で荷役すると言います. この島で生産される豆は毎年 4‾5,000席に達すると言って, 豆に対しては図鑑が取り立てる輸出税額が 100石に対して白粉の 2の割合で課徴されると言います.
    現在土民人口は 2,000余人で湖は皆 500号であり, 農夫と漁夫がそれぞれ半数で, 船舶を建造する木工たちがあり植樹は諸所に谷水が清くて飲み物で相応しいと言います.
    この島は 元山で 185で, 竹辺で 73, 釜山で 175 になる所にある一つの図書として東西が少し長い三角形になっています. 周りが 18でその位置は北緯 37度で始まって 37度 33分に至って, 東京 139度 49分で始まって 139度 57分に至ります. また周り沿岸の海下は岩石になっていて深みは 48メートルから 72メートル以上に 投錨する所がないやや小い島です. 地税は全体的に高い山脈で 5,000フィートに達する高い峰たちが湧いていて, 諸所に山と山が向い合って切り立ったような絶壁で青い森が鬱蒼に岩の上で垂れていて景観が非常に美しいです.
    上のように復命します.
    1899年 10月 3日
    外務書記生 高雄謙三
    在元山 領事 武藤精次郎 殿

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  7. The third letter on the website was a document of order:

    [駐韓公使と 高雄謙三 の間に 授受一 鬱陵島 問題 公信 諸件]
    第1号

    鬱陵島の樹木伐採圏は先立って韓国政府でロシア人に譲与するまで日本人たちが盗伐する場合があると言ってこれを禁止してくれと日本駐在ロシア工事及び韓国政府から依頼があった. これによって 貴館 高雄 書記生に鬱陵島出張を命じ. 同 書記生はこの島にいる日本人を調査して伐木を禁ずる命令を伝達すること. 出張には 摩耶 艦長に依頼して便乗を要求すること. この 艦に便乗してその島で往復することは 摩耶 艦長の計画に含むように要請して, 本日 摩耶の滞留を保留したことは誤ったのなので取り消す. 出張費などはまずおこるふりをした後追後 本省に請求すること.
    1899年 8月 21日午後 6時受付

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  8. And the second order followed:

    第2号
    鬱陵島で盗伐者を軍艦に便乗させて連行するとかまたは厳重に今後を警戒してたしなめて直ちにこの島を発つようにすること. もし直ちに去るようにできない事情があれば日付を決めて退去を言い付けること.
    8月 22日午後受付

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  9. To follow are the rest of the documents.

    第3号
    去る 26日出航して鬱陵島に向けたが悪天候によって目的地に到着することができなくて釜山に戻ったし 摩耶艦は再び天気を待ちながらこの島に向けるまでこちらで滞在するか指示を要請する.
    1899年 8月 29日
    高雄謙三
    林 全権公使 殿

    第4号
    ある 回訓があるまでその所で滞在すること.
    1899年 8月 30日 電訓

    第5号
    高雄 書記生は 摩耶艦が出発するまで釜山で滞留した後また鬱陵島で出発してその任務を果すこと.
    1899年 9月 2日 電訓


    第6号
    今度鬱陵島にいる我が国の人々の樹木伐採を禁止するために軍艦 摩耶艦に便乗してこの島に出場しなさいという内容の転訓を受け付けて, 先月 26日原産を出発して鬱陵島に向けたんですが悪天候によって到着することができずに 29日釜山に日時寄港したということはもう電報で上申して次の命令をつける中にいます. ところでこれに先たちこの島へ行ったこちら釜山港税関長ラポールさんの説明を聞けば, この島に現在移住している日本人は男女合わせて皆 200余人に達すると言います. 盗伐者を皆軍艦に便乗させることは不可能なので転訓なさった意味によって厳重に訓戒してなるべく迅速な時日内に退去することを言い付けるが, 先便がオブダドンがあるいは直ちに退去することができない事情がある時には退去日付を決めて退去を命ずるようにします. ただこの島に停泊場がないからおこるのが良い時にもやっと 4‾5時間しかに停泊することができない事情があるのでその時間の内に果して退去する数イッウルジの可否に対してはどうしても予見が立たないのみならず, もしそうする時には執行が完了するまでこの島に滞在しながらまた軍艦の回航を待つはずか, くれぐれも電報に訓示してください.この点上申します. 敬具.
    1899年 9月 2日
    在元山 外務書記生 高雄謙三
    在京城 特命全権公使 林勧助 殿


    第7号
    今月 2日付け 貴翰を受け付けたが 貴官はあらかじめ 布逹文(盗伐禁止と決まった期限内に撤収命令など&#41を持って鬱陵島に上陸した後主な日本人を集めておいてこのポダルムンを一般にポダルするようにするはずであり, これと関して場合によっては 2‾3日間その島に滞在しながら韓国の地方官たちとともに共同ですべての事を取り持つようにした後再び軍艦が回航して来ることを待ってから撤収するのが正しいだろう考えられて, どのようにしても 実地 状況によって適当に措置すること.
    1899年 9月 6日 電訓

    第8号
    近来うちの日本人たちが鬱陵島に渡って私的に樹木を濫伐して本国で輸送しているから韓国政府でこれらの行為を厳禁させてくれるのを私たちの公使に問い合わせして来たので 本官は今度我が公使の命を受けて島へ来た. 考えて見れば, うちの日本人たちがこの島に泊まりながら特別に樹木を盗伐して密輸出を企てることは非常に不届きな事だからこれからは決して盗伐してはいけないことはもちろんこの島にいる日本人は皆この島を発つこと.
    以上厳に示逹する.
    1899年 9月 25日
    鬱陵島出張 在元山領事館 外務書記生 高雄謙三

    覚書
    第9号
    今度私たちはこちら鬱陵島で樹木濫伐と同時にこちらに 在住することを厳禁するという 布逹文の主旨を熟知することと同時に下命なさったとおり 1899年 11月 30日まで退去するようにします. この点一同を代表しておっしゃるとおり施行します.
    1899年 9月 25日
    島根県 隠岐国 西郷 中町 138番(回) 当時鬱陵島在 畑本吉蔵
    鳥取根東伯郡附村 当時鬱陵島在 天野源蔵
    在元山領事館 外務書記生 高雄謙三 殿

    第10号
    本官 今帰任しました. 鬱陵島にいる伐木者は皆 100人にしめて 8ヶ所に散在しているし, この島は高い山脈だけで形成されていて陸路通行が困るだけでなく日でも停泊場がなくて, そこに風浪が高くて一回り後ろ向きになってやっと南側海面に接している海岸に上陸しました. 親分汲引二人に事実を調査した後訓令を伝達して今年 11月 30日まで退去することを命じて 在住者 一同の代わりをして覚書きを受けておきました. 帰館 後に詳細に郵便で 上申します.
    9月 26日

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  10. There was also a record of the warship Maya here:

    http://kindai.ndl.go.jp/BIToc.php

    (国立国会図書館 近代ライブラリー)
    "海軍医事報告撮要"
    軍艦摩耶韓国巡航記事抄録

    Nothing special but it was due to a request of 元山領事館 asking them to give the MOFA officer (高雄) a ride to Ulleungdo.

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  12. Anonymous23/9/08 22:51

    日本語を直してみました。はじめは『日本公使館記録』にある原文の日本語を起こそうとしたのですが、漢字カタカナ混じりでわかりにくく、また難しい漢字の入力も多いため、いったん放棄し、『日本公使館記録』をもとに、自動翻訳のわかりにくいところを書きなおしてみました。このため、当該サイトの韓国語の忠実な翻訳でもなく、原文の起こしでもない、中途半端なものになってしまいましたが、皆さまの理解のお役に立てば幸いです。

    高雄書記生 復命書
    鬱陵島の樹木伐採権は、以前に韓国政府から露国人に譲与したものであるが、本邦人が濫りに盗伐するものがあるとのことで、帝国軍艦「摩耶」に便乗して同島へ行き、調査した上で、伐木を禁止する命令を伝達し、また、盗伐者をそのまま軍艦に乗せて連れ帰るか、あるいは今後を戒しめた後、直ちに退去させるようにするか、またもし直ちに退去することができない事情があったら、期限を決めて退去するよう命じよ、という旨の、別紙 第1, 第2号(本年 8月21日及び22日付)の京城駐在・林(権助)特命全権公使の訓令を受けました。
    そこで、巡査部長・管谷新平を伴い、同月26日午前6時、「摩耶」艦に便乗して目的地に向かいました。ところが、いくばくもなくして天候不良となり、しばらく江原道の長箭彎で難を避け、翌27日午前 7時、雨風を冒して出発しましたが、風浪激しく航行不能となり、また近湾に引き返そうにもそれもならず、28日も同じ状況で、目的地に到逹する希望がなかったため、仕方なく軍艦をひとまず釜山に寄港することに決め、29日午後4時、釜山に到着しました。
    直ちにこの事実、および 同艦が天気の好転を待ってまた鬱陵島に向かうまで滞在すべきか否かを第3号の通り公使に伺ったところ、30日になって第4号の通り、何らかの回訓があるまで釜山に滞在せよという命令を受けました。さらに9月2日、第5号の通り、 摩耶艦がまた鬱陵島に向けて出発するまで滞在しながら任務を遂行せよ、という内容の訓令を受けました。
    釜山滞在中に、かつて鬱陵島に行ったことのある釜山税関長「ラポード」(韓国語訳文は「ラポール」)の説明を聞いたところ、現在[鬱陵島に]居住の日本人は、男女合わせて200余人に達すると言いました。これが事実なら、到底、軍艦に全員を乗せることが不可能なばかりでなく、特に鬱陵島は停泊する場所がないため、少しの時間しか沿岸に遊泊できないとのことであり、退去を命じても、軍艦の遊泊時間内に退去するのは、到底不可能のようでした。そこで、執行が終わるまで止まりながら、また軍艦が回航して来る時まで待つべきか云々という第6号の内容を9月2日に上申しました。
    同月 6日に至り、第7号の通り、布逹文を持って上陸し、主な日本人を集めて、これを一般に布逹し、場合によっては 2、3日間その島に滞在して、地方官たちと協動し、諸事を斡旋した後、また軍艦が回航するのを待って撤収するか、など、いずれにしても実地の状況を見ながら適当な措置を取れ、という内容の回電に接しました。
    そこで、この訓令を奉じ、同月18日、鬱陵島に向けて出発したところ、再び悪天候により、慶尚道の蔚山で風浪を避けること5日間、24日午前5時に出発し、25日午前5時、ようやく鬱陵島に到着しました。
    ところが、この島には、前述の如く停泊場もなく、特に暴風後のこととて波が高く、自由に上陸することができず、島を一周の後、やっと東南に面した海岸に上陸地を見つけることができました。ちょうど、風浪が少し鎮まったので、艦長に 2、3日間停泊しながら待つか、あるいは数日後に再び回航することを要求しましたが、艦長は再び風浪が起こるようになれば難を避ける場所もなく、行ってまた回航して来ることも容易でないだけでなく、もう大和艦との交代の期間も切迫したので、回航することの可否も予測しにくいから、今から上陸すれば、7時間遊泊して帰艦を待つから、できるだけ早く調査を終えて帰って来るようにと言われました。そこで仕方なくそのように決め、7時間の待泊を依頼して、辛うじて南陽洞という所に上陸しました。
    その村の谷間には、日本人の家屋が4軒あり、8人が居住していました。その中の主なものは、島根県 隠岐国 西郷中町 138番地、平民 畑本吉蔵と、同 伯耆国 東伯村 95番地、平民 天野源蔵の二人で、自ら頭取ととなえ、数名を使役して伐木していると言いました。そこで、この二人に、各所に散在している者の地名・人員・戸数などを調査したところ、次のようでした。

    東海岸
    東洞 18軒 25名  茂洞 2軒 3名

    北海岸
    竹岩          1軒 3名    
    昌洞(韓国語訳は寧洞) 2軒 9名
    (金へんに冗)洞    1軒 4名    
    玄洞          1軒 20名
    通亀尾 1軒 9名 

    以上 79名の外に、女子供を合わせて、現在人員は100名であるが、もっとも、去年から今年春までは百五六十名に達したが、今年 3月に引き上げたと言うことです。そして、この 79名中、畑本・天野の両名を除いた主だったものは12名で、その姓名は次の通りです。

    島根県         田中 政春
    同            福葉 勝太郎
    隠岐国知天郡岡村 脇田 正太郎
    島根県松江市    山本 克衛
    同           西濱 福太郎
    島根県濱町     田波 音次郎
    大分県豊後西伯郡 仲西 秋太郎
    同            石井 利三郎
    島根県知天郡    由井 留次郎
    隠岐国浦郷村    備前屋 某
    同            門 万太郎
    隠岐国安東町    深田 甚太郎

    これらの12名は、7ヶ所に散在しているため、元籍などを調査することができなかっただけでなく、呼び集めようとしても、軍艦の停泊時間が短いため、仕方なく頭取である畑本吉蔵・天野源蔵の両名に対し、樹木を盗伐してはいけない理由を諭告した後、すみやかに一同協議の上、退去すべき旨を申し聞かせました。
    すると彼らは、今年 7月に来るはずの船がいまだに来なかったが、近日中には来るはずなので、その船で退去することを、明日すなわち 26日に集合させて命令を伝達すると答えました。
    そこで、第7号電報訓令の趣旨によって、第8号の布逹文を数通作成し、二人に与えて、各所に散在する主な者に交付して、必ず 11月30日まで退去しなければならないという旨を命じ、第9号の通り、在住者一同を代表して、退去するという受書を提出させました。
    このようにして帰艦し、その日の午後に出帆して、26日午後5時、釜山着。直ちに第10号の通り、概略的な電報をもって公使に復命しました。
    そもそも、この島に在住する本邦人が樹木を採伐するに当たっては、この島の 都監 すなわち 島守と言うべき韓国官吏(現在この島の都監は、裵季周という者です)の公許を得て、樹木の大きさによって相当の伐木料を納めて採伐するとのことであり、我が国の人々を目して、直ちに盗伐者と言うのは当を得たものではなく、むしろ売買といえば正しいでしょう。
    そして、今これら我が国の人々に退去を命じても、この島の都監という者に売木厳禁の訓令を出さなかったら、いくばくもなくして、再び今日のように我が国の人が移住しないと予測することはできないでしょう。現在、我が国の人々がこの島に移住するようになったのは、ほとんど5年前からの事で、いずれも家を建てて土着の生活をしており、もっぱら 槻・松を伐採し、またはトリモチを製造し、かたわら鬱陵島でできる大豆を輸出することをもって職業としています。
    この島には水田が皆無で、 土民は大豆・粟・稗の類をもって主食としています。
    しかるに、本邦人の渡航以来、米穀、金巾、雑貨類を輸入するため、土民は物品の売買、または交換などに非常に便利を感じ、都監をはじめ、一般の土民に至るまで、我邦人の増加を希望し、お互いの関係は非常に平穏で、紛糾をみることはなかったと言います。
    輸入貨物は、主に 伯耆の国の境(さかい) または濱田港で、100石 ないし200石を 和船に積んで、年に 3回、すなわち 1回は 3月に, 2回は 5月に, 3回は 7月に来ると言います。そして採伐した樹木・大豆などの輸出品は、敦賀・馬関・博多に荷上げすると言います。
    この島で生産される大豆は、毎年四五千石に達すると言います。大豆に対しては都監が取り立てる輸出税額が、100石に対して百分の2の割合で課徴されると言います。
    現在、土民の人口は 2,000余人で、戸数は500戸であり, 農夫と漁夫がそれぞれ半数で, 船舶を建造する木工があります。水は、いたる所の谷に清水があり、飲料に適すと言います。
    この島は、元山を距てること185(さんずいに里)、竹辺から73(さんずいに里), 釜山から175(さんずいに里) にある一島嶼であり、東西が少し長い三角形をしています。周りが 18(さんずいに里)で、その位置は北緯37度に起こって、37度 33分に至り, 東経139度 49分に起こり、139度 57分に至ります。
    また周囲沿岸の海底は岩石で、深さ20尋ないし30尋以上に達し、投錨する所がない小さな島です。地勢は全体的に高い山脈で、5,000フィートに達する高い峰が屹立し、 いたるところ山と山が相対し、切り立ったような絶壁で、青い森が鬱蒼と岩の上に垂れていて、景観が非常に美しいです。 
    以上のように復命します。
    明治32年(1899年)10月 3日
                                外務書記生 高雄謙三
    (在元山) 領事 武藤精次郎 殿

    付属書
    第1号 (1899年) 8月 21日 午後 6時受付    林
    [駐韓公使と 高雄謙三 の間に 授受した 鬱陵島問題 公信 諸件]

    鬱陵島の樹木伐採権は、先に韓国政府からロシア人に譲与したが、日本人が盗伐しているので、これを禁止するよう、日本駐在ロシア公使、及び韓国政府から依頼があった。そこで 貴領事館 高雄書記生に鬱陵島出張を命ずる。同書記生はこの島にいる日本人を調査して、伐木を禁ずる命令を伝達すること。出張は 「摩耶」艦長に依頼して便乗を要求すること。艦に便乗して鬱陵島を往復することは摩耶艦長に依頼する。本日 摩耶の滞留を保留したことは誤りなので取り消す。出張費は立替後、本省に請求のこと。

    第2号  8月 22日午後受付  林
    鬱陵島における盗伐者は、軍艦に便乗させて連れ帰るか、または厳重に今後を戒しめて直ちにこの島から立ち去らせるようにすること。もし直ちに立ち去ることができない事情があれば、日付を決めて退去を命ずること。


    第3号 明治32年(1899年) 8月 29日

    去る 26日出航、鬱陵島に向かったが、悪天候により目的地に到着することができず、釜山に廻航。只今着。 摩耶艦は再び天気を待ちながら、鬱陵島に向かうまで、こちら(釜山)で滞在するか指示を乞う。      高雄謙三
    林 全権公使 殿

    第4号 明治32年(1899年) 8月 30日 訓電
    次の回訓があるまでその地に滞在のこと。

    第5号 明治32年(1899年) 9月 2日 訓電
    高雄書記生は 摩耶艦が出発するまで釜山に滞在の上、再び鬱陵島に出発してその任務を果すこと。

    第6号
    今度、鬱陵島にいる我が国の人々の樹木伐採を禁止するために、軍艦 摩耶に便乗し、この島に出張せよという内容の訓電を受けて、先月 26日元山を出発して鬱陵島に向かいましたが、悪天候によって到着することができず、29日釜山に寄港したことは、もう電報(電話?)で上申して次の命令を待っています。
    ところで、先般この島へ行ったことがある、当地釜山港税関長「ラポート」(韓国語訳はラポール)氏の説明を聞けば、この島に現在移住している日本人は、男女合わせて、およそ200余人に達すると言います。 これが事実とすれば、盗伐者をすべて軍艦に便乗させることは不可能なので、電訓されたた趣旨に基づき、厳重に訓戒してなるべく迅速な時日内に退去することを言い付け、また便船が無いか、あるいは直ちに退去することができない事情がある時には、退去日時を決めて退去を命ずるようにします。ただこの島には停泊場がないので、天候が良い時にも、やっと 4~5時間しかに停泊できないとのことなので、その時間内に果して退去することが可能かどうかについては、どうしても予見が立たないのみならず、もしそういう時には、執行が完了するまでこの島に滞在しながら、軍艦の回航を待つべきか、電報で訓示してください。
    この点上申します. 敬具.    明治32年(1899年)9月 2日
    在元山 外務書記生 高雄謙三
    在京城 特命全権公使 林勧助 殿

    第7号 明治32年(1899年) 9月 6日 訓電
    今月2日付 貴翰を受けた。貴官は、あらかじめ 布逹文(盗伐禁止と、定められた
    期限内の撤収命令など)をしたためて、鬱陵島に上陸後、主な日本人を集めて
    この布逹文を一般に布逹せよ。
    これに関して、場合によっては、 2~3日間、その島に滞在しながら、朝鮮地方官
    とも共同で、すべての事を取りはからった後、再び軍艦が回航して来るのを待って
    引き上げるのが正しいだろう考えられるが、いずれにしても 実地状況によって適当に
    措置すること.

    第8号
    近来、わが日本人たちが鬱陵島に渡って、私的に樹木を濫伐して本国に輸送してい
    るから、韓国政府でこれらの行為を厳禁させてくれるよう、わが公使に問い合わせを
    して来たので、本官は今度、我が公使の命を受け島へ来た。考えて見れば、わが日
    本人が、この島に泊まりながら、樹木を盗伐して密輸出を企てることは非常に不届き
    な事だから、これからは決して盗伐してはいけないことはもちろん、この島にいる日本
    人は、皆この島を退去すること。 以上厳に示逹する.
    明治32年(1899年) 9月 25日
    鬱陵島出張 在元山領事館 外務書記生 高雄謙三

    第9号
    御受書
    このたび、私たちはここ鬱陵島で、樹木濫伐とともに、こちらに在住することを厳禁す
    るという 布逹文の主旨を熟知すると同時に、下命されたとおり明治32年(1899年)
    11月 30日までに退去いたします。
    この点、一同を代表して、誓約いたします。
    明治32年(1899年) 9月 25日
    島根県 隠岐国 西郷 中町 138番地 当時鬱陵島在 畑本吉蔵
    鳥取根東伯郡附村 当時鬱陵島在 天野源蔵
    在元山領事館 外務書記生 高雄謙三 殿

    第10号
    本官 今帰任しました. 鬱陵島にいる伐木者は、およそ100人の由ですが、あわせて
    8ヶ所に散在しています。この島は高い山脈で形成されていて、陸路通行が困難だけ
    でなく、海路も停泊場がなく、それに加えて風浪が高く、一周ののち、ようやく南側の
    海に接している海岸に上陸しました。主だったもの二名につき、事実を調査後、訓令
    を伝達し、今年 11月 30日までに退去することを命じ、在住者 一同の代表として
    受書をとっておきました。 領事館帰館後に、詳細に郵便で上申します。 9月 26日

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  13. matsu様

    Thanks a lot. This is a more detailed report than Naval officer's report.

    (To people who can't read Japanese writing):
    This is a report of a MOFA officer who was in charge of evacuating Japanese people from Ulleungdo (or giving a notice to quit the island before a deadline) because Russia got a right to cut down trees.

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  14. Anonymous24/9/08 00:34

    Saturday, June 09, 2007
    にポストされた

    1902年外務省通商局編纂 通商彙纂

    に、以下のような名簿があります。


    明治三十四年陽八月八日(1901)
    本組合員役員名

    組合長 畑本吉造
    組合副長 片岡吉兵衛
    取締 深田甚太郎
    議員 福間兵之助
    同  宇野若次郎
    同  古木新作
    同  中西秋太郎
    同  脇田庄太郎
    同  天野源蔵
    同  門満太郎
    同  碇鉄次郎
    同  井上太吉
    同  藤野金太郎
    南陽洞詰 同  由浪乙次郎
    黄土浦詰 同  谷富之助
    昌洞詰   同  吉井留次郎
    〆十六名也

    この人たちが、鬱陵島の有力者の面々だったのでしょうね。

    今回の
    明治32年(1899年)9月25日の記録
    (有力者14名)と比べると

    島根県 隠岐国 西郷中町 138番地、平民 畑本吉蔵、
    同 伯耆国 東伯村 95番地、平民 天野源蔵

    島根県        田中 政春
    同          福葉 勝太郎
    隠岐国知天郡岡村   脇田 正太郎
    島根県松江市     山本 克衛
    同          西濱 福太郎
    島根県濱町      田波 音次郎
    大分県豊後西伯郡   仲西 秋太郎
    同          石井 利三郎
    島根県知天郡     由井 留次郎
    隠岐国浦郷村     備前屋 某
    同          門 万太郎
    隠岐国安東町     深田 甚太郎


    以下の8人は、両方に名前があります。

    畑本吉蔵
    天野源蔵
    脇田 正太郎
    田波 音次郎(由波)
    仲西 秋太郎(中西)
    由井 留次郎(吉井)
    門 万太郎(満太郎)
    深田甚太郎


    個人情報をならべているようで、非常に恐縮なのですが、これらの方々が、何か書き残していただいていれば、という思いにとらわれます。

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  15. Anonymous24/9/08 01:20

    このあたりの事情については、
    『日本外交文書』明治32年
    事項9 「欝陵島伐木特許に関する件」(p284~309)(文書番号165~186)に詳しい記録があります。当時の状況がかなり赤裸々に書かれていて面白いです。(高雄書記生については文書番号175)
    きっかけはロシアからの退去要求でした。文書番号168
    1899年7月30日付けの、在日露国公使ローゼンから青木周蔵外務大臣あてのこの文書では、欝陵島のことをDajelet ou Matsushima(ダジュレまたは松島)と書いています。

    この時期、ロシアは重要なプレーヤーでした。私自身もロシア語は読めませんが、竹島問題で、ロシア語資料がほとんどまったく使われていないのが、とてももどかしいです。

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  16. Anonymous26/9/08 01:38

    「摩耶報告」を起こしてみました。

    同行した外務省の高雄書記生の報告によれば、わずか7時間の鬱陵島滞在であり、またこの報告自体も「天野源蔵」という情報提供者の眼から見た鬱陵島の姿なのでしょうが、まだ若い青年であったと思われる古川海軍中尉による、当時の鬱陵島を伝える貴重な一次資料だと思います。

    間違いもあると思いますので、見つけたらご教授下さい。
    ●は、よくわからない文字です。
    句読点を打っています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    報告
    九月二十五日、視察ノ命ヲ受ケ、鬱陵島南陽洞ニ上陸ス。同地ニハ、組長トモ称スベキモノハ、島根県人天野源蔵外一名アリ。就中、天野ハ五年前ニ来島シ、内部事情ニ通ズト聞ク。由テ同人ニ就キ聞知シ得タル処、大要左ノ如シ。

    鬱陵島
    一 ●●及人口 本島ハ、周囲一五(口へんに里)アリト称ストイエドモ、実際較之ヨリ小ニシテ、島内、峻山屹立シテ、海岸ハ●岸ニシテ、殆ンド平地ト称スベキモノナク、處處ニ、少許ノ砂浜ノ存スルアリテ、波穏カナルトキハ、端艇ヲ着岸スルコトヲ得ベシ。
    本島ニアル朝鮮人ハ、戸数五百、人口二千内外アリト難ドモ、彼ラハ各自開墾セル畑地ノ付近ニ住スルヲ以テ、家屋ハ谷間、若シクハ山腹ニ於テ、各所ニ散在シ、其中、較較、村落ノ形ヲナスモノ、八個アリ。而シテ、現今、本島ニ在留スル本邦人ハ、老若男女相合シテ百名内外ニシテ、本年五六月頃マデハ、百五十名内外アリシト云フ。是等ノ本邦人ハ、前記ノ部落内ニ割居ス。其名称・人数等、大約、左ノ如シ。

    村落名称 位置 戸数 人数
    南陽洞  南部 四 七
    通亀尾  同  三 九
    東洞   東部 一五 三十
    茂洞   同  二 三
    竹岩   北部 一 三
    錐山   同  一 四
    玄浦   同  一(大ナルコト) 二十
    昌洞   西部 二 八

    二 気候及風土
    本島ハ寒暑共ニ酷烈ナラズ、毎年、四月ヨリ九月マデ偏南風多ク、十月ヨリ三月マデ偏北風多ク、殊ニ十一月頃ハ北西風強ク、降雪ハ十月下旬ヨリ三月下旬ニ至リ、山上ニハ五月尚ホ、積雪ノ存スルアリト。
    土地、極メテ健康ニシテ、天然痘ノ外疫病等ノアリシコトナシ。
    彼ラハ之ヲ水質ノ良好ナルニ帰スト云フ。

    三 産出物 
    朝鮮人ハ専ラ農ヲ業トシ、大豆ヲ主トシ、麦・粟・稗・馬鈴薯等、之ニ次グ。而シテ大豆ノ収穫ハ、毎年平均三四千石アリト云フ。
    他ノ穀類ハ、彼ラノ常食トスル所ニシテ、平年ニアリテハ不足ヲ告グルコトナク、又、或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
    島内、殆ンド鳥獣ノ棲息スルナク、稀ニ山猫・鳩等ヲ見ルニ過ギズト云フ。

    四 糧食及清水 
    糧食ハ、各村落、至ル所、只少量ノ鶏、及鶏卵ヲ得ベク、其価、又廉ナリ。
    清水ハ、各所ニ河流ノ存スルアリ。水質善良ニシテ、旱魃ノ患ナシト云フ。現ニ、南陽洞ニ於テモ一清流アリ。且、清泉ノ湧出スルヲ見タリ。

    五 島監ハ、即チ島司ニシテ、裵季周ナルモノ其職ヲ奉ジ、本島ヲ管轄ス。現今、東洞ニ住ス。同人ハ昨年五月、本邦ニ至リ、敦賀・松江等ヲ巡視シ、本年五月帰任セリ。
    裵季周ハ、四年前、島監トナリタルモノニシテ、性質温良、少シク日本語ヲ解ス。又、前ハ茂洞人、島監タリシモ、或ル事情ノタメ人民ヨリ悪シミヲ受ケ、遂ニ殴殺セラレタリト云フ。

    六 交通   近来、軍船ノ来リシコトナク、又、汽船ノ便ナク、朝鮮船ハ、時々、竹辺附近ヨリ来往スルコトアリ。
    本邦人ハ、各組ニ百石乃至二百石積ノ和船ヲ有シ、多キ時ハ、一ケ年ニ三回ノ往復ヲナスコトアリ。大抵、春時ハ三月頃来リ、直チニコレヲ陸揚ゲシ置キ、五月頃出帆シ、八月頃来リ九月頃出帆スルヲ常トスト。

    七 本邦人ノ来歴   本島ニ現住スル本邦人ハ、多クハ昨年三月以降、渡来シタルモノニシテ、四五年間本島ニ在留セルモノ極メテ僅少ナリ。而シテ彼等ハ、元ト船乗リ業トセルモノニアラザレバ、一攫千金の●利ヲ博サントスルモノ、投機者輩ラ多シトス。而シテ島根県最モ多く、間々、鳥取、若クハ、大分付近ヨリ来ルモノアリ。

    八 本邦人ノ生活  彼等の家屋、納屋ノ如キモノニシテ、糧食品ノ主ナルモノハ、和船ニヨリテ輸入ルモノニシテ、平時ハ不足ヲ感ジルコトナキモ、海上不穏等ノタメ、和船ノ沈没等アリシタメ、大ニ欠乏ニ苦シミタルコトアリト云フ。而シテ、是等和船ハ、大概、伯耆・堺、石見国・濱田ヨリ来ルモノニシテ、果シテ密輸出ヲナスモノタルヤ、或ハ他ニ目的地ヲ詐リ、輸出シ来ルモノヤ、知ル能ハズ。

    九 本邦人ノ職業 
    島内ノ樹木ヲ伐採シ、和船ニヨリテ之ヲ本邦ニ輸出シ、其ノ多クハ、敦賀・博多・馬関等ニ之ヲ揚陸ス。其樹木ハ、槻及松ニシテ、槻ハ現今、其最大ナルモノ長サ七尺、幅三尺七八分ナルモノアリ。勿論之等ハ海岸ニ於テ得ル能ハズ。松ハ朝鮮人ニ販売スルモノノミニテ、雑用ニ供スト云フ。大豆ヲ買収シ、之ヲ本邦ニ輸出ス。蓋シ、本島産出額ノ大半ハ、本邦人ノ手ヲ経過スルモノナリ。
    樹ヨリ●(とりもち)ヲ製造ス。現ニ南陽洞ニアリテモ、之を製造シアルヲ見タリ。而シテコノ樹木ハスデニ伐材ヲ尽クシ、今後之ヲ製造シウル見込ナシト云フ。
    雑貨・金巾・麻布等を朝鮮人ニ販売ス。

    以上ノ職業ニ関シ、彼ラハ曰ク、初メ朝鮮人ハ濫リニ樹木ヲ焼キ、畑地ヲ作ルヲ常トス。故ニ本邦人ハ、徒ニコレ等ノ樹木ヲ焼却セシヨリ、之ヲ伐材スルノ利ヲ説キ、朝鮮人ト共謀シテ之ニ着手シタルモノナルモ、后、遂ニ乱伐ヲ企ツルニ至リタルナリ。而シテ現今ハ、本邦人・島監協議シ、樹木ヲ伐採シ、大豆ヲ買収スルコト、皆、見積、利益金ノ百分ノ二ヲ税金トシテ前納シ(昨年マデハ百分ノ五ナリシト云フ)、之ヲ行ウト。又、本邦人ト朝鮮人トノ間ハ、近来絶テ争闘等ノコトナク、極メテ円満ナリ。又、彼ラハ、雑貨、其他、米ナドヲ得ルノ便アルヲ以テ、本邦人ノ在留スルヲ喜ブ如シト。
    本邦人ノ関係ハ、数多ノ組ニ分カレ、各組ニ組長ヲ有ス。各組長ハ、互ニ連絡シテ規約ヲ設ケ、以テ競争・軋轢ノ弊ヲ防ギ、之亦、円満ナリト。

    右ノ通リ
    明治三十二年九月二十七日      
    海軍中尉  古川(金へんに心)三郎

    摩耶艦長 海軍中佐 松本有信殿

    ReplyDelete
  17. Anonymous26/9/08 02:20

    さっそく訂正です。

    最初の「周囲15里」は、pacifistさんが読まれたように、13里が正しいようです。また「里」も口へんは無いようにも見えます。
    そうすると日本の里で、×4で52キロメートルですね。

    それから四の「清水」は「淡水」のようです。

    ReplyDelete
  18. matsu様

    前の島監は殴り殺されていたんですね。確かに殴殺と書いてあるように見えます。(英文では追放されたと書きましたが・・・)

    ReplyDelete
  19. pacifistさん
    matsuさん

    お二人とも、長文の書き起こしをありがとうございます。お疲れさまです。貴重な文献の数々、当時の状況を知る上で、大変有用なものです。とりあえず、資料として日本語で投稿しておきましょうか?

    それにしても、大韓帝国がロシアに鬱陵島の木材伐採権を売り渡してしまったものの、現地の人々にとっては、島監に税金を払って木材を輸出し始めたり、島民から大豆などを買い上げて輸出し、生活必需品を日本から持ち込んで売っていた日本人と持ちつ持たれつの関係が成り立っており、大韓帝国が憂慮していたような勝手に伐採して密輸していたのではなかったことから、外務省としては強制退去させ無かったのでしょうか?

    それにしても、matsuさんの仰るように、当時のロシアの事情をもっと詳しく知りたいものです。

    ReplyDelete
  20. Kaneganese様

    > とりあえず、資料として日本語で投稿しておきましょうか?

    ありがとうございます。お手を煩わせて申し訳ありませんが、よろしくお願い申し上げます。

    私としては当時の欝陵島が日本人と韓国人の平和な共存地だった(決して侵略者としての日本人ではなかった)という記述が嬉しいところです。
    顎鬚蛙氏の言うような日本の侵略の一環として竹島も取られたという論理は通用しないですよね。

    ReplyDelete
  21. Anonymous26/9/08 21:28

    外務省外交史料館に「鬱陵島に於ける伐木関係雑件」(外務省記録3-5-3-2)
    という記録文書があるのですが、なんと、この中に、摩耶報告と高雄書記生の報告が並んでありました。昔コピーしたものですが、改めて見直して驚きました。こちらの摩耶報告はpacifistさんの紹介していただいた海軍の史料よりも、やや字が読みやすく、またポストされた写真からは読み取れなかった文字も読むことができましたので、改訂版として出しておきます。

    こちらの摩耶報告には、海軍大臣・山本権兵衛から、外務大臣・青木周蔵あてという前書きがあり、「摩耶艦長・松本有信」の名前での報告となっています。古川海軍中尉の名前はなくなっていますが、彼の報告が、そのまま艦長名での海軍大臣への報告となり、海軍大臣から外務省に報告されたものが、外交史料館に残ったものと思われます。

    句読点、濁点を加えています。また一部漢字を、現行漢字に変えています。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    報告
    九月二十五日、視察ノ命ヲ受ケ、鬱陵島南陽洞ニ上陸ス。同地ニハ、組長トモ称スベキモノハ、島根県人天野源蔵外一名アリ。就中、天野ハ五年前ニ来島シ、内部ノ事情ニ通ズト聞ク。由テ同人ニ就キ聞知シ得タル處、大要左ノ如シ。

    鬱陵島
    一 広襄及人口 本島ハ周囲一三里アリト称スト難ドモ、実際較之ヨリ小ニシテ、島内峻山屹立シ、海岸ハ●(陸のへんに徒のつくり)岸ニシテ、殆ンド平地ト称スベキモノナク、處處ニ少許ノ砂浜ノ存スルアリテ、波穏ナルトキハ、端艇ヲ着岸スルコトヲ得ベシ。
    本島ニアル朝鮮人ハ、戸数五百、人口二千内外アリト難ドモ、彼等ハ各其開墾セル畑地ノ附近ニ住スルヲ以テ、家屋ハ谷間、若シクハ山腹ニ於テ、各所ニ散在シ、其中、較較、村落ノ形ヲナスモノ、八個アリ。而シテ、現今本島ニ在留スル本邦人ハ、老若男女相合シテ百名内外ニシテ、本年五六月頃マデハ、百五十名内外アリシト云フ。是等ノ本邦人ハ、前記ノ部落内ニ割居ス。其名称人数等、大約左ノ如シ。

    村落名称 位置 戸数 人数
    南陽洞  南部 四 七
    通亀尾  同  三 九
    東洞   東部 一五 三十
    茂洞   同  二 三
    竹岩   北部 一 三
    錐山   同  一 四
    玄浦   同  一(大ナルモノ) 二十
    昌洞   西部 二 八

    二 気候及風土
    本島ハ、寒暑共ニ酷烈ナラズ。毎年、四月ヨリ九月マデ偏南風多ク、十月ヨリ三月マデ偏北風多ク、殊ニ十一月頃ハ北西風強ク、降雪ハ十月下旬ヨリ三月下旬ニ至リ、山上ニハ五月尚ホ、積雪ノ存スルアリト。
    土地、極メテ健康ニシテ、天然痘ノ外、疫病等ノアリシコトナシ。彼ラハ之ヲ水質ノ良好ナルニ帰スト云フ。

    三 産出物 
    朝鮮人ハ専ラ農ヲ業トシ、大豆ヲ主トシ、麦・粟・稗・馬鈴薯等、之ニ次グ。而シテ大豆ノ収穫ハ、毎年平均三四千石アリト云フ。他ノ穀類ハ、彼ラノ常食トスル所ニシテ、平年ニアリテハ、不足ヲ告グルコトナク、又、或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
    島内、殆ンド鳥獣ノ棲息スルナク、稀ニ山猫、鳩等ヲ見ルニ過ギズト云フ。

    四 糧食及清水 
    糧食ハ、各村落、至ル處、只少量ノ鶏、及鶏卵ヲ得ベク、其価、亦廉ナリ。
    淡水ハ、各所ニ河流ノ存スルアリ。水質善良ニシテ、旱魃ノ患ナシト云フ。現ニ、南陽洞ニ於テモ一清流アリ。且、清泉ノ湧出スルヲ見タリ。

    五 島監 ハ、即チ島司ニシテ、裵季周ナルモノ其職ヲ奉ジ、本島ヲ管轄ス。現今、東洞ニ住ス。同人ハ昨年五月、本邦ニ至リ、敦賀・松江等ヲ巡視シ、本年五月帰任セリ。
    裵季周ハ、四年前、島監トナリタルモノニシテ、性質温良、少シク日本語ヲ解ス。以前ハ茂洞ノ人、島監タリシモ、或ル事情ノ為メ人民ヨリ悪ミヲ受ケ、遂ニ殴殺セラレタリト云フ。

    六 交通  近来、軍船ノ来リシコトナク、又、汽船ノ便ナク、朝鮮船ハ、時々、竹辺附近ヨリ来往スルコトアリ。
    本邦人ハ、各組ニ百石乃至二百石積ノ和船ヲ有シ、多キ時ハ、一ケ年ニ三回ノ往復ヲナスコトアリ。大抵、春時ハ三月頃来リ、直チニコレヲ陸揚ナシ置キ、五月頃出帆シ、八月頃来リ、九月頃出帆スルヲ常トスト。

    七 本邦人ノ来歴   本島ニ現住スル本邦人ハ、多クハ昨年三月以降、渡来シタルモノニシテ、四五年間本島ニ在留セルモノ、極メテ僅少ナリ。而シテ彼等ハ、元ト船乗ヲ業トセルモノニアラザレバ、一攫千金の●利ヲ博サントスルノ投機者輩ヲ多シトス。而シテ島根県人最モ多く、間々、鳥取、若クハ、大分附近ヨリ来ルモノアリ。

    八 本邦人ノ生活  彼等の家屋、納屋ノ如キモノニシテ、糧食品ノ主ナルモノハ、和船ニヨリテ輸入ルモノニシテ、平時ハ不足ヲ感ズルコトナキモ、海上不穏等ノ為メ、和船ノ沈没等アリシ為メ、大ニ欠乏ニ苦シミタルコトアリト云フ。而シテ、是等和船ハ、大抵、伯耆堺、石見国濱田ヨリ来ルモノニシテ、果シテ密輸出ヲナスモノタルヤ、或ハ他ニ目的地ヲ詐リ、輸出シ来ルモノタルヤ、知ル能ハズ。

    九 本邦人ノ職業 
    島内ノ樹木ヲ採伐シ、和船ニヨリテ之ヲ本邦ニ輸出シ、其多クハ、敦賀・博多・馬関等ニ之ヲ揚陸ス。其樹木ハ、槻及松ノミニシテ、槻ハ現今、其最大ナルモノ長サ七尺、巾三尺、厚七八寸ナルモノアリ。勿論之等ハ海岸ニ於テ得ル能ハズ。松ハ朝鮮人ニ販売スルモノノミニシテ、雑用ニ供スト云フ。
    大豆ヲ買収シ、之ヲ本邦ニ輸出ス。蓋シ、本島産出額ノ大半ハ、本邦人ノ手ヲ経過スルモノナリ。
    ●樹ヨリ●(この2字同じ。黍へんに璃のつくり=とりもち)ヲ製造ス。現ニ南陽洞ニアリテモ、之を製造シアルヲ見タリ。而シテ、此樹木ハ、已ニ採伐ヲ尽シ、今後之ヲ製造シ得ル見込ナシト云フ。
    雑貨・金巾・麻布等を朝鮮人ニ販売ス。

    以上ノ職業ニ関シ、彼等ハ曰ク、初メ朝鮮人ハ濫ニ樹木ヲ焼キ、畑地ヲ作ルヲ常トス。故ニ本邦人ハ、徒ラニ是等ノ樹木ヲ焼却センヨリ、之ヲ採伐スルノ利アルヲ説キ、朝鮮人ト共謀シテ、之ニ着手シタルモノナルモ、後、遂ニ乱伐ヲ企ツルニ至リタルナリ。而シテ、現今ハ、本邦人、島監ト協議シ、樹木ヲ採伐シ大豆ヲ買収スル等、皆、見積利益金ノ百分ノ二ヲ税金トシテ前納シ(昨年迄ハ百分ノ五ナリシト云フ)、之ヲ行フト。又、本邦人ト朝鮮人トノ間ハ、近来、絶テ争闘等ノコトナク、極メテ円滑ナリ。又、彼等ハ、雑貨、其他、米等ヲ得ルノ便アルヲ以テ、本邦人ノ在留スルヲ喜ブ如シト。
    本邦人間ノ関係ハ、数多ノ組ニ分レ、各組ニ組長ヲ有ス。各組長ハ、互ニ連絡シテ規約ヲ設ケ、以テ競争・軋轢ノ弊ヲ防ギ、之亦、円滑ナリト。

    (以下は外務省史料には、なし)
    右ノ通リ
    明治三十二年九月二十七日      
    海軍中尉  古川(金へんに心)三郎

    摩耶艦長 海軍中佐 松本有信殿

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ここで、やはり注意をひくのは、

    三 産出物
    朝鮮人ハ専ラ農ヲ業トシ、大豆ヲ主トシ、麦・粟・稗・馬鈴薯等、之ニ次グ。而シテ大豆ノ収穫ハ、毎年平均三四千石アリト云フ。他ノ穀類ハ、彼ラノ常食トスル所ニシテ、平年ニアリテハ、不足ヲ告グルコトナク、又、或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
    であり、とりわけ、その最後の部分、
    或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
    という部分ですが、

    明らかに「小舟」とあり、「僅少ノ漁猟」のために一日行程の竹島=独島まで出かけていたとは思えません。

    5年前に来島したという天野源蔵の証言ですので、それなりに信頼できると思われます。

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