竹島問題の歴史

27.9.08

1899 - Oct 3 - 高雄謙三「鬱陵島出張復命書」

明治32年(1899年)、元山領事館の外務省書記生、高雄謙三は、駐韓日本特命全権公使、林権助の命を受け、軍艦「摩耶」に乗って、鬱陵島に出張します。以下はその報告です。高雄書記生は、悪天候に悩まされ、9月25日、ようやく7時間の鬱陵島滞在をもとに、この報告を作成しました。

本報告は、以前に紹介した「皇城新聞1899年9月23日」と同じ時期の、鬱陵島の様子を伝える記録として、大変興味深いものがあります。1900年の勅令41号が出る直前の時期であり、竹島問題を考える時も重要な一次史料と考えられ、皆で検討する為に、以下に掲載します。

なおこの報告は、GTOMRさんが紹介してくださったNational Institute of Korean Historyのサイトに掲載されている韓国語に翻訳した高雄の復命書(報告書)とその附属文書 を、pacifistさんが日本語に機械翻訳し、さらに、matsuさんが国会図書館にある 『駐韓日本公使館記録』と照合しながら書き起こしたものです。これはあくまで韓国側サイトからの「翻訳」であり、高雄報告の原文ではありません。原文は漢字カタカナ混じりで、『駐韓日本公使館記録』13 (515 p) 各領事館往復(17)公第二八号で見ることができます。内容に対するご意見等をお待ちしています。

高雄書記生 復命書

(原文は漢字片仮名交じり)

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高雄書記生 復命書

鬱陵島の樹木伐採権は、以前に韓国政府から露国人に譲与したものであるが、本邦人が濫りに盗伐するものがあるとのことで、帝国 軍艦「摩耶」に便乗して同島へ行き、調査した上で、伐木を禁止する命令を伝達し、また、盗伐者をそのまま軍艦に乗せて連れ帰るか、あるいは今後を戒しめた 後、直ちに退去させるようにするか、またもし直ちに退去することができない事情があったら、期限を決めて退去するよう命じよ、という旨の、別紙 第1, 第2号(本年 8月21日及び22日付)の京城駐在・林(権助)特命全権公使の訓令を受けました。
そこで、巡査部長・管谷新平を伴い、同月26日 午前6時、「摩耶」艦に便乗して目的地に向かいました。ところが、いくばくもなくして天候不良となり、しばらく江原道の長箭彎で難を避け、翌27日午前 7時、雨風を冒して出発しましたが、風浪激しく航行不能となり、また近湾に引き返そうにもそれもならず、28日も同じ状況で、目的地に到逹する希望がな かったため、仕方なく軍艦をひとまず釜山に寄港することに決め、29日午後4時、釜山に到着しました。
直ちにこの事実、および 同艦が天気の好転を待ってまた鬱陵島に向かうまで滞在すべきか否かを第3号の通り公使に伺ったところ、30日になって第4号の通り、何らかの回訓があるま で釜山に滞在せよという命令を受けました。さらに9月2日、第5号の通り、 摩耶艦がまた鬱陵島に向けて出発するまで滞在しながら任務を遂行せよ、という内容の訓令を受けました。
釜山滞在中に、かつて鬱陵島に行ったことの ある釜山税関長「ラポード」(韓国語訳文は「ラポール」)の説明を聞いたところ、現在[鬱陵島に]居住の日本人は、男女合わせて200余人に達すると言い ました。これが事実なら、到底、軍艦に全員を乗せることが不可能なばかりでなく、特に鬱陵島は停泊する場所がないため、少しの時間しか沿岸に遊泊できない とのことであり、退去を命じても、軍艦の遊泊時間内に退去するのは、到底不可能のようでした。そこで、執行が終わるまで止まりながら、また軍艦が回航して 来る時まで待つべきか云々という第6号の内容を9月2日に上申しました。
同月 6日に至り、第7号の通り、布逹文を持って上陸し、主な日本人を集めて、これを一般に布逹し、場合によっては 2、3日間その島に滞在して、地方官たちと協動し、諸事を斡旋した後、また軍艦が回航するのを待って撤収するか、など、いずれにしても実地の状況を見なが ら適当な措置を取れ、という内容の回電に接しました。
そこで、この訓令を奉じ、同月18日、鬱陵島に向けて出発したところ、再び悪天候により、慶尚道の蔚山で風浪を避けること5日間、24日午前5時に出発し、25日午前5時、ようやく鬱陵島に到着しました。
と ころが、この島には、前述の如く停泊場もなく、特に暴風後のこととて波が高く、自由に上陸することができず、島を一周の後、やっと東南に面した海岸に上陸 地を見つけることができました。ちょうど、風浪が少し鎮まったので、艦長に 2、3日間停泊しながら待つか、あるいは数日後に再び回航することを要求しましたが、艦長は再び風浪が起こるようになれば難を避ける場所もなく、行ってま た回航して来ることも容易でないだけでなく、もう大和艦との交代の期間も切迫したので、回航することの可否も予測しにくいから、今から上陸すれば、7時間 遊泊して帰艦を待つから、できるだけ早く調査を終えて帰って来るようにと言われました。そこで仕方なくそのように決め、7時間の待泊を依頼して、辛うじて 南陽洞という所に上陸しました。
その村の谷間には、日本人の家屋が4軒あり、8人が居住していました。その中の主なものは、島根県 隠岐国 西郷中町 138番地、平民 畑本吉蔵と、同 伯耆国 東伯村 95番地、平民 天野源蔵の二人で、自ら頭取ととなえ、数名を使役して伐木していると言いました。そこで、この二人に、各所に散在している者の地名・人員・戸数などを調査 したところ、次のようでした。

東海岸
東洞 18軒 25名  茂洞 2軒 3名

北海岸
竹岩          1軒 3名    
昌洞(韓国語訳は寧洞) 2軒 9名
(金へんに冗)洞    1軒 4名    
玄洞          1軒 20名
通亀尾 1軒 9名 

以上 79名の外に、女子供を合わせて、現在人員は100名であるが、もっとも、去年から今年春までは百五六十名に達したが、今年 3月に引き上げたと言うことです。そして、この 79名中、畑本・天野の両名を除いた主だったものは12名で、その姓名は次の通りです。

島根県          田中 政春
同             福葉 勝太郎
隠岐国知天郡岡村 脇田 正太郎
島根県松江市     山本 克衛
同            西濱 福太郎
島根県濱町      田波 音次郎
大分県豊後西伯郡 仲西 秋太郎
同             石井 利三郎
島根県知天郡     由井 留次郎
隠岐国浦郷村     備前屋 某
同            門 万太郎
隠岐国安東町     深田 甚太郎

こ れらの12名は、7ヶ所に散在しているため、元籍などを調査することができなかっただけでなく、呼び集めようとしても、軍艦の停泊時間が短いため、仕方な く頭取である畑本吉蔵・天野源蔵の両名に対し、樹木を盗伐してはいけない理由を諭告した後、すみやかに一同協議の上、退去すべき旨を申し聞かせました。
すると彼らは、今年 7月に来るはずの船がいまだに来なかったが、近日中には来るはずなので、その船で退去することを、明日すなわち 26日に集合させて命令を伝達すると答えました。
そこで、第7号電報訓令の趣旨によって、第8号の布逹文を数通作成し、二人に与えて、各所に散在する主な者に交付して、必ず 11月30日まで退去しなければならないという旨を命じ、第9号の通り、在住者一同を代表して、退去するという受書を提出させました。
このようにして帰艦し、その日の午後に出帆して、26日午後5時、釜山着。直ちに第10号の通り、概略的な電報をもって公使に復命しました。
そ もそも、この島に在住する本邦人が樹木を採伐するに当たっては、この島の 都監 すなわち 島守と言うべき韓国官吏(現在この島の都監は、裵季周という者です)の公許を得て、樹木の大きさによって相当の伐木料を納めて採伐するとのことであり、我 が国の人々を目して、直ちに盗伐者と言うのは当を得たものではなく、むしろ売買といえば正しいでしょう。
そして、今これら我が国の人々に退去を命 じても、この島の都監という者に売木厳禁の訓令を出さなかったら、いくばくもなくして、再び今日のように我が国の人が移住しないと予測することはできない でしょう。現在、我が国の人々がこの島に移住するようになったのは、ほとんど5年前からの事で、いずれも家を建てて土着の生活をしており、もっぱら 槻・松を伐採し、またはトリモチを製造し、かたわら鬱陵島でできる大豆を輸出することをもって職業としています。
この島には水田が皆無で、 土民は大豆・粟・稗の類をもって主食としています。
しかるに、本邦人の渡航以来、米穀、金巾、雑貨類を輸入するため、土民は物品の売買、または交換などに非常に便利を感じ、都監をはじめ、一般の土民に至るまで、我邦人の増加を希望し、お互いの関係は非常に平穏で、紛糾をみることはなかったと言います。
輸 入貨物は、主に 伯耆の国の境(さかい) または濱田港で、100石 ないし200石を 和船に積んで、年に 3回、すなわち 1回は 3月に, 2回は 5月に, 3回は 7月に来ると言います。そして採伐した樹木・大豆などの輸出品は、敦賀・馬関・博多に荷上げすると言います。
この島で生産される大豆は、毎年四五千石に達すると言います。大豆に対しては都監が取り立てる輸出税額が、100石に対して百分の2の割合で課徴されると言います。
現在、土民の人口は 2,000余人で、戸数は500戸であり, 農夫と漁夫がそれぞれ半数で, 船舶を建造する木工があります。水は、いたる所の谷に清水があり、飲料に適すと言います。
こ の島は、元山を距てること185(さんずいに里)、竹辺から73(さんずいに里), 釜山から175(さんずいに里) にある一島嶼であり、東西が少し長い三角形をしています。周りが 18(さんずいに里)で、その位置は北緯37度に起こって、37度 33分に至り, 東経139度 49分に起こり、139度 57分に至ります。
また周囲沿岸の海底は岩石で、深さ20尋ないし30尋以上に達し、投錨する所がない 小さな島です。地勢は全体的に高い山脈で、5,000フィートに達する高い峰が屹立し、 いたるところ山と山が相対し、切り立ったような絶壁で、青い森が鬱蒼と岩の上に垂れていて、景観が非常に美しいです。 
以上のように復命します。
明治32年(1899年)10月 3日
                            外務書記生 高雄謙三
(在元山) 領事 武藤精次郎 殿


付属書
第1号 (1899年) 8月 21日 午後 6時受付    林
[駐韓公使と 高雄謙三 の間に 授受した 鬱陵島問題 公信 諸件]

鬱 陵島の樹木伐採権は、先に韓国政府からロシア人に譲与したが、日本人が盗伐しているので、これを禁止するよう、日本駐在ロシア公使、及び韓国政府から依頼 があった。そこで 貴領事館 高雄書記生に鬱陵島出張を命ずる。同書記生はこの島にいる日本人を調査して、伐木を禁ずる命令を伝達すること。出張は 「摩耶」艦長に依頼して便乗を要求すること。艦に便乗して鬱陵島を往復することは摩耶艦長に依頼する。本日 摩耶の滞留を保留したことは誤りなので取り消す。出張費は立替後、本省に請求のこと。

第2号  8月 22日午後受付  林
鬱陵島における盗伐者は、軍艦に便乗させて連れ帰るか、または厳重に今後を戒しめて直ちにこの島から立ち去らせるようにすること。もし直ちに立ち去ることができない事情があれば、日付を決めて退去を命ずること。

第3号 明治32年(1899年) 8月 29日
去る 26日出航、鬱陵島に向かったが、悪天候により目的地に到着することができず、釜山に廻航。只今着。 摩耶艦は再び天気を待ちながら、鬱陵島に向かうまで、こちら(釜山)で滞在するか指示を乞う。      高雄謙三
林 全権公使 殿

第4号 明治32年(1899年) 8月 30日 訓電
次の回訓があるまでその地に滞在のこと。

第5号 明治32年(1899年) 9月 2日 訓電
高雄書記生は 摩耶艦が出発するまで釜山に滞在の上、再び鬱陵島に出発してその任務を果すこと。

第6号
今 度、鬱陵島にいる我が国の人々の樹木伐採を禁止するために、軍艦 摩耶に便乗し、この島に出張せよという内容の訓電を受けて、先月 26日元山を出発して鬱陵島に向かいましたが、悪天候によって到着することができず、29日釜山に寄港したことは、もう電報(電話?)で上申して次の命令 を待っています。
ところで、先般この島へ行ったことがある、当地釜山港税関長「ラポート」(韓国語訳はラポール)氏の説明を聞けば、この島に現在 移住している日本人は、男女合わせて、およそ200余人に達すると言います。 これが事実とすれば、盗伐者をすべて軍艦に便乗させることは不可能なので、電訓されたた趣旨に基づき、厳重に訓戒してなるべく迅速な時日内に退去すること を言い付け、また便船が無いか、あるいは直ちに退去することができない事情がある時には、退去日時を決めて退去を命ずるようにします。ただこの島には停泊 場がないので、天候が良い時にも、やっと 4~5時間しかに停泊できないとのことなので、その時間内に果して退去することが可能かどうかについては、どうしても予見が立たないのみならず、もしそう いう時には、執行が完了するまでこの島に滞在しながら、軍艦の回航を待つべきか、電報で訓示してください。
この点上申します. 敬具.    明治32年(1899年)9月 2日
在元山 外務書記生 高雄謙三
在京城 特命全権公使 林勧助 殿

第7号 明治32年(1899年) 9月 6日 訓電
今月2日付 貴翰を受けた。貴官は、あらかじめ 布逹文(盗伐禁止と、定められた期限内の撤収命令など)をしたためて、鬱陵島に上陸後、主な日本人を集めてこの布逹文を一般に布逹せよ。
これに関して、場合によっては、 2~3日間、その島に滞在しながら、朝鮮地方官とも共同で、すべての事を取りはからった後、再び軍艦が回航して来るのを待って引き上げるのが正しいだろう考えられるが、いずれにしても 実地状況によって適当に措置すること.

第8号
近来、わが日本人たちが鬱陵島に渡って、私的に樹木を濫伐して本国に輸送しているから、韓国政府でこれらの行為を厳禁させてくれるよう、わが公使に問い合わせをして来たので、本官は今度、我が公使の命を受け島へ来た。考えて見れば、わが日本人が、この島に泊まりながら、樹木を盗伐して密輸出を企てることは非常に不届きな事だから、これからは決して盗伐してはいけないことはもちろん、この島にいる日本人は、皆この島を退去すること。 以上厳に示逹する.
明治32年(1899年) 9月 25日
鬱陵島出張 在元山領事館 外務書記生 高雄謙三

第9号
御受書
このたび、私たちはここ鬱陵島で、樹木濫伐とともに、こちらに在住することを厳禁するという 布逹文の主旨を熟知すると同時に、下命されたとおり明治32年(1899年)11月 30日までに退去いたします。この点、一同を代表して、誓約いたします。
明治32年(1899年) 9月 25日
島根県 隠岐国 西郷 中町 138番地 当時鬱陵島在 畑本吉蔵
鳥取根東伯郡附村 当時鬱陵島在 天野源蔵
在元山領事館 外務書記生 高雄謙三 殿

第10号
本官 今帰任しました. 鬱陵島にいる伐木者は、およそ100人の由ですが、あわせて8ヶ所に散在しています。この島は高い山脈で形成されていて、陸路通行が困難だけでなく、海路も停泊場がなく、それに加えて風浪が高く、一周ののち、ようやく南側の海に接している海岸に上陸しました。主だったもの二名につき、事実を調査後、訓令を伝達し、今年 11月 30日までに退去することを命じ、在住者 一同の代表として受書をとっておきました。 領事館帰館後に、詳細に郵便で上申します。 9月 26日

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