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1899 Report of Ulleungdo by Japanese warship Maya
報告
九月二十五日、視察ノ命ヲ受ケ、鬱陵島南陽洞ニ上陸ス。同地ニハ、組長トモ称スベキモノハ、島根県人天野源蔵外一名アリ。就中、天野ハ五年前ニ来島シ、内部事情ニ通ズト聞ク。由テ同人ニ就キ聞知シ得タル処、大要左ノ如シ。
鬱陵島
一 廣袤及人口 本島ハ、周囲一三里アリト称ストイエドモ、実際較之ヨリ小ニシテ、島内、峻山屹立シテ、海岸ハ陡岸ニシテ、殆ンド平地ト称スベキモノナク、處處ニ、少許ノ砂浜ノ存スルアリテ、波穏カナルトキハ、端艇ヲ着岸スルコトヲ得ベシ。
本
島ニアル朝鮮人ハ、戸数五百、人口二千内外アリト難ドモ、彼ラハ各自開墾セル畑地ノ付近ニ住スルヲ以テ、家屋ハ谷間、若シクハ山腹ニ於テ、各所ニ散在シ、其中、較較、村落ノ形ヲナスモノ、八個アリ。而シテ、現今、本島ニ在留スル本邦人ハ、老若男女相合シテ百名内外ニシテ、本年五六月頃マデハ、百五十名内外アリシト云フ。是等ノ本邦人ハ、前記ノ部落内ニ割居ス。其名称・人数等、大約、左ノ如シ。
村落名称 位置 戸数 人数
南陽洞 南部 四 七
通亀尾 同 三 九
東洞 東部 一五 三十
茂洞 同 二 三
竹岩 北部 一 三
錐山 同 一 四
玄浦 同 一(大ナルコト) 二十
昌洞 西部 二 八
二 気候及風土
本島ハ寒暑共ニ酷烈ナラズ、毎年、四月ヨリ九月マデ偏南風多ク、十月ヨリ三月マデ偏北風多ク、殊ニ十一月頃ハ北西風強ク、降雪ハ十月下旬ヨリ三月下旬ニ至リ、山上ニハ五月尚ホ、積雪ノ存スルアリト。
土地、極メテ健康ニシテ、天然痘ノ外疫病等ノアリシコトナシ。
彼ラハ之ヲ水質ノ良好ナルニ帰スト云フ。
三 産出物
朝鮮人ハ専ラ農ヲ業トシ、大豆ヲ主トシ、麦・粟・稗・馬鈴薯等、之ニ次グ。而シテ大豆ノ収穫ハ、毎年平均三四千石アリト云フ。
他ノ穀類ハ、彼ラノ常食トスル所ニシテ、平年ニアリテハ不足ヲ告グルコトナク、又、或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
島内、殆ンド鳥獣ノ棲息スルナク、稀ニ山猫・鳩等ヲ見ルニ過ギズト云フ。
四 糧食及淡水
糧食ハ、各村落、至ル所、只少量ノ鶏、及鶏卵ヲ得ベク、其価、又廉ナリ。
淡水ハ、各所ニ河流ノ存スルアリ。水質善良ニシテ、旱魃ノ患ナシト云フ。現ニ、南陽洞ニ於テモ一清流アリ。且、清泉ノ湧出スルヲ見タリ。
五 島監ハ、即チ島司ニシテ、裵季周ナルモノ其職ヲ奉ジ、本島ヲ管轄ス。現今、東洞ニ住ス。同人ハ昨年五月、本邦ニ至リ、敦賀・松江等ヲ巡視シ、本年五月帰任セリ。
裵季周ハ、四年前、島監トナリタルモノニシテ、性質温良、少シク日本語ヲ解ス。又、前ハ茂洞人、島監タリシモ、或ル事情ノタメ人民ヨリ悪シミヲ受ケ、遂ニ殴殺セラレタリト云フ。
六 交通 近来、軍船ノ来リシコトナク、又、汽船ノ便ナク、朝鮮船ハ、時々、竹辺附近ヨリ来往スルコトアリ。
本邦人ハ、各組ニ百石乃至二百石積ノ和船ヲ有シ、多キ時ハ、一ケ年ニ三回ノ往復ヲナスコトアリ。大抵、春時ハ三月頃来リ、直チニコレヲ陸揚ゲシ置キ、五月頃出帆シ、八月頃来リ九月頃出帆スルヲ常トスト。
七 本邦人ノ来歴 本島ニ現住スル本邦人ハ、多クハ昨年三月以降、渡来シタルモノニシテ、四五年間本島ニ在留セルモノ極メテ僅少ナリ。而シテ彼等ハ、元ト船乗リ業トセルモノニアラザレバ、一攫千金の奇利ヲ博サントスルモノ、投機者輩ラ多シトス。而シテ島根県最モ多く、間々、鳥取、若クハ、大分付近ヨリ来ルモノアリ。
八 本邦人ノ生活 彼等の家屋、納屋ノ如キモノニシテ、糧食品ノ主ナルモノハ、和船ニヨリテ輸入ルモノニシテ、平時ハ不足ヲ感ジルコトナキモ、海上不穏等ノタメ、和船ノ沈没等アリシタメ、大ニ欠乏ニ苦シミタルコトアリト云フ。而シテ、是等和船ハ、大概、伯耆・堺、石見国・濱田ヨリ来ルモノニシテ、果シテ密輸出ヲナスモノタルヤ、或ハ他ニ目的地ヲ詐リ、輸出シ来ルモノヤ、知ル能ハズ。
九 本邦人ノ職業 島内ノ樹木ヲ伐採シ、和船ニヨリテ之ヲ本邦ニ輸出シ、其ノ多クハ、敦賀・博多・馬関等ニ之ヲ揚陸ス。其樹木ハ、槻及松ニシテ、槻ハ現今、其最大ナルモノ長サ七尺、幅三尺七八分ナルモノアリ。勿論之等ハ海岸ニ於テ得ル能ハズ。松ハ朝鮮人ニ販売スルモノノミニテ、雑用ニ供スト云フ。大豆ヲ買収シ、之ヲ本邦ニ輸出ス。蓋シ、本島産出額ノ大半ハ、本邦人ノ手ヲ経過スルモノナリ。
樹ヨリ黐ヲ製造ス。現ニ南陽洞ニアリテモ、之を製造シアルヲ見タリ。而シテコノ樹木ハスデニ伐材ヲ尽クシ、今後之ヲ製造シウル見込ナシト云フ。
雑貨・金巾・麻布等を朝鮮人ニ販売ス。
以上ノ職業ニ関シ、彼ラハ曰ク、初メ朝鮮人ハ濫リニ樹木ヲ焼キ、畑地ヲ作ルヲ常トス。故ニ本邦人ハ、徒ニコレ等ノ樹木ヲ焼却セシヨリ、之ヲ伐材スルノ利ヲ説キ、朝鮮人ト共謀シテ之ニ着手シタルモノナルモ、后、遂ニ乱伐ヲ企ツルニ至リタルナリ。而シテ現今ハ、本邦人・島監協議シ、樹木ヲ伐採シ、大豆ヲ買収スルコト、皆、見積、利益金ノ百分ノ二ヲ税金トシテ前納シ(昨年マデハ百分ノ五ナリシト云フ)、之ヲ行ウト。又、本邦人ト朝鮮人トノ間ハ、近来絶テ争闘等ノコトナク、極メテ円滑ナリ。又、彼ラハ、雑貨、其他、米ナドヲ得ルノ便アルヲ以テ、本邦人ノ在留スルヲ喜ブ如シト。
本邦人ノ関係ハ、数多ノ組ニ分カレ、各組ニ組長ヲ有ス。各組長ハ、互ニ連絡シテ規約ヲ設ケ、以テ競争・軋轢ノ弊ヲ防ギ、之亦、円満ナリト。
右ノ通リ
明治三十二年九月二十七日
海軍中尉 古川鈊三郎
摩耶艦長 海軍中佐 松本有信殿
●字判読しました。
ReplyDelete廣袤(広袤=面積の意) 襄は誤読か
陡岸
奇利(思いがけない利益)
黐(もち)
小嶋日向守さん
ReplyDeleteありがとうございます。
みなさん、どうやってこの見えない文字を読むのか、本当に敬服します。
以下は、Saturday, September 20, 2008の記事にコメントしたものですが、
もういちど、コメントしておきたいと思います。
この報告で、注意をひくのは、
三 産出物
朝鮮人ハ専ラ農ヲ業トシ、大豆ヲ主トシ、麦・粟・稗・馬鈴薯等、之ニ次グ。而シテ大豆ノ収穫ハ、毎年平均三四千石アリト云フ。他ノ穀類ハ、彼ラノ常食トスル所ニシテ、平年ニアリテハ、不足ヲ告グルコトナク、又、或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ小舟ヲ有シ、僅少ノ漁猟ヲナスモノアリト云フ。
です。
とりわけ、その最後の
或ル村落ニアリテハ、二隻乃至数隻ノ「小舟」ヲ有シ、「僅少ノ漁猟ヲナス」モノアリト云フ。
という部分です。
明らかに「小舟」とあり、「僅少ノ漁猟ヲナス」ために、往復2日行程のかかる竹島=独島まで出かけていたとは思えません。
5年前に来島したという天野源蔵の証言ですので、それなりに信頼できると思われます。
1899年9月25日という、特定できる日時における欝陵島の記録として貴重だと思います。
小嶋日向守さん
ReplyDeleteいつもありがとうございます。さっそく修正しました。