The following is a description of Ulleungdo from a Japanese text entitled "日本民族の新發展 滿韓露領地誌." It was written by 岡部福藏 and published on August 11, 1905.
I cannot read the whole document, but I noticed that in the note section at the top of the second page the writer seems to have mentioned the fact that Takeshima (Liancourt Rocks) had been incorporated in February as part of the Oki Island district. I do not know who this writer was, but if he knew about the incorporation of Liancourt Rocks in August 1905, then maybe the incorporation was not as secret as Koreans would like people to believe.
Aside from the mention of Takeshima's incorporation, I do not know if there is anything particularly interesting about this document, but since I did not see it among the documents we have translated on this blog, I thought I would post it in case someone would like to translate it. (However, it seems like I have seen this somewhere before.)
The text below explain about Boussole Rock(Usando-Jukdo)
ReplyDeleteてっせみ島は臥達里の前洋にあり本邦人是を竹島と称す。周囲30丁余タブ女竹繁茂と雖ども飲料水乏しきをもって移住するものなし。
"Daetseom" (テツセミ島) is located offshore in front of Wadalli (臥達里), and Japanese residents call the island "Takeshima"(竹島). The circumference of the island is about thirty chou (三拾丁余). "Metake" bamboo(女竹) grows thick there, but since there is no drinking water, it is said that there are no people living on the island.
This text may be quoted from ;外務省通商局編纂 通商彙纂 1902
The next text below explain about Lianocurt Rocks
*竹島は明治38年2月に日本新領土となり隠岐島司の管下にXス
Takeshima become new terrorori of Japan Feb 1905 and under the administrative of Oki-island
I guess writer's just a confusion or misunderstand quote because 竹島(Usando-Jukdo/Boussole Rock) and 竹島(Liancourt Rocks) are same charactor.
Yes, you already saw this text at occidentalism, May2007.
Gerry, GTOMR,
ReplyDeleteI totally forgot about "タブ" just before the "Metake" bamboo(女竹) in this text. Matsu once told me that this "タブ" is not "tab", but "タブの木(Machilus thunbergii)". Sorry about that. Thanks for reminding me of this.
Okabe apparently mistook this Jukdo (てっせみ=Daesom) in the sentence is the island Japanese call Takeshima, and it is the same Takeshima which Japan incorporated into Shimane in 1905. Next year, in 1906, Ulleungdo island head Shim also made same mistake that he considered that Japanese incorporated Jukdo, which Korean write as "竹島" (Takeshima in Japanese) when he heard the news from the tour group from Shimane and surprised to hear that. The confusion occured since Japanese and Korean used same Chinese character for the diffeent island. Japanese 竹島/Takeshima = Liancourt Rocks. Korean 竹島/Takeshima = Jukdo (= Usando).
ReplyDelete>Shim also made same mistake that ・・・・
ReplyDeleteこれはKaneganeseさんの意見なのですか、それとも岡部さんの意見なのですか?
沈興沢は「本郡所属独島は外洋百余里にあり・・・・」と報告しているので、チュクトと独島を取り違えたとは思えないのですが。
chaamieyさん
ReplyDelete”apparently mistook ”と書いて、当然私の個人的な意見を述べた事を表したつもりでした。失礼しました。おそらく、岡部は現竹島の位置を知らず、竹嶼が竹島と呼ばれる事から取り違えたのだと思います。
沈興沢についても同じことだと思っています。”外洋百余里”と言うのは、慣用句で”遠くにある”と言った意味であり、かれもまた実際に現竹島=独島がどこにあるのか、知らなかったわけですので、これまたどこにあるのかよく分からない于山島(=竹嶼=竹島=独島)と混同して自国の島(=本当は竹嶼=于山島)だと報告したのだと思います。当時の鬱陵島の韓国人は現竹島の存在を知っており、独島と言う名称を使っていたわけですが、官吏である沈興沢自身は独島がどこにあるどういう島かと言う知識は無く、実際の竹嶼と言う島と混同、と言うより、単なる名称の混同だったのでしょう。当時の韓国の役人にとって、こうした小さな岩礁は興味の範囲外だったのではないでしょうか。だとすれば、沈興沢が竹島石島という勅令にある名称をどちらも使用しないで報告したことと合致すると思います。
まあ、韓国側の調査報告が発見されない限り、憶測の範囲を逸脱しない、解釈の違いなので、ご意見の相違はあろうかと思いますが、自分としてはこのような考え方をしています。
そうですか、そうであれば、確かに意見の相違ですね。
ReplyDelete私は、沈興沢は日本人官吏たちと会って話しているので、主たる話題の対象の間違いは生じなかったろうと思っています。
神西部長ら一行の沈興沢訪問は欝陵島到着の翌朝3月28日午前10時で、天候の悪化もあり欝陵島をその日のうちに出発しています。(3月30日隠岐帰着)
ReplyDelete下の表現を見ても表敬訪問の域を出ておらず、「竹島」について詳しく話をしたという形跡は見られません。
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神西部長は欝陵島に到り郡守を訪ふて
「余は大日本帝国島根県の勧業に従事する役員なり
貴島と我が管轄に係る竹島は接近せり 又貴島に我が邦人の滞留するもの多し 万事につき懇情を望む
又貴島を視察するの予定なれば
何か進呈すべきものを携帯すべかりしを
今回避難の為め偶然にも貴島せし訳にして何も増訂するものなし
幸に茲に(ここに)竹島に於て海驢を獲たれば贈呈せんとす受納あらば幸甚」と、
郡守答へて曰く
「然り滞留の貴邦人に就いては余に於て充分保護すべし
又海驢の贈呈を受く 若し海驢にして味美なりせば贈与を望む」
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むしろ沈興沢がここで聞き流さずに詳細に問いただしていれば、後の混乱は起きなかったはずではないかと、私は思います。
彼が問いたださずに日本人一行が帰った後になって何故、江原道の役所に「本郡所在独島」が「日本属地」となったと報告したのか(単なる誤解か、または意図的なものか?)は謎ですが。
pacifistさん、ありがとうございます。
ReplyDeletechaamieyさん
まあ、ここで一番重要なのは郡守たる沈が竹島がどこにあるか、そしてどんな島かよく知らない、という事実だと思います。中央政府に至っても同じことでした。これ一つをとっても、竹島が鬱陵島の付属島である、などという荒唐無稽な説を全否定しています。
本人がどこにあるかも知らない島に関して"同じ対象を話している"と決め付けるのは、私は大変疑問であると言わざるを得ません。推測の域を出ません。現実には、字句どおりにとれば外洋100余里、つまり約40kmにある島、と言っているわけですから、92kmにある現竹島とは違う島について沈は話をしている、というのが最低限明確に言えることだと思います。
Kaneganese様, chaamiey様
ReplyDelete「貴島(欝陵島)と我が管轄に係る竹島は接近せり」と神西部長が言った「竹島」を沈興沢がどう耳にしたのかは推測の域を出ませんが、神西部長一行に問いたださなかったのは確かでしょう。
問いただして紛糾していればその事が日本側の記録にも残ったでしょうし、江原道政府にもあのような報告はしていなかったでしょう。
(また、日本側の記録の表現からは神西部長側は沈が既に竹島編入を知っているとの前提で話をしたかのように見受けられます。だとしたら、この時点ではやはり「竹島」の名前が使われたはずです。)
だとすれば、日本側の一行が帰った後に沈興沢が勘違いをして報告したとしか考えられないと思います。
何故「竹島」が「独島」だと理解できたのでしょうか。通訳者がそう訳したのかもしれません。
この当時は既に日本人に雇われた韓国人漁師の間では「独島」という名前が使われていましたから、沈興沢はその「独島」が韓国領だと勘違いしたとしか考えられません。(これがそもそもの誤解の元であり、長い目で見て李承晩が「独島」は韓国領と勘違いする元につながるのですから、重大な勘違いですが・・・)
Kaneganeseさん、pacifistさん、
ReplyDeleteこの件は沈興沢の思考過程という資料の無いことについての見解の相違なので、あんまり深入りするつもりもないのですが、お二人の論旨は良く分かりません。
Kaneganeseさんは、沈興沢は鬱陵島隣接の竹島(チュクト)が編入されたと勘違いしたのだと書いていますが、彼は「外洋百余里」の「独島」として報告しているわけですから、独島の正確な位置などは知らなかったとしても、竹島(チュクト)との取り違えは無かったのではないですか。
それに、鬱陵島隣接の竹島(チュクト)は勅令で鬱島郡の管轄として明示されていたわけですから、その島が編入されたと思ったとしたら、報告はずいぶんと違ったものになったはずです。
神西部長一行の報告書については、そもそも報告書は報告に値する要点を書くものですから、会話の過程で事実確認をした部分などは普通は書きません。したがって、どの島のことなのかを確認する程度の会話が無かったという断言もできないでしょう。
で、思ったのですが、お二人のこの議論は、沈興沢が独島をなぜ「本郡所在」と考えたのかという謎を解明しようとしてのものなんですかね?
このことは、于山島を現竹島と言い張る韓国側の妄言の源流のようなものなので、ある意味、大変重要です。外洋百余里=40kmにあるらしい島と言う概念は、1950年代に入っていきなり韓国が独島の領有権を主張し始めた頃の醜態と一致します。
ReplyDelete1951 - August 3rd - Memorandum - #11
(On re-ceiving Boggs's memo. I asked the Korean desk to find out whether anyone in the Korean Embassy officer had told him they believed Dokdo was near Ullengdo, or Takeshima Rock, and suspected that Parangdo was too.)
竹島と鬱陵島の間にある(はずの)島。これが本来の沈の考えていた島だったのでしょう。1950年代初頭に至るまでの韓国人の于山島に関する概念が見て取れます。大韓帝国の地理の教科書にもその様子が見て取れます。ただ、残念ながら、于山島は独島ではない。
それに、とにかく場所を外洋百里(40km)と断定してしまっている以上、彼の言う独島が現竹島と同一であると断定できないわけです。むしろ、そうではない、と断定するのが自然であると思います。その可能性を100%否定するわけではありませんが。だいたい現竹島は二百里(92km)以上離れているわけで、倍以上の距離です。それに私は、もし彼が竹嶼と現竹島を混同していなかった場合、勅令41号に精通していたかどうかは疑問であると思います。理由はお分かりだと思いますが、石島と言う名称を使っていないことです。だとすれば、この勅令での竹島を彼が念頭においていたのかどうかも、同じく疑郡守である人物は承知しておくべき勅令ですけれど。
chaamiey様
ReplyDelete「お二人の論旨は良く分かりません」とのことですが、以下のことは同意していただけるでしょうか?
1)沈興沢が日本側にその場で問いただして「その島は欝郡所属の島ではないか」と抗議した形跡がないこと。(そういうことがあったのなら、日本側にも、韓国側にもそれなりの記述が残るはずです。)
2)1900年の大韓帝国の時代の朝鮮の領土は既にこのblogで明らかにされているようにLiancourt Rocksは含まれていなかったこと、つまり「本郡所在独島」という主張は正しくなかったこと。
(Gerryが紹介しているようにその後の大韓帝国の認識でも欝郡の範囲はLiancourt Rocksを含んでいなかったこと。)
この二つは明らかだと私は思うのですが、同意できませんか?
同意していただけるのなら、結論は「沈興沢が誤解した」のか、「沈興沢が意図的に間違った報告を上げた」のか、のどちらかになると思うのですが、如何でしょうか?
私は「誤解した」可能性が高いと思っています。
誤解の元は通訳者が「独島」と訳してその固有名詞を単に韓国領と誤解したのか、Kaneganeseさんがおっしゃるように「竹島」をJukdoと勘違いしたのか(この場合はJukdoそのものの知識も無かったことになりますが)、確かめるのは困難ですが。
沈興沢は中央から来た官吏であり、欝陵島周辺の地理に明るくなかった可能性があるのではないでしょうか。また、一説によれば沈興沢は反日的な人であったという話を聞いたことがありますので、日本に反発して意図的に嘘の情報を流した可能性も完全には捨て切れません。
pacifistさん、
ReplyDelete1)、2)共に同意です。
>結論は「沈興沢が誤解した」のか、「沈興沢が意図的に間違った報告を上げた」のか、のどちらかになると思うのですが、如何でしょうか? → 同意です。論旨が分かりました。ポイントはここですね?
>私は「誤解した」可能性が高いと思っています。→ ここまで同意です。
誤解の原因は・・・・このあたりの話になるとやっぱり推測にしかならないですね。私の推測ですが、誤解の原因は島根県官吏との会話のためではなく、鬱陵島周辺の地理的関係から、沈興沢は独島(たけしま)のことを自然に「本郡所属」だと思い込んでいたのだと思います。そう思っていたことを島根県官吏に対しては黙っていたということになりますけどね。
日付も変わったのでここらへんでやめておきましょう。そのうち、自分のブログにでも少し詳しく書いて見ることにします。
横レス失礼します。
ReplyDelete私見、というより憶度ですが、小生は、光武四年十月二十五日の政府会議録の資料を、現在の大韓民国政府がひた隠しにしているものの実際には存在しているのではないかと訝っています。
それにつきまして、chaamiey殿が、杉野様のところでコメントされた文章を是非このサイトを訪れる皆様にも紹介させて頂きたく思います。(若し差し障りがあれば消します)
「おそらくは沈興沢の報告を受け春川郡守・李明来が5月7日に報告した独島に対して、中央政府(内部大臣・李址鎔と議政府参政大臣・李齋純)が5月28日付けで「指令第三号」で“独島”について調査させた結果それが鬱陵郡所属の島嶼ではなかったことが判明した結果を、公式書簡で返答したものだとすれば、今まで何故新聞等で日本が強引に奪ったと主張していた世論が霧散し、大韓帝国政府が調査まで命じたはずなのにその後の経緯が不明だった事の説明がつきます。もちろん、これを証明するには原本が発見される事がより重要ですが、この記事でこれ等の外交的なやり取りが平和裏に行われて、何よりたった数ヶ月前に抗議の論調で記事を載せた当の皇城新聞がこの結果を事実として淡々と伝えている事に大変意義があると思われます。」
ただ、私は、chaamieyさんとは意見を異にして、沈興沢が、リャンコ島を正しく認識していたとは思っていません。
chaamiey様
ReplyDelete基本的な考え方は同じだと知り、安心致しました。
小嶋日向守様
その政府会議録の資料、是非見てみたいですね。
小嶋日向守さま
ReplyDeleteご意見、同意します。この資料を韓国政府が早急に公開する事を望みます。
小嶋日向守さん、
ReplyDeleteその文章は私が書いたのではなく、Kaneganeseさんのコメントですよ。
政府会議の資料については私も同意見でして、鬱陵島とその付属島の範囲を決める勅令だから、資料として地図の一枚くらいは添付されていたはずです。それが公開されればThe end・・・・
Chaamieyさん、小嶋日向守さん
ReplyDeleteなにやら立派な内容なので、てっきりchaamieyさんのコメントかと思っていましたら、前後の流れと内容からいってどうも私が書いたようです!!(IDを間違って書きこんでいるようですね。) 道理で心の底から同意できたはずです...半年前に書いた事を覚えていないなんて...お騒がせしました。
Im not sure it has some relation with 岡部's misunderstanding btw Jukdo(Boussole rock) and Liancourt Rocks, there are another misunderstanding in the same time.
ReplyDeleteThey introduce the position of Lianocurt Rocks on 地学雑誌200.201.202
But , the detail of the island, It is appear that they wrongly explain about Dagelet-Ulluengdo.
地学雑誌200 1905.08.15
地学雑誌201 1905.09.15
地学雑誌202 1905.10.15
Finally writer collect it was about Ulleungdo, not liancourt rocks in the article on 地学雑誌200.201 and 202.
本誌200.201.202に掲げた記事は、全く竹島の記事に非ずして、鬱陵島の記事なるが如し
地学雑誌210 1906.06.15
Sorry it is not "collect" but correct in the last part of the post;d
ReplyDeleteI guess everyone know this pre-text for Imperial edict 41?
ReplyDelete『各部請議書存案』Dated on 22Oct1900.
I cannot find the discussion or map ,held on 25OCT1900 ,although there are Japanese inspector's map on 1900.
Ah ,I found the discussion record about Imperial edict 41, held on 25OCT1900
ReplyDelete光武4年10月25日