竹島問題の歴史

28.9.08

1905 - May 29 , 30 & June 5- 官報号外「日本海海戦戦報」

以下にあげるのは、東郷平八郎連合艦隊司令長官による日本海海戦の報告を掲載した官報号外です。

竹島問題を考える上で注目すべき点が二点あります。一つは、この約四ヶ月前の明治三十八年一月二十八日に正式に「竹島」と名付けて領土編入されたにもかかわらず、「其三」と「其五」に今だ、「リヤンコールド」岩、「リアンコルド」岩とそれぞれ標記されていることです。この報告は、東郷平八郎連合艦隊司令長官による正式な報告であり、東郷のみならず、その参謀達さえも皆四ヶ月前に閣議決定された竹島と言う新しい島の正式名称を使用していなかったことが明らかになりました。つまり、領土編入・改名と言った一連の竹島の帰属に関する事項は、実際には日本帝国海軍にとっては戦略上何の意味も無かったということでしょう。

韓国側(内藤正中氏・保坂氏)が主張するような、「1905年に日帝が断行した自国への独島の領土編入は、ロシアとの戦争を勝利する為に当時の日本政府の要職に就いていた官僚らが、いち漁業者を手引きして作り上げた事であるという事実」、または「特にこれらの官僚(外務省の山座円次郎政務局長、農商務省の牧朴真水産局長、海軍省の肝付兼行水路部長)は、独島が韓国領土であると言う事実をよく理解している立場に居たにも係わらず、 独島を島根県に強制的に編入する『工作』をした事が明らかになった。」などという事実はなく 、彼等の妄想に過ぎないことが明白です。第一、日本政府や海軍の水路部長がそこまで綿密な計画を立てて日露戦争の勝利の為に竹島を領土編入する必要があったのならば、この資料のように、日本海海戦の司令長官である東郷やその参謀達が新たに領土編入までして改名した「竹島」と言う名称を報告書に使用しないはずがありません。この報告からは日本海海戦の戦略的見地からは竹島はおろか鬱陵島などの島々の帰属問題など何の考慮もされていなかったことが明白です。

そもそも、前年の1904(明治三七)年2月23日「日韓議定書」が締結されています。その第四条の2項には"大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為軍略上必要ノ地点ヲ臨検収用スルコトヲ得ル事"とあり、軍略上必要な地点は日本政府が収容することが可能になっており、これらの島の帰属問題は日露戦争の遂行には、全く無関係でした。さらに、もし韓国側の主張するように、仮に"悪辣な日帝"が領土的野心の為に、竹島を韓国領だと知った上で島根県に編入したのが事実ならば、何故、より地勢学的、経済学的に竹島よりずっと価値の高い鬱陵島を"強奪"して編入しなかったのでしょうか?韓国人の方が多く居住していたとは言え、20年前までは空島で、当時三百人以上の日本人が滞在しており、しかも1600年代には実効支配していた実績があるのに、です。

もう一つの注目すべき点は、6月5日の続報の最後に、訂正として「リヤンコールド岩」ヲ孰モ「竹島」ニ訂正スと言う一文を載せた点です。官報の号外に海軍の報告中の竹島の名称を訂正する旨を載せたことは、竹島の領土編入が"秘密裏"に行われたなどと言う韓国側の"妄言"を一蹴するものです。実際、ソウルで発行されていた韓国人による韓国語新聞である皇城新聞は、この官報号外と同じ内容のものを翻訳・編集するなどして三日後には既に記事にして内容を伝える記事を載せており、間接的ではあっても韓国人にも十分伝達可能なメディア媒体であった訳です。もし本当に韓国側に極秘にするならば、領土編入を閣議決定した後に島根県が告示し、新聞に掲載したりするはずがありません。ましてや、何らかの形で韓国側にその内容が伝わってしまう可能性の大きい官報号外にリヤンコールド岩、つまり竹島の名称の訂正記事を載せるなど、ありえなかったことでしょう。

例えば、在日韓国人で独島研究センターの外部研究員を勤める半月城こと朴炳渉氏は、其三と五の表記間違いをのみ取り上げ、この訂正部分を無視し、「海軍省や官報を作成する政府機関は「竹島」が日本領になったことを知らず、その島を外国の島と思い込んでいたのかも知れません。それも無理ないかもしれません。何しろ、竹島=独島の領土編入は政府レベルでは極秘になされたので、海軍省や官報の記事を発行する機関すら知らなかったとしても当然かも知れません。」(2005 )などの妄言を掲載していたようです。このような在日韓国人による自国に都合のよい部分のみの資料の恣意的解釈を通しての領土権主張は、正常な日韓関係の阻害要因になるだけではなく、在日韓国人に対する反感にもつながるおそれがある大変憂慮すべき行動であり、厳に謹んで頂きたいものです。


官報号外 明治三十八年五月二十九日

戦報

日本海海戦戦報  一昨二十七日以来継続中ナル日本海海戦ニ関スル連合艦隊司令長官東郷平八郎ノ報告左ノ如シ(海軍省)

其一 一昨二十七日午前著電
敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊ハ直ニ出動之ヲ撃滅セントス本日天候晴朗ナレドモ浪高シ

其ニ  同日夜著電
連合艦隊ハ本日沖ノ島附近ニ於テ敵艦隊ヲ邀撃シ大ニ之ヲ破リ敵艦少クモ4隻ヲ撃沈シ其他ニハ多大ノ損害ヲ与ヘタリ我艦隊ニハ損害少シ駆逐隊水雷艇隊ハ日没ヨリ襲撃ヲ決行セリ

其三 今二十九日午前著電
連合艦隊ノ主力ハ二十七日以来残敵ニ対シテ追撃ヲ続行シ28日
「リヤンコールド」岩附近ニ於テ敵艦「ニコライ」第一世(戦艦)アリヨール(戦艦)「セニヤーウィン」(装甲海防艦)「アブラキシン」(装甲海防艦)及「イズムールド」(巡洋艦)ヨリ成ル一群ニ会シ之ヲ攻撃セシニ「イズムールド」ハ分離シテ逃走セシカ他ノ四艦ハ須臾ニシテ降伏セリ 我艦隊ハ損害ナシ
捕虜ノ言ニ依レバ二十七日ノ戦闘ニ於テ沈没シタル敵艦ハ「ボロジノ」(戦艦)、「アレキサンダー」第三世(戦艦)、「ゼムスチューグ」(巡洋艦)外三隻ナリト云フ
捕虜海軍少将ネボガトフ以下ニ千
(備考)
右ノ外本戦闘開始以来連合艦隊司令長官直卒以外の指揮官又は望楼の報告に係る敵の損害左の如し

「アドミラル・ナヒモーフ」(巡洋艦八五二四噸) 撃沈
「ドミドリー・ドンスコイ」(巡洋艦六二〇〇噸) 撃沈
「ウラジミール・モノマフ」(巡洋艦五五九三噸) 捕獲後沈没
「スウェートラーナ」(巡洋艦三七二七噸) 撃沈
「アドミラル・ウシヤーコフ」(装甲海防艦四一二六噸) 撃沈
「カムチャットカ」(特務艦七二〇七噸) 撃沈
「イルチッシュ」(特務艦七五〇七噸) 撃沈
大型特務艦(船名未タ不詳) 一隻 捕獲
駆逐艦    三隻   撃沈
駆逐艦    一隻   捕獲
即チ敵ノ損害ヲ艦種ニ区別スレハ左ノ如シ
          撃沈     捕獲      計
戦艦       二隻     二隻      四隻
装甲海防艦  一隻     二隻      三隻
巡洋艦     五隻              五隻
特務船     二隻     一隻      三隻
駆逐艦     三隻     一隻      四隻
尚ホ捕虜ノ陳述ニ在ル沈没艦三隻ハ以上ノ中ナルヤ又以外ナルヤ未タ詳ナラス
捕虜は連合艦隊主力部隊ニ於テ収容セル二千ノ外尚ホ一千以上アリ


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官報号外 明治三十八年五月三十日


戦報

日本海海戦続報  日本海海戦ニ関シ其後接手シタル連合艦隊司令長官東郷平八郎ノ報告左ノ如シ(海軍省)

其四 今三十日午後著電
五月二十七日午後ヨリ翌二十八日ニ亙リ沖ノ島附近ヨリ鬱陵島附近マテノ海戦ヲ「日本海ノ海戦」ト呼称ス

其五 同上
連合艦隊ノ大部ハ前ニ電報シタル如ク一昨二十八日午後「リアンコルド」岩附近ニ於テ敗残敵艦隊ノ主力ヲ包囲攻撃シテ其降伏ヲ受ケ追撃ヲ中止シ之ガ處分ニ従事中午後三時頃更ニ南西方面ニ敵艦「アドミラル、ウシヤーコフ」ノ北走スルヲ発見シ盤手、八雲ハ直ニ之ヲ追撃シ先ツ降伏ヲ勧告セシモ敵之ニ應セサリシ故午後六時過己ムヲ得ス之ヲ撃沈シ其生存者三百余名ヲ救助・収容セリ又午後五時北西ニ敵艦「ヅミトリー、ドンスコイ」ヲ発見シ第四戦隊及第二駆逐隊之ニ追及シ日没後ニ至ルマテ猛烈ニ砲撃セシモ撃沈スルニ至ラス夜ニ入リ第二駆逐隊モ之ヲ襲撃シ其結果不明ナリシカ昨朝ニ至リ第二駆逐隊ハ「ヅミトリー、ドンスコイ」ノ鬱陵島ノ東南岸ニ擱座セルヲ発見シ目下春日ト共ニ其處分中ナリ又漣ハ一昨二十八日夕刻鬱陵島ノ南方ニ於テ敵ノ駆逐艦「ビエドーウイ」ヲ捕獲セリ同艦ニハ二十七日ノ戦闘中沈没シタル敵ノ旗艦「クニヤージ、スワロフ」ヨリ敵艦隊司令長官ロゼトウエンスキー中将、エンクイスト少将及幕僚以下八十余名移乗シ居リシヲ以テ悉ク之ヲ捕虜トセリ
右両将官ハ共ニ重症ナリ又千歳ハ一昨二十八日朝北航ノ途上敵ノ駆逐艦一隻ヲ発見シテ之ヲ撃沈シ新高及叢雲ハ同日正午頃竹邊湾附近ニテ敵ノ駆逐艦一隻ヲ撃破シテ擱岸セシメタルノ報告ニ接セリ
今マテニ得タル諸報告及捕虜ノ言ヲ綜合スルニ二十七日ヨリ二十八日ニ亙レル戦闘ニ於テ撃沈シ得タル敵艦ハ「クニヤージ、スワロフ」「アレキサンダー三世」 「ボロヂノ」「ヅミトリー、ドンスコイ」「アドミラル、ナヒーモフ」「ウラジミール、モノマフ」「ゼムチューグ」、「アドミラル、ウシヤーコフ」、仮装巡 洋艦一隻、駆逐艦二隻ニシテ捕獲艦ハ「ニコライ」一世、「アリョール」、「アドミラル、アブラキシン」、「アドミラル、セニヤーウイン」、「ビェードウ イ」ノ五隻ナリ尚ホ捕虜ノ言ニ依レハ敵ノ戦艦「オスラービヤ」ハ二十七日午後三時、四時ノ交大破ノ後沈没シ又「ナワリン」モ沈没セリト云フ其外第三戦隊ハ 同日日没頃敵艦「アルマーズ」カ身体自由ヲ失ヒ将ニ沈没船トスルヲ目撃セシト云フモ暫ク疑ヲ存シ未タ報告ニ接セサル二十七日日没後ヨリ決行シタル我駆逐隊水雷艇隊襲撃ノ成果ト共ニ之ヲ後日ニ調査報告セントス
我艦隊諸艦艇ノ損害ニ就キテハ未詳細ノ報告ニ接セサルモ本職ノ視界内ニ在リシモノニハ一モ大破シタルモノナク孰モ尚ホ作戦任務ニ従事シツツアリ死傷モ未タ調査ニ暇ナキモ第一戦隊ニ於イテ将校以下四百余名アリ
依仁親王殿下ハ御無事ニ在ラセラル三須司令官ハ二十七日ノ海戦ニ軽症セリ

其六 同上
「オスラービヤ」(戦艦)、「ナワリン」(戦艦)ノ沈没ハ確実ナリト認ム
(備考)戦艦「シソイウエリキー」モ亦二十八日午前沈没セルノ確報ニ接セリ故ニ敵ノ損害ヲ計算スルコト左ノ如シ
戦 艦 「クニヤージ、スワロフ」(一三五一六噸)                  撃沈
同   「イムペラトール、アレキサンダー」第三世(一三五一六噸)       撃沈
同   「ボロヂノ」(一三五一六噸)                          撃沈
同   「オスラービヤ」(一ニ六七四噸)                       撃沈
同   「シソイウェリキー」(一〇四〇〇噸)                     撃沈
同   「ナワリン」(一〇ニ〇六噸)                          撃沈
巡洋艦「アドミラル、ナヒーモフ」(八五二四噸)                   撃沈
同   「ヅミドリー、ドンスコイ」(六二〇〇噸)                    撃沈
同   「ウラジミール、モノマフ」」(五五九三噸)                  撃沈
同   「スウェートラーナ」(三七二七噸)                      撃沈
同   「ゼムチューグ」(三一〇三噸)                        撃沈
海防艦「アドミラル、ウシヤーコフ」(四一二六噸)                 撃沈
特務船「カムチャットカ」(七二〇七噸)                        撃沈
同   「イルチッシュ」(七五〇七噸)                         撃沈
同   「ウラジミール、モノマフ」」(五五九三噸)                  撃沈
戦 艦 「アリョール」(一三五一六噸)                         撃沈
同   「イムペラトール、ニコライ」第一世(九五九四噸)             捕獲
海防艦「ゲネラル、アドミラル、アブラキシン」(四一二六噸)           捕獲
同   「アドミラル、セニヤーウィン」(四九六〇噸)                捕獲
駆逐艦「ビエードウ イ」(三五〇噸)                          捕獲
即チ敵ノ損害ヲ艦種ニ区別スレハ左ノ如シ
撃沈     捕獲      計
戦艦       六隻     二隻      八隻
巡洋艦     五隻              五隻
海防艦      一隻     ニ隻      三隻
特務船     二隻              ニ隻
駆逐艦     三隻     一隻      四隻
総計    十七隻     五隻   二十二隻
噸数総計十五万三千四百十一噸
右ノ外巡洋艦「アルマーズ」(三二八五噸)ハ沈没ノ疑アリ
捕虜中将ロゼストウェンスキー、少将ネボガトフ、少将エンクイスト以下三千余名

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官報号外 明治三十八年六月五日

戦報

日本海ノ海戦続報  日本海ノ海戦ニ関シ本月二日接手シタル連合艦隊司令長官東郷平八郎ノ報告左ノ如シ(海軍省)

敵ノ特務艦船中去ル二十七日ノ海戦ニ撃沈サレタルハ仮装巡洋艦「ウラル」、運送船「イルチッシュ」、工作船「カムチャットカ」外一隻ナリ右一隻ハ敵艦隊カ給炭用トシテ随伴シタル曳船二隻中ノ一ニシテ捕虜ノ言ニ據リ其沈没シタルヲ知レリ

海戦当時戦場ニ現在セシ敵ノ艦船中今日マテニ其行方不明ナル者ハ二等巡洋艦「オレグ」、「アウローラ」、三等巡洋艦「イズムルード」、「アルマーズ」特務艦三隻、駆逐艦二隻、曳船一隻ニシテ其他ハ悉ク撃滅又ハ捕獲セラレタリ右残艦中「オレグ」、「アウローラ」ハ二十七日ノ海戦中我第三戦隊、第四戦隊ノ射界内ニ入リ時々火災ヲ起セシヲ目撃シタルヲ以テ仮令残存セリトスルモ其ノ戦闘力ノ回復ニハ多数ノ日子ヲ要スヘシト信ス

○各方面ノ状況 本月二日午後大本営著電左ノ如シ(陸軍省)

 各方面共彼我斥候ノ衝突ヲ見ルノ外状況変化ナシ

○昌国及威遠堡門附近ノ戦況 一昨日三日午後大本営著電左ノ如シ(陸軍省)

 昨二日午前六時四十分頃敵騎約三十西沙河子(昌国東方約三里半)ニ又同日午後零時三十分約同数ノ敵騎南城子(威遠堡門東北約二里藩)ニ侵入シ来リシモ共ニ之ヲ撃退セリ

同日午後三時半頃我斥候ハ昌国停車場北方約二里ノ地点ニ於テ敵ノ騎兵ヲ襲ヒ卒一、乗馬ニヲ斃ス乗馬一ヲ捕獲セリ

此他各方面共状況変化ナシ

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訂正
去月二十九日官報号外本欄日本海海戦戦報ノ項其三及同三十日同日本海海戦続報ノ項其五中「リヤンコールド岩」ヲ孰モ「竹島」ニ訂正ス

1905 0529 官報号外 Adomiral Togo(東郷平八郎)'s report_11905 0529 官報号外 Adomiral Togo(東郷平八郎)'s report_2_21905 0529 官報号外 Adomiral Togo(東郷平八郎)'s report_3

参考

1853-1922 - 肝付兼行 (Kimotsuki Kaneyuki)

1894年 - 海軍省水路部「朝鮮水路誌」(明治二十七年)

15 comments:

  1. Kaneganese様

    いつもご苦労様です。Laincourt Rocksに望楼を作るよりも前に欝陵島に望楼が設置された(確か1904年)という歴史的な事実がありますので、望楼設置のためにLiancourt Rocksを編入したという論理は元々破綻していますよね。

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  2. "望楼設置のためにLiancourt Rocksを編入したと"と主張しているのは、誰でしたっけ?ケロロさん?

    それはともかく、望楼建設のプロセスも実効支配の大事な証拠の一つですよね。そのうち資料を集めてみんなで検討したいですね。

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  3. Kaneganese様

    今目を悪くしていてすぐには実行できないのですが、望楼関係の資料結構ありますので、そのうちアップしますね。

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  4. pacifistさん

    楽しみにしています。でも、急ぎませんから、まずは十分体調を整えてからにしてくださいね。

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  5. Anonymous3/10/08 09:30

    Tuesday, September 23, 2008にある
    1905年(明治38年)6月2日付けの「皇城新聞」、およびそのコメントにある杉野氏発見の6月1日「皇城新聞」の記事と、この「官報号外」の記事を比較して見ます。

    韓国側は、この「リヤンコールド岩」ないし「リアンコルド岩」の何たるかについて、何も知らなかったのだと思います。

    「皇城新聞」6月1日の記事では、
    官報号外5月29日にのった、東郷報告の「其二」および「其三」を再構成した記事で、
    「リヤンコールド岩」を「チウンコルド巖」と表記しました。

    そして、翌日の6月2日の記事では、
    官報号外5月30日にのった、東郷報告の「其五」および「其六」を、ほぼそのまま翻訳(やや再構成)した記事で、「リアンコルド岩」を「アンゴフ島」と表記しました。

    この二つの岩が「同一のもの」であるということを全く知らないのです。
    私は、おそらく、二つの記事の記者、ないし翻訳者は、まったく別人だったのではないかと思います。

    以下はわたしの「憶測」です。根拠が確実にあるわけではないので、みなさんのご意見をいただければと思います。

    この「チウンコルド巖」「アンゴフ島」は、どちらも「音訳」であると思います。

    誰かが日本語を読み上げて、それを別の人間が聴きながら韓国語に翻訳をして書いていったか、あるいは、Aが翻訳をしながら読み上げ、Bが記録したか、そんな形で、読んでいる人(日本語の文字を見ている人)と、韓国語の記事として文字を書いていった人が違ったのだと思います。音で聞いたものを文字化した、と考えると、このくずれ方は理解できるのではないでしょうか。

    そして、あまり正確を期そうとしていない。
    ロシア語のたくさん出てくる固有名詞(軍艦の名前)にも、それほど神経を使って正確にしようとしている様子も見えません。あるいは、ニュースの内容として、どの船が撃沈されたのか、ということは大事なので、それなりに正確を期そうとしているかもしれませんが、聞いたこともない、地名の「リアンコルド岩」など、いいかげんでよかったのだと思います。ニュースの中で、この岩の名前に重要性はありません。この記事は、日本側が、ロシア側のたくさんの船を撃沈して勝利した、ということが伝わればよかったのでしょう。官報の場合は固有名詞の正確性は非常に重要な要素ですが、新聞記事の場合はそうでもなかったんだと思います。

    そして、この二つの記事が、まったく違う名前で「リアンコルド岩」を表記したということは、この時、韓国側は、「リアンコルド岩」の何たるかを全く知らなかった、ということになると思います。アイデンティファイしていない。

    そして、この「リアンコルド岩」は、まちがいなく「竹島=独島」です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    さて、その、もとの原稿は「官報」そのものだったのでしょうか?

    どちらも、なか1日、おいています。(5月29日→6月1日、5月30日→6月2日)

    当時東京で出ていた『時事新報』は、5月29日の段階で、5月29日の官報号外そのままの内容を「海軍省幕僚」をニュースソースとして報道しています。しかし官報のようにカタカナではなく、ひらがなで、全く同じ内容を書いています。さらにそれを翌30日の新聞に再録しています。
    同様に、5月30日付けの官報号外の内容も、5月30日のうちに「第二号外」で伝え、翌5月31日の本誌に再録しています。

    ソウルにあった皇城新聞社に、日本の印刷物はどのくらいで届いていたのでしょうか?
    あるいは、電信を持っていたか。

    印刷された「官報」そのものは、皇城新聞の記事には、間に合わなかったのではないかと思います。

    とすれば、
    そして、その読み上げる原稿(皇城新聞が参照したもとの記事)は、官報の原文ではなく、一度再構成された日本語の新聞のようなものではなかったかと思います。

    当時、この官報の内容は、各新聞に引用されて報道されています。ソウルで見ることのできた、そうした日本語の新聞に、「チウンコルド巖」ないしは「アンゴフ島」という音に近いものが、あるいは、あったのかもしれません。

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  6. matsu様


    いつも有意義な情報をありがとうございます。

    「ひらがなで、全く同じ内容を書いています」とのことですが、そうすると「リアンコルド岩」は「りあんこるど岩」、「リアンコールド岩」なら「りあんこふるど岩」になるのでしょうか。

    後者なら「アンコフ」の語源と関連ありそうな気がしますが・・・

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  7. Anonymous3/10/08 10:35

    pacifistさま

    舌足らずですみません。
    固有名詞(リアンコルドもロシアの軍艦の名前なども)はカタカナです。

    地の文が、官報はカタカナですが新聞記事はひらがなです。

    実は、Kaneganezeさんに、コピーのファックスを送ってあります。不鮮明かもしれませんが、ポストできるようなら、お願いします。

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  8. 時事新報の件ですが、この投稿の英訳を終えてから、と思っていたのですが、せっかくですから今からスキャンしてとりあえず、Flickr!にあげます。後でお知らせします。

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  9. 取り急ぎ、時事新報の記事をアップロードしたので、お知らせします。

    6月1日

    http://farm4.static.flickr.com/3102/2908907546_3181f50fba_b.jpg

    6月2日

    http://farm4.static.flickr.com/3262/2908062583_5f709760fa_b.jpg

    ReplyDelete
  10. Anonymous3/10/08 21:39

    kaneganeseさん

    さっそくの映像アップ、ありがとうございます。

    一枚目は、右上にまず書いてあるように、「空前の大勝、帝国の万歳を祝せんがため、昨日発行の号外を、原型のままに採録し」とあり、5月29日の最初の官報号外が出た日、新聞も「号外」を出して速報していたことを伝えています。
    この新聞自体は、上の右の欄外の漢字で書いてある日付のように、明治38年5月30日の新聞で、2面であることがわかります。
    ニュース・ソースは、4段目(見出しを除いて3段目)の左側にあるように、「大本営海軍幕僚」です。(すみません、さきほどのコメントの「海軍省幕僚」はまちがいです。訂正します。)
    官報号外は、すべて漢字とカタカナですが、新聞記事は漢字とひらがな、固有名詞がカタカナ表記です。リヤンコールド岩は、3段目の4行目にあり、カギカッコでくくられていません。
    文面は、官報号外と同じで、各新聞とも、「大本営海軍幕僚」の発表を、忠実に伝えていることが伺えます。(上のkaneganeseさんの本文に引用されている、半月城氏の引用する東京朝日新聞(注5)も、同じ文言であることがわかります。こちらは地図がそえられており、こうした工夫は、各新聞が独自でしていたのでしょうか。この東京朝日新聞の地図では「リヤンコイルド岩」になっています)

    2枚目は、これも右上の漢字の日付で明治38年5月31日の新聞。上から6段目(下から2段目)の右のほう、6行目にあるように、「昨日の第二号外再録」です。この号外も、官報号外と同じ5月30日のうちに出されたことがわかり、速報体制が伺えます。こちらには、「大本営海軍幕僚」の文字はありません。リアンコルド岩は、1段目の「其五」の3行目にあります。
    「大本営海軍幕僚」の本来の発表文が、カタカナだったのか、ひらがなだったのかは、わかりませんが、新聞がふたつとも「ひらがな」なのは、「大本営海軍幕僚」の発表文が、ひらがな、カギカッコなし、だったことも伺わせます。
    この2誌は、ともに東京で出ていたものですが、ソウルに行った、あるいはソウルで発行されていた新聞の記事がどんなものであったかは、いまは、わかりません。

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  11. Anonymous3/10/08 23:25

    上記のkaneganeseさんの本文に引用されている、半月城氏の論考について、考えてみたいと思います。

    この文章は、2005年5月29日、「日本海海戦」を報じる官報の号外がだされて百年目、に書かれたもので、もう3年以上前のものです。
    この中で半月城氏は、この官報号外で、「リアンコルドがなぜ「竹島」と表記されなかったのか、考えてみたい」としています。

    そして、その回答として、次の2つの可能性をあげています。
    (1)
    海軍省や官報を作成する政府機関は「竹島」が日本領になったことを知らず、その島を外国の島と思い込んでいたのかも知れません。(略)竹島=独島の領土編入は政府レベルでは極秘になされたので、海軍省や官報の記事を発行する機関すら知らなかったとしても当然かも知れません。

    (2)
    日本政府は、領土編入の事実を隠しとおすために「リアンコールト」の名前を使用しつづけたのかも知れません。領土編入に際し竹島=独島が「無主地」であると強弁したのは、国境画定機関である水路部でした。竹島=独島の領土編入後、その水路部が上部組織の指示で領土編入の秘密を守り、それを海軍に情報提供していたのかも知れません。あるいは海軍が積極的に秘密を守ったのかも知れません。

    これを簡単に言うと、
    (1)は、「竹島=独島の領土編入は政府レベルでは極秘になされたので、海軍省や官報を作成する政府機関は「竹島」が日本領になったことを知らず、外国の島と思い込んでいた」

    (2)は、後半の文意がやや不明なところがありますが、「領土編入の事実を隠しとおすために「リアンコールト」の名前を使用しつづけた。海軍が積極的に秘密を守った」
    ということでしょう。

    まず、(1)は、まったく、ありえないと思います。
    政府の決定を、「海軍省」が知らないことが、ありうるのでしょうか?
    「海軍省」が知らないで、どうやっていくさをするんでしょうか?
    政府の広報機関である「官報を作成する政府機関」が知らないなんて、これも、ありえない話です。
    kaneganeseさんは「妄言」と書いていますが、私には「冗談を言っている」としか思えないほどでした。

    次に(2)ですが、こちらが、半月城氏が展開している「秘密論」です。韓国側の論調にも、日本政府は、韓国側に領土編入を知られるとまずいので、ずっと秘密にしていた。外交権を奪ったのちの翌年3月に、ようやく島根県一行が鬱陵島の沈興澤郡守に知らせた。という形で展開されています。

    これも、おかしいと思います。秘密にするなら、なぜ官報に訂正を出すのか。

    半月城氏は、
    「日本政府はこの時点に至るや、リアンコールトの名前を容認するわけにいかなかったのか、その対応をした」と書いていますが、なぜ「この時点」で秘密を解除するのか。
    肝心の、その理由がまったく書いてありません。

    一方で、
    「その効果は確実でした。マスコミは訂正記事にしたがって島名を変更しました。6月5日の東京朝日新聞は1週間前と同じ地図で「リヤンコイルド岩」の名を「竹島」に変えました」と書いており、「秘密」はまったく守られなくなっていることが、実証されています。

    注5にのっている地図も、なんと竹島が鬱陵島よりも大きくかいてありますが、もはや、「秘密」ではなくなっていることを如実に示していると思います。


    これは、3年前の論考ですので、あるいは、今はお考えが変わっているのかもしれませんが、この論考自体は、やはり、説得力がまるでない、と言えると思います。


    そこで、「この時点」の理由として考えられることですが、やはり「日本海海戦」の勝利が、状況を変えた、ということでしょうか。
    しかし、まだポーツマス条約以前であり、日露戦争は継続しています。何よりも、ここで「秘密を解く」ことの、戦略的意味がまったくわかりません。よって、この「秘密論」自体が、まったく根拠のないものではないかと思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    そして、この時点で「秘密」ではなくなっている、ということは、実は、重大な意味があると思います。


    それは、沈興澤郡守の責任論です。沈興澤郡守は、本当に1906年に島根県一行が鬱陵島に行くまで、竹島の日本領土編入を知らなかったのでしょうか?

    もし、1年以上もそれを知らなかったとすれば、これまた、ずいぶんと、迂闊な郡守です。その管理責任はどうなるんでしょうか?

    私は、これも「憶測」になるのですが、沈興澤郡守は、竹島の日本領土編入をはやくから知っていたのではないかと思います。鬱島郡庁の所在地、沈興澤郡守が住んでいた鬱陵島の道洞には、当時、日本人がたくさん住んでいました。こうした日本人たちは、日本領土になっていた「竹島」が、日本海海戦の舞台になったことを話題にのせなかったでしょうか?
    そして、それは、当然、道洞の韓国人の耳にもはいり、郡守へも情報があがったのではないでしょうか?

    もちろん、「秘密」がきちんと守られており、道洞の日本人たちがそれを口にすることが出来なかったとしたら、沈興澤郡守も知らなかったかもしれません。

    しかし、上記東京朝日新聞の地図のように、この位置の「竹島」が、「日本海海戦」の舞台となり、それは「竹島」の名前のとおり、日本領であることは、周知のこととなっていたのではないかと思います。

    とすれば、なぜこの時点で沈興澤郡守が中央に情報をあげなかったのか?

    それは、勅令41号の「石島」が、「リアンコルド岩=竹島」ではなかったからだと思います。

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  12. 先ほどの時事新報の画像を差し替えました。

    http://farm3.static.flickr.com/2404/2910157320_5b3b7f9f72_b.jpg

    http://farm4.static.flickr.com/3232/2910158262_cb96c4b2bc_b.jpg

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  13. matsuさん

    官報に「大本営海軍幕僚」の文字が無く、時事新報にある所を見ると、時事新報、東京朝日新聞などの新聞各紙は官報ではなく、「大本営海軍幕僚」発表に依っているようですね。とすると、皇城新聞が引用した何らかの新聞が其五の「リアンコルド」岩を「リアンコルド」"島"と誤報していた可能性が無きにしも非ずですね。現存する他の資料を丹念に調べていくと、さらに詳しい事が分かるかもしれません。ただ、今の所やはり岩を島と書き変えたことの積極的な理由がmatsuさんの推論からは説明できていませんので、此れ等の判断は資料待ち、と言うことでしょうか。

    ”注5にのっている地図も、なんと竹島が鬱陵島よりも大きくかいてありますが、もはや、「秘密」ではなくなっていることを如実に示していると思います。”
    半月城氏の論考について、詳しい分析を頂き、ありがとうございます。全く同感です。ところで、東京朝日新聞の原文、お持ちなのでしょうか?どんな地図なんでしょう?

    ”上記東京朝日新聞の地図のように、この位置の「竹島」が、「日本海海戦」の舞台となり、それは「竹島」の名前のとおり、日本領であることは、周知のこととなっていたのではないかと思います。”
    韓国側の「明治政府による竹島こっそり編入」説は、官報に訂正を記載したことで明治政府にその意図が無かったことが証明されますし、また、実際東京朝日新聞が「竹島」に訂正しているとのことですので、事実上日韓政府、その国民にとって全く秘密では無かったことは明らかです。こうなってくると、全然秘密でもなんでもなく、官報のみならず全国紙?、おそらく韓国人ジャーナリストが購読していたメディアにも、日本名竹島になったことが報道されていたわけで、これらの事実は、全く韓国側からの抗議どころか報告、報道さえも行われなかった1905年、日本が竹島編入を秘密にしていたことにしておきたい韓国にとっては大変不都合な事実ですね。1905年の時点で、それまで「リアンコルド岩」などと標記されていた日露戦争の大勝利で有名になった島が「竹島」という日本名の島に各誌や官報などで変更されたのだとしたら、それはそれで、1904年以前まで日本人と同じく「ヤンコ島」と竹島を呼んでいた鬱陵島の韓国人が全くその事実を知らない、と言うことが不思議でさえあります。ので、沈郡守が「リアンコルド岩/竹島」が日本領土になった事実を知っていた可能性は高いと思います。そうなってくると、やはり沈郡守が1906年の島根県一行が告げた新たに日本領になった竹島を100里外洋にある独島と考えてあわてて報告したのは、彼が独島がリャンコ島ではなく、竹嶼、もしくはこの頃またさまよい始めた「于山島」と勘違いした可能性が高いように思います。

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  14. 東京朝日新聞は、半月城氏の論考に引用されている、彼のサイトにあります。

    Kaneganeseさんの紹介している(2005 )
    からYahoo の竹島掲示板に入り、

    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=9641
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=9642
    http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=9643

    3つめの最後にある
    (注5)東京朝日新聞、1905.5.30 & 6.5、影印
    http://www.han.org/a/half-moon/shiryou/etc/asahi1905kaisen.pdf

    にあります。


    この東京朝日新聞、とくに下の地図は、竹島をデカデカと書いています。

    半月城氏は、このブログで云う「自らの足を撃つ」行為をしていると思います。

    すみません。投稿があったのに気付かずに、反応がおそくなってしまいました。

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  15. There are another record written by Argentina who he was general and watching Battle of Tsushima on boarding Battleship 日進.

    日本海海戦 アルゼンチン観戦武官の記録 海軍大佐 マヌエル・ドメック・ガルシア
    P284
    これは五月二十八日午前十時四十四分、リアンコールド岩礁(Las Rocas de Liancourt)から五マイルの海域で起こったことである。

    I felt all the attached maps and images in his record is very similar with those in 明治三十七八年海戦史.

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