また、後に日韓の国交正常化交渉の際に、李承晩政権崩壊後の1960年10月から再開された第五次日韓会談の韓国側代表にもなりました。
「一九六〇年四月、李承晩政権が退陣してから、韓国には日本との間に友好親善関係を求める機運が急速に拾頭した。張勉新政権はその施策の重点の一つに日本との国交正常化をかかげ、日韓会談の妥結にきわめて意欲的であった。これに呼応して日本側にもこの機に多年にわたる諸懸案を早急に解決すべきであるとの声が高まった。 かかる情勢の下に、小坂外務大臣は同年九月はじめ、戦後初の公式使節として、韓国を訪問し、鄭外務部長官との間に、日韓全面会談予備会談を開くことに合意した。 かくて第五次日韓会談は日本側から沢田廉三首席代表、韓国側から兪鎮午首席代表をたてて、同年十月から翌年五月まで、約七カ月間にわたって東京において開催された。会談の進行状況は、諸懸案の内包する問題の複雑さと動揺する韓国の国内情勢のため、必ずしも十分満足できるものではなかったが、四月中旬には、あと一カ月で予備会談を打ち切り、その後日韓双方がそれぞれ国内調整を行なった上、九月ごろに本会談を開いて、高度の政治的観点に立った解決をはかるのが適当であると判断されるまでになっていた。 このときに当たり、突如五月十六日、韓国に軍部によるクーデターが発生し、張勉政権が倒れたため、日韓会談はここにまた中絶のやむなきに至った。 」(外務省のサイトより)
以下は、兪鎮午による回想録である、「韓日会談が開かれるまで」(上下)(韓国の雑誌『思想界』1966年2月号・3月号に掲載された)のうち、"上"の部分のmatsu氏による日本語訳です。(matsuさん、有難うございました。)原文画像を載せましたので、内容とともに皆で検討していきたいと思います。よろしくお願い致します。(なお、文章中に出てくる洪璡基という人は、新聞中央日報の会長だったようです。)
兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」(上)『思想界』1966年2月号
―前韓国主席代表が明らかにする14年前の曲折―
14年もの間、韓日会談が続いたために、これに関係した人士は数百を越えるものと思う。私もその中の一人として、1951年10月、韓日会談が開かれるまで一部の責任を果たした。第5次会談の時には主席代表の役割を務め、会談についてはさすがに語るべきことがないわけでもない。しかし、これに関する充分な資料が今手元にない上に、その当時は日記もつけていなかったので、すべて記憶に頼るのみであることが遺憾である。すでに少なくとも15年以前のことについての回想であり、錯誤もあると思うが、それは明らかになった後の訂正を待つほかはない。
一 対日賠償要求調書
わが政府が、対日関係において行動を取る必要を感じ、その準備に着手したのは、政府が樹立された直後の1948年秋のことである。政府部内で誰がそんなことを先唱したのかは今記憶がないが、当時、企画処長であった李順鐸(イ・スンテク)氏と、法制部長であった私が、数次、これについて意見を交換したものと記憶している。わが民族は、36年という長い間、日本の一方的な独占により莫大な被害を受けたが、独立政府が樹立された以上、我々は当然日本に対して賠償を請求しなければならないということであった。
当時、我々が考えた「賠償」は、もちろん国際法上の「戦時賠償」であった。しかし、当時は日本と平和条約を締結した国はまだなく、今後賠償問題がどのように取り扱われるのか不明だったため、我々はただ、そのような問題が具体化される時に備え、わが政府としての準備をしておこうという漠然としたものに過ぎなかった。その上、わが政府部内には独立の闘士や学者出身はいても、国際外交の実際の経験をもつ人間はおらず、そのような問題を、どのような時期に、どのように取り扱うべきかも漠然としたものだった。
しかし、いずれにしても、対日賠償要求調書は急いで作成しなければならないとして、企画処長の総括下に、政府各部をして夫々の所管事項についての対日賠償要求を提出させるようにしたが、その結果として出来上がったのが、対日賠償要求調書の二巻である。
その第一巻は、1949年3月15日に完成したが、その内容は、1949年3月1日現在で判明した現物被害(地金、地銀、書籍、美術品および骨董品、船舶、地図原版、その他)について、我々が返還を要求する現物の目録であった。
第二巻は、その年の9月にようやく完成したが、その内容は、第二部、確定債権(戦争とは直接関連がない単純な債権債務関係)。第三部、中日戦争および太平洋戦争に起因する人的、物的被害。第四部、日本政府の低価収奪による損害(所謂、強制供出による損失)からなっていた。
上の二巻の中の第一巻、すなわち、現物返還要求については、作成後、まもなくマッカーサー司令部に送られたことは知っているが、私は、その年の6月に法制部長を辞任したため、第二巻の内容がどのように取り扱われたのかは知らない。
対日賠償要求調書を作成した当時には、先に述べたように具体的にそれをどうしようという計画はなかったが、今になって考えてみれば、それが韓日会談を開くためのわが政府の重要な基礎作業だったと思う。なぜなら1950年6月には共産南侵のため政府が釜山に遷都したため、この調書が無かったならば1951年に韓日会談を開くのは難しかったと考えるからである。
避難生活の混乱の中で、対日賠償要求調書のような、旧文書を調べなければならず時間のかかる文書を作成することは、不可能に近かっただろうからである。
二 サンフランシスコ平和条約草案
政府を辞職したあと、私は、教育法基礎など教育部分を除けば、政府の仕事には特に関与せずにいたが、1・4後退後、数か月たったある日(3月末ごろと記憶するが4月はじめだったかもしれない)、当時法務部の法務局長であった洪璡基(ホン・ジンギ)氏が、日本の新聞1紙を持ってやってきた。対日講和条約の草案の訳文が掲載されていたが、それを見れば、我が国の利害に関係する部分が少なくないばかりか、帰属財産処理についての規定は、まかり間違えば我が国に非常に不利であるようだとのことであった。
洪璡基氏とともに検討してみると、果たして彼の言うとおりであった。帰属財産についての草案の規定は、不利などころではなく、我が国にとって明らかに危険なものであった。草案によれば、帰属財産は、草案第四条A項により処理されることになっているが、同項によれば、韓国内にある日本および日本国民の財産(すなわち帰属財産)の処理と、日本内にある韓国および韓国国民の財産の処理は、韓日両国間の「特別協定」により決定されることになっていた。
韓国の全財産の80パーセント、90パーセントともなれば、帰属財産の処理を日本と協議して決定するとは、まさに韓国の独立を日本と協議して決定するということと同じことではないか!
周知の通り、帰属財産は、米軍政法令第33号により、米軍政庁に帰属し(vested)所有された(owned)ものであり、その後「韓米間の財政及び財産についての最初協定」(1949.1.18.条約第一号)により、その財産に関する一切の「権利、名義、および利益」は、わが政府が米軍政から譲渡されたものであった。ちょうど私は、政府樹立直後に始まった前記の協定締結のための協議に最初から最後まで参席しており、(我が方の主席代表 李範奭総理、代表 金度演財務、張澤相外務、李順澤企画、兪鎮午法制、米側主席代表 ヘルミック准将)、帰属財産についての法理に比較的明るかった。我が国は、前記協定により、帰属財産についての完全な所有権をすでに取得していたのであり、日本側と改めていかなる協議もするべき理由は少しも無かったのである。たとえ、日本側が同財産の処理について何か言いたいことがあるとしても、それは、その財産を帰属させ、所有した米国に対してなされるべきことであり、我々を相手とすることではないという見解であった。
帰属財産についての規定の他に、草案第二条の、我が国の領土についての規定も私には不満であった。第二条A項には、我が国の付属島嶼として、済州島、巨文島、鬱陵島だけが例示されていたが、韓半島の付属島嶼を全部列挙することは不可能であり、また不必要なことであるが、韓日間の紛争がありうる島嶼、例えば独島のようなものは、我が国の領土であることを平和条約の中に明記しておかなければならないと思われた。
日本で新聞にまで条約草案が発表された以上、重要な利害関係国である我が国にも、その草案が送付されて来ているものと思われ、私は洪璡基氏にそのような事実の有無について訊ねたが、わからないという答えであった。時を争う問題であり、どうしたら良いか考えていたが、ちょうどその数日前に、駐米大使から帰国した新任の張勉総理に会った時に、「いつでも、どんなことでも、私に会うべきことがあれば訪ねて来い。どんなに忙しくても、必ず会う」と言っていたのを思い出した。新たに外務部長に任命された卞栄泰氏は、国連代表として、まだ帰国していない時であった。
その二日後の朝、私は慶尚南道道庁の中にあった国務総理室に張勉博士を訪ねて行った。喜んで会ってくれた張総理に、私はいきなり平和条約草案についての話をし、わが政府としても、急いで意見書を作成して送る必要があると言うと、彼も私の言葉に全く同意してくれた。それならば、米国政府から送ってきた草案の写本があるはずであるが、そのようなものが我が政府に来ているのかどうか、張総理も知らないでいた。秘書官に命じてあちこち調べさせたが、そんなものは誰も知らないということであった。
米国政府から平和条約草案を、重要な利害関係国である我が政府に送って来ていないことに対して私は非常に失望し、また不快に思ったが、たとえ、いかなる理由で写本を送って来ないにせよ、我が政府としては必ずそれに対する意見書を提出しなければならないと考え、私はすぐに意見書作成の準備に着手した。
その第一番にたずねて行った所は、崔南善氏の家であった。(その時、東莱方面にたずねて行ったようであるが、確実ではない)。歴史上から見て、我が領土として主張することが出来る島が、どれとどれであるかを知るためである。六堂(訳注:崔南善の号)は、果たして記憶力が良い方であり、独島の来歴を、即座に、私が確信を持てる程に説明してくれた。次に、私は対馬島について、「李博士は、対馬島も我が国の領土だと何度も言っていますが、根拠が確実ですか?」と訊ねると、六堂は声を立てずに笑って首を左右に振った。ところがそのかわり、六堂は、私に新たな知識をひとつ与えてくれた。我が国の木浦と日本の長崎、中国の上海を連結する三角形の中心となる海中に、「パラン島」という島があるが、表面が非常に浅くて、波の中に埋もれたり、現われたりするということだった。「パラン」というのは、草(プル 水ムルの誤植か?)が青く・・・してする語なのか、波の中に入ったり、現われたりするので「波浪」というのか、確実ではないが、いずれにしても、それは我が国の領土としてこの際に確実にしておくのが良いだろうということであった。六堂の言葉に私が狂喜したことはもちろんである。もし、この島の名前が対日平和条約の中に明記されることになれば、我が国は済州島の西南方に大きく領域を広げることになるのだから。
二三日後、張勉総理から緊急の連絡があって行って見ると、何かの書類を手にして、「もう二週間前に大統領の所に来ていたのに、ある秘書の引き出しの中に今までほうり込んで置いたままにしていたんだそうだ。チッ チッ。(舌打ち音)」と不機嫌に言った。書類は、もちろん、数日前から捜していた、米国政府から送られてきた対日平和条約草案であった。私は、国事をこのように処理することがありうるのか、とあきれて物も言えなかったが、いずれにしても良かったと思い、そのまま草案について洪璡基氏とともに内容を研究・検討しはじめた。
当時、このことについて政府部内で我々に最も理解を示し、協力してくれたのは、金俊淵(キム・ジュニョン)法務部長官であった。彼は、張総理とともに、我々の意見に全面的に同調し、国務会議(閣議)の席上でも、欠席中の外務部長官に代わって我々の意見をおおいに代弁してくれた。
しかし、すぐに我々は難関に突き当たった。張総理、金法務などが、帰属財産についての法理をいくら説明しても、李大統領は、「マッカーサー将軍が私に約束した言葉がある」として、平和条約草案の修正を要請するのに賛成しないということであった。
仕方なく、我々はムチオ大使を動かす努力を始めた。その時、誰がムチオ大使にあったのか確実な記憶が無いが、崔斗善(チェ・ドゥソン)氏などがしたことだと思う。ムチオ大使は、すぐに我々の言うことを理解してくれたそうである。
ムチオ大使が、その後、李大統領に会い、説得を試みたかどうか、私は知らない。しかしいずれにしても、李大統領もわれわれの意見に賛成するようになり、我々は外務部の中に「外交委員会」というものを構成し、我が政府の意見書を作成しはじめた。その時、委員として参席した人は、金俊淵(キム・ジュニョン)法務、崔斗善(チェ・ドゥソン)、裴廷鉉(ペ・ジョンヒョン)、洪璡基(ホン・ジンギ)、李建鎬(イ・ゴノ)、朴在隣(パク・チェリン)、そして私、などであった。
意見書作成にあたって、まず第一に問題になったのは、大韓民国が対日平和条約の署名国の一つとなることを要求するのか、ということであった。もし我が国が平和条約署名国の一つになりさえすれば、我々は日本に対し戦勝国の地位を持つことになり、したがって戦争賠償を受けられるのはもちろん、その他のあらゆる問題について絶対的に有利な位置に立つことになるからだった。しかし、この問題はあまりに政治的であり、また重慶臨時政府時代以来、散発的に何度も論議されてきたことであったため、すでに作成された草案に対する部分的意見書に含ませるにはあまりに重大であったので、大統領の活動に一任することにし、ここには入れないことにした。
意見書は、4、5個の条項から構成されていたが、帰属財産問題と領土問題の他のものが何であったのかは、今は覚えていない。領土問題中、「パラン島」は、実存するかどうかが確実でなく、自信がなかったが、たとえ実存しないにしても、入れておいて害になることも無いだろうとして、独島とともに平和条約第二条に追加するように要求した。
そうしているうちに、卞栄泰(ピョン・ヨンテ)新任外務部長官も帰国して執務するようになり、外交委員会の委員たちとともに意見書作成に協力した。特に、作成した意見書の英訳は、卞長官が直接に専担し、一字一字、精密に検討した。
意見書の英訳まで終えた私は、再び私の仕事(戦時聨合大学のこと、海軍法務監室で米国海軍関係の法典を翻訳すること等)に専心していたが、ある日(いつであったか確実ではないが、6月初め頃ではなかったかと思う)、久しぶりに外交委員会を開くというので出向いたところ、卞外務長官から我が政府の意見書はすでに米国政府に送ったという報告があった。私はとても満足した。しかし、席上で配布された意見書の写本(英文)を見て、私は憤慨した。委員会で作成した意見書に、非常に長い前文をつけ、内容も、1、2項目追加されていたが、その前文なるものは奇怪で、本文で展開した法理論と相衝する(あいいれない)内容であったからだ。誰がこんなことをしたのか、と言うと、大統領顧問である米国人が加筆したものだという答えであった。私は、非常に不快であったが、もうどうすることもできなかった。
それはそれとして、我が政府で意見書を送った結果として、対日平和条約の第四条にB項が追加されたことは、我々の外交の大きな収穫であった。その後、韓日会談を通して我々が骨身に染みて経験したところであるが、新設されたB項に、日本は米軍政庁が帰属財産について行った処分(帰属、所有、およびわが政府への譲渡)の効力を承認すると明示されているにもかかわらず、そのまま、その財産に対して今だに「請求権」なるものを持っていると、止むことなく主張し、何度も会談を決裂させたのであるが、もし、その条項が新説されていなかったならば、どんな主張を持ち出してきたのか分からないのである。
帰属財産についてのことだけが採択され、それ以外の我が政府の意見は、すべて拒否されたことは遺憾なことであった。特に、独島を平和条約の中に明記しなかったことは、長く続く紛争の種を残した処置であった。日本占領軍最高司令部が、当初いわゆる「マッカーサー線」を引く時にも、彼らは独島を「マッカーサー線」の外に置いたのであり(すなわち、日本の漁船が独島まで来る事ができないようにしたのであるが)、ここへ来てそれを平和条約の中に明記しなかったことは、理解することができない処置であった。しかし、そうだとしても、それをもって米国が独島を日本領土と考えているとは、もちろん解釈されない。鬱陵島に付属した小岩礁にすぎないので特記する価値がないものと見た結果にすぎないのである。
パラン島は、その年の夏、韓国山岳会の洪鐘仁(ホン・ジョンイン)氏が主導し、わが海軍の協力のもと、日本海軍水路部で発行した海図を持って実地探査したのであるが、ついに発見できずに終わった。忽忙中、不得意なことであったが、国家の権威を象徴する公式の外交公文書に、実存しない島の名前を書き、我が領土だと主張したことは、取り返しのつかない失敗であった。
そうこうするうちに、政府部内では、韓日会談開催の機運が熟してきた。我が国は、対日平和条約の関係国として、同条約により、請求権、海底電線、漁業、通商航海などの自らの問題を日本と協議・解決するようになっているばかりでなく、日本における僑胞処遇問題、解放後の密入国者の強制送還問題、船舶問題などで、当時すでに駐日代表部とSCAP間で交渉が進行中であり、それがわが国会でも問題になっていたからである。
―前韓国主席代表が明らかにする14年前の曲折―
14年もの間、韓日会談が続いたために、これに関係した人士は数百を越えるものと思う。私もその中の一人として、1951年10月、韓日会談が開かれるまで一部の責任を果たした。第5次会談の時には主席代表の役割を務め、会談についてはさすがに語るべきことがないわけでもない。しかし、これに関する充分な資料が今手元にない上に、その当時は日記もつけていなかったので、すべて記憶に頼るのみであることが遺憾である。すでに少なくとも15年以前のことについての回想であり、錯誤もあると思うが、それは明らかになった後の訂正を待つほかはない。
一 対日賠償要求調書
わが政府が、対日関係において行動を取る必要を感じ、その準備に着手したのは、政府が樹立された直後の1948年秋のことである。政府部内で誰がそんなことを先唱したのかは今記憶がないが、当時、企画処長であった李順鐸(イ・スンテク)氏と、法制部長であった私が、数次、これについて意見を交換したものと記憶している。わが民族は、36年という長い間、日本の一方的な独占により莫大な被害を受けたが、独立政府が樹立された以上、我々は当然日本に対して賠償を請求しなければならないということであった。
当時、我々が考えた「賠償」は、もちろん国際法上の「戦時賠償」であった。しかし、当時は日本と平和条約を締結した国はまだなく、今後賠償問題がどのように取り扱われるのか不明だったため、我々はただ、そのような問題が具体化される時に備え、わが政府としての準備をしておこうという漠然としたものに過ぎなかった。その上、わが政府部内には独立の闘士や学者出身はいても、国際外交の実際の経験をもつ人間はおらず、そのような問題を、どのような時期に、どのように取り扱うべきかも漠然としたものだった。
しかし、いずれにしても、対日賠償要求調書は急いで作成しなければならないとして、企画処長の総括下に、政府各部をして夫々の所管事項についての対日賠償要求を提出させるようにしたが、その結果として出来上がったのが、対日賠償要求調書の二巻である。
その第一巻は、1949年3月15日に完成したが、その内容は、1949年3月1日現在で判明した現物被害(地金、地銀、書籍、美術品および骨董品、船舶、地図原版、その他)について、我々が返還を要求する現物の目録であった。
第二巻は、その年の9月にようやく完成したが、その内容は、第二部、確定債権(戦争とは直接関連がない単純な債権債務関係)。第三部、中日戦争および太平洋戦争に起因する人的、物的被害。第四部、日本政府の低価収奪による損害(所謂、強制供出による損失)からなっていた。
上の二巻の中の第一巻、すなわち、現物返還要求については、作成後、まもなくマッカーサー司令部に送られたことは知っているが、私は、その年の6月に法制部長を辞任したため、第二巻の内容がどのように取り扱われたのかは知らない。
対日賠償要求調書を作成した当時には、先に述べたように具体的にそれをどうしようという計画はなかったが、今になって考えてみれば、それが韓日会談を開くためのわが政府の重要な基礎作業だったと思う。なぜなら1950年6月には共産南侵のため政府が釜山に遷都したため、この調書が無かったならば1951年に韓日会談を開くのは難しかったと考えるからである。
避難生活の混乱の中で、対日賠償要求調書のような、旧文書を調べなければならず時間のかかる文書を作成することは、不可能に近かっただろうからである。
二 サンフランシスコ平和条約草案
政府を辞職したあと、私は、教育法基礎など教育部分を除けば、政府の仕事には特に関与せずにいたが、1・4後退後、数か月たったある日(3月末ごろと記憶するが4月はじめだったかもしれない)、当時法務部の法務局長であった洪璡基(ホン・ジンギ)氏が、日本の新聞1紙を持ってやってきた。対日講和条約の草案の訳文が掲載されていたが、それを見れば、我が国の利害に関係する部分が少なくないばかりか、帰属財産処理についての規定は、まかり間違えば我が国に非常に不利であるようだとのことであった。
洪璡基氏とともに検討してみると、果たして彼の言うとおりであった。帰属財産についての草案の規定は、不利などころではなく、我が国にとって明らかに危険なものであった。草案によれば、帰属財産は、草案第四条A項により処理されることになっているが、同項によれば、韓国内にある日本および日本国民の財産(すなわち帰属財産)の処理と、日本内にある韓国および韓国国民の財産の処理は、韓日両国間の「特別協定」により決定されることになっていた。
韓国の全財産の80パーセント、90パーセントともなれば、帰属財産の処理を日本と協議して決定するとは、まさに韓国の独立を日本と協議して決定するということと同じことではないか!
周知の通り、帰属財産は、米軍政法令第33号により、米軍政庁に帰属し(vested)所有された(owned)ものであり、その後「韓米間の財政及び財産についての最初協定」(1949.1.18.条約第一号)により、その財産に関する一切の「権利、名義、および利益」は、わが政府が米軍政から譲渡されたものであった。ちょうど私は、政府樹立直後に始まった前記の協定締結のための協議に最初から最後まで参席しており、(我が方の主席代表 李範奭総理、代表 金度演財務、張澤相外務、李順澤企画、兪鎮午法制、米側主席代表 ヘルミック准将)、帰属財産についての法理に比較的明るかった。我が国は、前記協定により、帰属財産についての完全な所有権をすでに取得していたのであり、日本側と改めていかなる協議もするべき理由は少しも無かったのである。たとえ、日本側が同財産の処理について何か言いたいことがあるとしても、それは、その財産を帰属させ、所有した米国に対してなされるべきことであり、我々を相手とすることではないという見解であった。
帰属財産についての規定の他に、草案第二条の、我が国の領土についての規定も私には不満であった。第二条A項には、我が国の付属島嶼として、済州島、巨文島、鬱陵島だけが例示されていたが、韓半島の付属島嶼を全部列挙することは不可能であり、また不必要なことであるが、韓日間の紛争がありうる島嶼、例えば独島のようなものは、我が国の領土であることを平和条約の中に明記しておかなければならないと思われた。
日本で新聞にまで条約草案が発表された以上、重要な利害関係国である我が国にも、その草案が送付されて来ているものと思われ、私は洪璡基氏にそのような事実の有無について訊ねたが、わからないという答えであった。時を争う問題であり、どうしたら良いか考えていたが、ちょうどその数日前に、駐米大使から帰国した新任の張勉総理に会った時に、「いつでも、どんなことでも、私に会うべきことがあれば訪ねて来い。どんなに忙しくても、必ず会う」と言っていたのを思い出した。新たに外務部長に任命された卞栄泰氏は、国連代表として、まだ帰国していない時であった。
その二日後の朝、私は慶尚南道道庁の中にあった国務総理室に張勉博士を訪ねて行った。喜んで会ってくれた張総理に、私はいきなり平和条約草案についての話をし、わが政府としても、急いで意見書を作成して送る必要があると言うと、彼も私の言葉に全く同意してくれた。それならば、米国政府から送ってきた草案の写本があるはずであるが、そのようなものが我が政府に来ているのかどうか、張総理も知らないでいた。秘書官に命じてあちこち調べさせたが、そんなものは誰も知らないということであった。
米国政府から平和条約草案を、重要な利害関係国である我が政府に送って来ていないことに対して私は非常に失望し、また不快に思ったが、たとえ、いかなる理由で写本を送って来ないにせよ、我が政府としては必ずそれに対する意見書を提出しなければならないと考え、私はすぐに意見書作成の準備に着手した。
その第一番にたずねて行った所は、崔南善氏の家であった。(その時、東莱方面にたずねて行ったようであるが、確実ではない)。歴史上から見て、我が領土として主張することが出来る島が、どれとどれであるかを知るためである。六堂(訳注:崔南善の号)は、果たして記憶力が良い方であり、独島の来歴を、即座に、私が確信を持てる程に説明してくれた。次に、私は対馬島について、「李博士は、対馬島も我が国の領土だと何度も言っていますが、根拠が確実ですか?」と訊ねると、六堂は声を立てずに笑って首を左右に振った。ところがそのかわり、六堂は、私に新たな知識をひとつ与えてくれた。我が国の木浦と日本の長崎、中国の上海を連結する三角形の中心となる海中に、「パラン島」という島があるが、表面が非常に浅くて、波の中に埋もれたり、現われたりするということだった。「パラン」というのは、草(プル 水ムルの誤植か?)が青く・・・してする語なのか、波の中に入ったり、現われたりするので「波浪」というのか、確実ではないが、いずれにしても、それは我が国の領土としてこの際に確実にしておくのが良いだろうということであった。六堂の言葉に私が狂喜したことはもちろんである。もし、この島の名前が対日平和条約の中に明記されることになれば、我が国は済州島の西南方に大きく領域を広げることになるのだから。
二三日後、張勉総理から緊急の連絡があって行って見ると、何かの書類を手にして、「もう二週間前に大統領の所に来ていたのに、ある秘書の引き出しの中に今までほうり込んで置いたままにしていたんだそうだ。チッ チッ。(舌打ち音)」と不機嫌に言った。書類は、もちろん、数日前から捜していた、米国政府から送られてきた対日平和条約草案であった。私は、国事をこのように処理することがありうるのか、とあきれて物も言えなかったが、いずれにしても良かったと思い、そのまま草案について洪璡基氏とともに内容を研究・検討しはじめた。
当時、このことについて政府部内で我々に最も理解を示し、協力してくれたのは、金俊淵(キム・ジュニョン)法務部長官であった。彼は、張総理とともに、我々の意見に全面的に同調し、国務会議(閣議)の席上でも、欠席中の外務部長官に代わって我々の意見をおおいに代弁してくれた。
しかし、すぐに我々は難関に突き当たった。張総理、金法務などが、帰属財産についての法理をいくら説明しても、李大統領は、「マッカーサー将軍が私に約束した言葉がある」として、平和条約草案の修正を要請するのに賛成しないということであった。
仕方なく、我々はムチオ大使を動かす努力を始めた。その時、誰がムチオ大使にあったのか確実な記憶が無いが、崔斗善(チェ・ドゥソン)氏などがしたことだと思う。ムチオ大使は、すぐに我々の言うことを理解してくれたそうである。
ムチオ大使が、その後、李大統領に会い、説得を試みたかどうか、私は知らない。しかしいずれにしても、李大統領もわれわれの意見に賛成するようになり、我々は外務部の中に「外交委員会」というものを構成し、我が政府の意見書を作成しはじめた。その時、委員として参席した人は、金俊淵(キム・ジュニョン)法務、崔斗善(チェ・ドゥソン)、裴廷鉉(ペ・ジョンヒョン)、洪璡基(ホン・ジンギ)、李建鎬(イ・ゴノ)、朴在隣(パク・チェリン)、そして私、などであった。
意見書作成にあたって、まず第一に問題になったのは、大韓民国が対日平和条約の署名国の一つとなることを要求するのか、ということであった。もし我が国が平和条約署名国の一つになりさえすれば、我々は日本に対し戦勝国の地位を持つことになり、したがって戦争賠償を受けられるのはもちろん、その他のあらゆる問題について絶対的に有利な位置に立つことになるからだった。しかし、この問題はあまりに政治的であり、また重慶臨時政府時代以来、散発的に何度も論議されてきたことであったため、すでに作成された草案に対する部分的意見書に含ませるにはあまりに重大であったので、大統領の活動に一任することにし、ここには入れないことにした。
意見書は、4、5個の条項から構成されていたが、帰属財産問題と領土問題の他のものが何であったのかは、今は覚えていない。領土問題中、「パラン島」は、実存するかどうかが確実でなく、自信がなかったが、たとえ実存しないにしても、入れておいて害になることも無いだろうとして、独島とともに平和条約第二条に追加するように要求した。
そうしているうちに、卞栄泰(ピョン・ヨンテ)新任外務部長官も帰国して執務するようになり、外交委員会の委員たちとともに意見書作成に協力した。特に、作成した意見書の英訳は、卞長官が直接に専担し、一字一字、精密に検討した。
意見書の英訳まで終えた私は、再び私の仕事(戦時聨合大学のこと、海軍法務監室で米国海軍関係の法典を翻訳すること等)に専心していたが、ある日(いつであったか確実ではないが、6月初め頃ではなかったかと思う)、久しぶりに外交委員会を開くというので出向いたところ、卞外務長官から我が政府の意見書はすでに米国政府に送ったという報告があった。私はとても満足した。しかし、席上で配布された意見書の写本(英文)を見て、私は憤慨した。委員会で作成した意見書に、非常に長い前文をつけ、内容も、1、2項目追加されていたが、その前文なるものは奇怪で、本文で展開した法理論と相衝する(あいいれない)内容であったからだ。誰がこんなことをしたのか、と言うと、大統領顧問である米国人が加筆したものだという答えであった。私は、非常に不快であったが、もうどうすることもできなかった。
それはそれとして、我が政府で意見書を送った結果として、対日平和条約の第四条にB項が追加されたことは、我々の外交の大きな収穫であった。その後、韓日会談を通して我々が骨身に染みて経験したところであるが、新設されたB項に、日本は米軍政庁が帰属財産について行った処分(帰属、所有、およびわが政府への譲渡)の効力を承認すると明示されているにもかかわらず、そのまま、その財産に対して今だに「請求権」なるものを持っていると、止むことなく主張し、何度も会談を決裂させたのであるが、もし、その条項が新説されていなかったならば、どんな主張を持ち出してきたのか分からないのである。
帰属財産についてのことだけが採択され、それ以外の我が政府の意見は、すべて拒否されたことは遺憾なことであった。特に、独島を平和条約の中に明記しなかったことは、長く続く紛争の種を残した処置であった。日本占領軍最高司令部が、当初いわゆる「マッカーサー線」を引く時にも、彼らは独島を「マッカーサー線」の外に置いたのであり(すなわち、日本の漁船が独島まで来る事ができないようにしたのであるが)、ここへ来てそれを平和条約の中に明記しなかったことは、理解することができない処置であった。しかし、そうだとしても、それをもって米国が独島を日本領土と考えているとは、もちろん解釈されない。鬱陵島に付属した小岩礁にすぎないので特記する価値がないものと見た結果にすぎないのである。
パラン島は、その年の夏、韓国山岳会の洪鐘仁(ホン・ジョンイン)氏が主導し、わが海軍の協力のもと、日本海軍水路部で発行した海図を持って実地探査したのであるが、ついに発見できずに終わった。忽忙中、不得意なことであったが、国家の権威を象徴する公式の外交公文書に、実存しない島の名前を書き、我が領土だと主張したことは、取り返しのつかない失敗であった。
そうこうするうちに、政府部内では、韓日会談開催の機運が熟してきた。我が国は、対日平和条約の関係国として、同条約により、請求権、海底電線、漁業、通商航海などの自らの問題を日本と協議・解決するようになっているばかりでなく、日本における僑胞処遇問題、解放後の密入国者の強制送還問題、船舶問題などで、当時すでに駐日代表部とSCAP間で交渉が進行中であり、それがわが国会でも問題になっていたからである。
この論文については、2010 - Feb. 22 - Happy Takeshima Day !!で議論したものです。
ReplyDelete兪鎮午氏についての情報が日本語で得られませんでしたので、Wikiから拾ってきました。もし、より信頼性の高い情報をお持ちの方は、お知らせ下さい。また、画像についてもここから拾ってきたもので、確実ではありません。(若い時分の写真があるとよいのですが。)
Kaneganeseさん ありがとうございます。
ReplyDelete前回コメントした
太田修『日韓交渉~請求権問題の研究~』2003年3月25日刊(クレイン=出版社名)
72~73p
1951年3月20日頃にアメリカ国務省が最初の対日講和条約草案を韓国政府に手交すると(注5)、4月16日、韓国政府は外務部に「対日講和会議準備委員会」(後に「外交委員会」と改称)を組織し(注6)、対日講和条約草案の検討作業と対応策の立案作業を進めた。
(注5)金東祚『回想30年 韓日会談』1986 10p(邦訳『韓日の和解―日韓交渉14年の記録』林建彦訳 サイマル出版会1993)
(注6)委員長は張勉総理、委員は趙炳玉内務部長官、金度演法務部長官、裴廷鉉大法官、兪鎮午前法制処長、崔斗善東亜日報社長、張基栄韓国銀行総裁、孫元一海軍参謀総長、洪鐘仁朝鮮日報主筆、林松本殖産銀行総裁、洪璡基法務部法務局長、李建鎬・朴在摂高麗大学教授などだった。
兪鎮午「言い残して置きたい話 韓日会談(7)」『中央日報』1983年9月5日
金東祚 前掲書 11p
・・・・・・・・・・・・・・・・・
この、(注5)の金東祚の邦訳『韓日の和解―日韓交渉14年の記録』林建彦訳 サイマル出版会1993)には、5pに次の記述があります。
「米国務省は、51年3月20日ごろ駐米韓国大使館を通じて、韓国側に対日講和条約試案を手渡しながら、韓国政府がこれを充分に検討し、韓国政府として申し入れるべき事項があれば提示するよう要請した。」
アメリカ政府は、当時こんなに韓国政府に親切だったのかなあ、と思いますが。
なお、同書4pには
「私[金東祚]が外務部政務局長に就任した1951年春には、アメリカ合衆国の対日講和条約(日本国との平和条約)交渉がほぼ最終段階にさしかかっていた。」
とあって、金東祚も情報に通じていたことを伺わせます。
草案を「2週間、引き出しの中にほおりっぱなしにしていた」という話は、話としては面白いですが、果たして本当でしょうか?
兪鎮午が情報からはずれていた、という意味でしょうか。
さて前回も述べたとおり、
外務部「対日講和会議準備委員会」(後「外交委員会」と改称)の意見書作成による要請への「回答」として、同年8月10日のラスク書簡があったわけでしょうから、この「外交委員会」のメンバーには、少なくともラスク書簡の内容は周知されたのではないでしょうか。
とすれば
委員長は張勉総理、委員は趙炳玉内務部長官、金度演法務部長官、裴廷鉉大法官、兪鎮午前法制処長、崔斗善東亜日報社長、張基栄韓国銀行総裁、孫元一海軍参謀総長、洪鐘仁朝鮮日報主筆、林松本殖産銀行総裁、洪璡基法務部法務局長、李建鎬・朴在摂高麗大学教授など
というメンバーの人たちは、みなラスク書簡を知っていたことになります。
思うに、これらの人たちは、一致して、ラスク書簡を「認めない」あるいは「無視する」ことに「決めた」のではないでしょうか。
なぜなら、それは「正しくない」文書だからです。
韓国側の「正しい」主張を聞いていない文書は、「正しくない」文書で、儒教的倫理観からすれば、そんなものは「無視して当然」、あるいは「無視してこそ愛国者」、だったのかもしれません。
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ReplyDelete「1・4後退後、数か月たったある日(3月末ごろと記憶するが4月はじめだったかもしれない)、当時法務部の法務局長であった洪璡基(ホン・ジンギ)氏が、日本の新聞1紙を持ってやってきた。対日講和条約の草案の訳文が掲載されていたが、それを見れば、我が国の利害に関係する部分が少なくないばかりか、帰属財産処理についての規定は、まかり間違えば我が国に非常に不利であるようだとのことであった。」
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文中にあった「日本の新聞」を、matsuさんが朝日新聞と特定して下さったので、探してきました。
1951年1月~9月までずっと読んできましたが、おそらく、4月2日のこの記事で間違いないと思われます。
「対日講和草案の概要 ダレス氏、講演で明示」(朝日新聞 昭和26年4月2日)
前日には「講和草案の全容きょう発表 ダレス氏演説」(朝日新聞 昭和26年4月1日)という記事がありました。記事を読む限り、朝日新聞はアメリカの大学での講演を元に記事/翻訳を書いているようですね。
1951 年1月から2月にかけて日本に滞在したダレス特使が、(フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを歴訪した後)帰国後数週間で草案を書き上げ、3月 19日には「事実上完成」し、3月20日に米上院へ講和案が提出されます。3月29日付けの朝日新聞では、「米の対日講和草案はすでに完成、関係15ヶ国に配布中だという」とあります。
外務省のサイト(日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉)では
「3月27日、米国より平和条約草案(全22条)が提示され、日本側は4月4日付覚書をもって、案文への若干の修正意見を付しつつ、内容には異存のない旨を回答しました。
また、それより前の3月17日には、日本は「イニシアルされた文書に対する日本政府の意見および要請」を提出し、米国が日本防衛の責任に対し明確にコミットするよう日米安全保障協定案の修正を求めました。しかし米国側はこれに応じず、日本は自衛力がないので相互安全保障の取極をなしえないと回答しました。
本項目では、第1次交渉と第2次交渉の間に日米間でやりとりされた文書を中心に、全12文書を採録しています。 となっていて、日本政府は3月27日にアメリカから草案を提示されているようです。以上から、韓国が3月20日頃に手渡しされた、というのは時期的に符合します。」
後ほど、1951年の動きが分かるように他の記事も含めてまとめて紹介したいと思います。
Kaneganeseさん
ReplyDeleteいろいろな調査ありがとうございます。
こまかいディテールがだんだんわかってくるのはスリリングです。
「朝日新聞」を特定したのは私ではなく「東亜日報」の5月22日記事です。
Yabutarouさんの
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/toa.html
起こしの5パラ目、新聞の影印の2段目の5行目にあります。
それにしても、ラスクの「ロサンゼルスでの講演」という形で平和条約草案が公表されたんですね。
>3月 19日には「事実上完成」し、3月20日に米上院へ講和案が提出されます。
>3月29日付けの朝日新聞では、「米の対日講和草案はすでに完成、関係15ヶ国に配布中だという」とあります。
とのことですが、この部分の記事も画像がありますでしょうか。
というのは、外務省のHPで
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/bunsho/h18.html#7
III 米国草案の提示
3月27日、米国より平和条約草案(全22条)が提示され、日本側は4月4日付覚書をもって、案文への若干の修正意見を付しつつ、内容には異存のない旨を回答しました。
とあり、正式に日本に提示されたのは27日ということになります。そうすると
「米上院に提出」されたのと同日の3月20日ごろに、韓国側には行っている、というのは、やや早すぎるようにも思います。金東祚の文章の信憑性の問題でもありますが。
駐米大使館で手渡し、というのは正式な提示だと思います。
日本への提示の方が普通は早いのではないでしょうか。
外務省HPでは、それに続いて、
また、それより前の3月17日には、日本は「イニシアルされた文書に対する日本政府の意見および要請」を提出し、米国が日本防衛の責任に対し明確にコミットするよう日米安全保障協定案の修正を求めました。しかし米国側はこれに応じず、日本は自衛力がないので相互安全保障の取極をなしえないと回答しました。
とありますが、文脈からすると「安全保障問題」に限った分野のことだと思います。
ところで、外務省は、これらの「日本外交文書」への収録文書自体は、ネットにはのせていないんですかね。
時系列の整理、とても大事だと思います。期待しています。
それから、新聞の画像の下が切れているので修正していただけると助かります。
兪鎮午の写真です。
http://100.nate.com/dicsearch/pimage.html?s=&i=242196001&en=242196&p_i=&a_i=&e=1
http://100.nate.com/dicsearch/pimage.html?s=&i=177815001&en=177815&p_i=&a_i=&e=1
いまあるほうがいいですね。
兪鎮午をネットで探ると、日本でも韓国でも文学関係の記事が多いですね。
This comment has been removed by the author.
ReplyDelete訂正
ReplyDelete「ラスク」は、当然、「ダレス」です。
それにしても、ラスクの「ロサンゼルスでの講演」という形で平和条約草案が公表されたんですね。
前後の時系列関係を明確にするために、塚本孝「サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い」(2005)の「3.サン・フランシスコ平和条約の起草過程」も引用しておきます。(ちなみに、1951年2月の新聞には、講和条約そのものに加え、ダレス特使の訪問と重要人物との会談などの記事が沢山あって面白いです。多すぎて紹介し切れません。講和条約の内容について日本国内で並々ならぬ関心ごとだったことが伺えます。)
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米国国務省の担当者が1947年3月から1949年12月まで数次にわたり草案(内部検討用の試案)を作成した。この時期の草案は、日本に残す島の名称を列挙し、付属地図で日本の領土的範囲を示す方式を採っていた。1947年3月から1949年11月までの米国国務省草案では、竹島は、朝鮮放棄条項に掲げられていた。
1949年11月草案について意見を求められたシーボルド駐日米政治顧問代理は、竹島に対する日本の領土主張は古く正当であると思われるとして再考を勧告した。これを受けて1949年12月の草案では、竹島が日本が保持する領域に加えられ、朝鮮放棄条項からは削られた。
1950年春以降、ダレスJohn Foster Dulles国務長官顧問が各国との調整など実質的な起草者としての役割を担うことになる。ダレスは、それ以前の国務省草案よりも簡潔な草案を作成し、日本に残す島の名前を列挙したり地図で日本の領域を示す方式を取りやめた。この結果竹島の名称も草案から消えたが、竹島を日本が保持する主旨に変わりはなかった(例えば、いわゆる対日講和七原則に関する1950年9月11日付けオーストラリア政府の質問について米国国務省の担当官が作成した回答の中で、竹島の日本保持が明言されている)。 (塚本孝「サン・フランシスコ平和条約における竹島の取り扱い」(2005))
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1951 0301 朝日新聞「講和促進を指示 ト大統領、ダレス特使に」(昭和26年3月1日)
1951 0310 朝日新聞「対日講和の報告書 ダレス氏、米外交委に提出」(昭和26年3月10日)
1951 0319 朝日新聞「条約案は事実上完成 ダレス氏の準備進む」(昭和26年3月19日)
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1951 0320 朝日新聞「今日米上院へ ダレス氏講和案提出」(昭和26年3月20日)
1951 0320 朝日新聞「米に連絡使節常駐 政府黄田氏を起用か」(昭和26年3月20日)
(↑ 講和条約とは関係ありませんが、旧日本外地情況雑件 2. 行政の分離に関する第一回会談録(終戦第一部第一課)で名前の出てきた黄田(おうだ)氏と同一人物と思われる方のの名前が出てきたので、ついでにあげておきます。)
(続き)
ReplyDelete1951 0321 朝日新聞「対日講和、米英調整へ アリソン氏ロンドンに飛ぶ」(昭和26年3月21日)
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1951 0328 朝日新聞「講和へ米国務省の見解 日本の経済自立を重視」(昭和26年3月28日)
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1951 0401 朝日新聞「講和草案の全容きょう発表 ダレス氏演説」(昭和26年4月1日)
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1951 0402 朝日新聞「対日講和草案の概要 ダレス氏、講演で明示」(昭和26年4月2日)
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(さらに続き)
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(兪鎮午、1966)
「(3月末ごろと記憶するが4月はじめだったかもしれない)、当時法務部の法務局長であった洪璡基(ホン・ジンギ)氏が、日本の新聞1紙を持ってやってきた。対日講和条約の草案の訳文が掲載されていたが、・・・」
「たとえ、いかなる理由で写本を送って来ないにせよ、我が政府としては必ずそれに対する意見書を提出しなければならないと考え、私はすぐに意見書作成の準備に着手した。
その第一番にたずねて行った所は、崔南善氏の家であった。…歴史上から見て、我が領土として主張することが出来る島が、どれとどれであるかを知るためである。」
(兪鎮午、1966)
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米国としての正式な草案は1951年3月23日付けで作成され、各国に示された。同草案の朝鮮放棄条項は、単に「日本は、朝鮮、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定していた。
他方、英国は、独自に対日平和条約草案を作成していた。1951年4月7日付け英国草案は、かつての米国国務省草案のように経度緯度による記述と地図上での日本を囲繞する線により日本の領土的範囲を規定していた。竹島は、その線の外に置かれていた。
(塚本孝、2005)
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「李大統領もわれわれの意見に賛成するようになり、我々は外務部の中に「外交委員会」というものを構成し、我が政府の意見書を作成しはじめた。」
「ある日(いつであったか確実ではないが、6月初め頃ではなかったかと思う)、久しぶりに外交委員会を開くというので出向いたところ、卞外務長官から我が政府の意見書はすでに米国政府に送ったという報告があった。」
「我が政府で意見書を送った結果として、対日平和条約の第四条にB項が追加されたことは、我々の外交の大きな収穫であった。…帰属財産についてのことだけが採択され、それ以外の我が政府の意見は、すべて拒否されたことは遺憾なことであった。」(←つまり、平和条約に関して韓国側の意見が取り入れられていたが、竹島の韓国帰属は却下されていたことの証明)
(兪鎮午、1966)
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韓国政府、1951年4月27日に米国務省に送った文書で、サンフランシスコ平和条約に韓国の対馬の領有権を盛り込むよう要求、却下される
(← FRUS目を通したけれど分かりません。このサイトにある「1951年3月付け米国草案(サンフランシスコ平和条約)に対する韓国側意見書」でしょうか。どなたか詳しい内容をご存知ありませんか? 4/27ということは、兪鎮午のこの回想録にある”卞外務長官から我が政府の意見書はすでに米国政府に送った...”この意見書ではないかと思われますが、崔南善のアドバイスどおりであれば独島と波浪島を入れ対馬を除いているはずなのに、どうやら逆に対馬だけで竹島/独島は要求していないようなのです。元の連合ニュースの記事はリンク切れ、しかも画像はどう見ても7/9の文書ですね。記事の内容から4/27と7/9を混同しているとは考えられないし。)
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1951年5月ワシントンで米英の協議が行われ、日本の範囲を特定する英国草案の方式は採用されないことになった。英国は朝鮮放棄条項に済州島、巨文島、鬱陵島の名称を加えることを主張し、米国は受け入れた(英国草案では竹島を日本の範囲から除外していたが、この協議の記録では英国は済州島、巨文島、鬱陵島にしか言及していない。英国はSCAPIN677を踏襲して竹島を除外していたものの、そのことに固執しなかったと考えられる)。
1951年6月にロンドンで再度米英の協議が行われ、その結果1951年6月14日付けで改訂米英草案が成立した。同草案の朝鮮放棄条項は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」となり、この条文が最終的に1951年9月8日の日本国との平和条約(サン・フランシスコ平和条約)第2条⒜となった。
以上要するに、サン・フランシスコ平和条約上、竹島を日本が保持することが確定した。
(塚本孝、2005)
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1951 7月9日 韓国の柳大使がダレス国務長官顧問に対馬を要求⇒即座に断られる
1951 7月19日 韓国の柳大使がダレス国務長官顧問に対馬の要求を断念することを再確認され、"独島"と"波浪島"を要求
1951 8月2日 韓国の柳大使からアチソン国務長官へ書簡:第4条の日本による財産請求権の放棄、第9条にある漁業協定が締結されるまでのマッカーサーラインの存続、第21条に第15条(a)を加えることを要求。(問題の日本が放棄する領土を規定した第2条には言及しないが、第21条には韓国が第2条での利益を受ける権利を有する、とされている。)
1951 8月3日 Mr.Robert A Feareyのメモ:国務省情報局のBoggsがワシントン中捜したが、ドク島とパラン島を特定できなかった、韓国大使館にも聞いたが、ドク島は鬱陵島または竹島の近くであろう、パラン島もそうかもしれない、とのことであった
1951 8月10日 ラスク書簡:「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張されたことがあるとは思われません。」
1951 8月10日 サンフランシスコ平和条約署名
(自分で書いておきながら何ですが、時間がかかった割りに非常に分かりづらいものになってしまいました。新聞記事もバラバラですみません。)
韓国側の流れを解明・裏づけするためには、もっと韓国側資料が必要ですね。
Kaneganeseさん
ReplyDelete素晴らしいです。
新聞は資料の宝庫ですね。
日本側・米国側と韓国側の資料をつきあわせていくと矛盾点も見えてくるはずです。
それから
塚本孝氏の論文は、ぜひ韓国人や、英語圏の人に知ってもらいたいと思います。
ところで駐米韓国大使は「梁裕燦(ヤン・ユチャン)」だと思いますが、
Yu Chan Yang
とあるのを、Yuを姓と勘違いして 柳(Yu)としてしまっているのではないでしょうか?
Kaneganeseさん
ReplyDeleteこの4月2日の朝日新聞の記事には、条約全体の「訳文」はないですね。
兪鎮午の文章には、
「第二条A項には、我が国の付属島嶼として、済州島、巨文島、鬱陵島だけが例示されていたが」
とありますが、
済州島、巨文島、鬱陵島の文字は見えません。
新聞は見出しに、草案の概要、骨子、としており、この段階の講演では、細かい内容は発表していないのだと思います。
また、奇妙なのは、
兪鎮午は
「帰属財産は、草案第四条A項により処理されることになっているが」
と書いていますが、この「A項」というのは、「B項」があるのを前提にしており、草案段階ではAもBもなかったのではないか。
請求権について、韓国側の要望によって「B項」が追加されたのが歴史的事実だったわけで、
この兪鎮午の回想自体、あとで起こった事実を書き込んでしまっている可能性があります。
matsuさん
ReplyDelete"ところで駐米韓国大使は「梁裕燦(ヤン・ユチャン)」だと思いますが、
Yu Chan Yang
とあるのを、Yuを姓と勘違いして 柳(Yu)としてしまっているのではないでしょうか?"
ご指摘有難うございます。全くその通りです。お恥ずかしい。
上記のコメントのうち、
1951 7月9日 韓国の柳大使がダレス国務長官顧問に対馬を要求⇒即座に断られる
1951 7月19日 韓国の柳大使がダレス国務長官顧問に対馬の要求を断念することを再確認され、"独島"と"波浪島"を要求
1951 8月2日 韓国の柳大使からアチソン国務長官へ書簡:第4条の日本による財産請求権の放棄、第9条にある漁業協定が締結されるまでのマッカーサーラインの存続、第21条に第15条(a)を加えることを要求。(問題の日本が放棄する領土を規定した第2条には言及しないが、第21条には韓国が第2条での利益を受ける権利を有する、とされている。)
”柳大使”を”梁大使”とします。 (修正するのが面倒なので、これをもって訂正とさせて下さい。)
それから、兪鎮午氏の若かりし時分の写真も、使わせて頂きました。有難うございました。
ところで先程、塚本孝「平和条約と竹島(再論)」『レファレンス』国立国会図書館、 1994,3月号 を読み返していて気が付きました。
「1951年3月の米国草案は、韓国にも交付された。(43)」 p.48
(42) FR 1951 Vol.VI Part 1 p.1119-
(43) 同右 p944の脚注1参照
とあるので、確認すると、確かにp944の脚注に以下のようにありました。
1 As filed this draft is annexed to a covering memorandum, not printed. In telegram 1386 to Tokyo, March 23, marked "Sebald from Allison," the Department described the distribution of these papers as follows: "Provisional draft Jap Peace treaty with covering memorandum being handed British Charge today and representatives other FEC countries plus Indonesia, Korea and Ceylon during coming week. Draft marked secret with no present intention for publicity." The Department instructed Mr. Allison's Office to provide copies also to Prime Minister Yoshida and to General MacArthur. (694.0013-2351)
The last paragraph of the covering memorandum is as follows: "Govt US would appreciate consideration of enclosed draft and early expression of views. Thereafter, Gove. US will expect get in touch with [the FEC powers, Indonesia, Korea and Ceylon] with view to concerting future procedure."
1951年3月23日 は金曜日ですから、3/25(日)から始まる週に韓国に草案が送られているはずなので、matsuさんご指摘の”金東祚の邦訳『韓日の和解―日韓交渉14年の記録』の「米国務省は、51年3月20日ごろ駐米韓国大使館を通じて、韓国側に対日講和条約試案を手渡しながら、韓国政府がこれを充分に検討し、韓国政府として申し入れるべき事項があれば提示するよう要請した。」”の、3/20日はやはり間違いでしょう。
ちなみに皆さんすでにご存知だとは思いますが、米国務省セントラル・ファイルはウィスコンシン大学がデジタル化したものを公開しています
Foreign Relations of the United States
問題のファイルはこちらから
United States Department of State Foreign relations of the United States, 1951. Asia and the Pacific (in two parts): Volume VI, Part 1 (1951)
このうちの ”Japan, pp. 777-1477”ですが、とっても重たいので、まずダウンロードしてからの閲覧をお勧めします。
”この兪鎮午の回想自体、あとで起こった事実を書き込んでしまっている可能性があります。”
他にも竹島と波浪島をアメリカに要求した時期など、事実関係と合わないことがあるので、とりあえず、兪鎮午 「対日講和条約の検討」(上)(二)~(六)(完)『東亜日報』1951年7月25日~8月1日を読めば、このあたりの錯誤が解明されるかもしれませんね。
Kaneaneseさん
ReplyDeleteGovt US would appreciate consideration of enclosed draft and early expression of views.
とありますから、
「韓国政府がこれを充分に検討し、韓国政府として申し入れるべき事項があれば提示するよう要請した。」
というのは、あながち間違いではないのでしょう。
これを受け取って、韓国政府としては、どのみち意見を言うことになるわけで、兪鎮午の言うような、彼自身の働きかけで、意見書を作成することになったわけではないようですね。
金東祚の文章では、3月20日「ごろ」がミソかもしれません。
いずれにしろ25日(日)の週には、27日の日本と前後してもらっているのでしょう。
Kaneganse様が、米国草案は1951年3月23日付けを提示されたので、ちと調べてきました。
ReplyDelete3/27日午後五時にシーボルトから吉田茂首相が受領した
仮草案(Provisional Draft of Japanese Peace Treaty (Sugegstive Only)には、ChapterⅢ Territoryには、
3.Japan renouces all rights, titles and claims to Korea
のみの掲載御なっております。P333~334
4/4これに対する井口次官からシーボルトに出された、4/4の日本側の意見書に、
この件に関しては特に意見は書かれていません。P351
4/17に作成された英国案は、ふぃありーから外交局において内示されたものでこれには、(p374)
「第二条 朝鮮に対する主権の放棄」のみ記されているだけの様です(ただし英文文書が見つからず)(p388)
これに対しては、日本側は、4/20に意見を井口次官からフィアリーに送っています。(388)
「英国案は、全文に最も明確に出ているように、無条件降伏した敵国に対し戦勝国の課する講和条約の性質を有する。
かのような条約は、必ず、日本国民に深い失望感をもたせ、先日のダレス氏の総理に対する話の様にベルサイユ条約の経験を繰り返すこととなり、
折角米国案によって喚起された、連合国と合携さえて国債の平和と安全の維持に寄輿せんとするその意欲をスポイルするであろう、
(以下略)として、米国案が望ましい旨を意見しています。
4/21には西村局長がフィアリーに対して、「英国の平和条約案に対するわが方の逐条的見解について」が出されています。396-397
ここでは、
第一条において、
「英案の如き緯度経度による詳細な規定振は、日本国民に対し領土の喪失感を強く印象付けるので感情上面白くない」
「附属地図をつけることも、国民感情に輿える影響に対する考慮から反対」
「本条は、一般に米案の方が望ましい」としています。
第二条においては、「朝鮮に対する素権の放棄に関する規定があるが、わが方は意義は無い」との意見を送っています。
この後しばらく領土関係について記載されている草案の部分変更はなく、
7/7にシーボルトが西村局長に渡した平和条約および宣言案(7/3作成)DRAFT JAPANAESE PEACE TREATY July3 1951には、
CHAPTER II TERRITORY (a)Japan, recognizing the independence of Korea, renounces all right, title and claim to Korea, including the island of Quelpart, Port Hamilton, and Dagelet
とあります。P530
この草案に対して、日本からは、「平和条約案に対するわが意見」として、7/12に、
西村局長からRichard B Finnに交付されていますが、これにはとくにCHAPTER II TERRITORY (a)に関する意見は記載されていません。
このあと、7/13には吉田総理内奏資料に、「平和問題に関する総理の内奏資料」がありますが、
これには、「アリソン公使によりますと、米英案は、米案を本体として、それに英案を加味したものである」と記載があります。
(559)
最終的には、平和条約・宣言・議定書の最終案として、51/08/15日午後七時半に、フィン書記官より西村局長がTREATY OF PEACE WITH jAPANを受領していますが、
素懇意は、
CHAPTERⅡ:TERRITORY ARTICLE 2 (a) Japan, recognizing the independence of Korea, renouces all right, title and claim to Korea, including the island of Quelpart, Port Hamilton and Dagelet
とあります。
「日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 対米交渉 平成19年 外務省」
*この本は既に出版されておりこういった初歩的なものを今までチェックしていなかった自分に失望してしまいました。
すみません、あと、どなたか失念しましたが、提示された日本国との平和条約草案の解説 S26.08.04発表の内容で朝鮮領土放棄に関する関連部分は以下になります。
ReplyDelete三、領域(第二章第二一四条)
日本は~(省略)......第一のこれまでの日本の領土の一部であったうち、朝鮮については、その独立を承認することになつている。
それ以外の地域については、日本は、その権利、権限及び請求権をほうきするだけであつて、権利放棄後の帰属については言及されていない。
なお、朝鮮の範囲は、済州島、巨文島及び鬱陵島がふくまれることになつているが、これらは終戦前も朝鮮総督府の行政管轄下にあつた島である。とあります。(674)
7/7にシーボルトが西村局長に渡した平和条約および宣言案(7/3作成)DRAFT JAPANAESE PEACE TREATY July3 1951 と同時に、「平和条約案および宣言文の交付に関する連合国宛米国覚書」
ReplyDeleteなるものも同時に手渡されていたそうです。
(1951.07.07 シーボルトから西村局長に渡された、「平和条約案および宣言文の交付に関する連合国宛米国覚書」
添付した対日平和条約及び日本国による二箇の宣言の草案は、合衆国政府
及び連合王国の陛下の政府が、(!)日本国に対する戦争にもつとも密接な関係
を持つた諸国の政府に対して三月の後半に厄付した合衆国の條約草案、(2)こ
れと独立に起草されてほぼ同時期に英連邦諸国に回付した連合王国の草案
並びに(3)前期の二草案に関して関係諸政府から受領した所見および意見に基い
て起草された。
添付した草案には、日本国との平和を達成するのに連合国にとつてひろく受
諾しうる條件を具体的に現わしたものであると信じられる。
を受けた政府が、添付された草案に対してさらに意見をもつことがあ
る場合には、一九五一年七月二十日またはその頃に合衆国政府及び連合王
国の陛下の政府の共同の発起の下に、特別の事情が存在する場合を除き、日
本国と戦争状態にあるすべての国の政府に、ここで要請した意見から生ずる
修正を加えた草案を、これら諸国のゆうすることある所見の提出要請並びに千
九百五十一年九月三日又はその頃に_______において開催しうるよう
希望される平和条約の最終的審議および調印のための会議への招請とともに、
正式に回付する予定であることを念頭におかれて、できる限りすみやかにそ
れらの意見を合衆国政府に提出されるよう要請する。草案は、日本国に対す
る戦争に、関係した度合がより密接でない連合国に千九百五十一年七月九日
に非公式に 府されることになる。
條約草案及び宣言は、一九五一年七月十二日に公表される予定になつ
ている。それまでの間、草案の機密扱いを厳重に守られたい。
GTOMRさん
ReplyDelete情報有難うございます。韓国側の流れをもっと詳しく解明するには、日米の動きを正確に捉えることは大事ですね。
ウィリアム・シーボルドの回想録によれば、条約草案は、3月27日の日本よりも、韓国側のほうに早く見せられていたようです。しかも、金東祚の言う3月20日ごろ、というのも近い情報のようです。
ReplyDeleteウィリアム・シーボルド『日本占領外交の回想』野末賢三訳
1966.3.30刊 朝日新聞社
(原著 “with MacArthur in Japan” (1965)N.Y.)
229p~230p
1951年3月の第3週中には、ダレスは、対日平和条約の暫定草案を完成した。(略)ダレスは草案の内容を議員によく周知してもらい、その意見を求めるために、3月19日、米国上院外交委員会の極東小委員会とこの暫定草案を十分に検討した。ダレスは、さらに、その外交手腕を発揮し、ワシントン駐在の主要連合国14カ国および朝鮮の外交代表を招致し、草案の写しを渡して、速やかに各国政府の意見を提出するよう求めた。
私が東京に帰ってから一週間後の3月27日、私は国務省の訓令によってマッカーサー元帥に、草案を提出することができた。
(略)
私が吉田首相に草案の写しを渡すとき、これは秘密の文書であって、事前に日本で一般に知れるようなことがあれば、大きな被害をうけることになるかも知れないということを、彼に強く印象づけるために非常に努力したものだった。ところが、4月7日午前1時半、私はワシントンのダレスからの電話で目をさまされた。条約草案が「漏れ」て、ワシントンの朝刊に出ているのだが、日本の新聞にも出そうかどうか、と尋ねてきたのだった。間もなく私は、電話をかけ直して、東京の各紙は、条約全文を米国の通信社から入手して、間もなくこれを掲載した新聞が発行されることになっている、と返事することができた。ワシントンとのこの電話のとき、私は、この漏洩は、故意かどうか明らかではないが、ワシントンのインド大使館で起ったことも知らされた。(引用終わり)
4月2日の朝日新聞を見ると、ロサンゼルスでのダレスの講演によって条約の骨子が明らかにされたわけですが、さらに、この「漏洩」により、4月7日には、より詳しい草案の内容が新聞に報道されたようです。
実際に、4月7日付の、少なくとも「朝日新聞」と「日本経済新聞」には、条約草案の内容が詳しく掲載されています。(Kaneganeseさんと違って、新聞の画像もなく議論してすみません。)
洪璡基法務局長が、手に持って兪鎮午を尋ねたのは、この4月7日付の「朝日新聞」ではないかと思います。
ところが、この記事を見ても、「済州島、巨文島、鬱陵島」という文字はありません。
しかし、4月16日には、外務部に「対日講和会議準備委員会」(後に「外交委員会」と改称)が設置されたわけで、そのときには、駐米韓国大使館を通じて米国務省から手交された条約草案を、兪鎮午たちも見ることができ、そこには「済州島、巨文島、鬱陵島」を含んだ詳しい内容の条約草案が記されていたのでしょう。
兪鎮午の回想録には、時系列としては、やや混乱した内容が記されているのだと思います。
matsuさん
ReplyDeleteシーボルトの回想録の紹介、有難うございました。
また、「4月7日付の、少なくとも「朝日新聞」と「日本経済新聞」には、条約草案の内容が詳しく掲載されています。」とのこと、こちらも有難うございます。見逃していたようです。パズルのピースがどんどんはまっていって面白いですね。
以下を書き起こしましたので、参考までに。
高崎宗司著『検証 日韓会談』(岩波新書 1966年)
I 会談開始前の日韓関係(一九四五 - 五一年) (p16-20)
サンフランシスコ講和会議と韓国
サンフランシスコ講和会議により四年前の四七年三月二七日、マッカーサー元帥は、東京に立ち寄った朝鮮合同通信社の金東成社長と会見し、「来る対日講和会議には朝鮮も当然代表をおくることになろう」と語った(朝、三月三〇日)。また、ムチオ(John J. Muccio)駐韓米大使も韓国を参加させるよう本国政府に進言していた。本国政府も韓国政府に連合国として平和条約に署名させる方針であった。
一方、李承晩大統領は五一年一月二六日の記者会見で、対日講和会議に対する韓国政府の方針を、①会議に参加すること、②〇四年から一〇年にかけて結ばれた韓日間の諸条約、すなわち「日韓併合ニ関スル条約」などを廃棄させること、③不合理な賠償は要求しないこと、であると明らかにした(東、一月ニ九日)。そして、四月一六日、外務部に「対日講和会議準備委員会」を発足させた。
委員会では対日講和条約の草案をめぐって色々な議論が起こった。法制処長から高麗大学総長に転じていた兪鎮午は、「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」(第ニ章第二条(a))を修正し、独島(日本でいう竹島)なども韓国領土であることを平和条約の中に明記させるべきだとした(六六年二月、九四頁)。そして、「第二条及び第三条に掲げた地域にある日本国及びその国民の財産並びに前記の地域の行政を現在行っている官憲及びそこの住民(法人を含む)に対する日本国及びその国民の請求権(債権を含む)の処分と、前記の官憲及び住民の財産並びに日本国及びその国民に対する前記の官憲及び住民の請求権(債権を含む)の日本における処分とは、日本国と前記の官憲との間の特別取極の主題とする」という第二章第四条(a)についても、「韓国の全財産の八〇%あるいは九〇%にも達する帰属財産の処理を日本と協議して決定するということは、韓国の独立は日本と協議して決定せよというに等しい」(同上)として、米軍政庁法令第三三号(ニ頁参照)や「米韓財政及び財産に関する協定」(四頁参照)の効力を日本が承認する、ということを講和条約の中に明記させるべきだと主張した。
そこで、韓国政府は七月一二日、条約草案に書かれている連合国の中に韓国を含めること、日本が対馬に対する権利を放棄すること、韓日間のすべての条約を無効とすること、など一〇項目からなる覚書をアメリカに送った(東、七月一三日)。そして、七月一八日には、再度、①韓国を対日戦に参加した交戦国と認めること、②日本は韓国に対して、政府所有と個人所有を問わず、すべての財産請求権を放棄すること、③韓国を対日講和の調印国とすること、④韓国と日本との間の漁労水域を明白に決定すべきこと、⑤日本は対馬、波浪島(実在しない島であるが、当時、韓国政府部内では存在するとされていた)および東海(日本でいう日本海)内にある独島に対する要求を放棄することなど五項目の覚書をアメリカに提出した(東、ニニ日)。また、七月ニ六日には、韓国がアメリカに対して三たび講和条約案の修正を要求した。①韓国内の日本および日本人の財産(請求権・債権)を放棄すること、②日本にある韓国および韓国人の財産は日本にある連合国民の財産と同様に返還されるべきこと、③新たなる漁業協定が締結される時まで、マッカーサー・ライン(マッカーサーが軍事統制と日本漁船の操業制限のために引いた線)を存続させるべきこと、などである(東、ニ八日)。
一方、韓国国会はそれより先の七月一九日に、対日講和条約草案第二章第四条を修正させるため、アメリカ国会へ使節団を派遣することを決議していた。米軍政庁法令第三三号に基づく日本人の財産没収の正当性を確認することは、韓国にとって「死活問題」(東、ニ〇日)と考えられたからである。
八月一六日、講和条約の最終草案が発表された。韓国側が強く要求していた第二章第二条の修正は拒否されたが、同、第四条の修正は認められた。(b)として、「日本国は第二条及び第三条に掲げた地域のいずれかにある合衆国軍事当局により、又はその指令に従ってなされた日本国及びその国民の財産処理の効力を承認する」が付け加えられたのである。日本は九月八日、平和条約に調印して、これを承認した。
しかし、九月八日に開かれた講和会議に、韓国は招請されなかった。日本とイギリスが反対したからである。日本の反対理由は、「韓国は開放される国であって戦争状態になかったこと、もし署名すれば、一〇〇万人の在日朝鮮人が連合国人として補償を受ける権利を取得することになって不都合であること等」であった(塚本、九六頁。ちなみにイギリスの反対理由は前段のみ)。
なお、日本の国会で、社会党の曾根益が、第四条に(b)が追加されたことについての政府の考えをただしたとき、西村熊雄外務省条約局長は次のように答弁している。
「第四条につきましては日韓間で話し合いをする場合に、日本にとっては、なんと言いましようか、話し合いの範囲とか、話し合いの効果というものが大いに制約されることになる条項でございまして、面白くないと存じております。」(『第十二回臨時国会参議院平和条約及び日米安保条約特別委員会議録』第一〇号、五一年、一八 - 一九頁).
こうした考え方がその後の日韓会談で問題にされている。
(注)
朝は『朝日新聞』
東は『東亜日報』
東亜日報の記事をみつけました。
ReplyDelete1951年7月25日
対日媾和条約案の検討 兪鎮午 (上)
http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/viewIpqDataNP.jsp?pItemCode=np_da&pIpqParam=np_da_19470723_x0002&pLevel=6&pDatabaseID=np_da&pRecordID=np_da_1948_07_24_0120&pTitle=%EB%8F%99%EC%95%84%EC%9D%BC%EB%B3%B4+%3E+1947%EB%85%84+%3E+07%EC%9B%94+%3E
このGTOMRさんが出してくれた1947年の東亜日報の画面で、右にならぶ5つの四角の、一番右をクリックすると「TOCを見る」というのが出てきます。
(左から、+、-、とならんでいる5つの四角の、一番右です)
これが「目次」のようで、今度は左側の欄に出てくる日付をいじることで、求める日付の記事が得られます。
なぜか、そのURLが直接表示されないのですが、
内容を翻訳しておきます
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1951年7月25日
対日媾和条約案の検討 兪鎮午 (上) 1951年7月25日 東亜日報
はじめに
去る7月12日をもって公表された対日媾和条約草案(米英共同草案)は、いま我が国でも喧々たる物議を呼んでいる。対日媾和条約の内容如何に死活的利害関係を持っている我が国として当然のことであるにもかかわらず、これまで、これに関する片々たる解説書ひとつ現われないことは遺憾であると言わざるを得ない。民主政治は、人民による政治である以上、対日媾和のような重大問題について、民衆が一定の見解をもつことは絶対的に必要なことだからである。
しかし、本稿は、対日媾和条約草案を全面的に解説するために執筆したものではない。対日媾和条約草案中、われわれに直接利害関係があるいくつかの点についてだけ、条文の順序により、簡単に検討しようとするにすぎない。特にあらかじめ言っておきたいことは、本稿は純然たる一個の学究の立場から執筆したものであるという点だ。筆者は政府の外交委員会の一員であるが、本稿は外交委員会の公式見解でもなく、特に外務部の意見でないことは勿論である。
さらに、あらかじめ言っておくことは、本稿は対日媾和条約草案を、まず、冷静な、客観的立場から考察し、そのあとで、それに対し我々がどのような態度をとることが出来るかを考察する、という順序になっている点である。われわれの願いからすれば、すべてを・・・して、我田引水的に解釈すれば、・・・かもしれないが、そうした態度は、彼我の利害がするどく対立している国際会議にあって、われわれの立場を有利にするとは言えない。
我田引水が・・ではなく、我田に引水をしようと思えば、まずもって、法文の正確な意味が何であり、・・・解釈と主張を聞いたのちに、・・正確に知らなければならないからである。
第二条について
第二条中、われわれに関係するのは、A項である。第二条A項の本文は次の通りである。
「日本は、韓国の独立を承認し、済州島、巨文島および鬱陵島を含む韓国に対するすべての権利、権限(TITLE)、および請求権(CLAIM)を放棄する」
本項で問題となる点は2つあると思われる。第一に、韓国の領土を表示する方法として「済州島 巨文島および鬱陵島を含む」とすることが、適当であるかどうかである。我が国は、数百数千に達する付属島嶼を持っているから、そうした島をどのように表現するかが問題になるのである。
ダレス草案の時には、付属島嶼についての表示が全くなかった。全く無ければ、歴史的に韓国に所属してきていて、今でも誰もが韓国領土と知っている付属島嶼は、当然に、韓国の領土になるのであり、むしろまったく問題が無いのであるが、今回の草案にあるように、3つの島名を明記しているのをみると、かえって異常な感がするのである。
万一、純形式的にこの条文を解釈すれば、その時には、これらの島々が韓国に返還され、そのほかの島々は、依然として日本の領土として残っていることになる、というようなたぐいの臆説を言い出す者がいるかもしれないからだ。したがって、この条文は、その様な臆説の余地をまったく封じるように改正されるべきであり、万一、本土から離れた島名を例記する必要があれば、むしろ、徳島(鬱陵島の東南にある・・・ YIANCOURT ROCKS)のようなものを載せるのがよいであろう。徳島はわれわれの領土であることは明白であるが、これを明記しておけば、将来、もめ事が起こる余地がないからである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
印刷が不鮮明で、だいぶ「心眼」が入っています。訳文の確定にご協力ください。
新聞の印刷が不鮮明なのは、韓国政府が北朝鮮に追われて釜山に非難していた時期で、印刷機も粗悪なのでしょう。
「獨島」が「徳島」になっていますね。
51年7月といえば、まだ李ラインも無く、日本との紛争も本格化していない時期です。
matsuさん
ReplyDelete宝の鉱脈を掘り当てた感じですね!!
いや、身動きとれずに困っていたので本当に助かりました。翻訳の方も有難うございました。別に投稿したいと思います。
これから必要な物をどんどん画像ファイル化していきます。
1年前にオークションにかけられることが話題となった高田藩の竹島渡海禁止の高札に関して、朝鮮日報が続報を出しました。
ReplyDelete高札には、「竹島(鬱陵島の日本名)は元禄(1688~1704年)時代から渡海の停止を命じた所なので、他の国の地に航海することを厳に禁止する」とし、「竹島の右側の島も航海してはいけない」と記録されている。右側の島とは独島を言うものだ。
だそうです。
やがて朝鮮日報日本語版か2ちゃんねるに全文が出るでしょう。
2010.03.06
以下は、Yahoo掲示板の半月城さんの投稿を拝借
ReplyDelete天保の渡海禁止令ですが、これを受けて、たとえば加賀藩では次のような「ふれ書」(口語訳)が「郡方御觸」として記録されました。
--------------------
1.今般、松平周防守の元の領地である石州の浜田松原浦にいた住所不定の八右衛門が竹島(欝陵島)へ渡海した一件、吟味のうえ、右の八右衛門その他はそれぞれ厳罰に処された。右の島は、昔は伯耆・米子の者たちが渡海して漁労などをしたが、元禄期に朝鮮の国へお渡しになった時から渡海停止が仰せつけられた場所である。
すべて異国へ渡海することは重いご禁制である。今後、右の島のことも同様に心得て渡海してはならない。もちろん、国々の廻船などは海上で異国船に出合わないように乗り筋などを心がける旨を先年も触れたとおりであるが、いよいよ守り、以後はなるべく遠い沖へ出ないように乗り回すことを申しつける。
右の趣御料は、ご代官私領は領主・地頭より浦方の村や町など洩らさず触れて知らせるべきである。また、触書の趣旨は立て札にして高札場などに懸け置くよう申しつける。
(天保8年)2月
右の通り、触れられるべきである(注3)。
No.15610
2010.03.06
chaamieyさん
ReplyDelete有難うございます。
高田藩の高札に「竹島の右側の島」ですか? まさか、「右(の)島」のことじゃないでしょうねぇ。そういえばかつて「右島」を「石島」と読んだ御仁もいらっしゃいました。でも朝鮮日報ともあろうものがそんな初歩的な間違いをしていることは無いですよね。もしそうなら永久保存版ですね。
いずれにせよ、当時の日本人は竹島を松島と呼んでいて、この会津屋八右衛門の竹島一件においても松島という固有名詞で記録されています。突然右の島になるとは、考えられませんね。
原文画像どこかにありましたっけ?
A級保存しましょう。
ReplyDelete[Why] 日本が必死に阻もうとする「独島高札」の秘密
[朝鮮日報] 2010/3/6 02:57
日本が韓国へ売られることを憂慮していた江戸時代の木の立札が、劇的に韓国に渡って来た。立札には、1837年、独島と鬱陵島は韓国の地だから日本人の航海を禁止するという内容が書かれている。
この立札は、去年 3月、日本の京都で競売に出された。日本の産経新聞は、「当時の日本では独島を鬱陵島と呼び、今の独島とは違う所なのに、韓国側がこれを利用して自国の領土だと誤った主張をする」とし、「この立札が韓国側に移ってはいけない」と言うように報道した。
そういう経緯のこの立て札を、韓国人事業家が 150万円(2000万ウォン)で手に入れた。立札は、日本江戸幕府が独島と鬱陵島周辺で操業した自国漁民 2人を海禁令違反で処刑した翌年に作ったものだ。立て札は、1837年 2月、江戸幕府の命令を受けて高田藩が新潟県地域の海岸に掲示したもので、横 72㎝、縦 33㎝の大きさだ。札の上側には二つの掛けがねが付いていて、掲示板にかけたものと見える。
立て札には、「竹島(鬱陵島の日本名)は元禄(1688~1704年)時代から渡海の停止を命じた所なので、他の国の地に航海することを厳に禁止する」とし、「竹島の右側の島も航海してはいけない」と記録されている。右側の島とは独島を言うものだ。
イ・サンテ国際文化大学院大学碩座教授は、「この立て札は、竹島(鬱陵島)の右側の島(独島)まで航海禁止を命じたように記されて、日本が独島を韓国の地だと自ら認めた重要な史料」と語った。まさにこの「右側の島」という句節のために、日本側は立札の搬出を阻もうとしたのだ。
渡海禁止令の立て札は、日本の鳥取県浜田市の郷土史料館官にも一つが残っている。横 1m,縦 50㎝の大きさで、今回発見された立て札の2年後の1839年に作られたものだ。しかし、この立て札は竹島(鬱陵島)に渡海禁止令を指示したことが記されていて、日本側は、独島は該当しないと主張して来た。一方、我々は、独島は竹島(鬱陵島)の附属島だから特別に記載をしなかったのだという論理を広げて来た。
ReplyDeleteしかし、今回の立て札の発見で、日本が独島を自国の地から排除したことが明確になったのだ。立て札は、続けて、「海上で他国の船と出会わないようにし、できる限り遠海に出ないように沙汰する」となっている。
当時の日本の記録を見れば、「江戸幕府の渡海禁止通知は立て札にして掲示板にかけ、代官(治安担当者)は津々浦々にこれを知らせなければならない」とされている。これに従い、このような鬱陵島・独島渡海禁止令の立て札は、日本の海岸の各所に立てられたものと推定される。
この立て札は、去年3月15日、日本の競売会社であるコギレカイにおいて価格120万円で公開競売に付された。日本人3人が138万円と145万円、150万円で応札した。5万円差で落札されたものを韓国人事業家が引き取った。この立て札が競売に出たことに関心を寄せた日本の報道は、落札された後にも、150万円で売れたが落札者が誰なのかについては競売会社が口を閉ざしているという報道とともに、立て札の行方に関心を見せた。
韓国人事業家は、「この立て札が韓国に移ってはいけないという論調で日本言論が関心を見せて驚いた」とし、「日本側が搬出を禁止するかも知れないという考えから、包みを結んだり解いたりするのを何度も繰り返した。」と語った。
この事業家は、事態が静かになるのを待って、10ヶ月後の今年1月に国内に持ちこんだ。立て札は、国内に入って来た後、虫が食べた穴から木の粉が流れ出て、国内文化遺産保存研究所で保存処理作業を行って公開された。立て札は、殺菌殺虫機能を持たせるよう薫蒸処理して、壊れた表面は伝統の膠で処理した。木の材質は松で、暗い文字は赤外線撮影で判読した。
キム・ドンソプ記者
この記事に高札の写真はありますが、文字の判読はできません。いずれ韓国側から正確な判読結果が発表されるのを待つとしましょうか。
2010.03.06
こちらを見ると、天保8年の高札の内容が書いてあるようですが、今回の韓国の報道と同じものかはわかりません。
ReplyDeletehttp://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kosatu2.htm
(ここの10番目)
定 横四尺五寸長壱尺六寸
今度松平周防守元領分石州浜田松原浦罷在候無宿八右衛門
竹嶋ヘ渡海いたし候一件 吟味之上右八右衛門其外 夫々厳科
被行候 右嶋往古は 伯州米子のもの共 渡海魚漁等いたし候
といへども 元禄の度 朝鮮国ヘ御渡相成候 爾来渡海停止
被仰出候場所に有之 隨而異国渡海之儀は重き御禁制候條
向後右嶋之儀も同様相心得 渡海いたすましく候 勿論国々
の廻船等 海上におゐて異国舶に不出合様 乗筋等に心かけ
申べく旨 先年も相触候通 弥相守 以来は成べくたけ島沖
乗不致様乗廻り申べく候
右被仰出候触書之趣 無違失屹度可相守之者也
天保八酉年四月 奉行
右従江戸被仰下候 堅可相守者也
”右島”は確かに”鬱陵島”のことではありますが、今回の韓国側の者とは同じなのか違うのかはやはり、原文と翻刻を見てみないとわかりません。
"イ・サンテ国際文化大学院大学碩座教授は、「この立て札は、竹島(鬱陵島)の右側の島(独島)まで航海禁止を命じたように記されて、日本が独島を韓国の地だと自ら認めた重要な史料」と語った。まさにこの「右側の島」という句節のために、日本側は立札の搬出を阻もうとしたのだ。"
ReplyDeleteこの教授は日本語が読めていないか、読めていても嘘をついているのか……。
どっちでもいいけど、捏造解釈だけはやめてほしい。
高札にある「右の島」とは竹島(鬱陵島)と読むのがフツーでしょ。
こうまでしないと「独島は我が領土」の根拠がないのかね。それほど根拠が薄弱なのに「明らかに韓国領」と言い張るのはなぜなのか。謎です。
2010.3.6
「大誤報」ですね。
ReplyDelete記事の内容に一部誤解がある、というレベルではなくて、記事の主題自体が、
「徳川幕府は独島への渡航を禁止した」という、事実関係としての誤謬=嘘を報道したわけですから、当然、訂正記事が出てしかるべきレベルの話だと思います。
これは、独島は韓国領土だという主張とはまったく別次元の、「事実関係の誤報」です。
この記事を書いた記者も、担当のデスクも、「始末書もの」ではないでしょうか。
日本の研究者の誰か一人と連絡を取って確認すればすぐにわかる話を、そういう取材をまったくしないで記事にした責任は大きいと思います。
イ・サンテ教授(李相泰教授でしょうか?)も、教授職を即刻辞任しなければならないほどの「無知」のレベルと言えるでしょう。
インターネットの日本語版と英語版がこの記事についてどういう扱いをするか、注目されます。
本来ならば、この韓国語版も、恥ずかしくて、すぐにでも削除してしまいたいほどのものだと思いますが、このままこの記事はアーカイブ化されていくのでしょうか。
そして、もう新聞の紙面としても、紙に印刷されて出回ってしまっているのでしょうか。
朝鮮日報という新聞社が、廉恥というものを知る新聞社であるかどうか、今後の対応に注目しておきたいと思います。
削除されないうちに、是非、魚拓をとっておくべきでしょう。
とりあえず、コピペしておきます。
http://www.chosun.com/site/data/html_dir/2010/03/05/2010030501274.html
[Why] 일본이 필사적으로 반출 막으려한 '독도팻말'의 비밀
• 김동섭 기자 dskim@chosun.com 기자의 다른 기사보기
입력 : 2010.03.06 02:57 / 수정 : 2010.03.06 11:02
한국인이 작년 경매서 구입해 국내로… 첫 공개
1837년 니가타 해안에 걸려 "울릉도 오른쪽 섬은 한국땅 항해 엄중히 금지" 적혀
日언론 "팻말 한국가면 안돼"
일본이 한국으로 팔려갈 것을 우려하던 일본 에도(江戶)시대의 나무 팻말이 극적으로 한국으로 넘어왔다. 나무팻말에는 1837년 독도와 울릉도가 한국 땅이니 일본인의 항해를 금지시킨다는 내용이 담겨 있다.
이 팻말은 작년 3월 일본 교토에서 경매에 나왔다. 일본 산케이신문은 "당시 일본에선 독도를 울릉도로 불러 지금의 독도와 다른 곳인데 한국측이 이를 이용해 자국의 영토로 주장하는 잘못된 주장을 한다"며 "이 팻말이 한국측에 넘어가면 안 된다"는 식으로 보도했다.
그랬던 이 팻말을 한국인 사업가가 150만엔(2000만원)에 입수했다. 팻말은 일본 에도 바쿠후(幕府)가 독도와 울릉도 주변에서 조업을 한 자국 어민 2명을 해금령(海禁令) 위반으로 처형한 이듬해에 만든 것이다.
▲ 일본 경매시장에서 150만엔(2000만원)에 팔려 한국으로 반입된 1837년 일본 에도막부시대의 ‘독도 도해(渡海) 금지’ 팻말. 가로 72㎝, 세로 33㎝ 크기의 소나무 팻말로 윗부분에 2개의 고리가 달려 있다. 독도와 울릉도가 한국 땅이라고 기록되어 있다. 사진은 흐릿해진 글자를 판독하기 위해 적외선 촬영한 것이다.
나무 팻말은 1837년 2월 에도 바쿠후의 명령을 받아 다카다번(高田藩)이 니가타현 지역 해안에 게시한 것으로 가로 72㎝, 세로 33㎝ 크기다. 팻말 위쪽에는 두 개의 고리가 달려 있어 게시판에 걸었던 것으로 보인다.
팻말에는 "죽도(울릉도의 일본 이름)는 겐로쿠(元祿•1688~1704년)시대부터 도해(渡海) 정지를 명령한 곳이므로 다른 나라 땅에 항해하는 것을 엄중히 금지한다"며 "죽도의 오른쪽 섬도 항해해선 안 된다"로 기록돼 있다. 오른쪽 섬이란 독도를 말하는 것이다.
이상태 국제문화대학원대학 석좌교수는 "이 팻말은 죽도(울릉도)의 오른쪽 섬(독도)까지 항해금지를 내린 것으로 기록돼 일본이 독도를 한국 땅이라고 스스로 인정한 중요한 사료"라고 했다. 바로 이 '오른쪽 섬' 이란 구절때문에 일본측이 팻말의 반출을 막으려 했던것이다.
도해금지령 팻말은 일본의 돗토리현 하마다시 향토사료관에도 한개가 남아있다. 가로 1m, 세로 50㎝ 크기로 이번 발견된 팻말보다 2년 뒤인 1839년에 만들어진 것이다.
그러나 이 팻말은 죽도(울릉도)에 도해금지령을 내린 것으로 기록돼 일본측은 독도는 해당되지 않는다고 주장해왔다. 반면 우리는 독도가 죽도(울릉도)의 부속 섬이니 특별히 기재하지 않았다는 논리를 펴왔다.
그러나 이번 팻말 발견으로 일본이 독도를 자국 땅에서 배제한 것이 명확해진 것이다. 팻말은 이어 "해상에서 다른 나라 배와 만나지 않도록 하고 될 수 있는 한 먼바다에 나오지 않도록 분부한다"고 되어 있다.
당시 일본 기록을 보면 "에도 막부의 도해 금지 통지는 팻말로 해서 게시판에 걸어두고 고다이칸(치안담당자)은 방방곡곡에 이를 알려야 한다"고 되어 있다. 이에 따라 이런 울릉도•독도 도해금지령 팻말은 일본 해안 곳곳에 세워졌을 것으로 추정된다.
이 팻말은 작년 3월 15일 일본 경매회사인 코기레카이(古裂��)에서 가격 120만엔으로 공개 경매에 부쳤다. 일본인 3명이 138만엔과 145만엔, 150만엔으로 응찰했다. 5만엔 차이로 낙찰받은 것을 한국인 사업가가 인수했다.
이 팻말이 경매에 나오면서 관심을 쏟던 일본 언론들은 낙찰된 이후에도 150만엔에 팔렸지만 낙찰자가 누구인지에 대해선 경매회사가 함구하고 있다는 보도와 함께 팻말 행방에 대해 관심을 보였다.
한국인 사업가는 "이 팻말이 한국으로 넘어가면 안 된다는 논조로 일본 언론이 관심을 보여 놀랐다"며 "일본측이 반출을 금지할지도 모른다는 생각에 보따리를 싸고 풀기를 여러 번 거듭했다"고 했다.
이 사업가는 사태가 잠잠해지길 기다려 10개월 뒤인 올 1월에야 국내로 들여왔다. 팻말은 국내에 들어온 뒤 좀벌레가 먹은 구멍에서 나무가루가 계속 흘러나와 국내 문화유산보존연구소에서 보존처리 작업을 거쳐 공개됐다.
팻말은 살균살충 기능을 가질 수 있도록 훈증처리하고, 부스러진 표면은 전통아교로 처리했다. 나무 재질은 소나무였고 흐릿한 글자는 적외선 촬영으로 판독했다.
>朝鮮日報という新聞社が、廉恥というものを知る新聞社であるかどうか、今後の対応に注目しておきたいと思います。
ReplyDeleteちょっと無理でしょう。朝鮮日報は信念の固い新聞のようです。
2010.03.06
Kaneganeseさん
ReplyDeleteGTOMRさん
先般話題の「ロシア外交官が見た近代韓国」
著者は「ミハイル・アレクサンドロビッチ・ポジオ」だそうです。
朝鮮日報の日本語版
http://www.chosunonline.com/news/20100307000001
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記事入力 : 2010/03/07 08:57:33
19世紀、西洋は鬱陵島と独島を見分けていた
【新刊】ミハイル・アレクサンドロビッチ・ポジオ著、イ・ジェフン訳『ロシアの外交官が見た近代韓国』(東北アジア歴史財団)
1880年代初め、中国と日本における外交業務を担当していたロシアの外交官ポジオは、1885年に『韓国概観』を著述した。本書はその翻訳版。19世紀末の韓国関連情報を集大成した百科事典的な一冊。鬱陵島の名称と位置を正確に記述しており、当時西洋では鬱陵島と独島(日本名:竹島)を混同していなかったことを示している。544ページ、2万ウォン(約1540円)。
朝鮮日報/朝鮮日報日本語
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ただし、この本の内容は、
「鬱陵島の名称と位置を正確に記述しており、当時西洋では鬱陵島と独島(日本名:竹島)を混同していなかったことを示している。」
だけのようです。
このように、朝鮮日報の日本語版は、大変便利なものですが、
さてさて、例の「立て札の誤報記事」を翻訳してくるのかどうか?
日本語版に、日本語版独自の「解説」はついていたことがないので、
この明らかな「誤報」を、日本語がわかるスタッフが、どう処理するか、見ものです。
朝鮮日報 日本語版スタッフの「廉恥」の程度も知れるというものです。
matsu様が前回紹介された以前の韓国版の報道とずいぶんトーンや紹介内容が異なっているようですね。
ReplyDelete前回
"100余年前、独島が韓国領土であることに言及した「前」ロシア外交官の本も翻訳出版されました。
去る1892年に出刊されたこの本は、独島の「東島」と「西島」まで区分して表記するなど、独島が韓国領土であることを明らかに述べています。"
今回
「鬱陵島の名称と位置を正確に記述しており、当時西洋では鬱陵島と独島(日本名:竹島)を混同していなかったことを示している。」
まあ、ロシアの場合、Palladaがすでにアルゴノートは存在しないことを確認しておりますので、特に目新しい事ではないのですが。
この本、出版早々に韓国の図書館に入るとよいのですが…
そういえばPacifistさん例のロシア海図はどうなりましたか?
ReplyDeleteどなたかすでに魚拓済みでした。
ReplyDeletehttp://megalodon.jp/2010-0307-0303-06/www.chosun.com/site/data/html_dir/2010/03/05/2010030501274.html
しかし地理学の碩学の(はずの)李相泰教授、あの金文吉氏より低レベルですね。これは余りにも痛い。日本の研究者が韓国の研究者を相手にするのが時間の無駄だと思うのも無理はありません。
しかし彼は以前にも同じレベルの歪曲をやらかしてましたね。朝鮮日報も同罪です。
1600's? - The Map of Joseon(朝鮮国図)
この地図はおそらく江戸大節用海内蔵の一部と考えられます。
李相泰さんは確か、1711年の鬱陵島図について、奎章閣のHPで英語版でのみ于山島を竹嶼と認めたんでしたっけ? この辺りの記憶が曖昧です。(どなたか証拠を保存していませんか?)
matsuさん
ReplyDelete有難うございます。
ミハイル・アレクサンドロビッチ・ポジオ『韓国概観』(1855)ですか。おもしろそうですね。本当に「独島が韓国領土であることを明らかに述べて」いるのでしょうか? 日本語版記事が核心をずらして記述しているのが気になります。
この本についてですが、このような内容との事です。
ReplyDeleteロシアはPalladaの測量でアルゴノート島はなく、Dageletだけであり、さらにOlivitsu,Melenei礁があることは結構前から確認を取っていますが、少なくとも鬱陵島の名称については、日本でさえもMatsushima-Dageletが鬱陵島であることを1880年に確認していますので、1885年に書かれた本にDageletに”鬱陵島”という名称の記載があることは別に珍しくはないとは思います。
なお、機会があれば様子を見に行ってもらうことにしました。
GTOMRさん
ReplyDeleteありがとうございます。
翻訳文と原文を対照して、日本語を直しておきます。
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2010/03/07 16:40
http://blog.naver.com/ybs733/130081755951
동북아역사재단『러시아 외교관이 바라본 근대 한국』발간
東北アジア歴史財団 『ロシア外交官が見た近代韓国』発刊
“독도는 한국 영토”, 구한말 러시아 외교관이 밝힌 독도 영유권의 진실
「独島は韓国領土」旧韓末ロシア外交官が明らかにした独島領有権の真実
독도가 한국의 영토임을 분명하게 언급한 러시아 외교관의 저서가 발굴되었다. 동북아역사재단(이사장: 정재정)은 구한말 러시아 외무성에 근무하면서, 중국 및 일본 관련 외교 업무를 담당한 미하일 알렉산드로비치 포지오(Михаил Александрович Поджио)의 저서 러시아 외교관이 바라본 근대 한국을 번역, 출판하였다.
独島が韓国の領土であることを明らかに言及したロシア外交官の著書が発掘された。 東北アジア歴史財団(理事長:チョン・ジェジョン)は、旧韓末ロシア外務省に勤務し、中国および日本関連の外交業務を担当したミハイル・アレクサンドルビチ・ポジオ(Михаил Александрович Поджио)の著書、『ロシア外交官が見た近代韓国』を翻訳、出版した。
1892년 한국개관(Очерки Кореи)이란 제목으로 발간된 이 책은 한국에 관한 종합안내서로서, 러시아 최초의 한국 관련 저술이기도 하다. 포지오는 이 책에서 19세기 후반 한국의 상황을 지리, 국가체제, 사회제도, 산업구조, 민속과 종교 등 다양한 각도에서 광범위하게 소개하였다. 이 책은 1895년에는 독일어로 번역, 출간됨으로써 러시아뿐만 아니라 전 서구인의 한국 이미지 형성에도 심원한 영향을 끼쳤다.
1892年、『韓国概観 (Очерки Кореи)』という題名で発刊されたこの本は、韓国に関する総合案内書としてロシア最初の韓国関連の著述でもある。ポジオは、この本で、19世紀後半の韓国の状況を、地理、国家体制、社会制度、産業構造、民俗と宗教など多様な角度で広範囲に紹介した。この本は1895年にはドイツ語で翻訳・出版されることにより、ロシアだけでなく全西欧人の韓国のイメージの形成にも深遠な影響を及ぼした。
포지오는 특히 한국의 지리 정보를 설명하는 이 책의 제1장에서 울릉도를 포함한 한국의 동해안을 상세하게 설명하고 있다. 그는 ‘울릉도(О-Лон-То)’라는 지명을 분명하게 사용하였으며, 그 위치까지 정확하게 기술했다. 나아가 독도가 한국의 영토임을 분명하게 밝히는 한편, 서도를 올리부차(Оливуца), 동도를 메넬라이(Менелай)라는 이름으로 표기하였다. 뿐만 아니라 한반도 동쪽의 바다 이름을, 한국에 가까운 쪽을 ‘동해’, 일본에 가까운 쪽을 ‘일본해’라고 명시함으로써(Японском и Восточном морях) 일찌감치 동해와 일본해를 병기하기도 했다.
ポジオは、特に韓国の地理情報を説明するこの本の第1章で、鬱陵島を含んだ韓国の東海岸を詳細に説明している。 彼は「鬱陵島 (О-Лон-То)(訳注:ロシア語発音は、オ ロン ト)」という地名を明らかに使い、その位置も正確に記述した。さらに、独島が韓国の領土であることを明確に明らかにする一方、西島をオルリブチャ(Оливуца)、東島をメネルライ(Менелай)という名前で表記した。そればかりでなく、韓半島の東側の海の名前を、韓国に近い側を「東海」、日本に近い側を「日本海」と明示することによって、(Японскоми Восточном морях)、早くも東海と日本海を併記した。
포지오는 1880년대에 이미 한국이 “머지않은 장래에 아시아대륙의 동쪽 변두리에서 중요한 정치적 역할을 수행하게 될” 나라라고 예견하고, 당시까지 출판된 외국의 자료들은 물론 5년 동안 청, 일본, 블라디보스톡에 머물면서 직접 수집한 자료들을 폭넓게 활용하여 이 책을 완성했다. 서문에서 “한국 사람들을 러시아 사회에 알리고자 하는 나의 과업을 완수되기를” 희망한 포지오의 눈에는 미래의 역동적인 한국이 그려지고 있었다.
ポジオは、1880年代に、すでに韓国が「遠くない将来にアジア大陸の東側の端で重要な政治的役割を遂行することになる」国と予想し、当時までに出版された外国の資料らはもちろん、5年間、清、日本、ウラジオストックに留まって直接収集した資料を幅広く活用してこの本を完成した。序文で「韓国の人々をロシア社会に知らせようという私の課題が完遂されることを」希望したポジオの目には、未来の躍動的な韓国が描かれていた。
러시아 외교관이 바라본 근대 한국은 근현대 한러관계사 전문가인 이재훈(성균관대 동아시아학술원)이 번역하였으며, 부록으로 첨부된 CD를 통해 이 책의 원문까지 볼 수 있다.
『ロシア外交官が眺め見た近代韓国』は、近現代韓露関係史専門家のイ・ジェフン(成均館大 東アジア学術院)が翻訳し、付録と添付されたCDを通じてこの本の原文も見られる。
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>独島が韓国の領土であることを明確に明らかにする一方、
とありますが、
単に、『韓国概観』という本の中に、「オリヴツア」「メネライ」が記述されている、というぐらいの意味なのではないでしょうか?
ドイツ語版も面白そうですね。
うしろにのっている「報道参考資料」なるもののほうが情報が詳しいので、こちらも日本語を直しておきます。
ReplyDelete보도참고자료 :『러시아 외교관이 바라본 근대 한국』
報道参考資料:『ロシア外交官が眺めた近代韓国』
제목 : 러시아 외교관이 바라본 근대 한국의 새로운 조명
題名:ロシア外交官が眺めた近代韓国の新しい照明
○ 동북아역사재단(이사장 : 정재정)은 『러시아 외교관이 바라본 근대 한국』라는 제목의 번역서를 발간하였다. 그동안 러시아에서 출간된 한국 관련 저작은 미국, 영국 등 서구에서 출간된 서적에 비해서 한글 번역서가 매우 드물었다. 이런 점에 비추어 본서는 근대 러시아인의 한국 인식을 조명할 수 있다는 점에서 의미가 크다.
○東北アジア歴史財団(理事長:チョン・ジェジョン)は『ロシア外交官が眺めた近代韓国』という題名の翻訳書を発刊した。これまでロシアで出版された韓国関連の著作は、米国,英国など西欧で出版された書籍に比べてハングルへの翻訳書が非常に珍しかった。 このような点に照らして、本書は近代ロシア人の韓国認識を照明できるという点で意味が大きい。
○ 1892년 출판된 러시아외교관 포지오의 저서는 러시아에서 한국에 관한 최초의 저작으로서 1895년 독일어로 번역 출간되었다. 포지오의 저작에 첨부된 지도에는 서도를 올리부차(Оливуца), 동도를 메넬라이(Менелай)로 표기하여 독도를 한국의 영토로 정확하게 포함시켰다. 특히 포지오는 한국의 동쪽 바다의 이름을 동해와 일본해(Японском и Восточном морях)라고 표기했다. 포지오는 19세기 후반 한국쪽 바다를 동해, 일본쪽 바다를 일본해라고 생각하여 이미 동해와 일본해를 병기했다.
○ 1892年に出版されたロシア外交官ポジオの著書は、ロシアで韓国に関する最初の著作として1895年ドイツ語で翻訳出版された。 ポジオの著作に添付された地図には、西島をオルリブチャ(Оливуца)、東島をメネルライ(Менелай)と表記し、独島を韓国の領土に正確に含ませた。 特にポジオは、韓国の東側の海の名前を東海と日本海(Японском и Восточном морях)と表記した。ポジオは、19世紀後半、韓国側の海を東海、日本側の海を日本海と考え、すでに東海と日本海を併記した。
○ 포지오의 저서는 19세기 후반 한국의 지리적 형태, 국가체제, 민속과 종교 등이 개괄되었다. 그 지리적 형태 중 압록강과 울릉도 및 한국의 항구와 섬 등에 관한 고찰이 진행되었다. 무엇보다도 울릉도를 포함한 동해안에 관한 내용이 상세하게 기록되었다. 특히 포지오는 그의 책에서 ‘울릉도(О-Лон-То)’라는 명칭을 사용했고, 울릉도의 위치를 정확하게 기술했다. 이러한 사실은 19세기 후반 서양에서 울릉도를 정확하게 인식했고, 울릉도와 독도를 혼동하지 않았다는 것을 의미한다.
○ポジオの著書は、19世紀後半の韓国の地理的形態、国家体制、民俗と宗教などが概括された。 その地理的形態中、鴨緑江と鬱陵島、および韓国の港と島などに関する考察が行われた。 何よりも、鬱陵島を含んだ東海岸に関する内容が詳細に記録された。 特にポジオは彼の本で「鬱陵島(О-Лон-То)」という名称を使い、鬱陵島の位置を正確に記述した。このような事実は、19世紀後半、西洋で鬱陵島を正確に認識し、鬱陵島と独島を混同しなかったということを意味する。
○ 미하일 알렉산드로비치 포지오(Михаил Александрович Поджио)는 1850년에 태어났다. 그는 군사법률학교(Военно-юридический училищ)에서 수학했고, 1873년 외무부 아시아국에 들어갔다. 그는 1875년 9월 베이징 주재 러시아공사관 시보로 임명되었다. 포지오는 1881년 태평양함대 사령관 레솝스키(Лесовский С. С.) 중장이 지휘한 파견대에서 중국과 일본의 외교 업무를 담당했다. 당시 레솝스키 중장은 러시아와 한국이 수교를 맺을 가능성에 관한 모든 문제를 포지오에게 위임했다. 1882년 러시아에 돌아온 포지오는 자신이 수집한 극동관련 문헌을 정리하기 시작했다. 포지오는 저서를 완성하기 위하여 19세기 후반 외국 서적들 중 확보 가능한 모든 선집, 논문, 통신문 뿐만 아니라, 5년 동안 극동의 청국, 일본, 블라디보스톡에 체재하면서 집필한 자신의 개인적 관찰기와 소논문을 활용했다.
○ミハイル アレクサンドルビーチ ポジオ(Михаил Александрович Поджио)は1850年に生まれた。 彼は軍事法律学教(Военно-юридическийучилищ)で修学し、1873年に外務部アジア局に入った。彼は1875年9月、北京駐在ロシア公使館・・に任命された。 ポジオは、1881年太平洋艦隊司令官レソプスキ(ЛесовскийС. С。) 中将が指揮した派遣隊で中国と日本の外交業務を担当した。 当時レソプスキ中将は、ロシアと韓国が修交を結ぶ可能性に関するすべての問題をポジオに委任した。 1882年ロシアに帰ってきたポジオは、自身が収集した極東関連の文献を整理し始めた。ポジオは、著書を完成するために19世紀後半の外国書籍の中で確保可能なすべての選集、論文、通信文だけでなく、5年の間、極東の清国、日本、ウラジオストックに滞在して執筆した、自身の個人的観察記と小論文を活用した。
○ 포지오는 1880년대 이미 한국이 “멀지않은 장래에 아시아대륙의 동쪽에서 중요한 정치적 역할을 수행할 나라”라고 판단했다. 포지오는 한국과 러시아 관계의 필요성을 제기했다. 그 이유에 대해서 첫째, 러시아와 한국이 1860년 베이징조약에 의거하여 두만강 하구 약 23 베르스타(1베르스타는 1.0668 Km)에 걸쳐 국경선을 형성하게 되었다. 둘째, 러시아가 1884년 한러조약 체결로 자국의 제품을 판매할 수 있는 새로운 넓은 시장을 개척할 수 있게 되었다. 그래서 포지오는 한국과 러시아의 지리적 접근 및 교역의 발전과 확장을 위해서 한국에 대해서 독자적으로 집필하게 되었다고 저술동기를 밝혔다.
○ポジオは、1880年代すでに韓国が“遠くない将来にアジア大陸の東側で重要な政治的役割を遂行する国”と判断した。 ポジオは、韓国とロシア関係の必要性を提起した。 その理由について、最初に、ロシアと韓国が1860年北京条約に基づいて豆満江河口約23ペルスタ(1ペルスタは1.0668 Km)にかけて国境線を形成することになった。 二番目に、ロシアが1884年、韓露条約締結で自国の製品を販売できる新しい広い市場を切り開くことができるようになった。 それでポジオは韓国とロシアの地理的接近および交易の発展と拡張のために、韓国に対して独自に執筆することになったと著述の動機を明らかにした。
○ 포지오는 “누군가 한국 사람을 러시아 사회에 알리고자 하는 자신의 과업을 완수해 주기를 바란다”는 소박한 희망을 피력했다. 그의 희망은 1900년 러시아 재무성에서 발행한 『한국지(Описание Кореи)』, 1912년 러시아 동방학연구소에서 발행한 『한국개관(Очерк Кореи)』 등을 통해서 지속될 수 있었다. 포지오 그의 눈에는 다가올 20세기 역동적인 한국이 가득 찼고, 그의 한국개관은 러시아에 한국의 중요성을 알리는 서막이었다.
○ポジオは、“誰かが、韓国の人をロシア社会に知らせようと思う自身の課題を成しとげてくれることを願う”という素朴な希望を表明した。 彼の希望は1900年ロシア財務省で発行した『韓国紙(ОписаниеКореи)』,1912年ロシア東方学研究所で発行した『韓国概観(ОчеркКореи)』等を通して持続することができた。 ポジオの目には、近づく20世紀の躍動的な韓国がぎっしり埋まっていたし、彼の韓国概観はロシアに韓国の重要性を知らせる序幕であった。
○『러시아 외교관이 바라본 근대 한국』은 신국판으로 시중에서도 구입할 수 있다.(역자 : 이재훈, 출판사 : 동북아역사재단)
○『ロシア外交官が眺めた近代韓国』は・・版で、市中でも購入することができる。(訳者:イ・ジェフン 出版社:東北アジア歴史財団)
ロシアは当時朝鮮の森林資源と竹邊湾の捕鯨基地の租借、朝鮮に権益を拡大しようとして調査していた父子はあります。
ReplyDelete所で、matsuさんご紹介の1900年の韓国誌はわかりませんが、1901年のそれはこの程度しか記載がなかったと記憶しております。
韓国誌1901年の翻訳本(1905)日本農商務省
1885朝鮮の現況(1885)アムール州総督官房付、公爵ダデシュカリアニ (1905.韓国誌より。(韓国誌はロシア大蔵省が1901年頃発行し、それを翻訳したものがこの韓国誌)
朝鮮政府が武器を購入するために、豊かな森林資源を蔵する鬱陵島の開発件をミッチェルという英国人に供与している。此の島から上がる収入は速射砲と大砲の購入に注ぎ込まれる。
観光の森林は外国人の注目を惹きたること一再にあらすダヂレット島の森林は米人ミッチェル氏輸出価格の一半を国庫に収むるの契約を以て韓政府より伐採権を得露人「ブリネル氏は純益の四分の一を収むるの契約にて同政府より伐採険を得たり而してブリネルしの伐採権を得たる区域は豆満江及鴨緑江の流域及びダヂェレット島の森林にして第一に豆満江畔の森林に着手したり其の森林の総面積は豆満江の流域にあるもの約千九百方露里(約日本の百十九方里)にして鴨緑江の流域にあるものは尤も廣く約三千百万露里(約に保温の百八十八方)に達す。
GTOMRさん
ReplyDelete上に紹介された1900年の「韓国誌」については、
「1900年ロシア財務省で発行した『韓国紙(Описание Кореи)』」とあり、
(すみません、この「紙」は「誌」です)
一方で
韓国誌1901年の翻訳本(1905)日本農商務省
については、
リンクされている国会図書館近代ライブラリーの 2コマ目 2/327にあるまえがきに
「本書ハモト露国大蔵省ノ調査編纂セル所ニ繋リ」とありますから、
どちらもロシア大蔵省(=財務省)の編纂・発行したものです
発行年が1年違いますが、同じロシア大蔵省(=財務省)が1年後に全く違う朝鮮関係の本を出したと考えるよりも、実は同じ本と考えるほうが良いと思います。
すなわち、
1900年「ロシア財務省」発行の『韓国誌(Описание Кореи)』と
1901年「露国大蔵省ノ調査編纂セル」『韓国誌』は、
同じものだと思います。
どちらかが、発行年をまちがえているのだと思います。
また、GTOMRさんの引用を「近代ライブラリー」でみると、(26/327コマ=44p)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
韓国の森林は外人の注目を惹きたること一再にあらず。「ダヂェレット」島の森林は、米人「ミッチェル」氏、輸出価格の一半を国庫に収むるの契約を以て、韓政府より伐採権を得、露人「ブリネル」氏は、純益の四分の一を収むるの契約にて、同政府より伐採権を得たり。而して「ブリネル」氏の伐採権を得たる区域は、豆満江及鴨緑江の流域、及び「ダヂェレット」島の森林にして、第一に豆満江畔の森林に着手したり。其の森林の総面積は、豆満江の流域に在るもの約千九百方露里(約日本の百十九方里)にして、鴨緑江の流域に在るものは尤も廣く、約三千百万露里(約二本の百八十八方里)に達す。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(カタカナをひらがなにし、句読点追加。)
とあります。
この「近代ライブラリー」の最終ページと奥付に (322/327コマ)
「韓国誌」終
明治38年7月28日発行 とあります。
明治38年は1905年ですから、日本としては随分早く翻訳していると思います。
この「韓国誌」自体、内容的には上のポジオの本(1892)なども大いに参考にしたのでしょうね。膨大な本ですが、地図や、鬱陵島・オリヴツア・メネライなどの地理的記述がどこにあるのか、うまくさがせません。
さて、
これよりも前に引用された部分がよくわからないのですが、
以下の記述は、このリンクのどこかに書いてあるのでしょうか?
それとも別の本でしょうか?
・・・・・・・・・・・・・・・・
1885朝鮮の現況(1885)アムール州総督官房付、公爵ダデシュカリアニ (1905.韓国誌より。(韓国誌はロシア大蔵省が1901年頃発行し、それを翻訳したものがこの韓国誌)
朝鮮政府が武器を購入するために、豊かな森林資源を蔵する鬱陵島の開発件をミッチェルという英国人に供与している。此の島から上がる収入は速射砲と大砲の購入に注ぎ込まれる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ミッチェル」は米国人でしょうか、英国人でしょうか?
「公爵ダデシュカリアニ」は何者でしょう?
「朝鮮政府が武器を購入するために」とは、どこに書いてあるのでしょうか?
2010.03.10
ポジオの本の発行年が混乱していますが、「1892年」が正しいと思います。
ReplyDelete上記「報道参考資料」が一番正確なのでしょう。
YTNは正しく伝えていますが、
http://www.kjclub.com/jp/exchange/photo/read.php?tname=exc_board_14&uid=3624&fid=3624&thread=1000000&idx=1&page=1&number=2097
「朝鮮日報」の1855年は、まちがいだと思います。
http://www.chosunonline.com/news/20100307000001
この「報道参考資料」によれば、ポジオは1850年生まれです。
また、まだ大韓帝国になる以前なので、日本語タイトルは『朝鮮概観』のほうがよいと思います。
原著(ロシア語)
Михаил Александрович Поджио『Очерки Кореи』
ミハイル・アレクサンドロビッチ・ポジオ『朝鮮概観』(1892)
翻訳(韓国語)
イ・ジェフン訳『ロシア外交官の見た近代韓国』東北アジア歴史財団)(2010)
이재훈『러시아 외교관이 바라본 근대 한국』동북아역사재단
・・・・・・・・・・・・
国会図書館に原著があるようですね。
http://opac.ndl.go.jp/recordid/000006464754/jpn
請求記号 169-267
タイトル Ocherki Korei. Sostavleno po zapiskam M.A. Podzhio.
出版地 S.-Peterburg
出版者 Tip. E. Evdokimova
出版年 1892.
形態 xvi, 391 p. fold. map. 22 cm.
注記 "Istochniki": p. [xiii]
USMARC番号 50054434
個人著者標目 * Podzhio, M. A. (Mikhail Aleksandrovich), 1850-1889.
団体名・地名件名 Korea.
LCC DS902
本文の言語コード rus: ロシア語
書誌ID 000006464754