竹島問題の歴史

8.3.10

1974年 - 5月22日~24日 - 東亜日報「秘話 第一共和国 276-278 : 第十一話 李承晩と日本 4-6」

第五次日韓会談の韓国側代表、兪鎮午は、回想「韓日会談が開かれるまで」(1966)によると、1951年4月(7日か?)朝日新聞紙上に掲載された日本と連合国との平和条約を読んでその内容が韓国に不利である内容があることに驚き、意見書を作成して韓国としての意見を主張する準備を始めます。彼はまず「歴史上から見て、我が領土として主張することが出来る島が、どれとどれであるかを知るため」、歴史学者であった崔南善のところを尋ね、以下のような助言を受けます。

1. 「独島の来歴を、即座に、私が確信を持てる程に説明してくれた」
2. 李承晩大統領
韓国の領土であると主張する対馬は「根拠が確実」ではないこと
3. 「木浦と日本の長崎、中国の上海を連結する三角形の中心となる海中に、「パラン島」という島」があり、「我が国の領土としてこの際に確実にしておくのが良いだろう」

意見書作成にあたって、「大韓民国が対日平和条約の署名国の一つとなることを要求する」ことは、「大統領の活動に一任することにし、ここには入れないことにした。」ようです。また意見書は、4、5個の条項から構成されており、領土問題中、「「パラン島」は、実存するかどうかが確実でなく、自信がなかったが、たとえ実存しないにしても、入れておいて害になることも無いだろうと して、独島とともに平和条約第二条に追加するように要求した。」とあります。意見書は外交委員会の委員たちと外務部長官卞栄泰との協力ももとに行われ、「特に、作成した意見書の英訳は、卞長官が直接に専担し、一字一字、精密に検討した。」後に、6月初め頃にはすでに大統領顧問である米国人が加筆した上で、すでに米国政府に送られたようです。

このように、1966年時点での兪鎮午の記憶によると、6月以前に作成された韓国政府による平和条約への意見書には対馬の要求は取り下げ、竹島と波浪島を韓国領土として明記するようアメリカに働きかける内容となっていたはずです。しかし、アメリカの公文書を確認すると、実際に韓国側からの米国への領土条項に関する要求は、1951年4月頃に歴史学者崔南善によって明確にその権原を否定されたにも関わらず、7月9日までは明らかに続いていたことが分かります。また、竹島(独島)と波浪島の要求は、韓国の梁裕燦米国大使より、ダレス国務長官顧問(後に国務長官を1953年1月21日 - 1959年4月22日の間つとめた。)に対して同年7月19日に突然行われますが、二島について知識がなかったアメリカ当局は、「ワシントン中捜したが、ドク島とパラン島を特定できなかった」し、「韓国大使館にも聞いたが、ドク島は鬱陵島または竹島の近くであろうパラン島もそうかもしれない」という全く要領を得ない回答を得ます。(新羅・朝鮮時代を通じて1947年になるまで韓国人は現竹島の領有権を宣言したことはただの一度もなく、当然その地図に領土としての記載がただの一度も無かったので、特定できないのは当然です。)そこで、1951年8月10日、米国国務次官補ディーン・ラスクは韓国外務省に対し、「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張されたことがあるとは思われません。」と正式に通知します。

この兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」(1966)は以後の戦後日韓関係を研究した著作によく引用されますが、15年後に回想録として書かれたものである為か、竹島問題を考える上で大変重要な事実関係についての錯誤があるようです。以下はこの兪鎮午の回想録を元に書かれたと思われる東亜日報の特集記事です。重複する点も多いのですが、対日講和条約の草案が、当時そのまとめ役となっていたダレス米国務長官顧問によって連合国並びに韓国を初めとする関係各国の意見を取り入れながら修正、作成されたという事実がある以上、韓国側の意見書の内容とその提出時期、米国の反応をより綿密に検討していくことは大変重要であると思われます。

(この記事はyabutarouさんのご紹介(こちら)で、翻訳はmatsuさん、翻訳協力はchaamieyさんです。皆様有難うございました。)

東亜日報 1974年5月22日
秘話 第一共和国 276
第十一話 李承晩と日本 4
独島領有権をめぐって韓日間紛糾しきり
対日平和条約草案に 所有権明記せず


日官憲 漁民慰霊碑破壊

1953年6月27日、日本島根県の官憲30余名が日本海上保安庁の巡視船に分乗し、独島に上陸して「独島遭難漁民慰霊碑」を破壊し「島根県島(訳注:隠岐が抜けている)五個村竹島」という・・を立てた。このような狼藉に、韓国政府は日本外務省に抗議するとともに、警察(警官)をして日本人がたてた独島日本領土権識を撤去せしめた。7月12日には日本島根県の第八海上管内の保安庁所属巡視船「へくら」が独島付近に接近し、韓国警備艇の銃撃を受けたこともあった。独島領有権をめぐる韓日間の紛糾は、このような頻繁な小規模衝突を誘発し、李承晩執権期間内に絶えることなく継続した。日本は独島問題について、1960年3月26日現在で41回の「対韓抗議」をするほどだった。韓日会談代表であり、特に対日平和条約草案の修正作業に参与した兪鎮午(ユ・ジノ)氏は「独島を平和条約に明記せずに残しておいたために紛争の種を残した」として「草案修正」作業当時を次のように回顧した。

1951年3月末、法務部法務局長の洪璡基(ホン・ジンギ)が、対日平和条約の草案を掲載した日本の朝日新聞をもって兪鎮午をたずねた。「草案内容中には、我が国の利害関係に関わる部分が少なくなく、帰属財産の処理規定は我が国に不利な結果を招来するようだ。」兪鎮午が、草案内容を検討した結果、帰属財産処理規定は、不利どころではなく、韓国にとって明らかに危険なものであった。草案4条A項の規定には、韓国内にある日本財産処理と日本内の韓国財産処理は、韓日両国間の「特別協定」で決定されることになっていた。「韓国財産の85パーセントにもなる帰属財産処理を日本と協議して決めろとは、これは韓国の独立を日本と協議して決めるのと同じこと」だと兪鎮午は考えた。帰属財産は、米軍政法令33号のより、米軍政庁に帰属し、「韓米間の財政および財産に関する・・協定」で、その財産一切を韓国政府が米軍政から譲渡されたものである。この協定で、帰属財産に関する完全な所有権をすでに取得しているので、日本とまたいかなる協議をする理由も、少しもなかったのである。「もし、日本がこの財産処理に関して何か言うことがあるとしても、それは財産を帰属せしめ所有した米国に対して言うことであり、韓国を相手にすることではない」というのが兪鎮午の見解であった。

帰属財産規定のほかに、草案2条の韓国領土についての規定も兪鎮午にとって不満であった。2条のA項には、韓国の付属島嶼として、済州島、 巨文島、鬱陵島だけが例示されており、韓半島の付属島嶼を全部列挙するのは不可能であるばかりでなく、不必要ではあるが、韓日間の紛争となりうる島嶼、例えば、独島のようなものは韓国の領土であることを平和条約の中に明記されなければならない、と考えた。日本の新聞にまで平和条約の草案が発表された以上、利害関係国である韓国にも草案を送付するであろうと、その事実を洪璡基に確認したが、「わからない」と言う。時を争う問題だと焦燥した兪鎮午は、数日前、駐米大使から新たに国務総理となった張勉から、「いつでも、どんなことでも、私に会う必要があれば、必ずたずね てきてほしい。どんなに忙しくても必ず会うから」と言われていたことを思い出し、張勉をたずねて、あれこれと平和条約草案について話し、韓国政府の意見書 を至急に作成して発送する必要があると強調した。張勉総理は、兪鎮午の主張を首肯したが、米国政府から送られた平和条約の草案が韓国政府に来てい るのかさえも知らなかった。秘書官たちに各方面を調べさせたが、誰も知らないと言った。問題の「草案」 の行方を捜すことができず、その日は無駄にしたが、2・3日後、張勉総理が兪鎮午を急いで呼ぶので、慶南道庁内の国務総理室をたずねると、ある書類を手にして・・して いた。「平和条約草案は、もう2週間前に大統領に届いていたのに、ある秘書の引き出しの中に今まで入れたままにしていたのだそうだ」

「草案」を手にした兪鎮午は、洪璡基とともに綿密に検討した。兪鎮午は、意見書作成の準備に着手し、まず初めに尋ねたのは崔南善であった。対馬は日本が奪取歴史上、韓国領土と主張できるのは、どの島であるかを知るためであった。六堂・崔南善は、記憶力がよく、独島の来歴について色々と根拠をあげ、兪鎮午が確信できるだけの説明をした。兪鎮午は続いて、対馬島について訊ねた。「李承晩博士が、対馬はわが領土だとしきりに言いますが、根拠が確実なことですか?」崔南善は、にこりと笑って首を左右に振った。対馬島に関して李承晩は、1948年8月20日、「我々は、対馬島を韓国に返還することを日本に要求する」と主張し、「対馬島は、上島と下島の二島からなり、韓日両国の中間に位置するものであるが、数百年前日本が奪取したものだ」と強調した。これより前、政府修立前の1948年2月19日、立法議院で、立法議員である許用亀ほか59人の署名を受け、対馬島朝鮮領土復帰建議を対日講和会議に建議しようとしたことがあった。提案理由は「対馬島は元来、新羅に属したもので、日本の長崎からは119マイルにもなるのに、釜山からは33マイルにすぎずに非常に近く、二つの主島からなるので「二島(トゥソム) と命名されたこと」などであった。(朴舜在 パク・スンジェ記者)

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東亜日報 1974年5月23日
秘話 第一共和国 277
第十一話 李承晩と日本 5
平和条約草案にパラン島追加要求
海上踏査の結果、実存せず、外交的失敗


島の名前さえも、明らかでなく

崔南善(チェ・ナムソン)は、諮問した兪鎮午(ユ・ジノ)に次のように言った。「木浦・長崎・上海を連結する三角形の中心の海中に「パラン島」があるが、島の表面が浅く、波の中に沈んだり現われたりするという。「パラン」とは、水が青い ことから言うのか、波の中に消えたり現われたりするので「波浪」というのか確実ではないが、いずれにしろ、その島を我々の領土としておくのが良いだろ う。」海図に「スコトラロック」(SCOTRA ROCK)という暗礁として表示された「パラン島」は、北緯33度10分東経120度に位置し、済州西南方180キロメートルであり、木浦から290キロ メートル、長崎から450キロメートル、上海から320キロメートルの海上にあって、この「島」が対日平和条約に明記されさえすれば、韓国の領域は済州の 西南方に大いに広がることになるのであった。対日平和条約草案の修正作業は、張勉(チャン・ミョン)国務総理と金俊淵(キム・ジュンヨン)法務長官が李承晩大統領に会って「帰属財産処理と領土問題は修正しなければならない」と懸命に説明したが、どうにもならなかった。李承晩大統領は、駐日連合軍司令官「ダグラス・マッカーサー」が自分にこの問題について善処すると約束したことをあげ「平和条約修正要求は必要ない」と反対した。政府側は、「ムチオ」駐韓アメリカ大使に会って平和条約草案の不当性を説明し、李承晩大統領を説得してくれるように要請した。「ムチオ」は、平和条約担当の米国大統領特使「ジョン・フォスター・ダレス」が「誤った考えを持っているようだ」として、協力することを約束した。

外務部の中に外交委構成

「ムチオ」の李承晩への説得が功を奏したのか、1951年4月16日、外務部の中に対日平和条約を扱う外交委員会を設け、草案修正のための意見書作成を開始した。委員は、金俊淵(キム・ジュンヨン)、崔斗善(チェ・ドゥソン)、裴廷鉉(ペ・ジョンヒョン)、兪鎮午(ユ・ジノ)などであり、監事は、洪璡基(ホン・ジンギ)、李建鎬(イ・ゴノ)などであった。意見書作成の過程で、韓国を平和条約の署名国の一つとして要求するのかについて論戦が起こった。署 名国になれば、日本に対し戦勝国の地位となり、戦争賠償はもちろん、その他の全ての問題で有利な地位に立つことになるが、これは純粋に外交的というよりは 政治的な性格のものであり、平和条約草案についての部分的意見を述べる意見書に含ませるのはふさわしくないと判断して含ませないことにし、その要求の成否 は大統領に一任した。意見書には、帰属財産と領土問題、漁業ライン問題などをのせた。特に領土問題の中で、「パラン島」の実存の当否は確実ではな かったが、たとえ実存しなくてものせておいて害になることもないだろうと結論し、独島とともに条約2条(済州島、巨文島、鬱陵島)に追加することを要求す ることにした。意見書は卞栄泰(ピョン・ヨンテ)外務長官が精密に検討し、直接英訳した。

1951年6月の初め。卞長官は外交委員達に、韓国政府のメモランダムをすでに米国政府に送ったと報告し、英文からなるメモランダム文書を配った。これを見た兪鎮午は、吃驚した。外交委員会が作成した意見書に非常に長い前文がつき、内容も1、2項が追加されており、前文は奇怪で本文で展開した法理論と相衝する(あいいいれない)内容のものがあった。「誰がこんなことをしたのだ」と問う兪鎮午に、卞栄泰は、大統領の米国人顧問「クルレン」が加筆したと答えた。加筆で問題が起こったので、卞栄泰は、配布したメモランダム書面を回収していったが、すでに米国政府に発送したあとであり、これ以上議論しても仕方がなかった。

意見書加筆で逆効果

メモランダムを送った結果、帰属財産と関連して平和条約の2条(訳注:4条の誤り)B項が新たに追加されたことは外交の大きな収穫であったが、「クルレン」が加筆をしなかったならば、米国がこのほかの要求事項を聞いてくれた可能性もあったと兪鎮午は残念であった。兪鎮午は、帰属財産に関する修正について、その後、韓日会談代表として参加して、手ひどい経験をしたと述べている。兪鎮午は、平和条約草案修正に帰属財産だけが反映され、その他のものはすべて拒否されたことは遺憾であり、「特に、独島を平和条約に明記しなかったことは、 長く続く紛争の種を残した処置であった」と述べ、「駐日連合軍司令部がマッカーサー・ラインを引く時にも、独島を「マッカーサー」ラインの外側にし、日本 漁船が独島にまで出漁できないようにしたのに、それを平和条約に明記しないことは理解しがたいことであった」と付け加えた。「パラン島」 は、1951年8月、韓国山岳会(会長洪鐘仁)が、海軍の協力を得て、海図に表示された海上(済州西南方180キロメートル)を探査したが、発見できな かった。兪鎮午は、平和条約草案修正対米メモランダムに「パラン島」が入ったことで、外交公文書に、実存しもしない島を領土だと主張して、取り返しのつか ない失敗をしてしまった」と回顧している。(朴舜在パク・スンジェ記者)

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東亜日報 1974年5月24日
秘話 第一共和国 278
第十一話 李承晩と日本 6
日本政府、独島が表示された韓国の切手発行に抗議
日本の海上巡視船 被撃事件も議論に


新種類500万枚ずつ発行

独島領有権をめぐる韓日間の紛糾は、独島が表示された切手にまで広がった。逓信部が1954年9月20日に、独島の風景をのせた2ファン、5ファン、10ファンの新切手を各500万枚ずつ発行すると、日本の外務省は抗議をしてきた。「日本外務省は、駐日韓国代表部の対し韓国政府が発行した、日本の領土である「竹島」が表示された切手について、次のように抗議する。韓国から最近日本に郵送されてきた郵便物に、日本領土である「竹島」が表示された3種類の切手が貼られている。切手には韓国語で「大韓民国郵政」という語とともに「独島」と印刷されている。日本政府は、何度も、韓国政府に対し、明確な日本領土である「竹島」を韓国が不法占領していることを抗議してきた。韓国政府が日本政府の抗議を引き続き無視し、ここにきて「竹島」が表示されている切手を発行することは、韓国政府が日本の領有についての傲慢な主張を宣伝するためのものだ。日本政府は韓国政府の非友好的行為に厳重に抗議するものであり、その是正を要求するものである。日本政府は日本の島である「竹島」が表示されている韓国の切手について、とることの出来るすべての措置を留保している所である。」

韓国政府に通告するこのような日本政府の抗議を駐日代表部は次のように一蹴した。「日本外務省は、口上書で、韓国政府の独島占領についての日本政府の抗議を韓国政府が継続して無視したというが、日本政府は韓国政府が独島が韓国領土であることを、何度もはっきりと明らかにしていることを想起すべきである。韓国政府は、特に1954年9月25日付けの、駐日代表部覚書で、国際法上も歴史的記録からも独島が韓国領土であるという充分な証拠を提示したと深く信ずるところである。韓国が独島に領土管轄権を適法に行使することは、疑心の余地なき確固としたものである。よって、日本外務省が韓国の独島「不法占拠」を云々する主張は、まったく根拠がないことを認証するものだ。「独島切手」発行について、日本外務省は、韓国政府が独島領有についての傲慢な主張の宣伝をする企図だというが、前にも指摘したとおり、独島は韓国領土であることが明らかであり、「独島切手」発行は韓国政府の管轄権に属するものである。

日本政府政府の態度は内政干渉

韓国の切手発行についての日本政府の態度は、不当な韓国への内政干渉と変わらない。上に言及したごとく、駐日代表部は、日本政府が明白な韓国領土である独島を表示した切手発行について抗議する立場にないことを確信するものである。」日本外務省は、「独島切手」以外にも独島近海における日本海上保安庁の巡視船「被撃」事件についても抗議してきた。

1954年11月30日付の抗議口上書

「日本外務省は、駐日韓国代表部に対し、日本領土である「竹島」を不法占有中の韓国官憲により日本海上保安庁巡視船が不法な砲撃を受けたことについて、次のように抗議するものである。海上保安庁の巡視船「おき」と「へくら」は、1954年11月21日の朝、巡視のため「竹島」近海に到着した。「へくら」が「竹島」の西北方3マイルの海上に接近した時、その島を不法占領中の韓国官憲が午前6時58分から7時の間に5発の砲撃を加えた。「竹島」領有権紛争の平和的で最終的な解決のため、日本政府は、韓国領土に対し、国際司法裁判所に提訴することを提議したことがある。韓国は日本の提議を拒否したばかりでなく、「竹島」に警備兵力を駐屯させた。韓国はこれまでその島の不法占領を継続しており、駐屯官憲が日本船舶に発砲までした。日本政府は、韓国政府のこのような行動の継続は国際平和と安全をおびやかすものであるとの深刻な憂慮をせざるを得ない。日本政府は、韓国政府官憲のこのような不法に対し、強く抗議を提起するとともに、「竹島」から韓国官憲の即刻的な撤収を要求するものであり、銃砲を含む全ての装備の撤去も求めるものである。日本政府は、また韓国政府の公式的な謝罪を要求し、今後このような不法行為が再発しないように、砲撃事件を起こした責任者を即刻的に処罰することを含む法的措置をとることを要求するものである。日本政府は、もし韓国政府が日本政府のこのような要求を引き続き拒否するならば、この問題によって惹起されるすべての紛糾の責任は、全て韓国にあることを宣言するものである。」(朴舜在 パク・スンジェ記者)

参考
1966 - 2月 - 兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」(上)『思想界』1966年2月号

サンフランシスコ平和条約と韓国による竹島侵略 

ミニ歴史
1951 - 7月9日 韓国の梁裕燦大使がダレス国務長官顧問に対馬を要求⇒即座に断られる
The Korean Ambassador then asked whether the Islands of Tsushima was to given to Korea under the terms of the treaty, stating that Tsushima properly belonged to Korea. Ambassador Dulles took exception to this statement and pointed out that Japan had been in full control of Tsushima for a very long period of time; the treaty therefore did not affect the present status of Tsushima as a minor Japanese island.

1951 - 7月12日 韓国政府は七月一二日、条約草案に書かれている連合国の中に韓国を含めること、日本が対馬に対する権利を放棄すること、韓日間のすべての条約を無効とすること、など一〇項目からなる覚書をアメリカに送った(東亜日報、七月一三日)

1951 - 7月18日 再度、①韓国を対日戦に参加した交戦国と認めること、②日本は韓国に対して、政府所有と個人所有を問わず、すべての財産請求権を放棄する こと、③韓国を対日講和の調印国とすること、④韓国と日本との間の漁労水域を明白に決定すべきこと、⑤日本は対馬、波浪島(実在しない島であるが、当時、 韓国政府部内では存在するとされていた)および東海(日本でいう日本海)内にある独島に対する要求を放棄することなど五項目の覚書をアメリカに提出した (東亜日報、ニニ日)。

1951 - 7月19日 韓国の梁裕燦大使がダレス国務長官顧問に対馬の要求を断念することを再確認されるものの、"独島"と"波浪島"を要求
Mr. Dulles noted that paragraph 1 of the Korean Ambassador’s communication made no reference to the Island of Tsushima and the Korean Ambassador agreed that this had been omitted. Mr. Dulles then inquired as to the location of the two islands, Dokdo and Parangdo. Mr. Han stated that these were two small islands lying in the Sea of Japan, he believed in the general vicinity of Ullungdo. Mr. Dulles asked whether these islands had been Korean before the Japanese annexation, to which the Ambassador replied in the affirmative. If that were the case, Mr. Dulles saw no particular problem in including these islands in the pertinent part of the treaty which related to the renunciation of Japanese territorial claims to Korean territory.

1951 - 7月26日 韓国がアメリカに対して三たび講和条約案の修正を要求した。①韓国内の日本および日本人の財産(請求権・債権)を放棄すること、②日本に ある韓国および韓国人の財産は日本にある連合国民の財産と同様に返還されるべきこと、③新たなる漁業協定が締結される時まで、マッカーサー・ライン(マッ カーサーが軍事統制と日本漁船の操業制限のために引いた線)を存続させるべきこと、などである(東亜日報、ニ八日)

1951 - 8月2日 韓国の梁裕燦大使からアチソン国務長官へ書簡:第4条の日本による財産請求権の放棄、第9条にある漁業協定が締結されるまでのマッカーサーライ ンの存続、第21条に第15条(a)を加えることを要求。(問題の日本が放棄する領土を規定した第2条には言及しないが、第21条には韓国が第2条での利 益を受ける権利を有する、とされている。)

1951 - 8月3日 Mr.Robert A Feareyのメモ:国務省情報局のBoggsがワシントン中捜したが、ドク島とパラン島を特定できなかった、韓国大使館にも聞いたが、ドク島は鬱陵島または竹島の近くであろう、パラン島もそうかもしれない、とのことであった

1951 - 8月10日 米国国務次官補ディーン・ラスクが韓国外務省に対し、アメリカが竹島は韓国領ではないと判断したことを通知。「独島、もしくは竹島、リアンクール岩として知られている島については、我々の情報によれば、日常的には人の居住しないこの岩礁 は、韓国の一部として扱われたことはなく、1905年頃からは、日本の島根県隠岐島庁の管轄下にありました。この島について、韓国によりこれまで領土主張 されたことがあるとは思われません。」

71 comments:

  1. ”意見書は卞栄泰(ピョン・ヨンテ)外務長官が精密に検討し、直接英訳した。”

    のくだりですが、先日matsuさんが見つけてくださった東亜日報1951年4-7月のの記事(のタイトル)を読んでみると、卞榮泰氏は4/14に帰国し、5/25に渡米しているようなので、時期的には裏づけができますね。

    1951 0415 東亜日報「卞榮泰氏 昨日上午 空路歸國」
    1951 0420 東亜日報「對日媾和原則 美加 完全合意(옷타와)」
    1951 0421 東亜日報「梁裕燦 駐美大使 「하와이」 出發」
    1951 0426 東亜日報「對日媾和協議次 美 不遠 十三個國會議 開催(워싱톤)」
    1951 0508 東亜日報「卞長官 渡美」
    1951 0510 東亜日報「美政府 正式拒否 蘇의 對日媾和 新提案(워싱톤)」
    1951 0516 東亜日報「卞長官 卄一日 歸程」
    1951 0524 東亜日報「卞長官 明日歸任」
    1951 0713 東亜日報「對日媾和草案 五十個國에 發送_韓國의 參戰國認定要求 對日媾和에 梁裕燦大使主張(워싱톤)」
    1951 0722 東亜日報「對日媾和條約草案 檢討 座談會盛況」
    1951 0725 東亜日報「對日媾和條約案의 檢討[全七回](兪鎭午)」
    1951 0727東亜日報「 對日媾和條約草案 修正하라 卅日 國民蹶起大會開催_美國에 特使派遣 救聯서 大統領에 建議」
    1951 0728 東亜日報「歸産問題 等 三項目 政府 對日媾和草案 修正要請乎」
    1951 0729 東亜日報「對日講和條約草案 修正을 要求 오늘 國民蹶起大會 開催」
    1951 0729 東亜日報「對日講和條約草案 修正을 要請 政府主張을 美國에 傳達 梁大使에 訓令 兪鎭午 林松本兩氏急遽渡日」

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  2. 1974年5月23日付け記事の"意見書加筆で逆効果"のところで、「メモランダムを送った結果、帰属財産と関連して平和条約の2条B項が新たに追加されたことは外交の大きな収穫であった」とあるのは4条ではないかと思います。確認していただけませんか。

    2010.3.8

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  3. Makotoさん

    ご指摘有難うございます。確かに、帰属財産については第四条ですから、ここは本来"四"であるべきですね。原文画像を確認しましたが、ニ条になっているので、東亜日報の誤記でしょう。訳注として訂正しておきましょうか。

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  4. "訳注として訂正しておきましょうか。"

    よろしくお願いします。

    2010.3.8

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  5. Kaneganese様、皆様、

    貴重な資料の訳をありがとうございました。

    私の理解を越えているのは朝鮮の東の端を鬱陵島として明らかに独島は韓国の領海外と『朝鮮常識』に記していた崔南善が「独島」を韓国領と考える方向で助言したらしいことです。何か彼をしてそう判断せしむる事情があったのでしょうか。それとも彼は本当は韓国領でないことを知りつつも、「ここなら無人島だから要求すれば取れる」と考えたのでしょうか?

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  6. 昨年からいろいろ翻訳していただいていますけれども、それらを読んでいて気づかされるのは、韓国側の主張に国際法の視点が抜け落ちている点です。SCAPIN677を根拠として持ち出してくる件にしても、国際法の知識があったならできないでしょう。1953年2月の領有声明の件にしても、国際法の知識があったならようせんと思います。国際法の知識がないので話を地理や歴史の話に持っていっているのではないでしょうか。それに日本側が乗っかってしまった所に、こじれの原因があるように思います。領土問題は国際法の問題なのですから、そこに焦点を当てて論駁すべきただったかもしれません。


    日本にも国際法から見た日韓双方の主張を検討した論文があります。例えば大壽堂鼎「竹島紛争」『国際関係外交雑誌』(1966)年です。曖昧な点や論理的破綻のない分析がされています。これよりもずっと後に出た韓国で「独島問題」の国際法による論文集として知られている金明基『独島と国際法』(1991)と比べたら雲泥の差があります。特に「過去の植民地支配の償いは別の形でなされるべきであり、領土問題をうやむやのうちに処理するならば、かえって両国の友好関係を阻害する要因を残すことになるだろう」という指摘は鋭いです。このような指摘が1960年代になされていたことに驚かされます。と同時に、日本政府が適切な手を打ってこなかったことに怒りを覚えます。

    「紛争なんか存在しない」として国際裁判どころか交渉のテーブルにすらつこうとしない韓国政府の姿勢を厳しく戒めていますが、大壽堂さんは韓国を蔑視したり軽視しているわけではありません。むしろ心の底からの愛情をもって提言しています。それがひしひしと伝わってくる論文だと思いました。

    ところで、国際法の知識があって知らぬ振りをしていたのなら、相当な策士ですね。無理が通れば道理が引っ込むというやつですよ。韓国の横紙破りな遣り口に、日本外交は翻弄され続けてきたように見えるのです。


    2010.3.9

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  7. pacifistさん

    皆さんの絶妙なるチームワークでたくさん資料が集まり、さらにmatsuさんとchaamieyさんのおかげで日本語で読めます。本当にありがたいことですね。私もついていくのに精一杯ですけれど。

    Makotoさん

    韓国が1945年-1950年代初期まで、国際法どころか国際的慣習にさえ疎かったことは事実だと思います。ですから、SCAPIN677を竹島領有の根拠として持ち出すなど、頓珍漢なことをしてしまったのは多少同情すべき余地もあります。ただ、おそらくシン・ソクホだと思いますが、5日前の実録記事を無視して三峯島を現竹島だと主張するのは、歴史事実の歪曲で、それを未だに訂正もせず主張している輩は許されるべきではないでしょう。

    策士であったかどうかは分かりませんが、「無理が通れば道理が引っ込む」という大陸的交渉術に日本も、そしてアメリカも全く対応できていなかったのはたしかでしょうね。それは今この瞬間にも外国人参政権問題などで行われている民潭の活動などにも現れているように思われます。

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  8.   崔南善が「独島の来歴を、即座に、私が確信を持てる程に説明してくれた」件ですが
    、その具体的な内容は明らかにされていないわけだし、同じく崔南善の『鬱陵島と独島』にもそれほど重要なことは書いてないですよね。

     そうすると、「確信を持てる程に説明してくれた」という回顧は、「実は大した収穫は無かったのだけれども、そういうふうに言ってしまうわけにもいかない」というときのごまかしの表現だったのではないか、と思ったりします。




    2010.3.10

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  9. 1951年7月9日、韓国の梁裕燦大使がダレス国務長官顧問に対馬を要求して即座に断られるのですが、その文書にフィアリー氏作成と見られる”合衆国草案に関する韓国の構文に対する論評” という5月9日付無署名覚書があることが注2に書いてあります。ここでは対馬についての論評はありませんが、少なくとも5月9日以前にはすでに、韓国政府が公文を送って、草案の署名国になることとマッカーサーラインの存続をアメリカ草案についての意見としてアメリカに表明していたことが分かります。

    Memorandum of Conversation, by the Officer in Charge of Korean
    Affairs in the Office of Northeast Asian Affairs (Emmons)


    -----------------------------------------------------------------
    2 An unsigned memorandum (possibly prepared by Mr. Fearey) of May 9, titled "Comments on Korean Note Regarding U.S. Treaty Draft," had dealt in part with a Korean contention that Korean signature of the Japanese Peace Treaty would be justified by the precedent of Polish signature of the Treaty of Versailles. "On examination Korea's case for participation in the treaty does not gain much support from the example of Poland after World War I. The Polish National Committee set up in Paris in 1917 under Oaderewski was 'recgnized' and dealt with by all the principal western Allies....The U.S. and other major powers, on the ohter hand, deliberately refrained from recognizing the 'Provisional' Government of Korea' as having any status whatsoever during World War II. Tha fact that that government declared war on Japan and that Korean elements, mostly long time resident in Korea [China?], fought with the Chinese forces, would therefore have no significance in our view."(Lot 54 D 423)
    The Korean note mentioned in the title to the memorandum has not been found in Depart ment of State files.

    3 In the memorandum cited in footnote 2 above, the section on the "MacArthur Line" reads as follows: "The position that Japanese fishermen be permanently excluded from the fishing grounds on the Korea side of the 'MacArthur Line' even exceeds the demands of our West Coast fishing people, and would in fact be far more serious for the Japanese fishing industry. The Korean demand should be denied for its direct effects and, even more, because of the precedent it would set. Contrary to the impression conveyed by the Korean Government's note, no nation had any bilateral treaties with Japan before the war excluding Japanese fishing vessels from high seas areas adjacent to other nations."
    -----------------------------------------------------------------
    塚本孝「サンフランシスコ条約と竹島」『レファレンス』389(1983.6)pp.59 に日本語訳が載っています。

    5/8に卞栄泰(ピョン・ヨンテ)外務長官が渡米していることも辻褄が合います。

    東亜日報1951年5月8日付記事「卞長官 渡美」

    やはり、この報道”連合ニュースがアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)で手に入れたアメリカ国務省の外交文書によると、韓国は第2次世界大戦戦勝国たちが日本との平和条約草案を作成していた時期の1951年4月27日に米国務省に送った文書で、対馬島の領有権を主張した。”における、「4/27の韓国の公文書」というのは存在したようです。ただ、5/9付のフィアリー氏によると思われる論評に、対馬もそうですが帰属財産についての言及が無いのは不思議です。

    連合ニュースの画像は7/19の文書ですね。原文を何らかの形で公開して下さると研究に役立つと思います。

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  10. 言論連帯 「MBの独島発言、恐怖と怪奇のスペクタクル」
    京郷ニュース 2010-03-12

     李明博大統領の「独島発言」の波紋が治まっていない。言論関連の市民団体言論連帯は、12日、論評を通じて「青瓦台と地上波放送3社が見せている沈黙は、政権の放送掌握という現実が演出する恐怖と怪奇のスペクタクル」と厳しい指摘を加えた。
     このような批判は、市民1886人が起こした独島関連訴訟の17日の弁論期日を前にして日本の読売新聞が提出した書面で、「大韓民国と日本との間に外交的摩擦が生ずるおそれのある非常に重要な事項を事実情報の根拠がないまま報道するということは、常識的に有り得ないこと」と明らかにした事実が、最近、国民日報の報道で知られたからだ。

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  11.  李明博大統領は、去る2008年 7月、韓日首脳会談において日本の福田総理が「教科書解説書に独島を竹島と書かざるを得ない」と言ったのに対して、「今は困る、待ってくれ」と言う発言をしたとされる。言論連帯は、「青瓦台と政治権がこれを明らかにしないのならば、真実を明らかにする責務は言論にある」とし、「しかし、国民日報の報道以後今まで、京郷新聞とインターネット言論の一部だけが後続取材と報道をしただけで、地上波は沈黙で一貫している」批判した。

     言論連帯は、また、「17日に予定される裁判所での攻防も無視するつもりなのか、政権の手の内で甘えたり御機嫌伺いをしている放送3社には驚くしかない。」と主張した。言論連帯は、読売新聞側が「当時から今まで、終始一貫して確固な自信感を見せている」とし、「市民訴訟に対しても、国内の法務法人太平洋の日本訴訟専門の韓国人弁護士を動員して、法廷でも事実関係に対する主張を曲げていない」と指摘した。この団体は、特に、初めて李大統領の発言が報道された当時のイ・ドングァン青瓦台スポークスマンが、「事実無根だ。途方もない話だ。」、「独島問題の本質を歪曲しようとする日本側の言論プレー」と主張したものの、朴ソンギュスポークスマンが、最近、「まだ把握できていない。事実関係を見て判断したい」と一歩引くような発言をしたことも指摘した。

     言論連帯は、「読売新聞の主張が事実なら、李明博大統領が大統領の責務を忘れた事態になり、読売新聞の主張が事実ではないなら、領土の是非で独島問題を国際紛争地域化しようとする日本の不純な意図に韓国の法廷と政治権が踏み躪られる重大な事態」と、この事件で進退両難(?)にある青瓦台の立場も代弁した。大統領の責務を規定した憲法66条2項によると、李明博大統領は「国家の独立、領土の保全、国家の継続性と憲法を守護する責務」を負っている。



    2010.03.13

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  12. 韓米合同委員会(1953年3月19日)についての内藤正中氏の議論について、かつて
    Oppさんから提起がありました。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html

    「みなさん
    内藤正中氏の「竹島=独島問題入門」で、「1953年3月19日の韓米合同委員会で演習地域の解除を決定した」とありますが、これについて何かご存じないでしょうか?」
    (うしろのほう、70番目のコメント)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ご承知と思いますが、これについて島根県のサイトで回答がありました。(3月11日)
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200912.html

    【質問3】
       内藤正中『竹島=独島問題入門--日本外務省「竹島」批判』2008, p.53は、戦後の竹島爆撃演習について「1953年3月19日韓米合同委員会の決定で指定が解除される」としているが、これは事実であろうか?

    <回答>
       著者に出典を照会したところ、内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』岩波書店2007, p.202の金柄烈氏の説によるとの回答を得ました。この岩波書店の本には、「1953年3月19日第45次米韓合同委員会において爆撃練習場指定は解除されたのである」とあります。しかし、この記述は、米韓ではなく「日米」合同委員会の間違いだと考えられます。昭和28年4月4日外務省国際協力局長発島根県知事あて「島根県所在竹島爆撃訓練区域廃止に関する件」という通知文書の別添(二)に、「日米行政協定第二十六条に基く合同委員会 日時及場所昭和二十八年三月十九日東京都外務省ビル 第四十五回合同委員会議事録」云々とあります。日付と回次が一致します(この通知文書は県に保存されています)。そもそも、竹島の爆撃訓練区域というのは、日米安保条約・行政協定に基づいて日本が米軍に施設区域として提供したものですから、それを「米韓合同委員会」が解除するということはあり得ません。(事務局:総務課)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    著者に直接聞けるコミュニケーションがとれるのは、とても良い事だと思います。

    さて、これによれば、金柄烈氏の記述が間違っているように思われますが、
    この、内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』岩波書店2007は、そもそも
    韓国で出版された『韓日の専門家が見た独島』(ダダメディア 2006)の翻訳です。

    その原文を見ると、
    123pに、なんと「1953年3月19日 第45次 米日合同委員会」とあります。

    すなわち、これは、金柄烈氏の間違いではなく、岩波版を出した時の誤訳です。

    内藤正中氏は、直接韓国語が読めないので、この日本語訳によったと思われますが、
    内藤氏の『竹島=独島問題入門 日本外務省「竹島」批判』(新幹社2008)の「ポイント8」の記述(53p~55p)は、
    1953年3月19日に開かれたのは「韓米合同委員会」である、という前提で議論を進めています。
    このため、この前提がくずれると、この章全体の議論が成立しないことになります。

    内藤氏の影響力も考えると、はなはだ迷惑な誤訳であった、ということになるでしょう。

    朝鮮日報の「立て札」の初歩的な誤報もそうですが、こういうつまらない誤解は、はやく日韓双方で解いた上で議論したいものだと思います。

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  13. >岩波版を出した時の誤訳


     全くひどい話・・・・・ですが、日本語にするときに「米日合同委員会」→「韓米合同委員会」という誤訳が生じるメカニズムって何なんでしょうかね。



    2010.03.13

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  14. "独島問題を国際紛争地域化しようとする日本の不純な意図"

    日本は「国際紛争地域化」なんて考えていませんよね。1952年1月18日に李承晩ラインが宣言され、同月28日に日本が抗議して以来の紛争であり、根は韓国側にあるのですから。

    「不純な意図」なるものがあるとしたら韓国側の領土的野心でしょう。実効支配したことのない島を6世紀にまで遡って領有していたのだという物語を編み出し、それを流布させ、自国民のマインドコントロールに成功しているのですから。このところ話題になっている「誤報」とか「誤訳」というのも、マインドコントロールによって虚像を実像と認識させられているところに原因があるのかもしれません。


    それはともかく膠着状態に陥っているのをなんとか打開しなければなりませんね。韓国を交渉のテーブルに着かせなければならないのですが、どうしたらよいのでしょう?


    2010.3.13

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  15.   まあ、韓国政府は身動きが取れないわけなので、韓国国民が多少でも、独島問題って何かヘンだな、と疑問を持つようになることが必要でしょう。そのためには、急がば回れ、ですかね。



     ところで、朝鮮日報が例の「右の島」の件の日本語記事を出しました。
    日本側が搬出を防ごうとした「立て札」(上)
    日本側が搬出を防ごうとした「立て札」(下)

     「右の島論法」はハングル版と同じですが、産経新聞の報道ぶりを引用した部分では、ハングル版では、産経が「当時の日本では独島を鬱陵島と呼び」と報道したと書いているわけですが、日本語版では、「当時、日本では鬱陵島を竹島と呼んでおり・・・・」と産経の報道を正しく引用しています。ハングル版は訂正されていません。何考えているんでしょうね。


    2010.03.14

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  16. "韓国国民が多少でも、独島問題って何かヘンだな、と疑問を持つようになることが必要でしょう。"

    同感です。しかし、それが難しい。事実に基づかない教育が、幼少時から繰り返し続けられているのだから。
    差し当たり誤りは誤りとして指摘すべきだと思います。それは内政干渉でも何でもないでしょう。それと日本側が政府レベルでもきちんと対応することですね。教科書にも明記すべきですね。妙な「配慮」は無用です。正々堂々対応すればよろしい。コソコソやるのは下の下だと思います。


    " 立て札には、「竹島(鬱陵島)は元禄時代から渡海停止を命令した場所であり、他国の地に航海することを厳重に禁止する。竹島の右の島も航海してはならない」と記されている。(鬱陵島の)右の島とは、独島を指す。"

    確かに産経新聞からの引用は正しく行われていますが「(鬱陵島の)右の島とは、独島を指す。」は明白な誤りですね。日本語版作成の際にこの誤りに気付いて朝鮮日報本社に通報すべきであったのに、そうしていないところがなんだかなあなのであります。(彼ら元の史料を読んでいないね。)
    皆で誤報であることを指摘して、訂正記事を出させるしかありませんね。

    2010.3.15

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  17. 「実事求是」第25回 ~「アジアの平和と歴史教育連帯」の意見広告について~がアップされました。

    「アジアの平和と歴史教育連帯」が今年の「竹島の日」に山陰中央新報へ意見広告を掲載したのを受けて、その主張の誤りを指摘しています。

    いろいろな受け止めがあるかと思いますが、私は「竹島の島根県編入を日本による『韓国侵略の最初の犠牲物』とする歴史認識が生まれたのは、1954年10月の外務部長官卞栄泰の声明文が基になっている。」という一文が気になりました。1953年7月としていたはずなのに、ここでは1954年10月に変っている。どうなっているんだろう?

    2010.3.15

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  18. 「何かヘン」な話

    縮小された日本の領域
    胴体だけ残り支離滅裂

    1946年2月5日東亜日報

    【東京3日発共立】
      連合国軍総司令部は、2日、日本政府に対して日本の領域を指定して来た。太平洋米軍総司令部2日午後4時半の発表によれば、連合国軍総司令部は、日本政府に対して、日本の範囲外にある地域に対して政治と行政上の行使を中止するよう命令した。そして、日本領域の範囲を北海道、本州、九州、四国及び北緯30度以北の約一千に達する本土附近の諸小島と限定したが、大戦前の日本領土から今回除外される主要な地域は次のとおり。

      朝鮮本土、満州、台湾、樺太南部及び北緯30度以北の諸島嶼中においても太平洋上において委任統治領として支配している一切の島嶼、鬱陵島、済州島、伊豆南方の小笠原諸島、火山列島、南鳥島、千島列島、鹿児島県口之島、澎湖島及び北緯30度以南の琉球列島全部が日本の領域から離脱された。また、連合軍総司令部は、日本政府に対して、この指令によって日本領域外と定義された地域において活動する日本の政府機関の一切に関して行政権は即時中止するもので、連合軍総司令部の許可なくしては、海運関係の通信と天気予報に関する業務を除き通信も絶対禁止すべしとした。




    2010.03.16

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  19. キム・ジャンフンの独島タイムズスクエア広告に対抗して私も竹島問題啓発動画を作ってみました。なんだか饅頭のCMみたいですが。。
    「竹島物語。」

    微調整してからYOUYUBEに投稿します。


    どなたかこちらの文章を英語と韓国語に訳してはいただけませんでしょうか。

    (1) いつまでも 絶えることなく
      友達でいよう
      明日(アス)の日を夢見て
      希望の道を

    (2) 空を飛ぶ 鳥のように
      自由に生きる
      今日の日はさようなら
      またあう日まで

    (3) 信じあう 喜びを
      大切にしよう
      今日の日はさようなら
      またあう日まで
      またあう日まで

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  20. Chaamieyさん

    1946年2月5日東亜日報

    非常に面白いですねえ。
    1946年1月29日のSCAPIN677の内容についての報道だと思いますが、
    日本では、2月4日に各誌が一斉に報道しています。2日に発表、とあります。

    この記事では、東京3日発、とありますが、「共立」とは、通信社の名前でしょうか。

    日本の2月4日の各紙の報道では、
    鬱陵島、竹ノ島および済州島(読売報知)
    鬱陵島、竹島、済州島(朝日)
    鬱陵島、竹ノ島及び済州島(島根新聞)
    とあり、しっかりと「竹島」がはいっていますが、
    この東亜日報の記事では鬱陵島、済州島のみで、「竹島」が抜けているのが、とても面白いです。

    このリストは、日本から「分離」するものですが、
    韓国側は、この時点では、このリストの「竹ノ島」あるいは「竹島」には、何の関心も示していなかったのではないか、と思われます。

    これまた、大きな「発見」かもしれませんね。

    やはり、韓国側が、竹島=独島の領有権を主張しはじめるのは、1947年、ということになるのではないいでしょうか。




    そして、朝鮮日報の「立て札」の日本語訳ですが、やっぱり出したか、という感慨があります。

    しかし、朝鮮日報でこういう報道があった、ということを日本人にも広く知らしめるには、逆に意味があるのではないかと思います。

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  21. 実事求是
    “竹島の島根県編入を日本による「韓国侵略の最初の犠牲物」とする歴史認識が生まれたのは、1954年10月の外務部長官卞栄泰の声明文が基になっている。”

    下條正男先生は、
    『竹島は日韓どちらのものか』(文春新書2005年4月)145p
    および
    「独島呼称考」『人文・自然・人間科学研修』19号(拓殖大学論集270)(2008年3月)の31pの注2
    においては、卞栄泰外務部長官の声明を、「1953年7月」のこととしていますから、
    ここで自説を「1954年10月」に訂正、ないし変更されたのだと思います。

    学者の訂正は、このようにさりげなく行われることが多いですが、むしろ、正面きって訂正をされたほうが、今後の舌鋒が鋭くなると思います。

    ただし、「1954年10月の卞栄泰長官の声明」について、まだ確実な一次史料を知りません。

    金東祚『回想30年 韓日会談』(1986)中央日報社 80p
    (日本語訳『韓日の和解』(1993)サイマル出版会 105p)
    まではさかのぼれるのですが、
    実際の1954年の「卞栄泰長官の声明」そのもの資料を、日付を含めて、直接にあげている文献を知りません。

    この金東祚の著作は、『中央日報』誌上に、1983年11月1日から1984年7月17日までの211回にわたって連載されたものをもとにしている、とありますから、(訳本まえがき10p)あるいは、このときが
    「1954年10月の卞栄泰長官の声明」の初出なのかもしれません。

    つまり、この「歴史認識」は、金東祚によって作られているのかもしれません。

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  22. Kaneganeseさん

    朝鮮日報「立て札」の記事の日本語版、独立ポストで出したほうが良いと思います。
    もちろん誤報であるというコメントをつけて。

    「右の島」について、ホサカユウジ先生がどう読まれるか、聞いてみたいものです。


    下條先生の論文について、上のコメントの訂正です。
    「独島呼称考」『人文・自然・人間科学研修』19号(拓殖大学論集270)(2008年3月)は
    「独島呼称考」『人文・自然・人間科学研究』19号(拓殖大学論集270)(2008年3月)です。すみません。

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  23. 実事求是が引用する
    北海道教職員組合の機関誌兼学習資料である「北教」(2008年11月28日付)の記述

    「「竹島・独島」問題をめぐって日韓の歴史認識の大きな違いを見せつけられました。日本では、領土問題としてとらえられているものの、韓国では、「独島」が日本による韓国植民地化の過程で占領されたことから、侵略・植民地支配の問題だととらえられているのです。つまり、文科省が中学校歴史の解説書に「竹島(独島)の領有権」を明記したことは、韓国にとっては、侵略・植民地支配を日本が正当化する不当極まりないものになるのです。歴史事実を冷静に紐解けば、韓国の主張が事実にのっとっていることが明らかなだけに、事は極めて重大なのです」
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    この中で、
    「「竹島・独島」問題をめぐって日韓の歴史認識の大きな違いを見せつけられました。」

    この記述は、正しい。

    「日本では、領土問題としてとらえられているものの、韓国では、「独島」が日本による韓国植民地化の過程で占領されたことから、侵略・植民地支配の問題だととらえられているのです。つまり、文科省が中学校歴史の解説書に「竹島(独島)の領有権」を明記したことは、韓国にとっては、侵略・植民地支配を日本が正当化する不当極まりないものになるのです。」

    この記述も、韓国側の状況の説明としては、正しい。

    問題は、北海道教職員組合の
    「歴史事実を冷静に紐解けば、韓国の主張が事実にのっとっていることが明らかなだけに、事は極めて重大なのです」
    という認識にある。

    まことに、
    「歴史事実を冷静に紐解けば、韓国の主張が事実にのっとって『いない』ことが明らかなだけに、事は極めて重大」
    なのである。

    北海道教職員組合の先生たちには、ぜひ、一次史料を直接読んで、自分のあたまで考えてほしいものです。

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  24. matsuさん、ありがとうございます。

    昨年8月、このブログで問題提起して以来、たいへん多くの貴重な情報を寄せていただき感謝します。


    下條さんは「日本は“侵略国家”なのか」(拓殖大学国際学部WEBマガジン『世界は今』2010.vol.7)でも「1954年10月」としていますね。どんな経緯で変えられたのか詳らかにしていただきたいものです。


    金東祚の創作ではないかとは大胆な仮説ですね。可能性はないわけじゃないと思いますが、裏を取るのが大変そう。『回想30年 韓日会談』の出た1986年以前に「独島は、日本の韓国侵略に対する最初の犠牲の地であった。開放と同時に独島は再び我が懐に戻った。独島は韓国独立の象徴である。この島に手をだすものはすべて韓国人の頑強な抵抗を覚悟せよ。日本が独島を奪おうとすることは、韓国の再侵略を意味する。」という引用がされていないことを証明すればいいのかな。

    これだけのインパクトのある言葉が並んでいるのですから、1954年10月の新聞に載っていてもおかしくないのに、matsuさんもそのようなものは見ていないというのは妙と言えば妙なんですよねぇ。

    『韓日の和解』サイマル出版会(1993)によれば、李承晩ラインに竹島を含ませたのは自分だと金東祚は書いています。そして「主権行使の先例を残しておく必要があると確信した上でのことであった」(p.11)と記しています。この口ぶりからすると1951年当時、朝鮮が竹島を統治したことがないのを承知していたようにも取れますね。

    2010.3.16

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  25. matsuさん、1946年2月5日東亜日報の記者の思考を勝手に推測して見ました。



    (竹島?・・・・えーっと、どこの島だったっけ・・・・・。え? 東海の真ん中、岩礁・・・・、人は住めない?・・・・・ふうむ、そんなの記事にしたら、どこのどういう島なんだってことになって何かめんどくさそうな・・・・。どうせ全部は記事に書けないしさ・・・・、「主要な」って整理することにして竹島とか言うのは省略して良さそうだな。無人島だから大勢に影響ないわけだし。・・・・ よっしゃあ、できた!)




      日本側の報道のことは知りませんでしたが、2紙は「竹ノ島」と書いているわけですか。何で竹島が竹ノ島になるんでしょうかね。677では Take Is-land ですよね。




      朝鮮日報の「右の島」の件は訂正などしてもらわずに、韓国側の独島論の荒唐無稽さを間接的に示す資料として善用しましょう(笑)


    2010.03.16

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  26. Makotoさん

    こちらこそ、とてもいい刺激を与えていただいて感謝しています。

    それにしても、「卞栄泰の声明」それ自体も、
    はたまた、Makotoさんがこれを書かれるきっかけとなった
    「卞栄泰の回想に、件の声明は日韓交渉を有利に進めるためのハッタリであったとの主旨の発言があるとの記事を目にしました。」
    という「ハッタリ」のほうに記事にしても、杳として、一次史料がつかめませんね。

    でも「モンスターの成育史」のほうは、
    あれからずいぶん明らかになってきたのではないかと思います。

    「それは、戦後に誕生した」、ということも含めて。


    Chaamieyさん

    「竹の島」は、去年の1月はじめ、朝鮮日報が「大蔵省令第4号」「総理府令第24号」について報道した時に出てきましたね。

    http://www.chosunonline.com/article/20090103000020

    http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1230951743/l50

    「大蔵省令第4号」「総理府令第24号」
    http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26F03401000004.html
    http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S26/S26F03101000024.html

    SCAPIN677が、日本国内で発表され、報道された時に、そのいわば「報道資料」でこういう訳し方をしたものが、のちの「大蔵省令」「総理府令」にまで日本語表現として残ったのではないでしょうか。

    ReplyDelete
  27. matsuさん、chaamieyさん、Makotoさん

    色んな情報を有難うございます。

    「高札」の投稿、是非とも必要ですね。「1946年2月5日東亜日報」の記事も大変興味深く拝見しました。

    それから下條先生が卞栄泰外務部長官の声明を、「1953年7月」から「1954年10月」に変更されたことについては、何か新しい資料でも出たのでしょうか?竹島問題研究所に質問してみるのも良いかもしれません。

    ちょうど話題になった、内藤正中氏が、誤訳の「韓米合同委員会」を一次資料の検討を怠って引用し続け、しかもそれを訂正せずに少しづつ言い換えて主張し続けていることと比べると、どちらが信頼のおける研究者か、言うまでも無いでしょう。竹島の日が制定されて島根県で研究会が発足してからの研究の深化は目を見張る物がありますから、これからも「言説を変えた」などというくだらない誹謗中傷にめげずに、より新しい研究結果反映したものを、我々素人に分かりやすい形で発表していただきたいものです。

    ReplyDelete
  28. Kaneganeseさん、

     1974年5月22日付け「李承晩と日本4」の「草案」を手にした兪鎮午は・・・・で始まる第四段落の2行目から3行目にかけて「対馬は日本が奪取」とあるのは、冒頭の「日官憲 漁民慰霊碑破壊」と同じく小見出しですので、本文とは切り分けた方が良いです。なお、「対馬島は日本が奪取」となります。


     しかしまあ、竹島を含めてどれくらい領有の歴史的根拠があるのか学者に聞きに行ったという次第なので、ここでも政府内には「独島領有の認識」など無かったことが分かるというものです。



    2010.03.21

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  29. Chaamieyさん

    ありがとうございます。


    対馬島は日本が奪取

    「草案」を手にした兪鎮午は、洪璡基とともに綿密に検討した。兪鎮午は、意見書作成の準備に着手し、まず初めに尋ねたのは崔南善であった。歴史上、韓国領土と主張できるのは、どの島であるかを知るためであった。

    ですね。


    ひとりで翻訳していると、実は、まちがいがたくさんあります。

    韓国語ができるかたに、もっと入っていただけるとうれしいのですが。

    いまYahooでは、けっこう面白い議論が展開されていますが、


    韓国語が出来るとおぼしき方が何人かいらっしゃるので、いっしょに資料を読んでくれたらとありがたく思います。

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  30. ある方のご好意により、
    朴實『韓國外交秘史』1979.12月 ソウル 麒麟苑発行
    を見ることが出来ました。(1980年3月の再版です)

    この本の「第11章 険しかった韓日会談」に、「独島と竹島」(287p~295p)という項目があり、全文翻訳します。

    著者の朴實(パク・シル)は、『韓国日報』外信部の記者です。

    1939年 全羅北道 井邑生まれ
    ソウル大学 政治学科卒 
    米国 ジョージア大学院 新聞学MA
    ソウル大学大学院博士課程(新聞学)修了とあり、
    韓国日報 外信部次長とあります。


    兪鎮午の回想については、『思想界』(1966)の彼の記述をもとに紹介しており、あまり新しい情報は付け加わっていないように思います。ただ、兪鎮午の個人的な回想だったものが、このようにジャーナリストの著作に引用されることで、より真実味をもって世の中に受け入れられるようになったのではないか、とは思います。

    例の、アメリカから韓国政府に提示された平和条約の草案が、2週間、秘書の引き出しの中に眠っていた、という話も、実際には、兪鎮午に対する言い訳のようなもので、外務部としては、兪鎮午とは独立に対応に動いていた可能性もあるように思います。

    また、兪鎮午と崔南善との対話ですが、これも「面白い話」なので、エピソードとして真実味を持って広がっていったのだと思いますが、しかし、ソースとしては、兪鎮午の側だけであり、2人きりの対話でほかに証人はおらず、実際にどうだったのかは、わかりません。
    「パラン島」の話も、「失敗だった」と兪鎮午は懺悔する口調ですが、実は、巧妙に、責任を崔南善に押し付けているようにも思います。

    独島についても、「即座に確信を持たせてくれた」とあるだけで、具体的にどういう話があったのか、全く書かれていないわけです。
    崔南善の説は、この対話(1951年4月?)より2年ほどあとの、1953年8月にソウル新聞に論文として連載されますが、この論文を見ても、説得力が本当に充分にあったのか、という点は、むしろ疑問でしょう。

    ところで、パラン島について
    「海図の、波濤が激しいという表示を誤解したせいである。」
    とあるのは、兪鎮午の原文には無い、この本の著者である朴実の新しい情報だと思います。

    次に、吉田茂の回想録を引用する前に
    「実際に日本が独島を意識したのかは明らかではない。」
    と朴実は書いていますが、これは面白い指摘だと思います。

    サンフランシスコ条約締結の段階で、日本側は、竹島=独島の帰趨について、どのくらいの関心を持っていたのか。
    李承晩ラインより前には、関心は余り高くなかったのでしょうか?
    韓国側のほうは、こだわりを持ち続けていた、とは思います。

    続いて、朴実は、
    「アメリカ側は、独島を平和条約に明記しなかったが、東京のマッカーサー司令部は、いつも独島を日本の管轄外においていた。」と書いています。
    これは非常にトリッキーな書き方だと思います。

    時系列としては、SCAPIN677のはるかにあとに、サンフランシスコ条約が来るのにもかかわらず、
    米国本国は認めなかった独島の韓国側への領有権を、東京では認めていた、と読めるような書き方をしているからです。こうした書き方が、韓国人の間に「誤解」を広める原因にもなって行ったのではないかと思います。

    さて最後になりますが、
    「卞栄泰長官の声明」がありました。
    これによって、1983年の金東祚の「中央日報への連載」よりも前の、少なくとも、
    1979年の段階で、この声明の存在が確認され、自覚されていたことになります。
    よって、金東祚による「造作説」という、わが「大胆な仮説」は、あやしくなります。

    ただし、この朴実の記述にも、声明の日時や、発表された経緯、媒体は注記されていません。
    外信部記者だった朴実は、金東祚にも直接に取材してこの本を書いていることが伺えますが、この「声明」も、もしかしたら、金東祚から「教えてもらった」ものかもしれない、という未練をまだ持ち続けています。

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  31. 朴實(パク・シル)『韓國外交秘史』1979.12月 麒麟苑
    第11章 険しかった韓日会談

    ◇独島と竹島(287p~295p)
    慶尚北道鬱陵郡南面道洞1番地、鬱陵島の東南90キロメートルに位置する韓国の領土、独島(Liancourt Rocks)が、韓日紛争の重要な問題として登場したのは、おおよそ、平和線が宣言された1952年1月下旬ごろであった。
    政府は、1952年1月18日、「隣接海洋に対する主権」を宣言し、北緯38度、東経132度50分までが我が国の主権地域であることを明らかにした。
    当時、平和線宣言の実務を担当した金東祚(キム・ドンジョ)氏(前外務部長官)によれば、独島は歴史的にも地理的にも我が領土であることは明らかであり、このとき「平和線の中でこれを明らかに表記し、わが領土であることを再確認するようにした」のである。池鉄根(チ・チョルグン)氏も、外務部の主張で原案に独島の領土概念を載せた卞栄泰(ピョン・ヨンテ)追加案が加味されたと証言している。
    独島の韓国領有があらためて強調されると、日本政府は、すぐに駐日代表部にこれに抗議する覚書を伝達した。
    「平和線が宣言された一週間後に、日本政府は、独島が韓国が主張する漁業制限区域の中に含まれていることを指摘して、独島は確実に日本領土であり、日本政府としては韓国政府の主張を確認することは出来ないという抗議であったが、我々はすぐに一蹴してしまった」と金氏は回想している。
    日本政府は、1月24日、外相の声明を通して、平和線に反駁し、独島が日本領土であることを主張し、続いて駐日代表部に抗議の覚書を伝達したが、駐日代表部はまた駐日代表部として2月12日付で独島領有権についての日本政府の主張に反駁する覚書を伝達した。

    長い間、事実上忘れられていた絶海の孤島である独島が、われわれの関心を最初に引いたのは、解放直後、政府樹立の準備が盛んに行われていた1948年6月にさかのぼる。
    当時、日本駐屯連合軍司令部のアメリカ空軍は、爆撃練習のため無人島である独島に出撃していたが、ある日、ここでイカ漁をしていた韓国の小型漁船団(14隻)を誤爆し、漁民14名が死亡する不祥事が発生した。
    このため、国内の新聞は、これを大々的に報道し、独島についての認識を新たにしたのである。
    その後、韓国戦争などの騒擾が起こり、独島は再び忘れられたが、1951年に入って、ダレスを中心に対日講和条約の実務作業が行われる過程で、偶然に我が国有志の注目を集めることになった。
    当時、対日講和条約準備代表という職にあり、韓日問題について諮問を受けていた兪鎮午(ユ・ジノ)氏は、個人的に政府に対して独島問題に対する関心を喚起した。
    前記『思想界』に寄稿した回顧談を通して、兪氏はこのように述べている。
    「1・4後退後、何か月かがたった3月末、または4月初旬だったと記憶する。その時、法務部法務局長であった洪璡基氏が訪ねてきて、一枚の日本の新聞を拡げて見せた。対日講和条約草案の日本語翻訳文が掲載されていたが、我が国の利害に関係する部分が少なくないばかりか、帰属財産処理についての規定は、まかり間違えば、我が国に非常に不利であるようだとのことであった。検討してみると、果たして彼の言うとおりであった。帰属財産についての規定以外に、我が国の領土についての規定も、私には不満であった。草案第二条のA項には、我が国の付属島嶼として、済州島、巨文島、鬱陵島だけが例示されていた。韓半島の付属島嶼を全部列挙することは不可能であり、また不必要なことであるが、韓日間の紛争が起りうる島嶼、例えば独島のようなものは、我が国の領土であることを平和条約の中に記録しておく必要があると考えた。」
    (注(3)に 兪鎮午「韓日会談が開かれるまで」『思想界』1966年2・3月号)

    兪博士は、新聞の翻訳文だけでは不足であるという感もあり、当時国務総理であった張勉(チャン・ミョン)博士をたずねて行った。
    新たに外務長官になった卞栄泰(ピョン・ヨンテ)氏は、国連代表としてアメリカに行っており、駐米大使から総理に抜擢された張総理は、兪氏に遊びに来いと誘っていたのである。
    張博士を尋ねた兪氏は、米国は、重要な利害当事国のひとつである韓国に条約草案の写本を送付して来たかと尋ねたが、張総理は「そうした事実があるようだ」として「調べてみる」と約束した。
    兪氏は不快に感じたが、米国がたとえ何かの理由で写本を送って来なかったとしても、我が政府としては、対日講和条約に我々の見解を必ず反映させなければならないという意味で、すぐに何人かのひとと相談して韓国政府の意見書を作成することにした。
    ところがしばらくたったあと、張総理は、兪博士に「写本を探した結果、景武台(訳注:大統領官邸)の、ある秘書の引き出しの中に2週間ほども昼寝をしていたのが見つかった」と言って、すぐに送ってきた。
    兪氏の個人の追憶では、独島問題に関連して六堂を訪ねて明快な話を聞いたとのことだ。
    「独島問題について、まず歴史に明るい六堂・崔南善(チェ・ナムソン)先生を訪ねて質問した。その時、東莱に臨時に起居していた先生を訪ね、「先生、歴史上から見て、我が領土と主張できる島々は何と何ですか?」と訊いた。六堂は果たして記憶力が良い方であり、独島の来歴を即座に私が確信を持てるように説明してくれた。そこで、私は、対馬島についても、「李大統領は、対馬島も我が国の領土だと何度も言っていますが、根拠が確実ですか?」とたたみかけて訊くと、六堂はにっこり笑って、首を振って否認した。」
    六堂は、「我が国の木浦と、日本の長崎、中国の上海を連結する三角形の中心ぐらいになる海中にパラン島という島があるが、表面が浅くて、波の中に埋もれたり現われたりする」という新たな事実を教えてくれた。彼は、さらにこの際、この島を我が国の領土としておくのが良いだろうと付言した。
    避難時の落ち着かない状況であったが、卞外務部長官は、すぐに外交委員会を構成し、金俊淵(キム・ジュニョン)、崔斗善(チェ・ドゥソン)、裴廷鉉(ペ・ジョンヒョン)、洪璡基(ホン・ジンギ)、李建鎬(イ・ゴノ)、朴在隣(パク・チェリン)、兪鎮午(ユ・ジノ)氏をして、対日問題などについての意見書作成を依頼したが、ここにおいて、独島を韓国領土として明記することを要請することにした。
    パラン島(波浪島)については、海軍を動員し、韓国山岳会の洪鍾仁(ホン・ジョンイン)氏が中心になって、日本海軍水路部から発行した海図を持って実地踏査をしたが、発見できなかったということだ。
    政府は、まもなく対日講和問題について韓国側の意見書を作成し、米国に手交したが、この中で領土問題については、「パラン島」の実在が不確かではあったが、たとえ実在しないにしても載せて損害になることはないであろうという考えから、独島とともに平和条約第二条に追加するよう要求した。この意見書は、外交委員たちと卞長官が協力して作成したもので、英文翻訳は卞長官自身が直接担当し、一字一字精密に検討したと伝えられている。兪博士は、後日「国家の権威を象徴し、正確を期さねばならない外交文書に、実在もしない島の名前を書き入れて我が領土だと主張したことは、取り返しのつかない当時の失敗であった」と指摘したことがある。海図の、波濤が激しいという表示を誤解したせいである。

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  32. しかし、アメリカ側は、独島を平和条約の中に明記することを拒否し、結局、韓日間の長い紛争の種を残したのである。
    サンフランシスコ平和条約の第二条は、鬱陵島(Dagelot)(ママ)を韓国の領土として認めた。独島は鬱陵島に隣接しているので、韓国は独島についての領土権の返還を要求したのであるが、日本は、独島について平和条約に言及されていないことにより、独島は日本に属すると解釈されると主張した。実際に日本が独島を意識したのかは明らかではない。吉田首相は、彼の回顧録で、領土問題について次のように書いている。
    「われわれは、明示されていない小さな島々も条約に明示しようとしたが、この島々は、ほかの国との関係が錯綜しており、そうした国の見解を聞かなければならないので、条約の締結を遅らせてしまう。この点から、ダレス氏は「締結の場では、日本側の意見を示すだけにして、次の段階で交渉するように」と勧告したので、彼の意見に従ったのである。」(10)Yoshida Shigeru, The Yoshida Memories (Boston 1962) p27

    日韓双方は、歴史的事実に入り込み、終わることのない論戦を続けた。
    アメリカ側は、独島を平和条約に明記しなかったが、東京のマッカーサー司令部は、いつも独島を日本の管轄外においていた。
    『外務行政の10年』には、次のように指摘されている。
    「日本が無条件降伏したあと、何回も、独島が日本の地域的範囲外にあることを、内部的指示、また訓令を通して明白にした。スキャップ(連合軍最高司令官)指示677号によれば、日本の領土は、4大島――北海道、本州、九州、および四国――と対馬島を含む約1000の隣接諸島に限定し、①鬱陵島・独島および済州島、②琉球諸島などを除外すると明らかにした」
    韓国は、独島の領有権を主張し、それを実証するため、歴史・地理的論陣を総動員し、実際に警備隊を派遣しはじめたが、これは国連軍の独島爆撃演習が再開されて刺激を受けたものであった。
    クラーク将軍は、独島問題について、言及している。
    「独島問題が発生した。韓国と日本の中間付近にあるこの島は、韓国人には独島、日本人には竹島として知られていたが、1905年、日本はこの島を日本に包含させてきた。その後、韓国がその領有権を主張した証拠はない。国連軍司令部は、この島を爆撃演習場として使用したが、李承晩大統領は、1952年9月、韓国領土であるこの島に対して爆撃を中止するよう要求した。韓国の警察は、1953年6月、この島に接近した日本漁船に発砲したこともあった。」(11)
    (11)Clark op. cit. p147
    第9章 注1 Mark Clark From Danube to the Yalu (Tokyo 1954)

    日本側でも、・・・、1953年7月12日、韓国側が、独島に侵犯した日本保安庁所属の船舶に発砲した翌日、この事件に抗議し、平和線に対抗して、同海域内にいわゆるABCラインという荒唐無稽な線を引き警備しようとした。ちょうど、その年の9月26日、クラーク国連軍総司令官は、共産五列の潜入を防止し、戦時禁制品の海上密輸ルートを封鎖するため、「韓国防衛水域」を宣言し、事実上、日本の企図は挫折した。
    日本は、1953年6月、海上保安庁および出入国管理局職員など30名を巡視船2隻に分乗させて独島を視察し、漁業に従事する韓国人6名を強制的に退去させ、日本領土だという立て札まで立てた。そうかと思えば、赤城防衛庁長官は、「韓国が竹島に侵略を強行している」と主張し、日本の南部地方の極右翼分子たちは、独島を奪取するため実力行使を取るとほらまで吹いた。そして辻富蔵という老人は、独島にリン鉱を所有していると主張し、日本政府に5億円(当時130万ドル)の損害賠償の請求をするとまで言った。
    韓国と日本が平和線と独島問題で争いを継続すると、戦争遂行に専念すべき自身の立場とあわせて、韓国に同情したクラーク将軍は、マッカーサー・ラインを模範として、前述の防衛線(Defence Lineまたはクラーク・ライン)を選定することを考案したのである。
    金溶植(キム・ヨンシク)氏の主張によれば、次のようであった。
    「クラーク将軍は、平和線で日本の船をたくさん捕まえているが、日本の船が入ってくれば戦争をしなくても人が死んだり生きたりすることになる。アメリカ人から見れば、相当に危険だ、とのことだった。また、韓国は、いま共産党と戦っているが、日本と争うことになれば、それは両面の戦いとなって困ることになる。実際、事情が事情なだけに、これを我々がどうにかして解決しなければならない。そこで、対共戦略の中で争いを起こさないために「クラーク・ライン」という線をひとつ作ってやろう。この線は、平和線と同じような線だ。平和線と同じような線を引いて、この線をもって海上ルートで入ってくるのを防ぎ、戦時中に限って日本を監視した。クラーク・ラインの話をするときに「いま我々が話していることを、そのまま米国に行ってあなたが新聞紙上に公開すれば、私はすぐに声明書を発表して、そんな話は無かったと言おう」ということであったが、実際には、日本の船が入ってこられないようにするので、日本と争うのはちょっとやめてくれないか、という話であった。これ(クラーク・ライン)は、韓国戦争の休戦とともに無くなった。」(12)
    (12)『韓日会談白書』 p201~202

    韓国と日本政府は、絶え間なく独島領有権をめぐる抗議の覚書交換戦をしていたが、政府は1954年1月18日、平和線宣言2周年を迎えて、独島に領土表示をし、同じ年の5月には、民間の守備隊20名を派遣した。さらに日本の侵攻説が広がるや、同年9月2日、独島の武装化を決定するに至った。

    韓日会談を通して、独島問題が提起されたのは、1953年4月15日から始まった第二次会談からであった。
    その時、韓国代表であった金氏は、韓国の領土である独島についての議論は内政干渉であると一蹴し、議題に含ませること自体を頑強に拒否してしまった。
    「泥棒が、道を歩いている紳士の金時計を見て、突然自分のものだと難癖をつけたとしよう。その紳士が「とんでもない話だ」と一蹴すると、相手方がその紳士に、裁判所に行って誰のものだか裁判をしようといいがかりをつけたとしても、裁判所に行く紳士はいないだろう、と一蹴してしまったのだ。そして、日本人達に、韓日会談の議題は、請求権・平和線と漁業問題・在日僑胞の法的地位と待遇問題に限り、我々の領土について国際司法裁判所に行くということは、考えることすら出来ないと応酬した」

    岸信介首相など日本側から要求したハーグ国際司法裁判所への提起問題をはじめ、大野伴睦氏などによる共同領有の提議も、政府はことごとく取り合わなかった。

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  33. 日本政府は、韓国側が独島を表示した郵便切手を発行すると、また抗議の口上書(Note Verbale)を駐日代表部に送ってきた。韓国領土と表示された郵便切手と韓国の消印が押された国際郵便が日本の家庭に配達されたので、国民感情を考慮しなければならなかったのだ。
    1954年11月29日付の英文口上書によれば、①日本に到着した3種類の韓国の郵便切手には、日本の領土である竹島を独島と表記しており、②日本政府は、韓国政府が明かに日本領土の一部である竹島を不法占拠していることについて、数次にわたり公開抗議をしており、③韓国政府は日本政府の抗議を無視し、日本領有のこの島を韓国のもののようにあつかって世界に宣伝しており、④このような韓国政府の非友好的処置について、厳重に抗議すると同時に、矯正することを要求し、日本政府はこの問題に関する全ての処置を留保していることを通告する、と記されている。
    またその翌日の11月30日には、韓国官憲が独島に接近した日本の警備艇に発砲したことに抗議する口上書を駐日代表部に伝達してきた。この口上書には、11月21日未明、韓国側が日本の巡視船「おき」号と「へくら」号に、5発の砲弾の洗礼をあびせたことを指摘し、合法的解決のための国際司法裁判所への提起までも韓国側が拒否していると非難している。(13)
    (13)『外交年表(Ⅰ)』 p342~343

    韓国側は、このような日本側の抗議を、引き続き黙殺した。韓日会談が終結するまで間断なく提起された独島問題は、対日強硬という李博士の外交の一つの標本であり、それは駐日代表部が送った日本側への返信と、卞栄泰外務長官の次のような談話に、歴々とあらわれている。
    「歴史的事実と国際法により、独島は韓国領土の一部であり、独島の写真を郵便切手にのせることは全的に韓国政府の管轄権に属することである。日本政府のそのような主張は、根拠がないばかりでなく、韓国の内政に干渉することになる。」(1954年12月13日付、駐日代表部返信)
    「独島は、日本の韓国侵略における最初の犠牲物である。解放とともに、独島はまた我が懐に抱かれた。独島は韓国独立の象徴である。この島に手をつける者は、全ての韓民族の頑強な抵抗を覚悟せよ。独島はただの数個の岩の塊でなく、我が民族の栄誉の錨である。これを失って、どうして独立を守ることができるだろうか。日本が独島奪取をはかることは、韓国再侵略を意味するのである。」(卞栄泰長官声明)

    10年後、共和党政府により韓日協定が妥結したときも、この問題は含まれなかった。一時は、韓日双方が秘密交渉を通じ、この頭の痛い問題を解決するため爆破してしまおうということで意見が接近したという噂も広がった。

    韓国の国会と日本の衆議院が、それぞれにこの問題を自分の立場から議論したが、双方の外交陣は、これは紛争処理についての交換公文で解決することにしたとして、ぐずぐずと曖昧なまま持ち越してしまった。
    韓国内では、この問題に対して最終交渉にあたった元容奭(ウォン・ヨンソク)無任所長官(当時)が、独島は韓国の領土であり、論議の対象には始めからならなかったので、基本条約で取り扱うのはナンセンスだ、と答弁した。そして日本側では、佐藤栄作首相や椎名悦三郎外相が、衆議院の日韓特別委員会に出席して「国交正常化が実現し、竹島問題も平和的方法で解決する展望が生じ」、全体の判断として調印したので、日本側が放棄したものではない」と証言した。(14)
    (14)元容奭 前掲書 p145
    『思想界』1966年1月号p103
    黄相基『獨島領有権解説』(ソウル1954)
    大韓公論社『獨島』(ソウル1965)など参照

    注(1)に 元容奭『韓日会談14年』(1965)
    池鉄根『平和線』(1979)

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  34. matsuさん、御苦労さまです。竹島が韓国人の関心を惹いたのはアメリカ軍の爆撃事件を契機としてであり、その後はまた忘れ去られた、という記述もまた、当時の韓国人には「独島は歴史的に韓国の領土であったものを日本が侵奪した」などという認識は無かったことを白状するものですね。




    2010.03.21

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  35. 隣接海洋主権宣言
    深度いかんに拘らず資源保有保護権行使
    1952.1.20 東亜日報

     李大統領は我国領土である韓半島及び島嶼の隣接海洋に対する主権を国際的先例に依拠して、18日、左のごとく宣言した。

     確定した国際的先例に依拠して国家の福祉と防禦を永遠に保障しなければならないという要求によって、大韓民国大統領は次のように宣言する。

    一 大韓民国政府は国家の領土である韓半島及び島嶼の海岸に隣接する海面の上下に既知の、あるいは将来に発見されるあらゆる自然資源鉱物及び水産物を国家に最も利益となるよう保護、保存及び利用するために、その深度いかんを問わず隣接海面に対する国家の主権を保存し、また行使する。

    二 大韓民国政府は、国家の領土である韓半島及び島嶼の海岸に隣接する海洋の上下及び内に存在するあらゆる自然資源及び財富を保有、保護、保存及び利用するに必要な左のように限定した延長海洋に亘り、その深度のいかんに拘らず、隣接海洋に対する国家の主権を保持し及び行使する。特に、漁族のような減少する憂慮がある資源及び財富が韓国住民の損害となるほどに開発されたり、あるいは国家の損傷になるほどに減少あるいは枯渇しないようにするため、水産業と漁獲業を政府の監督下に置く。

    三 大韓民国政府は、これにより大韓民国政府の管轄権と支配権にある上述した海洋の上下及び内に存在する自然資源及び財富を監督し、また保護する水域を限定する左に明示される境界線を宣言し及び維持する。この境界線は将来に究明される新しい発見研究または権益の出現に因って発生する新情勢に合わせて修正することができることを併せて宣言する。大韓民国の主権と保護下にある水域は韓半島及びその附属島嶼の海岸と左の諸線を連絡して組成される境界線間の海洋である。

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  36. ▲咸境北道慶興郡牛岩高点から北緯42度15分、東経130度45分の点に至る線
    ▲北緯42度15分、東経130度45分の点から北緯38度、東経132度50分の点に至る線
    ▲北緯38度、東経132度50分の点から北緯35度、東経130度の点に至る線
    ▲北緯35度、東経130度の点から北緯34度40分、東経129度10分の点に至る線
    ▲北緯34度40分、東経129度10分の点から北緯32度、東経127度に至る線
    ▲北緯32度、東経127度の点から北緯32度、東経124度の点に至る線
    ▲北緯32度、東経124度の点から北緯39度45分、東経124度の点に至る線
    ▲北緯39度45分、東経124度の点から(平安北道龍川郡○○列○)馬アン島西端に至る線
    ▲馬アン島西端から北へ韓満国境の西端交差する直線

    四 隣接海洋に対する本主権の宣言は、公海上の自由航行権を妨げない。






     「我国はこの主権宣言により、かつて日帝によって侵奪された独島を再び取り戻すこととなるのである」とかいうようなコメントはありません。



    2010.3.22

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  37. 島嶼巡礼 鬱陵島方面(八)
    東亜日報 1928.9.8

    避難処あり、ここが藥草東山
    通路は数十尺の藺草
    俗人は住めない海上の天国


    見るほどに奇岩怪石、行くほどに断崖絶壁
      ○○○○○○○○何度も尋ねたくなる○○○○○○○○見るほどにあれこれが神気で奇妙なのが鬱陵島海浜一周だ。昨日のべた台霞洞で○○○○○○○○○○○○○○○○|

    海中から鋼○採掘、鄭○○船倉の景気
     ○○○○○○○○○○○○○○○○それは昨年一月二十三日の明け方のことだ。三千余トンの日本商船二見丸が大豆、粟その他の貨物を積んでウラジオストックから日本に向かう途中で、冬の○○○に遭い○○○○○○○○○○鬱陵島の三兄弟岩にぶつかり、○○○○○○○保険会社から○○○○○○○いるところで、私が通りかかったときにもしきりに作業中だった。損害は数百万ウォン、人夫は三百名で皆この島の人だということで○○○○○○景気が○○○○○。

    石柱○○観音島、海上に○○立つ
      その横には、高さが三百五十尺の○○○○島があるが、四方から見れば石柱がこの島を支えており、その中には石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を観音島と呼ぶ。陸地の石柱で建てた大きな建物とそっくりだ。そこから少し船で行ったところに竹島という島があるが、この島は、鬱陵島に次ぐ島司がいる島だという。この島もまた四辺から見れば○○二百五十余尺の絶壁で、船を○○○○かれば窟のような岩の下しかなく、この島は周囲が十余里、面積五万四千坪で、二尋(ひろ)三尋になる多くの竹が取り囲み、その中は雑木が生い茂っている。   

    竹林の奥に鶏の声、武陵桃園に○○
      この島の○○上っていこうとすれば○○○○岩の間を縄梯子を登り、落ちれば深く○○○海○○、この窟の間を約六十尺の縄梯子を使って行き来する。そして登って見れば、○○○○○○○○椿の香りの中をまた数十間○○○○「ウンアー」と薬草を食べる牛の声が聞こえ、その横のトウモロコシ畑は声高いニワトリが何羽か鳴く声が聞こえてくる。桃花源記に書かれている武陵桃源はここではないか、そんな思いが浮かんでくる。

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  38. 薬草東山一家戸、事実上この島の島司
      この島には竹島島司がいるが、それは朴在天氏だ。この島は鬱陵島とは別天地として、朴氏の家一戸があるだけで、この島の島司と呼ぶのもそのためだ。朴氏は無人島のこの島に初めて入ったときに、トウモロコシ○十八斗、甘藷二十斗を持ち込み、その年から耕作を始め、今日では○○○○○○○○。無人島時代のこの島にも縄梯子だけはあったというが、これは陸地にはない数十余種の薬草があって、国の命を受けてここに薬草を採りに来たといい、日本人が鬱陵島を竹島と呼ぶのもこのためだという。
      この島の島司の朴氏は滅多に人と出会うことがなく、ソウルの人間が来たというのでとても喜んでいる様子で○○○○○○○○、○○○○甘藷を煮てトウモロコシを○○○○。そして時勢の話から始めて○○○○○○○○○○○通った話、話題はこれから宗教の話を始め、記者が写真を撮ろうとすると聖書と賛美歌を手にして写ろうとした。
      この島の牧師であり鬱陵島の牧師で、彼は温和であり謙遜的な態度で○○○○のようだ。彼は昼には畑で賛美歌を歌い、夜には月の光と○○○○○○○聖書を読み、家の者を集めて説教をする。賛美歌の「避難所あり、災難に遭うときはここに来よ」という句節のように、避難処をまさにここに定めたということだ。

    (記事引用ここまで)



    観音島は石柱のようだ、と。



    2010.03.25

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  39. chaamieyさん、翻訳ありがとうございました。

    それにしても出てきませんね。「独島は韓国領」という根拠。それなのに「独島は韓国領」という彼の国の人々の想いは強まるばかりのようです。史実を客観的に追究しようなどとは思いもよらぬことなのでしょうか。歴史認識の共有を言うのであれば、史実を客観的に追究し積み重ねていく以外にないはずです。彼らがよく口にしていた「歴史を直視せよ」との言葉は、彼ら自身がやらねばならないリストの第一に記されていると思う今日この頃なのであります。

    2010.3.26

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  40.  そうですね。「日本人は歴史を歪曲している」、「日本人は過去を直視せよ」、「日本は独島侵奪の野望を抱いている」、「日本が歴史を歪曲するのはコンプレックスのせいだ。」

     投影の機制の見本みたいなものばかりです。




    2010.03.26

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  41. この東亜日報1928年(昭和3)9月8日の記事は、
    その昔、杉野洋明さんがブログに紹介されていて、

    http://ameblo.jp/nidanosuke/theme-10003268652.html
    竹島領有権問題
    2008年07月12日 01時15分09秒
    http://ameblo.jp/nidanosuke/image-10113508151-10075387044.html


    このブログでも議論がありました。(2008年7月12日)
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/07/name-of-kwannondo-evolved-from-island.html

    そのころ、私も翻訳を試みたことがありましたが、Chaamieyさんのこの解読と合わせると、より、意味が通ると思います。

    杉野さんは、彼のブログで、こう書いています。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    漢字交じりで「石柱優恵(?)観音島」という小見出しの後、赤線部分に
    その中には石仏形状の岩が幾つかあるとのことで、この島を観音島という
    という記述が見られます。
    つまり「観音島」はかつて「石仏の島」だったわけですね。
    ようするに観音島は、「石仏」という「石」を含む言葉が由来の島だったわけです。となれば、今まで「石」という言葉となんら関係が見られない、という従来の主張は間違いだったということになるわけです。
    「石仏」が語源であれば、かつてこの島は「観音島」ではなく、むしろ「石仏島」に近い韓国語の固有語表現で呼ばれていた可能性が出てきます。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    では、わが解読です。


    島嶼巡礼 鬱陵島方面(8)第7隊 李吉用
    「避難所と思えば、ここが薬草東山」
    俗人住めない海上天国

    見れば見るほど奇岩怪石、行けば行くほど断崖絶壁
    ここがそこみたいで、そこがここみたいで(すでにもう見たようで、これまで見たものとはまた違い)、ちっとも飽きがこない。むしろ何回も見たくなり、見ればみるほど、色々なものが神気であり、奇妙なのが、鬱陵島海辺の一周である。
    昨日話した台霞洞から、道洞まで回ろうとすると、この島の三分の二になるが、この沿岸は、海金剛よりも確実に景色が良い。三兄弟のように仲良く、4~500尺の石柱の岩が、あちこちに立っているあいだをぬけると、「鄭ドリ」船倉がある。ここには誰も船を入れたものがなかったが、「鄭ドリ」という船乗りが初めて船を入れたところで、「鄭ドリ」船倉と呼ぶのだという。

    海中から鋼を採掘 鄭ドリ船倉の景気
    (俗に)「山から金が出、鉄が出る」と言うが、ここの浦口では、海から実際に金が出、鉄も出る。それは昨年1月23日の明け方のことである。3000トンになる日本の商船「二見丸」が、豆や粟やその他の貨物をたくさん積んで、ウラジオストックから日本に行く途中、冬の雪寒風をうけ、どこにいるかを見失った状態で、明け方に鬱陵島の三兄弟岩にぶつかり、そのまま沈没した。保険会社が引き揚げる途中であったが、私がここを過ぎた時も、しきりに作業中だった。損害が、数百万ウォンに達するといい、作業人夫は約300余名。みなこの島の人で、一日の賃金が2円50銭ずつというから、最近、仕事がなかったこの島にとっては、良い景気だった。

    石柱の上に観音島 海上に雄大に立つ
    その横には、高さ350尺に達する切り立った島があるが、四方から見ると、石の柱がこの島を支えており、その中には、石仏の形をした岩がいくつかあるので、この島を観音島と呼んでいる。陸地の石柱で建てた大きな建物と似ている。
    ここから一息の船道で、竹島という島がある。この島は鬱陵島に次いで大きい、島司がいる島だという。この島もまた、四面から見ると、250余尺の絶壁で、船を着ける所としては、窟となった岩の下ばかりである。この島は周囲が10余里で、面積5万4000坪、非常に背が高い、茂盛な竹で囲まれており、その中には雑木も茂っている。

    竹林深処に鶏声 武陵桃園
    (略)

    薬草東山一家戸 事実上の島島司
    この島には、竹島島司がいるが、彼は朴在天氏である。この島は鬱陵島とは違う天地で、朴氏の家、一家戸があるだけであり、この島の島司と言っても良い。朴氏は・・・にこの島に初めてやって来たときに、トウモロコシ10余トトル、ジャガイモ数マルを持ってきて耕作を始めた。

    (以下、根気が続かず、放棄しました)

    写真は、「モシゲ」(=苧洞)海水浴場から見た「燭台岩」と竹島の遠景(上)
    竹島の島司・朴在天氏

    GTOMRさんが、上記ポストのコメントで、シリーズ全11回をリンクしてくれています。
    Chaamieyさんが、昔、他の回も一部を翻訳していたようにも記憶します。

    李吉用's collection of his writing on the newspaper.See 6 and 7.
    1. 鬱陵島方面(一) 夢寐? ???? 于山國發見? 歡喜, ???? ??? ??? ?, 朝鮮? 極東 ??[寫](李吉用).
    2.鬱陵島方面(二) 猛獸毒蟲 ???? 彌勒山? 聖人峰, ??? ??? ?? ???? 鬱陵島? ??
    3.鬱陵島方面(三) 新羅時最初領土 ??? 無人絶島 ???? ??? ?? 于山國?? 鬱島??
    4.鬱陵島方面(四) 飜覆無常? 領土權 國際問題?? 演出 ?? ???? ?? ???? 崎嶇? ?? 運命
    5.鬱陵島方面(五) 所屬抗爭 近五百年 朝鮮領土? 歸着, ?? ?? ??? ??? ?? 變遷 ?? 鬱陵島
    6.鬱陵島方面(六) 絶壁?? 森林鬱蒼 宛然? 洋上仙境, ??? ??? ??? ???? 可頭峰? 海上觀[寫]
    7.鬱陵島方面(七) ? 火田 ?? ?? 豊作傳?? 別天地, ???? ???? ??? ? 海上? ?? 石窟岩[寫]
    8.鬱陵島方面(八) 「避難處 ??? ?? 藥草東山」????? ??? ?? ?? 俗人 ? ? 海上天國[寫]
    9.鬱陵島方面(九) 白旗? 請水軍號 原始的 物物交換, ???? ??? ????? 悲壯? 露艦? 最後
    10.鬱陵島方面(十) 俗人足跡稀少?? 各種學者?究地, ??? ???? ??? ??? 冠冒峰? ?? ??[寫]
    11.鬱陵島方面(十一) 常綠? 于山國? ? 安否 ?? ??, ??? ??? ??? ???? 寒心? 島民生活[寫]

    この記事9月8日のサイト

    http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/viewIpqDataNP.jsp?pItemCode=np_da&pIpqParam=np_da_19280908_v0005&pLevel=6&pDatabaseID=np_da&pRecordID=np_da_1928_09_08_0640&pTitle=%eb%8f%99%ec%95%84%ec%9d%bc%eb%b3%b4+%3e+1928%eb%85%84+%3e+09%ec%9b%94+%3e+08%ec%9d%bc+%3e+%e9%ac%b1%e9%99%b5%e5%b3%b6%e6%96%b9%e9%9d%a2%28%e5%85%ab%29+%e3%80%8c%e9%81%bf%e9%9b%a3%e8%99%95+%ec%9e%87%ec%8a%a4%eb%8b%88+%ec%98%88%ea%b0%80+%e8%97%a5%e8%8d%89%e6%9d%b1%e5%b1%b1%e3%80%8d%ed%86%b5%eb%a1%9c%eb%9d%bc%ea%b3%a0%eb%8a%94+%ec%88

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  42. chaamieyさん

    いつも翻訳有難うございます。

    1928年の記事ですが、朴在天氏は何年に竹嶼/竹島へ入植したのでしょうね? 

    この一連の鬱陵島の特集記事は、当時の朝鮮人に現在の竹島/独島が鬱陵島の付属島だなどという意識が微塵も無かったことがよく分かる記事ですね。

    ところで、今日から一週間ほど、余りネット環境の良くないところへ滞在します。これまで以上にフォローが疎かになると思いますが、皆さんで議論をお楽しみ下さい。帰りましたらいくつか投稿したいと思います。

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  43. "独島=于山島"
    この等式は証明されているのでしょうか?
    彼国では『世宗実録』地理誌に「于山・武陵…二つの島は互いにそれほど離れておらず、天気のいい日には眺めることができる」とあるのを根拠に竹島の領有を主張しています。(『獨島に対する大韓民国政府の基本的立場』韓国政府発行のパンフレットによる)

    彼国では古文書に出てくる「于山島」もしくは「于山」の文字を「獨島」と読み替えていますけれども、それには前掲の等式が証明されていなければなりません。「于山島」もしくは「于山」は獨島の古名だと彼国は主張していますけれども、それを証明する史料ってあるのでしょうか。ご存知の方おられませんか?

    2010.3.27

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  44.  Matsuさん、このシリーズはGTOMRさんのサイトのリンクを手掛かりとして、順次翻訳しているところです。全11回にもわたる鬱陵島紹介ですから、「鬱陵島の属島」である竹島/独島のことがきっと何らかの形で登場するに違いないと考えて、えらく古風な文体に悪戦苦闘しつつ挑戦している次第です。

     しかし第7回まで竹島/独島は登場せず、この第8回と次の第9回が鬱陵島の属島である観音島と竹島(チュクト)の記事であるわけですが、やっぱり竹島/独島は出てきません。

     その代わりに分かるのが、杉野さんが指摘していたように、観音島と「石」というイメージのつながりですね。

     私は、「観音島は石柱のようだ」ということなので、勅令41号が観音島のことを「石島」と命名したとしてもおかしくはないと思います。

    Matsuさんの翻訳、私のブログに拝借します。


    2010.03.27

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  45. "朝鮮(1392-1910)時代の「成宗実録」には金自周が独島の姿を描写した内容が記錄されています。朝鮮時代には独島を三峰島・可支島・于山島などと呼んでいましたが、1881年に「独島」と名前が変更されました。「独島」という名前は1906年 鬱陵郡守・沈興澤により初めて使われ、1914年行政区域改編により、慶尙北道の一部となりました。
    独島は東島・西島及びその周辺の36の岩島から構成されています。東島(海拔 98m)には噴火口があり西島(168m)は噴火口はありませんが、火山岩からできています。東島と西島の間には兄弟洞窟があり東島には海蝕洞窟と海蝕台及び海蝕崖が発達しています。
    現在独島には韓国の警備隊が駐屯していますが、岩の上に家を建て水質の高い水が湧き出る泉から生活飲料水を供給し駐留しています。 "(韓国観光公社サイト/http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=281483より)

    韓国観光公社のサイトにある「獨島」の紹介記事です。突っ込みどころ満載ですが、とりあえず3点指摘しておきます。

    1)1881年に「独島」と名前が変更されました。
    島の名前が変更されたならそれを証明する文書があるはずだ。しかしそれは示されていない。さらに疑問なのは「「独島」という名前は1906年 鬱陵郡守・沈興澤により初めて使われ」たとしているのですが、1881年に変更したとする話と整合しないじゃないか。

    2)1914年行政区域改編により、慶尙北道の一部となりました。
    竹島は日本が1905年に国際法に則って編入して以来、島根県の五箇村に属してきた。編入時は穏地郡で1969年に穏地郡が周辺の郡と合併して隠岐郡となり、2004年に五箇村が周辺自治体と合併して隠岐の島町になっても変りはない。1914年の行政区域改変とは鬱陵島が江原道から慶尙北道に所属変更された件を指しているのだと思われるが、それならば公文書があるはずだ。それにどう記されているのだろうか。島根県に属している島を慶尙北道に所属変更するわけがないだろう。ここまで見え透いた嘘をつくとは………。

    3)現在独島には韓国の警備隊が駐屯していますが、岩の上に家を建て水質の高い水が湧き出る泉から生活飲料水を供給し駐留しています。
    水利が悪く定住に向かない島とわかっているのに、こういう出鱈目を言うとはあきれるね。鬱陵島からの補給がなければ暮らせません。海水の淡水化装置を設置したとか設置するとか言ってませんでしたっけ。そんな新聞記事を見た気がするが。

    2010.3.27

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  46. This comment has been removed by the author.

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  47. Kaneganeseさん、この記事の第1回の見出しとして「夢に見た于山国発見の歓喜」、「古き朝鮮の威厳を伝えるところ」とあったりするし、また文章の端々から、この記事を書いている人の鬱陵島に対する親愛の情を感じます。だから、韓国政府が言うように竹島/独島が本当に鬱陵島の属島だと考えられていたのならばこの記者さんが見逃すことはないと思うんですよ。しかし・・・・・・(以下省略)

     なお、朴在天氏が竹島(チュクト)に入った年代は記事には出てきません。



    Makotoさん、
    >2010.3.27 7:30 PM


    「世宗時代には鬱陵島を「武陵島」(ムルンド、ウルンド。「武」の中国音は「ウ」)と呼んだことが 『世宗実録』に多数出て来る。そして、独島を「于山島」と呼んだ。この事実は、17世紀からの古地図において今日の独島の正確な位置に鬱陵島以外のまた一つの島を描いて「于山島」(ウサンド)と呼んだ事実でも再確認される。」(シン・ヨンハ独島学会会長の獨島問題 111問 111答の第26問)ということのようですから、このプログの右側に並んでいる古地図がたいていその証拠になります。例えばこれとか。とても説得力のあ・・・・・・(以下省略)




    2010.03.27

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  48. Makotoさん、
    >2010.3.27 10:18 PM

     2)についてですが、1914年の行政区域改編の慶尙北道の項に「鬱陵島竹島」とか何とか書いてあるのを見た記憶があります。今はちょっと見つけ出せませんが。でも、それって竹嶼のことですよ。それこそ「右の島」ですけどね。

     彼らは「于山島」の地図の解釈でもこの行政区域の解釈でも、現に存在する竹嶼というものは無いかのように無視して、その島は独島だと考えるみたいですね。宗教だからしょうがないんでしょうけど。



    2010.03.28

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  49. 日本学者たち、独島領有権問題 争点化試み
    [世界日報] 2010/03/24

      日本の学者たちが独島領有権問題を韓日歴史共同研究委員会の研究課題として採択して争点化しようとしたが、韓国側が反対して実現しなかったことが分かった。

      24日、日本の産経新聞は、「23日発表された韓日歴史共同研究委員会の全体会の過程で、日本側学者たちは、韓日間で領有権争いをしている竹島(独島) 問題を正式研究課題に含ませることを主張したが、韓国側の強い反対で成功しなかった。」と伝えた。

      ソウル特派員発で掲載された記事で、新聞は、「韓日両側は担当研究員を決めて研究概要書まで取り交わしたが、実際の研究段階には至らなかった。」とし、「双方は、この問題を巡って去る夏の間激論をし、研究委員会は一時マヒ状態に至った。」と伝えた。

      日本側の最初の計画は、独島問題を第3分科委員会の近現代史分野に分類して (太平洋戦争)戦後処理状況や韓日交渉の過程など基礎資料を土台に研究しようという立場だった。しかし、韓国側は、「韓国政府が、韓日間に領有権問題は存在しない、と言う公式立場を有している。」と新聞は明らかにした。新聞は、続いて、「韓国の学者たちは独島問題を客観的な国際紛争状況と位置づけることを遮断しようとする意図がある。」とし、「独島問題に関して、今まで韓国は自国の立場と主張のみを一方的に伝え、日本に対する感情的な非難を続けている状況だ。」と非難した。

      新聞は、「特に世論と言論機関は独島問題が愛国主義の象徴になっていて、このため、韓国内の学者、研究者らは客観的な資料を紹介したり研究をするのが難しい雰囲気だ。」と批判した。

      新聞は、続けて、「歴史共同研究委員会を主管する韓国外交通商部が、独島問題研究を通じて自国に不利な資料と研究が出る場合には世論を刺激するしかないから、独島問題が正式な研究主題として採択されないよう研究委員たちに密かに指示したように見える。」と報道した。




    2010.03.28

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  50. Chaamieyさん

    島嶼巡礼 鬱陵島方面(8)

    >文章の端々から、この記事を書いている人の鬱陵島に対する親愛の情を感じます。だから、韓国政府が言うように竹島/独島が本当に鬱陵島の属島だと考えられていたのならばこの記者さんが見逃すことはないと思うんですよ。

    賛成です。
    本来は属島だったのが、明治時代に日本領になった、とか、そんな「言い伝え」があってもいいはずです。
    昭和3年ですから、もちろん日本の検閲があったのでしょうが、それとても、こういう言い方をすれば検閲も通ったはずです。
    そうした形跡がまったくないのは、属島意識というか、竹島/独島への関心が鬱陵島民には、この段階でもまったく無かったのではないでしょうか。

    ところが戦後になって
    1948年6月8日の「独島の惨劇」(米軍誤爆事件)のときに、あれだけの韓国漁船が出漁していたのは、一体、どういう経緯だったのか。
    日本植民地時代の、鬱陵島の漁民による竹島開拓史、というものを、もっと精密にあとづける必要があると思います。

    1947年に、国史館長である申奭鎬が、「独島は当然われわれのもの」と語った(1947年7月24日 東亜日報)のは、その時には、鬱陵島民による独島への出漁が、当然のものとして考えられていた状況があると思います。

    思えば、1905年に鬱陵島と竹島のあいだに引かれた「国境線」は、1910年、わずか5年で消滅してしまいました。以降は、鬱陵島から竹島への出漁は、隠岐からよりも、より頻繁だったのではないでしょうか。

    1905年から1945年まで、一体どんな人たちが、どうようにして竹島の漁場を開拓していったのか。そして、それが1945年の日本の敗戦により、どう変わったのか。
    日本人が去ったあと、竹島の「漁業権」は、どのように鬱陵島の朝鮮人に受け継がれていったのか。あるいは、受け継がれた、と虚構されたのか。

    鬱陵島漁民生活史の研究、というか、そのような分野での、地道な、具体的な研究が必要でしょう。どんな船を使って、誰が、いつ、どのように、竹島で漁をしていたのか。
    それは、どんな史料に残されているのでしょうか?

    島根県の杉原隆先生のされている、鬱陵島に住んでいた日本人からの聞き取り調査のような研究が、日本側でも、韓国側でも、もっと深化されるべきだと思います。

    そこから、「誤解の発端」が、あるいは、見えてくるかもしれません。

    そして、ひょっとして、この分野は「日韓共同歴史研究」ができる分野かもしれない、とも思います。


    1947年7月24日 東亜日報
    http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/viewIpqDataNP.jsp?pItemCode=np_da&pIpqParam=np_da_19470723_x0002&pLevel=6&pDatabaseID=np_da&pRecordID=np_da_1948_07_24_0120&pTitle=%EB%8F%99%EC%95%84%EC%9D%BC%EB%B3%B4+%3E+1947%EB%85%84+%3E+07%EC%9B%94+%3E

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  51. 島嶼巡礼 鬱陵島方面(九)
    東亜日報 1928.9.9

    白旗が請う水軍號
    原始的物物交換
    自ら爆破して運命を共にした悲壮なる露艦の最後

    ○○○島となり、飲料水は全く無く
      人が行き来する道としては数十尋(ひろ)の岩の間を縄梯子で登るしかない五万四千余坪の竹島は、いかにも海上の別天地を成しているが、それは鬱陵島のどこにもないスイカとマクワウリがこの島にだけ栽培されているからで、通路が非常に不便であるにも拘らず、夏ともなればスイカとマクワウリを買おうと多くの者が行き来する。しかし、この島に○○水分の多い果実は○○だが、水は○○○○見ることができない。四方には無尽蔵の海水○○○○飲める水は無く、○○○○雨水を貯めて飲んでいる。

    水と木を物々交換、原始的なその生活
     ○○○○○雨水さえ○○○○スイカの水○○○それも不足するときは海水○○○焼酎○○○○○冬には○○○○○○○○水を飲んで過ごす。それでも不足するときは、鬱陵島と○○○○○人家があるのは臥達里という約15里はなれたところで、その村の高い樹木に白旗を掲げておけば・・・・・臥達里の住民が船で水を持って来て材木と物々交換する・・・・・・  

    ○○○○いわゆる天堂○○○
      日曜日には船に材木を積んで○○○○○白旗○○○○○、これは道洞にある教会で説教するためだ。このような竹島の話はこれくらいにして、我々一行はこの島を辞した。飲み水代わりのスイカとマクワウリを○○○○○○○○○○その後には結局縄ハシゴを下ったが、○○○○○一個しか持てないのがこの島の通路の実情だ。○○○○○○○○○○この島に住む信者朴氏はこの島を天堂と○○○○○○。

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  52. 地名は全て物の形、○○○○伝説
      道洞から来る船のルートは先ほど述べた臥達里を経て数十尋になる滝の下を○○○○○○て進む。臥達里は傾斜が急なところで、山の石が○○○○○○○○○○○○臥達里と呼ぶという○○○○○○○このように何か形容詞か物の形を付けた地名がほとんど全部だ。錐のようだからとして錐山、燭台のようだから燭台岩、水がよどんでいるから水屑洞など、皆そうだ。このような名前の中で杏南と呼ぶ道洞の横の岩附近の海上のことだ。

    日露海戦時代に残された史談数種
      二十四年前の乙巳五月、日露海戦の当時に○○○○○○完全な内海を○○○○この中に入って来た当代有名なロシア・バルチック艦隊の「ドミトリー・ドンスコイ号」(6,200トン)は○○○○○○鬱陵島まで至り、東郷大将指揮の艦隊に追撃され、不利と見てとった露艦中将「ロセ・ストピンスキー」は4,700余名を集めて最後の悲壮な声明を発した。

    国際場化した鬱島、悲壮なる露艦の最後
      今や囚われの身となる以上は○○はこの島に上陸し、船まで日本に取られるのはできないから、引き上げることができない場所(深さ九十余尋)へ○○爆破して沈没させ、全責任を負って、国家に捧げた身○○○○将校たちは沈没する艦と運命を共にしよう。そして金や貴重品は朝鮮人たちに与えよ ――このような悲壮な決心を語り最後を迎えたのがこの場所だ。その当時、正金が入った櫃(ひつ)を朝鮮人に○○○○○○○○○○○○海に投げたという話がこの島では盛んに語られる。 自らの手で爆破した沈み行く船と運命を共にした彼らの悲壮なる決意!、国際場化した鬱陵島! その船を奪われないようにしたが故にその船はバルチック艦隊の精華であり、また、数百万の正金櫃(ひつ)があるといい、昨今、日本海軍省では福井少将に命じて○○○○研究中だという。





    Matsuさん、なるほど、1947年かその前くらいが転向点でしょうかね。おっしゃるように、日本統治時代の鬱陵島の漁業状況が影響しているのでしょう。


    2010.03.29

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  53. "投影の機制の見本みたいなものばかりです。"
    そうですね。「日本人は歴史を歪曲している」、「日本人は過去を直視せよ」、「日本が歴史を歪曲するのはコンプレックスのせいだ。」との彼国の人の発言は、「日本」を「韓国」に置き換えた方が実情に沿っているのではないでしょうか。自力で近代化を果たせず、自力で独立することもままならなかったという事実を韓国が受け入れない限り、日韓関係が好転することはないように思います。「韓国は竹島侵奪の野望を抱いている」といえる行為を韓国は一日も早くやめるべきだと思いますね。

    こういう状況を「投影の機制の見本」と喝破してしまうchaamieyさんはただの猫じゃありませんね。心理学用語をさっと持ってくるところなど流石です。

    能ある鷹は爪を隠し、能ある猫は爪を研ぐと。(ナンノコッチャ!?)


    ところで「獨島教」の経典の紹介ありがとうございました。

    「今日の独島の正確な位置」なら鬱陵島の南東でなければなりません。鬱陵島の東に描かれているのであれば、それは竹嶼(韓国名:竹島)と解するのがフツーの感覚だと思うんですけれどもねぇ。疑問を感じさせないところが経典の経典たる所以なのでありましょう。

    「獨島教」信者にとっては納得のいく説明がなされているのでしょうが、常識的には"獨島=于山島"の等式は証明されていませんねぇ。ということは、古文書の「于山島」あるいは「于山」を「獨島」と読み替えるのは歴史の歪曲以外の何物でもないということですね。

    "1914年の行政区域改編の慶尙北道の項に「鬱陵島竹島」とか何とか書いてあるのを見た記憶があります。今はちょっと見つけ出せませんが。"
    ついでのときで結構ですんで出典を教えてくださいませ。


    2010.3.31

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  54. これまた、面白いですねえ。

    嶼巡礼 鬱陵島方面(九)
    東亜日報 1928.9.9
    自ら爆破して運命を共にした悲壮なる露艦の最後


    24年前の乙巳の年(1928-24=1904? 乙巳は1905年で正しい。)の
    日露海戦を語り、東郷大将まで登場させながら、
    皇城新聞にも登場した 「ジウンコルド巖」と「アンゴフ島」については、
    まったく視野にありませんね。

    知らないし、興味もないんですね。

    「ジウンコルド巖」「アンゴフ島」
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/09/1905-june-2-korean-called-liancourt.html

    またまた杉野洋明さんのサイトですが、
    http://ameblo.jp/nidanosuke/entry-10143148805.html
    2008年09月27日 02時55分35秒


    日本海海戦の記憶が、鬱陵島にこのような形で残っているのは非常に面白いですが、
    日本側の報道ではさんざん登場したリアンコルド岩=竹島が、韓国側では、まったく関心の対象になっていないことがわかります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    日露海戦時代に残された史談数種
      二十四年前の乙巳五月、日露海戦の当時に○○○○○○完全な内海を○○○○この中に入って来た当代有名なロシア・バルチック艦隊の「ドミトリー・ドンスコイ号」(6,200トン)は○○○○○○鬱陵島まで至り、東郷大将指揮の艦隊に追撃され、不利と見てとった露艦中将「ロセ・ストピンスキー」は4,700余名を集めて最後の悲壮な声明を発した。

    「3.4箇所を防げば完全な内海となる、その中に入ってきた」

    「4,700余名」は、「士卒700余名」ではないでしょうか?


    国際場化した鬱島、悲壮なる露艦の最後
      今や囚われの身となる以上は○○はこの島に上陸し、船まで日本に取られるのはできないから、引き上げることができない場所(深さ九十余尋)へ○○爆破して沈没させ、全責任を負って、国家に捧げた身○○○○将校たちは沈没する艦と運命を共にしよう。そして金や貴重品は朝鮮人たちに与えよ ――このような悲壮な決心を語り最後を迎えたのがこの場所だ。その当時、正金が入った櫃(ひつ)を朝鮮人に○○○○○○○○○○○○海に投げたという話がこの島では盛んに語られる。 自らの手で爆破した沈み行く船と運命を共にした彼らの悲壮なる決意!、国際場化した鬱陵島! その船を奪われないようにしたが故にその船はバルチック艦隊の精華であり、また、数百万の正金櫃(ひつ)があるといい、昨今、日本海軍省では福井少将に命じて○○○○研究中だという。

    http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/viewIpqDataNP.jsp?pItemCode=np_da&pIpqParam=np_da_19280909_v0005&pLevel=6&pDatabaseID=np_da&pRecordID=np_da_1928_09_09_0840&pTitle=%eb%8f%99%ec%95%84%ec%9d%bc%eb%b3%b4+%3e+1928%eb%85%84+%3e+09%ec%9b%94+%3e+09%ec%9d%bc+%3e+%e9%ac%b1%e9%99%b5%e5%b3%b6%e6%96%b9%e9%9d%a2%28%e4%b9%9d%29+%e7%99%bd%e6%97%97%ea%b0%80+%e8%ab%8b%e6%b0%b4%e8%bb%8d%e8%99%9f+%e5%8e%9f%e5%a7%8b%e7%9a%84+%e7%89%a9%e7%89%a9%e4%ba%a4%e6%8f%9b%2c+%ec%a0%9c%ec%86%90%ec%9c%bc%eb%a1%9c+%ed%8f%ad%ed%8c%8c%ec%bd%94+%ec%9a%b4%eb%aa%85%ea%b0%80%ed%8b%b0%ed%95%9c+%e6%82%b2%e5%a3%af%ed%95%9c+%e9%9c%b2%e8%89%a6%ec%9d%98+%e6%9c%80%e5%be%8c...

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  55. 島根県竹島問題研究所の「竹島問題への意見」の2009年 8,9月分の【質問5】および2009年 12月、2010年1月分【質問7】によれば、朝鮮人に漁業権が免許されたことはないようですね。

    2010.3.31

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  56. And you know what guys?
    every map on the right
    is ... This Korean map shows ~~~~~~~~~~~~
    it's almost Korean map. Japan can't prove as much as Korea. But they are just arguing
    Tuts Tuts Tuts....

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  57. 皆さん

    先ほど帰国しました。
    ようやく大体目を通したところです。

    ところで、

    竹島の実効支配強化を検討 韓国大統領

    という産経の記事をさっき読みましたが、「竹島(韓国名・独島)を取り上げた小学校教科書が日本の教科書検定に合格した」とあるようですが、これについては皆さん何かご存知ですか?日本のニュースで取り上げられたのでしょうか?

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  58. This comment has been removed by the author.

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  59. Makotoさん、Matsuさん、コメントありがとうございます。

     ドミトリー・ドンスコイの乗員は「4,700余名」ではなく「士卒700余名」ですねえ。読み間違えました。



     ところで、韓国では、日本の小学校教科書の竹島の記述を巡って、首相は公の場で、「日本は幼い小学生にまで独島に対する偽りを教えようとしている」と発言し、国会は「日本教科書検定承認取り消し要求決議」をしたそうで、ますます国際紛争らしくなって来ました。




    2010.04.03

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  60. Makotoさん、「鬱陵島竹島」ですが、私が見たのは1914年ではなくて1935年の朝鮮現勢便覧(朝鮮総督府編)でした。この05のページ。田中さんのサイトです。



    2010.04.03

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  61. 産経新聞の報道で3月26日の衆議院外交委員会で竹島問題が取り上げられたことを知り、より詳しいことが知りたくて衆議院TVのアーカイブを見ましたが、がっかりさせられる答弁に終始しています。政府が真剣に取り組まなければならないよう国民の声を届けなければならないと思いました。

    新藤義孝代議士(自民)の「竹島は韓国に不法占拠されているのか」との質問に対し、岡田外務大臣は「不法占拠」との表現を最後まで避け続けました。「竹島は我が国の領土ですが、実効支配が及んでおりません」との答弁では黙認と看做されかねません。「日本の立場を伝えている」というのですが、日本の立場を伝えるのは当然のこととして、政治主導というのであれば問題解決のための具体策を提案し交渉するのが当然なのではないでしょうか。それを海洋科学基地の建設が明らかになっった後の2月10日、11日の訪韓においても一言も触れなかったというのは大いに問題です。このような対応では領土保全などできません。

    2010.4.4

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  62. chaamieyさん、ありがどうございます。

    1900年 鬱陵島を鬱島郡に改称し、江原道に編入
    1906年 鬱島郡を慶尚南道に編入
    1914年 慶尚南道から慶尚北道に移管


    ですから、1935年出版の『朝鮮現勢便覧』が「朝鮮東端…慶尚北道鬱陵島竹島東端(注) 東経130度56分」としている以上、「獨島は1914年に慶尚北道に移管された」とする記述は間違い(あえて嘘とは言いません。本当は……以下省略)ですね。

    注)この竹島は経度らして鬱陵島の沖合2kmほどのところにある竹嶼。

    2010.4.4

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  63. [毎経時評] 独島問題に染み付いた100年前の思考

    毎日経済 2010.04.04

     天安艦の事件で全国に悲しみと切なさ、そしてあらゆる疑惑があふれる中で、日本政府が来年から小学校教科書に独島領有権を明記することに決めた。

     一部では、李明博大統領の独島発言が持たらしたブーメランだと熱をあげる人々もいて、隣国の惨事に乗じて卑劣な仕業をしたと憤痛を噴き出す人もいる。そんな意図は無かったはずだ。推測するに、日本政府内の政策決定標準運用手続き(SOP)によって進行された結果であるだろう。韓日強制併合100年に当たる今年なのに日本がそんなことができるのかと憤慨するが、不良な意図というよりは無神経に近い。

     独島問題は領土主権に係わる国際法の問題だけではない。独島は、北東アジアにおける民族国家形成過程を支配した認識体系が現われる、歴史の総体的象徴でもある。韓国人にとって、独島問題は、日本帝国主義の侵奪を思い起こさせる雷管の役割をする。

     北東アジアの国際政治は、不安定な構造の中に置かれている。大きい紛争がなく平穏なように見えるが、国際政治に関連する観念や地域国際政治の構造が不安定さを絶えず再生産している。協力を越えて統合の道を捜したヨーロッパと比べれば、さらにそうだ。不安定な北東アジアを作って来た要因の一つが歴史的記憶だ。戦争の傷、不信と分裂の歴史的記憶が現実政治を支配しているところが北東アジアだ

     一方では侵略と植民地支配に対して徹底的な謝罪を要求するが、他の一方ではこれを法的に既に整理されたと対応して、せいぜいのところ表現ぶりの強弱の調整問題だと考える。謝罪を要求する側も要求を受ける側どちらも、謝罪の疲労感だけが積もって来た。歴史問題を解決するのが必要だと言って政府間に委員会も作って見たが、見解の差異を確認しただけでまた足踏みだ。日本が戦争に対して持つ二重的記憶、すなわち加害者でありながら同時に被害者であるという記憶のためだという見立てもあるが、それもまた断片的だ。

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  64.  より根本的な問題は、歴史を記憶する認識体系の問題だ。北東アジアにおいてまだ歴史が現実を支配している理由は、過去の認識体系が精製されず省察されないまま、100年前のそっくりそのまま残っているからだ。侵略と支配を正当化した社会進化論が当時の人々の思考を掌握し、帝国主義の本流である西欧をどこまでも模倣しようとする文明開化論が時代を圧倒した。強者が弱者を支配するのが正当な理という論理が、当時の時代認識だった。そんな認識が残って、植民地支配や侵奪は仕方のないことだったという論理ができた。状況論理が日本社会の支配的談論として残っている限り、日本のどんな政権でも歴史的謝罪に関して真正性を持ちにくい。今回の日本政府の決定が問題になるのは、100年前の認識体系が教育を通じて談論として再生産されるからだ。

     ところで、被害者だった私たちは、100年前の認識から完全に自由であるのか自問して見なければならない。歴史問題に関して日本に謝罪を要求する私たちも、19世紀的社会進化論や文明開化論から解放されることができないのが、この時代の我々の自画像だ。力それ自体、そして力を持った者たちを崇拝して先進国だと名付けた西欧をどこまでも模倣しようとする認識が、まだ我が社会を圧倒している。先進社会、先進国家を呪文のように繰り返すひどい先進病が私たちの思考を満たしている。こんな認識では、私たちも100年の歴史を正しく省察することができない。

     歴史は省察の対象にならなければならない。普遍性という基準点から、間違ったことは間違ったと批判しなければならない。民族の間に優劣があって文明と野蛮だけの視覚から世界を裁断しようとした当時の時代認識を道徳と規範という観点から省察することができてこそ、韓日両国の新しい時代を開く知恵が得られるだろう。


    [金キジョン 延世大学政治外交学科教授]



    2010.04.04

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  65. 「MB独島発言」裁判、7日判決....結果は?

    民衆の声 2010/04/04

     「今は困る、待ってくれ」の真実は明かされるか?

     李明博大統領の独島発言の真偽を定める裁判が進行中の中、初の言渡しが来る7日午前 10時に下ろされる予定で、その結果に関心が集まっている。原告が勝訴しても敗訴しても波紋は大きいようだ。

     ソウル中央地方法院の民事合議14部(部長判事キム・インギョム)は、先月 17日に弁論を開き、「読売新聞は虚報により韓国人の自尊心を侵害した」と訴訟を提起したチェ・スボム氏など原告側と、「報道内容は事実」と主張する読売新聞側の意見を聴取した後、「今日をもって弁論を終結する」として 7日を宣告期日と決めた。

     裁判部は、7日、読売側の弁護人が宣告期日に提出することになっている読売インターネット記事が出されたことの真否とその理由に対する参考書面、既に提出された書面などを参考にして「MB独島発言」の真偽を判断するものと見られる。

     万一原告側が勝訴したなら青瓦台は一安心できるが、最近、日本が小学校教科書に独島の日本領有権を明示した地図を使うなど挑発に対する怒りがさらに大きくなるように見える。一方、読売が勝訴した場合、国民たちの公憤が青瓦台に集中するしかない。独島領有権が日本にあることを、事実上、大統領が認めたことになるからだ。

     読売新聞は、去る2008年7月15日付けの韓日首脳会談関連の記事を通じて、 福田康夫日本総理が「教科書に竹島と書くしかない」と言うと、李大統領が「今は困る。待ってほしい。」と返事した、と報道したことがある。以後、青瓦台はこれを否認し、我が国の市民訴訟団 1886人は、2009年8月読売新聞を相手どって損害賠償請求の訴訟を申し立てた。





    2010.04.04

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  66. "歴史は省察の対象にならなければならない。普遍性という基準点から、間違ったことは間違ったと批判しなければならない。"

    このような認識では国際法の時際法の考え方が理解できないため、日韓で議論がかみ合わないのもいたし方ないでしょう。普遍性といったところで、韓国でのそれは権力の正統性を主張するプロパガンダにすぎません。対日関係に関して言えば朝鮮韓国の側を善とし、日本側を悪とした勧善懲悪的な物語を創作することに終始しています。普遍と言いながら実は極めて恣意的なものであります。過去を現在の価値観で測り、それによって断罪しようとします。「歴史」の概念も日韓では違いがあるように思います。その辺のすり合わせが必要なのではないでしょうか。

    大変興味深い論説を翻訳していただきました。取り急ぎ気になったところを記してみました。

    2010.4.5

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  67.  まあ、韓国の学者さんですからある程度のことは書かなければならないという事情はありますが、この文の力点は、やはり「ところで」以下にあると思います。

     それから、「歴史は省察の対象にならなければならない。」というのは、つまり、暗に「歴史を政治の道具にしてはいけない」と言っているのと同じであり、これはかなり啓蒙的な文章であると考えて紹介しました。ただ、竹島問題で具体的にどうせよとはなかなか言いにくいので、迫力という点では今一つでしょうか。
     
     私はこういう文章を読むと、「あ、ここにも分かっている人がいるな」と感じ、いつの日か、こういう人たちがもっとはっきりした主張を展開できるようになればいいなと希望を持つのです。



    2010.04.05

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  68. 「たいへん失望した。領土に関する問題は、決して譲歩できない。韓日関係や日本の将来にもよくないことだ」と日本が『外交青書』に「竹島は日本領土」と明記したことを受けて韓国大統領府報道官が主張したという。「領土に関する問題は決して譲歩できない」というのは日本とて同様だ。いや、平和的かつ継続的に実効支配した実績がある分、そしてそれがサンフランシスコ講和条約によって国際社会に認められていることからすれば、より安易な対応はできない。韓国の拒絶により二国間交渉の余地もなく、仲裁を得るのも難しいとなれば、国際司法裁判所に付託するのが最も合理的な選択だろう。日本はすでに管轄権を設定している。韓国が同意すればいつでも開廷できる状態にある。

    例によって韓国は在韓国日本公使を呼び出して抗議し、日本の公使は「本国に伝える」と答えたようだ。外交儀礼に則った対応なのだろうが、これはやめにして「話はハーグでうかがう」と応じるが良い。

    2010.4.7

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  69. まあ、韓国の学者さんですから「竹島は日本領」などと正面切って言えないことは重々承知していますが、「領土紛争は国際法に則って解決されるべき」程度のことは言っていただきたいなぁと思うわけです。それもままならないのが彼国の現状なのでありましょう。

    本当のことを口にした韓昇助さんや金完燮さんへの韓国社会の仕打ちを知っているからこそ、慎重な発言というか、奥歯に物の挟まったような物言いにならざるを得ないのでしょうが、いくら不法占拠を続けたところで韓国領にはならないのですから、もっとはっきり言った方が良いように思います。もっとも「竹島は日本領」などとは言えないのですから、それなりの工夫はいるかと思いますけれども。たとえば小説の形をとるとか。

    2010.4.12

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  70. Old Japanese map states Dokdo as Korean territory

    "The Dokdo Institute of Yeungnam University disclosed for the first time an old map titled “日露淸韓明細新圖” drawn up by Imperial Japan’s land and sea survey department in 1903. The map explicitly shows Dokdo Island as belonging to Korea. Japan has been claiming Dokdo, which is located of the eastern coast of the Korean Peninsula, as its territory for some time despite much historical evidence to the contrary.


    The newly discovered map was acquired late last year by a man named Yoo Sang-chul, aged 51, who has been collecting Dokdo-related resources for over a decade. The Dokdo Institute learnt the presence of the map only after Yoo asked it to examine its worth.


    The map, which gives both an accurate and detailed depiction of other continents like Europe and Africa also showed Jukdo (竹島, present Ulleung-do Island) and Songdo (松島, present Dokdo Island) as parts of the territory of Joseon (朝鮮界). Joseon is the old name of Korea, referring to the Joseon Dynasty (1392-1910). The map further labels the waters surrounding Korea as the Goryeo (Korea) Sea."

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