竹島問題の歴史

31.10.10

1893 Map of Samcheok (三陟) and Ulleungdo (鬱陵島)

Below is a map of Samcheok (三陟 - 삼척) and Ulleungdo (鬱陵島 - 울릉도), from the 1893 atlas "Yeoljae Chwalyo" (輿載撮要 - 여재촬요). The map shows that Ulleungdo was associated with Samcheok in 1893. The map also shows a single island off Ulleungdo's east shore labelled Usan (于山). Usan was the old Korean name for Ulleungdo's neighboring island of Jukdo (竹島), which is 2 kilometers off Ulleungdo's east shore.

The map is important because it shows that Ulleungdo's neighboring island of Jukdo was still being referred to as Usando in 1893, ten years after Ulleungdo was opened to settlement.



Below is a similar map, which was made sometime between 1888 and 1894.



Thanks, GTOMR, for telling me about the 1893 map.

47 comments:

  1. GTOMR,

    The National Library of Korea does not list a date for the atlas, but the content of the atlas lists, in at least two places, the date, 1886.

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  2. Yes, and in the anotehr page of undated one in KNL for Pyonghae-Wolson平海越松 there are description about island head島長.
    Volume 8 101-102 Phonghae Wolsong.
    Volume 8 P3-4 Kanwondo map
    Volume 8 P97-98. description of Uljin蔚珍縣 (于山島鬱陵島記載)
    Volume2 P64-65 Map of Tyo-sean朝鮮全圖

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  3. GTOMR,

    The fact that the Wolsong Manho (越松萬戶 (월송만호) was also the Ulleungdo Dojang (鬱陵島長) suggests that the map was made between 1888 and 1894.

    According to Yahoo Encyclopedia (HERE), the Yeojae Chwalyo (輿載撮要 - 여재쵤요) was written in 1893, but the section on World Geography was summarized from a 1886 British political yearbook.

    The 1886 dates I saw in the document was from the World Geography section, so I need to change the date of the Samcheok/Ulleungdo map from 1886 to 1893, assuming that the author of the atlas used up-to-date maps.

    I should also probably revise the date of the second map to 1888 - 1894

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  4. Anonymous5/11/10 09:27

    Gerry, thank you so much for introducing an interesting map.
    I think this is very important because we can know Korean scholars’ recognition of the Usan at the time of 1890s.

    I googled 여재촬요(輿載撮要)  and the author 오횡묵(吳宖默)

    I translate them for the Japanese readers.

    Gerry, you can read them in original Korean,

    여재촬요(輿載撮要)was the first textbook for geography in “Civilization stage(開化期)” of Korea, and influenced so much.

    Maybe 禹用鼎 himself could see the text in 1890.

    Sorry I’ve been busy for these days, so I could not response quickly.

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  5. Anonymous5/11/10 09:29

    여재촬요 (輿載撮要) よさいさつよう ①Gerry紹介版

    http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?&p=%EC%97%AC%EC%9E%AC%EC%B4%AC%EC%9A%94&subtype=enc&pk=16171500&field=id

    1893年(高宗30)に、吳宖默(オ・フェンムク)が書いた地図書。

    10冊の写本と、5冊に縮小された写本、1冊に要約された木版本がある。
    木版本は、開化期教科書の嚆矢として広く活用され、百科事典的な価値を持っている。
    世界と韓国地理をすべて含んでおり、世界地理は1886年、英国で発刊された政治年鑑を要約したもので、韓国地理は全国および各地方の邑誌を要約したものを地図とともにのせている。
    当時のどの地理誌よりも詳しく、正確な各種の地図を含んでいるが、世界地図は経緯線が表示されている現代的地図であるのに対し、韓国全図・道別図・郡県図は従来のものから大きく脱離できずにいる。
    特に、現代的な世界地図が挿入されていながらも、伝統的な世界観を現わす中国中心の円形の天下総図が一緒に載っていて、伝統と現代が互いに混ざっている過渡期的様態を見せている。

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  6. Anonymous5/11/10 09:31

    여재촬요(輿載撮要)② 別の百科事典 その1

    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=241896&v=44

    1893年(高宗30)に、固城知府のオ・フェンムク(呉宖黙)が著述した地図書。
    開化期の地理教科書の嚆矢である。世界とわが国の地理を全部含んでいる。

    世界地理は1886年に英国で発刊された政治年鑑の内容を要約して、すべての度量衡を英国に従っている。わが国の地理は全国および各地方の邑誌を要約したものを地図と共に載せている。
    10冊の写本と、5冊に縮小された写本、1冊に要約された木版本などが奎章閣図書・蔵書閣図書・国立中央図書館・国史編纂委員会などにある。
    10冊の国立中央図書館本によれば、第1冊は太陽と地球の運行図および図解、地球全図になる東半球と西半球の図および図解、メルカトル図法による世界地図などがある。
    また、上に言及した政治年鑑と朝鮮および中国の典籍に基づいた、各国の政教略説と総論、そして大陸別の地誌などで構成されている。

    世界地理は、冒頭に州別の地図を載せているが、アジア州では中国・韓国・日本をはじめとする5ヶ国、ヨーロッパ州の19ヶ国、アフリカ州の7ヶ国、北アメリカ州の9ヶ国、南アメリカ州の10ヶ国、オセアニア州の1ヶ国など、都合51ヶ国を扱っている。
    各国の政治略説では、三権分立・政治体制・国会構成・選挙・内閣などを全般にわたって扱っており、各国誌では位置・人種・言語・風俗・政治・軍事・属国・人口・貿易などを簡略に扱っている。

    第2冊には、八域途里標・題詠人姓氏・朝鮮全図・漢陽京城図・京城五部図と建都・京都・漢城府を載せている。
    地図は全部、両面の大きさで、朝鮮全図は東側を上にしたのが特徴で、海岸線の輪郭は非常に不正確である。 第3冊以下は、わが国の地方誌を扱っているが、道別地図と程途標があり、各郡県の地図を含んでいる。
    道別地図は、『新増東国輿地勝覧』に挿入された地図より詳細で、交通に関係する道・渡・津・浦・梁・峴・嶺・橋などが、山川名、郡県名とともに記載されている。
    郡県の内容は、「邑誌」と包括的に呼ぶ郡誌・県誌・府誌などを撮要(要点を選んで取ること)したもので、地図・程途標・邑摠に細分されている。
    邑摠は、該当の邑誌を参照し、おおよそ建置沿革・鎮管・官員・郡名・面・倉・戸・軍・結・需・風俗・形勝・邑城・山川・土産・関防・楼亭・駅院・橋梁・仏宇・陵寝・古蹟・宮室・神祠・人物・烈女・題詠などの内訳が記されている。

    10冊または5冊になった写本では、冒頭に韓章錫(ハン・チャンソク)、李憲永(イ・ホニョン)、尹容善(ユン・ヨンソン)、および著者の序文があり、いずれも1893年となっている。本の末尾の徐相鳳(ソ・サンボン)金寅吉(キム・インギル)の跋文は、1894年と1895年に書いたと記されている。

    1冊の木版本『輿載撮要』は、写本の『輿載撮要』から各種の序文と跋文を省略し、両半球図と道別分図以外のすべての地図を省略した。単巻木版本は、学部で刊行されたことは確実だが、著者と刊記が明記されていない。
    この木版本は、開化期の教科書の嚆矢として広く活用されたが、国漢文混用の『大韓地誌』と『万国地誌』に、順次、転換された。

    この本は、1890年代の全国の邑誌の地理誌を要約・集成したもので、朝鮮末期の地方行政単位・官員数と、任期・面数・戸数・結数・土産物などの地方誌の資料をたやすく得ることができ、百科事典的な価値を持っている。
    また、当時のどの地理誌よりも詳しく、正確な各種の地図を含んでいる。世界地図はもちろん、各州別地図と主要国家の地図があり、わが国の地誌では朝鮮全図・道別図だけでなく、10冊本には他の地誌冊で見られない各郡県図が挿入されている。
    世界地図は、すべて経緯線が表示された現代的地図なのに比べ、わが国の全図・道別図・郡県図は従来の地図から大きく脱離できずにいる。
    特に、現代的な世界地図が挿入されている一方で、伝統的な世界観を現わす中国中心の円形の天下総図が一緒に載っており、伝統的なものと現代的なものが互いに混ざっており過渡的であることを意味している。

    『参考文献』
    「開化期の学会および教育会設立と教科用図書編簒の経緯」(康允浩、梨花女子大学校八十周年紀念論文集人文科学篇、梨花女子大学校韓国文化研究院、1966)

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  7. Anonymous5/11/10 09:33

    여재촬요(輿載撮要)③ 別の百科事典 その2
    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=170784&v=43

    1894年にオ・フェンムク(呉宖黙)が編纂した世界地誌および韓国地誌.
    本の冒頭には1893年に韓章錫・李憲求・尹容善・呉宖黙が書いた序文が、また本の末尾には1894年に徐相鳳が書いた跋文がある。 国立中央図書館に10冊の筆写本があり、奎章閣に5冊筆写本があって、1冊に要約された木版本も奎章閣・蔵書閣などいろいろな所に伝える。
    第1冊は、地球圜日圖:附図解・地球圜日成歲序圖:附図解・地球全図:附地球図解・地球論・論洲洋・天下総図・中国摠図・凡例・各国政教略説・総論など、太陽系および地球全体に対する概括的説明と地図があり、次いで各大陸別に国家に関する説明が記録されている。
    すなわち、アジア5ヶ国、ヨーロッパ19ヶ国、アフリカ7ヶ国、北アメリカ9ヶ国、南アメリカ10ヶ国、オセアニア1ヶ国のあわせて51ヶ国の地誌が書かれている。
    各国家別に、名称・位置などの概括、政治、宗教、教育、財政、陸軍、面積、人口、通商、工業など項目別に世界に関する当時の詳細な情報を含んでおり、19世紀後半の世界情勢を把握するのにも良い資料だ。
    この資料の出処を著者は凡例で明らかにしているが、朝鮮と中国に関する内容は両国の色々な文献を参考にし、それ以外の地域は1886年に英国で出版された「政治年鑑」を土台に整理したと書いている。
    しかし、著者が原資料を直接利用したというよりも、1886年に金允植・鄭憲時などの斡旋により、博文局で「政治年鑑」を翻訳・編集して4本の「万国政表」という名前で刊行したが、この「万国政表」を参考にしたものとみられる。
    第2~10冊は、我が国の各村格別地誌を道別に収録した朝鮮地誌である。
    第2冊は、八域途里表・題詠人姓氏・東方八域誌・境界図・各駅図と京都・漢城府を、第3~10冊は、京畿道以下、各道別の地誌を収録したが、道別地図と程途表、各郡県の地図および郡県別地誌が載っている。
    この地誌は、各地域の邑誌(村の地理誌)を参考にして整理したもので、概して邑誌の体制に従っている。

    この本は漢文で書かれていて広くは読まれなかったが、世界の各地域と我が国全域の地誌を集めて編纂した地図書であり、開化期の地理教科書の嚆矢として活用され、以後「万国地誌」など国漢文混用体で編纂された色々な地理教科書の編纂に影響を与えた。

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  8. Anonymous5/11/10 09:35

    지도총쇄록 智島叢瑣錄

    http://kr.dictionary.search.yahoo.com/search/dictionaryp?&p=%EC%98%A4%ED%9A%A1%EB%AC%B5&subtype=enc&pk=18350800&field=id

    朝鮮末期、オ・フェンムク(呉宖黙)が全羅道の智島郡守に任命される前後に書いた日記。1897年(高宗35)に刊行された。1895年(高宗33) 2月、工桑所監董から智島郡守に内定した時から、1896年5月に任地に来て、1897年5月に麗水郡守になって智島を離れる時まで約3年間にかけての日記である。任地に往来する時の見聞、任地での一般行政、公私文書の授受、郡の地理現勢、著者の吟詠、乙未事変、断髪令、俄館播遷、義兵の蜂起、工桑所に関する記録などがあって、史料としての価値が高く評価される。 2冊。写本。蔵書閣図書。

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  9. Anonymous5/11/10 09:36

    오횡묵(吳宖默)(1833-?) オ・フェンムク

    百科事典にはありませんが、「오횡묵 吳宖默」で検索すると以下のようなものがありました。

    http://www.aghistory.or.kr/pdf/%EB%B0%95%EC%A4%80%EB%AA%A8-9-1-8.pdf
    第18コマ /26 214pの注55

    オフェンムク 오횡묵(吳宖默、1833-?)
    朝鮮末期の文臣・学者。本貫は海州、字は聖圭、号は菜園。
    19世紀末に旌善郡守・慈仁県監・咸安郡守・固城府使・工桑所監董・智島郡守・麗水郡守などをあまねく経た。彼は赴任した地方の受領として要職にある当時、自身の多くの詩文はもちろん、官庁で執行された重要なことと、内外で起きた重大なことなどを日記体で構成しておいたが、これが今日貴重な資料として残されて伝えられている。官職から退いた後には学問と著述活動に専念し、平民出身の詩人たちとの集いの「七松亭詩社」を組織したことでも広く知られている。主な著書として『茝園集』『旌善叢瑣錄』『慈仁叢瑣録』『咸安叢瑣録』『固城叢瑣録』『智島叢瑣録』『輿載撮要』などがある。

    * 宖 횡 という字は、はじめて見る漢字ですが、もともと「家が広くて声が響き渡る」というような意味のようでで、「大きい」とか「広い」とかいう意味のようです。「횡 フェン」は「横」と同じ音のようですが、「コウ」または「オウ」と読むのでしょうか。

    『輿載撮要』を書いたのが1893年とすると、60歳の時となります。

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  10. matsuさん

    吳宖默『輿載撮要』(1893)のご紹介、ありがとうございます。

    「木版本は、開化期教科書の嚆矢として広く活用され、百科事典的な価値を持っている。」

    1899年の皇城新聞の「于山島竹島」、1900年の「竹島石島」へとつながる、1890年代当時の韓国人の鬱陵島・竹島認識を表すものとして重要な文献だと思われます。現竹島が1900年の時点では鬱陵島の付属島として認識されていないことは、あきらかです。 

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  11. Anonymous6/11/10 01:52

    Thank you, Kaneganese.


    Gerry, GTOMR,

    I think this “J shaped" type of 于山 comes from 『朝鮮地図』→

    ////////////////////////////

    "Joseon Jido" (朝鮮地圖) Atlas (1750 - 1768)

    This Korean map of Ulleungdo (鬱陵島 - 울릉도) showed "Usan" (于山 - 우산) as a neighboring island. The grid lines on the map helped show the small island's relative distance from Ulleungdo. Usando (于山島 - 우산도) was the old Korean name for Ulleungdo's neighboring island of Jukdo (竹島 - 죽도), which is about 2.2 km off Ulleungdo's east shore. Korean's claim that Usando was the old name for "Dokdo" (Liancourt Rocks), but this map and many others prove that claim false.

    ////////////////////////////////



    Actually, I think this map 朝鮮地圖 was made around 1770, when 英祖 ordered 申景濬 to make 『東国文献備考』and 『東国輿地図』

    Korean professor 楊普景 once argued about that.

    「朝鮮後期 郡県地図の発達』(文化歴史地理 第7号 1995)59p


    She mentioned  20里方眼 which 『東国輿地図』had, and 朝鮮地圖 has.

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  12. Anonymous6/11/10 09:02

    한국이 역사적으로 독도에 대해서 전혀 몰랐다는 자료는 얼마나 더 쏟아져나올까요?


    한국이 역사적으로 독도에 대해서 전혀 몰랐다는 자료는 얼마나 더 쏟아져나올까요?


    한국이 역사적으로 독도에 대해서 전혀 몰랐다는 자료는 얼마나 더 쏟아져나올까요?


    한국이 역사적으로 독도에 대해서 전혀 몰랐다는 자료는 얼마나 더 쏟아져나올까요?



    2010.11.06

    ReplyDelete
  13. Anonymous7/11/10 01:33

    Gerry,

    You have already compared 朝鮮地図 "Joseon Jido" -Ulleungdo - 1750-1768? (Seoul Nat'l Univ. Kyujanggak Inst. of Korean Studies)
    with
    “Jido" Samcheok & Ulleungdo - between 1884 - 1994 (Koyro University Museum)
    in May last year.

    You also mentioned
    "Gwandong Bangyeo" - Ulleungdo & Samckeok - late 1800s (Korea's National Library)

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/05/1880s-1890s-gwandong-pangyeo-ulleungdo.html

    They are all similar in elliptical shaped(楕円形の)鬱陵島
    and “J shaped “(J型をした)于山.

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  14. Anonymous7/11/10 23:22

    Gerry,  GTOMR.

    I catch up what you are arguing here

    and

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/06/1888-1895-map-of-ulleungdo.html?showComment=1289014679972#c1799134034739575405


    First I went the site;

    http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/2010/10/1887.html

    This site only says “old Korean book 輿載撮要 says 日本海 not 東海”

    and then, it guides to

    http://www.dlibrary.go.kr/JavaClient/Servlet/SearchServlet?command=brief&kwStr=%E8%BC%BF%E8%BC%89%E6%92%AE%E8%A6%81&v_db_str=&v_cmp_str=&dbNoArr=1&v_sort1=1&v_sort_type=0&v_close=&startNo=1&pageNum=5&mode=0&ViewMode=1

    3 edition of 輿載撮要 stored in KNL(Korea National Library) =国立中央図書館

    3 editions are;

    No 1「古朝60-2 」 is 木版1冊本 which is a late edition.
    (not important)
    KNL‘s 1887 maybe a mistake, or some other sites say 輿載撮要was written in 1887(高宗24)
    But most of 吳宖默’s biography say 吳宖默 wrote 輿載撮要 in 1893 or in 1894.

    No2 「BC-古朝60-20 」 is 10冊筆写本 which is most important. Maybe this is the original of 吳宖默.

    No 3 「 b1-2700-17 」 is same as No 1 木版1冊本 which is a late edition. (not important)
    It says this was made in 1863, but this can be a mistake when we refer 吳宖默s biography.

    So, No2 =「BC-古朝60-20 」is important.

    From No2 We can see the pages which GTOMR showed us.

    原文を見る 右から4番目 4th icon from the right
    巻8 江原道
    Volume 8 101-102 Phonghae Wolsong.
    Volume 8 P3-4 Kanwondo map
    Volume 8 P97-98. description of Uljin蔚珍縣 (于山島鬱陵島記載)
    Volume2 P64-65 Map of Tyo-sean朝鮮全圖

    It is strange that the map belongs to三陟 90コマ  (89p)
    but the description of 鬱陵島 is in 蔚珍 98コマ (97p)

    Anyway this 輿載撮要 map was made in 1893 or 1894.
    So, it does not contradict “between 1888 and 1894.”

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  15. This comment has been removed by the author.

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  16. 『輿載撮要』の「欝陵島」の起こしです。

    本文の画像は、上のBC-古朝60-20の97pにあります。(コマとしては98コマ)

    実はこれは
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/06/1888-1895-map-of-ulleungdo.html?showComment=1289014679972#c1799134034739575405
    からの続きです。

    見つけられなくなりそうなので、新しいほうに投稿しておきます。

    GTOMRさんの起こしを利用させていただきました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    欝陵島
    于山島、在三陟東。
    鬱陵島、在平海東、六日程。長百餘里、廣六十里。四面石角嵯峨、多寺刹古址。土壌膏沃、多珍水海。錯竹大如椽。鼠大如猫。桃核大於升。凡物稱是。
    古于山國。新羅智證王時、恃険不服。十二年、異斯夫為何・羅州軍主、謂于山國人、愚悍難以威服。乃以木獅子載船、誑之曰。不服則放此獣、踏殺之。國人恐、乃降。
    高麗崔瑀欲、移民以實之。風濤険悪、未果。有村落基址七所。多巌石、不知何代人居。
    本朝世宗、遣萬戸南顥、往捜。逋民盡俘金丸等七十餘人、而還。其地遂空。
    今上朝、開拓許民。使越松萬戸為島長。

    これは、ほとんどが東国輿地勝覧の文章の写しであり、違っているのは、最初の、「于山島、在三陟東。鬱陵島、在平海東六日程。」と、
    最後の「今上朝、開拓許民。使越松萬戸為島長。」だけです。

    すなわち、15世紀から19世紀末まで、ほとんど書き写されてきただけ、ということになりましょうか。
    というよりも、1770年の『東国文献備考』には、世宗代以降の詳しい記録があるのですが、参照されていません。そして、何よりも、例の「于山は所謂倭の松島」という記述もあるわけですが、その部分も全く参照されていません。
    この認識(「于山は所謂倭の松島」)は、19世紀末の、郡守クラスの知識人(輿載撮要を書いた吳宖默のような人たち)には全く共有されてはいなかったことがわかります。

    そして、于山島についても、天気が良ければよく見える、という例の記述も消えてしまって、ただ「于山島、在三陟東」とあるだけになっています。たぶん、具体的な于山島像はつかめていない、と言って良いのかもしれません。

    そしてこれは、同時代の「地図」(1884~1894)(高麗大学蔵)についても同じです。
    上のサイトのChaamiey さんの起こしを拝借します。

    于山島在三陟之東。
    鬱陵島在平海之東六日程。
    地長百余里、廣六十里。四面石角嵯峨
    多寺刹古址。竹大如椽、鼠大如猫。
    古于山國。新羅智登王時、異斯夫以木獅子載船
    誑之曰、不服則放此獣踏殺之。国人惧乃降
    高麗崔瑀、欲移民以實之。風濤険悪、未果。
    自中峯東至海一萬余歩、西至海一萬三千余歩、南至海一萬五千余、北至八千余歩。
    有村落基址七所、然多巌石、民不居。
    本朝 世宗二十二年、遣萬戸南顥徃捜逋盡俘金九等七十余人、而還。其地遂空。

    ここで、東国輿地勝覧とは違っている部分の、
    「于山島在三陟之東。鬱陵島在平海之東六日程。」
    は、まったく『輿載撮要』同じ認識で、欝陵島が、昔よりも遠く感じられていることがわかります。
    (少し前は、風がよければ2日で至る、ではなかったでしょうか)

    欝陵島について、吳宖默は、
    「今上朝、開拓許民。使越松萬戸為島長。」と、新しい動きに関心を持って、新情報を書き加えているわけです。それだけ、離島の状況についてもしっかりとした関心を持っていた人だと思いますが、その人が、「于山」については、18世紀中葉の『朝鮮地図』(たぶん1770年)と同じ認識であり、それが独島/竹島であるとは、つゆほども考えていなかったことがわかります。

    ReplyDelete
  17. 柳美林女史が2008年の論文で『輿載撮要』に触れています。1900年勅令41号の「石島」と、直前の『輿載撮要』や『皇城新聞』の「于山島」を結び付けようとしていますが、うまくいかずに途方にくれているのがよくわかります。
    「結論」部分を翻訳したものが「竹島研究室」のサイトにありますので、のせておきます。このサイトは、当時最新の韓国の研究・報道状況を正確な翻訳で載せてくれていて、大変ありがたかったのですが、更新されなくなって久しく、とても残念です。

    柳美林は、『輿載撮要』を1899年としています。吳宖默のオリジナルである10冊本は1893年(高宗30年)ですので、縮刷5冊本か木版1冊本に、1899年に出たという年紀のある版があるのかもしれません。

    翻訳http://blog.goo.ne.jp/takeshima-2005/e/2619b914b69c1276ecb9ca9626f06ccb
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    7.今後記事が出るようになった経緯の研究が必要
     独島を示す呼称で旧韓国末までずっと登場したのは于山島だった。これは皇城新聞の 1899年記事でも証明される。皇城新聞 9月23日付記事には「蔚珍の東海に一島があり、鬱陵と言う。その付属した六個の島のなかで一番目立つのは于山島と竹島で、「大韓地誌」で鬱陵島は昔の于山国と言った」と言った。ここで竹島は今日の竹嶼で、于山島は独島を示すことが分かる。またこの時だけでも相変わらず于山島が登場していた。ところでどんな理由で一年もならない勅令41号には于山島の代わりに石島が登場するようになったのだろうか?
     その間文献では于山島が一貫するように登場した。1882年高宗が李奎遠と対話を交わす時も于山島が登場したし、1899年の「輿載撮要」にも于山島が登場した。そうであったのが 1年で「于山島」は影をひそめて代わりに「石島」が登場した。これは 1899年と1900年の間に于山島に対する認識上の変化が生じたとかそれとも他の重大な歴史的変化があったということを示している。ところでこの時期にあった鬱陵島関連事件や変化を見ようとすると、1899年末から 1900年 5月にわたって論議された鬱陵島官制改編とそれによる 6月の禹用鼎の現地調査が目立つだけで他の事件はなかった。したがって「于山島」が「石島」に変わるようになった過程にはたぶん禹用鼎の報告が影響を及ぼしたはずだと推定するしかない。
     勅令でドルソムは石島と表記したが、こうした呼称が現地でもそのまま使われたわけはない。むしろドルソムないしドクソムという呼称が勅令発布後にもそのまま使われた可能性が高い。現地住民が石島と称しなかったのはその後沈興澤が「本郡所属独島」と言うことでも立証されるのに、沈興澤の「独島」呼称は石島という呼称が 1900年以後ずっと使われていなかったことを示す事例だ。
    独立新聞や皇城新聞は 1890年代の末、鬱陵島で行われる日本人による不法伐木とロシア軍艦の鬱陵島寄港及び測量、島監裵季周による日本での裁判などに対して持続的に関心を持って報道していた。そうするうちに 1900年 7月に不意に統監府と内部の間の仕事を報道しながら勅令 41号にはない距離関係を言及した。しかしこうした記事が出るようになった背景が明らかではない。禹用鼎の記録で石島に対する言及が一つでもあったら、皇城新聞の記事は今どんな問題にもならない。日本の主張は皇城新聞記事に対する解釈の間違いに起因すると考えられるが、あとこうした事がないためにも石島に関する史料を持続的に発掘する必要がある。そして皇城新聞記事が出た時期を前後して関連する他の記録も発掘することでこの記事が出るようになった背景を明らかにしなければならないだろう。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    原論文
    『海洋水産動向』1256 2008.4.3 「「石島」は「独島」だ」

    http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/wys2/file_attach/2008/05/01/1209605713-64.pdf
    最後のほうにある1900年 7月は、原文のままですが、1906年7月の間違いでしょう。

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  18. "最後のほうにある1900年 7月は、原文のままですが、1906年7月の間違いでしょう。"

    御指摘の通りだと思います。また「勅令 41号にはない距離関係を言及した」と柳さんは言っていますけれど、請議書をみれば「該島地方は縦が八十里ほど、橫は五十里という。」とあり、1906年7月13日付け『皇城新聞』の記事が伝えている「該郡所管島は竹島(チュクト)と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので合せて二百余里だという 」との記事は、若干数字が異なりますけれども石島が竹島(韓国名:獨島)でないことを証明しているのではないでしょうか。柳さんもこの点を認めるべきですね。今の韓国で「獨島は日本の領土だ」なんて言ったら良くて社会的に抹殺、下手したら本当に命を取られかねませんから、おいそれとは認めるわけにいかないのでしょう。がしかし、なかったことをあったことにするのは無理です。

    2010.11.13

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  19. matsuさん

    翻訳と「海洋水産動向1260号」のご紹介、ありがとうございます。そういえばこの論文、ありましたね。『輿載撮要』について書かれてあるとは気が付きませんでした。

    「柳美林女史が2008年の論文で『輿載撮要』に触れています。1900年勅令41号の「石島」と、直前の『輿載撮要』や『皇城新聞』の「于山島」を結び付けようとしていますが、うまくいかずに途方にくれているのがよくわかります。」

    確かに。柳氏も、「したがって「于山島」が「石島」に変わるようになった過程にはたぶん禹用鼎の報告が影響を及ぼしたはずだと推定するしかない。」とあまりにも苦しい言い訳をしていますが、そうせざるを得ないのでしょうね。単に勅令第41号の「石島」は現竹島でなく、さらに于山島とも独島とも関係がないだけなのだと結論付けるのが最も妥当なのですが。

    ただ「禹用鼎の報告」を詳細に研究すべきというのは賛成です。なぜ今まで研究されていないのか、不思議です。

    いずれにせよ、この『輿載撮要』の重要性を柳美林氏からお墨付きを頂いてしまいましたね。『韓国地方史資料叢書』に収録されている、吳宖默の著作を読んだら何かわかるかもしれませんね。

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  20. Makotoさま

    柳美林は、この論文の 最後のページに、欝陵島の範囲についてまとめています。
    http://www.dokdocenter.org/dokdo_news/wys2/file_attach/2008/05/01/1209605713-64.pdf

    はるかに詳しい研究がGTOMRさんのサイトにあります。
    https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/koreansrecognizationofullengdodistrict

    その中のひとつたりとも、欝陵島~竹島間の距離である「92キロ=約200里」までの範囲を、鬱陵島の範囲とするものはありません。1906年の「東西60里・南北40里」という解答は、偶然ではなく必然なのです。
    よって、おっしゃるように1900年勅令41号の「石島」は、独島ではありえません。

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  21. Kaneganeseさま

    吳宖默郡守は「良い人」であったようです。
    江原道の地方新聞と思われる『江原道民日報』の2003年の記事です。
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    旌善郡守 吳宖默(1834~?) 『江原道民日報』2003年09月01日(月)
    http://www.kado.net/news/articleView.html?idxno=105177

    民心を読んで生活政治を実現した牧民官 
     朝鮮時代、地方を治めた郡県の守令である郡守や県監には守らなければならなかった「守令七事」という徳性があった。「守令七事」は、農桑を推奨し(農桑盛)、人口を増加させ(戸口増)、学校を起こし(学校興)、軍政を整頓し(軍政修)、賦役を均等にし(賦役均)、訴訟を公正にし(詞訟簡)、悪賢い輩をなくす(奸猾息)という七種類のことだ。
    暮らすのが難しい農村に赴任して「守令七事」を誠実に遂行し、村の人々に暖かい気持ちで接して、朝鮮時代の守令として最高の栄誉を意味する「繍傘」(一種の芳名録で、日傘または万人傘とも呼ぶ。村の住民たちが、守令の治績に感服し、自分の心を美しく込めて名前を刻んだ数千個の布を、誠心誠意縫って作った傘)を受けた旌善郡守・吳宖默。
     吳宖默郡守は、本貫が海州、字は聖圭、号は菜園だ。1834年6月に出生し、高宗の時、旌善郡守を始まりに、慈仁県監、咸安郡守、固城府使をつとめ、甲午改革以後には新設された麗水郡守に任命されて地方守令として活動した。この後、眞寶郡守、益山郡守、平沢郡守を歴任して70才の年齢で官職を自ら退いた。
     平民出身の文人の金禹錫・趙基完・金鐘大等と共に「七松亭詩社」を組織、詩人としても活発な活動をした。そして我が国の全国の村の地理誌の概要と全国各地の地理国勢などを簡略に構成した地図書『輿載撮要』10巻10冊を固城府使に在職した1893年(高宗30年)に完成した。
     特に1887年3月から1888年8月まで1年5ヶ月の間、旌善郡守として在職しながら日記を書いた『旌善叢瑣錄』は、19世紀の旌善地域の社会、経済全般を調べることができる貴重な資料だ。
     『旌善叢瑣錄』に記録された内容は、吳宖默の個人的な生活と守令としての公務遂行内容、日常の気候など非常に多様だ。各種資料も備忘録形態で残している。すなわち勧学伝令、勧農伝令、孝行伝令、禁断伝令、撃壌歌、採鑛關文、累代の重修記、題辞などを整理して、当時の社会像を理解するのに多くの役に立っている。各村を見て回ってありのままの姿も記録した。こういう巡視は村の守令として行う公務であったが、勧農と民心把握が主目的だったと見ることができる。(つづく)

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  22.  このような過程を収録した日記は、村の地理誌やその他の資料に現れた断片的な数値や記録よりも躍動感があって詳しく現れていて、旌善の社会像と生活像を実質的に把握することができる。日記に現れた通り、旌善は地理的に山で囲まれていて畑とは殆どなかったし、郡民は誇張された表現だが「ジャガイモだけを食べて暮らす」かなり難しい生活をしたことを察することができる。
     しかし吳宖默郡守は地方守令として在任する間、困窮する生活をした旌善郡民らから繍傘を受けるなど自ら政治功績を残している。吳宖默郡守は各邑面に通いながら、私費をはたいて準備した扇と針、タバコを分ける愛民意識を持って郡民に対した。赴任当初には「朝出て行って夕方に帰ってくる農民の本務」を守らない農民たちがいたが、朝早く家ごとに通って勤勉誠実を呼び覚まして農作業を薦めた結果、10日余りが過ぎた後には怠ける農民が全く見られないなど生活改革にも先に立った。
     『旌善叢瑣錄』に記載された日記の一場面を見れば「勧農するために農民が仕事をする畑に出て行って、葉タバコを二~三~四つかみずつと、針4~5個ずつを男女に各々分けてやったり、年齢の幼い者にはお金を時に3分あるいは4分ずつ分けてやった後、タバコを吸う人はタバコを吸っていて私がいても気兼ねするなと頼んだ。農民にご飯をねだって味噌とナムルだけの昼食を食べたり、草取り鎌を直接持って草取りをして畑畝を結んだ」と書いている。吳宖默郡守が住民の実生活の中に食い込む行政を行なうために非常に努めた跡をのぞくことができる。当時の守令としては破格的な活動だったのだ。
     吳宖默郡守のこのような善政に、旌善郡民は難しい生活の中でも二匁の銀三塊をなくしても直ちに探せたし、穀物二枡とお金五銭をわざわざ垣根の間に放置しても盗み出さない美しい風俗を維持することができた。
     旌善郡民は郡守の治績に対する恩返しとして、当時守令として最も大きい光栄だった「繍傘」を作って捧げるなど郡守に対する称賛がやまなかった。朝廷で吳宖默郡守を慈仁県監に発令状を出した時も、旌善郡守の任期を延ばしてくれと上訴までするなど、郡民から信義を一体に受けた。ついに上訴が受け入れられず、残念な思いをした中で、以後慈仁県監、咸安郡守、固城府使、麗水郡守など地方守令で活動しながら、赴任する所ごとに「繍傘」を受けるなど、官職から退く時まで地方守令として任務を忠実に遂行した。しかし、高宗が直接彼を抜擢して起用するほど中央政界とも深い関係を結んでいたし、多様な官員履歴にもかかわらず、彼の生涯についての詳しい内容を明らかにする資料は特に残っていない。ただ『旌善叢瑣錄』と共に、旌善郡東面画岩里モルン台岩に「郡守吳宖默」と彫刻された文字と、旌善郡北面余糧里余糧鎮にたてた善政碑だけが伝えられている。
     旌善文化院院長ペ・ソンギは昨年『国訳旌善叢瑣錄』を発刊し、吳宖默の生涯など詳しい内容を把握するために海州呉氏宗親会などを探して資料を発掘するなど、歴史の中の人物「旌善郡守・吳宖默」を研究している。来年には旌善だけでなく他の地域で守令として在職しながら残した各種の叢瑣錄を全部収集して吳宖默郡守の面目を探求し、専門家を招請して「旌善叢瑣錄学術発表会」を開催する計画だ。(つづく)

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  23. [インタビュー] ペ・ソンギ旌善文化院長
    「政事は勤勉なところに成り立ち、威厳は清廉なところに出てくる」旌善は、先史時代から南漢江上流を中心に交わった天恵の自然環境を持った白頭山脈峻嶺の山間拠点地域で、地理的に交通が不便で経済的に豊かな所ではなかったが、風土は素朴で人情が厚い所だ。
     「旌善叢瑣錄」は、菜園・吳宖默が旌善郡守であった時に、日記形式で記録しておいたものだ。地方守令としては珍しく、在職当時の記録を豊富に残していて当時の生活像を理解するのに多くの役に立っている。その内容は天気、事件、人物、書信、史跡、詩文などの内容と赴任当時の手続きと赴任途中の民衆の生活を見せる興味ある話、地域を治めることの全般に至るまで、その過程と実状が生き生きと記録されている。
     菜園・吳宖默郡守が宮殿で官吏生活をして高宗の招請を受けて旌善郡の守令として赴任した時は、116年前の1887年の春だ。茶山・丁若鏞先生が「牧民心書」で特に地方官の守令が守らなければならない「守令七事」に言及した如く、吳宖默郡守はこれを守ろうと不断に努力した。
     吳宖默郡守が徹底して「守令七事」を守る間、郡民の人生は良くなったし、不満だった軍役に関する問題も解消された。装飾品やお金をなくしても持っていく人がなく、その場にそのまま主人が探しにくる時まであった。
     詩会を開いて近隣の学生たちを広く呼び入れて才能を広げるようにしたし、村の中の郷校と私学を頻繁に訪れて学生たちを励まして特講もした。朝早く村を回って、畑に出て行って仕事をすることを奨励し、熱心に仕事をする住民には私費をはたいて励ました。民衆の訴訟は常に本当の方にたち、簡潔に処決したので争いの素地をなくした。還子穀の弊害を正して巡営から減免を受けて住民のしわになった顔がのびるようにしたし、金鉱の不正な事案を解決するために直接現地を訪ねて行って堂々と是正した。
     このようだから、旌善郡民は吳宖默郡守を前任守令とは違って厚い信義で対することになった。ある日、国民は繍傘(村の住民たちが守令の治績に感服して名前を刻んだ千の布を構成して作った傘)を心を込めて作り、自分たちの心を美しく入れて郡守に捧げた。郡守は遠慮しながら、ついに受け入れた。王朝時代の牧民官としての最高の栄誉を….
      キム・キソプkees26@kado.net
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    なんだかキム・ジョンイルの「視察」みたいで、やや気持ちの悪い誇張があるようですが、別の研究によると、郡守としての治績の成績は常に「上」で好成績だったようです。
    いずれにしても、朝鮮末期の開明派の官僚=知識人の一人だったのではないかと思います。『輿載撮要』には、こういった層の人の、「于山」(=独島?)認識が、そのままにあらわれているのだと思います。すなわち、ここに現われている「于山」が、はたして「独島」でありえたか、といえば、この地図上の位置にしても、本文の「于山は三陟の東にあり」というだけの記述にしても、そこからはまったく現在の竹島=独島についての正確な認識は持ちえていないことがわかります。

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  24. 奎章閣所蔵の『朝鮮地図』(奎16030)について、2005年12月に奎章閣から影印本が出ていますが、この本の解説で、李起鳳(ソウル大学校奎章閣 責任研究員)は、この『朝鮮地図』は、1770年(英祖46年)に、国王である英祖の命令により、申景濬の主導下に製作された地図(『列邑図』8巻)である、と断定しています。

    この地図です。
    http://farm3.static.flickr.com/2108/1825468597_cc82dbf8b6_o.jpg

    とすると、申景濬は、同じ1770年に、『東国文献備考』には
    「輿地志云、鬱陵于山皆于山國地。于山則倭所謂松島也。」

    と書いていたわけですから、この『東国文献備考』の「于山」は、この『朝鮮地図』に出てくる、この位置にある「于山」であって、これがすなわち倭の所謂松島、つまり今の竹島=独島である、と申景濬自身が認識していたことになります。

    はたしてこの地図にあらわされた「于山」は、竹島=独島と言えるのでしょうか?

    むしろ、誤った位置情報をもち、2つの岩とは認識しておらず、「倭の所謂松島について、申景濬はまったく現実の姿を知らなかった」、ということをあらわしているのではないでしょうか。

    この地図は、王命による編纂ですから、当時の朝鮮王朝の認識そのもの、と言えます。


    さらに、この『朝鮮地図』の「于山」の認識は、国立中央図書館蔵『八道全図』古朝61-21
    =Gerryさん紹介の「關東方輿)」

    http://www.dlibrary.go.kr/Map/main.jsp?code=KOL000021173
    の(2)關東方輿)の(29)欝陵島

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/05/1880s-1890s-gwandong-pangyeo-ulleungdo.html


    さらには、高麗大学図書館蔵の『地図』
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/06/1888-1895-map-of-ulleungdo.html

    そして吳宖默の『輿載撮要』にも引き継がれているわけで、
    朝鮮王朝側では、ずっと竹島=独島の位置を誤って認識しつづけていた、ということになると思います。

    『東国文献備考』の記述は、独島=于山島説の一番の拠り所と言って良いものですから、申景濬自身の認識がこの地図の「于山」の通りだとすると、独島=于山島説はこれで崩れるのではないか、と思います。

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  25. 『韓国地図学発達史』にある、金基赫の論文です。
    http://www.land.go.kr/info0303.do

    第6章 朝鮮後期の地図
    http://www.land.go.kr/document/info/cartology/cartology_06_34.pdf

    2)我が国の古地図と方眼
    (1)我が国の方眼図法
    129p line5
    18世紀の地理学者、申景濬の『旅菴遺稿』には、方眼式地図と関連して次のような記録が収録されている。
    “庚寅年(1770年、英祖46)に王が『東国文献備考』を編纂させた。私もそれに参加した。また私に『東国地図』を描くように命じたので、公府に所蔵されている10件余り[地図]を取り出し、諸家の古本を訪ねて考察してみると、玄老[鄭恒齢]が描いたものに匹敵するものがなかった。 これを採択して若干校正を加えた。6月6日に開始し、8月14日に仕事を終えて王に捧げた。列邑図8巻、八道図1巻、全国図の掛け軸1軸である。周尺2寸を1線として、縦線76個、横線131個であった。王はまた命じて同じ数を東宮に捧げるようにした。王が親しく小序を作った… (旅菴遺稿、巻之五,東国輿地図跋)。

    地図があれば大概序文がなければならないことが慣例だ。 この地図は、初めに備考・通考に共に載せようと思ったが、そういう事例はないという理由で、色々議論があり、名前を『輿地図』とつけた。京都・両都から八道に至るまで、道里・山川を全部整えた。この編集はまさに私、申景濬が全面的に担当して成し遂げられた。360州の大小と遠近を一度に展開して、あたかも指掌を指すようだ。”(旅菴遺稿、巻之十三,御製輿地図小叙)

    申景濬が英祖の命を受けて周尺2寸を1線とする方眼式の郡県地図を製作して捧げ、地図を『輿地図』と名付けたという内容である。この記録は、方眼図法に関し、我が国の地図製作技法の枠組みを次の通り見せている。周尺を利用して従線76個、横線131個を引いたことは、我が国全国を統合する経緯線の組織を完成したという意味だ 同時に、全国すべての地域が、周尺2寸の方形格子をもとに、同じ縮尺によって地図製作が試みられたことを意味する。もちろん、以前に製作された鄭尚驥の『東国地図』の道別図も、百里尺を利用して製作されたが、それよりもはるかに詳しい地図が製作されたのだ。また、360州の大小と遠近を見ることができるように描いたし、列邑図8冊、八道図1冊、全国図が同時に描かれたことにより、同じ体系によって各郡県の地図(列邑図)、道別地図と朝鮮総合図が製作されたことがわかる。

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  26. (2)方眼図法で描かれた古地図

    方眼図法に描かれて残っている古地図は、大きく郡県地図と大縮尺の朝鮮全図に区分される。これらの地図は、全国が同じ縮尺をもとに描かれており、収録地名などを見る時、絵画式技法で描かれた他の郡県地図とは異なり、『大東輿地図』など大縮尺全図の製作の土台になったことが明らかになっている。(金基赫(キム・ギヒョク)2005) 一方、道別図として方眼図法をもとに描かれた地図は何点があるが、方眼が地図の上に描かれた地図はまだ発見されていない。

    ①郡県地図
    (a)郡県地図と方眼図法
    朝鮮後期に製作された郡県地図中、方眼が描写された最も初期の地図は、奎章閣に所蔵された『嶺南地図』(奎12154他)である。道別に構成された郡県地図冊で、表紙に備辺司印がつけられていて『備辺司印地図』と紹介されている(楊普景(ヤン・ボギョン)、1992)。この地図には1里間隔の方眼(一部の地図は10里方眼)が描かれている。しかし郡県ごとに縮尺が同一でないだけでなく、隣の郡県と連結されないでいる。 この地図での方眼は、全国を統合する座標体系ではなく、郡県内で各地点間の距離を簡単に測定するための道具として描かれたものと見られる。

    (表6-1)は、郡県地図中、方眼図法によって製作された主要な郡県地図である。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    [表6-1] 方眼図法で描かれた郡県地図冊
    所蔵機関 地図名 請求記号 内容および備考
    1国立中央図書館『東国地図三』継承貴2702-22  1冊(慶尚道)
    2国立中央図書館『海東輿地図』古2107-36  3冊(乾・坤・補)
    3奎章閣『朝鮮地図』奎16030  7冊(全羅道欠本)
    4奎章閣『八道郡県地図』古4709-111 3冊(京畿道・忠清道・平安道)
    5国立中央図書館『八道地図』古朝61-21 6冊(八道)
    6蔵書閣『地図』K2-4583  4冊(八道)
    7高麗大図書館『輿地図』B-10 A-53  2冊(京畿道・忠清道・江原道・咸鏡道)
    8高麗大図書館『地図』B-10 A-52  4冊(八道)
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  27. この中で最も代表的な地図は、国立中央図書館所蔵の『東国地図3』(図6-11)と、『海東輿地図』(図6-12)、奎章閣所蔵の『朝鮮地図』だ。

    [図6-11] 『東国地図3』東莱 資料:国立中央図書館
    [図6-12] 『海東輿地図』東莱 資料:国立中央図書館

    『東国地図3』は、慶尚道の各郡県を描いた地図冊だけが残っている。表紙には表題と41個の収録郡県の地名が記載されている。記載された地名は大部分慶尚左道に属している郡県の地名だ。表題名で見ると他の道別地図冊と共に描かれたものと見られる。山清・安義という地名が収録されたことから、英祖43(1767)年以後に製作された地図である。 71個の郡県地図で構成されていて、各地図は長さ4.2cm(20里)の方眼を利用して描いている。郡県ごとに方眼の大きさは同一で邑治に近い方眼の格子を基準として経緯線標の数値がある。彩色筆写本の地図で、一部の郡県で黒色で修正・加筆して内容が追加された場合がある。

    『海東輿地図』は、3冊(乾・坤・補)で構成され、地図は乾と坤に収録されている。補巻は各郡県の統計を収録した。製作年代は1800~1804年と推定されている。20里方眼の上に描かれたことは『東国地図3』と似ているが、郡県の大きさにより方眼の大きさが違う。25.0cm×17.0cmの大きさの本のワク内に4個の方眼を描いた場合は約4.3cm、5個の場合は3.5cm、6個の場合は2.7cm、7個の場合は2.2cmの正方形の方眼だ。 またこの地図冊では、1つの面に1個の郡県から最大8個の郡県まで一緒に収録され、一部の郡県は互いに連結されて描かれている。この地図冊には『東国地図3』と同じように、経緯線の数値が記載されている。『東国地図3』では、邑治に最も近い交差部分にだけ記載されているのに対し、『海東輿地図』では『東国地図3』と同じ数値を記載し、続く方眼に経緯線の下の場所だけに記入した。慶尚道の場合、31×21個の方眼に郡県の位置だけ表示している。慶尚道で郡県が描かれた範囲は、北―南に83(順スンフン)-119(コジェ)、東―西に18(チャンギ)-42(ハミャンであり、これは『東国地図3』の範囲と同一である。一方、道別「八道分表」を収録して各図で郡県の位置が分かるようにした。この内容は『青丘図』の一部異本に収録された『八道分表』の方眼数値と一致していて注目される。

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  28. 『朝鮮地図』は、既存の研究で代表的な方眼式郡県地図として紹介されており、奎章閣で影印、発刊して普及した。7冊(全羅道欠本)で構成されている。1750~1768年の間に製作された地図と推定されていて、京畿道の漣川、加平、楊州、抱川、永平の5個の郡県が脱落している。第3冊の江原道と第7冊の慶尚道の目次の部分に「備辺司」の印鑑が押されていて、備辺司で使った地図だということがわかる。すべての郡県の地図が4.2cmの方眼の上に描かれているが、経緯線の数値が記載されていないのが前の二つの地図冊と違う。すべての郡県地図は、同じ地理情報は一定の記号で表示されており、この地図冊が、ある機関によって企画・製作されたことを見せてくれる。

    これらの地図の他に『八道郡県地図』は、京畿道38郡県、忠清道54郡県、平安道42郡県を3冊で構成した地図冊だ。『朝鮮地図』と内容と品格がほとんど同一である。『朝鮮地図』に脱落している京畿道の5個の郡県も含まれている。

    『八道地図』(国立中央図書館)は、全国八道が完秩(全部揃った)方眼式の郡県地図冊である。『朝鮮地図』と内容は同一だが、非常に荒々しく描いている。収録された地名から見て、1838年頃に製作された地図と推定されている。

    高麗大図書館所蔵『輿地図』は、本来は4冊で構成されたと推定されるが、2冊だけ残っている。第1冊は京畿道・忠清道、第2冊は江原道・咸鏡道の郡県地図が収録されている。 内容は『朝鮮地図』と同一で、地図の品格と地名の書き方も優れている。1762~1776年の間に製作されたと推定されている。

    『地図』(蔵書閣)は、全国4冊(第1冊;京畿道・咸鏡道、第2冊;忠清道・全羅道、第3冊;黄海道・平安道、第4冊;江原道・慶尚道)からなっていて、地図一つの面に2~8個の郡県が共に収録されている。慶尚道の道別図の地名には安陰と山陰が記載されているが、郡県地図は安義と山清になっていて、二つの地図が英祖代の原本の地図をもとに正祖代に一部の内容を修正して筆写されたと推定される。

    高麗大図書館所蔵の『地図』も4冊になっていて、地図の一面に2~8個の郡県が共に収録されており、体裁で見る時、蔵書閣所蔵の『地図』と似ている。しかし第1冊;京畿道・忠清道、第2冊;慶尚道・全羅道、第3冊;江原道・咸鏡道、第4冊;平安道・黄海道となっており、道別の構成では違いがある。他の方眼式地図とは違って、地図の余白に注記を記入したのが特徴である。

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  29. (b)地図の系列

    方眼式郡県地図の系列について、金基赫(キム・ギヒョク)(2007)は(図6-13)のように整理したことがある。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    [図6-13] 方眼図法の郡県地図の類型 資料:金基赫キム・ギヒョク(2007)

    『東国地図3』→(修正)(加筆) 『東国紙図3』(国立中央図書館)
    →『海東輿地図』(国立中央図書館)
    →大縮尺の朝鮮全図(『青丘図』など)

    →(編集) 『朝鮮地図』(奎章閣)、『八道郡県地図』(奎章閣)、『輿地図』(高麗大図書館)

    →『地図』(蔵書閣) →『地図』(高麗大図書館)
    『八道地図』、『輿載撮要』(国立中央図書館)
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    『朝鮮地図』は、『東国地図3』が製作された後、郡県別の統一性を期するために再編集されて製作されたことを確認した。編集過程で、道路網が一律的に描写され一部の地理情報を記号や地名(書院、倉、烽)を利用して符号化した。『朝鮮地図』が製作された後、『東国地図3』は修正・加筆が行われ、これをもとに『海東輿地図』が製作されたと見られる。 一部の郡県で黒色で修正・加筆した内容の大部分は『海東輿地図』に反映されているが、『朝鮮地図』には現れていないのがこれを裏付ける。従って、加筆される以前の『東国地図3』は、申景濬が製作した最初の方眼式地図の形態により近いものと見られる。

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  30. 奎章閣の『八道郡県地図』、高麗大図書館の『輿地図』は、体裁と地図の製作水準を見る時、『朝鮮地図』とほぼ同じ時期に、同じ方法で製作されたものである。

    国立中央図書館所蔵の『八道地図』は、これらの地図中の一部が、民間によって模写されて製作されたものであり、蔵書閣所蔵の『地図』は、一面にいくつかの郡県を収録する方法で編集・製作されて王室で保管したと推定されている。 高麗大図書館所蔵『地図』は、蔵書閣の『地図』が民間で注記が添付されて模写された地図である。

    『海東輿地図』に挿入された「経緯全図」の内容と、一部の『青丘図』に挿入された「八道分表」がほとんど似ており、邑治の位置の描写と収録地名において二つの地図が多くの部分で一致することから見て、内容上、同一系列の地図であり、『海東輿地図』が『青丘図』の編纂に重要な役割をしたことがわかる。『大東輿地図』の底本の『青丘図』と、これらの郡県地図が、同じ図法で描かれていて内容も似ており、これら地図の間の関連性と系列について、活発な研究が行なわれた。『海東輿地図』が『朝鮮地図』の内容を底本としているということについて、既存の研究では大部分が一致しているが、大縮尺の全国全図である『青丘図』との関係については意見がある。『青丘図』の底本を『海東輿地図』と見た李相泰 (1999,215-216)の主張に対して、呉尚学(2001,44-46)は、二つの地図冊に描かれた方眼の一致は認めるものの、内容の差を提示しながら経緯線表式の郡県地図冊を直接的な底本としたとするには無理があると見た。そして『青丘図』の底本を、既に存在した大縮尺全図を基本地図として活用したと見て、楊普景(1999)が紹介したことがある『朝鮮図』のような類型の全国全図を例にあげた。これまでの研究を総合してみれば、18世紀に製作された方眼式郡県地図冊は、19世紀の『青丘図』および『大東輿地図』と密接な関係があり、朝鮮後期の地図発達史で重要な位置を占めていることがわかる。

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  31. ②大縮尺朝鮮全図と方眼図法
    方眼図法で描かれた大縮尺の朝鮮全図は、(表6-2)の通りである。
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    [表6-2] 方眼図法に描かれた『大縮尺朝鮮全図』
    所蔵先 表題名 請求記号 形態備考
    1奎章閣他『青邱図』他  -  筆写本2冊-4冊
    2国立中央図書館『大東輿地図』古朝61-01筆写本18帖
    3国立中央博物館『東輿』M-127 筆写本14帖
    4日本大阪府立図書館『朝鮮図』- 筆写本26冊
    5奎章閣外20余機関 『大東輿地図』奎10333木版本(辛酉) 22帖
    6奎章閣外3機関『東輿図』奎10340筆写本22帖
    7奎章閣 『大東方輿全図』奎10341筆写本22帖
    8奎章閣外3機関『大東輿地図』古4709-6木版本(甲子) 22帖
    9嶺南大図書館他5機関 『大東全図』989-11筆写本(模写) 22帖
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    これらのうち、方眼が描かれた地図は、奎章閣などに所蔵されている『青丘図』、国立中央博物館の『東輿』、および1861年とその後に製作された『大東輿地図』である。

    『青丘図』は、国内あわせて10点が所蔵されていることが確認されている。これらの本は収録地名と縮尺などの構成において同一だが、製冊の形式と表題、地理情報の収録方法などが互いに違う(金基赫キム・ギヒョク、2004).
    『東輿』は、14層で構成された分帖折疊式の地図である。表題は『東輿』になっているが、地図の1層に『大東輿地図』の表題が記載されている。全国を南北で14層に区分し、各層は折疊式になり展開してたたむことができるようになっている。14帖の地図を広げて連結すれば、縦5.2m、横2.9m程度の大型の全図になる。

    木版本『大東輿地図』は、朝鮮時代の地図発達史で頂点にある地図で、我が国の古地図の白眉に選ばれている。分帖折疊式になっていて、各帖の大きさは30.0×20.0cmで22層を集めて付ければ、縦約7m、横約4mとなる。各図葉面は、縦120里、横80里で構成されている(図6-14)。

    ソウル大奎章閣、国立中央図書館、誠信女子大博物館、嶺南大博物館. 釜山大学校図書館などの色々な機関に所蔵されており、木版は国立中央博物館と崇実大博物館にある。木版は両面に板刻されていて、一面に2個以上の図葉面を板刻した。
    一方、国立中央図書館所蔵の筆写本『大東輿地図』、日本の大阪府立図書館に所蔵されている『朝鮮図』は、方眼図法をもとに製作されたが、地図上に方眼が描写されていない。奎章閣などに所蔵されている『東輿図』と『大東方輿全図』、甲子本『大東輿地図』および後代の模写本は、内容上木版本『大東輿地図』と座標体系が同一である。

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  32. これら大縮尺の朝鮮全図は、同じ方眼図法をもとに製作された。これらの地図に収録された地名、河川流路、山脈などの地理情報は、20里方眼をもとに製作された郡県地図とほとんど一致していて、方眼体系も似ている。しかし、地図製作にもとになった方眼関連内容では、地図ごとに少なくない差異が存在する。特に木版本『大東輿地図』と、これの底本の『青丘図』は、収録地名だけではなく方眼の座標体系での多くの違いを見せている。

    [図6-14] 『大東輿地図』に表現された方案

    (表6-3)は、『青丘図』と木版本『大東輿地図』の方眼体系を比較したものである。二つの地図は、全国を10里方眼をもとに画して地図を製作したことは同一だが、方眼の個数に差がある。『青丘図』の場合、南北29層、東西22個の版で分けて、各面を南北10個の方眼、東西7個の方眼で区画し、南北2,900里(290個の方眼),東西1,540里(154個の方眼)をもとに地図を描いた。
    反面『大東輿地図』の場合、一つの図葉面を南北120里(12個の方眼),東西80里(8個の方眼)で構成し、全国を南北22層、東西は(最大)19版に減らした。東西の長さは1,520里で、『青丘図』と大きな差がないが、南北は2,640里(260個の方眼で『青丘図』に比べて260里(26個の方眼)を減らしている。これは『大東輿地図』の下絵を製作するときに、従来の地図を単純に模写したのではなく、収録地名と共に方眼の座標体系などでも変化を期したことを示している

    [表6-3] 『青丘図』と『大東輿地図』の方案座標体系の比較
    『青丘図』      木版本『大東輿地図』
    南北(縦) 東西(横)   南北(縦) 横
    体裁(A)          29層  22版     22層19版(最大)
    面当たり10里方案数(B)  100里(10個) 70里(7個)  120里(12個) 80里(8個)
    全体10里方案(C=A×B)  290個154個   264個152個
    全体里数(C×毎10里)  2,900里1,540里   2,640里1,520里

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  33. 参考文献
    金基赫2004,「青丘図の異本類型研究』『韓国地域地理学会』発表抄録文
    金基赫2007,「朝鮮後期方眼式郡県地図の発達研究―「東国地図3」を中心に」『文化歴史地理』19(1),19-36
    金基赫2008,『釜山古地図』、釜山広域市.
    金基赫他2005,「朝鮮後期郡県地図の類型研究―東莱府を事例にー」『大韓地理学会誌』40(1),1-26.

    楊普景1992「18世紀備辺司地図の考察―奎章閣所蔵道別郡県地図集を中心に―」奎章閣、15,93-144
    楊普景1995「大東輿地図を作るまで」『韓国市民講座、16,84-121.
    楊普景1999「日本大阪府立図書館所蔵朝鮮図の考察」書誌学研究、17,421-435.
    呉尚学2001「古山子・金正浩の地図製作とその意義」『古山子・金正浩研究報告書』27-102.
    李相泰1999,『韓国古地図発達史』鋭い洞察力.

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  34. 우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.

    우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.

    우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.

    우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.



     「朝鮮地図」に関するmatsuさんの大発見は、改めてメイン・ポストで紹介する価値があると思います。于山島=松島=独島説は終わりですね。




    2010.11.21

     

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  35. はじめまして、そしてこんにちは。

    申景濬の地理的な認識は朝鮮地図の「于山」の位置だったんでしょう。
    でも、韓国の人に言わせれば、「そんなの前から知っているよ。また、その地図に描かれた于山島は独島だ!」と心の中では整合性が取れているんでしょう。

    ところでこんな文もあります。
    「に于山島がないわけ」
    チャン・サンフン国立中央博物館演芸研究官
    Dokdo Research Journal 2010.Spring.vol09

    http://www.land.go.kr/document/info/cartology/cartology_06_789.pdf
    朝鮮の古地図で鬱陵島と于山島の位置や大きさの認識が変わったのは、星湖李瀷と姻戚の鄭尚驥が先だったのか?、申景濬が先だったのか?どちらが影響を受けたかは、紹介された解説だけでは、まだ微妙な感じ。

    うーん、頓珍漢なレスをしちゃったかな。。。。お邪魔してすみません。では

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  36. 誤打してしまいました。
    「に于山島がないわけ」と途切れていますね。
    正しくは「に于山島がないわけ」
    です

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  37. 大東輿地図がうまく出ない(涙)

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  38. caprizz さま

    こんにちは!

    ひょっとしてcapriさん?

    頓珍漢じゃないですよ~。貴重な情報、ありがとうございます。チャン・サンフン国立中央博物館演芸研究官のお名前は初めて聞きます。

    李瀷と鄭尚驥は姻戚関係だったのですね。実学者仲間だと思っていました。どちらが先だったのでしょうね。どちらにせよ、『東国地図』『朝鮮地図』の于山島は竹嶼であることは明白です。特に後者は方眼入りですから。

    matsuさん

    いつも翻訳ありがとうございます。
    金基赫氏はイ・ギボン氏とはまた違う意見のようにも読めます。

    chaamieyさん

    そのうち独立して投稿したいと思います。

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  39. 1895.土民必知
    金澤榮 

    大韓帝国の東端は欝陵島までのようで。
    東経123-131度までのようです。
    *参考:欝陵島東端が130’56  島根竹島が131.55

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  41. GTOMRさん

    『士民必知』(1895)のご紹介、ありがとうございます。(”土”民ではないようです。)ハルバートが原著者のようですね。

    「朝鮮国者幅圓自北緯線三十五度至四十三度自東経線一百二十三度至一百三十一度」と、朝鮮半島ではなく、朝鮮国の領域の説明になっています。議政府の発行したもののようですね。 

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  42. Anonymous3/12/10 09:46

    Chaamieyさん

    ブログに載せていただき、ありがとうございました。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52945027.html

    多忙でしばらく投稿できませんでした。

    この『朝鮮地図』は、もっと知られて良いと思います。
    いま奎章閣に残る「奎16030」の地図が、申景濬の作った「現物」ではあるのか、ないのか、(李起鳳は「現物だ」と言っているようです)、現物ではないにしても、
    少なくともその「写本」であることは、呉尚学や金基赫を含めて、韓国の地図学者はみな認めているようです。ということは、ここに描かれた「于山」が、「申景濬の認識していた倭の所謂松島」であることは動きません。

    Chaamieyさんのブログにも地図を載せていただいていますが、この『朝鮮地図』の「于山」と、実際の竹島=独島の位置を比べれば、当時の朝鮮の朝廷が「竹島=独島の実態」を知らなかったことは明白です。

    『粛宗実録』にのる安龍福の証言、あるいは備辺司などの他の情報も申景濬は持っていたのかもしれませんが、それにあわせて、これまでの「竹嶼」の位置から、「やや遠い」位置に于山島の位置をずらせたため、このような図示になったのだと思います。
    それは結局、「アルゴノート」が実際には存在しない島だったように、あらたな「幻影」をつくったのに過ぎなかったのでしょう。

    欝陵島に派遣された何人もの捜討官たちが、誰一人として、実際に竹島=独島に行っていないことは明らかですし、当時の朝鮮の朝廷が、竹島=独島を領土として把握をしていなかったことも明白です。

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  43. 『士民必知』を検索していたら、『한국 개화기 서적 문화 연구』
    著者: Bong Hee Kimという本に『輿載撮要』が学部編集局編、学部発行となっていました。年代が1896年となっているので、違う本でしょうか。

    http://books.google.co.jp/books?id=Oo2TePnPg_YC&pg=PA215&lpg=PA215&dq=%E5%A3%AB%E6%B0%91%E5%BF%85%E7%9F%A5%E3%80%80&source=bl&ots=LuXBp53L3X&sig=VPxPNCoNGD6ysR366JY2-SPvKDQ&hl=ja&ei=-pf9TMTXFYnkrAeJ5d3_Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CCUQ6AEwAjgK#v=onepage&q&f=false
    (210ページ)

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  44. Anonymous8/12/10 01:20

    Kaneganeseさま

    はあ、これが『電子図書』というものですかね。
    随分便利なものですね。(検索で引っかかるのが素晴らしい)

    コピーペーストできないので、写さなければいけないので大変ですが。

    한국 개화기 서적 문화 연구は、『韓国開化期書籍文化研究』で
    この210ページ付近にある一覧表は大変面白いと思います。
    ちょっと前の208ページに「国内地理」とあり、当時の地理の教科書の一覧ですね。
    1905年以前のものもあり、これらの本の中に、はたして「鬱陵島と独島」はどう出ているのか。きっと鬱陵島はあっても独島はない、というのが、ひとつひとつ確認できそうに思います。

    1895 学部編修局 「朝鮮地誌」
    1896 学部編修局 「地●略誌」
    1896 学部編修局 「輿載撮要」
    1899 玄採    「大韓地誌」
    1903 「我韓境域考」

    このうち、1899 玄采「大韓地誌」はすでに有名で、
    1903 「我韓境域考」については、ここでも触れた記憶があります。

    「輿載撮要」は吳宖默のものを学部(=文部省)がぱくって出版したのではないでしょうか。吳宖默の原本は10巻本だったはずで、1巻の木版本は学部から出たのかもしれませんね。

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  45. This comment has been removed by the author.

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  46. 上にmatsuさんが訳して下さった中にありました。

    여재촬요(輿載撮要)② 別の百科事典 その1

    http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=241896&v=44

    1冊の木版本『輿載撮要』は、写本の『輿載撮要』から各種の序文と跋文を省略し、両半球図と道別分図以外のすべての地図を省略した。単巻木版本は、学部で刊行されたことは確実だが、著者と刊記が明記されていない。

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