竹島問題の歴史

24.11.09

Old Maps at the National Library of Korea

The book on the left was published by the National Library of Korea in June 2009 and is entitled "Bibliography of Dokdo Related Material Housed at the National Library of Korea -- Old Documents Volume"

I have not yet seen the book, but what interests me about the cover is the map on it and the fact that "Old Document Volume" is written on it, which suggests that an "Old Map Volume" may follow.

The library has made many of its old maps available online HERE, but they still have other maps they have not put online, for some reason. Therefore, I would be interesting in seeing the "Old Map Volume" of the book to the left. I wonder when that will come out.

41 comments:

  1. Now I got to know they add many maps on their digital archives of National library of Korea. I remember they have only 60-70 map on their list on march and there are 90 map now.

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  2. Hi GTOMR,

    Yes, I noticed that a couple of months ago, but they did it after we posted many of them on this site. However, there are still other maps that are not online, yet. Hopefully, they will put them online soon.

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  3. Sounds great !! I hope you are going to show us if you find it interesting.

    Speaking of old maps, Aizu Museum, Waseda University is holding a exhibition of Joseon's old maps stored by 嶺南 University of Korea.

    古地図で眺める朝鮮半島
    嶺南大学校博物館所蔵
    地図コレクションより

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  4. Now I found out on 4th of May they have only 63 list, incruding 63/古朝61-79/화도진도(花島鎭圖)

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  5. 翻訳1件アップ

    1957.2.28 東亜日報
    「独島領有権」①(黄相基)



    1957.2.28 東亜日報
    「独島領有権」①(黄相基)

      去る2月中旬ごろ東亜日報紙上に掲載された金基洙氏執筆の時論「独島領有権問題」を読んで、その論説に引用されたいくつかの理論に多少あいまいなところがあり、いささか韓日会談においてこの問題を解決する助けとするため、協調の意味で次のとおり概説を発表したい。

    (1)独島の地理
      独島は北緯37度14分18秒、東経131度52分33秒にある小群島で、総面積は56,301坪に達し、山頂は157メートルだ。独島は鬱陵島から50浬、日本の隠岐島からは86浬地点に位置している。そして、独島は軟質の石層から成る岩嶼で東方島と西島の2島のほかに大小32個の小嶼が水面に露出しており、平坦な地帯は少なく、到底家屋を建築するだけの平地はない。さらに、独島には飲料水がなく、夏期に出漁する漁民たちが陸地から飲料水を持ち込むほどの岩嶼であるため、古くから独島には住民が常に住んだ例はない。しかし、独島は海産物が豊かであるだけでなく、海驢の生息地として有名だ。

    (2)新羅・高麗・李朝初期の独島
      西暦512年(新羅智証王13年)、異斯夫という軍主が于山国(鬱陵島)を征服して以来、高麗・李朝初期まで約900年間は朝廷から官員を鬱陵島に派遣して島中を調査させ、また土産物を献納させていたが、その土産物の中には独島の産物が含まれていたものと思われ、独島は鬱陵島の属島として取り扱われて来たと見ることができる。
     1417年(李朝太宗17年)以来1697年まで約280年間は、朝廷では、交通の不便を考慮して島民を陸地に送還し、空島政策を採り●●しておいた。この空島政策を採っている期間中に朝鮮漁民たちはもちろん、日本漁民たちが潜侵するようになり、1693年には直接独島(于山島)において東莱人安龍福と日本漁夫との間に衝突が起きたため、1696年(李朝粛宗22年)には朝鮮政府において日本徳川関白に対して日本漁民の潜侵を抗議し、日本徳川関白は対馬島主を通じて、翌年、正式に「日本漁民の渡航を禁止する」という公翰を朝鮮政府に送ってきた。

    (3)空島政策と日本の国交厳守
      その後、日本徳川関白は、1716年密漁者死刑、1837年いわゆる「竹島事件」を処理するまで約140年間、両国の国交を厳守したが、朝鮮政府においては、空島政策を採る鬱陵島と独島に三年ごとに捜討官を派遣して島中を調査し、その空島状況を朝廷に報告させた。
      一例として、1727年(英祖3年)、三陟営将李萬協が倭学、崔萬廸ほか98名を率いて4月11日に出発し5月2日に竹邉津に回着したという記録によれば、島中産物に「可支魚皮」(当時は独島産海驢を可支魚と呼んだ。)1令と青竹1個、黄竹1個、紫檀香2●、石間朱土6升、そして島形1本を監封し、5月3日に朝廷に報告したことがあり、独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる。


    ②に続く


    2009.11.25

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  6. 土産物の中には独島の産物が含まれていたものと思われ・・・・・・

    土産物の中には独島の産物が含まれていたものと思われ・・・・・・

    土産物の中には独島の産物が含まれていたものと思われ・・・・・・

    土産物の中には独島の産物が含まれていたものと思われ・・・・・・



    独島(于山島)において東莱人安龍福と日本漁夫との間に衝突が起きた・・・・・・

    独島(于山島)において東莱人安龍福と日本漁夫との間に衝突が起きた・・・・・・

    独島(于山島)において東莱人安龍福と日本漁夫との間に衝突が起きた・・・・・・

    独島(于山島)において東莱人安龍福と日本漁夫との間に衝突が起きた・・・・・・



    鬱陵島と独島に三年ごとに捜討官を派遣・・・・

    鬱陵島と独島に三年ごとに捜討官を派遣・・・・

    鬱陵島と独島に三年ごとに捜討官を派遣・・・・

    鬱陵島と独島に三年ごとに捜討官を派遣・・・・



    独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる・・・・・・

    独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる・・・・・・

    独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる・・・・・・

    独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる・・・・・・





    2009.11.25

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  7. chaamiey 様翻訳お疲れ様です。

    一例として、1727年(英祖3年)、三陟営将李萬協が倭学、崔萬廸ほか98名を率いて4月11日に出発し5月2日に竹邉津に回着したという記録

    この文献は聞いたことがないのですが、ずいぶん具体的なので、記録がどこかに残っているのでしょうか?

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  8. 確かに、今まで聞いたことのない話ですね。どういう資料なのか、差し当たり分かりません。



    2009.11.25

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  9. 以前に藪太郎さんがご紹介された三陟郡邑誌ですが、三陟郡全圖に鬱陵島が地図に掲載されていますね。

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  10. Even if a Korean will recruit many maps to a cuttlefish, those maps do not have a meaning if they do not show the evidence that influenced Takeshima(Liancourt Rocks) effectively. The Korean does not yet show such an evidence.

    -------------
    韓国がいかに多くの地図を集めようとも、竹島(Liancourt Rocks)を実効的に支配した証拠を示さなければ、それらの地図は意味を持たない。韓国はそういう証拠を未だ示していない。

    2009.11.26

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  11. chaamieyさん

    翻訳有難うございます

    ”独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる”

    1727年当時の鬱陵島民というと…アシカですね!確か三峰島の件でも島で手を振っていた白い人形をアシカに違いない、と朴さんも主張していました。当時鬱陵島にアシカが生息していたのは確実なので、やっぱりこれは鬱陵島のことでしょうね。でも、アシカなら鬱陵島と竹島の間を回遊できたので、恒常利用していたということはありえますね。(←独り言です。)東亜日報はまるで芸人のネタ帳のようですね。

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  12. Two interesting articles.

    Korean international law professional considers the situation so far is advantageous to Japan. From Choson Ilbo.

    '한(韓)·일(日)간 독도소송' 땐 어떤 일이 벌어질까?

    19.7% of Korean doesn't know about "Dokdo".

    国民の2割「独島よく知らない」、国民世論調査

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  13. 三百年 人の往来 途絶えして

    あしかのめぐる 鬱陵の海


    茶阿弥




    2009.11.26

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  14. "1727年当時の鬱陵島民というと…アシカですね!"

    Kaneganeseさん、あまりおもしろいジョーク飛ばさないでくださいな。夜遅くに読んだものだから、笑いをこらえるのに苦労しました。(^v^)


    韓国側の主張を知ろうと思っていろいろ読んでみたのですが、竹島を領有する根拠として挙げるべきものはありませんでした。どれも憶測と予断と、そして願望ばかりなのです。日本が領有の主張を取り下げるべきだという事実を示してくれたなら、現状を追認することもできるのですが、実際には韓国側の領有主張に根拠のないことを確認するばかりです。日本側にも『隠州視聴合記』の解釈とか太政官布告を巡る問題とかのように安定しないところはあります。そのような問題はあるにせよ、韓国側の主張よりもより確からしい根拠を日本側は持っているように思います。

    不法占拠であれ何であれ、実際に支配下においている強みはありますね。法的には第一次世界大戦を境に禁じられた「征服」同様の行いによって韓国領であると彼らは主張しているわけですが、つまり国際法的には韓国の主張には道理がないのですけれども、実際に支配下においているためにやりたい放題やっています。こんな状況を放置してはいけないと思います。日韓双方のためにならないですよ。


    2009.11.27

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  15. 1724年の記録を探す必要があります。

    。これだけ具体的な日付と人命が書かれているにもかかわらず、韓国のプロパガンダサイトに記述が見当たらないのは、なんか不自然です

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  16. 李萬協について承政院日記を検索してみると73件出ます。(①)
    英祖2年(1726)11月1日に、李萬協という人が、確かに三陟營將になっています。(②)

    http://sjw.history.go.kr/inspection/search_result_list.jsp?M=0&oflag=0&set_id=112264&selK=1&selT=1&query=%E6%9D%8E%E8%90%AC%E5%8D%94&sinfo=&list_per_page=10&chkID=0&opAll=0&opP=0&opA=0&opB=0&opR=0&opT=0&opG=0&opW=0&qAll=&qP=&qA=&qB=&qR=&qT=&qG=&qW=&idS=&idE=&tc=73&pc=73&cp=5&startpos=0&pos=


    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result_s.jsp?M=0&oflag=0&set_id=112264&selK=1&selT=1&query=%E6%9D%8E%E8%90%AC%E5%8D%94&sinfo=&list_per_page=10&chkID=0&opAll=0&opP=0&opA=0&opB=0&opR=0&opT=0&opG=0&opW=0&qAll=&qP=&qA=&qB=&qR=&qT=&qG=&qW=&idS=&idE=&tc=73&pc=73&cp=5&startpos=0&pos=40

    ところが、上のサイト①で見るように、次に出る李萬協の記録は英祖3年6月13日となっていて、このときは、李萬協を內禁將にしています。さらに8月25日には「前三陟營將」と出てきます。

    たぶん、鬱陵島から竹邉津に回着したという5月2日以降、李萬協が內禁將になったという6月13日までの間に、李萬協の鬱陵島行きの記録があるのだと思います。
    報告を出したと言う5月3日条にあるのが普通だと思いますが。

    承政院日記といえども、記録は欠落しているのかもしれません。

    あるいは、都合が悪いのでネット上では隠している???

    この8月25日条には
    近來江原一道, 盜賊熾盛, 而營將治盜之法, 甚爲疎緩, 前任三陟營將李萬協治盜之法, 尤涉解弛, 嶺東一帶, 嘯聚寔繁。

    とあり、李萬協は、盗賊退治が手ぬるいと批判されています。

    http://sjw.history.go.kr/inspection/insp_result_s.jsp?M=0&oflag=0&set_id=112264&selK=1&selT=1&query=%E6%9D%8E%E8%90%AC%E5%8D%94&sinfo=&list_per_page=10&chkID=0&opAll=0&opP=0&opA=0&opB=0&opR=0&opT=0&opG=0&opW=0&qAll=&qP=&qA=&qB=&qR=&qT=&qG=&qW=&idS=&idE=&tc=73&pc=73&cp=5&startpos=0&pos=43




    一方、朝鮮王朝実録では、李萬協は検索には一回しかでてきません。

    http://sillok.history.go.kr/inspection/inspection.jsp?mTree=0&id=kva

    英祖3年(1727)より16年も前の、肅宗 37年(1711)10月8日条で、このときは李萬協は、順川郡守だったようです。


    備辺司謄録には出ないでしょうか?

    黄相基が1957年に参照できたのですから、何かの記録がきっとあるはずです。

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  17. 奎章閣のサイトで検索しましたが、備辺司謄録にも李萬協の鬱陵島検察記事はないようです。黄相基氏はどの資料を読んだのでしょうか。その資料には于山島も検察したことが書いてあったのでしょうか。単に可支魚皮から短絡的に断定しただけなのでしょうか。1727年と言えば朴昌錫の1711年の検察のたった16年後で1714年の『補闕正吳』記事「鬱陵之東 島嶼相望 接于倭境」をあわせると鬱陵島の東側の日本からの侵略を大変意識していた時期でもあり、何が書いてあったか、是非その内容を知りたいですね。

    何故ネット上で検索できないのか、不思議です。実に怪しい。

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  18. Anyone,
    I found a record which wrote Usando.

    Some charactor (北十?) on upside of 于山島 鬱陵島 in this records
    But Im not sure it is correct(北十) or not and what is 北十 because those charactor is not beautiful style.
    東輿覽荒鈔 v1

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  19. 翻訳1件アップ

    東亜日報 1957.03.01 獨島領有權②(黄相基)

    東亜日報 1957.3.1 獨島領有權②(黄相基)
    (翻訳未完)

    (4)日本漁民の潜侵と○○○○文献
      ○○○○に捜討官を派遣し独島と鬱陵島を管理していた期間に日本漁民たちが○集し往来するようになり、その中、○○○○1667年○○○○○○○○○○○○数種○○漁夫記録が○○○停るようになり、鬱陵島と独島は無人島の無主島のごとく誤認されるようになった。
      しかし、隠州視聴合紀には次のように書かれている。

     「戍亥之間行二日一夜有松島 又一日程有竹嶋(俗言磯竹魚海鹿按神書五十猛獣)此二島無人之地 見高麗如雲州望隠州 然則日本之乾地 以此州為限矣」

      この文章の意味は、「松島と竹島は無人島で、竹島から高麗を望み見るのは雲州から隠州を望み見るようだ。それで、すなわち日本の限界は此州を限りとする。」ということだ。つまり、此州とは隠州である隠岐島を指すものだが、日本人たちは只今も此州というのを竹島と松島と解釈して外交覚書に引用している。

      その後1775年○○○○○○○○○○○○隠州視聴合紀○○○○○「日本輿地路程全図」○○○○○○○。
      しかし、10年後の1785年、林子平の「三国通覧與地路程全図」は、独島を朝鮮領土と表示している。その後1840年、普国人パドゥン・フォン・シーボルトが地図○80余種を日本へ寄贈したが、その中には長久保赤水の地図を模倣して製作した地図が一枚あった。この地図は、英国「○○○○」を中度標準として製作されたので、独島の位置を鬱陵島の所在位置に書いて松島と表示し、実地の鬱陵島は○空の地である北緯36度(西経10度)に書いて竹島と表示するとともに、日本の領有色で表示した。

      そういうことのため、実地の独島は地図上で見れば位置が相違し洩落して○○○○よって○○○○○○○日本人たちは○○鬱陵島を「松島」と呼ぶようになった。そうして隠州視聴合紀にいう竹島(鬱陵島)は不知不識中に「松島」と自称するようになり、独島(松島)は新発見地のように考えられるようになったが、特に西欧人によって無主島のように誤認されることとなった。
      1787年5月下旬、仏国海軍大佐「ラ・ペルース」は軍艦ブッソル(?)で東海を航海したとき独島を発見し「ブッソル」と命名し、1849年仏国捕鯨艦「リアンクールト」号が独島を発見して「リアンクール・ロック」と命名し、1855年英国支那艦隊「ホーネット号」が独島を発見し、「ホーネット・ロック」と命名した。

      このように、鬱陵島と独島は実地には二島であるにも拘らず、世界各国の地図は三島と表示するようになった。三島と表示された地図○○1935年7月1日国際満載吃水線条約第二附属書地図を始めとして、英、仏、露国の大部分の現代地図は三島と表示している。

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  20. (5)松島開拓願と日本政府の措置

      竹島と明示された鬱陵島と松島と明示された独島が厳然たる朝鮮領土であるにも拘らず、愚昧な日本漁民の間では無人島である無主島であると誤認し、1878年(明治11年)8月15日、下村輪八郎、斉藤七郎兵衛の両名が日本外務省の瀬脇貿易事務官に「松島開拓願」を提出した。
      下村、斉藤両名の「松島開拓願」の内容を見れば、「瓦木が繁茂し、和船の碇泊に可」という言葉があり、当時は鬱陵島を日本漁夫たちは松島と俗称していた点から見て松島開拓願はすなわち「鬱陵島開拓願」を提出した内容だった。
      日本外務省では、本件両名の「松島開拓願」を受理した後、処理に無数の苦心をした結果、当時の日本外務省の記録局長渡辺洪基、同省公信局長田辺太一、民間学者児玉貞男、武藤平学、坂田○○等の意見を聴いた上で、松島は地図の錯誤による鬱陵島であることを理解し、再び、実地の正当な松島である「独島」は朝鮮領土である「鬱陵島の属島である于山島」として地図上の位置が錯誤洩落していることを確認することとなり、松島開拓願は却下されることとなった。


    (③に続く)



      それから、「日本領でないことを示す46年大蔵省告示」(朝鮮日報 2009/11/16)の調査結果をブログにまとめておきました。


    2009.11.29

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  21. Kaneganese さん

    ”独島は鬱陵島民が恒常利用していたということを証明することができる”

    1727年当時の鬱陵島民というと…アシカですね!確か三峰島の件でも島で手を振っていた白い人形をアシカに違いない、と朴さんも主張していました。当時鬱陵島にアシカが生息していたのは確実なので、やっぱりこれは鬱陵島のことでしょうね。でも、アシカなら鬱陵島と竹島の間を回遊できたので、恒常利用していたということはありえますね。(←独り言です。)

    恐らく黄相基氏はアシカの起源は韓国人だと考えていたのではないでしょうか。(←嘘です。。)

    恐らく黄相基氏はアシカが竹島に生息しているのは知っていたが、昔は鬱陵島にも生息していたのを知らなかったので、文献に「可支魚(アシカ)」とあるのを見て鬱陵島だけでなく竹島(独島)にも行ったと早合点してしまっただけだと思います。可支島=独島説も同じ論理でしょう。私の予想では李萬協について調べても何もでない確率は100パーセントです。


    chaamiey さん

    松島は地図の錯誤による鬱陵島であることを理解し、再び、実地の正当な松島である「独島」は朝鮮領土である「鬱陵島の属島である于山島」として地図上の位置が錯誤洩落していることを確認することとなり、松島開拓願は却下されることとなった。

    これは『竹島考証』の記述を適当に継ぎはぎして、おのれに都合の良い解釈を創作してしまったもののようです。
    『竹島考証』においては「松島は地図の錯誤による鬱陵島である」・「地図上の位置が錯誤洩落している」の部分は渡辺洪基の推定であり、「松島は朝鮮領土である鬱陵島の属島である于山島」は田辺太一が伝え聞いた内容であり、松島開拓願が却下されたのは実地計測した戦艦天城が松島は鬱陵島のことであると考えたからのはずです。

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  22. matsuさん

    こちらで紹介した”鄭尚驥本人が描いた「東国地図」”は本当に鄭尚驥本人が描いたものなのか、本当に于山島が欝陵島の北東側にあるのかご存知でしょうか。ゲリー氏に頼めば確認してもらえるのでしょうか。

    それから申景濬の『疆界誌』の全文を入手することは可能ですか?、『竹島〈独島〉・欝陵島歴史研究』の106pに「申景濬は『疆界誌』で『輿地志』を頻繁に引用している」とあります。『疆界誌』で『輿地志』からの引用として記述されている文章が『東国輿地志』に記載されているかどうかを確認することによって、『東国輿地志』が柳馨遠の書いた『輿地志』かどうかをかなり正確に判定できると私は考えます。

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  23. 1787年5月下旬、仏国海軍大佐「ラ・ペルース」は軍艦ブッソル(?)で東海を航海したとき独島を発見し「ブッソル」と命名し、

    この部分もLa Perouseの記述からは確認取れません。
    (La Perouseのフランス語版をどこかに貼っておいたのですが見当たりません)
    おそらくBoussole Rockの名称はCommandar Wardによる1859年のActaeonのDagelet-Matsushima調査以降の話で、ActaeonのDagelet-Matsushima詳細図(SurveyD7467)が発出だと思われます。それ以前の海図・地図にはBoussole Rockは見当たりません



    Boussole Rockで検索をかけると、いくつかの韓国のサイトに、定型文かの如くBoussole Rockは独島であるとの歪曲された説明が書かれているのを見ます。

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  24. yabutarouさんが紹介されたhttp://toron.chu.jp/take/krobject/ossong3.htmlは、サイトが閉鎖されたようでリンク切れになっています。代替となりそうなリンク先を御存知でしたら教えていただけませんか?

    2009.11.30

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  25. yabutarouさん

    申景濬の『疆界誌』を後ほどメールでお送りします。少しお時間下さい。

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  26. yabutarouさん、

    なるほど、日本側文献のつぎはぎですか。まあ、この独島領有権という文章はあまり深みは感じられないですね。


    Makotoさん、

    http://toron.chu.jp/

     ただし「竹島メモ」のリンクはまだできていないようです。


    2009.11.30

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  27. GTOMR さん

    1787年5月下旬、仏国海軍大佐「ラ・ペルース」は軍艦ブッソル(?)で東海を航海したとき独島を発見し「ブッソル」と命名し、

    たしかラ・ペルースは自分の乗ってきた船だか自分の部下の名前だかにちなんで竹嶼に「Boussole Rock」と名付けたと記憶しています。
    韓国では鬱陵島の近くに島があるという記述があると条件反射的にそれは竹島(独島)のことであると考えてしまうようです。


    yabutarouさんが紹介されたhttp://toron.chu.jp/take/krobject/ossong3.htmlは、サイトが閉鎖されたようでリンク切れになっています。代替となりそうなリンク先を御存知でしたら教えていただけませんか?

    ヤフーにキャッシュがありました。

    それにしてもどうして閉鎖されてしまったのでしょうか。。心配です。。。


    Kaneganese さん

    申景濬の『疆界誌』を後ほどメールでお送りします。少しお時間下さい。

    メール届きました。ありがとうごさいます。ただ大変申し訳ないのですが、鬱陵島に関する部分だけではなく『疆界誌』の全文・最初から最後まで・朝鮮八道の解説のすべての部分から『輿地志』からの引用として記述されている文章を抜き出したいと考えているわけですよ。。。

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  28. This comment has been removed by the author.

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  29. Yabutarou様、
    >たしかラ・ペルースは自分の乗ってきた船だか自分の部下の名前だかにちなんで竹嶼に「Boussole Rock」と名付けたと記憶しています。

    たしかにPlan de Iile Dageletには竹嶼の記載はあるのですが、それ以降、1859年ころまで海図に乗っていないんです。
    もしご存知でしたら、何に書いてあったのかご教示お願い致します。

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  30. 翻訳1件アップ

    偶発的爆撃か
    米機関連有無未確認
    独島事件
    東亜日報 1948.6.16



    偶発的爆撃か
    米機関連有無未確認
    独島事件

    東亜日報 1948.6.16

    【東京15日発UP朝鮮】
      米国極東航空隊司令部では、東海中の朝鮮漁船爆撃事件に米国飛行機が関連あるかについて調査した結果について、次のとおり発表した。

      米国飛行隊が東海において実施した爆撃演習に関する写真と報告を調査した結果、いまだ米国飛行機が去る8日に11隻の朝鮮漁船沈没に関し責任があるということは確認できない。しかし、仮に米国機が関係あるということが判○したとしても、この爆撃は全く偶発的なものであると確信する。また、この地点は所定の爆撃演習場としてしばらく前から爆撃演習の目標として使用していたものだ。8日にこの区域を飛行した部隊は高空を飛行したので、○○の中で○○附近にある爆撃場範囲内外にある漁船を発見するには困難だった。さらに、米国極東航空隊では、この日、銃爆行動は取っていなかったことを確認した。




    2009.11.30

    ReplyDelete
  31. yabutarouさん

    そうでしたか。でもそれは残念ながら持っていないのです。どなたかお持ちの方、ご提供お願いします。

    Does anybody have the whole pages of 申景濬'『疆界誌』?

    ReplyDelete
  32. 申景濬で検索すると結果が以下の党利にあり、
    一応、復刻版でしょうか,1940年の旅菴全書がかかります。

    ReplyDelete
  33. GTOMRさん

    さすがですね!有難うございます。私も早速保存します。

    ReplyDelete
  34. Anonymous2/12/09 08:59

    GTOMRさん
    またまた、申景濬『疆界誌』テキスト、さすがです。
    Kaneganeseさんは保存したそうですが、わたしは早速、刷り出しました。

    かつて韓国文化院の図書館にあった景仁文化社1976年刊『旅菴全書』(2冊本)の、このテキストの影印版の一部をコピーしたことがありましたが、こうして全文テキストが容易に手に入るのは、便利な時代になったものです。
    『旅菴全書』1940とありますが、奥付を見ると昭和14年(1939)7月刊ですね。

    Yabutaro san said,
    それから申景濬の『疆界誌』の全文を入手することは可能ですか?『竹島〈独島〉・欝陵島歴史研究』の106pに「申景濬は『疆界誌』で『輿地志』を頻繁に引用している」とあります。『疆界誌』で『輿地志』からの引用として記述されている文章が『東国輿地志』に記載されているかどうかを確認することによって、『東国輿地志』が柳馨遠の書いた『輿地志』かどうかをかなり正確に判定できると私は考えます。

    Matsu says,
    その方法論は、全くもって正しいと思います。

    申景濬について、下條先生は人格的に誹謗した文章をあちこちに書いていますが、私はこの時代の学者としては、りっぱな人だと思います。

    なお、このテキストは、「日帝の検閲」を受けて、改竄されています。
    宋炳基の高麗大学蔵版の筆写本の引用と比べると、「倭」とあるべきところが、「其」あるいは「日本」となっています。

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  35. Anonymous2/12/09 09:23

    Yabutaroさん

    “鄭尚驥本人が描いた「東国地図」”
    なるものが、はたして伝わって存在するのか、疑問です。
    残っているのは、みな写本なのではないでしょうか。

    呉尚学の博士論文のテーマが、確か「鄭尚驥の「東国地図」」だったと思います。
    そのあたりの考証はやっていると思います。

    韓国の学者の論文を見ると、他の人の博士論文を引用しているケースが多いのですが、どうアプローチしたらゲットできるのか、よくわかりません。

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  36. GTOMR さん


    たしかにPlan de Iile Dageletには竹嶼の記載はあるのですが、それ以降、1859年ころまで海図に乗っていないんです。
    もしご存知でしたら、何に書いてあったのかご教示お願い致します。

    すいません。よく覚えていません。。


    申景濬で検索すると結果が以下の党利にあり、
    一応、復刻版でしょうか,1940年の旅菴全書がかかります。

    すばらしすぎです。大変ありがとうございます。無茶苦茶分量が多いので一ヶ月くらいかかってしまいそうですがチャレンジしてみたいと思います。
    日韓で見解が異なっている論点でこれだけはっきりと客観的に論証できるものは多くないのでかなり意義があるものと確信しています。まあ「学問に王道なし」ですね。

    matsu さん

    申景濬について、下條先生は人格的に誹謗した文章をあちこちに書いていますが、私はこの時代の学者としては、りっぱな人だと思います。


    まあ何と言うか、下條氏の論説は「灰汁(あく)」を抜いて、中立の第三者が納得できるような表現に変換してから活用するように、私は心がけています。。。


    “鄭尚驥本人が描いた「東国地図」”なるものが、はたして伝わって存在するのか、疑問です。残っているのは、みな写本なのではないでしょうか。


    私の紹介したサイトには紺色の「東国地図」の解説に「鄭尚括の製作した東国地図は大田島とパルドブンドがあるのに現存することは大部分パルドブンドで大田島は非常に珍しい.」とあったのですがどうなんでしょうね。
    この紺色の「東国地図」は韓国の国宝であったような記憶もあるのですがどなたかご存知ないでしょうか。

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  37. Gerry, do you know anything about 鄭尚驥's "東國地圖"? Is there any original "東國地圖" made by himself sill in Korea?

    Yabutarou wants to know if the map on this site (13th from the top, bluish one.) is original or copied one.

    Do you have any colse-up of Ulleungdo and Usando of "東國地圖" ? Prof. 宋炳基 recently published a book on Dokdo in Japanese (translated by Mr.Park, a.k.k. half-moon) and he wrote that 鄭尚驥 placed Usando not only to the east of Ulleungdo but also with proper distance and size(of Dokdo) in "東國地圖".

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  38. Kaneganese,

    That map is one of the maps that the National Library of Korea has not made availiable online (See HERE). And I do not have a closeup copy of it. However, you can see on the map you linked to that Usando is just off the northeast shore of Ulleungdo, which means that Mr. Park is being ridiculous if he is claiming that it is similar in distance and size to "Dokdo" (Liancourt Rocks).

    Korea has no old maps of "Dokdo" (Liancourt Rocks) because if she did have one, an image of it would be on Korean money by now.

    Someone needs to tell Mr. Park that "Dokdo" (Liancourt Rocks) is made up essentially of two rock islands, not one, and that it is ninety-two kilometers southeast of Ulleungdo, not just off Ulleungdo's northeast shore.

    I assume the map in the National Museum of Korea is an original, but I am not 100% sure.

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  39. Thanks, Gerry

    It was not Mr. Park, but Prof. 宋 who said Usando in 鄭尚驥's "東國地圖" was placed in the right distance and size with Dokdo, and he also said that "海左全圖" and 金大建's "朝鮮全圖" followed it and "Ulleungdo and Dokdo were depicted in the original position with proper size."

    But he also said that Bak Chang-seok's (朴昌錫) Map of Ulleungdo (鬱陵島圖形) labeled Jukdo as "so-called Usando" and there are some maps which labeled the island as "so-called Usando" as well. But in 1882, Lee Gyu-won (李奎遠) labelled the isalnd as ”竹島”, so those lines of maps which labelled "so-called Usando" disappeared.

    To me, 鄭尚驥's maps properly placed Jukdo=Usando to the original position and shape compared to official maps of Ulleungdo.

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  40. The map no.13 on the website which yabutarou sugests, it is not listed on Lee Santae's old map book, or the National Library of Korea book?

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  41. 1727年(英祖3年)、三陟営将李萬協が倭学、崔萬廸ほか98 名を率いて4月11日に出発し5月2日に竹邉津に回着したという記録」は、「雍正五年丁未捜討記」との事ですが、やはり出てきません…

    Gerry can you find the record of 雍正五年丁未捜討記 on some website? It is the report of Ulluengdo inspection done by Samchok officer.

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