竹島問題の歴史

25.9.07

安龍福の言う倭の松島=子山島(于山島)はやはり竹嶼だった

1696 元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書 --島根県海士町の旧家・村上家2005年 5月、300年余り眠っていたある古文書が、同家の48代当主、助九郎さん(66)により公表された。「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」と表書きされ、16枚からなる古文書は、江戸中期の1696年、鳥取藩への渡航途中、隠岐に立ち寄った朝鮮人・安龍福を取り調べた調書だった--。 (山陰中央新報より抜粋 写真も)

一昨年新たにその存在が判明したこの文書で、安が「朝鮮八道之図を示して“松島”が江原道への道中にある」と述べたことが記録されました。韓国側はその“松島”とは日本人(倭)の言う“松島”であると以降の記録に載せてきました。そして現在の竹島と自動的に読み変え、安が“松島”を訪れて、日本人に竹島を朝鮮の領土であると認めさせた、と主張します。はたしてそうでしょうか? 
実はこの文書と、朝鮮側の有名な安の証言記録である「肅宗実録 22年9月 25日 戊寅 条」の記録は、1696年5月に起こった同じ出来事(安龍福二度目の日本渡海)をそれぞれの国で記録したものです。その両記録をつき合わせることで、新たに重要な事実が判明しました。

「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」では、

"5月15日、竹島を出港、同じ日に松島へ着く。" 原文 読み下し文

「肅宗実録 22年9月 25日 戊寅 条」では、
"遂以翌曉, 拕舟入子山島"  原文
(訳)
"ついに翌朝の暁、船を曳いて子山島に入る"  
とあります。つまり、最初の文書のみでは、安は15日に竹島(鬱陵島)から松島へ移動した、と証言しています。ただし、何時に出発したか、何時に着いたのかは勿論、何時間かかったのかも分かりません。唯一明らかなのは、その日(5月15日)のうちに移動した、と言うことだけです。しかし、次の文書で安は、"翌朝の暁"に船を曳いて子山島に入った、と証言しているのです。

つまり、二つの文書を合わせて安の行動を精査すると、彼は子山島(松島)に15日の朝の暁、つまり暗いうちもしくは夜明から日の出までの何と数時間、もしくは小一時間の間に、竹島(鬱陵島)から子山島(松島)に移動したことになるのです。鬱陵島からたった数時間以内で行ける距離の島、つまり、安龍福のいう所の所謂倭の松島=子山島(于山島)は鬱陵島の東沖約2kmに浮かぶ竹嶼でしか有り得ないことになります。

これらの文書での安の証言はそもそも朝鮮と鬱陵島の間の距離(130-140km)を30里(1里=4kmとすると約120km)、竹島と松島の間は50里(1里=4kmとすると約200km、つまりほぼ隠岐の位置)と言うなど、不整合な部分が多く、特に後者は無断で外国へ渡航した重罪人としての取調べを受けて入る人間としての証言である為、誇張した表現や日本側の記録には存在しない事などが数多く、本来であれば、その証言自体が偽証とでも言うべき代物です(pacifist氏の投稿を参照)。

しかし、安が鬱陵島から隠岐へ渡海して来た事だけはまがうこと無き事実ではあります。それに、出発の日付けや到着の日付など、日にちに関しては、安の証言はほぼ一貫していると言えるでしょう。この日付に関する情報を付き合わせる事で、安の言う松島、後の所謂倭の松島=于山島がやはり鬱陵島の東沖約2kmに浮かぶ竹嶼であることが証明できるわけです。
この事は、安の渡航以降朝鮮の古地図にそれまで鬱陵島の西側にほぼ同じ大きさで描かれることの多かった于山島が竹嶼のある位置にほぼ正確に描かれ始める事や、朝鮮の人々が竹嶼や竹嶼を含み鬱陵島全体を松島と呼んでいた形跡がある事などからも、確実です。以下にその記録を挙げます。

1793「日省録」

臣按本曹謄錄蔚陵外島其名島卽古于山國也
(訳)
官僚が言うには、礼曹(朝鮮の外交を司る部局)の記録にある松島は、鬱陵島とその周りの島々の別名で、昔の于山国である。
Gerryの解説(英文)日本語訳

1882「高宗実録 19年4月7日条」
敎曰 或稱芋山島 或稱松竹島 皆輿地勝覽所載也 而又稱松島竹島與芋山島爲三島統稱鬱陵島矣
(訳)
王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。」

Lies, Half-truths, & Dokdo Video, Part 8
安龍福の言う"倭の松島"が一体のどの島を指すのか、彼自身のその虚言癖や距離感覚のいい加減さのために、位置や距離、大きさが完全に一致する、特定できる島は何一つ無いのです。しかし、安による渡航の日程を日朝両サイドの文書から確認する事によって、安が言う于山島=松島派、竹嶼以外にはないという事実が判明しました。安龍福は、自身の手柄を誇張する為に、この竹嶼(于山島)と、それ以前に得た知識(北方一日の距離にある于山島=竹嶼?や最初に日本に来た時に見かけた、鬱陵島から50里の距離にある鬱陵島より頗る大きな島=隠岐?)を混同して于山島について様々な,偽証をしたと思われます。死刑を免れようと、人が住む事のできる大きな島を自国領だと日本に認めさせた、と大法螺を吹いて、それを繕う為にそしてちぐはぐな証言を繰り返したのでしょう。

安の言う江原道の松島、後の朝鮮の文書に出てくる所謂"倭の松島"は、鬱陵島の付属島である竹嶼以外にはありえません。

2 comments:

  1. Weldone, Kaneganese!

    We need logical thinking to know the truth in the past. And Kaneganese, you proved that Matsushima that Ahn Yong-bok thought was not Liancourt rocks in the completely logical way.
    Thanks.

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  2. Thank you, pacifist.

    I've already finished English version, and I will post it later.

    As I mentioned earlier, opp already found about this...

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