竹島問題の歴史

25.9.07

1864年の日本の地図に現れる竹島と松島は瓜ふたつ

(Gerry の投稿の翻訳です。原文はここ:1864 Japanese Map shows 2 similar islands

下の図は、「増訂大日本輿地全図」(1864)の拡大図です。二つのそっくりな島が描かれています。形が似ているだけではなく、北東に小さな付属島が描かれている事まで同じですね?

この地図は、1800年代の日本において、竹島と松島の位置が混乱していた事のよい実例であると思われます。日本人は、長い間(江戸時代を通じて)鬱陵島を"竹島"と呼び、現在の竹島/Liancourt Rocksを"松島"と呼んできました。しかし、1800年代のいつの頃か、松島と言う名称が鬱陵島を示す言葉としても使われるようになりました。例えば、1882年には、日本人によって1869年に建立された碑が鬱陵島で発見されており、それによるとこの島は日本の"松島"である、としています。

この名称の混乱の原因は、様々な原因によるのですが、西欧の不正確な地図と幕府の鬱陵島渡海禁止令が、その主な原因と考えられます。しかし、韓国人の中に、鬱陵島を松島と呼んでいた人がいたことも、理由に挙げられるでしょう。1793年の朝鮮王朝の正式な記録「日省録」はこう記録しました。

臣按本曹謄錄蔚陵外島其名松島卽古于山國也

(訳)

官僚が言うには、礼曹(朝鮮の外交を司る部局)の記録にある松島は、鬱陵島とその周りの島々の別名で、昔の于山国である。

日本の地図の作成者は、竹島が松島より遠くにある事を知っていたようです。しかし、二つの島が同じ形で描かれていることは、この時期になってもまだ名称の混乱があった事を示唆していると言えるでしょう。

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