竹島問題の歴史

26.7.14

1905-May. 14 - San-in Shimbun "Sea-lion Hunting on Takeshima"

Althogh pro-Korean claim that Japanese secretly incorporated Takeshima into Shimane knowingly that it is Korean, so many hard evidences at the time prove that this is not the case, as has alredy been showed on this site as well. The article I introduced here is one of them.

The report about Sea-lion hunging on Takeshima dates back to two weeks before the famous Battle of Tsushima  which almost ended around Takeshima on 28th May 1905. This is one of the good evidence not only that incorporation was not "secret" at all, but also people of Shimane has already know the fact of incorporation very well.

 "●Sea-lion Hunting on Takeshima
 As you readers have already know, Takeshima is a solitary island far off in the sea which locates 85 sea-ris north-west of Oki country and one of the island is around 20-chou(町), the other is merely aounrd 12-chou. Mr. Nakai Yonesaburo first voyaged tothe year before last and found the colony of Sea-lion. He found it is a pity that the island is omitted from the sea-chart, and petitioned to the  national government. Through the good offices of Mr. Nakai, the islands were determined as the territory of the empire and incorporated into our Shimane prefecture by the Prefectural Order on 22 Feb. Ths islands are, as were described above, a meeting place of sea-lions for three months from May to July. Now apart from Nr. Nakai, three more rivals has emerged. Then they publised the licence only to those four and is going to let the four to hunt cooperatively.  Furthermore, from what I hear, the period of time above are the period of their deivery, so the female are on the land for nurcing the baby, and male also land for the love of female. This is convenient for hunting. 7-8 thousand of sea-lion are on the same zone, tops, but excessive hunting would damage their reproduction. So the number of hunting is limited to 6-7 hundred per year so that they would make a profit for 5-10 years."
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山陰新聞 明治卅八年五月十四日
●竹島の海獺獵(あじかれう)

讀者も知れる如く、竹島は隱岐國の西北八十五海里にある絕海の孤島 にして、一は周回二十町、他の一は同上十一二町に過ぎず。這(こ)は、西鄕の中井米三郎氏が一昨年始めて渡航し、海獺の集合地なることを發見せしも、海圖 に洩れたるを遺憾とし、中央政府に稟申(りんしん)する等、大に斡旋の勞を執りし結果、帝國の領土とすることに決定し、去る二月廿二日の縣告示を以て、本 縣の管轄に歸せしものなるが、同島は實に前記の如く海獺の集合地にして、其期は五月より七月まで三ヶ月間なるが、今は同氏の外に三人の競爭者を生じたるを 以て、其向(そのむき)にては右四人の外には可か(きよか)を與へず、四人も亦共同して獵せしめん方針なりといへり。尙ほ聞く所に據れば右の期間は、海獺 が分娩するときにして、牝は哺乳の爲め陸地に上り、牡は牝を戀ひて上陸するものにして、銃殺に好便を與ふる次第なるが、多く上陸しるときには一區域にても 尙ほ七八千頭を下らす。然れども濫獲は生殖を害するを以て、一年凡そ六七百頭を限りなば、尙ほ五年や十年の利益を保持し得べしとのこと。


※ 「稟申」は、原文では「票申」と誤植されている


The article says the man's name was Yonesaburo, but it is Yozaburo or Yosaburo, in fact. San-in Shimbun(山陰新聞) is a local newspaper in Matsue, and now it called San-in Chuo Shinpo(山陰中央新報).

The article was founded and provided by Mr. Magic Eye, who is a good researcher and a collector of those historical stuff. Thank you for sharing a good information with us !

61 comments:

  1. Please let me know if there's any mistake, thanks!

    matsuさん、遅くなって済みませんでした。追って次の記事を翻訳します。

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  2. Thank you, Kaneganese

    This article is another evidence that the incorporation was not done secretly.

    ありがとうございました。
    As you readers have already know, 「読者も知れる如く」が大事ですね。

    Magic eye さんの資料発掘に期待します。

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  3. チョン・ヨンミ(정영미)東北アジア歴史財団独島研究所 独島体験館長

    この女性館長は、「反論」を9本書いていますが
    46,47,48、58、59、60、64、65、76

    最近翻訳した
    ソン・フィヨン『竹島問題100問100答』の「竹島渡海禁止令」と「太政官指令」批判 日本の「固有領土論」は成立するのか? 『独島研究』第16号
    のなかに

    17)チョン・ヨンミ訳、『竹島考証』下、正しい歴史確立企画団、2006,

    とありましたので、
    『竹島考証』の翻訳が出来るくらい、日本語が出来る人のようです。
    日本にもいたことがあるのでしょうか?


    参考(写真)
    http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2014/04/23/201404230500034/201404230500034_1.html
    翻訳は
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2014/06/100100.html
    22/6/14 13:48

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  4. きょうは皆様のご意見を聞きたくて書きます。
    『朝鮮水路誌』(1894、1899)にあらわれる、朝鮮国の範囲(東限)=東経130度35分と、海図『朝鮮全岸』(1896年(明治29年))の鬱陵島の位置についてです。
    すなわち、海軍水路部長の肝付兼行は、鬱陵島(松島)を、「朝鮮国」「大韓帝国」の範囲外と見ていたのかどうか、ということです。(まさか?)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『朝鮮水路誌』 明治27年(1894)版
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847159
    27コマ /192
    朝鮮国ハ亜細亜ノ東部ニアリ 其地勢タル狭長ナル一大半島ヲ成シ 数多ノ島嶼 之ヲ圍繞ス 其位置ハ北緯三三度一五分ヨリ同四二度二五分 東経一二四度三〇分ヨリ同一三〇度三五分ニ至ル

    『朝鮮水路誌』 明治32年(1899年)版
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085075
    26 /202
    朝鮮国ハ亜細亜ノ東部ニアリ 明治三十年自カラ国号ヲ改メテ大韓ト称シ王称を改メテ帝ト称ス 其地勢タル狭長ナル一大半島ヲ成シ 数多ノ島嶼 之ヲ圍繞ス 其位置ハ北緯三三度一五分ヨリ同四二度二五分 東経一二四度三〇分ヨリ同一三〇度三五分ニ至ル
    この間に大韓帝国と改称した、という新しい出来事を入れています。そしてその範囲の緯度経度は同じです。認識はずっと変わらなかった、ということだと思います。


    ところが、年代的にこの間に入る、1896年(明治29年)の海図
    『朝鮮全岸』
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/koreacoast-1896/
    の鬱陵島の位置を見ると、東経130度35分よりはるかに東にあります。

    肝付兼行は、鬱陵島も「朝鮮国」の範囲外とみていた、ということになるのでしょうか?
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    保坂祐二センセイが、反論71でこのような趣旨をのべており、海図『朝鮮全岸』を見ると確かに東経130度35分より東にあります。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56342860.html
    下から2パラ
    「朝鮮水路誌」の朝鮮国の範囲には独島だけでなく鬱陵島まで除外されている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    水路部の人間にとって、緯度・経度は「いのち」だと思います。やはり肝付兼行は、鬱陵島は朝鮮国・大韓帝国に属さない、と考えていたのでしょうか?
    ちょっと考えにくいですけどね。
    なぜこうなっているのか、不思議です。

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  5. Anonymous31/7/14 19:31

    東経130度35分というのは朝鮮半島北部の境を取って言ったのではないでしょうかね。鬱陵島を朝鮮の範囲外と見ていたということはないでしょうから。

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  6. Chaamiey様

    >東経130度35分というのは朝鮮半島北部の境を取って言ったのではないでしょうかね。鬱陵島を朝鮮の範囲外と見ていたということはないでしょうから。


    朝鮮国の東限が、果たして豆満江の河口であるのか、あるいは鬱陵島であるのか、というのはずっと迷いの対象ではあったと思います。

    豆満江の河口についても、正確な緯度・経度は、なかなかわからなかったのだと思います。

    ただし、鬱陵島については、同じ「朝鮮水路誌」(1894=明治27)の中に、以下の記述があります。(これも有名なくだりですね)

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847159

    158/192 256p(5行目の下のほう)
    欝陵島一名松島 
    其中心 北緯37度30分 東経130度53分

    そこにある山の事が書かれています。これは聖人峯のことだと思います。
    これをもって鬱陵島の緯度・経度を代表しているように思います。

    鬱陵島の緯度・経度については、水路部は良く知っていた。海軍自らも測定しているわけで、肝付兼行としては、自信を持っていたと思います。

    これは1899=明治32年版も同じ数字です。
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085075

    鬱陵島一名松島
    160 /202  264p 2行目下のほう
    其中心 北緯37度30分 東経130度53分

    その数字を知った上で、「總記」の「形勢」で朝鮮国の東限を130度35分としている。これは、同じ本の中のことですから、鬱陵島を朝鮮国の範囲外、と認識していたと考える方が、むしろ文献の素直な読み方だと思うのです。

    Chaamieyさんがいつも言うように、その時代の人が現代の私たちと同じ常識を持っていた、とは考えない方が正しいと思うからです。

    とはいうものの、伝統的な朝鮮でつくられた色々な地図には、基本的に、鬱陵島は、全図にも、江原道の地図にも、あるいは単独でも、載っていますから、肝付がそれを無視したとも考えにくい。

    今の、私の苦しまぎれの結論は、「35分」と「53分」の「誤植」説ですが、これも、天下の海軍の、ばりばりの政府公式文献である水路誌に、そんな誤植なんて、あり得ないよなあ、とは思います。(しかも、明治29年と、明治32年の2回も!)

    ということで、肝付兼行は、(そして日本政府は)、明治29年と明治32年には、鬱陵島を、朝鮮国(そして大韓帝国)の範囲外と考えていた、という文献解釈の一席でした。

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  7. 朝鮮国の東限130度35分について

    『朝鮮水路誌』のまえに『寰瀛水路誌』があり、ここでも東限は130度35分となっています。むしろ、この認識を『朝鮮水路誌』が受け継いでいる、と言った方が良いでしょう。

    『寰瀛水路誌』(第二版)(明治19=1886)
    国会図書館
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084068
    17コマ /445
    第一編 総記 朝鮮國一般情勢

    海軍属 嘉納謙作 譯纂

    朝鮮國ハ亜細亜ノ東部ニ在リ 其地勢タル狭長ナル一大半島ヲ成シ 群島嶼 之ヲ圍繞ス 其位置ハ北緯三十三度十五分ヨリ同四十二度二十五分 東経一百二十四度三十分ヨリ同一百三十度三十五分ニ至ル

    注目すべきは、「譯纂」となっていて、翻訳・編纂したものであることを示しています。

    「嘉納謙作」なる人が何者で、「譯纂」にあたって何を参照したのかはわかりませんが、その本に、朝鮮国の東限は「東経一百三十度三十五分」という記述があったものと思われます。

    これが、そのまま、後の『朝鮮水路誌』(1894=明治27、第二版1899=明治32)にも引き継がれたのだと思います。

    『寰瀛水路誌』には、初版(明治16年版1883)と第二版があるようですが、
    第二版 第二巻 露韓沿岸(明治19年 1886)は、良く見かけるのですが、
    国会図書館
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084068
    朴炳渉
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/kan-suiro1886.pdf

    初版の明治16年版1883は、ネットにデータがみつかりません。
    国会図書館も、デジタル化していないようです。
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=397153&set_entry=000002&format=999

    ここに、どんな記述があるのか、はたして同様の記述があるのか、確認の必要があります。

    さらに注目すべきは、『寰瀛水路誌』から『朝鮮水路誌』に認識が引き継がれていくにあたって、もともと翻訳から仕入れた知識であった「東限130度35分」は、当然改訂されてもいいはずなのですが、ずっと同じ数字だった、ということです。

    よって、“海軍水路部=日本政府は、明治19年(1886)(あるいは初版の明治16年=1883年)から、明治27年(1894)を経て、明治32年(1899)に至るまで、ずっと、鬱陵島は朝鮮国の範囲外と考えていた。”

    保坂祐二さんの議論に似てきたようで、なんだか恥ずかしいのですが、「文献の厳密な解釈」です。(笑)

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  8. Anonymous6/8/14 10:19

    朝鮮半島を緯度経度で表示するとなると、東の端はどう表現するのが良いか、ちょっと悩むところでしょうね。鬱陵島の経度を取れば、半島の根元の境がその経度なのかと誤解されるおそれがあるし、半島の根元の境を取れば、鬱陵島は朝鮮の範囲外なのかと誤解されるおそれがあるし、経度で完全に言い表すことはできないでしょう。だから、半島の根元の境を取るほうがより誤解の影響が少ない、と考えたのかも知れません。鬱陵島は済州島と比べれば小さい島ですからね。

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  9. 『寰瀛水路誌』の初版、見てきました。

    1883年(明治16)4月『寰瀛水路誌』 第2巻 露韓沿岸(海軍水路局)
    国会図書館
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=279009&set_entry=000002&format=999
    マイクロフィッシュの状態ですが、誰でも見られます。

    第二版(明治19年12月刊)と「ほぼ同じ」と聞いていましたが、その通りでした。
    第一編 総記に朝鮮国一般情勢があり、以下の記述があります

    朝鮮國ハ亜細亜ノ東部ニ在リ 其地勢タル狭長ナル一大半島ヲ成シ 群島嶼 之ヲ圍繞ス 其位置ハ北緯三十三度十五分ヨリ同四十二度二十五分 東経一百二十四度三十分ヨリ同一百三十度三十五分ニ至ル

    すなわち東限の認識は130度35分です。

    (同じ文章は、上記『寰瀛水路誌』(第二版)(明治19=1886)国会図書館
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084068 17コマ /445で読めます。全く同じ文章です。)


    第5編 「朝鮮東岸」に「朝鮮東岸及諸島」があり、「日本海」の記述のあとに「「リヤンコールト」列岩」があります。
    「リヤンコールト」列岩
    「リヤンコールト」列岩ハ一千八百四十九年 佛國船「リヤンコールト」號 初テ之ヲ發見シ船名ヲ取テ「リヤンコールト」列岩ト名付ケリ 其後一千八百五十四年 露國「フリゲート」鑑「パルラス」號 此列岩ヲ「メナライ」及ヒ「ヲリヴツァ」列岩ト稱シ 一千八百五十五年 英鑑「ホル子ット」號 此列岩ヲ探検シテ「ホル子ット」列島ト名付ケリ 該艦ノ艦長「フォリシス」曰ク 該列岩ハ北緯三十七度十四分 東經一百三十一度五十五分ノ處ニ位セル濯々無産ノ二岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ充積シ嶼色爲メニ白シ 北西微西ヨリ南東微東ニ至ルノ長サ共計一里 而シテ二嶼相距ル四分里ノ一疑ラクハ一礁脈アリテ之ヲ相連ルナラン 西嶼ハ海面上高サ四百十尺ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ 此列島付近 水頗ル深キカ如シト雖モ其位置恰モ函館ニ向テ日本海ヲ航上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス

    この記述は、もしかしたら、竹島について明治政府が記録した、初めての文章ではないかと思います。ぜひともデジタルで公開してほしいものです。

    第二版と違っていたのは、第二版が「海軍属 嘉納謙作 譯纂」とあったのに対し、
    初版は「上野清 内田成道 嘉納謙作 同輯」とあることです。
    すなわち3人の合作、ということでしょう。
    第二版の編集には、このうちの「嘉納謙作」が残って行ったということだと思います。

    上記「朝鮮国の位置」の部分を訳したのが、3人のうち誰かはわかりませんが、序文に

    第一編 韓露沿海一般情勢ハ 本局(海軍水路局のこと)及ヒ英海軍省海図 本局水路雑誌 其他中外ノ地誌諸記録ニ據リ

    とあります。(第二版5コマ /445にほぼ同じ記述)

    すなわち、東経130度35分は「中外ノ地誌諸記録」の何かに載っていたのでしょう。
    前にコメントしましたが、これがこのまま、明治32年(1899)まで行くことになります。

    序には、「明治十六年三月 水路局長 海軍少将 柳楢悦」とあり、全体の指揮・構成は柳楢悦、ということになります。

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  10. 『寰瀛水路誌』の構成
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=279009&set_entry=000002&format=999

    海軍水路局, 明14-26. 欠巻あり
    第1巻 上 大日本沿海南東部 下 大日本沿海北西部(追補,追補第17とも)
    第2巻 露韓沿岸-自鴨緑江至堪察加(上野清等編)
    第3巻 支那東岸-自広東地方至福州地方(黒野元生訳)
    第4巻 支那東岸-自[ビン]江至楊子江包有台湾近海(黒野元生訳)
    第5巻 支那東岸-自楊子江口至鴨緑江口(黒野元生訳)
    第6巻 支那海-自波羅西岸至巴拉湾島西岸(内田成道訳)
    第7巻 支那海-自波羅湾島東岸暹羅海湾至上川島(黒野元生等訳)
    第8巻 上 支那海 自麻刺甲海峡 至巽他海峡(内田成道訳)
    第10巻 温徳斯坦西岸-自錫蘭島至東買湾(金木十一郎訳)
    第11巻 温徳斯坦西岸-加査華半島以北並近傍叢島(金木十一郎訳)
    第16巻 新西蘭ノ部(東方覚之訳)
    第18巻 南太平洋諸島(内田成道訳編)

    『寰瀛水路誌』は100巻の計画をたてながら、途中で計画を縮小し、『日本水路誌』『朝鮮水路誌』のように地域別の水路誌の発行に変更したもののようです。

    田中邦貴サイト 寰瀛水路誌 「第一巻下 大日本沿海北西部」
    日本の海軍省は1883年『寰瀛水路誌(かんえいすいろし)』を発刊した。同水路誌は1889年に編纂を中断し、国家別に分けて日本水路誌、朝鮮水路誌、台湾水路誌などと、水路誌を編纂しはじめた。下記は1886年3月に刊行された『寰瀛水路誌』の「大日本沿海北西部 第一巻下」である。隠岐の記述に竹島は記載されていない。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/kaneisuiroshi-1886/

    1886年は明治19年です。すなわち第二巻「露韓沿岸」よりも第一巻の「大日本沿海」の発刊のほうが遅い。
    田中サイトには「第一巻上」にある柳楢悦の序文がありませんが、今回確認したその序文によれば、まず第三巻の「支那海ノ部」からはじめて、第二巻の「露韓沿岸」を出し、日本の水路誌は3番目の刊行だったようです。

    竹島が日本の部ではなく「露韓沿岸」に入っていることが、韓国側の、日本は竹島を韓国領と見ていた、という主張の根拠になっているようです。
    まあ、無主地先占論からすれば、問題はないわけですが。

    このあと竹島は『寰瀛水路誌』第二版でも引き続き「露韓沿岸」に入り、続いて『朝鮮水路誌』にはいり、1907年から『日本水路誌』に入ります。
    これが「領土認識」と結びついているのか否か、がこの問題の争点です。


    参考 第二版(明治19年)起こし(上記237~238コマ)こちらは「第4編」にある。内容は若干違うが、ほぼ同じ)「フォリシス」が「フォルシス」に訂正されている。

    「リヤンコールト」列岩
    此列岩ハ一千八百四十九年 佛國船「リヤンコールト」號 初テ之ヲ發見シ船名ヲ取テ「リヤンコールト」列岩ト名付ケリ 其後一千八百五十四年 露國「フリゲート」形鑑「パルラス」號 此列岩ヲ「メナライ」及ヒ「ヲリヴツァ」列島ト稱シ 一千八百五十五年 英鑑「ホル子ット」號 此列岩ヲ探検シテ「ホル子ット」列島ト名付ケリ 該艦ノ艦長「フォルシス」曰ク 該列岩ハ北緯三十七度十四分 東經一百三十一度五十五分ノ處ニ位セル濯々無産ノ二岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ充積シ嶼色爲メニ白シ 北西微西ヨリ南東微東ニ至ルノ長サ共計一里 而シテ二嶼相距ル四分里一ナルモ疑ラクハ一礁脈アリテ之ヲ相連ルナラン 西嶼ハ海面上高サ四百十尺ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ 此列岩付近 水頗ル深キカ如シト雖モ其位置恰モ函館ニ向テ日本海ヲ航上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス

    ここで注目されることは、竹島の緯度・経度をホーネット号艦長フォーサイス(「フォルシス」)の数値を借りていることです。自前の測定値を持っていない。

    1904年に、対馬艦が実際に行って、写真を撮り、地図を作るまで、「リヤンコールト」列岩についての知識は翻訳によっていたのではないかと思います。

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  11. Anonymous13/8/14 21:37

    >これが「領土認識」と結びついているのか否か、がこの問題の争点です。


     結びついていたんでしょうね。1905年に竹島を公式に日本領土とするまでは朝鮮側の水路誌に書いておいたのは自然なことだったでしょうが、公式に領土編入した以上、1907年時点では当然に「日本水路誌」に書くべきと考えられたと思います。

     しかしながら、水路誌における竹島の情報というのは要するに「其位置恰モ函館ニ向テ日本海ヲ航上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス」というものですが、竹島は日本本土からも朝鮮半島からも遠い真ん中にあるので日本側にだけ書いておけば良いというわけにも行かないので、朝鮮側の水路誌にも重複記載が続けられたのでしょう。

     水路誌の目的である航行の安全に役立つような書き方をするのが基本ですが、領土の変更があったならそれも当然反映されたものと思います。

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  12. ソン・フィヨン「近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識」
    『大邱史学』106号 大邱史学会 2012、141~170ページ.
    http://www.daeguhistory.org/original/106/8.%EC%86%A1%ED%9C%98%EC%98%81.pdf
    송휘영 근대 일본의 수로지에 나타난 울릉도․독도 인식
    を翻訳中です。まもなくあがります。

    この論文に水路誌の沿革と、鬱陵島と竹島のあつかいをまとめてあります。

    表 2 朝鮮沿岸関連水路誌の発行沿革 
    年月 水路誌 発行 沿革 備考

    1883年7月『水路雑誌』 第16号刊行 1879年編集
    1883年7月『水路雑誌』 第41号刊行 1880年編集

    1883年4月『寰瀛水路誌』 第2巻刊行  最初の水路誌
    1886年12月『寰瀛水路誌』第2巻 第2版刊行 1889年廃刊

    1894年11月『寰瀛水路誌』第2巻の中から、第1編~第4編すなわち朝鮮全岸に関する記事を分離改版して『朝鮮水路誌』として刊行  朝鮮水路誌分離
    1899年2月『朝鮮水路誌』 第1改版 刊行
    1907年3月『朝鮮水路誌』 第2改版 刊行

    1911年12月『朝鮮水路誌』を改版して『日本水路誌』 第6巻と改称して刊行する。
    朝鮮沿岸、日本水路誌に統合

    1917年3月『日本水路誌』第6巻を『日本水路誌』第10巻と改称する

    1920年4月『日本水路誌』第10巻中、第1編~第3編、すなわち朝鮮に関する総記、朝鮮東岸および南岸の記事を改版し『日本水路誌』 第10巻上として改称刊行する。

    1920年7月『日本水路誌』第10巻中、第4編および第5編、すなわち朝鮮西岸に関する記事を改版して『日本水路誌』第10巻下と改称刊行する。

    1930年12月『日本水路誌』第10巻上を『朝鮮沿岸水路誌』第1巻と改称し、「日本水路誌」第10巻下を『朝鮮沿岸水路誌』第2巻と改称する。 朝鮮沿岸、日本水路誌から分離

    1933年1月『朝鮮沿岸水路誌』第1巻改版刊行
    1934年8月『朝鮮沿岸水路誌』第2巻改版刊行

    1952年8月『朝鮮南東岸水路誌』刊行 独島 (=竹島)削除




    表3 水路誌に見る鬱陵島・独島記述
    水路誌名  著者 鬱陵島・独島の取り扱い 発行年月 発行機関

    水路雑誌 第16号 山澄直清 松嶋 1883.7. 海軍水路局
    水路雑誌 第41号 山澄直清 欝陵島(一名松嶋) 1883.7. 海軍水路局

    寰瀛水路誌 第2巻 海軍水路部 リアンコルト列岩、欝陵島 1883.4. 海軍水路部
    寰瀛水路誌 第2巻 第2版 海軍水路部 リアンコルト列岩、欝陵島 1886.12.海軍水路部

    朝鮮水路誌(全) 水路部 リアンコルト列岩、欝陵島 1894.11.水路部
    朝鮮水路誌 第2版 水路部 リアンコルト列岩、欝陵島 1899.2.水路部
    朝鮮水路誌 第2改版 水路部 竹島、欝陵島 1907.3.水路部

    朝鮮沿岸水路誌 第1巻 水路部 欝陵島、竹島 1933.1.水路部
    朝鮮南東岸水路誌 海上保安庁 欝陵島 1952.8.海上保安庁

    日本水路誌 第4巻(1897)水路部 鬱陵島独島記述なし 1897.3.水路部
    日本水路誌 第4巻 第1改版 水路部 竹島[Liancourt rocks] 1907.6.水路部
    日本水路誌 第6巻 水路部 欝陵島、竹島 1911.12.水路部
    日本水路誌 第4巻(1916) 水路部 竹島[Liancourt rocks]  1916.12.水路部
    日本水路誌 第10巻上 水路部 欝陵島、竹島 1920.4.水路部

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  13. 最初のふたつの1883年の『水路雑誌』は、鬱陵島(松島)についての報告で、竹島は出てきません。天城艦の報告によるようです。

    1883年(明治16年)4月『寰瀛水路誌』第二巻「露韓沿岸」に、竹島は初めて「リヤンコールト列岩」として登場します。これが日本政府としての、現竹島についての初めての公式な言及ではないかと思います。

    そして、「リアンコールト列岩」は
    1886年(明治19年)12月『寰瀛水路誌』第二巻第二版でも「露韓沿岸」に入り、続いて
    1894年(明治27年)11月『朝鮮水路誌』に入り、
    1899年(明治32年)2月『朝鮮水路誌』第1改版にも入り、
    そしてさらには(1905年を超えた)
    1907年(明治40年)3月『朝鮮水路誌』第2改版にも入っています。但しここでは「リアンコールト列岩」ではなく「竹島」になっている。

    一方この表にはありませんが、
    1886年(明治19年)3月の『寰瀛水路誌』第一巻下「大日本沿海北西部」には竹島は登場せず、
    その後『日本水路誌』のタイトルとなった1897年(明治30年)3月『日本水路誌』第四巻にも竹島は出てこない。

    そして、1905年以降の
    1907年(明治40年)6月『日本水路誌』第四巻 第1改版 になって、竹島[Liancourt rocks]が日本側に登場する。

    すなわち、1907年(明治40年)3月『朝鮮水路誌』第2改版には「朝鮮」側にあったものが、
    3か月後の1907年(明治40年)6月『日本水路誌』第四巻 第1改版から日本側になります。

    この論文でのソン・フィヨンの論点は、これをもって、日本海軍は独島をずっと朝鮮領土と見ていた、とするものですが、1905年を超えた
    1907年(明治40年)3月『朝鮮水路誌』第2改版にも、「竹島」になっても、「朝鮮」側にあることは、どこに分類するか、について、厳密であったとは言えないことも示します。
    ただし、1907年(明治40年)6月『日本水路誌』第四巻 第1改版から日本側に「移して」いることは、やはり「領土認識」と全く関わりがない、とも言えないようです。


    しかし、1911年(明治44年)12月『朝鮮水路誌』を改版して『日本水路誌』第6巻と改称して刊行するとき、内容は朝鮮であるのに、竹島をまたこちらに「戻して」しまっているのも興味深いです。

    一方で、日本側にも
    1916年(大正5年)12月版の『日本水路誌』第四巻にも隠岐とならんで竹島[Liancourt rocks] が出てきます。

    しかし、朝鮮を内容とする1920年(大正9)4月の『日本水路誌』第十巻上にも、鬱陵島と竹島が入り続けている。
    以後1933年(昭和8年)1月に『朝鮮沿岸水路誌』と名前を変えても第1巻に、欝陵島と竹島が入っている。このままずっと終戦まで、竹島は「朝鮮」側にも出てきます。

    日本側に「移した」ことは、政治的にそうであらねばならない、という意識が確かにあるのでしょうが、朝鮮側にも「戻して」、「残して」しまっていることは、
    鬱陵島と竹島の二つの島の「関係が深い」ということは、たしかにいま韓国側が言うように否定は出来ないと思いますが、ただ、朝鮮側にあってもいいんだ、ということは、つまりは国境意識は厳密に働いてはいない、とも言えそうです。

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  14. 明治25年(1892)『日本水路誌』第一巻の付属地図「日本海岸区域図」

    水路誌を調べていたら、面白い(やばい?)地図を見つけました。

    国会図書館
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084053


    172、174コマ /178

    鬱陵島と見られる島は「松島」とあり、その南東に「リヤンコールド岩」があります。
    「竹島」=アルゴノートは消えて、現在から見て「正しい」と言える認識となっています。

    デジタル公開してしまうとふつう本物は閲覧できなくなるのですが、「地図室」で本の形の現物を見ることが出来ました。
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=796586&set_entry=000002&format=999
    デジタル化資料では白黒でしか見えませんが、この地図には日本沿岸に着色があり、「松島」と「リヤンコールド岩」には着色されていません。明治16年初版・明治19年第二版と『寰瀛水路誌』で「露韓沿岸」に入っており、「日本沿岸」には少なくとも属さない、という認識がうかがえます。

    太政官指令と関連付ける議論が、きっと韓国側から出てくることと思います。

    序を書いている水路部長は、海軍大佐肝付兼行です。(6コマ)
    刊行は明治25年3月19日。序は明治25年1月1日。
    地図自体の年代は、「日本海岸区域図」「明治二十四年六月 水路部」とあります。
    この時(1891年6月)には、日本海軍水路部は、こういう認識を持っていたわけです。

    樺太は着色されず、千島全島に着色があり、日本の「領土」の範囲を示した地図と考えていいと思います。九州の西の男女群島は小さすぎて着色の有無がわからず、小笠原もわかりません。(父島母島に着いているようにも見えます)尖閣は位置を示しますが名前はありません。もちろん台湾に着色はありません。日清戦争前の日本の版図と言えるのではないかと思います。

    ずっと固有の領土だった、という説からすれば「やばい」ですが、「無主地先占」の説では問題はありません。

    「リヤンコールド岩」が、江戸時代に米子の人が呼んでいた「松島」である、という認識は、『水路誌』にはずっと記されていないと思います。

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  15. Anonymous19/8/14 20:35

    日本政府としては、この地図(明治25年『日本水路誌』第一巻の日本海岸区域図)が確定した明治24年(1891年)時点では、「松島」(鬱陵島)は韓国のものと再確認ずみですし、「リヤンコールド岩」もまだ日本領土に編入していないので、この二つの島に日本領の彩色がなされていないのは当然なことであって、怪しむに足りません。

     matsuさんの懸念は、この地図を太政官指令と関連付ける議論が韓国側から出てくるのではないか、ということでしょうか。
    まあ、目の前に見える事象に単純反応するのが得意な人たちからは、この水路誌の地図において鬱陵島とリヤンコールド岩が日本領土と同じ色になっていないのは1877年太政官指令がこの二つの島を版図外と決定したことの結果だ、とでもいう主張が出てくるかもしれませんね。しかしその程度の状況証拠では、このコメントの最初に書いたことと相殺されて効果なしです。1877年太政官指令が鬱陵島とリヤンコールド岩を版図外と決定したというにはもっと積極的な証明が必要ですが、そんな証明はできないこと(ただし、世の中にはこの証明が既にできたと思い込んでいる人は多い)なので、この水路誌の「日本海岸区域図」が太政官指令論議に実質的な影響を与えることはないでしょう。

     単純な反論としても、太政官(太政官指令竹島放棄派の人たちは、太政官は当時の日本の最高意思決定機関だということをしきりに強調します)が鬱陵島を「竹島」として、リヤンコールド岩を「松島」として日本の版図外と決定したのだったとすれば、なぜこの水路誌の地図では太政官指令に従って二つの島がそういう名前になっていないのか、と指摘することができます。
    matsuさんが「「リヤンコールド岩」が、江戸時代に米子の人が呼んでいた「松島」である、という認識は、『水路誌』にはずっと記されていないと思います。」と書かれたように、事実は、太政官が版図外と判断した「松島」とは鬱陵島のことであったから、この地図でも鬱陵島が「松島」になっているわけです。

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  16. Chaamiey様

    コメントありがとうございました。

    この地図でわかることは、日本は(海軍水路部は)この時点で、リヤンコールド岩を「日本固有の領土」だとは思っていないことです。

    そして「露韓沿岸」に分類し、その後も『朝鮮水路誌』に入れた。

    ただし、かといって朝鮮領土だと見ていた、という記述は全くありません。

    1907年の時点で『日本水路誌』第4巻の隠岐と同じところに竹島だけを入れますが、
    旧『朝鮮水路誌』で記述していた内容が『日本水路誌』第6巻となっても、そのまま鬱陵島と竹島を入れ続けています。その後『日本水路誌』第10巻(内容は朝鮮)を経て
    タイトルが『朝鮮沿岸水路誌』となっても、鬱陵島と竹島を入れ続けます。その意味で、最初に『寰瀛水路誌』で「露韓沿岸」に入れた「地域観」は変わらないわけです。

    航行の安全や漁業にとっては、鬱陵島のそばにある日本海の島だ、という認識だったのでしょうか。
    「隠岐の松島」という歴史的認識は、一端、途切れていると思います。

    葛生や岩永や田淵が、鬱陵島とともに「リャンコ」(ヤンコ)を紹介しているのも、海軍のこの水路誌の「認識」が作用しているのではないかと思います。

    葛生修亮『韓海通漁指針』(1903年)農商務省の牧朴真水産局長が序文
    岩永重華『最新韓国実業指針』(1904年)外務省の山座円次郎政務局長が序文
    田淵友彦『韓国新地理』(1905年)

    この時点で最新の水路誌は、朝鮮側は『朝鮮水路誌』第二版(鬱陵島と竹島を記述)(1899)、
    日本側は『日本水路誌』第4巻(竹島は記述されていない)(1897)です。

    しかし、だからと言って、「韓国による統治の事実」は、明治政府としても全く確認できなかったわけで、だからこそ、無主地先占で編入していくのだと思います。

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  17. matsuさん
    史料の発掘いつもご苦労様です。

    ところで、ワイオダ岩に関しては、何か新事実とかの発見はなかったのでしょうか。

    ワイオダ号の航海というのが、いつどのような形で行われ、どういう状況で、明治27年の記述に至ったのでしょうか。

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  18. 小嶋さま

    ワイオダ岩

    『寰瀛水路誌』第二巻第二版1886(明治19)
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084068

    400p 241コマ/455
    鬱陵島のすぐ後にありますね。
    索引 Waywoda rock

    「ワイウォダ」岩
    此岩ハ露國軍艦「ワイウォダ」號ノ發見セシモノナリト云フ 高サ大約十二尺廣サ七十尺
    其位置ハ大約北緯四十二度十四分三十秒東経一百三十七度十七分ニアリ

    『寰瀛水路誌』第二巻初版1883明治16
    でも同じ文章です。ただ「北緯四十二度十四分三十秒」が「北緯四十二度十四分半」になっていました。

    この岩はロシア領のようですが、『朝鮮全岸』というタイトルの海図に出てくるけれども朝鮮領ではない、というのを語る時にいつも言われる岩ですね。

    この並びを見ると、ここまでが「日本海」の項目であって、次に「海岸」すなわち朝鮮東岸が始まるのは、分類先が違うこと示していると思います。ここの全体の題名が「朝鮮東岸及『諸島』」となっているのも、注目しておく必要があると思います。

    「ワイウォダ」岩は『朝鮮水路誌』(1894明治27)でも鬱陵島の後ろに出てきますが、ここでは存在が疑われている岩のようですね。
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/k-suiro1894/k-suiro-4.pdf

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  19. 上で
    >「隠岐の松島」という歴史的認識は、一端、途切れていると思います。
    と書きましたが、ちょっと違うかなあ、と考え直しました。

    それは、地元では、「隠岐の松島」という歴史的認識は、ずっと途切れずに続いているのかもしれない、と思ったからです。

    だいたい、「隠岐の松島」という認識も、地元の人々のものであって、全国レベルの、中央にも知られた知識ではなかったのかもしれない、『竹島図説』はローカルな認識を汲み上げた本だったのではないかと思うのです。

    中央レベルの肝付兼行たちは、外国の文献を当たり、地球レベルの側から理解しようとする。
    でもそれはやはり、地元の認識とは違うかもしれない、とも思えるからです。

    その意味で、長久保赤水が、『隠州視聴合記』という、いわばローカルな地元誌をしっかり取り上げて、「日本全国」意識のこもった『日本輿地路程全図』の上に、竹島・松島を書き留めておいてくれたことは、とても偉大だと思います。
    長久保赤水のおかげで、竹島・松島は日本人全体の中に入った、と言えるでしょう。

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  20. 慧眼なるGerry Beversさんは、『朝鮮水路誌』のLiancourt Rocksの記述が、英国の
    The China Sea Directoryの直訳であることに、夙に2007年に気がついていたことがわかりました。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/10/did-1899-joseon-sea-routes-directory.html


    Here is the full text of the relevant portion from Chapter 3 of the 1873 edition of the "China Sea Directory":

    LIANCOURT ROCKS are named after the French ship Liancourt, which discovered them in 1849; they were also called Menalai and Olivutsa rocks by the Russian frigate Pallas in 1854, and Hornet islands by H.M.S. Hornet in 1855. Captain Forsyth, of the latter vessel, gives their position as lat. 37°14′N. long. 131°55′E., and describes them as being two barren rocky islets, covered with guano, which makes them appear white; they are about a mile in extent N.W. by W. and S.E. by E., a quarter of a mile apart, and apparently joined together by a reef. The western islet, elevated about 410 feet above the sea, has a sugar-loaf form; the easternmost is much lower and flat-topped. The water appeared deep close-to, but they are dangerous from their position, being directly in the track of vessels steering up the Sea of Japan for Hakodate.

    ここでゲリーさんは、この英文は『朝鮮水路誌』(1899年 明治32年)の記述と同じだと述べています。

    確かにその通りなのですが、
    実は、これは上にあげた『寰瀛水路誌』1883年(明治16)と同じ文章でもあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『寰瀛水路誌』 第2巻 露韓沿岸 1883年(明治16)4月

    「リヤンコールト」列岩
    「リヤンコールト」列岩ハ一千八百四十九年 佛國船「リヤンコールト」號 初テ之ヲ發見シ船名ヲ取テ「リヤンコールト」列岩ト名付ケリ 其後一千八百五十四年 露國「フリゲート」鑑「パルラス」號 此列岩ヲ「メナライ」及ヒ「ヲリヴツァ」列岩ト稱シ 一千八百五十五年 英鑑「ホル子ット」號 此列岩ヲ探検シテ「ホル子ット」列島ト名付ケリ 該艦ノ艦長「フォリシス」曰ク 該列岩ハ北緯三十七度十四分 東經一百三十一度五十五分ノ處ニ位セル濯々無産ノ二岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ充積シ嶼色爲メニ白シ 北西微西ヨリ南東微東ニ至ルノ長サ共計一里 而シテ二嶼相距ル四分里ノ一 疑ラクハ一礁脈アリテ之ヲ相連ルナラン 西嶼ハ海面上高サ四百十尺ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ 此列島付近 水頗ル深キカ如シト雖モ其位置恰モ函館ニ向テ日本海ヲ航上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    ご覧のとおり、まったく同じです。
    すなわち、「明治政府の、初めてのリヤンコールト列岩=現竹島についての記述」と思われた上記の文章は、実はこのイギリス文献の「まったくの翻訳」であったことが分かります。

    翻訳者は、上記の「上野清 内田成道 嘉納謙作」のうち誰かはわかりませんが、「リヤンコールト」列岩の記述は、“The China Sea Directory”すなわち『支那海水路誌』そのままの翻訳であったわけです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    The China Sea Directory の電子本が以下にありました。

    The China Sea Directory VOL4  Chapter 3(1873) 
    (日本風に言えば『支那海水路誌』第四巻第三章(明治6)でしょうか)
    https://archive.org/stream/chinaseadirecto00deptgoog#page/n3/mode/2up
    https://archive.org/stream/chinaseadirecto00deptgoog#page/n87/mode/2up
    75p
    88コマ /403(下のカーソルを動かすとページを早くめくれます)

    日本海 Liancourt Rocks 松島(Dagelet)の順にならび 次はワイオダです。
    まったく同じ構成です。

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  21. 「リヤンコールト」列岩については、
    上記『寰瀛水路誌』初版1883から、『寰瀛水路誌』第二版1886、『朝鮮水路誌』1894を経て『朝鮮水路誌』第二版1899まで、ほぼ同じ記述が続いています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1886(明治19年)12月『寰瀛水路誌』第二巻 第二版

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1084068
    国会図書館
    237~238コマ /445 (397~398p)

    「リヤンコールト」列岩
    此列岩ハ一千八百四十九年 佛國船「リヤンコールト」號 初テ之ヲ發見シ船名ヲ取テ「リヤンコールト」列岩ト名付ケリ 其後一千八百五十四年 露國「フリゲート」形鑑「パルラス」號 此列岩ヲ「メナライ」及ヒ「ヲリヴツァ」列島ト稱シ 一千八百五十五年 英鑑「ホル子ット」號 此列岩ヲ探検シテ「ホル子ット」列島ト名付ケリ 該艦ノ艦長「フォルシス」曰ク 該列岩ハ北緯三十七度十四分 東經一百三十一度五十五分ノ處ニ位セル濯々無産ノ二岩嶼ニシテ鳥糞常ニ嶼上ニ充積シ嶼色爲メニ白シ 北西微西ヨリ南東微東ニ至ルノ長サ共計一里 而シテ二嶼相距ル四分里一ナルモ 疑ラクハ一礁脈アリテ之ヲ相連ルナラン 西嶼ハ海面上高サ四百十尺ニシテ形チ糖塔ノ如シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ 此列岩付近 水頗ル深キカ如シト雖モ其位置恰モ函館ニ向テ日本海ヲ航上スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ頗ル危険ナリトス

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1894(明治27年)11月『朝鮮水路誌 全』

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/847159
    国会図書館
    157~158コマ /192 (255p~257p)

    リアンコールト列岩
    此列岩ハ 洋紀一八四九年 佛國船「リアンコールト」號 初テ之ヲ發見シ 船名ヲ取テ リアンコールト列岩ト名ツク 其後一八五四年 露国「フレガット」形艦「パラス」號ハ 此列岩ヲ メナライ及ヲリヴツァ列岩ト偁シ 一八五五年 英艦「ホル子ット」號ハ 此列岩ヲ探検シテ ホル子ット列島ト名ツケリ 該艦長フォルシィスノ言ニ據レバ 此列岩ハ 北緯三七度一四分 東経一三一度五五分ノ處ニ位スル 二坐ノ不毛岩嶼ニシテ 鳥糞常ニ嶼上ニ堆積シ 嶼色為メニ白シ 而シテ北西彳西至南東彳東ノ長さ凡一里 ニ嶼ノ間距離一/四里ニシテ 見タルトコロ一礁脈アリテ之ヲ連結ス 西嶼ハ 海面上高サ凡四一〇呎ニシテ形糖塔ノ如シ 東嶼ハ 較低クシテ平頂ナリ 此列岩附近水頗ル深キカ如シト雖モ 其位置ハ 實ニ函館ニ向テ日本海ヲ航行スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ 頗ル危險ナリトス
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    1899年(明治32年)2月『朝鮮水路誌』 第二版 

    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1085075
    国会図書館
    159~160コマ /202 (263~265p)

    リアンコールト列岩
    此列岩ハ 洋紀一八四九年 佛國船「リアンコールト」 初テ之ヲ發見シ 偁呼ヲ其船名ニ取ル 其後一八五四年 露国「フレガット」形艦「パラス」ハ 此列岩ヲ メナライ及ヲリヴツァ列岩ト名ツケ 一八五五年 英艦「ホル子ット」ハ 此列岩ヲ探検シテ ホル子ット列島ト名ツケリ 該艦長フォルシィスノ言ニ據レハ 此列岩ハ 北緯三七度一四分 東経一三一度五五分ノ處ニ位スル 二坐ノ不毛岩嶼ニシテ 鳥糞常ニ嶼上ニ堆積シ 嶼色為メニ白シ 而シテ北西彳西至南東彳東ノ長さ約一里 ニ嶼ノ間距離約二鏈半ニシテ 見タル所一礁脉アリテ之ヲ連結ス ○西嶼ハ 海面上高サ約四一〇呎ニシテ其形棒糖ノ如シ 東嶼ハ 較々低クシテ平頂ナリ ○此列岩附近ハ水頗ル深キカ如シト雖 其位置ハ 實ニ函館ニ向テ日本海ヲ航行スル船舶ノ直水道ニ當レルヲ以テ 頗危險ナリトス


    コメントにはアンダーラインが出ませんが、『朝鮮水路誌』には、リアンコールト、メナライ、ホル子ットに二重縦線、ヲリヴツァ、フォルシィスに一重縦線があります。

    それぞれの改版で若干の文字の異同がありますが、書いてある内容は全く同じです。

    水路誌の他の部分には、当然のことながらいろいろなことが書き加えられているのに、リヤンコールト列岩(『朝鮮水路誌』からはリアンコールト列岩)についての記述がずっと同じであることは、1883年(明治16)時点の「翻訳」から、1899年(明治32年)まで、この列岩についての日本の知見が、全く増えなかったことを表わしていると思います。

    ReplyDelete
  22. 『朝鮮水路誌』 第二改版 1907年3月(明治40年)から、大きく内容が変わります。
    これは非常に重要な版です。

    「「リアンコールト」列岩」は、「竹島 [Liancourt rocks]」になります。
    新高艦、対馬艦の報告を利用したものと思いますが、情報が急激に増えます。

    大事なことは、この版が1905年の竹島編入の後であるにもかかわらず、
    竹島が、『朝鮮水路誌』のタイトル下の記述から「消えていない」ことです。

    この時の『朝鮮水路誌』第二改版の編集者が、竹島編入を「知らない」ことはありえず、よって、良く知ったうえで、日本領土であるにもかかわらず、『朝鮮水路誌』の範疇に入れ続けています。
    水路誌の編集が、領土とは関係ないことが、これで明らかです。

    竹島はこのあとも「朝鮮」の範疇に入る水路誌にずっと入り続け、終戦まで変わりません。
    はじめて「朝鮮側」から抜けるのが、1952年(昭和27年)の『朝鮮南東岸水路誌』であることは、竹島問題の発生がまさにこの時であることを示しています。

    日本への編入の事は、同じ1907年(明治40)6月、つまり3か月後の『日本水路誌』第四巻 第一改版(1907年(明治40年)6月)から出てきます。そして「日本側」にも、竹島はずっと入り続けます。

    すなわち両方に入っていたわけで、領土をあらわすならば、朝鮮側からは消えなければならないのに入り続けていることは、『寰瀛水路誌』のはじめから、領土の枠組みとは違う、まあ「地域観」とは言えるのだと思いますが、そんな観点で収録されているのだと思います。(翻訳の原本である英国の水路誌がそういう区切りをしていたことも大きいでしょう。)

    さて、その内容ですが、これまでの「翻訳」から離れ、日本が独自に得た具体的記述が増えます。ただ、注目の緯度・経度はこの版からは消えます。朝鮮国の「範囲」に興味がなくなったのか、水路誌にとって意味がないから消したのか、類書の地理書にまかせたのか、良くわかりません。結局、水路誌の「鬱陵島を含まない東限観」は訂正されることなく終わってしまったことになります。

    国会図書館のデジタルデータはありません。
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=523900&set_entry=000001&format=999

    そこで、実際に見てから書くことにしました。
    起こしがどこかにないかと思ったのですが、見つからず、しょうがないので自分で起こしました。国会図書館はこの大事な版のデジタル資料を公開して欲しいです。

    朴炳渉 
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/k-suiro_v2_1907.pdf
    に原文影印があります。451p~454p
    ただし冒頭の総記(緯度・経度の部分)はありません。
    また「序」の2枚目に明治25年の別の資料を間違えて入れ込んでおり、非常に紛らわしいです。この時の水路部長は肝付兼行でなく、「坂本一」という人です。


    竹島 [Liancourt rocks]
    一八四九年佛船「リアンコール」之ヲ發見セシヲ以テ Liancourt rocksト偁ス 其後一八五四年露艦「パルラス」ハ之ヲ Menalai and Olivutsa rocksト名ツケ 一八五五年英艦「ホーネット」ハ之ヲ Hornet islandsト呼ヘリ 韓人ハ之ヲ獨島ト書シ本邦漁夫ハリアンコ島ト曰フ
    此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ 隠岐國島前ヨリ大約八〇浬 欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ 廣四分一浬ノ狭水道ヲ隔テ東西ニ相對スル二島ト其周圍ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル 西島ハ 海面上高約四一〇呎ニシテ棒糖形ヲ成シ 東島ハ較ヤ低ク頂上ニ平坦ナル地アリ 周圍ノ諸小嶼ハ概ネ扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ其大ナルハ優ニ數十畳ヲ敷クニ足ルヘシ 二島共ニ全部瘠痩ノ禿岩ニシテ海洋ノ巒風ニ露出シ一株ノ樹木ナク東島僅ニ野草ヲ生スルノミ 島岸ハ斷崖絶壁軟性ノ石層ヨリ成リ奇観ノ洞窟多ク殆ト攀●スヘカラス 此等ノ洞窟及ヒ小嶼ハ「トド」ノ群棲息所タリ
    此島ハ其附近水深ク軍艦對馬ハ東島ノ南端ヲ距ル北西方約九鏈ノ處ニ於五十八尋ヲ測得セリト云フ 然レトモ此島ハ其位置日本海ヲ航上スル船舶航路ニ近キヲ以テ 夜間ハ危險ナリトス

    島上ノ平地
    島上平地ニ乏シク水道ノ兩側ニ狭小ナル平坦ノ礫地二三箇所アルモ皆海濤ノ襲来ヲ免レス東島ハ其頂ニ平坦ナル地アレトモ之レニ登ルノ徑路ナク唯島ノ南端ニ於テ北西風ヲ遮蔽スル三、四坪ノ小地アルノミ 西島ハ其東西ニ山崩アリテ其上半殆ト直立スルトモ下半ハ傾斜稍ヤ緩ナルヲ以テ其半ハマテ達スルヲ得ヘク此邊ノ堅岩ヲ開●セハ東風ヲ除ク外諸風ヲ遮蔽スヘキ平地ヲ得ヘキナランカ島上ニハ上記ノ如ク家屋ヲ建築スヘキ地極テ乏シク 明治三十七年十一月軍艦對馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ 東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノ為メ甚タシク破壊シアリシト云フ
    毎年夏季ニ至レハ「トド」猟ノ為メ欝陵島ヨリ渡来スル者數十名ノ多キニ及フコトアリ
    此等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ 毎回約十日間假居スト云フ

    淡水
    西島ノ南西隅ニ一洞窟アリ 其天蓋ヲ成セル岩石ヨリ滴出スル水ハ其量稍ヤ多シト雖 雨水ノ滴下ニ等シキヲ以テ採取ニ困難ナリ 此他數箇所ニ於テ山頂ヨリ山腹ニ沿フテ滴瀝スル水及ヒ湧泉アレトモ其徑路ハ「トド」ノ尿ニ屢々汚染セラレテ一種ノ惡臭ヲ放チ 到底飲料ニ適セス 「トド」猟ノ為メ渡来スル漁夫ハ島水ヲ採取シテ煮炊ノ用ニ供スレトモ茶水ハ他ヨリ持チ来タレルモノヲ用ユト云フ

    位置
    竹島ハ一九〇二年ニ施セル米艦「ニウヨーク」ノ檢測ニ據レハ 北緯三七度九分三〇秒 東経一三一度五五分ニ在リ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「韓人ハ之ヲ獨島ト書シ 本邦漁夫ハリアンコ島ト曰フ」は新高艦の調査(1904年9月)が反映されています。

    1902年 米艦「ニウヨーク」の検測 北緯三七度九分三〇秒 東経一三一度五五分
    があります。これは、1905年の編入の時の緯度・経度と同じです。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a11rui981-1905/


    対馬艦(1904年11月)の調査を多く引用していることが分かります。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/10/1905-january-5th-report-about-laincourt.html
    明治三十八年一月五日對馬艦長海軍中佐 仙頭武央ヨリ水路部長に提出セル リヤンコールド島概要

    参照

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    そして、この『朝鮮水路誌』第二改版という、当時の朝鮮人も広く読んだであろう文献に、
    「獨島」と書いてあることが、実は、このあとの韓国人の「トクソム」としての認識にも、あるいは影響を及ぼしているのではないか、と思っています。

    この記述はずっと引き継がれます。

    1911年(明治44)12月『日本水路誌』第6巻 
    『朝鮮水路誌』を改版して『日本水路誌』 第6巻と改称して刊行する。
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro6-1911.pdf
    (49p)「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ」

    1920年(大正9)4月『日本水路誌』第10巻上 朝鮮 総記 朝鮮東岸 南岸
    (57p)「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ」
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro10-1920.pdf

    これは明らかに、新高の1904年の知見が文献上で引き継がれているだけなのだと思いますが、この水路誌を後に読んだ人が、「竹島の朝鮮名は獨島(トクソム)だ」、という認識を、新たに持った可能性はあると思います。


    はじめて、隠岐からの距離が記述されますが、鬱陵島からの距離もあわせて示しています。隠岐の「島前」からの距離を示しているのは注目されます。江戸時代の渡航の時は島後の福浦が出発地だったのに、より遠い島前からの距離を示すのは、関係の深い港が変わっていたのかもしれません。

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  23. 1907年(明治40年)6月『日本水路誌』第四巻 第一改版 

    竹島が日本側に登場、以後ずっと日本側にも入る。

    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro4v1-1907.pdf

    372p

    竹島 [Liancourt rocks]
    北緯三七度九分三○秒 東経一三一度五五分 即チ隠岐列島ノ北西約八十浬ニ位セル群嶼ニシテ 周回約二浬 東西ノ二嶼ト數岩トヨリ成ル 〇該二嶼ハ殆ト不毛ノ禿岩ニシテ 四周懸崖ヲ成シ 鳥糞ニ蔽ハレテ白色ヲ呈ス 其間ニ一条ノ狭水道アリ 幅約百二十碼乃至百八十碼、長三百六十碼 水深五尋ヨリ淺ク 数個ノ岩嶼暗岩横ハル 〇該二嶼ノ周圍ニ碁列セル岩嶼ハ 概子扁平ニシテ僅ニ水面ニ露出ス
    西嶼ハ高約四一○呎ニシテ尖峯ヲ成シ 東嶼ハ較ヤ低クシテ平頂ナリ 〇此群嶼ハ 周圍陡界ナルカ如シ 然レトモ其位置函館ニ向テ日本海ヲ北上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ 夜間ニ在テハ時トシテ危険ナルコトアリ
    其群嶼ハ 毎年六、七月頃 海豹猟ノ為メ本邦漁夫ノ渡来スル所ニシテ 明治三十八年島根懸ノ所管ニ編入セラレタリ


    「北緯三七度九分三○秒 東経一三一度五五分」は編入の時の緯度・経度。(アメリカのニューヨーク号の測定)フォーサイスの緯度・経度にとって代わっている。ただし、まだ自前の緯度・経度ではない。

    「明治三十八年島根縣ノ所管ニ編入セラレタリ」の前段に本邦漁夫の渡来を言う。鬱陵島からの渡来は記さない。

    隠岐からの距離のみを記し、フランス(リアンクール)、ロシア(パラス)、イギリス(ホーネット)の発見の経緯については触れない。

    1907年3月の『朝鮮水路誌』第二改版は、鬱陵島からの距離を示すが、こちらは示さない。
    ただし、『朝鮮水路誌』第二改版のほうの情報量が圧倒的に多い。


    国会図書館デジタルなし
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=055153&set_entry=000018&format=999

    朴炳渉
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro4v1-1907.pdf

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  24. 1911(明治44)12月『日本水路誌』第6巻

    前の版『朝鮮水路誌』第二改版1907(明治40)3月から、今回の改版で『日本水路誌』第六巻という呼び名になったことが大きな変化です。しかし内容は『朝鮮水路誌』を継承しています。

    序に、次のようにあります。
    本巻ハ 朝鮮全岸ノ水路ニシテ 明治四十三年 朝鮮ヲ我カ帝国ニ併合セラレシヲ以テ 日本水路誌第六巻ト題シ刊行セリ
    明治四十四年十月 水路部長 中尾雄

    第二編 東岸 49pにあります。

    竹島 [Liancourt rocks]
    一八四九年佛船Liancourt之ヲ發見セシヲ以テ欧米人は Liancourt rocksト偁ス 其後一八五四年露艦Pallas之ヲMenalai and Olivutsa rocksト名ツケ 一八五五年英艦Hornetハ之ヲHornet islandsト呼ヘリ 而シテ朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ内地漁夫ハリアンコ島ト曰フ
    此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ 隠岐國島前ヨリ大約八十六浬 鬱陵島ヨリ東南東方約五十浬ニ位シ 幅一鏈餘ノ狭水道ヲ隔テテ 東西ニ相對スル二島ト其周圍ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル ○其西方島ハ 海面上高約五一五呎ニシテ棒糖形ヲ成シ
    東方島ハ較々低ク其頂上ニ平坦ナル地アリ 又周圍ノ諸小嶼ハ概ネ扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ 其大ナルモノハ優ニ數十畳ヲ敷クニ足ルヘシ ○二島共ニ全部瘠痩ノ禿岩ニシテ海風ニ暴露シ一株ノ樹木ナク 東方島ニ於テ僅ニ野草ヲ生スルノミ 島岸ハ斷崖絶壁ニシテ軟性ノ石層ヨリ成リ奇観ノ洞窟多ク殆ト攀躋スヘカラス 而シテ此等ノ洞窟及小嶼ハ海驢(トド)ノ群棲所タリ
    此島ノ附近ハ水深ク 軍艦對馬ハ東方島ノ南端ヨリ北西方約九鏈ノ處ニ於テ五十八尋ヲ測得セリト云フ 然レトモ此島ハ其位置日本海ヲ航上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ 夜間ハ危險ナリトス

    島上ノ平地
    島上平地ニ乏シク二島間ノ水道ノ兩側ニ狭隘ナル平坦ノ礫地二、三箇所アルモ皆海濤ノ侵襲ヲ免レス 東方島ハ其頂ニ平坦ナル地アレトモ之レニ登ルノ徑路ナク唯島ノ南端ニ於テ北西風ヲ遮蔽スル三坪若シクハ四坪ノ小地アルノミ ○西方島ハ其東西ニ山崖アリテ其上半部殆ト直立スレトモ下半部ハ傾斜稍々緩ナルヲ以テ其半ハマテ達スルヲ得ヘク其邊ノ堅岩ヲ開鑿セハ東風ノ外諸風ヲ遮蔽スヘキ平地ヲ得ルナランカ ○島上ニハ前記ノ如ク家屋ヲ建築スヘキ地極メテ乏シク 明治三十七年十一月軍艦對馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ 東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノタメ甚タシク破壊シアリシト云フ
    毎年夏季ニ至ラハ海驢(トド)猟ノ為メ鬱陵島ヨリ渡來スル者數十名ノ多キニ及フコトアリ 彼等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ 毎回約十日間假居スト云フ

    淡水
    西方島ノ南西隅ニ一洞窟アリ 其天蓋ヲ成セル岩石ヨリ滴出スル水ハ其量稍々多シト雖 雨水ノ滴下ニ等シキヲ以テ汲取ニ困難ナリ ○其他山頂ヨリ山腹ニ沿フテ數箇所ニ滴瀝スル水及湧泉アレトモ其徑路ハ海驢(トド)ノ糞尿ニ屢々汚染セラレテ一種ノ惡臭ヲ放チ 到底飲料ニ適セス ○海驢(トド)猟ノ為メ渡來スル漁夫ハ島中ノ水ヲ汲取シテ煮炊ノ用ニ供スレトモ茶水ハ他ヨリ持來タレルモノヲ用ユト云フ

    位置
    竹島ノ東方島ノ南端ハ明治四十一年ノ測定ニ據レハ 北緯三七度十四分十八秒 東経一三一度五二分二二秒ニ在リ
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    国会図書館デジタルデータなし
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/A6JCXCHP5VFGLKS8EX5APDQA4ND66XN7JXHFTM3U5PSCLQ46R5-15103?func=full-set-set&set_number=507059&set_entry=000012&format=999
    このため、本の形で閲覧・コピー可能です。

    朴炳渉サイトに影印があります。
    http://www.kr-jp.net/
    地誌→水路誌
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro6-1911.pdf

    前回●にしていた「攀躋」と「開鑿」の漢字を見つけました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    Liancourt rocksという呼び名を「欧米人」共通の呼び名としているのは、変化と言えるかもしれません。

    ほかは、1907年版とほぼ同じ記述です。
    「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ」という表現もそのまま残しています。


    ただ、この版の大きな特徴は、位置の緯度・経度が日本の観測値になったことです。

    編入時には、アメリカのニューヨーク号の数値を使っていたのが、編入後にようやく自前の数値を得たことになります。編入時に外国の測量値を使っていることは「固有の領土論」からすると、やや問題かも知れません。「無主地先占」であれば、どうなんでしょうか。

    「序」に、明治41年に鬱陵島および竹島の調査をしたのは「海軍少佐 並木寅之助」とあります。

    「並木寅之助」海軍兵学校 17期
    http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun72.2.html
    海兵17期 明治23年7月17日卒業 88名
    10 並木 寅之助 中佐 東京 従五勲四 大正8年7月18日に54歳で死去

    有名な秋山真之と同期のようです。


    また、検索すると以下のものが引っかかりました。

    「測量ノ為メ松江乗組被仰付   海軍少佐 並木寅之助」
    官報710p 左から8行目 10コマ/22
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950770/15
    官報. 1908年03月28日 明治41年

    「松江 (海防艦)」wikipedia
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B1%9F_(%E6%B5%B7%E9%98%B2%E8%89%A6)
    松江(まつえ)は、日本海軍の海防艦、後に運送船から運送艦、更に測量艦となった。艦名は中国東北部を流れ、アムール川に合流する同河川最大の支流「スンガリ」、日本名は「松花江(しょうかこう)」といい、そこから「松江(まつえ)」の名が付けられた.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    この調査については、島根県の研究成果の発表があります。

    明治41 年水路部が竹島を近代測量法に基づき初めて測量した資料
    http://www3.pref.shimane.jp/houdou/files/9C4992D0-A86D-401C-891F-257040BBCEC3.pdf

    また、以下のサイトの下の方に、この明治44年の測量の時の図があります。
    http://www.tanken.com/kaizu.html

    これで見ると、「東経131度52分22秒」は別の筆跡です。

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  25. 訂正です。

    『朝鮮水路誌』 第二改版 1907年3月(明治40年)
    隠岐國島前ヨリ大約八〇浬 欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ


    隠岐國島前ヨリ大約八十浬 欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ

    「八〇浬」ではなく「八十浬」です。
    同じ80ですが、用語の違いがあるので訂正しておきます。

    そして、あらためて、「島前ヨリ」とあるのに注目しておきたいと思います。

    江戸時代は島後の「福浦」発で、これは現在の久見地区の港でもありますが、1899~1907年の間に増えた新資料を踏まえたであろうこの記述で、距離をはかるのに「島前」からとしているのは、竹島との関わりが「島前」からとなっていることの反映だと思います。
    1905年の編入直前、鬱陵島との行き来が隠岐からもあったのだと思いますが、その出発点が、「島後」ではなく「島前」なのではないかと思います。

    奥原碧雲『竹島及鬱陵島』27p(復刻版55p)に、西郷の中井養三郎のライバルとして「島前の石橋松太郎氏部下の漁夫」が出てきます。石橋松太郎は久見の人のようですので、この記述は間違いを含んでいるようですが、「島前」から、竹島・鬱陵島へ出発する人たちがいたことの反映ではないかとも思います。

    ただし、一方で、この記述は、あるいは、調査に当たった軍艦の寄港地が、島後ではなく島前であったため、とも考えられます。

    もうひとつ訂正です。
    一つ上のコメントの最後の「この明治44年の測量の時の図があります。」は「明治41年」の間違いです。大変失礼しました。

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  26. 1916年(大正5)12月『日本水路誌』第四巻 改版 

    第一編 本洲北西岸 隠岐列島に次いで、「離島」として竹島[Liancourt rocks]を掲載。


    本巻ハ明治三十年三月刊行 日本水路誌第四巻ヲ以テ初刊トシ 明治四十年六月第一改版ヲ経テ今日ニ至ル 
    大正五年十二月 水路部長 布目満造

    すなわち、
    1897=明治30年3月『日本水路誌』第四巻には、竹島は入らず。
    1907=明治40年6月『日本水路誌』第四巻第一改版から入る。
    その初めての改訂版ということになります。

    「離島」として記すのは、隠岐列島の離島、という扱いか。


    58p

    離島
    竹島 [Liancourt rocks]
    東嶼(女島)ハ北緯三七度十四分十八秒 東経一三一度五二分二二秒 即チ隠岐列島ノ北西方約八十浬ノ處ニアル群嶼ニシテ 周回約二浬 東西ノ二嶼及ヒ數岩トヨリ成ル 〇該二嶼ハ殆ト不毛ノ禿岩ニシテ 四周懸崖ヲ成シ 鳥糞ニ蔽ハレテ白色ヲ呈ス 其ノ間ニ一條ノ狭水道アリ 幅約百二十碼乃至百八十碼、長三六〇碼 水深五尋ヨリ淺ク 數個ノ岩嶼暗岩横タハル 〇該二嶼ノ周圍ニ碁列セル岩嶼ハ 概ネ扁平ニシテ僅カニ水面ニ露出ス
    西嶼ハ高約四百十呎ニシテ尖峯ヲ成シ 東嶼ハ較々低クシテ平頂ナリ 〇此ノ群嶼ハ 周圍陡界ナルカ如シ 然レトモ其ノ位置函館ニ向ヒテ日本海ヲ北上スル船舶及ヒ對馬海峡ヨリ浦鹽斯徳ニ向フ船舶ノ航路ニ近キヲ以テ 夜間ニ在リテハ時トシテ危険ナルコトアリ
    此ノ群嶼ハ 毎年六、七月頃 海豹獵ノ為メ漁夫ノ渡来スル所ニシテ 明治三十八年島根懸ノ所管ニ編入セラレタリ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    東嶼の地名として「女島」がはじめて登場
    前掲、明治41年「松江」の調査の時の地図(1908)に男島・女島あり。
    http://www.tanken.com/kaizu.html

    緯度・経度が新しくなっている(明治41年の測量)。はじめての日本の自前の緯度・経度です。

    「對馬海峡ヨリ浦鹽斯徳ニ向フ船舶ノ航路」 が登場。

    「本邦漁夫」の「本邦」をとったのは、あえて言う必要を認めなかったためか。

    やはり、リアンクール、オリヴツァ・メネライ、ホーネットのこと、すなわち、フランス、ロシア、イギリスによる発見と名付けについては記さず。
    また、隠岐列島からの距離だけで、鬱陵島からの距離は記さず。

    西嶼の高さ「410呎」。5年前の1911年(明治44年)版『日本水路誌』第6巻では515呎になっていたのに、また戻っている。
    「日本北西岸」系統と「朝鮮水路誌」系統の記述が、相互の関係がなく、別の系統として改版されていくことを示すか。

    ・・・・・・・・・・・・・・・
    田中サイトあり
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/japanhydrograph-1916/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka45/japanhydrograph-1916/11.jpg

    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    国会図書館デジタルデータなし
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=055810&set_entry=000012&format=999
    東京 : 水路部, 大正5-13.
    日本水路誌. 第1巻,第1巻 追補 第1,第2-4巻,第4巻 追補 第1,第5巻,第5巻 追補 第1,第6-9巻,第10巻 上,下 /
    本の形で閲覧可能
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    朴炳渉サイトに影印
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro4-1916.pdf

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  27. 東島と西島

    Chapter 3 of the 1873 edition of the "China Sea Directory": 明治6 
    The western islet  the easternmost

    『寰瀛水路誌』第二巻 1883 明治16
    西嶼 東嶼

    『寰瀛水路誌』第二巻 第二版 1886 明治19
    西嶼 東嶼

    『朝鮮水路誌』1894 明治27
    西嶼 東嶼

    『朝鮮水路誌』改版 1899 明治32
    西嶼 東嶼

    『朝鮮水路誌』第二改版 1907 明治40 3月
    西島 東島 ここから変わる 今の韓国名はこれを受けていることになる

    『日本水路誌』第4巻 北西岸 1907 明治40 6月
    西嶼 東嶼 もどっている。

    『日本水路誌』第6巻(朝鮮全岸) 1911 明治44
    西方島 東方島

    『日本水路誌』第4巻 改版 本洲北西岸 1916 大正5
    東嶼(女島) 西嶼(男島という名前は登場しない)

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  28. 1920年(大正9)4月刊『日本水路誌』第十巻上 朝鮮 総記 朝鮮東岸 南岸


    本巻ハ日本水路誌第十巻(日本水路誌第六巻ノ改偁)中ノ第一編乃至第三編ノ第一改版ニシテ朝鮮ニ関スル總記、朝鮮東岸及南岸ヲ記載ス
    大正九年三月 水路部長 布目満造
    大正九年四月三十日印刷 大正九年五月十三日発行

    国会図書館 デジタルデータなし
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=055810&set_entry=000012&format=999
    本で閲覧可能

    朴炳渉サイトに影印
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/n-suiro10-1920.pdf


    第二編 朝鮮東岸
    56~57p

    竹(タケ)島 [Liancourt rocks]
    一八四九年佛船Liancourt之ヲ發見セシヲ以テ欧米人ハ Liancourt rocksト偁ス 其後一八五四年露艦Pallas之ヲMenalai and Olivutsa rocksト名ツケ 一八五五年英艦Hornetハ之ヲHornet islandsト呼ヘリ 而シテ朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ 内地漁夫ハリアンコ島ト曰フ
    此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ 隠岐國島前ヨリ大約八十六浬 鬱陵島ヨリ東南東方約五十浬ニ位シ 幅一鏈餘ノ狭水道ヲ隔テテ 東西ニ相對スル二島ト 其周圍ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル ○其西方島ハ 海面上高約五一五呎ニシテ棒糖形ヲ成シ 東方島ハ較低ク其頂上ニ平坦ナル地アリ 又周圍ノ諸小嶼ハ概扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ 其大ナルモノハ優ニ數十畳ヲ敷クニ足ルヘシ ○二島共ニ全部瘠痩ノ禿岩ニシテ海風ニ暴露シ一株ノ樹木ナク 東方島ニ於テ僅ニ野草ヲ生スルノミ 又島岸ハ斷崖絶壁ニシテ軟性ノ石層ヨリ成リ 奇観ノ洞窟多ク殆ト攀躋スヘカラス 而シテ此等ノ洞窟及小嶼ハ海驢(トド)ノ群棲所タリ
    此島ノ附近ハ水深ク 軍艦對馬ハ東方島ノ南端ヨリ北西方約九鏈ノ處ニ於テ五十八尋ヲ測得セリト云フ 然レトモ此島ハ其位置日本海ヲ航上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ 夜間ハ危險ナリトス

    島上ノ平地 島上平地ニ乏シク 二島間ノ水道ノ兩側ニ狭隘ナル平坦ノ礫地二、三箇所アルモ皆海濤ノ侵襲ヲ免レス ○東方島ハ其頂ニ平坦ナル地アレトモ之ニ登ルノ徑路ナク唯島ノ南端ニ於テ北西風ヲ遮蔽スル三坪若クハ四坪ノ小地アルノミ ○西方島ハ其東西ニ山崖アリテ其上半部殆直立スレトモ 下半部ハ傾斜稍緩ナルヲ以テ其半マテ到達スルヲ得ヘク 其附近ノ堅岩ヲ開鑿セハ東風ノ外諸風ヲ遮蔽スヘキ平地ヲ得ルナランカ ○島上ニハ前記ノ如ク家屋ヲ建築スヘキ地極メテ乏シク 明治三十七年十一月軍艦對馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ 東方島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノタメ甚シク破壊シアリシト云フ
    毎年夏季ニ至ラハ海驢(トド)猟ノ為メ鬱陵島ヨリ渡來スル者數十名ノ多キニ及フコトアリ 彼等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ 毎囘約十日間假居スト云フ

    淡水 西方島ノ南西隅ニ一洞窟アリ 其天蓋ヲ成セル岩石ヨリ滴出スル水ハ其量稍多ケレトモ 雨水ノ滴下ニ等シキヲ以テ汲取ニ困難ナリ ○其他山頂ヨリ山腹ニ沿ウテ數箇所ニ滴瀝スル水及湧泉アレトモ其徑路ハ海驢ノ糞尿ニ屢汚染セラレテ一種ノ惡臭ヲ放チ 到底飲料ニ適セス ○海驢猟ノ為メ渡來スル漁夫ハ島中ノ水ヲ汲取シテ煮炊ノ用ニ供スレトモ茶水ハ他ヨリ持來タレルモノヲ用フト云フ

    位置 竹島ノ東方島ノ南端ハ 明治四十一年ノ測定ニ據レハ 北緯三七度十四分十八秒 東経一三一度五二分三三秒ニ在リ

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    基本的に前の版1911(明治44)12月の『日本水路誌』第六巻と大きな変化なし。

    隠岐國島前ヨリ大約八十六浬
    80浬が86浬に変わる。ただし島前のまま。
    新しい資料があったものと思われる。

    「東経一三一度五二分三三秒」に変わっている!
    22秒から33秒への変化の理由を書いていない。
    このまま、次の昭和8年(1933)版に引き継がれている。こちらが正しいという認識か。

    ただし、「明治四十一年ノ測定」とあり、これは「松江」の測定と考えられるので、新しい測定があったとは考えにくい。上記の図で
    http://www.tanken.com/kaizu.html
    「朝鮮東岸 竹島(隠岐國)女島南角上」
    別筆跡の経度は131.52.22、291と明らかに「22秒」となっている。

    「33秒」は、この大正9年版での「誤植」とも考えられるが、そのまま昭和8年(1933)版に引き継がれていく。

    さらには、それを「翻訳」した、檀紀4285年1月(1952年)発刊の『韓国沿岸水路誌』にもこの数値が使われている。(この『韓国沿岸水路誌』は「竹島」という名前で「独島」を紹介している)
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2011/12/1952-jan.html

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  29. 1933年(昭和8)1月『朝鮮沿岸水路誌』第一巻 改版

    「鬱陵島及竹島」として出る。(第3編 朝鮮東岸 86p)
    鬱陵島との関係を結びつけて竹島を記述するのは、実はこれが初めてか。

    89p
    竹島(タケシマ)
    此ノ島ハ日本海上ノ1小群嶼ニシテ 島根懸隠岐島前ヨリ大約86浬、鬱陵島ヨリ東南東方約50浬ニ位シ 幅1鏈餘ノ狭水道ヲ隔テテ 東西ニ相對スル2島ト其ノ周圍ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル(第89頁対面対景図 第25及26参照)。
    其西方島ハ 海面上高約157米ニシテ棒糖形ヲ成シ 東方島ハ較低ク其ノ頂上ニ平坦ナル地アリ 又周圍ノ諸小嶼ハ概ネ扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ 其ノ大ナルモノハ優ニ數十畳ヲ敷クニ足ルベシ。 
    2島共ニ全部瘠痩ノ禿岩ニシテ海風ニ暴露シ1株ノ樹木ナク 東方島ニ於テ僅ニ野草ヲ生ズルノミ、又島岸ハ斷崖絶壁ニシテ軟質ノ石層ヨリ成リ奇観ノ洞窟多ク殆ド攀躋スベカラズ 而シテ此等ノ洞窟及小嶼ハ海驢ノ群棲所タリ。
    此島ノ附近ハ水深ク 軍艦對馬ハ東方島ノ南端ヨリ北西方約9鏈ノ處ニ於テ106米ノ水深ヲ測得セリト謂フ、然レドモ此ノ島ハ其ノ位置日本海ヲ航上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ 夜間ハ危險ナリトス。

    島上ノ平地  島上平地ニ乏シク2島間ノ兩側ニ狭隘ナル平坦ノ礫地二、三箇所アルモ皆海濤ノ侵襲ヲ免レズ ☉東方島ハ其ノ頂ニ平坦ナル地アレドモ之ニ登ルノ徑路ナク唯島ノ南端ニ於テ北西風ヲ遮蔽スル10乃至13平方米ノ小平地アルノミ ☉西方島ハ其ノ東西ニ山崖アリテ其ノ上半部殆ド直立スレドモ下半部ハ傾斜稍緩ナルヲ以テ其ノ半迄到達スルヲ得ベク其ノ附近ノ堅岩ヲ開鑿セバ東風ノ外諸風ヲ遮蔽スベキ平地ヲ得ルナランカ ☉島上ニハ前記ノ如ク家屋ヲ建築スベキ地極メテ乏シク 明治37年11月軍艦對馬ノ此ノ島ヲ實査セシ際ハ 東方島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノ為甚シク破壊シアリシト謂フ。
    毎年夏季ニ至ラバ海驢獵ノ為鬱陵島ヨリ渡來スルモノ數十名ノ多キニ及ブコトアリ 彼等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ 毎囘約10日間假居スト謂フ。

    淡水  西方島ノ南西隅ニ1洞窟アリ其ノ天蓋ヲ成セル岩石ヨリ滴出スル水ハ其ノ量稍多ケレドモ 雨水ノ滴下ニ等シキヲ以テ汲取ニ困難ナリ ☉其ノ他山頂ヨリ山腹ニ沿ヒテ數箇所ニ滴瀝スル水及湧泉アレドモ其ノ徑路ハ海驢ノ糞尿ニ屢汚染セラレテ一種ノ惡臭ヲ放チ 到底飲料ニ適セズ ☉海驢獵ノ為渡來スル漁夫ハ島中ノ水ヲ汲取シテ煮炊ノ用ニ供スレドモ茶水ハ他ヨリ持來スルモノヲ用フト謂フ。

    位置  竹島ノ東方島ノ南端ハ 明治41年ノ測定ニ據レバ 北緯37度14分18秒、東経131度52分33秒ニ在リ。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    竹島(タケシマ)のあとの [Liancourt rocks]が消えた!

    これまでの西洋の発見命名史(フランス、ロシア、イギリス)がすべて消える。
    「朝鮮人ハ之ヲ獨島ト書シ」も消える。

    隠岐國が島根県隠岐となる。この段階でも、ずっと「島前」からの距離を示す。

    竹島の図あり。今回から加わったものか?この間に竹島の調査が行われたことを示すか。
    序が簡略で経緯が良くわからない。

    横書きとなり、数字がアラビア数字となる。
    「此ノ」「其ノ」の「ノ」が入る。フィートがメートルに変わる。濁点がつく。点とマルがつく。読みやすくなった。トドというルビが消える。

    「ウラジオストック航路」が消える。

    対馬艦の記録は過去の時点と特定できる内容であるが、時事性があるものもそのまま記述されている。
    「毎年夏季ニ至ラバ」とあるが、この時点でも鬱陵島から「毎年」夏季にアシカ猟に来ていたのだろうか。疑問が残る。

    東経131度52分「33秒」を採用している。どのような経緯で修正したのだろうか。

    前記のように、この1933年版『朝鮮沿岸水路誌』が、そのまま1952年の『韓国沿岸水路誌』に「翻訳」されている。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    国会図書館 デジタルデータなし。
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=045733&set_entry=000003&format=999
    復刻版が出たためか。 龍溪書舎2005.10
    複写は可能

    朴炳渉サイト影印あり
    http://www.kr-jp.net/chishi/suiroshi/k-suiro-1933.pdf

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    この版の前に
    1930年(昭和5)12月『朝鮮沿岸水路誌』第1巻 第2巻 あり。
    朝鮮沿岸を 日本水路誌から分離 
    『日本水路誌』第10巻上を『朝鮮沿岸水路誌』第1巻と改称し、
    『日本水路誌』第10巻下を『朝鮮沿岸水路誌』第2巻と改称する。

    この時は「改称」=名称の変更のみで、内容の「改版」は、なかったものか。
    国会図書館蔵書なし。朴炳渉サイトもなし。

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  30. 近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識*
    ソン・フィヨン**
    『大邱史学』106号 大邱史学会 2012、141~170ページ.
    http://www.daeguhistory.org/original/106/8.%EC%86%A1%ED%9C%98%EC%98%81.pdf

    翻訳です。
    水路誌を専門に扱った論文としては便利ですが、原文の引用が不正確で、結局、現物に当たらざるを得ないことになりました。
    鬱陵島と竹島を一体のものとしてとらえようとする視点から分析されています。
    むしろ、竹島自体が、どう捉えられてきたかを追う必要があると思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識*
    ソン・フィヨン**
    Ⅰ. はじめに
    Ⅱ. 日本海軍水路部の役割と水路誌の性格
    Ⅲ. 水路誌に見る日本の鬱陵島・独島認識
    1.独島侵奪(1905年)以前の水路誌
    2.独島侵奪以後、韓日強制併合までの水路誌
    3.韓国強制併合以後の水路誌
    Ⅳ. 結び
    )
    * 本研究は2011年度教育科学技術部政策重点研究所支援事業による。
    ** 嶺南大学校独島研究所、hysong@ynu.ac.kr

    Ⅰ. はじめに
    独島の領有権問題の扱いでは、地理的認知の事実は大変重要だ。これは鬱陵島・独島をどのように認識していたかということに関連して各種の地誌に現れているといえる。本研究では、明治(1868)以後、日帝の強制併合時期に至るまで、近代日本の地誌を通じて日本の鬱陵島・独島認識を検討しようと思う。特に日本の海軍省水路部が編纂した「水路誌」など1)を中心に考察する。その理由は、日本外務省の独島領有権の主張で、その権原とする「歴史的認知」と「無主地先占」の論理が正統性を持つかどうかを明らかにするのに示唆する点を提供することができるからである。

    1)ここでは、日本海軍省が水路誌の前段階として発行した「水路雑誌」と「寰瀛水路誌」「朝鮮水路誌」「日本水路誌」などの各種水路誌を含んで検討することにする。

    日本の独島研究の論理は、17Cに大谷・村川両家の鬱陵島渡海活動を根拠に「歴史的にも日本固有の領土」という表現をはばからない、いわゆる「17世紀固有領土説」を強く主張2) しているが、最近は日本島根県の竹島3)問題研究会でも、この論理は無理な方法という認識をしていたりもする。4) したがって、日本外務省と島根県の研究動向は、1905年独島編入論理で主張する「無主地先占論」にその比重を移して行きつつあると感じることができる。独島が果たして無主地だったかということは、近代期日本の官撰誌である水路誌を通じて現れた日本の鬱陵島・独島認識を検討してみれば明確になる。5) これは、近代期日本帝国が彼らの地図を、あるいは朝鮮の地図をどのように取り扱ってきたかということと直結している。

    2)日本外務省ホームページ、竹島問題(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/)を参照。

    3)日本の独島名称は、現在は竹島(タケシマ)、以前は松島(マツシマ)であり、鬱陵島の過去の名称も、また竹島(タケシマ)であった。この二つの名称に対しては、カタカナで書く場合や他の外国語で記載する場合を除いては、本稿では韓国語の音読で竹島(チュクト)、松島(ソンド)と書くことにする。(訳注:翻訳では読み仮名のカタカナを省略)

    4)朴炳渉「島根県竹島固有領土論とらず」「半月城通信」No.134,2008.5.30.

    5)日本の鬱陵島・独島認識についての検討は、山辺健太郎、川上健三、池内敏、朴炳渉などが提起してきたことがあるが、韓国国内で明治時期の水路誌関連の地誌を対象に検討した事例は以下に言及する研究の他には殆どない。

    山辺健太郎「竹島問題の歴史的考察」『コリア評論』第7巻2号、1965,pp.4-14
    川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1966
    池内敏「日本江戸時代の竹島-松島認識」『独島研究』第6号、嶺南大学校独島研究所、2009.6,pp.199-221
    朴炳渉「明治政府の竹島=独島認識」『北東アジア文化研究』第8号、鳥取短期大学、2008.10,pp.33-49を参照

    独島領有権研究と関連して、日本の「水路誌」を対象に分析した研究はそれほどなかったと言える。独島研究と関連して部分的に扱っているものに、慎鏞廈(1996)、朴炳渉(2007)、柳美林・チェウンソク(2010)等があげられる。6) しかし全で概括的分析に終わっていて、水路誌を系統的に精密に分析していないと言えよう。以下、本稿では、まず日本海軍水路部の役割と水路部によって編纂された水路誌の性格について検討した後、近代日本の水路誌の中で鬱陵島・独島がどのように扱われ、日本は(少なくとも日本海軍省は)、鬱陵島・独島をどのように認識していたかを検討する。ここでは便宜上、1905年(2月22日)日本の独島強奪および1910年韓日強制併合を基点に時期区分して、①1905年独島侵奪以前、②独島侵奪以後、韓日強制併合に至るまで、③韓日強制併合以後の3つに分けて分析しようと思う。

    6)慎鏞廈『独島の民族領土社研究』知識産業社1996
    朴炳渉「明治時代の水路誌と国境策定」内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007,pp.96-104,
    柳美林・チェウンソク「地理誌の中の鬱陵島・独島認識の推移」『近代日本の地理誌に現れた鬱陵島・独島認識』韓国水産開発院、2010.12,pp.136-161.
    上の朴炳渉の論考は、竹島=独島netホームページ(www.han.org/a/half-moon/hm128.html)にも掲載している。
    訳注:柳美林・チェウンソク論文は
    http://www.ilovedokdo.re.kr/Boards.do?command=List&bid=archive01
    47 근대 일본의 지리지에 나타난 울릉도 독도 인식

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  31. Ⅱ. 日本海軍水路部の役割と水路誌の性格

    水路部は明治時代の日本海軍の組織の一つで、海軍省の外局と内局を行き来したが、水路の測量、海図の製作、海洋測量、海上気象および天体観測などの業務を管掌する機関であった。7) 

    7)現在、水路部が遂行してきた業務は、海上保安庁海洋情報部が担当している。詳しいことは次を参照。水路部の歴史と業務(www1.cts.ne.jp/~fleet7/Museum/Muse122.html)。
    (訳注:以下が正しい。fleet7の前の~なし)http://www1.cts.ne.jp/fleet7/Museum/Muse122.html

    1868年大政奉還よって明治行政府となり、兵部省が本格的に稼動するが、これは明治政府の新しい政策を遂行するためのものだった(を参照)。 これは幕府時代、藩所属の武士を新式軍制に改編するとともに、大陸侵略の基本枠組みを構築したという意味で行政改編の意義を持つもので、さらに、これは大陸進出をための諸般の活動のために活用される。
    日本の水路事業は、英国の測量技術を学び導入してから始まった。

    日本海軍水路部関連沿革 
    日付 主な事項 水路部長 備考
    1869.8.15.(明治2)明治官制大改革で兵部省設置  -
    1869.8.(明治2) 兵部省が御用掛に水路事業命令  -     水路調査開始
    1871.7.(明治4) 兵部省に海軍部が設置される   -
    1871.9.8.(明治4) 兵部省海軍部に水路局設置(兵部省海軍部内条例) 水路測量、浮漂、立標、灯台に関することを所管           -    兵部省 海軍部水路局
    1872.2.28.(明治5)海軍省設置、海軍省水路局  柳楢吉   海軍省水路局
    1872.10.13.(明治4)海軍卿直轄水路寮になり海軍省外局部署になる 同上 海軍省水路寮
    1876.9.1.(明治4)海軍水路局と指称 庶務、測量、製図、計算の4課設置 同上 海軍水路局
    1886.4.26.(明治19)参謀本部が海軍を吸収、海軍水路部に改称 同上 海軍水路部
    1888.6.26.(明治21)水路部条例で定めて名称を水路部に改称、海軍参謀本部長に隷属させる  肝付兼行 水路部
    1897.4.12.(明治30)海軍省機関に復帰   中尾雄  水路部
    1920.10.1.(大正9)水路部令(大正9)制定で水路部の管掌事項決定。 ①水路の測量、②兵要海上の観測、③水路図誌、航空図誌の調整準備、保管、供給、④航空、航空保安に関する事項 犬塚助次郎 水路部
    1945.11.29.(昭和20)敗戦にともなう海軍省解体で、水路部を運輸省に移管、運輸省水路部となる 木村進中 運輸省水路部

    1869年(明治2) 8月、兵部省の兵部大丞8) 川村純義(かわむらすみよし)は、柳楢吉(やなぎならよし)と伊藤雋吉(いとうとしよし)を兵部省御用掛として水路事業を進行させるように命じた。これが日本水路調査および実測の開始だった。1870年(明治3) 5月、二人は第一丁卯艦によって英国軍艦シルビア号(HMS Sylvia) (750トン、150馬力)と協力して測量を実施することもした。

    8)大丞は明治初期の官職名の一つで主務官を受け持っていた。省内で 卿=大臣、大輔、少輔に続く4回目の序列に該当した。日本Wikipedia近代日本官制(ja.wikipedia.org/wiki/近代日本の官制)

    その後、兵部省に海軍部が設置され(1871.7)、同じ年の9月8日、兵部省海軍部内条例によって海軍部に水路局が設置された。当時の所管事業は、水路測量、浮漂、水路標識(瀬印)設置、灯台に関する業務を施行するというものだった。1872年(明治5) 2月28日、兵部省を分離して陸軍省と海軍省が設置されて海軍省水路局になった。同じ年10月13日、海軍卿9) 直轄の水路寮10)となって海軍省の外局になる。しかし、1876年(明治9年)9月1日、再び海軍水路局と改称し、庶務、測量、地図製図、計算の4課が設置された。1886年(明治19年) 4月26日、名称を海軍水路部と改称し、1888年(明治21年) 6月26日、水路部条例が制定されて名称を水路部と直して海軍参謀本部長に隷属となった。その後、1897年(明治30年) 4月12日、再び海軍省の機関に復帰した。1920年(大正9年)水路部令(大正9年10月1日勅令第444号)が制定されて水路部の所管事項が次の通り決まった。すなわち①水路の測量、②軍事上必要な海上の観測、③水路図誌、航空図誌の調整準備、保管・供給、④航海、航空保安に関する事項などに関する業務を掌握するようにした。しかし1945年(昭和20年)日本の敗戦によって海軍省は解体され、同じ年11月29日に水路部は運輸省に移管されて運輸省水路部となった。11) このように、水路部は主に海軍省に隷属していて、陸軍省の陸地測量部と一緒に地図製作および海洋測量の重要な部分を担当するが、主に海図の作成と水路の測量、海上気象の観測および天体観測を主な業務としていた。また、海軍水路部12)が編纂した水路誌は、日本陸海軍が明治以後軍事的増強と大陸進出を企てながら、欧米の水路誌を参考にして日本周辺と世界の水路を測量し分析して編纂したものといえる。

    9)ここで海軍卿とは海軍大臣に相当するものである。

    10)太政官が最高決定機関で設置されていた当時に「寮」という部署単位が存在した。
    これは、部または局と同じ行政単位であった。

    11)その後、この業務は海上保安庁水路部に継承され、現在は海洋情報部と改称して担当している。 日本Wikipedia水路部(ja.wikipedia.org/wiki/水路部_(日本海軍))

    12)海軍水路部は、1869年兵部省傘下の部署として水路測量を開始し、1972年には海軍省水路局に、再び1876年海軍水路部に改称して海軍参謀本部の直属部署になった。


    日本最初の水路誌としては、海軍の作戦用として1883年4月に『寰瀛水路誌』を発行したが、これは朝鮮沿岸に関する最初の水路誌でもあった。そして『寰瀛水路誌』の第2版が1886年12月に発行された。『寰瀛水路誌』では、第2巻 韓露沿岸 第5編 朝鮮東岸の部分で、鬱陵島・独島を取り扱っている。しかしこの本は各国と地図および水路誌[図誌]の交換のために世界の水路事情を把握する必要性を感じた水路局が、1880年3月、世界各国の水路誌を翻案して編纂したものだ。また『寰瀛水路誌』は収集・測量した情報の量が膨大になって主要国家別に細分化されるが、韓半島に関連したことは1894年に『朝鮮水路誌』に編纂され、続いて1897年には『日本水路誌』が編纂された。そして韓日合邦以後『朝鮮水路誌』は『日本水路誌』に併合され、1933年に再び『朝鮮沿岸水路誌』に分離し、1952年には『朝鮮南東岸水路誌』に名称を変えることになる(を参照).

    朝鮮沿岸関連水路誌の発行沿革 
    年月 水路誌 発行 沿革 備考
    1883年7月『水路雑誌』 第16号刊行 1879年編集
    1883年7月『水路雑誌』 第41号刊行 1880年編集
    1883年4月『寰瀛水路誌』 第2巻刊行 最初の水路誌
    1886年12月『寰瀛水路誌』第2巻 第2版刊行 1889年廃刊
    1894年11月『寰瀛水路誌』第2巻の中から、第1編~第4編すなわち朝鮮全岸に関する記事を分離改版して『朝鮮水路誌』として刊行 朝鮮水路誌分離
    1899年2月『朝鮮水路誌』 第1改版 刊行
    1907年3月『朝鮮水路誌』 第2改版 刊行
    1911年12月『朝鮮水路誌』を改版して『日本水路誌』 第6巻と改称して刊行する。
    朝鮮沿岸、日本水路誌に統合
    1917年3月『日本水路誌』第6巻を『日本水路誌』第10巻と改称する
    1920年4月『日本水路誌』第10巻中、第1号編~第3編、すなわち朝鮮に関する総記、朝鮮東岸および南岸の記事を改版し『日本水路誌』 第10巻上として改称刊行する。
    1920年7月『日本水路誌』 第10巻中、第4編および第5編、すなわち朝鮮西岸に関する記事を改版して『日本水路誌』第10巻下と改称刊行する。
    1930年12月『日本水路誌』第10巻上を『朝鮮沿岸水路誌』第1巻と改称し、
    「日本水路誌」第10巻下を『朝鮮沿岸水路誌』第2巻と改称する。
    朝鮮沿岸、日本水路誌から分離
    1933年1月『朝鮮沿岸水路誌』第1巻改版刊行
    1934年8月『朝鮮沿岸水路誌』第2巻改版刊行
    1952年8月『朝鮮南東岸水路誌』刊行 独島 (=竹島)削除

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  32. Ⅲ. 水路誌に見る日本の鬱陵島・独島認識

    1. 独島侵奪(1905年)以前の水路誌

    明治時代に入り、外国から導入された海図などの影響で名称の混乱が発生することになった。13) 

    13) 川上健三は名称混乱の原因をオランダ人(訳注:ママ)シーボルト(P. F. Siebold)が日本地図を間違って伝達したことに求め、鬱陵島の過去の名称である竹島が松島に名称伝導した理由として説明している。この「名称伝導論」は、最近、島根県竹島問題研究会の名称操作論理の根拠になってもいる。しかしこの問題は必ずしも同意できない部分が多い。 川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1966,pp.11-20.

    江戸時代まで日本では一般的に鬱陵島を竹島、独島を松島と呼んでいた。しかし相次いで外国船舶および艦船が朝鮮東海を出入りして鬱陵島と独島の存在が欧米で知られ始めた。その代表的なものの一つとして、1849年フランスの捕鯨船リアンクール号が鬱陵島と独島を発見して、独島を船名を取ってリアンクール岩(Liancourt Rocks)と命名することが起きた。(訳注:リアンクール号は鬱陵島を発見したのだろうか?)

    また、日本の開港14) によって、日本の東海(日本海)沿岸地方の人々の鬱陵島近海通過も頻繁になりそこに露出し始めた。地方の藩では竹島開拓論が台頭し始め、一部は「松島」あるいは「竹島」という新しい島を発見したとして松島 (あるいは竹島)開拓の請願が相次いだ。15)

    14)日本はペリー提督の来航を契機に最初に米・日修好通商条約に調印することになるが、神奈川・長崎・函館を1859年(安政6年) 7月4日に開港することになった。この日付はアメリカの独立記念日に該当する。翌日オランダとの条約もこれを踏襲し(訳注:この部分事実誤認ありと思われるが本論と関係ないので省略)、次いでロ・日条約を、英・日条約もそれに準じて締結した。

    15)川上健三 前掲書、pp.33-39.

    1876年、武藤平学16)という者が、東海の中に朝鮮の鬱陵島でない「新しい島(新島)」を発見したといって、日本外務省に松島開拓之議を提出した。日本外務省は鬱陵島を竹島、独島を松島と呼び、これを朝鮮の領土と確認していたし、松島は小さい岩島に過ぎないと理解していたが、物産が豊富な新しい島を発見したと開拓を請願したので、日本海軍省にその実測を要請した。17) 

    16)武藤平孝とも言い、陸奥国出身で、長崎とウラジオストックを行き来して松島 (鬱陵島)を知るようになり、島内の物産が豊富なことを知るようになって、ウラジオストック駐在の瀬脇貿易事務官を通じて同島の開拓を請願した。川上健三、前掲書、pp.33-34.

    17)川上健三 前掲書、p.38.

    日本海軍省は、外務省の要請を受けて、天城艦を初めて朝鮮沿岸に派遣し、1878年4月と1880年9月、二度にわたって松島の実体を調査して実測した。18) 

    18)参考に、近代期に行われたロ・日の鬱陵島・独島実地調査を整理すれば次のとおりである。


    近代期 ロ・日艦隊の鬱陵島・独島実測調査 
    日付 艦船 調査内訳 備考
    1853.パルラダ号(ロ) 朝鮮東海岸と鬱陵島・独島測量
    1854.オリブチャ号(ロ) 朝鮮東海岸実測、独島をメネライ オリブチャ 列岩と命名
    1857.ロシア軍艦(ロ) 鬱陵島・独島実測(朝鮮東海岸図作成)
    1878.4.天城艦(日) 外務省の依頼で鬱陵島 (松島)調査「新しい島」松島が鬱陵島であることを確認
    1880.9.〃 鬱陵島を再度実測 水路報告33号報告
    1904.9.24.新高号(日)鬱陵島・独島踏査 同年9.26に報告
    1904.11.19.11.20.対馬号(日)独島踏査のために鬱陵島到着 望楼設置のために独島視察(3時間滞留)

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  33. しかし、武藤平学が発見したという新しい島が、他でもない朝鮮の鬱陵島であることを確認して、武藤の松島開拓之議を棄却することにした。しかし、日本海軍省では外国の海図などを参酌して彼らが最初に実測した松島 (Matsushima)という名称に傾倒して、鬱陵島を松島と呼び、従来には松島と呼んだ独島 (于山島)を「リアンコルト島(Liancourt Rocks)」という洋式名称を使い始めた。この二度の実測結果は『水路雑誌』に掲載しているが、これを示せば次のとおりである。


    松嶋 [水路雑誌 第16号(明治16年(1883) 7月発行)]
    この島は、海の中の一つの孤島で、我が(日本-筆者)隠岐国隠岐島から北東2分の1、同134里、19) 長門国角島から北2分の1、同185里、釜山浦から北西4分の3、北165里の地点にある。全島岩石で成り立つようだ。そして樹木が鬱蒼として周囲は絶壁が多く、ただ南東面に若干の平坦なところがある(私たちがそちらに到着して現地人(土人)が小屋(小舎)を作って漁船を作るのを見た)。他の海岸は小さい船でも接近できないようだ。東側に一つの小さい島があり、一方奇岩怪石が島を囲んで星羅のように島々が立ち並んでいる。私たちの艦隊が航海中にこの島の頂上の高度を測ってみると2,391尺20)だった。21)

    19)近代日本では、明治(1872)以後、海里概念を導入しているので、ここでの里は海里を現わす浬を意味する。 1浬=1.852km.
    20)メートルで換算をすれば、2,391隻(×0.303m)=725mであるが、実際の聖人峯の高さは984mである。

    21) 松嶋
    此島は洋中の一孤島にして、我隠岐国沖島より北東二分一、東一百三十四里、長門国角島より北二分一、東一百八十五里、釜山浦より北西四分三、北一百六十五里の処に在り。全島巖石より成るものの如く、而して樹木蔚然、周囲は絶壁多く唯南東面に少しく平坦なる処あり。我輩の此に到るや土人の小舎を構へ漁舟を造るを見たり。他の浜岸は小舟と雖も近つく可らさるか如し。東方に一小嶼あり。且奇石怪巖島を環らして星羅せり。我艦航走中此島頂の高度を測りて二千三百九十一尺を得たり。
    (海軍水路局, 『水路雜誌』第一六號, 1883年7月, pp.24-25).

    鬱陵島 (別名松島) [水路雑誌第41号(明治16年(1883) 7月発行]
    この島は私たちの隠岐から離れること北西3/4西の方に約140里(280km)、朝鮮江原道海岸から離れること約80里(160km)、海中に孤立して全島が高くそびえた円錘形の丘陵集合を成し遂げて、樹木がいっぱい覆っていて、その中心は北緯37度22分、東経130度57分、ロシア側によれば、(訳注:この「露測」は前にかかる。誤訳)最高峰は高さ4千尺 22) 島周り18里(=約70.2km)、その形態はほとんど半円と同じで、その東北の端から西南側までは6里4分の距離であり、その両端で海岸線は突然に南に屈折して東西に丸く曲がって島の南側の岬セイルサキに達する。少し海岸線の凹凸があって、そこを離れて小さい岩が一つあるが、とても低い。23)

    22) 1尺=30.3cm. 4千尺× 0.303=1,212mである。
    22) 1척(尺)=30.3cm. 4천척× 0.303=1,212m임.

    23) 鬱陵島(一名松嶋)
    該島は我隠岐を距ること北西四分の三、西約一百四十里、朝鮮江原道海岸を距ること約八十里、洋中に孤立し全島嵯峨たる円錐形の丘陵集合して、樹木之を蔽う。而して其中心北緯三十七度二十二分、東経一百三十度五十七分、露測に據る。最高山は高さ四千尺、島の周囲十八里、其形ち殆んど半円に似て其径東微北より西、微南に六里四分の一、其の両端より海岸線は突然南方に屈折し、逐次に東西に曲り、島の南岬「セール」埼に至る。少しく岸線の出入あり。該岬を離れて一小岩あり。甚だ低し。
    (海軍水路局, 『水路雜誌』 第四十一號, 1883年7月, p.124).

    この実地調査で、軍艦天城が1878年4月に実測した結果は『水路雑誌』第16号に、1880年9月に実測した結果は『水路雑誌』第41号に掲載されている。24)

    24)第16号では、1878年、軍艦天城が松島 (欝陵島)の経緯度を確認しており、第41号は1980年の軍艦の再調査を記録して、朝鮮東岸の地図に竹嶼を掲載している。編纂は1879年と1880年で違うが、二巻とも1883年7月に発行された。記録は、陸軍大尉ヤマスミ・ナガキヨ山澄直清、陸軍少尉補コバヤシ・ハルミ(小林春三)、同フクチ・クニカネ福地邦鼎の3人の連名になっている。前掲『水路雑誌』、pp.1-2.

    ここで独島は現れていないが、新しい島「松島」が朝鮮の鬱陵島であることを明確に認識することになり、江戸時代に独島に対して呼んだ「松島」という呼称を、独島ではなく鬱陵島に対して使う契機となった。したがって、中央政府まで論議がおきた「松島」および「竹島」に対する疑問も、それが朝鮮の鬱陵島であることが明確に明らかになる転換点となり、名称混乱の終止符を打つ契機になったのだ。換言すれば、1880年以後、海軍省は鬱陵島を従来の竹島ではなく松島と、独島を従来の松島でなくリアンコルト島という西洋名称で呼び始め、これは次第に日本の漁師の間にも少しずつ普及していった。しかし、山陰沿岸の人々に、鬱陵島は相変らず「竹島」と使われ25) 以前に「松島」と呼んで来て彼らの認識から遠ざかった独島は、海軍水路部の名称改称によって徐々に「リアンコルト島」という西洋名称に定着して行ったということができる。26) 

    25)竹内猛、「竹島=独島問題 固有の領土論の歴史的検討」、報光社、2010,pp.71-72.

    26)山陰地方の人々の名称使用は、筆者の口述調査によったもの(2009.4~2011.7:合計9回)。また、1696年鬱陵島争界の結果下された竹島渡海禁止によって、日本西北沿岸の山陰の人々に独島の認識はしばらく遠ざかっていた。竹内猛、前掲書、p.71.
    (訳注:竹内猛の71~72pには口述調査の記述はなく、ソン・フィヨンの調査と思われる)

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  34. 水路雑誌に続き、本格的な水路誌として編纂されたのが1983年発行の『寰瀛水路誌』だ。ここで寰瀛とは世界という意味で、世界各国の水路誌を集めて編纂した水路誌ということができる。1875年、雲揚号事件を契機にして朝日修好条規によって取得した利権である「朝鮮海岸測量権」に基づいて、日本海軍は朝鮮沿岸に航路と停泊港などの調査をして、その結果を1883年発行の『寰瀛水路誌』第2巻 第4編 朝鮮東岸部分に含ませる。独島はリアンコルト列岩といい、鬱陵島は鬱陵島別名松島といって朝鮮の記述部分に含ませており、下記のとおりである。

    リアンコルト列岩
    この列岩は、1849年フランス船リアンコルト号が初めてこれを発見して船の名前を取ってリアンコルト列岩と名前を付けた。その後1854年、ロシアのフリゲート型艦船であるパラス号がこの列岩をメネライおよびオリブチャ列岩と呼び、1855年英国艦隊ホルネット号はこの列岩を探険してホルネット列島と命名した。この船の艦長ポルシスの言によれば、この列岩は北緯37度14分、東経131度55分の地点に位置して、何も出ない2個の岩嶼で、鳥の便がいつも島上に堆積するので島の色が白い。27)

    27) リアンコールト列岩
    此列岩は洋紀1849年佛国船リアンコールト号初て之を発見し船名を取りリアンコールト列岩と名つく。其後1854年露国フレガット形艦パラス号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し、1855年英艦ホルネット号は此列岩を探検してホルネット列島と名つけり。該艦長フォルシィスの言に據れば此列岩は北緯37度14分、東経131度55分の處に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し、嶼色鳥めに(訳注:為にカ)白し
    (海軍水路部, 『寰瀛水路誌』第二卷, 第二版, 1886年12月, pp.397-398).


    鬱陵島 別名松島
    [西洋の名前タゲレット○海軍海図 第95号、第141号、第169号、英国海軍海図 第2459号を参照すること]
    この島は隠岐島から落ちることを北西3/4西の方に約140里、朝鮮江原道海岸から落ちることを約80里の海の中で孤立している。島全体が険しい円錐形丘陵の集合で成り立って、樹木がうっそうとするようにこれを暑くなっている。
    そしてその中央、すなわち北緯37度30分東経130度53分の地点に高さ4,000尺(呎28))の峰一つがある。 …春、夏の季節には朝鮮人がこの島に到来して朝鮮式船を製造してこれを本地に送ったり、多量の介虫を採取して乾燥する。おそらく朝鮮人は船を製造するのに鐵鈕を使うことは殆どなく、全部木でこれを結合する。また乾材を使うのを知らずに生木を使うようだ。29) 

    28)フィート(feet). 1呎=30.48cm.

    29) 鬱陵島(一名松島)
    洋名ダゲレット○海軍海図第九十五號第百四十一號第百六十九號英海軍海圖第二千四百五十九號ヲ参観スベシ
    隠岐島ヲ距ル北西四分三西約一百四十里朝鮮江原道海岸ヲ距ル約八十里ノ洋中ニ孤立ス全島嵯峨タル圓錐形丘陵ノ集合シタルモノニシテ樹木鬱然トシテ之ヲ蔽フ而シテ其中央即チ北緯三十七度三十分東経一百三十度五三分ノ地ニ高サ四千尺ノ一高峯アリ島周十八里形チ半圓ニ似テ其径東微北ヨリ西微南ニ至ル長サ六里四分一其両端ヨリ海岸突然南方ニ屈折シ尋テ逐次ニ東及ヒ西ニ曲リテ島ノ南端ナル海狗角ニ至ル而シテ其間ノ岸線ハ少シク出入ス又海狗角ノ対面ニ一個ノ小岩アリ。島岩ニ沿テ数岩アリ陸岸ト連ナラス其過半ハ東北両岸ノ間ニ居リ其内数岩ハ高サ四百尺ニヨリ五百尺ニ至ル○春夏ノ其ニ於テハ朝鮮人此島ニ渡来シ朝鮮形船ヲ製造シ以テ之ヲ其本地ニ送リ又多量ノ介蟲ヲ拾集乾晒ス蓋シ朝鮮人ノ船ヲ製造スルヤ鐵鈕ヲ用ユラズ甚タ少ナク皆木ヲ以テ之ヲ結合シ又乾材ヲ用ユルノ利ヲ知ラズシテ必ラズ生木ヲ用ユルモノノ如シ
    (海軍水路部 『寰瀛水路誌』第二卷, 第二版, 1886年12月, pp.398-399).


    これは『寰瀛水路誌』第2巻第2版(1886.12)で、1883年の第1版と内容はほとんど同じだ。ここで注目すべきことは、日本海軍省が編纂した『寰瀛水路誌』第2巻 第2版 韓露沿岸では、鬱陵島とともに「リアンコールト列岩」という名前で独島を韓国沿岸で扱っていることだ。

    しかし同じ年の1886年3月に刊行された『寰瀛水路誌』 大日本沿海 北西部 第1巻下に、隠岐全島の記述はあるが、独島は全く記載されていない。換言すれば、独島をどこに含ませるかということは、日本の海軍省がこれをどこの国の領土と見なしていたかを語る。言うまでもなく、独島は朝鮮の領域として認識していたということがわかる。また、鬱陵島の名称には「鬱陵島 別名松島」として「松島」とも称していることを併記している。ここで一つ注目することは、春・夏の季節に朝鮮人がこの島(鬱陵島)に渡ってきて船を建造するということだ。

    この資料は1878年ないし1880年に天城艦が実測したところに基づいて記述したと見られるが、当時は鬱陵島開拓令が発令される以前のことで巨文島など全羅道沿岸地方の人々が渡ってきて漁労活動および伐採・造船作業をしていたことを知ることが出来る内容だ。30)

    30)当時鬱陵島、独島に進出した全羅道沿海漁民の漁労活動については、キム・スヒ「開拓令期鬱陵島と独島に渡っていった巨文島の人々」『韓日関係史研究』 第38 2011.4,pp.
    197-229 を参照すること。

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  35. この『寰瀛水路誌』は、各国の沿岸に対する情報が次第に拡大し、その編材が各国水路誌の形態に変わって1889年その編纂が中断されるに至った。その代わり発行されたのが『朝鮮水路誌』『日本水路誌』『シナ水路誌』などのような国家領域別の水路誌であった。

    『朝鮮水路誌』は初版が1894年11月に発行され、朝鮮が独立国家としてある間、継続して刊行された。そうするうちに1910年、我が国が日本の植民地になるとすぐに、この水路誌の発行を中断して、1911年から『日本水路誌』に含ませて刊行した。『朝鮮水路誌』でも『寰瀛水路誌』と同じように、独島を「リアンコルト列岩」という項目で掲載している。

    リアンコルト列岩
    この列岩は西暦1849年フランスの船舶リアンコルト号がこれを初めて発見して船名前を取ってリアンコルト列岩と命名した。その後1854年ロシアのプレガット型艦隊であるパラス号はこの列岩をメネライおよびオリブチャ列岩と呼び、1855年英国艦隊ホルネット号はこの列岩を探険してホルネット列岩と名前を付けた。この船の艦長ポルシスの話によればこの列岩は北緯37度14分東経131度55分の地点にある2個の不毛の岩礁で成り立ち、鳥の糞がいつも島上に堆積してこのために島の色が白い。そして西北西から東南東に長さが約1里で、二島の間の距離1/4里で見える所ごとに暗礁につながって島を連結する。○西島は海面上の高さ410呎で形態はアメ塔と同じだ。東島は比較的低くて上部分が平たい。この列岩付近の水深はとても深いようだが、その位置はまさに函館に向かって日本海を航海する船舶の直水路に該当し、とても危険だ。31)

    31) リアンコールト列岩
    此列岩は洋紀1849年佛国船リアンコールト号初て之を発見し船名を取りリアンコールト列岩と名つく。其後1854年露国フレガット形艦パラス号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し、1855年英艦ホルネット号は此列岩を探検してホルネット列島と名つけり。該艦長フォルシィスの言に據れば此列岩は北緯37度14分、東経131度55分の處に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し、嶼色島めに白し而して北西彳西至南東彳東の長さ凡一里に嶼の間距離1/4里にして見たるところ一礁脈ありて之を連結す。西嶼は海面上高さ凡四一〇呎にして形糖塔の如し。東嶼は較低くして平頂なり。此列岩附近水頗る深きか如しと雖も、其位置は實に函館に向て日本海を航行する船舶の直水道に當れるを以て頗る危險なりとす。(水路部, 『朝鮮水路誌』全, 1894年11月, pp.255-256).


    鬱陵島 (別名松島)  海軍海図 第54号第95号を参照すること
    隠岐島から北西3/4西向約140里 朝鮮江原道海岸から約80里距離の海の中で孤立した全島上に向かって突き上がった円錐の山の集合で、樹木が鬱蒼として生い茂る。そしてその中心(北緯37度30分東経130度53分)に、高さ4,000呎の峰がひとつあり高く空に突き上がっている。○この島の周りは80里で形態は半円を成す。 ……春、夏二つの季節には朝鮮人がこの島に渡ってきて朝鮮型の船を作ってこれを陸地に送る。また、多量の介虫を収集乾燥する。多分朝鮮人は鉄を使わないで全部木で結合したり、また乾材を使うのを知らずに必ず生木を使うという。32)

    32) 鬱陵島(一名松島)[海軍海図第五四号第九五号を見よ]
    隠岐島を距る北西四分三西凡一四〇里朝鮮江原道海岸を距る凡八十里の海中に孤立す全島嵯峨たる圓錐山の集合にして樹木鬱然繁茂す而して其中心北緯三〇分東経一三〇度五三分に、高さ四〇〇〇呎の一峯あり。巍然天に聳ゆ。此島周廻十八里にして形幾と半圓を成す。……春夏兩季には朝鮮人此島に渡来して朝鮮形船を造り以て之を本地に送り亦多量の介蟲を拾集乾晒す蓋し朝鮮人は船を製造するに鐵鈕を用ゆることなく皆木を以て之を結合し又乾材を用ゆることをしらず必ず生木を用ゆるという。
    (水路部, 『朝鮮水路誌』全, 1894年11月, pp.256-257).


    ここで内容は『寰瀛水路誌』のそれと大きく異ならない。しかし国家別、領土別に区分した『朝鮮水路誌』でも、独島を「リアンコルト列岩」と記録して、明確に朝鮮の領土と見なしていることを確認することができる。水路と島嶼の測量を実施し、陸軍の陸地測量部とともに日本の国境を画定する機関だったとすることができる日本海軍水路部は、自らが発行する『日本水路誌』では厳密に日本の領土だけを取り扱うことができた。1897年に発行した『日本水路誌』第4巻 本州北西岸に独島に対する記述は全くなく、隠岐島までだけを扱っているのだ。ところが『朝鮮水路誌』第2版は、1899年に刊行されたが、「第4編 朝鮮東岸」に「リアンコルト列岩」と「鬱陵島」が並んで掲載されている(を参考)。

    『寰瀛水路誌』と『朝鮮水路誌』の二つの水路誌では、すべて朝鮮東岸の中に鬱陵島と独島を共に掲載していて、鬱陵島を独島 (リアンコルト列岩)の本島と見なしている。これは独島 (リアンコルト列岩)を、鬱陵島 (松島)の付属島と認識していることであるといえる。

    水路誌に見る鬱陵島・独島記述
    水路誌名  著者 鬱陵島・独島の取り扱い 発行年月 発行機関
    水路雑誌、第16号 山澄直清 松嶋 1883.7. 海軍水路局
    水路雑誌、第41号 山澄直清 欝陵島(一名松嶋) 1883.7. 海軍水路局
    寰瀛水路誌、第2巻 海軍水路部 リアンコルト列岩、欝陵島1883.4. 海軍水路部
    寰瀛水路誌、第2巻 第2版 海軍水路部 リアンコルト列岩、欝陵島1886.12.海軍水路部
    朝鮮水路誌(全)水路部 リアンコルト列岩、欝陵島1894.11.水路部
    朝鮮水路誌、第2版 水路部 リアンコルト列岩、欝陵島1899.2.水路部
    朝鮮水路誌、第2改版 水路部 竹島、欝陵島 1907.3.水路部
    朝鮮沿岸水路誌、第1巻 水路部 欝陵島、竹島 1933.1.水路部
    朝鮮南東岸水路誌 海上保安庁 欝陵島 1952.8.海上保安庁

    日本水路誌、第4巻(1897)水路部 鬱陵島独島記述なし1897.3.水路部
    日本水路誌、第4巻、第1改版 水路部 竹島[Liancourt rocks] 1907.6.水路部
    日本水路誌、第6巻 水路部 欝陵島、竹島1911.12.水路部
    日本水路誌、第4巻(1916) 水路部 竹島[Liancourt rocks] 1916.12.水路部
    日本水路誌、第10巻上 水路部 欝陵島、竹島1920.4.水路部

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  36. 2.独島侵奪以後 韓日強制併合までの水路誌(1905~1910年)

    前で調べた通り『朝鮮水路誌』は初版が1894年に発行され、朝鮮が独立国家である間継続して刊行された。1899年の第2版に続き、第2改版は1907年に刊行されたものだ。ここで興味深い事実は、日本政府が1905年2月、独島を「竹島」と命名して日本領土に編入した以後である1907年3月に発行されたという事実だ。それにもかかわらず『朝鮮水路誌』第2改版では「第5編 朝鮮海および朝鮮東岸(第五編 朝鮮海及朝鮮東岸)」で、独島を竹島 (Liancourt rocks)と変更して掲載しているが、相変らず朝鮮の領域と見なしていることだ。

    ここでは1904年11月に軍艦対馬が調査した内容を追加しており「韓国人はこれを独島と書き、我が国(日本-筆者)の漁師はリャンコ島と呼ぶ」として、我が国の人々がこの島を独島と呼んでいることを明らかにしている。これは記録上、独島という名称が一番最初にに登場するものでもある。また「淡水」という項目を追加して海獅子(アシカ) 33)猟のために使う水について追加的に言及しており、4ページにわたって非常に詳細に記述していることが特徴的だ。独島には何ヶ所かに산정에서 산복을 따라水滴に落ちる水と出てくる水(湧泉)があるけれど、その水の流れはアシカのおしっこに何度も汚染されてしまって一種の悪臭がして到底飲み物には適していない。そしてアシカ猟のために渡ってくる漁師は島の水をアシカを煮る水として使ったりもするが、茶の水は違うところで持ってきたのを使うという。

    33)ここではアシカを「海驢」ではなく「トド」と表記している(『朝鮮水路誌』第2改版p.454) (訳注:正しくは453p)

    竹島[Liancourt rocks]
    1849年フランス船リアンコールがこの島を発見することによってLiancourt rocksと呼んだ。その後1854年、ロシア艦パラスはこれをMenalai and Olivutsa rocksと命名し、1855年英国艦ホーネットはこれをHornet islandsと呼んだ。韓国人はこれを独島と書き、我が国漁師はリャンコ島と呼ぶ........ 明治37年(1904) 11月、軍艦対馬がこの島を調査した時は東島に漁師用の草屋根の穴蔵があったが風浪によってひどく破壊されていたという。 ....毎年夏になればアシカ猟のために鬱陵島から渡ってくる者が多い時は数十人に達する。彼らは島の上で穴蔵を作って毎年10日間留まるという。34)

    34) 竹島[Liancourt rocks]
    一八四九年佛船リアンコールト之を発見セシヲ以テ Liancourt rocksト称ス其後一八五四年露艦ベルラスハ之ヲMenalai and Olivutsa rocksト名ツケ一八五五年英艦ホルネットハ之ヲHornet islandsト呼ヘリ韓人ハ之ヲ独島ト書シ本邦漁夫ハリアンコ島ト曰フ 此島ハ日本海上ノ一小群嶼ニシテ隠岐國島前ヨリ大約八〇浬、欝陵島ヨリ大約五十浬ニ位シ広四分一浬ノ狭水道ヲ隔テ、東西ニ相対スル二島ト其周囲ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル
    ......明治三七年十一月軍艦対馬ノ此島ヲ實査セシ際ハ東島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風浪ノ為め甚タシク破壊シアリシト云フ 毎年夏季ニ至レハ「トド」猟ノ為め欝陵島ヨリ渡来スル者数十名ノ多キニ及フコトアリ此等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ毎回約十日間仮居スルト云フ
    (水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版, 1907年3月, pp.451-452).

    鬱陵島 別名松島(松島、Dagelet island)
    周囲18海里(浬)の半円形の島で、全島に数多くの尖鋭な円錘形の山で形成されていて、樹木が鬱蒼とする。そのうちの中央部すなわち約北緯37度30分東経130度53分の地点には高さ3,208呎(呎=feet)の峰一つが高くそびえている。島の北東側海岸には竹嶼(Boussole rock)を南南西1/4西側約2.75里に見える所に2呎ないしは3呎の岩がひとつある。35)
    …韓人の住民は明治37年(1904年) 12月末の調査によれば、戸85人口260、そのうち男175人、女85人だ。明治38年(1905年) 6月末には、戸110、人口366、そのうち男219人、女147人に増加した。ところが、その住民は開墾する耕地付近に住んでいて、家屋は各所に散在し、部落を成すのは8ヶ所に過ぎない。○本島には島監が在住する。本島に在留する日本人は木挽き、大工、漁師、乗船および仲買商を主にし、その他の色々な種類の職業に従事したりもして、明治38年(1905年) 6月末にはその数が約230人もなった。36)

    35) 鬱陵島一名松島(Dagelet island).
    周回十八浬ノ半円形島ニシテ全島幾多ノ尖鋭ナル円錐形山ヨリ成リ樹木欝茂ス其中央部即チ約北緯三七度三○分東経一三○度五三分ノ処ニハ高三、二〇八呎ノ一峯アリテ巍然聳立ス 島ノ北東岸ニ於テ竹嶼[Boussole rock] ヲ南南西1/4西約2.75浬ニ望ム処ニ水深二呎乃至三呎ノ一岩アリ(水路部, 『朝鮮水路誌』第二改版, 1907年3月, p.454).

    36) 韓人ノ住民ハ明治37年12月末ノ調査ニヨレば戸数85、人口260、ウチ男175女85ナリシが 38年6月末ニハ戸数110、人口366、ウチ男219女147ニ増加セリ。然レドモ該住民ハソノ開墾セル耕地ノ付近ニ住スルヲモっテ家屋ハ各所ニ散在シ村落ヲナスモノハ8箇所ニ過ギズ。本島ニハ島監在住セリ 本島ニ在留スル本邦人ハ木挽、大工、漁夫、船乗オヨビ仲買商ヲ最トシソノ他諸種ノ職業ニ従事セル者ニシテ明治38年6月末ニハソノ数約230人トナリシ
    (水路部, 『朝鮮水路誌』 第二改版, 1907年3月, pp.455-456).


    今までリアンコルト列岩と呼んだ独島を「竹島」という名称に変更することはあったが、相変らず『朝鮮水路誌』の「朝鮮東岸」で取り扱っている。この点に対して朴炳渉 (2007)は、水路誌は国家の重大な事項を取り扱うことであるから改訂版で項目の追加や訂正はしても削除は簡単にしないためだという。37) 

    37) 朴炳渉(2007)前掲論文、p.101.

    独島は鬱陵島とセットだという意識が強かったので、両者を分離して独島だけを削除するのは問題が多かったと見られるという。もちろん1905年独島編入当時の海軍水路部長だった肝付兼行は、『朝鮮水路誌』(1894.11)の序文を書いて独島を含んで編集した張本人で、独島が朝鮮領土であることは十分よく認知していた。その上彼は、独島 (リャンコ島)を朝鮮の領土と考えて朝鮮総督府にリャンコ島領土編入および貸下願を請願しようと3省(内務、外務、農商務)に相談をした中井養三郎を海軍省に呼び入れて、リャンコ島(独島)は所属が不明で「無主地」のようであり、「日韓二つの本国から距離を測定すれば、日本側が10里さらに近い」として、日本政府側に領土編入および貸下願を提出するようにそそのかした人物だった。38)

    38)竹内猛、前掲書、p.83.

    肝付はリャンコ島が朝鮮領ということを認知しながらも、露日戦争を有利に遂行するために独島に望楼を作ってロシア艦隊を監視するという軍事的利用に中井を引き込んだのだ。しかしリャンコ島が朝鮮領であることを十分知っていたし、しかも1905年これを日本領土に編入した事実をよく知っていながらも、相変らず朝鮮水路誌にそのまま記載している理由は明確でない。おそらく実務者次元でそこまで独島の削除を確認できないのはでないかと思う。

    鬱陵島に対しては「鬱陵島別名松島 (欝陵島一名松島[Dagelet island])」といって括弧の中に英語で「タジュレ島」を追加している。相変らず鬱陵島のそばに「別名松島」という但し書きを付けているのである。これは諸外国の海図で松島 (Matsushima,Dagelet island)という取り扱いを相変らずしているためではないだろうかと思う。ただし、日本海軍水路部は鬱陵島が過去に竹島と呼んだ朝鮮の島ということは1880年以後明確に認識していたのだ。

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  37. 理由がどうであろうと、領土編入以後にもリャンコ島(独島)が『朝鮮水路誌』に掲載されている事実は、日本政府にとっても都合の悪いことだった。なぜなら日清戦争後である1897に編纂された『日本水路誌』では日本が戦争で取得した台湾、澎湖島、そして当時日本が占領していた千島列島の南端はもちろん最北端の占守島までを掲載していたためだ。換言すれば、水路誌が当時の国家領域別の単位で扱われていることを語るもので、これを編纂した水路部は、国境画定に重要な機能を遂行していることを現わすものだ。そして『朝鮮水路誌』が発行されて3ヶ月後の1907年6月に『日本水路誌』第4巻、第1改版が急遽発行されるに至る。「第3編本州北西岸」の離島の編目に「竹島 [Liancourt rocks]」と追加している。明治38年に島根県所管に編入されたと追記している。

    竹島 [竹島、Liancourt rocks]
    北緯37度9分30秒東経131度55分、すなわち隠岐列島の北西約80浬に位置する群嶼で、周り約2浬、東西の二島と数個の岩礁で形成されている。○この二島は、ほとんど不毛の禿岩で、四方が絶壁を成し、鳥の糞で覆いかぶさって白く露出している。 ……○この二島の周囲に碁盤のように並んでいる巌嶼は、全部扁平で若干水面上に露出している。西嶼は、高さ約410呎39)で、とがった峰を成し、東嶼は比較的低くて頂上が扁平だ。○この群嶼は、周囲は陡界だ。しかしその位置は実に函館に向かって日本海を航海する船舶の直水路に該当するが、とても危険だ。この群嶼は毎年6~7月頃アシカ猟(海豹猟)のために我が国の漁師が到来する所で、明治38年島根県所管に編入された40)
    (『日本水路誌』 第一改版、1907年6月).

    39) 1呎=1feet=約30.48cm.

    40) 竹島[Liancourt rocks]
    北緯三七度九分三○秒東経一三一度五五分即チ隠岐列島ノ北西約八十浬ニ位セル群嶼ニシテ周回約二浬東西ノ二嶼ト数岩トヨリ成ル〇該二嶼ハ殆ト不毛ノ禿岩ニシテ四回懸崖ヲ成シ鳥糞ニ蔽ハレテ白色ヲ呈ス其間ニ一条ノ狭水道アリ幅約百二十碼乃至百八十碼、長三百六十碼ヨリ浅ク数個ノ岩嶼暗岩横ハル〇該二嶼ノ周圍ニ碁烈セル岩嶼ハ概ネ扁平ニシテ僅ニ水面ニ露出ス。西嶼ハ高約四一○呎ニシテ尖峯ヲ成シ東嶼ハ較ヤ低クシテ平頂ナリ〇此群嶼ハ周圍陡界ナルカ如シ然レトモ其位置函館ニ向テ日本海ヲ北上スル船舶ノ航路ニ近キヲ以テ夜間ニ在テハ時トシテ危険ナルコトアリ。其群嶼ハ毎年六、七月頃海豹猟ノ為メ本邦漁夫ノ渡来スル所ニシテ明治三十八年島根県ノ所管ニ編入セラレタリ。
    (水路部, 『日本水路誌』第四巻, 第一改版, 1907年6月, p.372).

    この時期の水路誌では、一方では、従来のように『朝鮮水路誌』(1907.3) 「日本海および朝鮮東岸」でそのままに取り扱いながら、その3ヶ月後に発行した『日本水路誌』第4巻第1改版に簡単に挿入して、日本領土に編入した事実を記録している。急遽改訂版を発行して「竹島」を日本水路紙に記載したことは、水路誌が国家領土別の編集だったことを物語るものだ。一方、領土編入後にも『朝鮮水路誌』に「竹島」が相変らず収録されている点は、軍略上の必要、または水路誌の項目添削に関する原則および行政体系によったと見られるが、正確な理由は分からない。

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  38. 3.韓国強制併合以後の水路誌

    1910年8月22日に大韓帝国と日本帝国の間に結ばれた合併條約によって、日本は韓国を強制併合することになった。当然、国家としての大韓帝国(朝鮮)は消滅したので日本の一つの地方として扱われることになった。過去に領土獲得によって台湾などを日本水路誌に編成を変更したように『朝鮮水路誌』と『日本水路誌』は強制併合以後である1911年から
    『日本水路誌』に合本することになる。植民地になった朝鮮を『日本水路誌』第6巻(1911.12)に含ませているということは、水路誌が国家別の管轄単位で編纂したことを再び示していることは明らかだ。これは『日本水路誌』は日本の領土を取り扱うという原則がそのまま守られた結果である。

    『日本水路誌』第6巻では、第2編朝鮮東岸で、鬱陵島と竹島 (独島)を共に掲載していて、その内容は『朝鮮水路誌』のものを殆んどそのまま移している。その後、改正とともに分量が増加したためか「朝鮮沿岸」は上下2冊に分けて、名称も変更して『日本水路誌』第10巻 上巻・下巻として刊行した。独島は上巻に竹島 [Liancourt rocks]という名前で掲載している。一方、1907年『日本水路誌』第4巻第1改版「第3編 本州北西岸、竹島 [Liancourt rocks]」編に含ませた独島に関する記述は、1916年『日本水路誌』第4巻で「第1編 本州北西岸」の「竹島 [Liancourt rocks]」の項目に継承されて掲載されている(を参照)。これは、改訂版で追加や訂正はしても、既存項目の削除は簡単にしないという説を支持すると見られる。41) 

    41) 朴炳渉(2007)前掲論文、pp.100-101を参照.

    その後、『日本水路誌』第10巻は編纂が中止され、そのかわり朝鮮沿岸に関連した部分は1933年『朝鮮沿岸水路誌』第1巻、第2巻として刊行された。鬱陵島と独島は第1巻「第3編朝鮮東岸」の「鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)」の項目に「鬱陵島 [松島]」および「竹島 [タケシマ]」という名前で並んで掲載された。

    鬱陵島および竹島 (欝陵島及竹島)
    鬱陵島 [松島] (海図306分図)
    龍湫岬の69度約73里にある周囲22里の半円形の島で、全島多数の尖鋭な円錘形の山を成し樹木が鬱蒼としている。ところがその海岸付近は住民が増加するにつれ、あるいはこれを焼却して耕地を切り開いたり濫伐することによって随所に裸山が見える。
    ○島の中央部すなわち北緯37度30分、東経130度52分の地点に高さ985メートルの一峰・聖人峯 (ナラ山)があり、高く聳え立っている。道洞港 間巌末の北東側2.5海里(浬)に位置して北風ないし西風を避けるが、東風ないし南風が強く吹けば停泊するのに困難だ。
    ○海底の傾斜が急で、特に海岸800メートルを離れて水深182メートルで、海の底(底質)の砂または岩によって良好な停泊地(錨地)とはいい難い。
    ○海岸から250ないし280メートル離れて、水深32ないし36メートル地点に1等駆逐艦1隻をしばらく停泊させられるし、底辺は岩になって海底の傾斜が急なので錨を下す時に注意を怠ってはいけない。ただし錨を海底に下すには問題がないという。42)

    42) 欝陵島及竹島
     欝陵島[松島](海圖306分圖).
    龍湫岬ノ69度約73浬ニ在ル周囲22浬ノ半円形島ニシテ全島数多ノ尖鋭ナル尖鋭ナル圓錐形山ヨリ成リ樹木稜茂ス、然レドモ其ノ海岸附近ハ住民ノ増加スルニ従ヒ或ハ之ヲ焼却シテ耕地ヲ開キ或ハ濫伐セシヲ以テ処々ニ禿山ヲ見ル○島ノ中央部即チ北緯37皮30分、東経130皮52分ノ処ニハ高サ986米ノ1峯聖人峯<羅里山>アリテ巍然聳立ス。道洞港 間巖末ノ北東方2.5里ニ位シ北乃至西ノ風ヲ保障スレドモ東乃至南風強吹スルトキハ碇泊困難ナリ○海底ノ傾斜ノ傾斜急ニシテ距岸800米ニシテ水深182米アリ、底質沙又ハ岩ニシテ良好ナル錨地トハ言ヒ難シ○距岸250乃至280米、水深32乃至36米ノ処ニ1等駆逐艦1隻ヲ漸錨泊セシメ得ベシ、低質岩ニシテ海底ノ傾斜急ナルヲ以テ走錨ニ対シ注意ヲ怠ルベカラズ但シ錨海底ニ拘ル憂ナシト謂フ。
    (水路部, 『朝鮮沿岸水路誌』第一巻, 1933年1月, pp.86-87).

    竹島 [タケシマ]
    この島は日本海上の一つの小群嶼にして、島根県隠岐島前から概略86海里(浬)、鬱陵島から東南東側約50海里(浬)に位置し、幅1鏈程度の狭い水道で東西に向かい合う2島と、その周囲に分布する多くの小嶼で構成される(第89ページ対面大景図第25および第26を参照)。その西方島は、海面上に高さ約157メートルで飴棒状を成し、東方島は比較的低く、その頂上に平坦な地帯がある。また、周囲の諸小嶼は概して扁平な岩で、若干水面から露出して、大きいのは本当に数十畳43)を敷くほどの広さだ。2島は全部粗末な岩塊(禿岩)で海風に露出してひと株の樹木もなく、東側島には若干の野草が育つだけだ。また、島岸は断崖絶壁で、軟質の石層になって、奇異な洞窟が多く、ほとんど登ることはできない。そこでこれら洞窟および小嶼は海驢の密集地となる。44)

    43)日本の伝統的な面積の単位で、畳1枚の大きさ。すなわち、91cm× 182cmの面積をいう。畳2枚=2畳が約1坪になる。

    44) 竹島[タケシマ] 
    此ノ島ハ日本海上ノ1小群嶼ニシテ島根県隠岐島島前ヨリ大約88浬、鬱陵島ヨリ東南東方約50浬ニ位シ幅1鏈余ノ狭水道ヲ隔テテ東西ニ相対スル2島ト其ノ周囲ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル(第89頁対面対景図第25及26参照)。其ノ西方島ハ海面上高サ約157米ニシテ棒糖形ヲ成シ東方島ハ較低ク其ノ頂上ニ平坦ナル地アリ又周囲ノ諸小嶼ハ概ネ扁平ノ岩ニシテ僅ニ水面ニ露出シ其ノ大ナルモノハ数十畳ヲ敷クニ足ルベシ。2島共ニ全部脊痩ノ禿岩ニシテ海風ニ暴露シ1株ノ樹木ナク東方島ニ於テ僅ニ野草ヲ生ズルノミ、又島岸ハ断崖絶壁ニシテ軟質ノ石層ヨリ成リ奇観ノ洞窟多ク殆ド攀躋スベカラズ而シテ此等ノ洞窟及小嶼ハ海驢ノ群棲所タリ。
    (水路部, 『朝鮮沿岸水路誌』 第一巻, 1933年1月, p.88).


    鬱陵島については周辺の暗礁などについて詳しく言及しており、鬱陵島の自然景観に対しても詳細に扱っている。そして気象、潮水および海流、停泊地、住民、道洞港の水深と海底構造に至るまであつかっているが、その時まで実測された事項を鬱陵島の断面図とともに説明している。さらに独島に関しては「竹島 [タケシマ]」といって、今まで使った西洋名のLiancourt rocksが消えて、代わりにカタカナで「竹島」と括弧の中で取り扱っている。「島上の平地」と「淡水」という項目を置き、今まで実測した内容を追加的に含んでいる。島の上は家屋を建築する土地が殆どなくて、明治37年(1904) 11月、軍艦対馬がこの島を調査した時は東方島に漁師用の臨時小屋があったが風浪でひどく破壊されていたという。毎年夏になると、アシカ漁業のために鬱陵島から到来する者が多くて数十人に及ぶが、彼らは島の上に小屋を作って毎回約10日間留まるということを記録している。

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  39. 1907年および1916年の『日本水路誌』第4巻で竹島 (独島)だけを取り上げて収録した場合を除けば、鬱陵島と独島は、鬱陵島 (松島)と竹島 (リアンコルト島)として朝鮮東岸の編目に一貫して併記していることは、独島を朝鮮領土である島と見なしたことはもちろん、鬱陵島の付属島(属島)と見なして一つのセットとして二島を取り扱っているということがわかる。また、項目の内容面でも、独島 (竹島)のアシカ猟が鬱陵島を根拠として成り立っていることを一貫して見せている。これは過去に日本の漁師が独島を独島単独で利用せずに、鬱陵島を拠点にして経済活動を展開したことを立証するもので、日本が主張する松島 (独島)だけに別に渡海したとか、独島にだけ独自に漁労活動を展開したというような論理が、事実とは違った虚構であることを立証するものである。45) 

    45)川上健三,前掲書、pp.66-73.

    このような事実は、日本沿海の漁民と、海軍省を除いた日本政府が、今まで一般的に、独島 (松島)を鬱陵島 (竹島)の付属島として認識していたことと一脈相通じる点だ。

    鬱陵島と独島の関係性を現わした日本の記録
    日     記録内容   文献          備考
    1659.6.21.竹嶋近辺松嶋 「控帳」「大谷家文書」
    1660.9.5. 竹嶋之内松嶋「大谷家文書」
    1662.9.8.竹嶋近所之小嶋「大谷家文書」
    1870.4.15.松島は竹島の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)「朝鮮国交際始末内探書」 『日本外交文書』
    1877.3.20.竹島外一島太政官指令文      鬱陵島と独島を一つのセットと考える
    1878と.12.松島は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)「竹島考証」 外務省公信局長田辺太一の意見書

    を見れば、江戸時代、幕府の竹島渡海免許という名目で鬱陵島にむやみに渡海して鬱陵島の資源を奪取した大谷・村川両家の独島認識は、「竹嶋之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」あるいは「竹嶋近所之小嶋」として、これらの漁民は鬱陵島の付属した島として独島を見たことがわかる。また、日本外務省が朝鮮の内偵のために派遣した高官46)の報告書『朝鮮国交際始末内探書』においても、松島 (独島)は竹島 (鬱陵島)の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)と見ていたし、鬱陵島-竹島-松島の名称混乱があった時、日本外務省公信局長・田辺太一の意見書でも「松島 (独島)は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)」という認識を持っていた。47)

    46) 1869年12月、朝鮮偵察のために、日本外務省は佐田白茅、森山茂、斎藤栄の3人を朝鮮に派遣し、その結果は1870年4月15日朝鮮国交際始末内探書として提出された。

    47)チョン・ヨンミ訳、「竹島考証」 下、正しい歴史確立企画団、2006,p.476を参照.

    さらに、明治の地籍編纂事業を推進する過程で、竹島 (鬱陵島)と松島 (独島)の取り扱いをどのようにすべきかを問い合わせた島根県の稟議書に対し、当時の最高の決定機関だった太政官指令で、鬱陵島と独島を「竹島外一島は本邦(日本-筆者)と関係ない」として二島を一つのセットと考えて取り扱ったことを知ることができる。

    このような点を推察しても、日本でも伝統的に、鬱陵島と独島の関係を一つの島の付属島、あるいは一つのセットと見なしたことは明白だと言えよう。こうしたことは、日本の漁民だけでなく、外務省および太政官、海軍水路部までも独島を一つの独立した島とは見ずに、鬱陵島とは不可分の島と認識していたということだ。

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  40. Ⅳ. 結び

    以上、日本の水路誌で取り扱った鬱陵島・独島を分析し、日本がこれをどのように認識してきたかを考察してみた。海軍水路部は、陸軍の陸地測量部、および内務省地理寮(地理局)とともに、地図の測量および製作業務を引き受けて国境画定の基礎業務を所管した。日本の水路誌の変遷過程を見て明白なように、水路誌は国家の領土・領海を規定する単位として各国の水路誌を編纂してきたし、竹島問題研究会や日本政府が抗弁するように「海軍水路部は国境画定機関ではなく、水路誌は航海の便宜のために製作されたものだ」48)というのは、道理に外れる苦しい弁明でしかない。

    48)例えば、船杉力修「絵図・地図からみる竹島(Ⅱ)」『竹島問題に関する調査研究 最終報告書』竹島問題研究会、2007.3,p.155を参照

    日清戦争によって新しく取得した領土、台湾を『日本水路誌』に編入した事実や、大韓帝国を強制併合した後『朝鮮水路誌』を『日本水路誌』に統合した事実は、水路誌が国境画定の単位で編纂されていたことを物語るもので、これは弁解の余地がない厳然たる事実である。
    また、独島強奪を試みた後の1907年6月『日本水路誌』第1改訂版では、先立って3月に発行した『朝鮮水路誌』に竹島 (=独島)を含ませていることを一歩遅れて認知して、竹島 [Liancourt rocks]と訂正している。これは海軍の軍事戦略上の必要性によって独島を編入しながら相変らず朝鮮の領域であることを認め、『朝鮮水路誌』に独島を含ませているものだ。これもまた弁解の余地はない。

    近代日本では、鬱陵島と独島の名称について「竹島」と「松島」「リャンコ島」等混乱した時期があった。それにもかかわらず、日本政府内でも外務省と内務省などは、鬱陵島を「竹島」、独島を「松島」と呼んでいた。しかし唯一海軍省だけは鬱陵島を「松島」、独島を「リャンコ島」と称して水路誌でそのように掲載していた。これは外国から導入した海図の影響によるものであり、当時実際に日本国内で使われていた鬱陵島および独島の名称とは全く別個のことだった。以下、本研究で明らかになった結果を整理することで、この文の仕上げにかえようと思う。

    第一に、山陰沿岸地方の漁民と、日本の太政官、および外務省などは、19世紀後半まで一貫して鬱陵島=竹島、独島=松島と認識していたのに、日本海軍は鬱陵島=松島、独島=リアンコールトと違う認識をしていた。このような事実から、後日のリャンコ島日本領土編入のための一抹の意図的誤認が伺えるという点を指摘することができる。これは過去の対馬藩による鬱陵島奪取の企図や、竹島一件の発生などと一脈相通じるものだ。

    二番目、1905年独島の日本編入以前までと、1910年韓日強制併合以後から解放になる時まで、水路誌では鬱陵島と独島を一つのセットと見なして鬱陵島の項目に共に取り扱っている。これは江戸幕府時代、独島 (松島)を鬱陵島 (竹島)の付属島(属島)または近隣島(隣島)と見なして認識しているのと同じである。

    三番目、近代日本海軍の水路誌編纂は、領土区分を明確にして発刊してきた。日本領海中に入る地域を、1895年以後では台湾を含んだものを『日本水路誌』に、その外のものを『朝鮮水路誌』と明確に区分していたし、ここで水路誌は領海・領土を単位に区分したことが明確だということだ。したがって、独島・鬱陵島を『朝鮮水路誌』に含ませていることは、明確にこれを朝鮮の領域と見なしたものに間違いはない。

    論文投稿日時:2012.1.25  審査完了:2012.2.7  掲載確定日時:2012.2.20

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  41. 水路誌を年代順に追いかけて言えることは、「リアンコールト列岩」については、まず翻訳で認識し、実態を知るのは1899年(明治32年)『朝鮮水路誌』が発刊されて以降のことなのではないか、ということです。

    水路誌の記述が大きく変わるのは、1907年(明治40)版からで、新しいことがいろいろ書いてあります。
    1904年9月の『新高』、同じく11月の『対馬』の調査によるところが大きいと思います。
    この直前(1904年夏~秋)、中井養三郎が東京で活動したことが、その関心喚起の契機になっているのではないかと思います。

    編入時点での緯度・経度は、アメリカのニューヨーク号の数字です。
    日本の自前の緯度・経度の数字を書くのは、明治41年(1908)年『松江』の調査以降です。

    明治25年(1892)、『日本水路誌』第一巻の全体図(日本海岸区域図=明治24年6月)に、「松島」と「リヤンコールド岩」が図示されますが(鬱陵島と現竹島と思われます)、ここでは明らかに「日本沿岸」の範疇には入っていません。この時点で「リヤンコールド岩」が「隠岐の一部」だとする認識がないのは確実です。
    水路部長は肝付兼行です。

    水路誌の名称・地域区分は「領土区分」をあらわすものだ、と韓国側は主張しますが、
    これが誤りであることは、1907年『朝鮮水路誌』(第二改版)以降にも、竹島がずっと「朝鮮側」に入り続けていることが、逆に証明となります。
    これらの時点で、竹島が日本領であることは海軍水路部は当然良く知っているわけですが、名称や地域区分が「領土」をあらわすものであれば、当然ここからは記述が消えなければならないからです。

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  42. 『軍艦新高行動日誌』1904年(明治37年)9月25日条

    松島ニ於テ「リアンコルド」岩 実見者ヨリ聽取リタル情報
    「リアンコルド」岩 韓人之ヲ独島ト書シ 本邦漁夫等 略シテ「リヤンコ」島ト呼称セリ

    という有名な一節がある資料ですが、全文の起こしはなかなかないようです。


    田中さんの所に、影印があり、大変にありがたいです。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/
    ただ、原文の起こしがなく、現代語訳がありますが、誤訳があるようにも思います。

    なかなかネット上に起こしがなく、ようやく一つありましたので、これをもとに直します。
    http://www.dokdo.go.kr/pages/sub05/page.html?mc=70&skin=free&no=7879&start=255&mode=view&table=board_kbbs04&category=board_kbbs04

    韓国人が起こしたものと見え、漢字も旧字体を使っています。しかし「実」も「独」も「数」も、原文は旧字体ではなく新字体を使用しています。
    すなわち、「獨島」ではなく「独島」と書いてあります。
    これが、「独島」という名前の、日韓を通じての一番古い文献です。

    テン・マルを打っていませんが、スペースを入れて区切っているのは私の解釈です。
    不明の文字があります。小嶋さん、お助け願います。
    *「点」の字は原文に「奌」と書いてありますが、うまく出ないので「点」にしました。
    「距離」も略字を使っていますが「距離」としました。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    松島ニ於テ「リアンコルド」岩 実見者ヨリ聽取リタル情報
    「リアンコル」ド岩 韓人之ヲ独島ト書シ 本邦(「郡」ミセケチ)漁夫等 畧シテ「リヤンコ」島ト呼稱セリ 別■畧圖ノ如ク 二■ノ岩嶼ヨリ成リ 西嶼ハ高サ約四百呎 險沮ニシテ攀ルコト困難ナルモ 東嶼ハ較低クシテ 雜草ヲ生シ 頂上稍々平坦ノ地アリ 二三小舍ヲ建設スルニ足ルト云フ
    淡水 東嶼東面ノ入江內ニテ少許ヲ得 又仝嶼ノ南B点水面ヨリ三間余ノ所ニ湧泉アリテ 四方ニ浸出ス 其量稍々夛ク 年中凅渴スルコトナシ 西嶼ノ西方C点ニモ亦淸水アリ
    嶼ノ周回ニ点在スル岩ハ 槪シテ扁平シテ 大ナルハ数十畳ヲ敷クニ足リ 常ニ水面ニ露出ス 海馬玆ニ群集ス 兩嶼ノ間ハ船ヲ繫グニ足ルモ 小舟ナレバ陸上ニ引揚グルヲ常トシ 風波強ク仝島ニ繫泊シ難キ時ハ 大低松島ニテ順風ヲ得 避難スト云フ
    松島ヨリ渡航 海馬獵ニ從事スル者ハ 六七十石積ノ和船ヲ使用シ 嶼上ニ納屋ヲ構エ 每回約十日間滯在シ 多量ノ收額アリト云フ 而シテ其人員モ 時々四五十名ヲ超過スルコトアルモ 淡水ノ不足ハ告ケザリシ 又本年ニ入リ 数回渡航シタルニ 六月十七日 露國軍艦三隻仝島附近ニ現ハレ 一時漂泊シ 後 北西ニ進航セルヲ実見セリト云フ

    リヤンコ畧図
    隠岐島前ヨリ距離四十五里(日本里)
    松島ヨリ距離二十五里(日本里)
    周囲 壱里
    トド 数 数万
    分娩期 六月

    松島東南望楼臺
    ヨリ望遠鏡ヲ以テ
    見タル「リヤンコ」島

    ・・・・・・
    ●正式名称を「リアンコルド」岩としつつ、本邦漁夫の略称は「リヤンコ」島としている。
    「ア」と「ヤ」の違いは、それなりに重要と思われる。

    ●すべてが、「~ト云フ」という伝聞であり、『新高』は実際には竹島に行っていない。
    略図と、望遠鏡を使って鬱陵島から見た図がある。これが日本政府の公式機関が認識した、竹島の最初の姿と思われる。

    ●略図に、「辰」という文字が見え、東南東方向と思われる。この図は、北を上にしたものではなく、実際に現地に行っていた漁師(インフォーマント)の図を写したものかと思われる。

    ●隠岐からの距離が「島前」より、となっている。江戸時代には島後の福浦が使われており、距離をはかるのに「島前」を基準にしているのはなぜか。このあとの水路誌には、ずっと「島前」からの距離が記述される。

    ●「東嶼」「西嶼」の名称を使う。ただし、この記録は、既存の水路誌を参照している可能性がある。
    「西嶼ハ高サ約四百呎」の記述に「フィート」を使っているが、現地を知る漁夫が「フィート」で測っているか、やや疑問である。

    ●本文で「リヤンコ」島とするが、略図のキャプションでは島をつけずに「リヤンコ」となっている。漁師たちは「リヤンコ」と呼んでいたのであろう。

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  43. 「リアンコールト」岩と、「江戸時代の松島」を結びつける資料を探しているのですが、意外と見つかりません。

    さしあたって、1902年の『通商彙纂』です。これより古いものをご存知でしょうか?

    外務省通商局編纂 『通商彙纂』
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushoisan-1902/
    田中邦貴サイト

    1902年10月16日 第234号
    1902年10月10日付けの釜山駐在日本領事館の本国への報告書

    韓国鬱陵島事情
    第七、漁業ノ状況 p46
    又本島ノ正東約五十海里ニ 三小島アリ 之ヲリャンコ島ト云ヒ 本邦人ハ松島ト稱ス、同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ 本島ヨリ出漁スルモノアリ 然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ 永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ 四五日間ヲ經ハ本島ニ歸港セリ

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka17/tsushoisan-1902/10.jpg

    「之ヲリャンコ島ト云ヒ 本邦人ハ松島ト稱ス」
    とあるので、江戸時代の松島であることを鬱陵島にいた本邦人は知っていたことになります。
    鬱陵島にいたのは地元の人(隠岐や山陰の人)が多いので、歴史を知っていたのでしょうか。

    政府の公式文書で、「リアンコールト岩」=「江戸時代の松島」が出てくるのはこれが最初ではないかと思います。

    この時も、中央政府が大谷・村川の「竹島渡海」を思い出している、とは言えないように思います。

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  44. 「別紙畧圖ノ如ク、二坐ノ岩嶼ヨリ成リ」
    一つ目の字は草書体の「紙」です。崩すと糸偏が「子」・「る」のようになり、旁が「ギ」に似た形になることはよくあります。

    二つ目は山を数える数詞の
    坐 (u5750 )です。
    正確には、ユニコードには存在しない「koseki-057380」または「juki-af4f」という書体で書かれています。
    ユニコードで相当する異体字としては
    u21261
    u2128e
    u21299
    などが近い書体ですが、多くの人のパソコン環境では表示されませんので、
    表示できるユニコードで近い字は、口に縦棒と又(人)と書いて下に「土」と書く
    㘴u3634 です。 これでも、MS明朝では出ません。花園明朝Aフォントで表示されます

    ややっこしいですが、引用するときは、普通に
    座 (u5ea7)でも代用できます。

    江戸時代の人や、明治時代の人が、現代と同じ略字を使っていなかったようについつい思ってしまうのは、現代教育をうけた人の勘違いですね。
    古文書を翻字するときは、原文に出来るだけ忠実にするか、全文現代簡略字にするか、全文を康煕体の正字にするかの三方法があり、それは自由であり状況によると思います。

    この史料では、険阻・嶮岨とすべき字が、髙サ約四〇〇呎「険砠」となっていたり、
    距離が、略字の「ぐうのあし」を使って「巨离」となっています。これは、略字で翻刻するべきではありませんね。
    ただ、玆は、「茲」と書かれている様に思います。

    私は原文の雰囲気を生かしたく思いますので、なるべく忠実に書き起こすことを旨とします。しかし、それだと多くの人が読めなくなってしまい、翻字・翻刻の意味がなくなってしまう。難しい處です。

    地図の方角ですが、「辰」とありますので、たしかに東南東の近い方位ですね。
    北極星のことを北辰ともいいますが、この地図の地形から、この方角を北とすると実際の地形とは全く異なってしまいます。 時計の表示で見て、12時を北とすると、辰は4時の位置になります。真東から南へ角度にして30°の方角です。
    これは隠岐の方向を示していますので、江戸時代の「隠岐の松島」の概念が完全に消え去ったわけではないことを示していると思います。

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  45. 小嶋さん

    ありがとうございました。

    >地図の方角ですが、「辰」とありますので、たしかに東南東の近い方位ですね。
    >これは隠岐の方向を示していますので、江戸時代の「隠岐の松島」の概念が完全に消え去ったわけではないことを示していると思います。

    なるほど、これは「発見」ですね。
    地元では、たしかに残っているのだと思いますし、何よりも、隠岐から竹島(このときは「リャンコ島」)に漁に出かけていた時代でもありますね。

    鬱陵島から行くのも
    >松島ヨリ渡航 海馬獵ニ從事スル者ハ 六七十石積ノ和船ヲ使用シ
    とあります。この「和船」とのことわりは、何を意味するのか?
    汽船のような大型の船ではない、という意味か。「朝鮮船」というようなタイプの船があったのか。
    「六七十石積」というのは、どのくらいの大きさなんでしょうか。

    鬱陵島からの出漁の記録ばかりが残ってしまっている感じですが、隠岐からの出漁の記録を、しっかりと残して発信するべきだと思います。

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  46. 皆様
    韓国の新聞『帝国新聞』1901年4月1日の記事に
    「ヤンコを日本が得た」、というようなことが書いてあるらしいのですが、
    何かご存知でしょうか?

    最近の話ではなく、2010年の論文を訳していたら出てきました。
    それも新発見の記事ではなく、この段階ですでに知られている内容について論評している感じです。


    柳美林・チェウンソク
    『近代日本の地理誌に現れた鬱陵島・独島認識』韓国水産開発院、2010.12
    유미림•최은석, 2010, 『근대 일본의 지리지에 나타난 울릉도 독도 인식』, 한국 해양수산개발원.
    http://www.ilovedokdo.re.kr/Boards.do?command=List&bid=archive01
    47 근대 일본의 지리지에 나타난 울릉도 독도 인식


    82~83p
    これを立証するほどの資料が1901年4月1日帝国新聞の記事だ。ここに‘ヤンコ’という島名前が初めて見えるが、この‘ヤンコ’が“鬱陵島東南三十里海中にある”とした。しかしここで30里を朝鮮の里程で見るならば独島でない竹島(訳注:竹嶼)を示すと見ることができる。だがここで言う30里が上の『韓海通漁指針』で言う“鬱陵島から東南方で約30里”とある内容と関係があるならば、帝国新聞の30里は300里をいうことだ。それならこれは独島を示す言葉になるが、韓国の新聞で日本の里数を言ったと見るのも難しい。‘ヤンコ’を独島と見る場合、この島を日本が得たといった点は、1900年を前後した時期に照らしてみる時、事実とは合わない点がある。

    原文
    이를 입증할 만한 자료가 1901년 4월 1일 제국신문의 기사
    이다. 여기에 ‘양고’ 라는 섬 이름이 처음 보이는데 이 ‘양고’가 “울릉도 동
    남 삼십리 해중에 있다”고 하였다. 그러나 여기서 30리를 조선의 이정으로
    본다면 독도가 아닌 죽도를 가리키는 것으로 볼 수 있다. 그러나 여기서 말
    한 30리가 위의 한해통어지침에서 말한 “울릉도에서 동남방으로 약 30리”
    라고 한 내용과 관계가 있다면, 제국신문의 30리는 300리를 말하는 것이다.
    그렇다면 이는 독도를 가리키는 말이 되지만 한국의 신문에서 일본의 리
    수로 말했을 것으로 보기도 어렵다. ‘양고’를 독도로 볼 경우, 이 섬을 일본
    이 얻었다고 한 점은 1900년을 전후한 시기에 비추어 볼 때 사실과는 맞지
    않는 점이 있다.

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    朝鮮側も「リャンコ」という名前を使っていた、という脈絡で出てくる文章です。
    中井養三郎がまだ活動を始める前の段階ではないかと思いますが、日本側が「ヤンコ」と関わりを持っていたことを示す重要な記事だと思います。
    『帝国新聞』は『皇城新聞』や『大韓毎日申報』と比べてまだ調査がされていないように思います。原文はどこかにないでしょうか。

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  47. 小嶋様 追伸です

    「別紙略図」ということは、この資料にある図は、それを写したもので、さらに原本がある、ということになりますね。
    図の「A」点に関する記述がなく、不思議だったのですが、疑問が解けました。

    この『軍艦新高行動日誌』自体も、手書きではありますが、筆跡がずっと同じで、表紙に「戦史用」とあり、実際に行動しながらつけた日誌の原本ではなく、それをまとめた、ある意味で「二次資料」ということになります。

    さらに原本があるということですから、見つかるといいですね。防衛省は持っているかなあ。

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  48. すみません。「東南東に近い方位」と書いたつもりでしたが、「東南東の近い方位」となっていました。ミスタイプでしたので訂正します。

    松島(鬱陵島)に造られた東南部にある方の望楼台から、望遠鏡によって見た「リヤンコ」島のシルエットもありますので、これまたややっこしいのですが、

    「辰」が、真東から南へ30度の方角であるのに対して
    南東は、真東から南へ45度の方角、
    東南東は、真東から南へ22.5度の方角を示しますので、辰≒東南東ではあるものの、
    辰=東南東ではなく、厳密には、辰≠東南東という主旨の話をしています。

    地図の方位は、上方を真南にした位置関係で示すのが東アジア的伝統ですが、すでに日本では、初期近代というべき江戸時代以来、上方を北とする地図が描かれるようになっていましたから、明治後半のこの時期では、通常通り、上方を北にして描けば良いのにそうは描かなかった。またそれならば地図の方位として真北を示す方位磁針を書けば事足りるはずなのになぜか、24方位の「辰」のみが書かれている。

    この概略地図に示された方位が、8方位でも、海軍が用いた16方位や32方位でもなく、江戸時代以来の24方位の方角を示す「辰」である必要が何故あったのかがポイントです。
    むろん、もとが中井養三郎の地図の影響を受けたものなのだからでしょうが、海軍日誌に清書された地図ならば、16方位か32方位の「磁針」を書き加えるべきであったのにそれを敢えてしていないことが重要だと思います。それはリャンコ島が、辰の方にある隠岐に従うものであることを示している記号だからです。


    和船では、1000石積の弁才船で、お米150トン積ですから、10石で1.5トン積となります。
    すなわち、
    60石だと9トン積
    70石だと10.5トン積
    の積載トンとなります。これは外洋を渡るにはかなり小さめの船です。
    おそらく、以下の記事にあるような、鰹釣漁に用いる漁船だったのではないかと思います。
    明治26年6月24日の隠岐の福浦からの航海の様子です。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/06/1994-san-in-chou-newspaper-article-on.html
    明治廿七年二月十八日 山陰新聞

    ●朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)
    客歳水産上に関し隠岐國各漁村遊歴の際偶々竹嶋
    出航の議あり余兼ねて遠海漁業の必要を感し常に
    誘導し居るも未た其業を果ささるを憾めり依て茲
    に端緒を開かんと欣然其の挙を賛成し奮つて準備
    に着手す遂に漁夫其他乗組員十一にて船を艤し
    六月四日嶋前解纜島後福浦港に順風を待つ同月廿
    四日を以て出帆したり元来我一行の乗込める船は
    鰤釣に使用するものにて船体差程堅牢ならす加ふ
    るに糧食器具等充分に積荷せるを以て殆んと船中
    に満つ僅かに居處を存するのみ故に船は吃水線よ
    り露出する尺餘なり之を以て一意海上平穏を祈れ


    竹嶋は隠岐より西北八十余里の洋中に孤立し船を
    駛する五十餘里に至る頃ろ位置一ヶの孤嶋あり俗之れ
    をリランコ島と云う其周囲凡そ一里許りにして三
    ヶの嶋より成れり此嶋に海獣海驢棲息し數百頭
    を以て數ふへく其呌聲囂々として喧しく此近海は
    鯨族の群遊ありて實に無比の捕鯨場たり鯨種は充
    分の調査を遂けさるも多分長須坐頭ならん。之れを
    捕ふるには遠洋漁業の仕組にて滊船或は風帆船の
    補助を仰ぐことあらされば能はさるへし。此より三十 ※註
    餘里を隔てゝ竹嶋あり海流に就て曰はんにリラン
    コ島は寒暖海流の境界線として可なるへし何とな
    れば日本領海より此の嶋まては暖流即ち黒潮の支流
    にして以北は寒流即ち來滿派の流域なり盖し暖
    氣は北赤道海流を源とし其一支派臺灣の東を流れ
    沖縄島に沿ひ分岐して其本流は太平洋の方に向ひ
    支流は九州の西部より對島海峡より日本海に入る
    寒流は阿哥科海の北西より來り黒龍江の前面を過
    き日本海の西の半分を流るゝ派なり。鯨族のリラン
    コ近海に出没するは即はち寒流暖流の相交る處に
    して海水の温度能く其來遊に適するならん。
    (以下略)のちのち、全文書き起こして元の投稿ポスティングに揚げます。

    註 補助を仰ぐヿあらされば能はさるへし。
    「こと」の原表記は「ヿ」の下記のひらがなフォントで書かれている。
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/04/Ligature_hiragana_koto.gif


    それにしても韓国の引用サイトの
    http://www.dokdo.go.kr/pages/sub05/page.html?mc=70&skin=free&no=7879&start=255&mode=view&table=board_kbbs04&category=board_kbbs04
    「別紙畧圖ノ如ク、二坐ノ岩嶼ヨリ成リ」を「別我略圖ノ如リ二個岩嶼ヨリ成リ」という書き起こしは、韓国人なりに頑張ったほうなのかもしれません(苦笑)。日本語ページを選択すると、リンク先に「羊月城通信」という傑作があるくらいですから(大笑)。

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  49. 『帝国新聞』1901年4月1日の記事「ヤンコを日本が得た」

    これって、もしかして、韓国側史料で「独島」について初めて記した文献ではないでしょうか?

    それまでは、沈興澤報告(1906)年の「独島」が一番古かったのですが、それが日本海海戦のときの「アンゴフ島」(1905)となり、今回、一気にさかのぼって1901年となったわけです。

    しかも「ヤンコ」という日本起源の名前です。

    これを紹介している論文で、柳美林と崔ウンソクのどちらが書いたか知りませんが、「オウン・ゴール」をまたしてもやらかしてます。

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  51. 小嶋様

    朝鮮竹島探検(松江佐藤狂水生投)  明治廿七年二月十八日 山陰新聞 1894
    (実際の航海は明治26年6月24日~)1893

    この資料は「リャンコ島」を記録するものとして、大変貴重であり、いつか正しく起こしたものを紹介しなければならないと思っていました。ありがとうございます。

    いくつか指摘すべきことがあります。


    ●鬱陵島を竹島と呼んでいること。海軍や水路誌は、完全に「松島」になっていすが、地元では「竹島」という言い方が残っていることを示します。一方で、リランコ島と松島(江戸時代の松島)を関連付ける記述はない。「松島」が忘れられていて、リランコ島は「新しい島」としての認識なのかな、と思います。

    ●「日本領海」という言葉が出てきますが、この文章の文脈では、「リランコ島」は、日本領海の「外側」にある、という認識をしているようにも思います。

    >リランコ島は寒暖海流の境界線として可なるへし 何となれば「日本領海より此の嶋まては」暖流即ち黒潮の支流にして

    この「日本領海より此の嶋まては」を、どう解釈するかは微妙なところもあります。

    ●「3個の島」と理解していること。われわれは「2島」という「固定観念」がありますが、
    前掲の『通商彙纂』(1902)にも

    「又本島ノ正東約五十海里ニ 三小島アリ 之ヲリャンコ島ト云ヒ 本邦人ハ松島ト稱ス」
    とあり、海上に出ている岩のひとつを「島」と見ているのは、地元の人の見方なのかもしれません。

    ●出発地が「嶋前」であること。ただし直接の出発地は、島後の福浦で風待ちに20日もかけており、実際の出発地はやはり福浦港と言えるかもしれません。

    >六月四日 嶋前解纜 島後福浦港に順風を待つ 同月廿四日を以て出帆したり

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  52. Kaneganese様・他の皆様
    こちらのポスティングに対しては、本来なら下記の書き起こし文を先に投稿するべきで失礼致しました。
    出来る限り原文の書体を尊重しつつ、読みやすさ考慮してテキスト化しました。

    山陰新聞 明治卅八年五月十四日
    ●竹島の海獺獵(あじかれう)

    讀者も知れる如く、竹島は隱岐國の西北八十五海里にある絕海の孤島にして、一は周回二十町、他の一は同上十一二町に過ぎず。這(こ)は、西鄕の中井米三郎氏が一昨年始めて渡航し、海獺の集合地なることを發見せしも、海圖に洩れたるを遺憾とし、中央政府に稟申(りんしん)する等、大に斡旋の勞を執りし結果、帝國の領土とすることに決定し、去る二月廿二日の縣告示を以て、本縣の管轄に歸せしものなるが、同島は實に前記の如く海獺の集合地にして、其期は五月より七月まで三ヶ月間なるが、今は同氏の外に三人の競爭者を生じたるを以て、其向(そのむき)にては右四人の外には可か(きよか)を與へず、四人も亦共同して獵せしめん方針なりといへり。尙ほ聞く所に據れば右の期間は、海獺が分娩するときにして、牝は哺乳の爲め陸地に上り、牡は牝を戀ひて上陸するものにして、銃殺に好便を與ふる次第なるが、多く上陸しるときには一區域にても尙ほ七八千頭を下らす。然れども濫獲は生殖を害するを以て、一年凡そ六七百頭を限りなば、尙ほ五年や十年の利益を保持し得べしとのこと。


    ※ 「稟申」は、原文では「票申」と誤植されている

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  53. 小嶋様
    書き起こし、ありがとうございます。

    この資料は、日本の竹島編入が「秘密」でも何でもなかったことを、新たに証明しているものと思います。

    韓国側はこれまで、
    「日本は竹島編入を秘密にしていて、外交権を奪った後にはじめて韓国側に明らかにした。このため、韓国側は抗議したくても出来なかったのだ」

    という主張をしていましたが、最近は、秘密ではなかったことが証明される資料が次々に出てきて、この論理は破綻してしまいました。

    そこで、最近は、『帝国新聞』1906年5月1日の記事を引用して、韓国側は日本に抗議をしたのだ、という歴史に作り替えようとしているようです。


    柳美林 反論37
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56321751.html

    ・・・・・・・・・・・・・・・・

    本文で、
    「中井米三郎」は、「中井養三郎」のことを、耳による伝聞のため間違えたものと思われます。

    また、
    「今は同氏の外に三人の競爭者を生じたるを以て、其向(そのむき)にては右四人の外には可か(きよか)を與へず、四人も亦共同して獵せしめん方針なりといへり。」
    とありますが、

    川上健三『竹島の歴史地理学的研究』230p以降の記述にあうものと思われます。
    竹島漁猟合資会社の設立に関わるものでしょう。

    県庁との間で書類のやりとりがあったので、松江にいた山陰新聞の記者にも情報が入って来ていたのだと思います。それだけ竹島への関心は、隠岐のみならず島根県の人にとっても高かったと言えると思います。

    3人は、加藤重蔵、井口竜太、橋岡友次郎の諸氏と思われます。
    川上健三236pに
    中井養三郎(島根県周吉郡西郷町大字西町)
    加藤重蔵(同)
    井口竜太(島根県周吉郡中村大字港)
    橋岡友次郎(島根県穏地郡五箇村大字久見)
    とあります。


    「多く上陸しるときには一區域にても尙ほ七八千頭を下らす。然れども濫獲は生殖を害するを以て、一年凡そ六七百頭を限りなば、尙ほ五年や十年の利益を保持し得べし」
    というのは、資源保護の考え方があったことを示します。

    山陰新聞の記者への情報提供者は、名前を間違えていることからして中井養三郎自身ではないと考えられますが、この考え方は普及していたのでしょう。

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  54. 遅ればせながら追記です。

    「稟申」は、ふりがなが附いていますから、誤植が明らかですが、「可か(きよか)」というのもルビから、「許可」の誤植であると判断できます。
    また、「一年凡そ六七百頭」の「凡」という字は、当時は一般的だった、上に点のある「凢」という凡の異体字でもなく、記事の活字は本来意味が違う別字の「几」が使われています。これも誤植と言えます。

    こうして見ると、古い新聞記事には、思いの外に、誤植があることがわかります。しかし漢字にルビがあることで、不鮮明な漢字や誤植が識別できる訳ですから、現代の新聞にはないルビの効用が、後代のためにも有益であることが分かります。

    また、私は山陰の方言を知りませんが、「上陸しるとき」「牝(めし)」「牝(めす)」「牡(おし)」というルビは、松本清張の「砂の器」で、山陰の「ズーズー弁」が意外な盲点として扱われていたことを思い出しました。これは、記者が「し」と「す」を混用している方言の環境に育った人物なのではないかという推理に繋がります。これは、誤記や間違いではなく山陰という地域の歴史的文化だと思います。

    新聞記事の歴史的仮名遣いは元よりのことですが、「五月(げつ)より七月(げつ)」というような読み方も、簡単に失って良いものではないと思います。

    もし伝統的な文化や文字を平気で捨て去ってしまったら、日本人も朝鮮半島の人のようになってしまいます。

    この新聞記事の判読と韓国語訳のあるサイトの水準がそれを示しています。
    http://jp.dokdo.go.kr/pages/main/

    三日月、半月、満月という言葉は、日本なら幼稚園児でも、漢字は読めなくとも、その言葉自体は知っています。しかし韓国では歴史系の大学教授でさえも、半月という文字を、羊月と書き間違えて平然としています。

    半月城という慶州の著名な遺跡の名前を知らなかったとしても恥だとは言えませんが、お月さまの半月もわからないというのは、文献を研究する上では、絶望的な水準であり、しかも、そのリンク先が、半月城センセイではなく、何と、あの嘘吐きカナダ人のサイトが表示されるという出鱈目さです。もう呆れ果てて言葉もでません。

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  55. その昔、ユーモアのある人が半月城氏の文体をまねて「羊月城通信」というのを書いていたことがあるのを思い出しました。

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  56. あぁ「エンコリや上海女王」も懐かしいですね。
    今でも検索すると、羊月城さんも、三日月城さんもヒットします。しかし相手側は、こういう言葉のもじりや皮肉も通じない連中だということです。 そういえば江戸時代にも、十返舎一九、 五返舎半九、九返舎一八、三返なんとかといった傑作な筆名の師弟がいましたっけ。

    昨日のコメントの訂正です。嶺南大学のサイトにあったのは、新聞記事の判読ではなく、新高の日誌の方でした。

    それと山陰方言を調べてみましたら、松江や隠岐では、「寿司」と「煤」が同じ発音になったということですので、佐藤狂水記者は、育ちも松江近辺のように思います。

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  57. すみません。また訂正です。
    松江の佐藤狂水生という記者名があるのは
    明治27年2月18日の山陰新聞の記事の方でした。
    明治38年5月14日の山陰新聞の記事は、無記名でした。
    こちらの記事も記者または編集者、あるいは植字工の誰かが松江近辺の訛りをもつ人であったろうことは当然でした。(苦笑)

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  58. 독도는 한국의 영토입니다. 자신들의 영토라고 말하는 일본의 주장은 잘못되었습니다. 고대 지도에서도 한국의 영토라고 표기가 되어있습니다. 일본이 증거 자료로 나타내는 지도는 우리나라가 소유하고 있는 지도보다 최근에 만들어진 지도이며 우리가 가지고 있는 지도는 그것 보다 아주 오래된 지도입니다. 일본은 즉각 독도의 영유권 주장을 철회해야 하며 대한민국에 피해보상을 해야할 것입니다. 국제적인 망신을 더 이상 받지 않기를 원한다면 지금이라도 영유권 주장을 멈춰야 할것입니다. 独島は韓国の領土です。自分たちの領土だと言う日本の主張は間違っている。古代の地図でも韓国の領土だと表記がされています。日本が証拠資料として示す地図は、我が国が所有している地図より最近作成された地図であり、私たちが持っている地図は、それよりも非常に古い地図です。日本は直ちに独島の領有権主張を撤回し、韓国に被害補償をすべきものです。国際的な恥をこれ以上受けないことをしたい場合は、今でも島領有権主張を停止しなければすることです。 Dokdo is Korea's territory. Their territory, saying Japan's claim is incorrect. In ancient maps are marked as Korea's territory. Map showing Japan as evidence that you are owned by the country in recent years than we have made maps and map than it is a very old map. Japan should withdraw immediately its claim over Dokdo, and Republic of Korea will have to make restitution. Does not get more global disgrace if you want to stop will Even now is claimed. 独岛是韩国的领土。其领土,并称日本的说法是不正确的。在古地图被标记为韩国领土。日本作为证据显示,近年来,由国家拥有比我们已经取得了比它是一个非常古老的地图的地图和地图的地图。独岛,日本应立即撤出其索赔,韩国将有恢复原状。没有得到更多的全球的耻辱,如果你想停止现在甚至声称。 獨島是韓國的領土。其領土,並稱日本的說法是不正確的。在古地圖被標記為韓國領土。日本作為證據顯示,近年來,由國家擁有比我們已經取得了比它是一個非常古老的地圖的地圖和地圖的地圖。獨島,日本應立即撤出其索賠,韓國將有恢復原狀。沒有得到更多的全球的恥辱,如果你想停止現在甚至聲稱。 Dokdo ist Koreas Territorium. Ihr Territorium, sagte Japans Behauptung ist falsch. In alten Karten werden als Koreas Territorium markiert. Übersichtskarte mit Japan als Beweis dafür, dass Sie durch das Land sind in den letzten Jahren im Besitz, als wir haben Karten und Karte, als es eine sehr alte Karte ist gemacht. Japan sollte sofort zurücktreten seinen Anspruch auf Dokdo und Südkorea haben auch die Wiedergutmachung. Nicht mehr zu bekommen globale Schande, wenn Sie aufhören wird auch jetzt wird behauptet wollen. Dokdo est un territoire de la Corée. Leur territoire, en disant l'allégation du Japon est incorrecte. Dans les anciennes cartes sont marquées en tant que territoire de la Corée. Carte montrant le Japon comme une preuve que vous êtes détenue par le pays ces dernières années que nous avons fait des cartes et la carte que c'est une très vieille carte. Le Japon devrait retirer immédiatement sa revendication sur Dokdo, et la République de Corée devra procéder à la restitution. Ne devient pas honte plus globale, si vous voulez arrêter sera Même est maintenant revendiqué.

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  59. Hi, Alex

    There is no single Korean "ancient maps" in which Takeshima/Dokdo are marked as Korea's territory. No. Nada.

    Korean government claims Usan in Korean old maps as today's Takeshima, but it isn't.

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  60. 小嶋様

    書き起こし、ありがとうございました。
    遅くなりましたが、ポストに追記しました。

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  61. Japan mature-gereration ought to guide students as having right view of history. There had been so many ancient maps made by Japanese which said "Dokdo" was belong to "Chosen" dynasty.

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