On receiving the news, Korean interim government asked Korea Alpine Association to send research group to Ulleungdo furtively to collect the evidences to show Takeshima/Dokdo was their territory. Some Korean officials accompanied them. It was the time of the origin of Korea's illegal occupation of Takeshima/Dokdo which Korea had any historical documents nor maps to support their claim that the island was theirs since 512 A.D. As Mr.Sok clearly wrote in his report, the eastern limit of Korea/Joseon have been Ulleungdo, more precisely, the island of Jukdo(竹島, Japanese name 竹嶼), not today's Takeshima/Dokdo. Traditionally/historically, Takeshima/Dokdo was outside of their territory apparently.
Indisputably, Ulleungdo(鬱陵島), which is one of Joseon's representative islands, had belong to our country Joseon, and it was known as Usando before, just as Jeju island was known as the country of Tamra(耽羅) in contrast. Usando had been called such as U-leung(羽陵)do, Mulleung(武陵)do, Ulleung(蔚陵)do or Ulleung(鬱陵)do afterwards. However, it seems that the etymologies are all the same. In 1471, the second year of King Seongjong, a retainer Park Wonjong(朴元宗) and his party once went to the island and had brought huge bamboos and abalones back, so the island of Ulleungdo got to be known as Jukdo(竹島) since the location was famous for production of the huge bamboos.
However, the name of the island was standardized as Ulleungdo now, and the name of Jukdo(竹島) was assigned to a adjacent island on East part, and this Jukdo had been the eastern edge point of our Joseon historically.As we know, this Jukdo(竹島) shares same Chinese caracter with Japanese Takeshima(竹島), but they are completely different islands. Jukdo, which locates 2-4 km east of Ulleungdo, which is definately the island Mr. Sok mentioned in the report, was the adjacent island of Ulleungdo, was the easternmost of Korea. On the other hand, Takeshima, which locates 92km southeast of Ulleungdo, was Japanese territory since they incorportated it into Shimane prefecture officially in 1905.
Sok Ju-myong(石宙明) was a Korean butterfly specialist and he was a director of zoology division of National Science Museum. He was born in Pyongyang in 1908 and later, went to Ibusuki Experimental Botanical Garden(鹿児島高等農林学校) in Japan.
Although he accompanied the party as a member of the Korea Alpine Association in 1947 to collect the evidences to show Takeshima/Dokdo was Korea's territory, he missed the tour to Takeshima/Dokdo since he lost his way when he went to Saint Peak(聖人峯) and couldn't be on time. Maybe, that was the reason he honestly wrote the fact that Jukdo was the easternmost of Korea before he got to know Takeshima/Dokdo was not inside their territory, since he didn't know where today's Takeshima/Dokdo was in reality. In fact, he lost his integrity and distorted the historical fact of the Korea's eastern limit just a week after he wrote this report. On 9th Sep. article, he wrote "Dokdo is within our territory", to my surprise.
As we have seen so far, after 1947, Korean distorted the historical facts and build up their theory that Takeshima/Dokdo had been within their territory since 512 A.D., though there is absolutely no historical maps/documents to support their claim. The two articles Mr. Sok wrote in 1497 illustrates the origin of this Korea's fabrication on Takeshima/Dokdo claim and prove how they had distorted the historical fact of their own in order to expansion their territory militarily.
This post was written based on the excellent work of our commentator Chaamiey and Makoto. You can read the details in Japanese on chaamiey's site.
鬱陵島の沿革 ソウル新聞 1947
鬱陵島の沿革 ソウル新聞 1947(補充・再掲)
References;
「再説・石宙明(ソク・ジュミョング)」 SEOK D.M. (Sok Ju-myong) revisited(Japanese)
Korea's Post-Liberation View on Dokdo and Dokdo Policies (1945 - 1951). JUNG Byungjoon
If you find any mistake, please let me know, thanks.
ReplyDeleteA Happy New year!
ReplyDeleteKaneganese, Good Job, as usual.
This shows the way how “the Dokto Belief” was established in Korea in the year of 1947.
The Part
竹島という名は東部の一属島名として指定され、この竹島が従来我が朝鮮の東端地点を示して来た。
is in the next line, so it would be better to post that part of the newspaper article, which is in the site of Chaamiey-san.
http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52948551.html#53042899
BTW, I never knew the life history of Dr.石宙明, so Prof. Shibatani 柴谷篤弘’s article in Japanese was very interesting.
Here is another article by 柴谷about 石宙明 including his picture.
http://ci.nii.ac.jp/els/110007607101.pdf?id=ART0009425673&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1293881829&cp=
Dr. 石宙明 is now admired in a pro North Korean site;
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-11/1101/52.htm
And also in a pro South Korean site;
http://www.toyo-keizai.co.jp/news/essay/2002/post_2771.php
Dr. 柴谷篤弘 also seems to be an interesting parson.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E8%B0%B7%E7%AF%A4%E5%BC%98
Another Picture of 石宙明 Seok Ju Myeong;
ReplyDeletehttp://gsdemo178.giantsoft.co.kr/HALL/fame/fame_view.asp
石宙明で検索
one more;
http://100.nate.com/dicsearch/pimage.html?s=&i=253472001&en=253472&p_i=&a_i=&e=1
謹賀新年
ReplyDeleteA Happy New year!
새해 복많이 받으세요.
耽羅は韓国語ではタムラなのでTamraですね。
この時代の韓国人の竹島/独島認識はやっぱりまだ良く分からないですね。歴史的なことを検討すれば竹島/独島のことは何も知らなかったのだけれども、調査団派遣の時点では、遠くに独島という島があってこれはどうも韓国の領土らしいという認識になっていたわけで、そういうことになった理由はマッカーサーライン以外にもあるのかどうか・・・・。
2011.01.02
<新春特報!>
ReplyDelete何と、大韓帝国が1900年10月勅令41号を宣布した後、鬱陵島と「独島」を実際に経営したことを立証する資料が初めて公開されたそうです!!!
「大韓帝国が独島を実際に経営した」
[韓国日報] 2011.1.3
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011010316142513807&linkid=4&newssetid=1352
大韓帝国が1900年10月勅令41号を宣布した後、鬱陵島と独島を実際に経営したことを立証する資料が初めて公開された。
韓国海洋水産開発院(KMI)のユ・ミリム博士は、3日、「KMIイシューブリーフィング」を通じて、鬱陵島が鬱島郡に昇格した後2年経たない1902年4月の郡の治安と行政の現況を記録した「鬱島郡節目」を公開した。 内部大臣の印章が押されているこの資料は、初代鬱島郡守である裵季周が鬱島郡の現況を報告し、内部が行政指針を節目(チョルモク)として提示したものだ。これまで、鬱陵島と独島(石島)、チュクト(竹島)が勅令41号によって行政区域上鬱島郡に昇格した後に実際にどう運営されたのかに関する史料はなかなか見つからなかったが、今回の節目によって管理実態がはっきりと分かった。
節目によれば、日本人が密かに木材を伐採することを厳禁し、家屋と田畑の外国人売買を禁止、違反者は死刑に処することとした。各道の商船が鬱島郡へ来て魚を捕れば税金を人ごとに輸入の10分の1、貨物は品物価格の100分の1を納める。また、官庁の場合、七間になればそのまま補修して使い、4~5間程度ならば少しだけ増築することにし、民に負担をかけないようにした。郡守は春に麦60俵、秋に豆40俵など一年に100俵を給料として支給することとし、この節目をハングルに変えて掲示して誰にも分かるようにせよと指示している。
裵季周が鬱島郡守に任命されたのは1900年11月29日に官報に掲載され、公開された教旨は1902年3月7日になっていて、おそらく節目が作成された時にも裵季周は郡守として在職中だった。裵季周は、1898年、不法搬出された鬱陵島の木材を捜すために日本の隠岐と東京などで訴訟をし、1899年松江地域では勝訴もした。彼が日本人から取り戻した材木の値段で訴訟費を出して残った金を国家に納めた行績は皇城新聞(1899年5月16日付け)にも掲載された。
ユ博士は、「日本が1905年に独島を無主地として編入する以前から私たちは独島をトルソムと呼び漢字で「石島」と表記、実際的に経営して来た」とし、「鬱島郡節目は、高宗皇帝が勅令41号で独島を我々の行政区域に含ませた後、どういうふうに行政力を行使したのかを見せてくれる資料」と語った。
一方、1898年5月の「鬱陵島区域地方制度添入に関する請議書」によれば、当時鬱陵島には277戸1,137人が4,774斗落の畑を開墾して暮していて、地方制度に編入するのが妥当だと建議している。
1901年8月現在で鬱陵島にいた日本人は550人で、このうちの半数を超える300~400人は3月から6月に伐木と造船、商業などをして帰国し、ときに7、8年ほど滞在して永久居住しようとする者もいた。しかしながら、鬱陵島には船がなくて運輸に困難を経験したのは勿論、日本に商圏も奪われた状態だった。
ユ博士は、「裵季周は鬱陵島の事情に明るい人で、1895年から島監として働きながら鬱陵島に学校も建て、現地の状況を上部に報告もしたが日本人の横暴を阻止することができなかった」とし、「裵季周が現地の困難さを何度も建議した結果、鬱陵島が郡に格上げされて郡守に任命された」と語った。
鬱陵郡は昨年10月に開郡110周年を迎えて「郡民の日」の行事を開いて初代鬱島郡守である裵季周の子孫を招請、ひ孫である李ユミさんから鬱島郡節目など関連資料を渡されてこの日公開した。
大邱=チョン・チュンホ記者
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ReplyDelete新年明けましてあけましておめでとうございます。
ReplyDelete本年もよろしくお願いいたします。
新年早々、ユ先生の自爆記事のようですね。まさに特報であります。
「鬱島郡節目」に書かれていることは鬱陵島に関することばかりですね。竹島(韓国名:獨島)については何ら記されていません。「鬱陵島と独島を実際に経営したことを立証する資料」でなくて、むしろ竹島(韓国名:獨島)を施政下に置いていなかったことを証明するものでありましょう。肝心要の「石島=獨島」が立証できていないのに、新しい史料を持ち出してきて勝手な解釈をしたところで学者の仕事とはなりません。嘘に嘘を重ねるのはサギ……以下省略。
1898年5月の「鬱陵島区域地方制度添入に関する請議書」というのが気になりますね。1900年10月22日の請議書だけでなく幾度か請議が出されていたようです。それらを分析することで当時の朝鮮政府の認識が今日の韓国社会の常識と異なることが証明されるのではないでしょうか。
2011.1.4
A Happy New Year !!
ReplyDelete新年明けましておめでとうございます。
皆様今年も宜しくお願い致します。
chaamieyさん
記事の翻訳、有難うございました。
この「捜討節目」については以前話題になったことがあります。待風軒で発見されたのではなかったでしょうか。
Dokdo Museum Exhibition Focuses on Modern History
韓国海洋開発院
http://www.kmi.re.kr/index.asp#
Issue Brief に簡単に触れられているようです。全面的に「公開」して欲しいですね。もし現竹島のことが書いていないようであれば、むしろこれは1902年当時、つまり勅令の後の大韓帝国政府が竹島を認識していなかった事の重大な証拠になると思われます。
http://www.ilovedokdo.re.kr/issue/issue_list.asp?honum=2011&idx=140
Thanks for Sok's photo, matsu.
ReplyDeleteI tried to post it, but failed. I'll retry ASAP.
나는 유미림 박사의 연구를 높게 평가하고 싶다. 박사님은 대한제국에서는 독도를 자국 영토로 실제로 관리한 기록이 없는 것을 국민에게 알리기 위해 노력 하고 계시는 것 같다.
ReplyDelete<新春特報その2>
"대한제국이 독도 실효 지배했다는 증거 나왔다"
1902년 4월 내부가 울도군수에게 하달한 '울도군 절목'
http://www.newshankuk.com/news/news_view.asp?n=&articleno=d20110104131850n8032&ng=101
「大韓帝国が独島を実効支配したという証拠が出た」
1902年4月、内部が鬱島郡守に下逹した「鬱島郡節目」
ニュース韓国 2011-01-04 13:18:50
大韓帝国が鬱陵島と付属島嶼を管轄したという具体的な行政指針が初めて発見され、勅令発布後にも持続的に鬱陵島と独島を実効支配したことを示す証拠として注目されている。
韓国海洋水産開発院国際海洋独島研究室海洋研究本部のユ・ミリム博士は、「大韓帝国が 1900年に勅令41号を発布して鬱島郡が鬱陵島及び付属島嶼を管轄するようにして以来、具体的な行政指針を通達した事実が初めて明らかになった。」と発表した。
勅令41号によって鬱陵島が鬱島郡に昇格した事実は知られていたものの、以後の統治の実態を教えてくれる史料に乏しかったが、今回の資料でその実態が明かされたと韓国海洋水産開発院は明らかにした。1902年4月、内部(今の行政安全部)が鬱島郡守に下達した「鬱島郡節目(施行細則)」がそれで、中央政府が裵季周郡守に下達した節目には、鬱島郡の統治に必要な具体的な指針が提示されている。節目には、無断伐木する日本人を厳しく処断することと、家屋と田を外国人に売買する場合は死刑とするという内容とともに、郡守及び郷長などに支給する給料に対して言及している。
この資料は裵季周郡守の子孫が所蔵していたもので、今度の機会を通じて初めて明らかにされ、鬱陵島の治安状況と財政、諸現況等について詳しく知ることができる。また、郡守と江原道観察使が鬱陵島の行政を政府に報告した内容は資料に断片的に出ているが、説目の形で発見されたのは初めてだとユ博士は明らかにした。
今回発見された節目に「独島」という直接的な言及はないが、「鬱陵全島」と「竹島」、「石島(独島)」を管轄する鬱島郡守に下された行政指針であるだけに、大韓帝国が勅令を発布した後にも持続的に鬱陵島と独島を実効支配していたことが分かる。
Mokotoさんふうに「自爆系」と言うべきか、それとも「新春初笑い系」と言うべきか・・・・・
「独島」が出て来ない史料をもって「独島を実効支配したことを示す証拠」だと言うことは全く理に合わない。
「독도」가 나오지 않는 사료를 가지고「독도를 실효 지배했음을 보여주는 증거」로 하는 것은 전혀 리에 맞지 않는다.
Kaneganeseさん、これは「掃討節目」とは別物のようです。
2011.01.04
chaamieyさん
ReplyDelete”Kaneganeseさん、これは「掃討節目」とは別物のようです。”
そのようですね。早とちりでした。
Chaamieyさん
ReplyDeleteあけましておめでとうございます。
記事の紹介、ありがとうございました。
最初の韓国日報の裵季周の写真は圧巻ですね。
ずいぶん前から史料の上では知られていた人物ですが、写真は初めて見ました。
Makotoさんも触れているように、この「鬱陵島節目」には、鬱陵島のことのみあって、獨島のことには全く触れていません。まさに柳美林女史としては「自爆史料」なんでしょうが、獨島研究の専門家として録を食んでいる以上、毎年、何がしかの結果を出していかなければならないのでしょう。
10月の「開郡110周年」(勅令41号の布告された日)にちなんで行事に招待された裵季周の子孫によって提供された資料、とありますから、柳美林博士としては、少なくとも二か月ほどの研究の末、お正月にあわせて出してきたのでしょう。(それよりもずいぶん前から知っていた可能性もありますが。)
ぜひとも「鬱陵島節目」の原文(写真を見ると漢文ですね)を全文、翻刻と解釈つきで紹介してほしいものです。この写真は一部だけです。
(もうすでにどこかに出ているかもしれませんね。朴世堂の「鬱陵島」の時も、全文を出していましたから。)
それにしても、この史料は、内部大臣(内務大臣)の印鑑が押された「公文書」だと思いますが、どうしてそれを「裵季周の子孫」が持っていたのでしょうか? 本来なら、お役所にそのまま保存されているはずですが、裵季周は郡守をやめたあとも、自分のものとして、この中央政府からの公文書を「私蔵」していたことになります。公私混同が当たり前だったのが良く分かる資料だと思います。
柳美林女史は「イッシュー・ブリーフィング」として、全社に記者会見したのだと思いますが、とりあげたのが「韓国日報」で、しかも大邱発の記事になっていますね。
仲の良かった「朝鮮日報」の記者はどうなったんだろう・・・。
聯合ニュース報道資料
ReplyDeletehttp://media.daum.net/press/view.html?cateid=1065&newsid=20110104162235509&p=yonhappr
「鬱島郡行政指針発見」
初代郡守裵季周の子孫公開
聯合ニュース報道資料|入力2011.01.04 16:22
慶尚北道独島史料研究会から発表
1900年10月、大韓帝国勅令41号によって鬱陵島が鬱道郡に昇格して2年にならない1902年4月、鬱道郡の治安および行政現況を知ることが出来る資料「鬱道郡節目」が初めて公開された。
「鬱道郡節目」は、1902年当時、鬱道郡の治安状況および財政、租税徴収などが分かる重要な内容を含んでおり、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、鬱陵全島と竹島、石島を実際的に経営したことを立証している。
鬱陵郡は、開郡110周年を迎えた「郡民の日」の行事に、初代鬱島郡守であった裵季周の子孫と、日本の独島編入の事実を一番最初に上部に報告した郡守沈興澤の子孫を招請した。
この過程で裵季周の外曾孫(イ・ユミ氏)が所蔵していた鬱道郡および裵季周の関連資料が初めて公開された。鬱陵郡文化観光課のキム・ギベク課長は、沈興澤と裵季周の子孫を捜し出すことを何年か前から推進してきた。
この資料には、1902年当時、内部(今日の行政安全部)で作成した節目の他に、裵季周の任命教旨、裵季周および息子と孫の写真などが含まれている。慶尚北道「独島史料研究会」(会長=国防大学院金柄烈教授)では、この資料を譲り受けて発表した。
この節目には、内部大臣の印章がつけられている。内部大臣の裁可を受けた後、さらに総理大臣尹容善の裁可を受けるために上げたのかどうかは分からない。裵季周が所蔵していたことから推測すると、内閣の決裁を受けて鬱道郡に通達されたと見られる。鬱陵島事情に明るい裵季周郡守から鬱陵島の現況の報告を受けた後、内部から彼に必要な行政指針を節目で提示したのだ。
節目は、日本人がこっそりと木材を切っていくことを厳禁すること、家屋と田畑の外国人への売買禁止および違反者厳罰、官庁は補修して使って迷惑をかけないこと、商船と貨物には税金をかけること、官吏には給料を支払うこととその金額などを指示している。
郡守以下、郷長、書記、使令などの給料は、麦と豆で支給するようになっているが、当時、郡守の給料は春には麦60石、秋には豆40石であわせて100石になっている。内部ではこの節目を諺文(ハングル)に変えて掲示し、誰でも知ることが出来るようにしろと指示している。
裵季周を郡守に任命した事実は、1900年11月29日の官報に載っているが、公開された教旨には、1902年3月7日になっている。訴訟事件にかかわってしばらく郡守職を剥奪されて再任命されたと見られる。したがって節目が作成された当時には裵季周が郡守として在職中だった。
「節目」研究の結果を発表した、国海洋水産開発院(KMI)の柳美林博士は、「裵季周は鬱陵島事情に明るい者として1895年から島監として仕事をし、日本人の鬱陵島侵奪を防ぐために訴訟も辞さない人だった。鬱陵島に学校を建て、鬱陵島の状況を直ちに上部に報告する任務を忠実に遂行した。しかし島監には何の権限もなく、日本人の横暴を阻止できないということを痛感した裵季周が、ずっと建議をした結果、郡に格上げされ郡守が置かれたという点に、彼の功績を認めなければならないだろう」と話している。
また、柳美林博士は、「この間、勅令41号によって鬱陵島が鬱島郡に昇格した事実は知られていたが、その後の鬱島郡が、実際にどのように統治されたかを明らかにする史料はほとんどなかった。今回の史料は、中央政府による鬱島郡管理の実態が分かる具体的な史料として、学術的にも価値がある。
この節目に、独島に対する直接的な内容はないが、『鬱陵全島と竹島、石島』を管轄した鬱島郡守に下された行政指針は、日本が1905年、独島を持ち主のない島といって日本領土に編入する以前に、当時トルソムと呼び、漢字で『石島』と表記した独島を、大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目するだけの価値がある」と付け加えた。
(終わり)
出処:慶尚北道庁
本コンテンツは、該当機関の報道資料であることを明らかにします。
このニュースが大邱から発信されているのには、柳美林(韓国海洋水産開発院=KMI)と、慶尚北道「独島史料研究会」(会長=国防大学院金柄烈教授)および慶尚北道庁との微妙な関係があるのではないかと思料されます。
ReplyDelete裵季周の郡守任命書もなかなか迫力がありますね。
ReplyDeletehttp://www.dailian.co.kr/area/news/n_view.html?t_name=dg_news&id=23778
柳先生のコメントを「仕分け」してみます。
ReplyDelete「勅令41号によって鬱陵島が鬱島郡に昇格した事実は知られていたが、その後の鬱島郡が、実際にどのように統治されたかを明らかにする史料はほとんどなかった。今回の史料は、中央政府による鬱島郡管理の実態が分かる具体的な史料として、学術的にも価値がある。」
ここまではまともなことを言っている。
「この節目に、独島に対する直接的な内容はないが」
これもまとも。
「『鬱陵全島と竹島、石島』を管轄した鬱島郡守に下された行政指針は、日本が1905年、独島を持ち主のない島といって日本領土に編入する以前に、当時トルソムと呼び、漢字で『石島』と表記した独島を、大韓帝国が実効的に経営した証拠」
事実の中にさりげなく嘘を忍ばせると嘘も事実に見えてしまう。こういう人間心理をついて意図的に人を欺く者を詐欺師という。だけど柳先生は意図的にやっていないんだろうなあ。だからかえって厄介なんだよね。嘘を言っているという自覚のないままに嘘を言っているのだから。
柳先生は「石島=獨島」と信じて疑わないようですが、朝鮮でつくられた地図/絵図のうち18世紀半ば以降につくられたものには、鬱陵島の東に「于山島」あるいは「于山」と表記それた小島が描かれていますね。その島は今日の竹嶼(韓国名:竹島)であるこることは朝鮮古地図をみれば明らかでしょう。すなわち勅令第四十一号でいう「竹島」こそが于山島であって「獨島≠于山島」ということです。このことに気がつかずにあるいは気づいていても「石島=獨島」説を主張し続けなければならないのだとしたらなんとも哀れです。
それはともかく「欝島郡節目」の全文見たいですね。
2011.1.5
韓国海洋水産開発院(KMI)のホームページに行くと、
ReplyDeletehttp://www.kmi.re.kr/
右下の、ブリーフィング・ニュースレターのところに、ブリーフィング 2011―140号というのが載っています。
中に入ると、11-141号(2011年1月3日)となっています。
http://www.ilovedokdo.re.kr/issue/issue_list.asp?honum=2011&idx=140
(たぶん141号が正しく、140号のほうが間違いなのでしょう)
コピペが出来ないPDFなので、自動翻訳ができずにやや大変でしたが、翻訳してみました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
KMI 独島・海洋領土ブリーフィング
勅令41号の鬱陵島および管轄区域の統治実態、「鬱島郡節目」で明らかに
大韓帝国が勅令41号(1900)を頒布し、鬱島郡が鬱陵島と付属島嶼を管轄するようになって以来、具体的な行政指針を示した事実が初めて明らかになった。1902年4月、内部(今の行政安全部)が鬱島郡守に下した「鬱島郡節目」がそれである。中央政府が郡守である裵季周に下達した節目(施行細則)には、鬱島郡の統治に必要な具体的な指針が提示されている。
節目の内容は、日本からやってきて無断で伐木する者を厳しく処断すること、家屋や田土を外国人に売買する者は死刑に処すこと、開拓をあきらめて陸地に帰る者の土地は返還させること、官庁は新築を慎み止むを得なければ建て増しして使うこと、商船には10分の1税、貨物には100分の1税を徴収することなどを規定している。また郡守および郷長・書記・使令などに支給する給料も定められている。当時の鬱陵島の家戸を約500戸と見ている。
この節目は、1902年当時、日本人の無断伐木、これと結託した鬱陵島民の綱紀弛緩などを憂慮した裵季周の建議により、中央政府で作成したものと見られる。裵季周の子孫が所蔵していたこの資料の内容が初めて明らかになったことで、当時の鬱陵島の治安状況、財政および租税現況などがわかるようになった。郡守と江原道観察使が鬱陵島の行政を政府に報告した内容は史料に断片的に出てきているが、「節目」の形態が発見されたのは初めてである。この節目は、諺文でも掲示された。
勅令41号によって鬱陵島が鬱道郡に昇格した事実は知られていたが、その後の統治実態を知らせる史料はほとんどなかったので、この節目によりその実態が明らかになったという点に意味がある。節目に「独島」についての直接的な言及は無いが、「鬱陵島と竹島、石島(独島)」を管轄する鬱島郡守に示された行政指針であり、大韓帝国が勅令を頒布した後にも持続的に鬱陵島と独島を実効支配していたことを示す証拠として注目すべき価値がある。
(鬱島郡節目 原文)
海洋研究本部 柳美林
・・・・・・・・・・・・・・・・
韓国日報が報道した、3日のKMIの「イッシュー・ブリーフィング」というのはこれのことでしょう。
3日に柳美林が記者会見をしたのかと思いましたが、ホームページ上に記事を載せた、ということでしょう。
媒体によっては、4日イッシュー・ブリーフィングで、と書いているものがありますが、これは単に記者の「閲覧日時」にすぎないのではないかと思われます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聨合ニュースを引用したMKニュース(毎日経済)
http://news.mk.co.kr/newsRead.php?sc=30000022&cm=%EC%82%AC%ED%9A%8C%20%EC%A3%BC%EC%9A%94%EA%B8%B0%EC%82%AC&year=2011&no=6184&selFlag=&relatedcode=&wonNo=&sID=504
韓国海洋水産開発院(KMI)柳美林博士は、4日KMIイッシュー・ブリーフィングを通して
한국해양수산개발원(KMI) 유미림 박사는 4일 KMI 이슈브리핑을 통해
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なお、この韓国海洋水産開発院の「イッシュー・ブリーフィング」には、裵季周の写真は出てこないので、そちらは慶尚北道の道庁の報道資料から出ている資料でしょう。
韓国日報の記事には、この「イッシュー・ブリーフィング」にも、慶尚北道の報道資料にも出ていないことも書いてあり、大邱のチョン・チュンホ記者は、それなりに柳美林などにも直接取材して書いているのだと思います。
すみません。お気づきと思いますが、上の「報道資料」翻訳の「鬱道郡」は「鬱島郡」の誤りです。自動翻訳の怖さですね。こういうの、見過ごします。
ReplyDeleteKaneganeseさん
ReplyDelete石宙明の写真掲載、ありがとうございました。
えらくかっこいいポストになりましたね。
石宙明は1950年10月、朝鮮戦争のさなかに、ソウルの路上で42歳の若さで殺されてしまいますが、これはそれよりもやや若い時の写真のようですね。
ポストの表題と、コメントのレスポンスから来る内容との間の乖離が、どんどん大きくなってしまいますが、仕方がないですね。
この「鬱島郡節目」も、独立ポストに値する内容だと思います。また、ずれちゃいますが。
Kaneganeseさん、メインポストが整いましたね、いつもご苦労様です。しかし、石宙明さんは本物の学者らしい理知的な風貌ですねえ。
ReplyDeleteMatsuさん、追加の翻訳紹介ありがとうございます。大御所朝鮮日報も同じようなことを書きましたね。
「110年前、独島を大韓帝国が実効的な経営をしたという証拠になるに値する当時の治安及び行政の現況が分かる史料が初めて公開された。」
朝鮮日報 2011.01.05http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011010503030994534&linkid=4&newssetid=1352
Makotoさん、ユ先生の解説を仕分けなんかしちゃったらたぶん後には何にも残・・・・おっと、以下省略。
ところで、皆さん、現代韓国人は、1881年だったか鬱陵島開拓令が発布されて鬱陵島への移住が開始されてからすぐに人々は独島を発見して行き来したとかいう見解を持っているわけですが、韓国日報の記事には1901年時点の情報として「鬱陵島には船がなくて運輸に困難を経験した」って書いてあるのも面白いですね。
2010.01.05
朝鮮日報の記事にある、
ReplyDelete「110年前、独島を大韓帝国が実効的な経営をしたという証拠になる・・史料が初めて公開された。」
とか、
「この史料は、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、鬱陵全島と竹島、石島を実際的に経営したことを立証している。」
とか、嘘ばかりが、韓国社会に広まっていくのは、全くとんでもないことですな。
この史料には、「竹島、石島」は出てこないし、まして「独島」は出てこない。
それなのに
「独島を大韓帝国が実効的な経営をしたという証拠」という、まったく根拠のない歴史的歪曲が、何の批判を受けないままに、まかり通ってしまう。
Gerryさんが、その昔、韓国の竹島=独島についての報道は、「嘘と半分の真実」(Lies and half truths)と喝破しましたが、全くとんでもないことです。
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ReplyDelete「この史料は、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、鬱陵全島と竹島、石島を実際的に経営したことを立証している。」との主張は嘘とは言えないでしょう。問題なのは合理的な根拠なく「石島=獨島」としていることです。
ReplyDelete勅令第四十一号の「竹島」は竹嶼(韓国名:竹島)であることに韓国の研究者も異論はなかったかと思います。18世紀半ば以降の朝鮮古地図によれば、この島は于山島とも呼ばれていたようなのですが、そんな事実を無視して「石島=獨島」などという破綻した論理を強弁していることが問題なのではないでしょうか。
もっとも「蔚島郡節目」でもって蔚島郡の実効支配を立証したとするのはちょっと難があると思いますけれどもね。なぜなら「蔚島郡節目」は統治の方針に過ぎず、それがどこまで実際に効力を持っていたかわからないではないですか。ただし遠隔の地ですので他国のより強力な主張がなければ、この程度でも領有の根拠とはなりえるでしょう。
2011.1.6
Makotoさん
ReplyDelete『「この史料は、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、鬱陵全島と竹島、石島を実際的に経営したことを立証している。」との主張は嘘とは言えないでしょう。』
おっしゃる通り、確かにその通りです。
しかし、今回の「鬱島郡節目」については、
「この史料は、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、「鬱島郡」を実際的に経営したことを立証している。」
というべきものだと思います。
この文章は、ここに
「鬱島郡=鬱陵全島と竹島、石島」という勅令41号の規定を、いわば「代入」しているわけで、それ自体は確かに「嘘」ではありません。
しかし、韓国人の中には、「石島=独島」という公式が、(実はまったく証明されていないにもかかわらず)、すでに常識として入り込んでいるので、さらにこれを「代入」して、
「この史料は、大韓帝国が1900年10月、勅令41号を宣言した以後、鬱陵全島と竹島、「独島」を実際的に経営したことを立証している。」
という読み替えが、いとも簡単に行われてしまうのです。
いわばこれがメインのトリックであって、ペテンのたねです。
その結果、ああら不思議や不思議、「この史料は、大韓帝国が独島を実際的に経営したことを立証している」という内容に化けてしまうわけです。
実際、各紙の論調はそのようになっているし、柳美林の意図もそこにあります。
だから、この文章こそが、
「ペテンの始まり」であり、「嘘つきの始まり」であり、つまりは「泥棒の始まり」であるわけです。
朝鮮日報の日本語版が出ましたね。
ReplyDeletehttp://www.chosunonline.com/news/20110105000049
そのうちアーカイブになってしまうので、コピペしておきます。
独島:「鬱島郡」の行政指針、日本編入以前の支配立証
記事入力 : 2011/01/05 19:01:35
110年前に大韓帝国が独島(日本名・竹島)を実効支配していたことを示す証拠となり得る、当時の治安・行政に関する史料が初めて公開された。
慶尚北道の独島史料研究院は4日、1900年10月に「大韓帝国勅令41号」により鬱陵島が鬱島郡に昇格した1年半後の1902年4月当時の同郡の治安・行政状況を記録した「鬱島郡節目」(行政指針)と呼ばれる文書を公開した。この史料は大韓帝国が勅令41号を宣布後、「鬱陵全島と竹島・石島」を支配していたことを示している。(編注・韓国側の見解で、ここで言う「竹島」は鬱陵島そばの小島、「石島」は独島を指す)
鬱陵郡は昨年10月、郡設置110年を記念する「郡民の日」のイベントに初代鬱島郡守(郡の首長)を務めたペ・ゲジュ氏の子孫と、日本による独島編入を最初に上部に報告した沈興沢(シム・フンテク)郡守の子孫を招待した。
その際、ペ氏のひ孫に当たるイ・ユミ氏が鬱島郡とペ氏に関する史料を所蔵していた事実が明らかになった。1902年当時の内部大臣(内務大臣)の印章が押されたこの史料には、「節目」のほか、ペ氏を郡守に任命する「教旨」(国王による辞令)、ペ氏や息子、孫たちの写真などが含まれている。
節目には、▲日本人が密かに木材を伐採することを厳禁する▲家屋と田畑の外国人による売買禁止と違反者処罰▲官庁は補修して使用し、民間に迷惑をかけないこと▲商船と貨物に課税すること▲官吏(かんり)に給与を支払うこと-などが定められている。
慶尚北道は「鬱陵島の事情に詳しいペ氏から同島の現況について報告を受け、内部で必要な行政指針を『節目』として設けたとみられる」と説明した。
この節目に関する研究は、韓国海洋水産開発院(KMI)のユ・ミリム博士によって進められてきた。ユ博士は「ペ氏は鬱陵島の事情に詳しく、1895年から島監(鬱陵島の行政責任者)を務め、日本人による鬱陵島侵奪を阻止するために訴訟も辞さなかった人物だ。鬱陵島に学校を設立し、同島の状況を直ちに上部に報告する任務を遂行していたことが分かっている」と指摘した。
ユ博士はまた、「これまで勅令41号によって鬱陵島が鬱島郡に昇格した事実は知られていたが、鬱島郡が実際にどのように統治されていたかを記した史料はまれだ。今回の史料は中央政府による鬱島郡の管理実態を記録した具体的な史料で、学術的な価値がある」と説明した。
節目には独島に関する直接の記述はないが、ユ博士は「『鬱陵全島と竹島・石島』を管轄していた鬱島郡守に下された行政命令であるため、1905年に日本が独島を無人島と判断し、日本領に編入する以前に、大韓帝国が(独島を)実効的に支配していたことを示す証拠となる価値がある」と主張した。
崔宰熏(チェ・ジェフン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
Chaamieyさんご紹介の、この記事を日本語にしたものだと思います。
ReplyDelete[대구•경북] 독도 관할한 '울도군' 행정지침 첫 공개
[조선일보] 2011년 01월 05일(수) 오전 03:03
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011010503030994534&linkid=4&newssetid=1352
ところがこの日本語版には疑問、というか、たぶん誤訳があります。
煩雑なので原文と逐語訳をペーストしませんが、次の3点は疑問です。
1、「独島史料研究会」を「独島史料研究院」と訳したのはなぜなんでしょうか。
単なるミスか?
2、「家屋と田畑の外国人売買禁止」を「家屋と田畑の外国人による売買禁止」とするのは、若干意味が違うように思います。むしろ「外国人への売買禁止」ではないでしょうか?これは鬱陵島民への禁止措置だと思います。
3、「主人(持ち主)の無い島」(=無主地)を、「無人島」と翻訳していますが、意味を取り違えています。竹島問題について、この翻訳者はあまり知らないことをあらわしているように思います。
Googleに検索語『鬱島郡節目』を入れると、今現在で、254個ひっかかりましたが、
多くが、この誤訳のまま、広がっています。
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ReplyDelete鬱島郡節目
ReplyDelete內閣總理大臣 尹容善 閣下
內部
鬱島郡節目
本郡陞設 今旣兩年 全島庶務 尙多草創之中 數三悖民 興訛梗化 煽動居民 則不可不自本部 講究方略 確立郡規 故別成節目 以送 依此擧行 無或違越 島民中若有如前執迷 不遵令飭者 這這摘發卽速馳報 則當有別般嚴處矣 惕念擧行節目辭意 亦爲眞諺飜謄 揭付各洞 俾無一民不聞不知之弊事
一 日本潛越人等 偸斫木料 別般嚴禁事
一 本島人民中 家屋田土 或有暗賣外國人者 當一律施行事
一 本島開拓 尙未盡 懇爲念民人成家 姑未定稅 凡於島民耕食居生 若移居內陸 不得私相賣買 還爲官有事
一 現存公廨 爲七間 則仍舊修葺 若果狹窄四五間 略加建築 俾無民弊事
一 鄕長一員 書記一名 使令三名 姑先略施 以爲供役事
一 郡守以下 鄕長書記使令 餼料不得不自郡 略略算定 而本島戶數 足爲五百戶 則每戶春等 麥三斗 秋等黃豆四斗式 收斂分排廩料事
一 五百戶 每戶收麥爲三斗 則共計一千五百斗 凡石則爲一百石內 郡守一員廩況六十石 鄕長一員餼料十二石 書記一名十石 使令三名 每名六石式 合十八石 總計一百石 以爲定式事
一 各道商船來泊本島 捕採魚藿人等處 每十分抽一 收稅 外他出入貨物 從價金 每百抽一 以補經費事
一 官船一隻 不可不急先辦備 然後以便航路 而來往本部調査委員入島時 田士能李東信處 偸斫木料之屬公者 這這査徵 以爲購買船隻事
一 未盡條件 自本郡爛商會議 更爲磨鍊事
後錄
香木 貳百斤 間一年 進上事
戶布錢 五百兩 每年輸納于度支部事
郡守 年俸及鄕長書記使令餼料 總算
郡守 春等麥六十石 秋等黃豆四十石 合一百石
鄕長 春等麥十二石 秋等黃豆十二石 合二十四石
書記一名 春等麥十石 秋等黃豆十二石 合二十二石
使令每名 春等麥六石 秋等黃豆十二石 三名合麥十八石 合黃豆三十六石
總計麥一百石 黃豆一百石
光武六年四月 日 內部(1902)
2011.01.09
鬱島郡節目全文
ReplyDelete"だから、この文章こそが、
ReplyDelete「ペテンの始まり」であり、「嘘つきの始まり」であり、つまりは「泥棒の始まり」であるわけです。 "
いつも沈着冷静な分析を披露されているmatsuさんから「ペテン」とか「嘘つき」とかいう言葉が出てくるとは思っていませんでしたので、驚きました。でもその通りなんですよね。
私の「仕分け」はお遊びのようなものですが、matsuさんの「腑分け」は韓国側の論理破綻を的確かつ簡潔に表現しているのでとても重要だと思います。
「石島=獨島」説はいまだ立証されていません。それなのに「石島=獨島」という考え方が刷り込まれていますのでいとも簡単に嘘を真に変えてしまうのです。このような「獨島マジック」というか「獨島トリック」というか名前はなんでもよいのですが、いとも簡単に嘘を真に変えてしまう詐術が韓国側の主張には多用されていること、広く知ってもらう必要があると思います。韓国詐術に固有名を与えることで批判しやすくなるのではないでしょうか。
ちなみに『三国史記』や『世宗実録』にある「于山」あるいは「于山島」を「獨島」と読みかえるのも詐術のひとつですね。
2011.1.10
chaamieyさん、「欝島郡節目」の全文発掘感謝します。「獨島」のドの字もありませんね。しかもこれは方針であってどこまで実効性をともなっていたのか曖昧さが残ります。少なくとも鬱陵島においては実効的であったと思われますが、付属島嶼に対してはどうであったか推測することもできません。
ReplyDeleteそれとこれ漢文ですね。「言葉を奪われた。」とか言って対日批判の材料にしていましたが、その嘘がはからずもバレてしまいましたね。こういうのを自爆というのでしょう。
2011.1.10
chaamieyさん
ReplyDelete流石ですね。「鬱島郡節目」の全文を、有難うございます。これを読んでこの文書が"「独島」を実際に経営したことを立証する資料”であると信じる韓国人がいるとは思えませんが、記事にはしっかりそう書いてありますね。ウイルスに冒されているのでしょう。
不思議なのは、この公的文書が郡守の手元にあることですね。鬱陵島の役所にこうした文書が管理されていなかったのでしょうか。だとすると、沈興澤氏の子孫を見つけ出して何らかの文書が残っていないかを聞いてみたくなります。
Chaamiyさん
ReplyDelete鬱島郡節目の原文の発見、さすがです。ありがとうございます。
原文の漢文と、この記事にのっているハングル訳をもとに、日本語にしてみたいと思います。とりあえず、ハングル訳に重点を置いて訳してみましたが、原文と比べるとしっくりこないところもあります。原文の漢文から意味をとって日本語訳にするのが正しい道だと思います。よって、まだ試訳、といったところです。
Chaamiyさんもきっと始められていると思います。いろいろ教えてください。
Makotoさん
書いているうちにだんだん激してしまいました。このペテン=「独島トリック」、おっしゃるように、「于山島=独島」も、その最たるものですね。
Kaneganeseさん
1900年に勅令41号で本当に独島が大韓帝国の領土になったのであるとすれば、沈興澤郡守は、どう考えても、独島を「寝取られた男」なわけで、その子孫は、実はとても恥ずかしい思いをしてしかるべきなのではないかと思いますが、どうもそのようでないのが不思議です。
あっ、沈興澤の名誉のために言えば、決して竹島は大韓帝国の領土ではなかったので、別に沈興澤は「寝取られた男」ではありません。
ああ、またしても下品な物言いになってしまった・・・。
鬱島郡節目の原文
ReplyDeletehttp://www.dginews.co.kr/ArticleView.asp?intNum=23465&ASection=001003
內閣總理大臣 尹容善 閣下
내각 총리대신 윤용선 각하
内閣総理大臣尹容善閣下
內部 鬱島郡節目
내부의 울도군 절목
内部の鬱島郡節目
本郡陞設 今旣兩年 全島庶務 尙多草創之中 數三悖民 興訛梗化 煽動居民 則不可不自本部 講究方略 確立郡規
본 군(울도군)이 승격된 지 이미 2년이 지났는데도 전도(全島)의 서무(庶務)가 아직 초창(草創)함이 많은 가운데 유언비어를 만들어내고 교화되지 않은 몇몇 패민(悖民)들이 백성들을 선동하니, 본부(내부)에서는 방략을 강구하고 군규(郡規)를 확립하지 않을 수 없다.
本郡(鬱島郡)が昇格してすでに2年が過ぎたのに、全島の庶務がまだ草創のままであることが多い中、流言飛語を作り出し教化されない何人かの悖民たちが、民衆を扇動するので、本部(内部)では方略を講じて郡の規律を確立せざるをえない。
故別成節目 以送 依此擧行 無或違越
그러므로 따로 절목을 만들어 보내니 이대로 거행하고 어기지 마라.
従って、別に節目を作って送るので、このまま行ない、破ってはいけない。
島民中若有如前執迷 不遵令飭者 這這摘發卽速馳報 則當有別般嚴處矣
도민 중에 전처럼 갈팡질팡하고 명령을 따르지 않는 이가 있으면 일일이 적발하는 대로 속히 치보하면 마땅히 별단의 엄한 조처가 있을 것이다.
島民の中に、前のように戸惑って命令に従わない者がいれば、いちいち摘発して速やかに馳報せよ、然らば当然、別段の厳しい措置があるだろう。
惕念擧行節目辭意 亦爲眞諺飜謄 揭付各洞 俾無一民不聞不知之弊事
각별히 유념하여 거행하라. 절목의 뜻을 언문으로 번역하여 각 마을에 게시하여 한 사람도 듣지 못해 알지 못하는 폐단이 없게 할 것
格別に留意して挙行せよ。 節目の意味を諺文(ハングル)にも翻訳して各村に掲示し、一人たりとも聞いていない、知らないというような弊害をなくすこと。
一 日本潛越人等 偸斫木料 別般嚴禁事
ReplyDelete-. 일본에서 넘어와 나무를 몰래 베어가는 자들을 특별히 엄금할 것
-. 日本からやってきて木を密かに切っていく者を、特別に厳禁すること。
一 本島人民中 家屋田土 或有暗賣外國人者 當一律施行事
-. 본도의 인민 중에 가옥과 전토를 외국인에게 몰래 매매하는 자가 있으면 마땅히 일률(一律: 사형)을 시행할 것
-. 本島の人民中に、家屋と田土を外国人に密かに売買する者があれば、当然のことに、一律(=死刑)を施行すること。
一 本島開拓 尙未盡 懇爲念民人成家 姑未定稅 凡於島民耕食居生 若移居內陸 不得私相賣買 還爲官有事
-. 본도의 개척이 아직 미진하니 백성들이 가정을 이루기를 간절히 바라기에 아직은 세금을 정하지 않는다. 무릇 도민들은 경작을 하면서 먹고 살아가는데 만일 내륙으로 이거(移居)한다면 사적으로 매매하지 못하게 하고 관유(官有)로 반환하게 할 것
-. 本島の開拓はまだ未尽であるから、島民が家庭を作ることを切実に望む、よって税金はまだ定めない。およそ島民たちは耕作をして生きていくのであるが、もし万一、内陸に移居するような場合には、私的な売買を出来なくして官有に返還するようにさせること。
一 現存公廨 爲七間 則仍舊修葺 若果狹窄四五間 略加建築 俾無民弊事
-. 현재 있는 관청이 일곱 칸이 되면 그대로 쓰되 지붕을 보수하고, 4-5칸 정도로 좁다면 약간의 증축만 하고 민폐를 끼치지 말 것
-. 現在ある官庁の建物は、七間であればそのまま屋根を補修して使い、もし4~5間程度で狭ければ、若干の増建だけをして、民に迷惑をかけないこと。
一 鄕長一員 書記一名 使令三名 姑先略施 以爲供役事
-. 향장 1명, 서기 1 명, 사령 3명을 먼저 두어 일을 하게(供役) 할 것
-. 鄕長1人、書記1人、使令3人を先ず先に置き、仕事に供役させること。
一 郡守以下 鄕長書記使令 餼料不得不自郡 略略算定 而本島戶數 足爲五百戶 則每戶春等 麥三斗 秋等黃豆四斗式 收斂分排廩料事
-. 군수 이하 향장과 서기, 사령의 급료는 군에서 대략 산정하지 않으면 안 된다. 울릉도의 호수가 족히 500호가 된다면 집집마다 봄에 내는 세금은 보리 3말, 가을에 내는 세금으로는 콩 4말씩을 거두어 봉급으로 나눠줄 것
-. 郡守以下、鄕長・書記・使令の給料は、郡で概略算定しなくてはいけない。
鬱陵島の戸数が500戸になるならば、家ごとに春に出す税金は麦3斗、秋に出す税金は豆4斗ずつを納めさせ、給料として分け与えること。
一 五百戶 每戶收麥爲三斗 則共計一千五百斗 凡石則爲一百石內 郡守一員廩況六十石 鄕長一員餼料十二石 書記一名十石 使令三名 每名六石式 合十八石 總計一百石 以爲定式事
-. 500호에서 호마다 보리 3말을 거둔다면 모두 1500말이 된다. 섬(石)으로는 모두 100섬 이내이다. 군수 한 명의 급료는 60섬, 향장 1명의 봉급은 12섬, 서기 한 명은 10섬, 사령 3명은 한 명당 6섬씩 합이 18섬, 합계 100섬을 정식(定式)으로 할 것
-. 500戸が、戸ごとに麦3斗を収めるならば、全部で1500斗になる。 石にすれば、全部で100石以内だ。郡守一人の給料は60石、鄕長1人の給料は12石、書記一人は10石、使令3人は一人当り6石ずつで合わせて18石、合計100石を定式とすること
一 各道商船來泊本島 捕採魚藿人等處 每十分抽一 收稅 外他出入貨物 從價金 每百抽一 以補經費事
-. 각도의 상선(商船)으로서 울릉도에 와서 어채(魚採)하는 사람에게는 사람마다 10분의 1세를 거두고, 외지로 출입하는 화물은 물건값에 따라 100분의 1세를 거둬 경비에 보탤 것
-. 各道の商船にして鬱陵島に来て漁労や採藿をする者には、一人当たりに10分の1税を納めさせ、外地に出入する貨物は、その値段により100分の1税を納めさせて経費に加えること。
一 官船一隻 不可不急先辦備 然後以便航路 而來往本部調査委員入島時 田士能李東信處 偸斫木料之屬公者 這這査徵 以爲購買船隻事
-. 관선(官船) 한 척을 먼저 마련해야만 왕래하는 일이 편해지는데, 내왕하는 본부의 조사위원이 섬에 들어가면, 전사능과 이동신이 몰래 판 나무를 관아에 소속시킨 일에 대해서는 일일이 조사․징세하여 선척의 구매 비용으로 할 것
-. 官船一隻を先に用意してこそ往来が楽になるが、以前、本部の調査委員が入島したときに(1900年の禹用鼎の調査をさすか?)、田士能と李東信が盗んだ木を官衙に属させたことについては、きちんと調査・徴税して船隻の購買費用とすること。
一 未盡條件 自本郡爛商會議 更爲磨鍊事
-. 미진한 조건은 본군이 충분히 의논하여 다시 마련할 것
-. (このほかの)未尽の条件は、本郡で十分に相談してさらに整備すること
後錄
ReplyDelete후록
後禄
香木 貳百斤 間一年 進上事
향나무 200근은 1년 간격으로 진상할 것
香木200斤を、1年おきに進上すること。
戶布錢 五百兩 每年輸納于度支部事
호포전(戶布錢) 500냥은 매년 탁지부에 납입할 것
戸布銭500両は、毎年、度支部(=大蔵省)に納入すること。
郡守 年俸及鄕長書記使令餼料 總算
군수의 연봉 및 향장, 서기, 사령의 급료는 총산한다.
郡守の年俸、および鄕長・書記・使令の給料は、総算する。
郡守 春等麥六十石 秋等黃豆四十石 合一百石
군수는 봄에는 보리 60섬, 가을에는 콩 40섬으로 합이 100섬
郡守は、春には麦60石、秋には豆40石で、合計100石。
鄕長 春等麥十二石 秋等黃豆十二石 合二十四石
향장은 봄에는 보리 12섬, 가을에는 콩 12섬으로 합이 24섬
鄕長は、春には麦12石、秋には豆12石で、合計24石。
書記一名 春等麥十石 秋等黃豆十二石 合二十二石
서기 1명은 봄에는 보리 10섬, 가을에는 콩 12섬으로 합이 22섬
書記1人は、春には麦10石、秋には豆12石で合計22石。
使令每名 春等麥六石 秋等黃豆十二石 三名合麥十八石 合黃豆三十六石 總計麥一百石 黃豆一百石
사령은 각기 봄에는 보리 6섬, 가을에는 콩 12섬, 3명의 합이 보리 18섬, 콩 36섬으로 총계 보리 100섬, 콩 100섬
使令は、それぞれ春には麦6石、秋には豆12石、3人の合計が麦18石、豆36石で 総計麦100石、豆100石。
光武六年四月 日 內部
광무 6년(1902년) 4월 내부
光武6年(1902年) 4月 内部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この記事のほかの部分の文章は、前に出ていた「報道資料」と同文のようです。
matsuさん
ReplyDelete翻訳、ありがとうございました。
「流言飛語を作り出し教化されない何人かの悖民たちが、民衆を扇動する」
どういうことが起こっていたのでしょうね。1902年と言えば外務省通商局編纂「通商彙纂」(http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html)が日本側の史料としてありますが、韓国人の”悖民”についての記述はありません。
>Chaamiyさんもきっと始められていると思います。
ReplyDeleteそれが、実は、茶阿弥さんはURLを紹介しただけで、後はなーんもやってません。おまけにパスワード変更でヘマをやらかしたらしく、目下アカウント停止中でコメントができないみたいです。
ところで、私は、あやしげなブログを立ててこの問題に参入しましたので、御報告まで。いつまで続くか分かりませんけど。
2011.01.11
chaamieyさん
ReplyDeleteそれは災難でしたね。ところで、「怪しげなブログ」の読者になりました。
Chaamieyさん
ReplyDelete新ブログ、素晴らしいです。
韓国語での発信を、私もしなくては、とは思うのですが、韓―日の翻訳のようにはいきません。
期待しています。
韓国側からの反応があるといいですね。
(韓国語で、それにまた反論するの、大変でしょうけど・・・)
Kaneganeseさん
この「節目」は、鬱陵島に住む韓国人を対象に規制しようとしたものだと私には思えます。
數三悖民 興訛梗化 煽動居民
島民中、若有如前、執迷不遵令飭者、這這摘發、卽速馳報
は、日本人と「結託」して、(大韓帝国にとって)悪いことをする人間が、鬱陵島民のなかに少なからずいた、ということでしょう。
眞諺飜謄 揭付各洞、俾無一民不聞不知之弊事
ハングルにして掲示せよ、ということは、対象が韓国人だったことを示します。
しかも、漢文は読めない、教育をあまり受けていない階層の人にも規制を徹底させようとしたということでしょう。
各道商船、來泊本島、捕採魚藿人等、處每十分抽一、收稅。
「魚」は「捕」して、「藿」=わかめ、は「採」するんだと思いますが、
各地方からやってくる船を「商船」と表現しているのが面白いと思います。
ご紹介の、同じ1902年の通商彙纂
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html
に、有名な
韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレトモ、毎年全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シテ、海岸ニ満生スル若芽ヲ採取セリ
という1節がありますね。
この「海岸ニ満生スル若芽」は、鬱陵島本島のものであって、わざわざ独島まで行っていたものではないでしょう。
外他出入貨物 從價金 每百抽一
この「他」は、「地」でしょうね。
日本人側の「貨物」に税金をかける話は、たしか『皇城新聞』かなにかにもあったような気がします。100分の2(2パーセントの関税)だったような記憶がありますが。
もうひとつ、似たようなのがありました。
ReplyDelete鬱島郡節目の影印(漢文)が全文見えます。
柳美林の論文というか、説明文もついています。
http://blog.daum.net/gimcheonws/7688272
“울도군 행정지침 발견” 초대군수 배계주 후손 공개
『鬱島郡行政指針 発見』初代郡守 裵季周の子孫が公開
김천뉴스 2011.01.04 19:14
慶尚北道と関連するサイトのようです。「金泉(地名)ニュース」でしょうか。突然サイトから音楽も鳴り出すので驚かないでください。
文字化けして見えない字もあるようで、この記事自体も、どこかからのコピペかもしれません。
この柳美林の説明文は、論文というよりはレジュメのようなもので、どこかで公開されたのでしょう。
最近公開された1902年「鬱道郡節目」の意味
ReplyDeleteKMI研究委員 柳美林
http://blog.daum.net/gimcheonws/7688272
1. 節目が出ることになった背景
1880年代中盤以後から、日本の鬱陵島侵奪が本格化、木材密搬出と漁労活動が増加。
1888年には、越松浦万戸が鬱陵島僉使を兼職し、島長の役割。
1890年閏2月には、高宗が江原道観察使・李源逸(イ・ウォンイル)を呼び鬱陵島検察を特別に命令し、同じ月に、日本人30人が、漁網を積んでくる。
1892年には宣伝官ユン・シビョンを検察官として派遣。
1893年までは、鬱陵島に捜討官が派遣されたが、1894年になって捜討制度は廃止。
平海郡守チョ・ジョンソンは1894年には査検官の名前で調査する。
1895年8月には、また島長を島監に変える。
鬱陵島の島監に裵季周が任命され、裵季周は、1895年から鬱陵島の事務を本格的に引き受けることになる。
彼は、鬱陵島道民として宣伝官の検察に同行したが、1895年9月に島監に差定。
日本人の鬱陵島侵奪を防ぐために、訴訟も辞さないなどの積極的な行歩。
1896年になると、鬱陵島では日本とロシアが伐木について角逐する状況になったが、島監にはこれを阻止する力が微弱。
手下と月給もなく、名前だけの島監であったので、島監の地位を格上げさせるため、
政府に1898年に島監を判任官として待遇することを要請。
1898年に、裵季周は密搬出された木材を取り戻すために、隠岐と東京などの地で訴訟をし、
1899年4月には、松江地域で訴訟を提起して勝訴。
日本人から取り戻してきた木材の代金を訴訟費用に当て、余ったお金を国家に上納した裵季周の行跡は「皇城新聞」(1899年5月16日雑報:可任一隅)に報道。
こういう行跡のために、彼は1899年5月、釜山にいたが島監に再任命、ラポーテとともに、鬱陵島の真相を調査しろとの命を受ける。
しかし裵季周が訴訟の件のためにしばらく島監の資格を喪失し、また任命されたのかについては明らかでない。
裵季周と釜山税関税理士のラポーテの鬱陵島調査があった後、ロシアと日本は、それぞれ相手国家が鬱陵島で伐木するのに対して朝鮮に抗議。
外部大臣・朴斉純(パク・チェスン)は、日本公使に鬱陵島に留まっている日本人の撤収を要求。
日本公使の林(=林権助)は、1899年11月末までに撤収を約束。
しかし日本は、日本人の撤収は彼らの住居権とは関係がないと態度が変わり始める。
裵季周とラポーテの報告書に接した朝鮮政府は、日本人数百世帯の蛮行と侵奪についての記述を見て、はじめて事態の深刻性を認識。
裵季周による状況報告は、1899年6月から9月にかけてしばしば行われる。
両国で鬱陵島に人を派遣して調査することにしたのは、裵季周の訴訟の件が影響を及ぼしたようだ。
1900年6月、禹用鼎が派遣される前まで、裵季周は鬱陵島島監として鬱陵島の状況を逐次、上部に報告。
そのような功績ためか、裵季周は島監から郡守に任命される。
裵季周は、鬱島郡守として禹用鼎が帰った後にも、ずっと鬱陵島の状況を報告。
しかし鬱陵島の状況について悲観的に成っていき、鬱陵島の官制改編の議論は、こういう裵季周の活動に力づけられたことが大きいといえる⇒勅令41号
当時、ロシアが日本人の伐木禁止を日本政府に要請するなど、ロ・日間の鬱陵島侵奪が本格化すると、朝廷では、島監の設置が能事ではないとの認識をし始める。
これに1899年下半期に至り、鬱陵島の現況を詳しく調査するために、禹用鼎を鬱陵島に派遣しようという議論が台頭。
続いて、内部大臣・李乾夏(イ・コナ)は、禹用鼎を視察委員として派遣することを上奏。
鬱陵島の形勢を把握しようとする本格的な動きが1899年の後半になって起き始める。
鬱陵島を詳しく調査しろとの命を受けた禹用鼎は、1900年6月に鬱陵島に行ってきて、その結果を上部に報告。
その後から、島監を郡守に改正し、行政的にも整備することを議論する手続きが進行。
禹用鼎が鬱陵島を視察して帰った後にも、日本人の無断伐木はもっとひどくになり、
従って島監の権力でこれを阻止するには限界があるということを裵季周自身が吐露。
勅令41号は、こういう状況で、鬱陵島をこれ以上放置できないと判断した朝鮮政府の措置。
1901年8月現在、鬱陵島に留まっていた日本人は全部で550人。
伐木したり造船に従事する者、および商業に従事する者が主をなす。
これらの中で、3~400人は3月と6月の間に来て仕事が終われば帰る者であるが、中には、7~8年留まり、永久居住を試みる者もある。
当時も相変らず鬱陵島には船舶がなく輸送に困りきっており、このために日本に商圏を奪われている状態。
そこで鬱陵島民は、外部に船舶2隻を購入してくれと請願した状態。
2.裵季周に関する事項
ReplyDelete父親は、通政大夫 行敦寧府都正の裵顕亀(ペ・ヒョング)(1893年1月教旨)
1895年9月に島監に差定され、鬱陵島を管理。
1900年10月25日、初代郡守として赴任。1900年11月29日付「官報」には、9品裵季周を奏任官6等に叙用し、鬱島郡守に任命するという事実が載っている。
1903年、沈興澤が赴任する前まで、郡守として在職。
その間、1902年初、姜泳禹(カン・ヨンウ)が郡守としてしばらく在職。
鬱島郡数勅命:
前郡守裵季周を鬱島郡守に任じ、奏任官6等に叙す
光武6年(1902年) 3月7日
* 日本人の裵季周に対する評価
「裵島監は日本に3度来たことがあって、日本語を少しは理解するので、日本人のためには非常に便利であるが、日本での槻木材の価値が分かるから、いつも直接伐採し、日本人ひとりと結託して利益を独占しようとしている。昨年以後に彼が韓国朝廷に日本人の槻木盗伐云々という報告し、また、島民が槻木を守るのは生命と同じようが、という話などは、全部こういう胸中から出た言葉だ。」(「鬱陵島山林調査概況」)
3.当時の関連史料
ReplyDelete* 鬱陵島の官制を整備しようとする端緒は、すでに1898年4月7日、勅令12号「地方制度中、鬱陵島島監設置の件」に見える。
* 1898年5月請議書:「欝陵島区域を地方制度中に添入に関する請議書」
鬱陵島は、東側の海に孤立してあり、陸地ととても離れていることが実に恨めしく、状況がどのようなのか、また居住民の数をまだ完全には知らないので、開国504年(1895) 8月13日に、鬱陵島島監を選んで送るように請議し、同じ月16日に上奏して裁可を得ました。
同じ年9月20日に、鬱陵島の人である裵季周を島監に差定し、島監は判任官として待遇することを官報に掲載して本島の管理を全面的に任せ、島の状況と戸口を事実通りに調査した後に、報告させるようにしました。この人が報告した成冊に基づいてみると、居住民の戸数は277で、男女人口は1,137で、開墾した田土が4,774斗落である。これを調べてみると、島の人の戸数と、開墾された土地が、このような場合には、地方制度中に添入することが妥当なので、この勅令案を会議に上げます。
光武2年5月日
議政府 参政内部大臣 朴定陽(パク・チョンヤン)
* 1900年3月1日:雑報:「欝島官制の改定」(皇城新聞)
内部では、鬱陵島官制改正の件を議政府会議に提出して決めたが、島監は監務と改称し、監務は奏任官とし内部の地方局長の指揮を受けるようにし、島長1人、書記2人、通引2人、使命2人で、監務の任期は5年だ。任期が来たり、政治がよくできなくて変える場合には、島の中の各洞の執綱が連署で署名して、島長の中で人望が優れた人を選んで内部に報告する。島長は、本島の島民中、人望が普段優れた者を会議で投票し、多数決により差任するが、3年に一回ずつ変えて、官吏の給料は本島の戸口と田結を調査して計算した後に島の人民の公議について決めて支給することとした。
* 1901年3月11日:雑報:「島民訴請」
鬱陵島の居住民の金声集(キム・ソンジプ)などが内部に訴えるには、
「昨年に蔚珍の人・崔秉麟(チェ・ビョンニン)と視察官・禹用鼎が入島して、済益船一隻を購入して島民と物品の往来を便利にしたが、槻木をのせて行き黄土窟で風浪に会って船が破損しました。すると、船舶会社の社員が言うには、これは政府が用意したものであるが、お前たちが曳木を遅滞したせいで破損が起ったとして、船価と費用1万 6千両を島民から強制的に徴収しようとしました。そこで、郡守の報告書を持って島の中の知事人である田士能を送って釜山港に停泊するようにすると、崔秉麟が言うには、印章を偽造して報告するのに押したといいました。そして、田士能を釜山港監理所に捕まえ、合わせて押送して裁くことを求めました」ということである。
* 1901年9月日 報告書第1号
本郡は、海のはてにあり、開拓はまだ終わらず、世帯は五百戸にならず、普段通商する境遇ではないから、彼らの交渉は、本来、各国会辧の条例にはないことです。今、日本人の往来が異常で、重大な封山をむやみに切るので、この事実を内部に報告しました。そして去る庚子年(1900) 5月、視察官禹用鼎が日本公使とともに命を受け、島に入って日本人を呼び集めて裁判をし、再び侵魚する弊害がないようにして雌伏させました。視察官が上京した後で、日本人500人が、すべての山に入って槻木と材木を思いのままに切っては、載せて行ってしまいました。今年は、鬱陵島を南北に分けて、自称自らの山と言い、島の人が一つも切れないようにしています。しかも、鬱陵島民から財物を奪い、無数に困難にあうので、その・・を報告します。ですから、日本公使館に知らせて、島に入ってきた日本人を速く撤収するようにし、民衆が楽に生業に従事して大韓要衝の土地を保存するよう願います。
1901年9月 日
蔚島郡守 裵季周
議政府 参政 外部大臣閣下
* 1901年9月13日 報告書 副本
現在、日本が島全体にぎっしり埋まり、不法を行うことは、民をドン底に落ちるようにするだけでなく、森林はすでに真裸になり、土地が将来彼らの手に入るようになったので、これを報告します。
鬱島郡守 裵季周
議政府 参政・外部大臣閣下
* 1902年3月4日:雑報:「欝守新任」
鬱島郡守・姜泳禹を免官する代りに、前郡守裵季周氏が叙任されたという。
* 1902年3月13日訓令第1号
貴郡が新設されてからいくらも経たず、すべての事務が始まる段階です。 外国人が内地をあまねく通うと自称して、頻繁に往来して家を作って営業をし、森林をむやみに切ることがあり、弊害がますます激しくなるに至りました。これは条約を破ることであるだけでなく、私たちの民の利害とも関係があって、そのまま置いてはいけないので、これに訓令を出します。厳しくさらに禁飭し、外国人が遊覧して商うこと以外に、家屋を作って営業をし、土産物を侵奪することが無いようにしなければなりません。難しいことがあったら、付近の東莱監理に知らせて処理するようにし、本国民で外国人と不法に通じる者があれば、東莱監理署に捉えてきても良いです。
光武6年10月30日
議政府 参政・外部大臣朴斉純
鬱島郡守 姜泳禹座下
4.節目の構成
ReplyDelete1)節目を出した理由
鬱島郡民の規律を正して日本人の無断伐木禁止
鬱島郡民と日本人との結託および田土売買防止
2)鬱島の開拓を奨励するための措置:税金免除、耕作地売買禁止
3)官庁による民への迷惑禁止
4)郡守と手下の官吏についての規定および給料規定
5)商船および貨物に対する徴税
6)官船用意のための対策
7)その他: 香木献上品、戶布銭徴収
さすが「追跡調査のマツ」の異名を取るmatsuさんの調べ上げで全部分かりましたね。長文翻訳お疲れ様です。
ReplyDeleteこれだけ鬱島郡についてあーたらこーたら言っていても「石島」のことは全く出てこない。竹島/独島は鬱陵島から92kmも離れているのだから、竹島/独島に関して何か指示をしようとするなら、特別な一文が必要なはずです。例えば、「石島については一年に一度は現地を調査し、変わったことが起きていないか確認すべし」とか何とか。でもそんなものは何もない。
この資料からも「石島説」はウソだと言うことが分かります。
そして、やっぱり船がなかった・・・・・。
2011.01.13
matsuさん
ReplyDeleteありがとうございました。
後程日本語でこの内容を投稿させてください。記録として残すことは大変重要だと思います。
chaamieyさんの仰る通り、この節目には、石島の記述が全くありません。勅令41号の「石島」が92km離れた竹島であり、かつこの内容が同島を実質的に経営していた証拠とみなすには、大変不都合です。「竹島石島」は鬱陵島近辺の付属諸島であったと考えるのが自然でしょう。この資料はむしろ1902年の時点においても韓国政府が竹島を鬱島郡の管轄外とみなしていたことを示す傍証であるといえます。
それにしても「3.当時の関連史料」は読んだことのないものばかりですね。是非原文を確認したいものです。
「追跡調査のマツ」とは、ありがたいお言葉をいただきました。
ReplyDeleteみなさまの「きっかけ」を頂けばこそ、いろいろ調べられて幸いです。
柳美林のレジュメは、眠いところをやや急いで翻訳したので、不備があると思います。
自動翻訳の漢字をそのまま残してしまうのが怖いです。日本語としてまだ変なところもありますね。
Kaneganeseさんがおっしゃるように、「3.当時の関連史料」には、知らないものがあります。
『皇城新聞』については、この日付で検索すればネットでも出そうな気がします。
うしろの二つの記事も『皇城新聞』だと思います。
1900年3月1日:雑報:「欝島官制の改定」(皇城新聞)
1901年3月11日:雑報:「島民訴請」
1902年3月4日:雑報:「欝守新任」
『皇城新聞』は、1. 節目が出ることになった背景
の中にもありますね。「皇城新聞」(1899年5月16日雑報:可任一隅)
それから、1898年4月7日、勅令12号「地方制度中、鬱陵島島監設置の件」
これは「官報」にありそうですね。
1898年5月請議書:「欝陵島区域を地方制度中に添入に関する請議書」
参政内部大臣 朴定陽とありますので、『各部何とか案』とかいうようなものの「内部」のものとしてあると思います。
1901年9月日 報告書第1号
「蔚島郡守 裵季周」から「議政府 参政 外部大臣閣下」ですから「外部」のものにあるのでしょう。ちなみに、この「蔚島郡守」は、「鬱島郡守」とするべきですね。訂正しておきます。
1901年9月13日 報告書 副本
「鬱島郡守 裵季周」から「議政府 参政・外部大臣閣下」
これも上と同じところあたりに史料があるのでしょう。
1902年3月13日 訓令 第1号
最後のところの日付は「光武6年10月30日」とあって、違っていますね。
「議政府 参政・外部大臣朴斉純」から「鬱島郡守 姜泳禹座下」
この「姜泳禹」という二代目の郡守は、任命されても実際に現地におもむかず、郡守をクビになっています。この前の『皇城新聞』史料にもありますね。
沈興澤は、三代目の郡守になるわけですが、ソウルから、未知の土地である鬱陵島に赴任した中央官僚としては、最初の人間になるわけですね。
2.裵季周に関する事項の最後にある、
ReplyDelete「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は、
1900年の赤塚正助の報告ですね。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れてみます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
最初のところの Link to Japanese Transcription of the Document にあります。
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
ReplyDeletehttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
Link to Japanese Transcription of the Document
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
ReplyDeletehttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
Link to Japanese Transcription of the Document
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
裵季周の名前は、あちこちの資料にありますね。
ReplyDeleteKaneganeseさんが前回紹介した外務省通商局『通商彙纂』にも登場します。
もう4年近く前になる、2007年6月に、このブログで議論していた、『通商彙纂』234号 1902年10月16日です。
この『鬱島郡節目』(1902年4月)と、ちょうど同じ時期の史料です。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html
日本語
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/what-does-it-say-about.html
英語と原文映像
第二、在島韓民ノ状況
テンとマルを入れます。
本島韓民ハ、古来永住ノ者ナク、今ヲ距ル廿一年前、江原道ヨリ、始テ、裵季周、金大木、卞敬云、田士日ノ四名渡航シ、同行者ハ協力ヲ以テ、山間ヲ開拓シ、畠地ヲ作リテ、農耕ヲ業トセリ。然ルニ、其翌年ニ至リ、江原道・江陵地方ヨリ、黄鐘海、崔島守、田士雲、金花椒、洪奉堯、李孫八、及、全羅道地名不詳、張敬伊ノ七名来島セシ以来、年々歳々、江原・慶尚・咸鏡・全羅ノ四道ヨリ移住スルモノ多クシテ、何レモ各地ニ散在シ、精励以テ開墾ヲ為シ、専ラ農業ヲ営ミ、漁業ニ従事スルモノハ僅少ナリトス。
ここでいう21年前は、1881年ということになりますが、裵季周は最初の開拓者4人の一人として名前が出ています。ここでは江原道の出身ということになっています。
一方、裵季周は、京畿道の仁川・永宗島の出身という記録もあります。
宋炳基『鬱陵島と獨島』1999 89p 注80
(半月城=朴炳渉訳2009『竹島(独島)・欝陵島歴史研究』または『欝陵島・独島(竹島)歴史研究』(途中でタイトルが変わった)134pおよび注92、93
(駐韓日本公使館記録』本省機密往信(明治33年)機密第133号)
こちらは、日本側の記録ですから、信憑性は低いのかもしれません。
しかし、
父親は「通政大夫」で「都正」ということですが、それが本当とすれば、相当な高級官僚ということになり、年代記資料に名前が出てくるはずですが、裴顯龜 배현구という名前では、実録にはありませんでした。
そんな高級官僚の息子だとすれば、「江原道」から渡ってきた、というよりも、都に近い仁川・永宗島の出身だった、というほうが当たっているのかもしれません。
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
ReplyDeletehttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
Link to Japanese Transcription of the Document
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
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GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
Link to Japanese Transcription of the Document
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
ReplyDeletehttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
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http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
Yahoo!知恵袋にコメントしました。Yahoo!知恵袋は工作員が蔓延っているようでいい加減なことを言っている回答が散見されます。
ReplyDeleteしかもそれがベストアンサーに選ばれていたりしたら、嘘を広めることになりますからね。きちんとしたコメントを返していくことで悪質な投稿を排除できればと考えています。
竹島問題についての韓国メディアの主張 「独島:『鬱島郡』の行政指針、日本編入以...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1053208620
Kaneganeseさん、「1902年の時点においても韓国政府が竹島を鬱島郡の管轄外とみなしていたことを示す傍証であるといえます。」との指摘、その通りだと思います。その点、強調しておきたいですね。それと合わせて「石島=獨島」などという「獨島トリック」を使っていることも広く知ってもらいたいところです。
ReplyDelete「掃討節目」の名前が出てきたようですが、この「掃討節目」とは別に、(三陟)營將節目があります。三陟市博物館にこの開示を依頼したことがあったのですが、独島プロパガンダ博物館の同様に拒否されました。
ReplyDelete以前に存在だけ調べたのですが、江原道関連の節目や報告書に灰化のようなものがあるので調べる必要はあると思います。
https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/chousa-irai-risuto
Makotoさん
ReplyDelete正確には「1902年以前に韓国の中央政府が竹島の存在を認識していた形跡がないため、結果この資料は当時の政府が鬱島郡の管轄外とみなしていたことを示す傍証であるといえます。」にでもなりますでしょうか。
GTOMRさん
ありがとうございます。奎章閣の史料ですね。チャンスがあれば現地での資料の収集をしたいと思いますので、その時のためにこうして必要なものをリストアップしていくことは重要です。焦らず、粛々と進めていきましょう。(所蔵先と請求番号が分かればなお手間が省けます。)
chaamieyさんに続き、matsuさんのアカウントも消えてしまったそうです…
ReplyDeleteGoogleは本当にここ最近動きがおかしいです。
以下に彼のコメントを代理投稿します。
(matsuさんのコメント①)
-----------------------------------
2.裵季周に関する事項の最後にある、「日本人の裵季周に対する評価」(「鬱陵島山林調査概況」)は1900年の赤塚正助の報告ですね。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/1900-japanese-map-of-ulleungdo.html
GTOMRさんの4番目のコメントで引用されています。テンとマルを入れます。
第四. 島治
島民、戶數五百二十餘、人口二千五百有餘。
島監ナル者アリテ島治ヲ司ル。島監ノ下ニ、各村ニ村長ナルモノアリ、村ノ世話役ナリ。
島監役場ハ、今マ道洞ト稱スル所ニアリテ、現島監ヲ、斐季周ト稱ス。
韓廷ヨリ一文ノ俸給ヲ受ケス、又、嶋民其他ヨリ收入少キヲ以テ、貧窮ニシテ無勢力ナリ。加フルニ、權力ナキヲ以テ、島民ノ八分ハ、尊敬シテ其命ニ服セス。故ニ、治績擧ラス。
島民相互ノ間ハ、隣保相親シミ、能ク共同生存ノ秩序ヲ保テリ。
斐島監ハ、日本ニ三度到リタルコトアリテ、稍々日本語ヲ解シ、日本人ノ爲メニ頗ル便利ナリト雖トモ、彼レ日本ニ到リ、槻木材ノ日本ニ於ケル價値ヲ知レル故ニ、常ニ自ラ伐採シテ、日本人ノ一人ニ結托シ、利益ヲ專ニセントノ考アリ。
昨年以來、彼レカ韓廷內部ニ向テ、日本人槻木盜伐云々ヲ報告シ、又ハ、島民槻木ヲ視ルコト、生命ノ如シ、ナト云ヘルハ、全ク右ノ魂膽ニ出ルモノニシテ、島民ハ槻木ノ價ヲ解セス。山ニ入リテ見ルニ、皆之ヲ薪炭用トシテ伐採シ居レリ。
此ノ如キヲ以テ、島監ト日本人ノ間ハ、感情面白カラス。
原文
Link to Japanese Transcription of the Document
http://db.history.go.kr/front/dirservice/JH/viewDocumentJH.jsp?pFlge=T&pLevel=4&pDatabaseID=jh_014&pRecordID=jh_014_0130_0470&pSearchSetId=-1&pTotalSearchCount=0&pPosition=0&pDirType=1&pSearchType=0&pSearchName=&pQuery=
---------------------------
(matsuさんのコメント②)
ReplyDelete----------------------------------
裵季周の名前は、あちこちの資料にありますね。
Kaneganeseさんが前回紹介した外務省通商局『通商彙纂』にも登場します。
もう4年近く前になる、2007年6月に、このブログで議論していた、『通商彙纂』234号 1902年10月16日です。
この『鬱島郡節目』(1902年4月)と、ちょうど同じ時期の史料です。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/1902.html
日本語
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/06/what-does-it-say-about.html
英語と原文映像
第二、在島韓民ノ状況
テンとマルを入れます。
本島韓民ハ、古来永住ノ者ナク、今ヲ距ル廿一年前、江原道ヨリ、始テ、裵季周、金大木、卞敬云、田士日ノ四名渡航シ、同行者ハ協力ヲ以テ、山間ヲ開拓シ、畠地ヲ作リテ、農耕ヲ業トセリ。然ルニ、其翌年ニ至リ、江原道・江陵地方ヨリ、黄鐘海、崔島守、田士雲、金花椒、洪奉堯、李孫八、及、全羅道地名不詳、張敬伊ノ七名来島セシ以来、年々歳々、江原・慶尚・咸鏡・全羅ノ四道ヨリ移住スルモノ多クシテ、何レモ各地ニ散在シ、精励以テ開墾ヲ為シ、専ラ農業ヲ営ミ、漁業ニ従事スルモノハ僅少ナリトス。
ここでいう21年前は、1881年ということになりますが、裵季周は最初の開拓者4人の一人として名前が出ています。ここでは江原道の出身ということになっています。
一方、裵季周は、京畿道の仁川・永宗島の出身という記録もあります。
宋炳基『鬱陵島と獨島』1999 89p 注80
(半月城=朴炳渉訳2009『竹島(独島)・欝陵島歴史研究』または『欝陵島・独島(竹島)歴史研究』(途中でタイトルが変わった)134pおよび注92、93
(駐韓日本公使館記録』本省機密往信(明治33年)機密第133号)
こちらは、日本側の記録ですから、信憑性は低いのかもしれません。
しかし、
父親は「通政大夫」で「都正」ということですが、それが本当とすれば、相当な高級官僚ということになり、年代記資料に名前が出てくるはずですが、裴顯龜 배현구という名前では、実録にはありませんでした。
そんな高級官僚の息子だとすれば、「江原道」から渡ってきた、というよりも、都に近い仁川・永宗島の出身だった、というほうが当たっているのかもしれません。
------------------------------
(matsuさんのコメント③)
ReplyDelete----------------------------------
1899年(明治32年)10月の高雄謙三「鬱陵島出張復命書」に裵季周が出てきます。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/09/1899-oct-4.html
1899 - Oct 3 - 高雄謙三「鬱陵島出張復命書」
そもそも、この島に在住する本邦人が樹木を採伐するに当たっては、この島の都監すなわち島守と言うべき韓国官吏(現在この島の都監は、裵季周という者です)の公許を得て、樹木の大きさによって相当の伐木料を納めて採伐するとのことであり、我が国の人々を目して、直ちに盗伐者と言うのは当を得たものではなく、むしろ売買といえば正しいでしょう。
(1899・10・3)
これは韓国語からの日本語への再訳
『駐韓日本公使館記録』13 (515 p) 各領事館往復(17)公第二八号
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=jh_013r_0140_0170
그러나 이 섬에 있는 우리나라 사람들이 수목을 채벌하게 된 것은 이 섬의 都監 즉 島守라고도 말하는 한국 관리(현재 이 섬의 도감은 裵季周라는 자임)의 공식 허가를 얻어 수목의 크기에 따라 이에 상당한 벌목료를 납부하고 채벌하는 것이므로, 우리나라 사람들을 지목하여 도벌자라고 하는 것은 이치에 합당하지 않으며 거의 매매에 의한 것이라고 보아야 옳을 것입니다
原文
左上にある「원문보기(原文を見る)」をクリック
(3つある矢印マークの右)
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=jh_013r_0140_0170
抑モ該島在住ノ我邦人カ樹木ヲ採伐スルニ當リテハ該島都監卽チ島守トモ云フヘキ韓國官吏(現今同島都監タルハ裵季周ト云ヘルモノナリ)ノ公許ヲ得樹木ノ大小ニ從ヒ相當ノ伐木料ヲ納メテ採伐スルト云ヘハ我邦人ヲ目シテ直チニ盜伐者トナスハ其當ヲ得サルモノニシテ殆ント賣買ノ觀ヲナセルナリ
さらに原文(影印)
http://db.history.go.kr/front2010/dirservice/ibrowser/searchIpqData.jsp?pItemCode=jh&pStartPg=jh_013_014_00410&pEndPg=jh_013_014_00510
6/11にあります。
----------------------------------
2011.1.14
1900年前後の鬱陵島の状況について韓国側は日本人の鬱陵島進出を極悪人や悪魔の所業のように書き連ねていますが(相手側の立場に立ってみれば確かに一部共感するところもありますが、)あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。明治に入った日本は人口が顕著に増加し始め、工業化で吸収しきれなかった人口圧力が海外に流出せざるを得なかった(ハワイへは1868年から移住が始まり、本土へも増加し、1924年には排日移民法が成立します。また1908年(明治41年)6月18日、日本からの初の集団移住者がブラジルへ出航しています。)ことを考慮すべきだと思います。こうした一般人の移住や商業活動を国家による侵略の手先であると短絡的に言い募る論調には賛成しかねます。実際日本の併合により近代化の始まった朝鮮半島から日本へ渡ってきた人々がいかに多かったかを考えると、形は違いこそすれ、現在の価値観、道徳観だけを念頭に、この人口圧力を全く無視した歴史考察・日本帝国主義批判には賛成しかねます。
ReplyDelete(内閣府HP「総人口及び人口増加率(1872~2003年)」http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g1110040.html)
また、当時の大韓帝国政府、特に高宗はロシアの鬱陵島等での伐採権を一方的に認めてその利権を一手に掌握し、現地の住民に日本人と直接金銭授受をする権利を認めていなかった訳で、これに対して現在の韓国人研究者までも何の疑問や怒りも持たないことが大変不思議でなりません。
1896年2月、高宗、ロシア公使館に保護を求めて移り(「俄館播遷」)、4月には慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得し、6月12日 ロシア月尾島西南地段租借契約を取得。このようにロシアの朝鮮進出は目に余るものでしたが、さらに9月、豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・茂山の森林伐採権を朝鮮政府より取得しています。当時鬱陵島には日本人が進出して伐木していたので、ロシアから度重なる抗議があり、朝鮮政府の要請により、外務省も日本人退去を命じます。(この辺りは「欝陵島に於ける伐木関係雑件」等々に詳しいですね。『旧韓国外交文書』の日案や俄案にもたびたび出てきますので、いずれきちんと整理しないといけません。柳さんのレジュメを利用しましょう。)
それが、ロシアの進出が顕著になってくるにつれ、日本側も、伐採権と日本人の居住権とは別で、ロシアなど他国の居住は認めて日本人だけ全員退去せよ、というのは理に合わない、と変わってきます。これは、論理的に至極正論で、例えばH21年の日本国内における韓国人の重要犯罪検挙数は中国、ブラジルに次いで第三位ですが(平成21年1~12月犯罪統計(確定版)第9票「来日外国人による重要犯罪・重要窃盗犯国籍別検挙人員 対前年比較」 http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001026086&cycode=0)、これをもって善良な韓国人をも含んで「全員退去せよ」というのが理にかなわないのと同じです。
それと同時に日本政府の対応の変化にはおそらく、ロシアの鬱陵島進出を阻止する意味合いも十分にあったと思われます。柳氏の解説にもこうあります。
「裵季周と釜山税関税理士のラポーテの鬱陵島調査があった後、ロシアと日本は、それぞれ相手国家が鬱陵島で伐木するのに対して朝鮮に抗議。外部大臣・朴斉純(パク・チェスン)は、日本公使に鬱陵島に留まっている日本人の撤収を要求。日本公使の林(=林権助)は、1899年11月末までに撤収を約束。しかし日本は、日本人の撤収は彼らの住居権とは関係がないと態度が変わり始める。」
ただ、彼女はロシアについても「侵奪」とし、ロシアの鬱陵島進出を日本と等しく侵略の意図があったとしているところ“だけ”は評価できます。
「当時、ロシアが日本人の伐木禁止を日本政府に要請するなど、ロ・日間の鬱陵島侵奪が本格化すると、朝廷では、島監の設置が能事ではないとの認識をし始める。」
以上、一連の情報を読んだ上での雑感でした。
matsuさんから頂いた裵季周に関する情報を柳氏のメモと合わせると、以下のようになります。つまり、この節目が出たときはまさに、裵季周が郡守に再任される時で、この節目が出されたのは、裵季周が郡守を罷免された(1901年9月13日以降のいつか~1902年3月4日に再任されるまでの数か月)後、不満を訴えに内部へ直訴したのではないでしょうか?1895年から島監、1900年からずっと郡守を務め、その間日本人との取引で利益を独占してきたはずなので、郡守を誰かに譲り渡すことが不満だったのではないかと考えられます。
ReplyDelete* 1881年 最初の開拓者4人の一人(江原道の出身)として名前が出る。(『通商彙纂』234号 1902年10月16日)
* 1895年9月に島監に差定され、鬱陵島を管理。
* 1899年:『駐韓日本公使館記録』13 (515 p) 各領事館往復(17)公第二八号
抑モ該島在住ノ我邦人カ樹木ヲ採伐スルニ當リテハ該島都監卽チ島守トモ云フヘキ韓國官吏(現今同島都監タルハ裵季周ト云ヘルモノナリ)ノ公許ヲ得樹木ノ大小ニ從ヒ相當ノ伐木料ヲ納メテ採伐スルト云ヘハ我邦人ヲ目シテ直チニ盜伐者トナスハ其當ヲ得サルモノニシテ殆ント賣買ノ觀ヲナセルナリ()
* 1900年10月25日、初代郡守として赴任。1900年11月29日付「官報」には、9品裵季周を奏任官6等に叙用し、鬱島郡守に任命するという事実が載っている。
* 1901年9月13日 報告書 副本
現在、日本が島全体にぎっしり埋まり、不法を行うことは、民をドン底に落ちるようにするだけでなく、森林はすでに真裸になり、土地が将来彼らの手に入るようになったので、これを報告します。鬱島郡守 裵季周 議政府 参政・外部大臣閣下
(その間、1902年初、姜泳禹(カン・ヨンウ)が郡守としてしばらく在職。)
* 1902年3月4日:雑報:「欝守新任」
鬱島郡守・姜泳禹を免官する代りに、前郡守裵季周氏が叙任されたという。 )
* 1902年) 3月7日:「鬱島郡数勅命」:前郡守裵季周を鬱島郡守に任じ、奏任官6等に叙す 光武6年(1902年) 3月7日
* 1903年、沈興澤が赴任する前まで、郡守として在職。
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
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「歴史のための自由」
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(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
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「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
2011.1.20
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歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
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2011.1.20
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ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
ピエール・ノラの「歴史のための自由」にしろ、宮脇淳子の指摘にしろ、日本ではあまり抵抗なく受け入れられる考え方かと思いますが、韓国ではどうでしょう。おそらく日本以外の地域とではこれらの考え方によって研究し、現実の国際関係においても基盤としているのではないかと思われます。問題は対日関係です。韓国人は日本が相手となるとどうも理性を喪失してしまうようで、客観的な事実に基づいた議論が出来なくなってしまうようです。主観的というか、願望に基づいたというか、ともかくまず結論があってそれを擁護するために議論していると言った感じですね。議論というよりも屁理屈を捏ね回していると言った方がいいのかもしれませんが。
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
ピエール・ノラの「歴史のための自由」にしろ、宮脇淳子の指摘にしろ、日本ではあまり抵抗なく受け入れられる考え方かと思いますが、韓国ではどうでしょう。おそらく日本以外の地域とではこれらの考え方によって研究し、現実の国際関係においても基盤としているのではないかと思われます。問題は対日関係です。韓国人は日本が相手となるとどうも理性を喪失してしまうようで、客観的な事実に基づいた議論が出来なくなってしまうようです。主観的というか、願望に基づいたというか、ともかくまず結論があってそれを擁護するために議論していると言った感じですね。議論というよりも屁理屈を捏ね回していると言った方がいいのかもしれませんが。
2011.1.20
「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
ReplyDelete以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
ピエール・ノラの「歴史のための自由」にしろ、宮脇淳子の指摘にしろ、日本ではあまり抵抗なく受け入れられる考え方かと思いますが、韓国ではどうでしょう。おそらく日本以外の地域とではこれらの考え方によって研究し、現実の国際関係においても基盤としているのではないかと思われます。問題は対日関係です。韓国人は日本が相手となるとどうも理性を喪失してしまうようで、客観的な事実に基づいた議論が出来なくなってしまうようです。主観的というか、願望に基づいたというか、ともかくまず結論があってそれを擁護するために議論していると言った感じですね。議論というよりも屁理屈を捏ね回していると言った方がいいのかもしれませんが。
2011.1.20
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ReplyDelete日 自民党、「独島は日本の領土」主張など保守色強化
ReplyDelete[京郷新聞] 『今日のホットニュース』
2011年 1月 24日
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011012415083382140&linkid=4&newssetid=1352
日本の朝日新聞が、第一野党自民党が独島は日本の領土という主張などを党の旗幟として前面に掲げるなど保守色を強化したと24日報道した。自民党は23日の党大会の始めに尖閣列島など日本が自国領土と主張する島の映像を大型画面に映した。
自民党は、日本側が独島が含まれていると主張する島根県とロシアと領有権を争う南クリル列島(日本名北方領土)が属するという北海道、尖閣列島が含まれる沖繩県の代表者を大会議長団に指名したりした。党大会の司会をした三原じゅん子参議院議員が「日本を守ろう」と発言したのを皮切りに、石原伸晃幹事長、石破茂政策調整会長、谷垣禎一総裁が相次いで領土問題に言及したと伝えられた。これは、自民党が行った世論調査で領土問題が政策重要度の上位に含まれたこと関連があるものと思われる。党幹部は、「普通、領土問題は 20位以下。今はこの点が急所だ」と述べたと新聞は報道した。
自民党は、2009年総選挙敗北の後、党内改革要求に直面したが、去年 9月の尖閣列島を巡る葛藤の後に内閣支持率が急落して自民党支持率が上がると、自信感を取り戻している。
2011.01.24
chaamieyさん(復活おめでとうございます。)
ReplyDeleteニュースの翻訳、ありがとうございます。朝日のサイトを調べましたが、それらしき記事はありませんでした。ここまで追い詰められないと動けない自民党も情けない限りですが、やらないよりずっとましでしょう。
最近気がついたのですが、Yahoo竹島の欄の年表欄が、http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/takeshima_island/が、半月城のプロパガンダ捏造サイトを前面に押し出されている構成になっていますね。どなたか扱いの方法をご存知でしょうか?
ReplyDelete2011.1.26 22:41 産経新聞
ReplyDelete「民主・渡辺周氏、「竹島の日」式典に出席へ」
2月22日の「竹島の日」に島根県が開く記念式典に民主党の渡辺周国民運動委員長が同党国会議員として初めて出席する。渡辺氏は超党派「日本の領土を守るため行動する議員連盟」にも所属し、「竹島が日本の領土であることをしっかり訴えたい」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110126/plc11012622420165-n1.htm
http://megalodon.jp/2011-0127-1522-07/sankei.jp.msn.com/politics/news/110126/plc11012622420165-n1.htm
自民党への対抗意識か、はたまた尖閣問題の影響か。韓国メディアが騒ぐと面白いのですが。
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ReplyDelete騒いでます。
ReplyDelete「日 民主党議員、独島領有権主張行事に初参加」
[世界日報] 2011.01.27
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011012721332341247&linkid=4&newssetid=1352
領土紛争批判の世論なだめる…日言論 「韓国反発予想」
[世界日報]日本島根県が独島領有権を主張するために来月開催する「竹島(独島)の日」記念行事に民主党の渡辺周国民運動委員長が参加すると共同通信が 27日報道した。民主党の島根県代表である小室寿明衆議院議員も参加することが分かった。
通信によれば、この記念行事は島根県議会と一部の極右団体たちを中心に2005年から毎年 2月22日に開かれているが、民主党が野党時代を含めて現役議員を参加させるのは今回が初めてだ。
通信は、渡辺国民運動委員長などが竹島の日の行事に参加する背景について、「尖閣諸島での中国漁船衝突事件の影響で領土問題に関心が高くなる中、民主党政権が竹島問題に消極的だという国内批判世論を鎮めるためのように思われる。」とし、「しかし韓国の反発が予想される」と分析した。
島根県によれば、渡辺議員は竹島教育に関する公開討論に参加する。県側は、前原誠司外相と高木義明文部科学相にも招請状を送ったという。
渡辺委員長は5選された議員で、党の選挙対策委員長を勤めたほか、鳩山由紀夫前総理と菅直人内閣で総務省副大臣を歴任した。一緒に参加するものと思われる小室議員は2005年の県議時代に竹島の日の条例制定に反対したが、今回は立場を変えた。
小室議員の補佐官は、「国会議員が動かなければ竹島問題は解決されない」とし、「特に与党議員が動くことが重要であり、今回の参加は前進」と語った。
昨年のこの行事では、自民党と国民新党、新党大地などの議員10人が参加したことがある。自民党は、今年も中央党本部の役員クラスを参加させる方針だ。
東京=キム・ドンジン特派員
<コメント>
いや、ノー・コメントです(笑)
2011.01.28
こちらは騒ぎにならなかった。
ReplyDelete最高裁判所も「MB 独島発言報道」虚偽認定
ニューシース 2011-01-28
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&sid1=102&oid=003&aid=0003665838
国民訴訟団の対読売訴訟 敗訴確定
【ソウル=ニューシース】キム・ジョンミン記者 = 最高裁判所が李明博大統領のいわゆる 「独島発言」に関する読売新聞の報道を虚報と認めた判決を下した。
最高裁判所3部(主審 パク・シファン大法官)は、ペク某氏など国民訴訟団が「読売新聞報道の真偽を確かめる」として読売を相手に提起した損害賠償請求訴訟において、原告敗訴の判決をした原審を確定したと28日明らかにした。
読売は、2008年7月15日付けの韓日首脳会談関連記事を通じて、日本総理が「教科書に竹島と書くしかない」と言うと、李大統領が「今は困る。待ってくれ。」と答えた、と報道した。青瓦台はこれを否定し、我が国の国民訴訟団1886人は、「読売の虚報で被害を被った」として、去年 8月、損害賠償及び訂正報道を要求する訴訟を提起した。実際は報道の真偽を明らかにするためだった。
しかし、一審は、国民訴訟団の請求を棄却しつつ、判決文の始めに記載した「認定事実」において、「李明博大統領は、韓日首脳会談の時、”今は困る、待ってくれ”と言う内容を言った事実はない。」と判示した。
判決文の認定事実とは、裁判所が当事者の主張を立証するために提出された証拠資料を土台として確認した事実関係を言う。言い換えれば、裁判府が「読売の独島発言報道は虚偽」と認めたわけだ。二審裁判府も一審の認定事実をそのまま引用して、「読売報道は虚偽」という立場を支持していた。同時に、「大統領の名誉が毀損されたから国民一人ひとりの名誉も毀損されたと見ることはできない」と原告敗訴の判決をした。
面白くない判決です。読売は不満でしょう。しかし、まあ、こういう結論にしないと国中がひっくり返りますからねえ。報道は虚偽だったとしつつも読売への損害賠償請求は認めないことにしてバランスを取った・・・・・かな?
2011.01.28
私もアカウントが蒸発してしまいコメント出ずにいましたが、何とか復旧できました。1月20日にアップ予定だったエントリあげておきます。
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「あまりに一方的な視点からでの批判には違和感を感じます。」との感想には共感しますが、その説明に日本の人口増加と移民の話を持ち出されているのは、ちょっと違うなと感じました。それは日本の都合ですから相手を納得させられる論点かというと、そうとは言い難いですね。むしろ問題にすべきは過去を現在の価値観で分析するとともに、そこに道徳観を持ちこんでいる点なのではないでしょうか。
以前、紹介しましたけどこんな考え方があります。
「歴史のための自由」
(1)自由な国家において政治は歴史的真実の確定作業に介入すべきではない。
(2)現在の道徳的観点から過去の出来事を評価することは歴史家の仕事ではない。
↓
歴史はあくまで「真実の探求」であり、「正義の探求」であってはならない。
あるいはこんな指摘もあります。
「日本人がしたことすべてが悪だったなどという善悪二元論は、歴史の名に値しない。歴史は、個人や国家の行動が、道徳的に正義だったか罪悪だったかを判断する場ではない。現代の国家にとってよかったか悪かったかを判断する場でもない。歴史に道徳的価値を介入させてはいけない。歴史は法廷ではないのである。」 (宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国と日本』)
ピエール・ノラの「歴史のための自由」にしろ、宮脇淳子の指摘にしろ、日本ではあまり抵抗なく受け入れられる考え方かと思いますが、韓国ではどうでしょう。おそらく日本以外の地域とではこれらの考え方によって研究し、現実の国際関係においても基盤としているのではないかと思われます。問題は対日関係です。韓国人は日本が相手となるとどうも理性を喪失してしまうようで、客観的な事実に基づいた議論が出来なくなってしまうようです。主観的というか、願望に基づいたというか、ともかくまず結論があってそれを擁護するために議論していると言った感じですね。議論というよりも屁理屈を捏ね回していると言った方がいいのかもしれませんが。
2011.1.20
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タイミングを失したコメントですがお許しくださいませ。
2011.1.30
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ReplyDeleteGTOMRさんへ
ReplyDelete当該コンテンツは「メディア関係者と読者が作るガイドコンテンツ」とあり、エディタ検定合格者が制作に関われるようになっているようです。すでに検定に合格した半月城もしくはそのシンパが編集しているのではないでしょうか。
Yahoo!には工作員が徘徊していますからね。私は「知恵袋」に常駐して「竹島」あるいは「独島」で検索してヒットした質問への回答書きに精出しているのですが、酷いものですよ。ベストアンサーの選出が投票に委ねられたりしたら、妄言がベストアンサーに選ばれたりもしますので。たとえば、こんなな感じ。
2011.1.30
別の騒ぎ。
ReplyDelete「独島は日本の領土」 教科書出る
[京郷新聞] 2011年 1月31日
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2011013116360736640&linkid=4&newssetid=1352
独島が日本の領土だと主張する日本の歴史教科書が出る見込みだ。日本の歴史教科書歪曲を主導して来た「新しい歴史教科書を作る会」がこのような内容の教科書を作ることが伝えられた。
日本産経新聞は、31日、「新しい歴史教科書を作る会」が、独島、尖閣列島などを全て日本の地だと主張する教材を作る予定だと報道した。藤岡信勝新しい歴史を作る会会長は、30日、東京で開かれた「尖閣事件と歴史公民教科書」という題目の講演会でこのような計画を明らかにした。
新しい歴史教科書を作る集まりは、いわゆる「領土教材」に独島と尖閣列島、北方四島列島が皆日本領土という主張を込めることと知られた。産経新聞は、「日本の教科書は地図の色で尖閣列島は日本領だと表示するだけで、”我が国の領土”などの積極的な記述はないことが多い。」と伝えた。
<コメント>
この記事のネチズン意見欄のコメント数
は現在58件。賑わってます(笑)
Makotoさんのアカウントも蒸発ですか。何で3人も続けてそういうことになったんでしょうかね?
Yahoo知恵袋の常駐ご苦労様です。頼もしい見張り番です。
2011.01.31
chaamieyさん、京郷新聞の紹介ありがとうございました。どのようなコメントが集まっているのでしょうか。
ReplyDelete教科書でなくて副教材ですからね。文部科学省の預かり知らないことですね。ということは、隣国条項の適用外ですから何の配慮の必要もないわけで、筆を鈍らせることなく書けるわけです。やっと正常化しますね。問題は教育現場でどれほど利用されるかです。
"何で3人も続けてそういうことになったんでしょうかね?"
竹嶼を隠匿したグーグルですから。……という与太はさておき、何らかの理由でアクセスを規制していたんだと思います。規制をかけた帯域の中にたまたま含まれていたということなのでしょう。それにしても日本語でのサポートがすぐ見つかるところにないのには参りました。
語学の才がないもので私は日本語で頑張ろうと思っています。「【日本は70年経った今でも侵略国家だ】 日帝のアジア各国への侵略行為について...」なんてアジ演説をするお方もおられますゆえ、気が抜けませぬ。OKWebもフォローしたいのだけれども時間がありません。どなたか常駐していただけないでしょうか。
chaamieyさん、京郷新聞の紹介ありがとうございました。どのようなコメントが集まっているのでしょうか。
ReplyDelete教科書でなくて副教材ですからね。文部科学省の預かり知らないことですね。ということは、隣国条項の適用外ですから何の配慮の必要もないわけで、筆を鈍らせることなく書けるわけです。やっと正常化しますね。問題は教育現場でどれほど利用されるかです。
日本国内の教育現場へのアプローチもさることながら、海外への広報も必要です。国際社会の理解を取り付けないことには問題解決に繋がらないのではないでしょうか。たとえば、水間 政憲『いまこそ日本人が知っておくべき「領土問題」の真実 国益を守る「国家の盾」』 PHP研究所(2010年)という本がありますが、こういう本は英語版を出すべきですね。日本はおとなしすぎるんですよ。
"何で3人も続けてそういうことになったんでしょうかね?"
竹嶼を隠匿したグーグルですから。……という与太はさておき、何らかの理由でアクセスを規制していたんだと思います。規制をかけた帯域の中にたまたま含まれていたということなのでしょう。それにしても日本語でのサポートがすぐ見つかるところにないのには参りました。
語学の才がないもので私は日本語で頑張ろうと思っています。「【日本は70年経った今でも侵略国家だ】 日帝のアジア各国への侵略行為について...」なんてアジ演説をするお方もおられますゆえ、気が抜けませぬ。OKWebもフォローしたいのだけれども時間がありません。どなたか常駐していただけないでしょうか。
2011.2.1
>どのようなコメントが集まっているのでしょうか。
ReplyDelete例えば、
・韓国が国防力を育てなければならない理由が明らかだね
・犬ミョンバクは4大河川に精神売って独島は関心もない
・いつかはまた韓半島を日本地とするでしょう
・独島問題は実在的領土営為圏関係です..北朝鮮に対するように日本の連中にも強力に対抗するのが正しい政治観ではないですか...
こんな感じですね。今見てきたら83件になってました。内容はともかく、大いに盛り上がってほしいものです。
日本の領有主張を具体的に知らされず、韓国政府や御用学者たちによる妄言を刷り込まれている韓国民としては当然の反応なんでしょうね。日本的発想では客観的事実に基づいて反駁していくことで過ちに気付いてもらえるものと考えるところですが、韓国的発想からは事実か否かなんてどうでもいいんでしょう。「独島はわが領土」という思いが先ずあって、それにとやかく言うのは「妄言」に過ぎないとしか受け止めないのでしょう。批判を受け付けないところはまさにカルトですね。
ReplyDelete日本の「配慮」が通じない相手なのは明らかなのですから、客観的事実、すなわち1905年の編入が合法的になされたものであること、それはサンフランシスコ講和条約においても認められ、竹島の帰属先は日本で確定していること、そして領土の処分を条約で取り決めた場合には対世的効力、物権的効力を持ち、講和条約の当事国でない国(韓国もそのうちの一国)との関係においても竹島は日本領であることが確定したということを教科書に明記すべきです。
国際的には日本の領土と確定している島なのに、それを認めないと言って武力を以て支配下に置いているのですから、韓国は竹島を実効支配していることにはならず、日本の領土を不法に占拠しているに過ぎません。また紛争の発生後に法的立場をよくしようと取られた措置は実効支配の証拠と看做さないという国際法の原則からも「韓国が実効支配している」とは言い難いのです。国際的に日本に帰属するとされている島に韓国が後から自分たちの領土だと言って居座り続けているのが竹島問題ですが……。
2011.2.3
投票に持ち込まれるとこんなことにもなります。
ReplyDelete工作員が蔓延っているんでしょうね。
2011.2.4