…110年前に大韓帝国が独島(日本名・竹島)を実効支配していたことを示す証拠となり得る、当時の治安・行政に関する史料が初めて公開された。…(朝鮮日報日本語版朝鮮日報の日本語版2011年1月15日付記事)
報 道によると、1900年10月、大韓帝国は勅令41号を発布して鬱陵島を鬱島郡に昇格し、公式に領土に組み込むが、その1年半後の1902年4月、大韓帝 国内部(内務省)が鬱島郡行政指針となる「鬱島郡節目」(節目とはこの場合、規則の箇条や細目のこと。)を初代鬱島郡守の裵季周に出していたようで、内容 は、日本人の不法伐木を禁止すること、外国人への土地売買を禁止すること、その他に税金についての詳細が書かれています。
裵季周は1881年、鬱陵島最初の開拓者4人の一人(江原道の出身)(1902年 外務省通商局編纂「通商彙纂」 )で、 1895年9月に島監に差定され、鬱陵島を管理。 当時鬱陵島の伐木権はロシアに譲渡されていたにも関わらず、日本人から伐木料を徴収して許可して利権を独占していたようで(『駐韓日本公使館記録』13 (515 p) 各領事館往復(17))、1899年にはその支払いトラブルのため来日して松江の裁判所で勝訴しています。その後、1900年に初代郡守となりますが雑 報:「欝守新任」(1900年11月29日付「官報」)、罷免されたのか、1902年始め姜泳禹が郡守として在職しますが、直後の3月4日姜泳禹は免官さ れ、再度裵季周が郡主に叙任されます(雑報:「欝守新任」)。この節目は、その時期(1902年4月)から、裵季周が罷免されたことをきっかけに大韓帝国内部に働きかけた結果出されたものではないかと推察されます。
ところで韓国側は、この資料を「鬱陵島と独島(竹島)を実際に経営したことを立証する資料」と主張していますが、実際この内容を確認すると、竹島のことは全く触れられておらず、そうした主張が成り立たないことは明白です。
この頃すでに鬱陵島に移住した日本人は竹島へアワビ漁に出ていたことと、当時の鬱陵島在住の韓国人は(若芽採取のために全羅道沿岸の漁民が季節労働者としてやってくる以外に)漁業に従事する者が皆無であったことが記録され(1902年 外務省通商局編纂「通商彙纂」 ) ていることから、大韓帝国内部の印がある節目の中において竹島について何の言及もないことは、韓国側の主張とは裏腹に、むしろ当時の鬱島郡守裵季周(裵季 周)ひいては大韓帝国に、現竹島が韓国の領域内であったという認識がなかったことを傍証する資料であるといえるでしょう。
以下、公開された『鬱島郡節目』の全文と、matus氏によるその日本語訳を以下に示します。
『鬱島郡節目』
內閣總理大臣 尹容善 閣下
內部
鬱島郡節目
本郡陞設 今旣兩年 全島庶務 尙多草創之中 數三悖民 興訛梗化 煽動居民 則不可不自本部 講究方略 確立郡規 故別成節目 以送 依此擧行 無或違越 島民中若有如前執迷 不遵令飭者 這這摘發卽速馳報 則當有別般嚴處矣 惕念擧行節目辭意 亦爲眞諺飜謄 揭付各洞 俾無一民不聞不知之弊事
一 日本潛越人等 偸斫木料 別般嚴禁事
一 本島人民中 家屋田土 或有暗賣外國人者 當一律施行事
一 本島開拓 尙未盡 懇爲念民人成家 姑未定稅 凡於島民耕食居生 若移居內陸 不得私相賣買 還爲官有事
一 現存公廨 爲七間 則仍舊修葺 若果狹窄四五間 略加建築 俾無民弊事
一 鄕長一員 書記一名 使令三名 姑先略施 以爲供役事
一 郡守以下 鄕長書記使令 餼料不得不自郡 略略算定 而本島戶數 足爲五百戶 則每戶春等 麥三斗 秋等黃豆四斗式 收斂分排廩料事
一 五百戶 每戶收麥爲三斗 則共計一千五百斗 凡石則爲一百石內 郡守一員廩況六十石 鄕長一員餼料十二石 書記一名十石 使令三名 每名六石式 合十八石 總計一百石 以爲定式事
一 各道商船來泊本島 捕採魚藿人等處 每十分抽一 收稅 外他出入貨物 從價金 每百抽一 以補經費事
一 官船一隻 不可不急先辦備 然後以便航路 而來往本部調査委員入島時 田士能李東信處 偸斫木料之屬公者 這這査徵 以爲購買船隻事
一 未盡條件 自本郡爛商會議 更爲磨鍊事
後錄
香木 貳百斤 間一年 進上事
戶布錢 五百兩 每年輸納于度支部事
郡守 年俸及鄕長書記使令餼料 總算
郡守 春等麥六十石 秋等黃豆四十石 合一百石
鄕長 春等麥十二石 秋等黃豆十二石 合二十四石
書記一名 春等麥十石 秋等黃豆十二石 合二十二石
使令每名 春等麥六石 秋等黃豆十二石 三名合麥十八石 合黃豆三十六石 總計麥一百石 黃豆一百石
光武六年四月 日
內部
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内閣総理大臣尹容善閣下
内部の鬱島郡節目
本 郡(鬱島郡)が昇格してすでに2年が過ぎたのに、全島の庶務がまだ草創のままであることが多い中、流言飛語を作り出し教化されない何人かの悖民たちが、民 衆を扇動するので、本部(内部)では方略を講じて郡の規律を確立せざるをえない。従って、別に節目を作って送るので、このまま行ない、破ってはいけない。 島民の中に、前のように戸惑って命令に従わない者がいれば、いちいち摘発して速やかに馳報せよ、然らば当然、別段の厳しい措置があるだろう。格別に留意し て挙行せよ。 節目の意味を諺文(ハングル)にも翻訳して各村に掲示し、一人たりとも聞いていない、知らないというような弊害をなくすこと。
一 日本からやってきて木を密かに切っていく者を、特別に厳禁すること。
一 本島の人民中に、家屋と田土を外国人に密かに売買する者があれば、当然のことに、一律(=死刑)を施行すること。
一 本島の開拓はまだ未尽であるから、島民が家庭を作ることを切実に望む、よって税金はまだ定めない。およそ島民たちは耕作をして生きていくのであるが、もし万一、内陸に移居するような場合には、私的な売買を出来なくして官有に返還するようにさせること。
一 現在ある官庁の建物は、七間であればそのまま屋根を補修して使い、もし4~5間程度で狭ければ、若干の増建だけをして、民に迷惑をかけないこと。
一 鄕長1人、書記1人、使令3人を先ず先に置き、仕事に供役させること。
一 郡守以下、鄕長・書記・使令の給料は、郡で概略算定しなくてはいけない。鬱陵島の戸数が500戸になるならば、家ごとに春に出す税金は麦3斗、秋に出す税金は豆4斗ずつを納めさせ、給料として分け与えること。
一 500戸が、戸ごとに麦3斗を収めるならば、全部で1500斗になる。 石にすれば、全部で100石以内だ。郡守一人の給料は60石、鄕長1人の給料は12石、書記一人は10石、使令3人は一人当り6石ずつで合わせて18石、合計100石を定式とすること
一 各道の商船にして鬱陵島に来て漁労や採藿をする者には、一人当たりに10分の1税を納めさせ、外地に出入する貨物は、その値段により100分の1税を納めさせて経費に加えること。
一 官船一隻を先に用意してこそ往来が楽になるが、以前、本部の調査委員が入島したときに(1900年の禹用鼎の調査をさすか?)、田士能と李東信が盗んだ木を官衙に属させたことについては、きちんと調査・徴税して船隻の購買費用とすること。
一 (このほかの)未尽の条件は、本郡で十分に相談してさらに整備すること
後禄
香木200斤を、1年おきに進上すること。
戸布銭500両は、毎年、度支部(=大蔵省)に納入すること。
郡守の年俸、および鄕長・書記・使令の給料は、総算する。
郡守は、春には麦60石、秋には豆40石で、合計100石。
鄕長は、春には麦12石、秋には豆12石で、合計24石。
書記1人は、春には麦10石、秋には豆12石で合計22石。
使令は、それぞれ春には麦6石、秋には豆12石、3人の合計が麦18石、豆36石で 総計麦100石、豆100石。
光武6年(1902年) 4月
内部
「福岡発 コリアフリークなBlog」のヲタクさんから、今回とても面白い情報を頂きましたので、お知らせします。
ReplyDelete下記のページにて、竹島のストリートビューについて説明されています。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi1963jp/e/7f8d9083d5977edb08fac2adeeaafe98
iphone のアプリで(Google Mapだったか?)見られることを以前教えて頂いたことがあるのですが、こちらの方がより鮮明です。
今見たら、メインページからのアクセスが無くなっていましたが、いったん引いて竹島の位置を確認してから拡大するとアクセスできました。
ReplyDelete독도가 나오지 않는 사료를 가지고 독도를 경영한 증거라고 하는 도착한 주장은 한국 이외의 나라에서는 통용될 수 없다. 한국에는 1905년 일본이 타케시마(독도)를 영토 편입하기 전에 독도에 대한 기록이 전혀 없다.
ReplyDelete独島が出てこない史料を持って独島を経営した証拠だとする倒錯した主張は、韓国以外の国には通用しない。韓国には1905年日本が竹島を領土編入する前には、独島に対する記録は全く無い。
2011.02.04
「蔚島郡節目」は蔚島(鬱陵島)統治の方針を示したものとは言えるでしょうけど、これで統治(支配)していた証拠とは言えません。ましてや竹島(Liancourt Rocks)を統治していたとは言えません。これで竹島支配の証拠というのなら、それこそ牽強付会ですよ。
ReplyDelete2011.2.4
数日間コメントがつかないのも寂しいので、暇つぶしに読むニュースを一つ。
ReplyDelete[光州] 日 進歩知識人 和田春樹、独島のために賞金寄付
天地日報 2011/02/02
http://www.newscj.com/news/articleView.html?idxno=67860
[天地日報=李ヒョンジョン記者] 日本の進歩知識人である和田春樹(72)東京大学名誉教授が、独島のために自分が受領した賞金を寄付すると明らかにした。和田教授は、去る1日、京郷新聞コラムを通じて、去年全南大学で開催した第4回後廣キム・デジュン学術賞受賞の時に受けた賞金を独島問題解決のための国際会議費用に加えると明らかにした。
彼は、コラムを通じて、「(賞は) 個人に与えられたのではなく、韓国の民主化運動と連帯して運動して来た日本人たちを代表して受けたと思う。」とし、「賞金を独島問題解決のための国際会議費用に加えるつもりだ。」と伝えた。
全南大学は、行動する日本の代表的進歩知識人として、韓半島の平和定着と民主主義・人権伸張に寄与している春樹教授を「後廣キム・デジュン学術賞」の四人目の受賞者として選定した。
2011.02.08
和田春樹ですか。ソ連の研究をしているときは素晴らしい業績をあげていたのに、どこで道を誤ったのか……。
ReplyDeleteところでmini-lightさんのブログ更新されましたね。次のテーマは何かな? 『東国文献備考』で行きます? それとも『世宗実録』かな?
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ReplyDelete「実事求是」第30回がアップされましたね。「欝島郡節目」が独島支配の証拠であるという韓国側の主張に対して「石島=独島」を前提とした解釈であり、独島支配の証拠たりえないとしています。常識を持って見るならば、こう判断するしかないでしょう。
ReplyDeleteしかし韓国では「石島=独島」が常識になっていますからねぇ。18世紀の朝鮮作成の地図にある于山島は竹嶼(韓国名:竹島)としか見えないのですが、それを無視しておいて発音が似ていると言って「石島=独島」を主張、いや主張じゃなくて強弁しているのですから……。
「実事求是」第30回「欝島郡節目」に対する疑問
2011.2.18