Dokdo Museum is hosting an exhibition of thirty historical articles related to Ulleungdo and "Dokdo" from June 22 to the end of August. The articles are from relatively recent history and include articles from the Jeju National Museum and from Uljin County's "Daepungheon" (待風軒) in Gusan-ri, where Ulleungdo inspectors in the 1800s would wait for favorable winds to travel to the island. There are also twelve photographs taken in 1917 by a Japanese national on Ulleungdo.
The document shown above is from the Daepungheon, where many more Ulleungdo historical documents were stored until Korean government officials allegedly came to the place several years ago and burned most of them. This was reported in a 2006 KBS interview with the man in charge of the place. I wrote about this back in 2007 HERE. The video used to be at the following address, but now it seems to have been deleted:
http://pohang.kbs.co.kr/asx.php?title=KBS포항&url=tv$special$ulleungdo_061103_300k
The man who made the claim about the documents being burned in the KBS interview looked very similar to the the man who appears in the picture of the Daepungheon to the left.
What is ironic is that the picture to the left is of a ceremony commemorating a effort to protect the historic site and the documents housed in it from fire. Notice the fire extinguishers in the background.
I think this is an example of the barn door being fixed after the cow has already run away. We will probably never know what documents were destroyed those many years ago.
By the way, the following painting was supposedly donated to the the Daepungheon by a Japanese national who visited the place sometime in the past. LINK
btw, how to check those document? we wanna knonw what they wrote on the 捜討節目 and 完文.
ReplyDeleteGerry has once introduced a Korean history book entitled, "The History of Dokdo & Ulleungdo" (독도, 울릉도의 역사), by Kim Ho-dong (김호동), who is the head of the Dokdo Research Center at Yeongnam(嶺南) University.
ReplyDeletehttp://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/05/no-korean-fishermen-on-ulleungdo-in.html
Prof. Kim Ho-dong writes about this "Daepungheon" (待風軒) on p110~p112.
According to his note 34),(p111)
捜討節目 and 完文 are introduced in an article by Mr. Kwong Sam-moon, who appears to be a historian in Uljin.
クォン・サムムン「蔚珍の古文書」(『郷土文化』11・12 郷土文化研究会 1997 p209~217)に、この「完文」と「捜討節目」の内容が詳細に紹介されており、「待風軒」の機能を理解するのに役立つ。
It would be difficult to see the article in Japan, but some library in Seoul may have one.
BTW,
The picture above, attributed to An Yong-bok, is actually a picture of Korean drifters helped by Tottori people in 1819.
(Housed in Tottori prefectual library)鳥取県立図書館蔵「漂流朝鮮人図」
The name of the leader of the drifters is An Oui-ki 安義基.
But it has no relation with An Yong-bok. 安龍福.
リンクの翻訳です。
ReplyDeletehttp://blog.daum.net/dndudwh/4050642
待風軒 消防安全行事
蔚珍消防署(キム・テジン署長)は、2008.5.8(木)、蔚珍郡・箕城面・邱山里・待風軒で、消防署職員および村の住民たち40人余りが参加して、安全村作りの行事を実施した。待風軒は、朝鮮時代、邱山浦から鬱陵島に行く捜討使らが順風を待って留まった場所として、独島が私たちの領土であることを立証する所蔵文書(文化財資料511号)を保管している所だ。
この日の行事は、箕城面邱山里の村および待風軒に対し、村の住民たちが自律的な消防安全体制を構築して火災予防に寄与する目的で、火災安全を守る委嘱式、および消火器30個(3.3㎏)、単独警報型の感知器65個を寄贈するとともに、住民たちに消火器使用法など消防安全教育を実施した。
[参考文献]
安龍福と関連ある待風軒。
邱山里に所在する、事実上安氏の祭堂として管理される待風軒
朝鮮時代の官吏が鬱陵島ー独島捜討時に順風を待った所。
安龍福との関連性を研究してこそ。
울진군이 문화재로 지정 신청한 기성면 구산1리 202번지에 소재한 ‘대풍헌(待風軒)’이 지난 6월 2일 경상북도 문화재위원회의 심의를 통과함으로써 향후 경상북도 문화재로 지정될 듯하다. 독도 문제로 온 나라가 시끄럽고 안용복이 매스컴의 주목을 받았지만, 자칭 독도 지킴이였던 안용복이 울진군과 관련이 있을 수 있다는 사실에 주목하는 사람들은 많지 않다. 본지는 안용복이 구산리 수토사와 연관이 있다고 추정하면서 조사를 계속 하고 있다.
蔚珍郡が文化財に指定を申請した箕城面邱山1里202番地所在の「待風軒」は、去る6月2日、慶尚北道の文化財委員会の審議を通過し、慶尚北道の文化財に指定されることになった。独島問題で全国が騒がしく、安龍福がマスコミの注目をあびたが、自称・独島守護であった安龍福が蔚珍郡と関連がありうるという事実に注目する人は多くない。本紙は安龍福が邱山里の捜討使と関連があると推定して調査を継続している。
대풍헌은 조선시대 구산포(邱山浦)에서 울릉도로 가던 수토사(搜討使)들이 순풍(順風)을 기다리며 머물렀던 장소로 울릉도와 독도를 관할하기 위해 3년에 한번씩 삼척진영의 영장과 월송포진의 만호를 파견해 관리해 왔었다. 이는 이곳에 보관되어 있는 수토절목(搜討節目)과 완문(完文) 등의 고문서에 잘 기록되어 있다. 역사적 기록에 의하면, 안용복은 일본과의 울릉도-독도분쟁 시에 '울릉-우산양도의 감세관'이라고 사칭한 적이 있는 것으로 나타난다.
待風軒は、朝鮮時代、邱山浦から鬱陵島に行った捜討使たちが順風を待って留まった場所で、鬱陵島と独島を管轄するために3年に一度ずつ三陟陣営の營将と越松浦陣の萬戸を派遣して管理してきた。それはここに保管されている捜討節目と完文などの古文書によく記録されている。歴史的記録によれば安龍福は日本との鬱陵島―独島紛争時に「鬱陵-于山島の監税官」と詐称したことがあるのは明らかである。
구산리에 사는 안씨 문중의 제사인 대풍헌의 정확한 건립연대는 확인할 수 없으나, 「구산동사중수기(邱山洞舍重修記)」에 의하면 1851년(철종 2년) 중수하고 ‘대풍헌(待風軒)’이란 현판을 걸었다는 점으로 보아 이전부터 있었던 건물로 추정된다. 지난 2월 중순 본지와의 인터뷰에서 구산리에 사는 안씨 문중 어른들은 "싸리나무 기둥으로 된 대풍헌은 400년 정도의 역사를 가진 것으로 구전되고 있다"고 밝혔다.
邱山里に住む安氏門中の祭事用建物である待風軒の正確な建設年代は確認できないが、「邱山洞舎重修記」によれば、1851年(哲宗2年)に重修し「待風軒」という懸板を掛けたということからみて、それ以前からあった建物と推定される。去る2月中旬、本紙とのインタビューで、邱山里に住む安氏門中の長老たちは、「萩の柱でできた待風軒は400年ほどの歴史を持っていると口伝されている」と述べた。
대풍헌 건물은 정면 4칸, 측면 3칸의 일자형 홑처마 팔작집으로 구산리 마을 중심부에 남향으로 자리 잡고 있으며, 면적은 56.12㎡(16.98평)이다. 대풍헌은 전체적으로 건물의 여러 부분이 개조 변형되었으나, 평면구성이나 일부 가구수법에서 특색이 있다고 한다. 또 울릉도와 독도를 관할하기 위한 수토사들이 머무는 곳으로서의 역사적 가치가 있다. 동계완문을 새긴 기판(記板)과 수십 매의 고문서 등은 해안마을 자치조직의 성격을 알려주는 사료이기도 하다.
待風軒の建物は、正面4間、側面3間の、日の字型をした一重の軒を持つ「八作家」(四隅に軒をめぐらした家)で、邱山里の村の中心部に、南向きに建っており、面積は56.12㎡(16.98坪)である。待風軒は全体的に建物の色々な部分が改造・変形されたが、平面構成や一部の家構えの手法に特色があるという。また鬱陵島と独島を管轄するための捜討使が留まる所としての歴史的価値がある。冬季完文を刻んだ記板と数十枚の古文書は、海岸の村の自治組織の性格を知らせる史料でもある。
한편 독도 문제에 선구적 관심을 가졌던 울진타임즈는 일본의 도꾸가와 막부로부터 독도가 조선땅이라는 확약을 받아왔다고 오히려 조선에서 역적으로 몰린 안용복 장군이 구산리 대풍헌과 관련있을 것으로 보고, 여러가지 자료를 검토하며 연구하고 있다. 한국이 독도문제로 온통 반일히스테리에 휩싸인 지난 몇달 동안 본지는 조선인들의 냄비근성이 싫어서 고의적으로 안용복과 독도 문제에 침묵을 지켰다.
一方、独島問題に先駆的関心を持った蔚珍タイムズは、日本の徳川幕府から独島が朝鮮の領土だという確約を受けたにもかかわらず、むしろ朝鮮では逆賊とされた安龍福将軍が、邱山里の待風軒と関連があると見て色々な資料を検討して研究している。韓国が独島問題ですべて反日ヒステリーに包まれた過去数ヶ月の間、本紙は朝鮮人の瞬間湯沸し器根性が嫌いで、故意に安龍福と独島問題に沈黙を守った。
그러나 조선인들이 광기를 가라앉히고 독도문제가 다시 조선인들의 무관심 속으로 사라지면, 본지는 다시 안용복과 독도문제를 다룰 것이다. 많지 않는 역사적 기록들은 안용복의 해상활동이 울진과 관련 있을 것을 암시하고 있다. 일본에서 한국에 조금씩 흘려준 문서나 도화는 고의적으로 조작되었을 가능성도 배제할 수 없다.
しかし、朝鮮人が狂気をしずめて独島問題がまた朝鮮人の無関心の中に消えれば、本紙はまた安龍福と独島問題を扱うだろう。多くない歴史的記録は、安龍福の海上活動が蔚珍と関連することを暗示している。日本から韓国に少しずつ小出しにされる文書や図画は、故意に操作された可能性も排除することはできない。
역적으로 몰린 평민 안용복의 기록은 거의 없지만, 그의 활동은 구산의 안씨들과 대풍헌과 그리고 울진과 연관있을 것으로 울진타임즈 취재진은 추정하고 있다. 많은 역사학자들과 지역연구자들은 "안용복은 울진사람이 아니다"라고 주장하지만, 본지는 "안용복 장군은 울진 구산에 사는 안씨들의 선조와 관련이 있을 수 있다"라는 전제를 포기하지 않고 취재 중이다.
逆賊とされた平民・安龍福の記録は殆んどないが、彼の活動は邱山の安氏らと待風軒、そして蔚珍と関連があると蔚珍タイムズの取材陣は推定している。多くの歴史学者と地域研究者は「安龍福は蔚珍の人ではない」と主張するが、本紙は「安龍福将軍は、蔚珍・邱山に住む安氏らの先祖と関連がありうる」という前提をあきらめないで取材中だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
(画像のキャプション)
▲ 일본의 도꾸가와 막부로부터 독도가 조선땅이라는 확약을 받아왔다고 오히려 조선에서 역적으로 몰린 안용복 장군과 그 일행들이 일본에 표류되었을 때 모습[일본민간인이 울진 '대풍헌'에 찾아와서 제공한 그림]
▲日本の徳川幕府から、独島が朝鮮の領土だという確約を受けたのに、むしろ朝鮮では逆賊とされた安龍福将軍とその一行が、日本に漂流した時の姿
[日本の民間人が蔚珍の待風軒を訪ねてきて提供した絵]
Thank you Matsu,
ReplyDeleteWe know the news and text which you wrote here.
But...it seems strange that no Korean intruduce and show up photos of the original text of those two records , even though Korean insist that those two records are evidence about Liacnourt Rocks. If we can access two record above, it has possibility to disclosure Korean distorture again.
この新聞記事の「もと記事」が「蔚珍タイムス」のサイトにあります。
ReplyDelete「漂流図」の写真も、より大きく載っています。
http://uljintimes.com/news/article.html?no=1182
記事内容は、上に訳した[参考文献]「安龍福と関連ある待風軒」以下と同じです。
ところが、
この「もと記事」の、大きい写真のキャプション(最下部にある)には、
안용복 취재를 위해 구산리를 방문한 한 일본방송국이 대풍헌에 기증한 평해인 일본표류도
すなわち、
安龍福の取材のために邱山里を訪問した、ある日本の放送局が待風軒に寄贈した、平海人日本漂流図
と書いてあります。
しかし、上の文章では、「平海郡」の文字の見える上半部は消し去られ、
画像のキャプションは、
▲ 일본의 도꾸가와 막부로부터 독도가 조선땅이라는 확약을 받아왔다고 오히려 조선에서 역적으로 몰린 안용복 장군과 그 일행들이 일본에 표류되었을 때 모습[일본민간인이 울진 '대풍헌'에 찾아와서 제공한 그림]
▲日本の徳川幕府から、独島が朝鮮の領土だという確約を受けたのに、むしろ朝鮮では逆賊とされた安龍福将軍とその一行が、日本に漂流した時の姿[日本の民間人が蔚珍の待風軒を訪ねてきて提供した絵]
と変わっています。
いつのまにか「平海人日本漂流図」が、
「安龍福将軍とその一行が日本に漂流した時の姿」になってしまっているのです。
ああ、歴史はこのように捏造されていくのか、という思いです。
GTOMR,
ReplyDeleteBelow is 搜討節目
蔚珍 待風軒 所藏 文書
http://uljin.grandculture.net/gc2/common/sub.jsp?search=&menu_idx=11&find=%EB%8C%80%ED%92%8D%ED%97%8C&pact=view&set_id=3652&table_name=GC_O_TBL&pos=1&totalCnt=2
搜討節目
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?h_id=GC01801242&num=11&m_id=P2600
表紙
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?h_id=GC01801242&num=10&m_id=P2602
最初のページ?
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?table_name=GC_O_TBL&h_id=GC01801242&num=14&m_id=P2603
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?table_name=GC_O_TBL&h_id=GC01801242&num=13&m_id=P2604
花押のようなものあり
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?table_name=GC_O_TBL&h_id=GC01801242&num=12&m_id=P2605
終わり?
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?h_id=GC01801242&num=9&m_id=P2606
文字なし
http://uljin.grandculture.net/gc2/xml/mediaPop.jsp?table_name=GC_O_TBL&h_id=GC01801242&num=15&m_id=P2607
文字なし
2601は?
Matsu,
ReplyDeleteThank you so much!
I use firefox so I couldn't find there are attached images last part. now i got to know Internet explorer can check this images. thank you.
I just typed only one page because already sleepy.
節目
右為永久遵行事昴者南北津九洞戌人等
呈状内以為鬱陵島之捜討三陟鎮営使道與
月松萬戸間三年行之者乃是定式而松風発船
之○毎於邱山洋而為是乎処月松鎮之於本崖
即相○○近其処○用雖不全於夥多至若鎮○
利然則○至於八九日十数日矣錐○住之不久若一二
日之内○使○用立敷○○○少而以不少是○○○於
2603.
ReplyDelete矣○九洞者乃是九洞之臣○是○乎毎於○銭之特癒悪相加成田難友○○○取議則○船是母論魚
○與○物到泊まる浦口下陸津頭特受○八道○邊
邑通行之例也而矣従南北津良中各道○○之年
○年末泊者亦云多矣依此例随多少淩○取○○
用於○止蒙者似合於矣○洞来保之道也以此○
絵節目○○石細是○○○為有○蓋此鬱島於討特鎮営之行則六年一丸而以今年言是両日内支用之
○○百金矣邱山津戌之○則田○○九洞乃之○例
其他八洞○之○則曰徹数此多矣可支○互於呼○○
止一○左○右○似不○使此○寛之○○如乎茅其
両日○○○如之夥然若待風石利而或全於十余
日之当僅即○○奈何○○昨如憧○一○思処以友保
○策是在此中○外適至○互事○則於商人別而大
失於九洞省○不○大抵鬱島在於海中○討○止待
風亦在於津顕如甚多用之○前○陸○九洞者祓由
於濱海○○則高如是去来也亦○無○
少是○○而沈
他五道○○邑通用之例乎一依○○○○○○貫数
○及挙行条件並以道○後○威節目四件一則○之
暗聴一則出○於揮○浦一○出○於直○洞一島出○○○
It is difficult to read because too small images.
“수토절목(搜討節目)을 주목하라”
ReplyDelete“空島정책 아닌 搜討정책” 역사학계 인식 전환 절실
「捜討節目に注目せよ」
「空島政策ではなく捜討政策」 歴史学界の認識転換が切実
남효선 ナム・ヒョソン
(2008年12月05日 午後9時8分入力)
http://www.ingopress.com/ArticleRead.aspx?idx=4598
蔚珍・箕城面所在「待風軒」に学界の関心集中
慶北道文化院連合「独島守護 捜討政策」学術大会
独島に対する実質領有権の確保が強化されている中で、「鬱陵・独島が3世紀から蔚珍の属島である」ことを明らかにする「捜討節目」が学界から再照明を受け、鬱陵・独島捜討の現場である「待風軒(蔚珍郡箕城面邱山里所在)」が学界と世間の大きな関心を集めている。
記者は、去る2005年に「日本の独島領有権論議」が起きた時、蔚珍郡箕城面所在の待風軒が所蔵している捜討節目という題名の古文書を紹介し、それ重要性を報道したことがあった。(市民の新聞2005年3月。下のボックス記事参照)
慶北道と韓国文化院連合会慶北道支会は、先月28日、慶北・蔚珍郡所在の海洋研究院・東海研究所の講堂で「独島守護 捜討制度に対する再照明」という主題で学術大会を開き、朝鮮時代後期に確立された「捜討制度」についての政府機構の性格と、国際政治学的機能について熱心な討論を行った。
特に、この日歴史学者たちは「朝鮮末期に確立された捜討制度が、鬱陵と独島を朝鮮が直接支配するために用意された政府の公式機構であり、蔚珍郡箕城面所在の待風軒で発見された「捜討節目」が、独島が韓国の領土であることを立証する歴史的公式文書である」ということを再確認した。
この日の学術大会には、金晧東(キム・ホドン)教授(嶺南大・独島研究所)、柳美林(ユ・ミリム)研究員(海洋水産開発院)等の歴史学者が大挙参加した。
学術大会でキム・ホドン教授は、「朝鮮時代、捜討制度の確立過程」という題名の主題発表を通じ、韓日間の独島領有権紛争と関連して、韓国の学者が高麗末から朝鮮朝に至るまでの韓国政府の鬱陵島と独島に対する政策を、「空島政策」の観点から接近していると指摘し、これは誤った認識であり、空島政策ではなく捜討政策と正すように主張した。
キム教授はまた、学者たちのこのような認識のために、日本が公式に提示した「竹島―竹島問題を理解するための10のポイント」では、「捜討政策」という用語を意図的に使わないでいる、と指摘した。
これまで学界では、高麗末から朝鮮朝にかけて推進された鬱陵・独島政策を、空島政策と呼んだ。空島政策は、島の住民を陸地に皆移住させて島を空けてしまう極端な措置を意味する。
キム教授は、空島政策的な見解は、島が原則的に国王の支配と保護が及ぶ統治の対象ではなく、行政編成の対象としても排除されたと見る認識であると指摘し、このために日本側があえて空島政策を批判する必要がなくなったとして、今の歴史学界の「空島政策論」を正面から批判した。
またキム教授は、捜討政策が独島は韓国の領土だということを立証できる論理だということを日本側に説得力をもって提示できずにいるとして、捜討政策の論理を整えなければならない時である、と強調した。
キム教授はまた、捜討節目と共に、粛宗19年9月に6隻の船に150人余りの朝鮮人を乗せて13日間鬱陵島に滞留し、鬱陵島と独島に対する調査活動を行った張漢相(当時の三陟僉使)が残した『欝陵島事蹟』などを史料的根拠として提示し、捜討政策の正確な究明ついて正確な研究が必要だと主張した。
またキム教授は「捜討節目」「鬱陵島事蹟」「朝鮮実録」等を根拠に、粛宗朝以後、鬱陵島の捜討は、毎2年あるいは3年に一回ずつ、越松萬戸と三陟營将が交代で遂行したことを確認することができるとして、当時、朝廷が鬱陵島と独島を属島として率いている蔚珍県令を派遣しないで、三陟僉使と越松萬戸を派遣したことは、捜討のために水軍の動員が必要だったためだと述べた。当時、朝鮮政府は、今の蔚珍郡・平海邑・越松里に、越松浦営を設置して水軍萬戸を駐留させていた。
この日の学術大会で、柳美林研究員は、「張漢相の捜討と捜討制度の推移」という題名の主題発表を通じ、張漢相の「鬱陵島事蹟」を通じて捜討制度の推移を調べ、「1894年度に捜討制度が廃止され、三陟僉使と越松萬戸が遂行した捜討政策を、平海郡守を「査検官」として任命し、事実上、官吏の地位を格上げした」として「これは鬱陵島の位置が、朝鮮政府内で重要な政策と認識されたことを意味する」と主張した。
また柳研究官は、「このような捜討制度の地位昇格が、1898年の勅令12号と1900年の大韓帝国勅令第41号に結果する」と主張した。1900年度に公表された勅令第41号は、「石島(独島)」を鬱陵郡の所轄区域と規定している。
学術大会参加者は、討論を終えた後、鬱陵島・独島捜討のための寄港地である待風軒を現地調査した。
ボックス記事
ReplyDelete울릉•독도는 3세기부터 蔚珍의 속도(屬島)
울릉지방 토산물 등 관리 위한 수토정책 - 울진 월송포에서 관할
鬱陵・独島は、3世紀から蔚珍の属島
鬱陵地方の土産物などの管理ための捜討政策・・・蔚珍越松浦で管轄
조선조 울릉 독도 기항지는 울진 기성 구산리 대풍헌
대풍헌 소재 완문, 동규 등 고문서에 기록 확연히 남아
朝鮮朝、鬱陵・独島の帰港地は、蔚珍箕城邱山里の待風軒
待風軒所在 完文、トンギュ(?)などの古文書に記録明確に残る
日本がついに「竹島の日」条例案を通過させて挑発を押し切るや、政府が「新独島ドクトリン」を明らかにして対日強硬外交に出て、数年間友好関係を維持してきた慶北道と道議会は縁結び破棄を宣言して独島守護対策の作成に積極的に出るなど、連日日本の侵略の野心を糾弾する国民の怒りの声が広がっているなか、慶北・蔚珍郡と独島の歴史的関係が注目をあびている。特に、朝鮮朝の鬱陵・独島管轄のための公式官庁が、蔚珍郡・平海邑・越松浦(今の越松里)と邱山津(今の箕城面・邱山里)にあったという古文書の記録に関心が集まっている。
我が国の史書に、鬱陵島と独島が最初に登場するのは、高句麗・東川王20年の(西暦)246年であると学界は推定しており、本格的に登場するのは『高麗史地理誌東界蔚珍県條』である。この記録中の、鬱陵島および独島と蔚珍との相関関係を暗示する記録は、「高麗の元宗代に、蔚珍県令の朴淳が妻子と奴婢および家産を船にのせて蔚陵に行こうとした」という記録だ。
実際、現在の鬱陵島と東海岸一帯との実地の距離を追跡すれば、江原道の臨院港が137km、竹邊港との距離は140kmで、臨院港が竹邊港より少し近いが、海流や海風の経路、考古学的遺跡、関連説話などで推し量ると、歴史の書物に登場する内陸の出発地は竹邊津や邱山津であると推定することが関連学界の通説である。
特に、朝鮮時代、鬱陵・独島地域の捜討政策の責任官庁が越松萬戸だったことがこれを後押しする。
これに先立ち、鬱陵島は、新羅・智証王13年に、異斯夫によって懲罰された後、新羅に編入された。 当時、蔚珍地方は、新羅の何瑟羅州に属しており、鬱陵島を蔚珍の配下に置いたと学界は推定している。韓国古代史の展開過程で、蔚珍地方は、優中国または優由国と呼ばれ、当時この地域の言語系統は、高句麗や扶余系統とは違ったなど、文化象徴体系の差別性を根拠に、学界は紀元前1世紀頃から優中国が設立された3世紀に至るまでに、蔚珍をはじめ東海岸一帯の住民たちが鬱陵島に移住したと推定する。
蔚珍地域が歴史的記録の中に初めて登場する資料は、『三国史記地理条 溟州蔚珍郡条』だ。この記録によれば、蔚珍は高句麗の于珍也県で、3世紀頃に新羅に編入された後、新羅・景徳王代に「蔚珍」と改正されたことが確認される。
鬱陵島・独島は、新羅・高麗の二つの王朝を通じて往来し、ずっと方物(土産物)を献納したことが確認される。 その根拠となる記録は、「高麗・穆宗代にウルン城主が息子に命じて土物を献納した」という記録と、「高麗・忠穆王代に、東界のウルン島人が来朝した」という記録で確認することができる。高麗・禑王7年の1381年に倭寇が蔚珍・平海地方を侵略した。また禑王8年に倭寇が平海郡を侵略した。また禑王11年6月に倭寇がまた平海郡を侵すや、江陵道体察使・睦子安がこれを撃退した。朝鮮朝は、太宗3年1403年に空島政策を実施し、世祖12年の1466年に蔚珍浦と越松浦を設置し、江原道蔚珍県の属島に編入した。以後、世宗代に蔚珍人の南顥が蔚珍萬戸兼按撫使になって鬱陵島を管轄した。以後、粛宗19年1693年に「安龍福事件」が発生する。 続いて朝鮮政府は鬱陵島と独島に対する捜討政策を強化し、三陟僉使と越松萬戸を定期的に派遣して管理した。当時、鬱陵島捜討のために出発した所が、現在の箕城面邱山里に所在した待風軒と、蔚珍の竹辺鎮であると確認される。
수토절목(搜討節目)은 어떤 내용을 담고 있나
捜討節目は、どんな内容が書かれているか
現在、捜討節目は、蔚珍郡箕城面邱山里の洞舎として使われている「待風軒」に保管されている古文書だ。
待風軒は2005年9月に、捜討節目は2006年6月に、各々、慶北文化財資料493号と511号に指定された。
待風軒は、朝鮮朝当時、3年に一回ずつ鬱陵島と独島を管轄するために派遣された政府官僚が鬱陵島に出て行くために出発を待って留まった官庁だ。すなわち鬱陵・独島管轄のための捜討出発地であったわけだ。
待風軒は、邱山里の村の中心に位置しており、今日では「海の村の自治組織」である「ノバンゲ」の集会の場所として活用されている古い家だ。
待風軒には、朝鮮朝当時の生活や行政を推測できる、完文など数十枚の古文書がよく保管されている。このうち捜討節目は、朝鮮政府による鬱陵島と独島に対する管轄記録を含んでいる。捜討節目が学界に公式発表されたのは、クォン・サムムン氏(49 民俗学 亀尾市 学芸研究士)によってである。
捜討節目は、「三陟陣営の官吏と越松萬戸が、三年に一回ずつ鬱陵島と独島を公務として訪問する時、邱山津(邱山里)から出発して帰ってくるのに、風の状態により待風軒で留まる期間が長くなったりもしたので、越松萬戸から邱山津など九個の沿海の村にお金をあずけて、そこで発生した利殖で、この期間の経費を調達させた」という記録を含んでいる。
(クォン・サムムン「蔚珍の古文書」『郷土文化 第11・12合集』1997郷土文化研究会)
また完文には、「鬱陵島の仕事と、陣営官吏や越松萬戸(武官・従4品)の鬱陵島公務時に必要な費用についてや、邱山津など沿海九洞の遂行者の費用作りについての捜討(集まって討論すること)」が書かれている。
구산진은 조선조 울릉•독도 공무 수행 출발지
공무수행 소요 경비 현지 9개 동민이 부담....공무 때 현지주민도 수행
邱山津は朝鮮朝の鬱陵・独島公務遂行の出発地
公務遂行の所要経費、現地九ヶ洞民が負担…公務の時、現地住民も遂行
このような記録を根拠に、朝鮮朝当時、鬱陵島と独島は江原道蔚珍郡の管轄にあったと確認される。また、公務で三陟陣営の官吏と越松萬戸が鬱陵島を訪問する際に、現地の住民たちも大挙して往来したことを確認することができる。当時、完文と捜討節目に記録された「沿海九洞」は、表山洞 (箕城・烽山1里)、烽燧洞(烽山2里)、松峴洞、直古洞(平海邑チクサン里)、狗厳洞(平海邑・巨逸里)、巨逸洞、浦次洞、也音洞、邱山洞の九つの村だ。クォン・サムムン学芸士(亀尾市庁学芸士、嶺南大)は、完文は1811年(辛未年)、捜討節目の作成年代は、1823年の癸未年と推定'している。
クォン学芸士は、これと関連して「当時、鬱陵島と独島は、平海郡(現在・蔚珍郡)の管轄にあり、公務のために鬱陵島を往来する起点が、邱山津(現・蔚珍郡箕城面邱山里)であったのを知ることが出来る」と述べた。
またクォン学芸士は「捜討節目など待風軒に所蔵されている古文書は、鬱陵島と独島の領有権問題はもちろん、当時の生活相をのぞくことができる大切な史料だ」と付け加えた。
待風軒がある邱山の村は、鬱陵島と独島捜討のために風を待つ(待風。航路が安全な日を待つ)待風軒の歴史と、東海に情熱を傾けて忠節を守った高麗朝の忠臣、白巌・金済先生の魂が綿々と続く所であり、蔚珍郡の主要漁場としても有名である。 (2005年3月、市民の新聞) 남효선기자 nulcheon@ingopress.com ナム・ヒョソン記者
一方では・・・
ReplyDelete・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
金晧東(キム・ホドン)『独島・鬱陵島の歴史』(2007)p111~112
待風軒には、「完文」と「捜討節目」という内容の古文書が保管されている。34)
このうち、前者は辛未年であり、後者は前者より12年遅い癸未年と干支が表記されているが、前者は1811年または1871年、後者は1823年または1883年と推定される。保存状態が良いので、その時期を遡及することが出来そうであるが、年代を確定するのは難しい。
前者は、三陟僉使と越松萬戸が3年に一度ずつ鬱陵島を捜討する時、邱山浦から出発し、そこに帰って来るまでの行程に関連したものだ。彼らは順風を待つために「待風軒」に滞在した。このとき留宿する期間が長びく場合が多く、接待する費用は並大抵でなかった。そこで、官衙から、その経費を9つの沿海村落に預け、そこから生じる利殖で充当した。その過程で、村落の洞勢がそれぞれ違ったために民願がしばしば起こり、官衙でその解決方案を論議し、決定した内容をこの文書に載せている。35) このようなことの処理は、「ジュンウィ」をはじめ「ドンイム(洞任?)」により行なわれたことが把握できる。36)
後者は、前者で定められた各洞の費用が多く、負担するのが大変だとして、各洞の代表が集まり、議論した結果を書いたものだ。その内容は、商船だけでなく、漁船やワカメを積んだ船が積荷を津頭に上陸させる時、全国の海岸で受貰する水準の貰を、もらい受けようというものだ。民の被害をなくし、鬱陵島捜討時の経費も円滑にまかなえるこのような方案の実行条件を、節目として作ったものだ。37)
この「待風軒」の「完文」と「捜討節目」は、三陟僉使や越松萬戸の鬱陵島捜討のために作られたものであるという事実を通して、二つの地域の関連性を斟酌することが出来る。
(注)
34)クォン・サムムン「蔚珍の古文書」『郷土文化 第11・12』郷土文化研究会1997
209~217p)に、この「完文」と「捜討節目」の内容が詳細に紹介されており、「待風軒」の機能を理解するのに役立つ。
35)「完文」に出てくる9個の沿海村落は、表山洞、烽燧洞、松峴洞、直古洞、狗厳洞、巨逸洞、浦次洞、也音洞、邱山洞である。
36)クォン・サムムン 前掲論文213~215pから抜粋して再整理した。
37)クォン・サムムン 前掲論文215~217pから抜粋して再整理した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(翻訳終わり)
ナム・ヒョソン記者は、上の記事で、ずいぶんと盛り上げていますが、
実は、「捜討節目」も「完文」も、「郷土史」のレベルの話のようで、実際の鬱陵島での捜討の内容については期待薄のような気もします。(GTOMRさん、ごめんなさい)
それにしても、何を根拠に、彼らは「鬱陵島と『独島』を捜討した」と書くのだろう?
どこにも書いていないのに・・・。
さすがに、金晧東(キム・ホドン)教授は、「鬱陵島捜討」と書いていますが。
>ナム・ヒョソン記者は、上の記事で、ずいぶんと盛り上げていますが、
ReplyDelete実は、「捜討節目」も「完文」も、「郷土史」のレベルの話のようで、実際の鬱陵島での捜討の内容については期待薄のような気もします。(GTOMRさん、ごめんなさい)
この内容が、掃討の具体的な内容ではなく、郷土史程度のレベルの話であるということが、一次資料で持って確認する事ができたことが、大切なわけだったのですが、いままで、それができていませんでした。
韓国側は、二つのうちの一つ「捜討節目」に「獨島」を管理した、と歪曲されたブラックプロパガンダを用いて広報しているわけですから、今回、歪曲が確認できたとこは進歩だと思います。 私は、これ二年近く探していたのに見つけることができなかったのです。(実はFirefoxで探していたために画像が出てこなかったようで・・・)本当にありがとうございます。
なお、Web竹島研究所も該当の文献を確認できないまま、質問者に回答しています。
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200805.html
----------------------------
Korean media published distorted propagand news that on 捜討節目 korean recorded inspector's control on Liacnourt Rocks and Ulluengdo, although it is just a briefly historical record which is not filled up with the description of inspection itself and no contents about Liacnourt rocks. I tried to find this record almost two yeard but failed. Now we can confimed in the 捜討節目 there are no description of Lianoccutr rocks and It was confirmed that Korean media abused distorture again. Thank you Matsu so much.
確かに。
ReplyDeleteこの「捜討節目」なる古文書をもって、「鬱陵島と『独島を』捜討していた証拠の文献」だというのは、とんでもないウソだと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
上掲 2008・12・5の記事。
この日、歴史学者たちは「朝鮮末期に確立された捜討制度が、鬱陵と独島を朝鮮が直接支配するために用意された政府の公式機構であり、蔚珍郡箕城面所在の待風軒で発見された「捜討節目」が、独島が韓国の領土であることを立証する歴史的公式文書である」ということを再確認した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
とは、この文書の、どの部分をもって、何を再確認したのでしょうか。
さて、「捜討節目」の一枚目だけ、句読点を入れてみました。
(「月松」は「越松」の音通。)
(1)
節目
右為永久遵行事。
即者、南北津九洞民人等、呈状内以為。
鬱陵島之捜討、三陟鎮営使道、與月松萬戸、間三年行之者、乃是定式。
而待風発船之○毎於邱山津。而為之是乎所。
月松鎮之於本津、即相距稍近、
其所費用、雖不○於夥多。
全若鎮営之行、則本津留住也、為日之久近、都関於風勢之利不利、
然則、易至於八九日、十数日矣。
難留住之不久若一二日之内、○○費用之数減、為不少。
而以不少之費、○○於
(2)
矣。
2枚目以下は、またこの次に。確かに小さくて見にくいですね。
都九洞者、乃是九洞之臣。○是○乎。
毎於○銭之時、癒悪相、加減田難友○○○取議。
則、商船之毋論魚○與○物、到泊浦口、下陸津頭時、受○八道○邊邑通行之例也。而矣。
従南北津良中、各道○○之年○年末泊者亦云多矣。
依此例、随多少淩○取○○用於○止蒙者似合於矣。○洞来保之道也。
以此○絵節目○○石細是○○○為有○
蓋此、鬱島捜討時、鎮営之行、則六年一丸。
而以今年、言是両日内、支用之○○百金矣。
邱山津、戌之○則田○○九洞乃之○例、
其他八洞○之○則曰徹数此多矣。
可支○互於呼○○止一○左○右○似不○使此○寛之○○如乎。
茅其両日○○○如之、夥然若待風、石利而或全於十余日之当僅即○○奈何○○昨如憧○一○思処以友保○策是在此中○外適至○互事○則於商人別而大
失於九洞省○不○。
大抵鬱島、在於海中、○討○止待風、亦在於津。
顕如甚多用之○前○陸○九洞者、祓由於濱海○○則高如是去来也。
亦○無○少是○○而沈他五道○○邑通用之例乎一依○○○○○○貫数○及挙行条件。並以道○後○威
節目四件。
一則○之暗聴。一則出○於揮○浦。
一則出○於直○洞。一則出○○○
(3)
山是乎。以此永久遵行、毋違越宜当者。
Excellent job, guys !!
ReplyDeleteSorry, I couldn't respond for a while. I've been a bit busy lately.
matsuさん
記事の翻訳、ありがとうございます。1823もしくは1883年になっても竹島についての知識どころか全く赴いたことが無かったことが分かります。ただ、字が小さくて私もよく読めませんが。(クォン・サムムン「蔚珍の古文書」『郷土文化 第11・12』郷土文化研究会1997 209-217p)を読めば分かるのでしょうか?)大変興味深いのは、以下の部分でした。
”これに先立ち、鬱陵島は、新羅・智証王13年に、異斯夫によって懲罰された後、新羅に編入された。当時、蔚珍地方は、新羅の何瑟羅州に属しており、鬱陵島を蔚珍の配下に置いたと学界は推定している。韓国古代史の展開過程で、蔚珍地方は、優中国または優由国と呼ばれ、当時この地域の言語系統は、高句麗や扶余系統とは違ったなど、文化象徴体系の差別性を根拠に、学界は紀元前1世紀頃から優中国が設立された 3世紀に至るまでに、蔚珍をはじめ東海岸一帯の住民たちが鬱陵島に移住したと推定する。
蔚珍地域が歴史的記録の中に初めて登場する資料は、『三国史記地理条 溟州蔚珍郡条』だ。この記録によれば、蔚珍は高句麗の于珍也県で、3世紀頃に新羅に編入された後、新羅・景徳王代に「蔚珍」と改正されたことが確認される。”
「平海人日本漂流図」についてですが、正直、これはどう好意的に解釈しても”韓国メディア”が竹島の不法占拠を正当化するために意図的に歴史を捏造しているのだと思います。”歴史”がだれかによって捏造されているわけではなく。先日の石島の北面の分類と同じ類の韓国側による”意図的”で”卑劣な”しかしひどく”稚拙な”捏造であると私は考えます。
I fonud the folks about Ulluengdo and "Dokdo Museum" distorts to explain
ReplyDeleteBousssole-Rock Jukdo is "Dokdo". see here.
The folk about Sokbo-don and Wadari, Gwaneumdo and Jukdo
"folks on Uluengdo by Dokdo Museum website
先日書き込まれていた英文の迷惑コメントによって、図らずも、こちらのスレッドを読む機会を得ました。しかし、写真などのリンク先は、投稿から五年が経ちリンクが切れたり削除されてしまっているようです。
ReplyDeleteそこで、ネット検索してみましたら、待風軒所藏の二つの文書は、慶尚北道文化財資料 第511号という指定を受けて、以下のURLに写真が載っていました。
http://www.cha.go.kr/korea/heritage/search/Culresult_Db_View.jsp?mc=NS_04_03_01&VdkVgwKey=31,05110000,37
このURLには、六枚の古文書画像が貼られています。しかし、漢字が読めない所為でしょうが、画像に混乱があり、その内二枚の画像が掲示されていません。
蔚珍待風軒所藏文書 完文表紙 ※「表示されている」
蔚珍待風軒所藏文書 完文1 ※「表示されている」
蔚珍待風軒所藏文書 完文2 ※「画像錯誤」
蔚珍待風軒所藏文書 搜討節目表紙 ※「表示されている」
蔚珍待風軒所藏文書 搜討節目1 ※「表示されている」
蔚珍待風軒所藏文書 搜討節目2 ※「画像錯誤」
そこで、他所を検索したところ、今年2014年2月28日の記事があり、
「蔚珍待風軒所藏文書 完文2」の画像も、そのURLにありました。
完文の1と2の 画像です。
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=0GcGR&imgurl=http://cfile201.uf.daum.net/original/2478C44C53103AB11E8739
記事の全文は以下のURLです。
http://blog.daum.net/_blog/BlogTypeView.do?blogid=0GcGR&articleno=6698268&categoryId=2®dt=20140228163042
記事の要点は、「この文書では、19世紀にもまだ朝鮮政府が鬱陵島·独島を私たちの領土として認識しており、定期的に状況を把握しようと巡検していたことがわかる。 」
という意味の文章があるように記事の内容は例によって捏造解釈なのですが、「完文」の現代韓国語訳がついていました。
아래는 ‘완문’의 내용이다.
‘이 완문은 영구히 준수할 일이다. 방금 구산동 백성들이 올린 등장(等狀)을 보니 울릉도를 수토할 때 진영의 사또와 월송 만호의 행차에 드는 잡비를 봉행하는 등에 관한 절목에 대한 내용으로, 전에는 해안가 9개 동에서 힘을 합쳐 수호(隨護)했지만, 근세에 구산동(邱山洞)에서 유독 이 일을 전담함으로써 피해가 편중되고 단독으로 고생하는 데도 하나도 해결되는 게 없었다고 한다. 따라서 동에서 가까스로 돈 120냥을 모아, 수토할 때 만에 하나 첨가되거나 보충해야 할 자원이 필요할 경우 각 동에 나눠줘 원금은 남겨두고 이자만 취하게 하되 매년 2월에 추봉(推捧)한다 했다.
내가 부임한 이후 여러 군영의 폐단을 살펴보니, 너의 동(구산동)이 수토시에 지탱하기 어렵다는 정황을 이미 자세히 알게 되었다. 이제 이 돈 120냥을 각 동에 포식(布殖)하겠지만, 백성의 재물을 함부로 허비하지 않는 은혜를 갖춰야 하므로 향청(鄕廳)과 작청(作廳)에서 이 돈을 정확하게 각 동에 분배하고, 1냥당 3푼 변리(邊利)로 매년 2월에 추봉해 수토시 추가되는 비용으로 쓰라는 뜻으로 완문을 작성해 발급하는 것이니, 이를 준수하는 것이 마땅한 일이다. 신미 7월 일.’
この記事にある解釈文を見ると、
「完文」は、本文が五~六頁ほどあるようで、写真にあるのはその最初の頁と最後の頁だけのようです。
「捜討節目」と「完文」の全テキストを確認したいと思うのですが、御存知の方は御教示願います。
解像度は良くありませんが、待風軒所藏文書「搜討節目」の画像は以下のURLにありました。五年前の画像と同じものかもしれません。
ReplyDeletehttp://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2600_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2602_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2603_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2604_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2605_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2606_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2607_l.jpg
http://m.grandculture.net/contents.aspx?use=&ct=C&ctid=C00004&contid=GC01801242&mode=3
二つの史料の全テキストが判明しました。
ReplyDeleteまずは「完文」からです。
「辛未七月 日
完文
右完文為永久
遵行事 即接
邱山洞民等狀内
欝陵島搜討時
鎭營使道越松萬戸行次
雜費奉行等節
前所沿海九洞之幷力
随護者而挽近矣。
洞惟此專當則偏害
賢勞不一滌陳而
余洞僅聚錢
爲壹百貳拾兩
搜討時萬一添補之資
是在中分授
各洞存本取利
毎年二月推捧亦爲有置
莅位以來究諸營弊則洳矣。
洞搜討時難支之狀
已爲洞悉
而右錢壹百貳拾兩
布殖於各洞而
亦是不費之惠
乙仍于鄕作廳的
只各洞良中分排右錢
而毎兩頭参分邊 毎
年二月推捧 搜討
時用費添補之意成
完文以續為去乎。以此
遵行直當者
辛未七月 日
官
後
表山洞錢拾伍兩
烽燧洞錢捌兩
松峴洞錢柒兩(乙巳三月初七日錢二十兩正)
直古洞錢貳拾兩
狗巖洞錢伍兩
巨逸洞錢貳拾兩
浦次洞錢拾兩
也音洞錢伍兩
邱山洞錢參拾兩
続いて、「捜討節目」の全テキストです。
ReplyDelete句読点を付記しましたが、判読文字との比較検討が容易なように、行と字数は画像の原文通りにしました。
「邱山洞
癸未十月 日
搜討節目 供饋變通
節目
右為永久遵行事。卽者、南北津九洞民人等
呈状内、以爲、欝陵島之搜討、三陟鎮營使道、與
月松萬戸、間三年行之者乃是定式、而待風發船
之節、毎於邱山津、而為之是乎所。月松鎮之於本津、
則相距稍近、其所費用雖不至於顆、多至若鎭營
之行則、本津留住也。爲日之久近、都関於風勢之利不
利然則、易至於八九日十數日矣、雖留住之不久若一二
日之内、各須費用之數、誠爲不少、而以不少之費、擔當於
矣徒九洞者、乃是九洞之巨弊。是如乎毎於收錢之時、
怨惡相加、咸曰難支故、齊會取議則、商船之毋論、魚
鹽與藿物到泊浦口下。陸津頭時受貰、八道沿邊
邑通行之例也而矣。徒南北津良中、各道商船之年
後年來泊者、亦云多矣。依此例隨多少受貰取殖補
用、於惟正之費者、似合於矣、各洞永保之道也。以此意、
成給節目、俾祛不細之民痒亦爲有置。盖此鬱島搜
討時、鎭營之行則六年一次、而以今年言之兩日内支用之
費、殆近百金矣。邱山津民之訴則曰、分値九洞、乃是前例、
其他八洞民之訴則曰、徴(徵)數此多莫可支吾互相呼。訴非
止一再。左處右断 似不無彼此稱寃之端是如乎。第其
兩日之費、旣如是顆然矣。若値風不利、而或至於十餘
日之留住則、尤將奈何。弊誠非細、憧々一念思、所以支保
之策、是在如中。齊訴適至參互事勢則、於商人別無大
失於九洞省弊不些。大抵鬱島在於海中、搜討発之待
風、亦在於津頭、而其費用之從前分値於九洞者、誠由
於濱海之致則、商船之去來也。亦豈無些少之受貰。而況
他各道沿邊邑通同之例乎。一依汝矣等所訴受貰數
爻、及擧行條件並以這々後錄、成節目四件。一 則置之
作廳。一 則出給於揮羅浦。一 則出給於直古洞。一 則出給於邱
山洞。是去乎以此永久遵行、毋或違越宜當者。
癸未十月 日
官 (金額決定役人の花押)
後
一 商船之受貰也。不可無一定之規矣、鹽則毎石五分、明太則毎
駄一戔式是齊。
一 旣已受貰於商船則、當該船主人、亦不無貰銭、藿船主
人則二兩、鹽船主人則五戔、微魚船主人則五戔式是齊
一 今此節目已成、其收捧之節、毋論某津、商船如、民來泊
是去等、該洞任與船主人眼目。以某商船來泊之意、來報
官家是齊。
一 受貰之節旣已定式則、收捧之際、相蒙之歎難保、其必
無不可無句檢之監発。監發啓自。邱山洞、擇其諸洞民中
稍實勤幹者一人、報発差出、使之逐津受貰、而受貰
之際。與各該洞任及船主人眼目擧行是齊。
一 商船到泊之後、旣有該津洞任之報則、自官即為題送于
受貰、監官使之擧行而所捧銭。啓計其多少、當該監官來
付、邱山洞計年取殖是齊。
一 今此受貰錢、旣付邱山洞、使之計年取殖、則無論鎭營與
月松、間三年搜討行、待風時、支用下記、自邱山洞全當擧行
而切勿侵得於各洞、俾無如前紛計之弊是齊。
一 毋論某津、商船來泊之後、如有掩匿不報之弊、是如可現
發於廉探之下則、當該尊位洞。任及船主人等、断當限
死嚴治是齊。
一 上道進支旣有官供、則不必擧論、而至於陪下人馬之供饋
則、自官至出勤幹色吏一人、與邱山洞任眼目擧行、而所
用下記、一依辛未節目用下為乎矣、切勿濫下是齊。
一 鹽船來泊也、毎石五分戔、旣已成節目酌定收、捧付之邱山
洞、補用於搜討發下記則。鹽捧之受貰、可謂疊得。自今
爲始永革是齊。
一 九洞巨瘼、都付邱山洞、俾為矯捄則、錢雖有受貰處、亦
不無酬勞之典、小々烟戸赴役。除減是齊。
一 月松萬戸搜討之時、擧行之節及其他諸條、已悉於辛
未節目、今不必疊床是齊。
一 未盡條件追後磨鍊是齊。」
実は、二つの史料のテキストは、インターネット上で見つけたものを元にしています。
ReplyDelete当初、いくら捜しても見つからなかったので、分かるところだけテキスト化することにして翻字作業を進めていました。判読にあたって、「完文」本文の最初と最後の二頁分は、
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=0GcGR&imgurl=http://cfile201.uf.daum.net/original/2478C44C53103AB11E8739
と
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=07I7T&imgurl=http://cfile204.uf.daum.net/original/1455B9454F9F73C02E9E63
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=07I7T&imgurl=http://cfile236.uf.daum.net/original/19505A454F9F73C233F746
の画像が解像度が高いので、なんとか翻字できました。しかし、途中のほかの画像が見つからなかったので、ひとまずそのままにして、「捜討節目」の画像を調べました。
捜討節目の表紙の画像
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=07I7T&imgurl=http://cfile202.uf.daum.net/original/185AFB454F9F73C327B3C4
捜討節目の本文画像
http://blog.daum.net/_blog/photoImage.do?blogid=07I7T&imgurl=http://cfile202.uf.daum.net/original/11548F454F9F73C52E44F3
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2602_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2603_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2604_l.jpg
http://uljin.grandculture.net/gallery/uljin/picture/l/GC018P2605_l.jpg
これらの画像を元にして何とか八割方の判読が出来ました。そこで、判読できた文字列で、インターネット上で文献検索してみましたら、
http://www.google.co.jp/url?url=http://www.nahf.or.kr/shtml/include/filedownload.asp%3Fsidx%3D100%26fname%3D%25EB%258F%2585%25EB%258F%2584%25EC%2599%2580%25EC%258B%259C%25EB%25AF%25BC%25EC%2582%25AC%25ED%259A%258C%25ED%2586%25B5%25ED%2595%25A9%25ED%258C%258C%25EC%259D%25BC.PDF&rct=j&frm=1&q=&esrc=s&sa=U&ei=o4VHVOf1I8S7mwXozoHoBg&ved=0CBQQFjAA&usg=AFQjCNEG_9em9P22JYxYVxVRNMzz1JROvg
독도와 시민사회-독도 시민활동 백서 - 동북아역사재단
『独島と市民社会』- 独島市民活動白書 -東北アジア歴史財団
というpdfの文献を見つけることが出来ました。そして、その34~38頁/全429頁
に、「完文」と「搜討節目」のテキストがあったのです。
判読した部分との齟齬も殆どありませんので、このテキストの判読は極めて正確だと思います。
ただ、完文の方に二ヶ所、判読間違いではないかと思われる箇所があります。
韓国側のpdfの判読では、本文末の部分が、
完文以續為去乎。以此遵行直當者」となっていますが、「此」ではなく、
完文以續為去乎。以既遵行直當者」の「既」のように見えるのと、
松峴洞錢柒兩(乙巳三月初七日錢二十兩正)の「松」と思われる部分が
於峴洞錢柒兩(乙巳三月初七日錢二十兩正)と「於」となっている点です。
さらに、これらの史料の年代ですが、乙巳が1845年の負担額変更の書き込みと考えられますので、「完文」が、1871年、「搜討節目」が1883年なのだろうと思います。
史料の大きさが判る写真がありました。
http://www.dokdotimes.com/news/articleView.html?idxno=7976
小嶋さま
ReplyDelete蔚珍待風軒所藏文書「完文」「搜討節目」のご紹介、ありがとうございました。お礼が遅くなって済みませんでした。ようやく全文読めましたね。
東北アジア歴史財団の書籍、2008年発行のようです。ずいぶん昔からあったのですね。でも、全文PDFになっていて、ダウンロード出来るのは、有難いです。
肝心の内容に関しては、費用について色々検討しているようですが、慶尚北道文化財課?のHPの解説には、鬱陵島だけでなく「独島を領土として認識していたことがわかる」、と書かれてあるようですが、その様な内容は書かれていないようです。思った通りの超拡大解釈で、困ったものです。
それにしても、今は蔚珍大学が管理しているのか、 待風軒に戻っているのか、分かりませんね。