This map was attached to an official book made by the Office of Public Information, "Korea: Her History and Culture", which was published in 1954.
This book was written in English to make world countries understand Korea's history and culture including how Korea endeavoured to gain independence from 'wicked' Japan. It fully explains how Yi Sun-shin fought against troops of Toyotomi Hideyoshi and how Queen Ming was assassinnated by Japanese. But it didn't refer to Dokdo or Liancourt Rocks at all.
I wonder why they didn't write about Dokdo if they really considered that it was robbed by 'wicked' Japan.
They mentioned islands which were discovered by Westerners;
"But it was in the middle of
the nineteenth century that the Wsterners came to Korea in considerable numbers.
In addtion to Catholic priests, quite a number of French, British and Russian
survey-ships and whalers cruised the waters surrounding the peninsula, and many
Korean islands, ports, and coastal towns became known to the West as were shown
on their marine charts. Mulshom island, for instance, was called "Boisee",
Kohmun island, "Port Hamilton," and Ulnung (sic), "Dagalet.(sic)" Cheju island
had previously been named "Quelpart" by the Dutch."
Still, there is no mentioning of Dokdo or Liancourt Rocks.
The year 1954 was the year Korea's illegal occupation of Liancourt Rocks began.
Rhee Syngman drew the Syngman Line two years previously (1952) and they insisted that Liancourt Rocks belonged to Korea.
Then, why the book didn't mention Liancourt Rocks at all?
It maybe because they knew that they were not the right owner of Dokdo (Liancourt Rocks).
But the Korean propaganda "Dokdo is ours" began after then maybe in order to make Korean people believe the myth of Dokdo.......Thye told their people that "Dokdo is ours" but they couldn't say the same phrase to the outer world.
BTW, to follow is a map of Korea made by C.S. Hammond & Co. (New York). It was included in the "Military Maps of All Theaters of Operation" which was published in the 1950's. This map was made during almost the same period as the above book and map because this map included the Military Demarcation Line at 38 degree which was set on March 27th 1953. You may notice that there is no Dokdo (Liancourt Rocks) in tha map. The world knew that Dokdo (Liancourt Rocks) didn't belong to Korea in around 1954 when Korea occupied Dokdo illegally.
Thanks, pacifist
ReplyDeleteThis is a very interesting official/governmental document. So they declared they didn't really know where their so-called Dokdo was or it is outside of their territory, while they were just in the middle of fiercely arguing the sovereignty over the island between Japanese government? I think they considered it as Usando, the neighbouring islands of Ulleungdo, most likely, Jukdo. Just like Shim, the head of the Ulleungdo island, did in 1906.
Does they mention the eastern limit of Korea in the book?
I have another Korean document after 1945 which shows they didn't consider it as their territory. I'll post it later.
BTW, does anybody know about "太白狂奴『韓国通史』(1915年)"?
I found someone says this.
"太白狂奴『韓国通史』(1915年)が同じく東経130度50分としていると指摘しています。"
Thanks Kaneganese for your comment. No, the book didn't mention the exact eastern limit.
ReplyDeletePlease post the Korean document. Looking forward to seeing it.
here is another Korean map related to Korean war.
ReplyDeleteHistory of United States Naval Operations: Korea
by James A. Field, Jr.
Also Ullungdo only.
GTOMR様
ReplyDeleteThanks for your information.
Nobody thought that Liancourt Rocks belonged to Korea - even Korean people - until Rhee Syngman drew the line and began the braiwashing education in Korea in the 1950's.
太白狂奴『韓国通史』(1915年)について
ReplyDeletehttp://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/2007/record200812.html
【質問2】<回答>韓国政府に宛てた1954年2月10日付けの日本政府見解の中で、政府は、玄采『大韓地誌』(1901年)が韓国の領土の東限を東経130度35分とし、太白狂奴『韓国通史』(1915年)が同じく東経130度50分としていると指摘しています。(略)太白狂奴は日本からの独立を目指して上海に亡命した人物であったので、竹島を韓国領だと認識していたなら入れないはずはなかっただろうということです。(略)(事務局:総務課)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
太白狂奴は、朴殷植(パク・ウンシク)。
http://www.independence.or.kr/NEW/japan/information/collection/ExhiResult.php?nKey=1-A00610-000&PRE_QUERY_DISP=(%93%FA%92%E9%8B%AD%90%E8%8E%9E%91%E3)/%8E%9E%91%E3
中文。『韓国通史』はパク・ウンシク(朴殷植)が中国上海亡命時代に書いた歴史書で、1915年中国人の出版社で刊行した。この本は3篇114章から構成されてあり、1864年から1911年までの韓国近代史を、一般近代史、日帝侵略史、独立運動史の3つの側面から、日帝侵略を中心に体系的に述べているもの。この本は刊行直後、中国、露領、米洲の韓国人同胞は勿論、国内にも秘密理に大量普及し民族的自負心を高め、独立闘争精神を大いに鼓吹した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
朴 殷植(パク・ウンシク)(1859~1925)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AE%B7%E6%A4%8D
朴 殷植(パク・ウンシク、1859年9月30日 - 1925年11月1日)は朝鮮の歴史家であり、民族主義運動家。大韓民国臨時政府の第2代大統領(1925年3月 - 7月)を務めた。作品は漢文の素養と宋明理学への深い造詣を下地とした、高い文章表現力によって支えられている。
韓国歴史学で多く参照、引用で登場する『韓国独立運動之血史』は民族意識鼓舞の目的で1919年から1920年にかけて、亡命先の上海で伝聞、新聞資料等の資料から作成したものである。そのため数値や事実関係の検証が徹底しておらず、誤りが指摘されている。内容について、民族主義を鼓舞するための記述であって科学的な記述ではないとの指摘もある[1]。
略歴
• 1859年9月30日 - 黄海道黄州で生まれる。
o 40歳までの経歴についてはあまり知られていない。
• 1898年 - 皇城新聞に参加(旧大韓皇城新聞)。
• 1911年 - 西間島桓仁県に亡命。
• 1924年11月 - 大韓民国臨時政府国務総理兼大統領代理
• 1925年3月 - 大韓民国臨時政府第2代大統領
o 7月 - 同大統領退任
• 1925年11月1日 - 死亡
主な著著
• 東明聖王実記
• 大東古代史論
• 明臨答夫伝 - 暴虐の次大王を廃して新大王を擁立し高句麗の宰相となったという伝記(三國史記卷第四十五)。
• 蓋蘇文伝
• 夢見金太祖
• 渤海太祖建国誌
• 韓国痛史 - 全編3部114枚、1864年の光武皇帝即位から1910年日韓併合まで。
• 韓国独立運動之血史
以上をまとめた全集として「白巌朴殷植全集 全6巻」(編纂委員会編刊)がある。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・http://www.independence.or.kr/NEW/japan/information/tombstone/13.htm
13.朴殷植(1859~1925)
号は白巌で、黄海道黄州で生まれた。1898年、張志淵、南宮檍などと『皇城新聞』の創刊に参加し、主筆を勤めた。後に、「経学院」講師、官立「漢城師範学校」教師、西北学会会長、皇城新聞社社長を歴任した。さらに、『大韓毎日申報』『西北学会月報』の主筆になって、民族思想の鼓吹に貢献した。
1910年の「日韓併合」のあと、「光文会」の委嘱で著述に力を入れた。1911年5月、西間島に亡命して昔の高句麗地域を調査して、古代史や高句麗の偉人伝の著述に没頭した。その後、上海へ行って申圭植とともに抗日秘密結社の「同済社」と韓中協力団体の「新亜同済社」を組織し、その総裁に当選した。
3・1運動の後、ソ連領のウラジオストックで「大韓人老人同盟団」を結成した。そして、上海に渡り、臨時政府組織に参加するほか、『独立新聞』、『韓国回報』、『社民報』などを発刊した。1924年11月、臨時政府国務総理兼大統領代理を勤め、翌年の3月、第2代大統領に選ばれたが、同年7月、憲法改訂とともに退任し、11月に一生を終えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2000/sinboj2000-4/sinboj000419/sinboj00041952.htm
朴殷植 (1859~1925年)黄海道黄州郡の出身で、勉学に励み、優れたジャーナリスト、教師、歴史家として活発に健筆を振るい、民衆を啓もうし、また独立運動家としても多くの業績を残した。亡命中、上海で死去する。著書に「韓国痛史」などがある。
朴殷植は、黄海道黄州郡の生まれ。1876年の開港の時が17歳。新文明を受入れ文明開化の大波に揺れ動きながら、同時に当時祖国が日本や清国、ロシアなどの列強の侵入を受け傾いていくのを肌で感じ出したのが20代の青年期であった。
「それなら自分は何をなすべきであろうか」。彼は列強の侵略を防ぎ、近代社会を建設するため、まず必要なのは民衆の啓もうであり、民族教育であると思い定め、この事業の先頭に立とうと決意する。
文献などによれば、彼は穏やかで心が広く、気さくな人柄であったという。しかも出生のため官職を望むのでなく、民族と国家のため同志と力を合わせ民衆の中で行動を共にするタイプであった。
そして、何よりも目標の達成のため、大言壮語(だいげんそうご)するのでなく、地道に努力を重ね、自らを鍛練していくことのできる人格であった。
彼の活動が目立ってくるのは、1898年に張志淵、南宮億などと「皇城新聞」を刊行し、張志淵と共に主筆となり、民衆の啓もうに尽力していった時であるが、その時、すでに40歳であった。
それ以後、これまで蓄積された力を発揮して、以下のような活動を繰り広げる。
(1)「皇城新聞」、「独立新聞」(1919年より上海で発行)の主筆、社長などのジャーナリストとして健筆を振るう。(2)民族教育のために、成均館の後身である経学院の講師、漢城師範学校の教授となる。
(3)西北学会長、西北協成学校校長などとして、これら学会、学校、新聞、青年会などを基盤として抗日運動を展開し、(4)1910年に、朝鮮が完全に植民地化すると、やむなく居住地を西間島に移し、高句麗や渤海の故地を調査し、民族古代発展史の研究を始めたのである。
その成果として「東明王実記」、「朝鮮古代史考」などが執筆された。これらの研究を下に、彼は次のような感慨をもらしている。
南北満州や遼東平野はみな古代わが民族の活動地であったのに、祖国の歴史を忘れ他民族に同化したため、少なくとも1億となるべき人口が2000万に止まっている、と。
その後、彼は多くの同胞が移住し、独立運動を続けるロシア領沿海州をめぐり、当時、海外独立運動の拠点となっていた上海に移る。ここで「安義士重根伝」、「韓国痛史」、「韓国独立運動の血史」が執筆されたのである。
彼は病床時、「独立のため党派の争いをやめ、全民族の統一を!」と悲痛な遺言を残してこの世を去ってゆくのであった。
(金哲央、朝鮮大学校講師)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/31084385.html
金 哲央
1953年名古屋大学文学部哲学科卒業。同校大学院修了。1961年から朝鮮大学校で哲学、朝鮮哲学史、朝鮮文化史を担当。1995年定年退職。共和国の教授、哲学博士。現在、大阪経済法科大学客員教授、この間、朝大の講師および立教大学、津田塾大学、東京都立短大などの講師を歴任した
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Thanks for the information on "太白狂奴『韓国通史』(1915年)", matsu
ReplyDeleteSo Pak was with 張志淵 and writing for『皇城新聞』. Sounds very interesting. I'd like to see the book.
("韓国痛史"…痛そうですね。)