竹島問題の歴史

29.8.11

1902 - "On the Coasts of Cathay and Cipango Forty Years Ago"

In an 1902 book entitled On the Coasts of Cathy and Cipango Forty Years Ago, Englishman William Blakeney recounts his experiences traveling in the Far East between 1857 and 1862 on the British ship Actœon. On page 191, he describes his ship's visit to "Dagelet Island" (Ulleungdo) in June 1859 as follows:
   The Actœon hove to for a few hours off Dagelet Island, which emerges in solitary grandeur from the floor (2,000 feet deep) of the Japanese Sea, and rises to 4,000 feet above it. It lies 100 miles distant from the mainland of Korea, is clothed with forest from the verge of perpendicular cliffs of 500 feet, and is 20 miles in circumference. On every side were herds of seals, filling the air with sorrowful sounding cries, perhaps from terror at our appearing. We could make no headway through the dense undergrowth. La Perouse discovered this island in 1786, but there is no record of his landing.
A few half-starved Korean fishermen were collecting seaslugs, etc., for Chinese epicureans, but had only a ramshackle old junk in which to make the passage across a stormy sea in almost perpetual fog. A weird and lonely spot is Dagelet Island.

22 comments:

  1. easy link to the text about Dagelet-Matsushima http://www.archive.org/stream/oncoastscathaya00blakgoog#page/n244/mode/2up

    And..this book have an attached map which have a Dagelet island and Boussoule rock on P346 http://www.archive.org/stream/oncoastscathaya00blakgoog#page/n404/mode/2up

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  2. Thanks, Gtomr. I didn't notice the map before.

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  3. 唐突ですが、古地図繋がりと言うことでご勘弁を願います。

    さて日本の某掲示板で、竹島の旧称の「松島」を記載したものではないかと騒がれている古地図があります
    しかし、私は、これは「松前」のローマ字表記ミスであろうと思います。ただ英語で松前をこのように記述した、例が他にも在るのでしょうか。

    Matsima
    http://www.chosunonline.com/news/20110808000034
    http://blog.livedoor.jp/newskorea/archives/1558423.html

    松前
    http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/05/03/0200000000AJP20110503001100882.HTML

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  4. URLの後半部分が切れてしまいました。
    news/20110808000034
    archives/1558423.html
    05/03/0200000000AJP20110503001100882.HTML

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  5. 小嶋日向守さん、おひさしぶりです。

    地図を一見しての感想ですが、Matsimaは、文字の位置からすれば、その近くにある島につけられたもので、たぶんマツシマのつもりで書かれているのではないでしょうか。

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  6. >小嶋日向守.
    はい。MatsimaはMatsimaI(Island)
    もしくはMatsimaIでしょう。
    当時は長崎の出島のように思われていたのでしょうか?島として表記されています。

    1747.Bowen, Emanuel
    Map of Asia.
    Publisher:
    William Innys [et al.]
    London

    http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~2580~270032:A-new-&-accurate-map-of-Asia--Drawn

    ちなみに該当の記事ですが、同じような時期の別の地名辞典にも確かに朝鮮海の記載が地図にあるものの、一方文章では朝鮮海ではなく、日本海が使用されているのもあります。
    http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/search?updated-max=2011-08-08T13%3A11%3A00%2B09%3A00&max-results=7

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  7. 早速、お答え戴きまして有り難う御座います。

    http://file.chosunonline.com//article/2011/08/08/870178524079182934.jpg
    The Universal Gazzetter ,published on 1760. London.
    確かに、上の地名辞典では、Matsima は奥尻島に近い位置ですが、島として描かれています。
    また、お示し戴いた1747.Bowen, Emanuel Map of Asia.では
    明白に、MatsimaI. となっていますので、この地図の製作者は、マトゥシマ島ないし
    マツシマ島という日本海に浮かぶ日本領の島だと認識していることが判ります。
    18世紀中頃に日本海に松島という日本の島が在ると認識されていることの意義は大きいですね。
    この地図の地名は判じ物のようで興味深いですね。現在の地名と同定出来そうなのは

    Nangasak 長崎
    Tomo 鞆の浦
    Xicco 四国
    Meaco 京都
    Mino 美濃
    Noto 能登
    Sarunga 駿河
    Yedo 江戸
    roxu (Woxu) 奥州
    Aqwta (Aquita) 秋田
    YEDSO 蝦夷
    Tocaptie 十勝
    などの同定は概ね皆さん異論は無いと思います。

    ただ、私は、当時の英国の地図製作者が参考にした元の日本の地図では、やはり蝦夷地(現在の北海道)の港湾都市の名称としての「松前」が書かれていたのだと思います。
    読み方は、勿論「マツマエ」が正しいのですが、東日本ないし北日本の人間は、現在でも
    エをイのように発音しますので、「マツマヱ」あるいは「マツマイ」だったと思うのです。
    そのために、ローマ字でMatsumaiと書かれていた地名を、Matsuma I. マツマ島と解釈したのが、事の発端のように感じます。
     それでも、最初にMatsumaiをMatsima I.と解釈した長崎のカピタンあたりが、「日本海に松島という島があるのか」と尋ねて、日本人の地理学者が現在の竹島を念頭に置いて「勿論ある」答えていた様子を想像すると、面白いですね。

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  8. 文字の位置から言って「松前」でしょう。北前船の拠点であった都市の名とみて良いと思います。

    確かに「Matsusima」の誤記のようにも見えますが、それほど著名な存在であったのでしょうか。鬱陵島はおろか済洲島までも載っていない図なのに……。

    この地図は当時の地図製作者の認識を記したものであって、現実を写し取ったものではないことに留意すべきです。

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  9. はい。
    調子に乗って、この地図の松島を現竹島に違いないと騒いでは、こちらまで、バーバー夫妻のレベルに堕してしまい兼ねないと思ったのです。

    それから、重箱の隅をつつくようで申し訳ないのですが、北前船の時代はこの、1747.Bowen, Emanuel Map of Asiaより少し後の、18世紀後半ごろからになると思います。それ以前からあった地図ですから、まだ菱垣廻船と樽廻船の時代です。同じ弁才船(いわゆる千石船)を用いた日本の国内海運ですが、時代と共に発展したもので、江戸時代後期になると、「韃靼の山並みが見えるほど」と謂われるほどの、沖合を航行した北前船の時代となります。日本の船乗り達が、日本海の島々の位置を正確に知って行った歴史的背景がきちんと存在することを韓国の人々にも知って貰いたいものです。そこが現在の竹島の存在を最後まで知らなかった朝鮮の人々との違いです。
    そうした点で、日本の地方政府たる鳥取藩の舩番所が、鬱陵島と竹島の間を通るルートの北前船の海図を保存していて、それが鳥取市の一行寺に保存されていたことの価値は大きいと思います。
    ttp://tosi.iza.ne.jp/blog/entry/954155/

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  11. 先月末(2011年8月)以降、梁職貢図の佚文、新羅題記発見のニュースが話題となっています。
    http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=
    LSD&mid=sec&sid1=103&oid=001&aid=0005224764
    このことに関して、なかなかインターネット上で見ることが出来なかった中国の趙燦鵬先生の原論文を見つけました。西暦521年の南朝梁元帝《職貢図》題記佚文的新発現がそれで、2011年の2月に発表されたものです。
    http://www.docin.com/p-213449130.html
    この論文と、過去の研究とを合わせて、新たにテキストを校閲し文字に起こしました。
    どちらのコメント欄に投稿すべきか迷ったのですが、こちらに投稿させて戴きます。是非バーバー夫妻に読んで貰いたいと思います。

    新羅題記
     斯羅國、本東夷辰韓之小國也。 魏時曰新羅、宋時曰斯羅、其實一也。 或屬韓、或屬倭、國王不能自通使聘。普通二年、其王姓募名泰、 始使随百濟奉表獻方物。 其國有城、號曰健年。其俗與高麗相類。 無文字、刻木爲範、言語待百濟而後通焉。

    (上記が話題の、新羅が倭の属国という記述です。)

    倭國題記
     倭國、在東南大海中。依山島為居地。氣温煖、出珍珠青玉、無牛馬虎豹羊鵲。男子皆黥面文身、以木綿帖頭衣、横幅無縫、但結束相連。好沉水捕魚蛤。婦人只被髪、衣如單被、穿其中、貫頭衣之。男女徒跣、好以丹塗身。種稲禾、麻苧、蠶桑。出袖布、縑錦。兵用矛、盾、木弓、箭、用骨為鏃。其食以手、器用籩豆。死有棺無椁。齊建元中、奉表貢獻。

    (この内容は、魏志倭人伝以来の古い描写と479-482年の記録で、六世紀初めのヤマトの人間の描写では無いようです。むしろ512年頃の鬱陵島の先住民は、このような倭人だったと思われます。)

    高句驪題記
     高句驪、舊東夷夫餘之別種也。漢世居玄菟之高驪縣、故以號焉。光武初、高句驪王遣使朝貢、則始稱王。其俗人性凶急悪、而潔浄自善。婦人衣白、而男子衣袺錦、飾以金銀。貴者冠幘而無後、以金銀為鹿耳羽、加之幘上、賤者冠折風、其形如古之弁。穿耳以金環。上衣白衫、下衣白長袴、腰有銀帯。左佩礪、而右佩五子刀、足履豆禮鞜。頗習書。其使至中國、則多求經史。建武中、奉表貢獻。

    百済題記 (こちらは趙燦鵬論文にあるのは初句だけですので、百済國使と梁書百済伝を合わせて復元したものです。)

    百濟、舊東夷馬韓之屬。晋末、駒麗略有遼東樂浪亦有遼西晉平縣。自晋已來常修蕃貢。義煕中、其王餘腆。宋元嘉中、其王餘毗。斉永明中、其王餘太。皆受中國官爵。梁初以太、 為征東将軍。 尋為高句驪所破。 普通二年、其王餘隆遣使奉表云。累破高麗、治所城曰固麻。 謂邑檐魯、於中国郡縣。有二十二檐魯。分子弟宗族為之、旁小国有。叛波、卓、多羅、前羅、斯羅、止迷、麻連、上己文、下枕羅、等附之。其人形長、衣服淨潔。其國近倭、頗有文身者。今、言語衣服略同高麗。行不張拱、拜不申足、以帽為冠襦曰複袗、 袴曰褌。其言参諸夏。亦秦韓之遺俗。
    http://www2.jslib.org.cn/was40/media/tupian/zuopin/
    meishu/nanbeichao/xiaoyi_1.jpg

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  12. 訂正

    新羅題記の其王姓募名「泰」は、其王姓募名「秦」が正しく、
    其國有城、號曰「健年」は「健牟羅」が正しいそうです。

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  13. 小嶋日向守様
    1760年頃に日本海にMatsimaIという島があったかのように表記されていることは、偶然とはいえ驚きですね。西洋の地図ですし、年代的にも長久保赤水『改正日本輿地路程全図』より前ですし、鳥取藩関係の絵図が参照されたとも思えません。私も皆さんと同じく、これは現竹島ではなく松前の可能性が高いと思います。絵図で陸地が島のように描かれたのと同じなのではないでしょうか。でも、こうした地図があることを頭の片隅に置いておくと、後々地図の変遷を考えるうえで何かのヒントになるかもしれません。

    また、『梁職貢図』の件も中国語の論文からテキスト化して頂き、有り難うございました。あまり知識がないこともあり、内容に踏み込むことはできませんが、任那日本府が存在したかどうかはともかく、古代に倭人の勢力が半島南部にあったことは、全力で否定できるものでもないと思います。また、512年に新羅が鬱陵島を征服した時に、異民族がいたことは間違いないので、それが一体どの民族であったのか…現代の領土紛争とは直接関係はありませんが、少なくとも古代においては現代の韓国人の祖先が鬱陵島の先住民である異民族を軍事制圧した事だけは確かで、歴史とはその繰り返しだということを韓国の方々が理解して下さることが好ましいと常日頃考えています。

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  15. 残念ながら、現在の竹島は出ていませんが、
    1788年に日本の南方沖を航海したジョン・ミアーズ(John Meares, 1756?-1809)の海図が興味深いのでご紹介します。
    http://homepage3.nifty.com/
    boumurou/island/06/chart.gif
    この海図では、蝦夷地の松前が、Matoosmae と出ています。
    興味深いのは宮城県辺りにMatisma I. と松島が描かれていることです。
    さらに興味深いのは、隠岐が、Oki I. と描かれていることと、
    朝鮮半島のごく近くにI.Mo と鬱陵島が描かれていることでしょうか。

    元サイトのhttp://homepage3.nifty.com/
    boumurou/island/06/grampus.html
    によれば、当時、日本近海にあると信じられていた伝説の幽霊島の姿が多く描かれているそうです。また19世紀末のマーカス島日本領有の歴史も興味深いです。

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  16. 一度地図に書かれた島の名前というものは、実に長く尾を引くものです。
    日本三景として有名な宮城県の松島ですが、考えてみれば松島という有名な島が在るわけではなく、270余の多島海とその周辺の地名に過ぎません。その点で、西洋の古地図で宮城県の松島が描かれているということは、海図としては不思議なことです。しかし、嚮(さき)に話題とした蝦夷地に近い日本海にあった松島の地名が変転したと考えれば辻褄が合うわけです。

    それはさておき、前回は気が付きませんでしたが、1788年のミアーズの海図
    http://homepage3.nifty.com/boumurou/island/06/chart.gif
    をよく見てみましたら、千山島が小さく描かれているような気がします。
    この地図では、三陟のすぐ近くにI.Mo(茂島?)と表記されている鬱陵島は、四つの島として描かれています。
    この中で最も朝鮮半島に近い島が、1730年代のダンビルの地図にある千山島(于山島)のように思えます。
    http://japanese.yonhapnews.co.kr/
    relation/2008/09/11/0400000000AJP20080911003300882.HTML

    韓国マスコミは、フランスの地理学者、ダンビルが作成した、1732年の朝鮮王国全図などを「独島を韓国領と表示した西欧の古地図」であるとしています。
    http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/
    nihonkai_k/pdfs/map_chosa.pdf
    このpdfの最後に出ている、The Century CompanyのJapan and Korea (1902)の地図では
    Taka Shimaと呼ばれている、存在しないダジュレー島が出ていますが、
    竹島松島の地名混乱の遠因が、とりもなおさず、朝鮮の東国輿地勝覧や八道総図の朝鮮半島に近すぎる鬱陵島に他ならないことを示しているのだと思います。
    1902年頃になっても、鬱陵島を韓国松島と呼んだ日本人がいても宜(むべ)成るかなです。

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  18. 「Taka Shimaと呼ばれている、存在しないダジュレー島」
    と書いてしまいましたが、
    「Taka Shimaと呼ばれている、存在しないアルゴノート島と、Matsu Shimaと記されているダジュレー島(鬱陵島)」
    に訂正します。

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  19. 曩(さき)に投稿したコメントで、北前船の「沖乗り」と鳥取藩の舩番所にあった海図を話題にしましたが、この海図の年代がもう少し古くても良さそうなものなのに、何故に、1837年の写しであったのかということが気になっていました。
     これに関して思い当たることと言えば、やはりその前年の會津屋八右衛門の竹嶋一件の影響を受けたものではないかと思えるのです。この事件のあと竹島渡海禁止の高札が津々浦々に掲げられれました。その中には、越後高田藩の高札もあります。この触書のテキスト全文はまだインターネット上に無いようですので、写真から解読して本文を翻字してみました。
    画像は
    http://www.chosun.com/site/data/html_dir/
    2010/03/05/2010030501274.html

    http://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/
    en-home/tenpou-take-shima-ichi-ken
    こちらのgtomrさんの竹島comの古裂会提供の画像を、画像処理ソフトで拡大して明暗などを変えて読み取ったものです。画像と比較しやすいように一行毎に分けました。

    大田□□
    今度 松平周防守元領分 石州
    濱田松原浦ニ罷在候 無宿八右衛門
    竹島江渡海致し候一件 吟味之上
    右八右衛門其外 夫々厳科被行候 右嶋
    往古は伯州米子之者も渡海魚漁
    致し候得とも 元禄之度朝鮮國江
    御渡ニ相成候 以来渡海停止被
    仰付候場所ニ在之候 都異國渡海之儀
    重御制禁候条 向後 右嶋之儀も同様
    相心得 渡海致ましく候 勿論國々之
    廻船等海上において異國船に不出會様
    乗筋等心がけ可申旨 先年も相触候通
    弥相守 以来は 可成たけ嶋 沖乗
    不致様、乗廻り可申候。
    右之通従 公儀被 仰出候間
    常々無忘却 可相守者也 (守之者也?)

    天保八年□月 高田役所 (四月?)

    この触書に関しては、このサイトでも昨年の二月に既に話題になっていました。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/02/1966-2.html
    また以下の動画の3分36秒~38秒頃にも示されています。
    http://www.youtube.com/user/rhrnfu12#p/u/7/Qtt8cSS0s9k

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/
    takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-jyouhouteikyou.pdf
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/48492741.html
    chaamieyさんの不安がまさに的中してしまいました。

    右嶋の問題は、論外として、この触書のテキストは、各地のものが少しずつ違う点があるのですが基本的には同じです。しかし私が気になる点は、本文十三行目です。越後高田藩のものでは、「弥相守 以来は 可成たけ嶋 沖乗」です。
    変体仮名で「堂け嶋」とあるようなのですが、元々のテキストはもう一種類あったらしく、浜田市のものでは、「いよいよ相守、以来可成丈、遠沖乗」です。また朝鮮竹島渡航始末記の方でも「弥相守、以来は成る可く丈遠沖乗らざる」となっています。
    一方、『日本財政経済史料 第2巻 財政之部2』(大蔵省編 財政経済学会 1922)よりhttp://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kosatu2.htm
    と、昨年GTOMRさんが、紹介しておられるサイト、http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kosatu2.htm 
    には、当時の大坂高麗橋の高札があり、こちらでは、「弥相守 以来は成べくたけ島沖乗不致」となっていて高田藩のものと同じなのです。
    実に不思議です。大阪と直江津では、単に竹島(鬱陵島)の沖合には、なるべく船を近づけるなと言っているのに対して、浜田の高札と、朝鮮竹島渡航始末記にあるもとの「法案」では、竹島だけではなく一般の海域も都べて含めて、なるべく沖乗りをするなと言っているように読めます。後者では、下手をすると時代遅れの沿岸航路を通らねばならないと解釈され、北前船の船頭に取って死活問題になりかねない重要な相違です。
     まあ、常識的な判断ではそれほど厳密なものではないのでしょうが、私は鳥取藩の船番所で、例の海図「日本針図」がこの沖乗り航路の確認の為に配備されたのではないかと思うのです。
     皆さんのお考えをお聞かせ願います。
     また上越の浦の名前かと思われる、「大田□□」は旧高旧領取調帳などを調べてみましたが、地理的知識が無く判読出来ませんでした。これに関してもどなたか御教示願います。

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  22. 「なるべく竹島(鬱陵島)沖乗り致さざる様」という触書について
    「1837年以降、竹島(鬱陵島)と松島(竹島)には渡航を禁じる法令が出ていた」という誤った思い込みをしている人がいるようです。鬱陵島についてはその通りですが、現在の竹島についてはそのような禁止令は出されていません。
    ところが、インターネットで検索して見ると、日本語で書かれたサイトにもそのような思い込みをしている方がいらっしゃることに驚かされます。
    例えば、
    ttp://www15.ocn.ne.jp/~hide20/burogu22.html
    「1837年(天保8年)の2回目の渡海禁止令には「…以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗り廻り申すべく候…」とあり、竹島渡海を禁じるのみならず、 遠い沖乗りも禁じている。これは、上記の「竹島松島其外両国の附属の島はない」から考えて、当然松島付近を含むと考えるのが自然であると思う。竹島は渡海禁止になったが、松島渡海は禁じていないと解釈することには無理があろうと思う。」
    ttp://take8591.wiki.fc2.com/wiki/take_8591
    「日本では元禄期以降の天保期にも今津屋八右衛門事件をきっかけに竹島への渡海や遠き沖乗りが禁止されたので、竹島や松島は朝鮮領と考えられていたのである。」

    しかし、触書の文面をよく調べてみると

    越後高田藩の高札は、「可成たけ嶋沖乗」
    大阪高麗橋の高札の史料は、「可成たけ島沖乗」
    一方、
    加賀藩の史料は、「可成たけ遠沖乗」です。
    浜田藩の高札本体は、「可成丈遠沖乗」
    浜田藩の別の史料には、「可成たけ遠沖乗」
    「嶋」か「遠」の一文字違いの、文面が二つあることに注意して欲しいと思います。
    「なるべく」はすべてに共通し、「たけしま沖乗り致さぬよう」がもともとで、「たけしま」の「たけ」を「なるべく」に続いて、「なるべくだけ」解釈して、後に続く文面を、「遠沖乗り」と変更したと思われる文面の二つが存在するのです。
    これを、いくら曲解しても、松島の渡航まで禁じていたと読むことは出来ません。
    事実、その後も、北前船が竹島と松島の間を航路として使用していますし、取締当局であった船番所に、それを示す海図が残っています。

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