On the second page, you may notice the names of 巨文島 (Komundo), 済州島 (Chejudo) and 欝陵島(Ulleungdo)-written as 松島. These Korean islands were used by Japan but it was not a unlawful deed because Japan-Korea Protocol 1904 (日韓議定書), which was concluded beforehand on February 23rd 1904, made rules that “The Empire of Japan can temporally use the places where she strategically needed to use in order to complete the purpose mentioned above” (大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為軍略上必要ノ地点ヲ臨検収用スルコトヲ得ル事).
[Reference:http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/09/1905-may-29-30-june-5.html ]
According to the list, the construction of watchtowers at these Korean islands was begun at August 27th 1904 and was completed on September 20th 1904. Although the construction at two places at Ulleungdo, 松島東(the east of Matsushima) and 松島西(the west of Matsushima), was begun on August 3rd 1904.
These dates are several months earlier than the incorporation of Takeshima/Dokdo (Liancourt Rocks).
[At one more place at Ulleungdo, 松島北(the north of Matsushima), the watchtower construction began later than these dates: it was begun on July 14th 1905 and completed on July 16th 1905.]
Pro-Korean scholars used to say that Liancourt Rocks (Takeshima/Dokdo) were Korean territory and that
The construction of watchtower at Liancourt Rocks (Takeshima/Dokdo) was begun on July 25th 1905 and was completed on August 19th 1905, it was after the incorporation of the rocks. (Please look at the third page of the list.) The staff at the watchtower was six persons including one chief watcher, one petty officer, two orderlies and two temporary employees.
Watchtowers constructed in Korean territory ware administrated by Sasebo military office(佐世保鎮守府). But the watchtower constructed in Takeshima was administrated by Tsurumai military office(鶴舞鎮守府). Other watchtowers administrated by Tsurumai military office ware in the Japanese territory.
ReplyDeleteopp,
ReplyDeleteThanks, that is another point to show that Takeshima was not in the Korean group. BTW, isn't it Maizuru (舞鶴)?
The watchtower of Takeshima was put away soon after Russo-Japanese war ended.
ReplyDeleteIt shows the value of the watchtower is not so important.
Okuhara’s report confirms the watchtower has already taken away at the time of March 1906.
「海軍としては、七月二十二日には海軍人夫三八名を竹島に上陸せしめて望楼の建設を行ない、八月十九日より任務を開始したが、九月には休戦となったため、十月十五日にはその撤去を決定した。」
川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(1966)226p(復刻新装版1996)
「また曾つて海軍望楼の設置ありて、巖角を開鑿して鳥経を通じ、頂上に営造物を建設し、職員の居住せしことありしも、現今は引き払はれて、人影なし。」
奥原碧雲『竹島及欝陵島』(1907)14p(復刻版2005)
1906年(明治39年)3月22日~30日の報告書(竹島視察は3月27日)
金柄烈 has listed up “watchtowers in Korean territory at the time of Russo-Japanese war”. 「日露戦争期間中、朝鮮領土に設置された望楼」
ReplyDelete『史的検証 竹島・独島』(2007)164p
He listed 20 watchtowers according to the date of construction.
(1904.02.15 ~1905.07.25)
八つ浦(八口浦) 起工1904.02.15
白島(白翎島) 起工1904.03.17
竹浜(竹辺湾) 起工1904.06.27
元山(元山) 起工1904.07.05
影島(釜山) 起工1904.07.17
鴻島(鴻島) 起工1904.07.17
松島東(欝陵島) 起工1904.08.03
松島西(欝陵島) 起工1904.08.03
蔚埼(蔚山港) 起工1904.08.27
文島(巨文島) 起工1904.08.27
牛島(済州島) 起工1904.08.27
済島(済州島) 起工1904.08.27
蔚島(蔚島) 起工1904.08.27
多太(巨済島) 起工1904.09.05
水源(水源湾) 起工1905.03.07
虎島(永興湾) 起工1905.03.28
舞埼(舞水端) 起工1905.06.07
松島北(欝陵島) 起工1905.07.14
冬埼(冬外串) 起工1905.07.14
竹島(独島) 起工1905.07.25
(海軍軍令部編 『極秘明治三十七八年海戦史』(東京 春陽堂 明治42)第4部第4巻より作成)
I think the order of the construction shows some kind of importance of the watchtower.
竹島 is 20th, the last.
matsu様
ReplyDeleteいつもありがとうございます。
蔚島が欝陵島だとばかり思っていましたが、松島という表記だったのですね。
Other watchtowers administered by Maizuru military office were in the Japanese territory.
ReplyDeleteor
Other watchtowers in the Japanese territory were administered by Maizuru military office (舞鶴鎮守府)in Kyoto.
海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』(東京 春陽堂 明治42)第4部第4巻より作成
ReplyDelete前回のコメントで、注記として上のように書きましたが、
正確には、『史的検証 竹島・独島』(2007)(岩波書店刊)の164pには
海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』第4部第4巻より作成
とあり、巻末p8の「注84」に、
海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』(東京 春陽堂 明治42)
とあるのを、コメントにあたり、私がくっつけたものでした。
ところが、調べてみると、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』(東京 春陽堂 明治42)という本と、海軍軍令部編『極秘明治三十七八年海戦史』とは、全く別の資料であることがわかりました。(前者には、「極秘」がない)
すなわち、注84のまちがいを、そのまま引き継いで私も騙されてしまったわけですが、おかげで『極秘明治三十七八年海戦史』というすごい資料を知ることが出来ました。
「極秘」がついていないほうの、海軍軍令部編『明治三十七八年海戦史』(東京 春陽堂 明治42)は、国会図書館の近代デジタルライブラリーでネットで読めますが、ここには、pacifistさんが紹介してくださった資料はのっていません。
すなわち、この本は、「極秘」のついた膨大な資料集を、簡潔化して一書とした、ダイジェスト版でした。
そこで、「極秘」のある、『極秘明治三十七八年海戦史』のほうをネットで検索してみると、
アジア歴史資料センター(アジ歴)http://www.jacar.go.jp/ の「資料の閲覧」の検索で
「明治37.8年海戦史」と入れると読めることがわかりました。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl
さらに 第4部 防備及ひ運輸通信 巻4 に行き、第3編通信 第4章望楼、(6番目)
および、最後(8)の「備考文書」に関係資料があります。「画像閲覧」で見られます。
pacifistさんは、こちらから引かれたのではないかと思います。
まず、「望楼」ですが、第4部 防備及ひ運輸通信 巻4 C05110109300
第3編通信 第4章望楼 C05110109900 【 画像数 】 81 にある、「画像閲覧」で、
画像8から「望楼一覧表」がはじまり、9、10、11に韓国の望楼が、そして画像16に竹島がのっています。
Oppさんや小嶋日向守さんががおっしゃるとおり、竹島は「舞鶴鎮守府所管」、韓国の望楼は「鎮守府(佐世保)直属」です。あきらかに違います。領土編入の後だから、当然とも言えますが。
pacifistさんは、画像8(225p)と、画像10(227p)、画像16(233p)をのせていらっしゃいます。
金柄烈のリストの、韓国の20の望楼(竹島は日本だから、実は19の望楼)は、画像9(226p)、画像11(228p)をあわせると完成します。このうち画像9(226p)に、欝陵島の「松島東」と「松島西」がのっています。
一方、「備考文書」(画像数441)のほうは、420~429の10枚の画像が、pacifistさん引用の資料です。C05110110100 【 画像数 】 441
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090101403494919
第67号 明治三十八年一月五日對馬艦長海軍中佐仙頭武央ヨリ水路部長に提出セルリヤンコールド島概要(画像420、421)(366p~367p)
第68号 明治三十八年六月十二日海軍技手木口吉五郎ノ提出セル竹島視察報告(画像422)(368p)
第69号 明治三十八年六月十四日第三艦隊司令官海軍少将武富邦鼎ノ提出セル竹島視察報告(画像422~426)(368p~370p)(424,425,426は見取り図)
第70号 明治三十八年六月十五日橋立艦長海軍大佐福井正義ノ提出セル竹島視察報告
(画像427~429)(371p~373p)
68・69・70号は一連の資料で、同じ時の報告でしょう。
日付を見ると、このところ話題になっている5月下旬の「日本海海戦」の直後ですね。
67号は、明治38年1月5日ですから、まだ領土編入の前ですね。下の3つが、ちゃんと「竹島」になっていて、これだけ「リヤンコールド島」なのは、当然といえば当然です。
68号で、海軍技手の木口吉五郎が、報告の中で、思わず「リヤンコールド岩」と言ってしまっているのに、将校の報告では、しっかり「竹島」になっているのも面白いです。
ところで、この「六月十二日」は、まちがいではないでしょうか?
70号の 「橋立艦長 海軍大佐 福井正義」の報告に
命ニ因リ明治三十八年六月十二日竹敷ヲ発シ十三日午後二時竹島東嶼ノ東端約一浬ニ達シテ漂泊シ即時端舟ヲ胤シ航海長小倉大尉及ヒ其ノ従属森田中尉ヲ派遣シ望楼設置適否ノ調査ヲ命ス 此ノ一行中ニハ豫テ佐世保鎮守府ヨリ派遣セル技手職工等ノ一行ヲ含有セリ右派遣将校ノ調査概要左ノ如シ
とあり、12日には、まだ「竹敷」(対馬の海軍根拠地)にいたわけで、海軍技手の報告は、竹島についた13日以降のはずです。
編纂段階でずさんになっている可能性があるし、あるいは、ミスプリを警戒しなければいけない資料なのかもしれません。
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望楼にもどりますが、望楼一覧については、地図ものっており、その位置がわかります。
前掲81の画像のうち、25、26、27、28です。
「蔚島」(うるしま=ウルド)は、西海岸、仁川沖でした。
「白翎島」(しろしま=ペンニョンド)も西海岸、いまは、南北境界線の韓国側で、軍事衝突のニュースの時などに時々地名が出ますね。
また、舞水端(ムスダン)(=舞埼・まいさき)は東海岸、北朝鮮のミサイル発射のときに、名前が出てきました。
いずれも、いつの時代も変わらない、軍事的要衝なのだと思います。
ちなみに、金柄烈のリストの一番最初に出てくる八口浦(パルグポ)(=八ツ浦)は、いまの全羅南道新安郡「玉島」で、古くから日本海軍の基地だったようです。
水源湾は、今は北朝鮮になっている、東海岸・江原道高城郡の「海金剛」の近く。
鴻島は南海岸、冬外串(=冬埼・ふゆさき)は、東海岸、慶州や浦項の近くの迎日湾の突端、今の「虎尾串」です。
いずれも、景色もよく、釣りにも絶好なんだろうなあ、などと不謹慎なことを考えてしまいますが、この時代、いわば「防人(さきもり)」として、こうした望楼で、ロシアの艦船に眼を光らせていた若者がいたんだろうなあ、などと想像します。
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ところで、この内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』(2007)(岩波書店刊)の164pにある「日露戦争期間中、朝鮮領土に設置された望楼」の一覧表ですが、
実はこれは金柄烈氏がまとめたものではなく、愼鏞廈氏の『独島の民族領土史研究』(1996)(韓国語)の222pに、すでに「日本海軍が露日戦争期間、韓国領土に設置した望楼」と題した、同じ内容の表があります。
岩波本の金柄烈氏のこの部分の記述は、ほとんどそのまま、愼鏞廈氏の『独島の民族領土史研究』の「第3部」によっています。
この「第3部」は『独島の民族領土史研究』(1996・知識産業社)の単行本化にあたって、愼鏞廈氏本人の論文「朝鮮王朝の独島領有と日本帝国主義の独島侵略」(『韓国独立運動史研究』3、1989)を再録したもののようです。
この1989年の論文には直接に当たれませんでしたが、この段階で、すでに「望楼の一覧表」も作られていたものと思います。
この愼鏞廈論文には、上記の『極秘明治三十七八年海戦史』も随所に引用されており、なかなか緻密な研究です。pacifistさんの紹介された、「対馬」や「橋立」の報告も引用されています。
でも、結論は恣意的で、むちゃくちゃです。すなわち、「日本は日露戦争の戦略上の必要から独島を侵奪した」という妄説は、どうやら愼鏞廈氏に淵源するようです。
これとほぼ同じ文章がネット上にあります。
愼鏞廈「日帝の 1904~5年 独島侵奪試図とその批判」 (1997?)
http://i815.or.kr/media_data/thesis/1997/199712.html
この愼鏞廈論文は、まだ日本語訳されていないと思われますが、前記の、金柄烈『史的検証竹島・独島』「日本の軍事的要請による独島編入」(158~184p)は、韓国側の「妄説」の内容を知るには、役にたちます。
これを、史料をあげて、しっかり批判しなければいけないと思います。
matsu様
ReplyDeleteいつもながらの鋭い分析に敬意を抱きます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
matsu様、他の皆様
ReplyDeleteこの場を借りてお願いがあります。(話題が全く違いますがご容赦ください。)
在韓萩原代理公使から桂外務大臣への、1905年(明治40年)10月17日発『第384号』という文書の原文を探しているのですが、なかなか見つかりません。
http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10005290481.html
どなたかご教示くだされば幸いです。
とりあえず、『在韓日本公使館記録』ぐらいしか、思いつきませんが、
ReplyDelete「384」という番号は、たとえば『日本外交文書』なんでしょうか。
外交史料館にある文書には、「384」というような番号はないのではないかと思います。
1905年(明治40年)は、当然、1905年(明治38年)ですよね。
これはdreamtaleさんの間違いですが。
それから、この文体だと、原文は、漢字カタカナだと思います。起こしたのはdreamtaleさんご自身?
matsu様
ReplyDelete仰るとおり、明治38年の間違いですね。カタカナをひらがなに起こされたのはdreamtaleさんご自身だと思うのですが確証はありません。
この「384」という番号は同ブログで紹介されている明治38年10月11日の「374」と考え合わせると韓国からの公電の通し番号ではないかと思うのですが、外務省の文書をあたっても出てこないので困っています。この原文が見つかれば、大きな発見だと思うのですが。
matsu様
ReplyDeletedreamtale氏自身がこう書いておられました:
「さて。
前回は、アジ歴等で見つからずにこれまで漏れてた史料について、『駐韓日本公使館記録』の電信控を基に書き起こしてみました。」
http://ameblo.jp/dreamtale/entry-10142367289.html
同ブログでアジ歴からのものとして紹介されている文書は「1894年(明治27年)7月6日発『電送第301号』より」とありますから、あの文書も『電送第384号』と考えられます。