竹島問題の歴史

15.5.14

The Diplomat: "The ICJ and the Dokdo/Takeshima Dispute"

The Diplomat has a pretty Good Article on the Dokdo/Takeshima Dispute, where I just posted the following comment:

This article is a good and fair summary of the current situation with the Liancourt Rocks dispute, but it seems to be trying too hard not to offend either Japan or South Korea. Fortunately, I do not have to worry about that.

The reason Korea refuses to take the Liancourt Rocks dispute to the International Court of Justice is that Korea knows it has little to no evidence to support its historical claim to the Rocks and that Japan has a great deal of evidence to support hers. Moreover, the 1951 Treaty of Peace with Japan recognized Japan's claim to the Rocks by not including them among the territories to which Japan gave up claim, as was confirmed in a Top Secret, 1954 report by President Eisenhower's Special Ambassador to the Far East, General James Alward Van Fleet, in which the General wrote the following:
"The Island of Dokto (otherwise called Liancourt and Take Shima) is in the Sea of Japan approximately midway between Korea and Honshu (131.80E, 36.20N). This Island is, in fact, only a group of barren, uninhabited rocks. When the Treaty of Peace with Japan was being drafted, the Republic of Korea asserted its claims to Dokto but the United States concluded that they remained under Japanese sovereignty and the Island was not included among the Islands that Japan released from its ownership under the Peace Treaty. The Republic of Korea has been confidentially informed of the United States position regarding the islands but our position has not been made public."
The South Korean claim that there is no dispute with Japan over Liancourt Rocks is ridiculous, especially when the South Korean government has been refusing to meet with Japanese officials because Japan publicly claims the Rocks.

South Korea currently occupies Liancourt Rocks and knows that Japan will not use military force to retake the them, so why is South Korea making such a fuss over the Rocks and using the dispute as an excuse not to improve diplomatic and military cooperation with Japan? That is the question the United States should be asking itself and South Korea. The answer may be that South Korea wants to keep its options open with both China and the United States.

By feigning outrage with Japan over Liancourt Rocks, South Korea may be hoping to ease Chinese concerns of a possible South Korea-Japan military alliance while also using the dispute as an excuse for rejecting US requests to form a closer alliance with Japan. In other words, Korea seems to be using its old strategy of trying to remain neutral by playing off against great powers. I think South Korea should reconsider such a strategy, especially since it did not work last time.

106 comments:

  1. 別件で申し訳ありません。ご存知の方がいたら教えてください。

    「リヤンコルド島略図」という竹島の地図が「国立公文書館アジア歴史センター」の資料にありました。

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C05110082900?IS_KIND=MetaDetail&IS_STYLE=default&

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C05110082900?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%89&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C05110073200?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2006090101395194179&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
    6コマ/6


    第六十五号 「リヤンコルド」島略図 山中少佐同島視察報告附録※地図※
    作成者名称 山中少佐

    「極秘 明治37.8年海戦史 第1部 戦紀 巻10.11付表及付図」(防衛省防衛研究所)」
    とあります。

    「山中少佐」とは誰で、「同島(リヤンコルド島)視察報告」が、いつ行われた、いかなるものなのか、ご存知の方がいたら教えてください。


    「アジア歴史センター」の
    http://www.jacar.go.jp/

    検索に「リヤンコルド」を入れると出てきます


    ・・・・・・・・・・・・・・・
    「極秘 明治37.8年海戦史」というのは、海軍軍令部編『明治三七八年海戦史』とは違う別の史料のようで、戦後、焼却を免れ、明治天皇に提出された1セットだけが残っているようです。

    http://www3.ocn.ne.jp/~y.hirama/yh_ronbun_nichiro_meiji37.htm
    解題 海軍軍令部編『明治三七八年海戦史』の資料的価値

    本書の原典となったのは『極秘明治三十七八年海戦史(極秘海戦史)』である。この資料は日露戦争後の1905(明治38)年12月から編纂に着手され、1911(明治44)年までに150冊が完成した。一般に公刊されることはなく所要の向きに配布されたが、終戦時にほとんどが焼却され、明治天皇に提出された1セットだけが奇跡的に処分を免れた。現在「千代田文庫」として防衛研究所戦史部に保管され、閲覧も可能である。

    『極秘明治三十七八年海戦史』の目次と冊数
    第1部 戦記(本文11冊 別冊―付図付表及び備考文書6冊)
    第1編 開戦前一般ノ状況及ヒ開戦(巻1)
    策2編 旅順口及ヒ仁川の敵艦隊ニ対スル作戦(巻2―巻7)
    第3編 陸軍トノ共同作戦(巻8―巻9)
    第4編 浦塩斯徳港ノ敵艦隊ニ対スル作戦(巻1―巻11)(引用者注 巻10カ)(以下略)

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  3. 明治37年11月20日の対馬艦による調査

    対馬艦長 仙頭武央海軍中佐
    ・・副長 山中柴吉海軍少佐

    http://dokdo-takeshima.jp/wordpress/wp-content/images/tsushimadoc8.jpg

    http://dokdo-takeshima.jp/japans-takeshima-x-files-ii.html

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  4. 変なリンク先で済みませんでした。

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushimawarship-1904/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/08.jpg

    (明治三十七年)十一月二十日(日)自欝陵島至「リヤンコルド」
    AM BC ? 0-1
    PM BC W 1 30.33 30.24 61 55
    午前七時二十分「リヤンコルド」島ニ到着 漂白シ副長
    少佐 山中柴吉  軍医長大軍医 今井外美太郎ヲ視
    察ノ為メ派遣ス
    十時五十五分 副長軍醫長 帰艦 隠岐ニ向ケ航進ヲ
    起ス 午后七時八分別府湾ニ入港 試験係官 樺剛
    退艦ス

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  5. 小嶋日向守さま

    どんぴしゃりですね。
    ありがとうございました。

    明治37年11月20日の対馬艦による調査
    副長少佐 山中柴吉  

    「竹島」という名前を使わず、「リヤンコルド」なので、この時期とは思いましたが、
    「対馬艦」の「副長少佐 山中柴吉」という名前は思い至りませんでした。
    ありがとうございます。

    中井養三郎がりゃんこ島の領土編入を願い出たのが、明治37年9月29日。
    編入の閣議決定が明治38年1月28日。

    その間に調査していたことになりますね。
    日本がはじめて作った科学的測量による竹島の地図でしょうか?


    中井養三郎のwikipediaに
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E9%A4%8A%E4%B8%89%E9%83%8E

    中井が『りゃんこ島領土編入並に貸下願』に描いた竹島図

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%95%E9%A4%8A%E4%B8%89%E9%83%8E#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ryanko_Shima_Ry%C5%8Ddo_Henny%C5%AB_Narabi_ni_Kashi_Sage_no_H%C5%8D%2C_Shimane_Kenmin_Nakai_Y%C5%8Dzabur%C5%8D_Yori_Negai_De_no_Ken._Page_4.jpg

    というのがありましたので、おおまかな図は、すでにあったことになりますが。

    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/teikokuhanto-1904/

    さすがに、ずいぶん違います。

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  6. 『軍艦対馬戦時日誌』
    田中邦貴さんのサイト、コピペします。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tsushimawarship-1904/


    表紙
    01 02 03 (明治37年10月)
    04 05 (明治37年11月12日 軍艦対馬は対馬海峡を哨戒中)
    06 (明治37年11月13日 竹敷にいる旗艦笠置から訓令を受ける)
    ________________________________________

    機密第275号を受領した内容は次の通りである。
    仙頭武英/対馬艦長に訓令(明治37年11月13日 竹敷にいる旗艦笠置から)
    一、 旗艦は下記の各所に派遣人員、材料などを降ろした後、そこを出発し、下記の任務を遂行する事。そして各地から艦隊に復帰する順序、日程等は担当者と協議、決定し、その予定表を報告する事。
    (イ) 高崎山無線電信所の通信試験を行い、当関係者を運送する事
    (ロ) リアンクル島は電信所(無線電信所ではない)設置に適するかどうかを視察する事
    (ハ) 松島、竹辺、蔚崎の各監視所への材料と人員を運送する事
    二、 前項(ハ)の監視所への人員及び材料等は明日14日の朝に青龍丸にて到着する。高崎山の無線電信所に向かう試験関係者は明後日15日朝に到着予定。

    07 (しかし、松島[=鬱陵島]ほか各監視所へ送る人員や物資は天候不良の為、14日、15日にこれず、軍艦対馬の出発は遅れることとなった)

    08
    11月19日 09時20分 竹辺から松島(現在の鬱陵島)に向け出発。16時20分、鬱陵島に到着し望楼資材を陸揚げ。
    11月20日 07時20分 リアンコルド島に到着。副艦長/山中柴吉少佐と軍医長/今井外美太郎大軍医らが上陸
    11月20日 10時55分 副艦長、及び軍医長ら帰艦。隠岐に向け出向

    09
    11月21日 19時08分 別府湾に寄港。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    最後の「別府」は大分ではなく、隠岐の島前の港ですね。

    11月20日、午前7時20分から10時55分までの間に、この地図を作ってしまったことになりますね。

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  7. この11月20日を前後して、島根県内務部長が隠岐島司に問い合わせをし、これに隠岐島司が回答しています。

    川上健三『竹島の歴史地理学的研究』47~48pに翻刻されています。

    対馬艦にリヤンコルド島視察命令が出た(13日)直後の15日に、島根県内務部長が隠岐島司に問い合わせをしていることになります。

    庶第一〇七三号(注17)
    周吉郡西郷町中井養三郎ヨリ領土編入並ニ貸下ノ件、別紙之通出願ニ付、目下調査中之趣ニ候処、弥々所属ヲ定メラルル場合ニ於テハ、隠岐島庁ノ所管トセラルルモ差支ナキ御見込ニ候ヤ。島嶼ノ命名ニ付、併セテ御意見承知致度、此段及照会候也。
    明治三十七年十一月十五日    島根県内務部長 書記官 堀信次    
    隠岐島司 東文輔殿

    乙庶第一五二号(注18)
    本月十五日、庶一〇七三号ヲ以テ、島嶼所属等ノ義ニ付、御照会之趣了承。右ハ我領土ニ編入ノ上、隠岐島ノ所管ニ属セラルルモ何等差支無之。其名称ハ竹島ヲ適当ト存候。
    元来、朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スルハ一般口碑ノ伝フル所、而シテ従来当地方ヨリ樵耕業者ノ往来スル欝陵島ヲ竹島ト通称スルモ、其実ハ松島ニシテ、海図ニ依ルモ瞭然タル次第ニ有之候。左スレハ、此新島ヲ措テ他ニ竹島ニ該当スヘキモノ無之、依テ従来誤称シタル名称ヲ転用シ、竹島ノ通称ヲ新島ニ冠セシメ候方、可然ト存候。此段及回答候也。 
    明治三十七年十一月三十日   隠岐島司 東文輔   
    島根県内務部長 書記官 堀信次殿

    注17、18 島根県隠岐支庁文書綴

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  8. 軍艦「対馬」は1904年2月14日就役、とありますから、新鋭艦ですね。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E9%A6%AC_(%E9%98%B2%E8%AD%B7%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6)#mediaviewer/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_cruiser_Tsushima_in_1905.jpg


    「艦名は日本と朝鮮半島との交易の要衝であった対馬に由来。」とあります。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%AB%98%E5%9E%8B%E8%BB%BD%E5%B7%A1%E6%B4%8B%E8%89%A6

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  9. 軍艦新高の行動日誌によれば、明治37年9月24日とおもわれるころに松島(鬱陵島)を出港して帰還の途につき、25日に竹敷(対馬にあった基地)に着いています。帰港後の25日付けで整理した「リアンコルド」の情報が書かれていますが、鬱陵島で聴取した情報だけで、略図も簡単です。現地には行っていないことが分かります。鬱陵島の東南望楼から望遠鏡で遠望した竹島が描かれているので、この時は見えたようです。
    これは中井養三郎が請願を出す直前の日付ですが、すでに中井は東京で各地に運動していたので、「リャンコ」の情報が政府としても欲しかったため、海軍に調査をさせているのだと思います。
    そして2か月後の11月20日に、対馬艦が実測した、という段取りになると思います。

    田中邦貴さんのサイト(コピペ)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    軍艦新高行動日誌
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/03.jpg

    表紙
    01 (明治37年9月 軍艦新高戦時日誌)
    02 25日(月) 松島でリアンクルド岩の実見者から聞きだした情報
    03 04 05
    ________________________________________

    リアンクルド岩は韓人は独島と書き、我が国の漁夫はリャンコ島と呼んでいる。添付した略図で分かるように、ふたつの岩島で西島の高さは約400尺で傾斜がきつく登るのに難しそうだが、東島は比較的に低く雑草が生え、頂上には平坦な所があり、二、三つの小屋を建てられそうだ。
    東島の東側の洞窟のようなくぼみに真水が出る。また南側のB地点の水面から三間ほど離れた所に湧き水が出る。その湧き水は西側に流れていくが、その量はかなり多く年中枯れる事はない。
    西島のC地点もやはり真水がある。島の周囲には岩が散らばっており、岩はだいたい平たく大きいものはゴザを数十枚置ける。常に水面から露出している。毎年この岩に群集するものがある。二島の間の所に船を横付けするには十分な広さがある。小船なら陸に揚げて泊める場合が多い。
    嵐がきつく船を泊められないような時は、大体松島で風が静まるまで非難しているらしい。松島から毎年猟にやってくる人は六十から七十石積の日本の船を使うらしい。島の上に仮の小屋を建てて十日間ほど滞在するが、稼ぎが相当なものらしい。また漁夫もたまには四十名から五十名を超える時もあるらしいが、真水の不足をどう補っているかは報告されていない。そしてまた、今年になって数回ここに来たが、6月17日にロシアの軍艦が三隻この付近に現れ、周辺をしばらく漂泊していたが、北西の方向へ航行するのを実際に見たものがあるという。

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  10. 例の嘘吐きカナダ人の出鱈目な翻訳は迷惑至極。
    山中少佐は、明治三年(1870年)生まれなので、満34歳で、間違っても19歳ではありません。翌年二月に中佐に昇進しています。

    日本海開戦時は、第三艦隊司令部 旗艦二等巡洋艦厳島の参謀です。 (ウィキペディアで「日本海海戦における連合艦隊幹部」)
    三等巡洋艦対馬の軍医長、今井外美太郎の「大軍医」は大尉相当です。

    対馬艦の日誌もきちんとテキスト化と翻訳しなければいけないですね。

    二十日の日誌だけ起こしましたが、
    漂泊の泊を白に誤変換してしまいました。漂泊に訂正します。
    それと、
    Фに横棒を加えた方位記号?のような文字がわかりません。

    ちなみに、
    北緯37.238665度、東経131.866751度として
    1904年11月20日の竹島(リヤンコルド)の日の出は
    日本標準時で、午前6時56分です。

    天候は、前日の19日は対馬の厳原で9.5ミリの雨が降りましたが、
    この二十日は降雨はありません。

    国会図書館デジタルコレクション
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831723
    中央気象台月報 明治37年10−12月

    気象庁過去の気象データ検索
    http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php

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  13. 1904年10月21日から1904年10月28日までの対馬艦日誌を原文の字体を尊重して起こしました。

    (明治三十七年)
     十月二十一日(金)竹敷
      AM BC ⊕ 0-1
      PM BC NNW2-1  30.11 29.96 71.62
    炭水補充
    午后一時三十分 髙千穂哨区二向ケ出港
    午后一時五十分 浪速尾崎ニ囬航 二時四十五分 千早哨區
    ヨリ入港
    本日午后十時 第二戰隊ハ八雲ヲ哨區ニ残シ他ハ皈
    途ニ就ク

     十月二十二日(圡)竹敷
      AM B NW 4-2
      PM BC NN-W 1  30.25 30.14 59.52
    本日他艦舩火災操練信号兵喇叭稽古ヲ施行ス
    午前七時十五分 新髙大連ヨリ入港
    四戰機密第二五九號ヲ受領ス要㫖左ノ如シ
    仙頭對島艦長ニ與フル訓令 三十七年十月廿二日 於尾崎 旗艦笠置
    貴艦ハ明二十三日迠便冝出港 二十四日午前 松島ニ ※(ママ)
    ニ着シ仝望樓増築工事ニ従事セル諸員ヲ
    収容シ尚ホ竹濱及蔚嵜ニ寄港シ仝望樓増
    築工事ニ従事セル諸員ヲ収容シ帰港スヘシ

     十月廿三日(日)自 竹敷 至 欝陵島
      AM. BC NE 2
      PM. BC NE-SW 1-2 30.32 29.22 62 50
    体格検査
    午前九時三十分 松島方面ニ向ケ竹敷出發

     十月二十四日(月)欝陵嶋 附近
      AM BC SW 3-4
      PM BC NW 4-1 30.29 30.14 65.61
    午前七時松島東望樓ニ接近漂泊シ第一第二「カッター」ヲ
    卸シ人夫収容ニ着手ス 風強ク波髙キノミナラス舩(フナ)ツキ
    悪シキ為メ非常ナル困難ヲ以テ十時半辛フシテ
    収容ヲ了シ西望樓ニ向フ 十一時二十五分西望樓ニ
    接近シ第一第二「カッター」第二傳馬舩ヲ卸ロシ人夫
    収容ニ着手ス 正午右結了 竹辺湾ニ向ヒ進航ヲ
    起ス
      松島ニニ収容セシ人夫
       東望樓 二十三名
    西望樓 十八名    }計 四十一名
    午后五時竹辺湾着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫
    二十二名 技手一名 ヲ収容シ 午后六時蔚﨑ニ向フ

     十月二十五日(火)自蔚﨑 至 竹敷
      AM UC SE-NW 1
      PM BC NW 1 30.26 30.14 70.61
    午前八時半蔚﨑着 第一第二「カッター」ヲ派遣シ人夫十
    三名ヲ収容シ 九時四十分竹敷ニ向フ 午后六時 竹敷入港
    在泊艦舩
    (尾﨑)出雲 吾妻 八雲 髙千穂 安平丸 一、三号砲
      艦 六十七号艇 鴻 鷗
    (竹敷)浪速 千早 二、四号砲艦 第十一艇隊 第十七
      艇隊

     十月廿六日(水)竹敷
      AM BC⋖⊕ U-1
      PM B ⊕ U-1 30. 23 30.15 66.58
    午前七時千早哨区ニ向ケ出港 春日丸哨區ヨリ入港午后
    零時五十分浪速哨區ニ向ケ出港 仝時本艦尾﨑ニ回航
    --------------------------------------------------------------------------
    ※(二十六日後半・二十七日前半の日誌の一部が欠損しているようです)
    ------------------------------------------------------------------------
    三時笠置哨区ヨリ竹敷入港
    本日砲術練習號ヲ施行ス

     十月廿八日(金)尾﨑
      AM BC ⊕0-1
      PM UCR NWW1-2 30.23 30.18 66.57
    午后一時哨區ニ向ケ尾﨑出港
    本日砲術練習號内筒砲射撃ヲ施行ス
    千早ハ本日午后C哨區ヨリ修理ノ為メ佐世保ニ赴ク
    釜山蔚崎間電信本日開通

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/02.jpg
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka38/tsushimawarship-1904/03.jpg
    国立公文書館アジア歴史資料センター 軍艦対馬戦時日誌(5)
    https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C09050402800?IS_STYLE=default&IS_KIND=SimpleSummary&IS_TAG_S1=InfoD&IS_KEY_S1=%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E6%88%A6%E6%99%82%E6%97%A5%E8%AA%8C&IS_LGC_S32=&IS_TAG_S32=&

    12~17齣目

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  14. 小嶋さま

    対馬艦の日誌、起こしありがとうございます。

    日露戦争の最中の活動であり、やや微妙な資料ではあると思いますが、
    公開されているものであり、日本人もきっちりと知っておく必要があると思います。

    竹島の調査の時に軍医が派遣されているのは、理化学的な調査が出来る人材、ということだったのでしょうかね。

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  15. ブログ形式では、小嶋さんやmatsuさんの翻刻や訳が埋もれてしまってもったいないですね。
    資料集みたいなサイトを立ち上げようかとも思ったのですが、今は時間がとれないです。

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  16. 遅レス失礼しました。
    竹島問題のように、集合知としての研究が有益な事柄に関しては、誰かが少しずつ資料をテキスト化し、ネット上に出しておくことが役立つと信じています。

    この時期の対馬艦などの戦時日誌が何の役に立つかと言うことですが、たとえば、
    「竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍がいつ撤収したか」を確認することは、
    2008年に、当サイトで検討した、下記の件に関わります。この件に関しては、新暦・旧暦の記述ミスの確認に役立ちそうです。

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/11/1906-02-26-417.html
    內部來去案(奎No.17768) 第1冊, 光武10年2月26日條
    江原道觀察署理春川郡守李明來から「第16号報告書」を受けた。その内容は次の通り。
     先月十三日(グレゴリオ暦1906年1月13日)に蔚珍郡守尹宇榮の報告を受けた。それによれば、蔚珍郡近北面竹邊浦の望楼に駐留していた日本海軍が最近撤収したが、12月27日.......(以下略)

    また、対馬艦日誌の
    明治三十七年(1904年)十月廿八日(金曜日)尾﨑
    「釜山蔚崎間電信本日開通」

    という記述は、本日2014年5月29日に読売新聞で報道された、
    http://www.yomiuri.co.jp/national/20140529-OYT1T50104.html?from=ytop_main8
    「竹島、最古の写真…1906年撮影、松江で発見」
    という記事の研究と無縁ではありません。記事の視察団の日程記録をまとめると、

    明治三十九年(1906年)3月22日 視察団45名 松江出発
    明治三十九年(1906年)3月27日朝 竹島へ到着
    天候悪化により
    明治三十九年(1906年)3月27日中 鬱陵島へ移動

    この記事に用いられた船舶は、228トンの船ということですから、この時期に島根県職員らが同乗した船ですから、汽船であると思うのですが、もし木造帆船であったとしたら、あいのこ船でしょう。大きさは、弁才船でいえば、1500石積の船と言うことになります。

    さて、この日の天候悪化状況がどんな程度のものであったかを、気象記録から確認したいと思っても、この時期の朝鮮の気象記録が調べられないのです。

    韓国気象局の記録では、おおむね1915年以降の記録しか載っていません。早い記録があるところでも1910年頃からです。
    記録によれば、韓国最初の近代的気象観測施設である臨時観測所が設置されたのは、1904年3月で、1908年4月には、大韓帝国農商工部所属下に観測所が設置されているのですが、データが存在しないようです。

    したがって、日本側の気象観測記録から検証するしかありません。
    日本の中央気象台月報の 明治39年3月4月分
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/831731
    厳原は コマ番号 90/287
    原頁172~173
    濱田は コマ番号 123/287  
    原頁238~239
    境 は コマ番号 124/287
    原頁240~241

    または、気象庁過去の気象データ検索で、上記の三地名を選んで検索します。
    http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/index.php

    しかし、この時期の肝心の隠岐の西郷の気象記録はありません。

    天気は西から変化してきますから、朝鮮半島のデータが欲しいところです。そこで、
    以前にmatsuさんが話題にされた花房義質が、ここでも素晴らしい仕事をしていたことを思い出しました。

    19世紀末の朝鮮では、京城公使館で、花房義質公使らにより明治十四年(1881年)から近代的な気象観測が行われていて、記録されていたらしいのですが、初期の記録は、例の事件により公使館が焼き討ちされたときに失われてしまいました。残っているのは、15年間(1886-1900年)の分で、これは、アジ歴のデジタルライブラリーなどで一部調べることが出来ます。
    https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B12082122300?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=%E6%B0%A3%E5%80%99%E7%B5%8C%E9%A9%97%E9%8C%B2&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&
    氣候経驗録 明治三十三年

    しかし、明治三十三年(1900年)までのものしかありませんので、1904年と1906年の分は、京城のデータすらありません。(ロシア公使館の気象観測記録にも1890年代のものはあるようですので、ロシアに眠っているデータを資料発掘するという微かな期待は存在します。)

    ところが、電信の件でこんな資料が存在するのです。
    https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/MetaOutServlet?GRP_ID=G0000101&DB_ID=G0000101EXTERNAL&IS_STYLE=default&IS_TYPE=meta&XSLT_NAME=MetaTop.xsl
    自明治二十二年 我国気象予報及暴風雨警報之為メ釜山仁川元山ノ測候所ヨリ観測電報方朝鮮政府へ依頼の件
    アジ歴資料、B12082124200

    https://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B12082124200?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S1=B12082124200&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&
    コマ2にある「地甲第九号」などは興味深い記述です。

    つまり、1889年頃からは、朝鮮政府が釜山・仁川・元山に測候所を設置し、気象観測を開始し、日本は釜山電信局に依頼して観測を行わせ、電報によるデータ収集を行うようになっていたというのです。つまり、日本のどこかに、この時期の、釜山、ソウル近くの仁川、現在北朝鮮の元山の気象観測データが眠っている可能性があります。

    どなたか、見つけて下さい。

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  17. (昨日の讀賣の記事です)
    http://www.yomiuri.co.jp/national/20140529-OYT1T50104.html?from=ytop_main8

    最古の竹島写真…1906年撮影、視察の証拠に

    島根県・竹島を撮影した最も古い写真が、松江市内の額縁専門店で保管されていたことが同県竹島問題研究会の調査でわかった。

     韓国の不法占拠(1954年)より50年近く前の1906年(明治39年)3月に撮影されたといい、同研究会は「竹島の原風景を知る重要な史料」としている。

     同研究会によると、保管されていた店は明治以降の写真を多数収集しており、経営者が数年前に竹島の写真を見つけた。この情報を知った同研究会が今月、他の文献などから撮影時期を特定した。

     竹島は1905年に同県へ編入され、翌06年に県の視察団が実地調査。この視察に関する手記が残っており、同行した松江市の写真師が撮影していたことが判明した。竹島を北側からとらえ、左手前には漁師が休憩場所として利用していた穴のある岩があり、左奥に東島、右に西島が見える。

     別の同行者の記録などによると、視察団は県職員や、竹島でアシカ漁に従事していた漁師ら45人。06年3月22日に船で松江市を出発し、同県隠岐諸島などを経由して、同27日朝に竹島へ到着した。

     同研究会は、韓国関係者が06年以前に視察した記録はないとし、「韓国の不法占拠前に、日本の公的機関が竹島を視察していた証拠になる」と指摘している。

    (写真略)

    1906年3月に撮影された竹島の写真。中央に見えるのが「観音岩」とみられる(島根県竹島問題研究会提供)

    2014年05月29日 17時32分 讀賣新聞

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  18. 小嶋さん
    ありがとうございます。これは良いニュースですね。
    関連の記事です。

    産経新聞
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140529-00000103-san-soci
    http://news.yahoo.co.jp/pickup/6118216

    産経新聞
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140530-00000022-san-l32

    小嶋さんご紹介の記事
    読売新聞
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140529-00050104-yom-soci

    地元・松江の新聞
    山陰中央新聞
    http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.php?storyid=546152004

    産経新聞に、撮影者が「大野政助」と出ています。
    「大野政助」で引くと以下の論文に当たります

    島根県のサイト 杉原隆「中井養三郎の千島行」
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04-1/nakai-chishima-yuki.html
    ここに「写真撮影をまかされた写真技師 大野政助」の名前が出ています。


    また、以下に、明治39(1906)年竹島視察団記念写真(島根県立図書館所蔵)があります。
    島根県サイト 杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」 第18回 中井養三郎について
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g18.html
    これも「大野政助」が撮ったものです(奥原碧雲『竹島及鬱陵島』)
    奥原碧雲の本によれば、「大野政助」は前から2列目の一番右の丸顔の人物のようです。



    また、同じ明治39(1906)年竹島視察団で鬱陵島に行ったときに「大野政助」がとった写真に、鬱島郡守の「沈舜澤」が写っています。

    島根県サイト 杉原通信「郷土の歴史から学ぶ竹島問題」 第19回 鬱島郡守沈興澤と島根県調査団
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/sugi/take_04g19.html

    私が沈舜澤の「顔かたち」を知ったのは、これが初めてでした。
    この2枚の写真には、島根県第三部長の神西由太郎と隠岐島司の東文輔も写っています。

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  19. 朝日新聞が追っかけてますね。

    http://www.asahi.com/articles/ASG5Z4V2LG5ZPTIB00J.html

    「産経」「読売」VS「朝日」「毎日」「共同」が激しいこの頃ですが、
    竹島ではオールジャパンになれるんでしょうか。

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  20. 判読が決定できない「指令第三号」という史料。
    沈興澤といえば、それに続いて発せられた、大韓帝國議政府の指令第三号というものがあります。実はあの文書の内容に関しては、どうしても読めない文字があるのです。
    ■はハングルで、●が漢字です。

    http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/pic_q101b.jpg

    指令第三号
    來報■ 閱悉이고 獨島●地
    之說은 ●屬無根■니 該
    島 形便과 日人 如何 行動
    을 更爲査報 ■事

    韓国外務省の判読が「正式」なものだという理解になるのでしょう。それによれば以下のようになります。
    http://dokdo.mofa.go.kr/jp/include/print_faq.jsp?class_faq=q10

    指令第三号 來報■ 閱悉이고 獨島領地之說은 全屬無根■니 該島 形便과 日人 如何 行動을 更爲査報■ 事

    朝鮮文字のフォントが存在しないので、■とした三文字は、画像で嵌め込まれています。
    ハングルは、画像の文字で良いとしても、●として漢字二文字の判読は、「領」と「全」と判読されています。

    しかし、この判読はすんなり受け入れられるものではありません。

    なぜなら韓国人の研究者によっては、「便」と「令」と判読して、
    指令第三号 來報■ 閱悉이고 獨島便地之說은 令屬無根■니 該島 形便과 日人 如何 行動을 更爲査報■ 事

    としている人も多いからです。インターネットのサイトの例では、
    http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=finetree_&logNo=100173120829
    http://windows2012.bakufu.org/takeshima6d.htm
    GTOMRさんのサイトの判読も此方の説を採っています。

    指令第三号の「令」と、本文二行目上から四番目の、一見すると、「全」のように見える文字が、「指令」の「令」と同じ字だと判読しているわけです。

    「指令第三号」の「令」は上下の繋がりから「令」であることが確実で、この文字は、∧の下に「3」か「ろ」のような文字で崩して書いてあります。「令」の下側を「ヽ」を書いてから「マ」と書く書き方は、現代の日本でもごく一般的であり、草書では「3」または「そ」あるいは「ろ」と崩すのが自然ですから、この文字は「令」で問題ありません。

    一方、本文二行目の「全」のような文字も同じように、∧の下に「3」か「ろ」または「る」のように書かれています。一般的には、「全」の下の「王」という字を崩し字で、算用数字の「3」か「ろ」のような書き方で崩すことはあまりないので、その点では、「令」の可能性が高いと考えられます。しかし上から下に「一」「の」「一」と一筆で続けて書くように崩すことは間々あることなので「全」である可能性も排除できません。「∧」の一画めで上に撥ねていますから、「令」とは別の書き方の文字であると考えてみると、むしろ「全」と断定して良いようにも思えます。

    次に、「領地」なのか「便地」なのか迷って、よくわからない本文一行目下から二番目の文字の判読についてです。
    一見すると、この文字は、にんべんに「天」または「更」のような文字に見えます。これが領地の「領」であるなら、「イ」のように見える偏は、にんべんではなく、指令第三号の令でなければなりません。しかしそう見えるでしょうか。∧の下に「3」というよりは
    「ノ」の下に縦棒のようにも見えます。

    http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/pic_q101b.jpg
    次のpdfの写真の方が幾分鮮明です。
    http://ds5ean.byus.net/img/6jpn.pdf

    この文字を判読するヒントとして、「便」の文字がもう一箇所あります。
    本文三行目の「島形便」という「便」の字は、あきらかに人偏で、旁は、「吏」のようにも見えますが、上が出ていないので「更」であり、この文字は「便」と断定できます。

    この本文三行目の「便」の人偏と、本文一行目の「領」かもしれない文字の偏は、よくよく注意してみると、「指令第三号」の「令」と同じ崩し方のようにも思えてきます。それでは旁の方は、どうでしょうか。「而」の下に「人」とかいてあるように見えますから、そう考えて見てみると、これは「頁」の崩し字である可能性が高くなります。
    しかし、断定は出来ません。

    大事な文書なのに、なぜもう少し読みやすい字で書いてくれなかったのかと思います。
    判読の完全な解決には、この同じ書き手による、別の文書との比較検討しかありません。
    ついで乍ら、1906年5月20日付とされている日付も「五月廿日」というよりは、「五月十日」のように見える良くわからない文字です。

    韓国側の史料判読の「甘さ」が残る「苦い」一例です。

    あの三文字のハングルも、現代のハングルではどう置き換えればよいのでしょうか。

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  21. 「更」に関しては、本文四行目の「更為」の「更」は、三行目の「便」の旁の「更」とは違う書体の崩し方で、「る」の下に「み」または「又」、「ゐ」と続けて書いたような崩し方ですが、これは明らかに「更」の崩し字と断定できます。
    しかし、この文字は「更」の縦棒が途中で切れていますから、一行目の「領」の旁の「而」の下に「人」と書いてあると判断して「頁」とした文字のようでもあるので、一行目の「領」を「便」と判読している研究者の考え方にも一理あるのです。

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  22. 來報는 閱悉이고 獨島領地之說은 全屬無根하나 該島 形便과 日人 如何行動을 更爲査報 할 事
    來報는 閱悉이고 獨島領地之說은 全屬無根하니 該島 形便과 日人 如何行動을 更爲査報 할 事
    来た報告はすべて読んだ。独島が(日本)領土になったとの説は全く根拠がなく、島の状況と日本人がどのように行動したかを再び調査報告する事
    3つのハングルは、現代ふうに書けば上記で良いと思います。
    全屬無根のあとを「하나」と読む説と「하니」と読む説があります。横棒があるのかないのかよく見えません。
    前者は「であるが」、後者は「なので」。

    この「獨島領地之說은 全屬無根」ですが、「日本」という言葉は原文にはありません。

    したがって、理論的には

    独島が「韓国」領土であるとの説は、全屬無根であるが(全屬無根なので)

    とも読めるのではないかと思っています。「石島」はいざしらず、「独島」という名称の島が朝鮮(あるいは大韓帝国)の領土であるということを書いた文献は、それまでに朝鮮(あるいは大韓帝国)にはありません。報告を受けた中央官庁は、それを問い質しているのではないでしょうか?
    ただし、このことを報道した新聞に「日本属地」とあるのが、この読み方の弱点です。

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  23. 御承知かもしれませんが、読売新聞の記事が英語で出ていました。

    Oldest photo of Takeshima found
    http://the-japan-news.com/news/article/0001316262

    4:24 am, May 30, 2014
    とありますから、日本語の記事が出たのを、英語でもすぐに発信したようですね。

    The Japan Newsというのは読売新聞の英語版のようですね。

    ただ、この記事にはDokdoという単語が全く入っていないので、意外と目に触れない(検索されない)かもしれないと、逆に思いました。こういうときには、かえって入れておいた方が良いのではないかと思います。

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  24. matsu樣
    早速のハングルの御教示とコメントに感謝します。
    漢字のほうですが、一日考えましたがやはりわかりません。
    この史料をもし自分一人で読んだとしたら、深く気にせずに、「領地」と「全属」として大して悩まなかったのではないかと思うのですが、「便地」と「令屬」と判読している研究者がいらっしゃることを知って、数年前から気になっていたのです。
    しかし、まだどうもすっきりしません。
    便地のほうは、誤読だとしても、「全属無根」というような言葉の使用例が漢籍などで、どこかに存在するのでしょうか。あるいは、「全属」とは、吏讀のような朝鮮漢文独特の言い回しなのでしょうか。

    「領地之説」とすれば、それは日本側が伝えてきたことに対する回答ですから、日本側の帰属に関する法令、というものに対する「令属」は無根だという解釈もありなのではないかという気がしてきました。

    しかし、だとすれば、独島領地之説というのが不自然です。
    日本竹島領地之説当然至極なのですが。(笑い)

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  25. 原文の影印を見て、これまでの翻刻を疑ってみる、というのは、とても大切な姿勢だと思います。

    ただ
    獨島便地之說은 令屬無根
    となると、どう読み下すんでしょうか?

    沈舜澤報告に対応する指令として、「便地」の意味が良くわかりません。

    令屬無根は無根に属せしむ?
    全属無根、すなわち「全く無根に属す」で意味が通るようにも思います。

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  26. なるほど。韓国人研究者の誰かが、令属と判読してそれが一部で拡散しているだけなのかもしれません。
    令属の判読は以下のサイトでも見受けられます。
    http://windows2012.bakufu.org/takeshima6d.htm

    https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home
    /koreanpropagandapdfdistorture/10-1905-02-22-incorpoted-of-takeshima-without-diplomatic-claims-from-korea
    GTOMRさんは日付も五月十日とされています。

    この「五月十日」に関してはどうでしょうか。
    画像を検索してみると、日付の部分がカットされているものが多くてよくわかりません。ようやく見つけた次の画像だと十日のように見えます。
    [TD] #04 1905年、日本の独島編入は無効 .
    https://www.youtube.com/watch?v=GDoK7gYZicU
    2分50秒のシーンの写真

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  27. 流れを読まずに別件です。

    chaamieyさんが翻訳して下さった半月城さんの『獨島研究』第12号の論文の下記の部分

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    また、内務部はホン・ジョンウォンが発掘した『帝国新聞』(1906.5.1)によれば、次のように訓令した。

    鬱島郡守沈興沢氏が内務部に報告したところでは、日本の官員一行が本郡に来島して戸口と土地を調査して言うに、鬱島は日本において占領したので調査するとのことで、内務部が訓令したところでは、日人の戸口調査は分からないでもないが、占領したという話は人を欺くものなので知り合いの日本理事へ交渉して処断せよとしたという。


    『帝国新聞』は「鬱島は日本において占領したので」と書いているが、『大韓毎日申報』(1906.5.1)が「独島之称云日本属地」と伝えたように、鬱島は独島の誤りだ。『帝国新聞』の記事はこのような誤認はあるが、その島を日本が占領したことは誣欺なことなので日本理事と交渉せよと訓令したことを伝えている。
    ーーーーーーーーーーーー

    ですが、この『帝国新聞』は韓国のでしょうか?探したのですが、分かりませんでした。どなたかご教示いただけないでしょうか?

    これ普通に考えてやっぱり大韓帝国は鬱陵島の占領だと勘違いして指令を出したけれど、「独島」が今の竹島で領土外だと判明したから抗議しなかったのではないかと思うのは私だけでしょうか?

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  28. This comment has been removed by the author.

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  29. 小嶋さま

    5月20日ですが、この資料の発見者である宋炳基が「5月20日」と読んでいるので
    間違いないと思っていました。彼の本の影印(白黒)を見ると「廿日」に見えます。

    ところが、李相泰『史料が証明する独島は韓国領』の197pにカラーの写真が載っており、これを見ると「廿日」の左のタテ棒は、後ろに写る印鑑の赤い色で、どう見ても字は「十日」だと思います。

    これまで20日説がほとんどだと思いますが、これは訂正されるべきでしょう。
    他の映像も確認したいです。

    https://www.youtube.com/watch?v=GDoK7gYZicU
    2分50秒のところを見ても、「廿日」の左のタテ棒は、後ろに写る印鑑の赤い色だと思います。

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  30. Kaneganeseさん

    お久しぶりです。

    これはホン・ジョンウォンという人が新たに発見した資料のようです。
    わたしもまだ見たことがありませんので、実物(影印)を見てみたいものです。

    島根県の調査団一行が鬱陵島の人口調査などを行なおうとしたことを、「日本の官人が鬱陵島を占領した」という誤解(誤報)が、どこかで生じていたことを表わす史料ではないかと思います。

    これは、内部での各新聞社の取材において、沈舜澤の報告内容と、内部の指令内容が、必ずしも正確に取材されていない、ということを表わすのものだと思います。
    いわゆる記者を通して伝わってくる情報が、錯綜している状態。

    内部は「記者会見」での公式発表などはしなかったでしょうから、それぞれの記者が、勝手にいろいろな人から聞いた情報を、そのまま記事にしている可能性があると思います。

    ReplyDelete
  31. kaneganeseさん

    >占領したという話は人を欺くものなので知り合いの日本理事へ交渉して処断せよとしたという。


    日本への抗議に全くためらいがないですね。抗議が出来たことの傍証になるのではないでしょうか。
    沈興沢の報告を掲載した大韓毎日新聞も発禁処分がなされてないと思います。これも弱いですが傍証の一つになるのではないでしょうか。

    ReplyDelete
  32. matsuさんもご存じないんですね。困りました。とりあえず、

    (注80) ホン・ジョンウォン「露日の鬱陵島侵奪と大韓帝国の対応研究」、『軍事』80号 2011 p59

    を手に入れることからでしょうかね。

    oppさん

    >日本への抗議に全くためらいがないですね。抗議が出来たことの傍証になるのではないでしょうか。
    沈興沢の報告を掲載した大韓毎日新聞も発禁処分がなされてないと思います。これも弱いですが傍証の一つになるのではないでしょうか。

    そうなのです。この資料は、その意味でも大変価値があるので、原文を探したいのです。

    小嶋さん、ちょっと内々にご相談したいことがあるのですが、差支えなければメールを頂けないでしょうか?私のIDにアットマークgmail.comを付ければ届きます。宜しくお願い致します。

    ReplyDelete
  33. Anonymous4/6/14 19:53

    [ 帝國新聞 ]


    1898年8月10日創刊、1910年8月2日廃刊
    所蔵処 ソウル大学図書館

    [ネイバー知識百科] [帝國新聞]
    http://terms.naver.com/entry.nhn?docId=548048&cid=1642&categoryId=1642


    韓末の代表的な民族主義的性格の日刊新聞で、原名は「チェグクシンムン」だ。 1898年8月8日に農商工部から新聞刊行の認可を受け、8月10日に創刊号を発行した。
    この時社長は資本金を単独出資したイ・ジョンイル(李鍾一)で、編集・製作はユ・ヨンソク(柳永錫)、イ・ジョンミョン(李鍾冕)、チャン・ヒョグン(張孝根)などが担当し、李承晩が主筆として活躍し、械機・鋳字などの施設はシム・サンイク(沈相翊)の支援を受けた。

    1903年に前軍部参書官であったチェ・ガン(崔岡)が運営資金を支援して一時社長に就任し、そのころにキム・ドゥヒョン(金斗鉉)が総務として、キム・サンヨン(金祥演)、チェ・ヨンシク(崔寧軾)などが記載員(今の記者)として活躍した。

    そして1907年以後には経営難を緩和して新聞事業を拡張するために、愛国啓蒙運動団体である西友学会会長だったチョン・ウンボク(鄭雲復)が編集主筆に就任し、記者では朴チョンドン、イ・インジク(李人稙)、イ・ヘジョ(李海朝)などが活躍した。

    漢陽洞に本社を置いたこの新聞は、開明・開化の最も良い手段、すなわち開化媒体を新聞だと考え、民族的な自主精神の培養と大衆の知識啓発という創刊趣旨の下、中流以下の民衆及び婦女子をその対象にした。
    編集体制はハングル専用で、創刊当時には今日のB4判型の半分の大きさ程度の2段制だったが、1904年以後にはB4版の大きさの4段制に拡大し、1907年からは6段制とより大きくなった。

    毎日4面が発行され、おおむね1面に論説、2面に官報代掲・雑報、3面に海外通信・広告、そして4面に広告がのせられた その他に、今日の読者投稿に当たる奇書が1面や3面に多くの紙面を占めてしばしば掲載された。
    発行部数は概して2,000部内外だったが、最も多く発行された1907年には4,000余部近くになったが、経営難の時は1,000余部程度しか発行されなかった。

    この新聞が発刊された時期は日本勢力が我が国の内政まで干渉した時だったが、そのような状況でも無能な政府と官吏の腐敗及び日本勢力の国権浸透に対して常に鋭く批判した。
    1904年2月23日に強制締結された韓日議政書に対しては「施政改正の忠告権は、結局、侵略の第一歩」と論駁して反対し、1905年11月には日本の御用団体である一進会に対し痛烈に論駁するなど民族紙としての面目を示した。
    これに伴い、日本当局が実施した事前検閲で記事が削除されたり停刊処分を受けることがしばしばあり、記者拘束事件も頻繁に発生した。
    このような新聞弾圧は、1907年に「新聞紙法」が制定されて保証金納付条項が新しく追加されたことによって一層加重され、その上にこの新聞は愛国情熱で経営面での利潤追求は全く考慮しなかったために常に運営難に苦しめられた。
    また、この時期は読者の認識も不足していて、購読料・広告収入などもきちんと入らなかったし、当時は交通・通信施設が不十分なために全国的な補給網を確保できないため経営難を克服できず、1907年9月20日から休刊することになった。
    これに対し有志と読者たちが義援金を送って「帝国新聞賛成会」が設立されて支援運動を展開したことによりその年10月3日に復刊されたが、1910年6月1日から再び休刊状態に入って結局8月2日に廃刊した。

    このように12年間刊行されたこの新聞の新聞史的意義は、同時期に少し早く刊行された≪皇城新聞≫が少数の漢字解読層を対象にした特殊層の新聞であるとすれば、この新聞はハングルだけを使い一般民衆を対象にした大衆新聞であったという点だ。
    すなわち、一般民衆と婦女子階層が簡単に読むことができたので、彼らを啓蒙するのに重要な役割を果たすことができたのだ。 特に、経営難で常に困難を経験しながらも果敢な論調で国権回復と民衆啓蒙機関としての役割を自認し、当時の新聞としては永く発行されたので国民啓蒙の実質的な力になった。
    さらに、ハングル使用の一般化で民族言語の発展にも大きく寄与したと評価される。 現在の創刊号から1907年10月22日付までソウル大学図書館などに所蔵されているが、脱落した部分が多い。

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  34. Chaamiey様

    ありがとうございました。
    『帝国新聞』は恥ずかしながら知りませんでした。

    >李承晩が主筆として活躍
    というのは、ちょっとびっくりしました。

    >中流以下の民衆及び婦女子をその対象
    とあり、李承晩には、やはりそんな面があるのか、と思いました。

    >ホン・ジョンウォン「露日の鬱陵島侵奪と大韓帝国の対応研究」、『軍事』80号 2011 p59

    は比較的新しい号ですから、図書館などでも入手できるのではないかと思います。

    OPPさま
    >日本への抗議に全くためらいがないですね。抗議が出来たことの傍証になるのではないでしょうか。

    これは素晴らしい指摘だと思います。

    実際に直後の竹辺ケースでは抗議・問疑をしているわけで、「抗議が出来なかった」という思い込みは「歴史歪曲」であることがよく分かります。
    「知り合いの日本理事へ交渉して」という物言いには、非常に近しい関係、それなりに何でも言える人間関係があったことを伺わせます。

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  35. うわぁ。また重要な史料ですね。韓国側が自らに有利だと思って出してくる証拠資料は、詳細に調べると日本側に有利な証拠となるという「法則」がまた働きそうな予感がします。

    その前に、「指令第三号」の話題を終了させたく存じます。

    matsuさま、「五月十日」の確認ありがとうございました。
    GTOMRさんがいらっしゃらないところで恐縮ですが、「指令第三号」の判読に関しては、
    「領地」と「全属無根」が正しく、日付に関しては、GTOMRさんが正しいということで、「五月十日」をこのサイトの「定説」に確定したいと思います。

    その根拠ですが、matsuさんによる、漢文としての意味・文法的説明と、私なりに調べた、現代中国語としての「漢文」に同様な使用例を見出したことによります。

    日本語では、「事実無根」という熟語を現在でもよく用います。しかし、現代中国語では、この表現は用いず、「不是事実」とか、「没有根据」と言うようです。

    しかし、二十世紀初頭の朝鮮に於いても、「無根」と書かれている熟語の意味は、漢字文化圏では容易に意味が通じる表現として、当然ながら、「根拠の無いこと」を意味します。

    問題は「全属」の方ですが、現代中国語で、全属の用例を調べてみました。
    そうしましたら、「このドラマはフィクションです」というような表現に、
    「全屬虛構」を用いるようです。
    同じような使用例では、
    「全屬虛幻」
    「全屬揑造」
    「全屬違法」
    抔という新聞の見出しもあって、
    「以上全屬臆測」という表現ならば、「以上はすべて憶測に属します。」という意味になるそうです。
    紛らわしい用例ですが、これは全て憶測ではなく辞書等で調べた事実です。(笑い)

    随いまして、matsuさんの解説のとおり、「全属無根」とは、
    「すべて根拠のないことに属する」という意味に解釈できるわけで、この「全属無根」の前の記述の判読として意味的に、「領地之説」の判読でなければならないことになり、「領地」も正しいということになるわけです。

    それから、五月二十日という日付に関して疑問に思って調べてみましたら、

    以前にも似たようなことがありましたが、予感的中しまして、
    光武十年五月二十日(1906年 5月 20日)甲子は、日曜日でした。

    朝鮮のグレゴリオ暦導入は、1896年1月1日からですので、それから十年も経った公文書に日曜日の日付というのは、やはり誤読と考えられますから、この点からも「五月十日」と決定できるわけです。

    明治三十九年五月十日(1906年 5月 10日)は、 甲寅で、木曜日でしたので首肯できます。

    因みに、1906年 5月 10日は、日本や朝鮮の旧暦では、四月十七日であり、ロシアでは、第1回国会が召集され、ロシア帝国憲法が発布された日で、ロシア暦では4月27日にあたります。
    もう一方の、1906年 5月 20日は、日本や朝鮮の旧暦では、四月二十七日であり、この日は、フランスで総選挙が行われ、クレマンソー率いる急進社会党が第1党となった日だそうです。

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  36. ホン・ジョンウォン「露日の鬱陵島侵奪と大韓帝国の対応研究」、『軍事』80号 2011

    ありました。

    홍 정원
    러ㆍ일의 울도군 침탈과 대한제국의 대응 연구

    http://www.imhc.mil.kr/user/imhc/download/gunsa/EEB03080N.pdf

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  37. 5.맺음말
    19세기 후반부터 러시아와 일본에 의한 울릉도 침탈이 본격화되었다.러
    시아는 울릉도 삼림벌채권을 획득하여 이를 경영하려 했고,일본인들은 울
    릉도에 잠입해서 불법적으로 벌채와 어업을 행했다.더욱이 일본은 1902년
    경찰관주재소까지 설치하여 일본인의 울릉도 거주를 기정사실화하려고 했
    다.이처럼 울릉도가 극심한 피해를 입고 있던 시기에 심흥택이 울도군수
    로 부임했다.그가 재임하던 동안은 일본의 독도 영토 편입도 행해졌기 때
    문에 이 시기에 대한 연구는 독도 연구에 있어서도 매우 중요하다.
    본고는 심흥택의 보고서를 중심으로 해서 러․일의 침탈이 행해지고 있
    는 울도군의 상황과 대한제국 정부가 어떻게 대응했는지를 살펴보았다.그
    주요 내용은 크게 세 가지로 요약할 수 있다.

    첫째,심흥택은 울도군에 도임하여 일본인에 의한 폐해가 극심함을 인식
    하고,1903년 4월 27일 일본 경부 아리마 다카요시(有馬高孝)를 만나 일본인의 벌채에 대해 항의하며 이를 금지시킬 것을 요구했다.군수가 직접 일
    본인에 대한 문제 해결을 위해 교섭을 시도했던 것이다.그리고 곧 일본
    경부와의 대담 내용을 상부에 보고하여 정부간 해결을 기대했다.
    보고를 받은 대한제국 외부에서는 일본공사에게 조회하여 일본인의 벌채
    문제에 대한 해결을 촉구했다.그러나 일본공사는 이를 해결하려 하지 않
    고,오히려 일본인들이 울릉도 개척을 도와주었고,일본 경찰관주재소 설치
    도 이미 울도군수에게 허락을 받은 사항이라며 책임을 회피했다.결국 울
    릉도에서의 일본인 문제는 해결되지 않고,그 침탈은 날로 더해갔다.더욱
    이 1905년 을사조약 체결 이후로는 울도군수가 일본인들의 울릉도 침탈을
    항의할 제도적 장치마저 사라져 버렸다.

    둘째,1903년 9월 러일전쟁의 전운이 감돌던 시기에 러시아 함선이 울릉
    도를 방문했다.이 함선의 대관은 병사들을 이끌고 울도군 관아를 에워싼
    상태에서 심흥택과 만나 대담을 나눴다.그 주요 내용은 울릉도에서의 일
    본인 벌목과 일본 경찰의 주재 문제였다.러시아 측으로서는 울릉도의 삼
    림벌채권을 획득했기 때문에 그 권리가 자신들에게 있다는 것이었다.대담
    의 내용만으로는 삼림벌채의 권리 주장이었지만,내륙 측량과 지도 제작을
    하는 등 실질적으로는 러일전쟁을 앞둔 시점에서 군사적 목적이 있었던 것
    으로 보인다.

    셋째,일본의 독도 영토 편입에 대한 내부의 지령 중, 제국신문 에는 일
    본 이사와 교섭하여 처단하라는 그동안 알려지지 않았던 내용이 실려 있다.
    이를 보면 울도군수가 내부의 지령을 받고 통감부 이사청으로 조회했을 가
    능성이 있다.이 가능성을 더욱 높여주는 것은 내부의 지령이 있은 지 두
    달여 후인 1906년 7월 통감부가 내부로 울도군의 소속 도서를 문의했다는
    점이다.
    일본의 독도 영토 편입에 대해 대한제국 정부에서 문제 제기를 했는지의
    여부는 1950~60년대 한일 간 왕복외교문서상에서도 중요하게 다루어졌다.
    현재 대한제국 측의 문제 제기와 관련된 문서가 발견되지 않아 단정할 수
    는 없다.하지만 일본 이사와 교섭하라는 내부의 지령과 통감부에서 내부에 울도군의 소속 도서를 문의한 것을 보면 어떠한 경로였던지 대한제국
    측의 문제 제기가 있었음이 분명하다고 생각한다.
    (원고투고일 :2011.7.1,심사수정일 :2011.8.5,게재확정일 :2011.8.16)

    5.結論

    19世紀後半からロシアと日本による鬱陵島侵奪が本格化した。ロシアは鬱陵島森林伐採権を取得してこれを経営しようとし、日本人たちは鬱陵島に潜入して不法的に伐採と漁業を行った。さらに日本は1902年警察官駐在所まで設置して日本人の鬱陵島居住を既定事実化しようとした。このように鬱陵島が深刻な被害をこうむっていた時期に沈興澤が鬱島郡守として赴任した。彼が在任した間は日本の独島領土編入も行われたのでこの時期に対する研究は独島研究にも大変重要だ。
    本稿は沈興澤の報告書を中心にしてロ・日の侵奪が行われている鬱島郡の状況と大韓帝国政府がどのように対応したかを調べた。その主な内容は大きく三つに要約することができる。
    第一に、沈興澤は鬱島郡に渡任して日本人による弊害が深刻さを認識して、1903年4月27日日本警部有馬高孝に会って日本人の伐採に対して抗議してこれを禁止させることを要求した。郡守が直接日本人に対する問題解決のために交渉を試みたのだ。そしてまもなく日本警部との対談内容を上部に報告して政府間解決を期待した。
    報告を受けた大韓帝国外部では日本公使に問い合わせて日本人の伐採問題に対する解決を促した。しかし日本公使はこれを解決しようとしないで、かえって日本人たちが鬱陵島開拓を助けたし、日本警察官駐在所設置もすでに鬱島郡守に許諾を受けた事項とし責任を回避した。結局鬱陵島での日本人問題は解決されないで、その侵奪は日増しに増した。さらに1905年乙巳条約締結以後では鬱島郡守が日本人たちの鬱陵島侵奪に抗議する制度的装置まで消えてしまった。

    二番目、1903年9月露日戦争の戦雲が漂った時期にロシア艦船が鬱陵島を訪問した。この艦船の대관は兵士たちを導いて鬱島郡官衙を取り囲んだ状態で沈興澤と会って対談を行った。その主な内容は鬱陵島での日本人伐木と日本警察の駐在問題であった。ロシア側としては鬱陵島の森林伐採権を取得したのでその権利が自分たちにあるということだった。対談の内容だけでは森林伐採の権利主張だったが、内陸測量と地図製作をするなど実質的には露日戦争を目前にした時点で軍事的目的があったものとみられる。

    三番目、日本の独島領土編入に対する内部の指令中、帝国新聞には日本理事と交渉して処断しろとのこれまで知られなかった内容が載っている。
    これを見れば鬱島郡守が内部の指令を受けて統監部理事庁に問い合わせた可能性がある。この可能性を一層高めるのは内部の指令があって二ヶ月余り後である1906年7月統監部が内部に鬱島郡の所属島嶼を問い合わせたという点だ。
    日本の独島領土編入に対して大韓帝国政府で問題提起をしなかったかどうかは1950~60年代の韓日間往復外交文書上でも重く扱われた。
    現在、大韓帝国側の問題提起に関連した文書が発見されなくて断定することはできない。だが、日本理事と交渉しろとの内部の指令と統監部から内部に鬱島郡の所属島嶼を問い合わせしたのを見れば、いかなる経路だったにしろ大韓帝国側の問題提起があったことが明らかだと考える。
    (原稿投稿:2011.7.1,審査修正:2011.8.5,掲載確定:2011.8.16)

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  38. Anonymous5/6/14 22:09

    matsuさん、

    私も知りませんでしたよ。話が出てから検索して調べました。

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  42. ホン・ジョンウォン氏は、大韓帝国(鬱島郡守)は、日本側に「問題提起をしたのだ」と言いたいようです。これまでの「抗議したくてもできなかったのだ」という議論をあっさり捨てているようです。

    帝国新聞の出てくる部分を翻訳します。157pです。自動翻訳からです。意味がわからないところもあり、お助け願います。注は本文の近くに入れました。

    4.日本の独島領土編入と大韓帝国政府の対応
    2)鬱島郡守沈興澤報告書と中央政府の指令

    鬱島郡守沈興澤が、江原道観察使に、神西一行の鬱陵島訪問と、日本が「本郡所属独島」を編入したという事実を報告したものが、一名「沈興澤報告書」だ。この報告書は、1947年、韓国山岳会主管の鬱陵島・独島学術調査団の一員として参加した申奭鎬教授が鬱陵島庁に所蔵されていた副本を見出し、論文を通じて全文を公開した。53)

    53)申奭鎬「独島所属について」史海創刊号1948 96ページ

    その後、申奭鎬は、1952年1月以後、韓日間の独島論争が本格化しると、外務部外交史料調査委員会委員として日本側主張を反論する文書を数回作成した。54)

    54) 申奭鎬「独島の来歴」思想界 8:8,16~17ページ.

    韓国側が独島領有権の証拠の一つとして「沈興澤報告書副本」を提示したことや(1953.9) 55)、

    55)外交部 独島関係資料集1-往復外交文書(1952~76)-、「韓国政府解」1(1953.9.9)1977.

    日本側が「沈興澤報告書」の原本が引用されなかったことを詰問すると(1954.2)、韓国側で「原本は現在我国政府の公文書綴のうちに保管している」(1954.9) 56)と返事をしたのも、申奭鎬の意志が反映されたものと見られる。このように「沈興澤報告書副本」は、独島領有権の証拠の一つで提示される程の重要な文書であった。57)

    56)外交部 独島関係資料集1-往復外交文書(1952~76)-、「日本政府見解」2(1954.2.10);「韓国政府見解」2(1954.9.25)1977.
    57)宋炳基「癡菴発掘 沈興沢報告書副本について」癡菴申奭鎬博士誕生100周年紀念 韓国史学論叢、白山学報70,2004,77~79ページ.


    1978年4月に結成された独島研究会韓国近代史資料研究協議会の一員だった宋炳基は「各観察道案」1(議政府外事局)に編纂されている江原道観察使代理・春川郡守李明来が議政府参政大臣に送った「報告書号外」を発表した。

    この報告書には「沈興澤報告書副本」の内容がそのまま収録されているだけでなく、その末には独島の日本領有を否認する議政府参政大臣の「指令第3号」も載っているので、独島領有権を論じるに当たり大変重要な文書である。58)

    58)これについては、宋炳基「高宗朝の鬱陵島・独島経営」、独島研究、韓国近代史資料研究協議会、1985 および 鬱陵島と独島その歴史的検証、歴史空間、2010に詳細だ。

    特に「本郡所属独島」という一節により、独島という名称が使われたことと、鬱島郡守が独島を管轄したことを証明する資料となる。合わせて、現在まで調査された韓国資料のうちで、最初に独島という名称が表記された文書である。59)

    59)日本側の資料では、軍艦新高行動日誌(防衛庁戦史部所蔵)に、1904年9月25日「韓人はこれを独島と書き(韓人之ヲ独島ト書シ)…」としたのが、最初の独島名称の記録だ(堀和生「一九○五年日本の竹島領土編入」、朝鮮史研究会論文集24,1987,111ページ).

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  43. 沈興澤の報告書は、この他にも、大韓毎日新報、帝国新聞(1906.5.1日付)、皇城新聞(1906.5.9日付)にも記事化された。新聞記事上の沈興澤報告の内容は「鬱島郡守の沈興澤氏が内部に報告するには…」と始まり、鬱島郡守が江原道観察使とは別に、内部にも報告を上げていたことがわかる。

    一方、皇城新聞には沈興澤の報告の内容だけが載せられていたのに対し、大韓毎日新報と帝国新聞には、記事末に報告に対する内部の指令も共に載っている。原文の内容は次のとおりである。

    ○大韓毎日新報(1906年5月1日付)
    …内部が指令するには、遊覧途次に地界戸口之録去は客或無怪であるが、独島之称云日本属地は必無其理であり、今この所報は、甚渉訝然だ、としたという。

    ○帝国新聞(1906年5月1日付)
    …内部が訓令するには、日人が戸口調査するのは容或無怪であるが、占領したという話は
    무기(誣欺)なことなので、졍이상지하거든 日本理事に交渉して処断せよ、としたという。

    大韓毎日新報の記事によれば、内部では鬱島郡守に、日本人が独島を称して日本属地ということは道理に合わないから、この報告は非常に唖然とするものだと指令した。60)

    60)大韓毎日新報の記事のうち「客或無怪」は、帝国新聞では「容或無怪」となっている。これは「ひょっとして」「おそらく」という意味の「容或」がふさわしい表現であり、「客或」は間違って表記されたと考えられる。

    帝国新聞の記事も大韓毎日新報と似ているが、「日本理事」と交渉して処断しろという大韓毎日新報にはない指令内容が載っていて注目される。ここで「日本理事」とは、1906年2月に設置された統監府の地方機構である理事庁を示すと見られる。理事庁の首長が理事官であった。

    統監部が設置される以前、内部では日本と外交上の問題が発生すれば、外部に要請して日本公使館に照会することが一般的な外交形態であった。ところが外部が廃止されて統監部が設置された状態では、日本との領土問題は統監部に問い合わせなければならなかっただろう。そのために内部では鬱島郡の報告を受けて日本理事と交渉しろとの指令を下したのである。

    日本の独島領土編入について大韓帝国側から照会をしたのかどうかは、領土編入の不法性を明らかにする上で大変に重要である。1950~60年代、韓日間の独島に関する往復外交文書で、日本側は、独島を領土編入する過程で日本の管轄権に対して外国に問題提起をしなかったと強調して、その正当性を主張した。61)

    61)外交部、独島関係資料集1-往復外交文書(1952~76)-「日本政府見解」1(1953.7.13);「日本政府見解」4(1962.7.13),1977.

    これに対して韓国側では、1904年日本がいわゆる韓日協約を強要して外国人顧問が外交実権を掌握した状態で「外国に問題になったことがない」ことをもって、あたかも韓国が独島編入を認めたというように見ることはできない、という立場を明らかにした。62)

    62)外交部、独島関係資料集1 -往復外交文書(1952~76)-「韓国政府見解」3 (1956.9.20),1977.

    ところが、日本理事と交渉しろとの内部の指令を受けた鬱島郡守が、理事庁に、あるいは内部が直接、統監部に照会をしたとすれば、これは韓国側で問題提起をしたことになる。これと関連して注目される新聞記事がある。1906年7月13日付の皇城新聞には「鬱島郡の配置顛末」という題名で、統監部が内部に鬱島郡の所属島嶼と郡庁設始年月を示明せよという公函を送り、内部がこれを教えた記事が載っている。内部は鬱島郡の沿革を明らかにし、「鬱島郡の所管島嶼は、竹島・石島で、東西60里、南北40里、合計200里余」と答えた。63)

    63)皇城新聞、光武10年(1906)7月13日。この新聞記事は、2008年2月22日付の日本の山陰中央新聞によって一般に知らされた。山陰中央新聞では、鬱島郡の管轄区域として竹島・石島に言及して、鬱島郡の東西距離を60里といったことは、石島が独島ではないことを証明すると主張した。すなわち石島が独島であるならば、鬱陵島から独島までの距離は87.4kmなので、60里よりはるかに大きくなければならないということだ。だが、この距離は伝統的な観念での鬱陵島の島の大きさということができる。金正浩「大東輿地図」(1861)の鬱陵島の注記には、島の大きさを説明して東西60里、南北40里といった。多分このような認識がそのまま残っていたものとみられる。

    上記の記事で注目される点は、なぜ1906年7月に、統監部から内部に鬱島郡の所属島嶼を明らかにせよと言ったのかである。これは、日本の独島領土編入に対して統監部理事庁と交渉しろとの内部の指令に関連していると考えられる。この指令があって二ヶ月余り後、統監部から内部に鬱道郡の所属島嶼を明らかにしろといっているからだ。すなわち、時期的に、統監部に日本の独島領土編入に対する大韓帝国政府の照会が行われたので、統監部から鬱島郡の所属島嶼を内部に問い合わせしたのではないか、と考えられる。64)

    64)1906年9月、鬱島郡は内部の命を受けて郡の境界位置と戸口帳籍を調査して報告したが、これもまた時期的に日本の独島領土編入に関連したものと見られる。ところが戸口調査の結果だけ新聞に載っていて、境界位置をどのように報告したのかは分からない。
    (皇城新聞・大韓毎日申報・帝国新聞、光武10年(1906)9月26日)。

    一方、内部は統監部に、鬱島郡の所属島嶼を竹島・石島とだけ明らかにして、独島には言及しなかった。2ヶ月前にあった沈興澤の報告とこれに伴う指令から考えてみれば、当時、内部では独島を十分に熟知していたであろう。それにもかかわらず、日本との領土問題が発生することもできる時期に、独島を所管島嶼とは言わないで石島だと表現した理由は、石島がまさに独島であることが明らかなためだと考える。統監部に送る公文書であるだけに、一般化された名称である「独島」ではなく、公式な行政名称である「勅令第41号」(1900)の「石島」を明記したのである。

    日本の独島領土編入に対する沈興澤の報告は、議政府と内部などの中央政府および言論を通じて大きな反響を起こした。それだけでなく一般人にも波紋が広がって黃玹は梅泉野録、梧下記聞などの1906年条に、日本が独島を自身の領地だと勒称するとして批判した。

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  44. ところで、朴炳渉論文では、帝国新聞の引用は

    鬱島郡守沈興沢氏が内務部に報告したところでは、日本の官員一行が本郡に来島して戸口と土地を調査して言うに、鬱島は日本において占領したので調査するとのことで、内務部が訓令したところでは、日人の戸口調査は分からないでもないが、占領したという話は人を欺くものなので知り合いの日本理事へ交渉して処断せよとしたという。

    となっており、この前半部分は、このホン・ジョンウォン論文にはないものです。
    朴炳渉氏は、帝国新聞の原史料を見ているのではないかと思われます。すなわち、この記事の原文が(ソウル大学に?)残っていると考えられます。

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  45. 『軍史』第80号 2011年9月15日発行(国防部軍史編纂研究所)
    ホン・ジョンウォン
    「露・日の鬱島郡侵奪と大韓帝国の対応研究―鬱島郡守沈興澤の報告を中心にー」

    * 韓国学中央研究院 博士課程

    1.はじめに
    2.日本人の鬱陵島侵奪と沈興澤の報告
    3.ロシア艦船の鬱陵島訪問と沈興澤の報告
    4.日本の独島領土編入と大韓帝国政府の対応
    5.結論


    1. はじめに

    沈興沢1)が鬱島郡守として私たちに良く知られているのは、鬱島郡の管轄区域である独島を日本が領土編入したことに対して上部にあげた報告書を通してである。2)
    彼は1902年12月28日、鬱島郡守に任命が建議され、1903年1月29日、官報に任命が掲載された。3) しかし、実際の渡任は、交通が不便で4月20日になって実現した。4)
    以後1907年3月15日、横城郡守に任命される時まで、約4年間、鬱島郡守として在職した。5)

    1) 沈興澤(1855~?) は、本貫は青松。洪孚の22世孫、派祖は3世である漣。父は宜東、祖父は能夏。清風金氏仲善の娘と婚姻し3男1女をもうけた。(青松沈氏大同世譜、青松沈氏大同世譜刊行委員会、2002)
    2) 申奭鎬「独島所属について」、史海創刊号、1948, 96ページ.
    3)承政院日記、光武6年(1902)12月28日; 官報光武7年(1903)1月29日.
    4)官報 光武7年(1903)8月11日.
    5)官報 光武11年(1907)3月15日.

    沈興澤が鬱島郡守に在職した時期の鬱島郡は、日本人の侵奪によって深刻な被害をこうむっていた。日本人は19世紀後半から鬱陵島に潜入すると、森林を伐採し、近隣海域で漁業をした。日本政府は1902年、鬱陵島に居住する日本人たちを統制するという名目で警察官駐在所を設置し、日本人警察官を派遣するに至った。また沈興澤の在職時期であった1904年と1905年は、露日戦争により鬱陵島と独島が戦略上の重要な拠点として急浮上した。日本は鬱陵島と独島に望楼を設置し、さらに独島を領土編入する措置までとるに至った。

    日本だけでなくロシア側にも鬱陵島と独島は重要な拠点として扱われた。ロシアは1896年の俄館播遷を契機に、鬱陵島森林伐採権を取得して鬱陵島を経営しようと思った。ロシアが鬱陵島森林伐採権を取得したことは、森林だけでなく南下政策上で占める戦略的価値を高く評価したためだ。

    20世紀前後の鬱陵島の状況についての研究は、1978年に結成された韓国近代史資料研究協議会の一員だった宋炳基と崔文衡によって本格化しはじめた。

    宋炳基は、鬱陵島開拓と地方官制編入の歴史的背景を研究して日本人の鬱陵島侵奪と独島領土編入について考察した。特に「沈興沢報告書」と議政府参政大臣の「指令第3号」(1906)が含まれた江原道観察使代理の「報告書号外」(奎章閣所蔵)を発掘、独島歴史研究を一段階発展させた。6)

    6)宋炳基「高宗朝の 欝陵島獨島經營」, 獨島硏究 ,韓國近代史資料硏究協議會,1985.

    また、崔文衡は、ロシアの南下政策の一環として鬱陵島森林伐採権獲得を研究して、露日戦争当時の鬱陵島と独島の戦略的価値について考察した。7)

    7) 崔文衡「ロシアの欝陵島活用企圖と 日本の 對應」;「バルチック艦隊の 來到と日本の獨島倂合」, 獨島硏究 ,韓國近代史資料硏究協議會,1985.


    日本でも研究が進行され、堀和生は「太政官指令」(1877)を通じて鬱陵島と独島が日本領でないことを明治政府が公式に宣言したという点を明らかにし、独島編入は露日戦争過程で戦略的目的下に成り立ったことを考察した。8)

    8)堀和生「一九○五年日本の竹島領土編入」, 朝鮮史硏究會論文集 24,1987.

    上記の研究を通じて、ロシアと日本が鬱陵島を侵奪した歴史的背景と展開過程、そして日本の独島領土編入と大韓帝国政府の対応が詳しく明らかになった。本稿は、先行研究の結果をもとに、ここに新しい事実を加えてこれをより具体化させようと思う。このために誰よりも鬱島郡の現況を詳しく知っていた鬱島郡守の報告を中心に分析することにする。

    まず日本人の鬱陵島侵奪と警察官駐在所設置問題、そして沈興澤が鬱島郡守に臨むやいなや日本の警察官駐在所の警部を訪ねて行って日本人の鬱陵島不法伐採を抗議したことと、この問題の解決のために努力した政府の対応を見る。
    また、ロシアが鬱陵島の伐木権を取得して直接経営しようと思ったことと、1903年露日戦争を控えてロシア艦船が鬱陵島を訪問して鬱島郡官衙を包囲して行ったロシア隊官と沈興澤の対談を通じて、鬱陵島の戦略的価値を再考察する。
    最後に1906年の沈興澤の日本の独島領土編入報告を接した内部の指令中、これまで知られていなかった内容が掲載された帝国新聞(1906.5.1)の「日本理事と交渉して処断せよ」という記事が、独島研究においていかなる示唆を与えるのかを分析しようと思う。

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  46. 小嶋日向守 さんの1/6/14 23:37 のエントリで本文2行目の「全」もしくは「令」と判読される字をどう見るかですけれども、私は「全」だと思います。終画がはっきり「一」となっています。したがってこれを「令」とするのは無理があるように思います。

    matsu さんの2/6/14 03:06 のエントリで

    ≫独島が「韓国」領土であるとの説は、全屬無根であるが(全屬無根なので)

    ≫とも読めるのではないかと思っています。

    としていますけれども、私もそう思います。そうしないと以下での指示が「該島 形便」としていることの説明が付きません。朝鮮領土として認識されていたのならわざわざ「その島の形便を報告せよ」などという指示は出さないでしょう。ちなみにこの「形便」という言葉も不思議な言葉です。形や使われ方ということなのでしょうか? 大韓帝国勅令第四十一号(1900年10月25日)で朝鮮領と認識していなかったことと合わせて考えると、こんな基本的なことを報告させているのも肯けます。

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  47. Makotoさん

    レス、ありがとうございます。

    指令第三号だけ読めば、「独島が(韓国)領地だという説は、全属無根」という解釈は成立つと思います。

    ただ、この沈興澤報告が報道された『大韓毎日新報』に、「独島之称云日本属地は必無其理」、という文言があるので、ちょっと無理かなあ、と思っていました。

    しかし、今回の『帝国新聞』の発見で、内部(内務部)では、いろんな説が、それぞれの情報源の憶測(?)をもとに飛び交っていた可能性があることを思うと、報道は、そういう解釈をする情報源がいた、ということだけで、指令第三号は上のように読めるかもしれないとも思います。

    「形便」は、前に下條先生がこの資料を紹介した時に、地理的な形態、という解釈をして韓国側からたたかれていましたが、「ようす」「状況」「何が起こっているのか」「どういう状態なのか」という意味だと思います。
    いまも韓国語の会話で「ヒョンピョン」というのは良く出てきます。

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  48. ホン・ジョンウオン論文を翻訳しましたが、『帝国新聞』の発見のほかは、竹島問題に直接関わる新しい史料は無いように思います。堀和生と宋炳基、崔文衡の研究を土台に発展させた論文のようです。

    「お勉強」にはなりますので、翻訳を載せておきます。

    1.はじめに すでに翻訳済 (上掲)

    2.日本人の鬱陵島侵奪と沈興澤の報告
    1) 日本人の鬱陵島侵奪と警察官駐在所設置
    2) 沈興澤の報告と大韓帝国政府の措置

    3.ロシア艦船の鬱陵島訪問と沈興澤の報告
    1) ロシアの鬱陵島森林伐採権獲得と艦船の鬱陵島訪問(1899)
    2) ロシア艦船の鬱陵島訪問(1903)と沈興澤の報告

    4.日本の独島領土編入と大韓帝国政府の対応
    1)日本の独島視察団派遣
    2)鬱島郡守沈興澤報告書と中央政府の指令 すでに翻訳済 (上掲)

    5.結論 すでに翻訳済 (上掲)

    http://www.imhc.mil.kr/user/imhc/download/gunsa/EEB03080N.pdf
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    2. 日本人の鬱陵島侵奪と沈興澤の報告

    1) 日本人の鬱陵島侵奪と警察官駐在所設置

    沈興澤が鬱道郡守として渡任した1903年4月は、日本人の鬱陵島侵奪が深刻だった時だ。日本人は19世紀後半から鬱陵島に侵入して不法伐採と漁業を日常行った。これに対する対応で朝鮮政府は鬱陵島開拓令を下して経営を強化すると同時に、日本側に日本人の撤収を継続的に要求した。特に1900年には鬱陵島の行政機能を強化させて「勅令第41号」を通して名称を鬱島郡に改称して郡に昇格させ、郡守を派遣しはじめた。

    日本人の伐採は、1900年5月、内部視察官・禹用鼎が鬱陵島を調査した時には一時的に静まったが、彼が上京した後ではより一層激しくなり、山には槻木が一本も残っていないほどであった。さらに島民・尹殷中が屋根を覆うために木を切って板を作ると日本人がこれを阻止し、一株の木も草も韓国人が切れないようにする状況だった。これに伴い島民たちの憂慮もより一層大きくなっていった。9)

    9) 内部来去文 照会第十一号(光武5年9月25日) 奎17794.

    鬱陵島で日本人の弊害がこのようにより一層激しくなると、1901年(光武5)8月に日本人の実態を把握するための調査団が鬱陵島に派遣された。調査団は釜山海関のスミス(Smith,D.H. 士弥須)、同じく幇辧・金声遠、東莱監理署主事・丁宝燮等で構成された。現地調査を終えたスミスはすぐに政府に報告書を提出した(8月)。

    その要旨は、第一に、島の中に常駐する日本人数は約550人で、この他にも毎年採魚・伐採のため来島する数が300~400人に達するということ。二番目に、島内の日本人の2大派閥である「ハタモト党」と「ワキタ党」が鬱陵島を南北で分界、森林を自ら領有して「認状」なしに伐木しており、島民たちの伐採を禁じて違反者から罰金を徴収しているということ。三番目に、島内の日本の船舶数は、板材をのせて出帆中である5隻を含めて21隻であり、日本の釜山領事館の准単を持つ漁船7隻と潜水夫艇3隻があるということなどだった。10)

    10)皇城新聞、光武6年4月29日;
    宋炳基、『鬱陵島と独島 その歴史的接近』歴史空間、2010,230ページ.

    このような調査報告があったのに、韓国政府ではそれ以上の措置を取れなかったものとみられる。かえって日本側は1902年(光武6)3月、日本人の在留を既定事実化する方針から一歩進んで鬱陵島に警察官駐在所を新設、警察官を常駐させ始めた。日本公使である林権助は1901年末からこの計画をたてたが、日本人と鬱陵島民の摩擦を事前に防止することによって日本人が大韓帝国政府から撤収を要求されないようにするためのものだった。結局、日本人の鬱陵島在留を、より一層確実にするための方便だったのだ。その具体的な計画は詳らかではないが、釜山領事館所属の警部1人、巡査2人を6ヶ月、あるいは1年期限で派駐させたと見られる。11)

    11) 駐韓日本公使館記録16巻、本省機密往信機密第133号(明治34年12月10日);
    宋炳基、前掲書、231ページ.

    韓国政府が日本の警察官駐在所設置を知ったのは、この年(1902)の9月末、江原道観察使の報告を通してだった。江原道観察使の報告によれば、日本側はただ鬱陵島に駐在所を設置しただけでなく、島民を任意に連行し、また、島民たちの中には苦情や懸案を日本の警察に訴えることさえあったという。12)

    12)交渉局日記、光武6年9月30日;
    宋炳基、上と同じ。

    事態の重大さを認識した韓国政府は、まもなく「急行照会」で条約に抵触することを以て警察官駐在所の廃止と在留日本人たちの撤収を日本側に要求した(10月)。13)

    13)交渉局日記、光武6年10月11日;日案6,文書番号7057?7501;
    宋炳基、上と同じ。

    しかし、日本公使・林権助は韓国側の要求を拒否した。彼は日本人の鬱陵島在留について、すでに数十年前に前島監・裵季周が鬱陵島開拓のために要請したから在留するのであり、かえって現在のように鬱陵島が開拓されたのは日本人たちの功績なのに韓国政府がこれを認めないとするなど、ごり押しの主張を繰り広げた。また、警察官駐在所設置については、当時、新郡守・姜泳禹の赴任に際して日本警察駐在問題を協議したことがあったと答えて責任を回避した。14)

    14)日案 公文第165号(明治35年10月29日)奎18058.

    鬱陵島の日本警察駐在問題について、日本公使館の書記官・国分象太郎が新郡守・姜泳禹と何回か接触して協議したことは事実だ。当時、姜泳禹は渡任を控えて現地日本人の悪行のために大きな恐怖感にとらわれていたが、日本側はまさにこの点を利用したのだ。15)

    15)駐韓日本公使館記録 本省機密往信 機密第133号(明治34年12月10日);
    宋炳基、前掲書、231~232ページ.

    しかし、一介の郡守に外国の警察官の駐在を許可する権限があったと見ることは難しい。当然、韓国政府と協議するべきだった問題を、渡任さえしていない一介の郡守と協議して、これを言い訳に他国に警察署を駐在させることは問題であった。

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  49. 2) 沈興澤の報告と大韓帝国政府の措置

    日本人の悪行が深刻化する中で、沈興澤は1903年4月20日、鬱島郡に渡任した。16)

    16) 官報、光武7年8月11日

    彼はまず鬱陵島の状態を調べて、日本人の弊害の深刻さを認識した。特に日本人の伐採が限りなく、数年を過ぎずに残る木がなく山も全部荒廃するものと展望した。そしてすでに鬱陵島に郡を設置したので、郡守として自身が当然日本人の不法伐採を禁止しなければなければならないと考えた。

    これに伴い、渡任して一週間たった4月27日、日本の警察官駐在所の警部・有馬高孝を訪ねて行き、「他国人が我が国の材木を取るのは理致に合わない。また鬱陵島は以前は一介の島であったが、今は郡庁が設置されて全て郡守の管轄であり、過去はもちろん今後も日本人の伐木を禁じる。従って貴警部からまずこの禁断をはかれ」と抗議した。当時の鬱陵島の最も大きい問題であった日本人の不法伐採に対して新任郡守の断固たる決意を日本警部に見せて、問題解決を促したのだ。

    沈興澤の抗議に対して、日本警部・有馬高孝は「この島で伐木し始めたのは、すでに数十年になるが、韓国政府が日本公使に照会して処理したことはないので、自分としてはあえてむやみには禁じ得ない」と責任を回避した。17)

    17)皇城新聞、光武7年(1903)8月10日;
    内部来去文 照会第8号(光武7年8月12日),奎17794;
    江原道来去案報告書 第4号(光武7年10月15日),奎17895.

    彼は翌日の28日、直ちに日本釜山領事館に郡守との対談内容を報告し、釜山領事館は6月23日付で本国(日本)外務省に警部の報告書を添付してこれを報告した。18)

    18) 鬱陵島ニ於ケル伐木関係雑件(日本外交資料館所蔵、文書番号3.5.3.2)

    沈興澤も日本警部と対談を終えた後、その内容を上部に報告した。報告を受けた内部では、まず鬱陵島に潜入した日本人たちについて日本側とそれまで交渉した過程を調査した。そして1903年8月12日、内部大臣・金奎弘は沈興澤の報告を転載して、合わせて次のような事項を取り上げて論じ、外部大臣・李道宰に問い合わせた。

    1900年、内部視察員と釜山の日本領事がともに鬱陵島を視察した後、日本側では日本人の不法伐木を直ちに禁止させて今後定期的に撤帰させると言ったが、かえって伐木を少しもやめることなく、さらに日本警察官駐在所まで設置した。鬱陵島に日本警察官駐在所を設置したことは万国約章にもないことで、両国間の交誼にも大きな障害となり、日本政治上でも議論があるようだから、この内容を日本公使に問い合わせて警察署官員を召還して不法滞在の日本人たちも追放することを交渉してほしいと要請した。19)

    19)内部来去文 照会第8号(光武7年8月12日),奎17794;
    内部外部往来公牒 摘要(光武7年8月12日),奎18021.

    一方、1903年10月15日付で、江原道観察使・金貞根も外部大臣・李夏栄に、鬱島郡守・沈興澤の上記報告内容を伝え、日本公使館に問い合わせることを要請した文書がある。この沈興澤の報告は、先立つ8月に沈興澤が内部に報告したものと同じ内容であるが、江原道観察使を経て報告され内部にすぐに報告されたものより遅く伝えられたと見られる。 (江原道来去案 報告書第4号(光武7年10月15日),奎17895)

    内部の公文書を受けた外部では、まもなく日本公使に上記事項を問い合わせた。だが、日本公使の林権助は、すでに1902年10月29日付の公文書にこの内容を返信したと外部大臣に答えた。20)

    20)日案 公文第152号(明治36年8月24日)奎18058.

    林公使が言及した1902年10月29日付の公文書は、前の1節で紹介したように、鬱陵島が開拓されたのは日本人の功績で、新郡守・姜泳禹と警察署設置を協議したことがあるとするなど責任を回避した返事だった。日本側としては、すでに鬱陵島駐在の警部から鬱島郡守との対談内容の報告を受けていたので、日本人伐採に対する大韓帝国政府の抗議に答える準備をしておいた状態だったのであろう。

    このように沈興澤の報告で再び触発された鬱陵島在留日本人と日本警察官撤収問題は、日本側の非協調的な態度により進展を見せることができなかった。これに伴い日本人の不法伐採による弊害がより一層激しくなり、沈興澤は鬱陵島の状況を次の通り内部に報告した。

    鬱陵島の槻木は日本人たちが皆伐採してしまい一本も残っていない。その他の雑木と香木も伐採しているので、すでに日本警部・有馬高孝に抗議した。だが日本警部が当方の要求を聞き入れないので、既に報告し指令を待っている。より一層甚しいのは、道洞浦の近くに居住する日本人たちが、付近の民田を買って彼らの商店家屋を建てようとしたが、畑の主人が売らないというと、日本人たちが郡役所にきて奸計の説を出して蚕食しようとしている。その日本人たちには通商港でない所の外国人の土地買い入れは禁じられていると言い渡した、という事実などであった。

    そして、日本人たちは腹を立てて将来悪事をする憂いがあり、日本公使館に照会して、鬱陵島の日本警察官駐在所と日本人の伐木・土地購入などを禁止させてほしいという要請を付け加えている。これに対し1903年11月26日、内部大臣・金奎弘は、鬱陵島在留の日本人が土地を買いとって家屋を建築しようとするのはより一層道理に合わないといって、外部大臣・李夏栄に、日本公使館に照会して鬱陵島在留日本人と警察官を撤収させて葛藤をなくすことを要請した。21)

    21)内部来去文 照会第16号(光武7年11月26日),奎17840.

    上のような内容の沈興澤報告は、江原道観察使にも伝えられ、1903年11月27日付で江原道観察使も外部大臣に日本公使館への照会を要請した。22)

    22)江原道来去案 報告書第7号(光武7年11月27日),奎17985.

    鬱道郡守が日本人の鬱陵島侵奪について報告したことは、上の文書を最後にこれ以上探すことができない。さらに1905年乙巳条約締結以後では、鬱島郡守が日本人たちの鬱陵島侵奪を抗議できる制度的装置も消えてしまったまま、日本人の鬱陵島侵奪はより一層加速された。

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  50. 3. ロシア艦船の鬱陵島訪問と沈興澤の報告

    1) ロシアの鬱陵島森林伐採権獲得と艦船の鬱陵島訪問(1899)

    鬱陵島は1896年(建陽元年)2月の俄館播遷を契機に、その森林の伐採権がロシア、ウラジオストックの商人ブリンナー(Brynner,Y.I.)に特許された。この他にも色々な利権がロシア側に渡されたが、鴨緑江・豆満江流域の森林伐採もこれに該当した。23)

    23)高宗実録、建陽元年9月9日

    ロシアが鬱陵島に対する森林伐採権を取り出したことは、鬱陵島の森林だけでなく南下政策上で鬱陵島が持つ戦略的価値を高く評価したためと考えられる。鬱陵島はかつて1888年以来、ヴィティアズ(Vitiaz)号艦長だったマカロフ(Makarov)提督によってロシア側に漠然とではあるが、その戦略的価値が知らされていた。もちろん馬山浦ほどの価値はないが、フォン・リアリアルスキー (Vonliarliarsky)が指摘した通り、ペトロパロフスクと大韓海峡を連結する経済的、戦略的価値があると見たのである。24)

    24)崔文衡「ロシアの欝陵島活用企図と日本の対応」、独島研究、韓国近代史資料研究協議会、1985, 368~369ページ.

    ところで、鬱陵島にはすでに日本人たちが潜入して不法に伐採と漁業を日常行っていた。これに対しロシアは、駐日ロシア公使を通じて、鬱陵島森林伐採権がロシア人に特許されたので日本人たちの伐採を禁止させることを日本政府に要求した。1899年8月、日本外務大臣・青木周蔵は、駐韓日本公使である林権助に、ロシアの鬱陵島森林伐採権について、事実の有無を確認して報告せよとの訓令を下した。25)

    25) 駐韓日本公使館記録 14巻、本省其他区文電報来控(明治32年8月7日)

    訓令を受けた林公使は、ロシアの鬱陵島伐採権が1896年に許可され、この事実をすでに本国(日本)に報告したと答えた。その一方で大韓帝国外部には、この特許について全く知らないから特許状全文の写本を送ってほしいと要求する二重的な態度を取った。これはロシアの場合のように鬱陵島での伐採権を保証されることを試みたものだった。26)

    26) 駐韓日本公使館記録 14巻、外部往信、第83号(明治32年8月11日).

    日本政府は、ロシア公使の要求を受け入れることに決めて、林公使に元山駐在二等領事または釜山駐在領事官補を鬱陵島に派遣してこの事実を通告せよとの訓令を下した。27)

    27)駐韓日本公使館記録 14巻、本省其他欧文電報来控(明治32年8月19日).

    訓令を受けた林公使は、元山領事館の外務書記生・高雄謙三を鬱陵島に派遣する準備をした。そして外部大臣・朴斉純には、日本政府が他人の既得権を尊重する精神でロシア側の要求を受け入れたといって既存の立場を変えた。28)

    28)駐韓日本公使館記録 14巻、外部往信、第87号(明治32年8月21日)

    『独立新聞』『皇城新聞』などによれば、1899年、ロシアは鬱陵島経営のために艦船を派遣することもした。ロシアのコロニロフ号は、林務官カチエドニフおよび30人余りの兵士を乗せて元山を経由して駐韓ロシア公使館付属測量技師マキシモフおよびウラジオストック海軍技師アンドレトスラップサジを搭乗させて、11月3日、鬱陵島に到着した。

    彼らは鬱陵島に上陸し、ちょうど日本人たちが天長節を奉祝する日本国旗を掲揚すると、すぐに暴言をはきながらこれを妨害して、鬱陵島はロシアの占領地だと称した。そして日本人30人と韓国人40人を海辺にたてて写真撮影をしたりもしたし、沿岸の要衝地および内陸を精密に踏査測量した。後日、兵営と水雷営を設置するためのものだった。鬱陵島経営のための調査を終えたロシア艦船は15人程度を鬱陵島に残して離れた。29)

    29)独立新聞、光武3年(1899)11月14日;11月25日;
    皇城新聞、光武3年(1899)11月28日;12月1日;12月5日;12月7日;12月25日

    それから約一月後の12月2日、日本公使・林権助は外務大臣・青木周蔵に、鬱陵島でロシア人が日本人に不穏な行動をするという説があり視察しようと思うと報告した。30)

    30) 駐韓日本公使館記録 13巻、本省電報往信、転電(明治32年12月2日).

    これを見ると、鬱陵島でロシア人と日本人の間に摩擦があったものとみられる。

    一方、1900年、鬱陵島を視察した内部視察官・禹用鼎は、1899年10月1日、ロシア艦船1隻がきて将校1人、通訳1人、兵士7人などが8日間滞留して山川を見回り地図を作成したといった。そして槻木1株を日本人から75両で購入して翌年3月にまた来るという意を伝え引き払ったと報告した。31)

    31)禹用鼎、鬱島記

    禹用鼎の報告は、上記の新聞記事と多少差があるが、ロシア艦船が鬱陵島に停泊して現況を調査したことは明らかだと思われる。

    日本側でも、このようなロシアの動きに対して注目した。当時、日本のメディアでもロシア艦船の動静を記事化してロシアが鬱陵島に兵営を設置する予定と見えると展望した。上記独立新聞と皇城新聞の記事も、日本やロシアのウラジオストックの言論を引用して記事化したものだった。日本側はロシアが鬱陵島森林伐採権を取得したことに対して敏感に反応するほかはなかった。鬱陵島は、ロシアだけでなく日本にも戦略上の主な拠点として価値が高かったためだ。さらに1899年、元山領事館外務書記生・高雄謙三の報告によれば、1898年から1899年春まで、鬱陵島に日本人が150~160人に達したという。そして調査当時には100人余りの日本人が鬱陵島に在留して伐採と漁業をしていた。32)

    32)駐韓日本公使館記録13巻、各領事館往復 元山領事館公第28号(明治32年10月4日)

    このため、日本公使・林権助は、ロシアの鬱陵島森林伐採権を譲り受けることを試みた。このために1899年韓国の外務大臣とロシア代理公使に鬱陵島森林伐採に対する最善の解決策はロシア側の権利を日本人たちに売却することだと説得した。33)

    33)駐韓日本公使館記録14巻、宮内府顧問リジェンドル 二・三,機密第96号(明治32年10月2日);本省其他欧文電報往信、明治32年10月18日.

    実際に民間人を前に出してロシアの会社から森林伐採権を直接譲り受けようと試みることもした。34)

    34)駐韓日本公使館記録14巻、宮内府顧問リジェンドル 二・三,機密第103号(明治32年11月2日)

    それと共にロシア側の動向に鋭意注目して、セント・ペテルブルクにいる前駐韓ロシア公使マチューニン(N.Matunine)が10年間30万ルーブルなら相談に応じるという意を伐採権所有者であるブリンナーの京城代理人に電報したと青木外部大臣に報告することもした。35)

    35)駐韓日本公使館記録13巻、本省電報往信、無号往電(明治32年12月15日);

    崔文衡によれば、15年期限に20万ルーブルを支払うという条件で日本とロシアの間に交渉があったという(崔文衡「韓末国際関係の中での独島」、独島研究、韓国近代史資料研究協議会、1985,371ページ).

    ロシアは、鬱陵島森林伐採権を取得したが、実際に伐採を実施することができなかった。伐採権を取得したブリンナーは、まず咸鏡道武山の伐木に着手したが、気候が良くなく豆満江を利用して運送できなかった。これに伴い、多くの木材が運送中に流失し、ブリンナーは豆満江流域の伐採で大きな損失をこうむることになった。結局ブリンナーは伐採権を全部マチューニン前公使に譲渡した。ところがマチューニンも中国で義和団事件(1899~1901)が発生するとすぐにその波動が満州にまで及ぼすことになって事業をやめるほかはなかった。ロシアは韓国政府に4~5年間の事業保留を要請し、韓国政府はこれを承認した。36)

    36)駐韓日本公使館記録14巻、機密本省往信一・二,機密第114号(明治33年12月3日);
    16巻、本省機密往信一・二,機密第34号(明治34年4月2日).

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  51. 2)ロシア艦船の鬱陵島訪問(1903)と沈興澤の報告

    1903年、露日関係はロシアの龍岩浦占領(4月)と租借要求(7月)によって、急速に悪化していった。戦争の気勢が漂った1903年9月3日、ロシア艦船1隻が1899年に続き再び鬱陵島を訪問した。この艦船は南陽浦洞口に停泊した後、隊官1人、副官2人が兵丁23人を率いて上陸した。彼らは、内陸測量と木の数を数えたりもしたし、各入り江を回って地形を描くこともした。一週間が過ぎた9月10日には隊官が兵丁27人を率いて郡庁を取り囲み、鬱島郡守・沈興澤に色々な事項を質問した。以下はロシア隊官と沈興澤の間の対談内容である。37)

    37)沈興澤が、1903年、ロシア艦船の鬱陵島訪問と隊官との対話内容を報告したことについては、江原道来去案、報告書第6号(光武7年11月28日),奎17985;内部来去文、照会第18号(光武7年12月5日);皇城新聞、光武7年11月17日に載っている。この中で江原道来去案が最も詳細に記述されている。


    ロシア隊官:この島の木々は、5年前にロシア会社で韓国政府と約束条項をしたので、この島の森林はロシアのものだ。したがってロシア人の外の他国人は伐採することができないのに、どうして日本人の伐木が激しいのか? 日本人の伐木は、韓国や日本政府の許可文書があるのか、あるいはロシア会社の許可文書があるのか?

    鬱島郡守:全くない。

    ロシア隊官:その伐木をどうして禁止しないのか? また、日本警察署が駐在しているが、これは韓国政府と条約があるのではないのか?

    鬱島郡守:その条約の有無は詳細でなく、本職が赴任した後、駐在していることを分かった。

    ロシア隊官:それであれば、その伐木を禁止しない理由と日本警察署駐在についての韓国政府の約束条項の有無を文書で明らかにして私に与えよ。

    鬱島郡守:1,2日後で書信を与える。

    ロシア隊官:輪船がまもなく出発するので、長く留まることはできない。

    鬱島郡守:【書信内容】1903年3月23日(陽暦4.20)に赴任した後、日本の警察署が本郡道洞浦に駐在していることを聞いた。わが政府の約束条項の有無は知らないが、すでに本郡に駐在することにひとまず互いに向き合わざるをえなかった。そして日本警察署に行って警部有馬高孝に会って森林禁断の意を話したところ、彼が答えるには、韓日両国政府の文書がないから禁止しにくいといった。そのような理由で、この意を我が国の内部に報告した。

    ロシア隊官は沈興澤に、日本人の伐木が韓国や日本政府あるいはロシア会社の許可があったのか、そして日本警察署の鬱陵島駐在が韓国政府の許可の下にあることなのかを尋ねた。
    これに対して沈興澤は分からないといって返事の期間を引きのばそうとした。しかしロシア隊官の催促で、本人が日本警部に会って日本人の伐木を禁止することを要請したが拒絶され、これを内部に報告したという内容の書信を送った。沈興澤の答書を受け取ったロシア隊官は、まもなく郡庁の包囲を解いて道洞捕に降りて行き、地形を撮影した後、南陽洞に戻って艦船に乗って鬱陵島を離れた。

    沈興澤は、このようなロシア艦船の鬱陵島訪問と隊官との対談内容を直ちに江原道観察使・金禎根に報告して、鬱島郡の状況が平安ではないことを訴えた。江原道観察使は外部大臣・李夏栄に沈興澤の報告内容をそのまま伝え、日本とロシア公使館に照会して今後禁断させてほしいと要請した。38)

    38)江原道来去案、報告書第6号(光武7年11月28日),奎17985,

    沈興澤報告の終わりには、この報告書を朴陽弘の船便を通じて送ったが、船舶が海に転覆したので再び報告したという。それで9月中旬に発生した事件が11月になって報告が成り立ったと見られる。一方、沈興澤の報告を要約した記事が皇城新聞1903年11月17日付記事に載っている。

    江原道観察使は内部にも同じ内容の報告書を上げた。報告を受けた内部大臣・金奎弘は、外部に照会して、ロシアの鬱陵島森林伐採権に対する政府の認可が果たしてあったかを問うた。39)

    39)内部来去文、照会第18号(光武7年12月5日),奎17794.

    内部から外部に照会を要請した文書を見れば江原道観察使第66号報告書に上の事実が記載されているという。これを通じて江原道観察使が内部と外部に全部報告したことが分かる。

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  52. ロシア艦船の鬱陵島訪問は日本側でも注目していた。日本の鬱陵島駐在警部・有馬高孝は1903年9月12日付でこの事実を日本釜山領事館に詳しく報告し、領事館では10月7日付で主韓日本公使・林権助と本国外務省にもこれを報告した。40)

    40)駐韓日本公使館記録 20巻、各館来信一・二,韓第41号(明治36年10月7日)

    ところでこの報告は、沈興澤の報告とは日と人員が多少違う。ロシア艦船が寄って行った日を沈興澤は陽暦9月3日にきて9月10日に戻ったといったが、日本警部有馬高孝は陽暦9月2日にきて9月11日に戻ったといった。41)

    41)東京朝日新聞1903年10月19日付にも「鬱陵島の露艦」という題のロシア 艦船の鬱陵島訪問事実が載っている。この記事は、10月8日、日本の済遠艦が鬱陵島に停泊して帰ってきてそちらで伝え聞いた内容を根拠に作成されたが、ロシア艦船が8月2日~8日まで停泊したといって1ヶ月程度の差がある。

    人員も、沈興澤は9月3日隊官1人、副官2人、兵丁23人が南陽洞に上陸して10日には隊官が兵丁27人を率いて郡庁を取り囲んだとした。有馬高孝は、9月2日、海軍士官2人と水兵19人が南陽洞に上陸し、11日士官2人が軍吏のような者1人と水兵16人を率いて郡庁に来たとして少し差がある。

    また、鬱陵島警部有馬高孝は、ロシア士官と沈興澤の間の対談中に水兵が刃物を携帯していたが、士官が沈興澤に書証を強要すると、沈興澤がこれに対し応じたと報告した。これを見ると、隊官はロシア兵士が武器を所持して郡庁を取り囲む威嚇的な雰囲気でロシア隊官と対談したのだ。それでも沈興澤は鬱陵島での日本人の不法伐木と警察署駐在事実に対してロシア側が韓国政府に誤解がないように対応したと見られる。

    ロシア艦船は、鬱陵島を訪問して郡守・沈興澤に森林伐採権を主張して日本人の伐採に抗議して戻ったが、実質的には露日戦争を前にして時点で軍事的目的下に訪問したものとみられる。実際の彼らは内陸測量と木の数を数えたりもしたし、各入り江を回って地形を描くこともした。

    有馬高孝警部も、ロシア人が鬱陵島地図を製作したようだと報告した。それから半年後には露日戦争が勃発した(1904.2)。 露日戦争が勃発して日本軍の満州に向かう北進路である鴨緑江、豆満江と、東海上の鬱陵島に対する戦略的価値はより一層高まった。42)

    42) 鴨緑江沿岸では、露日戦争が勃発して間もない1904年2月15日から戦闘が始まり、ロシア軍は2,229人が死亡、526人ないし613人の行方不明者が生じ、約2,775人ないし2,482人の負傷者が発生した。日本軍の場合は約1/3程度の被害が出て、死傷者は889人から1,036人程度と推算している(シム・ホニョン「露日戦争時期 露日両国軍の韓半島内軍事活動」、アジア文化21,2004,24ページ)。鬱陵島では日本が1904年8-9月に望楼を建設して海底電信線を敷設し、朝鮮本土から海軍の真髄部がある佐世保まで直接交信することになり一帯海域を先占した。(堀和生、「一九○五年日本の竹島領土編入」、朝鮮史研究会論文集24,1987,114ページ)

    この地域は全部ロシアが森林伐採権を取得して既得権を有していたので、日本は韓国政府にこれに対するロシアの特権を抹消させることを強力に要求した。(1904.5.9)

    そして林公使は5月12日、李夏栄外務大臣に会ってこれに対する同意を勝ち取ったし、1904年5月18日付で高宗皇帝の勅選書の形式で官報号外に発表するようにした。43)

    43)崔文衡「ロシアの欝陵島活用企図と日本の対応」、独島研究、韓国近代史資料研究協議会、1985,379~380ページ.

    露日戦争で鬱陵島と独島の戦略的価値が非常に高かったというのは、ロシア第2太平洋艦隊司令官ロジェストヴェンスキー(Rozhdestvensky)中将が意識を失ったまま捕虜にされたところが鬱陵島付近であり、彼の代わりに艦隊の指揮権を掌握したネボガトフ(Nebogatov)少将が残余の艦隊を導いて日本に降参したところが、まさに独島東南方18マイル地点だというものだけ見ても知ることが出来る。44)

    44)崔文衡「露日戦争と日本の独島占取」、歴史学報188,2005,251ページ.

    当時、鬱島郡守・沈興澤は、郷長・田在恒からツシマ海戦で敗れたロシア軍の鬱陵島上陸について報告を受けた。彼の報告によれば、陰暦4月28日(陽暦5.28)、島の西南の大洋から遠く大きく雷の声が聞こえて、日暮後に雷火がますます近づいて大砲が連発すると暫くして夜3更(夜11時~翌1時)になって軍用船が近海に停泊するとロシア軍人が上陸したという。それで問情を試みたが言語が通じなかったとする。上陸したロシア軍人は、艦長1人、副艦長1人、兵士774人で、以後、船を自ら沈没させた。その翌日、白旗降伏して巳時(午前9時~11時)に日本軍用船1隻が苧洞に停泊し、降伏したロシア兵士たちを全部のせていったという。45)

    45)皇城新聞光武9年(1905)8月10日.

    上記、沈興澤の報告はドミトリー・ドンスコイ号(Dmitri Donskoi)が鬱陵島で降伏した事実を報告したものだ。ドンスコイ号は、5月28日、鬱陵島近海で日本巡洋艦と戦闘を行ったが、船体に大きな損傷を受けて鬱陵島に行き全員上陸した。ロシア兵士たちをのせて行った日本艦船は春日号であった。46)

    46)ソン・ウォンホ「ドンスコイ号自沈以後、乗務補助員の行跡」大韓土木学会誌、51冊5号、2003;「ドンスコイ号艦長の最後」大韓土木学会誌53冊12号、2005;ソン・ウォンホ、ユン・ソクク「ロシア海軍巡洋艦ドミトリー・ドンスコイ号」大韓土木学会誌55冊1号、2007.

    当時の鬱陵島周辺海域が、ツシマ海戦があった直後にロシア艦隊がウラジオストックに敗走する過程で一帯が激戦地になったことを見せる報告である。

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  53. 4.日本の独島領土編入と大韓帝国政府の対応

    1)日本の独島視察団派遣

    日本は露日戦争が進行中だった1905年2月22日「島根県告示第40号」で独島を領土編入した。編入後、1905年8月、松永武吉島根県知事は直接独島を巡視した。当初の計画は、松永知事が8月16日朝、境港で第2隠岐丸に乗って隠岐の西郷に寄港し、隠岐島司などが一行に合流する予定だったが、8月15日に日程が延期になった。その後突然軍用船の京都丸で行くことに変更され、隠岐には寄港しないで、松永知事と佐藤警務長、藤田県属、大塚警部など4人だけが8月19日に独島に直行して島を視察して戻った。47)

    47)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1966,221~222ページ.

    翌年の1906年には、2次視察団といえる島根県第3部長・神西由太郎を責任者にする官民45人で構成された大規模な調査隊が独島に派遣された。その中には、隠岐島司・東文輔、領土編入および貸下出願人・中井養三郎,こも調査隊の報告書『竹島及欝陵島』の作成者(著者)奥原碧雲(福市)等も入っていた。彼らは3月27日独島に到着して西島・東島を順に調査し、松を記念植樹した。

    引き続き、調査隊は3月28日、天気を言い訳に鬱陵島に上陸し、神西由太郎等は鬱島郡官衙に行き郡守・沈興澤を訪問した。神西部長は沈興澤に鬱陵島を訪問した理由を説明して独島で捉えたアシカ一匹を贈物に与えた。沈興澤は遠くから来たのに対して苦労をねぎらい、贈物に対する謝意を表わした。沈興澤は言い方が非常に洗練されていたが、行政上の質問にはほとんど納得することができないようだったという。そして神西一行と鬱島郡庁一行は共に郡庁の前で記念撮影をした。48)

    48)奥原碧雲『竹島及欝陵島』附録「竹島渡航日誌」ハーベスト出版、2005(復刻板),110ページ

    この席で沈興澤が神西部長のアシカの贈物を受けたことは、1954年韓日間外交文書上で議論になった。日本側は、もし鬱島郡守が独島を鬱島郡所属だと考えたとすれば、神西一行の贈物を受けたり感謝の意を表わさなかったはずだと主張した。49)

    49)外交部、独島関係資料集1-往復外交文書(1952~76)-「日本政府見解」2(1954.9.9),1977.

    これに対して韓国側では、鬱陵島訪問中、鬱島郡守がアシカを贈物された事実がなかったと答えた。そして日本人たちは不法で無効な条約に基づいて自由に韓国を調査して行ったし、1904年2月に韓日議定書が強要され、神西一行の訪問の一ヵ月前である1906年2月に日本統監部が設置されたという点を想起しなければなければならないと指摘した。50)

    50)外交部独島関係資料集1-往復外交文書(1952~76)-「韓国政府見解」2(1954.9.25),1977.

    当時、鬱陵島には日本警察官が常駐していたし、郡庁があった道洞を中心に300人以上の日本人が居住していた。そのために神西一行が外国領である鬱陵島の戸数と人口、地勢などを思いのままに調査できたのだ。51)

    51)堀和生「一九○五年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24,1987,119ページ.

    このような状況で神西一行がアシカを贈物し、沈興澤郡守が感謝の意を表わしたのが事実であっても、それは神西一行に友好的に見えるほかはなかった苦肉の策の一つだったであろう。それにもかかわらず、行政上の質問にはほとんど納得できなかったという奥原碧雲の表現でわかるように、神西一行に対して郡政に関連した内容については返事を回避する機知を発揮したものとみられる。

    彼らは沈興澤に、日本が独島を領土編入したという事実も知らせた。『竹島級鬱陵島』やその付録「竹島渡航日誌」にはこれについて言及はないが、江原観察使代理・春川郡守・李明来の報告書によってこの事実を確認することができる。一介の郡守に非公式的にしたことではあるが、日本はようやくリャンコ島(独島)の領土編入を韓国側に知らせてきたのだ。「島根県告示第40号」があってから1年2ヶ月余りが過ぎてからであった。52)

    52)宋炳基、上掲書、246ページ.

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  54. matsuさんありがとうございました。

    このあたりの事情は、結構情報が混乱しているので、整理して下さっているのはありがたいですね。

    関係ないですけど、キム・ホドン氏がユ・ミリムさんを批判しているようですね。abstractと自動翻訳で読んだだけですが、概ね同意です。

    「鬱島郡節目」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상
    jsg.aks.ac.kr/upload/장서각지.../jsg30-04_khd.pdf


    2)
    허영란·유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 서울특별시 교육감인정, 2012. 1. 27, 천재교육, 2012. 2, 60쪽.

    を手に入れたいですね。

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  55. Kaneganeseさん
    レス、ありがとうございます。

    >「鬱島郡節目」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상
    >jsg.aks.ac.kr/upload/장서각지.../jsg30-04_khd.pdf

    アドレス表示が不十分で行かれませんでした。

    そこで、「「鬱島郡節目」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상」で検索すると
    http://www.dbpia.co.kr/Journal/ArticleDetail/3292260
    というのがあって、これは有料で論文をダウンロードさせるサイトです。
    そこにも抄録があったので自動翻訳に手を入れました。
    『蔵書閣』第30集 2013.10, 110-143p とあります。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「울도군절목」은 흔히들 1902년 대한제국 內部에서 울도군에 내린 행정지침이라고 이해하고 있지만 실상 울도군 군수 배계주가 ‘郡規’ 확립을 위해 절목을 만들어 내부에 보고한 것이다. 내부에서는 울도군수가 제출한 ‘절목’을 검토하여 ‘後錄’을 작성하여 1902년 4월에 내각총리대신 尹容善에게 보고하였다. 그 자료가 배계주 집안에서 소장되어 전하기 때문에 울도군수인 배계주가 올린 「울도군절목」을 그대로 시행하라는 내부의 공문이 배계주에 하달되었을 것이다.
    배계주는 1900년 ‘대한제국 칙령 제41호’의 반포로 인해 첫 울도군수에 임명되었다. 그렇지만 울릉군 지역 주민들과 다툼에 의해 육지로 나왔다가 면직되었다. 그 후 1902년 3월 7일에 울도군수에 재임용되었다. 울릉도 주민과의 다툼으로 인해 면직된 배계주는 군민들을 장악하기 위해 ‘군규’를 만들어 「울도군절목」으로 이름하여 내부에 상신하여 내부의 재가를 받아 그것을 받아 울릉도에 부임하려고 하였다. 하지만 울릉도에 부임하지 못하고 첫 울도군수로서 한 행적 때문에 재판에 회부되어 결국 면직되었다. 그로 인해 울릉도에 들어가 언문으로 등사하여 각 洞에 게시하지 못하였다. 시행되지 못한 「울도군절목」을 두고 독도를 포함한 울릉도 관할구역을 대한제국이 실효적으로 경영한 증거로서 주목할 만한 가치가 있다고 평가하는 것은 문제가 있다.
    「울도군절목」은 울릉도 각동에 게시된 ‘군규’는 아니었지만 그 절목을 통해 1902년대의 사회상을 엿볼 수 있는 의미 있는 자료인 것만은 분명하다. 이 절목은 언문으로 번역하고 등사하여 각동에 게시하고자 한 것이니 일본인이 아닌, 본국인을 대상으로 한 ‘郡規’이다. 그렇지만 절목에는 울릉도 재류일본인과의 갈등이 심각하게 보인다. 당시 울릉도의 현안은 일본인이 행하는 무단 벌목과 가옥, 토지 매입이었다. 또 울도군의 행정체제를 어떻게 확립할 것인가, 세수를 어떻게 확보할 것인가 하는 문제였다. 「울도군절목」에는 그것이 담겨 있다. 특히 서문에는 울도군수와 울릉도 주민과의 갈등이 나타난다.

    「鬱島郡節目」は、しばしば1902年大韓帝国内部から鬱島郡に出された行政指針だと理解されているが、実際は鬱島郡守・裵季周が「郡規」確立のために節目を作って内部に報告したものだ。内部では鬱島郡守が提出した「節目」を検討して「後録」を作成して1902年4月に内閣総理大臣・尹容善に報告した。その資料が裵季周家に所蔵され伝えられているので、鬱島郡守である裵季周があげた「鬱島郡節目」をそのまま施行しろとの内部の公文書が裵季周に通達されただろう。

    裵季周は1900年「大韓帝国勅令第41号」の頒布によって初めての鬱島郡守に任命された。ところが鬱陵郡地域の住民たちと争いによって本土に出てきて免職になった。その後1902年3月7日に鬱島郡守に再採用された。鬱陵島住民との争いにより免職になった裵季周は郡民を掌握するために「郡規」を作って「鬱島郡節目」と名付けて内部に上申し、内部の裁可を受け、それを受けて鬱陵島に赴任しようとした。だが、鬱陵島には赴任できず、初代鬱島郡守としての行跡のために裁判に付され、結局免職になった。そのため鬱陵島に行ってハングル文で謄写し各洞に掲示することはできなかった。施行することが出来なかった「鬱島郡節目」をもって、独島を含んだ鬱陵島所轄区域を大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目する価値があると評価するのは問題がある。

    「鬱島郡節目」は鬱陵島各洞に掲示された「郡規」ではなかったが、その節目を通じて1902年代の社会像をのぞくことができる、意味のある資料であることだけは明らかだ。この節目はハングル文に翻訳して謄写して各洞に掲示しようとしたものだったので、日本人でなく本国人を対象にした「郡規」である。ところが節目には、鬱陵島在留日本人との葛藤が深刻に見えている。当時、鬱陵島の懸案は日本人が行う無断伐木と家屋・土地買い入れだった。また、鬱島郡の行政体制をどのように確立するのか、税収をどのように確保するのかという問題であった。「鬱島郡節目」にはそれが含まれている。特に序文には鬱島郡守と鬱陵島住民との葛藤が現れている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    これには、直接、柳美林を批判したところが見えませんが、ご紹介の論文にはあるのでしょう。上の抄録の内容も、知らなかったことばかりで面白かったです。

    허영란•유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 서울특별시 교육감인정, 2012. 1. 27, 천재교육, 2012. 2, 60쪽.
    ホ・ヨンラン・柳美林、『中学校 美しい独島』、ソウル特別市教育長認定、2012.1.27,天才教育、2012.2,60ページ.
    は、学生用の副読本みたいなものですかね。

    ホ・ヨンラン(許英蘭)は、その昔、明治大学のシンポジウムに来ていた女性研究者だと思います。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ここまで書いて再び허영란•유미림,を検索したら、キムホドン論文が出てきました。
    http://jsg.aks.ac.kr/upload/%EC%9E%A5%EC%84%9C%EA%B0%81%EC%A7%80_%EC%9B%90%EB%AC%B8/jsg30-04_khd.pdf

    コピペできるので、翻訳できると思います。

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  56. matsuさん

    今自動翻訳したのを読み終わりました。

    いやはやこの論文、とっても面白いです。是非翻訳して下さい。お願いします。

    1899年のラポルテの鬱陵島の視察に、裴季周が同行していたことは知りませんでした。

    ところで、「蔵書閣」ってなんですか?

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  57. 『帝国新聞』に戻っておくと、

    『帝国新聞』(1906.5.1)
    鬱島郡守沈興沢氏が内務部に報告したところでは、日本の官員一行が本郡に来島して戸口と土地を調査して言うに、鬱島は日本において占領したので調査するとのことで、内務部が訓令したところでは、日人の戸口調査は分からないでもないが、占領したという話は人を欺くものなので知り合いの日本理事へ交渉して処断せよとしたという。

    「鬱島は日本において占領した」というのはあきらかに誤報ですが、内部にそのような伝わり方をした、ということは確かでしょう。
    「占領したという話は人を欺くものなので」という文の解釈ですが、「鬱陵島が占領されたというのは嘘だ」、という意味でしょうか。
    日本理事と何を交渉して、どう処断せよというのか、良くわからないですね。

    これは、内部から鬱島郡守に出した訓令、ということになるのでしょうか、
    実際に「指令第三号」には、日本理事うんぬんという文言は無いわけで、こんな訓令は出なかった、ということなのか。すなわち、単なる「帝国新聞」の誤報。

    「指令」と「訓令」という違う言葉を使っているので、「訓令」は、遠い鬱陵島にいる郡守ではなく、
    少なくとも「日本理事」と交渉できる、誰か別の人に訓令されたのかも知れません。
    ソウルの中での話か、あるいは春川に「日本理事」がいたのか、あるいは釜山あたりにいた「日本理事」か?

    朴炳渉とホン・ジョンウォンの翻刻をもとに議論していますが、実際の影印を見てみたいですね。
    帝国新聞は国漢文(漢字ハングル混じり文)ではなくて、全部ハングル文の新聞のようですから、무기=誣欺(あざむく)というのも、朴炳渉氏の解釈ということになるでしょう。

    >Kaneganeseさんの最初のコメント
    これ普通に考えてやっぱり大韓帝国は鬱陵島の占領だと勘違いして指令を出したけれど、「独島」が今の竹島で領土外だと判明したから抗議しなかったのではないかと思うのは私だけでしょうか?

    というのが、実は良くわからないのですが、
    「指令第三号」は、沈興澤報告を正確に理解して出されていると思います。
    つまり、鬱陵島が占領された、という誤解は、少なくとも内部大臣はしていない。

    一方で、今回の『帝国新聞』の発掘で明らかになったことは、当時の大韓帝国は、何か問題があった時には「日本理事」と交渉できる状況にあった、ということで、「抗議したくても出来なかった」という慎鏞廈以来の「謬説」がくずれた、ということだと思います。

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  58. 「鬱島郡節目」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상

    というのは、以下のurlで出ますが、これは全文ではないのでしょうか?

    http://jsg.aks.ac.kr/upload/%EC%9E%A5%EC%84%9C%EA%B0%81%EC%A7%80_%EC%9B%90%EB%AC%B8/jsg30-04_khd.pdf

    この中にある、「柳美林」の記載部分だけ抽出しました。

    p 112
    2) 허영란·유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 서울특별시 교육감인정, 2012. 1. 27, 천재교육, 2012. 2, 60쪽.

    p113
    「수세(收.) 관행과 독도에 대한 실 효지배」(유미림, 『영토해양연구』 4, 2011 Winter)가 있다. 김영수의 경우 부제에서 보 다시피 「울도군절목」을 독도에 관한 행정관할 증거로 파악하고 있다. 유미림의 경우 「울도군절목」의 수세관행을 살피고 ‘화물세’를 수출세로 간주하고, 이때 울릉도의 일 본인들이 독도 전복과 강치를 잡아 울릉도에서 ‘화물세’, 즉 수출세를 냈으므로 독도 의 실효적 지배의 증거로 간주할 수 있다는 것이다.

    필자는 2010년 봄, 울릉도에서 김기백으로부터 「울도군절목」을 넘겨받은 직후에, 유미림이 「울도군절목」을 보내왔다. 울릉군에서 「울도군절목」을 공개하기로 하고, 그 이후에 자료를 이용하기로 하였다. 2010년 경상북도 사료연구회의 『2010 경상북도 독 도사료연구회 연구보고서』에서 유미림이 원문 탈초와 번역 및 해제를 실었다. 아래의 원문 탈초와 번역은 당시 영남대학교 독도연구소에 소속된 정목주 연구원이 하였다. 그 것을 여기에 싣고, 유미림의 탈초와 번역을 참조해 필자가 수정하였다.

    p117
    12) 유미림, 「1902년의 울도군 절목(節目) 번역 및 해제」, 『2010 경상북도 독도사료연구회 연구보고서』, 경상북도, 2010, 215쪽. 김영수도 “최근 1902년 4월 대한제국 내부가 울도군수에게 하달한 ‘울도군 절목’이 발굴되었다고 하였고 (‘울도군 절목’의 발굴과 그 의미」, 『영토해양연구』 2, 2011 Winter, 134쪽), 유미림의 경우 다른 논문에서 “울도군 절목은 1902년 4월 내부가 작성해 울도군에 하달한 문서로서, 일본의 불법 거주와 자원 침탈을 저지하고 울도군 의 기강을 확립하기 위한 대책을 제시하면서 그 안에 대일 수출 화물에 과세해 경비에 보태라는 내용이 들어 있 다”고 하였다(「수세(收.) 관행과 독도에 대한 실효지배」, 『영토해양연구』 4, 2011 Winter, 89쪽).

    p120
    19) 유미림, 2010, 앞의 글, 216쪽.

    p134
    56) 유미림, 2010, 앞의 글, 218쪽.
    57) 유미림, 2012, 앞의 글, 105쪽.
    59) 유미림, 2012, 앞의 글, 105쪽.
    62) 유미림, 2012, 앞의 글, 100·104쪽.

    p138
    64) 유미림, 2012, 앞의 글, 100쪽.

    유미림, 「1902년의 울도군 절목(節目) 번역 및 해제」, 『2010 경상북도 독도사료연구회 연구보고 서』, 경상북도, 2010.
    유미림, 「수세(收.) 관행과 독도에 대한 실효지배」, 『영토해양연구』4, 2011 Winter.
    허영란·유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 천재교육, 2012.

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  59. Anonymous10/6/14 20:45

    小嶋日向守さん、それが全文です。機械翻訳も可能です。

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  60. 머리말

    한국의 경우 ‘독도’에 관한한 감성적으로 대하는 경우가 많다. 그 대표적인 예가 「鬱島郡節目」이다. 2010년 울릉군에서 공개된 이 자료를 두고1) 당시 “대한제국이 실제로 독도 다스렸다”고 하는 증거로 언론에 보도되었고, 『중학교 아름다운 독도』 교재에서 그 기사를 소개하여 울릉도와 독도를 실제로 다스렸음을 입증하는 자료로 제시되기 도 하였다.2)

    2012년 8월, 「울도군절목」은 다시 주목을 받아 “울도군수가 일본인의 강치수출에 세금을 부과토록 하는 내용이 포함돼 독도에 대한 한국의 실효적 지배를 입증할 수 있는 사료로 평가받고 있다”고 하는 보도가 언론에 보도되었다.3) KBS TV는 2012년 8월 17일, 밤 9시 뉴스 이후 홍보 뉴스를 내보 내면서 「울도군절목」에 독도 전복을 캐는 일본인들에게 수출세를 받아냈다는 증거라 고 소개하였다. 그리고 8월 19일, 에서 “당시 일 본인들은 독도에서 잡은 강치를 울릉도에 가져와 수출했다는 사실이 일본 외무성의 기록에 남아 있다”고 하여 「울도군절목」과 연결시키기도 하였다. 그렇지만 「울도군절 목」과 일본 외무성 기록, 즉 일본의 어업자들이 울릉도감에게 수출세를 내겠다는 약 조문, 또 도감이 일본인에게 써준 영수증 어디에도 독도에 관한 언급이 없다. 이것은 대한제국 칙령에 석도, 즉 독도를 행정적으로 관할했다는 점, 또 당시 울릉도의 일본 인들이 독도에서 강치와 전복을 잡았기 때문에 ‘정황상’으로 울도군수에게 독도 전복 과 강치에 대한 수출세를 냈다고 할 뿐이다. 그렇지만 「울도군절목」에 독도 전복을 캐는 일본인들에게 수출세를 받아냈다는 증거는 없다. 이 글에서 「울도군절목」의 원문과 그 번역문을 밝히는 것은 그런 이유 때문이다.

    「울도군절목」에 관한 자료 소개와 연구는 「‘울도군 절목’의 발굴과 그 의미-대한제 국 칙령 제41호 선포에 따른 울릉도와 독도에 관한 행정관할 증거」(김영수, 『영토해양 연구』 2, 2011 Winter)와 「1902년의 울도군 절목(節目) 번역 및 해제」(『2010 경상북 도 독도사료연구회 연구보고서』, 경상북도, 2010), 「수세(收稅) 관행과 독도에 대한 실효지배」(유미림, 『영토해양연구』 4, 2011 Winter)가 있다. 김영수의 경우 부제에서 보 다시피 「울도군절목」을 독도에 관한 행정관할 증거로 파악하고 있다. 유미림의 경우 「울도군절목」의 수세관행을 살피고 ‘화물세’를 수출세로 간주하고, 이때 울릉도의 일 본인들이 독도 전복과 강치를 잡아 울릉도에서 ‘화물세’, 즉 수출세를 냈으므로 독도 의 실효적 지배의 증거로 간주할 수 있다는 것이다.
    이 글은 독도영유권과 관련시켜 「울도군절목」을 관련시키는 것을 지양하고, 배계주 의 행적과 「울도군절목」에 나타난 울릉도의 사회경제상을 살펴보고자 한다. 그것을 위해 「울도군절목」의 번역을 제시하고, 그것을 분석하고자 한다.

    1) 2010년 10월, 울릉군은 開郡 110주년을 맞아 치른 ‘군민의 날’ 행사에 초대 울도군수였던 배계주 전 군수의 후손 과 일본의 독도 편입 사실을 가장 먼저 상부에 보고했던 심흥택 전 군수의 후손을 초청하였다. 이 과정에서 배계주 의 외증손녀인 이유미 씨가 소장하고 있던 울도군 및 배계주 관련 자료가 처음으로 나왔다. 1902년 4월 당시 내부 대신의 인장이 찍혀 있는 이 자료에는 절목 외에 배계주 임명 교지, 배계주 및 아들과 손자 사진 등이 포함되어 있 었다.
    2) 허영란•유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 서울특별시 교육감인정, 2012. 1. 27, 천재교육, 2012. 2, 60쪽.
    3) 『문화일보』, 2012년 8월 16일.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1 はじめに

    韓国の場合「独島」に関する限り感性的に対する場合が多い。その代表的な例が「欝島郡節目」だ。2010年、鬱陵郡で公開されたこの資料について、1)

    1) 2010年10月、鬱陵郡は開郡110周年を迎え「郡民の日」の行事に初代鬱島郡守であった裵季周前郡守の子孫と、日本の独島編入事実を一番最初に上部に報告した沈興澤前郡守の子孫を招請した。この過程で裵季周の外ひ孫であるイ・ユミさんが所蔵していた鬱島郡および裵季周関連の資料が初めて出てきた。1902年4月当時の内部大臣の印章がつけられているこの資料には、節目の他に裵季周任命教旨、裵季周および息子と孫の写真などが含まれていた。

    当時「大韓帝国が実際に独島を治めた」とする証拠としてメディアに報道されたし、『中学校 美しい独島』教材でその記事を紹介し、鬱陵島と独島を実際に治めたことを立証する資料として提示されることもあった。2)

    2)許英蘭・柳美林『中学校 美しい独島』、ソウル特別市教育長認定、2012.1.27,天才教育、2012.2,60ページ.

    2012年8月、「鬱島郡節目」は再び注目をあびて「鬱島郡守が日本人のアシカ輸出に税金を賦課するようにする内容が含まれ、独島に対する韓国の実効的支配を立証できる史料と評価されている」とする報道がメディアに報道された。3)
    3) 『文化日報』2012年8月16日.


    KBS TVは2012年8月17日、夜9時ニュースのあとで『KBSスペシャル-独占発掘、独島の証言』広報ニュースを出し、「鬱島郡節目」に独島のアワビを掘る日本人たちから輸出税を受け取った証拠があると紹介した。そして8月19日、『KBSスペシャル-独占発掘、独島の証言』で「当時日本人は独島で捉えたアシカを鬱陵島に持ってきて輸出したという事実が日本外務省の記録に残っている」として「鬱島郡節目」と結びつけたりもした。ところが「鬱島郡節目」と日本外務省記録、すなわち日本の漁業者などが鬱陵島監に輸出税を出すという約定文、また、島監が日本人に書いた領収書のどこにも、独島に関する言及はない。これは大韓帝国勅令に石島すなわち独島を行政的に管轄したという点、また当時鬱陵島の日本人が独島でアシカとアワビを捉えたので「情況上」鬱島郡守に独島アワビとアシカに対する輸出税を出したのだろう、というだけだ。ところが「鬱島郡節目」には独島アワビを掘った日本人たちから輸出税を受け取ったという証拠はない。この論文で「鬱島郡節目」の原文とその翻訳文を明らかにするのはそのような理由のためだ。

    「鬱島郡節目」に関する資料紹介と研究は、「「鬱島郡節目」の発掘とその意味―大韓帝国勅令第41号宣布にともなう鬱陵島と独島に関する行政管轄証拠」(キム・ヨンス『領土海洋研究』 2,2011 Winter)と「1902年の鬱島郡節目 翻訳および解題」(『2010慶尚北道独島史料研究会研究報告書』慶尚北道、2010)、「収税慣行と独島に対する実効支配)」(柳美林『領土海洋研究』 4,2011 Winter)がある。キム・ヨンスの場合、副題で見るように「鬱島郡節目」を独島についての行政管轄証拠と把握している。柳美林の場合「鬱島郡節目」の収税慣行を調べて「貨物税」を輸出税と見なして、この時、鬱陵島の日本人が独島アワビとアシカを捉えて鬱陵島で「貨物税」、すなわち輸出税を出したので、独島の実効的支配の証拠と見なすことができるというものだ。

    この論文は、独島領有権と関連させて「鬱島郡節目」を関連させるのを止めて、裵季周の行跡と「鬱島郡節目」に現れた鬱陵島の社会経済相を調べようと思う。そのために「鬱島郡節目」の翻訳を提示して、それを分析しようと思う。

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  61. Ⅳ. 맺음말

    이 글은 한국학중앙연구원에서 동해와 서해, 남해의 섬들의 고문서를 통해 섬들의 사회상을 알아보겠다는 기획과제로 출발한 것이다. 그래서 ‘「울도군절목」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상’이라는 제목을 잡았다. 흔히들 「울도군절목」이 2010년에 공개된 이후, 이 자료를 독도에 관한 행정관할 증거로 파악하고 있다. 「울도군절목」에 는 ‘독도’에 관한 언급이 하나도 없다. 그래서 「울도군절목」의 원문 전문을 소개하고, 그것을 통해 1902년대의 울릉도 사회상을 간단히 그려내겠다는 생각으로 이 주제를 구상하였다. 연구를 진행하면서 과연 1902년 3월 7일에 배계주가 울도군수로 재임용된 뒤 울릉도에 부임하였는가에 대한 의문이 들었다. 그래서 배계주의 행적을 추적하 기 시작하는데 많은 지면을 할애하였다. 그런 점에서 이 글은 울릉도 도감과 울도군 수 배계주 추적기이다. 그런 것 때문에 제목을 바꾸는게 좋지 않을까 생각했지만 기 획과제로 마련된 것이라는 점, 또 배계주의 행적 추적기를 통해 울릉도의 사회상을 이해할 수 있다는 점에서 제목을 고치지 않았다. 결국 그런 점에서 배계주의 행적의 추적을 통해 울릉도 사회상을 설명하려는 생각 때문에 장황스러운 글이 되었다.
    배계주가 울도군수에 1902년 3월 7일에 재임용되었지만 울릉도에 부임하지 못하 고 첫 울도군수로서 한 행적 때문에 재판에 회부되어 결국 면직되었다. 그런 상황에 서 배계주는 서울에서 자신이 ‘군규’를 시행할 목적으로 「울도군절목」으로 이름하여 내부에 상신하여 내부의 재가를 받아 그것을 지녔지만 울릉도에 들어가 언문으로 등 사하여 각동에 게시하지 못하였다. 시행되지 못한 「울도군절목」을 두고 독도를 포함한 울릉도 관할구역을 대한제국이 실효적으로 경영한 증거로서 주목할 만한 가치가 있 는 것이라고 평가하는 것은 문제가 있다고 생각된다.
    「울도군절목」은 울릉도 각동에 게시된 ‘군규’는 아니었지만 그 절목을 통해 1902년 대의 사회상을 엿볼 수 있는 의미 있는 자료인 것만은 분명하다. 이 절목은 언문으로 번역하고 등사하여 각동에 게시하고자 한 것이니 일본인이 아닌, 본국인을 대상으로 한 ‘郡規’이다. 그렇지만 절목에는 울릉도 재류일본인과의 갈등이 심각하게 보인다. 당 시 울릉도의 현안은 일본인이 행하는 무단 벌목과 가옥 매입이었다. 또 울도군의 행정 체제를 어떻게 확립할 것인가, 세수를 어떻게 확보할 것인가의 하는 문제였다. 「울도군 절목」에는 그것이 담겨 있다. 특히 서문에는 울도군수와 울릉도 주민과의 갈등이 나타난다.
    “「울도군절목」의 ‘수세’ 조항은 1900년대 「대한제국 칙령 제41호」의 연장선상에 나 온 것이다. 그리고 「대한제국 칙령 제41호」의 ‘수세’ 조항은 오성일과 배계주가 당시 성립한 비개항장 교역의 ‘수세’ 관행을 정부가 인정해준 것이다. 수세 품목에는 한인 이 채취한 미역과 造船용 목재, 곡물도 포함되어 있으나, 절목에서 말하는 ‘출입하는 화물’은 주로 대일 수출 화물을 가리키며 해산물도 포함한다. 해산물에는 전복과 우뭇가사리, 해삼, 오징어, 강치 등이 들어가 있고 세금 납부자는 일본인이었다. 전복과 우뭇가사리는 울릉도뿐만 아니라 독도에서도 채포됐고, 강치는 20세기 초에는 독도 에서만 포함되는 동물이었다. 그런데 대한제국 정부는 이들 품목의 징세권을 울릉도 수장에게 위임하였다. 일본이 수출 화물에 정한 한국의 징세권에 동의했고 그 화물에 독도산 해산물이 포함되어 있다는 사실은 일본이 독도 징세권을 인정했음을 의미한다”는 견해는 「대한제국 칙령 제41호」와 「울도군절목」의 ‘수세’ 조항을 잘못 이해한 것이다. 그것은 울릉도에 사는 본국인에 대한 수세 조항이다. 「대한제국 칙령 제41호」와「울도군절목」을 비개항장 교역의 수세 관행을 정부가 인정했다면 수출세에 대한 한일 양국의 논란과 대한제국이 울릉도 재류일본인의 철수를 요구할 권리가 없는 것이다. 그것은 울릉도에 재류일본인을 창출하려는 일본의 획책에 놀아난 울릉도 도감과 울도군수가 수출세를 징수하였기 때문에 나타난 문제이다. 그것을 되돌이키기에는 울릉도 도감과 울도군수가 그 맛에 들여 있었기 때문에 결국 도감과 군수가 몇 번이나 바뀌었고, 임명되었음에도 부임하지 못하였던 것이다. 이게 1902년대의 울릉도의 사회 상이다.

    참고문헌
    김영수, 「울도군 절목‘의 발굴과 그 의미」, 『영토해양연구』 2, 2011 Winter.
    송병기, 『재정판 울릉도와 독도』, 단국대학교 출판부, 2007.
    신용하 편저, 『독도영유권 자료의 탐구』 제3권, 독도연구보전협회, 2000.
    유미림, 「1902년의 울도군 절목(節目) 번역 및 해제」, 『2010 경상북도 독도사료연구회 연구보고 서』, 경상북도, 2010.
    유미림, 「수세(收稅) 관행과 독도에 대한 실효지배」, 『영토해양연구』 4, 2011 Winter.
    주강현, 『울릉도 개척사에 관한 연구-개척사 관련 기초자료 수집-』, 한국해양수산개발원, 2009.
    허영란•유미림, 『중학교 아름다운 독도』, 천재교육, 2012.

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  62. Ⅳ. 結論

    この論文は、韓国学中央研究院で、東海と西海、南海の島々の古文書を通じて島々の社会像を調べてみるという企画課題で出発したものだ。そこで「「鬱島郡節目」を通してみた1902年代の鬱陵島社会相」という題名を考えた。「鬱島郡節目」が2010年に公開されて以後、しばしば、この資料を独島に関する行政管轄の証拠として把握しているが、「鬱島郡節目」には「独島」に関する言及は一つもない。そこで「鬱島郡節目」の原文全文を紹介して、それを通じて1902年代の鬱陵島の社会相を簡単に描き出すという考えでこの主題を構想した。研究を進めて、果たして1902年3月7日に裵季周が鬱道郡守に再採用された後、鬱陵島に赴任したのかに対して疑問を感じた。そこで裵季周の行跡を追跡し始めるのに多くの紙面を割いた。そうした点で、この論文は鬱陵島島監と鬱道郡守の裵季周追跡記である。そんなことのために題名を変えるのは良くないだろうと考えたが、企画課題で用意されたものだという点、また、裵季周の行跡追跡記を通じて、鬱陵島の社会相を理解できるという点で題名を直さなかった。結局、そうした点で裵季周の行跡の追跡を通して鬱陵島社会相を説明しようとする考えのために冗漫な文になった。

    裵季周が鬱道郡守に1902年3月7日に再採用されたが、鬱陵島に赴任できず、初めての鬱道郡守としての行跡のために裁判に付され、結局免職になった。そのような状況で、裵季周は、ソウルで自身が「郡規」を施行する目的で「鬱島郡節目」と名付けて内部に上申し、内部の裁可を受けてそれを手にしたが、鬱陵島に入ってハングル文で謄写して各洞に掲示することはできなかった。施行することが出来なかった「鬱島郡節目」をもって、独島を含んだ鬱陵島所轄区域を大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目する価値があるものだと評価するのは問題があると考える。

    「鬱島郡節目」は鬱陵島各洞に掲示された「郡規」ではなかったが、その節目を通じて1902年代の社会相をのぞくことができる、意味のある資料であることだけは明らかだ。この節目はハングル文に翻訳して謄写して各洞に掲示しようとした、日本人でない本国人を対象にした「郡規」である。ところが節目には、鬱陵島在留日本人との葛藤が深刻に見えている。当時、鬱陵島の懸案は日本人が行う無断伐木と家屋買い入れだった。また鬱島郡の行政体制をどのように確立するのか、税収をどのように確保するのかという問題であった。「鬱島郡節目」にはそれが含まれている。特に序文には鬱道郡守と鬱陵島住民との葛藤が現れている。

    “「鬱島郡節目」の「収税」条項は、1900年代の「大韓帝国勅令第41号」の延長線上に出てきたものだ。そして「大韓帝国勅令第41号」の「収税」条項は、オ・ソンイルと裵季周が当時成立させた非開港場での交易の「収税」慣行を政府が認定したものだ。収税品目には韓国人が採取したワカメと造船用の木材、穀物も含まれているが、節目でいう「出入りする貨物」は主に対日輸出貨物を示し、海産物も含む。海産物にはアワビ、テングサ、ナマコ、イカ、アシカなどが入っていて税金納付者は日本人であった。アワビとテングサは鬱陵島だけでなく独島でもとれたし、アシカは20世紀始めには独島だけで捕獲される動物であった。ところで大韓帝国政府は、これらの品目の徴税権を鬱陵島の首長に委任した。日本が輸出貨物に定めた韓国の徴税権に同意し、その貨物に独島産海産物が含まれているという事実は、日本が独島徴税権を認めたことを意味する”という見解は、「大韓帝国勅令第41号」と「鬱島郡節目」の「収税」条項を間違って理解したものだ。それは鬱陵島に住む本国人に対する収税条項だ。「大韓帝国勅令第41号」と「鬱島郡節目」を、非開港場交易の収税慣行であると政府が認めたのだとすれば、輸出税に対する韓日両国の論議も、大韓帝国が鬱陵島在留日本人の撤収を要求する権利もないことになる。それは鬱陵島に在留日本人を創り出そうとする日本の画策にもてあそばれた鬱陵島島監と鬱道郡守が輸出税を徴収したために現れた問題だ。それを取り返そうとするには、鬱陵島島監と鬱道郡守がその中に取り込まれてしまっていたので、結局、島監と郡守が何度も変わり、任命されたのに赴任できなかったのである。これが1902年代の鬱陵島の社会相である。


    参考文献
    キム・ヨンス「「鬱島郡節目」の発掘とその意味」『領土海洋研究』 2,2011 Winter.
    宋炳基『再訂版 鬱陵島と独島』檀国大学校出版部、2007.
    慎鏞廈編著『独島領有権資料の探求』第3冊、独島研究保全協会、2000.
    柳美林「1902年の鬱島郡節目翻訳および解除」『2010慶尚北道、独島史料研究会研究報告書』、慶尚北道、2010.
    柳美林「収税慣行と独島に対する実効支配」、『領土海洋研究』 4,2011 Winter.
    チュ・ガンヒョン『鬱陵島開拓史に関する研究―開拓史関連基礎資料収集―』韓国海洋水産開発院、2009.
    許英蘭・柳美林『中学校 美しい独島』天才教育、2012.

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  63. キム・ホドン先生の文章は、けっこうクセがあって難しいです。
    とりあえず、「はじめに」と「結論」を訳しました。かなり豪傑訳をしているので、原文をあげておきます。ちゃんと正しく理解できているのか、やや不安です。

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  64. Anonymous11/6/14 00:22

    【蔵書閣】

     朝鮮王室の資料を集めた王室図書館で、現在は韓国学中央研究院に属する韓国学専門図書館、だそうです。

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  65. 「鬱島郡節目は、独島が韓国領だという証拠にはならない」というのが、要するにキム・ホドン先生の言いたいことのようです。それは「鬱島郡節目には、独島についての言及はない」というひとことにあらわれています。柳美林を批判している、というのは、そういう意味でしょう。

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  66. 「鬱島郡節目」을 통해 본 1902년대의 울릉도 사회상

    http://jsg.aks.ac.kr/upload/%EC%9E%A5%EC%84%9C%EA%B0%81%EC%A7%80_%EC%9B%90%EB%AC%B8/jsg30-04_khd.pdf

    김호동 영남대학교 독도연구소 연구교수

    Ⅰ. 머리말
    Ⅱ. 「鬱島郡節目」의 탈초문과 번역
    1. 탈초문
    2. 번역문
    Ⅲ. 「鬱島郡節目」에 나타난 울릉도의 사회상
    1. 裵季周의 행적을 통해 본 「鬱島郡節目」의 작성 배경
    2. 「鬱島郡節目」에 나타난 1902년대의 울릉도 사회상
    Ⅳ. 맺음말

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「欝島郡節目」を通じてみた1902年代の鬱陵島社会像

    金晧東(キム・ホドン) 嶺南大学校 独島研究所 研究教授

    Ⅰ. はじめに

    Ⅱ. 「欝島郡節目」の脱草文(翻刻)と翻訳
    1. 脱草文(翻刻)
    2. 翻訳文

    Ⅲ. 「欝島郡節目」に現れた鬱陵島の社会像
    1. 裵季周の行跡を通じてみた「欝島郡節目」の作成背景
    2.「欝島郡節目」に現れた1902年代の鬱陵島社会像

    Ⅳ. 結論


    そもそも、「社会像」か、「社会相」か? 全部翻訳してみないとわかりませんね(笑)
    だんだん、やります。

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  67. Ⅱ. 「欝島郡節目」の脱草文(翻刻)と翻訳

    筆者は2010年春、鬱陵島でキム・キベクから「鬱島郡節目」を譲り受けた直後に、柳美林が「鬱島郡節目」を送ってきた。鬱陵郡で「鬱島郡節目」を公開することにして、その後に資料を利用することにした。 2010年、慶尚北道史料研究会の『2010慶尚北道 独島史料研究会 研究報告書』で柳美林が原文翻刻と翻訳および解題をのせた。下の原文翻刻と翻訳は、当時嶺南大学校独島研究所に所属したチョン・モクジュ研究員が行った。そのことをここに記し、柳美林の翻刻と翻訳を参照して筆者が修正した。

    1. 탈초문 (翻刻)
    內閣總理大臣尹容善閣下
    內部
    鬱島郡節目
    本郡陞設今旣兩年全島庶務尙多草創之中數三悖民興訛梗化煽動居民則不可不自本部講究方略確立郡規故別成節目以送依此擧行無或違越島民中若有如前執迷不遵令飭者這這摘發卽速馳報則當有別般嚴處矣惕念擧行節目辭意亦爲眞諺飜謄揭付各洞俾無一民不聞不知之弊事
    一日本潛越人等偸斫木料別般嚴禁事
    一本島人民中家屋田土或有暗賣外國人者當一律施行事
    一本島開拓尙未盡墾爲念民人成家姑未定稅凡於島民耕食居生若移居內陸不得私相賣買還爲官有事
    一現存公廨爲七間則仍舊修葺若果狹窄四五間略加建築俾無民弊事
    一 鄕長一員書記一名使令三名姑先略施以爲供役事
    一郡守以下鄕長書記使令餼料不得不自郡略略算定而本島戶數足爲五百戶則每戶春等麥三斗秋等黃豆四斗式收斂分排廩料事
    一五百戶每戶收麥爲三斗則共計一千五百斗作石則爲一百石內郡守一員廩況六十石鄕長一員餼料十二石書記一名十石使令三名每名六石式合十八石總計一百石以爲定式事
    一各道商船來泊本島捕採魚藿人等處每十分抽一收稅外他出入貨物從價金 每百抽一以補經費事
    一官船一隻 不可不急先辦備然後以便航路而來往本部調査委員入島時田士能李東信處偸斫木料之屬公者這這査徵以爲購買船隻事
    一未盡條件自本郡爛商會議 更爲磨鍊事

    後錄
    香木貳百斤間一年進上事
    戶布錢五百兩每年輸納于度支部事
    郡守年俸及鄕長書記使令餼料總算 
    郡守春等麥六十石秋等黃豆四十石合一百石
    鄕長春等麥十二石秋等黃豆十二石合二十四石
    書記一名春等麥十石秋等黃豆十二石合二十二石
    使令每名春等麥六石秋等黃豆十二石三名合麥十八石合黃豆三十六石
    總計麥壹百石黃豆壹百石

    光武六年四月日
    內部

    2. 번역문
    내각총리대신 윤용선 각하
    내부
    울도군절목
    本郡이 군으로 승격되어 설치된 지가 이제 이미 두 해가 되었으나, 모든 섬의 여러 일이 여전히 많고, 초창기에 몇몇 悖民들이 뜬소문을 퍼뜨려 다른 사람에게 병폐가 되고, 살고 있는 백성들을 선동하니, 本部에서 方略을 강구하여 郡規를 확립하지 않 을 수 없으므로, 따로 절목을 작성하여 보냅니다. 이에 따라 거행하면 혹 어김이 없을 것이니, 섬 백성들 중에 만약 여전히 고집이 세고 명민하지 못해 令飭을 따르지 않는 자가 있으면, 낱낱이 적발하여 곧장 서둘러 馳報할 것이니, 마땅히 따로 엄하게 처벌 함이 있어야 할 것입니다. 惕念4)하여 절목을 거행함에 辭意도 眞書(한문)를 諺文으 로 번역하고 등사하여 各 洞에 게시하여 한 사람의 백성도 듣지 못하여 알지 못하여 폐단을 없게 할 일입니다.

    一. 일본의 潛越人5)들이 木料를 偸斫6)하는 것을 특별히[別般] 엄금할 것.
    一. 本島의 인민들 중에 家屋과 田土를 혹 외국인에게 暗賣하는 자가 있으니, 마땅 히 一律로써 시행할 것.
    一. 本島의 개척이 아직도 未盡하여 염려가 되고 백성들이 집안을 이루었으나, 아직 세금을 정하지 못하였다. 무릇 섬에 사는 백성들이 농사를 지으며 살아감에 만약 내륙으로 옮겨 살게 되면, 사사로이 매매할 수 없으니, 도리어 관의 소유로 할 것.
    一. 현재 있는 公廨(公館)가 7칸이 되니, 그대로 두고 지붕을 수리하고, 만약 과연
    비좁다면, 4~5칸을 대략 더 건축하여 民弊가 없게 할 것.
    一. 鄕長 1員, 書記 1명, 使令 3명을 우선적으로 略施하여 供役할 것.
    一. 郡守 이하 향장, 서기, 사령의 餼料7)는 郡에서 아주 간략하게 산정하지 않을 수 없어서 本島의 호수가 족히 500호가 되니, 매 호마다 春等8)의 보리 3말과 秋等의 콩 4말씩을 거두어 廩料로 분배할 것.
    一. 500호에서 매 호마다 보리를 거두어 3말[斗]이 되면, 총계 1500말이고, 섬[石] 으로 계산하면 100섬 내외가 됩니다. 군수 1원은 廩況이 60섬이고, 향장 1원은 餼料가 12섬이고, 書記 1명은 10섬이고, 使令 3명은 매 명마다 6섬씩 도합 18 섬이니, 총계 100섬으로 定式을 삼을 것.
    一. 각 道 商船이 本島에 來泊하고 魚藿9)을 捕採10)하는 사람들에게 매 10분의 1 을 세금으로 거두고, 그밖에 출입하는 貨物은 금액에 따라 매 100분의 1을 (세 금으로 거두어) 경비로 보충할 것.
    一. 官船 1척은 급선무로 마련하지 않을 수 없다. 그런 뒤에 航路를 편하게 하여 本部를 왕래하게 할 것이다. 조사위원이 섬으로 들어왔을 때, 田士能과 능히 李東信에게 木料를 偸斫한 것을 公으로 소속시키는 것을 낱낱이 조사하여 징수하 여 船隻을 구매할 것.
    一. 未盡한 조건은 本郡에서 충분히 잘 의논하여 다시 마련할 것.

    後錄
    香木 200근(斤)을 격년으로 진상할 것.
    戶布錢11) 500냥을 매년 탁지부에 수납할 것.
    군수의 연봉과 향장, 서기, 사령의 餼料를 모두 계산하니, 군수는 春等의 보리 60 섬, 秋等의 콩 40섬 도합 100섬이고, 향장은 춘등의 보리 12섬, 추등의 콩 12섬 도합 24섬이고, 서기 1명은 춘등의 보리 10섬, 추등의 콩 12섬 도합 22섬이고, 사령은 매 명마다 춘등의 보리 6섬, 추등의 콩 12섬, 3명 도합 보리 18섬, 도합 콩 36섬입니다.
    모두 계산하니 보리 100섬, 콩 100섬입니다.
    광무 6년(1902, 壬寅) 4월 일
    내부

    4) 惕念 : 두려워하는 마음을 가짐.
    5) 潛越人 : 몰래 국경을 넘어오는 사람.
    6) 偸斫 : 산의 나무를 몰래 벰.
    7) 餼料 : 給料 혹은 俸給.
    8) 春等 : 봄•가을로 두 번에 나누어 내는 조세 제도에서 봄에 내던 세금. 가을에 내는 세금은 秋等임.
    9) 魚藿 : 海産物을 통틀어 이르는 말
    10) 捕採 : 물고기를 잡거나 해산물을 채취하는 일.
    11) 戶布錢 : 고려•조선 시대에, 집집마다 봄과 가을에 무명이나 모시 따위로 내던 세금. 고려 충렬왕 때부터 苧布를 거두었으며, 조선 후기에 대원군은 軍布를 호포로 고쳐서 양반과 평민이 똑같이 부담하게 하였다.

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  68. 2.翻訳文

    内閣総理大臣 尹容善閣下
    内部

    鬱島郡節目

    本郡が郡に昇格して設置されて、もうすでに二年になったが、すべての島の色々な仕事が相変らず多くて、草創期にいくつかの悖民が噂をまき散らして他の人に弊害になり、住んでいる民草を扇動すると、本部(内部)で方略を講じて郡規を確立しなくてはいけないので、別に節目を作成して送ります。これに伴い、挙行すればひょっとして破ることがないこととか、島の住民らのうちにもし相変らず我が強くて明敏でなくて令飭に従わない者があれば、一つ一つ摘発して直ちに急いで馳報することとか、当然別に厳しく処罰するということがなければならないでしょう。惕念4)して節目を挙行する辞意も真書(漢文)を諺文に翻訳して謄写して各洞に掲示し、ひとりの民も聞くことがなく知ることがない弊害をなくすことです。

    一. 日本の潜越人5)が木料を偸斫6)することを特に[別般]厳禁すること。

    一. 本島の人民中に家屋と田土をあるいは外国人に暗売する者があると、当然に一律で施行すること。

    一. 本島の開拓がまだ未尽で心配になり国民らが家を成し遂げたが、まだ税金を定めることができなかった。およそ島に住む住民らが農作業をして生きていくことにもし内陸に移して生きることになれば、私的に売買できないから、かえって官の所有にすること。

    一. 現在ある公館が7間になると、そのまま置いて屋根を修理して、もし果たして狭苦しいならば、4~5間を概略さらに建築して民弊をなくすること。

    一. 郷長1員、書記1人、使令3人を優先的に略施して供役すること。

    一. 郡守以下、郷長、書記、使令の餼料7)は郡でとても簡略に算定しないわけにはいかなくて本島の戸が充分に500戸になったので、毎戸ごとに春等8)の麦3マルと秋等の豆4マルずつをおさめて餼料として分配すること。

    一. 500戸で毎戸ごとに麦をおさめて3マル[斗]になれば、総計1500マルで、石で計算すれば100石内外になります。郡守1員は?況が60石で、郷長1員は餼料が12石で、書記1人は10石で、使令3人は毎名ごとに6石ずつ都合18石、総計100石を定式とみなすこと。

    一. 各道商船が本島に来泊し、魚藿9)や捕採10)する人々に毎10分の1を税金でおさめて、その他に出入りする貨物は金額により毎100分の1を(三金でおさめて)経費に補充すること。

    一. 官船1隻は急いで用意せざるをえない。その後に航路を気楽にして本部を往来するようにするだろう。調査委員が島に入ってきた時、田士能と十分に李東信に木料を偸斫したのを公で所属させるのを一つ一つ調査して徴収して船隻を購入すること。

    一. 未尽の条件は本郡で十分によく相談して再び用意すること。

    後録
    香木200斤を隔年で進上すること。
    戸布銭11) 500両を毎年、度支部(大蔵省)に収納すること。
    郡守の年俸と鄕長、書記、使令の餼料を全部計算すると、
    郡守は春等の麦60石、秋等の豆40石、都合100石で、
    鄕長は春等の麦12石、秋等の豆12石、都合24石で、
    書記1人は春等の麦10石、秋等の豆12石、都合22石で、
    使令は毎名ごとに春等の麦6石、秋等の豆12石、3人都合麦18石、都合豆36石です。
    全部計算すると麦100石、豆100石です。
    光武6年(1902,壬寅) 4月日
    内部

    4)惕念:恐れる心を持つ。
    5)潜越人:こっそりと国境を越えてくる人.
    6)偸斫:山の木をこっそりと切る。
    7)餼料:給料あるいは俸給.
    8)春等:春・秋で二回に分けて出す租税制度で春に出した税金。秋に出す税金は秋等である。
    9)魚藿:海産物をあわせて言う言葉
    10)捕採:魚を捉えたり海産物を採取すること。
    11)戸布銭: 高麗・朝鮮時代に、家ごとに春と秋に木綿や苧麻などで出した税金。高麗忠烈王の時から苧布をおさめ、朝鮮末期に大院君は軍布を호포に改正し、両班と平民が同じように負担するようにした。

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  69. 翻訳文は、漢文の原文と照合して、あとで改訂しないといけないと思います。

    このブログで、昔、鬱島郡節目の解読をしたことがあったと思います。
    そちらのほうが、良い解釈が出来ていたかもしれません。

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  70. 茶阿弥さま・松さま ありがとう御座います。

    ところで、韓国KBSで2012年8月18日に報道された画面の写真に出ていた、
    http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/ll-a3cc.html
    https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/Korean-media-black-propaganda/TakeshimaFurSealTax
    日本側の史料は、これですね。

    「本邦人ノ渡航並在留取締ノ件/分割2」
    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460300?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

    この51 / 97
    契約証 (以下略)

    52 / 97 このコマと次のコマだけ書き起こします。
    一、輸出税ノ件
    輸出品ニ対シテハ前島監呉相鎰ト在島日本人
    トノ間ニ別紙ノ如キ条約文アリテ輸出額ノ二分ヲ
    大豆ヲ以テ輸出毎ニ輸出税トシテ島監ニ納メ現島
    監裵季周モ今日迠此条約ニ依テ徴税シ居レリ
    (一字訂正)■税物品ニハ制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明
    瞭ナラズ 納税ニ対スル呉島監ヨリノ領収書ハ散
    逸シテ僅カニ別紙一葉ヲ得 又 黄島監理ヨリ日本人
    濱口ニ対シテ滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ
    現島監裵季周ハ之レニ対シテ領収証ヲ發スルハ穏
    當ナラス 又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)
    ト云フテ未タ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ在島
    日本人ハ総代ヲ以テ今後領収証引換ニアラサレバ
    大豆ヲ渡サストテ裵島監ニ向テ 掛合中ナリ

    輸出ノ際ニハ島監ノ方ヨリ二人ヲ派シテ立合ハシムル例ナ
    リ裵島監ハ小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤノ問ニ対
    シテ初メハ取リタルコトナシト云ヒ後ニハ二年間口銭トシテ
    取リタリト云ヒ最後ニハ遂ニ是迄年々口銭トシテ受取
    来リタル旨ヲ立會取調ノ際ニ白状セリ聞取書ニハ
    裵島監昨年及一昨年ノ二年間受取リタリトアレトモ島
    監ハ日本語ヲ以テ是迄引続キ受取リタルコトヲ小官
    ニ白状セリ
    輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ

    53 / 97
    約条文
    一、欝陵島々監 日商向
         約条如左
         盟 約  [印]
    一、本島貿易 大豆太 (日本韓国) 百分二従
    日商納税以許之
     右條約依各自交換之事
     日本暦 明治三十二年旧四月一日
     韓国暦 光武三年四月初一日
    大韓国欝陵島々監 呉相鎰

    大日本国商人
    脇田●●●
          古木●●
          畑本●●
    外二十名
    佐々木●●●
          濱岡●●●
    以下略

    メモ 明治三十二年旧暦四月一日は、1899年 5月 10日 水曜日です。

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  71. 小嶋さん
    とても、面白い史料、ありがとうございます。
    畑本と脇田の名があり、重要な史料だと思います。
    史料の海に溺れそうです。(笑)

    こんな時に何ですが、YTNが「特ダネ」を出したようです。
    翻訳をしておきます。池田内閣の時代のようです。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日 "独島、提訴対象ではない" 秘密文書公開

    http://www.ytn.co.kr/_ln/0104_201406100133295720
    2014-06-10 01:33

    [アンカー]

    独島問題が国際司法裁判所提訴対象にならないという、1962年日本外務省が作成した秘密文書が発見されました。

    当時日本総理は韓国が独島を実効支配しているだけに「そのまま置こう」という発言までしたことがわかりました。

    パク・ヒチョン記者が報道します。



    [記者]

    最近一般に公開された日本外務省の1962年2月秘密文書です。

    1958年9月15日日本が独島に対する強制管轄を宣言したという内容が記述されています。

    だが、外務省は国際領土紛争は強制管轄権宣言をした後に発生することだと指摘します。

    換言すれば日本が強制管轄を宣言した1958年以前に発生した独島問題は紛争対象でないと日本自ら認めるのです。

    また、領土紛争裁判は強制管轄権を宣言した国家の間だけで適用されるので韓国が強制管轄権を宣言しない以上対象にならないと書いています。

    紛争当事者双方の同意なしでは国際司法裁判所に行くことができないという事実を明らかに分かりながらも50年以上我が国に足払いをかけたもようです。

    同じ年に開いたキム・ジョンピル当時中央情報部長と池田総理との非公開会談内容も公開されました。

    池田総理は韓国が独島を実効支配しているだけに「今は、このまま置こう」と話したことが明らかになりました。

    [インタビュー:イ・ヤンス、韓日会談文書公開訴訟市民団体]"日本の主張が初めから完全に不当だということを分かって主張しているが(今回の文書が)それを証明すると考えます。"

    「韓日会談完全公開を要求する市民の集い」は日本政府を相手に独島関連文書だけでなく韓日会談全般に対する文書を全部公開するようにする訴訟を継続して、歴史の真実を正しく知らせるという計画です。

    YTNパク・ヒチョンです。


    日 "독도, 제소 대상 아니다" 비밀문서 공개
    http://www.ytn.co.kr/_ln/0104_201406100133295720
    2014-06-10 01:33
    [앵커]

    독도 문제가 국제사법재판소 제소 대상이 안 된다는, 1962년 일본 외무성이 작성한 비밀문서가 발견됐습니다.

    당시 일본 총리는 한국이 독도를 실효 지배하고 있는 만큼 '그대로 두자'는 발언까지 했던 것으로 드러났습니다.

    박희천 기자가 보도합니다.
    [기자]

    최근 일반에 공개된 일본 외무성의 1962년 2월 비밀문서입니다.

    1958년 9월 15일 일본이 독도에 대한 강제관할을 선언했다는 내용이 기술돼 있습니다.

    하지만 외무성은 국제 영토 분쟁은 강제관할권 선언을 한 뒤에 발생하는 것이라고 지적합니다.

    다시 말해 일본이 강제관할을 선언한 1958년 이전에 발생한 독도 문제는 분쟁 대상이 아니라고 일본 스스로 인정한 겁니다.

    또, 영토 분쟁 재판은 강제관할권을 선언한 국가들 사이에서만 적용되기 때문에 한국이 강제관할권을 선언하지 않는 이상 대상이 되지 않는다고 적었습니다.

    분쟁 당사자 쌍방의 동의 없이는 국제사법재판소에 갈 수 없다는 사실을 뻔히 알면서도 50년 넘게 우리나라에 딴죽을 건 셈입니다.

    같은 해에 열린 김종필 당시 중앙정보부장과 이케다 총리와의 비공개 회담 내용도 공개됐습니다.

    이케다 총리는 한국이 독도를 실효 지배하고 있는 만큼 '지금, 이대로 두자'고 말한 것으로 드러났습니다.

    [인터뷰:이양수, 한일회담 문서 공개 소송 시민단체]
    "일본의 주장이 처음부터 완전히 부당하다는 것을 알면서 주장하고 있는데 (이번 문서가) 그걸 증명한다고 생각합니다."

    '한일회담 완전공개를 요구하는 시민의 모임'은 일본 정부를 상대로 독도 관련 문서뿐만 아니라 한일회담 전반에 대한 문서를 모두 공개하도록 하는 소송을 계속해 역사의 진실을 바로 알린다는 계획입니다.

    YTN 박희천입니다.

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  72. 鬱島郡節目(1904 年 4 月)」については、
    島根県の竹島問題研究所に、解読と日本語訳があります。
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/6-5.pdf

    ほとんど批判なしで、柳美林のトンデモ解説も日本語訳で付記されています。
    しかし、これを読むと、日本人が欅の木を伐採して禿げ山にして無法の限りを尽くしていたような大誤解を日本人に与えてしまいます。

    アジ歴の「本邦人ノ渡航並在留取締ノ件/分割2」
    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460300?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&

    から重要頁を書き起こしました。
    もしこの史料を「柳美林」式に解釈すると、日本の島根県の裁判を受けていることから、竹島のみならず、鬱陵島も日本の施政下にあった証拠にでっち上げることが出来ような史料です。私はそこまで乱暴なことは言いませんが、当時の日本人が鬱陵島のケヤキの木を伐採するときに、朝鮮人人夫を雇用して、代価を支払い、さらに朝鮮側の島監に対して、輸出税としてきちんと「大豆」を上納していたのに、嘘ばかり吐いて、領収書さえ書かずにいた、当時の島監たちの様子がはっきりわかる史料です。

    17 / 97コマ
      賣下証
    一、槻木一本 代金五拾円也
    右正ニ賣下候也
    己亥五月二十一日
     欝陵島々監 呉相鎰 ㊞
    脇田庄太郎

    メモ 己亥は、明治三十二年(1899年)
       旧暦五月二十一日は、新暦6月 28日
    印判写しは角形のみ


    48 / 97コマ
     賣下証
    一、槻木伐条銭五百両併捧上也
    右賣下事
    己亥四月二十五日
     欝陵島々監 呉相鎰
     日本 畑本公

    メモ 己亥旧四月二十五日は、西暦1899年 6月 3日

    51 / 97コマ  (読み易さを考えて、句読点と改行を補っています)
      契約証
    一、本島ニ於テ、槻木八十株製材スルニ付、此度貴殿方ヲ雇入レ、左ノ如ク定約ス。
    一、製材ハ盤板ト角材トシ、製材賃ハ凢テ製材塲ノ海岸ニ於テ、盤板ナレバ十分ノ五(壱万材ニ対シ五千材ノ割)、角材ナレバ十分ノ四.五(壱万材ニ対シ四千五百材ノ割)ヲ、通知ノ日ヨリ、降雨日ヲ除キ、十五日内ニ払渡ス事。若シ期限内不払ノ時ハ、製材物貴殿方ニ於テ随意ニ任ス。
    一、製材塲所ハ海岸ニ去ル、大凢日本里三十丁。
    一、製材期限ハ来ル、明治三十三年旧三月満日・光武四年三月満日、限トス。
      但シ期限内終業ニ至ラザル時ハ更ニ熟議ノ上決定ス。
    一、前条違約セシ時ハ韓銭一千両為損害払渡ス。
    右契約、堅ク遵守スル為メ、一札差入置キ候也。
    明治三十二年十一月二十日
     光武三年十一月二十日
     韓国欝陵島苧洞 田士能
     仝国仝島南陽洞 製材擔當人 黄應九
    仝国仝島道洞 製材擔當人 鄭尚元
    総代人 中西秋太郎殿
    迄迠約定三月満日終業ニ至ラサルニ付、双方熟議ヲ遂ケ七月満日限ニ更約ス
    田士能

    メモ 明治三十二年旧暦十一月二十日は、1899年 12月 22日 金曜です。

    52 / 97 コマ
    (昨日の翻刻に一文字遺漏がありましたので、補足し句読点と改行を施しました)

    一、輸出税ノ件
    輸出品ニ対シテハ、前島監、呉相鎰ト在島日本人トノ間ニ、別紙ノ如キ、条約文アリテ、輸出額ノ二分ヲ大豆ヲ以テ、輸出毎ニ、輸出税トシテ、島監ニ納メ、現島監、裵季周モ今日迠此条約ニ依テ、徴税シ居レリ。
    (「貨」の誤記を一字訂正して)、課税物品ニハ、制限ナキモ槻木材ヲ含ムヤ否ヤ明瞭ナラズ。納税ニ対スル、呉島監ヨリノ領収書ハ散逸シテ、僅カニ、別紙一葉ヲ得、又、黄島監理ヨリ日本人濱口ニ対シテ、滞納ヲ督促シタル文書一枚ヲ得タリ。
    現島監、裵季周ハ之レニ対シテ、領収証ヲ發スルハ穏當ナラズ。又政府ニ露顕乄(シテ)論責セラルヽ恐アリ(十六字挿入)ト云フテ、未ダ一枚モ發シタルコトナキヲ以テ、在島日本人ハ総代ヲ以テ、今後領収証引換ニアラザレバ大豆ヲ渡サズトテ、裵島監ニ向テ、掛合中ナリ。
    輸出ノ際ニハ、島監ノ方ヨリ、二人ヲ派シテ、立合ハシムル例ナリ。裵島監ハ、小官等ノ納税ノ事実アリヤ否ヤ、ノ問ニ対シテ、初メハ取リタルコトナシト云ヒ、後ニハ、二年間口銭トシテ取リタリ、ト云ヒ、最後ニハ遂ニ、是迄年々口銭トシテ受取来リタル旨ヲ、立會取調ノ際ニ白状セリ。聞取書ニハ、裵島監、昨年及一昨年ノ二年間受取リタリ、トアレドモ島監ハ、日本語ヲ以テ、是迄引続キ受取リタルコトヲ小官ニ白状セリ。

    輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ。


    2012年8月のKBSの番組では、「鬱陵島に出入りする全ての貨物・税金をかける内容が示されています。」と大嘘の字幕がハングルで書かれていますが、日本側から船舶で鬱陵島に搬入される物資という意味の「輸入ニ對シテハ納税シタルコトナシ」という、この記述から、それが大嘘であることがわかります。

    もちろん、「独島で漁業活動をしていた日本人が大韓帝国に税金を収めたという文書」ではなく、鬱陵島のケヤキの木を伐採・製材して日本に舶送する際に、島監の裵季周が、「領収証を発行することは、穏当なことではありません。もし韓国政府に露見したら、責任を取らされて責めを負う恐れがありますからと言って、いまだに領収書を一枚も発行したことがないので、在島の日本人が酷いではないかと怒って掛合っている。」ということなのです。

    ReplyDelete
  73. matsuさんが教えて下さったYTNの動画から、読み取れる部分を書き起こしました。

    (表紙)
    秘密指定解除 外交記録
    昭和37年7月    極秘 100部の中 5号
    日韓交渉関係法律問題 調書集
    外務省 条約局法規課
    条規(62)

    (本文画面1)
    できる (裁判所規程第41条)。
     (なお、わが国は、1958年9月15日、国際司法裁判所規程第35条2
    に基づき、裁判所の強制管轄を承認する宣言を行なつているが、この宣
    言に基づく義務的管轄権は同様に、強制管轄権受諾の宣言を行なつた国
    の関係でしか適用されない。また仮に韓国が同様の宣言を行なつたとし
    ても、わが国の強制管轄権受諾宣言は、裁判所付託を義務的と認める粉
    争を「宣言の日付以後の事態又は事実に関して同日以後に発生する全て
    の紛争」に限定しているから、わが国が竹島問題を同宣言にいう紛争の
    カテゴリーに含まれると解することはできないと考えられる。)
    (230)

    (本文画面2)
     竹島
     竹島問題を日韓両国が国際司法裁判所へ付託する際の
     手続について(昭和37.2.24)

     日韓両国が竹島問題を国際司法裁判所へ付託するための手続として■■
    記のとおり、(1)韓国が国際司法裁判所の管轄権を受諾し、その判決■■
    の宣言を行い、且つ、(2)日韓両国が竹島問題を付託することについ■■
    合意書を作成しなければならない。
     従つて、現在の段階において、韓国による応訴を確実ならしめる


    (手書きメモ1)

    (5) (竹島)問題に関し、金部長が、ICJ提訴の
     みが本件の唯一の解決策と思われるかと質
     したのに対し、池田総理は、世間の関心が
     消え失せるまでそっとそのままにしておくのも
     一案かもしれないと答えた。


    (手書きメモ2)

    金鐘泌 中央情報部長の訪日
    および訪米に関する米大使館員
    の内話について
       37. 10. 18
    北東アジア課

    米大使館■■■書記官は、本18日午前


    CMが煩わしいので、動画直接リンクURLです。保存される方はお早めに。
    http://nvod1.ytn.co.kr/general/mov/2014/0610/201406100133295720_s.wmv

    ReplyDelete
  74. 小嶋様

    史料提供、ありがとうございます。

    「欝陵島々監 呉相鎰」名前は、いま翻訳中のキム・ホドン論文にたくさん出てきます。
    (翻訳、もう少しお待ちください)
    「脇田庄太郎」は南北に分かれた鬱陵島のワキタ組の親分ですね。この人の動きは、この時代のキーになると思います。
    「畑本」ももう一人の親分ですね。これもキム・ホドン論文にたくさん出てきます。


    YTNの動画のほうですが、

    (手書きメモ1)
    (5) (竹島)問題に関し、金部長が、ICJ提訴の
     みが本件の唯一の解決策と思われるかと質
     したのに対し、池田総理は、世間の関心が
     消え失せるまでそっとそのままにしておくのも
     一案かもしれないと答えた。

    という部分はとても面白いですねえ。書き取っていただいたことをとてもありがたく思います。

    池田首相の時は日韓条約は締結できず、佐藤首相になって1965年6月22日の締結となるわけですが、池田さんは、日韓条約締結自体にも、実は消極的だったんですかね。

    金部長(金鐘泌)の側から、「ICJ提訴のみが本件の唯一の解決策と思われるかと質した」というのは、当時はハラを割って話し合える雰囲気があったことを伺わせます。

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  75. Chaamiey様

    ブログでのフォロー、ありがとうございます。

    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/MYBLOG/yblog.html
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56281339.html

    ブンキチ先生の「発見」した資料も、噴飯ものですね。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56274917.html
    http://www.kbmaeil.com/news/articleView.html?idxno=322346

    「独島は韓国の地」日本の公文書また発見
    キム・ムンギル(金文吉)名誉教授が本紙に明らかに
    「松竹両島は朝鮮の地」 1904年島根県記録

    島根県記録の原文は「元来朝鮮ノ東方海上ニ松竹両島ノ存在スルハ」ですが、
    隠岐からみて朝鮮の方向にある、ということにすぎず、

    朝鮮東方海上の松・竹両島は、「『朝鮮領土』と記録されている」わけではありません。

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  76. Anonymous13/6/14 20:56

    今に始まったことではないですが、韓国のマスコミはホントに何も分からないで記事を書きますねえ。それに別方面ではトンチンカンな論文も多いし。おかげで、近ごろはえらく忙しいです。誰かに謝罪と賠償でも請求できればいいけど(笑)

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  77. 小嶋さんがご紹介いただいている島根県のサイトの鬱島郡節目の翻刻と日本語訳は、やはり分かりやすいですね。ただ、1904年になっているのは1902年でしょうか。

    「鬱島郡節目(1904年4月)」について
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/6-5.pdf


    「鬱島郡節目」解読
    內閣總理大臣 尹容善 閣下
    內部
    鬱島郡節目
    本郡陞設 今旣兩年 全島庶務 尙多草創之中 數三悖民 興訙梗化 煽動居民 則不可不自本部 講究方略 確立郡規 故別成節目 以送 依此擧行 無或違越 島民中若有如前執迷 不遵令飭者 這這摘發卽速馳報 則當有別般嚴處矣 惕念擧行節目辭意 亦爲眞諺飜謄 揭付各洞 俾無一民不聞不知之弊事
    一 日本潛越人等 偸斫木料 別般嚴禁事
    一 本島人民中 家屋田土 或有暗賣外國人者 當一律施行事
    一 本島開拓 尙未盡 懇爲念民人成家 姑未定稅 凡於島民耕飝居生 若移居內陸 不得私相賣買 還爲官有事
    一 現存公廨 爲七間 則仍舊修葺 若果狹窄四五間 略加建築 俾無民弊事
    一 鄕長一員 書記一名 使令三名 姑先略施 以爲供役事
    一 郡守以下 鄕長書記使令 餼料不得不自郡 略略算定 而本島戶數 足爲五百戶 則每戶春等 麥三斗 秋等黃豆四斗式 收斂分排廩料事
    一 五百戶 每戶收麥爲三斗 則共計一千五百斗 凡石則爲一百石內 郡守一員廩況六十石 鄕長一員餼料十二石 書記一名十石 使令三名 每名六石式 合十八石 總計一百石 以爲定式事
    一 各道商船來泊本島 捕採魚藿人等處 每十分抽一 收稅 外他出入貨物 從價金 每百抽一 以補經費事
    一 官船一隻 不可不急先辦備 然後以便航路 而來往本部調査委員入島時 田士能李東
    信處 偸斫木料之屬公者 這這査徵 以爲購買船隻事
    一 未盡條件 自本郡爛商會議 更爲磨鍊事
    後錄
    香木 貳百斤 間一年 進上事
    戶布錢 五百兩 每年輸納于度支部事
    郡守 年俸及鄕長書記使令餼料 總算
    郡守 春等麥六十石 秋等黃豆四十石 合一百石
    鄕長 春等麥十二石 秋等黃豆十二石 合二十四石
    書記一名 春等麥十石 秋等黃豆十二石 合二十二石
    使令每名 春等麥六石 秋等黃豆十二石 三名合麥十八石 合黃豆三十六石 總計麥一百石 黃豆一百石
    光武六年四月 日
    內部


    日本語訳
    内閣総理大臣尹容善閣下
    内部の鬱島郡節目

    本郡(鬱島郡)が昇格してすでに2年が過ぎたのに、全島の庶務がまだ草創のままであることが多い中、流言飛語を作り出し教化されない何人かの悖民たちが、民衆を扇動するので、本部(内部)では方略を講じて郡の規律を確立せざるをえない。従って、別に節目を作って送るので、このまま行ない、破ってはいけない。 島民の中に、前のように戸惑って命令に従わない者がいれば、いちいち摘発して速やかに馳報せよ、然らば当然、別段の厳しい措置があるだろう。格別に留意し て挙行せよ。 節目の意味を諺文(ハングル)にも翻訳して各村に掲示し、一人たりとも聞いていない、知らないというような弊害をなくすこと。

    一 日本からやってきて木を密かに切っていく者を、特別に厳禁すること。
    一 本島の人民中に、家屋と田土を外国人に密かに売買する者があれば、当然のことに、一律(=死刑)を施行すること。
    一 本島の開拓はまだ未尽であるから、島民が家庭を作ることを切実に望む、よって税金はまだ定めない。およそ島民たちは耕作をして生きていくのであるが、もし万一、内陸に移居するような場合には、私的な売買を出来なくして官有に返還するようにさせ ること。
    一 現在ある官庁の建物は、七間であればそのまま屋根を補修して使い、もし4~5間程度で狭ければ、若干の増建だけをして、民に迷惑をかけないこと。
    一 鄕長1人、書記1人、使令3人を先ず先に置き、仕事に供役させること。
    一 郡守以下、鄕長・書記・使令の給料は、郡で概略算定しなくてはいけない。鬱陵島の戸数が500戸になるならば、家ごとに春に出す税金は麦3斗、秋に出す税金は豆4斗ずつを納めさせ、給料として分け与えること。
    一 500戸が、戸ごとに麦3斗を収めるならば、全部で1500斗になる。 石にすれば、全部で100石以内だ。郡守一人の給料は60石、鄕長1人の給料は12石、書記一人は10石、使令3人は一人当り6石ずつで合わせて18石、合計100石を定式とすること
    一 各道の商船にして鬱陵島に来て漁労や採藿をする者には、一人当たりに10分の1税を納めさせ、外地に出入する貨物は、その値段により100分の1税を納めさせて経費に加えること。
    一 官船一隻を先に用意してこそ往来が楽になるが、以前、本部の調査委員が入島したときに(1900年の禹用鼎の調査をさすか?)、田士能と李東信が盗んだ木を官衙に属させたことについては、きちんと調査・徴税して船隻の購買費用とすること。
    一 (このほかの)未尽の条件は、本郡で十分に相談してさらに整備すること

    後禄
    香木200斤を、1年おきに進上すること。
    戸布銭500両は、毎年、度支部(=大蔵省)に納入すること。
    郡守の年俸、および鄕長・書記・使令の給料は、総算する。
    郡守は、春には麦60石、秋には豆40石で、合計100石。
    鄕長は、春には麦12石、秋には豆12石で、合計24石。
    書記1人は、春には麦10石、秋には豆12石で合計22石。
    使令は、それぞれ春には麦6石、秋には豆12石、3人の合計が麦18石

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  78. 翻訳続きです。途中まで

    Ⅲ. 「欝島郡節目」に現れた鬱陵島の社会相

    1. 裵季周の行跡を通じてみた「欝島郡節目」の作成背景

    「鬱島郡節目」は、よく1902年大韓帝国内部から鬱島郡に下された行政指針だと理解されているが12)

    12)柳美林「1902年の鬱島郡節目 翻訳および解題」『2010慶尚北道、独島史料研究会研究報告書』慶尚北道、2010, 215ページ。キム・ヨンスも「最近、1902年4月大韓帝国内部が鬱島郡守に命令した「鬱島郡節目」が発掘された」と述べ(「「鬱島郡節目」の発掘とその意味」『領土海洋研究』 2,2011 Winter、134ページ)。柳美林は他の論文で「鬱島郡節目は1902年4月内部が作成して鬱島郡に命令した文書で、日本の不法居住と資源侵奪を阻止して鬱島郡の規律を確立するための対策を提示し、その中に対日輸出貨物に課税して経費に加えよとの内容が入っている」とした。(「収税慣行と独島に対する実効支配」『領土海洋研究』4,2011 Winter、89ページ)

    実状は、鬱島郡守・裵季周が「郡規」確立のために節目を作って内部に報告したものだ。内部では、鬱島郡守が提出した「節目」を検討して「後禄」を作成し、1902年4月に内閣総理大臣・尹容善に報告した。その資料が裵季周の家に所蔵され伝えられていることから見て、鬱島郡守である裵季周があげた「鬱陵島節目」をそのまま施行せよ、という内部の公文が裵季周に下達されたのであろう。

    裵季周は、鬱島郡が郡に昇格して2年も過ぎたのに郡の業務が相変らず多く、草創期に何人かの悖民が流言飛語を語って民衆を扇動するので、郡規を確立するために「鬱島郡節目」を作った、とした。1900年10月25日「大韓帝国勅令第41号」により鬱陵島は鬱島郡に昇格し、郡守が派遣された。郡の等級は最下級の五等と規定されたとはいえ、官制に編入されて中央から奏任官である郡守が派遣されたのは画期的措置であることは明らかだ。「大韓帝国勅令第41号」の第4条に、『経費は五等郡で磨錬し、現今間はすなわち吏額が未備で、庶事草創であり、海島収税中で姑先磨錬する事』とあることから見て、郡守以下の職員が全部は取り揃わなかったことがわかる。1896年の「勅令第36号」の「地方制度と管制の給料と経費の改正に関する件」によれば、郡の場合、巡校2人、首書記1人、書記4人、通引2人、使令4人、使傭2人、使僮1人、客舎直1人、郷校直1人など全19人の職員を置いたが13)

    13) 「建陽元年(開国505年)勅令第36号 地方制度と官制と俸給と経費の改正に関する件」(『勅令』建陽元年8月4日;『官報』建陽元年8月6日).

    「鬱島郡節目」の「後禄」によれば、郡守の他に、郷長1人、書記1人、使令3人がいるだけだ。そのために裵季周は「鬱島郡節目」を内部に上げて「全島庶務尚多」と言ったのである。内部が作成した「後禄」によれば、五等郡の郡に似合う官員が相変らず揃わなかったことがわかる。勅令第41号を論じて、「勅令第36号」に基づいて「(鬱島郡にも)全19人の職員を置くことができるようになり、禹用鼎が憂慮していた鬱陵島の管掌も、地方官としての威厳を立てることもできるようになった」14)

    14) 宋炳基『再訂版 鬱陵島と独島』檀国大学校出版部、2007, 195ページ.

    という評価は間違いで、1902年にも鬱島郡守の地方官としての威厳は確立されていなかった。

    そのために、裵季周が「鬱島郡節目」で明らかにした通り、鬱島郡に昇格した後にも何人かの悖民が流言飛語を語って民衆を扇動するほどに、鬱島郡守は行政的に鬱陵島を掌握できていなかった。そのため裵季周は「節目」を作って内部が「郡規」を確立することを要望した。そして島民の内にもし相変らず固執が強く明敏でなく令飭に従わない者がいたら内部に報告するので、その処罰を内部ですることを願った。

    「鬱島郡節目」は、後禄によれば「光武6年(1902 壬寅) 4月日」に内部から内閣総理大臣・尹容善に報告した資料だ。「鬱島郡節目」と共に公開された資料には、裵季周が1902年、光武6年3月7日に鬱島郡守に起用されたという「図1」のような勅命が伝わる。

    図1 裵季周 勅命

    上の勅命に現れるように、1902年3月7日、裵季周は鬱島郡守に任命されたという任命状を受けたが、5月30日まで鬱陵島に赴任できなかった。15)

    15) 1902年5月30日に釜山日本領事館が本国に送った報告書、日本外務省資料616-10 『釜山領事館報告書2』の「韓国欝陵島事情」の報告者である西村銈象警部は、1902年(明治35) 4月28日に鬱陵島に赴任した。(朴炳渉『韓末鬱陵島・独島漁業-独島領有権の観点で-』韓国海洋水産開発院、2009,109ページ) その報告は、西村銈象が5月30日に作成したものであるが、「裵季周と島民」で「裵季周はまだ島に帰ってこず、人物については分からない」としたことから見て、1902年4月28日までは鬱陵島に赴任していなかった。

    多分、裵季周はソウルにいて「鬱島郡節目」を用意して内部に報告し、赴任にあたり「鬱島郡節目」を持って行くつもりだったようだ。上の勅命で見るように、鬱島の「前郡守」だったために鬱陵島の状況をよく知っていたので、ソウルで「鬱島郡節目」を十分に構想できた可能性がある。

    裵季周は1900年10月25日、「大韓帝国勅令第41号」により鬱陵島を鬱島に改称し島監を郡守に改正した措置により、11月29日、初代の鬱島郡守に任命された。16)

    16) 『旧韓国官報』第1744号 光武4年11月29日「任欝島郡守 奏任官六等九品裵季周」

    裵季周が初めての鬱島郡守に任命されたのは、開拓民の一員であるためだ。裵季周が日本人に述べた資料によれば、仁川・永宗島の住民として1881年に鬱陵島に移住し、開拓の先頭に立ったという記録がある。17)

    17) 日本特命全権公使・林権助が外務大臣・小村寿太郎に報告した秘密文書によれば、京城にいる裵季周に会って話を聞き、「裵季周は仁川対岸にある永宗島の住民で、今から20年前、鬱陵島に移住して開拓することを計画し、率先してこの島に渡航してその開拓に従事しました」という報告をした。(『駐韓日本公使館記録』本省機密往信、機密133号、明治34年12月10日「欝陵島在留民取締ノ為メ警察官派遣ノ件上申」)。『日本外務省外交史史料館所蔵 韓国関係史料目録(明治・大正編)』によれば、裵季周は1896年に「46才」と記録されているので、20年前の1881年、29才の時に鬱陵島に入った。『光緒九年四月日欝陵島開拓時船格糧米雑物容入仮量成冊』(ソウル大学校奎章閣図書、No.17041)に基づいて、しばしば1883年の開拓令によって16戸54人が鬱陵島を開拓したというが、1883年以前に鬱陵島に居住のために鬱陵島に入ってきた人々を想定しなければならない。

    また「彼(裵季周)は、この島に移住して以来、ただ開拓と農業に努力し、本土からの移住民を奨励して、この島では若干の徳望がある」18)

    18)日本外務省資料616-10 『釜山領事館報告書2』1902年5月30日「韓国欝陵島事情」、「裴季周と島民」

    という記録を通して、裵季周が初めての鬱島郡守になったことがわかる。そのような履歴のために、鬱島郡守に任命される前に、1895年8月に鬱陵島島監に初めて任命され、1900年に鬱島郡守に任命されたのであった。

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  79. 開拓令前後に鬱陵島に入ってきた人々の子孫の多くの証言によれば、本土で生活に困り、切羽詰まって鬱陵島に入ってきた人々が大部分だ。しかし、裵季周の父親の裵顕亀(ペ・ヒョング)の場合、「図2」で見るように、1893年には正3品の都正職にあった。

    裵季周が1918年2月15日、京畿道富川郡徳積面ソヤ里(現仁川広域市甕津郡徳積面)で死亡したことから見て、仁川に縁故権(?)を持っていたという点で他の鬱陵島開拓民と違っており、開拓民を導くことができた。

    1895年8月に島長制が島監制に変わり、裵季周が島監に任命されて鬱陵島の事務を本格的に受け持つことになり、裵季周は鬱陵島島民として宣伝官の検察に同行して島監になったことから、日本人の鬱陵島侵奪を防ぐために訴訟も辞さないなど積極的な歩みを見せた、という評価がある。19)

    19)柳美林、2010, 前掲論文、216ページ.

    1898年に裵季周は不法搬出された木材を探すために隠岐と東京などの地で訴訟をし、1899年4月には松江地域で訴訟を提起して勝訴もした。裵季周は日本人から取り戻してきた木材の代金を訴訟費用に当て、余ったお金を国家に上納したために彼の行跡は『皇城新聞』に報道されるほどだったので、そうした評価を下すことができ、それによって「大韓帝国勅令第41号」の頒布によって鬱島郡守に任命されたと見ることができる。

    裵季周は、上のような治績があるにも関わらず、「受命照査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『欝陵島に於ける伐木関係雑録』)中の「輸出税件」資料に、「鬱陵島島監・呉相鎰」が日商に書いた約束条項文が出てくることから見て、1899年4月以前に鬱陵島島監を免職になったと見られる。裵季周が鬱陵島島監を免職になった時期と理由は韓国側史料に残っていないが、『独立新聞』 1899年1月19日「槐木潜売」の記事に「鬱陵島の樹木は国で禁じられるものであるが、島に住む裵季周など何人かが最も大きな槐木を皆作伐・作板(切り倒して製材)して外国人に密かに売り飛ばしているので、禁断してほしいと鬱陵島島監オ・サンイルが内部に報告した」という記録が見える。1899年1月19日以前に鬱陵島島監を免職になったことがわかる。
    ところが、当時、裵季周は、1899年初めに日本に渡って行って松江で日本の木材無断運出問題で裁判をしていたので、上の記事は誤りと見なされるという見解がある。その見解を後押しするものとして、『皇城新聞』(1902.4.29.)に「裵季周はその島を監官して6年であり、年前、裵島監が材木を返してもらうための件で日本に渡っていったが、島人・呉祥日が、島監不在の機会をうかがって署理と私称し、輸出入物品に対する税金を不当に奪ったというが、実は米と塩、酒と、若干の捧賂を受けたものだ」とあることを注目しなければならない。20)

    20)チュ・ガンヒョン『鬱陵島開拓史に関する研究-開拓史関連基礎資料収集-』韓国海洋水産開発院、2009,15~16ページ.

    しかし1899年5月、釜山に留まっていた前島監・裵季周を島監に再任命して、彼の赴任に際して、釜山海関税理士代理・ラポーテ(E. Laporte, 羅保得)を共に派遣、真相を調査した記録が残り伝えられており、21) ラポーテ・裵季周などが鬱陵島に発ったのは6月下旬であったという記録が伝えるので22) 裵季周が鬱陵島島監を免職になったことを確認することができる。

    21) 『内部去来案』 7(光武3年),照会第13号;『俄案』 2(『旧韓国外交文書』 18,高麗大学校付設アジア問題研究所、1969)文書番号1460;宋炳基、2007,前掲書、172ページ参照.
    22) 『内衙門日記』光武3年6月27日・28日


    裵季周が鬱陵島島監を免職になった理由を類推するため、次に日本の資料を調べることにする。

    ① 裵季周は仁川対岸にある永宗島の住民で、今から20年前、鬱陵島に移住し開拓することを計画して率先してこの島に渡航し、その開拓に従事しました。しかし、残念なことにこの島は本来無人島で(周囲が130里という)、韓国沿岸との交通が開かれていないために非常に困難を感じ、その結果、頻繁に日本人の渡航を勧誘することに努め、また直接、島根または神戸などの地方に行って、この島産出の槻木売買を特約するなど、次第に日本人がこの島に渡航する道を開きました。彼とともに韓国人が渡航する便が開かれ、ここに移住の端緒を開くことになったもので、今はこの島に居住する韓国人数は5,000~6,000人に達し、日本人在留者もまた男女300~400人、多い時には1,000人に達することがあります。(それが時々増減があるのは、もっぱら漁業時期に関係するとのこと)そして上記の我が国人(注:日本人)の中には、すでに30~40戸の家屋を作ってほとんど土着したような生活をしている者もありますが、彼らの中には無知で強情な連中が多いです。ところが彼らを取り締まる官吏がいないので、相互間の論争はひたすら腕力で決めており、甚だしきは殺人犯もあります。特に韓国人の間の関係は腕力に訴えることを普通とする状態なので、島司の力が十分にこれを制止できずに、島を治めるのに障害がなくはないといいます。 ……島民と我が国の人々との関係は、決して一朝一夕のことではなく既に10数年にもなって、今はより一層その関係が深くなっており、たとえひとまず退去させても、ますます来て集まることは自然な趨勢です。そして事がここに至ったのは、前記の裵島監の言うように、この島の開拓にともなう交通の便益を得るために彼らが勧誘したのに起因するもので、今日に至って帝国政府がその責任を負って退去させる義務がないだけではなく、むしろその責任を韓国政府に付すことが至当だと認め、昨年7月4日付機密第54号で卑見を具申したところ、同年7月18日付機密第36号の回訓を受けたので、本公使は上の回訓の趣旨をもって、直ちに別紙甲号のように韓国政府に照会したところ、同乙号のように我々の提案には同意し難いという意の回答を受けました。(『駐韓日本公使館記録』本省機密往信、機密133号、明治34年12月10日、「鬱陵島在留民取締ノ為メ警察官派遣ノ件上申」)

    ② 島民は、戸数が520世帯余り、人口2,500人余り。島監というものが島治する。島監の下に各村ごとに村長がいて、村のすべての役割を担当する。島監の官庁は今は道洞という所にあり、今の島監は裵季周という。韓国政府からは一銭の給料もなく、島民やその他からも収入が少ないので貧しくて勢力がない。その上権力がないので島民の大部分は彼の命令に従わないので治績も上げることができない。島民相互間は隣人との間は互いに親しく、共同生活の秩序をよく守っている。裵島監は日本に三度来たことがあり、日本語を少しは理解するので、日本人のためには非常に便利であるが、日本での槻木材の価値が分かるので、常に直接伐採して日本人の一人と結託して利益を独占しようとする。昨年以後、彼は韓国朝廷に日本人の槻木盗伐云々を報告し、また島民が槻木を守るのは生命と同じようだと言った話などは、全てこのような腹から出た言葉である。島民は槻木の価格も知らず、山ではこれを薪炭用として伐木していた。このような理由で島監と日本人の間の感情は良くない。(『駐韓日本公使館記録』 14巻(翻刻版)「欝陵島調査概況」 「第4 島治」国史編纂委員会、1995,544ページ; 朴炳渉『韓末鬱陵島・独島漁業-独島領有権の観点で-』韓国海洋水産開発院、2009,104ページ)

    ③ 彼は、明治29年(1896) 3月島監に任命されると、島根県平民 ・木村源一郎、鳥取県平民 ・石橋勇三郎と共謀して、本邦在留民に非開港場で密輸出入をしたという理由で金150円以上500円以下の罰金を徴収した。未納者には直ちに韓国を離れることを命じ、有体動産を没収した後に3人が分配したことを島にいる韓人が知ると、非常に排斥され、一時本土に避けたことがあった。その後、明治31年8月、島根県平民 ・吉尾万太郎が木こりを雇用しケヤキを製材して道洞海岸に運ぶのを認識し、そこに自分の印鑑を押して本邦に輸出した後、境地方裁判所に取り戻す訴訟を提起した。その後、彼は東京に行き、朴泳孝に依頼して朴泳孝から境地方裁判所に対し、裵季周は郡守なのでそれに見合う待遇をしろとの書信を受けた。彼が裁判所で高等官の待遇を受けると一層得意となって、他人の物を押収しようとしたが、取り調べの結果互いに合意して輸出した槻木の半額を取得した。また、その年12月、同じ手段で 木村源一郎を証人とし、石橋勇三郎を代理人に決め、島根県平民 ・福間兵之助の輸出材木について境地方裁判所に提訴して勝訴したが、福間から広島公訴院に訴訟され、再審の結果敗訴した。これについて福間から金1,200円の損害賠償を請求され、内金として豆20石を支払い、残金は証書にしたがその後支払わず、しばしば請求を受けてほとんど困難な状況に至ると、その後は訴訟はしなくなったという。彼はいつもこの島の物産を独占的に販売して利潤を独占しようと木村と石橋などと画策したが思い通りにならず失敗に終わった。(日本外務省資料616-10 『釜山領事館報告書2』1902年5月30日「韓国鬱陵島事情」「裴季周と島民」)

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  80. 史料①~③を見ると、裵季周が島監に在職して日本人の鬱陵島侵奪を防ぐために訴訟も辞さないなど積極的な歩みを見せた、という評価には反する行跡が見える。『独立新聞』1899年1月19日「槐木潜売」の記事と符合する記録だ。史料①によれば、裵季周は鬱陵島の開拓にともなう交通の便益を得るために、日本人の渡航を積極的に勧誘し、裵季周が直接日本の島根または神戸などの地方に行って鬱陵島産出の槻木売買を特約するなど、次第に日本人が鬱陵島に渡航する道を開いたという評価である。このため彼らが勧誘したのに起因するので日本政府が鬱陵島の日本人を退去させる義務はないとして、むしろその責任を韓国政府に押し付けている。次に史料②によれば、日本に3度来たことがあり、日本での槻木材の価値が分かるので、常に直接伐採して日本人の一人と結託して利益を独占しようとしている、と裵季周を評価している。史料③によれば、具体的に裵季周が1896年に日本人と結託して、島根県平民 ・木村源一郎、鳥取県平民 ・石橋勇三郎と共謀して、鬱陵島の日本人たちが非開港場で密輸出入をするという理由で罰金を賦課し、未納者に直ちに韓国を去ることを命じて有体動産を没収した後、3人が分配した。そのことを韓人たちが知るようになると、非常に排斥されて一時本土に避けたことがあった。その後1898年8月に、日本人が切った槻木を裵季周の印鑑を押して日本に輸出した後、境地方裁判所に取り戻す訴訟を提起して勝訴したことを機会に、その年12月に同じ手段を繰り返して福間兵之助に訴訟を提起して結局敗訴した。それで福間から金1,200円の損害賠償請求を受け、内入金として豆20石を支払い、残金は証書にしたがその後支払わずにしばしば請求受け、ほとんど困難な状況に至ると、その後訴訟をしないようになったとしている。裵季周は、鬱陵島の物産を独占的に販売して利潤を独占しようと木村や石橋などと画策したが思い通りならなくて失敗に終わった、ということから見て、このような事実が知られて鬱陵島島監を免職になったと考えられる。

    裵季周は鬱陵島島監を免職になったが、1899年5月、政府は裵季周を島監に再任命し、1900年10月25日「大韓帝国勅令第41号」により鬱陵島を鬱島に改称して島監を郡守に改正した措置により、11月29日、初代鬱島郡守に任命された。23)

    23) 『旧韓国官報』第1744号、光武4年11月29日「任欝島郡守 奏任官六等九品裵季周」

    そのことは韓日両国資料に現れないけれど、史料①~③資料を見ると、第一に、鬱陵島開拓民の一員であり、また島監を歴任して鬱陵島についての事情をどこの誰よりも良く知っていたことが考慮されたと見られ、第二に、日本語に堪能で日本に渡っていって犯斫偸運に対する訴訟をするほどの対日専門家であった。日本人の犯斫偸運が激しくなるにつれ、1899年、釜山に留まっていた前島監・裵季周を島監に再任用するほかはなかったのである。

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  81. 日本人の犯斫偸運が激しくなると、裵季周を鬱陵島島監に再任用し、釜山海関税理士署理ラポーテを鬱陵島に派遣、真相を調査しようとしたが、ラポーテ・裵季周などが鬱陵島に発ったのは6月下旬であった。ラポーテはまもなく調査を終えて帰って来て、総税理士ブラウン(J. B. Brown、栢卓安)を通して、政府に報告書を提出した。24)

    24) 『海関案』2(『旧韓国外交関係付属文書』、高麗大学校アジア問題研究所、1972)文書番号1621;宋炳基、2007 前掲書、173ページ 再引用.

    ラポーテと裵季周などの報告によれば「鬱陵島は開拓されて何年にもならないので人口が希少であるが、日本人の無頼者たちが群れを成して移居し、居民を凌辱侵虐し森林を切り倒し……穀物と物貨を密貿易する。少しでも止めようとすると刃物を抜いて振り回し立向かって勝手に暴動してはばかるところが少しもないので、居民たちは皆驚き恐れて安堵できない実情」25)であった。

    25) 『内部去来案』 3,照会第13号、光武3年9月15日

    鬱陵島での日本人の犯斫と偸運に対する報告が中央政府に連続報告されるや、ロシアが日本人の鬱陵島の犯斫と偸運をロシアの利権侵害と見なし、1899年8月に日本政府に鬱陵島の樹木がロシアに特許されたことを明らかにして、日本人の伐木を禁止するよう措置することを要請したし、26) 大韓帝国政府にも、8月3日・15日、10月11日の3回にわたり、日本人の伐木に強力に抗議した。27)


    26) 『外衙門日記』光武3年8月16日;『日案』 4,文書番号5261;『日本外交文書』 32,事項9,文書番号166・168.
    27) 宋炳基、2007,前掲書、128ページ.

    ロシアが鬱陵島の犯斫と偸運を問題にした理由は、1896年2月の俄館播遷を契機に朝鮮政府がロシアにいくつかの利権を譲り渡したが、その中の一つとして鴨緑江・豆満江流域および鬱陵島森林伐採権をウラジオストック商人ブリンナー(Y. I. Brynner) に特許を渡したためだ。ロシアの抗議を受けた日本側は、直ちに大韓帝国政府に伐採権を譲与した事実があるかを問い合わせ、それを確認すると日本はロシアの伐木禁止要請を受け入れることに決めて(1899.8)、元山領事館外務書記生を鬱陵島に派遣して(1899.9)、現地の日本人たちに11月末まで撤収することを指示した。『独立新聞』と『皇城新聞』を見ると、1899年9月以後、鬱陵島島監・裵季周の日本人の槻木盗伐と悪事に関する報告を引用した記事がたくさん登場する。ところが史料②によれば、1899年から裵季周が韓国朝廷に日本人槻木盗伐云々して報告し、また島民が槻木を守ることは生命と同じだと言った話などは、裵季周が日本での槻木材の価値を知っているために、いつも直接伐採して日本人の一人と結託して利益を独占するための腹だと解釈している。こうした認識をもとに考えると、鬱陵島島監・裵季周は、日本人を抑えることはできないことになる。

    ロシアが鬱陵島問題を取り上げたことと、ラポーテ・裵季周の報告により、大韓帝国政府は日本側に鬱陵島在留日本人の撤収(=退去)を要求する一方、9月に内部視察官を鬱陵島調査委員に任命・派遣して、その実態を調べることを決め、28) 12月15日、禹用鼎を視察委員に任命した。29)

    28) 禹用鼎『鬱島記』
    29) 『官報』光武3年12月19日

    韓日間に鬱陵島在留日本人たちの撤収交渉が進行される中で、1900年3月15日に、島監・裵季周から日本人の悪事についての報告があった。その要旨は、①現地の日本人たちは退去する意向がないだけでなく、前島監オ・ソンイルが発給した文書を口実にして1899年8・9月間に1千余板を斫伐し、島監がソウルに上がって告訴しようとすると、日本人は船着場で邪魔をして通渉出来なかった。②島監が日本に渡って行って裁判したのは数年前のことであるが、日本人たちは当時の費用を強要して島民たちが弁償した。③槻木の斫伐を禁じると、日本人たちは査検と伐木契約を結んだとして契約金返還を要請し、島民たちが3,000余両を返した、という報告であった。30)

    30) 『内部去来案』 8(光武4年),照会第6号;『交渉局日記』光武4年3月15日

    大韓帝国政府は、日本公使館に紹介してこれに抗議し、日本人の早急な撤収と銭貨の償還を要請した。31)

    31) 『交渉局日記』光武4年3月16日;『日案』 4,文書番号5566.

    日本公使は、3月23日の回答照会で、双方で共同調査することを要求し、日本人が島監に相当なる代価を支払い、その許可を受けて伐木に従事したという真情があったとして、日本人たちは島監との黙契下に、知らず知らずに往来・居留することが慣例になったと主張した。32)

    32) 『日案』 4,文書番号5572.

    両国の共同調査に関する議論が展開する間、日本公使は釜山領事に共同調査に備える覚書4項目を訓令した。その中では、秘密裏にロシア人と伐木権の譲受を交渉し始め、この交渉は非常に進展していることを明らかにしている。33)

    33) 『駐韓日本公使館記録』各領事機密来信(明治33年)機密第5号.

    この訓令に続き「欝陵島在留日本人調査要領」を示達して、日本政府は日本人たちが鬱陵島に残留するよう承認を受けることが必要なので、調査に臨んでは島監が日本人たちの在留を承認したとか、伐木を承認あるいは黙認した状況について主眼を置けと強調した。34)
    34) 『駐韓日本公使館記録』各領事機密来信(明治33年)機密第6号.

    林権助が提案した共同調査案を大韓帝国政府は5月4日受諾した。35)

    35) 『交渉局日記』光武4年3月27日・5月4日;『日案』 4,文書番号.

    禹用鼎をその代表格である視察委員とし、監理署主査・金冕秀、釜山海関税務士・ラポーテおよび封弁・金声遠、そして釜山に駐在していた日本副領事官補・赤塚正助および警部1人で構成された調査団は、5月31日鬱陵島に到着し、6月1日から5日間、税務士ラポーテ立会の下、その実態を調査した。1900年の「受命調査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『鬱陵島に於ける伐木関係雑録』)中の「輸出税件」についての調査は、3月23日の日本公使の回答文の中で、「鬱陵島の日本人たちが島監に相当な代価を支払い、その許可を受けて伐木に従事した」という真情を裏付け、「鬱陵島在留日本人調査要領」を熟知して、島監に輸出税を出したという証拠資料の収集に力を傾けたことがわかる。彼らは前島監オ・サンイル(オ・ソンイル)と鬱陵島在留日本人の間で結んだ別紙の約条文を証拠資料として確保した。輸出額の2分を大豆太でオ・サンイル島監に出すという1899年4月1日の約条文であった。そして現島監・裵季周も今日までこの条約で徴税しているとした。裵季周は非開港場での輸出税徴収は不法であることが分かっていたので、「領収書発行は適当ではなく政府にも露出して叱責される恐れがあるとして、まだ1枚も発行したことがない」と報告書で記録したように、裵季周は領収書を発行しなかった。裵季周は納税の事実があるのかどうかを尋ねると、初めは納めることがないと言い、後には2年間口伝(?)で受けたと言い、最後には今まで毎年口伝で受け入れて来たと言った。ところが文書には昨年と一昨年2年間受けたという記録だけ残っていると報告書に記録された。

    鬱陵島視察委員・禹用鼎が調査を終えて帰京したのは1900年6月中旬(15日)であった。 彼は内部大臣・李乾夏に報告書を提出した。36)

    36) 『皇城新聞』光武4年6月18日.

    禹用鼎が政府に建議した内容は、第一に、島監・裵季周は1896・1897年両年に日本人たちから罰金と税金を徴収したが、その後は不通商口岸での抽税の不可を知って徴収しなかったが、日本人が一日住めば「一日之害」、二日住めば「二日之害」になるだけでなく、来留自体が条約外のことであるから、日本側と早く談判して彼らを撤収させることにより島民と森林を保護しななければならない。二番目に、鬱陵島の官制を改編するが、これに伴い増える官員・書記・給仕の月俸は、島内400余戸から集める豆・麦80石で充当することができ、島の経費は全羅南道民から徴収する藿税を100分の5から10に上げればその金額が年間1,000余ウォンになるので、少なくない助けになるというものだった。37)

    37)禹用鼎『鬱島記』;『内部去来案』 8(光武4年)照会第12号;宋炳基、2007,前掲書、187~188ページ参照.

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  82. 禹用鼎の報告書と、1900年「受命照査事項報告書」(1900年外務省記録3532 『鬱陵島に於ける伐木関係雑録』)中の「輸出税件」に関する日本の報告書を比較してみれば、禹用鼎が裵季周に寛大だったことがわかる。前にも述べた通り『独立新聞』と『皇城新聞』を調べれば、1899年9月以後、鬱陵島島監・裵季周が日本人の槻木盗伐と悪事に関する報告を引用した記事がたくさん登場する。外部大臣・朴斉純が日本公使・林権助に送った外交文書の中で、禹用鼎が鬱陵島を離れた以後の状況を裵季周が報告した以下のような記録を引用している。

    大韓外部大臣・朴斉純が照会します。今回受け付けた内部大臣の公文に『鬱陵島監務・裵季周が報告するには「内部視察官・禹用鼎がこれまでに鬱陵島の山林を日本人が不法に切ることについて調査をした文書があります。しかし禹用鼎が戻った2日後、日本商船5隻が鬱陵島に停泊し、こちらに滞留する日本人たちは四方の山をあまねく歩き回り残った槻木を思いのままに切って、山が裸になることが恐ろしいです。そこで、日本人・烟本に問いつめると、彼が言うには、鬱陵島の前監務・呉相鎰と田在恒の伐木許可証があると言いました。これについて呉相鎰の許可証を調べると槻木2株だけだったのに不法に切ったのは70株余りに達し、田票は80株であったのが彼らが不法に切ったのは83株を越えました。遡及して調べれば、禹用鼎が調査する時に日本領事と数回の談判を経て、日本領事は再び不法を行うなという意を鬱陵島にいる日本人たちに命じました。それでも今回、法を無視して思いのままに切ることが以前より激しいので誠に驚くべきで嘆かわしいことです」と言いました。このため通知するので、貴大臣は日本公使に照会して鬱陵島に滞留する日本人たちを直ちに撤収させ、再び不法行為が無いようにしてください』と言いました。38)

    38) 『各司謄録』第63号(光武4年9月6日).

    このように裵季周は、1899年6月鬱陵島に赴任した後、日本人の伐木を摘発してその処罰を中央政府に一つ一つ報告したので、鬱島郡守の適任者と見なされただろう。そのために裵季周が1900年11月26日付で鬱島郡守に任命されたのだ。


    1901年初め、設郡にともなう色々な準備をするため、内部官員・崔聖麟を派遣した。39)

    39) 『皇城新聞』光武5年1月18日.

    ところが、1901年2月2日の記録に鬱島郡守・裵季周が未赴任だという記録40) 、3月13日に渡任したという記録が出てきて41)、8月20日までにも鬱島郡守・裵季周の赴任報告が到着しないという42)記録が出てくる。

    40) 『各司謄録』通牒第23号(1901年2月2日).
    41) 『各司謄録』通牒第152号(1901年7月15日).
    42) 『各司謄録』通牒第187号(1901年7月15日).

    裵季周の報告がそれまで来ないからなのか、8月に釜山海関の士弥須、同幇辧・金声遠、東莱監理署主事・丁宝燮などを鬱陵島に派遣して日本人たちの実態を調査した。現地調査を終えた士弥須は、まもなく政府に報告書を提出した(8月)。その要旨は、①島内に常駐する日本人数は550人で、この他にも毎年伐木のため来島する数は300~400人に達する。②島内日本人の2大派閥である「ハタモト党」と「ワキタ党」が鬱陵島を南北に分界、森林を自ら領有して「認状」なしに伐木している上に、島民たちの伐木を禁じて違反者から罰金を徴収している。③島内の日本船舶数は、板材を積んで出帆中の5隻を含めて21隻であり、釜山日本領事館の准単(許可証)を持つ漁船7隻と潜水夫艇13隻がある、ということなどであった。43) このような士弥須報告があった後、裵季周の似た報告が受け取られた。44)

    43) 『皇城新聞』、光武6年4月29日.
    44) 『各司謄録』照会第11号(1901年9月25日),

    この資料を通して、鬱島郡に昇格し鬱島郡守が鬱陵島を治めたのに裵季周は日本の侵奪を全く防ぐことができていないことがわかる。実際、鬱島郡に昇格して郡守が派遣されても、行政実務を担当する官属もまともに配置されなかったし、治安を担当する吏校はまったく配置されていないことを1902年の「鬱島郡節目」を通じて確認することができるのであり、裵季周の無能は、すなわち大韓帝国政府の無能のせいであった。

    鬱陵島在留日本人の悪事ばかりでなく、郡の経費は島民から徴収したので、裵季周・崔聖麟などは鬱陵島民の民怨を買ったりもした。45)

    45) 『交渉局日記』光武5年5月1日;『皇城新聞』光武5年5月3日、7月26日.

    その代表的なものを列挙して、裵季周が鬱島郡守を免職になった理由を類推してみることにする。

    第一に、鬱陵島開拓以後、鬱陵島民の交通と通信を担当する韓国の船舶はなかった。窮余の策で島民が開運丸という名前の帆船一隻を購入しようとした。その代金をやりくりする方法を探すことができなかった時、1900年鬱陵島視察委員である禹用鼎が蔚珍人・崔秉鱗と共に購入して運行するようにしたことがある。46)

    46)禹用鼎『鬱島記』;『皇城新聞』光武5年3月11日付「雑報」

    『皇城新聞』 1901年3月11日付の「雑報」の記事によれば、開運丸(済益船)が槻木をのせて黄土浦で風浪のため破船されると、開運会社社員は、船舶は政府が購入したものなのに、お前たちが槻木を載せるのを遅滞したために壊れたので、船価と費用1万 6千両を島民から徴収し、再び船舶を購入して来ようとした。これに反対した島民たちが出て、郡守の報告書を持って鬱陵島事情が分かる田士能を釜山に送ったところ、印章を偽造して郡守報告書に押したとして田士能を釜山港監理署に拘束し裁判を要請したという記事がある。裵季周が3月13日に鬱陵島に赴任したので、郡守報告書の印章がにせ物であることが簡単に暴露されたわけだ。『皇城新聞』 1901年10月29日「雑報」欄に、鬱陵島島民たちが会議した結果、鬱陵島で商権を外国人すなわち日本人に奪われるのは、貨物を運ぶ船舶がないためだと結論付け、島民たちがそれぞれ股金(株式会社の資本金)を出して保合丸2隻を購入することを議決したことを外部に報告した、という記事を扱っている。裵季周が、開運丸が破船した後、運搬船2隻の費用を島民に賦課しようとしたが、一部島民の激しい反発にぶつかったとして1902年初めに解任され、姜泳禹が第2代鬱島郡守に任命された原因もここにあったものと推定されるという解釈もある。47)

    47)慎鏞廈編著『独島領有権資料の探求』第3冊、独島研究保全協会、2000,151ページ.

    ところが、次の資料を通じて見ると、裵季周が鬱陵島在留日本人と島民たちの信望を失い鬱島郡守の職任を遂行せずに本土に逃走したので、鬱島郡守を免職なったというのが穏当なところのようだ。

    ④ その後、明治34年に宮内府調査委員・崔秉鱗が島に来た頃、畑本・脇田などは自分の船に韓人の荷物と本邦の物品をのせて朝鮮本土の非開港場に出港しようとした。これを島監が知って、崔秉鱗と企て、汽船・蒼龍号が島に来次第、便乗して釜山税関に行って訴えて船体と貨物を押収し、一方で本人などは(畑本などを)島から退去させようと島の韓人と協議した。これを畑本栄次郎ほかの数人が知ることになった。事態が尋常でないとして、畑本は崔秉鱗にその理由を尋ねたところ、彼は決してそのような協議をしたことはないと答えて、裵郡守他3人をたてて立証しようとしたが、畑本などは確実な証拠があると主張して聞き入れなかった。論争の末に、互いに3,650ウォンの懸賞金をかけて事実で勝敗を分けることを約束した。双方が道洞に集まって証人をたてて事実の取り調べをすると、協議に参加した韓人・金性述が、崔秉鱗と裵季周が密計したのを証明した。すると崔秉鱗も仕方なく契約金を支払わなければならなかった。しかし所持した金がなかったので豆200石で承諾した。ちょうど島民キム・ビョンムン他7人が、豆165石5斗5石を釜山に送って生活必需品を買うために 天野七蔵の船・昌栄丸に載せていた。そのことを(崔秉鱗は)無理に自分の豆だと言って裵季周も指揮して船から上陸させ、畑本に交付した。そして金性述を自宅に呼んで、日本人にそんなに証明したのを叱責して「この損害は、お前が早く支払わなければならない」と厳命して拘留した。金性述は鬱憤をこらえることができなかったが、別に避ける方法がなかったために、明日豆を調達して弁償するとだまして帰宅して、その日の夜、自分の家の木の枝に縄をまいて首をくくって死んだ。従って荷主はもちろん島の中の韓人たちが大いに激昂して、裵郡守にその処置が不当・不合理だと非難した。裵は崔と密かに島の西側のうしろ側にあるトングミに行って、蒼龍号に便乗して本土に逃走したので、島民たちから評判が良くなかったという。

    参考:今年5月5日に、崔秉鱗と裵季周から畑本栄次郎に渡った豆の被害者キム・ビョンムン他7人から豆を戻してくれるよう畑本を説得してほしいという申請があった。事実を取り調べると、裵季周と崔秉鱗二人が、完全に自分の所有品であるとして渡した証拠があった。従って裵季周が島に帰ってきた後に、再び申請するように言い聞かせた。
    上のように報告する。

    明治35年(1902) 5月30日 
    鬱陵島警察官駐在所在勤 
    警部 西村銈象
    領事 幣原喜重郎様

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  83. 上の資料に出てくる崔秉鱗は、内部官員・崔聖麟だ。鬱陵島の在留日本人2大派閥を導いていた畑本と脇田は、自分の船に荷物を積んで出港しようとしたが、裵季周と崔秉鱗は蒼龍号が来次第、便乗して釜山税関に行って船体と貨物を押収し、畑本などを鬱陵島から退去させようと島の韓人らと協議した。その気配を知った畑本は、崔秉鱗に問い詰めた。そのことで論争が広がって、3,650ウォンの懸賞をかけて事実で勝敗を分けることを約束した。事前謀議に参加した金性述が、崔秉鱗と裵季周が密計したのを証明した。すると崔秉鱗が所持した金がなかったので、島民キム・ビョンムン他7人が豆165石5斗5石を蒼龍丸に載せているのを自分の豆だといって裵季周が船から下ろして畑本に与えた。そして金性述を叱責し、結局金性述が自殺した。そのため荷主キム・ビョンムンと島民たちが大きく激昂して、裵季周郡守に不当・不合理だと非難した。窮地に追い込まれた裵季周と崔秉鱗は蒼龍号に便乗して本土に逃走した。それで鬱島郡守を免職になり、第2代郡守に姜泳禹が1901年12月10日以前に任命されたと見られる。48)

    48) 『駐韓日本公使館記録』(機密第133号(1901年12月10日) 「(67)欝陵島在留民取締ノ為メ警察官派遣ノ件上申」).

    『皇城新聞』 1902年3月4日「雑報」欄に、「鬱道郡守・姜泳禹氏が免官になった代りに前郡守・裵季周氏が任じられたという」という記事が出る。この記録に対する解釈として「姜は任命された後、任地に行かずに不良輩と旅費を浪費したので、1902年2月19日免官となった。これに対し内部では、鬱島郡守を長く空席では置けないので、再び裵季周を第3代鬱島郡守に任命したのであった」という解釈がある。49)

    49)慎鏞廈編著、2000,前掲書、151ページ

    姜泳禹は、鬱陵島赴任を控えて、現地日本人の悪事のために大きな恐怖感に捕らわれていたが、日本公使館書記官・国分象太郎が姜泳禹と数回接触して日本警察問題を協議し50) 1902年3月に鬱陵島に警察官駐在所を新設、警察を常駐させ始めた。51)

    50) 『駐韓日本公使館記録』本省機密往信(明治34年)機密第133号.
    51) 『欝陵島郵便所沿革簿』

    第2代鬱島郡守・姜泳禹は鬱陵島に赴任しなかったが、鬱陵島に日本警察官駐在所を作る役割だけを果たしたと見られる。大韓帝国政府が日本の警察官駐在所設置を知ったのは、この年9月末で、江原道観察使の報告を通してであった。江原道観察使の報告によれば、日本側はただ鬱陵島に駐在所を設置しただけでなく島民を任意に連行したし、また島民たちの中にはそのくやしいことを日本警察に訴えることさえあったという。52)

    52) 『交渉局日記』光武6年9月30日.

    上の史料④の「参考」によれば、警察官駐在所に1902年5月5日に崔秉鱗と裵季周から畑本栄次郎に渡った豆の被害者キム・ビョンムン他7人から豆を戻してくれるよう畑本を説得してほしいという申請があった。駐在所の取り調べの結果、裵季周と崔秉鱗二人が完全に自分の所有品として受け渡した証拠を発見して、裵季周が島に帰ってきた後に再び申請するよう言い聞かせた、ということから見て、裵季周が鬱島郡守として渡任すれば、そういう訴訟にまきこまれる可能性がある。このために夜逃げした裵季周が、鬱島郡守としての威厳を守るために「郡規」を用意して、「鬱島郡節目」と名付けて内部に上申したことは、それに対する突破口を用意するためのものだと見ることができる。


    1902年5月10日、鬱島郡民・金賛寿が、鬱島郡守・裵季周を告訴したために、平理院で法部に拘禁したという報告があり53)、 5月17日「平理院で鬱島郡守の在任時、船舶賠償金徴収過程で民を威嚇した裵季周の処罰報告」という資料がある。54)

    53)国史編纂委員会『各司謄録』司法稟報(乙)報告書第71号(光武6年5月10日).
    54)国史編纂委員会『各司謄録』司法稟報(乙)報告書第72号(光武6年5月17日).

    平理院が法部に送った報告書と上の史料④は同じ事件だが、違って見える。それは裵季周が被告として自身の立場を積極的に弁護した資料であるためだ。平理院の報告書は、裵季周が鬱島郡守だった時、金性述が日本人の私船を借りて豆をのせようとしたが、調査委員・崔秉鱗が、私船を利用すると発覚すれば海関に没収されると言って公船である蒼龍丸に移してのせた。日本人の風帆船主が崔秉鱗に損害賠償を請求したが、崔秉鱗は金性述に追徴しようとした。書記パク・ピルホが内部の指令を受けて金性述を押送しに来て、損害賠償問題は金性述の誣嘱から生じたことだと言ったので金性述は自ら命を絶った。この時、裵季周は公務で上京するところであったが、金性述の死体を見て、自殺は明らかだとして検視を行わずに成案しなかったとして笞刑40回に処した、という報告を法部に送った。

    史料④は裵季周が本土に逃走したとしているのに対し、裵季周は公務で上京したと言う。多分、裵季周はこのように言い逃れて3月7日に鬱島郡守に再任用されたようだ。そうしたことに不満を抱いた前郡守・姜泳禹が、6月22日に裵季周が禁山で犯斫したことを訴訟し平理院で裵季周を拘禁したのを法部に報告した記録が出てくる。55)

    55)国史編纂委員会、『各司謄録』司法稟報(乙)報告書第99号(光武6年6月22日)

    多分、姜泳禹は、自身が免職になって裵季周が後任に交替させられたために、裵季周の不法事実を告訴したようだ。多分この両者には鬱島郡守の交替をめぐって相当な葛藤があったと見られる。その後、7月7日、平理院から裵季周を放免することを報告し、8月25日に裵季周に対する善処を要請した記録など、裵季周と関連した訴訟は、1903年1月5日まで持続した。そうしたことから、裵季周は1901年3月7日に鬱島郡守に任用されたが、鬱島郡に赴任できなかった。そのような状況で、裵季周は、ソウルで自身が「郡規」を作って「鬱島郡節目」として内部に上申し、内部の裁可を受けてそれを持つことが出来た。しかし、鬱陵島に入ってハングル文で謄写して各洞に掲示することは出来なかった。施行されなかった「鬱島郡節目」をもって、独島を含んだ鬱陵島管轄区域を、大韓帝国が実効的に経営した証拠として注目する価値がある、と評価するのは56)、問題がある。

    56)柳美林、2010,前掲論文、218ページ.

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  84. matsuさん。ご苦労様でした。
    柳美林の妄想論文と比較すると、かなり立派な考証論文だと思います。しかし、細かな日付を考証している論文にも関わらず、杜撰極まりない印象です。

    新暦移行後、まだ数年という状況ですから、当時の韓国政府の正式文書以外の韓国側の史料の日付は、その多くが旧暦の日付であることを全然考慮していないようです。穀物の「石」に関しても、時代的には日本の「石」と同じ量と単位に移行しかけている時期ですが、「もの」が豆でしかも朝鮮本土への船荷ということでは、日本人のイメージする「石」とは全く違うごく少量である可能性があり、正確な換算はもとより、概算の量を想像することも出来ないです。赴任日時など、全ての史料に関して原史料に当たって見なければ、全く信頼度ゼロという感じです。
    原史料の記述と旧暦新暦の弁別と換算の根拠を示さなければ、ただの落書きに過ぎません。

    これを、すべて検証しなければならないと考えると、ああ気が遠くなります。

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  85. 小嶋さん

    とりあえず読めるかたちにした、というのが正直なところで、細かく見ていくと、原文と照合しながら確認作業がいります。
    ただ、ベースが自動翻訳ですので、日時などは、そのまま原文が日本語になっていると思います。

    度量衡で、「石」のあとに、たぶん「斗」があって、そのあとにまた「石」が来ているのがあり、良くわかりません、また「マル」という単位も良くわかりません。

    いくつかの史料は、もともと日本語の史料で、それを韓国語で訳出したものを戻している形になりますので、日本語の原史料をみたら疑問が氷解することもあるかと思います。

    字数制限のため、何回にも分けたので、前の「最近の投稿」が見えなくなってしまいました。
    ムーミンの声の岸田今日子さんが、村川家の子孫だというのは大変面白い話だと思います。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2014/03/1864-japanese-map-entitled-by-seiken.html


    実はまだ一章残っていて、これから頑張ります。

    原史料をたくさん見つけているのはありがたい話で、慎鏞廈がやや老耄していると思われる昨今、キム・ホドン先生は、まともな学者ではないかと思っています。

    柳美林の「誤理解」を指摘しているのは痛快ですが、キム・ホドン先生の読みのほうがすべて正しい、とも決めてかかれないと思います。

    年表を作るといいですね。

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  86. 「竹島問題100問100答に対する批判」が出版されたようですね。

    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56289686.html
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56290651.html

    「慶北道独島史料研究会」とはどんな組織なんでしょうか?

    アシカの絶滅は韓国側に責任がある、という論は、韓国側の心理的「逆鱗」に触れたようです。
    ところが、「1954年には200~500匹が棲息していた」ことは認めています。

    あとは目新しいものはないようです。
    「江戸幕府が1696年1月「竹島渡海禁止令」を下して独島が朝鮮領として決着」はウソです。

    「明治政府が1877年太政官指令を通じて独島が韓国領であることをもう一度認めた」は
    日本領土ではないといっただけで、韓国領だと認めたわけではない。

    「露日戦争のうち日本が軍事的要衝地として利用するために独島を1905年島根県に編入させたことは国際法的に明白な不法だ」というのは、それまでに韓国領であったことを証明する必要がありますが、韓国側はそれが出来ていません。
    そもそも、日露戦争当時、竹島が「軍事的要衝地」といえるんでしょうか?
    一方で、鬱陵島は大韓帝国領土ですが、日本側は「軍事的要衝地」として利用できました。


    「安倍政権になった後、中央部署に独島専門担当部署を設置して小・中・高校教科書を通した独島教育を強化した。特に、去る5日には東京で竹島返還要求集会を開くなど独島領有権侵奪行為を常時化している。」

    日本側の地道な運動が、韓国側にも評価されているようです。

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  87. 早速ですが、
    matsuさんの8/6/14 19:01 のコメントにある、
    44)崔文衡「露日戦争と日本の独島占取」にある、「陰暦4月28日(陽暦5.28)」の暦の換算は、誤りです。

    光武九年・明治三十八年の旧暦4月28日は、 1905年(明治 38年) 6月 1日 木曜日であり、一方、正しい記述であると思われる、陽暦5月28日は、旧暦では、4月 24日 であった筈です。

    またmatsuさんの8/6/14 18:58のコメントにある、

    1902年4月28日の有馬報告にある、「大豆」に関しては、日本人の船に搭載させた大豆ということなので、一石は日本の一石となります。しかも、大豆なので、重さはお米と同じく、一石=150㎏と考えて良いので、160石は、大豆24トンの貨物と判明しました。

    http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B11091460600?IS_STYLE=default&IS_KEY_S1=F2011100415452450487&IS_KIND=MetaFolder&IS_TAG_S1=FolderId&
    50 / 67コマ
    判読起こしです。

    前畧
      報告書
    本島二近数年、郡守不在之處、今回郡守 沈興澤ナル者、卑賤等ト回船来島致シ、駐在所近邊韓家ニ駐在シ、従来ノ郡守所在地ハ当所ヨリ三里洞ノ黄土浦ナリシモ、此際当村ニ郡衙ヲ建設スル計劃ノ由ニ有之候。昨二十七日、郡守来リ、今回内部大臣ノ命ニ依リ、本島ノ材木伐採方一切禁止ノ筈ニ付、貴國民人モ以後差止メラレ度旨申来ニ依リ、我人民カ本島ニ来リ諸事業ニ従事スルハ十数年来ノ慣習ニシテ貴国政府モ認メ居ル所ナラン。然ルニ今俄ニ貴意ニ應シテ、之レカ事業ヲ差止メルコト本官ノ独断ヲ以テ難致旨、答辨シタルニ、郡守ハ右事情内部ニ報告セント辞シ去レリ。
    一、同日、本邦人、濱岡升五郎ハ、韓人、李生資ノ大豆百六十石、釜山附近長鬐ニ運送ノ約束ヲ為シ、積荷準備中、郡守ハ、右荷主 李生資ニ、日本人ノ舟ニ荷物ヲ積載スルコト不相成旨ヲ達シタリトノ訴アルニ依リ、直ニ郡守ニ對シ、其不可ヲ説キ右命令ヲ解除セシメ搭載スルコトニ相成候。
    右及報告候也
     明治三十六年四月廿八日
      在欝陵島駐在所詰
      警部有馬高孝
    領事幣原喜重郎 殿
    迩今、本邦人同品材木伐採ノ為メ山中ニ入込ミ居ルモノ三十四、五名ニ有之候。

    メモ 「迩今」の判読は不明確です。

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  88. 小嶋様
    Kaneganese様

    キム・ホドン論文があがりましたので、あげておきます。
    このあとが、「結論」に続きます。

    なかなか実証的な論文だと思います。史料に出てくることを、自分の頭で考えて、その意味を探って行く力のある人だと思います。
    「独島」について論じた論文ではない、と明言しているのも面白いですが、「鬱島郡節目」は「独島」とは関係ない、ということです。

    裵季周時代の鬱陵島の日本人と韓人の様相がわかる論文だと思います。
    「社会像」か「社会相」か、どちらとも結論が出ませんが、「社会相」としておきます。本人に聞いてみたいです。

    小嶋さんのおっしゃるように、彼の持ち出してきた資料を、批判しながら使っていくことが必要だと思います。

    鬱陵島の様相が分かることで、1905年以前に、果たして韓人が竹島にアプローチできていたのか、わかってくると思います。
    1904年には、韓人が、竹島の事を「独島と書して」いたのは確かなわけですが、それがどういう状況を反映したものなのかを探って行く必要があると思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    2.「鬱島郡節目」に現れた1902年代の鬱陵島の社会相

    「鬱島郡節目」は鬱陵島各洞に掲示された「郡規」ではなかったが、その節目を通じて1902年代の社会相を覗くことが出来る意味ある資料であることだけは明らかだ。この節目は、ハングル文に翻訳し謄写して各洞に掲示しようしたものなので、日本人ではなく本国人(=韓国人)を対象にした「郡規」である。当時の鬱陵島の懸案は、日本人が行う無断伐木と家屋買入れ、行政体制、そして税収問題であった。57) 「鬱島郡節目」にはそれらが含まれている。

    57)柳美林、2012 前掲論文 105ページ.

    第1条には、日本の潜越人たちが偸斫(=盗伐)することを特別に厳禁することを最初に言及している。日本人の鬱陵島在留が「犯越」であることを前面に出し、偸斫をまず厳禁せよというのは、この時期大韓帝国政府ではずっと鬱陵島から撤還せよという要求を続けていたので、それと符合して郡規としようとしたことがわかる。鬱陵島在留日本人たちを「犯越者」と規定して、結局、家屋・田土を外国人(日本人)に密かに売る行為は「一律(死刑)」で処分することを闡明したものと見られる。上の第1、2条を通してわかるのは、それまで日本人たちの犯斫・偸運が日常的に行なわれ、鬱陵島民中に日本人に家屋・田土を売ることが日常化していたことである。

    第3条で、本島の開拓がまだ進まず税金が定まっていないので、本土復帰者の田畑は官の所有にすると規定している。多分この時、本土帰還者が田畑を私的に売り買いすることがあったので、官の所有とすることを明らかにし、税収の不足を埋めようという意図だと思われる。開拓民の税金免除を前に出し、本土帰還者の私的な売買を不法として官の所有にしようという目的を納得させようとしたと見ることができる。

    第4条については、官庁新築による迷惑禁止と見ることができるが、屋根を修理して4~5間をさらに建築するので最小限の迷惑を了解してくれ、という意味だと解釈できる。

    第5条の場合、郷長1人、書記1人、使令3人を先ず置いて仕事をするように規定したのは、1905年(ママ 1900年か)、鬱島郡に昇格した以後も、最小限の人員がいなかったことを意味する。第4条の官庁4~5間をさらに建築する理由にも該当することだ。

    第6、7条は、郡守以下の官吏の給料規定だ。禹用鼎は当初官制を改編するものの、これに伴い増える官員、書記、給仕の月俸は、島内400余戸から集める豆・麦80石で充当することが出来るとし、島の経費は全羅南道民から徴収する藿税を100分の5から10に上げればその金額が年間1,000ウォンになるので、少なからぬ助けになると建議したことがあった。58) それと比較すると、裵季周が「鬱道郡節目」で提示した金額は、はるかに多い。

    58)禹用鼎『欝島記』;『内部去来案』 8(光武4年)照会第12号.

    第6条では、本島の戸数500戸が、毎戸ごとに春等の麦3マルと、秋等の豆4マルずつを課税して本給に充当するといい、第7条では500戸に課税した麦100ソムについて、郡守、郷長、書記、使令の本給だけを明示している。「後禄」で内部が計算した郡守以下の官吏の給料は、春等の麦と秋等の豆を合わせ、麦100ソム、豆100ソムだ。各洞に掲示しようとした「郡規」6,7条について、裵季周は見せかけを働かせたのだ。裵季周は鬱島郡守に再赴任して郡守以下の官吏の給料を大幅に上げようとする考えを持っていたと見られる。

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  89. 第8条は税金についての規定だ。第8条の規定を「商船および輸出入貨物に対する徴税」と解釈している場合があるので59)、その条項を再び紹介する。

    59)柳美林、2012,前掲論文、105ページ.

    各道の商船が本島に来泊して魚藿を捕採する人々に、毎10分の1を税金として課税し、その他の出入りする貨物は、金額により毎100分の1を(税金として課税し)、経費に補充すること。

    「鬱道郡節目」は本国人を対象にする「郡規」だ。裵季周は大韓帝国政府が日本に対して鬱陵島在留日本人の撤収を要求しているのを当然に知っていたし、日本人から不法に輸出税を受けとりながらも領収書を発行しなかった。1900年、禹用鼎が鬱陵島を視察した時、裵季周の陳述を聞いて次のように言及している。

    日本人に税金を課税する条目は、島監が赴任した初期の丙申年と丁酉年の二年間には、時々罰金を出せと叱責して、貨物を調べて100に2を課税した。何年か前からは、島監自らが通商しない港で税金を課税するのは正しくないことを知るようになると、日本人の無視がますます激しくなり事実通りに納税しようとしない。従ってそのままに置いて課税しないのだ。 (禹用鼎、「後録」)

    裵季周は、丙申年(1896)(訳注:原文は丙子年だが間違いと思われる)と丁酉年(1897)には、在留日本人に罰金だといって税金を納めさせたが、後日、不通商の港口で税金を課税するのは正しくない、ということを知るようになると、税金を徴収しなかったというのである。60)

    60) 『内部来去案』「外部大臣の内部大臣への照復」(光武4年9月12日)という記録の外部大臣・朴斉純が内部大臣・李乾夏に送った照復で、帝国政府の意見を羅列して「島にいる本邦人が島の住民と共に商業活動をして需要し供給するのに緊要で、また島の住民の希望に関係することとして、島監がその輸出と輸入の貨物について徴税するのは輸出税と輸入税の場合と同様にしなければいけない」という見解に対して、「島監が徴収した税金に関する条目というものは、ただ港の外に出て行く物貨について、値が百ならば2割だけを選んで罰を与える条項に代えたのだが、これは日本人が自ら望んだことによったのです。港に入ってくる物貨については、この例に含まれていません。もし輸出税と輸入税であれば、どうして貨物を積み出す時にだけ徴収して、貨物を運び入れる時には徴収しないでしょうか。また、どうして値が百ならば2割だけを取る理由がありますか」といって、明らかに輸出入税ではない、としている。日本の資料に出てくる「輸出税」の項目は、日本が鬱陵島在留居住民を確保するための画策として、「輸出税」と記録しただけのことなのである。

    そのような彼が、各洞に掲示する「郡規」に輸出入税を課税することを明示する理由がない。これは「輸出入貨物に対する徴税」規定とは解釈できない。前に言う「各道の商船」とは、鬱陵島に居住する「本島人」ではない各道の外部商船を意味し、「その他に出入りする貨物」は、おそらく鬱陵島に居住する「本島人」の貨物や、商船ではない本土と鬱陵島を出入りする官船、あるいは私船の貨物に対する徴税だと見ることができる。「その他に出入りする貨物」を日本の船と想定して、輸出入税を賦課したというのは、間違った理解だと思われる。ところが現実的に当時の状況は、日本人から輸出税を受けとるのが現実であった。1900年6月1日、禹用鼎一行が鬱陵島に来た時、韓日両国調査委員が福間等を尋問した時、「貨物を持ち出す時、島監が毎回人を派遣して摘発し、100分の2を税金として納付していたので、これは貨物をこっそりと運送したのではありません。」61) と言ったことや、「鬱陵島に来た日本人に税金などを納めさせて送り返してしまうことはやめよ」と要請したことを通して、日本は、収税を理由にあげて在留日本人の撤収を避けようとしたのである。

    61)禹用鼎、「欝島在留日本人調査要領-韓日人分日査問」.

    「鬱島郡節目」第8条を「輸出入貨物に対する徴収」と見て、『非開港場の徴税を許諾しないという政府訓令があった後で、日本人は納税を避けようとしたが、政府訓令は実行されずに、かえって政府の政策は島監の徴税権を認める方向に転換した。その最初の処置が、1900年「大韓帝国勅令第41号」の「収税条項」であり、二番目が1902年「鬱島郡節目」の「輸出入税」条項だ』という説や、『政府が「大韓帝国勅令第41号」で鬱島郡守の徴税権を合法化したのにもかかわらず、日本人たちが税金を払おうとしなかったのだ』という見解は62) 、

    62)柳美林、2012,前掲論文、100・104ページ.

    「大韓帝国勅令第41号」と「鬱島郡節目」の収税条項が、鬱陵島の本国人に対するものだということを理解しないことから始まったということができる。非開港場の外国人居住は不法であったから、撤収(=強制退去)の対象であっても、収税の対象ではなかった。ところが、この時期の鬱陵島の場合、厳然として日本人たちは不法に居住して日本からの輸出入に従事していたから、島監や郡守たちは官庁の経費を調達するために不法に税金を賦課するのが現実であった。それを助長し、それを口実として、日本は鬱陵島に日本人たちが居住することを画策した。そして結局、日本は移住漁村を作っていった。開港期の歴史は失敗の連続であった。結局このような現実のために、大韓帝国は1910年日本の植民地に転落したのである。その失敗の歴史の中に、鬱陵島も含まれていたことを認識する必要がある。

    第9条は、官船を用意するための対策だ。鬱陵島には、本土に航海できる船舶がなかった。従って日本人の潜入と不法が強行されても、時を合わせて政府に知らせる方法がなかった。島民が必要とする米・塩・麻・木綿や、その他の日用品を相応の時に購入することも難しかった。島民たちはこういうものを全羅南道の船舶からも供給された。しかし日本船舶に依存することも多かった。日本船舶が持ってくる商品は、島民が生産する豆・南京豆・麦・海産物と交換された。そして交易する過程で、日本人たちの犯斫・偸運などを幇助する島民も出来ることになったのだ。このために鬱陵島としては、本土と往来する船舶を備えることが切迫した実情だった。禹用鼎は、こういう島内の実情を調べて、島民が開運丸を購入しようとするのを見て資金をやりくりしてやった。63)

    63)宋炳基、2007,前掲書、182~183ページ.

    それとともに鬱陵島の物産は開運丸でだけ運ばねばならず、貨物運搬は可能ならば鬱陵島船にするが、外国船舶で輸送してもその貨物はひとまず鬱陵島会社所属とする告示を下した。64)

    64)柳美林、2012,前掲論文、100ページ.

    裵季周は、史料①で見るように、韓国沿岸との交通が開かれなかったために非常に困難を感じ、その結果、頻繁に日本人の渡航を勧誘することに努め、また直接島根や神戸などの地方に行って鬱陵島産出の槻木売買を特約するなど、次第に日本人がこの島に渡航する道を開いた、と日本が評価するように、鬱陵島行政の急先務のひとつは船を用意することだと考えた。そして初めての鬱島郡守として在職時、開運丸が破船した後、前節で言及したように鬱陵島島民たちが会議した結果、鬱陵島で商権を外国人つまり日本人に奪われるのは貨物を運ぶ船舶がないためだと結論づけて、島民たちがそれぞれ股金(株式会社の資本金)を出して、保合丸2隻を購入することに議決したので、裵季周は開運丸が破船した後、運搬船2隻の費用を島民に賦課しようとしたが、一部島民の激しい反発にぶつかったという事実がある。また、鬱陵島の在留日本人の2大派閥を導いた畑本と脇田などが自分の船に荷物を積んで出港しようとすると、裵季周と崔秉鱗は蒼龍号が来たら便乗して釜山税関に行き船体と貨物を押収して畑本などを鬱陵島から退去させようと島の韓人と協議したために、金性述が自殺して、結局、裵季周が鬱陵島から逃走した経歴があった。そのような裵季周としては、「郡規」に官船購入に関する条目を入れざるをえない。その船の購買費用は、盗伐された木材のお金を公のものとして購入するという意向を明らかにしている。

    第10条は、定められていない郡規は、本郡で協議して決めるということを内部に明らかにしたものだ。

    裵季周は、理想のような「郡規」を内部で承認してほしいとして「鬱島郡節目」を上げた。その節目を内部で検討して「後禄」を入れて内閣総理大臣・尹容善の決裁を受けて裵季周に戻したことが、前章の原文に含まれている。内部の「後禄」には、鬱島郡から政府に香木200斤を隔年で進上することと、戸布銭500両を毎年、度支部(大蔵省)に収納することを明示している。1899年6月頃、内部は裵季周を再び島監に任命して規則を指示したが、そこには「魚と豆に関する税金は、事実通り調査して本部に上納すること」が入っている。65) それに加えて「鬱島郡節目」の内部「後禄」では、献上品と戸布銭まで受けとることになっていたのである。

    65) 『皇城新聞』、1899年6月15日「雑報」「仍任裴監」.

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  90. 竹島問題100問100答에 대한 비판
    以下のところにPDFがあります。

    http://www.dokdo.go.kr/DATA/img/dokdo_100.pdf

    重いのでダウンロードに時間がかかりますが、コピペもできます。

    『竹島問題100問100答』への反論書、韓国で出版
    http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/06/17/2014061701455.html
    朝鮮日報日本語版も報道しました。


    「慶北道独島史料研究会」というこれまで知られていない名前で出していますが、
    金柄烈(キム・ビョンリョル)が中心のようで、柳美林(ユ・ミリム)、保坂 祐二(ほさかゆうじ)などが書いています。このために作られた組織ではないかと思われます。

    日本で出版された『竹島問題100問100答』を著作権無視で全文、勝手に翻訳し、写真も著作権無視でこれまた全部のせている、文明国とは思えないやり方ですが、「非売品」だそうで、本の入手は難しいのかもしれません。

    日本の中の「良心的」学者には配られるかもしれないので、そのあたりから流れてくるのを期待しましょう。

    慶北道といいながら、嶺南大学系がはずされているのが面白いです。
    金秀姫がいないのと、キム・ホドン先生がいないのが寂しいですが、排斥されちゃっているのかな?

    『竹島問題100問100答』を、韓国語訳をして出すべきだ、という議論がありましたが、韓国側が全文をやっちゃってくれたので、これで日本側の主張が韓国によく広まっていくと思います。

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  91. 「竹島問題100問100答」に対する批判  
    金柄烈(キム・ビョンリョル)による「発刊辞」翻訳します。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「竹島問題100問100答」に対する批判  発刊辞

    2008年2月、日本外務省は「竹島問題を理解するための10のポイント(10 Issues of Takeshima)」を発刊してオンラインおよびオフラインで独島について歪曲された事実を伝播しようとした。だが、これが日本国民や国際社会で特別な呼応を得ることができなかったためか、2009年12月にこれを補完した「竹島問題の概要(Outline of Takeshima Issue)」を再び発刊した。
    日本のこのような挑発に対し、我が国は東北アジア歴史財団と韓国海洋水産開発院でそれぞれ「独島の真実(The Truth of Dokdo)2008」と「独島は果たして日本の領土だったか?」を発刊したが、日本の主張に対し各項目別に反駁するというよりも独島が私たちの領土だということに力点を置いて内容を構成したので別段呼応を得られなかった。
    これに対し自信を得たのか、日本は今回また再び「竹島問題100問100答」(以下「百問百答」と略称)という膨大な内容の冊子を発刊して、多くの人々の目と耳を幻惑させている。これに対し、私たち慶尚北道史料研究会では、これを傍観すれば日本人はもちろん我が国の人々までも「百問百答」に出てくる内容が事実かも知れないという誤解を生じる素地があると考え、これに対する反論を準備することになった。
    もちろん、これまでいくつかの団体で「百問百答」を批判する学術セミナーを開催することもした。しかしこれらのセミナーは「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起するよりは、従前と同じように「韓国はもちろん日本の古文献でも私たちの領土になっている」、「島根県の独島編入は国際法的に不法、無効だ」のように総論形式になっているため、一般国民の立場ではそれほど満足できないのが現実だった。
    その上セミナー発表文というものは、一般市中で購入することもできない非売品限定本であったため、何日か過ぎた今は、そういうセミナーがあったという事実さえ記憶している人がほとんどいない。
    これに対し、私たち史料研究会では「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起することで、日本の主張が根拠がないということを明確に立証する一方、これを冊子で発刊して1回性にならないようにする必要があると意見を集約した。
    しかし、竹島問題研究会が長い期間中準備した「百問百答」に対し、私たちが短期間内に批判文を作成するには多くの困難が伴った。それでも満足するほどの水準の批判文が作成される時まで長期間発刊を遅らせるのは、より一層話にならない処置なので、不足したままで今回「「竹島問題100問100答」に対する批判」を発刊することになった。
    この本に入った内容は、筆者が常識水準でいつも知っていたものなどを簡単に整理したものなので、これだけが全部だと言うことはできない。また、責任執筆者の原稿が完成した後、それぞれの原稿に対し他の執筆者が意見を提示したのだが、それを受け入れない場合、全面的に責任執筆者の意志に従った。
    従ってこの本の内容は慶尚北道または史料研究会の統一された意見だと見るよりは、全的に責任執筆者個々人の常識的な意見だと見なければならない。
    そして「百問百答」中には、「第1部 私たちの島竹島」と「第9部 島根県の活動を知ろう」のように、批判が必要ない部分も非常に多くの部分を占めているために、これらに対しては一つ一つ批判をしなかった。
    この本が私たちの国民に、独島問題に対する自信を持つようにするのに少しでも役に立ったら良いと執筆者は考えている。合わせて日本語に翻訳されて、日本の人々が独島に対し客観的な知識を持つようになるのにも役に立つように願う。

    2014年5月 慶尚北道 独島史料研究会 会長 
    金柄烈(キム・ビョンリョル)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    これを見ると、みずから「やっつけ仕事」であることを認め、また執筆者間の討論も成立せずに、各筆者の責任において書かれていることが分かります。
    「慶尚北道 独島史料研究会」なるものは、研究会的組織の実態があるものではなく、今回の「反論」のために寄せ集められた人たちの呼称だと思います。会計処理のためのものでしょうか。

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  92. 次に執筆者一覧を掲げます。

    発刊辞 金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論1,2、3  イ・ソリ(이소리)
    反論4、5、6  イ・ソリ(이소리)
    反論7、8  1,2,3参照
    反論9    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論10   4,5,6参照
    反論11   イ・ソリ(이소리)
    反論12   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論13   イ・ソリ(이소리)
    反論14   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論15   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論16   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論17   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論18   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論19   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論20   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論21   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論22   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論23   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論24   パク・チヨン(박지영)
    反論25   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論26   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論27   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論28   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論29   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論30   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論31   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論32   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論33   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論34   パク・チヨン(박지영)
    反論35   パク・チヨン(박지영)
    反論36   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論37   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論38   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論39   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論40   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論41   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論42   パク・チヨン(박지영)
    反論43   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論44   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論45   パク・チヨン(박지영)
    反論46   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論47   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論48   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論49   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論50   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論51   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論52   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論53   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論54   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論55   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論56   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論57   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論58   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論59   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論60   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論61   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論62   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論63   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論64   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論65   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論66   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論67   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論68   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論69   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論70   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論71   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論72   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論73   イ・キボン(이기봉)
    反論74   イ・キボン(이기봉)
    反論75   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論76   チョン・ヨンミ(정영미)
    反論77   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論78   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論79   保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)
    反論80   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論81   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論82   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論83   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論84   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論85   柳美林(ユ・ミリム)(유미림)
    反論86   金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)
    反論87   イ・ソリ(이소리)
    反論88~102  イ・ソリ(이소리)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    さて、誰の「反論」から訳しましょうか?
    チョン・ヨンミ(정영미)、パク・チヨン(박지영)というのはこれまで知らない名前ですが、案外こちらのほうが、手強いのかもしれません。(笑)

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  93. Anonymous18/6/14 21:54

    反論83

     日本は太政官指令で独島が韓国領であることをまた再び認めた


     日本政府は、これまで公式的には太政官指令の存在を明らかにしたことがなかった。学者たちが太政官指令に言及しても、その中の「竹島外一島」の「一島」が松島であるという事実を否定した。ところが、今回の『百問百答』は、「磯竹島略図」を引用しつつ、「絵図に竹島と松島が描かれている事実から「竹島外一島」の「外一島」が「松島」であることが分かる。」として、指令を認めているようだ。
     しかし、『百問百答』の論理は、1877年に内務省が太政官に提出した書類は17世紀末の両国間の往復文書だがそこに独島に言及したものはないということだ。続いて、明治時代に松島は鬱陵島を示していたので、太政官指令の竹島と松島は二つとも鬱陵島を指すという論理を展開している。言ってみれば、太政官指令で称した「一島」すなわち松島は独島ではないというわけだ。
     日本がこういう論理を展開するのは、太政官指令で「一島」とした松島が独島であることを認める場合、韓国の領有権を認めないわけにはいかないからだ。 しかし、日本の上のような批判は、先に提示した「磯竹島略図」を否定することだ。 略図に描かれた「松島」が独島であることは自明だ。そして、指令はこの略図に基づいて出た。したがって、日本が指令の「一島」が松島であることを認めたとすれば、それは独島を示すという事実も認めてこそつじつまが合う。

     日本は、1876年と1877年の開拓願で松島と竹島がどちらも鬱陵島を指すという点、1881年の開拓願に登場した松島について、外務省が「朝鮮国鬱陵島すなわち竹島松島件...」とした事実を太政官指令の「一島」と結びつけている。しかし、これら文書に出てきた名称と太政官指令は時期的に他の懸案であるから、これを結びつけるのはごり押しだ。
     外務省が「朝鮮国鬱陵島すなわち竹島松島の件」としたところには、他の背景がある。1881年大谷兼助の請願を受けた内務省は、太政官指令と島根県が提出した照会文(「日本海内松島開墾に関する伺い」訳註)を添付して外務省に問い合わせた。この時に内務省が添付した太政官指令には「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺(外一島は松島なり)」となっている。 ここで「(外一島は松島なり)」は本来の「地籍編纂方伺」(1877)にはなかった内容なのだが、1881年に島根県から内務省に送る時に追加したものだ。これは島根県の官吏が見たときに、開拓願に出てきた松島は鬱陵島であるから、内務省の官吏がこれを太政官指令の松島と混同するかと思って配慮してわざわざ書いたものだった。
     内務省が外務省の回答を受けて島根県に知らせる時は(1882.1.31) 、「書面上の松島は以前の指令のとおり我が国とは関係ないということを肝に銘じるべきで、したがって開墾請願は許可する対象ではないこと」を明確にした。この時、内務省が「書面上の松島」としたのは、大谷兼助の請願書に「松島」となっているのでその名称をそのまま書いたのだ。ここで「以前の指令のとおり」と言ったのは1877年の太政官指令を意味する。したがって、これは、1881年から1882年初めの内務省と外務省の官吏が太政官指令の「竹島」、大谷兼助の「松島」がどちらも鬱陵島を示す呼称であることを明確に認知していたことを物語る。
     1881年12月1日に外務省がこれを内務省に知らせる時は「朝鮮国鬱陵島すなわち竹島・松島の件は...」とした。このように書いたのは、先に出て来た竹島と松島がどちらも朝鮮の鬱陵島に対する呼称であることを明らかにするためであった。すなわち、外務省は、先に島根県と内務省が指し示した「松島」、外務省が指し示した「松島」が別の島のように混同されるのを心配し、その結果「朝鮮の鬱陵島すなわち竹島・松島」という表現を用いたのだ。この時の竹島と松島が二つとも鬱陵島の呼称であることを明らかにしたわけだ。したがって、これは太政官指令で称した「一島」が松島を示すこととはその脈絡が違うものだ。
     「竹島外一島が本邦と関係ないとしたのは、竹島ともう一つの島(松島、これも鬱陵島)に対しても本邦と関係がないとした可能性が高い」という日本の主張は、上のような経緯を無視した詭弁だ。しかも、1881年に見られた島名混乱は太政官指令とは違う次元の議論なのに、日本はこれを1877年の指令に遡及適用する愚を犯している。
                                   (柳美林)

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  94. 「反論」タイトルと執筆者です
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    反論1,2,3 独島の現住所 
    イ・ソリ(이소리)

    反論4,5,6 大韓民国政府が独島を保全、管理、利用している
    イ・ソリ(이소리)

    反論7.8  → [反論1,2,3] 独島の現住所_参照

    反論9 海洋利用に関する国際法と独島領有権
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論10 → [反論4,5,6] 大韓民国政府が独島を保全、管理、利用している_参照

    反論11 日本人たちによって絶滅した独島アシカ
    イ・ソリ(이소리)

    反論12 1905年島根県による独島編入の真実は何か?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論13 独島アシカをもの欲しげに見た欲張りな日本漁師
    イ・ソリ(이소리)

    反論14 事実は編入に関係した人々が皆、独島が韓国領だということを知っていた
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論15 1905年島根県の独島編入は国際法的に明白な不法だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論16 孤島の先行獲得に通告が必要ないとは!
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論17 「固有領土」を今さら領土に編入する国がどこにあるのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論18 島根県が取った行為は全部不法、無効だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論19 隠岐の人々の独島での行為は当然不法、無効だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論20 日本人たちは鬱陵島から侵奪し始めた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論21 マッカーサーラインが最終的ではなかったが事実上最終的になった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論22 サンフランシスコ講和条約の起草過程で日本は何を要求したのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論23 サンフランシスコ講和条約で独島はどのように盗取されたのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論24 光復後、日本人が独島に渡ってきたのは全部不法であった
    パク・チヨン(박지영)

    反論25 米軍爆撃訓練区域に指定された背景は何か?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論26 「平和線」は魚族資源を保護するための最後の手段だった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論27 平和線は以後の海洋法の発展に大きな影響を及ぼした
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論28 平和線と独島
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論29 1965年の韓日国交正常化当時、独島問題は事実上終わった問題だった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論30 新韓日漁業協定で独島はどのように扱われたのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論31 独島を日本が侵奪したというのは日本学者によって糾明された事実だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論32 韓国はずっと以前から独島を認識していた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論33 独島は新羅以前から韓国の領土だった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論34 独島は日本帝国主義が行った韓半島侵奪の初めての犠牲羊であった
    パク・チヨン(박지영)

    反論35 1905年に日本は一方的に秘密裏に独島を編入した
    パク・チヨン(박지영)

    反論36 韓国人は日本が編入する前から独島に渡海していた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論37 編入の報せに接した韓国(人)は皆独島が鬱島郡所属という反応を見せた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論38 独島はカイロ宣言によって当然返還されなければならない領土だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論39 連合軍総司令部指令により独島は日本領土から完全に除外された
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論40 サンフランシスコ講和条約で独島の領有権は何の変動もなかった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論41 日本はなぜ北方4島を裁判で解決しようと言わないのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論42 韓国の固有領土、独島に対する主権行使には疑問の余地がない
    パク・チヨン(박지영)

    反論43 平和線は魚族資源を保護するための最善の処置だった
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論44 日本はなぜ「日本海」に固執するのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論45 日本の独島領有権主張は韓国の光復を否定するということだ
    パク・チヨン(박지영)

    反論46 「独島運動」でなく領土守護のための持続的国民活動だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論47 国家的次元の「海外宣伝活動」でなく民間次元の自発的な韓国の歴史を正しく知らせる運動だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論48 東北アジア歴史財団は東北アジア地域の歴史葛藤問題解決のために努力する研究機関だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論49 国際司法裁判所の裁判官はどんな人々なのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論50 国際司法裁判所で問題を解決するのに必要な手続きは?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論51 国際司法裁判所で裁判はどのようになされて、何が重視されるのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論52 国際司法裁判所判決の形式と効力
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論53 韓国が国際司法裁判所回付提案に応じなければならない理由があるのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論54 国際司法裁判所に回付された事件の中で独島問題と類似のものがあるのか?
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論55 独島は実効的支配の対象でない
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論56 日本が独島に対して是非を言うのは明白な内政干渉だ
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論57 独島問題は日本が戦争の必要性のため侵奪したとのことだけ認めれば簡単に解決された
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論58 鬱陵島名称が竹島から松島に変わった本当の理由は?
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論59 日本官撰文書には松島(独島)が日本領土ではないことが記録されている
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論60 日本の「竹島利用」とは鬱陵島侵奪史の他の名前だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論61 「鬱陵島争界」とはどんな事件か?
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論62 「安龍福事件」の結果、日本は鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論63 史料に現れた安龍福の行跡と陳述は事実だ
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論64 「天保竹島一件」は19世紀始めにあった日本の鬱陵島侵奪史だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論65 「百問百答」の「天保竹島一件」評価は自国中心的歴史認識の表現だ
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論66 「松島絵図」は日本の独島領有権を証明できない
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論67 小谷伊兵衛の絵図はむしろ韓国の独島領有権を証明している
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論68 于山島が独島 (松島)だという事実は韓国と日本が認めた内容だ
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論69 日本の官許地図、公式地図も独島を韓国領土に分類した
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論70 日本の独島領有権主張は誤った歴史認識による歪曲にすぎない
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論71 伊能図には独島がなく、海図には独島が朝鮮領と記載されている
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論72 1905年以後独島を自国領で表記した日本地図は全部無効だ
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論73 韓国の文献と古地図に見える「于山島」は独島だ
    イ・キボン(이기봉)

    反論74 「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」の于山島は独島だ
    イ・キボン(이기봉)

    反論75 于山島→石島→独島での変遷は自然な現象だ
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論76 江戸時代の文献に竹島は日本の範囲から除外されていた
    チョン・ヨンミ(정영미)

    反論77 伊能忠敬の地図は独島を日本領土から明確に除外した
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論78 長久保赤水の地図に独島は日本の範囲から除外されている
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論79 林子平の絵図には独島が朝鮮領土に正確に描かれている
    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지)

    反論80 江戸幕府の渡海禁止令には独島も当然含まれたた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論81 日本も独島を鬱陵島の属島としてきた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論82 安龍福は官吏を関白と誤認しただけで、文書を受けたことは事実だ
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論83 日本は太政官指令で独島が韓国領であることをまた再び認めた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論84 1900年大韓帝国勅令にある「石島」は独島だ
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論85 韓国は1905年以前から独島に主権を行使してきた
    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)

    反論86 不法ではないがそのようにする国は一つもない
    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬)

    反論87 慶尚北道の独島守護活動
    イ・ソリ(이소리)

    反論88~102 島根県は日本国民に歴史わい曲を先導している
    イ・ソリ(이소리)

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  95. Anonymous18/6/14 23:49

    反論 31

     独島を日本が侵奪したというのは日本の学者によって糾明された事実だ



     独島は日本の領土でなく韓国の領土ということは、二度にわたって日本人たちが立証した。
     まず17世紀末、安龍福の渡日活動を契機として韓日両国間に鬱陵島の領有権を巡って争いが広がった時、日本江戸幕府が鬱陵島と独島に対して詳細に調査した後、1696年1月28日、二島いずれも日本の島ではないと決めたことがある。 これに対し、日本は、独島まで日本の島ではないとしたものではないと主張しているが、1625年12月25日付けで幕府に提出された鳥取藩の「二島いずれも日本のどの藩にも所属しない」という回答などを見れば、話にならない説だ。

     二番目は1877年の太政官指令だ。この指令では「竹島外一島は日本と関係がないと心得よ」となっている。西洋の近代文物を受け入れ始めた明治政府は、全国的に地籍編纂事業を新しく行うことになる。その過程で、江戸時代に竹島と呼ばれた島が東海上にあるという事実を知ることになり、主務部署である内務省はその帰属を確認するために島根県に問い合わせた。この時、内務省が島根県に送った公文書(1876年10月5日付)には「従来竹島と呼ぶ孤島がある...」として鬱陵島についてのみ問い合わせをしたが、島根県はこれに対する回答書で「日本海内竹島外一島」として、鬱陵島ほかもう一つの島も含めて回答した。 そして、このような「竹島外一島」という表現は、以後内務省と太政官において同じ形で反復して用いられた。
     ところで、島根県の回答からはもちろん、以後の内務省や太政官指令の中にこの「外一島」について直接説明をする内容は入っていない。したがって、一部の日本の学者は、当時は竹島と松島が混同して用いられたので、「外一島」が「竹島または松島」という意味で鬱陵島のまた別の名前だというごり押しを書いている。
     しかし、島根県の回答書に添付された「別紙 由来の概略」に「次に島一つがあって松島という。周りは30丁程度で竹島と同一航路上にある。隠岐から80里程度離れている」という説明があることから見て独島だということをとても簡単に知ることができる。また、別紙図面で「磯竹島略図」を添付しているが、ここには鬱陵島と独島を正確に描いている。このために「外一島」が独島であることはいくら否定しようとしても否定できない事実なのに、日本は我を張っているのだ。
     このように、独島は日本の領土ではないという事実が二回も日本政府によって確認されたので、韓日間の独島問題は事実上終わった問題であった。

     ところが、1904年に日本が露日戦争を挑発した。開戦初めに奇襲攻撃を通じて機先を捉えた日本海軍が、1904年5月15日を境として致命的な戦力損失をこうむることになる。
    ただでさえイッセン(Issen)提督指揮下のウラジオストック艦隊によって東海上で海上制海権が脅威を受けていたが、日本が初瀬、八島など最新鋭戦艦を含む海軍力の1/3を機雷接触、衝突事故などで失うことになるとすぐに制海権を完全に喪失し、遼東半島側への補充兵力及び物資輸送がほとんど不可能だった。
      これに対し、日本軍部は不足した海軍力を補完するために、あわてて韓半島沿岸及び島嶼20ヶ所余りに望楼を建設することになる。 この時、韓国人が居住していた沿岸地域や鬱陵島などの地では望楼敷地だけを徴発したが、住民が居住していなかった独島はまるごと島根県編入という便法を通じて掠取した、という事実を日本京都大学の堀和生教授が明らかにしたのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  96. Anonymous18/6/14 23:49

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  97. Chaamiey様
    反論83翻訳、ありがとうございます。
    柳美林センセイ、うまくまとめていると思います。

    太政官指令については、日本領でないことを認めても、「それはすなわち朝鮮領」ということにはそのままはならず、結局、無主地ということになるので、認めてしまってもいいようにも思えるのですが、元禄時代の決定、ということを前提としているので、ここは頑張っておかなければと思っています。

    内務省~太政官の決定に当たり、「松島」の吟味が全くなされていないこと。
    ここには柳美林も触れていません。

    島根県の伺いにある松島が現竹島であることは疑いもないことですが、ここは、東京での認識がどうだったのか、粘りたいと思います。(正解は「知らなかった」だと思います)

    1881年(明治14年)の松島は鬱陵島で、柳美林は「脈絡が違う」と言っていますが、
    「最前指令の通り」は生きているわけで、「1877年(明治10年)の指令にあった松島」は、明治14年には、鬱陵島になってしまったことは動きません。

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  98. Anonymous19/6/14 00:38

    柳美林女史はほんのちょっぴり太政官指令の真実の方向に近づいて来ていますが、結局は真実にはたどり着けませんね。


    私の翻訳はとりあえず以上の2件です。また後日、翻訳を進めたいと思います。oppさんの基礎資料があるので助かりますね。

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  99. Anonymous19/6/14 21:12

    反論12

    1905年島根県による独島編入の真実は何か?

     独島でアシカ漁をした中井養三郎は、競争者が生じるとすぐに独島での独占的漁労を画策することになる。 彼は海図を通じて独島は朝鮮の領土だと判断した後、この島の貸下げを朝鮮政府に請願しようと東京に上京することになる。 同郷人藤田勘太郎を通じて牧朴真水産局長に会った中井は、意外にも「独島が正確に韓国に属するのか分からないから、海軍省水路部に詳しく聞いてみなさい」という話を聞き、海軍省水路部長肝付兼行に会うことになる。中井に会った肝付は、「この島の所属について確固たる証拠がなく、距離上でも日本が近い。」として、「日本の領土に編入するのが当然だ」という話をすることになる。これに対し、韓国政府に貸下げ願いを出そうと上京した中井は心を変えて、日本政府に編入と貸下げの願いを出すことになる。

     しかし、中井が願書を内務省地方局に持って行ったところ、担当者である井上書記官は内務省が1875年に作成した中村元起の関連報告書と1877年の太政官指令などを調べた後、「韓国の土地という疑いがある一介不毛の岩礁を取って諸外国に我が国が韓国併呑の野心があるということを疑わせるのは、利益が極めて少ないのに反して事態は決して容易でない。」として、出願を却下させるといった。

     しかし、中井はあきらめないで、同郷出身の法学博士桑田熊蔵に依頼して外務省政務局長山座円次郎を紹介された後、独島の編入を力説した。 すると、露日戦争で海軍力の劣勢に苦心していた山座は、「このような時局だからむしろ領土編入は急務であり、望楼を建てて無線あるいは海底電線を設置すれば敵艦を監視するのに助けになるだろう。」として請願書を急いで外務省に回付するようにした後、秘密裏に編入手続きを進めていったのだ。

     当時、日本海軍はロシアのウラジオストック艦隊の攻撃で旅順に向かっていた輸送船が撃沈され、近衛後備連隊帯兵力1,095人が犠牲となり、攻城砲などの武器が水没するなど深刻な困難の中にあった。 海軍はこのような困難を克服するために望楼を建設しようと、中井が請願書を提出する5日前の9月24日に既に新高号に独島を偵察させていた。 このような渦中に中井が独島を編入してくれと言ったところ、機転のきかない内務省ではこれに反対したので、外務省が前に出て内務省の反対を撤回させ、独島編入手続きを行うことにしたのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  100. Anonymous19/6/14 21:19

    反論21

    マッカーサーラインは最終的なものではなかったが、事実上最終的なものとなった

     連合軍総司令部は、日本を占領して直ちに1945年8月20日付けで日本の全漁船に対する操業禁止を命令した。そして9月14日、木船に限って日本沿岸から12海里以内での操業だけを許可した。だが、不足した食糧資源の打開を口実にした日本政府の粘り強い要請で、連合軍は9月27日総司令部指令第80号で12海里の外に一定の線を引いて操業を追加的に許可した。これが最初のマッカーサーラインだ。当時、連合軍総司令官がマッカサー元帥だったためにマッカーサーラインという。

     ところで、このラインは11月30日第一次として拡張され、1946年6月22日再び第2次として拡張されて9月19日第3次拡張により東は東経180度ミッドウェイ近海まで操業が可能となり、韓半島の方では独島と済州島の東側を連結する線まで、西側では沖縄西側東経125度まで日本漁船の操業が許された。
     ここでのマッカーサーラインというのは、1946年6月22日付指令第1033号(日本の漁業及び捕鯨業許可区域に関する指令)の第2項で規定したラインをいうが、独島に関連して曖昧な点があって、第3項で独島との関係を明確にした。この指令第3項(b)を見れば、「日本の船舶及びその乗務員は、以後、北緯37°15'、東経131°53'に位置する独島に対し12海里以内に進入できず、また、この島といかなる接触もできない。」と規定している。これによれば、マッカーサーラインは独島の東側12海里を通過するとされている。

     ところで、この指令第1033号は突然出てきたのではなく、1946年1月29日付連合軍総司令部指令第677号(日本から一定周辺地域の統治および行政上の分離)に基づいたものだ。この指令第3項に「そして除外されるのは(a)鬱陵島、独島、済州島」として独島を日本領土から除外させたが、マッカーサーラインは結局この677号の認識を継承したのだ。

     ところで、指令第1033号の第5項に「本許可は該当水域またはその他のいかなる水域における国家の管轄権、国際的境界または漁業権の最終的決定に関する連合国政策の表現ではない」という内容が入っている。日本はこれを根拠に、この指令が最終的なものではないのでこれで独島の領有権が韓国に属するものと最終的に決定されたのではないと主張している。
     もちろん、この指令の第5項がないとしても、この指令によって最終的に独島領有権が確定したということはできない。 一般国際法上、占領軍司令部が被占領国の領土を処分する権限まで持っているのではないからだ。しかし、この指令以後に、連合軍総司令部は独島に関連する指令をどんな形態でも新しく発令した事実がない。もちろん、サンフランシスコ講和条約に独島に関連した内容が入っているならば日本の主張は一見説得力があり得る。 だが、この場合にも韓国は直接署名国ではないので、韓国に不利な内容まで適用されるのではない。
     しかし、実際には講和条約文中に独島に対する言及は全くない。 したがって、講和条約文中に独島に対する他の規定がないので、この指令による独島領有権は変わることがないと見ることができる。
    (キム・ビョンリョル)

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  101. Anonymous19/6/14 21:36

    反論29

    1965年の韓日国交正常化の当時、独島問題は事実上終わった問題だった。

     韓日の国交が正常化する以前には、両国間に独島問題をめぐって激しい外交文書の交換があった。そうするうちに、国交正常化のための会談では日本側が何度か議題化を要求したが、韓国がこれを一蹴することによって独島問題に関連していかなる内容も基本条約の中に含まれなくなった。 以前に韓日間で議論になった全ての問題は基本条約の中にどんな形態であるにせよ言及されたが、独島問題は含まれなかったのだ。したがって、基本条約によれば、独島問題はひとまず韓国側が領有することを日本側が同意したと見ることができるのだ。

     現在、日本は、当時全く議論されなかった日本軍慰安婦問題が基本条約によって解決されたと主張している。これはどれほど二律背反的な主張か? 修交交渉の当時に議論された独島問題は解決されなかったと主張し、全く議論されなかった慰安婦問題は解決したと主張するのは非論理的な二重的な態度だ。論理的に語ろうとするならば、修交以前に激しい論争を行った独島問題は基本条約の中に言及されないで現状を認めることで合意したもので、当時一切議論がなかった慰安婦問題は基本条約交渉の時に双方間で認識されなかった議題なので、基本条約によって解決されたと見ることはできないのだ。

     それに、島根県は日本政府の枠組みの中にある自治団体なのか疑わしい。日本政府さえも否認している「独島密約」説をロ・ダニエルという責任のない一個人の主張に振り回されて何の根拠もなしに引用することは恥ずかしくないのか尋ねたい。
    (キム・ビョンリョル)

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  102. Anonymous19/6/14 21:46

    反論86

    不法ではないがそのようにする国は一つもない


     世の中にどこの国が自らの領土であることが明らかな土地を再度自分の土地だとして編入する国があるのか? 日本が伝家の宝刀のようにいう1905年閣議の編入決定文のどこにも、日本の固有領土であることを再確認するために編入するという内容はない。
     1905年の閣議決定文は「他国がこれを占有したと認めるほどの形跡がない」としながら無主地なので編入は正当だと明確に示している。 ところが、無主地を先占したという論理だけでは不足だと感じたのか、今は固有領土を確実にするために編入したと言葉を変えているのだ。 日本は話にもならないことを並べる前に、固有領土を編入するバカな国がどこかにあるのか探してみて、その事例を挙げなければならないだろう。

    高宗皇帝の勅令第41号に出てくる石島が独島だという事実は既に色々な論文で立証されたので再論しない。だが、百回譲歩して石島が独島でないとしても、少しでも良心があるならば日本は編入が正当だったという主張をしてはいけない。1906年鬱島郡守沈興沢は独島が自身が管轄する区域であることを明らかにした。 仮に独島が無主地であると間違えて編入をしたとしても、後に鬱島郡守沈興沢の報告書を通じて朝鮮の土地であることを分かったとすれば、当然編入を取り消すことが文明人が取るべき道理ではないか? それでも自分たちの固有領土であったことを確実にするために編入をしたと言葉を変えて、どうして文明人ということができようか。
    (キム・ビョンリョル)

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  103. Anonymous19/6/14 23:19

    反論56

    日本が独島に対して是非を言うのは明白な内政干渉だ


     独島は歴史的にも地理的にも国際法的に韓国の固有領土だ。このような韓国の領土に警備隊を駐留させたり施設を設置したり立法活動をするのは、全て韓国の主権に起因する正常な活動だ。日本政府がこれに対して抗議をしたり国民に誤った内容を教育するのは全て韓国の内政に干渉するもので、国連憲章第2条第4項に違反する厳重な行為だ。
    (キム・ビョンリョル)

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  104. Chaamiey様 
    続々の翻訳、ありがとうございます。

    こちらは昨日の夜、「反論31」の反論を考えていてまとまらず、
    本日、仕事の合間に(笑)、ようやくまとめました。

    もう、やや遅くなってしまっていますが、書いておきます。


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    反論31について

    最初の
    鳥取藩の「二島いずれも日本のどの藩にも所属しない」という回答

    は史料の誤読で、正しくは、「二島いずれも鳥取藩には所属しない」が正しい読み方です。
    池内敏氏は、一貫してこのように読み続けています。

    「鳥取藩は、二島いずれも日本のどの藩にも所属しない、と回答した」、というのは誤解・誤読であり、その読み方を広げるのは歴史歪曲です。

    池内敏氏は、韓国側のこの誤読について、韓国の友人を通じて、もっと積極的に理解せしむるべきだと思います。文献の誤読からは歴史の真実に至らない、とは、池内氏が常に主張していることだからです。


    鳥取藩は、幕府から「因幡、伯耆」の二国の支配をまかされているだけであり、日本全国の島の所属について言及する権限はありません。

    竹島・松島は古来から「因幡」にも「伯耆」にも属したことはなく、
    「隠岐」に属するものとして扱われています。

    鳥取藩は、「隠岐」に所属する島ついて、発言する義務も、権利もありません。
    もし言及したとすれば、それば幕府に対する僭越であり、責任を取らされる可能性のある行為となります。

    太政官指令については、上述の通りです。

    最後のパラグラフに書いてあるのは、日露戦争の事で、竹島と関係があるのかどうかは主観的議論にすぎないように思います。これは、ひいては、日本が「無主地先占」したときに竹島=独島が韓国領であったという証明ができるかどうかの話に戻ります。

    それにしても「独島を日本が侵奪したというのは日本の学者によって糾明された事実だ」というのは、何が言いたいのでしょうか?
    韓国の学者の無能でしょうか?

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  105. Anonymous19/6/14 23:54

    >鳥取藩の「二島いずれも日本のどの藩にも所属しない」という回答

    はい、間違いですね。柳先生も反論83で、1881年松島開墾願の審査の際に太政官指令の説明文を添付したのは内務省であることが分からず、島根県だと書いていらっしゃいます。


    matsuさんは新しく登場した研究者の文を優先的に翻訳しようかと言っておられたので、私は当面キム・ビョンリョル先生のほうを訳することにしましょうか。

    それにしても金某先生はほえていらっしゃいますねえ。痛いところをつかれたからでしょうか。

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  106. お疲れ様です。100問100答の新たな記事を投稿しました。

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