竹島問題の歴史

20.6.14

竹島問題100問100答に対する批判


竹島問題100問100答に対する批判
  →元ファイル(韓国語)
  →機械翻訳ファイル(日本語)

Matsuさんから紹介いただいた、島根県発刊の「竹島問題100問100答」に対する慶北道独島史料研究会の反論です。慶北道独島史料研究会というのはこれまで聞いたことがありませんが、対象が島根県の著作ということで同じ自治体の「慶北道」の名前を使って立ち上げたのかもしれません。
著者は金柄烈を中心に柳美林、保坂 祐二という代わり映えのしないメンバーが中心とのことです。


発刊辞
2008年2月、日本外務省は「竹島問題を理解するための10のポイント(10 Issues of Takeshima)」を発刊してオンラインおよびオフラインで独島について歪曲された事実を伝播しようとした。だが、これが日本国民や国際社会で特別な 呼応を得ることができなかったためか、2009年12月にこれを補完した「竹島問題の概要(Outline of Takeshima Issue)」を再び発刊した。
日本のこのような挑発に対し、我が国は東北アジア歴史財団と韓国海洋水産開発院でそれぞれ「独島の真実(The Truth of Dokdo)2008」と「独島は果たして日本の領土だったか?」を発刊したが、日本の主張に対し各項目別に反駁するというよりも独島が私たちの領土だと いうことに力点を置いて内容を構成したので別段呼応を得られなかった。
これに対し自信を得たのか、日本は今回また再び「竹島問題100問100 答」(以下「百問百答」と略称)という膨大な内容の冊子を発刊して、多くの人々の目と耳を幻惑させている。これに対し、私たち慶尚北道史料研究会では、こ れを傍観すれば日本人はもちろん我が国の人々までも「百問百答」に出てくる内容が事実かも知れないという誤解を生じる素地があると考え、これに対する反論 を準備することになった。
もちろん、これまでいくつかの団体で「百問百答」を批判する学術セミナーを開催することもした。しかしこれらのセミナー は「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起するよりは、従前と同じように「韓国はもちろん日本の古文献でも私たちの領土になっている」、「島根県の独島編 入は国際法的に不法、無効だ」のように総論形式になっているため、一般国民の立場ではそれほど満足できないのが現実だった。
その上セミナー発表文というものは、一般市中で購入することもできない非売品限定本であったため、何日か過ぎた今は、そういうセミナーがあったという事実さえ記憶している人がほとんどいない。
これに対し、私たち史料研究会では「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起することで、日本の主張が根拠がないということを明確に立証する一方、これを冊子で発刊して1回性にならないようにする必要があると意見を集約した。
し かし、竹島問題研究会が長い期間中準備した「百問百答」に対し、私たちが短期間内に批判文を作成するには多くの困難が伴った。それでも満足するほどの水準 の批判文が作成される時まで長期間発刊を遅らせるのは、より一層話にならない処置なので、不足したままで今回「「竹島問題100問100答」に対する批 判」を発刊することになった。
この本に入った内容は、筆者が常識水準でいつも知っていたものなどを簡単に整理したものなので、これだけが全部だと 言うことはできない。また、責任執筆者の原稿が完成した後、それぞれの原稿に対し他の執筆者が意見を提示したのだが、それを受け入れない場合、全面的に責 任執筆者の意志に従った。
従ってこの本の内容は慶尚北道または史料研究会の統一された意見だと見るよりは、全的に責任執筆者個々人の常識的な意見だと見なければならない。
そして「百問百答」中には、「第1部 私たちの島竹島」と「第9部 島根県の活動を知ろう」のように、批判が必要ない部分も非常に多くの部分を占めているために、これらに対しては一つ一つ批判をしなかった。
この本が私たちの国民に、独島問題に対する自信を持つようにするのに少しでも役に立ったら良いと執筆者は考えている。合わせて日本語に翻訳されて、日本の人々が独島に対し客観的な知識を持つようになるのにも役に立つように願う。

2014年5月 慶尚北道 独島史料研究会 会長 
金柄烈(キム・ビョンリョル)
Matsuさん訳

なお、全文訳は著作権上問題があるかもしれませんが、慶北道独島史料研究会も島根県の100問100答を全文訳して公開しており掲載することにしました。

166 comments:

  1. OPPさん、ありがとうございます。

    動きが重くなっていたので助かります。

    私もChaamieyさんにならって、まずは翻訳することから始めます。チャチャを入れたくなったら入れます。

    保坂祐二氏を少し始めたので、最後までやってみようかと思います。やはり、とてもユニークで(笑)、面白いです。突っ込みどころが多いです。

    次に、おっしゃるように、チョン・ヨンミ(정영미)氏とパク・チヨン(박지영)氏をやります。

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    反論66

    「松島絵図」は日本の独島領有権を証明できない

    この項目は「松島絵図」についての説明だ。日本はこの絵図が1650年頃に描かれたもので非常に詳細に描かれた絵図だと説明している。 竹島資料室は「この絵図は、松島、すなわち現在の竹島で日本が経済活動をしたことを現わす重要な史料」と結論付けた。 すなわち日本側の独島領有権主張の中に一つの「日本が17世紀中盤に独島に対する領有権を確立させた」という論理を強化するために活用される絵図だということができる。
    しかし「松島絵図」がよく描かれたという点に対しては同意できるが、17世紀末、鳥取藩は江戸幕府の質問に対して「松島(=独島)は鳥取藩が支配する所でない」、「竹島と松島、その他に両国に付属する島はない」という答弁書を江戸幕府に送ったし、1870年と1877年にも日本政府が「松島(=独島)は朝鮮の付属」、「竹島外一島(=独島)の件は、本邦(=日本)と関係ないことを肝に銘じること」という公文書を下達した事実があって、竹島問題研究会が主張する独島に対する日本側の経済活動、すなわち実効的支配は成立しないということを自ら立証した。日本が主張する17世紀の独島に対する日本の実効支配は、他の国の島を貪ぼった泥棒行為に過ぎない。
    (保坂祐二)
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    反論67

    小谷伊兵衛の絵図はかえって韓国の独島領有権を証明した

    竹島問題研究会は、1696年1月鳥取藩が江戸幕府に提出した「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図」(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)」(鳥取県立博物館所蔵、8443号)を説明して、日本が独島を実効支配した証拠だと主張する。
    竹島問題研究会は「竹島(=鬱陵島)には浜田浦、鮑浦、大阪浦、北浦、柳浦、北国浦、竹浦という地名が記されている」という事実を指摘して、当時日本の色々な地方から鬱陵島と独島に出漁したと主張する。
    ところが1696年1月25日、鳥取藩が江戸幕府に送った回答書には「他領から漁労しに行くことは聞いたことがない。しかし出雲国、隠岐国の人々は米子の人々と同じ船で行く」(「竹島問題に関する調査研究―最終報告書」、竹島問題研究会、2007,p.40)と記されているので、17世紀には浜田藩から鬱陵島に行った人がいなかったと判断される。
    その他、浜辺の地名中、日本の地名と関係があると見える名前は、大阪浦だが大阪の人々が鬱陵島に渡海したという記録はない。鬱陵島の浜辺の他の地名は、全部実際の地名とは関係がない。北国とは日本の北側の地方を漠然と示す言葉であるから、特定の地名ということはできない。
    そして一つ、注目すべき内容がある。松島(=独島)の東島のそばに「松島の外周は30丁(松嶋大回り三拾町)」と記載した部分だ。ここで日本語の「大回り」とは、東島・西島のそれぞれの周囲を測量して合わせた長さでなく、東島・西島を一つの島と見て、二島が向かい合う部分の側面の長さを除いて、大きく二島の外周を測量した長さという意味だ。この絵図に記載された「松島の外注は30丁」という内容は、いわゆる「太政官指令」(1877)の「外一島」に関する記述「次に一島がある。松島と呼ぶ。周囲は約30丁...」という内容と関連する。続いて太政官は「外一島(=松島=独島)は本邦(=日本)と関係がない」と結論を出した。すなわち「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図」は、独島が朝鮮領土であることを現わす絵図だということだ。(保坂祐二)

    [図-1]「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)」の鬱陵島周辺(鳥取県立博物館所蔵、8443号)

    [図-2]小谷伊兵衛が提出した竹島絵図(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)(松島周辺):松島(=独島)の東島右側に「松嶋大回り三拾町(松島の外周30丁)」と書かれている(鳥取県立博物館所蔵、8443号)

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  2. 反論66は具体的な事実を何も述べていない。

    反論67に出てくる
    浜田浦、鮑浦、大阪浦、北浦、柳浦、北国浦、竹浦という地名は、大谷・村川時代に鬱陵島の日本による開発が進んでいたことを示す証拠である。浜田、大阪、北国という地名は、これらの地域とつながる航路に鬱陵島が組み込まれていたことを示す。鮑、竹は、資源のありかを日本側が良く知っていたことを示す。張漢相の記録にあるように、彼が訪れた時に鍋・釜などの生活用具も日本製で、日本人の「生活」が鬱陵島で実体化していたことを確認している。
    阿部老中の判断で、隣国との友好を優先したために鬱陵島は朝鮮領土のままに残ったが、日本側がドミナントな実態は進んでいたことが分かる。

    松島の「大回り」(実際の史料では「大廻り」)の数値が、明治時代の太政官指令の時の島根県側の示した数値と一致していることは、松嶋(現竹島)についての知識が、江戸時代から明治時代に連続して伝えられていることを示す。保坂祐二の最後のパラグラフの主張は、何が言いたいのか、趣旨が不明である。

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  3. Matsuさん
    >鳥取藩は、幕府から「因幡、伯耆」の二国の支配をまかされているだけであり、
    >日本全国の島の所属について言及する権限はありません。
    >竹島・松島は古来から「因幡」にも「伯耆」にも属したことはなく、
    >「隠岐」に属するものとして扱われています。

    これですが、幕府が「隠岐」とした明示的な資料はなかったように思います。しかし、地理的には隠岐国ですし、民間の資料は隠岐としているものがあり、普通は隠岐と考えるのが妥当だと思います。

    実は小笠原について調べ始めたのですが、どこの国郡にも所属しなかったようです。また、幕府が小笠原への渡航許可を与えたとの記録もあり、竹島との類似性が伺えます。このため、「隠岐国」以外に「どの国郡にも所属していないが日本領」という可能性もあるのではないかと考えているところです。

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  4. OPPさん

    >「隠岐国」以外に「どの国郡にも所属していないが日本領」という可能性もあるのではないかと考えているところです。

    同感です。面白い視点だと思います。
    長久保赤水の初版、および本人の確定版と考えられる二版(寛政版)には国別の着色がありませんが、長久保赤水は、日本領土としてとらえ、(少なくとも、そこから高麗を「見る」ので、「朝鮮領ではない」、と捉え)、その位置を確定しようと努力していたことは、最近の島根県竹島問題研究会の赤水の地元・高萩での発見によって裏付けられます。

    一方で、江戸時代の『新人国記』の隠岐国の地図に「竹島」=鬱陵島が描かれていることからも、竹島(鬱陵島)が隠岐と関連付けられていたことがうかがえます。

    ただし、「因幡」「伯耆」ではない。よって鳥取藩領でないことは明らかで、鳥取藩はそれを幕府に答えたまでです。しかし幕府の奉書は、鳥取藩民の竹島(鬱陵島)渡海を、竹島一件までは明らかに認めていたわけで、これは文献的にも動かない歴史的事実です。

    幕府にも、「どの国郡にも所属していないが日本領」という考え方があったのかもしれません。
    鎖国体制化で竹島(鬱陵島)渡海が許されたのはそれを物語ります。

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  5. 反論68  于山島が独島 (松島)という事実は、韓国と日本が認めた内容だ

    竹島資料室は、1724年閏4月に、鳥取藩が江戸幕府に提出した絵図など4点を取り上げて、松島(=独島)が描かれているという。そして各絵図に記載された内容を説明し、当時の日本人たちが正確に松島を認識していたと主張する。 まさに17世紀に日本が独島を実効的に支配したという主張だ。しかし17世紀末になって鬱陵島争界 (竹島一件)を通じて、鳥取藩は独島は鳥取藩が所有する島でなく、日本のどんな領地(訳注:領主カ)も独島を所有しない、と答えて独島に対する領有権と所有権を全部否定した。この内容は1870年外務省が「朝鮮国交際始末内探書」で再確認し鬱陵島と独島が「朝鮮の付属」であることを明確にした。 また1877年太政官が指令を通じて「鬱陵島とその他の一島(=独島)の件は本邦(=日本)と関係ないということを肝に銘じなさい」という言葉で確定したことがある。
    「公文録」に収録されたいわゆる「太政官指令」(正式名称は「日本海の中の竹島外一島の地籍編纂方針に関する稟議(日本海内竹島外一島地籍編纂方伺)」)には、日本領土でない二島(鬱陵島と独島)が描かれた「磯竹島略図」が添付されている。

    もちろん竹島問題研究会は「太政官指令」を研究しないで他の資料で「外一島」が独島ではないとのとんでもない歪曲で我を張っているが、そのような歪曲行為に対しては日本国内でも批判があふれている(例えば池内敏『竹島問題とは何か』(2012,pp.147~149)がそれだ)。

    結論的に、竹島問題研究会は「韓国側には独島を詳細に描いた絵図がただ一枚もないだけでなく独島を描いた朝鮮全図さえ一枚も確認されなかった」と主張する。しかし朝鮮では鬱陵島とその東側に于山島を描いた朝鮮全図がたくさん存在する。日本が朝鮮地図に描かれた于山島は独島でないとごり押しを主張するだけだ。于山島が独島だというのは、韓国側文献すなわち「東国文献備考」(1770),「萬機要覧」(1808),「増補文献備考」(1908)等に正確に記載されているだけでなく、1722年江戸幕府の質問に対して対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた日本側記録(対馬宗家文書古文書4013)にも残っている。竹島問題研究所の主張は、日本に不利な文献を隠して構築した虚偽に過ぎない。(保坂祐二)
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    論旨に新味はありませんが、「対馬宗家文書古文書4013」というのは、これまで知りませんでした。

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  6. 反論69

    日本の官許地図、公式地図も独島を韓国領土に分類した

    竹島問題研究会は、日本で広く知られた長久保赤水製作の「改正日本輿地路程全図」(1779)とそれに関連する地図、そして林子平の「三国通覧輿地路程全図(三国接攘之図)」(1786)等を取り上げて独島が日本領土と記載されたと主張する。

    これは竹島問題研究会が地図の基礎的な情報を全部無視して歪曲された地図の解釈を出しているものだ。先ず日本は長久保赤水「改正日本輿地路程全図」とその原図になった「改題日本扶桑分離図」(1768)等に、独島が日本領土と記載されたと歪曲した。竹島問題研究会が指摘するすべての地図には、独島だけでなく鬱陵島も記載されている。1696年1月、江戸幕府は「鬱陵島渡海禁止令」を出して鬱陵島が朝鮮領土であることを確認した。だからいくら日本地図に鬱陵島が標記されたとしても鬱陵島は朝鮮領なのである。鬱陵島と独島が日本地図に描かれる場合、ほとんど大部分は、日本地図の左側に韓半島、あるいは韓半島の一部が描かれている。したがって韓半島と日本列島の間にある二島である鬱陵島と独島が記載されるのは当然である。

    しかし長久保赤水の初版地図(1779)を見れば、鬱陵島と独島は日本領土に描かれた経緯線の外に存在しており、日本領土でないことを明示した。二島のそばには「隠州視聴合記」(1667)の一節である「高麗を見ることが、雲州から隠州(隠岐)を見るようだ(見高麗恰雲州望隠州)」という文が刻んである。「隠州視聴合記」は日本領土の北西側の境界を隠岐と定めた文書だ。この内容については、日本の名古屋大学の池内敏教授の2001年度論文に詳細に証明されている。したがって長久保赤水の地図は鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した地図である。

    竹島問題研究会は、林子平が描いた「三国通覧輿地路程全図(三国接攘地図)」は独島と関係がないと言う。しかし林子平がこの地図を作成した経緯を叙述した「三国通覧図説」(1786)には「日本図は長久保の日本図より良いものはない」と記されていて、地図制作に長久保の地図を参照したことが分かる。そればかりでなく、林は韓半島の部分は「「朝鮮八道地図」を使った」と記述した。すなわち林の地図の朝鮮と日本の部分は「朝鮮八道地図」と長久保の地図により作成されたことが分かる。

    [地図-3] 「三国通覧輿地路程全図」

    地図-3の中央に描かれた島には、竹島(竹嶋=鬱陵島)と表示されていて、その東側にひとつの小さい島が描かれている。 その二島が「朝鮮の所有だ(朝鮮ノ持也)」と書かれているが、この小さい島がまさに独島である。この二島と日本列島は、林の言葉通り長久保の「改正日本輿地路程全図」を参考にして描かれたと判断されるためだ。一方、韓半島の東側に島が一つ描かれているが、これは「朝鮮八道地図」中に描かれた鬱陵島に該当する。林は2枚の地図を参考にして、鬱陵島を二つ、間違って描いたと見られる。

    三国通覧図説は、一時幕府が発行禁止措置としたが、1850年代、米国と日本の間に小笠原群島をめぐる紛争が起きた際に、江戸幕府は「三国接攘之図」のフランス語版で小笠原群島が日本領土であることを証明して紛争に勝利した後、この地図は日本の公式地図になった経緯がある。竹島問題研究会の主張は、歴史的事実を歪曲したごり押しに過ぎない。
    (保坂祐二)

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  7. matsuさん
    対馬宗家文書古文書」(No.4013)というのは、日本にある文書ではありません。
    以下のサイトに不鮮明な写真がありました。
    http://www.dokdoandeastasia.com/inc/popup_banner.php?lang=ja

    韓国国史編纂委員会所蔵の文書のようです。

    韓国国史編纂委員会は、朝鮮総督府から引き継いだ対馬宗家文書類(記録類・古文書・書契・絵画類・印章)約29,000点を所蔵するが、本目録では、朝鮮後期に日本の外交窓口であった対馬藩と朝鮮政府の書契(公式外交文書)9,442点の内、2,200点を収録。排列は同委員会所蔵『図書原簿 書契/対馬島宗家文書』に登録された書契の一連番号順。全5巻刊行予定。

    責任表示:鶴田啓 日本語版監修
    出版者:ビスタピ-・エス
    出版年月日:2002.5発売

    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 書契目録集 1 , 2 , 3 , 4 , 5
    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 古文書目録集 1 , 2-1 , 2-2
    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 記録類目録集

    目録集自体は、刊行されているようです。


    なお、対馬宗家文書は、九州国立博物館にも所蔵されていて、データベースがあります。
    http://www.kyuhaku-db.jp/souke/database/public/

    ただし、このデータベースは、使い物にならないぐらい使い勝手が悪く不便です。

    韓国側のいう件の文書(No.4013)の年代は、内容から元禄時代以降であることしかわかりませんので、日本側の控え文書に相当するものがあるのかどうか、調べてみましたが、さしあたって以下の文書ではないようです。もっと時代の下った頃のものなのでしょうか。

    002111001荒尾志摩守書状 九月十日 荒尾志摩守□(花押) 宗対馬様、尊報 勝五郎への書状の趣承知、伯耆国米子の村川
    013080901口上之覚(米子町人二人竹島漁業禁止の達に 正月廿八日(なし)(なし) 米子町人二人竹島漁業禁止の達につき
    013081201覚(老中阿部正武書状) 七月廿一日 阿部豊後守 宗刑部大輔様 日本人竹島渡海禁止に付、朝鮮書簡への返簡
    013081301老中阿部正武書状 七月廿一日 阿部豊後守正武(花押) 宗刑部大輔様、御報 日本人竹島渡海禁止に付朝鮮礼曹参議書簡到
    013081501 老中阿部正武書状 十二月晦日 阿部豊後守正武(花押) 宗刑部大輔様、御報 宗刑部大輔書状(日光法事御用御礼・竹嶋一
    042053201老中奉書(老中格) 十二月十三日 小笠原図書頭長行(花押) 宗対馬守殿 宗対馬守書状(去年八月二日松平修理大夫領

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  8. 反論14

     事実は、編入に関係した人々の全部が独島は韓国領であることを知っていた


     独島編入に直接的に関連した人物は、当事者である中井養三郎と内務省当局者井上書記官、農商務省水産局長牧朴真、海軍省水路部長肝付兼行、外務省政務局長山座円次郎たちだ。

     中井養三郎は、前述した通り(反論12)自分が使っていた海図を通じて、独島が日本領土ではなくて朝鮮領土であることを知っていた。これは、当時海図を編纂した人々やこの海図を見て操業をしたすべての日本人たちがそのように分かっていたという傍証だ。
     中井の請願書を最初に受け付けた内務省の井上書記官は、請願を処理するために内務省内にある関連文書を探してみた。その結果、1875年8月内務省の中村元起が鬱陵島・独島問題を研究した後、「磯竹島覚書完」という報告書を作成し、1876年10月には内務省の地理担当者である田尻賢信と杉山栄蔵が島根県を訪問して地籍編纂に関連した内容を調査した。 彼らは復帰後に二島の所属を明確にするために島根県に公文書を送ったが、島根県もやはり詳しいことは分からないとして、かえって二島の所属を明確にしてくれと言う建議書を送ることになる。この時、鬱陵島と独島を概略的に描いた「磯竹島略図」を建議書に添付した。
     この建議書を受けた内務省は自主的に約5ヶ月間にかけてこの問題に対する調査をして、二島が日本の領土ではないとの結論を下した後、太政官にこれを確認してくれと言う建議をすることになり、1877年3月、当時の右大臣岩倉具視がこれを決裁したという事実を知ることができた。このような事実を把握した井上書記官は、独島の編入に反対したのだ。

     独島が韓国領という証拠はないと言った農水省水産局長牧朴真は、1903年1月に出版された『韓海通漁指針』の発刊の辞を書いたが、この本の江原道編に独島を「ヤンコ島」という名前で「鬱陵島の東南側に約30里、(中略)晴れた日には鬱陵島の峰の高いところからこれを見ることができる」と記述している。牧は発刊の辞でこの本を詳しく読んでみたと言って絶賛したので、独島が韓国の領土という事実を既に知っていた。

     また、海軍省水路部長肝付兼行が在職中に発刊した『寰瀛水路誌』1883年版と1886年版、『朝鮮水路誌』1894年版と1899年版に、鬱陵島とともに独島をリアンコルド列岩という名前で詳細に説明している。肝付はこれら水路誌の製作に一つ一つ関与したので、その内容を知らなかったということはできない。

     最後に、独島編入に最も熱心であった山座円次郎の場合、1904年に発刊した『最新韓国実業指針』の序文を書いたが、この本の13章水産編に鬱陵島とともに江原道に所属しているヤンコ島についての説明が詳しく出てくるので、独島は韓国の領土という事実をよく知っていた。 このように関係者全てが独島が韓国領であることを良く知っていながら、無主地だと強弁して独島を編入したのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  9. 反論17

    「固有領土」を今さら領土に編入する国がどこにあるのか?


     固有領土ならば住民を移住させて居住させたり漁撈行為を許可すれば良いのであって、これを領土であるのが明らかだといって再び編入をする行為は世界のどこの国もしない。したがって、この問題は国際法で規定する何の内容にもなれないことだ。 それでも日本側は、固有領土を編入をしなければならないという国際法もなく、編入をしてはならないという国際法もないという図式で言葉の遊びをしている。

     日本側は、「遅くとも17世紀後半には実効的支配に基づいて竹島領有権を確立していた」と主張している。それならなぜ1905年編入当時に関連当局者はもちろん漁師までこの島を韓国の島と認識していたのだろうか? 百回譲歩して彼らが韓国の島とは認識していなかったとしても、どこの国の島か分からないから編入しなければならないという話をしたことは文書上の証拠で明らかではないか?  さらに、1877年太政官指令ではなぜこの島は日本の島ではないと肝に銘じよと言ったのか? そして、固有の領土というが、いつから土地台帳に登載したのか? 編入後に官有地台帳に登載したのではないか? 日本はバラバラに話を並べる前に、これらに対する解明からしなければならない。

     根本的に、17世紀に日本人たちは独島を日本の領土だと考えなかった。これは、1667年に松江藩の藩士である斎藤豊宣が作った『隠州視聴合紀』に隠岐島の略図があって、鬱陵島及び独島が附属島嶼として描かれていないことで自明だ。1667年当時は大谷及び村川家の鬱陵島渡海が旺盛な時期だったのに抜けているのだ。すなわち、自分たちの領土と考えていなかったのだ。したがって、鬱陵島に来て操業をした行為は、自分たちの島と分かってした錯誤による行為ではない。朝鮮が倭寇の侵奪を憂慮して島に住む国民らを陸地へ刷還した隙に乗じて、こっそりと鬱陵島に入ってきて魚を採って行った明白な不法行為なのだ。どれほどひどかったから日本の内藤正中教授がこれを「主人がない家に入って貴重品を密かに持ち出す行為」と批判したのか。

     このように、鬱陵島や独島に渡海する行為が不法であることを分かっていたので、安龍福の渡日活動で問題になると直ちに日本が自ら渡航を禁止したのだ。 自分たち自ら「鬱陵島近辺独島」、「鬱陵島管内独島」、「鬱陵島と独島は日本のどの藩にも属しない」としながら渡航を禁止しておいて、今になって「独島まで認めたのではない」といってこれを根拠に独島に対する歴史的権原を確立したと主張するのは話にならない説である。
    (キム・ビョンリョル)

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  10. 皆様
    写真から判読した部分を手掛かりに調べてみましたら、この文書」(No.4013)は、幕府から対馬藩江戸藩邸への問い合わせに対して、天保七年八月になされた対馬藩からの回答のようです。


    朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候、

    (中略)
    (写真にある部分の翻刻です。)

    杏?ニ相見申候、松島之儀、元禄年、御老中
    阿部豊後守様ゟ(より)御尋之節、竹島
    近所ニ枩島与(と)申嶋有之。此所江も日本人
    罷渡漁仕候段、下々之風説ニ承候段
    御答申候由留書ニ、相見申し候。竹島同様
    日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)
    被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。朝鮮
    地圖遠(を)以相考候得者(ハ)蔚陵、于山
    二島有之与(と)相見申候。右竹島え被国

    (このあと、以下の文に続くようです。)

    漁民共罷渡且、木材多島と相聞候付、為舟造罷渡候由ニ而、住居之者ハ無之由ニ御座候。尤彼国役人時々為見分致渡海候而相聞申候。於當時ハ如何ニ同所候哉差極候儀難申上候。

    『日本の独島領有権主張に対する反論』(2011年6月1日 李薫:北東アジア歴史財団)、「独島に関する誤解と真実」国会シンポジウム発表文。
    http://www.dokdoandeastasia.com/inc/popup_banner.php?lang=ja

    および
    『獨島と對馬島』イフン論文(1996年初出)とのこと
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/H20kouza.data/no7-1.pdf

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  11. 小嶋さん

    追跡、ありがとうございます。

    韓国に遺されている対馬家文書の中にあるのですね。
    この文書については、下條先生が、かねてから「返還要求」をしています。
    研究の為に日本から当時の京城に持ち込んだものを、戦後になっても押収したまま返さない。
    対馬の仏像と同じ状態だと思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1)「対馬宗家文書古文書」(No.4013)を見ると、当時の江戸幕府の質問に答える形で対馬藩は「日本でいう竹島(=鬱陵島)と松島(=独島)は朝鮮では鬱陵島と于山島と言う」と確認した記録が残っている。(国史編纂委員会所蔵文書)
    2)日本側は韓国側記録や地図に韓国領土と示されている「于山島」を独島とは絶対に認めない。
    しかし上記の古文書は、当時の朝鮮で独島を「于山島」と呼んでいたことを、日本自体が知っていたという事実を証明している。
    3)このように于山島、つまり独島は数多くの朝鮮の古文書と古地図に朝鮮領土と記載、描かれてきた。
    4)日本は于山島(=独島)が朝鮮の土地であることを知りながらも、その事実を無視してきた。
    ※ 参照:「日本の独島領有権主張に対する反論」(2011.6.1. 李薫:北東アジア歴史財団)、<「独島に関する誤解と真実」国会シンポジウム>発表文。

    朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候、(中略)松島之儀、元祿年御老中阿部豊後守樣より御尋之節、竹島近所ニ松島与申嶋有之、(中略)朝鮮地圖を以相考候得者、蔚陵‧于山二島有之与相見申候

    現代語訳:江原道蔚珍県の東海の中に蔚陵島<=鬱陵島>という島があり、日本では竹島と申します。(中略)松島に関しては、元禄年間に幕府の老中阿部豊後守様がお尋ねになったときに、竹島の近くに松島という島があり、(中略) 朝鮮地図を見て考えれば、鬱陵と于山の二島と言えます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    朝鮮地図をもって考えれば、となっているので、これは対馬藩の想像ですね。
    最後の現代語訳は、やや歪曲されていて、朝鮮地図には、蔚陵‧于山二島がこれ有と相い見え申し候。すなわち、
    朝鮮地図には鬱陵・于山の2島があると言っているだけで、松嶋を必ずしも于山に特定しているわけでもないように読めますが、いかがでしょうか。
    やはり、全文が見えないと良くわかりません。

    下のほうにご紹介の文書は、『竹島記事』に引用されている文書の原本でしょうか。
    貴重なものだと思います。


    Chaamiey様
    着々と翻訳、ありがとうございます。

    保坂祐二の「反論」4つあげます。突っ込みはまた今度と言うことで。

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  12. 反論70

    日本の独島領有権主張は誤った歴史認識による歪曲にすぎない

    竹島問題研究会は、「大御国環海私図」には「高田屋嘉兵衛の商船は朝鮮海に出て北海道に行ったという。それは下ノ関を出発して西北方向に8里を行き、竹島二島(訳注:原史料は「松竹二島」)の間を通過し、方向を変え、北東方向を目標にしたのではないか?」と記載されており、北海道や北の地方を目標にした船が独島や鬱陵島付近を通過したという記録は、1801年の「長生竹島記」、1860年7月2日、長州藩の桂小五郎と村田蔵六が連名した「竹島開拓建言書草案」などにも見える、と主張する。結論として、鎖国中の江戸時代には日本の船は外国に渡航できなかったため、松島すなわち独島は日本領土と認識されていた、と竹島問題研究会は主張する。
    上のような竹島問題研究会の主張は、日本が独島を領有したというどんな証拠もならない。「二島間を通過して方向を変えて北東方向を目標にしたのではないか?」という疑問事項を以て領有権を主張するのは、それだけ根拠がないことを現わしているだけのことだ。
    実際に東海上を航海する時、鬱陵島や独島は著名な地形物となる。従ってこれを利用して航海すれば、風浪によっては鬱陵島の横を航海する可能性もあり、独島の横を航海する可能性もある。このように一時的で非正常的な航海の記録をもって領有権を主張するのは正しい態度とすることはできない。
    そして、鎖国中の江戸時代に、日本船が外国に航海はしなかったと研究会は主張するが、こういう主張は歴史の初歩的知識さえ知らない竹島問題研究会の学問的限界を如実に表わしたごり押し主張だ。日本が鎖国令を下した1635年以後にも、唯一日本と正式な国交を持っていた国がまさに朝鮮だった。対馬藩を通して朝鮮通信使が日本に行き、日本側では日本の江戸幕府や対馬藩の役人たちが釜山まで往来することができた。
    他国とは鎖国中だとしても、朝鮮とは正式国交があったという事実を知らない竹島問題研究会の無知によるごり押し主張に過ぎない。
    (保坂祐二)


    反論71

    伊能図には独島がなく、海図には独島が朝鮮領と記載されている

    竹島問題研究会は、明治時代に経緯度が引かれた近代的な地図は、主に海軍水路部によって作成・発刊されたという。また当時の海図は、海軍の測量、英仏露米の測量、伊能図を基礎に製作され、鬱陵島と独島周辺は欧米の測量結果に立脚して製作されたと主張する。研究会は島についての記録を見れば、鬱陵島は「鬱陵島(松島)」と記録されており、当時日本政府は鬱陵島を松島と認識していたことが分かるという。

    海図は、独島を「リアンコルト岩」等と記載し、東島と西島と見える二島を描いたが、国境線は表示されていないと言う。研究会は、当時二島の名称に混乱が引き起こされたが、それがそのまま地図などに反映されたと主張する。海図54号「朝鮮東海岸図」、海図21号「朝鮮全岸」などには、朝鮮だけでなくロシアや日本の島々も含まれており、「朝鮮水路誌」に記載された朝鮮国の範囲に独島は含まれていないので、海図や「朝鮮水路誌」などに独島が含まれていたとしても、日本海軍が独島は朝鮮領だという認識を持っていたという主張は誤りというものだ。

    しかし、当時の海図を作成した時参照した地図の中の一つである伊能図には独島が日本領土から抜け落ちている。従って伊能図を基礎に描いた日本の代表的公式地図である「大日本全図」(1877,陸軍参謀局製作)「大日本国全図」(1882,内務省地理局製作)等には、日本領土から独島が抜けている。そして二島の名称が混乱を経たと研究会は主張するが、それは日本が独島を領有しなかったために日本で独島の歴史的名称である松島を忘却した結果であり、よって日本が独島を領有しなかったという明白な証拠となる。

    朝鮮海図に朝鮮領以外の島などが描かれたのは、空間が残って島々の位置だけを表示したと判断される。
    「朝鮮水路誌」の朝鮮国の範囲には独島だけでなく鬱陵島まで除外されている。これは日本側水路誌作成者の誤りであるだけで、独島が朝鮮領ではないという証拠としては採択できない。

    1905年、独島を竹島という名前で日本に編入した以後、日本は1907年に独島の記載を「朝鮮水路誌」から「日本水路誌」にわざわざ移動させた。独島が「朝鮮水路誌」に記載された事実が独島領有権と関係がないならば、日本はあえて独島の記載を「日本水路誌」に移動する必要はなかっただろう。1907年の独島記載が「朝鮮水路誌」から「日本水路誌」に移されたという事実自体が、独島は本来韓国領土だったことを日本がよく知っていたという証拠だ。
    (保坂祐二)



    反論72
    1905年以後独島を自国領で表記した日本地図は全部無効だ

    竹島問題研究会は、1905年1月28日の閣議決定と2月22日の島根県告示第40号によって独島が島根県隠岐島に編入されたと主張する。その後「竹島付近島根県実測図」(1905)が製作されて独島の面積を実測し、1908年には水路部が近代測量法で独島の実測図を製作したという。1909年には陸地側量部が刊行した地図「東亜輿地図・松江」に、竹島すなわち独島が記載されたと竹島問題研究会は主張する。

    このような説明は、1905年の日本による独島編入が不法であったため、何の意味も持つことができない。

    日本内務省は、独島編入に際して「韓国領土である可能性もある一介の不毛の暗礁を取ることによって、日本が大韓帝国全体を飲み込んでしまおうとするという警戒心を西洋列強に持たせてはならない」として独島編入に反対した。
    この内務省の警告があったので、日本政府は外務省の説得で独島を日本領土に編入することに決めたが、できるだけ秘密裏にことを推進したのだ。 独島が「韓国領土でありうる」という事実を知っていながら、日本は独島編入について韓国と何の相談もしなかった。日本が小笠原群島を正式に日本に編入させた時は、アメリカや英国など小笠原と関連がある国に説明した。独島編入は、一言で言えば、日本が韓国という国家を軽視したところから始まった明白な侵略行為である。

    秘密裏に独島を編入した日本は、内務省が言う憂慮を無くすために、西洋列強の口をふさいでしまう作戦に出た。先ず1905年7月、日本はアメリカと桂-タフト密約を結び、アメリカによるフィリピン支配を日本が承認する代わりに韓国に対する日本支配をアメリカが黙認するようにした。これを英国が承認した。
    そして1905年9月、ロシアとの講和条約であるポーツマス条約第2条を通して、日本は韓国に対するすべての権利についてロシアから承認を受けた。清国は1895年時点で日清戦争により後退した状況で、日本が朝鮮に対して行うすべての行為に対して発言権自体がなかった。
    このようにして、日本は列強の反対を封印した後、1905年11月、韓国に乙巳保護条約を強要して外交権を剥奪した。独島編入を秘密にする必要がなくなった日本の島根県の官吏たちは1906年3月、独島を視察した後に鬱陵島に行き、独島が日本領になったと鬱島郡守沈興澤に口頭で知らせた。
    これに対して沈興澤は、「本郡所属独島」に対して日本領土になったと日本人官吏一行が来て話した事実を江原道観察使代理春川郡守李明来に報告し、李明来はこれを議政府に報告した。
    これに対し、議政府の参政大臣朴斉純は、「指令第3号」を下達して、「独島が日本領土になったという説は全面的に事実無根だ。日本人たちの行動に注目せよ」と命令した。しかし当時は日本が韓国を侵略する過程だったから、高宗皇帝でさえも日本に一言も言えない状況だった。
    そこで高宗は、各国に密使を送って日本の韓国侵略の事実を知らせるために1907年3月にはハーグ平和会議に密使3人を送ったが、失敗に帰した。これに怒った日本の西園寺内閣は高宗の退位を決め、韓国統監である伊藤博文に伝達した。こうして1907年7月、高宗は退位させられ、韓国軍隊は解散させられた。
    そして日本は「丁未7条約」を韓国に強要し、韓国の内政まで全部掌握した。1904年2月日本が韓国に「韓日議定書」を強要して以来、1907年7月丁未7条約を強要することで、日本は韓国侵略をほぼ完成させた。1910年8月の韓日併合条約調印強要は、侵略の完成を確認する形式的な手続きに過ぎなかった。
    このような日本の韓国侵略過程を見る時、日本の独島編入自体が不法だ。したがって1943年カイロ宣言には「日本が暴力と貪欲で略取したすべての領土から駆逐されなければならない」と記載されたのだ。
    (保坂祐二)

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  13. 反論77

    伊能忠敬の地図は独島を日本領土から明確に除外した

    竹島問題研究会は、1821年に完成された官撰地図「大日本沿海輿地全図」(以後「伊能図」)で独島が除外されたことは全く問題がないと強弁する。彼らは現在の日本領土でも伊能図には含まれなかった島々をいくつか取り上げて、伊能忠敬や測量を支援した江戸幕府が独島を日本領土だと認識しながらも地図には記載しなかったとごり押しの主張をする。

    竹島問題研究会が指摘した、「伊能図」に記載されなかった独島以外の島々というのは、現在のロシアが実効支配している北海道の択捉島と歯舞島、そして青森県の九六島、長崎県の男女群島の四個の島だ。

    ところで、択捉と歯舞は伊能忠敬の第1次測量作業にあった範囲で、九六島は第2次測量作業の範囲に入っていた島だ。竹島問題研究会も言うように、4次までの測量作業は伊能忠敬の個人事業だった。ところが第5次測量からは江戸幕府の測量事業になった。独島は、第5次測量事業に含まれた島で、長崎県の男女島は第8次測量事業範囲に入った島だ。 したがって特に江戸幕府事業で実施された独島と男女島に関する措置について調べてみる必要がある。

    伊能忠敬が残した「測量日記」を見れば、第5次測量事業の時、江戸幕府は独島に対する測量命令自体を下さなかった。第5次測量事業からは、すべての測量対象が江戸幕府の命令によって最終的に決定された。
    だから独島に対しては江戸幕府自体が日本領土と考えなかった可能性が高い。

    その証拠として、伊能忠敬の測量事業を総監督して、彼の死後に「伊能図」を直接完成させた、伊能忠敬が属した江戸幕府天文方の上司・高橋景保が1808年に「伊能図」に基づいて「日本辺界略図」を作成したことが上げられる。

    ところで高橋は、この地図の中の鬱陵島と独島を、中国の地図を参考にして朝鮮の東側海岸近くの島として描いた。すなわち「伊能図」を実質的に完成させた高橋景保自体が、独島の位置を正確に知らなかったし、独島を朝鮮領土と考えていた、という事実を「日本辺界略図」を通じて知ることが出来る。

    長崎の男女島は1877年「伊能図」に基づいて陸軍参謀本部が作成した日本の公式地図「大日本全図」に正確に描かれた。しかし独島は初めから江戸幕府自体が朝鮮領土と考えたので、1905年日本による独島強制編入以後になってはじめて日本の公式全図などに現れ始めた。1905年1月、日本政府は独島を日本領土ではない「無主地」と宣言したので、1905年以前に日本の公式地図に独島が現れるどんな理由もなかった。

    竹島問題研究会は、1645年や1826年の日本の国絵図には、隠岐島の島後・福浦港に、竹島(=鬱陵島)に対する航路などの記述があるといって、鬱陵島に行く途中にある独島も日本は日本領土と認識したという辻褄が合わない主張もしている。竹島(鬱陵島)が「日本領土」だという記載もなく、1696年1月「竹島渡海禁止令」が出された事実も度外視したこのような言及は、研究会の水準が非常に低いという点をむしろ浮き彫りにする結果を招くだけだ。

    伊能忠敬や江戸幕府は、独島を朝鮮領土と認識したので、独島を測量することもなかったし「伊能図」に独島を描くこともなかったというのが歴史的事実なのである。
    (保坂祐二)

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  14. 小嶋さん

    全文解読、ありがとうございました。さきほどはこれを見る前に書いていました。

    松島之儀、元禄年、御老中阿部豊後守様ゟ(より)御尋之節、竹島近所ニ枩島与(と)申嶋有之。此所江も日本人罷渡漁仕候段、下々之風説ニ承候段御答申候由留書ニ、相見申し候。
    竹島同様日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。朝鮮地圖遠(を)以相考候得者(ハ)蔚陵、于山二島有之与(と)相見申候。

    「竹島同様日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。」
    は重要で、対馬藩としても、結局は「極まったこと」「決定的なこと」は、良くわからない、と言っているわけです。

    そして参考として、朝鮮地図を見れば蔚陵、于山の二島がある、と言っているだけで、松島を于山と決めつけているわけではない。その意味で、上記HPの現代語訳「朝鮮地図を見て考えれば、鬱陵と于山の二島と言えます。」は歪曲であるともいえます。

    この史料、そういえば池内敏論文や、朴炳渉論文に得意そうに引用されていたのを見たような気がします。「対馬宗家文書」(No.4013)」とだけ書いてあって、わからなかったのだと思います。

    最後にご紹介いただいた森須和男論文(講演会筆記)によれば、天保竹島一件の時の幕府の問い合わせに答えて、元禄の時の記録を対馬藩で探ってみたわけですね。

    とすると、上記「反論68」の保坂祐二の記述
    「1722年江戸幕府の質問に対して対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた日本側記録(対馬宗家文書古文書4013)にも残っている。」
    というのは、「1722年」はウソ、「対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた」もウソということになります。ひどいもんですね。

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  15. 対馬宗家文書に関しては、「近代期の独島の領有権問題―新しい資料と研究を中心に―」(朴炳渉、嶺南大学独島研究所『獨島研究』第12号(2012.6.30) p157以下)に次の文章があります。


     イ・フンが発掘し(注9)池内敏が再解釈した(注10) 宗家文書によれば、江戸幕府は、「天保竹島渡海一件」に関連して1836年7月17日に対馬藩の江戸藩邸を呼んで竹島・松島に関して「二つの島はいずれも朝鮮の鬱陵島であるか、あるいは竹島は鬱陵島で松島というのは朝鮮外の地なのか」などを質問した。これに対し、対馬藩は、(1)竹島は江原道の鬱陵島であり、(2)元禄期に対馬藩が幕府の質問に対して「竹島の近くに松島という島があって、そこにも渡って行って漁業をしたというのが民たちの風説です。」と回答したことを説明し、(3)松島も「竹島と同じく日本人が渡って行って漁業をしたことに関して渡海が停止された島だと考えられますが、これを断定することに関しては回答できません。(注11)」と回答した。対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。さらに「断定することに関しては回答できません」と回答したのは、渡海が禁止されたのかどうかの最終判断は当然に幕府がすることだと考えたのだ。

    (注9)イ・フン「朝鮮後期の独島領属是非」、『独島と対馬島』重版。知性の泉 2005 p43。
    (注10) 池内敏「17~19世紀鬱陵島海域の生業と交流」、『歴史学研究』756号、 2001 p30: 池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会2006 p82
    (注11)「対馬島宗家文書」国史編纂委員会所蔵 古文書目録♯4013 「竹島同様 日本人罷渡致漁候儀 御停止の島とは被考候得共 差極候儀は答仕兼候」

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  16. 反論15

    1905年島根県の独島編入は国際法的に明白な不法だ


     日本が内閣の決議によって独島を編入するためには独島は無主地でなければならない。 無主地ではない土地を編入するならば明白な侵略行為であるためだ。それで、内閣決議でも「他国がこれを占有した形跡がない」と強調したのだ。
     しかし、前記した(反論14)ように当時独島は明らかな韓国の領土であり、近隣海域で漁撈作業をした漁師を始めとして編入に関係した全ての日本人たちもこれをよく知っていた。事情はこういうことなのに、あたかも日本の領土だったかのように既に領有権を確立した領土に対して近代国家としての領有意思を「再確認」するために編入をしたというのは、通り過ぎる牛も笑うほかはない話だ。既に領有権を確立した領土なのに、なぜ領土と最も密接な立場の内務省官僚、農商務省官僚、外務省官僚がこれを知らず、韓国の領土だと書いた本に序文や発刊の辞を書いたのだろうか? この人たちが狂人でも、あるいは領土を韓国に譲ってやろうと決心した人々でもないとすれば、その次に有り得ないことではないか。

     鳥取藩の漁師が17世紀に独島を利用していたのは彼らが不法的に鬱陵島で漁をすることになって航海途中の中間にある独島を知るようになって利用したものなのだが、これは安龍福の渡日活動を契機に幕府が渡海を禁止させたことによって完全に終わった話だ。 当時、幕府は厳重な調査を通じて鬱陵島と独島が日本のどの藩にも属しておらず朝鮮領であることが明らかだということを確認した後、日本の漁師に渡海を厳しく禁止させた後、これを朝鮮に通知した。このような事実は1870年代の内務省の調査でも再度確認された事実であり、これによって1877年に太政官指令が通達されたのだ。

     初めは独島が無主地だったから編入したと主張し、無主地ではないという韓国の反論にぶつかるとすぐに固有領土を編入したと言葉を変えるのは、無理にこじつけた弁解に過ぎない。日本は、近代国際法は領土の領有意思を再確認することを必ず要求したのでもなかったし、それでもこのような措置を取ることを禁じることもなかったという、話にもならない主張をしているが、これは領有権が確立された領土に対してこのような行為をするということ自体が不必要な行動なので言及する必要がなくてしないのであって、しても良くてしないでも良いという意味でしないのではない。換言すれば1905年の編入は無主地でない土地を編入したものなので、国際法上明白な不法行為であるだけのことだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  17. Chaamiey様
    朴炳渉論文、紹介ありがとうございます。

    やっぱり対馬藩は、元禄時に松島での漁も「禁止されたとも考えられるが」、「決定的なことは良くわからない」と言っているように思います。

    『対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。』というのは言い過ぎではないでしょうか。

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  18. 反論78

    長久保赤水の地図に独島は日本の範囲から除外されている

    竹島問題研究会は、1779年長久保赤水が作成した「改正日本輿地路程全図」(以下「赤水図」と略称)に対する韓国側主張がでたらめだと主張する。韓国側主張とこれに対する竹島問題研究会の反論、そしてこの反論に対して再び韓国側が反論した「韓国側の克服論理」を整理すれば次のとおりだ。

    1.赤水図の性格
    (1)韓国側主張:赤水図は個人が作成した私撰地図に過ぎない。
    (2)竹島問題研究会の反論:1712年以後、出版物は皆、江戸幕府学問所の検閲を通過してこそ「官許」になった。赤水図は1778年「官許」地図になった。だから私撰地図ではない。
    (3)韓国側の再反論:韓国側で言う「私撰地図」というのは、江戸幕府が作成した公式地図ではないとの意味だ。幕府の親藩である水戸藩の学者、長久保赤水が私的に作成したものなので、「官許」になったとしても幕府の公式地図ではない私撰地図だということだ。

    2.鬱陵島、独島と隠州視聴合記の文言
    (1)韓国側主張:赤水図には鬱陵島と独島のそばに隠州視聴合記の文言が記されている。その文言の「高麗を見るのは、あたかも雲州(出雲)から 隠州(=隠岐島)を見るようだ」という一節は、隠州視聴合記自体が隠岐島を日本の北西側の境界だと書いたことを見せる文言で、したがって鬱陵島と独島は朝鮮領土という意味で使われたのだ。

    (2)竹島問題研究会の反論:長久保赤水が赤水図を作成する時、隠州視聴合記を参考にしたというのは認められるが、上のような韓国側主張は憶測に過ぎない。赤水がこの地図を作成した時は多くの資料を参考にした。1701年と1754年の赤水の自筆地図には鬱陵島を「日本領」として記載した。だから赤水は、鬱陵島と独島を「日本領」と確認して赤水図を作成したということができる。

    (3)韓国側の再反論:上の竹島問題研究会の反論はとんでもない主張だ。鬱陵島が朝鮮領ということはすでに1696年1月江戸幕府が確認した歴史的決定だ。その後である1701年、1754年に赤水自体が作成した地図に、いくら鬱陵島が「日本領」と記されているとしても、それは明確に赤水の知識不足による誤りだ。そのような資料を土台にして赤水が赤水図を作成したとすれば、それこそ赤水図の価値がないという話だ。
    しかし赤水は幕府が竹島(鬱陵島)渡海禁止令を下した事実を後で知るようになったので、赤水図のそばに鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した隠州視聴合記の文言を書いて自身の誤りを訂正しようとしたと見ることが正しい解釈であろう。
    赤水は、自身の誤りを率直に認めて、鬱陵島と独島のそばに「朝鮮領」と書くことができない代わりに隠州視聴合記の文言を書いたと判断される。そして隠州視聴合記が日本の北西側境界を隠岐島に決めたというのは、2001年、名古屋大学の池内敏教授が明快に証明した。そしてその後、池内教授の論旨に反論した論文が現在まで一編も出ていない。だから赤水が隠州視聴合記の文言を鬱陵島と独島のそばに書いておいたのが二島を朝鮮領だと認めたという意味だという韓国側の見解を誤りという資格は、竹島問題研究会には全くない。

    3.鬱陵島と独島に対する彩色
    (1)韓国側主張:赤水図の鬱陵島と独島は、韓半島と同じように彩色されていないので、二島は日本領土でないとすることができる。

    (2)竹島問題研究会の反論:彩色されていないところは鬱陵島と独島だけでなく、日本領土のいろいろな所だ。 そして1789年赤水が出版した地図集の添付地図である「アジア小東洋図」には、鬱陵島と独島が日本領に彩色されている。

    (3)韓国側の再反論:日本領土のうち彩色されなかった所もある。しかし赤水図とこれと関連した赤水の関連図は、常に鬱陵島と独島の上に塗られた色が全く同じだったり、二島が同じように色がない。それは赤水図だけでなく江戸時代に作成された日本地図の共通した特徴だ。こうした事実は、地図作成者たちが常に二島が同じ性格を持つものと認識したことを現わしている。
    1696年1月、鬱陵島は朝鮮領と江戸幕府が正式に認めた。その後に鬱陵島を日本領だと認識したとすれば、それは認識の誤りであるだけのことだ。しかし「アジア小東洋図」に鬱陵島と独島が日本領で彩色されている、という主張はありえない話だ。
    その地図で二島は日本列島と似た色で彩色されているので、竹島問題研究会がそのような主張をしたと判断される。しかしこういう「竹島問題研究会」の論理は、彩色自体が意味がないといって韓国側彩色論理を否定した論理で再び自分たちの主張を正当化する、ありえない論理展開だ。
    ところで、日本の地図上で鬱陵島と独島に対する彩色が常に同一だという事実は、独島が鬱陵島の属島ないし鬱陵島と同じ水域に属するという意志表示、すなわち独島は鬱陵島と同じように朝鮮領という意味に解釈されるほかはない事実だ。


    4.鬱陵島、独島と経緯度
    (1)韓国側主張:鬱陵島と独島は韓半島と同じように日本領土の上に引かれた経緯度の外に描かれた。このような事実は二島が日本領土の外にある島、すなわち朝鮮領という意味に解釈される。

    (2)竹島問題研究会の反論:赤水図初版では東京に属する八丈島にも経緯度線がない。したがって経緯度線がないことを以て日本領でないというのは通じない。2版には朝鮮南端に経緯度線が引かれている。

    (3)韓国側の再反論:八丈島には経緯度線が直前まで行っているがつかないのが事実だ。それは東西南北を現わすマークを描くのに空間が不足したためと見える。そして島のそばに「ここから数百里離れたところに無人島がある。小笠原島という」という注記があって、八丈島と地図に描くことが出来なかった小笠原島までを日本領として書いている。そして鬱陵島・独島とは違い、八丈島には近くに他の国が全くない。最も近いアメリカは数千キロメートルも離れている。したがって地図作成上の事情により経緯度線から八丈島が若干抜け出したとしても、それだけで鬱陵島と独島の状況と同じように解釈すること自体に問題があることは誰か見ても分かることだ。
    鬱陵島と独島の場合は、八丈島とは違い、日本領土の上に引かれた経緯度線よりもはるかに北に描かれていて、その上、鬱陵島は1696年1月、朝鮮領に決定された状況だ。その鬱陵島とともに、大きく経緯度線が引かれた範囲から抜け出した独島は、明確に朝鮮領という意味でそのように描かれたと判断される。 鬱陵島と独島近くには朝鮮の南端が引かれて(訳注:描かれての間違いか)いて、それも初版では経緯度線のはるかに北側に描かれていて、朝鮮の南端および鬱陵島と独島は明確に日本領でないという意味に描かれたのが明らかだ。2版で朝鮮南端に経緯度線が引かれているという竹島問題研究会の主張は誤りだ。2版地図をよく見れば、経緯度線は朝鮮南端の前で止まっている。そして鬱陵島と独島は初版と同じように経度線(訳注:経緯度線の間違いか)よりはるかに北側に描かれている。
    (保坂祐二)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1701年の長久保赤水の自筆地図とあるが、長久保赤水(1717~1801)は1701年には生まれていない。
    1701年の地図は、長久保赤水の地図ではない。
    竹島問題研究会『100問100答』の日本語を保坂祐二氏は読めないのであろうか?

    「アジア小東洋図」は「添付地図」ではない。
    原史料を見ずに書いているか?

    竹島・松島が彩色されていないことは、韓国側に有利ともとれることなのに、公式地図ではなく私撰地図であることを強調しているのは、不思議である。

    鬱陵島を朝鮮領と知ったので『隠州視聴合記』の文言を入れた、というのは噴飯ものの珍説。

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  19. >『対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。』というのは言い過ぎではないでしょうか。

     
     資料を針小棒大に解釈するのはブロパガンダのやり方としてよくある手ですからね。






    反論16

    孤島の先占に通告が必要ないとは!


     日本はつまらない理由を挙げて、先占には通告が不要だと強弁している。果たしてそうだったろうか? 通告は一般的に事実や意思の通知を意味するが、無主地の先占に関連して特に重要な意味を持つ。
     
     まず、1905年日本が独島を編入する時、通告は国際法上の要件であったかを検討する必要がある。 1885年コンゴ会議で締結されたベルリン議定書第34条は、通告の義務を規定している。ただし、この議定書上の義務が締約国以外の国家及び地域でも慣習国際法としての効力があるのかどうかに関しては論議がある。このベルリン議定書上の通告義務は、1919年シャンジェルマン条約で削除された。 したがって、時期的に1905年当時には通告の義務が厳格に存在していた。それならばアフリカ沿岸ではない独島に対してもこの義務を賦課できるのかが論争の核心になる。

     1928年アメリカとオランダ間のパルマス(Palmas)島事件でフーバー(Max Huber)判事は、「1885年に列強によって採択されたアフリカ大陸に関する議定書上の通告の義務がほかの地域でも‘議論の余地なく(de plano)’適用されるものではない。」と判示した。これは日本側の解釈のように他の地域では絶対に適用されないという意味ではなく、他の地域でも「議論の余地なく」適用されるのではないという意味だ。 すなわち、他の地域の場合には状況に従い、議論の結果によって、適用されることもあり適用されないこともあるという意味だ。 換言すれば、パルマス島のように住民たちが居住している島に対しては、あえてベルリン議定書による通告の義務を適用しなくても良いという意味である。

     日本側が例に挙げているクリッパートン(Clipperton)島事件の場合を見れば、「ベルリン議定書第34条に含まれているそのような通告をする義務はない(34 del’acte de Berlin precite,qui,comme il a ete dit plus haut,n’est pas appliquable au cas present.)」とヴィクトル、エマニュエル(Victor-Emmanuel)が判示した。フランスがクリッパートン島を先占したのは1858年で、ベルリン議定書はしばらく後である1895年に締結された。すなわち、フランスがクリッパートン島を先占する当時にはベルリン議定書は存在しなかったのだ。当然、時制法の原則上、ベルリン議定書で規定しているそういう通告まで要求してはいけないとして、フランスが「ハワイ政府に通告をした点、ハワイで発行されるポリネシアン誌にクリッパートン島にフランスの主権が樹立されたと公告をしたこと」程度でも充分だと判決したのだ。 結論的には、かなる国際判決でも日本側が主張するように通告が絶対的に不必要だというものはなかった。

     学説もまた同じだ。オッペンハイム(L. Openheim)など一部の学者を除いては、ウィルソン(G.G Wilson)、ライト(Q. Wright)、ウェストレイク(J. Westlake)、ヴィッシャー(C.d. Visscher)、フェンウィック(G.G. Fenwick)などがいずれも通告を先占の要件と見ていて、特にシュワルゼンバーガー(Schwarzenberger)はこれを慣習国際法規則とまでした。1888年国際法学術院(Institute de Droi International)のローザンヌ決議第1条も、やはり通告を先占の要件としている。

     ところで、実はこの問題で通告が必要かどうかを突き詰めるのは話にならない。 アフリカにおいて一定の地域を先占した国家は、フランス、イタリア、英国、ドイツ、オランダなど数多くの国に通告をしなければならない。 現実的にかなり難しいことだが、紛争を防止するために通告を要求したのだ。クリッパートン島はなおさらだ。 一体どこの国に通告をするという話だろうか?
     ところが独島は違う。 韓国と領有権争いがあった事実を自分たちが十分に知っていたではないか? それにも拘わらず、通告が国際法上の義務かどうかをめぐって争おうとするのは、良心の失踪を法の解釈で隠そうとする浅はかな御託宣に過ぎないのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  20. 反論68、保坂祐二の「1722年」説は、恐らく李薫が「発掘」したときの年代観で、それを池内敏が批判的に発展させ、朴炳渉はその段階を踏まえて引用したものと思われます。

    保坂祐二は、池内敏の論文も、朴炳渉の論文も読まずに、この「反論」を書いているのでしょうか。

    はやく全貌を知りたいので翻訳を急ぐべきなんでしょうが、いろいろ引っかかることを書いてくれるので、なかなか先に進みません。(笑)

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  21. 反論79

    林子平の絵図には独島が朝鮮領土として正確に描かれている

    1.「朝鮮の所有」と書かれた「竹島」について

    (1)竹島問題研究会の主張:1786年に刊行された経世思想家・林子平の「三国通覧図説」に添付された地図の一つである「三国通覧輿地路程全図」には「竹嶋」が描かれていて、韓半島と同じ黄色で彩色され、「朝鮮の所有だ」と記されている。しかしこの「竹島」は独島でなく鬱陵島で、韓半島東側にも島が一つあるがその島も鬱陵島だ。
    (2)韓国側の反論: 「三国通覧図説」を読めば、林子平が「三国通覧輿地路程全図」(「三国接壌之図」)を作成した時参考にした地図についての解説が記されている。林は「日本図については長久保赤水の日本全図より良い地図はない」として、日本図部分は長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779)を参考にしたことを明らかにした。そして朝鮮図部分については「朝鮮八道地図を使った」と明らかにした。1785年林子平は朝鮮の地図を模写して作成した「朝鮮八道地図」をすでに持っていた。朝鮮図部分には林はその地図を使ったと判断される。すなわち林子平は「三国通覧輿地路程全図」を作成した時、赤水図(1779)と「朝鮮八道地図」を日本図と朝鮮図部分に使ったと判断される。したがって林子平は、赤水図に描かれた鬱陵島と独島の部分をそのまま「三国通覧輿地路程全図」に反映させた。林の地図の竹島すぐに東側に小さい島が描かれているが、この小さい島は竹島とともに黄色い色に彩色されて「朝鮮の所有」であることを明確にしている。まさにこの小さい島が、赤水図に描かれた松島(独島)である。すなわち林子平の地図「三国通覧輿地路程全図」には、独島が朝鮮領土として正確に描かれているのだ。

    2.江戸幕府の認識

    (1)竹島問題研究会の主張:林子平の「三国通覧図説」は、1792年江戸幕府によって発行禁止処分を受けた。 その理由は「地理が間違った絵図(地理相違之絵図)」という理由のためだった。したがって林子平の絵図は江戸幕府の認識を表示した地図ではない。
    (2)韓国側の反論:林子平の「三国通覧図説」が発行禁止された理由は、幕府の許可なしに地図が挿入された本を発行したということだけでなく、その本には「外国が日本を襲撃するだろう」というような、人々を当惑させる内容が入っているためだった。竹島問題研究会が主張するように「間違った地図を使ったので」ということは理由にはならなかった。実際の判決文には次の通り記されている。

    「外国が日本を襲撃するという趣旨の奇怪な異説を混ぜて著述し(中略)、その他にも地理が違う絵図を添付して書写し出版したので(中略)、家宅監禁刑に処した(後略)」(異国より日本を襲候可有之趣、奇怪異説を取交著述致し(中略)、其他地理相異の絵図相添へ書写又は版行致し(中略)、 於住所蟄居申付候 (後略)) (藤原信軒「林子平」1903)

    この判決文には「地理が間違った(地理相違)」の絵図ではなく、「地理が違う(地理相異)」絵図、すなわち「地理的内容がそれぞれ違う」絵図という意味で問題の部分が記されている。だから判決文には竹島問題研究会が言う「地理が間違った」絵図という意味は全くない。竹島問題研究会が主張するように「地理相違の絵図」としても意味は同じだ。「地理がそれぞれ違う絵図」という意味であるから、竹島問題研究会の主張が偽りであることがわかる。あるいは彼らの研究者としての能力自体が疑問視される問題だ。
    林子平は「三国通覧図説」に5枚の地理的内容がそれぞれ違う絵図、すなわち日本図、朝鮮図、ロシア図の一部などを添えた。そのような事実を明らかにした判決文の一節を歪曲、あるいは実力不足で間違って解釈した愚かな主張が、竹島問題研究会の主張である。

    林子平の「三国通覧輿地路程全図」は、その後1850年代、米日間に小笠原群島をめぐる紛争が起きた時、江戸幕府が幕府の公式地図として使って米国側主張に勝った経緯があり、江戸幕府の公式地図になった歴史的事実がある。竹島問題研究会はそのような事実も分からない状態だ。このような歪曲事実一つだけ見ても、彼らが出した「竹島問題100問100答」という本の水準がわかる。
    (保坂祐二)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本図、朝鮮図、ロシア図の一部というように、互いに内容が異なる地図を出版したから林子平は罰せられた、と保坂祐二氏は本気で言っているように見えるが、そんなことがありうるのだろうか?
    「間違った地図を発行したから罰せられた」という日本側の主張の方がはるかにまともである。

    とりあえず、保坂祐二センセイはこれで終わりです。やれやれ。

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  22. 反論9

    海洋利用に関する国際法と独島領有権


     海を規律する法は海洋先進国と後発国間の熾烈な対立と闘争によって形成されてきた。すなわち、海洋先進国は海洋の自由を主張しつつ陸地に近接した沿岸まで自由に利用しようと考えたし、後発国は安保上の理由などを挙げてこれを阻止しようとした。代表的なものがグロティウス(Hugo Grotius)の「自由海」論とセルドン(John Seldon)の「閉鎖海」論の対立だ。海上貿易強国だったオランダのグロティウスは自由海論を主張し、後発国だった英国のセルドンは閉鎖海論を主張したのだ。もちろん、英国も日が沈まない大英帝国を建設した後には、当然自由海論を主張することになった。

     このような海洋先進国と後発国の利害関係を調整するため、国際連盟の後援の下、1930年に海洋法法典化会議が開催されたが、海洋先進国と後発国の相異なる立場の違いで結局失敗した。その後、1958年に第1次海洋法会議を開催して4つの協約(領海、公海、大陸棚、公海生物資源保護)を採択したが、領海の幅をいくらにするのかについては意見の一致を見ることができなかった。続いて1959年に領海の幅を決めるための第2次会議を開催したが、やはり失敗した。

     その間、漁獲技術の発達で魚類資源の乱獲が問題になり始めた。さらに、海洋先進国が深海底を開発する技術まで発展させることになると、すぐにこれに対する規制をこれ以上先送りすることができない状況になった。これに対し、国連の後援の下、第3次海洋法会議を開催して長い討議の末、1982年に国連海洋法協約を採択することができた。

     この協約で、それまで合意をできなかった領海の幅を12海里に決め、従来は無かった排他的経済水域、群島水域、深海底開発などの概念を導入して詳しい内容を規定することになった。その中でも特に排他的経済水域の概念の導入は、従来、水面下に隠されていた独島問題を表面化させる契機になった。すなわち、この協約によって東海の海を韓国と日本の排他的経済水域で両分することになったが、独島がどこの国に属するかによって境界線の位置が変わることになるので、必然的に独島領有権が問題になるほかはなかったのだ。

     結局、韓日両国は独島領有権について円満な合意を成すことができず、国連海洋法協約第121条第2項(岩石)に対する解釈でも意見の一致を見ることができず、排他的経済水域の境界線を画定できなかった。このように、排他的経済水域の境界線に合意できなかったために、1998年に署名された新韓日漁業協定ではやむなく独島周辺を中間水域と規定するほかはなく、以後日本が独島問題をさらに騒がしく主張する契機になった。
    (キム・ビョンリョル)

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  23. 反論18

    島根県が取った行為は全部不法無効だ



     島根県は、独島編入の事実を公告して官有地台帳に登載した後、アシカ漁業者に貸与し、1941年から1945年まで海軍用地として引き継いだことがあり、1905年8月島根県知事が独島を視察、1906年8月に発刊した「島根県全図」に独島を含ませるなど、行政権を行使したと主張している。
     しかし、前記した(反論15)ように、日本が独島を編入したこと自体が不法無効な行為だ。このような不法無効な行為を根拠として行政行為をするのは、当然全て無効である。

     日本は、独島を官有地台帳に登載した後アシカ漁業者に貸与したことを自慢するのでなく、1905年に望楼を建設して露日戦争に活用したという事実を告白しなければならない。しかし、このような事実に対しては堅く口を閉じている。軍事的な必要性によって編入したという事実が知られることを望まないからだ。

     そして、1906年に発刊した「島根県全図」に独島が含まれていると言うが、1917年に発刊した「島根県全図」には独島は含まれていない。固有領土だったというのなら、1906年でなく1905年以前に発行した地図にも当然独島が含まれていなければならないのではないか? ところが、1905年以前どころか1917年に発行した地図にも独島が包含されていないということは何を意味することなのか? これが正に、独島は日本の固有領土でもなく、固有領土であることを編入という形式で領有権を再確認したのでもなく、純粋に戦争の必要性によって編入したものであることを見せてくれる明白な証拠だ。
    (キム・ビョンリョル)

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  24. 反論19

    隠岐の人々の独島での行為は当然不法無効だ


    隠岐の人々は、従来から独島は日本の領土ではないと考えていた。前記したように、1667年に斎藤豊宣が著述した『隠州視聴合紀』に出てくる隠岐島の略図の中に独島は含まれていない。1667年当時は大谷及び村川家の鬱陵島渡海が旺盛な時期だったのに抜けているのだ。すなわち、隠岐はもちろん松江藩の人々も独島を自分たちの領土とは考えていなかったのだ。だから安龍福の渡日活動で問題になった時、惜しかったもののどうすることもできず、朝鮮領土であることを認めたのだ。そして、1903年から独島でアシカ漁をした中井養三郎も、韓国の領土だと考えて韓国政府に貸下げ願いを提出しようとしたのだ。

     このように、現地住民はもちろん中央政府でも韓国の領土だと考えていた独島を、外務省政務局長山座円次郎の話のようにロシア軍艦を監視するための望楼を建設するために編入したのだ。もし当時が露日戦争中ではなかったとすれば、中井養三郎の編入請願書は、当然内務省当局者の考えによって却下されただろう。

     このように、戦争の必要性によって、無主地ではなく韓国の領土ということを知りながら編入したので、1905年の独島編入は当然無効である。このように無効な行為を根拠とした隠岐の人々の独島での行為のいかなるものも、実効的支配の範疇に入ることはできない無意味な行為である。
    (キム・ビョンリョル)

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  25. 反論22

    サンフランシスコ講和条約の起草過程で、日本は何を要求したのか?



     日本がサンフランシスコ講和条約の一方の当事者として初めから条約の草案作成過程に部分的に参加できたのに反して、韓国は全くそうはできなかった。さらに、後記(反論23)するように、1947年3月20日付けの最初の草案から1949年11月2日付けの5次草案まで独島が韓国の領土として作成されたという事実はもちろん、その後に日本のロビーで日本領に変更され、最終には削除されたという事実さえ全く知らなかった。

     反面、日本は独島が韓国の領土として作成されたという事実を知ってからは、これを変更させるために手段と方法を選ばなかった。その中で代表的なものが、1947年6月に日本外務省が発刊してアメリカに伝達した「日本本土に隣接した小島(Minor Islands Adjacent to Japan Proper)」だ。この本の第4章に鬱陵島、竹島を表記し、竹島に対しては韓国式の名前もないと説明して鬱陵島、独島があたかも日本の領土のように主張した。そうするうちに、1949年11月、上のパンフレットの記述にもかかわらず独島が韓国の領土になった事実を確認してからは、急いで、当時駐日米政治顧問官だったシーボルド(William J. Sebald)を通じて米国務部へ電文及び書面の意見書を送った。
     シーボルドは、これら文書で「独島は私たちが提案した第3条で日本に属することで特定しなければならないと提案する。これらの島に対する日本の権利主張は古くて有効なものと見られ、これらを韓国沿岸外郭周辺の島々と見なすことは難しい。また、安保的な側面から考慮すれば、これらの島に気象及びレーダー基地を設置するならばアメリカにも利益になる。」とした。この文書の内容から見れば、独島を日本領土にしてさえくれればアメリカのレーダー基地を建設するようにしたいという日本側の言質があったことを推定することができる。

     それだけでも足りず、日本の吉田茂首相は、在日韓国人は全部共産主義者で、1949年夏に発生した日本国鉄社長の暗殺など韓国人が全ての犯罪の根源であるから、韓国がサンフランシスコ講和条約の署名国になれば彼らに経済的利益を与えることになるから絶対にだめだと謀略し、ダレスの同意を勝ち取った。つまり、韓国が独島が脱落したことに関する過程に気付いてこれに対して意志表明をするかも知れないと思って、その機会を元から封鎖したのだ。

     このように熾烈な努力にもかかわらず、最終条約で独島が日本の領土と表記されず日本は自分たちの努力が失敗したことを自認して、1952年4月毎日新聞社が発刊した「日本領域図」に出ているように独島が本来のとおり韓国の領土になったものと認めたのだ。
    (キム・ビョンリョル)






    <コメント>

    「満足されない好奇心は、それ自身の答を作り出す傾向があった。想像力とは、事実よりずっと危険なことが多いものだ。」
     ( Frank Herbert )

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  26. 反論57

    独島問題は、日本が戦争の必要性によって侵奪したということだけ認めれば簡単に解決する


     
     17世紀に日本の江戸幕府は細密な調査の後、独島が日本のどの藩にも所属しない朝鮮の領土だと決めたことがある。そして、再び1877年に日本の太政官では独島が日本の領土ではないことを確認したことがある。
     1905年、独島を編入しようとしたとき、編入請願書を出した中井養三郎は独島を朝鮮の土地と知っていた。前述したとおり(反論12)、自分が使っていた海図を通じて独島が日本領土ではなくて朝鮮領土であることを知っていたのだ。これは、当時海図を編纂した人々やこの海図を見て操業をした全ての日本人たちがそういうふうに分かっていたという傍証だ。
     中井の請願書を最初に受け付けた内務省の井上書記官は、請願を処理するために内務省内にある関連文書を探してみた。その結果、1877年3月当時に右大臣岩倉具視が独島は日本の領土ではないという指令文を決裁したという事実を知ることができた。それで彼は独島の編入に反対したのだ。

     独島が韓国領という証拠がないといった農商務省水産局長牧朴真は、1903年1月に出版された「韓海通漁指針」の発刊の辞を書いて独島が韓国の領土であることを分かったし、海軍省水路部長肝付兼行は、自身が在職中に責任発刊した「寰瀛水路誌」1883年版と1886年版、「朝鮮水路誌」1894年版と1899年版を通じて独島が鬱陵島のそばにある朝鮮の島ということを知っていた。独島編入に最も一生懸命であった山座円次郎の場合、1904年に発刊した「最新韓国実業指針」を通じて独島が江原道に所属していることを知っていた。

     このように、日本は関係者全て独島が韓国領であることを知っていながらも無主地だと強弁して独島を編入したのだ。 露日戦争で喪失した制海権を補完しようと独島を編入して望楼を設置運営するために、独島は無主地だと我を張ったのだ。したがって、今でもこのような事実さえ認めるならば独島問題は自然に解決される。
    (キム・ビョンリョル)

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  27. Chaamiey様 ご苦労様です。各執筆者の担当本数です。

    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬) 35本
    9、12、14、15、16、17、18、19、21、22、23、25、26、27、28、29、30、31、33、38、39、40、41、43、44、49、50、51、52、53、54、55、56、57、86

    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)  14本
    20、32、36、37、61、62、63、75、80、81、82、83、84、85

    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지) 10本
    66、67、68、69、70、71、72、77、78、79

    チョン・ヨンミ(정영미) 9本
    46,47,48、58、59、60、64、65、76

    パク・チヨン(박지영) 5本
    24、34、35、42、45

    イ・ソリ(이소리) 6本
    1・2・3、4・5・6、11、13、87、88~102

    イ・キボン(이기봉) 2本
    73、74

    計81本

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  29. 金柄烈(1956~)経歴、著書
    キム・ビョンリョル または キム・ビョンニョル または キム ピョンニョル
    김병렬(Kim Byeongryeol) (Kim Byeong Ryeol)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ★岩波書店『史的検証 竹島・独島』(2007.4.26刊)
    金柄烈 キム・ビョンニョル
    1956年 ソウル生まれ
    1978年 陸軍士官学校卒業
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    1996年 カナダ法務監室 戦争法課程修了
    1992年より国防大学校 国際関係学部教授
    大韓国際法学会で2006年度最優秀研究者として選ばれ、玄岩学術賞受賞
    著書 
    『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳 インター出版・インター語学塾 2007)
    『独島資料総覧』(1998)など
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ★『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳)
    インター出版・インター語学塾 金寿堂出版 2006 12.25刊
    金柄烈 キム・ビョンニョル
    1956年、ソウルに生まれる
    陸軍士官学校卒業後、
    高麗大学校大学院 法学修士
    高麗大学校大学院 法学博士
    カナダ法務監室 戦争法課程を修了し
    アメリカ・オハイオ州立大学客員教授を歴任する。
    現在 国防大学校 国際関係学部教授

    主要著書
    『いお島の研究』 弘一出版 1996年
    『独島か、それとも竹島か』ダダメディア出版、1996年
    『独島資料総覧』ダダメディア出版、1996年
    『戦争法』21世紀軍事研究所 1997年
    『独島に対する日本人の主張』ダダメディア出版 1997年
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『明治三十八年竹島編入小史』の原著
    『日本軍部の独島侵奪史』2006.6.10
    東北亜の平和のための正しい歴史定立企画団 刊 (注:東北アジア歴史財団 の前身)
    略歴
    陸軍士官学校卒業
    高麗大学校大学院 法学博士
    米国オハイオ州立大学 訪問教授
    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事
    国防大学院 教授

    主要著書
    独島論争
    独島(独島資料総覧)
    独島を守る人たち
    独島に対する日本人の主張
    指揮官のための戦争法事例研究
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    岩波書店『史的検証 竹島・独島』の原著
    『韓日専門家が見た独島』ダダメディア 2006.11.5刊

    1978年 陸軍士官学校 卒業
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    2003年 米国オハイオ州立大学 訪問教授
    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事
    国防大学校 教授

    主要著書
    『独島論争』 ダダメディア
    『独島(独島資料総覧)』ダダメディア
    『日本軍部の独島侵奪史』 ダダメディア
    『独島を守る人たち』 四季節
    『指揮官のための戦争法事例研究』21世紀軍事研究所
    『イオ島を知っていますか』 弘一出版
    『白頭山境界碑の秘密』 四季節

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    国会図書館 キム, ピョンニョル
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/NGQ234FX3J3R419CQMCQDUG2YFBNY8TTKX9MYCVU2D41TD8XTT-46496?func=find-b&request=%E9%87%91%E6%9F%84%E7%83%88&find_code=WRD&adjacent=N&filter_code_4=WSL&filter_request_4=&x=25&y=18
    史的検証竹島・独島 岩波書店, 2007.4.
    明治三十八年竹島編入小史 京都 : インター出版 ; 葛城 : 金寿堂出版 (発売), 2006.12
    독도가우리땅인이유! : 독도논쟁 다다미디어, 2005.4.
    독도에 대한 일본 사람들의 주장 다다미디어, 2001.6.

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    総合すると
    金柄烈 (1956~) 
    キム・ビョンリョル または キム・ビョンニョル または キム ピョンニョル
    김병렬(Kim Byeongryeol) (Kim Byeong Ryeol)

    1956年 ソウル生まれ(『独島を守る人たち』には京畿道安城生まれ)
    1978年 陸軍士官学校卒業
    1980年代に何をしていたか、やや不明。
    ?   高麗大学校大学院 法学修士
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    1992年より国防大学校 国際関係学部教授
    1996年 カナダ法務監室 戦争法課程修了
    この年に帰国か? 1996年から著書はじまる
    大韓国際法学会で2006年度最優秀研究者として選ばれ、玄岩学術賞受賞
    (「玄岩」は歴史学者・申国柱の号)

    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事

    主要著書
    『独島か、それとも竹島か』ダダメディア出版、1996年
    『イオ島の研究』 弘一出版 1996年
       →『イオ島を知っていますか?』1997年説あり
    『独島(独島資料総覧)』ダダメディア出版、1996年
    →『独島(独島資料総覧)』ダダメディア出版、1998年1月31日刊が正しい


    『指揮官のための戦争法 事例研究』21世紀軍事研究所 1997年

    『独島に対する日本人の主張』ダダメディア出版 1997年
    →『独島に対する日本人の主張』ダダメディア、2001年6月が正しいか

    『独島を守る人たち』 1999年 四季節出版社

    『独島論争 独島が私たちの領土である理由』 ダダメディア 2005年4月

    『日本軍部の独島侵奪史』 ダダメディア 2006年6月
    →★『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳)
    京都 インター出版  葛城 金寿堂出版 (発売), 2006.12

    『韓日専門家が見た独島』ダダメディア 2006.11.5刊
    →★『史的検証 竹島・独島』岩波書店(2007.4.26刊)
    (内藤正中が惑わされた1953年3月19日「日米合同委員会」→「韓米合同委員会」の誤訳のある本)

    ★は日本語訳

    出版年不明
    『白頭山境界碑の秘密』 四季節出版社

    写真
    http://cue.imbc.com/TotalSearch.aspx?query=%EA%B9%80%EB%B3%91%EB%A0%AC



    http://www.815family.or.kr/report/view.php?id=41
    最後の写真

    http://ilyo.co.kr/?ac=article_view&entry_id=8289
    末尾の写真 

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  30. チョン・ヨンミ(정영미)をやります。まずは、「天保竹島一件」から。


    反論64

    「天保竹島一件」とは19世紀始めにあった日本の鬱陵島侵奪史だ


    「天保竹島一件」とは19世紀始めに起こった浜田藩(今の島根県浜田市地域)の住民、八右衛門事件をいう。江戸時代初期の大谷・村川のように日本の西海岸地域民が鬱陵島・独島を無断侵犯して、資源を奪取した事件中の一つだ(反論60)。

    1833年、八右衛門が鬱陵島渡海を希望して江戸にいた藩主に渡海申請をした。しかし1696年以来、竹島(鬱陵島)は日本人の渡海が禁止された所であったため、藩主の許諾を受けることができなかった。すると八右衛門は、藩の官僚たちと別途共謀し、秘密裏に鬱陵島渡海を敢行した。

    1836年、この事実が江戸幕府に知らされ、八右衛門は死刑になり、関連者全員が厳罰に処された。また、江戸幕府は全国各地に、再び竹島(鬱陵島) 渡海禁止令を下した。

    日本は、この事件の当事者である八右衛門の陳述書を根拠に、当時の日本人の竹島(鬱陵島)渡海は禁止されたが、松島(独島) 渡海は許諾されたという解釈する。

    すなわち、浜田藩主が「竹島(鬱陵島)は日の出の土地(日本)かどうか分からないから、(八右衛門の渡海申請を)許諾できないが、松島(独島)ならば良い」としたということだ。これが1696年に下された鬱陵島渡海禁止令に独島渡海禁止の意味は含まれていなかったという評価につながる。

    しかし八右衛門の陳述書「朝鮮領土の竹島に渡海した一件に関する概略(朝鮮持地竹嶋渡海一件大略)」を検討してみれば、浜田藩主が「松島ならば良い」という許諾をしたのではないことがわかる。

    「松島(独島) 渡海」という話は、正確には浜田にいた家老の岡田頼母から出た。江戸にいた浜田藩主から「竹島(鬱陵島)が日の出の土地(日本)なのかどうか分からないから、渡海計画を停止せよ」という指示を受けた岡田が、部下の橋本三兵衛に命じて、八右衛門に「江戸からそのように言ってきた以上は、竹島(鬱陵島)に渡海するのは止めて、松島(独島)に渡海して見よ」という指示をしたのだ。

    これに対して八右衛門は、三兵衛に「松島は小さい島なので行っても効果がないが、江戸にはこの島に行くと言っておいて竹島(鬱陵島)に行き、万一(このことが)外に知られれば、漂流して行ったのだと主張すれば問題ないだろう」と答えた。

    すなわち、浜田藩主による独島渡海許可ではなく、この言葉は、後日江戸幕府に知られて厳罰に処される八右衛門と浜田藩の官僚たちとの鬱陵島渡海の共謀過程から出たことがわかる。

    また、独島渡海が鬱陵島渡海の名目に使われたことと、この島をどこの国の領土と認識したかは別の問題だ。八右衛門が陳述当時に同時に提示した「竹島方角図」には、竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮と同じ赤い色で彩色されている。二島を朝鮮領土と認識したという証拠だ。

    これはすなわち1696年江戸幕府が下した鬱陵島渡海禁止令に、独島渡海禁止の意味が含まれていたという意味だ。

    八右衛門は、大屋甚吉と同じように日本の西海岸を巡って物品を運んだ廻船業者だった。その航路は日本の本州西海岸の沿岸に沿って回る内海航路だ。鬱陵島と独島はこの航路とは垂直方向に遠く離れている島々だ(反論61)。

    ところが、「百問百答」は、「その航路は、竹島(鬱陵島の当時の呼称)と松島(現在の竹島)の間が中心」だったため、八右衛門は鬱陵島について知るようになった、と説明する。しかし、八右衛門の船を含んだ北前船が、「予期しない大きな風に押されて行」かない限り(「長生竹島記」)、独島と鬱陵島の間を通る蓋然性はない。

    この点は、八右衛門事件の後、日本全国の港に掲げられた竹島(鬱陵島)渡海禁止を知らせる標札の内容からも知ることが出来る。

    ここには「各地域の廻船は海上で外国船と出会わないように航路選定に気を遣わなければならないと以前にも知らせたことを、より一層守り、以後には可能な限り遠い海の航海にならないように運航すること」となっている。すなわち八右衛門の鬱陵島渡海は、鬱陵島と独島が朝鮮の島であることを認識して敢行された、朝鮮領土の無断侵犯および資源奪取事件なのである。
    (チョン・ヨンミ)

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    反論65

    「百問百答」の「天保竹島一件」評価は自国中心的歴史認識の表現だ

    「百問百答」は「天保竹島一件」の歴史的意味として、(1) 「元禄竹島一件」 (反論61)の結果下された竹島(鬱陵島)渡海禁止令の範囲に松島(独島)は含まれていなかったという点、(2)この事件により、この島に対する関心が大きくなったという点をあげている。

    一方、松浦武四郎は「竹島雑誌」(18世紀)を著述して日本の海防における鬱陵島の重要性を述べ、吉田松陰の松下村塾では、島(鬱陵島)開拓議論が展開され、「東京日日新聞」は1872年7月14日付記事で八右衛門の行為を称賛して鬱陵島開拓を主張したという。

    また、1876年東京に住んでいた島根県士族・戸田敬義は、八右衛門が所持していた「竹島図」の筆写本を添付して、東京府に「竹島(鬱陵島)渡海願」を提出したという。すなわち「天保竹島一件」が後の日本での鬱陵島開拓論につながったことがこの事件の歴史的意味だ、と説明しているのである。

    こうした、「天保竹島一件」が後の日本での鬱陵島開拓論につながったという評価は、まことに自国中心的な歴史認識だ。朝鮮政府はすでに太宗7年(1407)、および光海君6年(1614)に、鬱陵島または磯竹島が朝鮮領土だということを明らかにしている。

    1614年に、朝鮮礼曹は「(日本の)朝鮮国との往来は、対馬を経由する海路だけを認め、違う道を通じて来航するのは海賊と見なす」とした(中村栄孝「日鮮関係史の研究 下」、1969)。 江戸幕府も1696年に鬱陵島渡海禁止令を下した。 それでも、江戸後期および明治時代に入り、再び日本で鬱陵島開拓論が起きたのだ。

    そして「天保竹島一件」は、明確に「元禄竹島一件」での鬱陵島・独島認識を継承したものだった(反論64)。その根拠は八右衛門が所持していた「竹島方角図」だ。

    この地図で、鬱陵島と独島は朝鮮領土と同じに赤い色で彩色されている。すなわち二島が朝鮮領土だということを認識した上で敢行された渡海であった。だから、戸田敬義の「竹島(鬱陵島)渡海願」も許可を受けることができなかった。

    戸田の請願書は、1877年1月27日および4月に二回提出された。これに対して東京府は1877年6月8日、知事の楠本正隆名義で不許可の意を知らせてきた(「竹島考証」1881」)。

    すなわち、「天保竹島一件」を契機にした19世紀の鬱陵島開拓論は、明確に他国領土侵犯についての議論だったのだ。これを肯定的に評価するということは、現在もやはり同じ意図を持っているという意味であろう。

    また、1876年にすでに日本太政官は、竹島(鬱陵島)外一島(一島:独島)が、日本とは関係ないということを肝に銘じろとの指示をした。「百聞百答」は、ここでの「一島」が「1877年当時には西洋地図の影響で鬱陵島が「松島」と呼ばれていたので、1876年の指令(一島)も、現在の竹島(独島)を対象にしたものと速断できない」とする。

    しかし、以前に竹島と呼ばれた鬱陵島が松島と呼ばれることになった原因が「西洋地図」にあるという解釈は信憑性がない。それよりはるかに先立って編纂された「長生竹島記」(1801)と「隠岐古記集」(1823)にも、松島という名称で鬱陵島について記述しているためだ(反論58).

    そして19世紀後半に西洋地図の影響を受けて鬱陵島を松島と表記した地図が製作されたという一般論を、何の論証もなしに太政官指令という個別史実の解釈に関連させることはできない。
    (チョン・ヨンミ)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「長生竹島記」(1801)と「隠岐古記集」(1823)に、松島という名称で鬱陵島について記述している、
    というのは、面白い指摘です。これから「反論58」を翻訳します。やれやれ。

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  31. チョン・ヨンミ(정영미)独島体験館長の記事です。今年5月の『新東亜』です。写真もあります。

    http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2014/04/23/201404230500034/201404230500034_1.html

    入力2014年05月号656号(p72~72)

    日本・中国人に独島と歴史教えるチョン・ヨンミ独島体験館長

    東北アジア歴史財団独島研究所のチョン・ヨンミ独島体験館長は忙しい。「手で捕えられる独島」を国民に見せるためだ。安倍総理などの妄言で韓日関係が刺々しい今、彼女は「外国人のための東北アジア歴史アカデミー」を進める。駐韓外国人留学生のうちで申請者を集めて18週の間毎週水曜日2時間ずつ韓国通史と東北アジア状況を教える過程だ。もちろん韓国語で講義する。

    昨年の秋開設した時は20人、今年3月の2期募集には34人が申し込んだ。国籍は多様だが日本学生も少なくない。入学生には必ず鬱陵島-独島訪問機会が与えられる。2007年日本では写真作家の山本皓一が独島を訪問して取った写真で「日本人が行くことはできない日本領土」という写真集を発刊して波紋を起こした。彼は竹島の日本領有を主張する右翼人物だ。以後日本の外務省は自国民の独島訪問を止めた。韓国を通した独島訪問は韓国の独島領有を正当化すると見たためだ。

    しかし「しないでくれとすればもっとしたいこと」が人の常なので、少なくない日本人が偽の韓国人住民番号で独島に行ってきた。알음알음でそのようなうわさが広がったのでこの過程に入ってきた日本学生たちも独島に必ず行きたがる。チョン館長は日本との外交問題を考えて彼らを鬱陵島まで連れていく。代わりに日本の歴史歪曲と独島簒奪野心を批判する講義を聞かせるようにする。中国学生も少なくないが中国の歴史野心を論理的に批判する反東北工程についても講義する。

    「もう他国の攻撃を非難だけするのでなく彼らを呼んで私たちの意向を教えなければならないでしょう。それが歴史を正しく立て直すことで国を守る道ではないでしょうか?」

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  32. 反論28

    平和線と独島


     マッカーサーラインが設定されたものの、これを無断で越えてきて操業をするので我が海軍や海上警察に拿捕された日本漁船の数は少なくなかった。特に、6.25韓国動乱(朝鮮戦争)で海上警備が手薄になるとすぐに日本漁船のマッカーサーライン侵犯が急増した。
     彼らは取り締まりにかかれば拿捕されて処罰を受けるという事実を知っていたので、日帝時代に自分たちが作っておいた「朝鮮漁業保護取締規則」さえ守らずに必死に不法乱獲を行ったので、零細な我が国の漁民は生存権まで威嚇を受ける状況になった。

     その上、サンフランシスコ講和条約が発効すればマッカーサーラインまで廃止されるという消息が伝わると、韓国政府は対策を樹立しなくてはならなかった。当時は韓日間の国交が正常化する前であったため、両国間に漁業協定を締結する状態でもなかった。それで、韓国政府は日帝強占期に朝鮮総督府令第109号で制定された「トロール漁業禁止区域」を基準として漁業専管水域を設定しようとした。いくら公海の自由を強弁する日本人たちとしても、自分たちが資源保護のために設定しておいた法の前では退くと見られたためだ。ただし、この「トロール漁業禁止区域」は水深が深い東海上の独島までは含んでいなかったので、初めには鬱陵島だけ含ませることで画線した。

     ところがこの時、日本人たちが独島を自分たちの領土とするために、米政治顧問官シーボルド(William J. Sebald)を通じて連合国側にロビーをするなど陰謀をたくらんでいた。このため、これを看破した外務部が鬱陵島の東側を通過する線を独島の東側を通過するように拡大調整した。もし独島をこの線の外側に置くことになれば、日本側に独島を放棄するような認識を与える可能性もあるという憂慮のためだった。この時、独島を漁業専管水域(平和線)の外に位置させたとすれば、日本はもちろんアメリカまでも独島は私たちの土地でないと誤解する素地が十分にあったので、今考えてもこのような決定は卓越したものであったと言える。
    (キム・ビョンリョル)






    <コメント>
     キム・ビョンリョルさんの35本のうち、やっと15本翻訳完了ですが、キム・ビョンリョル氏独演会は全く面白くない。

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  33. 反論1、2、3

    独島の現住所



     独島は韓半島の付属島嶼で、我が国の国土で最も東側に位置している島だ。東島と西島の大きい2個の島と89個の小さい付属島から成る。地理的な位置は東島が北緯37°14'26.8"、東経131°52'10.4"であり、西島が北緯37°14'30.6",東経131°51'54.6"だ。

     独島は鬱陵島から東南側に87.4km離れていて、日本の島根県隠岐島とは157.5km離れている。独島から最も近い陸地は慶北蔚珍郡竹辺で216.8km離れている。独島の総面積は187,554㎡であり、そのうち東島が73,297㎡、西島が88,740㎡、その他の付属島嶼を合わせた面積は25,517㎡だ。東島・西島間の最短距離は約151mだ。独島で最も高いところは西島頂上部で、海抜高度168.5mだ。東島の最高峰は98.6mであり、東島の頂上部は比較的平坦で、灯台と警備隊の建物がある。晴れた日に鬱陵島の北東側の先である鬱陵郡北面天附里石圃から独島が観測できる。これは、地理的に独島が韓国の領土であることを示す証拠となる。

     独島は西暦512年に鬱陵島とともに新羅に帰属した後、私たちの領土に編入されて、長く江原道蔚珍県に所属した。1900年大韓帝国勅令第41号で鬱陵島が鬱島郡に昇格し、この時、鬱島郡は独島を管轄することになった。以後、1914年行政区域改編で慶尚北道に編入されて現在に至っている。独島の住所は「慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1~96番地」だ。2012年には道路名住所も持つことになって、東島の独島警備隊はそれぞれ慶北鬱陵郡鬱陵邑独島異斯夫通り55、独島灯台は独島異斯夫通り63、西島の住民宿舎は独島安龍福通り3という住所が付与された。

     独島には概略40~50人余りが常駐している。西島には住民キム・ソンド氏夫婦と鬱陵郡庁所属の独島管理事務所職員2人が暮らしている。キム・ソンドさんは、独島里の里長で、独島の周囲海域で漁業活動をしており、2013年5月には「独島愛カフェ」を開いて観光客を対象に独島商品を販売して生活している。また、独島に登録基準地(旧戸籍)を移した人は2014年3月末現在3,006人だ。東島には、浦項地方海洋港湾庁所属の灯台員3人と独島警備隊員30人余りが常駐して独島を守っている。独島は1982年に天然記念物第336号に指定されて公開制限地域だったが、2005年3月に東島に限り一般人の出入りが可能なように公開制限地域から解除され、入島許可制から申告制に転換された。その結果、独島を開放して8年で独島訪問客が100万人に達し(2013.4.18)、2014年3月末現在では125万 2,056人が独島を訪問した。

     独島は、およそ460万年から270万年前の間に火山活動で生成された火山島だ。210万年前に波蝕によって分離して現在の形を持つようになり、玄武岩、粗面岩、凝灰岩などで構成されている。現在まで調査された独島の植物の種類は約60種余りで、王虎杖根(オオイタドリ)、地菜松花(翻訳?)、海菊(ダルマギク)などの草本植物がたくさん分布しているが、マサキ、島ハナヒョウタンボク(翻訳?)など木本植物も自生している。
     鳥類ではウミツバメ、ミズナギドリ、ウミネコなど130種余りが観察され、昆虫はトンボ、蝶など90種余りが観察された。また、独島沿岸は季節により周期的に大きな環境変化を招くので、それにより多様な回遊性魚種が出現する。海洋生物資源のうち魚類を含む動物は495種、海草類は223種が観察され、水産資源の宝庫としての価値も高い島だ。
    (イ・ソリ)

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  34. 東北アジア歴史財団、独島研究所、チョン・ヨンミ(정영미)独島体験館長の4本、行きます。

    58.59.60.そして76です。



    反論58

    鬱陵島の名称が竹島から松島に変わった本当の理由は?


    「百問百答」は、『隠州視聴合記』(1667)等の古文書・古地図を根拠に「我が国は、隠岐諸島に近い北西の島を松島(独島)、そこからさらに北西の島を竹島(鬱陵島)と正確に認識して」いたとする。

    ところで、江戸幕府末期、西洋艦船たちの測量の間違いによって、鬱陵島という一つの島がアルゴノートとタジュレーという二つの島として表記された西洋地図があらわれ、1840年にはアルゴノートを竹島、タジュレーを松島と比定した地図が出てきた。以後、アルゴノートが架空の島ということが明らかになって地図上から消えることにより、鬱陵島はタジュレーまたは松島と呼ばれた。 一方、独島は、フランス船舶が命名したリアンクル・ロックスという名前で呼ばれていた。

    そして、明治前期および中期に、鬱陵島を松島、独島をリアンクル・ロックスと表記した政府刊行の地図が製作され、1905年独島編入の時、「鬱陵島が松島と決定した以上、古来の竹島に該当させるべきものは、この新島を置いて他に求めることは出来ないので、竹島と命名することが適当だ」という判断の下、竹島という名を付けて編入したということだ。

    すなわち、日本での鬱陵島の名称が竹島から松島に変わったので、独島の名称を竹島としたとのことであるが、独島に対する竹島という名称付与の歴史的背景を、鬱陵島に対する竹島・松島名称の伝導現象で説明するのは妥当ではない。

    もしも、どんな理由であれ鬱陵島が松島と呼ばれることになり、その結果独島が竹島と変わって呼ばれた状況で編入が成り立ったのであれば、上の説明は妥当である。

    しかし、上の説明のように、当時の西洋地図や西洋の影響を受けた日本地図に、独島は主に「リアンクル・ロックス」という名称で表記された。そして中井養三郎は「リャンコ島」すなわちリアンクル・ロックスに対する編入申請をした。さらに、昔の松島(独島)についてよく知っているはずの鳥取・島根の人たちも、独島を「リャンコ島」と呼んだ。これは昔の松島(独島)認識が、この当時にすでに断絶していたことを意味するものだ。

    また、日本の内閣は「どこの国もこの無人島を占領したと認めるほどの形跡がなく、自国の漁民がこの島を経営した実績がある」という名分で独島を編入した(1905.1.28 日本閣議決定文)。すなわち、日本の内閣が編入した島は、リアンクル・ロックスという西洋の名称の「主人のない土地」であって、昔から「日本人」が正確に認識していた「松島(独島)」ではなかったのである。上のような説明で、独島に対して竹島という名称が付与された歴史的背景とするのは、牽強付会である。

    そして、外国地図またはシーボルト地図の影響で鬱陵島が松島と呼ばれることになったという説明も、やはり多くの矛盾点を内包している。

    その根拠として、「隠岐古記集」における隠岐島-独島-鬱陵島間の距離の記述があげられる。
    この資料は1823年、隠岐島の人、大西教保が、隠岐の漁師の経験談などに基づいて『隠州視聴合記』(1667)を増補訂正したものだという(川上健三1966)。

    この中に、「(隠岐島の島後の)周囲は16里だ。北北西方向40余里に松島がある。周囲は約1里程度で、木がない石島だという。また、西方70余里にある島は竹島と呼ばれてきた...」という内容があって、江戸時代の日本人の正確な松島(独島)認識の根拠資料として抜粋・引用されてきた。
    ところが、内容を詳しく見れば、この時の松島は独島ではない。

    ここでは、隠岐島と松島(独島)までの距離が40余里、松島から竹島(鬱陵島)までの距離が70余里と記述されているが、17世紀末、大谷・村川が実際の鬱陵島を出入りした当時に記録された文書や、後代にこれを直接引用した文書を見れば、その反対の記述をしていることがわかる。

    そうした文書は、例外なく隠岐島から松島までの距離を70~80余里、松島から竹島までの距離を40余里と記述している。事実、隠岐島から独島までの距離は約157kmで、独島から鬱陵島までの距離である約87kmの2倍だ。したがって、隠岐島・独島・鬱陵島間の距離を70~80余里、40余里と記述した17世紀の文書は、竹島(鬱陵島)と松島(独島)をよく知っている人が記録したものだったということができる。

    しかし「隠岐古記集」は、この距離をひっくり返して記述しているのだ。

    一方、松島の周囲を「約1里」、地形を「木がない石島」と記述しているが、このような形容に似合う島は独島である。すなわち、ここでの松島は、距離的な側面での鬱陵島についての情報と、地形・形勢的側面での独島についての情報が入り乱れているのである。

    同じ現象を、出雲(今の島根県地域)の神社の神官が1801年に編纂した「長生竹島記」でも見ることができる。
    ここでは、松島について「隠岐の島後から松島の方向は、南西西側の海に該当する。東側から吹いてくる風にのり、二日二夜を行く。 ...昔話のように松〔十八公〕で装って遠くまで影を落としている風景は、どこにも比べる所がない。ところが、どうしたことか炎天には使う水が不足するという」と記録している。

    ところで、ここでの二日二夜程度を行く距離にある島は、『隠州視聴合記』によれば竹島、すなわち鬱陵島である。『隠州視聴合記』は、二日一夜を行く所に松島(独島)があり、再び一日昼間を行く距離に竹島(鬱陵島)があるとしている。また、松島が松で装った島だと言ったが、このような形容が似合う島は、独島ではなく鬱陵島だ。この「長生竹島記」は、松島を「日本の西海の終わり」と記録していて、17世紀「元禄竹島一件」の結果、日本漁民の鬱陵島渡海が禁止されたが、独島渡海は禁止されなかったという根拠に提示される資料だ。しかし、この松島は鬱陵島である。

    この資料は、江戸時代の竹島(鬱陵島)と松島(独島)についてよく知っている鳥取・島根県地域で編纂されたものだ。ここでの松島という名称と鬱陵島との関係は、西洋地図またはシーボルト地図の松島(鬱陵島)の影響と見るのは難しい。江戸時代後期に編纂された同地域の地誌類を検討してみた結果、当時、どんな理由であるのか、鬱陵島についてのことが、松島という名称のもとに言及される現象があったということがわかる。

    すなわち、鬱陵島に松島という名称がついた理由を、西洋地図またはシーボルト地図などの外在的要因だけで探すことはできないということだ。また、西洋地図およびシーボルト地図の影響で、鬱陵島が松島という名称で表記され、人々が鬱陵島を松島という名称で認識することになった、というのは、特定の事実関係を意図的に一般化させた解釈だ。

    明治中期以後、一般人を需要者にして数多くの地図が発刊された。この中には、鬱陵島を松島と表記した地図もあるが、それよりより多いのが、鬱陵島という一つの島を竹島(アルゴノート:架空の島)、松島(タジュレー:鬱陵島)と表記した地図だ。

    このような地図は、読者に東海(訳注:日本海)上に竹島と松島という二つの島があるという情報を提供する。 事実、この二つの島が鬱陵島一島を指すといっても、読者には二島と認識されるだけだ。その結果、1905年の独島編入以後にも、多くの日本人たちは、しばらく新しく編入したこの島が江戸時代の古地図に見える竹島(鬱陵島)だと考えた。江戸時代の古地図にも東海上に竹島と松島という名前の島が表記されているためだ。
    (チョン・ヨンミ)

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  35. 反論59

    日本の官撰文書には、松島(独島)が日本領土ではないと記録されている


    「百問百答」は、独島関連の記述がある史料として、(1)「元禄竹島一件」関連の、江戸幕府と鳥取藩の間に行き来した文書類、(2)米子の大谷・村川が、鬱陵島渡海および漁労行為に関連して、独島を寄港地または予備漁労地と説明した文書類、(3)幕府、鳥取藩、大谷・村川関連以外の文書類などをあげている。

    ところが、ここには対馬藩の文書類が脱落している。江戸時代、対馬は朝・日の外交および貿易を専門に担当した藩であり、「元禄竹島一件」でも朝鮮との交渉を担当した。以後、対馬藩は「元禄竹島一件」の関連文書を集めて「竹島記事」(1726)に編纂した。

    それを見れば、1695年12月11日、老中阿部豊後守が、対馬藩の平田直右衛門と直接対面して「(鬱陵島)の他に、その方向に島があると考えているのか」と尋ねると、直右衛門は「詳しくは分かりませんが、竹島の近くに松島という島があります。そこにも渡って行って漁をする所だと言います。身分の低い人々のうわさだと聞きました。その関係者たちに尋ねれば知ることが出来るはずです、と申し上げました」という記録がある。

    この内容は、1696年1月に下された竹島(鬱陵島)渡海禁止令に、松島(独島)渡海禁止の意味も含まれていたとのことを傍証する内容だ。
    「竹島記事」によれば、江戸幕府が日本漁民の鬱陵島渡海を禁止させた主な理由は、「鬱陵島で朝鮮人と日本人が入り乱れること」に対する憂慮のためだ(3巻、1696年1月、御白書院で老中4人が同席した席で戸田山城守がした発言)。

    また12月、鬱陵島の他に因幡と伯耆(今の鳥取県地域)に付属した島があるか、との江戸幕府の質問に対して、鳥取藩が竹島(鬱陵島)と松島(独島)、その他にも、因幡と伯耆に属する島はないと言ったのも理由になった。
    そして伯耆から竹島(鬱陵島)までの距離が160里であるが、朝鮮からは40里であるので、竹島(鬱陵島)は朝鮮の島という判断も、やはり作用した。

    すなわち、竹島(鬱陵島)渡海禁止令は、距離で見ると日本の島ではないと判断される島での、自国民の外国人との私的な交流・交易の可能性を断絶させるためのものであるが、独島もやはりこの条件を全部備えている。独島は「鬱陵島の近所」にあると報告された。そして鬱陵島と同じように「そちらにも渡って行って漁をする所」すなわち「朝鮮人と日本人が入り乱れる」可能性がある所と報告された。また「因幡と伯耆に属した島」ではないという報告もあった。

    1696年の竹島渡海禁止令に、松島(独島)という名称は言及されていない。

    付属島の名称まで言及する必要がないという判断であったと考えられるが、これを立証しているのが1870年に外務省に提出された「外務省出仕 佐田白茅他二名 朝鮮国交際始末内探書」(「公文別録」「朝鮮事件」1867~1871, 第1巻)である。
    これは、明治政府が朝鮮との国交交渉のための外交活動、および朝鮮侵略のための偵察のために、1869年12月に派遣された外務省の官吏3人によって作成された報告書だ。
    全13個の項目で構成されており、この中に「鬱陵島と独島が朝鮮の付属になった経緯」という項目が含まれている。この項目は「元禄竹島一件」(反論61参照)当時、朝鮮との交渉を主管した対馬藩の文書を基に作成されたと見られる。したがって、1696年の鬱陵島渡海禁止令に、独島渡海禁止の意味が内包されていたと見ることが妥当である。

    明治初期の国家の最高機関だった太政官も、やはり「竹島記事」などの対馬藩の記録を主な根拠に、鬱陵島と独島が日本領土ではないことを肝に銘じろ、との指令を下した。

    1876年3月、内務省から来た質問文書を合計29個の項目で整理した書類集「明治10年3月 公文録 内務省之部一(明治十年三月 公文録 内務省之部一)」 (「公文録」) の中に、「日本海內竹島外一島 地籍ニ編纂方伺」という項目がある。
    1877年3月20日、太政官本局が、大臣および参議にあげた文書(「立案第20号」)の添付文書として、1877年3月27日、内務卿・大久保利通代理、内務小輔・前島密が太政官右大臣・岩倉具視に上申したものだ。
    「竹島(鬱陵島)外一島は我が国と関係ないようだが、版図の取捨は重大事件であるから、関連文書を添付して確認のため稟議する」という内容になっている。
    この文書には、1号から4号までの添付文書があり、「竹島記事」の記録を引用したものだ。そして文書末には、岩倉具視の名前のそばに「稟議した件、竹島外一島は我が国と関係がないことを肝に銘じること、1877年3月29日」という赤い文字が書かれている。いわゆる太政官指令である。この指令の判断は、対馬藩が残した「元禄竹島一件」関連の文書に基づいたものだ。

    「百問百答」は、太政官指令の「外一島は松島であるが... 1877年当時、西洋の地図の影響で鬱陵島が松島と呼ばれたので、1877年の指令も今の竹島(独島)を対象にしたものと速断できない」という評価をする。
    しかし内務省が判断根拠資料として利用した文書は、18世紀に対馬藩で記録したものだ。

    また、1876年10月16日、島根県令が内務省に送った、竹島とともに松島に言及した文書も参考になった。
    ここには、隠岐島と松島・竹島が距離表示とともに描かれた「磯竹島略図」という絵図が含まれている。この絵図の松島は、明らかに独島である。このような判断根拠資料によって、内務省が「竹島外一島は我が国と関係ない」という判断をしたことで、太政官も、やはり同じ判断をしたのだ。
    1877年当時、鬱陵島が鬱陵島または松島と呼ばれるようになったので、太政官指令の松島が独島ではないこともあるという解釈は、牽強付会であるだけのことだ。
    (チョン・ヨンミ)

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  36. 反論60

    日本の「竹島利用」とは鬱陵島侵奪史のまた他の名前だ

    江戸時代初期に、鳥取藩米子(今の鳥取県、米子市地域)の住民である大谷・村川が、幕府の許可を得て半世紀ほど鬱陵島に出入りした。日本のいわゆる独島「利用」は、その過程で成り立ったという。

    すなわち、1681年の大谷家文書、および独島が詳しく描写されている絵図などを根拠に、(1) 大谷・村川が米子から隠岐島を経由して鬱陵島に行く途中に独島があり、(2)1661年以後には独島渡海に対する幕府公認があり、(3)この島でもアシカ捕獲が行われたという。
    また「元禄竹島一件」 (反論61~64)の結果、鬱陵島に対しては渡海が禁止されたが、独島はその対象ではなかったといって、その根拠に「天保竹島一件」(反論64)をあげている。

    しかし、日本のいわゆる独島「利用」は、その契機になった大谷・村川の鬱陵島渡海の歴史的意味の中で再評価しなければならない。彼らの竹島(鬱陵島)渡海は、明確に朝鮮領土の侵犯と資源奪取を象徴する事件である。彼らが渡海を始めた頃、鬱陵島はすでに鬱陵島または磯竹島という名前で日本に知られていた(『交隣知津録』1618年記録、『善隣通書』1680年記録など)。

    また、日本が「磯竹島」という名前の島を朝鮮の領土と認知していたことは、鷲坂弥左衛門父子事件で知ることが出来る(『柚谷記』 16世紀後半)。彼らが磯竹島として知られた鬱陵島にひそんでいて「日本の外に出て行くのを禁止する法」により対馬藩の武士に捕まってきた事件だ。

    それにもかかわらず、同じ時期に米子の大谷・村川は、鬱陵島に竹島という名前を付けて幕府の「許可」を得て鬱陵島に渡海し始める。
    この「許可」も、やはり1回の渡海に限ったことだということは、日本人研究者によってすでに明らかになった事実だ。すなわち大谷・村川の鬱陵島渡海は、当初はしてはならない行為であった。いわゆる独島渡海および「利用」は、この過程の副産物だ。従って、これに対する評価は、彼らの鬱陵島渡海に対する評価に収束されなければならないものだ。

    一方、日本は「元禄竹島一件」後にも独島渡海は続いたという。しかし鬱陵島渡海のない独島渡海はなかったと見る。

    鬱陵島渡海の創始者である大谷甚吉は、廻船業者だという(『大谷九右衛門竹島渡海由來記拔書控』1818~1829)。彼が、「越後から帰ってくる時に漂流して」鬱陵島を発見した、ということから見て、日本の西海岸の航路を通って物品を運んだ、北前船の運営者であったものと見られる。
    この場合、船は西南側から東北側に斜めに形成された海岸線に沿って内海を航行する。沿岸にある各港を経由しなければならないからだ。
    ところで、独島は隠岐島から西北側にずっと二日一夜を行く外海にある(『隠州視聴合記』)。
    ここで、鬱陵島までは、より一層西北側に、半日かかる所だ。すなわち鬱陵島と独島は、方向面でも距離面でも、鎖国政治下の日本廻船が日常的に航海する内海航路にあった島ではなかった。一般の漁船を含んで、日本船が独島付近の海域と同じ外海に出て行くことが禁止されていたことは、1837年の「天保竹島一件」を通じても確認することができる(反論64)。

    「百問百答」は、「長生竹島記」(1801)の一節を引用して、「鬱陵島渡海禁止後にも、独島についての知識と日本領土という意識が、江戸時代を通じて持続された」とする。
    「松前(北海道)に行く時、予期しない台風にあった時は、「これこそ言葉でだけ聞いていた松島だな」と言って遠く眺める。我が国の西側の海の終わりだ」という一節がある。しかし内容を詳しく検討してみれば、そのような解釈は不可能だということが分かる。
    すなわち、この一節の前には「すると隠岐の