竹島問題の歴史

20.6.14

竹島問題100問100答に対する批判


竹島問題100問100答に対する批判
  →元ファイル(韓国語)
  →機械翻訳ファイル(日本語)

Matsuさんから紹介いただいた、島根県発刊の「竹島問題100問100答」に対する慶北道独島史料研究会の反論です。慶北道独島史料研究会というのはこれまで聞いたことがありませんが、対象が島根県の著作ということで同じ自治体の「慶北道」の名前を使って立ち上げたのかもしれません。
著者は金柄烈を中心に柳美林、保坂 祐二という代わり映えのしないメンバーが中心とのことです。


発刊辞
2008年2月、日本外務省は「竹島問題を理解するための10のポイント(10 Issues of Takeshima)」を発刊してオンラインおよびオフラインで独島について歪曲された事実を伝播しようとした。だが、これが日本国民や国際社会で特別な 呼応を得ることができなかったためか、2009年12月にこれを補完した「竹島問題の概要(Outline of Takeshima Issue)」を再び発刊した。
日本のこのような挑発に対し、我が国は東北アジア歴史財団と韓国海洋水産開発院でそれぞれ「独島の真実(The Truth of Dokdo)2008」と「独島は果たして日本の領土だったか?」を発刊したが、日本の主張に対し各項目別に反駁するというよりも独島が私たちの領土だと いうことに力点を置いて内容を構成したので別段呼応を得られなかった。
これに対し自信を得たのか、日本は今回また再び「竹島問題100問100 答」(以下「百問百答」と略称)という膨大な内容の冊子を発刊して、多くの人々の目と耳を幻惑させている。これに対し、私たち慶尚北道史料研究会では、こ れを傍観すれば日本人はもちろん我が国の人々までも「百問百答」に出てくる内容が事実かも知れないという誤解を生じる素地があると考え、これに対する反論 を準備することになった。
もちろん、これまでいくつかの団体で「百問百答」を批判する学術セミナーを開催することもした。しかしこれらのセミナー は「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起するよりは、従前と同じように「韓国はもちろん日本の古文献でも私たちの領土になっている」、「島根県の独島編 入は国際法的に不法、無効だ」のように総論形式になっているため、一般国民の立場ではそれほど満足できないのが現実だった。
その上セミナー発表文というものは、一般市中で購入することもできない非売品限定本であったため、何日か過ぎた今は、そういうセミナーがあったという事実さえ記憶している人がほとんどいない。
これに対し、私たち史料研究会では「百問百答」に対して一つ一つ反論を提起することで、日本の主張が根拠がないということを明確に立証する一方、これを冊子で発刊して1回性にならないようにする必要があると意見を集約した。
し かし、竹島問題研究会が長い期間中準備した「百問百答」に対し、私たちが短期間内に批判文を作成するには多くの困難が伴った。それでも満足するほどの水準 の批判文が作成される時まで長期間発刊を遅らせるのは、より一層話にならない処置なので、不足したままで今回「「竹島問題100問100答」に対する批 判」を発刊することになった。
この本に入った内容は、筆者が常識水準でいつも知っていたものなどを簡単に整理したものなので、これだけが全部だと 言うことはできない。また、責任執筆者の原稿が完成した後、それぞれの原稿に対し他の執筆者が意見を提示したのだが、それを受け入れない場合、全面的に責 任執筆者の意志に従った。
従ってこの本の内容は慶尚北道または史料研究会の統一された意見だと見るよりは、全的に責任執筆者個々人の常識的な意見だと見なければならない。
そして「百問百答」中には、「第1部 私たちの島竹島」と「第9部 島根県の活動を知ろう」のように、批判が必要ない部分も非常に多くの部分を占めているために、これらに対しては一つ一つ批判をしなかった。
この本が私たちの国民に、独島問題に対する自信を持つようにするのに少しでも役に立ったら良いと執筆者は考えている。合わせて日本語に翻訳されて、日本の人々が独島に対し客観的な知識を持つようになるのにも役に立つように願う。

2014年5月 慶尚北道 独島史料研究会 会長 
金柄烈(キム・ビョンリョル)
Matsuさん訳

なお、全文訳は著作権上問題があるかもしれませんが、慶北道独島史料研究会も島根県の100問100答を全文訳して公開しており掲載することにしました。

166 comments:

  1. OPPさん、ありがとうございます。

    動きが重くなっていたので助かります。

    私もChaamieyさんにならって、まずは翻訳することから始めます。チャチャを入れたくなったら入れます。

    保坂祐二氏を少し始めたので、最後までやってみようかと思います。やはり、とてもユニークで(笑)、面白いです。突っ込みどころが多いです。

    次に、おっしゃるように、チョン・ヨンミ(정영미)氏とパク・チヨン(박지영)氏をやります。

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    反論66

    「松島絵図」は日本の独島領有権を証明できない

    この項目は「松島絵図」についての説明だ。日本はこの絵図が1650年頃に描かれたもので非常に詳細に描かれた絵図だと説明している。 竹島資料室は「この絵図は、松島、すなわち現在の竹島で日本が経済活動をしたことを現わす重要な史料」と結論付けた。 すなわち日本側の独島領有権主張の中に一つの「日本が17世紀中盤に独島に対する領有権を確立させた」という論理を強化するために活用される絵図だということができる。
    しかし「松島絵図」がよく描かれたという点に対しては同意できるが、17世紀末、鳥取藩は江戸幕府の質問に対して「松島(=独島)は鳥取藩が支配する所でない」、「竹島と松島、その他に両国に付属する島はない」という答弁書を江戸幕府に送ったし、1870年と1877年にも日本政府が「松島(=独島)は朝鮮の付属」、「竹島外一島(=独島)の件は、本邦(=日本)と関係ないことを肝に銘じること」という公文書を下達した事実があって、竹島問題研究会が主張する独島に対する日本側の経済活動、すなわち実効的支配は成立しないということを自ら立証した。日本が主張する17世紀の独島に対する日本の実効支配は、他の国の島を貪ぼった泥棒行為に過ぎない。
    (保坂祐二)
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    反論67

    小谷伊兵衛の絵図はかえって韓国の独島領有権を証明した

    竹島問題研究会は、1696年1月鳥取藩が江戸幕府に提出した「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図」(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)」(鳥取県立博物館所蔵、8443号)を説明して、日本が独島を実効支配した証拠だと主張する。
    竹島問題研究会は「竹島(=鬱陵島)には浜田浦、鮑浦、大阪浦、北浦、柳浦、北国浦、竹浦という地名が記されている」という事実を指摘して、当時日本の色々な地方から鬱陵島と独島に出漁したと主張する。
    ところが1696年1月25日、鳥取藩が江戸幕府に送った回答書には「他領から漁労しに行くことは聞いたことがない。しかし出雲国、隠岐国の人々は米子の人々と同じ船で行く」(「竹島問題に関する調査研究―最終報告書」、竹島問題研究会、2007,p.40)と記されているので、17世紀には浜田藩から鬱陵島に行った人がいなかったと判断される。
    その他、浜辺の地名中、日本の地名と関係があると見える名前は、大阪浦だが大阪の人々が鬱陵島に渡海したという記録はない。鬱陵島の浜辺の他の地名は、全部実際の地名とは関係がない。北国とは日本の北側の地方を漠然と示す言葉であるから、特定の地名ということはできない。
    そして一つ、注目すべき内容がある。松島(=独島)の東島のそばに「松島の外周は30丁(松嶋大回り三拾町)」と記載した部分だ。ここで日本語の「大回り」とは、東島・西島のそれぞれの周囲を測量して合わせた長さでなく、東島・西島を一つの島と見て、二島が向かい合う部分の側面の長さを除いて、大きく二島の外周を測量した長さという意味だ。この絵図に記載された「松島の外注は30丁」という内容は、いわゆる「太政官指令」(1877)の「外一島」に関する記述「次に一島がある。松島と呼ぶ。周囲は約30丁...」という内容と関連する。続いて太政官は「外一島(=松島=独島)は本邦(=日本)と関係がない」と結論を出した。すなわち「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図」は、独島が朝鮮領土であることを現わす絵図だということだ。(保坂祐二)

    [図-1]「小谷伊兵衛が提出した竹島絵図(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)」の鬱陵島周辺(鳥取県立博物館所蔵、8443号)

    [図-2]小谷伊兵衛が提出した竹島絵図(小谷伊兵衛より差出候竹嶋之絵図)(松島周辺):松島(=独島)の東島右側に「松嶋大回り三拾町(松島の外周30丁)」と書かれている(鳥取県立博物館所蔵、8443号)

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  2. 反論66は具体的な事実を何も述べていない。

    反論67に出てくる
    浜田浦、鮑浦、大阪浦、北浦、柳浦、北国浦、竹浦という地名は、大谷・村川時代に鬱陵島の日本による開発が進んでいたことを示す証拠である。浜田、大阪、北国という地名は、これらの地域とつながる航路に鬱陵島が組み込まれていたことを示す。鮑、竹は、資源のありかを日本側が良く知っていたことを示す。張漢相の記録にあるように、彼が訪れた時に鍋・釜などの生活用具も日本製で、日本人の「生活」が鬱陵島で実体化していたことを確認している。
    阿部老中の判断で、隣国との友好を優先したために鬱陵島は朝鮮領土のままに残ったが、日本側がドミナントな実態は進んでいたことが分かる。

    松島の「大回り」(実際の史料では「大廻り」)の数値が、明治時代の太政官指令の時の島根県側の示した数値と一致していることは、松嶋(現竹島)についての知識が、江戸時代から明治時代に連続して伝えられていることを示す。保坂祐二の最後のパラグラフの主張は、何が言いたいのか、趣旨が不明である。

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  3. Matsuさん
    >鳥取藩は、幕府から「因幡、伯耆」の二国の支配をまかされているだけであり、
    >日本全国の島の所属について言及する権限はありません。
    >竹島・松島は古来から「因幡」にも「伯耆」にも属したことはなく、
    >「隠岐」に属するものとして扱われています。

    これですが、幕府が「隠岐」とした明示的な資料はなかったように思います。しかし、地理的には隠岐国ですし、民間の資料は隠岐としているものがあり、普通は隠岐と考えるのが妥当だと思います。

    実は小笠原について調べ始めたのですが、どこの国郡にも所属しなかったようです。また、幕府が小笠原への渡航許可を与えたとの記録もあり、竹島との類似性が伺えます。このため、「隠岐国」以外に「どの国郡にも所属していないが日本領」という可能性もあるのではないかと考えているところです。

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  4. OPPさん

    >「隠岐国」以外に「どの国郡にも所属していないが日本領」という可能性もあるのではないかと考えているところです。

    同感です。面白い視点だと思います。
    長久保赤水の初版、および本人の確定版と考えられる二版(寛政版)には国別の着色がありませんが、長久保赤水は、日本領土としてとらえ、(少なくとも、そこから高麗を「見る」ので、「朝鮮領ではない」、と捉え)、その位置を確定しようと努力していたことは、最近の島根県竹島問題研究会の赤水の地元・高萩での発見によって裏付けられます。

    一方で、江戸時代の『新人国記』の隠岐国の地図に「竹島」=鬱陵島が描かれていることからも、竹島(鬱陵島)が隠岐と関連付けられていたことがうかがえます。

    ただし、「因幡」「伯耆」ではない。よって鳥取藩領でないことは明らかで、鳥取藩はそれを幕府に答えたまでです。しかし幕府の奉書は、鳥取藩民の竹島(鬱陵島)渡海を、竹島一件までは明らかに認めていたわけで、これは文献的にも動かない歴史的事実です。

    幕府にも、「どの国郡にも所属していないが日本領」という考え方があったのかもしれません。
    鎖国体制化で竹島(鬱陵島)渡海が許されたのはそれを物語ります。

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  5. 反論68  于山島が独島 (松島)という事実は、韓国と日本が認めた内容だ

    竹島資料室は、1724年閏4月に、鳥取藩が江戸幕府に提出した絵図など4点を取り上げて、松島(=独島)が描かれているという。そして各絵図に記載された内容を説明し、当時の日本人たちが正確に松島を認識していたと主張する。 まさに17世紀に日本が独島を実効的に支配したという主張だ。しかし17世紀末になって鬱陵島争界 (竹島一件)を通じて、鳥取藩は独島は鳥取藩が所有する島でなく、日本のどんな領地(訳注:領主カ)も独島を所有しない、と答えて独島に対する領有権と所有権を全部否定した。この内容は1870年外務省が「朝鮮国交際始末内探書」で再確認し鬱陵島と独島が「朝鮮の付属」であることを明確にした。 また1877年太政官が指令を通じて「鬱陵島とその他の一島(=独島)の件は本邦(=日本)と関係ないということを肝に銘じなさい」という言葉で確定したことがある。
    「公文録」に収録されたいわゆる「太政官指令」(正式名称は「日本海の中の竹島外一島の地籍編纂方針に関する稟議(日本海内竹島外一島地籍編纂方伺)」)には、日本領土でない二島(鬱陵島と独島)が描かれた「磯竹島略図」が添付されている。

    もちろん竹島問題研究会は「太政官指令」を研究しないで他の資料で「外一島」が独島ではないとのとんでもない歪曲で我を張っているが、そのような歪曲行為に対しては日本国内でも批判があふれている(例えば池内敏『竹島問題とは何か』(2012,pp.147~149)がそれだ)。

    結論的に、竹島問題研究会は「韓国側には独島を詳細に描いた絵図がただ一枚もないだけでなく独島を描いた朝鮮全図さえ一枚も確認されなかった」と主張する。しかし朝鮮では鬱陵島とその東側に于山島を描いた朝鮮全図がたくさん存在する。日本が朝鮮地図に描かれた于山島は独島でないとごり押しを主張するだけだ。于山島が独島だというのは、韓国側文献すなわち「東国文献備考」(1770),「萬機要覧」(1808),「増補文献備考」(1908)等に正確に記載されているだけでなく、1722年江戸幕府の質問に対して対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた日本側記録(対馬宗家文書古文書4013)にも残っている。竹島問題研究所の主張は、日本に不利な文献を隠して構築した虚偽に過ぎない。(保坂祐二)
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    論旨に新味はありませんが、「対馬宗家文書古文書4013」というのは、これまで知りませんでした。

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  6. 反論69

    日本の官許地図、公式地図も独島を韓国領土に分類した

    竹島問題研究会は、日本で広く知られた長久保赤水製作の「改正日本輿地路程全図」(1779)とそれに関連する地図、そして林子平の「三国通覧輿地路程全図(三国接攘之図)」(1786)等を取り上げて独島が日本領土と記載されたと主張する。

    これは竹島問題研究会が地図の基礎的な情報を全部無視して歪曲された地図の解釈を出しているものだ。先ず日本は長久保赤水「改正日本輿地路程全図」とその原図になった「改題日本扶桑分離図」(1768)等に、独島が日本領土と記載されたと歪曲した。竹島問題研究会が指摘するすべての地図には、独島だけでなく鬱陵島も記載されている。1696年1月、江戸幕府は「鬱陵島渡海禁止令」を出して鬱陵島が朝鮮領土であることを確認した。だからいくら日本地図に鬱陵島が標記されたとしても鬱陵島は朝鮮領なのである。鬱陵島と独島が日本地図に描かれる場合、ほとんど大部分は、日本地図の左側に韓半島、あるいは韓半島の一部が描かれている。したがって韓半島と日本列島の間にある二島である鬱陵島と独島が記載されるのは当然である。

    しかし長久保赤水の初版地図(1779)を見れば、鬱陵島と独島は日本領土に描かれた経緯線の外に存在しており、日本領土でないことを明示した。二島のそばには「隠州視聴合記」(1667)の一節である「高麗を見ることが、雲州から隠州(隠岐)を見るようだ(見高麗恰雲州望隠州)」という文が刻んである。「隠州視聴合記」は日本領土の北西側の境界を隠岐と定めた文書だ。この内容については、日本の名古屋大学の池内敏教授の2001年度論文に詳細に証明されている。したがって長久保赤水の地図は鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した地図である。

    竹島問題研究会は、林子平が描いた「三国通覧輿地路程全図(三国接攘地図)」は独島と関係がないと言う。しかし林子平がこの地図を作成した経緯を叙述した「三国通覧図説」(1786)には「日本図は長久保の日本図より良いものはない」と記されていて、地図制作に長久保の地図を参照したことが分かる。そればかりでなく、林は韓半島の部分は「「朝鮮八道地図」を使った」と記述した。すなわち林の地図の朝鮮と日本の部分は「朝鮮八道地図」と長久保の地図により作成されたことが分かる。

    [地図-3] 「三国通覧輿地路程全図」

    地図-3の中央に描かれた島には、竹島(竹嶋=鬱陵島)と表示されていて、その東側にひとつの小さい島が描かれている。 その二島が「朝鮮の所有だ(朝鮮ノ持也)」と書かれているが、この小さい島がまさに独島である。この二島と日本列島は、林の言葉通り長久保の「改正日本輿地路程全図」を参考にして描かれたと判断されるためだ。一方、韓半島の東側に島が一つ描かれているが、これは「朝鮮八道地図」中に描かれた鬱陵島に該当する。林は2枚の地図を参考にして、鬱陵島を二つ、間違って描いたと見られる。

    三国通覧図説は、一時幕府が発行禁止措置としたが、1850年代、米国と日本の間に小笠原群島をめぐる紛争が起きた際に、江戸幕府は「三国接攘之図」のフランス語版で小笠原群島が日本領土であることを証明して紛争に勝利した後、この地図は日本の公式地図になった経緯がある。竹島問題研究会の主張は、歴史的事実を歪曲したごり押しに過ぎない。
    (保坂祐二)

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  7. matsuさん
    対馬宗家文書古文書」(No.4013)というのは、日本にある文書ではありません。
    以下のサイトに不鮮明な写真がありました。
    http://www.dokdoandeastasia.com/inc/popup_banner.php?lang=ja

    韓国国史編纂委員会所蔵の文書のようです。

    韓国国史編纂委員会は、朝鮮総督府から引き継いだ対馬宗家文書類(記録類・古文書・書契・絵画類・印章)約29,000点を所蔵するが、本目録では、朝鮮後期に日本の外交窓口であった対馬藩と朝鮮政府の書契(公式外交文書)9,442点の内、2,200点を収録。排列は同委員会所蔵『図書原簿 書契/対馬島宗家文書』に登録された書契の一連番号順。全5巻刊行予定。

    責任表示:鶴田啓 日本語版監修
    出版者:ビスタピ-・エス
    出版年月日:2002.5発売

    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 書契目録集 1 , 2 , 3 , 4 , 5
    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 古文書目録集 1 , 2-1 , 2-2
    対馬宗家文書 大韓民国国史編纂委員会所蔵 記録類目録集

    目録集自体は、刊行されているようです。


    なお、対馬宗家文書は、九州国立博物館にも所蔵されていて、データベースがあります。
    http://www.kyuhaku-db.jp/souke/database/public/

    ただし、このデータベースは、使い物にならないぐらい使い勝手が悪く不便です。

    韓国側のいう件の文書(No.4013)の年代は、内容から元禄時代以降であることしかわかりませんので、日本側の控え文書に相当するものがあるのかどうか、調べてみましたが、さしあたって以下の文書ではないようです。もっと時代の下った頃のものなのでしょうか。

    002111001荒尾志摩守書状 九月十日 荒尾志摩守□(花押) 宗対馬様、尊報 勝五郎への書状の趣承知、伯耆国米子の村川
    013080901口上之覚(米子町人二人竹島漁業禁止の達に 正月廿八日(なし)(なし) 米子町人二人竹島漁業禁止の達につき
    013081201覚(老中阿部正武書状) 七月廿一日 阿部豊後守 宗刑部大輔様 日本人竹島渡海禁止に付、朝鮮書簡への返簡
    013081301老中阿部正武書状 七月廿一日 阿部豊後守正武(花押) 宗刑部大輔様、御報 日本人竹島渡海禁止に付朝鮮礼曹参議書簡到
    013081501 老中阿部正武書状 十二月晦日 阿部豊後守正武(花押) 宗刑部大輔様、御報 宗刑部大輔書状(日光法事御用御礼・竹嶋一
    042053201老中奉書(老中格) 十二月十三日 小笠原図書頭長行(花押) 宗対馬守殿 宗対馬守書状(去年八月二日松平修理大夫領

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  8. 反論14

     事実は、編入に関係した人々の全部が独島は韓国領であることを知っていた


     独島編入に直接的に関連した人物は、当事者である中井養三郎と内務省当局者井上書記官、農商務省水産局長牧朴真、海軍省水路部長肝付兼行、外務省政務局長山座円次郎たちだ。

     中井養三郎は、前述した通り(反論12)自分が使っていた海図を通じて、独島が日本領土ではなくて朝鮮領土であることを知っていた。これは、当時海図を編纂した人々やこの海図を見て操業をしたすべての日本人たちがそのように分かっていたという傍証だ。
     中井の請願書を最初に受け付けた内務省の井上書記官は、請願を処理するために内務省内にある関連文書を探してみた。その結果、1875年8月内務省の中村元起が鬱陵島・独島問題を研究した後、「磯竹島覚書完」という報告書を作成し、1876年10月には内務省の地理担当者である田尻賢信と杉山栄蔵が島根県を訪問して地籍編纂に関連した内容を調査した。 彼らは復帰後に二島の所属を明確にするために島根県に公文書を送ったが、島根県もやはり詳しいことは分からないとして、かえって二島の所属を明確にしてくれと言う建議書を送ることになる。この時、鬱陵島と独島を概略的に描いた「磯竹島略図」を建議書に添付した。
     この建議書を受けた内務省は自主的に約5ヶ月間にかけてこの問題に対する調査をして、二島が日本の領土ではないとの結論を下した後、太政官にこれを確認してくれと言う建議をすることになり、1877年3月、当時の右大臣岩倉具視がこれを決裁したという事実を知ることができた。このような事実を把握した井上書記官は、独島の編入に反対したのだ。

     独島が韓国領という証拠はないと言った農水省水産局長牧朴真は、1903年1月に出版された『韓海通漁指針』の発刊の辞を書いたが、この本の江原道編に独島を「ヤンコ島」という名前で「鬱陵島の東南側に約30里、(中略)晴れた日には鬱陵島の峰の高いところからこれを見ることができる」と記述している。牧は発刊の辞でこの本を詳しく読んでみたと言って絶賛したので、独島が韓国の領土という事実を既に知っていた。

     また、海軍省水路部長肝付兼行が在職中に発刊した『寰瀛水路誌』1883年版と1886年版、『朝鮮水路誌』1894年版と1899年版に、鬱陵島とともに独島をリアンコルド列岩という名前で詳細に説明している。肝付はこれら水路誌の製作に一つ一つ関与したので、その内容を知らなかったということはできない。

     最後に、独島編入に最も熱心であった山座円次郎の場合、1904年に発刊した『最新韓国実業指針』の序文を書いたが、この本の13章水産編に鬱陵島とともに江原道に所属しているヤンコ島についての説明が詳しく出てくるので、独島は韓国の領土という事実をよく知っていた。 このように関係者全てが独島が韓国領であることを良く知っていながら、無主地だと強弁して独島を編入したのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  9. 反論17

    「固有領土」を今さら領土に編入する国がどこにあるのか?


     固有領土ならば住民を移住させて居住させたり漁撈行為を許可すれば良いのであって、これを領土であるのが明らかだといって再び編入をする行為は世界のどこの国もしない。したがって、この問題は国際法で規定する何の内容にもなれないことだ。 それでも日本側は、固有領土を編入をしなければならないという国際法もなく、編入をしてはならないという国際法もないという図式で言葉の遊びをしている。

     日本側は、「遅くとも17世紀後半には実効的支配に基づいて竹島領有権を確立していた」と主張している。それならなぜ1905年編入当時に関連当局者はもちろん漁師までこの島を韓国の島と認識していたのだろうか? 百回譲歩して彼らが韓国の島とは認識していなかったとしても、どこの国の島か分からないから編入しなければならないという話をしたことは文書上の証拠で明らかではないか?  さらに、1877年太政官指令ではなぜこの島は日本の島ではないと肝に銘じよと言ったのか? そして、固有の領土というが、いつから土地台帳に登載したのか? 編入後に官有地台帳に登載したのではないか? 日本はバラバラに話を並べる前に、これらに対する解明からしなければならない。

     根本的に、17世紀に日本人たちは独島を日本の領土だと考えなかった。これは、1667年に松江藩の藩士である斎藤豊宣が作った『隠州視聴合紀』に隠岐島の略図があって、鬱陵島及び独島が附属島嶼として描かれていないことで自明だ。1667年当時は大谷及び村川家の鬱陵島渡海が旺盛な時期だったのに抜けているのだ。すなわち、自分たちの領土と考えていなかったのだ。したがって、鬱陵島に来て操業をした行為は、自分たちの島と分かってした錯誤による行為ではない。朝鮮が倭寇の侵奪を憂慮して島に住む国民らを陸地へ刷還した隙に乗じて、こっそりと鬱陵島に入ってきて魚を採って行った明白な不法行為なのだ。どれほどひどかったから日本の内藤正中教授がこれを「主人がない家に入って貴重品を密かに持ち出す行為」と批判したのか。

     このように、鬱陵島や独島に渡海する行為が不法であることを分かっていたので、安龍福の渡日活動で問題になると直ちに日本が自ら渡航を禁止したのだ。 自分たち自ら「鬱陵島近辺独島」、「鬱陵島管内独島」、「鬱陵島と独島は日本のどの藩にも属しない」としながら渡航を禁止しておいて、今になって「独島まで認めたのではない」といってこれを根拠に独島に対する歴史的権原を確立したと主張するのは話にならない説である。
    (キム・ビョンリョル)

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  10. 皆様
    写真から判読した部分を手掛かりに調べてみましたら、この文書」(No.4013)は、幕府から対馬藩江戸藩邸への問い合わせに対して、天保七年八月になされた対馬藩からの回答のようです。


    朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候、

    (中略)
    (写真にある部分の翻刻です。)

    杏?ニ相見申候、松島之儀、元禄年、御老中
    阿部豊後守様ゟ(より)御尋之節、竹島
    近所ニ枩島与(と)申嶋有之。此所江も日本人
    罷渡漁仕候段、下々之風説ニ承候段
    御答申候由留書ニ、相見申し候。竹島同様
    日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)
    被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。朝鮮
    地圖遠(を)以相考候得者(ハ)蔚陵、于山
    二島有之与(と)相見申候。右竹島え被国

    (このあと、以下の文に続くようです。)

    漁民共罷渡且、木材多島と相聞候付、為舟造罷渡候由ニ而、住居之者ハ無之由ニ御座候。尤彼国役人時々為見分致渡海候而相聞申候。於當時ハ如何ニ同所候哉差極候儀難申上候。

    『日本の独島領有権主張に対する反論』(2011年6月1日 李薫:北東アジア歴史財団)、「独島に関する誤解と真実」国会シンポジウム発表文。
    http://www.dokdoandeastasia.com/inc/popup_banner.php?lang=ja

    および
    『獨島と對馬島』イフン論文(1996年初出)とのこと
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/H20kouza.data/no7-1.pdf

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  11. 小嶋さん

    追跡、ありがとうございます。

    韓国に遺されている対馬家文書の中にあるのですね。
    この文書については、下條先生が、かねてから「返還要求」をしています。
    研究の為に日本から当時の京城に持ち込んだものを、戦後になっても押収したまま返さない。
    対馬の仏像と同じ状態だと思います。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1)「対馬宗家文書古文書」(No.4013)を見ると、当時の江戸幕府の質問に答える形で対馬藩は「日本でいう竹島(=鬱陵島)と松島(=独島)は朝鮮では鬱陵島と于山島と言う」と確認した記録が残っている。(国史編纂委員会所蔵文書)
    2)日本側は韓国側記録や地図に韓国領土と示されている「于山島」を独島とは絶対に認めない。
    しかし上記の古文書は、当時の朝鮮で独島を「于山島」と呼んでいたことを、日本自体が知っていたという事実を証明している。
    3)このように于山島、つまり独島は数多くの朝鮮の古文書と古地図に朝鮮領土と記載、描かれてきた。
    4)日本は于山島(=独島)が朝鮮の土地であることを知りながらも、その事実を無視してきた。
    ※ 参照:「日本の独島領有権主張に対する反論」(2011.6.1. 李薫:北東アジア歴史財団)、<「独島に関する誤解と真実」国会シンポジウム>発表文。

    朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候、(中略)松島之儀、元祿年御老中阿部豊後守樣より御尋之節、竹島近所ニ松島与申嶋有之、(中略)朝鮮地圖を以相考候得者、蔚陵‧于山二島有之与相見申候

    現代語訳:江原道蔚珍県の東海の中に蔚陵島<=鬱陵島>という島があり、日本では竹島と申します。(中略)松島に関しては、元禄年間に幕府の老中阿部豊後守様がお尋ねになったときに、竹島の近くに松島という島があり、(中略) 朝鮮地図を見て考えれば、鬱陵と于山の二島と言えます。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    朝鮮地図をもって考えれば、となっているので、これは対馬藩の想像ですね。
    最後の現代語訳は、やや歪曲されていて、朝鮮地図には、蔚陵‧于山二島がこれ有と相い見え申し候。すなわち、
    朝鮮地図には鬱陵・于山の2島があると言っているだけで、松嶋を必ずしも于山に特定しているわけでもないように読めますが、いかがでしょうか。
    やはり、全文が見えないと良くわかりません。

    下のほうにご紹介の文書は、『竹島記事』に引用されている文書の原本でしょうか。
    貴重なものだと思います。


    Chaamiey様
    着々と翻訳、ありがとうございます。

    保坂祐二の「反論」4つあげます。突っ込みはまた今度と言うことで。

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  12. 反論70

    日本の独島領有権主張は誤った歴史認識による歪曲にすぎない

    竹島問題研究会は、「大御国環海私図」には「高田屋嘉兵衛の商船は朝鮮海に出て北海道に行ったという。それは下ノ関を出発して西北方向に8里を行き、竹島二島(訳注:原史料は「松竹二島」)の間を通過し、方向を変え、北東方向を目標にしたのではないか?」と記載されており、北海道や北の地方を目標にした船が独島や鬱陵島付近を通過したという記録は、1801年の「長生竹島記」、1860年7月2日、長州藩の桂小五郎と村田蔵六が連名した「竹島開拓建言書草案」などにも見える、と主張する。結論として、鎖国中の江戸時代には日本の船は外国に渡航できなかったため、松島すなわち独島は日本領土と認識されていた、と竹島問題研究会は主張する。
    上のような竹島問題研究会の主張は、日本が独島を領有したというどんな証拠もならない。「二島間を通過して方向を変えて北東方向を目標にしたのではないか?」という疑問事項を以て領有権を主張するのは、それだけ根拠がないことを現わしているだけのことだ。
    実際に東海上を航海する時、鬱陵島や独島は著名な地形物となる。従ってこれを利用して航海すれば、風浪によっては鬱陵島の横を航海する可能性もあり、独島の横を航海する可能性もある。このように一時的で非正常的な航海の記録をもって領有権を主張するのは正しい態度とすることはできない。
    そして、鎖国中の江戸時代に、日本船が外国に航海はしなかったと研究会は主張するが、こういう主張は歴史の初歩的知識さえ知らない竹島問題研究会の学問的限界を如実に表わしたごり押し主張だ。日本が鎖国令を下した1635年以後にも、唯一日本と正式な国交を持っていた国がまさに朝鮮だった。対馬藩を通して朝鮮通信使が日本に行き、日本側では日本の江戸幕府や対馬藩の役人たちが釜山まで往来することができた。
    他国とは鎖国中だとしても、朝鮮とは正式国交があったという事実を知らない竹島問題研究会の無知によるごり押し主張に過ぎない。
    (保坂祐二)


    反論71

    伊能図には独島がなく、海図には独島が朝鮮領と記載されている

    竹島問題研究会は、明治時代に経緯度が引かれた近代的な地図は、主に海軍水路部によって作成・発刊されたという。また当時の海図は、海軍の測量、英仏露米の測量、伊能図を基礎に製作され、鬱陵島と独島周辺は欧米の測量結果に立脚して製作されたと主張する。研究会は島についての記録を見れば、鬱陵島は「鬱陵島(松島)」と記録されており、当時日本政府は鬱陵島を松島と認識していたことが分かるという。

    海図は、独島を「リアンコルト岩」等と記載し、東島と西島と見える二島を描いたが、国境線は表示されていないと言う。研究会は、当時二島の名称に混乱が引き起こされたが、それがそのまま地図などに反映されたと主張する。海図54号「朝鮮東海岸図」、海図21号「朝鮮全岸」などには、朝鮮だけでなくロシアや日本の島々も含まれており、「朝鮮水路誌」に記載された朝鮮国の範囲に独島は含まれていないので、海図や「朝鮮水路誌」などに独島が含まれていたとしても、日本海軍が独島は朝鮮領だという認識を持っていたという主張は誤りというものだ。

    しかし、当時の海図を作成した時参照した地図の中の一つである伊能図には独島が日本領土から抜け落ちている。従って伊能図を基礎に描いた日本の代表的公式地図である「大日本全図」(1877,陸軍参謀局製作)「大日本国全図」(1882,内務省地理局製作)等には、日本領土から独島が抜けている。そして二島の名称が混乱を経たと研究会は主張するが、それは日本が独島を領有しなかったために日本で独島の歴史的名称である松島を忘却した結果であり、よって日本が独島を領有しなかったという明白な証拠となる。

    朝鮮海図に朝鮮領以外の島などが描かれたのは、空間が残って島々の位置だけを表示したと判断される。
    「朝鮮水路誌」の朝鮮国の範囲には独島だけでなく鬱陵島まで除外されている。これは日本側水路誌作成者の誤りであるだけで、独島が朝鮮領ではないという証拠としては採択できない。

    1905年、独島を竹島という名前で日本に編入した以後、日本は1907年に独島の記載を「朝鮮水路誌」から「日本水路誌」にわざわざ移動させた。独島が「朝鮮水路誌」に記載された事実が独島領有権と関係がないならば、日本はあえて独島の記載を「日本水路誌」に移動する必要はなかっただろう。1907年の独島記載が「朝鮮水路誌」から「日本水路誌」に移されたという事実自体が、独島は本来韓国領土だったことを日本がよく知っていたという証拠だ。
    (保坂祐二)



    反論72
    1905年以後独島を自国領で表記した日本地図は全部無効だ

    竹島問題研究会は、1905年1月28日の閣議決定と2月22日の島根県告示第40号によって独島が島根県隠岐島に編入されたと主張する。その後「竹島付近島根県実測図」(1905)が製作されて独島の面積を実測し、1908年には水路部が近代測量法で独島の実測図を製作したという。1909年には陸地側量部が刊行した地図「東亜輿地図・松江」に、竹島すなわち独島が記載されたと竹島問題研究会は主張する。

    このような説明は、1905年の日本による独島編入が不法であったため、何の意味も持つことができない。

    日本内務省は、独島編入に際して「韓国領土である可能性もある一介の不毛の暗礁を取ることによって、日本が大韓帝国全体を飲み込んでしまおうとするという警戒心を西洋列強に持たせてはならない」として独島編入に反対した。
    この内務省の警告があったので、日本政府は外務省の説得で独島を日本領土に編入することに決めたが、できるだけ秘密裏にことを推進したのだ。 独島が「韓国領土でありうる」という事実を知っていながら、日本は独島編入について韓国と何の相談もしなかった。日本が小笠原群島を正式に日本に編入させた時は、アメリカや英国など小笠原と関連がある国に説明した。独島編入は、一言で言えば、日本が韓国という国家を軽視したところから始まった明白な侵略行為である。

    秘密裏に独島を編入した日本は、内務省が言う憂慮を無くすために、西洋列強の口をふさいでしまう作戦に出た。先ず1905年7月、日本はアメリカと桂-タフト密約を結び、アメリカによるフィリピン支配を日本が承認する代わりに韓国に対する日本支配をアメリカが黙認するようにした。これを英国が承認した。
    そして1905年9月、ロシアとの講和条約であるポーツマス条約第2条を通して、日本は韓国に対するすべての権利についてロシアから承認を受けた。清国は1895年時点で日清戦争により後退した状況で、日本が朝鮮に対して行うすべての行為に対して発言権自体がなかった。
    このようにして、日本は列強の反対を封印した後、1905年11月、韓国に乙巳保護条約を強要して外交権を剥奪した。独島編入を秘密にする必要がなくなった日本の島根県の官吏たちは1906年3月、独島を視察した後に鬱陵島に行き、独島が日本領になったと鬱島郡守沈興澤に口頭で知らせた。
    これに対して沈興澤は、「本郡所属独島」に対して日本領土になったと日本人官吏一行が来て話した事実を江原道観察使代理春川郡守李明来に報告し、李明来はこれを議政府に報告した。
    これに対し、議政府の参政大臣朴斉純は、「指令第3号」を下達して、「独島が日本領土になったという説は全面的に事実無根だ。日本人たちの行動に注目せよ」と命令した。しかし当時は日本が韓国を侵略する過程だったから、高宗皇帝でさえも日本に一言も言えない状況だった。
    そこで高宗は、各国に密使を送って日本の韓国侵略の事実を知らせるために1907年3月にはハーグ平和会議に密使3人を送ったが、失敗に帰した。これに怒った日本の西園寺内閣は高宗の退位を決め、韓国統監である伊藤博文に伝達した。こうして1907年7月、高宗は退位させられ、韓国軍隊は解散させられた。
    そして日本は「丁未7条約」を韓国に強要し、韓国の内政まで全部掌握した。1904年2月日本が韓国に「韓日議定書」を強要して以来、1907年7月丁未7条約を強要することで、日本は韓国侵略をほぼ完成させた。1910年8月の韓日併合条約調印強要は、侵略の完成を確認する形式的な手続きに過ぎなかった。
    このような日本の韓国侵略過程を見る時、日本の独島編入自体が不法だ。したがって1943年カイロ宣言には「日本が暴力と貪欲で略取したすべての領土から駆逐されなければならない」と記載されたのだ。
    (保坂祐二)

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  13. 反論77

    伊能忠敬の地図は独島を日本領土から明確に除外した

    竹島問題研究会は、1821年に完成された官撰地図「大日本沿海輿地全図」(以後「伊能図」)で独島が除外されたことは全く問題がないと強弁する。彼らは現在の日本領土でも伊能図には含まれなかった島々をいくつか取り上げて、伊能忠敬や測量を支援した江戸幕府が独島を日本領土だと認識しながらも地図には記載しなかったとごり押しの主張をする。

    竹島問題研究会が指摘した、「伊能図」に記載されなかった独島以外の島々というのは、現在のロシアが実効支配している北海道の択捉島と歯舞島、そして青森県の九六島、長崎県の男女群島の四個の島だ。

    ところで、択捉と歯舞は伊能忠敬の第1次測量作業にあった範囲で、九六島は第2次測量作業の範囲に入っていた島だ。竹島問題研究会も言うように、4次までの測量作業は伊能忠敬の個人事業だった。ところが第5次測量からは江戸幕府の測量事業になった。独島は、第5次測量事業に含まれた島で、長崎県の男女島は第8次測量事業範囲に入った島だ。 したがって特に江戸幕府事業で実施された独島と男女島に関する措置について調べてみる必要がある。

    伊能忠敬が残した「測量日記」を見れば、第5次測量事業の時、江戸幕府は独島に対する測量命令自体を下さなかった。第5次測量事業からは、すべての測量対象が江戸幕府の命令によって最終的に決定された。
    だから独島に対しては江戸幕府自体が日本領土と考えなかった可能性が高い。

    その証拠として、伊能忠敬の測量事業を総監督して、彼の死後に「伊能図」を直接完成させた、伊能忠敬が属した江戸幕府天文方の上司・高橋景保が1808年に「伊能図」に基づいて「日本辺界略図」を作成したことが上げられる。

    ところで高橋は、この地図の中の鬱陵島と独島を、中国の地図を参考にして朝鮮の東側海岸近くの島として描いた。すなわち「伊能図」を実質的に完成させた高橋景保自体が、独島の位置を正確に知らなかったし、独島を朝鮮領土と考えていた、という事実を「日本辺界略図」を通じて知ることが出来る。

    長崎の男女島は1877年「伊能図」に基づいて陸軍参謀本部が作成した日本の公式地図「大日本全図」に正確に描かれた。しかし独島は初めから江戸幕府自体が朝鮮領土と考えたので、1905年日本による独島強制編入以後になってはじめて日本の公式全図などに現れ始めた。1905年1月、日本政府は独島を日本領土ではない「無主地」と宣言したので、1905年以前に日本の公式地図に独島が現れるどんな理由もなかった。

    竹島問題研究会は、1645年や1826年の日本の国絵図には、隠岐島の島後・福浦港に、竹島(=鬱陵島)に対する航路などの記述があるといって、鬱陵島に行く途中にある独島も日本は日本領土と認識したという辻褄が合わない主張もしている。竹島(鬱陵島)が「日本領土」だという記載もなく、1696年1月「竹島渡海禁止令」が出された事実も度外視したこのような言及は、研究会の水準が非常に低いという点をむしろ浮き彫りにする結果を招くだけだ。

    伊能忠敬や江戸幕府は、独島を朝鮮領土と認識したので、独島を測量することもなかったし「伊能図」に独島を描くこともなかったというのが歴史的事実なのである。
    (保坂祐二)

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  14. 小嶋さん

    全文解読、ありがとうございました。さきほどはこれを見る前に書いていました。

    松島之儀、元禄年、御老中阿部豊後守様ゟ(より)御尋之節、竹島近所ニ枩島与(と)申嶋有之。此所江も日本人罷渡漁仕候段、下々之風説ニ承候段御答申候由留書ニ、相見申し候。
    竹島同様日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。朝鮮地圖遠(を)以相考候得者(ハ)蔚陵、于山二島有之与(と)相見申候。

    「竹島同様日本人罷渡致、漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。」
    は重要で、対馬藩としても、結局は「極まったこと」「決定的なこと」は、良くわからない、と言っているわけです。

    そして参考として、朝鮮地図を見れば蔚陵、于山の二島がある、と言っているだけで、松島を于山と決めつけているわけではない。その意味で、上記HPの現代語訳「朝鮮地図を見て考えれば、鬱陵と于山の二島と言えます。」は歪曲であるともいえます。

    この史料、そういえば池内敏論文や、朴炳渉論文に得意そうに引用されていたのを見たような気がします。「対馬宗家文書」(No.4013)」とだけ書いてあって、わからなかったのだと思います。

    最後にご紹介いただいた森須和男論文(講演会筆記)によれば、天保竹島一件の時の幕府の問い合わせに答えて、元禄の時の記録を対馬藩で探ってみたわけですね。

    とすると、上記「反論68」の保坂祐二の記述
    「1722年江戸幕府の質問に対して対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた日本側記録(対馬宗家文書古文書4013)にも残っている。」
    というのは、「1722年」はウソ、「対馬藩が「松島(=独島)は朝鮮の于山島」と答えた」もウソということになります。ひどいもんですね。

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  15. 対馬宗家文書に関しては、「近代期の独島の領有権問題―新しい資料と研究を中心に―」(朴炳渉、嶺南大学独島研究所『獨島研究』第12号(2012.6.30) p157以下)に次の文章があります。


     イ・フンが発掘し(注9)池内敏が再解釈した(注10) 宗家文書によれば、江戸幕府は、「天保竹島渡海一件」に関連して1836年7月17日に対馬藩の江戸藩邸を呼んで竹島・松島に関して「二つの島はいずれも朝鮮の鬱陵島であるか、あるいは竹島は鬱陵島で松島というのは朝鮮外の地なのか」などを質問した。これに対し、対馬藩は、(1)竹島は江原道の鬱陵島であり、(2)元禄期に対馬藩が幕府の質問に対して「竹島の近くに松島という島があって、そこにも渡って行って漁業をしたというのが民たちの風説です。」と回答したことを説明し、(3)松島も「竹島と同じく日本人が渡って行って漁業をしたことに関して渡海が停止された島だと考えられますが、これを断定することに関しては回答できません。(注11)」と回答した。対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。さらに「断定することに関しては回答できません」と回答したのは、渡海が禁止されたのかどうかの最終判断は当然に幕府がすることだと考えたのだ。

    (注9)イ・フン「朝鮮後期の独島領属是非」、『独島と対馬島』重版。知性の泉 2005 p43。
    (注10) 池内敏「17~19世紀鬱陵島海域の生業と交流」、『歴史学研究』756号、 2001 p30: 池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会2006 p82
    (注11)「対馬島宗家文書」国史編纂委員会所蔵 古文書目録♯4013 「竹島同様 日本人罷渡致漁候儀 御停止の島とは被考候得共 差極候儀は答仕兼候」

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  16. 反論15

    1905年島根県の独島編入は国際法的に明白な不法だ


     日本が内閣の決議によって独島を編入するためには独島は無主地でなければならない。 無主地ではない土地を編入するならば明白な侵略行為であるためだ。それで、内閣決議でも「他国がこれを占有した形跡がない」と強調したのだ。
     しかし、前記した(反論14)ように当時独島は明らかな韓国の領土であり、近隣海域で漁撈作業をした漁師を始めとして編入に関係した全ての日本人たちもこれをよく知っていた。事情はこういうことなのに、あたかも日本の領土だったかのように既に領有権を確立した領土に対して近代国家としての領有意思を「再確認」するために編入をしたというのは、通り過ぎる牛も笑うほかはない話だ。既に領有権を確立した領土なのに、なぜ領土と最も密接な立場の内務省官僚、農商務省官僚、外務省官僚がこれを知らず、韓国の領土だと書いた本に序文や発刊の辞を書いたのだろうか? この人たちが狂人でも、あるいは領土を韓国に譲ってやろうと決心した人々でもないとすれば、その次に有り得ないことではないか。

     鳥取藩の漁師が17世紀に独島を利用していたのは彼らが不法的に鬱陵島で漁をすることになって航海途中の中間にある独島を知るようになって利用したものなのだが、これは安龍福の渡日活動を契機に幕府が渡海を禁止させたことによって完全に終わった話だ。 当時、幕府は厳重な調査を通じて鬱陵島と独島が日本のどの藩にも属しておらず朝鮮領であることが明らかだということを確認した後、日本の漁師に渡海を厳しく禁止させた後、これを朝鮮に通知した。このような事実は1870年代の内務省の調査でも再度確認された事実であり、これによって1877年に太政官指令が通達されたのだ。

     初めは独島が無主地だったから編入したと主張し、無主地ではないという韓国の反論にぶつかるとすぐに固有領土を編入したと言葉を変えるのは、無理にこじつけた弁解に過ぎない。日本は、近代国際法は領土の領有意思を再確認することを必ず要求したのでもなかったし、それでもこのような措置を取ることを禁じることもなかったという、話にもならない主張をしているが、これは領有権が確立された領土に対してこのような行為をするということ自体が不必要な行動なので言及する必要がなくてしないのであって、しても良くてしないでも良いという意味でしないのではない。換言すれば1905年の編入は無主地でない土地を編入したものなので、国際法上明白な不法行為であるだけのことだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  17. Chaamiey様
    朴炳渉論文、紹介ありがとうございます。

    やっぱり対馬藩は、元禄時に松島での漁も「禁止されたとも考えられるが」、「決定的なことは良くわからない」と言っているように思います。

    『対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。』というのは言い過ぎではないでしょうか。

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  18. 反論78

    長久保赤水の地図に独島は日本の範囲から除外されている

    竹島問題研究会は、1779年長久保赤水が作成した「改正日本輿地路程全図」(以下「赤水図」と略称)に対する韓国側主張がでたらめだと主張する。韓国側主張とこれに対する竹島問題研究会の反論、そしてこの反論に対して再び韓国側が反論した「韓国側の克服論理」を整理すれば次のとおりだ。

    1.赤水図の性格
    (1)韓国側主張:赤水図は個人が作成した私撰地図に過ぎない。
    (2)竹島問題研究会の反論:1712年以後、出版物は皆、江戸幕府学問所の検閲を通過してこそ「官許」になった。赤水図は1778年「官許」地図になった。だから私撰地図ではない。
    (3)韓国側の再反論:韓国側で言う「私撰地図」というのは、江戸幕府が作成した公式地図ではないとの意味だ。幕府の親藩である水戸藩の学者、長久保赤水が私的に作成したものなので、「官許」になったとしても幕府の公式地図ではない私撰地図だということだ。

    2.鬱陵島、独島と隠州視聴合記の文言
    (1)韓国側主張:赤水図には鬱陵島と独島のそばに隠州視聴合記の文言が記されている。その文言の「高麗を見るのは、あたかも雲州(出雲)から 隠州(=隠岐島)を見るようだ」という一節は、隠州視聴合記自体が隠岐島を日本の北西側の境界だと書いたことを見せる文言で、したがって鬱陵島と独島は朝鮮領土という意味で使われたのだ。

    (2)竹島問題研究会の反論:長久保赤水が赤水図を作成する時、隠州視聴合記を参考にしたというのは認められるが、上のような韓国側主張は憶測に過ぎない。赤水がこの地図を作成した時は多くの資料を参考にした。1701年と1754年の赤水の自筆地図には鬱陵島を「日本領」として記載した。だから赤水は、鬱陵島と独島を「日本領」と確認して赤水図を作成したということができる。

    (3)韓国側の再反論:上の竹島問題研究会の反論はとんでもない主張だ。鬱陵島が朝鮮領ということはすでに1696年1月江戸幕府が確認した歴史的決定だ。その後である1701年、1754年に赤水自体が作成した地図に、いくら鬱陵島が「日本領」と記されているとしても、それは明確に赤水の知識不足による誤りだ。そのような資料を土台にして赤水が赤水図を作成したとすれば、それこそ赤水図の価値がないという話だ。
    しかし赤水は幕府が竹島(鬱陵島)渡海禁止令を下した事実を後で知るようになったので、赤水図のそばに鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した隠州視聴合記の文言を書いて自身の誤りを訂正しようとしたと見ることが正しい解釈であろう。
    赤水は、自身の誤りを率直に認めて、鬱陵島と独島のそばに「朝鮮領」と書くことができない代わりに隠州視聴合記の文言を書いたと判断される。そして隠州視聴合記が日本の北西側境界を隠岐島に決めたというのは、2001年、名古屋大学の池内敏教授が明快に証明した。そしてその後、池内教授の論旨に反論した論文が現在まで一編も出ていない。だから赤水が隠州視聴合記の文言を鬱陵島と独島のそばに書いておいたのが二島を朝鮮領だと認めたという意味だという韓国側の見解を誤りという資格は、竹島問題研究会には全くない。

    3.鬱陵島と独島に対する彩色
    (1)韓国側主張:赤水図の鬱陵島と独島は、韓半島と同じように彩色されていないので、二島は日本領土でないとすることができる。

    (2)竹島問題研究会の反論:彩色されていないところは鬱陵島と独島だけでなく、日本領土のいろいろな所だ。 そして1789年赤水が出版した地図集の添付地図である「アジア小東洋図」には、鬱陵島と独島が日本領に彩色されている。

    (3)韓国側の再反論:日本領土のうち彩色されなかった所もある。しかし赤水図とこれと関連した赤水の関連図は、常に鬱陵島と独島の上に塗られた色が全く同じだったり、二島が同じように色がない。それは赤水図だけでなく江戸時代に作成された日本地図の共通した特徴だ。こうした事実は、地図作成者たちが常に二島が同じ性格を持つものと認識したことを現わしている。
    1696年1月、鬱陵島は朝鮮領と江戸幕府が正式に認めた。その後に鬱陵島を日本領だと認識したとすれば、それは認識の誤りであるだけのことだ。しかし「アジア小東洋図」に鬱陵島と独島が日本領で彩色されている、という主張はありえない話だ。
    その地図で二島は日本列島と似た色で彩色されているので、竹島問題研究会がそのような主張をしたと判断される。しかしこういう「竹島問題研究会」の論理は、彩色自体が意味がないといって韓国側彩色論理を否定した論理で再び自分たちの主張を正当化する、ありえない論理展開だ。
    ところで、日本の地図上で鬱陵島と独島に対する彩色が常に同一だという事実は、独島が鬱陵島の属島ないし鬱陵島と同じ水域に属するという意志表示、すなわち独島は鬱陵島と同じように朝鮮領という意味に解釈されるほかはない事実だ。


    4.鬱陵島、独島と経緯度
    (1)韓国側主張:鬱陵島と独島は韓半島と同じように日本領土の上に引かれた経緯度の外に描かれた。このような事実は二島が日本領土の外にある島、すなわち朝鮮領という意味に解釈される。

    (2)竹島問題研究会の反論:赤水図初版では東京に属する八丈島にも経緯度線がない。したがって経緯度線がないことを以て日本領でないというのは通じない。2版には朝鮮南端に経緯度線が引かれている。

    (3)韓国側の再反論:八丈島には経緯度線が直前まで行っているがつかないのが事実だ。それは東西南北を現わすマークを描くのに空間が不足したためと見える。そして島のそばに「ここから数百里離れたところに無人島がある。小笠原島という」という注記があって、八丈島と地図に描くことが出来なかった小笠原島までを日本領として書いている。そして鬱陵島・独島とは違い、八丈島には近くに他の国が全くない。最も近いアメリカは数千キロメートルも離れている。したがって地図作成上の事情により経緯度線から八丈島が若干抜け出したとしても、それだけで鬱陵島と独島の状況と同じように解釈すること自体に問題があることは誰か見ても分かることだ。
    鬱陵島と独島の場合は、八丈島とは違い、日本領土の上に引かれた経緯度線よりもはるかに北に描かれていて、その上、鬱陵島は1696年1月、朝鮮領に決定された状況だ。その鬱陵島とともに、大きく経緯度線が引かれた範囲から抜け出した独島は、明確に朝鮮領という意味でそのように描かれたと判断される。 鬱陵島と独島近くには朝鮮の南端が引かれて(訳注:描かれての間違いか)いて、それも初版では経緯度線のはるかに北側に描かれていて、朝鮮の南端および鬱陵島と独島は明確に日本領でないという意味に描かれたのが明らかだ。2版で朝鮮南端に経緯度線が引かれているという竹島問題研究会の主張は誤りだ。2版地図をよく見れば、経緯度線は朝鮮南端の前で止まっている。そして鬱陵島と独島は初版と同じように経度線(訳注:経緯度線の間違いか)よりはるかに北側に描かれている。
    (保坂祐二)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    1701年の長久保赤水の自筆地図とあるが、長久保赤水(1717~1801)は1701年には生まれていない。
    1701年の地図は、長久保赤水の地図ではない。
    竹島問題研究会『100問100答』の日本語を保坂祐二氏は読めないのであろうか?

    「アジア小東洋図」は「添付地図」ではない。
    原史料を見ずに書いているか?

    竹島・松島が彩色されていないことは、韓国側に有利ともとれることなのに、公式地図ではなく私撰地図であることを強調しているのは、不思議である。

    鬱陵島を朝鮮領と知ったので『隠州視聴合記』の文言を入れた、というのは噴飯ものの珍説。

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  19. >『対馬藩も「竹島の近くの松島」も渡海が禁止されたと判断していたのだ。』というのは言い過ぎではないでしょうか。

     
     資料を針小棒大に解釈するのはブロパガンダのやり方としてよくある手ですからね。






    反論16

    孤島の先占に通告が必要ないとは!


     日本はつまらない理由を挙げて、先占には通告が不要だと強弁している。果たしてそうだったろうか? 通告は一般的に事実や意思の通知を意味するが、無主地の先占に関連して特に重要な意味を持つ。
     
     まず、1905年日本が独島を編入する時、通告は国際法上の要件であったかを検討する必要がある。 1885年コンゴ会議で締結されたベルリン議定書第34条は、通告の義務を規定している。ただし、この議定書上の義務が締約国以外の国家及び地域でも慣習国際法としての効力があるのかどうかに関しては論議がある。このベルリン議定書上の通告義務は、1919年シャンジェルマン条約で削除された。 したがって、時期的に1905年当時には通告の義務が厳格に存在していた。それならばアフリカ沿岸ではない独島に対してもこの義務を賦課できるのかが論争の核心になる。

     1928年アメリカとオランダ間のパルマス(Palmas)島事件でフーバー(Max Huber)判事は、「1885年に列強によって採択されたアフリカ大陸に関する議定書上の通告の義務がほかの地域でも‘議論の余地なく(de plano)’適用されるものではない。」と判示した。これは日本側の解釈のように他の地域では絶対に適用されないという意味ではなく、他の地域でも「議論の余地なく」適用されるのではないという意味だ。 すなわち、他の地域の場合には状況に従い、議論の結果によって、適用されることもあり適用されないこともあるという意味だ。 換言すれば、パルマス島のように住民たちが居住している島に対しては、あえてベルリン議定書による通告の義務を適用しなくても良いという意味である。

     日本側が例に挙げているクリッパートン(Clipperton)島事件の場合を見れば、「ベルリン議定書第34条に含まれているそのような通告をする義務はない(34 del’acte de Berlin precite,qui,comme il a ete dit plus haut,n’est pas appliquable au cas present.)」とヴィクトル、エマニュエル(Victor-Emmanuel)が判示した。フランスがクリッパートン島を先占したのは1858年で、ベルリン議定書はしばらく後である1895年に締結された。すなわち、フランスがクリッパートン島を先占する当時にはベルリン議定書は存在しなかったのだ。当然、時制法の原則上、ベルリン議定書で規定しているそういう通告まで要求してはいけないとして、フランスが「ハワイ政府に通告をした点、ハワイで発行されるポリネシアン誌にクリッパートン島にフランスの主権が樹立されたと公告をしたこと」程度でも充分だと判決したのだ。 結論的には、かなる国際判決でも日本側が主張するように通告が絶対的に不必要だというものはなかった。

     学説もまた同じだ。オッペンハイム(L. Openheim)など一部の学者を除いては、ウィルソン(G.G Wilson)、ライト(Q. Wright)、ウェストレイク(J. Westlake)、ヴィッシャー(C.d. Visscher)、フェンウィック(G.G. Fenwick)などがいずれも通告を先占の要件と見ていて、特にシュワルゼンバーガー(Schwarzenberger)はこれを慣習国際法規則とまでした。1888年国際法学術院(Institute de Droi International)のローザンヌ決議第1条も、やはり通告を先占の要件としている。

     ところで、実はこの問題で通告が必要かどうかを突き詰めるのは話にならない。 アフリカにおいて一定の地域を先占した国家は、フランス、イタリア、英国、ドイツ、オランダなど数多くの国に通告をしなければならない。 現実的にかなり難しいことだが、紛争を防止するために通告を要求したのだ。クリッパートン島はなおさらだ。 一体どこの国に通告をするという話だろうか?
     ところが独島は違う。 韓国と領有権争いがあった事実を自分たちが十分に知っていたではないか? それにも拘わらず、通告が国際法上の義務かどうかをめぐって争おうとするのは、良心の失踪を法の解釈で隠そうとする浅はかな御託宣に過ぎないのだ。
    (キム・ビョンリョル)

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  20. 反論68、保坂祐二の「1722年」説は、恐らく李薫が「発掘」したときの年代観で、それを池内敏が批判的に発展させ、朴炳渉はその段階を踏まえて引用したものと思われます。

    保坂祐二は、池内敏の論文も、朴炳渉の論文も読まずに、この「反論」を書いているのでしょうか。

    はやく全貌を知りたいので翻訳を急ぐべきなんでしょうが、いろいろ引っかかることを書いてくれるので、なかなか先に進みません。(笑)

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  21. 反論79

    林子平の絵図には独島が朝鮮領土として正確に描かれている

    1.「朝鮮の所有」と書かれた「竹島」について

    (1)竹島問題研究会の主張:1786年に刊行された経世思想家・林子平の「三国通覧図説」に添付された地図の一つである「三国通覧輿地路程全図」には「竹嶋」が描かれていて、韓半島と同じ黄色で彩色され、「朝鮮の所有だ」と記されている。しかしこの「竹島」は独島でなく鬱陵島で、韓半島東側にも島が一つあるがその島も鬱陵島だ。
    (2)韓国側の反論: 「三国通覧図説」を読めば、林子平が「三国通覧輿地路程全図」(「三国接壌之図」)を作成した時参考にした地図についての解説が記されている。林は「日本図については長久保赤水の日本全図より良い地図はない」として、日本図部分は長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779)を参考にしたことを明らかにした。そして朝鮮図部分については「朝鮮八道地図を使った」と明らかにした。1785年林子平は朝鮮の地図を模写して作成した「朝鮮八道地図」をすでに持っていた。朝鮮図部分には林はその地図を使ったと判断される。すなわち林子平は「三国通覧輿地路程全図」を作成した時、赤水図(1779)と「朝鮮八道地図」を日本図と朝鮮図部分に使ったと判断される。したがって林子平は、赤水図に描かれた鬱陵島と独島の部分をそのまま「三国通覧輿地路程全図」に反映させた。林の地図の竹島すぐに東側に小さい島が描かれているが、この小さい島は竹島とともに黄色い色に彩色されて「朝鮮の所有」であることを明確にしている。まさにこの小さい島が、赤水図に描かれた松島(独島)である。すなわち林子平の地図「三国通覧輿地路程全図」には、独島が朝鮮領土として正確に描かれているのだ。

    2.江戸幕府の認識

    (1)竹島問題研究会の主張:林子平の「三国通覧図説」は、1792年江戸幕府によって発行禁止処分を受けた。 その理由は「地理が間違った絵図(地理相違之絵図)」という理由のためだった。したがって林子平の絵図は江戸幕府の認識を表示した地図ではない。
    (2)韓国側の反論:林子平の「三国通覧図説」が発行禁止された理由は、幕府の許可なしに地図が挿入された本を発行したということだけでなく、その本には「外国が日本を襲撃するだろう」というような、人々を当惑させる内容が入っているためだった。竹島問題研究会が主張するように「間違った地図を使ったので」ということは理由にはならなかった。実際の判決文には次の通り記されている。

    「外国が日本を襲撃するという趣旨の奇怪な異説を混ぜて著述し(中略)、その他にも地理が違う絵図を添付して書写し出版したので(中略)、家宅監禁刑に処した(後略)」(異国より日本を襲候可有之趣、奇怪異説を取交著述致し(中略)、其他地理相異の絵図相添へ書写又は版行致し(中略)、 於住所蟄居申付候 (後略)) (藤原信軒「林子平」1903)

    この判決文には「地理が間違った(地理相違)」の絵図ではなく、「地理が違う(地理相異)」絵図、すなわち「地理的内容がそれぞれ違う」絵図という意味で問題の部分が記されている。だから判決文には竹島問題研究会が言う「地理が間違った」絵図という意味は全くない。竹島問題研究会が主張するように「地理相違の絵図」としても意味は同じだ。「地理がそれぞれ違う絵図」という意味であるから、竹島問題研究会の主張が偽りであることがわかる。あるいは彼らの研究者としての能力自体が疑問視される問題だ。
    林子平は「三国通覧図説」に5枚の地理的内容がそれぞれ違う絵図、すなわち日本図、朝鮮図、ロシア図の一部などを添えた。そのような事実を明らかにした判決文の一節を歪曲、あるいは実力不足で間違って解釈した愚かな主張が、竹島問題研究会の主張である。

    林子平の「三国通覧輿地路程全図」は、その後1850年代、米日間に小笠原群島をめぐる紛争が起きた時、江戸幕府が幕府の公式地図として使って米国側主張に勝った経緯があり、江戸幕府の公式地図になった歴史的事実がある。竹島問題研究会はそのような事実も分からない状態だ。このような歪曲事実一つだけ見ても、彼らが出した「竹島問題100問100答」という本の水準がわかる。
    (保坂祐二)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本図、朝鮮図、ロシア図の一部というように、互いに内容が異なる地図を出版したから林子平は罰せられた、と保坂祐二氏は本気で言っているように見えるが、そんなことがありうるのだろうか?
    「間違った地図を発行したから罰せられた」という日本側の主張の方がはるかにまともである。

    とりあえず、保坂祐二センセイはこれで終わりです。やれやれ。

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  22. 反論9

    海洋利用に関する国際法と独島領有権


     海を規律する法は海洋先進国と後発国間の熾烈な対立と闘争によって形成されてきた。すなわち、海洋先進国は海洋の自由を主張しつつ陸地に近接した沿岸まで自由に利用しようと考えたし、後発国は安保上の理由などを挙げてこれを阻止しようとした。代表的なものがグロティウス(Hugo Grotius)の「自由海」論とセルドン(John Seldon)の「閉鎖海」論の対立だ。海上貿易強国だったオランダのグロティウスは自由海論を主張し、後発国だった英国のセルドンは閉鎖海論を主張したのだ。もちろん、英国も日が沈まない大英帝国を建設した後には、当然自由海論を主張することになった。

     このような海洋先進国と後発国の利害関係を調整するため、国際連盟の後援の下、1930年に海洋法法典化会議が開催されたが、海洋先進国と後発国の相異なる立場の違いで結局失敗した。その後、1958年に第1次海洋法会議を開催して4つの協約(領海、公海、大陸棚、公海生物資源保護)を採択したが、領海の幅をいくらにするのかについては意見の一致を見ることができなかった。続いて1959年に領海の幅を決めるための第2次会議を開催したが、やはり失敗した。

     その間、漁獲技術の発達で魚類資源の乱獲が問題になり始めた。さらに、海洋先進国が深海底を開発する技術まで発展させることになると、すぐにこれに対する規制をこれ以上先送りすることができない状況になった。これに対し、国連の後援の下、第3次海洋法会議を開催して長い討議の末、1982年に国連海洋法協約を採択することができた。

     この協約で、それまで合意をできなかった領海の幅を12海里に決め、従来は無かった排他的経済水域、群島水域、深海底開発などの概念を導入して詳しい内容を規定することになった。その中でも特に排他的経済水域の概念の導入は、従来、水面下に隠されていた独島問題を表面化させる契機になった。すなわち、この協約によって東海の海を韓国と日本の排他的経済水域で両分することになったが、独島がどこの国に属するかによって境界線の位置が変わることになるので、必然的に独島領有権が問題になるほかはなかったのだ。

     結局、韓日両国は独島領有権について円満な合意を成すことができず、国連海洋法協約第121条第2項(岩石)に対する解釈でも意見の一致を見ることができず、排他的経済水域の境界線を画定できなかった。このように、排他的経済水域の境界線に合意できなかったために、1998年に署名された新韓日漁業協定ではやむなく独島周辺を中間水域と規定するほかはなく、以後日本が独島問題をさらに騒がしく主張する契機になった。
    (キム・ビョンリョル)

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  23. 反論18

    島根県が取った行為は全部不法無効だ



     島根県は、独島編入の事実を公告して官有地台帳に登載した後、アシカ漁業者に貸与し、1941年から1945年まで海軍用地として引き継いだことがあり、1905年8月島根県知事が独島を視察、1906年8月に発刊した「島根県全図」に独島を含ませるなど、行政権を行使したと主張している。
     しかし、前記した(反論15)ように、日本が独島を編入したこと自体が不法無効な行為だ。このような不法無効な行為を根拠として行政行為をするのは、当然全て無効である。

     日本は、独島を官有地台帳に登載した後アシカ漁業者に貸与したことを自慢するのでなく、1905年に望楼を建設して露日戦争に活用したという事実を告白しなければならない。しかし、このような事実に対しては堅く口を閉じている。軍事的な必要性によって編入したという事実が知られることを望まないからだ。

     そして、1906年に発刊した「島根県全図」に独島が含まれていると言うが、1917年に発刊した「島根県全図」には独島は含まれていない。固有領土だったというのなら、1906年でなく1905年以前に発行した地図にも当然独島が含まれていなければならないのではないか? ところが、1905年以前どころか1917年に発行した地図にも独島が包含されていないということは何を意味することなのか? これが正に、独島は日本の固有領土でもなく、固有領土であることを編入という形式で領有権を再確認したのでもなく、純粋に戦争の必要性によって編入したものであることを見せてくれる明白な証拠だ。
    (キム・ビョンリョル)

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  24. 反論19

    隠岐の人々の独島での行為は当然不法無効だ


    隠岐の人々は、従来から独島は日本の領土ではないと考えていた。前記したように、1667年に斎藤豊宣が著述した『隠州視聴合紀』に出てくる隠岐島の略図の中に独島は含まれていない。1667年当時は大谷及び村川家の鬱陵島渡海が旺盛な時期だったのに抜けているのだ。すなわち、隠岐はもちろん松江藩の人々も独島を自分たちの領土とは考えていなかったのだ。だから安龍福の渡日活動で問題になった時、惜しかったもののどうすることもできず、朝鮮領土であることを認めたのだ。そして、1903年から独島でアシカ漁をした中井養三郎も、韓国の領土だと考えて韓国政府に貸下げ願いを提出しようとしたのだ。

     このように、現地住民はもちろん中央政府でも韓国の領土だと考えていた独島を、外務省政務局長山座円次郎の話のようにロシア軍艦を監視するための望楼を建設するために編入したのだ。もし当時が露日戦争中ではなかったとすれば、中井養三郎の編入請願書は、当然内務省当局者の考えによって却下されただろう。

     このように、戦争の必要性によって、無主地ではなく韓国の領土ということを知りながら編入したので、1905年の独島編入は当然無効である。このように無効な行為を根拠とした隠岐の人々の独島での行為のいかなるものも、実効的支配の範疇に入ることはできない無意味な行為である。
    (キム・ビョンリョル)

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  25. 反論22

    サンフランシスコ講和条約の起草過程で、日本は何を要求したのか?



     日本がサンフランシスコ講和条約の一方の当事者として初めから条約の草案作成過程に部分的に参加できたのに反して、韓国は全くそうはできなかった。さらに、後記(反論23)するように、1947年3月20日付けの最初の草案から1949年11月2日付けの5次草案まで独島が韓国の領土として作成されたという事実はもちろん、その後に日本のロビーで日本領に変更され、最終には削除されたという事実さえ全く知らなかった。

     反面、日本は独島が韓国の領土として作成されたという事実を知ってからは、これを変更させるために手段と方法を選ばなかった。その中で代表的なものが、1947年6月に日本外務省が発刊してアメリカに伝達した「日本本土に隣接した小島(Minor Islands Adjacent to Japan Proper)」だ。この本の第4章に鬱陵島、竹島を表記し、竹島に対しては韓国式の名前もないと説明して鬱陵島、独島があたかも日本の領土のように主張した。そうするうちに、1949年11月、上のパンフレットの記述にもかかわらず独島が韓国の領土になった事実を確認してからは、急いで、当時駐日米政治顧問官だったシーボルド(William J. Sebald)を通じて米国務部へ電文及び書面の意見書を送った。
     シーボルドは、これら文書で「独島は私たちが提案した第3条で日本に属することで特定しなければならないと提案する。これらの島に対する日本の権利主張は古くて有効なものと見られ、これらを韓国沿岸外郭周辺の島々と見なすことは難しい。また、安保的な側面から考慮すれば、これらの島に気象及びレーダー基地を設置するならばアメリカにも利益になる。」とした。この文書の内容から見れば、独島を日本領土にしてさえくれればアメリカのレーダー基地を建設するようにしたいという日本側の言質があったことを推定することができる。

     それだけでも足りず、日本の吉田茂首相は、在日韓国人は全部共産主義者で、1949年夏に発生した日本国鉄社長の暗殺など韓国人が全ての犯罪の根源であるから、韓国がサンフランシスコ講和条約の署名国になれば彼らに経済的利益を与えることになるから絶対にだめだと謀略し、ダレスの同意を勝ち取った。つまり、韓国が独島が脱落したことに関する過程に気付いてこれに対して意志表明をするかも知れないと思って、その機会を元から封鎖したのだ。

     このように熾烈な努力にもかかわらず、最終条約で独島が日本の領土と表記されず日本は自分たちの努力が失敗したことを自認して、1952年4月毎日新聞社が発刊した「日本領域図」に出ているように独島が本来のとおり韓国の領土になったものと認めたのだ。
    (キム・ビョンリョル)






    <コメント>

    「満足されない好奇心は、それ自身の答を作り出す傾向があった。想像力とは、事実よりずっと危険なことが多いものだ。」
     ( Frank Herbert )

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  26. 反論57

    独島問題は、日本が戦争の必要性によって侵奪したということだけ認めれば簡単に解決する


     
     17世紀に日本の江戸幕府は細密な調査の後、独島が日本のどの藩にも所属しない朝鮮の領土だと決めたことがある。そして、再び1877年に日本の太政官では独島が日本の領土ではないことを確認したことがある。
     1905年、独島を編入しようとしたとき、編入請願書を出した中井養三郎は独島を朝鮮の土地と知っていた。前述したとおり(反論12)、自分が使っていた海図を通じて独島が日本領土ではなくて朝鮮領土であることを知っていたのだ。これは、当時海図を編纂した人々やこの海図を見て操業をした全ての日本人たちがそういうふうに分かっていたという傍証だ。
     中井の請願書を最初に受け付けた内務省の井上書記官は、請願を処理するために内務省内にある関連文書を探してみた。その結果、1877年3月当時に右大臣岩倉具視が独島は日本の領土ではないという指令文を決裁したという事実を知ることができた。それで彼は独島の編入に反対したのだ。

     独島が韓国領という証拠がないといった農商務省水産局長牧朴真は、1903年1月に出版された「韓海通漁指針」の発刊の辞を書いて独島が韓国の領土であることを分かったし、海軍省水路部長肝付兼行は、自身が在職中に責任発刊した「寰瀛水路誌」1883年版と1886年版、「朝鮮水路誌」1894年版と1899年版を通じて独島が鬱陵島のそばにある朝鮮の島ということを知っていた。独島編入に最も一生懸命であった山座円次郎の場合、1904年に発刊した「最新韓国実業指針」を通じて独島が江原道に所属していることを知っていた。

     このように、日本は関係者全て独島が韓国領であることを知っていながらも無主地だと強弁して独島を編入したのだ。 露日戦争で喪失した制海権を補完しようと独島を編入して望楼を設置運営するために、独島は無主地だと我を張ったのだ。したがって、今でもこのような事実さえ認めるならば独島問題は自然に解決される。
    (キム・ビョンリョル)

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  27. Chaamiey様 ご苦労様です。各執筆者の担当本数です。

    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬) 35本
    9、12、14、15、16、17、18、19、21、22、23、25、26、27、28、29、30、31、33、38、39、40、41、43、44、49、50、51、52、53、54、55、56、57、86

    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)  14本
    20、32、36、37、61、62、63、75、80、81、82、83、84、85

    保坂 祐二(ほさかゆうじ)(호사카 유지) 10本
    66、67、68、69、70、71、72、77、78、79

    チョン・ヨンミ(정영미) 9本
    46,47,48、58、59、60、64、65、76

    パク・チヨン(박지영) 5本
    24、34、35、42、45

    イ・ソリ(이소리) 6本
    1・2・3、4・5・6、11、13、87、88~102

    イ・キボン(이기봉) 2本
    73、74

    計81本

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  29. 金柄烈(1956~)経歴、著書
    キム・ビョンリョル または キム・ビョンニョル または キム ピョンニョル
    김병렬(Kim Byeongryeol) (Kim Byeong Ryeol)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ★岩波書店『史的検証 竹島・独島』(2007.4.26刊)
    金柄烈 キム・ビョンニョル
    1956年 ソウル生まれ
    1978年 陸軍士官学校卒業
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    1996年 カナダ法務監室 戦争法課程修了
    1992年より国防大学校 国際関係学部教授
    大韓国際法学会で2006年度最優秀研究者として選ばれ、玄岩学術賞受賞
    著書 
    『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳 インター出版・インター語学塾 2007)
    『独島資料総覧』(1998)など
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ★『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳)
    インター出版・インター語学塾 金寿堂出版 2006 12.25刊
    金柄烈 キム・ビョンニョル
    1956年、ソウルに生まれる
    陸軍士官学校卒業後、
    高麗大学校大学院 法学修士
    高麗大学校大学院 法学博士
    カナダ法務監室 戦争法課程を修了し
    アメリカ・オハイオ州立大学客員教授を歴任する。
    現在 国防大学校 国際関係学部教授

    主要著書
    『いお島の研究』 弘一出版 1996年
    『独島か、それとも竹島か』ダダメディア出版、1996年
    『独島資料総覧』ダダメディア出版、1996年
    『戦争法』21世紀軍事研究所 1997年
    『独島に対する日本人の主張』ダダメディア出版 1997年
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『明治三十八年竹島編入小史』の原著
    『日本軍部の独島侵奪史』2006.6.10
    東北亜の平和のための正しい歴史定立企画団 刊 (注:東北アジア歴史財団 の前身)
    略歴
    陸軍士官学校卒業
    高麗大学校大学院 法学博士
    米国オハイオ州立大学 訪問教授
    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事
    国防大学院 教授

    主要著書
    独島論争
    独島(独島資料総覧)
    独島を守る人たち
    独島に対する日本人の主張
    指揮官のための戦争法事例研究
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    岩波書店『史的検証 竹島・独島』の原著
    『韓日専門家が見た独島』ダダメディア 2006.11.5刊

    1978年 陸軍士官学校 卒業
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    2003年 米国オハイオ州立大学 訪問教授
    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事
    国防大学校 教授

    主要著書
    『独島論争』 ダダメディア
    『独島(独島資料総覧)』ダダメディア
    『日本軍部の独島侵奪史』 ダダメディア
    『独島を守る人たち』 四季節
    『指揮官のための戦争法事例研究』21世紀軍事研究所
    『イオ島を知っていますか』 弘一出版
    『白頭山境界碑の秘密』 四季節

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    国会図書館 キム, ピョンニョル
    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/NGQ234FX3J3R419CQMCQDUG2YFBNY8TTKX9MYCVU2D41TD8XTT-46496?func=find-b&request=%E9%87%91%E6%9F%84%E7%83%88&find_code=WRD&adjacent=N&filter_code_4=WSL&filter_request_4=&x=25&y=18
    史的検証竹島・独島 岩波書店, 2007.4.
    明治三十八年竹島編入小史 京都 : インター出版 ; 葛城 : 金寿堂出版 (発売), 2006.12
    독도가우리땅인이유! : 독도논쟁 다다미디어, 2005.4.
    독도에 대한 일본 사람들의 주장 다다미디어, 2001.6.

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    総合すると
    金柄烈 (1956~) 
    キム・ビョンリョル または キム・ビョンニョル または キム ピョンニョル
    김병렬(Kim Byeongryeol) (Kim Byeong Ryeol)

    1956年 ソウル生まれ(『独島を守る人たち』には京畿道安城生まれ)
    1978年 陸軍士官学校卒業
    1980年代に何をしていたか、やや不明。
    ?   高麗大学校大学院 法学修士
    1992年 高麗大学校大学院 法学博士
    1992年より国防大学校 国際関係学部教授
    1996年 カナダ法務監室 戦争法課程修了
    この年に帰国か? 1996年から著書はじまる
    大韓国際法学会で2006年度最優秀研究者として選ばれ、玄岩学術賞受賞
    (「玄岩」は歴史学者・申国柱の号)

    独島研究保存協会 理事
    大韓国際法学会 理事

    主要著書
    『独島か、それとも竹島か』ダダメディア出版、1996年
    『イオ島の研究』 弘一出版 1996年
       →『イオ島を知っていますか?』1997年説あり
    『独島(独島資料総覧)』ダダメディア出版、1996年
    →『独島(独島資料総覧)』ダダメディア出版、1998年1月31日刊が正しい


    『指揮官のための戦争法 事例研究』21世紀軍事研究所 1997年

    『独島に対する日本人の主張』ダダメディア出版 1997年
    →『独島に対する日本人の主張』ダダメディア、2001年6月が正しいか

    『独島を守る人たち』 1999年 四季節出版社

    『独島論争 独島が私たちの領土である理由』 ダダメディア 2005年4月

    『日本軍部の独島侵奪史』 ダダメディア 2006年6月
    →★『明治三十八年竹島編入小史』(韓誠訳)
    京都 インター出版  葛城 金寿堂出版 (発売), 2006.12

    『韓日専門家が見た独島』ダダメディア 2006.11.5刊
    →★『史的検証 竹島・独島』岩波書店(2007.4.26刊)
    (内藤正中が惑わされた1953年3月19日「日米合同委員会」→「韓米合同委員会」の誤訳のある本)

    ★は日本語訳

    出版年不明
    『白頭山境界碑の秘密』 四季節出版社

    写真
    http://cue.imbc.com/TotalSearch.aspx?query=%EA%B9%80%EB%B3%91%EB%A0%AC



    http://www.815family.or.kr/report/view.php?id=41
    最後の写真

    http://ilyo.co.kr/?ac=article_view&entry_id=8289
    末尾の写真 

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  30. チョン・ヨンミ(정영미)をやります。まずは、「天保竹島一件」から。


    反論64

    「天保竹島一件」とは19世紀始めにあった日本の鬱陵島侵奪史だ


    「天保竹島一件」とは19世紀始めに起こった浜田藩(今の島根県浜田市地域)の住民、八右衛門事件をいう。江戸時代初期の大谷・村川のように日本の西海岸地域民が鬱陵島・独島を無断侵犯して、資源を奪取した事件中の一つだ(反論60)。

    1833年、八右衛門が鬱陵島渡海を希望して江戸にいた藩主に渡海申請をした。しかし1696年以来、竹島(鬱陵島)は日本人の渡海が禁止された所であったため、藩主の許諾を受けることができなかった。すると八右衛門は、藩の官僚たちと別途共謀し、秘密裏に鬱陵島渡海を敢行した。

    1836年、この事実が江戸幕府に知らされ、八右衛門は死刑になり、関連者全員が厳罰に処された。また、江戸幕府は全国各地に、再び竹島(鬱陵島) 渡海禁止令を下した。

    日本は、この事件の当事者である八右衛門の陳述書を根拠に、当時の日本人の竹島(鬱陵島)渡海は禁止されたが、松島(独島) 渡海は許諾されたという解釈する。

    すなわち、浜田藩主が「竹島(鬱陵島)は日の出の土地(日本)かどうか分からないから、(八右衛門の渡海申請を)許諾できないが、松島(独島)ならば良い」としたということだ。これが1696年に下された鬱陵島渡海禁止令に独島渡海禁止の意味は含まれていなかったという評価につながる。

    しかし八右衛門の陳述書「朝鮮領土の竹島に渡海した一件に関する概略(朝鮮持地竹嶋渡海一件大略)」を検討してみれば、浜田藩主が「松島ならば良い」という許諾をしたのではないことがわかる。

    「松島(独島) 渡海」という話は、正確には浜田にいた家老の岡田頼母から出た。江戸にいた浜田藩主から「竹島(鬱陵島)が日の出の土地(日本)なのかどうか分からないから、渡海計画を停止せよ」という指示を受けた岡田が、部下の橋本三兵衛に命じて、八右衛門に「江戸からそのように言ってきた以上は、竹島(鬱陵島)に渡海するのは止めて、松島(独島)に渡海して見よ」という指示をしたのだ。

    これに対して八右衛門は、三兵衛に「松島は小さい島なので行っても効果がないが、江戸にはこの島に行くと言っておいて竹島(鬱陵島)に行き、万一(このことが)外に知られれば、漂流して行ったのだと主張すれば問題ないだろう」と答えた。

    すなわち、浜田藩主による独島渡海許可ではなく、この言葉は、後日江戸幕府に知られて厳罰に処される八右衛門と浜田藩の官僚たちとの鬱陵島渡海の共謀過程から出たことがわかる。

    また、独島渡海が鬱陵島渡海の名目に使われたことと、この島をどこの国の領土と認識したかは別の問題だ。八右衛門が陳述当時に同時に提示した「竹島方角図」には、竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮と同じ赤い色で彩色されている。二島を朝鮮領土と認識したという証拠だ。

    これはすなわち1696年江戸幕府が下した鬱陵島渡海禁止令に、独島渡海禁止の意味が含まれていたという意味だ。

    八右衛門は、大屋甚吉と同じように日本の西海岸を巡って物品を運んだ廻船業者だった。その航路は日本の本州西海岸の沿岸に沿って回る内海航路だ。鬱陵島と独島はこの航路とは垂直方向に遠く離れている島々だ(反論61)。

    ところが、「百問百答」は、「その航路は、竹島(鬱陵島の当時の呼称)と松島(現在の竹島)の間が中心」だったため、八右衛門は鬱陵島について知るようになった、と説明する。しかし、八右衛門の船を含んだ北前船が、「予期しない大きな風に押されて行」かない限り(「長生竹島記」)、独島と鬱陵島の間を通る蓋然性はない。

    この点は、八右衛門事件の後、日本全国の港に掲げられた竹島(鬱陵島)渡海禁止を知らせる標札の内容からも知ることが出来る。

    ここには「各地域の廻船は海上で外国船と出会わないように航路選定に気を遣わなければならないと以前にも知らせたことを、より一層守り、以後には可能な限り遠い海の航海にならないように運航すること」となっている。すなわち八右衛門の鬱陵島渡海は、鬱陵島と独島が朝鮮の島であることを認識して敢行された、朝鮮領土の無断侵犯および資源奪取事件なのである。
    (チョン・ヨンミ)

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    反論65

    「百問百答」の「天保竹島一件」評価は自国中心的歴史認識の表現だ

    「百問百答」は「天保竹島一件」の歴史的意味として、(1) 「元禄竹島一件」 (反論61)の結果下された竹島(鬱陵島)渡海禁止令の範囲に松島(独島)は含まれていなかったという点、(2)この事件により、この島に対する関心が大きくなったという点をあげている。

    一方、松浦武四郎は「竹島雑誌」(18世紀)を著述して日本の海防における鬱陵島の重要性を述べ、吉田松陰の松下村塾では、島(鬱陵島)開拓議論が展開され、「東京日日新聞」は1872年7月14日付記事で八右衛門の行為を称賛して鬱陵島開拓を主張したという。

    また、1876年東京に住んでいた島根県士族・戸田敬義は、八右衛門が所持していた「竹島図」の筆写本を添付して、東京府に「竹島(鬱陵島)渡海願」を提出したという。すなわち「天保竹島一件」が後の日本での鬱陵島開拓論につながったことがこの事件の歴史的意味だ、と説明しているのである。

    こうした、「天保竹島一件」が後の日本での鬱陵島開拓論につながったという評価は、まことに自国中心的な歴史認識だ。朝鮮政府はすでに太宗7年(1407)、および光海君6年(1614)に、鬱陵島または磯竹島が朝鮮領土だということを明らかにしている。

    1614年に、朝鮮礼曹は「(日本の)朝鮮国との往来は、対馬を経由する海路だけを認め、違う道を通じて来航するのは海賊と見なす」とした(中村栄孝「日鮮関係史の研究 下」、1969)。 江戸幕府も1696年に鬱陵島渡海禁止令を下した。 それでも、江戸後期および明治時代に入り、再び日本で鬱陵島開拓論が起きたのだ。

    そして「天保竹島一件」は、明確に「元禄竹島一件」での鬱陵島・独島認識を継承したものだった(反論64)。その根拠は八右衛門が所持していた「竹島方角図」だ。

    この地図で、鬱陵島と独島は朝鮮領土と同じに赤い色で彩色されている。すなわち二島が朝鮮領土だということを認識した上で敢行された渡海であった。だから、戸田敬義の「竹島(鬱陵島)渡海願」も許可を受けることができなかった。

    戸田の請願書は、1877年1月27日および4月に二回提出された。これに対して東京府は1877年6月8日、知事の楠本正隆名義で不許可の意を知らせてきた(「竹島考証」1881」)。

    すなわち、「天保竹島一件」を契機にした19世紀の鬱陵島開拓論は、明確に他国領土侵犯についての議論だったのだ。これを肯定的に評価するということは、現在もやはり同じ意図を持っているという意味であろう。

    また、1876年にすでに日本太政官は、竹島(鬱陵島)外一島(一島:独島)が、日本とは関係ないということを肝に銘じろとの指示をした。「百聞百答」は、ここでの「一島」が「1877年当時には西洋地図の影響で鬱陵島が「松島」と呼ばれていたので、1876年の指令(一島)も、現在の竹島(独島)を対象にしたものと速断できない」とする。

    しかし、以前に竹島と呼ばれた鬱陵島が松島と呼ばれることになった原因が「西洋地図」にあるという解釈は信憑性がない。それよりはるかに先立って編纂された「長生竹島記」(1801)と「隠岐古記集」(1823)にも、松島という名称で鬱陵島について記述しているためだ(反論58).

    そして19世紀後半に西洋地図の影響を受けて鬱陵島を松島と表記した地図が製作されたという一般論を、何の論証もなしに太政官指令という個別史実の解釈に関連させることはできない。
    (チョン・ヨンミ)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「長生竹島記」(1801)と「隠岐古記集」(1823)に、松島という名称で鬱陵島について記述している、
    というのは、面白い指摘です。これから「反論58」を翻訳します。やれやれ。

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  31. チョン・ヨンミ(정영미)独島体験館長の記事です。今年5月の『新東亜』です。写真もあります。

    http://shindonga.donga.com/docs/magazine/shin/2014/04/23/201404230500034/201404230500034_1.html

    入力2014年05月号656号(p72~72)

    日本・中国人に独島と歴史教えるチョン・ヨンミ独島体験館長

    東北アジア歴史財団独島研究所のチョン・ヨンミ独島体験館長は忙しい。「手で捕えられる独島」を国民に見せるためだ。安倍総理などの妄言で韓日関係が刺々しい今、彼女は「外国人のための東北アジア歴史アカデミー」を進める。駐韓外国人留学生のうちで申請者を集めて18週の間毎週水曜日2時間ずつ韓国通史と東北アジア状況を教える過程だ。もちろん韓国語で講義する。

    昨年の秋開設した時は20人、今年3月の2期募集には34人が申し込んだ。国籍は多様だが日本学生も少なくない。入学生には必ず鬱陵島-独島訪問機会が与えられる。2007年日本では写真作家の山本皓一が独島を訪問して取った写真で「日本人が行くことはできない日本領土」という写真集を発刊して波紋を起こした。彼は竹島の日本領有を主張する右翼人物だ。以後日本の外務省は自国民の独島訪問を止めた。韓国を通した独島訪問は韓国の独島領有を正当化すると見たためだ。

    しかし「しないでくれとすればもっとしたいこと」が人の常なので、少なくない日本人が偽の韓国人住民番号で独島に行ってきた。알음알음でそのようなうわさが広がったのでこの過程に入ってきた日本学生たちも独島に必ず行きたがる。チョン館長は日本との外交問題を考えて彼らを鬱陵島まで連れていく。代わりに日本の歴史歪曲と独島簒奪野心を批判する講義を聞かせるようにする。中国学生も少なくないが中国の歴史野心を論理的に批判する反東北工程についても講義する。

    「もう他国の攻撃を非難だけするのでなく彼らを呼んで私たちの意向を教えなければならないでしょう。それが歴史を正しく立て直すことで国を守る道ではないでしょうか?」

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  32. 反論28

    平和線と独島


     マッカーサーラインが設定されたものの、これを無断で越えてきて操業をするので我が海軍や海上警察に拿捕された日本漁船の数は少なくなかった。特に、6.25韓国動乱(朝鮮戦争)で海上警備が手薄になるとすぐに日本漁船のマッカーサーライン侵犯が急増した。
     彼らは取り締まりにかかれば拿捕されて処罰を受けるという事実を知っていたので、日帝時代に自分たちが作っておいた「朝鮮漁業保護取締規則」さえ守らずに必死に不法乱獲を行ったので、零細な我が国の漁民は生存権まで威嚇を受ける状況になった。

     その上、サンフランシスコ講和条約が発効すればマッカーサーラインまで廃止されるという消息が伝わると、韓国政府は対策を樹立しなくてはならなかった。当時は韓日間の国交が正常化する前であったため、両国間に漁業協定を締結する状態でもなかった。それで、韓国政府は日帝強占期に朝鮮総督府令第109号で制定された「トロール漁業禁止区域」を基準として漁業専管水域を設定しようとした。いくら公海の自由を強弁する日本人たちとしても、自分たちが資源保護のために設定しておいた法の前では退くと見られたためだ。ただし、この「トロール漁業禁止区域」は水深が深い東海上の独島までは含んでいなかったので、初めには鬱陵島だけ含ませることで画線した。

     ところがこの時、日本人たちが独島を自分たちの領土とするために、米政治顧問官シーボルド(William J. Sebald)を通じて連合国側にロビーをするなど陰謀をたくらんでいた。このため、これを看破した外務部が鬱陵島の東側を通過する線を独島の東側を通過するように拡大調整した。もし独島をこの線の外側に置くことになれば、日本側に独島を放棄するような認識を与える可能性もあるという憂慮のためだった。この時、独島を漁業専管水域(平和線)の外に位置させたとすれば、日本はもちろんアメリカまでも独島は私たちの土地でないと誤解する素地が十分にあったので、今考えてもこのような決定は卓越したものであったと言える。
    (キム・ビョンリョル)






    <コメント>
     キム・ビョンリョルさんの35本のうち、やっと15本翻訳完了ですが、キム・ビョンリョル氏独演会は全く面白くない。

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  33. 反論1、2、3

    独島の現住所



     独島は韓半島の付属島嶼で、我が国の国土で最も東側に位置している島だ。東島と西島の大きい2個の島と89個の小さい付属島から成る。地理的な位置は東島が北緯37°14'26.8"、東経131°52'10.4"であり、西島が北緯37°14'30.6",東経131°51'54.6"だ。

     独島は鬱陵島から東南側に87.4km離れていて、日本の島根県隠岐島とは157.5km離れている。独島から最も近い陸地は慶北蔚珍郡竹辺で216.8km離れている。独島の総面積は187,554㎡であり、そのうち東島が73,297㎡、西島が88,740㎡、その他の付属島嶼を合わせた面積は25,517㎡だ。東島・西島間の最短距離は約151mだ。独島で最も高いところは西島頂上部で、海抜高度168.5mだ。東島の最高峰は98.6mであり、東島の頂上部は比較的平坦で、灯台と警備隊の建物がある。晴れた日に鬱陵島の北東側の先である鬱陵郡北面天附里石圃から独島が観測できる。これは、地理的に独島が韓国の領土であることを示す証拠となる。

     独島は西暦512年に鬱陵島とともに新羅に帰属した後、私たちの領土に編入されて、長く江原道蔚珍県に所属した。1900年大韓帝国勅令第41号で鬱陵島が鬱島郡に昇格し、この時、鬱島郡は独島を管轄することになった。以後、1914年行政区域改編で慶尚北道に編入されて現在に至っている。独島の住所は「慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑独島里1~96番地」だ。2012年には道路名住所も持つことになって、東島の独島警備隊はそれぞれ慶北鬱陵郡鬱陵邑独島異斯夫通り55、独島灯台は独島異斯夫通り63、西島の住民宿舎は独島安龍福通り3という住所が付与された。

     独島には概略40~50人余りが常駐している。西島には住民キム・ソンド氏夫婦と鬱陵郡庁所属の独島管理事務所職員2人が暮らしている。キム・ソンドさんは、独島里の里長で、独島の周囲海域で漁業活動をしており、2013年5月には「独島愛カフェ」を開いて観光客を対象に独島商品を販売して生活している。また、独島に登録基準地(旧戸籍)を移した人は2014年3月末現在3,006人だ。東島には、浦項地方海洋港湾庁所属の灯台員3人と独島警備隊員30人余りが常駐して独島を守っている。独島は1982年に天然記念物第336号に指定されて公開制限地域だったが、2005年3月に東島に限り一般人の出入りが可能なように公開制限地域から解除され、入島許可制から申告制に転換された。その結果、独島を開放して8年で独島訪問客が100万人に達し(2013.4.18)、2014年3月末現在では125万 2,056人が独島を訪問した。

     独島は、およそ460万年から270万年前の間に火山活動で生成された火山島だ。210万年前に波蝕によって分離して現在の形を持つようになり、玄武岩、粗面岩、凝灰岩などで構成されている。現在まで調査された独島の植物の種類は約60種余りで、王虎杖根(オオイタドリ)、地菜松花(翻訳?)、海菊(ダルマギク)などの草本植物がたくさん分布しているが、マサキ、島ハナヒョウタンボク(翻訳?)など木本植物も自生している。
     鳥類ではウミツバメ、ミズナギドリ、ウミネコなど130種余りが観察され、昆虫はトンボ、蝶など90種余りが観察された。また、独島沿岸は季節により周期的に大きな環境変化を招くので、それにより多様な回遊性魚種が出現する。海洋生物資源のうち魚類を含む動物は495種、海草類は223種が観察され、水産資源の宝庫としての価値も高い島だ。
    (イ・ソリ)

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  34. 東北アジア歴史財団、独島研究所、チョン・ヨンミ(정영미)独島体験館長の4本、行きます。

    58.59.60.そして76です。



    反論58

    鬱陵島の名称が竹島から松島に変わった本当の理由は?


    「百問百答」は、『隠州視聴合記』(1667)等の古文書・古地図を根拠に「我が国は、隠岐諸島に近い北西の島を松島(独島)、そこからさらに北西の島を竹島(鬱陵島)と正確に認識して」いたとする。

    ところで、江戸幕府末期、西洋艦船たちの測量の間違いによって、鬱陵島という一つの島がアルゴノートとタジュレーという二つの島として表記された西洋地図があらわれ、1840年にはアルゴノートを竹島、タジュレーを松島と比定した地図が出てきた。以後、アルゴノートが架空の島ということが明らかになって地図上から消えることにより、鬱陵島はタジュレーまたは松島と呼ばれた。 一方、独島は、フランス船舶が命名したリアンクル・ロックスという名前で呼ばれていた。

    そして、明治前期および中期に、鬱陵島を松島、独島をリアンクル・ロックスと表記した政府刊行の地図が製作され、1905年独島編入の時、「鬱陵島が松島と決定した以上、古来の竹島に該当させるべきものは、この新島を置いて他に求めることは出来ないので、竹島と命名することが適当だ」という判断の下、竹島という名を付けて編入したということだ。

    すなわち、日本での鬱陵島の名称が竹島から松島に変わったので、独島の名称を竹島としたとのことであるが、独島に対する竹島という名称付与の歴史的背景を、鬱陵島に対する竹島・松島名称の伝導現象で説明するのは妥当ではない。

    もしも、どんな理由であれ鬱陵島が松島と呼ばれることになり、その結果独島が竹島と変わって呼ばれた状況で編入が成り立ったのであれば、上の説明は妥当である。

    しかし、上の説明のように、当時の西洋地図や西洋の影響を受けた日本地図に、独島は主に「リアンクル・ロックス」という名称で表記された。そして中井養三郎は「リャンコ島」すなわちリアンクル・ロックスに対する編入申請をした。さらに、昔の松島(独島)についてよく知っているはずの鳥取・島根の人たちも、独島を「リャンコ島」と呼んだ。これは昔の松島(独島)認識が、この当時にすでに断絶していたことを意味するものだ。

    また、日本の内閣は「どこの国もこの無人島を占領したと認めるほどの形跡がなく、自国の漁民がこの島を経営した実績がある」という名分で独島を編入した(1905.1.28 日本閣議決定文)。すなわち、日本の内閣が編入した島は、リアンクル・ロックスという西洋の名称の「主人のない土地」であって、昔から「日本人」が正確に認識していた「松島(独島)」ではなかったのである。上のような説明で、独島に対して竹島という名称が付与された歴史的背景とするのは、牽強付会である。

    そして、外国地図またはシーボルト地図の影響で鬱陵島が松島と呼ばれることになったという説明も、やはり多くの矛盾点を内包している。

    その根拠として、「隠岐古記集」における隠岐島-独島-鬱陵島間の距離の記述があげられる。
    この資料は1823年、隠岐島の人、大西教保が、隠岐の漁師の経験談などに基づいて『隠州視聴合記』(1667)を増補訂正したものだという(川上健三1966)。

    この中に、「(隠岐島の島後の)周囲は16里だ。北北西方向40余里に松島がある。周囲は約1里程度で、木がない石島だという。また、西方70余里にある島は竹島と呼ばれてきた...」という内容があって、江戸時代の日本人の正確な松島(独島)認識の根拠資料として抜粋・引用されてきた。
    ところが、内容を詳しく見れば、この時の松島は独島ではない。

    ここでは、隠岐島と松島(独島)までの距離が40余里、松島から竹島(鬱陵島)までの距離が70余里と記述されているが、17世紀末、大谷・村川が実際の鬱陵島を出入りした当時に記録された文書や、後代にこれを直接引用した文書を見れば、その反対の記述をしていることがわかる。

    そうした文書は、例外なく隠岐島から松島までの距離を70~80余里、松島から竹島までの距離を40余里と記述している。事実、隠岐島から独島までの距離は約157kmで、独島から鬱陵島までの距離である約87kmの2倍だ。したがって、隠岐島・独島・鬱陵島間の距離を70~80余里、40余里と記述した17世紀の文書は、竹島(鬱陵島)と松島(独島)をよく知っている人が記録したものだったということができる。

    しかし「隠岐古記集」は、この距離をひっくり返して記述しているのだ。

    一方、松島の周囲を「約1里」、地形を「木がない石島」と記述しているが、このような形容に似合う島は独島である。すなわち、ここでの松島は、距離的な側面での鬱陵島についての情報と、地形・形勢的側面での独島についての情報が入り乱れているのである。

    同じ現象を、出雲(今の島根県地域)の神社の神官が1801年に編纂した「長生竹島記」でも見ることができる。
    ここでは、松島について「隠岐の島後から松島の方向は、南西西側の海に該当する。東側から吹いてくる風にのり、二日二夜を行く。 ...昔話のように松〔十八公〕で装って遠くまで影を落としている風景は、どこにも比べる所がない。ところが、どうしたことか炎天には使う水が不足するという」と記録している。

    ところで、ここでの二日二夜程度を行く距離にある島は、『隠州視聴合記』によれば竹島、すなわち鬱陵島である。『隠州視聴合記』は、二日一夜を行く所に松島(独島)があり、再び一日昼間を行く距離に竹島(鬱陵島)があるとしている。また、松島が松で装った島だと言ったが、このような形容が似合う島は、独島ではなく鬱陵島だ。この「長生竹島記」は、松島を「日本の西海の終わり」と記録していて、17世紀「元禄竹島一件」の結果、日本漁民の鬱陵島渡海が禁止されたが、独島渡海は禁止されなかったという根拠に提示される資料だ。しかし、この松島は鬱陵島である。

    この資料は、江戸時代の竹島(鬱陵島)と松島(独島)についてよく知っている鳥取・島根県地域で編纂されたものだ。ここでの松島という名称と鬱陵島との関係は、西洋地図またはシーボルト地図の松島(鬱陵島)の影響と見るのは難しい。江戸時代後期に編纂された同地域の地誌類を検討してみた結果、当時、どんな理由であるのか、鬱陵島についてのことが、松島という名称のもとに言及される現象があったということがわかる。

    すなわち、鬱陵島に松島という名称がついた理由を、西洋地図またはシーボルト地図などの外在的要因だけで探すことはできないということだ。また、西洋地図およびシーボルト地図の影響で、鬱陵島が松島という名称で表記され、人々が鬱陵島を松島という名称で認識することになった、というのは、特定の事実関係を意図的に一般化させた解釈だ。

    明治中期以後、一般人を需要者にして数多くの地図が発刊された。この中には、鬱陵島を松島と表記した地図もあるが、それよりより多いのが、鬱陵島という一つの島を竹島(アルゴノート:架空の島)、松島(タジュレー:鬱陵島)と表記した地図だ。

    このような地図は、読者に東海(訳注:日本海)上に竹島と松島という二つの島があるという情報を提供する。 事実、この二つの島が鬱陵島一島を指すといっても、読者には二島と認識されるだけだ。その結果、1905年の独島編入以後にも、多くの日本人たちは、しばらく新しく編入したこの島が江戸時代の古地図に見える竹島(鬱陵島)だと考えた。江戸時代の古地図にも東海上に竹島と松島という名前の島が表記されているためだ。
    (チョン・ヨンミ)

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  35. 反論59

    日本の官撰文書には、松島(独島)が日本領土ではないと記録されている


    「百問百答」は、独島関連の記述がある史料として、(1)「元禄竹島一件」関連の、江戸幕府と鳥取藩の間に行き来した文書類、(2)米子の大谷・村川が、鬱陵島渡海および漁労行為に関連して、独島を寄港地または予備漁労地と説明した文書類、(3)幕府、鳥取藩、大谷・村川関連以外の文書類などをあげている。

    ところが、ここには対馬藩の文書類が脱落している。江戸時代、対馬は朝・日の外交および貿易を専門に担当した藩であり、「元禄竹島一件」でも朝鮮との交渉を担当した。以後、対馬藩は「元禄竹島一件」の関連文書を集めて「竹島記事」(1726)に編纂した。

    それを見れば、1695年12月11日、老中阿部豊後守が、対馬藩の平田直右衛門と直接対面して「(鬱陵島)の他に、その方向に島があると考えているのか」と尋ねると、直右衛門は「詳しくは分かりませんが、竹島の近くに松島という島があります。そこにも渡って行って漁をする所だと言います。身分の低い人々のうわさだと聞きました。その関係者たちに尋ねれば知ることが出来るはずです、と申し上げました」という記録がある。

    この内容は、1696年1月に下された竹島(鬱陵島)渡海禁止令に、松島(独島)渡海禁止の意味も含まれていたとのことを傍証する内容だ。
    「竹島記事」によれば、江戸幕府が日本漁民の鬱陵島渡海を禁止させた主な理由は、「鬱陵島で朝鮮人と日本人が入り乱れること」に対する憂慮のためだ(3巻、1696年1月、御白書院で老中4人が同席した席で戸田山城守がした発言)。

    また12月、鬱陵島の他に因幡と伯耆(今の鳥取県地域)に付属した島があるか、との江戸幕府の質問に対して、鳥取藩が竹島(鬱陵島)と松島(独島)、その他にも、因幡と伯耆に属する島はないと言ったのも理由になった。
    そして伯耆から竹島(鬱陵島)までの距離が160里であるが、朝鮮からは40里であるので、竹島(鬱陵島)は朝鮮の島という判断も、やはり作用した。

    すなわち、竹島(鬱陵島)渡海禁止令は、距離で見ると日本の島ではないと判断される島での、自国民の外国人との私的な交流・交易の可能性を断絶させるためのものであるが、独島もやはりこの条件を全部備えている。独島は「鬱陵島の近所」にあると報告された。そして鬱陵島と同じように「そちらにも渡って行って漁をする所」すなわち「朝鮮人と日本人が入り乱れる」可能性がある所と報告された。また「因幡と伯耆に属した島」ではないという報告もあった。

    1696年の竹島渡海禁止令に、松島(独島)という名称は言及されていない。

    付属島の名称まで言及する必要がないという判断であったと考えられるが、これを立証しているのが1870年に外務省に提出された「外務省出仕 佐田白茅他二名 朝鮮国交際始末内探書」(「公文別録」「朝鮮事件」1867~1871, 第1巻)である。
    これは、明治政府が朝鮮との国交交渉のための外交活動、および朝鮮侵略のための偵察のために、1869年12月に派遣された外務省の官吏3人によって作成された報告書だ。
    全13個の項目で構成されており、この中に「鬱陵島と独島が朝鮮の付属になった経緯」という項目が含まれている。この項目は「元禄竹島一件」(反論61参照)当時、朝鮮との交渉を主管した対馬藩の文書を基に作成されたと見られる。したがって、1696年の鬱陵島渡海禁止令に、独島渡海禁止の意味が内包されていたと見ることが妥当である。

    明治初期の国家の最高機関だった太政官も、やはり「竹島記事」などの対馬藩の記録を主な根拠に、鬱陵島と独島が日本領土ではないことを肝に銘じろ、との指令を下した。

    1876年3月、内務省から来た質問文書を合計29個の項目で整理した書類集「明治10年3月 公文録 内務省之部一(明治十年三月 公文録 内務省之部一)」 (「公文録」) の中に、「日本海內竹島外一島 地籍ニ編纂方伺」という項目がある。
    1877年3月20日、太政官本局が、大臣および参議にあげた文書(「立案第20号」)の添付文書として、1877年3月27日、内務卿・大久保利通代理、内務小輔・前島密が太政官右大臣・岩倉具視に上申したものだ。
    「竹島(鬱陵島)外一島は我が国と関係ないようだが、版図の取捨は重大事件であるから、関連文書を添付して確認のため稟議する」という内容になっている。
    この文書には、1号から4号までの添付文書があり、「竹島記事」の記録を引用したものだ。そして文書末には、岩倉具視の名前のそばに「稟議した件、竹島外一島は我が国と関係がないことを肝に銘じること、1877年3月29日」という赤い文字が書かれている。いわゆる太政官指令である。この指令の判断は、対馬藩が残した「元禄竹島一件」関連の文書に基づいたものだ。

    「百問百答」は、太政官指令の「外一島は松島であるが... 1877年当時、西洋の地図の影響で鬱陵島が松島と呼ばれたので、1877年の指令も今の竹島(独島)を対象にしたものと速断できない」という評価をする。
    しかし内務省が判断根拠資料として利用した文書は、18世紀に対馬藩で記録したものだ。

    また、1876年10月16日、島根県令が内務省に送った、竹島とともに松島に言及した文書も参考になった。
    ここには、隠岐島と松島・竹島が距離表示とともに描かれた「磯竹島略図」という絵図が含まれている。この絵図の松島は、明らかに独島である。このような判断根拠資料によって、内務省が「竹島外一島は我が国と関係ない」という判断をしたことで、太政官も、やはり同じ判断をしたのだ。
    1877年当時、鬱陵島が鬱陵島または松島と呼ばれるようになったので、太政官指令の松島が独島ではないこともあるという解釈は、牽強付会であるだけのことだ。
    (チョン・ヨンミ)

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  36. 反論60

    日本の「竹島利用」とは鬱陵島侵奪史のまた他の名前だ

    江戸時代初期に、鳥取藩米子(今の鳥取県、米子市地域)の住民である大谷・村川が、幕府の許可を得て半世紀ほど鬱陵島に出入りした。日本のいわゆる独島「利用」は、その過程で成り立ったという。

    すなわち、1681年の大谷家文書、および独島が詳しく描写されている絵図などを根拠に、(1) 大谷・村川が米子から隠岐島を経由して鬱陵島に行く途中に独島があり、(2)1661年以後には独島渡海に対する幕府公認があり、(3)この島でもアシカ捕獲が行われたという。
    また「元禄竹島一件」 (反論61~64)の結果、鬱陵島に対しては渡海が禁止されたが、独島はその対象ではなかったといって、その根拠に「天保竹島一件」(反論64)をあげている。

    しかし、日本のいわゆる独島「利用」は、その契機になった大谷・村川の鬱陵島渡海の歴史的意味の中で再評価しなければならない。彼らの竹島(鬱陵島)渡海は、明確に朝鮮領土の侵犯と資源奪取を象徴する事件である。彼らが渡海を始めた頃、鬱陵島はすでに鬱陵島または磯竹島という名前で日本に知られていた(『交隣知津録』1618年記録、『善隣通書』1680年記録など)。

    また、日本が「磯竹島」という名前の島を朝鮮の領土と認知していたことは、鷲坂弥左衛門父子事件で知ることが出来る(『柚谷記』 16世紀後半)。彼らが磯竹島として知られた鬱陵島にひそんでいて「日本の外に出て行くのを禁止する法」により対馬藩の武士に捕まってきた事件だ。

    それにもかかわらず、同じ時期に米子の大谷・村川は、鬱陵島に竹島という名前を付けて幕府の「許可」を得て鬱陵島に渡海し始める。
    この「許可」も、やはり1回の渡海に限ったことだということは、日本人研究者によってすでに明らかになった事実だ。すなわち大谷・村川の鬱陵島渡海は、当初はしてはならない行為であった。いわゆる独島渡海および「利用」は、この過程の副産物だ。従って、これに対する評価は、彼らの鬱陵島渡海に対する評価に収束されなければならないものだ。

    一方、日本は「元禄竹島一件」後にも独島渡海は続いたという。しかし鬱陵島渡海のない独島渡海はなかったと見る。

    鬱陵島渡海の創始者である大谷甚吉は、廻船業者だという(『大谷九右衛門竹島渡海由來記拔書控』1818~1829)。彼が、「越後から帰ってくる時に漂流して」鬱陵島を発見した、ということから見て、日本の西海岸の航路を通って物品を運んだ、北前船の運営者であったものと見られる。
    この場合、船は西南側から東北側に斜めに形成された海岸線に沿って内海を航行する。沿岸にある各港を経由しなければならないからだ。
    ところで、独島は隠岐島から西北側にずっと二日一夜を行く外海にある(『隠州視聴合記』)。
    ここで、鬱陵島までは、より一層西北側に、半日かかる所だ。すなわち鬱陵島と独島は、方向面でも距離面でも、鎖国政治下の日本廻船が日常的に航海する内海航路にあった島ではなかった。一般の漁船を含んで、日本船が独島付近の海域と同じ外海に出て行くことが禁止されていたことは、1837年の「天保竹島一件」を通じても確認することができる(反論64)。

    「百問百答」は、「長生竹島記」(1801)の一節を引用して、「鬱陵島渡海禁止後にも、独島についての知識と日本領土という意識が、江戸時代を通じて持続された」とする。
    「松前(北海道)に行く時、予期しない台風にあった時は、「これこそ言葉でだけ聞いていた松島だな」と言って遠く眺める。我が国の西側の海の終わりだ」という一節がある。しかし内容を詳しく検討してみれば、そのような解釈は不可能だということが分かる。
    すなわち、この一節の前には「すると隠岐の島後から松島の方向は、南西西側の海に該当する。東側から吹いて来る風に乗って二日二夜で行く。距離は36丁1里で、海の道170里程度と思われる。山勢が険しいという。土地は5里・3里程度になるという。昔話のように、松〔十八公〕で装って遠くまで暗い影を落とした風景は、どこにも比べる所がない。ところが、どうしたことか、炎天には使う水が不足するという。当時も千石廻船が(松前(北海道)に行って...)」という内容が記述されている。

    これで判断してみる時、ここでの「松島」は独島でなく、鬱陵島だ。独島は、「昔話のように松で装って遠くまで暗い影を落とした風景」と描写するのに適合した島でない。

    この他にも、1823年に島根県地域で編纂された「隠岐古記集」にも、松島という名称で一定部分、鬱陵島についての情報が収録されている(反論58)。

    したがって、日本側の解釈は正確だということができないのだ。

    日本の江戸時代の史料は、「鬱陵島・独島 (竹島松島)」「鬱陵島の中の独島 (竹島之内松嶋)」「鬱陵島近くの小島(竹島近所之小嶋)」「鬱陵島近辺の独島 (竹島近辺松嶋)」等のように、鬱陵島と独島を一組の島、あるいは独島を鬱陵島の付属島として記録してきた。

    そして、この二島を朝鮮の領土と認識していたことは、林子平の「三国接壌之図」(1785)および長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」(1779)等を通して知ることが出来る。

    1696年と1837年にそれぞれ取られた鬱陵島渡海禁止令が、「竹島(鬱陵島)渡海禁止」という題名を有していても、この中に独島渡海禁止の意味まで内包されていることは、その事実が立証するところである。
    (チョン・ヨンミ)

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  37. 反論76

    江戸時代の文献で、竹島は日本の範囲から除外されている

    江戸時代に編纂された『隠州視聴合記』(1667)「国代記」の「この州〔此州〕」は隠岐島を示す。『隠州視聴合記』は1667年に松江藩の藩士が隠岐島を視察して藩主に報告した報告書だ。ここに「(隠岐島の)北西方向に二日一夜を行けば、松島(独島)があり、また一日昼間〔一日〕を行けば竹島(鬱陵島)がある。この二島はみな無人島だ。高麗を見ることが雲州から隠州を眺めるようだ。それであれば、日本の北西側は、この州(此州)を限界とする」という記述がある。1950年代以後、韓日の学者間で「此州」の解釈をめぐって論戦を繰り広げてきた。韓国の学者は日本の西北限界を示す「此州」を日本の隠岐島とし、多くの日本学者は竹島(鬱陵島)と解釈してきた。2000年代に入り、この「州」という単語の使用用例を分析して、「此州」が日本の隠岐島を示すという日本の学者の指摘があった。

    「百問百答」は、この資料の記述について「此州の意味がどうであれ、竹島(鬱陵島)・松島(独島)が朝鮮領という認識を見せるものではない。「高麗を見る」という場合、見ている人が立っている所は高麗ではない。当時は鎖国だったから外国渡航が禁止されていた。また現在の竹島について「竹島図説」(18世紀)には「隠岐国松島」と、「長生竹島記」(1801)には「我が国西側の海の終わりだ」に書いている」とする。

    しかし『隠州視聴合記』の「此州」は、明確に隠岐島を示す。この資料の冒頭には隠岐島の地図が挿入されている。この地図には隠岐島を成す二つの主要な島である島前と島後のみが描かれているだけで、竹島(鬱陵島)・松島(独島)は脱落している。万一『隠州視聴合記』編纂者が「此州」すなわち日本の西北限界を鬱陵島と認識したとすれば、この挿入図にも鬱陵島・独島が描かれていなければならない。

    また、江戸時代には幕府の指示によって国絵図という各クニ(国:地域区分単位)単位の絵図が編纂された。慶長:1596~1615・正保:1645~1648・元禄:1688~1704・天保:1831~1845の4時代、4回にわたって作られたこの絵図の隠岐国地図にも、鬱陵島・独島はない。国絵図を底本に製作された「国郡全図」(1828年序文、青生東谿著述)等の私撰全国地図も、やはり同じことだ。

    一方「国代記」に「高麗を見ることは、雲州から隠州を眺めるのと同じ」が見られるために、日本の西北限界を「此州」とするとした。島根から(島根半島基準)隠岐国の間は約50kmで非常に近い。この一節は、隠岐島が日本列島の非常に近くにあって日本領土だとするように、鬱陵島は朝鮮に近いので朝鮮領土とする、従って日本の北西限界は隠岐島にする、という意味であると解釈するのが正しい。

    そして、独島は常に鬱陵島と一組の島、または付属島と認識されてきた(反論60)。従って『隠州視聴合記』の記述は、竹島(鬱陵島)と松島(独島)が朝鮮領土だという認識を現わすものだ。

    ところで、後世に書かれた「長生竹島記」(1801)や「竹島図説」(18世紀)は、『隠州視聴合記』の認識を継承したものではない。「長生竹島記」で、松島は明確に鬱陵島を示す名称で使われている(反論60)。そして「竹島図説」は、天保竹島一件(反論64)の「隠岐国松島」とやはり同じことだ。(訳注:ここやや不明)

    すなわち、松浦武四郎の「多氣甚麽襍誌」(1874)は、「竹島図説」で「隠岐国松島」の西島から北に40里余りに竹島(鬱陵島)があると言ったことに対して、「この説は疑わしい点が多いが、この他には依拠するものがなく、記録しておく」として、この島が「隠岐から西北側40余里」にあるともした。しかし昔から隠岐島から松島は70~80余里離れている島と認識されてきた。

    40余里は、松島(独島)から竹島(鬱陵島)間の距離として記述されてきた。「隠岐国松島」だけ別に離して読めば、松島という名称があたかも独島を示すように見えるが、全体文脈で見れば「隠岐古記集」や「長生竹島記」と同じように、竹島(鬱陵島)に対する情報が内包されていたり、それ自体で鬱陵島を示す名称である。
    (チョン・ヨンミ)

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  38. チョン・ヨンミの4本

    1本1本で論旨が完結しておらず、途中で終わってしまうような文章で、非常に分かりにくいのですが、4本ならべるとおぼろげに言いたいことが見えてきたような気がします。

    ポイントは、「隠岐古記集」(1823)と「長生竹島記」(1801)の中で、「松島」という名前で語られている島が、実は鬱陵島なのではないか、と言っているようです。

    そうすると、「隠岐の松島」も「日本の西海の終わり」も鬱陵島の事になってしまい、鬱陵島が日本領ということになって、韓国側には、より不利になるような気もしますが、とにかく、この人は、江戸時代にも、松島という名前で鬱陵島を呼んでいた、という新説を出したいようです。

    1801年になれば、ずっと1世紀以上行かなかった竹島(鬱陵島)(と松島(現竹島))についての情報があいまいになるのも仕方がないようにも思います。そこでの情報の混乱は起こりうると思います。距離のことしか根拠にしていないのですが、松島という名前と鬱陵島の情報が混同される、ということはありうるでしょう。

    ただ、鬱陵島を松島と呼んでいた、という新説を出すことで、次にどういう展開を目指そうとしているのか、すなわち、どのように韓国側に有利な見解を見出そうとしているのか、良くわかりません。

    結局は、「太政官指令」と、「佐田白茅の内探書」と、元禄竹島一件で松島にも禁令が出ていたという解釈と、それらが互いにもたれかかって論証としているようで、実は新味はないようにも思います。

    翻訳が悪くて趣旨がよくわからないのかなあ、と思ったりもしますが、まあ、こういう解釈で良いのでしょう。

    そして、『隠州視聴合記』の「此州」は「隠岐島」だとしていますが、日本名古屋大学の池内敏教授が、「州」の字の使い方を徹底的に調査して出した結論は、「州」は「島」ではなく、「国」である、ということでした。すなわち、「隠岐島」ではなく「隠岐国」。この人は、池内論文の結論を、全く逆に解釈しています。

    韓国側にはこの解釈をとる人も多いようで、またしても池内先生には、韓国の友人たちにご本人の論文の趣旨を誤りなく理解をしてもらうように、一層努力していただきたいと思います。

    まさに日本の西北の境界は、「隠岐島」ではなくて「隠岐国」なのであって、そこに「竹島(鬱陵島)、松島(現竹島)」が含まれるのかどうかが問題になるわけです。

    そして、そこから「高麗を見る」、わけですから、そこが「高麗」ではないことは自明でしょう。それを、「朝鮮領土と見ていた」などは、ありえない解釈です。

    もうひとつ。「国絵図を底本に製作された「国郡全図」」。この中に、鬱陵島と現竹島はない、と言っていますが、巻頭の日本全図に竹島・松島があります。この人は、「国郡全図」の原資料を見たことがないのだと思います。

    最後に、江戸時代の日本の北前船の航路を、この人は勉強したことがないようです。高田屋嘉兵衛の船は、竹島(鬱陵島)付近を通っていたのでしょうし、「天保竹島一件」の航路を案内した船頭・船乗りたちは、瀬戸内の島々の出身です。彼らは鬱陵島に行く航路を良く知っていたとみて間違いありません。沿岸しか航海できなかった、というのは勉強不足でしょう。こんな知識を日本人や中国人の若者に教えたりしないでほしいものです。

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  39. チョン・ヨンミの残り3本です。

    これらは、東北アジア歴史財団、独島研究所、独島体験館長としての「ごあいさつ」みたいな文章です。

    日本側が、神経にさわる言い方で攻撃してきたので、意外に「まじめに」ごあいさつを返してきたのかも知れません。

    46の中国の新聞「韓情紀要」は知らなかった資料です。独島に「住民」がいるとしており、もとより間違った情報なのですが、鬱陵島のことなのか、当時の気分をあらわすものなのか。

    ただ、「1945年」はいくらなんでも間違いでしょう。「南韓」「軍政府」という言い方も、まだないでしょうから。1947年でしょうか。

    Chaamiey様
    次にパク・チヨンをやります。これも「ごあいさつ」みたいな文章です。

    金ビョンリョルの独演会の残りはあとにまわしましょうか。
    ブログに番号順に載せる、ということで、皆さんの突っ込みを期待しています。

    パク・チヨンが終わったらイ・キボン2本をやろうと思っています。もじ始めてしまったようなら教えてください。

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  41. 反論46 

    「独島運動」ではなく、領土守護のための持続的国民活動だ

    「百問百答」は、独島と関連した韓国の色々な活動を、あたかも一時的運動または広報キャンペーンのように扱い、「独島運動」という表現を使っている。しかし、これは解放直後、鬱陵島の民生と直結した次元で始まって全国的に拡大・継承されてきた領土守護のための持続的国民活動である。

    1945年8月15日、韓半島はカイロ宣言(1943.12.1.)およびポツダム宣言(1945.7.26.)により、日帝の植民支配から解放された。ところで1947年、韓国の漁師が独島に不法に入島した日本人によって狙撃される事件が起きた。これに対し激昂した鬱陵島島民が、この事実を行政管轄当局である慶尚北道の道庁に報告した。また、言論を通じて報道されたが、1947年大邱で発行された「大邱時報」は、「倭敵日人(倭敵日本人)のたまげた執着: 鬱陵島近海の小島を自らの島だと漁区として所有」という記事を掲載した(1947.6.20.)。また、1947年7月23日付「東亜日報」は、「版図に野心の触手 捨てられない日人の侵略性、鬱陵島近海独島問題再燃」という記事を掲載した。このような経過を通じて、鬱陵島から全国に、またソウル中央に、独島守護の重要性と対応認識が広がったし、同時に南韓官民合同守護活動が展開した。

    1945年、中国居住韓国人が発行した新聞「韓情紀要」には、8月16日から9月15日まで(八月十六至九月十五日)」の記事の中に、以下のような内容がある。

    “南韓の軍政府が提出した消息によれば、最近、朝鮮東部海上の独島居住民が、軍政府にその島の主権問題を調査することを要求したという。独島は、本来、朝鮮の江原道行政区域範囲の中に属する所で、日本が朝鮮を併呑した後に日本島の根拠地に計画されたが、島にはすべて朝鮮漁民が居住した。現在突然日本人たちがこの島にきて、領土主権を戻すことを要求している関係で、居住民が南韓米軍政府に若干の歴史文献を提出して、この島が当然朝鮮領土に属することを(確認することを)要求している。現在の米軍政府当局は、この問題を非常に重視して、すでに独島領土主権問題証拠収集委員会を組織し、合わせてすでに数回会議を開催した。確実な証拠を集めることになれば、報告を作成した後、直ちにマッカーサー総司令部に処理を要求するだろう。”

    一方、民間山岳団体である朝鮮山岳会(現在の韓国山岳会)は、鬱陵島・独島学術調査団を現地に派遣して、総合的な調査に着手した(1947.9.15.)。この学術調査団に参加した、当時の国史館館長で歴史学者である申奭鎬が1965年に発表した論文によれば、1947年7月11日、米極東委員会が“日本の主権は本州北海島九州四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定されるだろう”という発表をすると、日本が独島は日本領土という世論を起こし、当然独島が韓国領土に編入されると考えていた韓国で“初めて独島問題が起こり”出たという(「独島の来歴」『独島』1965大韓公論社)。これが契機になって鬱陵島・独島学術調査団が現地に派遣されたのである。

    その後から今まで、多くの官・民次元、または合同次元の独島守護活動が展開されてきた。従って今の韓国での独島守護活動は、「百問百答」が説明するような独島に対する国民感情と2005年前後の歴代大統領の歴史認識から始まった一時的で広報性の強い「運動」ではない。解放されるやいなや、独島の母島である鬱陵島住民の生活と安全、独島に対する領有意識と守護意志という次元から始まり、全国的に拡大・継承されてきた持続的国民活動なのである。
    (チョン・ヨンミ)
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    反論47

    国家的次元の「海外宣伝活動」ではなく、民間次元の自発的な韓国歴史を正しく知らせる運動だ

    「百聞百答」は、「対日・対外戦略の戦術構想」「対外宣伝工作先導」等の用語を使用して、東北アジア歴史財団があたかも戦争遂行機関のように説明している。しかし東北アジア歴史財団は、学問的次元で東北アジア地域の歴史懸案問題解決のために努力することによって、同地域の平和および繁栄の基盤を用意するために設立された組織だ(反論48参照)。2008年8月に開設された独島研究所も同じことだ。やはり「対外宣伝」や「対外工作」等の用語が使われているが、独島研究所は言葉どおり独島関連学術的研究を主な業務にする所だ。

    また「アメリカ韓国人の声(VOKA)」等の慰安婦少女像建設運動、東海併記運動などは、韓国系アメリカ人団体の自主的で自発的な運動だ。「百問百答」が言う、独島研究所のいわゆる「対外宣伝」や「対外工作」の役割とは関連がない。

    「世界歴史NGO大会」は、全世界の歴史専門家、市民団体数百人が集まってシンポジウム、学術セミナー、各国文化行事、ラウンジ・トークなど多彩な行事を行う大会だ。隔年に開催され、民間人で構成された推進委員会が主催する。東北アジア歴史財団は、財団設立目的に立って共同主催者として参加する。このような性格の大会を「韓国政府の立場を浸透させる手段」として使うことは難しい。

    バンク(VANK)は、外国人と韓国人を友達として結ぶことを斡旋するサイバー民間外交官の役割のために始まった非政府民間団体だ。以後、現存する世界最古の金属活字本である「직지심경」を全世界に知らせる活動、ヤフー旅行サイトなどのイ・スンシンと関連する情報の誤謬修正など、全世界に対して韓国を正しく知らせるための活動をしている。東海と独島表記誤謬修正活動も兼行している。「東北アジア平和のための正しい歴史確立企画団」(2005年)および「東北アジア歴史財団」 (2006)に先立って1999年に作られた団体だ。

    韓国の国内外で積極的に進行している東海と独島表記誤謬是正活動などは、ほとんどVOKAやVANKのように自発的に成立した民間団体によって成り立っている。このような団体は、自らの設立目的を持って独自のビジョンを追求していきつつある。東海や独島関連活動などは、そういう目的、そういうビジョン追求のある内容であるだけだ。韓国政府や東北アジア歴史財団のように官によって触発されたものではない。
    (チョン・ヨンミ)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    反論48

    東北アジア歴史財団は、東北アジア地域の歴史葛藤問題解決のために努力する研究機関だ

    東北アジア歴史財団は、単に韓国政府が独島領有権の広報、宣伝のために巨額の予算を入れて設立した組織中の一つではない。学問的次元で東北アジア地域の歴史葛藤問題解決のために努力することによって、同地域の平和および繁栄の基盤を用意するために設立された組織だ。この点は「東北アジア歴史財団設立・運営に関する法律」第1条(目的)に明確に明示されている。 すなわち、“この法は東北アジア歴史財団を設立して東北アジアの歴史問題および独島関連事項に対する長期的・総合的な研究・分析と体系的・戦略的政策開発を遂行することによって正しい歴史を確立して東北アジア地域の平和および繁栄の基盤を用意することを目的とする”と明らかにしている。

    また「東北アジア歴史財団定款」第1章総則、第2条目的にも「東北アジア歴史財団は東北アジア歴史問題および独島関連事項に対する長期的・持続的・総合的研究および分析を実施して、体系的・戦略的政策を開発して、広報・教育活動と交流・支援事業を施行することによって、正しい歴史認識を共有し、東北アジア地域の平和および繁栄の基盤を用意することを目的とする」となっている。

    東北アジア歴史財団でするすべての活動は、最終的にこの該当法律および定款に明示された東北アジア地域の平和および繁栄基盤構築という目的を達成するためだ。東北アジア歴史財団が“日本と中国などとの歴史戦争を遂行するための政府シンクタンクとして、日本の研究者や活動家などを抱き込んで日本に釘を刺し、世論を分裂させ、日本国内で日本批判または、韓国支持勢力を拡大させるために全力疾走”という組織だ、という評価は、財団の設立経緯、目的、活動を縮小・歪曲した評価というほかはない。東北アジア歴史財団傘下には、独島研究所と独島体験館がある。これは財団が「特に竹島(独島)問題に力を注いで」いるためではない。高句麗の歴史をはじめとする古代史研究、韓日関係史研究、韓・中・日歴史理解と共同歴史構築事業などを推進する歴史研究室が職員配置および予算編成面で最も比重が大きい。独島研究所は、独島関連の学術研究をする機関であり、独島体験館は展示物を活用して青少年を含んだ韓国国民および外国人に独島教育を施行する機関である。
    (チョン・ヨンミ)

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  42. パク・チヨン(박지영)

    検索すると同姓同名の美女の写真ばかりが出てきますが、
    どうやら「韓国海洋水産開発院(KMI)専門研究員」の男性のようです。
    漢字は良くわかりません。

    http://www.kmi.kr/Member.do?command=Detail&seq=438
    韓国海洋水産開発院(KMI)未来戦略研究本部 専門研究員
    研究分野: 独島領有権 確立および強化
    写真あり

    http://library.kmi.re.kr/BibAttfile/%EB%8F%85%EB%8F%84%EC%97%B0%EA%B5%AC%EC%A0%80%EB%84%90_(2013)21%ED%98%B8.pdf
    『独島研究ジャーナル』2013年春 第21号
    日本の新「海洋基本計画」と独島領有権 41p
    日本、海洋権益確保のための第二次海洋基本計画案発表 59p
    史料紹介「天保雑記」72p

    http://m.newswire.co.kr/newsRead.php?no=657053
    慶尚北道学術大会
    「日本明治時代の海洋認識」発表

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    反論24 

    解放後、日本人が独島に渡ってきたことは全部不法だった

    1945年から1952年まで、日本は敗戦により連合軍総司令部(GHQ)の統治下にあった。そして1947年6月の「SCAPIN-1033,日本の漁業および捕鯨業許可区域に関する件」により、独島周辺12マイル以内で日本人の漁労行為が禁止され、1949年9月の「SCAPIN-2046」により3マイルに変更された。このような規定は1952年4月25日に廃止される時まで有効だった。また、1946年1月29日に発令された連合軍総司令部指令「SCAPIN-677」により、独島は日本の行政権が及ぼす範囲から除外されたので、その間独島に接近したり上陸した日本人は全部不法行為を犯したのだ。

    1952年1月18日に、韓国は「隣接海洋に対する主権に関する宣言」を宣言して独島を韓国の主権領土中に含ませたので、以後日本人の独島接近および上陸行為は全部領土侵犯行為に該当する。

    解放後に行われた日本人の独島侵犯行為は、1960年までに全部約40回にかけて行われた。その内容を調べれば、先ず1947年4月に島根県境港の日本人が独島を侵したのがあげられる。このことは日本国内では報道さえされなかった。そして1949年7月に和歌山県の池畑力が独島にきてクワカモメの鳥糞を120~130袋採取していった。1951年5月には島根県の浜田港を根拠地にする「第3伊勢丸」の船長浜田正太郎一行が独島に渡ってきて、ワカメを採取していた韓国人に独島を日本領土だと主張して退去を指示したという。

    1951年11月14日には、境高等学校の練習線の「朝凪丸」が独島を侵した。この船舶には新聞記者も同乗していたが、彼らはサンフランシスコ講和条約が調印されたので独島が日本領土に戻ると思って状況を調査しにきたという。だが、当時日本の船舶は「SCAPIN-1033」により独島周辺3海里に接近できなかったので、これらの行為は全部不法行為であり、同乗した新聞記者さえも不法行為に対して日本政府当局の取り調べを受けたという。

    1953年3月に独島に対する米軍の爆撃練習区域指定が解除され、島根県が独島漁場調査のために派遣した水産試験船「島根丸」が5月28日に独島を侵して韓国漁民と面談をして返っていった。これが解放後、公式的に日本政府関係者が独島を侵した最初の事件だ。 この事件以後から韓国が「領海法」を実施する1978年まで、日本人は独島および周辺海域に対する侵犯行為を繰り返し、日本政府関係者もまた約九回にわたって独島に上陸したと伝えられている。

    日本海上保安庁の巡視船も頻繁に独島を侵し、1953年には四回にわたって独島が日本領土という木柱をたてて戻った。巡視船が木柱をたてた日は、6月27日、8月3日、10月6日、10月23日であり、韓国側はその時ごとにそのことを撤去した。日本は四回目に木柱が撤去されるや、独島に木柱をたてるのを断念した。この過程で領海を侵した日本巡視船に銃撃を加えることが行われることもあった。韓国側は1953年7月12日に巡視船「へくら」に銃撃を加えたし、1954年8月23日には軽機関銃を装備した巡視船「隠岐」に、11月21日には再び侵した「へくら」に銃撃を加えた。このすべての銃撃は、韓国領海を侵犯した日本巡視船を検問するための停船命令、および退去命令を、日本巡視船が無視して逃走および接近を敢行したため生じたものだ。 したがって、韓国側が何の理由なしに銃撃を加えたのではなく、領土を侵した不法船舶に対する当然の自衛措置を取ったものということができる。

    このように解放直後、「SCAPIN-677」および「SCAPIN-1033」等によって独島接近が禁止されていたにもかかわらず、何人かの日本人たちが不法行為を行って独島を侵犯したし、サンフランシスコ講和条約が調印された後には、日本政府関係者たちの侵犯行為が本格的に進行されることもした。特にその過程で、島根県は独島が日本領土になったという偽り情報を流してアシカ猟免許を発行したり、独島周辺での漁業調査を開始するなど、露骨に侵犯行為を助長した。時には独島海域を侵した日本海上保安庁の巡視船が韓国側の停船命令を無視して逃走しようとして銃撃にあったりもしたが、威嚇射撃に過ぎなかったので死傷者が発生することはなかった。
    その後、1977年に日本政府は独島に対する巡視方針を「1年に1,2回、巡視船が周囲を回って拡声器で権利を主張する程度」にすることに変更した。したがって独島に上陸しようとする試みはなくなったし、1978年に韓国が「領海法」を施行して12海里領海を守ったので、以後日本巡視船が独島周辺海域を侵す行為はなくなった。
    (パク・チヨン)

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  43. 反論34 

    独島は日本帝国主義が恣行した韓半島侵奪の初めての犠牲の羊だった

    1903年から不法に独島でアシカ猟をしていた日本人中井養三郎が、アシカ猟を独占するために1904年9月29日、日本政府に「リャンコ島領土編入および貸下願」を提出した。この請願を受け入れた日本政府は、1905年1月28日に独島編入を閣議で決議し、島根県に編入を指示した。政府の指示を受けた島根県は2月22日に「島根県告示第40号」を出して「島根県隠岐郡竹島」という名前で独島を編入した。

    当時、日本政府は独島が無主地なので編入するとしたが、現在の日本政府は、本来日本の固有領土だったが近代国際法の要件により編入という手続きを通じて再確認したものと主張している。このような日本政府の主張は自己撞着的なもので、無主地だと主張して領土に編入した島を、今になって本来固有領土であったものをわざわざ近代国際法により編入する手順を踏んだ、としている。だが、近代日本政府が再確認のために領土編入手順を踏んだ島は存在しない。

    また、日本が独島を編入したことは中井の請願を受けたというよりは、当時韓半島と満州を侵略する過程で発生した露日戦争に備えるために、独島を重要な軍事的要衝地と判断したためだ。 日本海軍は中井が請願を提出する以前に、すでに独島の利用価値に注目していたし、独島編入を決める前である1904年11月13日に軍艦「対馬」を派遣して独島についての調査を実施した。調査目的は独島が電信所設置に適合するどうかを把握することだった。そして調査を終えて復帰した「対馬」の艦長は、地形的な困難性はあるが東島に建造物を構築することは可能だと報告した。

    このような経緯を見るならば、当時の日本政府の独島に対する関心は、軍事戦略的活用という側面にだけ集中されていたし、その他の事項に対しては何の関心も持たなかったものと見られる。すなわち独島を編入したのは、当時日本が露日戦争を遂行するために韓国各地でその主権を侵害して施行した一連の軍事措置のような脈絡といえる。したがって韓国を軍事的に完全に掌握することが韓国を植民地に変えるための前提条件だったとするならば、独島の領土編入はその第一歩だったとすることができる。

    中井が日本政府に編入願いを提出しようとした時、内務省の書記官である井上は「韓国の領土かも知れない必要ない暗礁を編入すれば、我が国(引用者注:日本)に注目している各国に、日本が韓国を併呑しようとする疑いを育てることになる」として編入に反対した。だが、外務省政務局長である山座円次郎は中井に朝鮮領ではない可能性が高いと言って編入願いを提出しろとそそのかした。内務省の書記官である井上が外交問題勃発を憂慮して反対した編入を、外務省の政務局長が韓国政府に対する照会のような確認手続きも経ないでそそのかしたことは、意図的行為だとしか判断できないだろう。

    当時山座が「望楼をたてて無線あるいは海底電線を設置すれば、敵艦を監視するのに非常に好都合でないか?」と発言したことは、彼が独島編入においてロシアとの戦争に関連した軍事的な意味にだけ執着していたとのことをよく現している。また、当時日本は「韓日議定書」により軍事戦略上必要な所はどこでも占領したり収容して使うことができた。実際に鬱陵島の望楼設置はそのように進行した。だが、日本は独島の望楼設置を思いのままにできる状況であったのにもかかわらず、独島をわざわざ秘密裏に領土に編入したのだ。その理由は、露日戦争にだけ活用するためのものでなく、大陸侵略と帝国建設および運用という観点で戦略的要衝地である独島を日本領土に編入し、長期的に東海での軍事拠点として活用するという計画だったためだと判断される。 すなわち独島編入は、韓国だけでなくアジア大陸を侵略するための日本の帝国主義的領土野心の第一歩だったともすることができる。

    内務省の井上が反対した領土編入請願提出を中井にそそのかした山座の行為は、このような脈絡で理解することができる。実際に山座は独島が韓国領土であることをよく知っていたのだろう。1904年に出版された「最新韓国実業指針」には、独島が鬱陵島とともに江原道編に載っていて、山座はこの本の序文を書いた。 したがって彼は、すでに独島が韓国領土という事実を十分に認知していながらも、日本の韓半島侵略に同調するために自身の良心をだましたのだ。

    現在、日本は当時に日本政府が発行した文書に独島を無主地だと規定している事実さえも無視して、独島は日本の固有領土であり、これを近代国際法手続きにより再確認したというごり押し論理を主張している。 だが、前で言及したように、近代に日本政府が再確認のために領土に編入する決定を下した島はなかったということを明確に認識しなければならないだろう。

    露日戦争勝利の後に、日本は韓半島に対する侵略を本格的に進めたし、その過程で独島を領土に編入して侵略行為の橋頭堡とした。したがって独島は、日本が最初に強奪した韓国領土であり、日本帝国主義が行った韓半島侵奪の犠牲の羊だったということには疑問の余地がない。
    (パク・チヨン)
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    反論35 

    1905年に日本は一方的に秘密裏に独島を編入した

    1904年9月29日に隠岐住民の中井養三郎という漁民が、日本政府の内務省、外務省、農商務省に独島を領土に編入して貸してほしいという請願を提出し、これを受け入れた日本政府は1905年1月28日に閣議決定で独島の編入を決めた。

    当時の閣議決定文には「他国に占領されたと認めるほどの形跡がない」として、独島を無主地と規定していた。このような政府の決定を受けて、島根県知事は2月22日に告示を通じて、独島を「竹島」と命名して隠岐島司の所管にしたと発表した。だがこのような一連の過程で日本政府は大韓帝国政府に独島の所属に関する照会や通知をしたこともなく、閣議決定および編入を官報に掲示することもなかった。

    日本は、現在、先占による領土編入要件には他の国に対する通知義務はないとして、大韓帝国に知らせたり照会したりする必要はなかったと主張している。また、日本は独島の編入事実が当時の新聞や論文にものせられており、特に露日戦争中に独島近隣海上で行われた戦闘についての報道が地図とともに官報や新聞、雑誌などに掲載され、独島が日本に編入された事実が広く知られたと主張している。すなわち、日本の新聞や雑誌などに掲載されていたので、独島が韓国領土だったら韓国政府が異議を提起していなければならないという主張だ。

    だが、日本の独島編入の事実は日本政府にさえも正確に認識されずにいた。1905年5月29日付「官報」にのせられた「連合艦隊司令長官 東郷平八郎報告(第1報)」では、独島を「リヤンコルド岩」と記載し、これを6月5日付「官報」で「竹島」に訂正したことが、これを明確に明らかにしている。日本政府が発刊する「官報」すらも、独島が日本に編入されたという事実をまともに認知していなかったが、韓国政府がその事実を知って異議を提起していなければならないとして責任を転嫁するのは、居直りというほかはない。

    そして独島を編入するための閣議開催を要請するために当時の内務大臣芳川顕正が総理大臣である桂太郎に提出した公文書「無人島所属に関する件(37秘乙第337号の内)」は、題名だけ見ても知ることが出来るように秘密文書であった。したがってこのような一連の過程を調べるならば、独島編入が一方的であり秘密裏に成り立っただけでなく、日本政府さえも明確に認識できずにいたことを如実に証明している。したがって日本側の主張はごり押しであり、1905年に日本が行った独島編入は大韓帝国の主権を秘密裏に侵奪した不法行為であることは間違いない。
    (パク・チヨン)

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  44. 反論42

    韓国の固有領土、独島に対する主権行使には疑問の余地がない


    「百問百答」では独島に対する韓国の主権行使を「何の根拠もなしに竹島を武力で占拠して、既定事実を繰り返しているのに過ぎない」と主張している。日本がその根拠に前に出しているのは国際法の「決定的期日」という概念だ。「決定的期日」とは、国家間に領有権紛争が顕在化すなわち発生した時点を言い、この時点以後に、紛争当事国が新しく始めたことと、わざと取った措置は、領有権判定の証拠にならない。

    だが、独島と関連して「決定的期日」のような国際法的用語は必要でない。独島は鬱陵島に人が居住し始めた時から韓国の固有領土であり(反論33)、このような事実には変わることがなかった。また、17世紀末安龍福拉致事件が契機になって発生した「鬱陵島争界」の結果、当時の江戸幕府は1696年1月28日に鬱陵島と独島が日本の島でなく朝鮮領土であることを認めた(反論31)。 その後にも朝鮮政府は定期的に捜討官を派遣して鬱陵島とその附属島嶼である独島を巡視するようにするなど、領土に対する管理を持続的に行ってきた。したがって独島は国際法的、歴史的、地理的に韓国の固有領土であり、その領有権をめぐるいかなる問題の素地もない。

    日本側は、17世紀に行われた漁業活動を根拠に、独島に対する領有権を主張している。しかしこのような漁業行為は当時の「鬱陵島争界」の過程で明らかになったように、正常な行為ではなかった。朝鮮は壬辰倭乱以後、度重なる倭寇の侵入で鬱陵島住民が多くの人命や財産被害をこうむると、本土に逃避させる政策をとった。その結果、鬱陵島は人が居住しない無人島になったが、このような隙間を狙って日本漁民が鬱陵島と独島に来てこっそりと漁業をしたのだ。すなわち17世紀に日本漁民が行った行為は「空巣狙い」のような破廉恥な犯罪行為であり、本質的に1905年にこっそりと領土に編入した日本帝国主義政府が行った行為と違うところがない。

    このような歴史的事実に目をそむけたまま、日本は今独島に対する過去の破廉恥な犯罪行為を国際法的根拠として突きつけて居直り、私たちの領土主権行使を根拠のない全部無効なものだと罵倒している。だが、私たちの固有領土である独島に対する領土主権行使は、国際法的に日本がその是非を言うことでもなく、認めるとか認めないとか言う資格もないことだ。従って独島に対する日本の主張は、過去の侵略行為と同じだと見なければならないのであり、彼らが引き続きごり押し主張を繰り返すならば、私たちはそれを私たちの主権を否定する行為であり、韓国国民に対する冒とく行為として受け取らなければならないのである。
    (パク・チヨン)
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    反論45

    日本の独島領有権の主張は韓国の解放を否定することだ

    1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏し、これによってカイロ宣言の精神に立って日本は「暴力と貪欲で略取したその他一切の地域から駆逐」され、「奴隷状態に処した韓国人民」たちは「適切な手続きを踏んで自由な独立国家」になった。

    日本は1895年の明成皇后殺害事件と1904年の「第1次韓日協約」、1905年の「第2次韓日協約(乙巳保護条約)」、1907年の「韓日新協約」、そして1910年の「庚戌国辱」という一連の過程を経て、「暴力と貪欲に捕われて」韓国領土を占領した。日本はこのような韓半島侵略過程で独島を領土に編入して侵略行為の橋頭堡とした。したがって独島は日本が強奪した最初の韓国領土であり、日本帝国主義が行った韓半島侵奪の犠牲の羊だった。

    日本帝国主義が行った蛮行に対抗して、私たちの国民は解放のための闘争に突入し、その闘争の結果として世界各国の助けを得て1945年に独立を勝ち取った。その過程に1909年に安重根義士が成し遂げた伊藤博文狙撃、1919年の3・1独立運動、1920年の鳳梧洞戦闘と青山里戦闘、1932年に尹奉吉義士が成し遂げた日本軍将校殺害など私たちの独立運動史に光る歴史的に有名な事件が存在する。だが、このような事件だけが私たちの国民の独立闘争の全部ではない。

    日本はこういういくつかの有名な事件だけを並べて、私たちの国民の解放のための念願と闘争を卑下し、独島問題を解放後に発生した問題として片付けようとしている。だが、独島は私たちの固有領土で、1900年の「大韓帝国勅令第41号」宣言以後、近代国際法的にも我が国の領土であり、その事実に変化があったことはない。また、独島は日本が「貪欲に捕われて」強奪した最初の韓国領土だったので、カイロ宣言の精神に立って韓国が領有権を持つ島だ。このような独島に対して領有権を主張する日本の姿勢は明確に私たちの国民の解放の歴史を否定するものであり、再び韓半島を侵奪するという意志の表明と見るほかはないだろう。

    現在、日本は独立運動と独島問題は別個のように片付けて、単純な「反日」運動として卑下しようとしている。また、解放前の独立運動では独島領有権を問題としたことがないと主張して独島問題が純粋に解放後に発生した問題だと主張している。しかし、私たちの独立運動は金九の言葉のように「完全な」自主独立を念願したもので、その中には領土の完全な独立、すなわち独島領有権も含まれるものだった。したがって日本のごり押し主張は私たちの国民の独立運動史までも歪曲しようとすることと判断するほかはない。

    したがって私たちは、日本の領土野心から独島を守るために最善を尽くすであろうし、日本は韓半島侵略過程で強圧的に締結した各種条約が無効であるように、その過程で行った独島編入もまた無効であることを認識しなければならないだろう。
    (パク・チヨン)

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  45. 反論4、5、6

    大韓民国政府が独島を保全、管理、利用している


     独島は歴史的、地理的、国際法的に厳然たる大韓民国の領土だ。私たちの固有の領土である独島を大韓民国が保全、管理、利用しているにも拘わらず、日本は私たちの独島領有権に対する毀損策略を絶えず繰り広げている。現在と未来の世代が独島に対する同等な機会と恩恵を享受するようにすることと同時に大韓民国の領土としての地位と価値を向上させるため、我が政府は確固たる独島政策を展開している。

     我が政府は、これまで独島を「文化財保護法」と「独島等島嶼地域の生態系保全に関する特別法」によって、利用的側面よりは保全と管理の側面に重点を置いてきた。しかし、2005年3月、日本島根県が突然にいわゆる「竹島の日」条例を制定・可決して独島挑発を露骨化するとすぐに、これを契機に我が政府は独島の保全と管理に「利用」の側面を強調した「独島の持続可能な利用に関する法律」を制定し、総合的な管理体系を構築した。独島とその周辺海域の持続可能な利用に関する法的、制度的基盤が用意されるに伴い、海洋水産部は独島の持続可能な利用のための基本計画を樹立・推進している。独島と周辺海域の生態系及び自然環境保全に関する事項、独島沿岸資源の合理的利用に関する事項、鬱陵島・独島の施設の管理・運用に関する事項、独島関連の知識情報の円滑な生産・普及に関する事項を骨子とする政策を樹立して施行している。

     大韓民国政府は独島と独島周辺海域の生態系及び自然環境保全のために、独島生態系モニタリング及び詳細な調査、独島の植物種の起源及び移動経路の研究、鬱陵島・独島の国家地質公園運営、独島の海洋生態系、海水地質など自然環境調査、独島の山林生態系復元などの事業を推進し、生態主権の強化にも努めている。また、独島沿岸資源の合理的利用のために、独島周辺水産資源の現況に対する正確な実態調査及び独島固有のアワビ復元事業を実施して、独島周辺海域の生態系の回復と漁民の所得向上のための政策を実行している。

     独島住民の生活条件を改善して入島者の便宜支援のため、独島住民宿舎基盤施設の拡充と独島居住民支援、独島入島支援センター建設を推進していて、独島のアクセス改善のために母島である鬱陵島と連係した事業を多様に広げている。独島管理船の運営、鬱陵空港建設、鬱陵島一周道路事業、沙洞港2段階開発事業などがそれだ。

     一方、独島など領土・海洋懸案に対して適切な政策と対応論理を開発するための関連知識情報を生産普及させようと、独島周辺の海底地形の詳細な調査測量、独島周辺の海流観測、鬱陵島・独島海洋気象観測調査など実質的な利用のための自然科学的研究を推進している。それだけでなく、独島の歴史的権原強化のための研究調査及び資料発掘事業、独島学確立のための学際間研究など人文社会学研究も共に推進している。

     我が政府の独島に対する基本的立場は、独島は歴史的、地理的、国際法的に私たちの固有の領土であるから独島に対する領有権紛争は存在せず、したがって外交交渉や司法的解決の対象ではないということだ。外交部は独島に対する私たちの主張と論理を込めた広報資料と動画を製作して国際社会に知らせることに注力している。また、我が政府は、日本が教科書歪曲、防衛白書、外交青書を通じて独島に対する挑発行為をするたびに断固として厳重に対応し、独島に対する私たちの主権を対内外に知らせている。
    (イ・ソリ)

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  46. matsuさん、ペースが速いですね。おかげで、現在、40個くらい終了です。半分ですね。

    あと、私は、若い番号の方から順次取り組もうと思います。

    それから、皆さんに今一度報告しておきますが、oppさんが翻訳の下準備をしてくれましたので、翻訳作業が大変助かっています。

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  47. Chaamiey様

    お疲れ様です。

    >oppさんが翻訳の下準備をしてくれましたので、翻訳作業が大変助かっています。

    本当にその通りです。ありがとうございます。
    おかげで、日月でずいぶん進みました。

    このあとイ・キボンをやると、残りはイ・ソリと、柳美林と、金柄烈の残り半分となります。

    >私は、若い番号の方から順次取り組もうと思います。

    柳美林の20と32をすこし手をつけていますので、それが終わったら、金柄烈「独演会」の残りを
    私もやろうと思います。私はうしろからやります。よろしくお願いいたします。

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  48. 反論73

    韓国の文献と古地図に見える「于山島」は独島だ

    安龍福事件以前の文献のうち、最も重要な「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」の本文には、大きい文字で于山・武陵と于山島・鬱陵島を書いていて、二島が別個の島だという認識が定説であることを明確にしている。「新増東国輿地勝覧」では、追加説明の部分に小さい文字で「一説には于山と鬱陵が本来一島という(一説于山欝陵本一島)」という異説も叙述し、「記述だけするだけ創作はしない(述而不作)」という東アジアの歴史叙述の伝統に忠実に従っている。それにもかかわらず、下條はそのような事実を完全に無視したまま、「安龍福密航事件以前の「于山島」は「鬱陵島」の別称」だという異説を定説であったかように巧妙に変えて論理を展開する態度を堅持している。

    下條は、「新増東国輿地勝覧」の地図や、同じ系統の地図の中に描かれた于山島は、「新増東国輿地勝覧」の記事に由来すると見た。したがって「新増東国輿地勝覧」の記事の中の于山島が独島であれば、鬱陵島の西側に、似た大きさや若干小さい大きさに描かれている于山島も、独島にならざるをえない。下條は「新増東国輿地勝覧」の記事の中の于山島は、独島ではないと主張した。それが事実でないという点については、「Q74」で十分に説明したので、ここではこれ以上言及しない(Q74参照)。

    近代測量地図の観点で見れば、于山島が鬱陵島の3/4程度の大きさに描かれているのは、理解することはできない現象だ。だが、伝統時代の地図でこのような場合はかなり発見することができる。代表的な事例を一つあげれば、18世紀後半から19世紀まで改訂本が出るほど、日本の正確な伝統地図系統のうちで最も有名な「日本輿地路程全図」にも、松島(独島)の大きさは竹島(鬱陵島)と似ているか若干小さく描かれている。これは、地図製作者が島の大きさに対する情報を持っていなかったためであるが、「新増東国輿地勝覧」にも、于山島の大きさについての情報がなかったために、于山島と鬱陵島を似た大きさで描いたものだ。また「新増東国輿地勝覧」には、于山島の位置情報も記録されていなかったために、本土を基準に于山島・鬱陵島が記録されている順に地図に描いて入れて、于山島が鬱陵島の西側に位置することになったのである。

    1696年、安龍福が鬱陵島と于山島が朝鮮領土であることを主張するために二度目に日本に渡って行った時、独島である于山島が描かれた「新増東国輿地勝覧」系統の「八道地図」を持参して行ったことが日本側の記録で確認された。したがって、誇張や詐称の可否とは関係なく、「新増東国輿地勝覧」系統の「八道地図」の中に出てくる于山島は、日本で言う松島であり、もともと朝鮮の領土だという安龍福の主張は、間違ったものでは全くない。于山島が独島であり、朝鮮の領土であることは、安龍福の主張のよってではなく、「世宗実録地理誌」や「新増東国輿地勝覧」など、朝鮮の官撰地理誌に明らかに記録されている内容によって、証明されることだ。安龍福はそれを日本人たちに確認させただけだ。

    朝鮮では、安龍福事件以後、1694年の張漢相の調査を契機に、鬱陵島に捜討官を定期的に送って調査・管理する政策、いわゆる捜討政策をとった。その時、地図も製作して報告するようにしたが、その中に1711年、朴錫昌の報告書に挿入された「欝陵島図形」という地図が現存する。ここには、鬱陵島の東側の島に「所謂于山島」と記されていて、そのような捜討地図を基礎にして1720年代に初めて製作された絵図式の村地図冊の系統の鬱陵島の地図にも、同じ内容が収録されている。この島を独島だと主張する韓国側研究者がいたが、最近、下條が言う「竹嶼(韓国呼称はテッソム=竹島)」であることがほとんど証明された。だが、とはいえ韓国側文献の中のすべての于山島がテッソム(=竹島)〔日本呼称は竹嶼〕であると一般化させるのは、論理飛躍の誤謬を犯すことになる。

    「于山島」でなく「所謂于山島」と記録したことは、次のような側面で理解することができる。第一に、捜討官は国王から朝鮮前期の文献の中の于山島を必ず確認して帰ってきて報告せよとの命令を受けた。二番目に、だが、朝鮮前期の文献の中の于山島である独島まで確認する調査を実行できなかったので、三番目に、命令に忠実に調査しようと努力したことを報告書に表わすために、鬱陵島周辺で最も大きい島であるテッソム〔竹嶼〕を于山島と推定して報告したのだ。このために「于山島」という確定的な表現でなく「所謂于山島」すなわち、「いわゆる于山島」という推定的な意味を記録して入れたのだ。ここにも「記述だけするだけで創作はしない」という東アジア歴史叙述の伝統に忠実に従っていることが確認できるが、下條はこのような調査者の率直な態度を理解できずに、「所謂于山島」と表記された竹島を、すべての「于山島」にまで拡大適用する誤謬を犯した。

    鄭尚驥(1678~1752)が1740年代に製作した「東国地図」の系統は、以後、正確な大型地図として最も多く筆写・利用されたもので、現在も40種以上が確認されているだけでなく、いまも続いて発見されている。ここには推定の意味が入れられた「所謂于山島」でなく、確定的な意味の「于山島」が、鬱陵島の東側に1/3の大きさで描いてある。安龍福事件は、鄭尚驥の友人であった星湖李瀷(1681~1768)の「星湖僿説」にも詳しく記録されているなど、当時の民間の知識人の間で重要な話題の一つであった。鄭尚驥は、このような安龍福事件中の于山島=松島という記録に基づいて、朝鮮前期系統の地図に現れた于山島の位置の誤りを修正した。ただし、安龍福の記録の中にも于山島の大きさと鬱陵島からの正確な距離が収録されていなかったために、近代測量地図より正確性に違いが生じるように描かれているだけだ。鄭尚驥の「東国地図」を基礎にして、さらに詳しい大型地図を製作した鄭喆祚(1739~1781)の地図系統でも、于山島の姿は同一に現れる。

    英祖から『東国文献備考』「輿地考」の編纂だけでなく、地図製作まで命令を受けた申景濬(1712~1781)は、1770年に、全部連結すれば南北が約5.5mに達する村地図冊を8冊、道別図を8枚、朝鮮全図1軸を製作した。ここには于山(島)が、鄭尚驥の「東国地図」と比較する時、鬱陵島から東にさらに離れていて、大きさも相対的に小さく描いてある。安龍福事件の内容が詳しく収録された『東国文献備考』の「輿地考」は申景濬の著述なので、彼が描いた地図系統の中の于山(島)も、やはり安龍福事件中の于山島=松島という認識をそのまま反映したものであり、したがってこの系統の中の于山島は独島である。申景濬の地図は、国家機関で筆写して使われて利用に便利なように再編集した「海東輿地図」(3冊)系統が出てきて、民間でも活発に利用された。1834年には、金正浩が「海東輿地図」(3冊)系統の内容をそのまま継承しながらも、利用するのにより一層便利なように新しく編集した「青邱図」(2冊)を完成して世の中に出した。若干の位置変化があるが、これら地図の中の于山あるいは于山島もまた、申景濬の地図を基礎に編集したものなので、独島である。
    (イ・ギボン)

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  49. 反論74 

    「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」の 于山島は独島だ 

    この質問に対する回答は、「世宗実録地理誌」(1454)と「新増東国輿地勝覧」(1531)に収録された于山島の内容を理解することにより成り立たなければならない。そしてこの二つの地理誌であっても、先に編纂されたものは、後代のことを参照できないので、先に「世宗実録地理誌」を扱って、次にその内容を参照した可能性がある「新増東国輿地勝覧」を扱う順序にしなければならない。それなのに下條は、第一に、二つの地理誌よりはるかに後代に編纂された「東国文献備考」・「輿地誌」・「大東地誌」などの内容を混ぜてしまったし、第二に、「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」についても、順に理解しないで混ぜて説明する巧妙な方法を使って、質問を体系的に理解するのを難しくさせた。

    「世宗実録地理誌」の于山(島)・武陵 (島)記録を見れば、「于山・武陵二島が蔚珍県の正に東側の海にある(于山武陵二島在県正東海中)」は、本文の大きい文字で開始される。そして引き続き二行の小さい文字〔分註〕で、「二島は距離が互いに遠くなくて、天気がよければ眺めることができる(二島相去不遠風日清明則可望見)」と追加で説明している。下條はこの部分のうち、「二島相去不遠」を「(本土である蔚珍県から)二島は互いに遠く離れている」と、また「風日清明則可望見」を「天気がよい日には(本土である蔚珍県から二島を)遠く眺めることができる」という意味だと解釈している。

    「世宗実録地理誌」の記録は、先ずその自らの内容だけで解釈するべきで、それが難しい時にだけ、他の資料との比較を通じて調べるべきだ。ところが「世宗実録地理誌」に収録された「二島相去不遠風日清明則可望見」は、漢文の大家、あるいは初心者の誰が見ても、蔚珍県の正東側の海の中である于山と武陵という「二島は、距離が互いに遠くなくて天気がよければ眺めることができる」という意味で明らかであり、簡単に解釈することができる。そして蔚珍県正東側の海で「天気がよい日に互いに眺めることができる」二島も、鬱陵島と独島以外には設定することができない。下條は「世宗実録地理誌」に収録された前と同じ意味を違うように解釈するために、とんでもない後代に編纂された「新増東国輿地勝覧」の内容を引き込んで、なんとか他の論理を作ってみようという努力を傾けている。

    「新増東国輿地勝覧」の于山島・鬱陵島の記録は、于山島・欝陵島二島の名前が本文の大きい文字で同等に記されていて、二行の小さい文字が追加説明になっている。先ず「一説には武陵ともいい、一説には羽陵ともいう(一云武陵一云羽陵)」と始めた後、「二島は蔚珍県の正東側の海にある(二島在県正東海中)」という文章が出てくる。「世宗実録地理誌」のように、二島の距離関係が分かる内容はないが、「新増東国輿地勝覧」の編纂者が、蔚珍県の正東側の海に、于山島と鬱陵島二島があると認識したことを明らかにしている。

    引き続き、「三つの峰がまっすぐに湧いて空についているが、南側の峰が若干低い。天気が良ければ、山の上側の木と山の麓側の砂浜までまざまざと見ることができる。風が良ければ二日で到着することができる(三峯岌嶪橕空 南峯稍卑 風日清明 則峯頭樹木及山根沙渚 歴歴可見 風便則二日可到)」という文章が出てくる。ここで下條は「天気がよければ(風日清明)」との表現が、「新増東国輿地勝覧」での「朝鮮半島から鬱陵島が見える」という意味に連結されるので、「世宗実録地理誌」の場合も同一に理解しなければなければならないと主張する。全体的な文章の内容と構成が全く違うにもかかわらず、「天気がよければ(風日清明)」という短い表現が同一に入っているとして、同じ意味で理解しなければならないという主張を、果たして誰が受け入れるか、気になるところである。「天気がよければ(風日清明)」という表現は、「世宗実録地理誌」では、于山(島)と武陵(島)二島の間の関係の中で、「新増東国輿地勝覧」では、本土と鬱陵島の間の関係の中で使われたものであり、脈絡が全く違う。

    下條は「世宗実録地理誌」や「新増東国輿地勝覧」のような地理誌が編纂される時には、編集方針である規式があって、それにより編纂が成り立つが、島嶼の場合、管轄する地方官庁からの距離と方向が記載されていると言った。それと共に「世宗実録地理誌」の于山島を竹島すなわち独島だと理解する主張は、規式により島〔島嶼〕を記述する朝鮮時代の地理誌編纂方式を無視した恣意的な解釈だということを、若干嘲弄の混ざった語調で述べている。

    彼の主張のとおり、「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」などの地理誌を編纂する時、地方官庁からの距離と方向を記載するという編集方針すなわち規式があったことは正しい。そして最大限、規式に合わせようと努力したことは明らかであるが、「世宗実録地理誌」の場合には、資料の限界のために距離はなくて方向だけを記録した島、あるいは最初から方向と距離情報もない島の名前だけ記載した例があることは、少し調べるだけでも簡単に探すことができるほどに多い。下條はこのような調査もせずに論理を展開して主張しているのであるが、それは簡単に受け入れらてはおかしいことではないかと思う。若干嘲弄の混ざった語調で相手方を反論するには、それだけ自信があるのであれば、資料を詳しく几帳面に検討する姿勢を先に取ることを願うばかりである。

    最後に、下條は「「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」の蔚珍県条に、「于山と鬱陵は、本来は一島」として、于山島と鬱陵島を同島異名としていたのはこのためだ」という言及をしている。その前の内容がどのように叙述されていようが、「世宗実録地理誌」には「于山と鬱陵は、本来は一島」という言及は全くない。また「新増東国輿地勝覧」には「一説には于山と鬱陵が本来は一島だという(一説于山欝陵本一島)」という表現があるだけなのに、下條は「一説には」という部分を意図的に省略した。「一説には」を入れるのか入れないかにより、文章全体的には相当な意味の差がある。

    「新増東国輿地勝覧」には、「二島は(蔚珍)県の正しく東側の海にある(二島在県正東海中)」ことを前面に明らかに叙述して、「一説には于山と鬱陵が本来だ一島という(一説于山欝陵本一島)」という表現を後方に入れた。これは二島が違う島だということを定説にしながらも、同じ島と記録した文献もある、ということを共に表記して、「伝えられた内容を記述だけするだけで創作はしない」という東アジアの歴史叙述の伝統に忠実に従う編纂者の真正性を含んでいるものだ。下條は、このような記録文化の伝統を知らなかったのか、あるいは知りながらも無視したのか、それは分からない。
    (イ・ギボン)

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  50. 이기봉(イ・キボン)

    http://article.joins.com/news/article/article.asp?total_id=13432960&ctg=1200
    写真あり   漢字不明

    国立中央図書館 古書専門員 국립중앙도서관 고서전문원
    我が国の古地図と地名研究の専門家 우리나라 고지도와 지명 연구 전문가

    http://www.nl.go.kr/map/board/oldmap.jsp?mode=view&article_no=3048&pager.offset=20&board_no=56

    http://www.nl.go.kr/upload/nl/library/2012/2/13291873317841.pdf
    이기봉 (Lee, Ki-Bong)
    국립중앙도서관 도서관연구소 고서전문원 国立中央図書館 図書館研究所 古書専門員

    http://www.riss.kr/search/Search.do?queryText=znCreator,%EF%A7%A1%E5%9F%BA%E5%A5%89&searchGubun=true&colName=re_a_kor

    http://m.riss.kr/search/Search.do?queryText=znCreator,%EF%A7%A1%E5%9F%BA%E5%A5%89&searchGubun=true&colName=re_a_kor&detailSearch=true

    このブログの中
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/06/2010-dokdo-institute-of-yeungnam.html

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2010/06/2010-dokdo-institute-of-yeungnam.html#uds-search-results

    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/11/1861-daedong-yeojido-ulleungdo.html

    関連
    http://dtot1700.wiki.fc2.com/wiki/100620-00

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  51. 反論20

    日本人たちは鬱陵島から侵奪し始めた

    鬱陵島は、朝鮮時代、太宗代に実施された刷還政策で無人島になったが、沿海民の往来は断絶しなかった。 16世紀になると、倭寇も消滅したので、海禁政策も緩和された。17世紀末「鬱陵島争界」、いわゆる「安龍福事件」が起きたことは、それだけ朝鮮沿海民の鬱陵島往来が活発だったことを見せてくれる。

    近代期に、鬱陵島開拓令が下されて、沿海民の鬱陵島移住が本格化した。
    1880年前後、日本人たちが竹島あるいは松島の名前で開拓願を提出した時期は、朝鮮が鬱陵島を正式に開拓する前であったし、この時の日本人たちの浸透は全面的に不法だった。「百問百答」で「議定の義」云々というのは、日本が日本人の鬱陵島渡航禁止措置を取ると約束した事実などをいう。それでも日本人の渡航は続いた。 1880年代初めだけでも、鬱陵島で不法に伐木と漁労をした日本人の数は330人を上回った。特に日本人による木材不法搬出は深刻で、両国間の外交問題に飛び火した。

    1880年代後半からは、アワビ採取のために大規模な漁船団が鬱陵島に入ってきて、島の住民の穀物を奪ったり、民家を打ち壊す悪事もためらわなかった。日清戦争以後、日本人は急激に増えて、槻木の不法搬出による葛藤が生じ、島監・裵季周は不法搬出された木材を探すために、日本で訴訟を提起することもした。

    本来、非開港場である鬱陵島で、日本人の定住と交易は不法だ。彼らは不法行為の黙認を受けるために、2%の手数料を納付することを志願したが、当時開港場の関税が5%であったことに比較すれば、非常に低い税率を納付して資源を侵奪して行ったのだ。一方、日本外務省はこの手数料を意図的に「輸出税」と称して居住権を主張するのに利用した。日本人が輸出税を納付したことは、日商組合の規約に見え、この組合は1905年にも持続していた。日本が、日商組合と日本人会が「一定の自治と刑事、流通業を整備し、基礎的な農業と漁業や初歩的なその他の産業を展開するのに便宜を施した」と主張する点は一面は正しいが、一面は間違いだ。韓人が日本人船舶やインフラの恩恵を見たという点を全面否認することは難しいが、その目的は日本人の収奪のためのものに帰結されたためだ。

    1900年の勅令第41号は、表面的には鬱陵島の行政的昇格だが、根本的な目的は、日本人の侵奪を根絶しようとすることだった。しかし、日本は日本人の滞留を既定事実化するために、1902年3月、自国民を保護するという名目で警察官駐在所を新設し、警部と巡査3人を鬱陵島に駐在させるに至った。 鬱島郡守は、警察官が韓人を連行するなどの悪事を上部に報告し、韓国政府は条約違反として抗議した。日本は日本人取り締まりのために設置したと言うが、それが韓人を圧迫して取り締まるのに影響を及ぼしたのは、以後の植民地化の歩みを見ても明らかだ。

    1914年に鬱陵島でなされた土地調査事業は、結局、日本人たちが国有地と保安林を口実に韓人の耕作を禁止させるのに利用された(「東亜日報」、1927年8月10日)。漁業も同じだ。1923年の雑誌に「(鬱陵島が)烏賊魚の産地というが、その利益が誰の手に入り、本水が名産というが資本主義を発揮して利権を先取する者は誰か?”(「開闢」第41号、1923.11.1.)とあることは、日本人の侵奪状況をよく見せている。

    鬱陵島の日本人が韓人に運送手段の提供、漁業技術の伝授などで便宜を施した事実をもって、彼らの間の関係が平穏な共棲関係だったというのは、勢力関係と資源侵奪を見逃した論理ということができる。
    (柳美林)

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  52. 反論32

    韓国はずっと昔から独島を認識していた

    韓国は昔から独島を認識していた。「世宗実録地理誌」には「二島が(蔚珍)県の正東の海にある。〔二島の距離は遠くなくて、天気がよければ眺めることができる。新羅の時は于山国と称したが、鬱陵島ともいった...〕」と記録されている。題名が「于山・武陵 (于山武陵)」になっているが、于山は于山島を、武陵は鬱陵島を示す。ここに出てきた「于山島」が鬱陵島のそばの竹島 (テッソム)を示すのではないことは、二島の距離が遠くなくて、天気がよい日にだけ見える条件を満たさなければならない島だということから知ることができる。竹島は鬱陵島の近くにあって曇る日にも見ることができるからだ。

    日本は、我が国が于山島は独島だと主張する根拠を1770年代の文献に置いているので、18世紀の文献を15世紀の文献の根拠に利用するのは問題があると批判する。日本が取り上げ論じる18世紀の文献というのは「東国文献備考」を言うが、「東国文献備考」の「輿地考」の部分は、申景濬が自身の「疆界誌(疆界考)」を底本にして作った。ところで同じ筆者が執筆した二つの文献に引用された「輿地志」の内容が違うので、日本は申景濬が「輿地志」の内容を改竄したと批判している。果たしてそうであったのかは疆界考と「東国文献備考」の「輿地志」引用文を比較してみれば知ることが出来る。

    「疆界考」: 私が調べると、「輿地志」が言うには、「一説に『于山と鬱陵は本来一島だ』というが、色々な図志を参考してみれば二島だ。一つは彼らが言う松島であるが、概して二島は全部于山国だ」と言った。(按輿地志云一説于山欝陵本一島而考諸図志二島也一則其所謂松島而盖二島倶是于山国也)

    「東国文献備考」: 「輿地志」が言うには、「鬱陵と于山は全部于山国の土地だ。于山は日本が言う松島だ」と言った。(輿地志云欝陵于山皆于山国地于山則倭所謂松島也)

    申景濬は、二つの地理誌を著述するのに、李孟休の「春官志」を参考にした。ところが「春官志」は、鬱陵島と于山島に関して「新増東国輿地勝覧」の内容をそのまま踏襲している。すなわち「新増東国輿地勝覧」に三峰島が見えたが、李孟休はこれを于山島、鬱陵島と同一に取り扱ったのだ。 一方、申景濬は三峰島という名称に対して疑問を抱いて、この島が鬱陵島なのか于山島なのか、あるいは第3の他の島なのかを検討した。彼は文献を考察して自身と同じ疑問を抱いた者があったことを知った。まさに「輿地志」の著者であった。

    「輿地志」の著者も、于山と鬱陵が同じ島なのか疑問を抱いたが、結論は違う島であるとして、そのうちの一つを日本人が松島と呼ぶという事実まで知ったのだ。申景濬はこの点に着眼して、「按輿地志云」の形式で自身も2島説を主張するに至ったのだ。

    日本は「輿地志に『一説に于山と鬱陵は本来一島だ』としたが、色々な図誌を参考にすれば二島だ。一つは倭が言う松島であり、概して二島は全部于山国だ。」と解釈した。これは、翻訳自体が誤りであった。一説がどこまでか、そして「輿地志」の著者の見解がどこまでかが明らかでない。「輿地志」の著者の見解を『一説に于山と鬱陵は本来一島だ』と言ったと見たとすれば、これは「輿地志」の著者が引用した一説であるだけで「輿地志」の著者の見解ではない。

    著者が、普通、文を作って一説だけ引用だけし、自説を明らかにしないまま文章を結ぶことは珍しい。したがって「色々な図誌を参考にしてみれば二島だ。一つは彼らが言う松島であるが、概して二島は全部于山国だ」とある内容が、「輿地志」の著者の見解となる可能性が大きい。ただし、この時も「輿地志」の著者の見解がどこまでかに対しては、論議がありうる。すなわち「一つは日本が言う松島であるが」までなのか、あるいは「概して二島はみな于山国だ」までなのかについては、意見が分かれる。

    韓国の歴史学者、宋炳基は後者と解釈した。筆者もこれに従った。その場合、申景濬も「輿地志」の著者の見解を「概して二島はみな于山国だ」まで報告そのまま従ったことになる。それならこれは改竄でなく改撰ということがより妥当だ。

    「新増東国輿地勝覧」の内容を解釈する場合にも、文章に書いてある通り解釈すれば良い。「新増東国輿地勝覧」の内容は、鬱陵島についての説明であり、「世宗実録」の内容は、二島が晴れた日に見えるということを主説としたうえで「一説には鬱陵島とも言った」ということを、一説で取っただけのことだ。「東国文献備考」で輿地志を引用したのも前の二つの地理誌とは違った脈絡なのに、これらを共に同一視するのは正しくない。

    日本は、于山島が独島であることを否認するために「太宗実録」と「世宗実録」の記事を引用した。ここに出てきた「于山島」を「世宗実録地理誌」と「新増東国輿地勝覧」の「于山島」と同一視するが、これもやはり別の内容だ。男女あわせて86人が住んでいて15家戸があると言った時の于山島は、鬱陵島を示すと見なければならない。「于山島」という呼称が出てきたからといって、無条件これを他の記録の「于山島」と同じものだと扱ってはいけない。文献解釈は文献に記述された通り解釈することが最も正しい方法である。
    (柳美林)

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  53. 反論11

    日本人たちによって絶滅した独島アシカ


     アシカは独島を始めとする東海沿岸で群として棲息していたオットセイ科の哺乳類だ。餌が豊富だった独島周辺海域で棲息し始めた時期は数千年前からと推定されるが、記録に登場するのは1600年代からだ。

     私たちの記録には、1694年張漢相が鬱陵島を調査して三陟に帰還し、鬱陵島の地形と植生などを記録した『欝陵島事蹟』(注3)にその内容を探してみることができる。『欝陵島事蹟』には「魚類では可支魚だけがいるが、浜辺の石の小山に十匹または、百匹ずつ群がって穴居していて、大きいものは小馬や小牛ぐらいで小さいものは犬か豚くらいです。」(注4)とアシカについて描写している。日本の記録には、徳川幕府の時、米子の大谷・村川の二家族が灯火用の油として鬱陵島などで採取したと伝えられる。

     数千年前から独島周辺に棲息していたアシカの個体数は1900年頃に絶頂を成し遂げて、1904年から1911年までの8年間に独島で捕獲したアシカの数は何と1万4千頭に達した。8年間の捕獲数を見れば、1904年から1908年までは年平均2,000頭以上を捕獲したが、1910年から1911年までは前半に比べて3分の1以下に急減して600~700匹を捕獲した。 また、1915年から1916年までは200~300頭、1930年ごろには100頭余りを捕獲し、1941年には20頭余を捕獲してサーカス団に売ったと島根県資料(注5)は伝える。

     以上の資料を根拠として、韓国が独島でアシカが絶滅した原因が日本にあることを主張するや、島根県は『百聞百答』を通じて「1954年にも200~500頭が棲息していた」というとんでもない数字を出して、あたかも独島アシカの絶滅原因が日本とは関係がなく韓国にあるように糊塗した。実際、韓国では独島義勇守備隊が独島に入って活動した1950年代初期まで20~30匹のアシカを目撃したという陳述があって、1970年以後完全に痕跡をなくした。しかし、韓国では日本のようにアシカを捕獲して革や油として使った例は一切ない。したがって、産業化が発達した1970年代以後、環境の変化に伴う自然消滅と見なければならない。

     むしろ、アシカ絶滅に対する憂慮は1900年代初期に日本で提起された。中井養三朗が1904年日本政府に提出した「リャンコ島領土編入及び貸下げ願」には、アシカに関連して、「年間雄500頭以内、雌と子はそれぞれ50頭以内、計600頭以内で捕獲すること」等アシカ捕獲数に制限を設けた。特に、中井は雌と子を保護して絶滅を避けなければならないと主張した。




    (表)(翻訳では省略)



     しかし、日本の漁業者たちは自分たちが設立した会社の資料よりも隠岐島庁に提出する捕獲数を少なく報告しながら大量捕獲を行い、特に雌と子を保護せずに無分別に乱獲した。1908年の場合を見れば合計1,890頭を捕獲しているが、この中で雄は273頭だけで雌と子は1,617頭であった。それだけでなく333頭の子アシカのうちには幼いアシカ123頭、乳児アシカ37頭、胎盤アシカ173頭も含まれていて、アシカの種を減少させて行ったことを見せている。
     その結果は長くせずに現れた。1904~5年に2,700~2,800頭を捕獲していたのが、わずか5年後の1910~11年には600~700頭に急減し、1920~30年代には100頭余り、1940年代には20頭余りに減り、結局は独島からアシカが消えることになった。

     このように、日本が数千年の間独島に住んだアシカの種を1900年代初期に大量に捕獲したうえに雌と子まで乱獲した結果、半世紀も過ぎずにアシカの種は絶滅状態となった。
    (イ・ソリ)




    (注3) 『欝陵島事蹟』 :三陟営将張漢相(1656~1724)が1694年9月20日から10月3日まで鬱陵島を調査して残した記録。外後孫シン・クァンバクが筆写したものが伝えられる。(訳註)
    (注4)柳美林『我が史料の中の独島と鬱陵島』知識産業社、2013,p.352( 訳註)
    (注5)田村清三朗、島根県竹島の新研究[復刻版]、島根県総務部総務課、2005年第5刷
    (注6)田村清三朗、前の本で要約整理。個別数字と合計の数字が合わない場合がある。例えば1904年の場合、「雄850、雌900、子1,000、合計2,760頭」と記録しているが、個別数字を合計すれば2,750頭だ。したがって、日本の資料を引用する時、個別数字はそのまま写したが、これを合計した数字は訂正して表記した。(訳註)
    (注7) 1905年の場合は中井が漁業会社を設置する前に他の漁業者たちがアシカを捕獲して「三百数十頭」、「二百余頭」のような形で記録しているので、「2,800以上」と表記した。(訳註)

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  54. matsuさん、Chaamieyさん

    すごいペースですね。無理はしないようにして下さい。
    あと、こういうものの議論はやはり投稿日時で整理されるブログ形式だとやりにくいので、何か良い方法はないかと思案中です。

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  55. 反論73 イ・キボンについて

    「記述だけするだけ創作はしない(述而不作)」(述して作らず)が東アジアの歴史叙述の伝統であるとしたら、そこから、「自分の頭で考えない」文化の伝統が生まれているわけで、早くそこから抜け出さなければならないでしょう。

    「報道資料」に書いてあることをそのままに、自分の頭で考えることもせずに報道する韓国の新聞やテレビの姿勢も、そのような「伝統」から来ているのかも知れません。

    日本は早々に「脱亜」していると思いますが、韓国も早く、科学精神をもった文明国になってほしいものだと思います。


    さて、ここで注目されるのは、「于山島」の取り扱いです。

    これまでは「朝鮮前期」の史料に出てくる「于山島」も、そのまますべて独島に当てはめていたようですが、さすがに「人が住んでいる」ので、それは無理と思ったか、鬱陵島のファントム(影)としての于山島を認めているように思われます。

    そして、「所謂于山島」を竹嶼(テッソム)にあてはめることで、鄭尚驥以降の于山島を独島に引き戻そうとしています。

    1711年に竹嶼を于山島と呼んでいたことを地図から証明したのは、まさにゲリー・ビーバーズさんですが、もはやこれを否定できなくなり、「『所謂』于山島」という概念を新たに持ち出して、切り抜けようとしているようです。


    鄭尚驥と李瀷が「友人」だということから、安龍福の意義を再評価した李瀷の考えを、鄭尚驥は引き継いだのではないか、というのは韓国側には「突破口」になるのでしょう。

    安龍福のいう「松島」は、現竹島であることは「村上家文書」から動きませんから、安龍福が、その松島を、「新増東国輿地勝覧」系統の「八道地図」にのる「于山」(彼の理解では「子山」)と理解(あるいは『誤解』)したことが、そのまま彼の言葉として記録され、それが李瀷を通して申景濬にも伝わった、ということなのでしょう。

    ただし、この于山は、あくまで李瀷や申景濬の観念の中の世界であり、実際にそこに行って、何らかの活動をしたり、記録したという記録はありません。

    申景濬の「朝鮮地図」が、于山を竹嶼からやや遠くに描いているだけで、(竹嶼はなくなり)
    現竹島=独島の実態を知っているとは思えない位置と形に置いていることは、その空想性をよく現わしています。

    捜討官は誰も独島に行かなかった、ということだろうと思います。「鬱陵島」の範囲を東西・南北、何十里、であらわした彼らの報告の記録が、現竹島=独島は決して捜討官たちの視野には入っていなかったことを証明しています。

    その「鬱陵島」がそのまま鬱島郡になった。だから、「鬱島郡」には現竹島=独島は含まれません。


    日本が「松島」という名前を忘れてしまって、「リャンコ島」を領有したのだとすれば、
    韓人が1904年に「独島」という名前で理解していた島を、「于山島」と結びつける記録は、戦後の1950年代まで出てきません。


    そもそも、竹島・松島を一組のもの、と理解していたのは、まさに日本側なのであって、朝鮮側に、鬱陵島・独島が「一組のもの」という理解を示す記録は、安龍福を除いてありません。

    それが、李瀷→申景濬(『東国文献備考』)→『萬機要覧』→『増補文献備考』と、何ら批判を伴わないコピペ作業として伝わって行っただけです。

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  56. イ・ソリ 慶尚北道庁 独島政策課

    「太政官指令と安龍福」講演
    子どもたちに講演します。
    http://vimeo.com/64869913
    태정관지령과 안용복 - 이소리 경상북도청 독도정책과
    https://www.youtube.com/watch?v=MQNxMrejQwU
    https://www.youtube.com/watch?v=BzEIfLunyUg



    「慶尚北道庁 独島政策課」の名簿のようです。
    http://www.gb.go.kr/open_content/about_gb/gb_guide/part.jsp?dept_code=6471084&dept_name=%B5%BF%C7%D8%BE%C8%B9%DF%C0%FC%C3%DF%C1%F8%B4%DC&dept_code1=6471103&dept_name1=%B5%B6%B5%B5%C1%A4%C3%A5%B0%FC

    県庁のお役人、ということだと思いますが、独島専門担当者がこんなに大勢いるとは! 

    イ・ソリさんは「契約職」ですね。お仕事は
    ○独島関連 史料収集および学術調査研究
    ○独島領有権関連 対外協力に関する事項



    イ・ソリさんとは直接関係ありませんが、安龍福のアニメがありました。
    https://www.youtube.com/watch?v=X2x9f9BZvDw
    島根県がシネマ県になっています。 
    隠岐島 北浦(ほくうら)にある隠岐島主の自宅
    鳥取県米子にある米子城主の自宅 モデルは大阪城か
    鳥取藩の太守の自宅 モデルは姫路城か
    鳥取藩 まちかいしょお 姫路城の形をした「町会所」
    鳥取の伯耆国赤崎 なぜか金閣寺

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  57. 未翻訳 33本

    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬) 19本
    23、25、26、27、30、33、38、39、40、41、43、44、49、50、51、52、53、54、55、


    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)  11本
    36、37、61、62、63、75、80、81、82、84、85

    イ・ソリ(이소리) 3本
    13、87、88~102

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  58. 反論13

    独島アシカに目をつけた欲心の多い日本漁師


     島根県は、1905年、独島を「主人のいない島」という名目を立てて日本領への不法編入を断行したが、その裏には日本漁師の独島漁場に対する独占欲が位置している。 日本ではこの欲心の多い漁師中井養三郎を独島に関連した主要人物として扱って、彼の履歴と活動などを詳細に紹介している。

     『中井養三郎立志伝』などの記録から見ると、中井は零細漁民ではなく当時としては先端漁業技術を導入して市場を切り開くなど、かなり大規模に漁業に参加した人物だ。1892年にはロシアのウラジオストックまで進出して潜水機漁業で大きな所得を上げた。1893年にロシア政府が漁場保護のために潜水機漁業を全面禁止するや、朝鮮漁場に目を向けた。初めは韓半島の忠清道、全羅道の沿海漁場に進出したが、1895年から1902年の間に隠岐を根拠地として鬱陵島、独島の沿海を往来して潜水機漁業を継続した。

     このような理由から、中井は鬱陵島と独島の位置はもちろん、独島に群がって棲息するアシカの存在を知っていた。1903年5月には独島に漁師10人余りを連れて行ってあなぐらを作ってアシカ漁に着手した。この頃は露日戦争が差し迫っているという噂が盛んだった時なので、オイル価格と革値が急騰していた。したがって、独島には隠岐出身の漁師の他にも山口県出身の漁師まで競争のようにアシカ漁に参入した。 競争的な乱獲による収益減少を憂慮した中井は、独島でのアシカ漁業の独占権を狙うようになった。

     1904年9月、彼は独島の貸下げ(賃貸)を朝鮮政府に請願するために東京の農商務省水産局を訪問して独占権獲得のための方法を探していた。当時、露日戦争の最中だった日本は、戦争遂行の戦略的な立場から独島に対する軍事的利用価値を発見して中井の賃貸請願書を「領土編入請願書」に変更させ、中井は最終的に1904年9月29日「リャンコ島領土編入及び貸下げ願」を日本政府に提出した。題名に見るように、独島を日本領土に編入して自身に貸し下げてほしいというものだった。日本は、1905年1月、閣議決定を通じて独島を不法編入することになる。

     このような事情と関係なく、中井の関心はひたすら独島でのアシカ漁業の独占権だった。領土編入を断行して4ヶ月後の1905年6月、「竹島漁猟合資会社」が設立された。中井はもちろん独島に渡航し、3ヶ月間独島を行き来して1,000匹を捕獲した。 この中で雌と子がその半分を占めたが、これは彼が唱えた制限数字より何と5倍も超過したのだ。 それだけでなく、【反論11】で言及したように、彼が主唱したアシカ保護策は一時たりとも実行されることはなかった。

     中井と日本の漁業者が「アシカ保護法」を有名無実化して数千年間独島に棲息した独島アシカの種を絶滅に追いやった原因は、島根県の広報資料(注8)に見ることができる。無分別に多量のアシカを乱獲した日本の漁業者たちは、アシカを利用して油を得たし、革で皮革製品を作り、肉は肥料に使ったという。1935年には29匹を捕獲したが、その値打ちを今日の金額に換算すれば2,030万円(約2億3千万ウォン)ということだったので、単純比較は難しいが、彼らが独島でアシカを捕獲して得た収益を推測して察することができる。

     以上のように、中井は収益だけを追う一介の漁業人であり、競争的な乱獲の中で自身の利益だけのために独占権を取得しようとするなど欲心が過ぎた人物だった。また、自身の欲を隠して美化するためにただ一度も実行できない「アシカ保護法」を「貸下げ願い」において主唱した用意周到な人物だった。

    (イ・ソリ)




    <コメント>
     島根県の『竹島問題100問100答』が中井養三郎を取り上げたのは、たぶん、正当な竹島領有権の発端となった中井という人はどういう人物であったのかを紹介したいと考えたからでしょう。
     ところが韓国の場合、いくら中井を悪しざまに罵っても、それで「独島領有権」とやらができ上がるわけでもありません。


     ただ今翻訳ペース、ダウン中。

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  59. matsuさん、

    イ・ギボンさんはこの(注5)の人ではないですか。


    それから、パク・ジヨン氏は、KMI『独島研究ジャーナル』http://www.ilovedokdo.re.kr/Boards.do?command=List&bid=journal01

    2013-25号の“朝鮮八道各邑名山道里” (78ページ、PDFでは40ページ)の人のようです。

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  60. ワードの文書ですが翻訳いただいたものを差し替えようとしたら、なぜか途中で止まってしまってアップロードできません。
    しばしお待ちを。

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  61. 安龍福は、すこぶる大きな島だと言ったわけで、これは現竹島の形状とは相容れません。まともに取り合うのもバカらしい気がします。

    それにしても、竹島問題に関しては、なぜか日本の世間は暢気なものです。

    我々だけが、あんまりやきもきしすぎるのも健康に悪そうです。

    昨日今日の2本のニュースを投稿します。

    国が竹島問題発信へ事業に着手
    2014.06.24

    竹島の領有権などについて日本の立場を世界へ発信するため、国が初めて竹島問題の本格調査を始めることが決まりました。
    山本一太領土問題担当大臣は24日の会見で、竹島や尖閣諸島について日本の立場を国の内外に発信するため、今後国の事業として竹島問題の調査に乗り出す考えを明らかにしました。
    竹島問題については、これまで島根県が研究会を設置するなどし、領有権の根拠などを独自に調査・発信してきました。
    一方政府は韓国への外交的配慮からこの問題に及び腰でしたが、今回、調査に乗り出すことで国際社会に対して日本の立場を強く示すことにもなります。
    http://www.tsk-tv.com/?m=news&f=20140624&n=1

    もう1本のNHKローカルニュースの元記事はもう消えてしまいましたが、
    http://www3.nhk.or.jp/lnews/matsue/4035417671.html?t=1403554452000
    ”竹島の本”を韓国が無断掲載

    竹島を巡る問題の調査・研究を行っている「島根県竹島問題研究会」の委員らが執筆した本の「竹島問題100問100答」の内容が韓国のホームページに無断で公開されていることがわかり、研究会などでは今後の対応を検討しています。

    県の竹島問題研究会は、竹島問題について歴史や状況について解説した 「竹島問題100問100答」を編さんし、ことし2月、東京の出版社が出版しました。
    これに対し韓国のキョンサン北道トクト政策官室は反論する内容の本を今月5日に非売品として200部出版し、今月中旬頃、ホームページにも掲載しました。
    この中で研究会の委員が執筆した内容が韓国語に翻訳され写真や図表などもそのまま使用されているということです。

    韓国のキョンサン北道トクト政策官室は「反論を書く場合には、何に対して反論しているのか原本をそのまま提示するのが正しいと考えた。出版社にファックスや郵便で2度問い合わせをしたが、返事がなかった」と話しています。

    島根県竹島対策室の大西安伸室長は、「『竹島問題100問100答』は、竹島問題の啓発本として県もバックアップして発刊している。図表や写真が転用されているので今後の対応を研究会や出版社と考えたい」と話しています。県竹島問題研究会では、来月開かれる会合で内容や今後の対応について協議することにしています。
    06月23日 22時18分

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  62. 訂正(24/6/14 22:18のコメント)

    “朝鮮八道各邑名山道里”は2013-25号ではなくて2013-22号でした。失礼。

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  63. 反論23

    サンフランシスコ講和条約で独島はどのように盗取されたのか?



     第2次大戦が終了した後、アメリカを始めとする連合国は1946年下半期から対日平和条約を締結するための議論を始めた。
     初めはアメリカ国務部内で草案が作られ始めたが、1947年3月20日付で作成された最初の草案では済州島、巨文島、鬱陵島及び独島を韓国の領土として明記した。このような認識は、連合軍総司令部指令第677号と第1033号の脈絡を継承したものだった。
     以後、日本は1947年6月に「日本本土に隣接した小島(Minor Islands Adjacent to Japan Proper)」という小冊子を発刊して独島は日本の領土だと主張したが、同年8月5日付、翌年の1948年1月2日付、1949年10月13日付、1949年11月2日付など一連の草案では変わりなく独島は韓国の領土と明記された。
     すると、日本は当時駐日米政治顧問官だったシーボルドに独島を日本の領土として明記してほしいとロビーをすることになった。これに対しシーボルドは、前記した(反論22)ように、独島を日本の領土としなければならないという内容の文書を二回も国務部に送った。

     ここで、私たちは、シーボルドがどのように独島に対する日本人たちの権利主張が古いものであると把握したのか、疑問を持たざるをえない。前後の状況を見渡してみれば、これは日本外務省が意図的に刊行した「日本本土に隣接した小島」という小冊子及び1905年島根県の編入以後自分たちがアシカを捉えるなど実効的に支配してきた、などの主張に基づいているのは明白だ。加えて、日本が独島が日本の領土になればアメリカがそこに気象やレーダーの基地を建設することもできるという言質まで与えたことによって、シーボルドが積極的に取り組まないわけにはいかなかったように見える。

     ところで、シーボルドは1905年の島根県の編入が不法なものであったかについて全く疑わなかったし、関連文書でリアンクル岩(Liancourt Rocks)あるいは竹島という用語だけを徹底して使い、独島(Dokdo)という用語はただ一度も使わなかった。このために、米国務部では、最初は韓国が主張する独島がリアンクル岩あるいは竹島と同じ島なのか正しく知ることもできなかった。その結果、1949年12月29日付草案では竹島(リアンクル岩)は日本の領土だと明記されたのだ。もしこの時、韓国政府が日本がリアンクル岩または竹島という名前を使って独島を盗取しようとしているという事実を知ったとすれば、島根県の編入が韓国の固有領土である独島を露日戦争の必要性によって奪取した明白な国際法上の不法行為という事実を各種資料とともに説得力をもって提示しただろう。そうなったとすれば、アメリカはラスク次官補の書翰文のようなものは作らずに、以前の草案と同じ脈絡の草案を作成しただろう。

     よって、1949年12月29日付草案やラスク次官補の書翰文は日本政府の欺瞞によるアメリカ政府の錯誤あるいは詐欺による結果であるから、条約法に関するウィーン協約第48条や第49条によって無効ということができる。
     蛇足だが、仮にサンフランシスコ講和条約に独島が日本の領土だと明示されたとしても、同条約第21条によって韓国は同条約による利益(benefits)だけを享有できるのであって損害を被ることはないので、独島は日本の領土になることはできない。これは条約法に関するウィーン協約第34条および第35条によっても明白だ。
    (キム・ビョンリョル)

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  64. 小嶋さん

    「魚拓」ありがとうございました。2本目のもと記事はもうないですね。貴重な記録になりました。

    教えていただいた対馬藩の史料 古文書4013号、池内敏論文に紹介されていました。
    『竹島問題とは何か』 本文69p
    第三章 注23 335p 考証は 336p
    全文翻刻があります。

    この考証により、「1722年」は、明らかに誤りです。

    この情報も、池内先生から、ぜひとも韓国の友人にしっかり伝えておいてもらいたいものです。こうした明らかな誤りが、この「反論本」から、また韓国に広がってしまいます。

    この対馬藩の文書で、「松島」については、具体的な日本漁民の体験からの記述であるのに対し、当時対馬藩が参考にした「朝鮮の地図」に蔚陵と于山が見える、とあるのは地図上の観念の情報です。

    この朝鮮の地図にあらわれる「于山」は、「新増東国輿地勝覧」の「八道地図」系統で、「鬱陵島の影」としての、実在しない島です。ちょうど実在しないアルゴノートが、情報の誤りで地図上に載ってしまっていたように、当時の朝鮮王朝の情報の混乱から地図上にあるだけのものです。

    同じ「于山島」でも、時代によって意味するものが違う、というのは、
    韓国側の「ごり押し主張」をする人たちにも噛みしめて欲しい言葉です。

    柳美林反論32の結論
    「于山島」という呼称が出てきたからといって、無条件これを他の記録の「于山島」と同じものだと扱ってはいけない。文献解釈は文献に記述された通り解釈することが最も正しい方法である。


    「世宗実録地理誌」や「新増東国輿地勝覧」の「于山島」は、鬱陵島の「影」であり、実在しないことを認めるべきです。

    この対馬藩の4013号をもって、「松島が于山であると朝鮮側が認識していた」と言える史料ではありません。

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  65. Chaamiey様

    たしかに、이기봉(イ・キボン)は「李起鳳」でした。

    (注5)李起鳳2009『国立中央図書館所蔵 独島関連資料解題集(古文献編)』、国立中央図書館、pp.36~38.

    昔、自分でたどりついていた結果を、はや忘れ果てている、というのは情けないことでした。

    「李起鳳」で検索すると、以下のものがありました。

    地理學論叢
    新羅 王京의 範圍와 區域에 대한 地理的 硏究 = Geographical study on the boundary and the administrative district of the capital of Shil-la Dynasty / 李起鳳 [著]

    http://lib.ewha.ac.kr/search/detail/CATTOT000000739781?mainLink=/search/tot&briefLink=/search/tot/result?q=AUTH140177_A_st=EXCT_A_dq=%EC%9D%B4%EA%B8%B0%EB%B4%89+%EF%A7%A1%E8%B5%B7%E9%B3%B3%2C+1967-._A_si=18

    また、

    http://lib.ewha.ac.kr/search/detail/CAT000001137936
    울릉도•독도 고지도첩 발간을 위한 기초 연구
    『鬱陵島・独島 古地図帖発刊のための基礎研究』
    서울 : 한국해양수산개발원, 2007.
    「ソウル・韓国海洋水産開発院 2007」

    김기혁 金基赫, 1953-.
    오상학 吳尙學, 1966-.
    이기봉 李起鳳, 1967-.

    錚々たる名前が並んでいます


    さらに

    李起鳳氏(ソウル大学奎章閣・歴史地理学)
    http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/ezuchizu/newsletter3.html
    2003年のもので古い肩書になっています。
    京都大学のサイトと思いますが、日本の学者たちとの交流もあることが分かります。
    ここには「楊普景氏(歴史地理学)」の名前もあり、「故李燦氏」以来の、日韓の地理学者の交流があるようです。

    この人たちの間で、「于山島」をめぐる議論を学問的に行なうことができれば、
    韓国側の誤解も解けていくのに、と思います。



    小嶋さん紹介の最初のニュース
    「政府は韓国への外交的配慮からこの問題に及び腰でしたが、今回、調査に乗り出すことで国際社会に対して日本の立場を強く示すことにもなります。」

    日本の行う「調査」に、学問的な交流も是非入れてほしいと思います。
    一方的な韓国側の情報操作は、日本側の学者の検討が入ることで、ウソから離れ、学問的な事実関係の確定につながると思います。

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  66. 池内敏論文『竹島問題とは何か』 第四章『隠州視聴合記』の解釈をめぐって

    102p
    ここに記された「此州」とは、文脈からいって「隠岐国」としか読みようがない。

    103p
    問題の「此州」とは「此国(隠岐国)」としか読みようがない。


    いまだに「隠岐島」と読んでいる友人に警告を発してもらいたいものです。

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  67. NHKインターネットローカルニュースの消去の疾さはまさに風の如きです。

    韓国のキョンサン北道トクト政策官室
    という無神経な字句を用いているので猶の㕝かも知れません。

    matsuさん
    對馬島宗家文書4013号についてですが、その冒頭の省略された部分がわかれば御教示下さい。

    朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候、
    (中略)
    杏?ニ相見申候。

    また日付に関して、引用では「八月」とされていましたので、Chaamieyさまが教えて下さった、天保七年(1836年)七月十七日という日付は有り難いです。これを頼りにそれ以前になされた筈の、幕府からの質問照会の文書も見つけるべきだと思います。

    この日付前後の、幕府の老中奉書は、九州国立博物館の対馬宗家文書データベース
    新帳長持の収蔵品番号 P49 箱33
    新帳長持の収蔵品番号 P48 箱34
    にあるということで調べてみましたが、存在していませんでした。
    幕府からの御下問状の方も韓国に死蔵されているのかもしれません。

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  68. 余裕がないので、翻訳のみで失礼します。



    反論25

    米軍の爆撃訓練区域に指定された背景は何か?



     1947年9月16日付連合軍総司令部指令第1778号によって、独島は在日米軍の爆撃訓練場に指定された。ここにはいくつかの釈然としない点がある。
     まず1946年1月29日付連合軍総司令部指令第677号で独島は日本の領土から除外され、これを1946年6月22日付指令1033号で再び確認したが、どのようにして1947年9月16日付指令第1778号で在日米軍の爆撃訓練場になったのかという問題だ。もし連合軍総司令部が独島は韓国の領土でなく日本の領土だと知っていたとすれば、以前に発令された指令第677号と第1033号を廃棄する措置を先に取るべきだった。そして、アメリカは1948年6月8日独島爆撃事件で私たちの漁民が被害をこうむった時(日本領土である独島に私たちの漁民が不法に入って操業をしたことになるので)米軍が賠償する義務は無かったにもかかわらず、謝罪と賠償はもちろん、直ちに独島での爆撃演習を中断した。このような事実は、指令第677号と第1033号が指令第1778号によって廃棄されたわけではなく、引き続き有効だったが何かの錯誤によって第1778号が発令されたということを意味する。

     ところが、これに対する疑問点はその後の日本の衆議院会議録で糸口が解ける。サンフランシスコ講和条約で独島を日本領と認められることに失敗した日本人たちは、独島を米軍の爆撃基地として提供することによって自分たちの領有権を認められようとした。実際、講和条約締結当時、日本は自分たちの激しい努力にもかかわらず独島を日本領と明記するのに失敗したので、独島は韓国領に含まれると分かった。これは1952年4月に発行した毎日新聞社の「対日平和条約」というパンフレットを見れば明白だ。
     
     それにも拘わらず、これを米軍の爆撃演習基地として提供すれば日本の領土との確認を受けることもできそうだという悪賢い術策によって、日本人たちはまず爆撃演習基地として提供しようとした。これは、1952年5月23日第13回衆議院外務委員会で山本議員が「今回の日本駐屯軍演習地指定に関連して、独島周辺が演習地に指定されればこれを日本の領土として確認を受けやすいという発想から外務省では演習地指定を強く願っているという話があるが、事実ですか?」と質問したことに対して、石原外務省政務次官が「概してそのような発想で多様に推進していると承知しています」とした返事に明確に現れる。

     推測してみれば、指令第677号と第1033号によって独島が日本領から排除されるや、食べられない柿は突き刺してやろうという考えで駐日米軍に爆撃演習場として使うようにと提供したのだ。換言すれば、講和条約でさえ日本領と明記するのに失敗することになるや否や、日本は急いで爆撃演習場として提供したのだ。だが、アメリカは韓国政府の強力な抗議によって、1952年12月4日付で駐韓アメリカ大使館を通じてこれからは独島を爆撃演習場として使うことはないという回答をし、日本に対してはその後で通知した。
    (キム・ビョンリョル)

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  69. Chaamiey様

    番号順に着々と、翻訳を載せておられますね。

    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/MYBLOG/yblog.html

    整理されて、意見や突込みがあれば、そこに書き込んで行けるので、良い形になると思います。OPPさんのおっしゃっていた整理の意味とも、合うのではないかと思います。
    私の翻訳もそちらに使ってください。間違いを見つけたら、直していただければと思います。
    また、私もそちらに書き込んで行こうと思います。

    金柄烈の最後の方からやろうと思ったら、国際法の部分で、小生、やや苦手です。
    38、39、40、41、43、44、まもなく上がります。



    小嶋さん

    池内論文の史料の翻刻の起こし、少し時間を下さい。

    史料の最後に「七月二日」とある「七」を「見セ消チ」で「八」に直しているようです。
    天保七年(1836)と池内は見ています。
    史料冒頭部分には「□月二日」と翻刻しています。

    元禄年中因州より朝鮮国竹島江渡海之義ニ付、先祖対馬守江御尋之訳有之、・・・
    近年石州之者隠岐国より右竹嶋江罷渡、・・・厳敷御吟味ニ付、・・先月十七日、私共御呼出・・御答申上候、

    とあります。
    上の部分はほんの一部です。335p

    その次に、幕府の「問い」と思われる部分がすでに翻刻されています。

    いくつかの問いがありますが、このなかに、「松嶋と申ハ朝鮮外之地ニ候哉」という注目すべき文言があります。
    これの答が、
    「朝鮮國江原道蔚珍縣之東海中ニ、蔚陵島与申離島有之、日本ニ而竹島与相唱申候~」、
    ではじまる、対馬藩の回答と思います。

    そして松嶋については、すでに翻刻していただいた通り、「決定的なことは、わからない」、というのが対馬藩の回答です。

    松島之儀、元禄年、御老中阿部豊後守様ゟ(より)御尋之節、竹島近所ニ枩島与(と)申嶋有之。此所江も日本人罷渡漁仕候段、下々之風説ニ承候段、御答申候由、留書ニ相見申し候。
    竹島同様、日本人罷渡、致漁候儀、御停止之嶋与ハ(とは)被考候得トモ、差極候儀者(は)、御答仕兼候。朝鮮地圖遠(を)以相考候得者(ハ)、蔚陵于山二島有之与(と)、相見申候。

    竹島同様日本人罷渡致漁候儀御停止之嶋というのが対馬藩の意見だ、すなわち、「松嶋渡海も、竹島渡海同様に禁じられていたと対馬藩も考えていたのだ」、とするのが朴炳渉の解釈ですが、むしろ、
    「差極候儀、御答仕兼候」とあり、「決定的なことは、わからない」としていたのが対馬藩の意見だと思います。

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  70. 反論38

    独島はカイロ宣言によって当然返還されなければならない領土だ


    独島は前に言及した(反論31)ように、日本政府によって二回も韓国の領土であることが確認された土地だ。
    だが、露日戦争で海軍力の劣勢により敗戦の危機感が高まると、日本海軍はロシアのウラジオストック艦隊を早期に発見するために独島に望楼を建てようとした。この時期に独島でアシカ猟をしていた中井養三郎が独占的な漁労のために独島を朝鮮から借り受けて自身に再び貸与することを政府に請願しようとしたが、海軍省水路部長などが無主地だと使嗾すると、中井は無主地編入および貸下請願に変更することになる。しかし内務省の反対であきらめようとするが、外務省政務局長・山座円次郎が積極的に使嗾したため編入願を出すことになり、結局、軍部が思うままにした閣議で海軍大臣など11人の閣僚が参加した中で編入を議決したのだ。

    当時、韓国は、日本が主張するようにこの島に対する知見がなかったのではない。韓国は日本が「リャンコ島」と呼んで独島に対する日本式の名前もない時、まさに日本海軍の新高号の行動日誌に出ているように、すでに「独島」と呼び「石島」と書いて、この島に対する領有権を行使していたのだ。当時韓国がこの島に対し領有権を行使していたというのは、鬱島郡守・沈興澤の報告書によっても明白に立証されている。

    したがって、独島は韓半島の併呑に先立ち、同じ手続きで日本が略取した地域であり、カイロ宣言のうち「暴力と貪欲で掠取したその他の一切の地域」に明白に該当するので、カイロ宣言によって、当然、元所有国の韓国に返還されなければならない領土だ。
    (キム・ビョンリョル)

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  71. 反論39

    連合軍総司令部指令により、独島は日本領土から完全に除外された


    連合軍総司令部指令第677号は、同指令に言及された地域を日本から政治上・行政上分離することを内容としていて、第1033号は第677号の内容を確認して日本の漁師に第677号に規定された地域への接近を禁止している。

    ところが日本は、第677号の第6項と第1033号の第5項に、この指令が「連合国側の最終的な政策を現わすものではない」という内容が入っているので、この指令によって独島が韓国の領土になったのではないと主張している。

    もしサンフランシスコ講和条約で独島が日本の領土と明記され、韓国がこれに署名したとすれば、日本の人々の主張が一見妥当だと言えるだろう。ところが、講和条約には独島が全く明記されることもなかったし、韓国がこれに署名することもなかった。講和条約に独島が明記されなかったということは、独島の地位に変化がないことを意味する。これは韓半島とともに日本の統治を受けた独島が、指令第677号および第1033号によって日本からひとまず分離された状態から、それ以上変わることがない、ということを意味するものであって、日本の統治を受けた状態に還元された状態から変わることがない、という意味ではない。還元されるには、どんな形態であっても、還元させるという事前措置があっていなければならないからだ。

    もし、講和条約に独島が日本の領土と明記されていたとすれば、どうなるだろうか? この場合、韓国が同条約に署名したとすれば、独島を日本の領土にするのに同意したことであるから、有効だといえる。しかし、韓国が署名しなかった場合は、第三者なので効力は発生しない。これは条約法に関するウィーン協約第34条および第35条はもちろん、この講和条約第21条にも明確に規定されている。
    (キム・ビョンリョル)

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  72. 反論40

    サンフランシスコ講和条約で独島の領有権は何の変動もなかった

    サンフランシスコ講和条約の中には独島と関連した内容が全く入っていない。このように講和条約に独島が明記されなかったというのは、前項で説明した通り、独島の地位に対して何も変わることがないということを意味するものだ。これは韓半島とともに日本の統治を受けた独島が、連合軍総司令部指令第677号および第1033号によって日本からひとまず分離された状態で、これ以上変わることがないということを意味するものであって、日本の統治を受けた状態に還元された状態から変わることがないということを意味するものではない。 還元されるためには、どんな形態でも還元させるという事前措置があっていなければならないからだ。

    したがって、毎日新聞社は、条約締結後である1952年4月「対日平和条約」という冊子で、独島を日本から除外された韓国領と表記して発刊したのだ。そして1952年7月26日、日本は米空軍に爆撃練習場を提供して、それに独島をそっと追加した。これに対し韓国は米軍当局に抗議し、米軍当局は直ちに練習場名簿から独島を除いてこれを韓国政府に通知した。日本政府はその後に通告を受けた。このような事実は、米軍当局が独島を日本領と認定しないでいたことを意味するものだ。

    もちろん、講和条約が作成される当時に、ラスク次官補が「独島すなわち竹島ないしリアンクール岩として知られた島に関しては、通常無人島であるこの岩島は、私たちの情報によれば、決して韓国の一部として扱われたことがなく、1905年ごろから日本の島根県隠岐支庁の管轄の下にあった。過去に韓国がこの島に対して領土主張をしたとは考えられない。」という返信を送ってきたことがある。これはラスク次官補も本文で認めているように「自分たちの制限された情報による判断」だった。当時、日本が製作してアメリカに伝達した、日本本土に隣接した小島(Minor Islands Adjacent to Japan Proper)という小冊子に、独島を竹島という名前で説明して、「韓国にはこの島に対する韓国式の名前もないが、自分たちは1905年からこの島を島根県隠岐支庁で管轄した」という虚偽の内容を含んでいる。日本は1904年、軍艦新高号の行動日誌に記録されているように、韓国人がこれを「独島」と呼んでいるという事実を知っていたのに、この島を得るために「韓国式の名前もない」としたもので、ラスクはまさにこの操作された情報によって上のような返信を送ったのだ。

    だが、このような決定は、韓・米・日間の協議、または駐韓・駐日米大使館との共助の中に成り立ったものではなかったために、日本政府はもちろん、駐韓・駐日米大使館にさえ通知できなかったのだ。当時ラスク書翰文の内容を公開しようという駐日米大使館の強力な建議にもかかわらず、アメリカの国務部長官だったダラスは、これを最後まで公開しなかった。彼は1953年12月9日付、東京駐在米大使館で送った電文で「独島に対するアメリカの立場は、講和条約に署名した多くの国家中の一つであるだけのことだ。韓国の独島に対する要求から始まった領土紛争に介入してはいけない。両国間の調整ができない場合、国際司法裁判所の司法的判断を求めなければならない」として、中立的な見解を表明したのである。したがってサンフランシスコ講和条約で日本領に規定されたとか、アメリカが日本領であることを認めたとかという主張は、正当な主張とすることはできない。
    (キム・ビョンリョル)

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  73. 反論41

    日本はなぜ北方四島を裁判で解決しようと言わないのか?

    日本は、サンフランシスコ講和条約により、択捉、国後、歯舞、色丹島をロシアに奪われた。これらの総面積は4,996平方kmで、0.188平方kmもならない独島とは比較にもならない。ところが日本は、これらの島の問題を国際司法裁判所で争おうという提案をロシア側には全くしていない。それだけでなく釣魚島問題に関連しては中国と戦争までも辞さないという発言をしながらも、国際司法裁判所で解決しようという話はしないでいる。

    客観的な紛争が存在しないためなのか?  日本自ら、紛争の存在の有無は客観的に判定されることであり、紛争当事国の一方が「存在しない」として紛争がなくなるのではないと言っている。百回譲歩して、釣魚島問題は日本が現実的に占有しているので紛争がないと主張できるといっても、北方四島は日本自らが紛争があるといいながらも裁判で解決しようと主張しないのは、辻褄が合わない行動だ。自ら紛争が存在するという北方四島問題は国際司法裁判所に依頼しようとしないのに、韓国が紛争状態にないという独島問題を国際司法裁判所に持って行かないと非難するのは、表裏が同じでない行動だと非難されても言う言葉がないだろう。

    このように日本は、中国やロシアに対しては、国際司法裁判所で問題を解決しようという主張をすることができずに、唯一韓国に対してだけは、独島問題を国際司法裁判所に持って行って平和的に解決しようという主張をしている。それなら、中国やロシアとは平和的に解決する意思がないという意味なのか? でなければ、中国やロシアとは国際司法裁判所で争ってみても勝算がないので要求しないということなのか? 日本が「平和的解決」というもっともらしい口実下に、韓国を中国やロシアより甘いと考えて国際司法裁判行きを要求するというのならば、まだ帝国主義根性を捨てられずにいると非難を受けても返す言葉がないだろう。

    かつて、故李漢基教授は、国際司法裁判所の判決は帝国主義的なので、アジア国際司法裁判所の設置が必要だと主張したことがある。1962年、国際司法裁判所は、タイとカンボジアのプレアビヘア寺院事件の判決で、禁反言の原則を適用してカンボジアに勝訴判決をしたことがある。裁判所は、カンボジアの植民宗主国であるフランスが、国境地域の地図を製作してタイに伝達した時、プレアビヘア寺院がカンボジアの領土内として表記されたのに、これに抗議しなかったといって、タイの敗訴で判決したのだ。換言すれば国境条約による事実関係よりも、抗議の有無を重視したのだ。だが、侵略をしようとする国家は、該当国境地域に対し細かい知識を有しているが、そうではない国家は、多くの場合は緻密ではない。したがって国境線が間違って描かれたのか、相手国が意図的にだまそうとするのか分かるのは容易ではない。事実がこのようなのに、国際司法裁判所はこのような事実関係を明確に判断するよりは、タイが抗議をしなかったという理由で、明白に国境条約に違反する判決をしたのだ。

    もし、日本がこれを狙って国際司法裁判所行きを主張するならば、その意図が正当なことでないと非難されても言う言葉がないだろう。韓国は、今でも日本が独島を露日戦争の必要性によって編入したと率直に認めて、これ以上この問題で両国関係が悪化しないように努力することを願う。
    (キム・ビョンリョル)

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  74. OPPさん
    Kaneganeseさん

    本来であれば、100問100答の日本語の本文があって、それに今回の韓国側の反論があって、そこに自由にコメントを書き込める欄がついている。というのが、わかりやすい形だと思います。
    両者を比べれば、韓国側が、いかに「ごり押し」の主張をしているかが良くわかると思います。

    韓国語も今回、韓国側が著作権無視で作ってくれちゃっていますから、両者をならべてコメントが打てる「韓国語版」の場をつくれば、そこに韓国から韓国語でつけてくる人がいるでしょうから、それを自動翻訳して「議論」ができるのではないか、とも思います。
    お互いのリンクの参照機能をうまくつくれば、対話が可能でしょう。

    実は「英語」というのが、それが出来るツールなんでしょうが、なかなかそれを駆使するのは大変です。
    「英語版」ができれば、世界と議論が出来るんでしょうね。


    こういうものを公的機関が管理すると、「間違うことが出来ない」という大きな制約があります。

    このブログのいいところは、「間違ったら直せばいい」というKaneganeseさんの素晴らしい哲学です。

    クレーマーを生きがいとしている人達がいるので、「間違わない」、というより、「誰からも文句を言われない」という防衛体制をとらざるを得ず、「文言いじり」に、膨大な時間を費やす、という状況があります。

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  75. Matsuさん

    今、竹島関係の資料倉庫みたいなサイトが作れないかと思ってます。各資料の影印、翻刻、和訳を一つのページに整理するイメージで、各資料へのコメント機能やキーワード検索もできればいいなと考えています。

    100問100答の専用検証サイトをたちあげてもいいかもしれませんね。ブログだと議論が流れてしまうのがもったいなくて。wordpressというソフトなら自動翻訳のプラグインもあるようなので、日韓で議論できるかもしれません(英語への翻訳も可能ですが、精度はイマイチでしょう)。週末にちょっと調べてみます。

    システムに詳しい人が協力してくれればありがたいのですがね。

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  76. matsuさん、

     翻訳は使わせていただきます。コメントもよろしくお願いします。






    反論26

    「平和線」は、魚族資源を保護するための最後の手段だった



     第2次世界大戦以前、日本はベーリング海、オホーツク海、サハリン沿海、渤海、台湾海峡、韓半島沿海、東シナ海、トンキン湾、インド洋など世界の主な漁場をさらって魚類資源に対する乱獲を行って多くの問題を誘発させた。特に、1936年にはアメリカとカナダが永らく魚類資源を保護してきたアラスカのブリストル(Bristol)湾内まで侵入し、サケ、鱒などを見境なく乱獲することによってこれらの活動を規制しなければならないという世論が沸騰した。

     これに対し、連合軍総司令部は1945年8月20日、日本の全漁船に対して操業禁止を命令した。そして、9月14日、木船に限って日本沿岸から12海里以内の操業を許可した。だが、不足する食糧資源の打開を口実にした粘り強い要請で、9月27日、連合軍総司令部指令第80号で12海里の外に一定の線を引いて操業を許可することになった。最初のマッカーサーラインだ。だが、このラインは11月30日、第一次で拡張され、1946年6月22日再び第2次として拡張、9月19日第3次として拡張され、東は東経180度まで拡張されてミッドウェイ近海まで操業が可能になり、韓半島の方では独島と済州島の東側を連結する線まで、西側では沖縄西側東経125度まで日本漁船の操業が許された。このように漁労区域は拡張されたが、日本沿海の資源枯渇によって日本の沿岸漁船はマッカーサーラインを越えて鬱陵島近海、済州島近海、黒山島近海などで不法漁労を行うようになった。

     ところが、サンフランシスコ講和条約がある程度輪郭が明らかになり、同条約が発効すればマッカーサーラインが撤廃されるという方針が伝えられた。マッカーサーラインが存在していてもこれを越えてきて不法漁労を行っているのに、撤廃されるならば日本漁船の乱獲による弊害が手のほどこしようもなくなることを憂慮した韓国政府は、慌ててこれに対する対策を用意しないわけにはいかなかった。

     これについて、韓国政府は、1929年朝鮮総督府令第109号で制定された「トロール漁業禁止区域」を基準として日本の漁船が越えてくることができないようにする「平和線」を宣言することになったのだ。すなわち、平和線は全く根拠もない新しいものではなく、決して反日的な目的で作られたのでもない。単に、日本の強大な漁業能力から韓半島近海の魚類資源を保護するための切実な必要性によって設定されたのだ。万一、サンフランシスコ講和条約が発効した以後にもマッカーサーラインが存続したとすれば、韓国はめんどうな平和線を設定することはなかっただろう。この平和線が設定された後、日本水産会会長鍋島雄道などがこれに対し抗議するために訪韓したが、韓国側の説明を聞いて平和線に対して「相互理解を十分にした」との意思を表明したことがある。

    (キム・ビョンリョル)                                                                                                 

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  77. 反論27

    平和線は、その後の海洋法の発展に大きな影響を及ぼした



     1947年から日本の漁民たちを拿捕し始めたのは、平和線のためではなく彼らがマッカーサーラインを侵犯したためだ。前述した通り第2次世界大戦前に日本が世界各地の海で無差別的に魚類資源を乱獲したのでこれを規制しなければならないという国際的な世論が高かったし、その結果、連合軍総司令部はマッカーサーラインを設定して日本漁船の操業区域を制限した。ところが日本はこの線を無視して韓半島沿海に侵入して漁労作業をしたが、特に、自分たちは1929年に韓半島周辺の公海上でトロール漁業を禁止する総督府令を作っておいたのに、韓国が独立するや否や守る必要はないとしてこれを無視し、競争的に乱獲して我が国漁民に莫大な被害をもたらしたのだ。換言すれば、魚類資源の保護も重要だったが、日本漁民に比べて比較できないほど漁船や漁獲装備が劣っていた我が国漁民の生存権保護という観点からも日本漁民の拿捕は必要だったのだ。

     このような状況でサンフランシスコ講和条約の発効と同時にマッカーサーラインが廃止されるという消息を聞いた韓国政府は、漁民の生存権というレベルでも平和線が切実だったのだ。
     平和線が宣言されるや、1週間後の1952年1月24日、日本政府はこれを非難して出た。続いてアメリカが2月11日、台湾が6月に、翌1953年1月に英国が「公海上での漁業の自由に背く」として平和線の撤回を要求した。
     日本やアメリカが平和線を批判することができた根拠は正に公海上での漁業の自由のためだった。公海上での漁業の自由は、海洋資源は無尽蔵だという理論を前提にしたものだ。しかし、当時は、急激な漁船の増加と漁獲技術の発達で魚類資源の枯渇に対する憂慮が先進国を中心に現れ始めた時点だった。したがって、多くの国家が沿岸国の排他的な漁業専管水域を拡張する傾向にあった。1945年9月27日第1次マッカーサーラインが宣言された翌日、アメリカは「大陸棚に関する宣言」と「アメリカ周辺公海の一定水域における漁業に関する政策」別名トルーマン宣言を発表した。特に、アメリカは「アメリカ周辺公海の一定水域における漁業に関する政策」で、アメリカに隣接する公海の一定の水域に魚介類保存水域を設定することによって公海自由の原則を明らかに制限したのだ。同年10月にメキシコが、翌1946年アルゼンチンとパナマが、1947年にはチリとニカラグア、ペルーなど1950年まで合計18ヶ国が漁業専管水域または大陸棚上の資源管轄権を宣言したのだ。

     このような国際的な傾向に合わせて、1958年第1次海洋法会議で「漁業及び公海の生物資源の保存に関する協約」を採択したが、特にこの協約第7条で、沿岸国が領海に隣接する公海の全ての水域における一定の魚族や海洋資源に対して適切な保存措置を取れるように規定した。そして、1982年国連海洋法協約で排他的経済水域(第55条-第75条)制度を創設し、公海生物資源の管理及び保存に関する規定を強化(第116条ー第120条)したが、ここには平和線がその先導的役割をしたということができる。

    (キム・ビョンリョル)                                                                                  

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  78. Chaamieyさん

    反論43を翻訳したら、反論26と同じ文章ですね。
    金柄烈も、手抜きだなあ。



    反論43

    平和線は魚族資源を保護するための最善の措置であった

    「平和線はトルーマン宣言と同じ性格のものだ」、「平和線は現在の200海里排他的経済水域の先行事例だ」、「平和線はマッカーサーラインを継承したものだ」、「平和線は韓国の零細な漁業者を守るためのものだ」、「平和線は朝鮮総督府が定めたトロール漁業禁止線を継承したものだ」等は、全て正しい主張だ。

    前記した(反論26)ように、第2次世界大戦以前、日本はベーリング海、オホーツク海、サハリン沿海、渤海、台湾海峡、韓半島沿海、東シナ海、トンキン湾、インド洋など、世界の主な漁場を襲って魚類資源に対する無差別的乱獲を行い、多くの国家から非難を受けていた。特に1936年には、アメリカとカナダが永く魚類資源を保護してきたアラスカのブリストル(Bristol)湾内にまで日本漁船が侵入し、サケ、鱒などをむちゃくちゃに乱獲することによって。これらの活動を規制しなければならないという両国の世論が沸騰した。

    これに対し、連合軍総司令部は、日本占領後直ちに1945年8月20日付で、日本の全漁船に対する操業禁止を命令した。そして9月14日、木船に限って、日本沿岸から12海里以内での操業を許可した。だが、不足した食糧資源の打開を口実にした日本政府の粘り強い要請により、9月27日、連合軍総司令部指令第80号で、12海里の外に一定の線を引いて操業を追加的に許可した。 最初のマッカーサーラインだ。 だが、このラインは、11月30日、一次拡張されたし、1946年6月22日、再び2次的に拡張され、9月19日、3次拡張されて、東には東経180度まで拡張されてミッドウェイ近海まで操業が可能になった。韓半島の方では、独島と済州島の東側を連結する線まで、西側では沖縄西側の東経125度まで、日本漁船の操業が許された。日本が沿海の資源枯渇のために漁労区域の拡張を粘り強く要求し、その許可を受けることはできたが、日本の沿岸漁船が太平洋側に遠く出て行くことができなかったために、東海(訳注:日本海)上でマッカーサーラインを不法に越えてきて、鬱陵島近海、済州島近海、黒山島近海などで無差別的に不法漁労を行うことになった。

    ところが、サンフランシスコ講和条約がある程度輪郭が固まり、同条約が発効されればマッカーサーラインが撤廃されるという方針が流れ出た。マッカーサーラインが存在していても、これを越えてきて不法漁労を行っているが、撤廃されるならば日本漁船の乱獲による弊害が手の施しようもなくなると憂慮した韓国政府では、あたふたとこれに対する対策を用意しないわけにはいかなかった。

    これに対し、韓国政府は、1929年に朝鮮総督府令第109号で制定した「トロール漁業禁止地域」を基準として、日本漁船が越えてくることができないようにする平和線(訳注:李承晩ラインのこと)を宣言することになったのだ。すなわち平和線は、全くでたらめに新しいことではなくて、頑として反日的な目的下に作られたのでもない。単に日本の強大な漁業能力から韓半島近海の魚類資源を保護するための、切実な必要性から設定されたのだ。 もしサンフランシスコ講和条約が発効された以後にもマッカーサーラインが存続したとすれば、韓国はわざわざ平和線を設定しなかったであろう。

    この平和線が設定された後、日本水産会会長・鍋島雄道(ナベシマ・オオサム)などがこれに対し抗議するために訪韓したが、資源保護のために避けられない選択であったという韓国側の説明を聞いて「相互理解を十分にした」という意志を表明したことがある。
    (キム・ビョンリョル)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本水産会会長・鍋島雄道(ナベシマ・オオサム)とは珍しい名前ですね。
    鍋島家の一員でしょうか?

    『資源保護のために避けられない選択であったという韓国側の説明を聞いて「相互理解を十分にした」という意志を表明した』とは、何を言ったのでしょうか?

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  79. 反論44

    日本はなぜ「日本海」に固執するのか?

    1919年6月、ロンドンで開催された第1次国際水路会議で、東海が日本海と命名された。もしこの会議に韓国が参加していたとすれば、決して日本海と命名されはしなかったであろう。ところで、日本海という名称は「日本」という本来の意味にも合わず、国際水路機構の決議にも符合せず、国連の表記名称の原則にも符合しない、非常に誤った名称だ。

    「日本」という話の本来の意味は、日が昇るという意味だ。したがって日本国の立場で「日本海」は、東側の海(太平洋沿岸)にならなければならない。ところが、日が沈む西側を「日本海」と言うのは、「日本」という本来の意味から正反対となる名前だ。実際に、日本は、各種の古地図で見ることができるように、永らく太平洋の方の沿岸を「日本海」と呼び、東海は「朝鮮海」または「北海」という名前を使っていた。

    また、国際水路機構の決議によれば、東海のように、いくつか主権国家の影響下にある海の名称で一つの名前で通用しない場合には、現在の関連国家で使っている名称を、新しい名前に調整される時まで全部併記するように規定している。これによれば、東海と日本海が併記されるのは当然だ。

    最後に、国連の表記名称原則は、現地の住民たちが使う名称を使うことになっている。このために私たちが永らく使ったインドの「カルカッタ」も、近頃「ムンバイ」に改称された。ところで、この原則によれば、東海は「East Sea」でなく「Donghae」にならなければならないのであり、日本海は「Sea of Japan」でなく「Nihonkai」にならなければならない。なぜなら日本人が使う名称が「日本海」であって「シー オブ ジャパン」ではないためだ。これは日本人たちがトンギョン(東京)をトーキョー(東京)と書いているので、英文名称をTokyoと使うような原則だ。「Sea of Japan」は、東京を「East Capital」と使うのと同じ誤ったものなので、正しい名称とは見られない。それでも日本は第3の名称に対する議論さえ拒否したまま、「Sea of Japan」だけに固執しているのだ。

    事実上、東海を東海という時、独島が韓国の領土だという意味とは全く接続できない。だが、日本海という名前を書けば、日本の領土だという誤解を生じる素地がある。したがって、韓国でなく、むしろ日本が、独島問題と結びつけるために日本海という名前に固執していると非難されなければならないだろう。韓国は、西洋の多くの古地図が、東海を「韓国海(Mer de Coree)」と表記しているにもかかわらず、「韓国海」には固執しないでいる。はたして、太平洋沿岸に付けていた名前を東海に移してきた日本が歴史を歪曲しているのか、あるいは、東海を東海だとしている韓国が、歴史を歪曲しているというのだろうか?
    (キム・ビョンリョル)


    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    なんとも面白い議論ですね。

    「日本」という話の本来の意味は、日が昇るという意味だ。したがって日本国の立場で「日本海」は、東側の海(太平洋沿岸)にならなければならない。ところが、日が沈む西側を「日本海」と言うのは、「日本」という本来の意味から正反対となる名前だ。

    というのは、日本人として初めて聞きました。

    東海を東海という時、独島が韓国の領土だという意味とは全く接続できない。だが、日本海という名前を書けば、日本の領土だという誤解を生じる素地がある。したがって、韓国でなく、むしろ日本が、独島問題と結びつけるために日本海という名前に固執していると非難されなければならないだろう。

    というのも面白い心理学です。

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  80. matsuさん

    該当する方は、こちらの人物らしいです。

    農商務省技手 鍋島熊道 カムチャッカで日本人初の缶詰製造
    日魯漁業株式会社 取締役 鍋島熊道
    大日本水産會長 鍋島熊道

    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025989
    コマ番号 45 /113

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  81. 小嶋さん

    さっそく、ありがとうございます。

    李承晩ラインの抗議に行った大日本水産会の会長が、「「相互理解を十分にした」という意志を表明した」、というのは歴史歪曲のにおいがします。


    Chaamieyさん

    未翻訳 22本

    金柄烈(キム・ビョンリョル)(김병렬) 9本

    30、33、49、50、51、52、53、54、55


    柳美林(ユ・ミリム)(유미림)  11本
    36、37、61、62、63、75、80、81、82、84、85

    イ・ソリ(이소리) 2本
    87、88~102


    私は、柳美林を後ろの方からやっていきたいと思います。
    まず85から、下に下がります。

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  82. 反論85

    韓国は1905年以前から独島に主権を行使してきた

    日本は、勅令にある石島が竹島としても、これによって韓国が日本より先立って領有権を取得したと見るには難しいという主張をする。すなわち1900年の勅令前後で、韓国が独島に対して国家的な占有行為をした証拠がないので、領有権とは関係ないというのが日本の論理だ。これに付け加えて、日本は我々が独島アシカに対する鬱島郡の課税を実効的占有の証拠として提示することについても否定的だ。果たしてそうであったかは、同時期に鬱陵島と隠岐での日本人の納税形態を比較してみれば知ることが出来る。

    鬱陵島の日本人たちが鬱陵島の首長に一種の「手数料」を納付した時期は1890年代に遡る。本来、非開港場である鬱陵島での交易は不法だったから、日本人たちは2%の手数料を自願して黙認を受けようとした。開港場の関税は普通5%だったが、こういう低い税率が通用したのは、受けとる側も出す側も、ともに不法であることを知っていたからだ。1902年には税率が1%とさらに低くなった。これはそれだけ日本人たちの勢力が強大になって、税金を回避しようとしたことを物語っている。しかし、この時も日本が納税を拒否したことはなかったし、むしろ外務省の官吏はこれを輸出税と称して、これを口実に鬱陵島居住を合法化しようとした。

    鬱島郡の課税行為が独島に対する実効支配と関係するのは、鬱島郡の輸出品の中に独島の産物であるアシカが含まれているためだ。輸出された海産物の中で、特にアシカは独島だけの産物だ。このアシカの革と油などが1904年と1905年の鬱陵島の輸出品目に入っているので、日本人たちは輸出税を納付し、アシカについても輸出税を納付したものと見られる。鬱陵島の輸出品中に独島アシカを含ませていることも、独島を鬱陵島の附属島嶼と認定していたことを意味する。鬱陵島の日本人たちが独島を韓国領と認定しなかったとすれば、独島の産物に対して納税する必要はなかった。当時、輸出税は物により決められる従価税だったので、独島を韓国領と見なかったり無主地と見たとすれば、鬱陵島の輸出品であってもアシカなど独島産物は除いて鬱陵島産物に対してだけ納税することが可能だったためだ。ところが、日本人たちはこれを区分しないで納税した。

    鬱陵島の日本人が鬱島郡に納税したその時期に、日本でも納税があったのか?  中井養三郎をはじめとする隠岐の漁業者などは、独島でアシカを捉えて隠岐に持って行ったが、彼らは島根県に納税しなかった。江戸時代の鬱陵島アシカに対する課税の有無も漏らさずに記録した日本が、中井などの納税形跡に対しては1905年以前には記録したことがない。彼らの納税関連の内容が見えるのは編入以後である1906年からだ。

    日本は「百問百答」で「竹島に対する直接的な主権行為の例」を取り上げて論じたが、それは編入以後のことだ。 島根県は1901年3月に制定した県令第11号「県税賦課規則」の一部を1906年3月に改正した。 編入以後、外海すなわち独島で捉えたアシカと鯨に対して、漁獲高の1000分の15を雑種税として賦課したためであった。それであれば、1905年以前、韓国側と日本側から同じように独島に行ってアシカを捕獲したが、鬱島郡には税金を払い、島根県には税金を払わなかったとすれば、どちら側が主権を行使したものであるのか?

    鬱島郡守が独島を韓国領と明確に認識していたのに、隠岐から来た中井などの漁労を禁止しないのは、漁業税を納付したと思っていたからであろう。ところが、当時、島根県と鳥取県から来た船舶の大部分は、漁業税を出さなかったり、朝鮮海通漁組合に登録しなかった船舶だった。中井等も同じだ。それなら、鬱陵島を往復した中井が、独島を日本領土と見た可能性はあるのか?  中井は1904年9月に提出した「リャンコ島領土編入および貸下願」では島の所属が決まっていないといった。しかしその以前には彼が独島を韓国領と考えていたことは日本の記録に残っている。彼が独島を無主地だと主張することになったことには海軍省と外務省の画策があった。

    日本は独島が無主地だったのでどちら側にも納税する必要がなかったと主張することができる。そのように見るならば、アシカに対して鬱島郡に納税した事実を日本外務省が「輸出税」と主張することとは論理的に合わない。輸出税というのは、国家間にだけ成立するためだ。日本外務省が主張した「輸出税」は、1906年にも存続した日商組合規約にも明記されている。日本人たちが1905年にも輸出税を鬱島郡に納付したことは、外務省の記録(「通商彙纂」第50号、1905)で立証される。鬱島郡守の徴税権が行使されることが出来たのは、独島が韓国領だという認識が確立されていたためだ。1906年に沈興澤郡守が編入事実を聞くやいなや「本郡所属独島が..」で始まる報告書を作成した背景には、このような認識があった。

    日本は「鬱陵島産品に対する課金」であるから独島に対する主権行為ではないとしているが、問題の核心は、鬱陵島で加工・輸出したという事実にあるのではない。鬱島郡に税金を納付したという事実、そしてその課税対象が独島の産物であって、鬱陵島の産品―「産品」という表現も曖昧だが-ではないという点が重要だ。独島アシカに対する加工は隠岐でもなされたためだ。納付処が鬱島郡であることは、独島編入以後の土地使用料の納付処が隠岐島庁であることと同じ脈絡だ。 何よりも、この質問項目に関する「百問百答」の論理の最も大きな問題点は、無主地を先占して編入の要件を満たしたと言っていながら、編入以後の措置を自国の主権行為の証拠として提示している点だ。
    (柳美林)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「通商彙纂」に鬱陵島の輸出品として編入以前の竹島のトドが含まれていることは、きっちり検証しないといけない問題だと思います。ひょっとすると、太政官指令よりも、佐田白茅内探書よりも、重いかもしれない。

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  83. 反論84

    1900年大韓帝国勅令にある「石島」は独島だ

    1900年、大韓帝国勅令の「石島」が独島である証拠は提示されていない、というのが現在の日本の主張だ。 大韓帝国が1900年に鬱陵島を鬱島郡に昇格させて郡守を置き官制を整備した背景には、日本の侵奪がある。 日本人たちは鬱陵島が開拓される前から出入りして不法伐木を行って資源を侵奪して行った。これに対し、高宗が鬱陵島開拓令を出して移住を奨励し、以後、江原道と慶尚道からの移住が活発になった。日清戦争以後、日本人の入島も一層増加して、両国人の葛藤が激しくなった。これに対し1900年6月、大韓帝国官吏・禹用鼎、日本外務省の官吏、第3国(フランス)の海関官吏で構成された調査団が派遣されるに至った。

    鬱陵島調査後、禹用鼎は、政府に官制改編を建議し、内部は管制改編に関する請議書を上げた。この請議書に、鬱陵島の土地を四方「横80里、縦50里となる」としたので、日本はこの範囲に独島は含まれていないという。 しかし請議書に独島を明記しないのと、勅令に「石島」が言及されたことは別個の懸案だ。禹用鼎の記録には「石島」が言及されていないが、彼にこの島に対する認識がなかったとすれば、どうして勅令に「石島」が明記されただろうか?

    万一、日本の主張のとおり石島が独島でなければ、石島は独島ではない他の島の呼称でなければならない。 勅令には鬱陵全島の他にも「竹島」が明記されている。このために日本は竹島(訳注:竹嶼のこと)が石島だと主張できない。 それなら鬱陵島周辺の島嶼の中で、竹島を除いて他の島の中で石島に該当するほどの島を探さなければならない。そのような可能性がある島嶼では島項と観音島がある。しかしで論じたように、島項と観音島は、勅令の「鬱陵全島」に含まれたと見なければならない。

    日本は石を方言で「トク」というという説明には証明が必要だという。ところが、石の方言がトクだという事実を明らかにした者は他ならぬ日本人だ。小倉進平は1910年代に朝鮮方言を調査して「朝鮮彙報」に発表したことある。彼の研究は、1944年に日本で「朝鮮語方言の研究」としても発刊された。それによれば、石を「トク」と称した例は全羅南道が最も多く、その次が全羅北道、慶尚南道、慶尚北道、忠清南道、忠清北道の順だ。強占期の他の文献「朝鮮語地名」(1940)にも、「トル」の田舎の言葉が「トク(石)」であるが、この調査は全州でなされたことを明らかにしている。これによっても、「トル」の全羅道方言が「トク(石)」であることが立証される。

    トルソムがトクソムと関係あるという事実は、我が国の学者も明らかにした。国語学者パン・ジョンヒョンは、1947年8月、鬱陵島・独島学術調査団に参加した後の紀行文で、独島を「トクソム」として言及した。彼は「独島トクト」の語源を考えて、「石島」をあげたし、「石島」は「トクソム」と関係があることをあげた。地名の表記方式に対してはで論じたが、このような方式は、日帝強占期に日本が主導して刊行した「韓国水産誌」(1908-1910)にもそのまま適用されている。ここには鬱陵島の地名を漢字と韓国語で併記しているが、例えば、「玄圃洞」に対しては「カモンサキ」と意味を書いて、‘(현포동)’とハングルで書いた後に、さらに‘ヒヨンポトン(횬포동)’と日本語とハングルを書くことで「ヒヨンポトン」と読むことを明らかにした。玄浦が‘黒い(コムン)崎’という意味から来たものであることを明らかにしたのだ。「錐山」も同じ方式で、「キリ(錐)山」という意味と「チュサン」という音を一緒に使った。このような訓と音による表記方式は現代まで続いている。 石島が「トクソム」から来たものであり、独島も「トクソム」から来たものであることは、地名の表記用例を通じて傍証されるが、言語学的傍証も証明の一方法として認められなければならない。

    日本は、当時大韓帝国が公布した勅令について全部把握していた。したがって当然勅令第41号とそこに出てきた石島が独島だという事実も認知していた。ところが日本はこれに対してどんな抗議もしなかった。 これは日本が独島に対する韓国の領有権を認めたと見ることができる。
    (柳美林)

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  84. 反論82柳美林

    安龍福は官吏を関白と誤認しただけで、文書を受けたことは事実だ

    最近、安龍福が鬱陵島と独島を韓国領土と認定した関白の書契を受けたと主張する韓国学者はほとんどいない。過去このような主張があったのは、「粛宗実録」にあらわれた安龍福の陳述のためだ。

    安龍福が書契を受けたと主張したのは、第2次渡日から帰ってきた(1696)後、備辺司の取り調べであった。この時、彼が関白の書契を云々したことは、1693年のことを示す。彼が鬱陵島と子山島が朝鮮領土であることを確認させて、関白の書契を受けたといったのは、日本の官制を間違えたためだ。江戸といったのも、因幡または長崎を江戸に間違えたからだ。

    鳥取藩は1696年5月の安龍福への尋問で、彼が伯耆国に訴訟するために再び来たこと、これを直接話したいのだという事実を把握した。ところが、1696年6月、鳥取藩主は安龍福一行とは言葉が全く通じないので詳しく分からないと幕府に報告した。 幕府は、安龍福が訴訟しに来た理由は、過去の因幡での良い接待が対馬で一変し、安龍福がこれを対馬の悪だくみだと誤解したので直接訴訟をしようとしに来たと把握した。

    この事実を聞いた対馬藩は、安龍福がまた来た理由を「間違いなく竹島に対する訴訟かどうかはわからない」と感じた。対馬藩は、まだ自分たちが渡海禁止令を朝鮮に伝えていなかった状況で訴訟が起きれば、幕府の問責があるかと恐れた。これに対して対馬藩は、今回の訴訟を処理すると、対馬藩を通じないで直訴することがしばしば発生するという憂慮を伝えて、幕府が訴訟を処理しないように画策した。

    このような経緯で知ることが出来るのは、幕府は安龍福の渡日目的を対馬藩に対する告発と、対馬藩は、竹島に対する訴訟と把握していたという点だ。こういう状況から見るならば、安龍福が1693年に江戸で関白の書契を受けたといった話は錯誤があるようだが、伯耆の官吏から一種の文書や口約束を受けたことは事実に見える。彼が何の証明も持たないまま伯耆太守に会うと大声を上げたと見るのは難しいためだ。また、対馬藩が安龍福の訴状が幕府に伝えられるかと戦々恐々としていた事実もこれを後押ししてくれる。 ただし、その訴状が、二島の領有権を主張したものか、あるいは対馬藩が安龍福の物品を奪って朝鮮政府の예단(礼単?)を中間でだましたり(訳注:ここ不明)、文書の偽造を暴露したものかについては、意見がわかれる。
    (柳美林)

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  85. 反論81

    日本も独島を鬱陵島の属島として取り扱った

    韓国が于山島(独島)を鬱陵島の属島と見る理由は、我が国の文献に于山島がいつも鬱陵島とともに言及されていて、地図にもいつも二島が共に描かれているためだ。日本もやはり二島の存在を認知してからは、文献と地図にいつも共に言及している。日本で独島の位置関係を最も明確に言及した最初の官撰書と呼ばれる「隠州視聴合記」を見れば、「隠岐から北西側に1泊2日を行けば松島(独島)があり、また、一日を行けば竹島(鬱陵島)がある...」とした。

    1695年に鳥取藩が幕府に提出した地図は、大谷・村川家が所蔵した地図、すなわち「小谷伊兵衛より差出候竹嶋之図」であった。ここには二島が描かれていて「松島からイソタケシマまでは40里程度」と記されている。この時のイソタケシマは鬱陵島を示す。大谷家の文書に「竹島(鬱陵島)のなかの松島(独島)」「竹島近くの松島」と記されているのも、松島(独島)を竹島(鬱陵島)の属島と感じてきたことを見せてくれる。日本が独島を鬱陵島の属島と見る認識は「元禄一件」以後にも持続していた。

    日本は、韓国が1954年9月25日付の韓国政府見解で、サンフランシスコ講和条約の第2条a項に対して、独島が「鬱陵島の属島として」韓国領域として承認されたと主張したという論理を展開する。引き続き日本は、韓国の鬱陵島が韓国領であるから独島も韓国領だという議論を批判するために、全く違う文脈のラスク書簡を取り上げている。日本のこのような批判は脈絡が合わない批判だ。その理由は、1954年の韓国の主張とラスク書簡の公表の有無は何の関係がないためだ。1954年の韓国の主張は、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)という結果に基づいて、連合国が独島を韓国領土と認定したと解釈したところから始まったのだ。これに対し1951年8月に出てきたラスク書翰は、韓国政府には伝えられたが日本には伝えられなかっただけでなく、講和条約にも反映されなかった。アメリカ国務長官ダラスは、1953年12月、アメリカは介入しないという意志とともに、書簡の公開を拒否した。したがって韓国が1954年に独島が鬱陵島の属島だと主張したのとラスク書簡とは何の関係もない。

    日本は独島が主島である鬱陵島と運命をともにすると見るのが難しい理由として90kmという距離をあげている。主島と属島との関係を距離で判断しないという論理は、近代以後の見解だ。近代以前には距離が所属判断の基準であり、これは日本の記録でも証明される。

    1695年12月中旬、江戸幕府の老中が鳥取藩主に竹島について尋ねた時、藩主は竹島と松島はもちろん、その他に因幡と伯耆に付属する島はないと報告した。合わせて、翌年1月25日に報告した鳥取藩の官吏は、松島(独島)から伯耆国間の距離は120里程度、松島から朝鮮間の距離は80-90里程度と報告しつつ、松島はどの領地にも属しないことを明確にした。この時「松島は竹島に行く時の道筋にあるので、立ち寄って漁労をする」という事、そして「他の領地から漁労にくるのは聞いたことがない」という事も付け加えた。これは伯耆国と出雲国、隠岐国の人々が朝鮮の島に漁労しに行ったが、一次的な目的地は竹島なので松島は竹島に行く時にだけ立ち寄る付随的な島に過ぎないことを言ったものだ。また、竹島に行く時も、米子地域以外の人々は米子の人と同じ船に乗って行くだけで、自主的へ行く場合はなかったという事も明らかにした。

    1696年1月9日、幕府は対馬藩に「本来取った島でない以上、戻すと言うのも道理に合わない」という意向を伝えた。すなわち、幕府は伯耆国の人々が空いた島に行って漁労した事実が、すぐに所属を意味するのではないという点を明確に明らかにしたのだ。この時、幕府が基準としたことは、竹島が朝鮮にさらに近いということ、すなわち距離関係であった。この時、日本が問題視した島が、竹島に制限されるならば、あえて鳥取藩は松島の存在を言及するべきでなかった。 両国から松島までの距離を言及する必要もなかった。ところが鳥取藩はいつも二島を共に論じたし、幕府はこれを根拠に決めたことであるから、二島全部を朝鮮に属すると見たと解釈されなければならない。

    鳥取藩の官吏が幕府に提出した文書にも、竹島と松島が言及されていた。幕府はこの文書に基づいて渡海禁止令を出した。したがって禁止令に「竹島渡海は、今までは漁労をしていたとしても、これからは竹島に行くことを禁止しなければならない」として竹島にだけ言及したとしても、禁止令を出した背景に注目しなければならない。その中では、上で言及した文書の他にも「磯竹島略図」 作成に参考になった地図もある。この地図にはイソタケシマ(鬱陵島-筆者注)という島の他に、他の一島、すなわち松島が描かれている。そして両国からの距離関係も記されている。1877年の太政官指令も、やはり元禄時代の渡海禁止令と「磯竹島略図」に基づいたものであるが、指令にも「竹島外一島」とだけ明記して松島は明記しなかった。 それなら、その理由は松島に対する認識がなかったからのか?  1696年の渡海禁止令と1877年の太政官指令に「松島」を明記することがなかったとしても、「竹島」の他にもう一つの島があって、その島が松島すなわち独島だという事実は、誰よりも日本がよく知っているのである。
    (柳美林)

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  86. matsuさん、

     金先生独演会はおおむね全て翻訳を終わりました。近日中に全部アップします。




    反論30

     新韓日漁業協定で独島はどのように扱われたのか?



     1965年の韓日漁業協定は平等を装った不平等条約だった。韓半島周辺水域には共同規制水域と共同資源探査水域、トロール漁業禁止線などが設定されたが、日本の周辺水域には専管水域の他にいかなる水域も設定されなかった。一見すれば、日本の漁船が韓半島の周辺水域に来たなら各種の規制を厳格に受けて操業しなければならず、反対に韓国の漁船は日本の水域に行って日本の専管水域内でさえなければ公海自由の原則によって自由に漁労ができるようになっていて、韓国側に有利なように見える。

     ところが、この協定が締結される当時には韓国には動力船が殆どなかったため、日本の近海に行って操業をすることは事実上不可能だった。言い換えれば、この協定は韓国と日本が平等に互いに相手方の水域に行って漁労作業をするためのものではなく、どのようにすれば発達した日本の漁船が韓半島水域で自由に魚を乱獲することを規制できるのかに焦点が合わされたものだった。しかし、この協定のとおり日本漁船が韓半島水域で毎年16万 5千トンの漁獲をしても途方もないことであったのに、実際には30万トン以上、不法的に漁獲をした。(Chung Il. Chee,Problems Arising from the Adoption 200mile EEZ and the Restructuring of Current Korea-Japan Fishery Relations(Seoul:IFANS,July、1979) Contract Research 79-02,p.47.)

     このような韓日漁業協定による漁労条件は、時間が過ぎるにつれて変わって行った。政府の支援を受けて急成長した韓国の遠洋漁船団は、日本の沿海だけでなく北太平洋まで進出することになった。そうするうちに、1977年3月、ソ連とアメリカが200海里漁業保存水域を宣言したことにより、韓国の漁船団が北太平洋水域から追い出されて日本の北海道周辺水域に行くようになった。もちろん、北海道周辺水域での韓国漁船の操業は韓日漁業協定によって合法的なことだった。だが、韓国漁船の操業により魚族資源が減少するようになると、直ちに日本は過去に自分たちが韓半島水域で根こそぎ漁をしたことは考えずに、物理的に韓国漁船の操業を阻止する事態にまで至ることになった。結局、1978年10月から1979年12月まで両国が協議して「相互自律規制措置」に合意し、3年ごとにこれを延長して施行してきた。

     そうする中で1994年に国連海洋法協約が発効した。新しい国際海洋法が発効したので韓日間にも新しい漁業協定が必要になった。韓日両国は新しい協定を締結するための協議を進めたが、韓国は排他的経済水域の境界線を先に決めようという立場であったし、日本は排他的経済水域の境界画定が容易でないために、まず暫定的措置として共同管理水域を画定しようという立場だった。韓国がひとまず暫定的合意水域の設置に同意することによって順調なように見えた交渉は、水域の範囲について簡単に合意を見ることができず停滞した。すると、1998年1月23日、日本は既存の韓日漁業協定を一方的に廃棄して新しい直線基線を適用して韓国漁船を無差別に拿捕し始めた。

     紆余曲折の末に交渉を再開した両国は、ようやく1998年9月24日新協定に合意し、この協定は両国の批准を経て1999年1月23日に発効した。 この協定に合意するとすぐに、韓国は韓国なりに、日本は日本なりに、協定に対する批判が出た。韓国は暫定水域内に独島が位置することによって独島の地位が弱まったとし、日本はヤマト堆漁場を渡したというものだった。

     独島の地位に関連しては、現在も国内で意見が二分化されている。だが、漁業協定と領土処分協定は異なるものなので、新協定によって独島の地位に新しい変動が生じたと見るのは難しい。

    (キム・ビョンリョル)
                                                                            

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  87. Chaamiey様

    ありがとうございます。

    こちらは柳美林を全部やります。

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  88. 反論80

    江戸幕府の渡海禁止令には独島も当然含まれる

    江戸幕府の竹島(鬱陵島)渡海禁止令に独島が含まれるのかどうかは、渡海禁止令が出ることになった経緯を見ればわかる。1693年、安龍福と朴於屯を拉致して行った大谷家の報告を受けた鳥取藩は、これを幕府に報告し、朝鮮人の出漁禁止もあわせて要求した。幕府は対馬藩に交渉を命じる一方、鳥取藩には関連内容を調査して報告させた。

    鳥取藩に先立ち、対馬藩は1695年9月、幕府に報告した。その中に「あの島に古い民家があった時、朝鮮に属していたということがあちらの書籍に見え、特に朝鮮からは近くて日本からは遠いので朝鮮に属するということは弁論の余地なく知られたことです...」(「竹島記事」、1695年9月19日)という内容がある。これは対馬藩も両国からの鬱陵島への距離は、どちらの国がより近いのかを明確に知っていたことを意味する。

    鳥取藩も、幕府の質問への1695年12月25日付の返事で「竹島と松島、その他に因幡と伯耆に付属した島はない」とした。しかも鳥取藩は幕府が取り上げなかった松島まで取り上げ、竹島に言及する時はいつも松島をしたセットで扱った。従って1696年1月28日の渡海禁止令に竹島だけ明記して松島は明記しなかったとしても、対馬藩と鳥取藩、幕府の認識の中で松島が排除されていた、とすることはできない。松島は、大谷・村川両家に雇用された漁師たちの渡海ルートでも、抜け落ちたり排除されることはなかった。 日本が渡海禁止令に竹島だけ言及した理由は、両国間外交文書では「竹島」と「鬱陵島」だけを取り上げたためだ。その上、日本は、竹島問題だけ解決されれば、松島は問題になることではないと思っていた。

    両国の往復外交文書とは別に、安龍福と米子地域の日本人たちは、子山島と松島すなわち独島を認知していた。安龍福は1693年に日本に拉致されて行った時、子山島(于山島)を確認し、これは1696年に日本で二島に対する領有権を主張する契機となった。安龍福は1696年春に再び渡日した時も、子山島で会った日本人を追いかけて行って「松島はまさに子山島(于山島)だ。お前たちは子山島が私たちの土地という話を聞いたことがないのか?」と追及した。この時、安龍福が持って行った朝鮮八道地図にも二島が共に描かれていたので、安龍福にはすでに二島についての認知が確立されていた。彼は隠岐で調べられた時も、松島は「子山」であり、このような事実は八道地図に記されていると述べた。八道地図を写して書いた日本官吏も「竹島と松島が江原道中にある」と書いた。これで見ても、当時日本人たちが子山島と松島が同じ島であり、松島は竹島の属島として朝鮮領であることを熟知していたことがわかる。

    日本は、当時鬱陵島渡海を禁止したことは対馬を通じて朝鮮国に伝えられたが、その時の口上書にも現在の竹島に対する言及はなかったという。しかし対馬藩は、朝鮮側に渡海禁止令を伝達する過程でやりとりする文書に「鬱陵島」を明記することさえも極力避けようとした。「鬱陵島」という名称が記録に残るのを阻止して「竹島」という名称だけ残すために必死の努力を傾けた。これは後日鬱陵島と竹島が違う島だということを口実として再び侵奪の機会を狙うためであった。このような意図を持った対馬が、渡海禁止令に松島まで明記するのをそのまま見ていただろうか? 日本は「幕府は鳥取藩から「松島」(現在の竹島)に関する情報を得ていたのに、この島への渡海は禁止しなかった」とするが、竹島渡海を禁じれば松島渡海は禁止しなくても自然に渡海することがなくなるので明記する必要はなかったのだと見なければならない。
    (柳美林)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    自らに都合の良い解釈です。
    松島が明記されなかったのは渡海禁止の対象ではなかったからだ、というのが素直な解釈ではないでしょうか?

    「竹島記事」、1695年9月19日 というのは知らない史料でした。
    「あの島に古い民家があった時、朝鮮に属していたということがあちらの書籍に見え、特に朝鮮からは近くて日本からは遠いので朝鮮に属するということは弁論の余地なく知られたことです...」

    鬱陵島の話ですよね。

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  89. 反論75

    于山島→石島→独島での変遷は自然な現象だ

    韓国の文献で一番最初に登場して最も長く存続した「独島」の呼称は「于山島」だ。「太宗実録」17年(1417)の記事から見え始めた于山島は、1454年「世宗実録地理誌」、1899年の「皇城新聞」などに見える。朝鮮居住経験があった日本人、恒屋盛服が作った「朝鮮開化史」(1901)にも、「于山島(日本人は松島と名付ける)と竹島という...」と記述されている。「増補東国文献備考」(1908)には、「于山島・鬱陵島」について「二島であり、一つがまさに芋山島だ」としている。これは石島と独島という呼称が出てきた後にも、相変らず文献上では「于山島」の呼称が残存していたことを示している。したがって「輿地図書」と金正浩の「大東地誌」の本文に于山島の呼称がないことをもって、于山島に関する認識が変わったとか、于山島は独島ではないとすることはできない。

    于山国から「于山島」の呼称が派生し、これを文献上の呼称として見ることができるならば、「石島」の呼称が登場することになった背景は、「実見」の影響と見ることが出来る。独島を実際に見ればトルソム(訳注:石の島)であり、従ってこのトルソムを文献上に表記したものが「石島」となったと見ることができる。このように、実見の影響でトルソムを「石島」と呼ぶことが自然なことだとするならば、「石島」から「独島」に変わることになった背景は何か? これは二つの呼称の語源を通して知ることが出来る。

    普通、地名を表記する方式には、訓を借りる訓借表記方式と、音を借りる音借表記方式がある。韓国語の地名が文献に表記される時は漢字で表記されなければならないので、訓借あるいは音借方式が借用されたが、石島と独島という地名にもこの方式が適用される。石島を韓国語で解けばトルソムだ。ところで全羅道と慶尚道の人々は「トルソム」を方言である「トクソム」とも呼んだ。そこでトルソムあるいはトクソムが漢字で表記される時は「トルソム」の訓を借りて表記したり、「トクソム」の音を借りて表記する二種類の方式がともに適用された。前者の方法を取れば「石島」となり、後者の方法を取れば「独島」となる。

    私たちはこのような用例を、二種類の表記が見せた時代から遠くない資料で見ることができる。

    「朝鮮地誌資料」(1906-1914推定)と「朝鮮語地名」(1940)等がそれだ。これらの資料を見れば、「トル(石)」を石と表記したり「ドク」を「石」と表記した例、「トク」を「独」と表記した例が下記のように出てくる。

    (1)トルを石と表記した場合:ソンドル→立石里、トルゴゲ→石峴、トルモル→石隅里など
    (2)トクを石と表記した場合:トクタリ→石橋、トッケ→石浦、トッコゲ→石峴、トクソム→石島など
    (3)トクを独と表記した場合:トッコル→独谷、トンメドゥル→独山坪、トクソム→独島など、このような表記方式は日本も同じだった。

    1894年、仁川領事・能勢辰五郎は「トッソム」と聞いた地名を漢字で書いて「席島ではないか」と書いた。 また、日本は鬱陵島のそばのテッソムを表記する時は、竹島あるいは竹嶼と書いた。竹の意味を借りて表記したのだ。「石島」に対しても「トルソム(=돌섬)」あるいは「トトクソム(=독섬)」という読み方をつけている。

    日本は、島項は石島ではないという証拠を提示することを我々に要求している。それならば、日本は石島を島項と見ているというが、この論理は成立するのか?  鬱陵島周辺には、島項(島首、ソムモク)と観音島、竹島という島がある。1882年に鬱陵島を調査した李奎遠は「鬱陵島外図」に、島項と観音島に該当する島を描き入れたが、名称は二島間に「島項」という一つの名称だけ出てくる。島項を韓国語で解けば「島首」であるが、この島は鬱陵島にほとんどくっついている。ところが李奎遠の地図では、島項は鬱陵島から離れているように描いている。観音島も鬱陵島から離れてはいるが島項とは非常に近い。李奎遠が地図に「島項」とだけ描き入れたことは、この呼称に、島首(ソムモク)と観音島を二つとも含むと考えたからのようだ。

    1900年前後の日本の記録を見れば、「島項」が島牧、都頂などの似た漢字で表記された場合がある。また、竹島の他に観音崎という呼称も見える。この時の観音崎が観音島を示すことは容易に察することができる。 ただし、島項を島牧・都頂と間違って表記しているのは、島項が島首ソムモクの訓借表記であることを認知することができなかったのであり、このために島項と観音島を混同したものだ。このような混同の一次的な原因は、島項と観音島が互いに非常に近くにある島だというところにある。しかし、これら二島(島項と観音島)を石島と比較してみれば、これらと石島との距離は全く近くない。また、名称としても、島項と観音島、石島を並べて見れば、トルソム-石島、トクソム-独島で見ることができるような類似性を発見することも難しい。李奎遠と赤塚が鬱陵島の地図に鬱陵島と隣接島嶼だけを明記して、独島を明記してないのは、一次的な調査対象が鬱陵島だったためだ。
    (柳美林)

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  90. 新説登場





    反論33

    独島は新羅以前から韓国の領土だった


     『三国史記』の記録によれば、西暦512年に新羅が于山国を服属させたという。しかし、于山国の領域に独島が含まれるという証拠がないので、このような主張は正しくないと日本の一部学者は主張している。

     独島は昔も今も人が生きるには不適当だ。今は色々な科学的な施設が可能なので人が居住できるが、淡水が制限されていて耕作地が不足する独島に人が生きるということは、過去にはほとんど不可能だった。そのため、鬱陵島に人が居住し始めた後にも独島は無人島として存在するほかはなかった。だが、無人島として存在するからといって独島を認知できなかったということを意味するのではない。無人島であったとしても、鬱陵島から望み見えるために、常に鬱陵島の住民たちが認知していた島だった。

     もし独島が人々が居住できる島であって、そこに日本人たちが居住していたとすれば、いくら鬱陵島の住民たちが認知していたとしても領有権まで考えていたとは言えないだろう。しかし、無人島だったから、認知する程度だけを持ってしても十分に実効的支配の証拠になることができるのだ。

     常設国際司法裁判所は、1931年、クリッパートン島事件で「小さくて本土から遠く離れていて人が住んでいない無人島に対しては、実際的な人間の定住や統治行為は要求されない。」とし、1933年東部グリーンランド事件でも、「極地のように人間の活動が困難な場所では最小限の現実的な主権の行使及び発現だけでも充分だ。」と判示した。独島は遠く離れた孤島であり人間が居住できない環境であったため、認知する程度だけでも主権が発現したと言えるのだ。だから、川上健三は『竹島の歴史地理学的研究』において5ページにわたって奇妙な公式まで動員して、鬱陵島から独島は見えないということを立証しようと必死の努力をしたのだ。

     しかし、鬱陵島から独島が見えるという事実は公式によって証明されるのではなく、現地で肉眼で証明された事実だ。このように肉眼で確認される無人孤島の場合、これが、記録上、本島である有人島の領域内に入ったのか入らなかったかを突き詰めること自体が無意味だ。実際、朝鮮はその大きさをしばしば三千里と表現するが、これは鬱陵島はもちろん済州島も含まない陸地の大きさだけを現わしたものだ。それなら鬱陵島と済州島は朝鮮の領土ではなかったという話なのか? 鬱陵島の大きさ「地方一百里」に独島が含まれないために独島は除外されるという日本の一部の学者の主張がどれくらい雲をつかむようなものであるかを示す例だ。

     さらに、于山国自体が大韓民国の上代国とする時、512年に于山国が新羅に併合されて以来韓国の領土になったのではなく、それ以前に鬱陵島に人が居住し始めた時から韓国の領土だとしなければならないだろう。

    (キム・ビョンリョル)


                               

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  91. 反論49

    国際司法裁判所の裁判官はどんな人たちなのか?



     国際司法裁判所の裁判官は国連総会と安全保障理事会で3年ごとに5人ずつ9年の任期で選出される。これら両機関は同時に投票をするのだが、それぞれ分離して投票が行われる。裁判官になるためには、両機関で同じように絶対多数票を得なければならない。
     裁判官は再任されることができる。裁判官の任期中に事故が発生した時は、残余の任期に該当する候補を迅速に特別選挙によって選出しなければならない。裁判所長と副所長は裁判官の投票によって選出され、任期は3年だ。

     裁判官は、自国の最高裁判事に任命される資格がある人、若しくは国際法に名望のある人が立候補することができる。裁判官は1ヶ国から1人以上選出されることはできない。裁判官は地域別に定員が割り当てられていて、アフリカ3、ラテンアメリカ及びカリブ地域2、アジア3、ヨーロッパ5、東欧2で、この中には国連安全保障理事会の常任理事国に各1人ずつ割り当てられた人員も含まれている。裁判官に選出されれば自国やその他の国でいかなる公職も担当してはいけない。

     2014年現在の国際司法裁判所の裁判官は、所長ペテル・トムカ(スロバキア)、副所長ベルナルド・セプルベダ・アモール(メキシコ)、アプドゥルカウィ・アーメド・ユスフ(ソマリア)、シュエ・ハンチン(中国)、小和田恆(日本)、ジョアン・ドノヒュー(アメリカ)、ジョルジオ・ガヤ(イタリア)、ロニー・アブラアン(フランス)、モハメド・ペヌーナ(モロッコ)、クリストファー・グリーンウッド(英国)、ケネス・キース(ニュージーランド)、レオニード・スコトゥニコフ(ロシア)、ダルビル・バンダリ(インド)、アントニオ・カンサド・トゥリンダディ(ブラジル)の全15人だ。
     この中で、小和田恆は1932年生まれで日本の外務次官を経験し、現皇太子妃の父だ。2009年から2012年まで国際司法裁判所長を経た。だが、韓国はアジア地域3人という定員割当のために(現在はインド、中国、日本各1人)自国籍裁判官を有していない。

    (キム・ビョンリョル)

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  92. 反論50

    国際司法裁判所で問題を解決するのに必要な手続きは?



     国際司法裁判所に事件を任せるために国際司法裁判所の管轄権を受諾するのは、事件が発生する前にもできるし事件が発生した後でもすることができる。また、しないこともある。つまり主権国家の自由裁量事項だ。

     国際司法裁判所規定の当事国は、規定第36条第2項に定める法的紛争について国際司法裁判所の強制管轄権を受諾することができるし、受諾した後にこれを撤回することもできる。したがって、ある国家がこのような管轄権を受諾したといって自慢するほどのものでもなく、これを受諾しなかったといって非難を受けることでもない。また、多くの国が受諾をして撤回したりもする。フランスの場合、1947年に強制管轄権を受諾して1973年核実験事件に対する国際司法裁判所の決定があってこれを撤回したし、アメリカも1946年に強制管轄権を受諾したが、1985年ニカラグア紛争に対する国際司法裁判所の態度に不満を抱いてこれを撤回したことがある。2014年現在の国連加入国193ヶ国の中で強制管轄権選択条項を受諾した国は69ヶ国だ。また、受諾をした国々も多くの留保をしていて受諾が無意味な場合も多い。

     日本は国際司法裁判所規定第36条第2項による選択条項を2007年度に受諾したことがある。だが、韓国はこれを受諾しないでいる。したがって、独島問題については韓国が同意しない限り国際司法裁判所ではこの問題を扱うことができず、もし日本が単独で提訴するとしても事件名簿への記載さえされない。

     この問題に関連して、日本はあたかも独島領有権に対して韓国が自信がないので回避しているように宣伝している。だが、韓国は自信がないので国際司法裁判所提訴の提案を拒否しているのではなく、拒否することも主権国家の一つの権利であり、提訴して勝訴しても特別な実益がないので拒否しているのだ。

    (キム・ビョンリョル)







    <コメント>
     あははは。

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  93. 反論33 関連

    鬱陵島の考古学調査に日本人学者が入ったことはないのでしょうか?

    たぶん山陰系の土器とか、出ると思うけど。

    日本列島に朝鮮半島系統の土器があれほど出ているし、朝鮮半島にも日本系統の土器が出ている。当時は国境なんかないから、獲物(利用可能資源)がある鬱陵島には日本からも行っていたと思いますけどね。

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  94. 反論63

    史料に現れた安龍福の行跡と陳述は事実だ

    1693年と1696年、二度にわたって日本に行った安龍福の行跡をめぐる論議は、韓日両国で交錯している。 なぜなら安龍福の陳述が記録により違うためだ。安龍福の行跡を記録した日本の文献は、鳥取藩記録と対馬藩記録に分かれる。韓国文献は、「粛宗実録」、「承政院日記」、「備辺司謄録」などの官撰文書と、「星湖僿説」(1720以後)、「疆界考」、「雜同散異」(1759以後)等の私撰文書に分かれる。

    日本の記録は、安龍福を主に、乱暴で、官名を詐称して、虚勢を張った人物として描写しているのに対し、韓国の記録は、身分はいやしいが、日本語ができて、日本で鬱陵島と于山島を私たちの領土だと主張して私たちの領土を守った英雄と描写している。韓国では、18世紀になれば、安龍福の一代記を「安龍福伝」「安龍福史」等に別に記述するほど高く評価している。

    「百問百答」は、対馬藩の記録「竹島紀事」を引用して、安龍福が朝鮮に帰国した後の陳述を知るようになった対馬藩が、反論を提起した事実を取り上げた。すなわち、安龍福は江戸に行ったと言い、対馬で財貨と文書を奪われたと帰国後に陳述したが、これは事実ではないので、対馬藩が朝鮮の官吏に問い詰めたということだ。対馬藩は、安龍福が1693年、隠岐と鳥取での態度が長崎で変わったのは江戸の意志ではなく対馬の仕業だと述べた、という事実を知ることになって、それに対する弁論を「竹島記事」に書いた。これについて対馬藩は、「竹島から江戸まで7日で到着するはずがなく、丁重に扱ったり財貨を与えたりしたことは、罪人を保護して無事に陳述を受けるためで、財貨を奪ったのではなく非礼を正しただけだ」と弁論した。

    「竹島記事」によれば、金銀を奪ったところは対馬ではなく長崎だとして、そこにいた対馬藩の官吏が安龍福を引き取った後に奪ったものだとした。また「竹島記事」には、漁民二人が因幡太守の都城(訳注:鳥取)を江戸に行ったとしたのが最も思い違いした部分です」として、安龍福が因幡を江戸と勘違いしたと書いた。そして対馬藩は、「長崎でわが方の役人たちが受け取った後、金銀を奪ったと言ったのは意図したことでした」として奪った事実を認め、さらに自分たちの行為を正当化した。(訳注:この部分、「竹島記事」原文と対比の必要あり)

    「竹島記事」は、(1693年に)朝鮮に引き渡した安龍福が、罪人として捕縛されたのを見たと書いているが、同じ文献には「何年か前に朝鮮に送還された後に、捕縛されはしかったということだ」という正反対の記述も見える。安龍福が「江戸で私を逮捕した日本人は断罪された」と述べた部分に対しても、「竹島記事」には「私たちを捕まえた者を斬罪に処せと命じた後、丁重に接待を受けた、と話したと聞いたので」となっている。この話には伯耆でのことを事実と認定するという意味が内包されている。また、これは、対馬藩が1693年に安龍福が帰国した後の言動だけでなく、1696年の日本での言動に対しても比較的詳細に把握していたことを示している。こういう状況から見る時、安龍福の陳述は、彼が「朝鬱両島監税長」という官職を詐称したり、官吏の文書を関白の書契だと誤認した点を除けば、ほとんどの事実であることが、かえって日本側記録の「竹島記事」にあらわれている。
    (柳美林)

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  95. 反論62柳美林

    「安龍福事件」の結果、日本は鬱陵島と独島を朝鮮領と認定した

    1696年、隠岐での安龍福の陳述は、隠岐の代官が尋問して記述したものだ。だから安龍福の証言を虚偽とするならば、それは日本が自国の記録の信憑性に疑問を提起することになる。いわゆる「元禄覚書」に出てくる「八道図」とは、「八道地図」を間違って表記したものと見られる。元禄覚書に朝鮮の八道となっているが、これは八道地図を見て八道を書いたことを意味するからだ。元禄覚書の「江原道」の下には、「この道の中に竹嶋と松嶋がある」と記されている。これは日本の官吏が、八道地図に描かれた鬱陵島と于山島を、自国の呼称である竹島と松島に変えて記録したことを意味する。しかも朝鮮の八道地図には多くの地名があるのに、二島の名前だけを明記したことは、安龍福が二島を朝鮮の領土と強調して主張したことを裏付けている。

    ところで「百問百答」は、安龍福時代の地図を描いた神戸市立博物館所蔵の「八道図」に描かれた子山島が、鬱陵島のすぐに南側の近くあるので江戸時代の松島と合致しないという論理を展開する。すなわち日本は「八道図」に出てきた子山島を「新増東国與地勝覧」の「八道総図」に出てきた于山島と同一視して、従ってこれはもうひとつの鬱陵島であるだけで、独島ではないとしている。しかも日本は、17世紀末の安龍福事件以後、鬱陵島近くの東側に描かれた于山島は、現在の竹島(訳注:竹嶼のこと)だという。これは言ってみれば、「八道総図」の于山島、安龍福の子山島、神戸の八道図、安龍福事件以後の于山島を全部同一なものとして取り扱って、それが独島であることを否認しようとするものだ。そして于山島(子山島)は独島でなく、架空の島、あるいは竹島(日本名竹嶼)だと主張しようとしているのだ。

    しかし、上に言及された地図を、全部同様に取り扱わなければならないどんな根拠も提示されていない。特に、安龍福が持参した地図が「八道総図」なのかどうかについては、何の根拠もない。たとえ彼が「八道総図」系統の地図を持参したとしても、この地図に于山島は鬱陵島の西側に描かれているが、島に対する知見が確立されていなかった状態では、方向は間違えている可能性がある。この地図で重要なのは、東海上に二つの島を描いて、二島認識を見せているという点だ。安龍福が言う「子山島」は、元禄覚書にも「松島」と書かれており、独島を示すことは明らかだ。日本の古文献と地図に表記された竹島と松島は鬱陵島と独島を示すものであって、鬱陵島と竹島(訳注:竹嶼)を示すものではないことは、日本の記録が証明している。これを無視して日本の古文献と古地図が言う松島(独島)を架空の島と見るとか、鬱陵島近くの竹島(訳注:竹嶼)だと主張するのは、自国の記録を虚偽にしてしまうことになる。

    日本は、幕府が1696年1月に渡海禁止令を出したので、自国民の竹島渡海はなされなかったと主張する。 また、安龍福の拉致が契機になって朝日交渉が開始されたのであるから、関白が書契を書き与えることもありえないことだという。しかしで見たように、1696年1月の渡海禁止令は、直ちに鳥取藩に伝えられなかった。「百問百答」は、安龍福が1696年に伯耆で話す時、前回帰国する時関白の書契を対馬藩で奪われたといって、伯耆の官吏(安龍福は島主と称する)が「二島がすでにお前ら国に属したので(両島既属爾国之後)」(「粛宗実録」 22年9月25日)と話した事実を引用している。実録のこの記録には、二種類の事件が混ざっている。すなわち安龍福が書契を受けた時期と、これを奪われたと話した時期が混在している。安龍福が伯耆で以前の関白の書契を奪われたと話した時期は1696年だ。ところが、安龍福が「鬱陵島と子山島などを朝鮮の領土と定める」という書契を受けたのは1693年のことである。安龍福は、1696年の陳述で、関白の書契を奪われたので再び訴訟しに来たと言っており、この時には伯耆太守(鳥取藩主を示すようだ)は「二島がすでにお前ら国に属したので」といって素直に朝鮮の領土と認定している。ただし、伯耆太守が1696年に「二島がすでにお前ら国に属したので」と認めたのは口頭でのものだ。反面、安龍福が言う1693年に受けた関白の書契というものは、事実は鳥取藩(因幡)の官吏から受けたものではあったが、文書である。安龍福は、因幡を江戸と勘違いし、伯耆の官吏を関白と誤認したが、文書を受けたことは事実だと見られる。

    幕府の渡海禁止令が鳥取藩に伝えられた時期は、1696年8月1日以後で、安龍福一行が出港した時期は8月6日だ。安龍福一行が鳥取で調査された時期は、その以前である6月だ。この時の調査に対して、江戸にいた鳥取藩の官吏は、安龍福の訴状を確保したが通詞がいなくて詳しい内容を把握できなかった、と幕府に報告した。安龍福は日本語を話すことができるのに、このように言ったのは、安龍福が日本語は出来ないと偽装したのか、でなければ鳥取藩が幕府の問責を避けるために嘘をついたかの二つの内の一つだ。ただし、この記録で知ることが出来るのは、1696年にも安龍福が一種の訴状を伯耆太守すなわち鳥取藩に提出したという事実だ。安龍福はこの訴状で、以前に二島が朝鮮領土であることを認めた文書を受けた事実を記述しただろう。こういう色々な状況から見る時、安龍福が日本で朝鮮領土と認定した文書を受けたことは事実と見られる。また、当時、伯耆の官吏が安龍福に会っていることから、安龍福が持参した地図に二島が江原道所属として描かれていることを確認したという事実も知ることが出来る。

    日本は、安龍福が1693年に来たのが契機になって鬱陵島出漁をめぐる両国間交渉が始まったので、二島を朝鮮領土と認定した書契を与えたはずがないという。しかし、両国の記録により、安龍福が1693年と1696年に日本で二島が朝鮮領土であることを認める確認(文書と口頭)を受けたのが事実だとわかった。ただし安龍福は関白の書契だと言うが、事実は江戸の関白ではなく鳥取藩の官吏だったものと見られる。
    (柳美林)

    ・・・・・・・・・・・・・・・
    これをまとめると、以下のようになるでしょうか。

    1693(1回目)安龍福は、鳥取藩(因幡)の官吏から「二島は朝鮮領」という書契(文書)を受けた
              (鳥取藩は朝鮮領だと思っていた。)
             それを対馬で奪われた。

    1996(2回目) 伯耆の官吏(安龍福は伯耆島主という)から口頭で「二島は朝鮮領」といわれる。
             安龍福の取り調べは6月のこと。
             幕府が鳥取藩に禁止を伝えたのは8月1日以降
             禁止が伝わる前の認識を、安龍福に口頭で伝えた
    鳥取藩は禁止令をまだ知らない。鳥取藩は、二島は朝鮮領と思っていた。
    安龍福が鳥取を去ったのは8月6日

    時刻表のトリックのように、パズルとしては、はまっているようにも見えます。

    ただし、そもそも鳥取藩が「二島は朝鮮領と思っていた。」ということ自体がありえないことでしょう。
    朝鮮領だとわかっていて、鎖国下に外国に行くことについて、幕府の許可を得られていると鳥取藩が思っていたわけがない。

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  96. 反論61

    「鬱陵島争界」とはどんな事件か?

    17世紀後半、鬱陵島で漁労していた我が国の漁師が日本に拉致されたことから始まった両国間の領有権紛争を、我が国では「鬱陵島争界」、別名「安龍福事件」という。我が国の漁師は「鬱陵島争界」が起きる前から、鬱陵島に渡海していた。6世紀始めに于山国の人々が内陸に朝貢をしたという事実から推察する時、新羅時代から鬱陵島に人が住んでいたことがわかる。高麗時代と朝鮮時代には、国家が刷還政策をとり、鬱陵島に人が住まないようにした。それでも人々はこの島への往来をやめなかった。1692年に、すでに鬱陵島に朝鮮人50人余りと二隻の船が来て村川家の人々と出会ったことがあったという事実、そして翌年の1693年にも、慶尚道の船舶2隻、全羅道の船舶一隻に全40人余りが来ていたという事実は、朝鮮人の鬱陵島渡海が活発だったことを示している。

    1693年に、鬱陵島で漁労していた我が国の人々の中で、安龍福と朴於屯の二人が日本の大谷家の人々に拉致されて日本に連れられて行った。二人は、隠岐と鳥取で調査された後、長崎に送られた。江戸幕府は、調査後、二人を対馬を経由して送還するように指示する一方、対馬藩には朝鮮と交渉させるとともに、鳥取藩には島の所属に関連した色々な事情を問い合わせた。鳥取藩の回答を受けた幕府は、「1696年1月、米子の町人などの鬱陵島渡海を禁止することに決めて、この事実を対馬藩と鳥取藩に伝えた。」この時、幕府が渡海禁止令を出すことになった直接的な原因は、「朝鮮が自国の領有を譲歩しない」というよりは、二島が日本より朝鮮の側にさらに近いとみた鳥取藩の回答を認めたためだ。

    1696年5月の安龍福一行の第二次渡海については、日本の村上家で「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」が発見され、それまで安龍福の言動を嘘だと言っていた日本の主張が事実ではないことがわかった。

    1696年の渡海禁止令は、安龍福が二度目に来る前の、両国間交渉の結果として成立していたのに対し、「百問百答」は「対馬藩は1696年10月に藩に来た朝鮮使節に幕府の渡海禁止の決定を伝えた。その過程で当時松島と呼ばれた現在の竹島については、朝鮮との交渉で一切言及されていない。」と書いている。しかし、幕府が渡海禁止令を出すまでの過程を見れば、鳥取藩は竹島(鬱陵島)はもちろん、松島(独島)についての情報も把握していたし、これを幕府にも報告していたことがわかる。だから、渡海禁止令に松島が言及されていないからといって、対馬藩と鳥取藩、そして幕府に、松島についての認識がなかったと見ることは難しい。

    対馬藩は、江戸幕府から渡海禁止の指示を受けたが、朝鮮に伝えるのを遅らせたので、実際に朝鮮に伝えられたのは、訳官が帰国した後である1697年1月だった。対馬藩は、可能ならば渡海禁止令が朝鮮に先に伝えられた後に、鳥取藩の領地に伝えられることを希望して、これを幕府に提案した。これに対し、渡海禁止令が鳥取藩の領地の大谷・村川一族に伝えられた時期は、藩主が帰国した1696年8月1日以後であった。したがって渡海禁止令が出た後である1696年の春にも、米子の漁師は鬱陵島に渡って行って漁労していた。

    「百問百答」は、対馬藩が渡海禁止令を朝鮮に伝えた後、朝鮮側が送ってきた謝礼書簡の内容を問題にした事実を指摘している。しかし、これはむしろ朝鮮側が問題視しなければならない部分だ。対馬藩から書簡形式ではない状態で伝達されたにもかかわらず、東莱府使が朝廷に上申して書簡を受け取らせるようにしたためだ。朝鮮には口頭で伝達し、自分たちには書簡形式で与えられることを要請することは、欠礼であるという点は、日本も知っていた。ところが、対馬藩は朝鮮の答礼書簡の中で、対馬藩が問題にした内容、すなわち「欝島は私たちの土地である(欝嶋之為我地)」という部分を削除し、「竹島」という字だけ残すことを粘り強く要求した。これこそが、対馬藩の意図をうかがうことができる部分だ。すなわち、対馬藩は、「竹島」名称の残留に固執することによって、鬱陵島と竹島が同じ島ではなく別個の島であるように糊塗して、後日、「鬱陵島」ではない「竹島(=鬱陵島)」を侵奪する余地を残そうとしたと見られるからだ。1697年1月から1698年3月まで、日本は謝礼書簡の内容を問題視して改正を要求したのだが、1699年3月、対馬藩が回答書契を朝鮮側に伝達することによって、両国間の長い争界は妥結した。
    (柳美林)

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  97. 61、62、63を逆に翻訳してしまったためにわかりにくくなってしまいましたが、この順番に読んだ方が良いでしょう。
    なんとかして、「安龍福の虚言」を、実は事実だったのだ、と強弁したい心理が見えます。


    朝鮮人漁夫が鬱陵島に来たのは、安龍福ら二人を連れてくる前年で、それまでは朝鮮人の姿は見たこともなかった、と大谷(村川だったかな?)の漁師が言っていることは、昔、ここで検討した『竹島図説』に引用された鳥取藩の文書で見ました。
    それよりずっと前から朝鮮人漁夫が鬱陵島に行っていた、という柳美林の言説には根拠になる文献がありません。

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  98. 世界日報
    http://www.segye.com/content/html/2014/06/28/20140628000573.html

    "日、英米シンクタンクに官僚派遣して「独島領有権」広報"

    SNS活用して「独島は日本の領土」メッセージ発信することに

    入力2014-06-28 13:36:30,修正2014-06-28 13:36:30


    日本政府が独島に対する領有権主張を強化するためにアメリカ、ワシントンや英国、ロンドンにあるシンクタンクに政府関係者を派遣することにした。

    日本政府は27日、内閣府で「領土・主権対外発信会議」を開いて、独島と尖閣(中国名釣魚島)列島に関する主張をさらに積極的に広げることに方針を定めてこのような対策を用意したと産経新聞が28日報道した。

    日本政府はまた、安倍晋三日本総理のフェイスブックをはじめとするソーシャルネットワーク サービス(SNS)を利用して「独島は日本の領土」というメッセージを発信する予定だ。

    山本一太日本領土問題担当相は"中国軍航空機の異常接近や韓国の(独島近隣での)射撃訓練があった。日本の正しい主張を強く前に出す必要がある"としながら"中国、韓国に対抗するために重層的な発信をしなければならない"と話した。

    安倍内閣は今年4月「日本領土である独島を韓国が不法に占拠している」という主張を入れた小学校5・6学年社会教科書を検定で通過させて東京の領有権を主張する集会に内閣府副大臣(次官)を参加させるなど挑発を繰り返している。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・
    東亜日報も報道しています。
    http://news.donga.com/Inter/3/02/20140628/64771944/1
    もともと聯合の記事のようです。


    産経新聞のもと記事
    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140628-00000102-san-pol
    情報戦「中韓に対抗」 山本担当相 尖閣・竹島の発信強化
    産経新聞 6月28日(土)7時55分配信
     政府は27日、内閣府で開いた領土・主権の対外発信会議で、領土問題の対外情報発信をさらに強化する方針を決めた。尖閣諸島(沖縄県石垣市)や竹島(島根県隠岐の島町)に関し、中国、韓国がプロパガンダ(政治宣伝活動)を通じ対外的に領有権の主張を強めているのに対し、日本は小粒な対応にとどまっていることから、従来の取り組みを大胆に見直す構えだ。

     山本一太領土問題担当相が会議で「中国軍機の異常接近や韓国の射撃訓練があった。日本の正しい主張を強く押し出す必要がある」と表明した。

     具体的には、ワシントンやロンドンなどの世界的に影響力があるシンクタンクに政府関係者を派遣して働きかけを強めるほか、安倍晋三首相のフェイスブックなどソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用し、政府の情報発信能力を高める考えだ。

     会議では、政府の情報発信分野の平成26年度予算の執行状況を分析した。

     内閣官房の領土・主権対策企画調整室がホームページをリニューアルして尖閣諸島や竹島の写真を多用した事例や、外務省が領土問題の動画を投稿サイトにアップした取り組みなどを報告。ただ、海外のシンクタンクやメディアを通じて官民一体で領土に関する情報戦を仕掛ける中韓の取り組みに比べると“小ぶり”との印象は拭えなかった。

     山本氏は会議後、記者団に「中国、韓国に対抗するため重層的な発信をすべきだ」と指摘した。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    >「日本は小粒な対応にとどまっていることから、従来の取り組みを大胆に見直す構えだ。」

    さあ、なにをするのか、期待しましょう。
    内閣改造前に、結果を見せてくださいよ、猫大臣。

    それにしても自分のSNSでは領土問題についてあまりつぶやかない人ですね。

    https://twitter.com/ichita_y


    領土対策室のウェブサイトが新しくなった。デザインを変え、コンテンツもより分かりやすく整理。ぜひ、アクセスしてみてください!
    http://www.cas.go.jp/jp/ryodo/
    https://vine.co/v/MtUl6t9BrBa



    大臣つながりで、このほかの最近の記事(韓国側の反応)

    http://www.yonhapnews.co.kr/politics/2014/06/25/0503000000AKR20140625174300073.HTML

    日 総務相 "独島領有権問題政府全体が努力しなければ"

    2014/06/25 19:03 送稿
    (東京=聯合ニュース)チョジュンヒョン特派員=日本の新藤義孝総務相が25日島根県を訪問、"竹島(独島の日本式名称)領有権をめぐる問題は政府全体が努力して必ず解決しなくてはいけない"と話した。

    新藤総務相は島根県隠岐の島町の資料館を視察した席で"歴史の事実を広く知らしめるのは国家の主張が前進することに連結されること"としながら、このように話したと共同通信が報道した。

    彼は資料館で、日本が過去、独島周辺でしたと主張するアシカ猟関連写真と独島から持ってきたという石などを見回した後"生活と経済の証拠がたくさん残っているので、必ず村を復興させるのに活用すれば良いだろう"として"国家として支援したい"と明らかにした。

    新藤総務相が訪問した島根県隠岐の島町は、日本政府が行政区域編成上独島の管轄地に定めおいたところだ。

    靖国神社にしばしば参拝する強硬右翼政治家である新藤総務相は、自民党が野党時代だった2011年8月、韓国の独島支配強化実態を調べるとして鬱陵島訪問の途に出て金浦空港で入国を拒否された人物だ。

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  99. 反論51

    国際司法裁判所で裁判はどのようになされて、何が重視されるのか?



     国際司法裁判所の裁判は仲裁裁判に比較すれば非常に制度化されているが、国内裁判に比較すれば相変らず不完全な方だ。
     一応、書面手続き、口頭弁論の手順を踏むが、書面手続で裁判所が必要だと判断すれば国際審査鑑定または現場検証を実施することができる。そして禁反言の原則(estoppel principle)といって、当事者が過去に取ったのと異なる立場を取ることを許容しない。例を挙げれば、1905年に島根県告示第40号に基づいて独島を編入する際、韓国が抗議できなかったことを黙認だと裁判所が判断する場合、韓国に不利に作用するかも知れない。

     裁判所は、仲裁裁判の場合とは違って欠席裁判も可能だ。両当事国が裁判に依頼することに合意した後、一方の当事国が何かの事情によって裁判に参加しない場合でも裁判所は裁判手続を進めることができる。ただし、この場合、参加しない側に不利に判決をするのではなく、事実と法律に基づいて慎重に判決される。このような欠席裁判の事例は少なくない。
     そして、国内訴訟と同じように、その訴訟の判決に対して利害関係を持つ他の国家も追加的に裁判に参加することができる。

     領有権問題に関連して、裁判所は歴史的な権原、関連条約、実効的な支配などを根拠に判決をする。大部分の事件で、歴史的な権原については両当事者がほぼ似たような主張をするので、特別な内容がない限り関連条約を検討することになるが、条約がなかったり条約の内容上その領土の領有権が明らかでない場合には実効的な支配を検討することになる。
     1998年エリトリアとイエメン間のチュカル・ハニシ島等島嶼事件で、仲裁裁判官は、実効的占有を島に関する立法行為、海に関連した行為、島に関連した行為、その他の行為に区分して検討した。裁判官は立法行為をまず検討した後、海に関連する行為としては島の周辺海域での行為許可、漁船拿捕、その他行政許可行為、海難救助行為、巡回査察行為、海洋環境保護行為、個人の漁労行為の順で検討し、島に関連した行為としては、島の軍事警戒所設置行為、島における行為に対する許認可行為、島で起きた行為に対する刑事及び民事裁判管轄権行使、灯台の設置及び維持行為、石油ボーリング作業に対する許認可行為などを検討した。その他の行為としては、上空飛行及び上記言及された行為に含まれなかった諸般の行為について検討した。

    (キム・ビョンリョル)

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  100. 反論52

    国際司法裁判所判決の形式と効力



     裁判所は紛争に関する訴訟手続きを進めて一定の結論に到達することになるが、この結論がすなわち判決だ。判決は参加した裁判官の多数決で決め、可否同数である時には裁判長が決定投票権を持つ。1966年西南アフリカ事件の時、裁判長が決定投票権を行使したことがある。
     判決文は事件の個別化の部分、判決理由の説明、判決主文の3部分とされている。判決主文には判決決定に賛成した投票数を表示する。判決が全員一致でない場合は少数者意見を明らかにすることになるが、少数者意見には個別意見(separate opinion)と反対意見(dissenting opinion)があり得る。個別意見というのは、判決の結論には意見が一致するがその結論に到達することになる法律的論証ないし理由説明において意見を別にする裁判官が、自らの論証ないし理由とその正当性を明らかにするものだ。別途意見ともいう。
     反対意見は、判決の結論自体に反対する意見だ。すなわち、多数決で少数に属する裁判官が作成する理由書だ。この場合、反対の意志だけでなく、そのような意見に至った理由も明らかにしなければならない。

     国際司法裁判所の判決は強制的であり終局的だ。判決が確定すれば再び争うことはできず、同じ事件が再び訴訟上問題になっても、当事者は判決と異なる主張をすることができず、裁判所も異なる内容を宣言できない。これを既判力というが、既判力はその裁判を受けた事項と当事国にだけ強制力を持つ。当事国は判決に服従しなければならないが、特別な場合、裁判所規約第60条、第61条による解釈要請や新事実の発見に伴う判決修正の要請ができる。判決の強制的執行は国連憲章第94条第2項によって可能ではあるが、現実的には難しい。

    (キム・ビョンリョル)

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  101. 反論53

    韓国が国際司法裁判所回付の提案に応じなければならない理由があるのか?



     連合軍総司令部指令第677号と第1033号にも拘わらず、日本人たちの独島に対する侵犯は続いた。1948年8月まで、マッカーサーラインを侵して拿捕された日本漁船の数は20余隻に達した。サンフランシスコ講和条約の発効でマッカーサーラインが撤廃されるや、日本人たちの独島侵犯がより一層頻繁になることを憂慮した韓国政府は1952年1月18日平和線を宣言して日本漁船の接近を防いだ。すると日本政府は巡視船を派遣し始め、さらに独島に日本領という標木まで設置して韓国漁師の操業を妨害しようとした。これに対し、独島で漁労作業をしていた漁師たちは色々な面で大きな威嚇を感じることになった。
    結局、鬱陵警察署では独島巡邏班を組織して独島を警備しようとした。だが、片道航海だけでも8時間以上かかる独島を巡邏班だけで効果的に警備するということは、事実上不可能に近かった。これに対し、1954年5月末からホン・スンチルを中心にした独島義勇守備隊員が自発的に独島に入って日本人たちの接近を防ぎ始めた。彼らは政府から何かの補償を受けるために独島に渡って行ったのではなく、純粋に日本の挑発から漁民の漁労活動を保護するために行ったのであり、日本の挑発がなかったとすれば渡って行くことはなかっただろう。

     義勇守備隊が独島で警備をするようになるとすぐに、日本政府は独島問題を国際司法裁判所に回付して解決しようという提案をすることになる。独島問題は日本が侵奪の野心を捨てさえすれば済むことなのに、韓国政府にこの問題を持って裁判をしようと提案をしてきたのだ。韓国政府としてはこれを当然断り、以後も同じ立場を堅持してきた。常設国際司法裁判所や国際司法裁判所は紛争を明確に定義している。 ところが日本は、釣魚島問題で中国と戦争も辞さないとしながら、釣魚島はいかなる紛争もない日本の領土だと主張している。平穏な独島に対しては紛争があると強弁し、戦争まで云々する釣魚島には問題がないという二重的な態度を取っているのだ。また、エトロフ、国後、シコタン、ハボマイなどクリル4島に対しては国際司法裁判所で解決しようとロシア側に話も持ち出せずにいる。

     韓国の立場では、国際司法裁判所で勝訴したとしても現在の状況より良くなるものではない。国際司法裁判所で敗訴したからといって、日本の非常識な極右派や為政者が素直に独島をあきらめはしないためだ。それをなぜ、韓国が独島問題を国際司法裁判所に回付しなければならないということか?
    (キム・ビョンリョル)








    <コメント>



     あはははは。

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  102. >韓国の立場では、国際司法裁判所で勝訴したとしても現在の状況より良くなるものではない。国際司法裁判所で敗訴したからといって、日本の非常識な極右派や為政者が素直に独島をあきらめはしないためだ。


    日本は国際司法裁判所の結果に従う、と明確に言い続けていますよね。
    どうしてこういう歪曲をして恥じないのでしょうか?

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  103. This comment has been removed by the author.

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  104. 反論36

    韓国人は日本が編入する前から独島に渡海していた

    1694年に張漢相が鬱陵島東側にある海蔵竹が大量に育っている島として描写したのは、竹島(訳注:竹嶼のこと)を指す。しかし彼は竹島以外に他の島の存在にも言及した。彼は鬱陵島の聖人峯に上がって「東側の海を眺めると、東南のほうに島一つがかすかにある」のを見たと記録した。彼はこの島を于山島と呼称することはなかったが、竹島が別に言及されているので、この竹島を除外して遠く東南の方にある島ならば、于山島だけが残る。

    従って彼が描写した島は、竹島ではなく独島を示す。朴錫昌が「鬱陵島図形」で「海蔵竹田 所謂于山島」としたのも、海蔵竹がある竹島を示す。ただし「于山島」といわないで「所謂于山島」といったので、過去から伝えられる于山島、すなわち独島についての認識と混同していることがうかがえる。「所謂于山島」という表記から「竹島」表記に変わるのは、李奎遠になってからだ。

    日本は、「世宗実録地理誌」、「新増東国輿地勝覧」、「東国文献備考」、「萬機要覧」、「増補文献備考」などに出てくる于山島を、すべて独島とは関係ないものと見ている。「東国文献備考」に「于山島は倭がいう松島 (現在の竹島)だ」としており、松島が独島であることは明らかだが、これを否認することは誤訳を越えた歪曲だ。

    日本は、鬱陵島の韓人が独島に漁労することになった原因を日本人の雇用に求めたが、これは事実でない。
    全羅道の人々は、1882年の開拓令以前から、そして江原道と慶尚道から鬱陵島に移住した人々は、開拓当時から、独島でワカメとアワビ採取などの漁労活動をした。また韓人が独島を認知した事実は、日本人に雇用された事実とは別個だ。1900年に著述された「韓海通漁指針」(1903年発刊)によれば、「韓人とわが国の(訳注:日本の)漁師はこれをリャンコと呼ぶ...この島には、海馬が非常にたくさん棲息している。近海にはアワビ、ナマコ、テングサなどが豊富だ」とした。この記録は、韓人が1900年以前から独島に渡航して漁労していたことを示している。

    韓国人が主体的に渡航したことがないという日本の主張は、全羅道の人々の証言を認めないところから始まる。1953年、日本の外務省は独島渡航経験があった者を面接して調査したことがある。これは日帝強占期にあった自国民の独島渡航を、自国による実効支配の根拠に援用するためだ。自国民の証言は認めて韓国人の口述証言は認めないならば、それこそ二律背反的だ。

    外交部が最近リーフレットで、三峰島と加支島についての内容を除いたのは、三峰島と加支島が鬱陵島の別称であることを認めたのでなく、これらは独島を示すけれども鬱陵島を示したりもするので独島呼称が明らかなものだけを明記することにしたと見なければならない。
    (柳美林)

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  105. 反論37

    編入の報せに接した韓国(人)はすべて独島が鬱島郡所属という反応を見せた

    日本は、大韓帝国政府が日本の編入事実を知ることになった1906年に、統監部に抗議はおろか照会さえした形跡がないという。日本が独島を不法に編入した時期は1905年2月だが、韓国にこの事実を知らせたのは1906年3月末だった。日本人官吏から編入通知を受けた沈興澤郡守は、その翌日「本郡所属独島が...」で始まる報告書を上げた。江原道観察使代理・春川郡守・李明来は、この報告書を議政府参政大臣・朴斉純に上げ、朴斉純は「独島が日本領地だという説は根拠がない」(1906年5月10日、指令第3号)という指令を下した。このような反応こそ、当時の独島に対する大韓帝国(官吏)の認識を見せる。

    1906年5月1日付「大韓毎日新聞」は、「内部が指令するには、遊覧する道で地界と戸口を記録して行くことは奇怪なことではないが、独島と称し日本属地といったことは、決してそのような道理がないことなので、今回の報告は非常に驚くべきことだ、といったという」と報道した。これは、内部も沈興澤の報告を受けたことを示している。沈興澤が報告書を作成した日は3月29日で、報告書が李明来に伝えられた日は4月29日であり、これが議政府に受け取られた日は5月7日だ。「帝国新聞」の報道は、1906年5月1日付だ。したがって内部には4月29日と5月1日間に報告されたことがわかる。この記事にはまた、内部が「日本理事に交渉して処断しなさい」とある事実も引用されている。これは、内部が編入事実に接するやいなや、理事庁すなわち統監部と交渉しようとしたことを語る。外交権を剥奪された後だが、大韓帝国としては出来る措置は尽くしたのだ。従って統監部に何の抗議もしなかったという日本の主張は事実でない。

    議政府は、5月7日に報告書を受けたるとすぐに、5月10日、参政大臣名義の指令第3号を出した。このような一連の過程は、編入事実を知ることになった大韓帝国が、どれくらい敏捷に対応したかを見せている。

    「皇城新聞」 1906年7月13日付記事は、統監部が7月に内部に鬱島郡の設置沿革を質問し、内部がこれに対し回答した内容をのせている。内部は、鬱道郡の設置沿革について「郡守を配置したので、郡庁は台霞洞に置き、この郡が管轄する島は竹島と石島で...”と回答した。すなわち内部は、勅令第41号の内容をそのまま統監部に回答したのだ。

    「独島」呼称が知られた後なのに、内部が勅令の「石島」表記をそのまま使ったのは、統監部に送る公文書であるから勅令第41号の名称をそのまま使ったので、「独島」呼称を知らなかったからではなかった。これは1908年の「増補文献備考」に、「東国文献備考」の「于山島」をそのまま使っていることとも同じ論理だ。

    1902年に内部が「鬱島郡節目」を出したことは、勅令頒布以後にも確立されない鬱島郡の規律と行政を正す目的であった。節目が石島や独島に言及しなかったとしても、これが勅令と別個ではないことは、その中に「本郡が陞設されて二年が過ぎたのに、全島の庶務がまだ草創であることが多い中で...」として、節目が勅令の事後措置で出てきたことを明確に明らかにしたことでも知ることが出来る。もし独島が我が国の領土だという認識が本来からなかったとすれば、沈興澤郡守の報告に接した中央政府と、官吏、言論までがこれほど終始一貫した反応を見せたはずがない。日帝協占期に「独島」に関する言及が見えなかった理由は、日本によって編入された後であったことと武断統治下の植民地状態が続いたためだ。国権回復が最優先課題である時代に、遠く離れた離島に対する記録がないことを理由に韓国の独島領有権を否認するのは帝国主義的な論理である。
    (柳美林)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    >外交権を剥奪された後だが、大韓帝国としては出来る措置は尽くしたのだ。従って統監部に何の抗議もしなかったという日本の主張は事実でない。
    >외교권을 박탈당한 뒤이지만 대한제국으로서는 할 수 있는 조치는 다했던 것이다. 따라서 통감부에 아무런 항의를 하지 않았다는 일본의 주장은 사실이 아니다.

    うわっ!
    これまでの主張を、あっさり変えちゃっている!

    「統監部に何の抗議も出来なかった」というのが、これまでの主張じゃなかったの?

    やはり「帝国新聞」という新資料の発見を取り入れると、こういう説にならざるを得ないんでしょうね。

    *대한매일신문「大韓毎日新聞」は、대한매일신보「大韓毎日申報」の間違い。

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  106. イ・ソリの最後の二つです。
    これで終わりでしょうか?


    反論87

    慶尚北道の独島守護活動

    日本の島根県議会が2005年3月、「竹島の日」条例を制定し、独島領有権を傷つけ、独島挑発を敢行すると、慶尚北道は島根県と姉妹提携関係を直ちに破棄して独島専門担当部署を設置し、独島守護意志を対内外に知らせた。 以後、慶尚北道は10月を「独島の月」と決める条例を制定(2005.7.4)して、独島に住んでいる住民の生活安定のために「独島居住民間人支援に関する条例」を制定(2006.11.2 /施行2007.1月)するなど、独島領有権強化のための制度的装置を作った。

    2008年7月14日、日本の文部科学省が中学校社会科教科書の新学習指導要領解説書に日本の独島領有権を明記することにした方針を発表すると、慶尚北道は領土守護次元できっぱりと対応する必要性を痛感し、独島守りチームを独島守護対策本部に拡大改編(2008.7.17.)して今日に至った。

    慶尚北道の独島政策の基調は、わが政府の対応原則により、日本の政府次元の行為にはわが政府が主導的に対応し、日本の地方政府次元の行為には慶尚北道が主導的に対応するということだ。慶尚北道は、中央政府と連係して、独島の持続可能な利用と保全のための領土管理基盤造成に努める一方、文化芸術コンテンツと客観的論理で世界と疎通する多様な広報事業も推進している。

    慶尚北道は独島領土主権強化のためのインフラ構築と研究事業を支援し、文化・芸術を通した感性的広報で世界の人に平和の島・独島のイメージを刻印するための事業を展開している。慶尚北道の独島広報の基本方向は、国内外に文化芸術を通じて独島を正しく知らせるというものだ。このために独島広報資料と広報物製作・配付はもちろん、「全国歴史地理教師独島フォーラム」、「原語民教師独島探訪」、「外国人留学生独島愛韓国語弁論大会」を開催するなど、多様な階層を対象に独島探訪プログラムを運営してきた。「独島論文公募展」、「独島記念品公募展」、「独島旗公募展」、「独島国民歌曲公募」、「独島文芸大典」のような各種公募展を通じて、一般国民の独島に対する関心を参加に誘導する事業を展開している。また一般国民に独島を正しく知らせるために「独島愛巡回展示会」、「独島市民講座」、「独島解説者養成」、「訪ねて行く独島巡回(青少年)教育」プログラムも行っている。

    また、平和の島・独島イメージ向上のためには、独島で多様な文化芸術行事を開催してきた。慶尚北道は「独島韓服ファッションショー」、「独島音楽会」、「独島フォークフェスティバル」、「安東車戦遊び」を独島現地で開催したし、「安龍福芸術祭」、「独島ミュージカル」等多様な形態で独島を知らせてきた。また「サイバー独島」ホームページを運営してオンラインを通した独島総合情報を発信している。利用者の便宜を考慮した学習情報、動画、写真などの提供はもちろん、これを国際社会に広報するために、英語、日本語、中国語でもサービスも提供している。

    慶尚北道で製作した各種広報資料とDVDは、外国語でも製作して海外に配付している。L.A.、ニューヨーク、シドニー、ベトナムのホーチミンなどの地を直接訪ねて行って「独島巡回展示会」および「独島講演会」を開催するなど、海外広報にも努めている。

    合わせて、研究基盤構築と活性化のために、道内の大学および研究所9個の機関が参加した「慶尚北道 独島研究機関 統合協議体」と、日本史料の客観的解釈のために専門研究者で構成した「慶尚北道 独島史料研究会」を運営して、独島研究の体系化を期している。この外に、日本の教科書歪曲に対応するための専門家討論会、独島関連国内外学術大会を開催することによって、独島研究の活性化を通した対応論理を蓄積していきつつある。
    (イ・ソリ)

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  107. 反論88~102 

    島根県は日本国民に歴史歪曲を先導している

    第9部は、全体的に島根県が行っている独島関連の主な活動についてのことだ。
    第一に「竹島の日」の条例制定と「竹島の日」の行事を毎年開催することだ。ところで島根県が制定した「竹島の日」条例(2005.3.25公布・施行)第1条には、「県民と県が一体となって、竹島の領土権早期確立および竹島問題の国民世論啓蒙を企てるために竹島の日を制定する」と明記されている。アンダーラインをひいた「国民世論啓蒙」という部分の日本語原文は「国民世論啓発」となっている。「啓発する」の意味を辞典で調べてみれば「知恵や才能、思想などを呼び覚ます」だ。すなわち、島根県で条例を制定する2005年当時には、一般国民は独島に対する認識がなく、独島が日本の領土であることを日本国民に呼び覚ますために条例を制定したことを自ら明らかにしている。これが日本が主張する日本固有領土論の現実だ。実際に、2005年以前には、日本国民の大多数は独島の存在さえ知らなかった。言い換えれば、日本国民の大多数は日本の領土範囲さえ知らずにいたということだ。これが果たして日本固有の領土なのだろうか?

    二番目に、島根県は独島が日本固有の領土であることを国民に呼び覚ますために日本政府をたきつけて彼らのシナリオを書いている。日本の文部科学省は、2008年7月、中学校社会科教科書の学習指導要領解説書に「独島」を明記することにした方針を発表したのに続き、2014年1月には、独島を「日本固有の領土」と明記することにした方針を発表した。また、このような方針と関係なく、2014年4月の小学校教科書検定結果、5・6学年社会科教科書には8種のすべての教科書で「竹島は日本固有の領土」と明記した事実が明らかになった。これで小・中・高校のすべての社会科教科書に独島を日本固有の領土と明記して、育ちゆく若い世代が、無意識的に独島が日本固有領土と認識するように教育を受けるようにしたのだ。

    三番目に、島根県は独島教育を全国に拡散するために「竹島問題研究会」を組織して運営している。2006年6月に第1期研究会を組織して以来、現在まで第3期研究会を運営しているが、独島教育のための資料を提供する活動をしている。さらに、2014年2月には「百問百答」を発刊して一般の人たちの独島教育までその活動領域を拡大している。

    四番目に、島根県は絶えず中央政府に独島関連の事業を建議要請しているが、その内容を見れば、1.政府は国民世論啓蒙および国際社会に対する広報を積極的に展開すること 2.領土権早期確立のために国際司法裁判所(ICJ)提訴など外交交渉を新しく展開すること 3.国民世論拡散のために「竹島の日」行事を政府主催で開催すること 4.独島問題に関する広報施設を隠岐に設置すること 5.国境に位置した離島に対して特別支援措置を講じること、などだ。 すなわち島根県は周期的に中央政府に要請して自分たちの主張を貫徹させようと動いている。

    以上のように、島根県は自分たちが作成した独島に対する「国民世論啓蒙」シナリオを一つずつ実行に移すだけでなく、国際社会にまでその世論を広めようと血眼になっている。しかし独島は、歴史的、地理的、国際法的に明確に大韓民国の領土だ。そして独島は、帝国主義日本が韓半島侵奪を本格化して生じさせた、初めての犠牲地だった。日本は、このような厳然とした歴史的事実と誤りを隠して合理化しようとする醜態を止めて、人類の平和と共栄を追求する国際秩序に参加しなければならない。特に島根県は、自分たちの目の前に置かれた利益追求にだけ汲々として、歪曲された事実を伝播する形態をもうそろそろ終わりにして、歴史的真実を謙虚に受け入れ、国際社会の責任ある一員として新たに出発することを心より望むものである。
    (イ・ソリ)

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  108. あと二つです。



    反論54

    国際司法裁判所に付託された事件の中で独島問題と類似のものがあるのか?



     国際裁判の場合、それぞれの事件がその当事国や内容、提出した証拠などで全て異なるので、既判力というものは同一の当事者、同一の事件にだけ限定的に適用されるだけだ。マンキエ・エクレオ島事件もやはり、独島問題と似ているように見えるが全く相異なる。

     まず、マンキエ・エクレオ島事件の場合、両国の歴史的権原についての主張に優劣をつけることが難しかったが、独島問題は、明確な韓国の領土を17世紀に日本が鬱陵島で不法操業をすることによって知って利用することになったところが違う。併せて、マンキエ・エクレオ島事件は両国のどちらも自分たちの領土ではないということを認定したことはなかったのに反し、独島は17世紀に自分たちの土地でないという事実を日本江戸幕府が明確に認め、これ以上日本人漁師が渡海して操業することを厳格に禁止したことがある。それだけでなく1877年に太政官指令を通じて独島は日本の領土ではないともう一度認めた。
     そして、マンキエ・エクレオ島は、どちらの国も無主地の編入とか固有領土の再確認のための編入という話にもならない措置を取ったことはないが、独島は、露日戦争の必要性によって日本が編入という美名の下に奪取した上で、無主地の先占だとか固有領土の再確認という話にもならない主張をしている。

     日本はこのように歴史的な権原の側面でも戦争の必要性によって編入したという側面で弱点があるので、これを隠そうと、実効的支配を口実にした色々な措置を持続的にしてきた。
     代表的なものとしては、1905年島根県告示第40号による編入措置、島根県の官有地台帳登録、独島でのアシカ漁業許可、漁労のための独島の賃貸借および土地使用料の徴収、1952年平和線宣言時の外交的抗議、1952年駐日米軍爆撃演習場として提供、1954年辻富造に燐鉱石採掘許可、1959年肥後亨の住民登録、1960年同じく肥後亨の国家賠償請求事件、1961年上記辻富造の国家および島根県を相手にした損害賠償請求事件などがそれだ。特に、日本人が居住できない島に住民登録を申請・許可したり、上陸が不可能なのに燐鉱石採掘許可を出してこれを口実として損害賠償請求の訴を提起するようにすることなどは、純粋にマンキエ・エクレオ島事件の判決に影響を受けた後に「実効的支配」という迷妄に捕われて意図的にしていることだと非難されて当然な行為だ。だが、このような行為は全て不法無効な1905年島根県の編入を前提としているので、当然無効というべきだ。

    (キム・ビョンリョル)

                                       

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  109. 反論55

    独島は実効的支配の対象ではない



     「実効的支配(effective control)」は、無主地先占において「領有の意志(annimus occupandi)」とともに要求される要件だ。もし独島が無主地だったなら、韓国がこれを先占するために実効的支配をしているという表現を使うこともできるだろう。だが、独島は無主地なのではなく鬱陵島に人が居住し始めて以来韓国の領土であった。このように韓国の固有領土である独島に対して「実効的支配」という表現を使うのは正しくない。韓国は独島に対する領有権を平穏で自然に行使しているのだ。

     参考までに、実効的支配を三つほどの側面から具体的に調べれば次のとおりだ。
     まず、支配の主体は国家でなければならない。単純な自然人の行為は、国家からの委任など特別な他の理由がない限り実効的支配と認められ難い。ただし法人体(東インド会社)の場合、1928年パルマス島事件のように自国国家の代理行為と判断した場合もある。
     次に、支配の対象は無主地であるか、ある国家の領土の一部だったが放棄の意思が確認された地域でなければならない。したがって、独島の場合、無主地でもなかったし朝鮮がこれを放棄するといういかなる措置もしたことがないので、日本がこれを実効的に支配したということも成立しない。

     最後に、支配の構成要素は、心理的要素として「領土化」、すなわち占領の意図と客観的要素である「持続的であり平和な国家権力の行使」など二つの要素をともに備えなければならない。1998年エリトリアとイエメン間のチュカル・ハニシ島等島嶼事件において、仲裁裁判官は実効的占有を根拠に判決をしたことがある。結論的に、韓国が独島を実効的に支配しているという表現は正しくないのであり、これは韓国が日本が主張するように独島を「平穏に支配しておらず」ではなく、本来から独島は無主地ではない韓国の固有領土であるためだ。

    (キム・ビョンリョル)








    終了(^^)/



                                                            

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  110. Chaamiey様

    お疲れ様でした。
    とにかく翻訳しちゃおうと、途中のちゃちゃ入れをあまりしないでいましたが、
    ゆっくりさかのぼってやっていきます。

    つっこみどころはたくさんありますね。

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  111. 柳美林(ユ・ミリム)の経歴 
    『わが史料の中の独島と鬱陵島』2013.11.15刊より

    http://www.jisik.co.kr/book/view.asp?num=24766

    梨花女子大学 政治外交学科
           同 大学院 卒業(政治学博士)
    韓国古典翻訳院 国訳演修院 修了
    日本 東京大学 法学政治学研究科 修学
    韓国海洋水産開発院 独島研究センター 副研究委員 歴任
    現在 韓亜文化研究所 代表

    主要論文
    『朝鮮後期の政治思想』 知識産業社 2002
    『韓国政治思想史』 共著 百想書堂 2005
    高等学生用 『独島 早わかり』(柳美林ほか 東北アジア歴史財団 2011
    初等学生用 『独島よ 愛しているよ』(柳美林、許英蘭 天才教育 2012
    中学生用  『美しき 独島』(柳美林、許英蘭 天才教育 2012ほか

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ちょっと古いですが、韓国海洋水産開発院(KMI)の2009年の資料

    責任研究員 柳美林 紹介 2009-03-11作成
    http://dokdoacademy.ulleung.go.kr/Academy/page.htm?mnu_uid=345&msg_no=1338&md=4&v_no=8&se_key=0&se_text=&msg_ca_no=0&wztp=

    姓名: 유미림 (柳美林: Yoo, Mi-Rim)
    職場および職位: 韓国海洋水産開発院 独島・海洋領土研究センター責任研究員


    梨花女子大学校 大学院 政治外交学科卒業(政治学博士、1999)
    日本東京大学 法学部 法学政治学研究科修学(1992-1994)
    航空大学校、梨花女子大講師(1999-2004)
    民族文化推進会 国訳室専門委員(2002-2003)
    ソボン韓国学研究所代表(2005-2006)
    韓国海洋水産開発院 独島研究センター責任研究員(2006年2月-現在)



    (1) 2002.『朝鮮後期の政治思想』(知識産業社)
    (2) 2005.『空室に月の光聞けば』(柳美林、カン・ヨジン、ハ・スンヒョン共訳、學古齋)
    (3) 2005.『韓国政治思想史』(白山書堂、共著)
    (4) 2006.『世宗の国家経営』(知識産業社、共著)


    2005.8.「世宗のハングル創製の政治」 (『東洋政治思想史』4冊1号、韓国・東洋政治思想史学会、131-153)
    2006.9.「独島資料集の現況と課題」 (『政治外交史論叢』 28集1号、韓国政治外交史学会) pp. 297-330
    2006.12.「日本の独島関連団体現況分析」 (韓国海洋水産開発院報告書)
    2007.2.21.「最近日本の‘「独島」関連研究動向と私たちの課題」 (『海洋水産懸案分析』、韓国海洋水産開発院、)
    2007.11.20.「「于山島は独島」立証する朝鮮時代の資料発掘」 (『海洋水産動向』 1250号)
    2007.12.「「鬱陵島」と「鬱陵島事跡」訳注および関連記録の比較研究」 (韓国海洋水産開発院報告書)
    外多数

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    これで見ると、もともとは政治思想史が専門で、途中から独島を始めたようです。
    2006年頃からはじまっているようで、
    やはり、島根県の「竹島の日」制定がきっかけでしょうか?

    漢文は、読める、ということでしょうね。
    東大は「修学」とありますから、学位はもらっていない。
    それでも1992~94年の2年間、日本にいたのだから、少しは日本語が分かるのでしょう。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    この『わが史料の中の独島と鬱陵島』が彼女の最初の独島の専著のようです。
    http://www.jisik.co.kr/book/view.asp?num=24766

    目次
    1章 于山島は独島だ
    地理誌記述方式と「鬱陵・于山2島」説16
    「于山島=独島」説の立証42
    鬱陵島捜討と捜討制の推移に関する考察66
    「鬱陵・于山」記述と「申景濬改竄」説の虚構94

    2章 石島も独島だ
    日本の「石島=独島」説否定に対する批判130
    借字表記方式と「石島=独島」説立証152

    3章 独島は大韓民国領土だ
    収税慣行と独島に対する実効支配194
    朝鮮地理誌の鬱陵島・独島認識235
    日帝強占期 日本人の「独島」呼称268
    中国の対韓領土認識311

    4章 史料の中の鬱陵島と独島
    張漢相の『鬱陵島事跡』(1694)350
    朴世堂の『鬱陵島』(1696以後)369
    策問と対策(1696以後)399
    『鬱島郡節目』(1902)431

    ・・・・・・・・・・・・・・
    張漢相の『鬱陵島事跡』、朴世堂の『鬱陵島』、科挙の策問と対策、『鬱島郡節目』
    そして最近の、中国南京の資料(中国の対韓領土認識)

    彼女の見つけた史料は、全部、このブログで懸命に読み解いていることになります。
    それだけ彼女の見つけた史料は重要なのでしょう。

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  112. 小嶋さま

    池内論文の史料翻刻の起こしです。

    池内敏『竹島問題とは何か』335p  注23

    大韓民国 国史編纂委員会所蔵 対馬藩政史料 古文書目録・4013号
    池内は、すべて新漢字で翻刻しています。



    □月二日 井上出

    元禄年中因州より朝鮮国竹嶋江渡海之義ニ付、先祖対馬守江御尋之訳有之、御答申上候品ニ依、公儀より被仰出之御旨も有之候処、近年石州之者隠岐国より右竹嶋江罷渡、品替等仕候哉之段御聞届ニ相成、厳敷御吟味中ニ付、去月十七日、私共御呼出被成御尋之条々之内、先左之通り御答申上候、
    竹嶋之周経弐拾里斗、其手前ニ松嶋と申す小島有之、周経四五里と相聞、竹嶋とハ四拾里も相隔、別而日本地ニ近嶋之由ニ候、右二嶋都而朝鮮之蔚陵島ニ候哉、又者竹嶋者蔚陵島ニ而松嶋と申ハ朝鮮外之地ニ候哉、二島共ニ無人島之由、弥左様候哉、石州より乾ニ当、対州よりハ何之方角ニ当候哉、遠近里数且日本・朝鮮より右嶋江遠近里数、対州より相見候哉、右嶋江相渡候哉と之御事、承知仕候、
    朝鮮江原道蔚珍県之東海中ニ蔚陵島と申離島有之、日本ニ而竹島と相唱申候、彼国ニ而者地方拾里余と相見候得共、伝説ニハ周経四五里と相聞、路程朝鮮より者四拾里余、因幡・伯耆辺より百四五拾里程有之と相聞申候、対州よりハ艮ニ当、路程百里余も可有之哉、至而難海ニ而、是迄対州之者罷渡候儀無之候、尤天気清明ニ候得者、朝鮮渡口より竹島之由ニ而杏ニ相見申候、松島之儀、元祿年御老中阿部豊後守樣より御尋之節、竹島近所ニ松島と申嶋有之、此所江も日本人罷渡漁仕候段下々之風説ニ承候段御答申候由、留書ニ相見申候、竹島同様日本人罷渡致漁候儀御停止之嶋とハ被考候得共、差極候儀者御答仕兼候、朝鮮地図を以相考候得者、蔚陵・于山二島有之と相見申候、右竹島江彼国漁民共罷渡、且木材多島と相聞候付、為舟造罷渡候由ニ而、住居之者ハ無之由ニ御座候、尤彼国役人時々為見分致渡海候と相聞申候、尤も当時ハ如何ニ候哉、差極候儀難申上候、
    朝鮮国之絵図持合可有之候間差上候様、且彼国之体勢心得候者詰合候ハ丶致同伴候様被成度、名前申出候様と之御事、承知仕候、
    以前より持来之絵図麁体ニ者、其侭差上申候間、御用相済候ハ丶御下可被下置候、且又朝鮮之儀者言語不通ニ付、通弁訳之者直談当話も相成、彼国体勢も委敷候得共、御当地江詰合不申候、尤御用向之儀、私共江御尋被下候ハ丶、品ニ依り心得候儀者御答も可仕、心得兼候儀者、引取、吟味取調御答候様仕度御座候、
    右之通御答仕候、以上

    七月二日 (「七」を「見セ消チ」で「八」に直す)  御名内 樋口右内
                                  佐治数馬
                                  仁位郡右衛門

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    69p本文

    池内による現代語訳

    八右衛門一件の心理が進められている最中の天保七年(一八三六)七月、幕府から対馬藩江戸藩邸に対し、竹島・松島とはそれぞれいかなる島かとの問い合わせがなされている。(注23)対馬藩の返答部分から抜粋すると以下の通りである。

    (前略)松島について、元禄の頃に御老中阿部豊後守樣より御尋ねがあった際、竹島の近所に松島という島があり、ここへも日本人が渡って漁をしていると下々の風説に聞き及んでいると申し上げたことが留書に見えます。竹島と同様に日本人の渡海を禁止したものとは考えられますが、はっきりそうだとまでは御答えしかねます。朝鮮地図をもって考えれば、蔚陵・于山の二島があると見えます。右の竹島へ彼国の漁民たちが渡り、また木材の多い島と聞き及んで造船のために渡るまでで、居住しているわけではないようです。また、彼国の役人が時々巡見のために渡海するとも聞いております。ただし、今現在も同じであるかどうかははっきりとは申し上げられません、(以下略)

    (該当部分)
    松島之儀、元祿年御老中阿部豊後守樣より御尋之節、竹島近所ニ松島と申嶋有之、此所江も日本人罷渡漁仕候段下々之風説ニ承候段御答申候由、留書ニ相見申候、竹島同様日本人罷渡致漁候儀御停止之嶋とハ被考候得共、差極候儀者御答仕兼候、朝鮮地図を以相考候得者、蔚陵・于山二島有之と相見申候、右竹島江彼国漁民共罷渡、且木材多島と相聞候付、為舟造罷渡候由ニ而、住居之者ハ無之由ニ御座候、尤彼国役人時々為見分致渡海候と相聞申候、尤も当時ハ如何ニ候哉、差極候儀難申上候、

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  113. 私の翻訳のカギカッコについて
    韓国語の“”、‘’は日本語にないので、みな「」にしてしまいました。
    本のタイトルなど、本来は『』にすべきものも「」のままです。
    「世宗実録地理誌」は『世宗実録』「地理誌」と書くのが正しいのでしょう。

    また、翻訳の間違いも多々見つかることと思います。直せる仕組みあるとよいと思っています。

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  114. 反論25
    米軍爆撃訓練区域に指定された背景は何か? (キム・ビョンリョル)
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56313550.html


    「1952年5月23日第13回衆議院外務委員会」
    http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/013/0082/main.html

    >山本議員が「今回の日本駐屯軍演習地指定に関連して、独島周辺が演習地に指定されればこれを日本の領土として確認を受けやすいという発想から外務省では演習地指定を強く願っているという話があるが、事実ですか?」と質問したことに対して、石原外務省政務次官が「概してそのような発想で多様に推進していると承知しています」とした返事に明確に現れる。

    確かに、その趣旨の発言がありますね。
    ・・・・・・・・・・・・・・
    ○山本(利)委員 竹島は江戸時代の初期から日本と密接な関係があつたものであり、さらに日本領土として宣言されたのは明治三十八年の二月のことでありますから、日韓併合より以前のことであつて、もうこれがわが国の領土であるということは、いささかの疑いもないところであります。ところが今度日本に駐留軍の演習地の設定にあたつて、その竹島あたりが演習地に指定されるならば、この領土権を日本のものと確認されやすい、そういうような考えから、これが演習地の指定を外務省がむしろ望んでおられるというようなことがあるかどうか、その点についてお伺いいたします。
    ○石原(幹)政府委員 これは先ほどちよつと触れた問題でありますが、大体そういう考え方でいろいろ進んでおるようであります。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    (質問者)

    山本利壽(やまもと としなが 1896年 - 1991年)

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%88%A9%E5%AF%BF

    島根県全県区選出。のちに自由民主党の議員になりましたが、この時は民主党で野党のようですね。
    直後の10月の選挙では落選しています。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    島根県生まれ。
    1949年-第24回衆議院議員総選挙島根全県区当選(民主党)


    当該質疑1952年5月23日第13回衆議院外務委員会
    第3次吉田内閣 (第3次改造)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E6%AC%A1%E5%90%89%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3_(%E7%AC%AC3%E6%AC%A1%E6%94%B9%E9%80%A0)

    1952年-第25回衆議院議員総選挙落選(改進党)
       (第25回衆議院議員総選挙は、1952年10月1日に投票)
    1953年-第26回衆議院議員総選挙落選
    1955年-第27回衆議院議員総選挙当選(日本民主党)
    1958年-第28回衆議院議員総選挙落選(自由民主党)
    7月-第4回参議院議員通常選挙補欠選挙当選
    1962年-第6回参議院議員通常選挙当選(無所属)
    1968年-第8回参議院議員通常選挙当選(自由民主党)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    (答弁者)

    石原幹市郎(いしはら かんいちろう、1903年 - 1989年)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E5%B9%B9%E5%B8%82%E9%83%8E

    事務次官ではなく、政務次官なので、外務官僚ではない。

    「大体そういう考え方でいろいろ進んでおるようであります」と伝聞になっているのは、
    自分が直接の当事者ではないからでしょう。

    この人は、戦前の内務官僚出身で

    1947年初代民選福島県知事。戦後の食料問題と只見川電源開発に辣腕を振るう。
    1960年7月1日、第2次岸内閣で初代自治大臣に任命された。

    とあります。

    やはり「外務」の専門家とはとても言えないようです。


    実は、前掲のやりとりの直前に、以下の質疑がありました。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    ○山本(利)委員 それではお伺いいたしますが、占領下においてマツカーサー・ラインにかかつておりました日本海の竹島の領有を、韓国は主張しておつたと考えるのでありますが、すでにその点については、竹島は日本の領土であるということに先方側も同意をいたしておりますかどうか。
    ○石原(幹)政府委員 その問題につきましては、日本側としては、これはもう当然こちらのものであるという考えを持つておりますし、條約発効前におきましても、いわゆる司令部側といたしましても、その見地に立つていろいろの話をしておつたのでありまして、今後もこの点については、日本側としては何ら問題はなく、確信を持つて処理して行きたい、こういうつもりでおります。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    「條約発効前におきましても」という表現は、「條約発効後」は当然に、という意味です。
    サンフランシスコ条約で竹島が日本領土になったことは疑っていない。
    また、「條約発効前」にも、「司令部側」は竹島は日本領土と認識していた(と日本側は理解していた)ことを示しています。

    となると、

    >サンフランシスコ講和条約で独島を日本領と認められることに失敗した日本人たちは、独島を米軍の爆撃基地として提供することによって自分たちの領有権を認められようとした。実際、講和条約締結当時、日本は自分たちの激しい努力にもかかわらず独島を日本領と明記するのに失敗したので、独島は韓国領に含まれると分かった。
    >これを米軍の爆撃演習基地として提供すれば日本の領土との確認を受けることもできそうだという悪賢い術策によって、日本人たちはまず爆撃演習基地として提供しようとした。

    こういう趣旨の論拠として、前掲のやりとりをあげるのは、まったく滑稽としか言いようがない。
    日本はまったく逆の認識をしていたことは明白です。

    ReplyDelete
  115. matsu様
    対馬宗家文書の御教示有り難う御座いました。
    幕府老中は、鬱陵島に行ったことよりも、「品替」が行われているか否かを問題にしている事がわかる興味深い資料だと思います。

    当時の幕閣では、市井の風聞を受けて専ら、旧竹島に於ける密貿易を懸念していました。「竹島(鬱陵島)に朝鮮人が来てそこで交易をしている筈だ」という大誤解は、なんと1975年辺りの、岩崎弥太郎日記の編纂委員会の委員たちでさえ抱いていた妄想です。

    松浦静山の記録によれば、事件に対する巷の風聞は、旧竹島を中継として朝鮮または清国と密貿易を行っていたと考えられていて、江戸市中で紙が品薄になって高騰しているのは、密貿易により和紙が清国に流れているためだと噂されていました。
    実際に、越後の廻船問屋三軒があらぬ風聞をもとに逮捕され、その密貿易に荷担していたことを白状させられ処罰されています。

    ところがその一方、竹島産と噂された、巨大なモウソウチクを用いた茶室や数寄屋は、ほとんど問題にされていなかったようです。この辺りの現実から、旧竹島の帰属が曖昧なままであったことがわかります。

    ReplyDelete
  116. 小嶋さん

    レス、ありがとうございます。

    確かに、八右衛門の「判決理由」は、きちんと吟味しておかないといけないですね。

    実際の「密貿易」で、誰と、何を、取引していたのか、判決には明示されていなかったように記憶しています。朝鮮人と取引というような文言があったような気もします。
    竹島(鬱陵島)で「木を伐った」ことは、処罰の理由だったようにも覚えています。

    どこかに史料があがっていませんでしょうか(不精してすみません)

    ただ、独島(松島)へ行ったから処罰された、という韓国側の主張(KBSの番組など)は噴飯ものの大ウソです。

    最近、池内敏氏の論文(時評)が出ましたが、
    池内敏「時評 竹島領有権の歴史的事実にかかわる政府見解について」
    『日本史研究』第622号 2014年6月
    http://www.nihonshiken.jp/jounal/519-622201406-jou.html

    八右衛門は松島に行くという言い訳が通じなかったから処罰されたのだ、というような議論を展開していますが、間違いだと思います。

    実際に鬱陵島に行ったからこそ、処罰されたのであって、「言い訳が通じなかったから処罰された」わけではない。ここの論理のすり替えは、罪深いと思います。

    ReplyDelete
  117. matsuさん、

     翻訳お疲れ様でした。思ったよりも早く終わった感じですが、matsuさんのペースが速かったおかげですね。


     今、順番にブログに掲載する作業をしているわけですが、この内容では全く気乗りがしません(笑)

    ReplyDelete
  118. 小嶋様 八右衛門の判決文
    これを解読できないでしょうか?


    『天保雑記』田中邦貴サイト
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tenpozakki/
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/

    16
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tenpozakki/16.jpg
    八右衛門
    橋本
    竹嶋 渡海

    17
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tenpozakki/17.jpg
    人参 異国人
    素より国境不分明
    異国属島 渡海
    いたし 立木 伐採 始末 御国体に対し、不□□
    不届に付、死罪申付

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    以上のわずかに読み取れたものをまとめて検索したら、幸い、以下のサイトがありました。

    別の写本と思いますが、原本影印はわかりません。

    出典:国立公文書館内閣文庫、天保雑記第十八冊


    http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_takeshima_main.html
    浜田藩竹島密航事件、幕府評定所判決文及び触書
    石州浜田
                      松原浦無宿
                         八右衛門
    其方儀石州松原浦ニ而船乗渡世中、北海筋渡海之
    節々見請ル竹島を朝鮮国付属之地とハ不弁旨雖申
    立、右島者人家無之空島ニて良材有之、海岸魚類
    も多く魚業伐木等いたすならハ助成と可相成と存付、
    出府之砌元領主松平周防守家来、三沢五郎右衛門・
    村井萩右衛門江便り、領主益筋ニも相成由ヲ以、

    同島江渡海志願之義、大谷作兵衛江申立置帰村後
    右之趣浜田表へ罷在候国家老、岡田頼母事秋斉聞込
    之由ニ而、同人召仕橋本三郎兵衛より尋請、必定
    作兵衛外弐人江申立候次第通達有之義と存、益地ニ
    相違無之旨咄聞、追而右島は何れの国地とも難差極、
    手入等之義者可存止旨、萩右衛門より申越をも不取用

    再応執成之義、三郎兵衛江相頼砌、右最寄松島江
    渡海之名目を以竹島江渡、稼方見極候上、弥益筋ニ
    有之ならハ取計方も可有之由ニ而、秋斉并同家来
    松井図書も心得居候趣、三郎兵衛申聞候迚、大坂表
    ニおいて銀主共聞請宜敷ため同所周防守蔵屋敷詰
    家来、島崎梅五郎江三郎兵衛より頼ミ、書状申請、
    中島町庄助等を申勧、銀主ニ引込、

    殊右目論見中、外不届有之領主より浜田入津差留所払
    ニ相成候身分ニ而元住處ニ罷在、大坂安治川南弐丁目
    善兵衛其外之もの共乗組竹島江渡海いたし、絵図面
    相仕立又者木材採、既ニ人参と見込、紛敷草根等
    持帰ル上者、異国人ニ出逢、交通等いたす義ハ無之とも、

    素より国界不分明之地と乍心得、畢竟領主先代重
    御役柄中故、志願も成就可致哉抔相心得、秋斉其外
    之もの共へ申立、既異国之属島江渡海 いたし、
    立木等伐採持帰ル始末 御国体江対し不軽義
    不届ニ付死罪申付


    このサイトの現代語訳です。

    石州浜田
                      松原浦無宿
                         八右衛門
    その方は石見国松原浦において船乗り稼業を
    して居る時、能登方面に航行中に時々見かけた
    竹島が朝鮮国に属する事は知らなかったと
    云うが、この島は無人で木材が豊富で沿岸には
    魚類も多く漁業や林業をやれば、藩の為にも
    なると思付いた。

    そこで城下を訪れた時、以前の領主である
    松平周防守の家来の三沢五郎右衛門、村井
    萩右衛門を訪ね、藩の利益になるので同島へ
    の渡航希望を大谷作兵衛に伝えて帰村した。
    その後この趣旨が浜田藩国家老である岡田頼母
    (秋斉)に伝わり、頼母の用人橋本三郎兵衛より
    呼出しがあったので、大谷作兵衛外2名に話した
    事と思い、間違いなく利益になる旨説明する。 

     この島は何国に所属するかも不明であり、計画
    は中止すべきとの萩右衛門の意見もあったが、
    三郎兵衛に頼み、最寄松島へ渡航する名目で
    竹島を調査し、確実に利益となるならば、方法も
    ある旨秋斉及び松井図書も承知している事を
    三郎兵衛から聞く。 

    更に八右衛門が大坂で金主を集め易い様に
    周防守の蔵屋敷詰家来、島崎梅五郎への
    紹介状を三郎兵衛が書いてくれ、中島町庄助
    などを金主に引き込んだ。

    特にこの計画の中で、以前不正があり領主より
    浜田入港を禁止された大坂安治川南二丁目に
    住む善兵衛、その他が乗組み竹島に渡航し
    地図を作成し、叉は木材を伐ったり人参に
    紛らわしい草根を持ち帰る。 

    外国人と接触した事はなくとも、元来国境
    不明の場と分っていながら、特に領主が前の
    幕府老中だから、目的を達成できると秋斉
    及び他の者達を説得し、外国の属島へ
    渡海して木材等伐って持ち帰る事は、法度を
    破る事甚だしく死罪を申渡す


    石州:石見国、現在島根県西部
    大谷作兵衛、村井萩右衛門、藩勘定役 押込
    三沢五郎右衛門 勘定〆役 押込
    岡田頼母: 家老、松井図書(家老)共に切腹
    善兵衛: 永牢
    橋本三郎兵衛: 死罪
    島崎梅五郎:押込
    藩主松平周防守は蟄居、 跡継ぎは国替
    で棚倉藩へ左遷

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    これで見ると、

    竹島江渡海いたし、絵図面相仕立又者木材採、既ニ人参と見込、紛敷草根等持帰ル上者、異国人ニ出逢、交通等いたす義ハ無之とも、素より国界不分明之地と乍心得、畢竟領主先代重御役柄中故、志願も成就可致哉抔相心得、秋斉其外之もの共へ申立、既異国之属島江渡海いたし、立木等伐採持帰ル始末 御国体江対し不軽義不届ニ付死罪申付


    とあって、
    「人参と見込、紛敷草根等持帰ル」
    「異国人ニ出逢、交通等いたす義ハ無之」
    「異国之属島江渡海いたし、立木等伐採持帰ル始末」 

    すなわち、鬱陵島の「立木等伐採持帰」が罪に問われたということになります。
    異国人との交易は、「ない」という判決のようです。
    本当に交易(品替)はしていないんでしょうか?

    「御国体江対し不軽義不届」とはどういう意味なんでしょうか?


    それにしても、これを見ても、「松島への渡航が禁止されていた」、とはとても言えないと思います。

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  119. matsuさん
    コメントありがとうございます。
    翻刻と現代語解釈をご紹介頂いた、大船庵さんという方のサイトの
    http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/
    http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_takeshima_front.html
    古文書コーナー38という所にある、
    https://sites.google.com/site/ofunaannex/home/takesima_doc
    「写本原文を見る」から開いて、上から二つ目の左右の画像は、冊番が違いますが、田中さんのサイトのカラー画像の二枚と全く同じものです。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tenpozakki/17.jpg
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/tenpozakki/16.jpg

    冊番号が違っていることと、見開きの写真と、袋閉じを開いて一枚の紙にして撮った画像の違いと、順番が左右で前後しているので一見違う史料のようで、ややっこしいのですが、この史料は、内閣文庫の和書の整理番号が、31729号56冊150函22架の第18[正しくは「㐧」(u3427)18]であったので、現在の整理番号も、内閣文庫、番號和31729 冊数56(18) 函號150-150になっているために、
    請求番号が、 150-0150 冊次 18 なのです。
    ただし、史料本来の題簽は、『天保雑記 十七 (川﨑宿関札 松平防州一件)』であるために田中さんの紹介の仕方では、番号の冊「十七」とすべきで、どちらも正しいのです。

    この国立公文書館所蔵の和綴本に含まれる資料は、下記の通りです。、
    竹島江渡海いたし候一件 天保七年六月
    松平周防守家来等竹島渡海御咎
    竹島渡海御制禁之御触 天保八年二月
    竹島一件取扱候人々御褒美  天保八年三月

    この判決文に関して、重要なことは、旧竹島(鬱陵島)に関して、「何れの国地とも難差極」・「素より国界不分明之地」であると認識しながら、「既異国之属島へ渡海いたし、立木等伐採持帰ル始末」という捉え方をして、これは、「御国体江対し不軽義不届」として断罪するという判決です。

    これは、鬱陵島に関しては、元禄時代の幕府としての対応があったために、朝鮮国との外交問題に発展しかねない危惧と、国家としての日本という国体に対して、法を遵守するべき国民としての真義に欠け、軽はずみで、もってのほかであるという意味だと思います。

    この判決では、matsuさんの仰るとおり、「旧竹島を朝鮮に属する土地と判断して、勝手に木を切ったことは罪」という司法判断がなされたわけですね。

    もちろん判決のとおり、「品替」という密貿易は、絶対に行われていません。なぜならこの時代とこの季節には、鬱陵島に行っていたのが日本人だけだからです。

    実は、この事件前には、竹島産と云われる孟宗竹が、大名屋敷の私的な部屋に限らず、公式な部分にも用いられていまして、茶室に用いられたものは、角柱のように大きなものであったりしたそうです。これは八右衛門事件後に初めて問題であったのではないかと噂されて記録に残っているわけです。

    こうした鬱陵島での伐採に関する私見の説明を、このポスティングで長くコメントすることは遠慮すべきかと思いますが、もう少し書かせて貰います。

    一般に、江戸時代というのは、「何々禁止」という、全く守られないないような法律が次から次に出された時代です。問題になるのは、法を破ったことを荒立てて、「世間に知られて世の中を騒がせた」場合に、お上として処罰しなければならない必要が生じた場合です。

    この事件は、間宮林蔵がことさら騒いで事を荒立てたために、事件化して問題になったわけです。
    森鴎外同様に、間宮林蔵という人の歴史的評価は、功罪半ばして評判は良くありません。言うまでもなく、樺太の実体と間宮海峡の発見は彼の偉大な業績であるのですが、シーボルト事件や、この「今津屋八右衛門」事件は、性格の暗い隠密としての彼の厭な面ばかりが目立っています。彼が事件化しなけれよかったのに、そうすればかえって近代日本の為になったと考えられることが多いのです。例えば、シーボルト事件では、天文暦学に通じた天才、高橋作左衛門景保が獄死(死罪判決)し、一方、間宮林蔵の樺太の地図をシーボルトに渡した最上徳内は何の罪にも問われないという、おかしなものでした。なお高橋景保の学識は、弟の高橋景佑が、貞享暦で有名な渋川春海(俳優岡田准一主演で天地明察という映画になった)の子孫の渋川家の養子となって継承され、現在でも使われている完璧な太陰太陽暦となっているものの、もしシーボルト事件がなかったならば、1825年から明治維新まで、途切れることなく江戸で気温と気圧の近代的気象観測も行われていたと思われます。
    (現在、科学的データとしては、1825-1828年で一旦途切れ、1839-1855年のものが、概ね利用可能)
    http://www.cru.uea.ac.uk/cru/data/japan/

    間宮林蔵という人は、自分には甘く、敵と見なした人物には容赦がありません。自分に甘いというのは、許しもなく独断で国禁を侵して沿海州に渡って、事物を持ち帰った間宮は、本来ならば当然死罪とならなければ矛盾するのです。彼は、周到に根回しして私利私欲でないと理解されるようにしたから、罪に問われませんでしたが、国境不分明な土地に行ったということでは、今津屋八右衛門と全然違わないことをしているのです。

    間宮のことを悪く書きましたが、時代性を考えると間宮の行動は責めることは酷な面もあります。この事件の翌年から、遠山景元の政敵であった、悪名高き鳥居甲斐守耀蔵忠耀の「大暗躍」が始まる時代です。実父の林述斎や、甥の岩瀬忠震らが立派で尊敬され続けているのと対照的に、日本史史上これほど厭な奴はいないほどの人物が出世した時代ですから、間宮が嫌な奴であったことも時代的には無理からぬものがあります。鳥居耀蔵の失脚後、町奉行に返り咲いた遠山の金さんこと遠山景元は、遠山景晋の子で、かつて最上徳内は、その遠山景晋の部下でした。

    浜田から鬱陵島への渡海は、隠岐から、松島(現竹島)を経て行く航路だったので、この航路は、八右衛門事件後は中止されたようです。

    しかし、この事件以前も以後も、幕末から明治初年に至るまで、近くを通るだけではなく、下関からの弁才船による鬱陵島への日本人の渡海は継続されていたようです。

    このことは、北前船の活動に絡めて、岩崎弥太郎日記のスレッドの方にでも、あらためてコメントさせて貰うつもりです。

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  120. 上記、池内敏論文(時評)では、日本政府は3回にわたって、竹島は日本領土ではないと否定したという。

    池内敏「時評 竹島領有権の歴史的事実にかかわる政府見解について」
    『日本史研究』第622号 2014年6月(69~82p)


    池内は、その結論部分で(81p)

    (1905年の)閣議決定に先立つ、元禄竹島渡海禁令、天保竹島渡海禁令、明治10年太政官指令の3つにより、「今日の竹島は日本領ではない」ことをわが国中央政府歴代がそのつど繰り返し確認してきた

    と述べる。

    果たして、そうであろうか?

    「史料が自ら明らかにするところを無視して自分の解釈を優先してはならないといった、史料読解に当たっての基本を欠如」させているのは、池内自身の方ではないのか?


    元禄竹島一件ののち、
    経済的メリットがないから、松島=現竹島には実質的に行かなくなってしまったのと、
    「幕府の禁令があったから」行かなかったのでは、意味が全く違う。

    事実上、松島への出漁が終止符を打たれてしまった、としても、その理由を「幕府の禁令による」からだ、と証拠づける文献は、何もない。

    天保竹島一件においても、松島への渡海禁止を明確に確認できる文献は何もない。
    「遠き沖乗り」が具体的に松島に行くな、ということを意味すると解釈できる文献も、何もない。

    明治10年の太政官指令にあたって、内務省~太政官で、松島について具体的に吟味がなされた証拠を示す文献も、何もない。

    堀和生も和田春樹も、明治10年の太政官決定にあたって、内務省太政官も、松島を竹島の属島とみなしたのだ、という勝手な解釈をしているが、そのことを示す文献はない。

    池内の影響力からして、その結論のみを引用する韓国の「学者」や「言論人」があらわれ、また誤解が広がるのが、なんとも情けないことではある。

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  121. 小嶋さん

    ご教示、ありがとうございます。

    なんと同じ文献でしたか。影印に行けなかったので混乱しました。失礼しました。

    >国家としての日本という国体に対して、法を遵守するべき国民としての真義に欠け、軽はずみで、もってのほかであるという意味だと思います。

    「国体」などという水戸学のような言葉がこんなところで普通に使われていたのが、ちょっと違和感がありました。「外国」を意識した言葉なんでしょうかね。

    それにしても、判決文には、松島への禁令などひとことも書かれていないですよね。
    (まあ、当たり前ですが)


    八右衛門が、実際に交易をしていなかったのかどうかは、まだ疑いもありうるかとは思いますが、少なくとも幕府は、「交易」の罪で罰していないのは、確かですね。

    また、この時に、前掲の対馬藩の意見が聴取され、それを踏まえての判決であることも確認しておくべきだと思います。


    間宮林蔵について
    >許しもなく独断で国禁を侵して沿海州に渡って、事物を持ち帰った間宮は、本来ならば当然死罪とならなければ矛盾するのです。
    >国境不分明な土地に行ったということでは、今津屋八右衛門と全然違わないことをしているのです。

    というのは、とても面白い視点だと思いました。

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  122. This comment has been removed by the author.

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  123. ブログで埋もれるのがいやなので、未完成ではありますがmatsuさん及びchaamieyさんの訳を使用して100問100答用の専用サイトをたちあげてみました。

    竹島問題 韓国側の論理の検証

    よろしければ活用ください。
    また、韓国側反論の問題点の作成を協力頂ければありがたいのですが。

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  124. OPPさん

    ありがとうございます。

    みなさんで、コメントを入れていきましょう。
    突っ込みどころは、いっぱいありますからね。

    ReplyDelete
  125. Chaamiey様

    池内論文の検証、拝見しています。とてもわかりやすくて痛快です。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56328998.html
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56329635.html
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56330677.html

    こちらは、明治10年当時の日本政府の竹島・松島認識がどのようであったのか、地図の方から考えてみたいと思います。

    「陸軍参謀局」というところから出している3枚の地図です。


    陸軍参謀局の明治8年(紀元2535年)の地図に「亜細亜東部輿地図」があります。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/map.html

    http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko01/bunko01_01851/index.html

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.html
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.data/5-1-3-3-02.pdf

    ここに、竹島・松島がありますが、松島は鬱陵島、竹島はアルゴノートです。

    すなわち、鬱陵島の位置に「松島」があり、その西北方に「竹島」があります。
    リアンクールはありません。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    同じ「陸軍参謀局」の「朝鮮全図」(明治8年~9年)

    白黒のものと、分図のたくさんついたカラーのものと2種類あります

    「朝鮮全図」
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/chosenzenzu-1875/
    (明治8年11月)(08)

    「朝鮮全図」
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/chosenzenzu-1876/
    中表紙は明治9年、しかし例言は「明治8年11月」=上と同じ、(05)
    たくさんの分図とカラーの道境の線がありますが、同じ地図と考えられます。


    これも、松島は鬱陵島、竹島は点線でアルゴノートです。
    同じところで出しているので、当然ともいえますが、同じ地理観です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    次に
    「大日本全図」(紀元2537年=明治10年)

    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/dainihonzenzu-1877/

    こちらには、竹島・松島はありません。

    ここに、木村信卿と渋江信夫の名前があります。(著者のところ)
    「黄遵憲事件」でおなじみの名前です。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・

    さて、最初の「亜細亜東部輿地図」には「改正」とあり、調べたところ、1年前の明治7年(紀元2534年10月)に同名の「亜細亜東部輿地図」があることがわかりました。

    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/P1KBAJYH6UPG5SELF9IKQCX31BBR76T64JA1VAAHLIYB9VFAVA-51799?func=find-acc&acc_sequence=024470753

    https://ndlopac.ndl.go.jp/F/P1KBAJYH6UPG5SELF9IKQCX31BBR76T64JA1VAAHLIYB9VFAVA-23564?func=full-set-set&set_number=338961&set_entry=000004&format=999

    この地図は、なぜか国会図書館「館内のみ」となっており、何が著作権にひっかかっているのかよくわかりませんが、
    http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2543031
    先日、ようやく国会図書館へ行って、見ることができました。
    すみません、報告のみで画像がありません。
    地図の内容はほとんど同じです。
    ただ、「陸軍少佐 木村信卿」の識語があり、この地図の由来について、以下のように書いてありました。

    余承之陸軍准参謀之後。其所管者。専在修地誌造地図等事。独憾我邦近海諸国所伝之地図。非疎則謬。常病不得其要領。頃者取大清中外一統輿図。英国刊行測量海図。及其地理学士占斯敦所撰官版地理図書。朝鮮八道全図。輿諸図。参互対照。始得其要領矣。乃令同僚渋江信夫等製此図。刻以為陸軍生徒焉。

    すなわち最初の「亜細亜東部輿地図」も、木村信卿と渋江信夫によることが分かります。

    そして、彼らの認識は、
    「大清中外一統輿図」「英国刊行測量海図」「其地理学士占斯敦所撰官版地理図書」「朝鮮八道全図」によっていることが分かります。


    一方で、2番目の「朝鮮全図」には、準拠の地図として、
    「朝鮮八道全図」「大清一統輿図」そして「英米国刊行測量海図」等とあります。

    アメリカの海図が増えています。
    「大清一統輿図」と「大清中外一統輿図」は同じものではないかとも思います。
    「朝鮮八道全図」も、つきとめなければいけないのですが、一般的な名前すぎて良くわかりません。

    ところで、最初に出てくる「其(英国)地理学士占斯敦所撰官版地理図書」とは何を指すのでしょうか?

    「占斯敦」が誰なのか、とても気になるにですが、良くわかりません。
    「斯敦」はストンで良いと思いますが、「占」は何の音写なのか。

    「ジョンストン」ではないかとも思うのですが、確信が持てません。

    http://www.davidrumsey.com/luna/servlet/detail/RUMSEY~8~1~21329~620029:China,-Japan-?sort=Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No&qvq=w4s:/who/W.+&+A.K.+Johnston+Limited/where/Japan;q:johnston;sort:Pub_List_No_InitialSort%2CPub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No;lc:RUMSEY~8~1&mi=0&trs=2

    http://en.wikipedia.org/wiki/Alexander_Keith_Johnston_(1804%E2%80%931871)
    Alexander Keith Johnston (1804–1871)???


    いずれにしろ、これらの陸軍参謀局の地図は、3つあわせて、重ね合わせてみることで、明治10年の太政官指令の時に、日本政府が「竹島・松島」をどう認識していたのかを知る、大きな手がかりになると思います。

    すなわち、「松島」は鬱陵島の位置にあり、その西北方に(点線の)「竹島」がある。
    そして、リアンクールは、ない。


    さらに、『日本地誌提要』(2534年=明治7年12月、正院地誌課)には
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/chishiteiyo-1874/

    又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町。

    と、竹島・松島の「大きさ」が書いていないことも注意しておく必要があると思います。

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  126. 「わかりやすい」という評価をいただくのはうれしいですね。

    ところで、上のmatsuさん御紹介の地図のうち、

    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.data/5-1-3-3-02.pdf
    の「図地輿部東亜細亜」の二つの島には何て名前が書いてあるんでしょうかね。拡大しても読み取れないのですが。

    ReplyDelete
  127. Chaamiey殿
     僭越乍らコメント仕ります。明治八年(皇紀2535年)版の『亞細亞東部輿地圖』は田中さんのところで拡大できます。
    http://www.tanaka-kunitaka.net/takeshima/asiaeast-1875/map.html

    matsu様
    明治七年版の確認ご苦労様でした。占斯敦はジョンストンなのだろうと思いますが、用例を見つけられません。シムストン、シームストン、ゼムストン、ジェームストンでは該当者がいないようです。

    『朝鮮東海岸圖』明治九年(1876年)は、ロシアの地図も参考にしているようです。この時期の地図を詳しく調べることは、韓国側の誤った宣伝を否定できますね。たとえば、

    『朝鮮輿地圖』明治十七年(1884年) 清水光憲
    「金玉均が日本に持っていった朝鮮地図をもとに編集したもの」
    http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=eddok_002j_0080_0050

    いいえ。その金玉均の地図は、もともと渋江と木村が作った地図の海賊版だったんです。

    さらに、尖閣関連の「文匯報」の捏造解釈を否定することにも役立ちますね。
    http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2012-07/18/content_25942201.htm


    一般読者の皆様
    酒井兄弟と黄遵憲事件(清国朝鮮地図漏洩事件)に関しては、以前の記事も参照下さい。
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/05/1894-jissoku-chosen-zenzu-by-so-mokan.html

    これは、明治のシーボルト事件ともいうべきものです。事件は全く別のものですがその根底にあるものはよく似ています。ちょっと視点を変えれば、すべて日本のために有益なことだったのに、妙な嫌疑を掛けられて、誰かが詰め腹を切らなければいけなくなる。

    文政十一年(1828年) シーボルト事件(高橋景保)
    天保七年(1836年) 天保竹島事件(今津屋八右衛門)
    文久二年(1862年) 第二次シーボルト事件(三瀬諸淵)
    明治十四年(1881 年) 黄遵憲事件

    木村信卿 服部道門、大島宗美、川上冬崖および、酒井兄弟(渋江信夫・木下孟寛たけひろ) が冤罪被害者です。酒井兄弟とは、横山大観の尊属一族です。祖父の酒井市之允(いちのじょう)喜熈(よしひろ)(如酔)が、伊能忠敬の弟子にあたり、間宮林蔵の紹介で水戸藩主に地図作製を命ぜられたことから、一族は近代地図製作に偉大な業績を残しました。

    明治十年当時の神田五軒町1番地には、横山大観の伯父、渋江信夫の名がはっきりと読み取れます。
    http://www.yasuo101.com/album/img/10/07/large/10_07_08.jpg

    嗚呼。まったく。そもそも間宮が最初のシーボルト事件を騒ぎ立てしさえしなければ、あまたの優れた人材を冤罪に追いやったあとの事件も事件視されなかったように思います。

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  128. 小嶋日向守さん、ありがとうございます。見て来ました。まぎれもなく、鬱陵島の位置に「松島」、そしてアルゴノートの竹島ですね。

    そうすると、3つ上のmatsuさんのコメントにある地図は、いずれも、内務省あるいは太政官が磯竹島略図を現代人が理解するのと同じように理解することができた、とする証拠にはなり得ません。

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  129. 旅に出ており、お返事が遅くなりました。

    Chaamieyさま
    上にあげた明治8年「亜細亜東部輿地図」の3つの地図は、全部同じ地図です。
    早稲田のは別の個体ですが、田中さんのサイトと島根県のサイトは、内閣文庫の、同じ「個体」です。

    島根県竹島問題研究会の第一次研究会の資料として、すでに2007年段階で知られていた地図であることを示したくて載せておきました。拡大された図もあります。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
    竹島問題に関する調査研究 最終報告書(平成19年3月)
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima04_01/takeshima04d.html
    3.「亜細亜東部輿地図」(陸軍参謀局):明治8年(1875)【265-163】
    ・表紙 (PDF 220KB)
    ・全体図 (PDF 297KB)
    ・部分拡大図 (PDF 315KB)
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    上に書いたように、これら「亜細亜東部輿地図」「朝鮮全図」「大日本全図」の3種の地図は、すでに良く知られているもので、ネット上でも再三話題になっています。

    ただ、あらためて、明治10年の太政官指令とからめて考える時に、当時の日本政府は「竹島」「松島」と言われて、どのようなイメージが可能だったのか、を示すものとして重要だと思います。

    また、塚本先生が「100問100答」のQ83で書いておられるように(191p)
    明治9年12月斉藤七郎兵衛「松島開島願書並建言」を受け、明治10年4月に瀬脇寿人が上申したものに、田辺太一が「松島は朝鮮の鬱陵島」と「下げ札」をしていることも、非常に重要だと思います。



    小嶋日向守さま
    「占斯敦」、どこかにないかと思うのですが、なかなか見つかりません。


    それから当時のイギリスの海図は「リアンクール」を含んでいると思うのですが、木村信卿が、最初の「亜細亜東部輿地図」(明治7年版)をまとめるにあたって、なぜリアンクールを図示しなかったのか。
    これはとても不思議なことですが、大きなポイントだと思います。


    やっぱり松島(現竹島)は、いったん日本人の視界から落ち、あらたに「リャンコ島」として、つまり江戸時代の松島であることは忘れられた状態で、1905年の「無主地」先占につながっていくのではないか、と思います。

    領土権の「再確認」という認識は、1905年ではなく、李承晩ライン後の日韓紛争のなかで、1950年代になっての日本政府の考え方なのだと思います。

    池内敏氏が、1905年には日本は「領土権の再確認」はしていない、という議論をしていますが(日本史研究622 79~80p)、これはむしろ、1905年の文献を読めば誰でも一目瞭然でわかることであって、1950年代の日本政府の認識と1905年の文献解釈をごっちゃにしている議論だと思います。

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  130. Chaamiey様

    嶺南大学独島研究所 『独島研究』 第16号(2014.6.30)
    http://dokdo.yu.ac.kr/bbs/list.php?board=b01&sort_field=&asc=&max_list=10&page=1&move_page=&s_page=1&search_field[1]=title&search_list=&&PHPSESSID=0b0dc9e46390e2a9b54db4d7272f1be8


    ご紹介、ありがとうございます。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56336526.html

    嶺南大学独島研究所が、今回の100問100答の「反論」からは排除されているのかと思っていましたが、独自にやっていたのですね。

    これまた、突込みどころ満載みたいです。

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  131. 外務省公信局長田辺太一が「松島は朝鮮の鬱陵島」とメモをしていた件についてですが、この件を太政官指令の解釈に用いるということは、太政官は指令発出の時点で松島は鬱陵島であると知っていたという、いわゆる「一島説」の主張になるわけですが、これは難しいと思いますね。

    それに、「松島は朝鮮の鬱陵島」という田辺さんの認識自体がかなりあやしいものだったと私は見ています。
    田邉太一の松島認識

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  132. Chaamiey様

    田辺太一が松島について判断するときに、元禄時代の歴史を知った上でのことではなく、歴史的事実についてはあやふやな、「おぼゆ」の次元でのものであったことは、良くわかりました。

    これはやはり鋭い指摘で、卓見だと思います。

    しかし、逆に言えば、もし「元禄時代」の朝鮮との交渉について学んでいたとすれば、それは「竹島」についての知識は得られても、「松島」については何も知りえなかったのではないでしょうか。

    あるいは鳥取藩の資料までも読んだのであれば、松島は「現竹島」であると理解していたはずで、とても「朝鮮の鬱陵島」という理解には達しなかったと思います。

    とすれば、田辺が「松島は朝鮮の鬱陵島」という理解に達したのは、「歴史的」に学んだものではない、と言えるのではないでしょうか?

    そうすると、そのソースになったのは、直近の地図(海図)をもとにした情報や、あるいは直接的に「松島」に行き、実際に木を切っているような人間からの情報だったのかも知れません。「松島槻谷」の岩崎は、明治2年ですから、「松島」という認識で木を切っていた人間は、もういたのでしょう。


    さらには、「松島は朝鮮の鬱陵島」は、まさに陸軍参謀部からの情報かもしれません。

    田辺太一と木村信卿の間に接点があった、とかになると、また面白いんですけれどね。

    いずれにしても、明治10年4月すぎの段階で、「松島は朝鮮の鬱陵島」と田辺が考えていたことは、本人が書いているのだから間違いないと思います。


    それから、「丁」の意見は、必ずしも田辺太一自身の意見ではなく、当時外務省にあった多様な意見、「甲乙丙丁」の意見のうちの一つ、と考えたほうが良いことは、かつての「あられ」さんとの議論で明らかになっているのではないかと思います。

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  133. >かつての「あられ」さんとの議論で明らか

    あれは酷かったですね。
    あられさんの人物のつながりとかから物語りを作る癖は、
    内藤に感化されたお医者さんが書いた竹島の本に似てる気がするんですよね。

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  134. 明治十年太政官指令の解釈については、磯竹島略図絶対主義者の人たちの主張は全く証明ができません。「外一島(松島)は鬱陵島だ」というのが事実です。ただし、「外一島(松島)は鬱陵島だ」というときに、内務省~太政官は指令を出す時点で既にそのことが分かっていたのかどうかというところに若干の見解の相違が残っているようです。

    指令発出の時点で松島は鬱陵島であることが認識されていたという考え方は、すなわち「一島放棄説」です。今回の『竹島問題100問100答』の塚本先生の83番は「一島放棄説」の立場で説明されているようです。

    一方、島根県竹島問題研究会の下條座長は「アルゴノート・ダジュレー放棄説」で説明されたことがあります。「アルゴノート・ダジュレー放棄説」は当然「二島放棄説」です。

    竹島の「真実」と独島の《虚偽》
    第3回「古文書を見ても独島は韓国領土」でない理由
      (3)1877年の「太政官指令」と「磯竹島略図」
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima04/takeshima-dokdo/takeshima-dokdo_3.html

     この一島認識であったか二島認識であったかの解釈の分かれ目は、やはり明治14年11月29日の内務権大書記官西村捨三さんの書き込み「外一島ハ松島ナリ」でしょう。この一言は、太政官指令から4年半が経過した時点でも、太政官指令の当事者である内務省の幹部が「竹島と松島」という二島認識を有していたことを示しています。「一島放棄説」はこの事実と矛盾することになります。「アルゴノート・ダジュレー放棄説」の方が他の資料とも整合するものであり、また分かりやすいと思います。

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  135. 『独島研究』嶺南大学独島研究所 第16号(2014.6.30)
    郭眞吾()クァク・ジノ)
    「『竹島問題100問100答』を通して見た日本の独島領有権主張と限界」

    p241~p262
    http://dokdo.yu.ac.kr/bbs/list.php?board=b01&sort_field=&asc=&max_list=10&page=1&move_page=&s_page=1&search_field[1]=title&search_list=&&PHPSESSID=0b0dc9e46390e2a9b54db4d7272f1be8

    『竹島問題100問100答』を通して見た日本の独島領有権主張と限界*
    )クァク・ジノ** 郭眞吾


    1.はじめに
    2.竹島(タケシマ)領土編入
    3.韓国主張に対する反論I
    4.韓国主張に対する反論II
    5.結び


    この論文は、今年2月22日、日本島根県がいわゆる「竹島の日」の行事に合わせて発行した『竹島問題100問100答』冊子について、矛盾を明らかにするものである。本文でも言及したが、日本はこの冊子を通じて独島が日本の領土であることを、一般成人はもちろん、初中高等学校青少年に教育させるために発行した。冊子の内容は韓国の独島領有権主張を否定する立場を取っている。特にこの本が主張している内容は、第一に、本来韓国側には独島の領有権を主張する歴史的な権原がなく、韓国側の論理を「歴史的、地理的、国際法的に」検証した時に正当なのかどうかを糾明することだとしている。第二に、1905年の独島編入は、明治政府による領有意志の「再確認」であり、近代国際法上で有効で適法な行為だったことを強調している。そして第三に、「固有領土論」と「無主地先占論」を融合させて論理的衝突を除去しようとする努力が強化されて繰り返されており、同時に国際法を叙述する部分では、独島を「無主地」と規定する表現自体を自制しようとする傾向がうかがえる。この本のこうした論理に対し、筆者は日本の独島領有権の主張に対し、事実に立って論理的に反論し、同時に日本の独島領有権の主張が虚構であることを明らかにする。

    キーワード:島根県、竹島の日、1905年、無主地先占、虚構

    * この論文は2013年、政府(教育部)の財源で韓国研究財団の支援を受けて実行された研究である(NRF-2013S1A3A)
    ** 東北アジア歴史財団研究委員、政治学博士




    1.はじめに

    去る2月22日、日本島根県がいわゆる「竹島1)(独島の日本式名称)の日」の行事に合わせて『竹島問題100問100答』2)(以下「本」と略称)という本を市中に販売し始めた。この本は1年以上準備した結果であり、韓国と日本の独島研究者の関心を引いている。この本が作られることになった背景については、二種類の側面から言うことができる。
    第一に、失われた20年と表現される日本の経済沈滞によって政治的負担を感じた日本政府が、国内の政治懸案を突破しようとする次元で、領土関連の内容を政策指向点に包装する技術だということである。ここでは盧武鉉(ノ・ムヒョン)前大統領(以下、盧大統領)と小泉純一郎前日本総理(以下、小泉総理)の外交舌戦があげられるが、2006年4月25日、盧大統領が発表した特別談話「独島は私たちの領土です」3)に対して、小泉総理がこれを「国内用」というさげすみの発言をした。そして小泉総理は25日、盧大統領の特別談話直後の記者たちとの質疑応答で「日本と首脳会談を持たないことに対し、韓国と中国が後悔する日がくるだろう」と語った。4) 独島問題に対して言及したことではないが、盧大統領の談話内容に対する不満がこめられている返事と見ることができる。そして李明博(イ・ミョンバク)前大統領(以下李大統領)と野田佳彦前総理(以下野田総理)との独島関連の舌戦は、2012年8月10日の李大統領の独島訪問に対して遺憾を表明した野田総理の書簡返送をめぐっても神経戦が続いた。5) これは、これ以後の韓日両国の独島政策を推量できるような事柄でもあった。
    第二は、このような韓日両国の政治的葛藤現象が、日本では独島領有権主張の権原強化として現れることになる。その事例として、2012年8月には玄葉光一郎外相が「独島国際裁判所」提訴の発言をするに至る。日本の独島領有権の主張は昨日今日の話ではないが、外交首長が「独島国際裁判所」提訴発言を公開的にしたということは、日本の独島領有権の主張がより一層一般化されているということを知らしめる。このように、独島をめぐる韓日間の対立が長期化し、両国の首脳会談も5年近く開かれずにいる。この渦中に、去る2月、島根県は独島が日本領土だという主張を入れた本を発刊した。
    この本は、独島が日本領土であることを一方的に主張する内容で構成されている。この本の著者は、本の出版目的を大きく二つに分類しているが、第一に「独島が歴史的にも国際法的にも日本の固有領土であるのに韓国が不法占拠しており、これは日本の主権が侵害されている現実から外務省が目をとじている。」6)ということ、そして第二に「竹島は1905年1月28日、閣議決定を経て同年2月22日島根県告示40号によって島根県所管となった。以後、他国により占領された事実がなく、国際法的にも事実だと認めたので日本領土になった。これを韓国が否定するのは不当だ」7)という内容を含んでいる。しかし上の二種類の主張は、韓国の立場と相衝する内容であるので、本文で扱うこととする。
    この本が出版されてまだあまり時間もたっておらず、先行研究に対しては尚早の感があるが、本の内容の構成は、歴史中心の中世、近代、現代の大きく三分野に分離されており、既存の韓日独島研究者の研究範囲を大きく抜け出だしてはいない。内容面では、時代別に韓日両国の独島領有権の主張を、日本による比較優位の次元で分析している。
    類似研究では、2011年6月、慎鏞廈の『独島130問130答』8)があげられる。しかし、この本は韓国の立場の肩を持っており、この「本」と相反した立場を見せている。だが、上記の二つの研究書が主張する独島領有権は、韓国が歴史的権原に基づいているとするならば、日本は国際法に焦点が合わされている、と言える。
    この本の構成は、全9部102個の項目になっているが、歴史的な問題が3部、国際法的な問題が3部だ。また「韓国の主張に対する反論」2部と「島根県の活動」に対する広報1部で構成されているが、「韓国の主張に対する反論」が31個で、歴史的な部分と国際法的な部分が混在しているが、歴史関連内容がより多い。これは、既存の韓日の研究成果で、韓国の歴史関連研究が日本よりも多いということに対する対応と見られる。これについての証拠が太政官文書に対する言及であるが、これは韓国の太政官文書を根拠とする独島領有権主張が日本に不利だと判断したためか、太政官文書を通しての韓国の主張を正面から否定する立場を取っている。
    本論文の構成は、第1章序論、第2章竹島領土編入、第3章韓国主張に対する反論I、第4章韓国主張に対する反論II、そして最後の結論に分けようと思う。論文分析過程では年代順に従わないで、「本」の構成順序によって分析したので、この論文では時代の順序が変わった場合もある。そして本論文が学会に寄与できる点は、進化していく日本の独島研究と広報に対して、虚構を明らかにして対応策を提示するところにある。

    1)独島は韓国で呼ぶ用語で、チュクト(竹島、タケシマ)は日本で呼ぶ独島の用語だ。そこで本論文では韓国で呼ぶ時は「独島」と言い、日本で呼ぶ時は「竹島」または「竹島(タケシマ、リアンコ島、またはリアンクルド岩)」と呼ぶことにする。

    2)この本は、合計9部102個の項目で構成されており、大きく三部分に分けられている。第1部~第5部は、独島編入から現代に達するまで。第6部~第8部は、前近代の独島。第9部は、島根県の活動、特に小中学校の独島教育を扱っている。第4部と第8部は韓国の主張に対する反論(合計32項目、歴史・国際法)で構成されている。

    3) ≪ハンギョレ新聞≫ 2006.4.26.
    4) ≪韓国日報≫ 2006.4.26.
    5) 2012年8月10日の李大統領の独島訪問以後の日本のメディアでの報道内容:
    ≪産経新聞≫: 暴挙容赦しない対抗措置を取れ(11日付) (独島提訴拒否)韓国はなぜ背を向けるのか(23日付).
    ≪朝日新聞≫: 大統領の分別のない行為(11日付) (独島提訴)大局的見地に立った韓日関係を(23日付).
    ≪毎日新聞≫: 深いトゲをどうやって抜くか(12日付) (領土外交)国際世論をわが方で作れ(21日付).
    ≪読売新聞≫: 韓日関係を悪化させる暴挙だ(12日付) (「独島」提訴で)日本領有の正当性を発信せよ(18日付).
    ≪日本経済新聞≫: 韓国大統領独島訪問の愚かさ(12日付)独島問題提訴を韓国の猛反省を促す機会に(22日付).
    ≪東京新聞≫: 韓日未来指向破った(12日付).

    6)『竹島問題100問100答』、7ページ.
    7)『竹島問題100問100答』、8ページ.
    (訳注:いずれも下條正男の「刊行に当たって」からの引用であるが、逐語的引用ではない。それぞれ日本語の原文では6ページと7ページにある内容である。)

    8)慎鏞廈、≪月刊朝鮮≫ 特別付録(2011年6月)

    (写真245p)韓日間に独島問題があるという『竹島問題100問100答』の表紙

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  136. 2.竹島(タケシマ)領土編入

    この本の第2部に該当する内容で、9個の質問で構成されている。「一番目、1905年竹島領土編入はいかなる経緯でなされたか、二番目、中井養三郎(以下中井)はどんな人物なのか、三番目、竹島編夕に関与した人物に対して知りたい、四番目、1905年竹島領土編入は国際法上どんな意味を持つのか、五番目、孤島(人里離れた島)の先占に通告が必要なのか、六番目、「固有領土」であるのに領土に編入することが矛盾しないのか、七番目、竹島領土編入後、島根県はいかなる行政措置を取ったか、八番目、竹島領土編入後、隠岐の人々は竹島とどんな関連があるのか、九番目、鬱陵島と日本人の関係について知りたい」。9)
    ここで論点になる所は日本の主張と韓国の主張が相互配置されるという点だ。この章の分析では、以下に内容をあげるが、日本は一番目の独島が日本領土になった経緯について、「竹島は1905(明治38)年1月28日、島根県隠岐島司の所管とすることを閣議で決定し、同年2月22日、島根県知事がこれを告示した。」10)としている。そして、これへの付言で中井の行跡について描写している。1904年9月、東海(鬱陵島、独島)で漁期を終わらせた中井が東京に上京して独島を日本政府から借りるためにどんな行動をしたのかだ。冊子によれば、中井が肝付兼行・海軍水路部長に会って話した結果、彼から「リアンコ島の所属は確固たる証拠がなく、特に日韓両国間の距離を測定してみれば日本側が十里近くにあって(出雲のタコバナから108里、朝鮮のリットネル岬から118里)、さらにまた朝鮮人による従来の同島経営に関する行跡がないのに反して、日本人は本島に対して経営した者がいるので、当然日本領土に編入されなければならない… (省略).”11)という話を聞いた。この言葉に勇気を得た中井は、結局「リアンコ島編入および貸下願」を内務・外務・農商務省3大臣に提出することになる。この論理は韓国の主張と相反するが、本来日本で言う竹島は今の独島ではなく鬱陵島を示す地名だった。ところが独島を発見したフランス船籍の捕鯨漁船の名前を付けてリアンクルとヨーロッパに紹介されて、独島がリアンクル(リアンコ島)と呼ばれて以後、独島名称が竹島に変わることになった。12) そして今の独島が既存の日本人たちが呼んだ松島から竹島に変わることになったことについて、奥原碧雲は「竹島の沿革を考証した結果、松島が竹島に変わることになった背景には『水路誌』があったということに注目した。そこで彼は、水路誌に鬱陵島を松島と命名した以上、竹島に該当する島がリアンコ島以外にはないと判断してそのまま竹島と命名することになった。」13)としている。
    このように日本がこの冊子を通じて領有権を主張する独島は、韓国の立場とは相反している。さらに、この本は日本外務省ホームページが独島関連ホームページにのせた「竹島問題10のポイント」15)の内容に、色々な理由を付加説明している水準だ。
    そして以下残りの8種類は、「中井養三郎はどんな人物なのか、竹島編入に関係した人々に対して知りたい、1905年竹島領土編入は国際法上いかなる意味を持つのか、孤島の先占に通告が必要なのか、「固有の領土」なのに領土に編入するのは矛盾しているではないか、竹島領土編入後島根県はいかなる行政措置を取ったのか、竹島領土編入後隠岐の人々は竹島とどのように関係するのか、鬱陵島と日本人の関連性に対して知りたい」16)だ。これは日本の一方的な主張であり、日本の右翼政治家が敏感な領土問題を外交政策で包装して日本国民から関心を受けるための政治的な修辞を代弁しているものであろう。

    (訳注:結局何も反論していない。日本側の記述をなぞり、韓国の主張とは違っている、とただ言っているのみである。最後の部分で、9つの問いのうちの8つを繰り返しているのは、何の意味があるのだろう?)

    (写真247p)1899年日本水路部で発行した朝鮮水路誌14)

    9)『竹島問題100問100答』、40~56ページ.
    10)『竹島問題100問100答』、40ページ.
    11)前掲書、41ページ.
    12)奥原碧雲、『竹島及欝陵島』、1907,44~47ページ.
    13)前掲書、46ページ.
    14)この水路誌は、朝鮮沿岸とその附属島嶼を一括して編纂した。そして第4巻朝鮮東岸で独島を「リアンクルト列岩」と表記して鬱陵島とともに詳細に説明し、日本海軍でも独島を韓国の領土と認定していることを証明している。
    15) http://www.mofa.go.jp/mofaj/
    16)『竹島問題100問100答』、41~57ページ.

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  137. 3.韓国主張に対する反論I
    この本の第4部に該当する内容であり、本論文主題と関連した質問では、全体の18個中5個が主要部分に該当する。「第一に、韓国は何を根拠に竹島が自国の領土というのだろうか、二番目、竹島の日本領土編入は「帝国主義的な侵奪行為」、「日本の朝鮮侵略の第1歩」だったか、三番目、1905年竹島領土編入措置は秘密裏に行われたのか、四番目、日本の竹島領土編入前に韓国(朝鮮)が竹島を実効支配ある証拠はあるのか、五つ目、沈興澤から初めて独島について報告を受けた大韓帝国政府はどのように対処したのか」。17)
    そして残りの13個の内容は次の通りだ。「韓国は昔から竹島を認識していたのか、竹島は新羅以来の韓国領土なのか。カイロ宣言は竹島が韓国領という証拠になるのではないか、連合国軍総司令部覚書によって竹島は日本の領土から除外されたか、1952年サンフランシスコ平和条約で竹島は日本で分離したか、「韓国の領有権は自明なので裁判で証明する必要はない」ということは正しいのか、「韓国が竹島に対して領土主権を行使している」とする主張は正しいのか、韓国は李承晩ライン(平和線)についてどのように正当化しているのか、韓国はなぜ日本海を東海にしたいのか…省略、日本の竹島領有権主張を韓国が「解放の歴史否定」というのはなぜか、韓国ではいかなる独島運動が展開していか、韓国では竹島に関しどのように海外宣伝活動を実施していか、「東北アジア歴史財団」というのはどんな組織なのか、」18)。
    ここでは、韓国の主張に対する反論18個のうち、その最初に該当する韓国の独島領有権主張の根拠に対するこの本の批判について分析してみることにする。
    最初の内容を分析する理由は、最初の内容が以下残りの17個の反論を合わせることができ、同時に今まで幅広く研究された一般論的な内容であるからだ。日本は韓国の独島領有権主張批判に対する根拠を、以下のいくつかの理由に要約している。第一に「明治政府は1905年無主地であった無人島に竹島と名前を付けて日本領土にしたが韓国の歴史認識では露日戦争のうちに韓国領土であった独島を日本が侵奪したといっている。韓国のこのような歴史認識に対して、日本は1952年1月18日、当時の李承晩大統領が公海上に「李承晩ライン」を設定してその中に独島を含ませたのが契機」19)としている。この後続措置で「韓国政府は1954年に竹島に灯台を設置し9月には竹島を武力占拠してしまった。これに対して日本政府は9月25日韓国政府に対して独島を国際司法裁判所に付託して解決するように提案したが拒否された。」20)
    日本のこのような主張は事実とは距離がある。なぜなら、韓国は日本の国際司法裁判所提訴を拒否したのでなく、無対応が正しいからだ。その証拠として、日本が独島に対して国際司法裁判所に提訴した理由は、外交的な修辞に過ぎないということが日本議会の独島関連速記録を通じて知ることが出来る。

    以下は、1954年当時、独島を国際司法裁判所に提訴する過程を調査する議員と政府官僚・中川融(以下説明員)との間の質問と答弁の内容だ。

    岡田宗司(以下岡田)議員「今まで韓国が取った態度を見た時、提訴に同意できないこともあります。そうなるとどうなりますか?」21)
    説明員「韓国が国際司法裁判所に提訴を承諾しない場合も考えられますが、その場合には国際司法裁判所には提訴できなくなります。しかし、日本がその問題を国際司法裁判所に提起していかなる決定が下されようとも、公平な各国の権威ある裁判官で構成されたこの国際司法裁判所の判定に承服するという公正な態度を表明したにもかかわらず、韓国がこれを拒否した場合には、やはりこれが国際世論に及ぼす影響を無視できないと考えます。 最終的な結末を司法的に処理できないということは残念だが、その場合にもやはりそれだけの効果があると考えます。」22)

    日本が独島に対して今まで4回、国際司法裁判所に提訴を要求してきているが、韓国は日本の提案に対して断ることを知りながらも、このような効果のための日本の提訴であり、1954年当時、韓国は断らなかったのだが、日本自らが「独島国際司法裁判所提訴に対する実効性」の疑問のために撤回した事件だった。従って、この本で言う1954年の独島国際司法裁判所提訴に対して韓国が拒否した、という内容は事実と違っている。

    当時、日本は独島を国際司法裁判所に提訴することに対して紛争関連に限って可能だという見解も明らかにしている。

    岡田:すると国際司法裁判所に提訴するのは直接的な決定打がならないこともあるというお言葉ですね。
    説明員:そうです。
    岡田:すると別に決定打は考えていましたか?
    説明員:これは国家間のことなので、一国の中のことのように最終的に最高裁判所で決定することができないということがはなはだ残念ですが、国際司法裁判所で決定されない場合には、国際連合で一種の平和を威嚇する問題として国際連合に提訴して国際連合で取り上げて論じるのも可能です。しかし、この場合は何といいましょうか、平和が脅威を受ける事態が発生したケースに該当します。すなわち、竹島 [独島]をめぐって日韓間に実質的な紛争が起こった場合には、国際連合で議論することができるでしょう。23)

    上の事実を考慮した時、日本による独島領有権主張はいかなる場合にも自家撞着の矛盾であることに間違いない。しかし、日本の独島領有権主張はここに留まらないで「1905年、国際法に基づいて日本領土に編入されて日本が実効支配しました。ところがその竹島に対して韓国政府は「歴史的にも国際法的にも韓国の固有領土」といっているが、そのためには、1905年以前に竹島が韓国領であったということを証明しなければならない。」24)という点を強調している。この内容は、現在日本外務省のホームページに上がっている「竹島問題を理解するための10のポイント」25)と同じ内容で満たされている。これは、この本の著者による研究成果というよりは、政府方針にともなう研究と見ることができる。今回の場で調べた「韓国主張の反論I」は、この本の本来の意図とは多少距離が遠い、日本政府がしたい話を伝える政府刊行物なのだ、と理解することができる。一方、この本が主張する独島関連の韓国の主張に対する反論は、韓日両国の読者を説得するには力不足であり、同時に制限的な研究に留まっていると見ることができる。

    17)『竹島問題100問100答』、80~82ページ
    18)前掲書、80~118ページ.
    19)前掲書、80ページ.
    20)前掲書、80ページ.
    21)東北アジア歴史財団編、『日本国会独島関連記録集第1部』、2009,286~290ページ.
    22)東北アジア歴史財団編、『日本国会独島関連記録集第1部』、2009,286~290ページ.
    23)東北アジア歴史財団編、『日本国会独島関連記録集第1部』、2009,286~290ページ.
    24)『竹島問題100問100答』、81ページ.
    25) http://www.mofa.go.jp/mofaj/

    訳注:この章も何を言っているのかわからない。国会の答弁の記録から、何を導き出したいのだろうか?「韓国は日本の国際司法裁判所提訴を『拒否』したのでなく、『無対応』だった」ということを論証したいのだろうか?それが何の意味があるのか?
    ここでも18個の問いを設定しながら最初のひとつについてしか答えていない

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  138. 4.韓国主張に対する反論II
    この本の8部に該当する内容で、本論文の主題と関連した質問では、全体14個の中3個が該当する。「第一に、韓国の1900年勅令にある『石島』は竹島なのか、二番目、韓国の1900年勅令で竹島が韓国領土になったのか、三番目、「既に領土権があったのに1905年に領土編入措置を取った」ことは不法なのか」だ。26) この他にも、この本が言う「韓国主張に対する反論II」にさらに11個があるが、内容は次のとおりだ。「韓国の文献と古地図に現れる「于山島」は竹島であるか。世宗実録地理志、新増東国輿地勝覧の于山島は竹島なのか。韓国は竹島の名称が「于山島→石島→独島」と変遷したとするが、証拠があるのか。江戸時代の文献では竹島が日本の範囲から除外されているのか。伊能忠敬の地図では竹島が日本の範囲から除外されているのか。長久保赤水の地図では竹島が日本の範囲から除外されているのか。林子平の地図では竹島が日本の範囲から除外されているのか。「幕府の鬱陵島渡航禁止の時、竹島が韓国領と確認された」とする韓国の主張は正しいのか。江戸幕府の鬱陵島渡航禁止令で竹島は鬱陵島の属島として韓国領だと見なされたのだろうか。安龍福が「日本の関白(将軍)に竹島を朝鮮領だと認めさせた」という韓国の主張は正しいのか、韓国が「竹島朝鮮領」の証拠にする1877年の太政官指令とは何か」等だ。

    この章でも、前章と同様に日本の反論中最も包括的だと考えられる「韓国の1900年勅令にある「石島」は竹島なのか」を中心に分析してみることにする。この本によれば、「韓国政府の広報資料には、「大韓帝国は1900年の「勅令第41号」に独島を鬱陵郡(鬱陵島)の所轄区域と明示して鬱陵郡守が独島を管轄しました」、「勅令第2条では鬱陵郡守の管轄区域を「鬱陵全島および竹島、独島」と明記しています」という。もしこの主張が正しいならば、日本が竹島を領土に編入して島根県の管轄の下に置いた1905年より以前に、この島を鬱島郡の所轄区域に置いたことになる。しかし勅令には石島とあるだけで「独島」という文字はなく、石島が独島だという証拠は提示されなかった…省略.”27) 

    しかし、ここには石島が今の独島だったという多くの証拠がある。先ず17世紀始め、伯耆国米子の町人である大谷甚吉と村川市兵衛が幕府から竹島に行く渡海免許を得て両家は毎年1回交代で渡航してアワビとアシカを採取する事業を継続していた。その過程で17世紀中盤に「竹島(鬱陵島)近辺の松島(独島)(竹島近辺松嶋)」(1659年) 「竹島内の松島(竹嶋内松嶋)」(1660年)などの記録が説明するように、昔から「独島は鬱陵島の附属島嶼(属島)」と見なされた。28) そして、17世紀中葉の日本古文献である『隠州視聴合紀』(1667年)には「日本の西北側限界を隠岐島にする」と記録されていて、当時日本が鬱陵島・独島を自国の領土から除外していたことがわかる。この他にも、「安龍福の1696年日本訪問に対して、隠岐29)の村上家文書が明らかにしているように、隠岐では「朝鮮八道地図」を見せて、江原道中に竹島と松島、すなわち鬱陵島と子山(于山)島があることを主張した。二島が共に朝鮮の領土だといって、その事実を日本の官吏に記録させるようにしたことは重要だ」30)ということだ。
    さらに、独島が日本領土から除外された日本地図をはじめとして、甚しきは、林子平の三国通覧図説(1785)の、独島が韓国のもの「朝鮮の持」(朝鮮の所有)という地図に至るまで、官撰文献などが多数存在する。そして19世紀末20世紀始め、韓日両国文献の独島関連の内容は、主に独島が日本と関係ないという内容が主をなしている。そして、今まで発見された日本文献中、独島が記録された最初の時期は島根県告示以前である1904年9月25日、日本帝国海軍の軍艦新高号の『行動日誌』だ。ここには、鬱陵島でリアンクルド巌を見た人から得た情報として「リアンクルド巌、韓人はこれを独島と書き、我が国の漁師は簡略にリアンコ島と呼んだ」と記録したのだ。これで推し量って考えた時、鬱陵島の人々は1905年以前から石島を‘独島(Dokdo)’と書いていたのだ。
    また、韓国で独島関連の最初の記録は、当時大韓帝国の主な新聞である≪大韓毎日新報≫と≪皇城新聞≫に報道された。1906年5月1日付≪大韓毎日新報≫は「無変不有」という表題で「独島を称して言うに日本属地といったことは、はなはだ茫然自失すること」とした内部の合意指令文を引用して報道した。知識人も黄玹の『梅泉野録』でのように、日本の独島侵奪に抗議した。
    そして≪皇城新聞≫は、日帝の独島侵奪の試みに対する抗議の表示として「雑報」欄の独島侵奪の試みに対する記事の表題活字の大きさを平常時の何倍の大きさで活字化して報道した。上記事実関連資料を総合した時、日本による独島固有領土の主張は限界にぶつかることになる。したがって日本の「島根県告示40号」による一方的な独島領有権の主張は、歴史的事実に対する関連根拠を基になされたことでなかったということがわかる。言い換えれば、日本の独島領有権の主張は、当時、独立した近代国家として背伸びしようとした日本のあせりが産んだ歴史に対する誤りだということがわかる。1877年に発行された「太政官」文での「鬱陵島(当時の竹島)とその他1個の島である独島(当時の松島)は我が国(日本)と関係ないということを心得(心に刻むこと)ること(竹島外一島之義本邦関係無之義卜可相心得事)」33)により、日本政府で製作するすべての地図に鬱陵島と独島を含ませてはいけないという原則が成立することになる。以後、日本で描かれるすべての地図は、いろいろな方法で、鬱陵島と独島が日本本土とは色を別にしたり、日本の西北境界を隠岐島に制限することになる。

    26)『竹島問題100問100答』、194~198ページ.
    27)前掲書、194ページ.
    28)内藤正中、『竹島=独島問題入門 日本外務省竹島批判』、新幹社、2008,36ページ.
    29)島根半島北部の島嶼.
    30)内藤正中、『竹島=独島問題入門 日本外務省竹島批判』、新幹社、2008,36ページ.
    31) 1696年日本を訪問した安龍福が携帯していた文書で見るように隠岐で「朝鮮八道地図」を見せて、江原道中に竹島と松島、すなわち鬱陵島と子山(于山)島があることを主張した。
    (訳注:村上家文書は隠岐側の記録であり、「安龍福が携帯していた文書」ではない。基本的な事実の誤解であり、大きな歴史歪曲である)
    32)『軍艦新高行動日誌』、1904(明治37年).
    33)日本明治政府の国家最高機関である太政官は17世紀末日本幕府が下した鬱陵島渡海禁止措置などを根拠に「鬱陵島と独島が日本と関係ないということを肝に銘じなさい」と内務省に指示した。

    (写真254p上)
    石島がまさに独島であることを証明した≪皇城新聞≫ 1906年7月13日付記事

    (写真254p下)
    新高号の『行動日誌』(慎鏞廈教授提供)32)

    (写真255p)
    江原道の中に「竹嶋松嶋有之」と書かれている(村上家文書)31)

    (写真256p上)
    独島を日本本土と関係なく現わした日本小学校地理付図(ハギワラ・クニゾ、1892)
    (写真256p下)
    独島を日本本土と関係なく現わした古地図、大日本国全図(オノ・エイスケ、1892)
    (訳注:いずれも描かれているのは「松島」と「竹島」すなわちダジュレーとアルゴノートであり、竹島=独島はこの地図には現われてない。)

    (訳注:注の順序が混乱している)

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  139. 5.結び
    右翼指向の安倍晋三総理は、李前総理の在職時「靖国神社を参拝できないことに対して非常に後悔する」とした人物だ。そのためか彼は2次内閣構成直前である2012年12月末、靖国神社を電撃参拝した。以後続けて閣僚と国会議員が雨後の筍のように参拝隊列に合流している。日本のこのような現象を憂慮してであったのかは分からないが、パク・クネ大統領は94周年3.1節の日の記念式で「東アジアが時代を共に導いていくためには、歴史を正しく直視して責任を負う姿勢を持たなければならない」とし「そうする時、はじめて両国間に堅固な信頼が積もることが出来て真の和解と協力も可能になる」34)としながら、日本を狙った歴史認識問題を直ちに引き出した記憶が新しい。これは日本に投げる韓国人の普遍的な歴史認識と見ることができるし、特にパク大統領は「歴史は自分の省察の鏡であり希望の未来を開く鍵」として「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わることができない」と釘をさすこともした。35) 韓国大統領の対日歴史認識発言以後、3月8日、衆議院予算委員会会議に出席した安倍は「日本軍慰安婦強制連行を認めた1993年のいわゆる「河野談話」修正問題に対して、静かな場所で専門家たちどうし議論しなければならない」と述べた。36) このように安倍政府スタート以後、韓日両国は一寸の譲歩もなしで過去の歴史に執着している姿を見せている。
    そして今年2月22日、日本島根県が発行した『竹島問題100問100答』という本は、内容の大部分が既存の日本政府の立場を繰り返す水準だ。これは日本政府から支援金を受けるための目的があるのだろう。37) 一方、この本は、既存の日本政府の立場を盲目的に支持し代弁する水準に留まっている。 他の点があるならば、二種類が目につくが、第一に「固有領土論」と「無主地先占論」を融合させて論理的衝突を除去しようとした努力が強化された形態で繰り返されている。そして国際法を叙述する部分では独島を「無主地」と規定する表現自体を自制しようとする傾向が見える。結局、このような論理が一般の人たちも簡単に理解できる水準で繰り返し記述されていて、今後日本人が独島に対して理解するのに誤った信号を送ることができる。第二に太政官文書に対する言及があげられる。日本はこれまで「太政官指令(1877)」が自国に不利だと判断して公式に言及したことがなかったが、この本で初めて言及している。換言すれば、太政官指令の「竹島(鬱陵島:タケシマ)外一島は本邦と関係ないということを肝に銘じること」と言った「一島」が「松島」だという点は認めている。しかし明治時代には鬱陵島を松島と呼んだりもしたので「竹島」と「一島」ともに「鬱陵島」だと結論付けることによって、韓国の太政官文書を通した独島領有権主張に対して正面から対応しようとする態度と見ることができる。

    34) ≪韓国日報≫ 2013.3.2.
    35) ≪ハンギョレ新聞≫ 2013.3.2.
    36) ≪朝日新聞≫ 2013.3.9.
    37)これに対する具体的な内容では、去る2月22日、日本島根県松江市島根県民会館で「2014年度島根県竹島の日記念行事」および「竹島・北方領土返還要求運動県民大会」に『竹島問題100問100答』著者討論会に出席した下條正男は「日本政府も韓国の東北アジア歴史財団のような研究機関を作るように願う。この本は日本政府に韓国の東北アジア歴史財団と同じ領土研究機関を作ってほしいという要請次元で作った。」とした。 一歩進んでこの本の内容でも「韓国には独島および東海の広報に対する対日対外戦略・戦術を構想する専門機関(東北アジア歴史財団)がある」というふうに財団の存在を繰り返し強調した。


    【参考文献】
    『竹島問題100問100答』.
    奥原碧雲『竹島及欝陵島』(1907).
    内藤正中『竹島=独島問題入門日本外務省竹島批判』(新幹社、2008).
    東北アジア歴史財団編『日本国会独島関連記録集第1部』(2009).
    ≪韓国日報≫ 2013.3.2.
    ≪ハンギョレ新聞≫ 2013.3.2.
    ≪朝日新聞≫ 2013.3.
    ≪皇城新聞≫ 1906.7.13.
    慎鏞廈『独島130問130答?』月刊朝鮮特別付録(2011年6月).
    http://www.mofa.go.jp/mofaj/

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  140. 郭眞吾(クァク・ジノ)東北アジア歴史財団 

    国会図書館の文献紹介にこの人の論文が紹介されています
    http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8436649_po_075806.pdf?contentNo=1
    2-7)郭眞吾ほか東北亜歴史財団編『独島と韓日関係―法・歴史的接近』(東北亜歴史財団企画研究 ; 33)ソウル,2009, 202p.
    東北亜歴史財団独島研究所の研究委員5 名による論集。

    「日本の独島領有権主張の限界―日本議会速記録を中心に 1951-1953 年」(郭眞吾)は、第2 次世界大戦後に竹島の実効支配を進めた韓国に対応するために日本の国会で行われた議論を分析する。

    この時の成果を、上の論文に引用したようです。


    この人については、
    http://www.voakorea.com/content/article/1863676.html
    インタビュー音声あり
    http://www.voakorea.com/audio/audio/382505.html

    「政治学」ということで、放送で日朝関係の展望をしています。かなり一般論をしゃべっており、必ずしも竹島プロパー、という人でもなさそうです

    写真あり
    http://www.seoul.co.kr/news/newsView.php?id=20140221030010

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  141. 1905年は、池内敏が言うように「無主地先占」であって、「固有領土再確認」とは読めない。この時には、リャンコ島が昔の松島であることは知らないのではないかとも思います。
    戦後になって、李承晩ライン以降、竹島が紛争地となり、韓国側が于山島等を持ち出して歴史的優位性を主張してきたのに対抗して、「固有領土再確認論」を1950年代に日本政府が作ったのではないか。

    韓国側はいま、この矛盾点を突くのを大きな戦略としているように思います。

    そうは言っても、韓国側の于山島等には歴史的根拠はなく、日本側の大谷・村川の活動は権原として大きな意味があると思います。

    >この時には、リャンコ島が昔の松島であることは知らないのではないかとも思います。
    と書きましたが、知っていてあえて触れていないとすると、元禄竹島一件の解釈として、松島も禁止されたかもしれない、と1905年の日本政府が考えていた可能性もあるように思います。どちらかわからないので、あえて触れなかった、ということでしょうか。
    ただ、池内敏のように、明確に「禁止されたのだ」、と読むことは、彼の忌避する「文献の恣意的解釈」そのものだと思います。

    以上は、Chaamieyさんサイトへのコメントの再掲です。
    http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/56345410.html

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  142. >1905年は、池内敏が言うように「無主地先占」であって、「固有領土再確認」とは読めない。

    日本政府は無主地先占として編入したと思われます。ただ、それが「無主地先占」の権原取得に該当するかと言えばそうとも限らない。太政官指令の他一島が竹島だと判断されれば無主地先占だろうし、違うとされれば歴史的権原から実効支配への切り替えとされるでしょう。

    >明確に「禁止されたのだ」、と読むことは、彼の忌避する「文献の恣意的解釈」そのものだと思います。

    国際法とも相容れませんね。
    植民地放棄後、二世紀に渡る交通の断絶や知識の減少にもかかわらず権利は継承したとする東グリーンランドの判例です。
    It is known now that the settlements must have disappeared at an early date, but at the time there seems to have been a belief that despite the loss of contact and the loss of knowledge of the whereabouts of the settlements one or both of them would again be discovered and found to contain the descendants of the early settlers.
    [102] As regards voluntary abandonment, there is nothing to show any definite renunciation on the part of the kings of Norway or Denmark.
    [103] During the first two centuries or so after the settlements perished, there seems to have been no intercourse with Greenland, and knowledge of it diminished; but the tradition of the King's rights lived on, and in the early part of the XVIIth century a revival of interest in Greenland on the part both of the King and of his people took place.


    池内は、時々こういう「独自理論・基準」の適用をやらかしますね(しかも重要な部分)。江戸時代の幕府の許可を得た渡海も「私的なものだった」としてましたし。

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  143. 메이지(明治)10년 태정관지령(太政官指令)을 인용하는 한국측 독도주장의 익살스러움


    지난 5월 경상북도 독도사료연구회가 발행한 『「죽도문제100문100답」에 대한 비판』에서는, 전83항목 가운데 실로 11의 항목으로 메이지(明治)10년 태정관지령이 언급되고 있습니다. 주지하는 듯이, 태정관지령은 일본정부의 공문서입니다. 그러나 그 일본의 공문서가 없으면 한국의 독도 영유권 주장은 성립하지 않을 것 같은 양상을 내보이고 있습니다. 이것은, 우산도, 대한제국칙령 41호, SCAPIN677, 샌프란시스코 평화 조약 등 한국측이 독도 영유권의 근거로서 주장하는 내용들이 모조리 성립하지 않는 것을 한국측의 연구자들도 점차 느끼게 되어 온 결과일지 예측할 수 없습니다만, 일본의 자료에 의거해서 독도영유권을 증명하려고 하는 경향이 강해져 온 것 같이 생각됩니다.
    그러나, 이것은 실로 익살스러운 모습입니다. 영토의 권리는 자국의 자료로 증명해야 합니다. 일본정부가 에도시대의 죽도/독도의 이용 실적 및 1905년의 죽도 영토편입 결정이라고 하는 2가지의 명확한 사실로 설명하고 있는 것 같이.

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  144. 두번째, 메이지(明治)10년 태정관지령은 외교 문서가 아닙니다. 일본정부가 시마네현 당국자에게 지시한 일본 국내 문서일 뿐입니다. 따라서 그 지령문이 무엇을 말했다고 하더라도,그것은 한국과의 관계에 있어서 어떠한 법적 효과도 끼치지 않습니다. 한국측의 연구자들은 일본정부는 독도가 한국의 영토임을 알면서 1905년에 무리하게 독도를 일본 영토으로 편입한 것이라고 주장하고, 태정관지령을 그 유력한 증거로 하고 싶은 것 같습니다만, 일본정부가 죽도 영토편입 이전에 죽도를 어떻게 보고 있었는가 하는 것은, 영토편입 행위에 특별한 영향을 주는 것이 아닙니다. 그러므로, 한국측이 얼마 태정관지령의 문제점에 대해서 지적해도, 그것은 국제법상 유효한 주장이 되지 않습니다. 국제법상 유효한 주장이 되지 않는 것을 열심히 주장하는 모양은, 이것도 또 자국의 자료에 근거하는 영유권 주장에 자신을 가질 수 없는 일의 또 다른 표시입니까?

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  145. 세번째, 한국측 연구자들은 메이지(明治)10년 태정관지령이 죽도/독도를 일본의 판도외라고 지시했다고 주장하고 있습니다만, 그 주장에는 공통된 큰 특징이 있습니다. 그것은 그 주장의 근거로서 「기죽도약도」(磯竹島略図)를 들어 있는 점입니다.
    「기죽도약도」에 울릉도와 죽도/독도를 써 있는 것은 사실입니다. 그러나, 내무성과 태정관이 그것을 어떻게 보았는가 하는 것은 본래 완전히 별도의 문제입니다.
    한국측 연구자들은 메이지(明治)10년 태정관지령이 죽도/독도를 일본의 판도외라고 지시했다고 주장합니다만, 그것은 즉 태정관의 의사를 논의하고 있는 것입니다. 그런데 한국측 연구자들은 태정관이 기죽도약도를 보아서 어떤 판단을 내린 것인지에 대해서 아무 것도 언급하지 않습니다. 곧, 한국측 연구자들은 단지 「기죽도 약도」에 무엇이 그려지고 있는지 만을 논하고 있는 뿐이며, 태정관의 의사가 어떤 것 이었는지는 전혀 논하지 않고 있습니다.
    시마네현이 발행한 『죽도문제100문100답』의 83에서 쓰카모토(塚本)씨가 「현재의 죽도를 일본과 관계 없다고 했다고 하는 주장은, 시마네현의 물음 첨부 자료만에 의거한 논의,혹은 마쓰시마라고 하면 항상 죽도/독도를 가리킨다고 하는 마음먹이에 의한 논의다. 」이라고 진술한 그 의미를 한국측 연구자들은 전혀 이해가 가지 않지요.

    한국에서는 「기죽도약도」는 태정관지령의 부속 문서이라고 잘못 알고 있는 사람들도 많은 것 같습니다만, 「기죽도약도」는 내무성에 질문을 제출한 시마네현의 문서이며, 태정관지령의 부속 문서가 아닙니다. 따라서, 시마네현의 문서에 대하여 얼마 열심히 설명해도 태정관의 판단에 대하여 설명한 것이 되지 않습니다. 한국의 연구는 설명해야 할 대상을 틀려 있는 것입니다. 즉, 한국측의 연구는 아직 태정관지령 그 자체에 도달하지 않고 있습니다. 그런데도 한국측 대부분 연구자가 태정관지령은 죽도/독도를 일본의 판도외라고 지시했다고 자신만만하게 주장하고 있는 모습은 실로 익살스러운 것입니다. 태정관지령이 죽도/독도를 일본의 판도외라고 지시했다고 주장하고 싶은 한국측 연구자들은 다 태정관이 어떠한 판단에 근거하고 그러한 결론에 도달한 것인지 구체적으로 설명 해야 합니다만, 그러한 설명을 하는 연구자는 한사람도 없으므로, 한국측의 연구자는 완전히 근거가 없는 것을 주장하고 있게 됩니다. 과연 이 문제를 정확히 설명 할 수 있는 연구자가 한국측에 있는 것입니까?

    한편, 이 지적에 대해서 만일 「기죽도약도에 울릉도와 죽도/독도가 써 있는 것은 누구 눈에도 명확하기 때문에, 태정관이 그대로 판단한 것은 의혹의 여지가 없다」라고 하는 것 같은 주장을 하는 사람이 나온다면, 그사람은 자신이 태정관지령 문제의 본질을 이해하지 않고 있는 것을 더욱 세상에 내보이게 될 것이라고 하는 것을 미리 지적해 둡니다.

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  146. 「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」は田辺太一の不変の認識と思います。

    Chaamiey様は、「外務省公信局長田辺太一が「松島は朝鮮の鬱陵島」とメモをしていた件についてですが、この件を太政官指令の解釈に用いるということは、太政官は指令発出の時点で松島は鬱陵島であると知っていたという、いわゆる「一島説」の主張になるわけですが、これは難しいと思いますね。それに、「松島は朝鮮の鬱陵島」という田辺さんの認識自体がかなりあやしいものだったと私は見ています。」と述べられました。

    しかし田辺は、1862年と1875年の小笠原諸島の領土交渉に関わっていますから、Argonautは存存せず、DageletはMatsushimaとする、欧米の地図を十分に承知していたでしょう。そして田辺太一や渡辺洪基は、TakeshimaとされたArgonautが架空の島である以上、朝鮮に最も近い Dageletとされた松島が伝統的竹島=鬱陵島に相当することを理解していました。さらに漢籍にも詳しい田辺は、『高麗史』の「一云于山武陵本二島相距不遠風日清明則可望見」などから、伝統的松島が鬱陵島に属する于山であるとも認識していました。田辺はまた、欧米諸国との外交交渉を通じて日本の外交文書の不備を痛感していたので、外交の記録『通信全覧』の編纂を主導しました(田中正弘:近代日本と幕末外交文書編纂の研究.思文閣出版, 1998)。従って、「(開拓願いの)松島は朝鮮の鬱陵島」という田辺の認識は「歴史的」に学んだものであった、と私は確信しています。

    opp様「あられさんの人物のつながりとかから物語りを作る癖は、内藤(正中島根大名誉教授)に感化されたお医者さん(大西俊輝氏)が書いた竹島の本に似てる気がするんです」とは、身に余る光栄です。私は、『隠岐古記集』を編纂した大西教保を先祖にもち、多くの優れた著述をされた大西俊輝氏を大変尊敬しています。『隠岐古記集』(1823)は「亥の方四拾厘余にして松嶋あり周り凡壱厘程にして生木なき岩嶋なり」と初めて松島を詳述し、また「秋晴天北風の日に大滿寺山の頂上より望免は松嶋は遥可に見ゆべしと言」などの興味深い記事に満ちています。単に趣味で楽しんでいるに過ぎない私の拙い竹島物語を、詳細な調査結果に基づく極めて説得的な大西俊輝氏の『竹島と日本海』などの本に似ていると、opp様が評価されたことに感謝いたします。有難うございました。

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  147. Chaamiey様と併行して翻訳作業をしておりました。
    途中途中に「訳注」として茶々を入れております。

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    『独島研究』嶺南大学独島研究所 第16号(2014.6.30)

    『竹島問題100問100答』の「竹島渡海禁止令」と「太政官指令」批判
    日本の「固有領土論」は成立するのか?
    ソン・フィヨン*

    p209~p240
    http://dokdo.yu.ac.kr/bbs/list.php?board=b01&sort_field=&asc=&max_list=10&page=1&move_page=&s_page=1&search_field[1]=title&search_list=&&PHPSESSID=0b0dc9e46390e2a9b54db4d7272f1be8


    1.はじめに
    2.『隠州視聴合記』の解釈に関する問題
    3.「竹島渡海禁止令」に関する主張批判
    4.「太政官指令」に関する反論批判
    5.結び


    去る2月22日、日本島根県の「竹島の日」行事を行い、独島広報冊子『竹島問題100問100答』を配布した。ここでは、2005年7月竹島問題研究会発足以後、これまで竹島問題研究会が繰り広げてきた、独島は「日本の歴史的に固有の領土」という歪曲論理がそのまま凝縮されている。事実この「100問100答」は、「Web竹島問題研究会」のホームページを通して、一般ネチズンの素朴な質問に答えてきた資料のうち100個余りを取捨選択してわかりやすく要約したものに過ぎない。しかし、韓国は「昔から全く独島を認知しておらず、17世紀大谷・村川両家の竹島渡海によって17世紀中葉に日本の独島に対する領有権が成立した」とする立場をそのまま堅持している。本論文は『竹島問題100問100答』の固有領土論の論理を日本の史料を通じて批判したものである。

    分析の結果、固有領土論は日本の史料によって明確に否定されるということを明らかにした。
    ①1695年12月24日、江戸幕府の筆頭老中・阿部豊後守が鳥取藩の江戸屋敷に送った質問に対する答弁書「7か条答弁書」で、鬱陵島と独島は日本に付属しないと確認した後「竹島渡海禁止令」を出した点。
    ②1870年4月、日本外務省が3人の外務省官員に朝鮮の内政について偵察をするようにして報告を受けた「朝鮮国始末内探書」で、鬱陵島と独島が朝鮮付属であることを明確に確認している点。
    ③1877年3月29日、当時の最高政治決定機関である太政官が、指令として「鬱陵島・独島が日本の版図ではない」という決定を下した「太政官指令文」により、二島が日本の領域ではなく朝鮮の領域であることを明らかにした点。
    ④日本で独島が最初に言及される官撰誌『隠洲視聴合記』(1667)で、日本の西北限界を隠岐島までだと記録していること、などである。

    これらの日本史料を通して見ても、竹島問題研究会と日本外務省が主張する「固有領土論」の論理が成立しないことは明白な事実だ。歴史的歪曲がまた他の事実歪曲を再生産する連結の輪を断絶するためにも、日本は独島に対する「固有領土論」の論理を撤回しなければならないであろう。

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    竹島問題100問100答、固有領土論、7か条答弁書、太政官指令、隠州視聴合記


    1.はじめに

    去る2月22日、日本島根県は「竹島の日」の行事を行い、独島広報資料『竹島問題100問100答』1)を配布した。2012年10月に発足した島根県の第3期竹島問題研究会名義で作られた冊子で、2005年7月の竹島問題研究会発足以後、今まで竹島問題研究会が繰り広げてきた歪曲論理がそのまま凝縮されている。事実、この「100問100答」は、「Web竹島問題研究会」のホームページ2)を通じて一般ネチズンの素朴な質問に答えてきた資料のうち100個余りを取捨選択してわかりやすく要約したものに過ぎない。3)

    1)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』 WILL3月増刊号、ワック株式会社、2014年3月.
    2) http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/ (検索日:2014.3.15).
    3)この本は、実際に2月中旬に発行されてから2ヶ月程度の時間しか経過していないが、現在日本国内のベストセラーの一つになっているという。

    しかし、一部既存竹島問題研究会の事実歪曲水位よりも若干やわらかい表現を使ってはいるものの、全体的主張と論旨は既存の立場をそのまま踏襲している。特に、韓国は「昔から全く独島を認知しておらず、17世紀大谷・村川両家の竹島渡海によって17世紀中葉に日本の独島に対する領有権が成立した」とする立場をそのまま堅持している。したがって韓国の史料に登場する「于山島」の存在を、全部独島ではなく他の島を指し示すものだと歪曲している。また、日本史料には松島(独島)が日本の版図ではないとの記録しかないにもかかわらず、「17世紀中葉にすでに日本の領有権が成立した」、「したがって日本固有の領土だ」という論理を正当化するために、独島が日本の版図ではないという三つ記録と、『隠州視聴合記』の「日本の西北限界は隠岐島に限られる」という記録まで歪曲して否定しているのである。

    それらは
    ①1695年12月24日、江戸幕府の筆頭老中であった阿部豊後守の鳥取藩の江戸屋敷に対する質問の答弁書「7か条答弁書」、
    ②1870年4月、日本外務省が3人の外務省官員に朝鮮の内政に対して偵察をするようにして報告を受けた「朝鮮国始末内探書」、
    ③明治時代初期の1877年3月29日、当時の最高政治決定機関である太政官が指令で「鬱陵島・独島が日本の版図ではない」という決定を下した「太政官指令文」と
    ④日本の西北限界を隠岐島までだと記録している『隠州視聴合記』である。

    しかし、これらの史料の存在は全てが竹島問題研究会の独島論理に障害物になるので、全部相変らず否定されている。歴史的事実がよく分からない読者が読めば、あたかも独島の領有権が日本にあると勘違いする程、巧妙に作成されている。韓国の歴史的権原を否定する部分までを含めれば、概略次のような質問項目が固有領土論に関連した部分といえる。

    第4部 韓国の主張に反論する①[18項目]
    31.韓国は何を根拠に竹島が自国の領土だと言っているのか? (難易度☆)
    32.韓国は昔から竹島を認識していたのか? (難易度☆☆)
    33.竹島は新羅以来の韓国領土か? (難易度☆☆)

    第8部 韓国の主張に反論する②[14項目]
    76.江戸時代の文献では竹島が日本の範囲から除外されているのか?(難易度☆☆☆)
    80.「幕府の鬱陵島渡航禁止の時、竹島が韓国領と確認された」という韓国の主張は正しいのか?(難易度☆☆)
    81.江戸幕府の鬱陵島渡航禁止令で竹島は鬱陵島の属島として韓国領だと見なされたのだろうか?(難易度☆☆)
    83.韓国が「竹島朝鮮令領」の証拠とする1877年の太政官指令とは何か?(難易度☆☆☆)4)
    4)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』WILL3月増刊号、ワック株式会社、2014年3月、3~5ページ.

    本稿では、まず『竹島問題100問100答』の内容のうち、竹島問題研究所が主張する「固有領土論」に関連する部分に限定して議論を展開しようと思う。すなわち「第8部 韓国の主張に反論する②[14質問項目]」の中のQ76、Q80、Q81、Q83に対する再批判を中心にする。これらは大きく、『隠州視聴合記』の解釈に関する部分、「竹島渡海禁止令」(1696.1.28)に関する部分、「太政官指令」の「竹島外一島」の解釈に関する部分であり、時間的順序により批判的に検討する。

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  148. 2.『隠州視聴合記』の解釈に関する問題

    『隠州視聴合記』は、日本の歴史記録で独島(松島)が最初に登場する官撰誌である。5)

    5)韓国の史料で独島(于山島)が最初に登場する『世宗実録』「地理誌」(1454)の記録よりも213年遅い記録である。官撰史料に登場する歴史的認知の事実が200余年以上の違いがあるにもかかわらず、世宗実録地理志の「于山島」ですらも独島ではないと主張している。

    隠岐(隠州)の地誌であるこの文献は、松江藩士・斉藤豊仙が、藩主の指示により1667年8月から約2ヶ月間、隠州(隠岐島)で見聞きしたことを記録した調査報告書である。斉藤豊仙は、隠州について各方向と距離によって地域を紹介しながら、隠州から西北方向に独島があり、日本の西北限界は隠州だと言った。この本は、もともと1954年11月10日付で日本政府が独島を日本の領土と記録した文献として取り上げて論じたものであったが、同じ記録について正反対の主張が対立した。東北アジア歴史財団で翻訳された『隠州視聴合記』の文言についても、一時激しい論議があったし、日本の主張に対する反論サイトの記述についても論議が起きたこともあった。6)

    6)例えば、
    http://news.kbs.co.kr/news/NewsView.do?SEARCH_NEWS_CODE=1584516
    (訳注:KBSニュース 2008年6月24日)
    http://news.kbs.co.kr/news/NewsView.do?SEARCH_NEWS_CODE=1583792&&source=http://blog.daum.net/_blog/hdn/ArticleContentsView.do?blogid=0liOW&articleno=20&looping=0&longOpen=
    (訳注:KBSニュース 2008年6月23日 イ・ヒョヨン記者の特ダネ)
    http://blog.daum.net/tokdo1025/20(訳注:独島守護隊(代表キム・チョムグ)のサイト)
    を参照.

    文献では次のようになっている。
    “隠州は北海の中であるので隠岐島という。……その官衙(府)は、周吉郡南岸の西郷豊崎にある。ここから南に出雲国・米穂関までは30里、南東に伯耆国・赤崎浦までは40里、南西に石見国・温泉津までは58里、北から東にかけては往復できる土地がない。北西方面に2日1夜を行けば松島(独島)があり、さらに1日の路程に竹島(鬱陵島)がある。この二島は無人の土地で、高麗を見ることは出雲から隠岐国を眺めるようだ。そうであるのですなわち、日本の西北側限界はこの州(此州)となる.”7)

    7)「周吉。其府者周吉郡南岸西郷豊崎也。従是南至雲州米美穂関三十五里、辰巳至伯州赤崎浦四十里、未申至石州温泉津五十八里。自子至卯無可往地。戍亥間行二日一有松嶋、又一日程有竹嶋。俗言磯竹島、多竹魚海鹿。此二島無人之地、見高麗如自雲州望隠州。然則日本之乾地、以此州為限矣。」(『隠州視聴合記』)、6~8ページ).

    (訳注:「戍亥間行二日一有松嶋」は、正しくは「戍亥間行二日一夜有松嶋」現代語訳では「夜」を入れている。)

    ここで最後の部分の「この州(此州)」を、日本政府は「この島」と読んで「竹島」(鬱陵島)を指すとしたのに対し、韓国政府は隠岐国を指すとしたのである。その後、研究者の間でもこのような主張が対立してきたが、結局、池内敏の研究8)により、「この州」は鬱陵島(竹島)ではなく隠岐島までだということが明らかになり、韓日両国の論争から徐々に姿を消すことになる。9)

    (訳注:池内敏の研究結果は「この州」は「隠岐国」を指すというものであって、「隠岐島」という限定の仕方はしていない。池内論文が韓国で正しく読まれていない実例である。)

    8)池内敏、「近世日本の西北境界」、『史林』90-1、2007;
    池内敏、「『隠州視聴合記』の解釈をめぐって」『竹島問題とは何か』、名古屋大学出版会、2012、79~106ページ.
    9)『隠州視聴合記』を翻訳した大西俊輝も当初「この州(此州)」について、竹島(鬱陵島)を指すと見ていた。前記のKBS取材の返事でもそのように述べている。

    (訳注:以下は塚本の文章Q76の引用翻訳。176p下段6行目から177p終わりまで)

    日本政府の見解は、『隠州視聴合記』が編纂された1667年当時は、米子の大谷・村川両家による幕府公認の竹島渡海が最盛期であり、毎年隠岐国島後の福浦で風を待って出港していたので(船には隠岐の人も乗船していた)、隠岐国の実地で聴取調査をして執筆されたこの本にその事実が反映されていると考えたのだろう。一方、韓国政府の解釈は、文章と用字から見て「州」は隠州だというものだ。
    この文章の解釈方法をめぐって、①この部分だけでなく全体を見れば、隠岐国西郷豊崎から各方向にある日本国内各地と結ぶ距離が記されているので、西北方向に2日1夜の距離にある「松島」、そこから1日の距離にある「竹島」は日本の領土として記述しているという議論、②この本で「州」という文字は、常に国という意味で使われているという議論、③「二島は無人の土地」という記述から見て、人が住む日本の土地が隠岐州までだと言っているという議論、(1879年刊行の大槻修二編『日本地誌要略』には、“その西北海の中に松島・竹島の二島があり朝鮮の北側に近接するが、また住民を統属することはない”となっており、同著者の『改正日本地誌要略字引』には、“居民の統属はない”を解釈して、“住む人もなく、またどの国に付属するものでもない”としている)等がある。
    訳注:韓国語原文で「隠岐州」は「隱耆州」、「統属」は「統続」となっているが、誤りである。

    しかし、『隠州視聴合記』の記述は、その意味如何に関係なく、竹島・松島が朝鮮領だという認識を現わすものではない。「高麗を見る」とする場合に、見ている人が立っている場所は高麗ではない。当時は鎖国をしていて外国への渡航は禁止されていた。また現在の竹島については、『竹島図説』(18世紀)に「隠岐国松島」、『長生竹島記』(1801年)に「本朝西海の終わりにある」となっている。『隠州視聴合記』は、いずれにしろ韓国の竹島領有権主張の根拠にはならない。(塚本)10)

    10)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』、176~177ページ.
    (訳注:ここまでが塚本の引用)

    この「竹島問題研究会」の論調でも、当初の、『隠州視聴合記』の記録は松島(独島)が日本の領域であることを現わす、という主張から相当部分退却したようだ。しかし「この州」をめぐる解釈が3つに分けられると紹介し、『日本地誌要略』を引用して「西北のまん中ある竹島・松島の二島は、居民の統続がなく(訳注:ここも「統続」は誤りで「統属」が正しい)、従ってこれはどの国に付属するものではない」ということを強調している。すなわち、日本に付属するものでもないが、それでも、統続がない、朝鮮に付属する島でもないということを隠然のうちに浮上させている。17世紀当時、日本から出漁した漁民の渡海事実と、隠岐の人々も共に渡海したとのことと、『竹島図説』など一部の記録に隠岐の松島(独島)という記録があることを強調している。

    しかし、朝鮮の太宗朝(1417)に刷還・刷出政策を実施して、鬱陵島・独島の居民を刷還してきたし、その後、不断に鬱陵島に入島した住民たちを巡撫してきた。この事実は、「通続」がなかったのでなく、通続があったのであり、「どの国に付属するものでもない」という論理とは適合しない。

    (訳注:「独島」の居民を刷還した記録は存在しない。)
    (訳注:ここでは「統属」について、「統続」ではなく「通続」という言葉を使っている。用語が混乱している)

    すなわち、朝鮮の通続地域=管理地域に含まれるものであるから、この『隠州視聴合記』の記録で見れば、日本の領域ではない朝鮮の領域を示しているものだ。
    斉藤豊仙は2ヶ月間隠岐島を調査して、口碑や伝承などを集めて隠岐の西北にある島を記述しているのであり、当時はまだ米子の大谷・村川両家が竹島渡海を継続していた時期であるから、当時両家の漁船に雇用されて竹島に行ってきた隠岐の人々の口述も含まれている。ここで「この州」が示す範囲は、当時の隠岐の人々の鬱陵島・独島に対する認識を現わしていると見なければならない。

    また「しかし『隠州視聴合記』の記述は、その意味如何に関係なく竹島・松島が朝鮮領とだという認識を現わすものではない。『高麗を見る』とする場合に、見ている人が立っている場所は高麗ではない。」したがって「『隠州視聴合記』は、いずれにしろ韓国の竹島領有権主張の根拠にならない。」という苦しい議論に終わっている。原著者である斉藤豊仙が立っている場所が「高麗ではない」ために、「竹島・松島が朝鮮領だという認識を現わすものではない」としているが、隠州から雲州(出雲、島根県)を見るように竹島(鬱陵島)から高麗(朝鮮)を眺めるということは、当時の地理的認識が領土的認識を反映しているからである。したがって伐木(盗伐)と漁労(盗取)活動のために往来した土地、鬱陵島 (竹島)を、隠岐島に付属する島とは見なかったのだ。

    (訳注:「隠州から雲州(出雲、島根県)を見るように竹島(鬱陵島)から高麗(朝鮮)を眺めるということは、当時の地理的認識が領土的認識を反映しているからである。」という記述に関して、何ら根拠を示し得ていない。これでは実証的論文とは言えない。)

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  149. 3.「竹島渡海禁止令」に関する主張批判

    朝鮮政府と対馬藩間の鬱陵島をめぐる外交交渉(鬱陵島争界=竹島一件)が遅延していた時、1695年(元禄8年)12月24日、筆頭老中であった阿部豊後守は、鳥取藩に対して「因幡国・伯耆国に付属している竹島(鬱陵島)は、いつ頃から両国に付属しているのか?」、「竹島(現在の鬱陵島)以外に両国に付属する島があるのか?」と問い合わせた。これに対して鳥取藩の江戸屋敷は、翌25日「竹島は因幡・伯耆の付属ではありません。米子の町人・大屋九右衛門、村川市兵衛という者が渡航して漁労をしていたことは、松平新太郎が伯耆国を治めた時、老中奉書で命じられたと理解しております」、「竹島、松島その他両国に付属する島はありません」11)と答えた。この答弁書を通じて、竹島以外に松島という島が存在するということを認識した阿部豊後守は、松島についても概略について質問をすることになる。ここで「松島は竹島に行く路程上にある島です」、「因伯以外の人で竹島・松島に渡っていく者はありません」12)と答える。すなわち米子の両家以外に他の地方(国)から竹島と松島に渡海する者はなく、ひたすら「竹島渡海免許」を受けた自分たちだけが渡って行くということだ。このような質問書を通じて事情を把握した幕府は、1696年1月28日「竹島渡海禁止令」を出すことになる。

    11)「竹島渡海禁止并渡海沿革」、『鳥取藩史』第6巻 (1971年)、またソン・フィヨン編訳『日本古文書の中の独島』、図書出版成人、2014、71~74ページ参照.
    12)前掲「竹島渡海禁止并渡海沿革」 参照.

    (訳注:以下Q80塚本の引用翻訳 塚本の原文をバラバラにして引用している。)
    ( 184中段10行目~下段5行目)
    幕府は最終的に元禄9年1月28日(1696年3月1日)付で、大谷・村川家の鬱陵島渡海を禁止した。この17世紀末の外交交渉は、ひたすら鬱陵島を対象にしたものであり、現在の竹島は全く交渉の対象にならなかった。ただし幕府(老中)の照会に対して鳥取藩が竹島は藩の領国である因幡国・伯耆国の付属でないと回答した記録がある。
    (訳注:以下185上段8行目~19行目)
    韓国は以上のことを現在の竹島領有権問題に結びつけて、「江戸幕府は1695年12月25日、鳥取藩への照会を通じて“鬱陵島(江戸時代の竹島)と独島(江戸時代の松島)はいずれも鳥取藩に属さない”と認識して、1696年1月28日、日本人の鬱陵島方面への渡航を禁止するように指示した。これで韓日間の紛争は結着し、鬱陵島と独島が韓国の領土であることが確認された」と主張する。
    (訳注:以下184上段1行目~14行目)
    このような韓国の主張は成立しない。17世紀末、元禄時代に鬱陵島出漁をめぐって当時の日本と朝鮮国との間に外交交渉が行われた。江戸時代初期から伯耆国米子の大谷・村川両家が幕府公認下に鬱陵島(江戸時代の呼称・竹島)に渡海してアワビとアシカ漁業をしていた。現在の竹島(江戸時代の呼称・松島)は、米子から隠岐を経由して鬱陵島に到着する航路にあり、同島に対しても1661年以後には幕府の許可を受けて漁労をしていた。
    (訳注:以下185上段終わりから1行目~最後)
    しかし前述した通り、現在の竹島は17世紀末の外交交渉の対象になっていない。当時朝鮮国では竹島に対する認識もなかった。幕府は鳥取藩から「松島」(現在の竹島)に関する情報を得ながらも、同島への渡海を禁止していない。当時鬱陵島での渡海を禁止したことは対馬の宗氏を通じて朝鮮国に伝えられたが、その口上書でももちろん現在の竹島についての言及はない。したがって17世紀末の事件と外交交渉を通じて、竹島が韓国領だということが確認されたという韓国の主張は成立しない。(塚本)13)

    13)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』、184~185ページ.

    (訳注:ここまでが塚本の引用、ここからがソン・フィヨンの反論)
    当時、松島(竹島)は竹島一件交渉の対象にならなかったのだという。そして「竹島渡海」は禁止されても、1661年以後幕府から別途の免許を受けた「松島渡海」は禁止しなかったのだという。これは、川上健三の創作品である「松島渡海免許」が相変らず有効に生きていたという従来の主張と同じである。しかし「松島渡海免許」は当初から存在しなかった。大谷家文書には松島にも免許を受けたという記録が現われるが、松島渡海免許を幕府が発行することはなかった、という事実は、すでに池内(2006)の研究で明らかになったことである。まして、当時、経済的実益が全く存在しなかった松島に対して、あるいは竹島 (鬱陵島)に行く路程の目標物の役割だけをしていた松島に、単独で渡海するはずもなかった。実際「竹島渡海禁止令」が発令された以後、松島だけを目標にした渡海が一度も行われていないということは、このような事実を示しているものである。
    そして、17世紀末の外交交渉(竹島一件)は、ひたすら竹島(鬱陵島)だけを対象にしたものであって、松島(独島)は対象外であり、当時幕府は鳥取藩から松島に関する情報を得ながらも松島渡海は禁止しなかった、と主張している。江戸幕府の鬱陵島争界の進行過程での主な関心はもちろん鬱陵島である竹島であった。大谷・村川両家にとっても当時の独島は漁労のための経済的誘引は全くない島であり、こちらだけに対する渡海は禁止されなかったというのは、語不成說(話にならない説)だ。初めから存在することもなかった松島渡海が、実際に行われることはなかったからである。また「交渉の対象にならなかったために松島渡海は禁止されなかった」という主張は、当時幕府が把握した事件の転末を知れば、話にならない主張だ。幕府は竹島と松島の存在を確認し、その所属が鳥取藩にあるかどうかを確認した後に「竹島渡海禁止令」を下している。これは渡海免許の本来の趣旨である「遠い海への渡海」または「外国への渡海」のための免許を禁止したもので、「竹島渡海禁止令」に松島が自然に含まれているということは、誰か見ても理解できることだ。

    (訳注:「誰か見ても理解できること」ではなく、「論証されるべきこと」である。その論証は全くなされていない。)

    次に『竹島問題100問100答』で「Q81江戸幕府の鬱陵島渡航禁止令で竹島は鬱陵島の属島で韓国領だと見なされたものか?」という部分に対して検討してみることにしよう。これは、江戸時代、朝日両国で独島を鬱陵島の属島だと見なしたのかどうかに対する竹島問題研究会側の批判だ。すなわち鬱陵島から90kmも離れた独島が、どうして鬱陵島の属島になることができたのか、と言い、またそういう認識はしなかったと言っている。

    (訳注:以下、Q81塚本の引用  p186冒頭~中段最後)
    これは「竹島は鬱陵島の属島(国または本島に属した島)である」、「鬱陵島が渡航禁止になったから竹島も同じだ」という無理な主張で誤りである。17世紀末、元禄時代に鬱陵島出漁をめぐって日本と当時の朝鮮国と間に紛争が発生し、対馬の宗氏を通した外交交渉の結果、幕府はその時まで許可してきた米子の大谷・村川両家の鬱陵島渡海を禁止した。
    このことに関連して、現在、韓国政府は、広報資料の中で次の通り主張している。「17世紀、韓日の政府間交渉を通じ、鬱陵島とその属島である独島が韓国の領土ということが確認されました。」「江戸時代幕府は……日本人の鬱陵島方面への渡航を禁止するように指示しました。」しかしこの時、外交交渉の対象になったのは、ただ鬱陵島だけであり、竹島の件については両国間往復文書でも一切言及されていない。ところが韓国は、鬱陵島と「その属島である」独島が韓国の領土だと認められた。その上、日本人の鬱陵島「方面」への渡航を禁止した、などと言っている。
    (以下も 塚本の引用 187中段8行目~最後)
    また、竹島を鬱陵島の属島だと主張する韓国の主張は、『世宗実録・地理誌』の「于山・武陵」二島が江原道、蔚珍県の正東海中にあるという記述、『新増東国輿地勝覧』の「于山島・鬱陵島」に対するこうした記述、鬱陵島の近辺に于山(島)を描いた地図などが根底にあると考えられる。しかし最初に名前が提示される于山(島)が、後に出てくる鬱陵島の属島ということは変である。鬱陵島の近辺に描かれた于山島は、鬱陵島の東側2kmにある別途の小さい島(竹嶼、現在の韓国名竹島)であり、竹島(韓国がいう独島)ではない(Q73)。 (塚本)14)
    14)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』、186~187ページ.

    しかし、独島を鬱陵島の属島と認識することについて、韓国側の主張は別に置いても、日本もそのように見なしていることは、日本の古文書を通じても明確に確認することができる。日本の官撰誌である『水路誌』を見れば、鬱陵島と独島は鬱陵島(松島)と竹島(リアンコルト島)だとして、一貫して「朝鮮東岸」のような項目に併記していることがわかる。これは、独島を朝鮮に付属する領土と見なしたことはもちろん、鬱陵島の付属島(属島)と見なして二島を一つのセットで取り扱っているものだ。このような事実は、鳥取・島根など日本沿海の漁民と、海軍省を除いた日本政府が、今まで一般的に独島(松島)を鬱陵島(竹島)の付属島として認識していたことと脈絡を共にしている。二島をセットあるいは主島と付属島の関係として把握する日本の記録を見ればの通りである。

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  150. (221p)
     鬱陵島と独島の関係性をあらわす日本の記録

    日付    記録内容     文献     備考
    1659.6.21 竹嶋近辺松嶋  『控帳』、『大谷家文書』
    1660.9.5  竹嶋之内松嶋  『大谷家文書』
    1662.9.8  竹嶋近所之小嶋 『大谷家文書』
    1870.4.15 松島は竹島の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)「朝鮮国交際始末内探書」 『日本外交文書』
    1877.3.20 竹島外一島 「太政官指令文」 鬱陵島と独島を一つのセットと考える
    1878.12 松島は鬱陵島の属島 (欝陵島ノ属島)『竹島考証』 外務省公信局長田辺太一の「意見書」
    * 資料:ソン・フィヨン(2012b)から引用.

    日本が独島に対する領有権が確立されたと主張する17世紀に、江戸時代幕府の「竹島渡海免許」を受けて鬱陵島に渡海した大谷・村川両家の独島認識は、「竹嶋之内松嶋」「竹嶋近辺松嶋」あるいは「竹嶋近所之小嶋」と言っている。70年間むやみに入島して林産資源と水産資源を盗伐・盗取したこれらの漁民は、独島を竹島(鬱陵島)近くの小さい島、竹島(鬱陵島)近辺の松島(独島)、竹島(鬱陵島)の中にある松島(独島)として、独島を鬱陵島の付属した島と見たことが分かる。これは日本が主張するように過去に松島(独島)だけに別に渡海したとか、独島にだけ独自に漁労活動を展開したというような論理が事実とは違った虚構であることを立証することでもある。15)

    15) 川上健三 前掲書、66~73ページ.

    また、明治初期、日本外務省が朝鮮の内偵のため派遣した官員の報告書「朝鮮国交際始末内探書」16)でも、松島(独島)は竹島(鬱陵島)の隣島(松島ハ竹島ノ隣島ニテ)と見ており、1870年代後半各種の「開墾請願書」が入ってきた時、鬱陵島・独島事情に明るかった日本外務省公信局長・田辺太一の「意見書」でも「松島(独島)は鬱陵島の属島(欝陵島ノ属島)という認識を持っていたことがわかる。17)

    16) 1869年12月に朝鮮偵察のために日本外務省は 、佐田白茅、森山茂、斎藤栄の3名を朝鮮に派遣し、その結果は1870年4月15日「朝鮮国交際始末内探書」として提出された。
    17)チョン・ヨンミ訳、『竹島考証』下、正しい歴史確立企画団、2006, 476ページを参照

    さらに、明治の地籍編纂事業を推進する過程で竹島(鬱陵島)と松島 (独島)の取り扱いをどのようにすべきか問い合わせした島根県の稟議書に対して、当時最高の決定機関だった太政官が下した指令で、鬱陵島と独島を「竹島外一島は本邦(日本)と関係ない」として、二島を一つのセットと見なして取り扱ったことを知ることができる。このような点を推察しても、日本でも伝統的に鬱陵島と独島の関係を一つの島の付属島あるいは一つのセットと見なしたことは明白だ。韓国側の主張以前に、日本文書を通じてみる時、日本の漁民だけでなく、外務省および太政官、海軍水路部までも独島を一つの独立した島とは見ずに鬱陵島とは不可分の付属島と認識していたことがわかる。

    (訳注:これはすべて日本側の認識を述べたものであって、韓国側が鬱陵島の「属島」として独島=竹島を認識していた、という証拠には全くならない。)

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  151. 4.「太政官指令」に関する反論批判

    竹島問題研究会が主張する「固有領土論」で最もアキレス腱になるものが「太政官指令」の存在だ。1876年(明治9) 10月17日、内務省の地籍編成に関する要請により、島根県令代理が内務卿に対し「竹島外一島」についての地籍編成18)の可否を尋ねる質問書が提出された。

    18)ここで地籍とは、後日の土地台帳に該当し、当時全国の土地に対して所有者、地目、面積などの調査が実施された。「地籍編制地方官心得書」というマニュアルでは、遠く離れた島で地勢が確実でないものに対して、方向、距離、広さなどの概略を調査して出願するようにしている。これは明治政府の租税制度の確立のための基礎作業として実施されたが、結果的に完了することができなかった。

    これについて、島根県が提出した「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」には、17世紀に渡海していた米子の大谷・村川家の記録を参考19)にした説明文と「磯竹島略図」が添付されていた。

    19)大谷・村川両家の記録によったのは、渡海の経緯(「由来記」)による部分だけであり、残りの添付資料(「付属文書1」~「付属文書5」)は、全部『竹島記事』から引用した文書である。

    問疑書(伺)にある「竹島」は鬱陵島であるが、説明文中の「次に島一つがあって松島と呼ぶ。周囲30町程度で、竹島と同じ船路にあり、隠岐から80里離れているが、木と竹はほとんどない。また魚獣を産する」としている点と、付属地図に竹島と松島が描かれていることから、「竹島外一島」の「外一島」は「松島」だということが分かる。今まで、この付属文書の存在について竹島問題研究会では意図的に言及しなかった。しかし今回の『100問100答』では付属地図の存在を受け入れている。

    島根県の問疑書を受け付けた内務省は、翌年1877年(明治10) 3月27日付で、元禄年間の朝日交渉の記録に基づいて、「竹島(鬱陵島)所管の議件について島根県から別紙の問い合わせがあって調べてみた結果、本邦と関係ないと考えられるが、版図の取扱は重大な事件であるから、別紙書類を添付して、もしもの場合のために問い合わせする」として、当時の最高政治決定機関だった太政官に問疑書を上げた。これに対して太政官は、同年3月29日付で「問い合わせの竹島外一島の件は、本邦と関係ないことであるので肝に銘じるように」と指示する。その時内務省が添付した書類は、17世紀末の日本と朝鮮国間の鬱陵島出漁をめぐる外交交渉の記録である『竹嶋紀事』だ。これが内務省が追加で添付した付属資料である「付属文書1~5」である。

    ここでの太政官の決定は、公式的な日本最高の行政機関であり、内務省と島根県が提出した付属文書をみな検討した後に下した指令文であるという点と、江戸時代の交渉相手が朝鮮であるという事実まで念頭に置いた決定であった。すなわち、太政官指令の文書は、旧行政府(江戸幕府)で既に交渉相手である朝鮮との間に決着が下された「竹島外一島」は、日本の版図ではないということである。換言すれば、すでに朝鮮の版図に決定された件であるから「本邦(日本)と関係がないことを肝に銘じなさい」と指令を下したのだ。しかし、「Q83 韓国が「竹島朝鮮領」の論拠とする1877年の太政官指令とは何か?」では次のように主張している。

    (訳注:以下Q83塚本の引用  190p下段終わりから2行目~191p中段9行目)
    韓国政府の広報資料は、以上のことを示して次の通り主張している。
    「1877年、明治時代の日本の最高行政機関だった太政官は、『江戸幕府と朝鮮政府との交渉の結果、鬱陵島と独島が日本に帰属するものではないということが確認された』と判断し、内務省に対して『竹島(現在の鬱陵島)外一島(一島・独島)は日本とは関係がないということを肝に銘じなさい』と指示しています。」
    しかし、これは一方的な議論である。まず17世紀末の紛争は鬱陵島への出漁に関するものであり、竹島(韓国名・独島)は一切、交渉の対象になっていない。
    本来、当時の朝鮮国には竹島に対する認識さえなかった。また、1877年内務省が太政官に送った問疑書に添付された書類は、17世紀末の朝日間の往復文書などであり、現在の竹島に言及したものではなかった。上記の通り、問疑書それ自体が「竹島(現在の鬱陵島)管轄の件に関して島根県から別紙の出願があって調べてみた結果」云々といっている。すなわち内務省は、島根県の問疑書表題の「外一島」と説明資料にある松島は無視している。

    (塚本の引用 192p 終わりから3行目~最後)
    以上、史料を総合的に検討してみれば、1877年の太政官指令は、竹島 (現在の鬱陵島)と名称上もう一つの島(松島、これも鬱陵島)に対して、本邦と関係ないということだった可能性が高い。現在の竹島を日本とは関係ないとしたという主張は、島根県の問い合わせの添付資料にだけに基づいた論議、あるいは「松島」というものは、常に竹島/独島を指すという考えによる議論である。(塚本)20)

    20)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』、190~194ページ.

    これまで、「太政官指令文」の存在については日本政府や島根県さえも言及さえしなかったが、竹島問題研究会の『第2期中間報告書』で杉原隆の論考21)で太政官指令の存在が扱われ始めた。

    21)杉原隆、「明治10年太政官指令―竹島外一島之儀ハ本邦関係無之岡-をめぐる諸問題」、第2期島根県竹島問題研究会、『第2期「竹島問題に関する調査研究」中間報告書』、島根県総務部総務課、2011.2.
    (訳注 杉本論文タイトルの「岡」は衍字)
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima08/iken-B.data/-04.pdf

    事実、あまりにも明白な日本政府の公式文書で独島を版図外と取り扱っているので、誰もがこの太政官指令の存在に対しては言及することを敬遠してきたのである。ところが、杉原は太政官文での「竹島外一島」の「外一島」が「松島」であることを認めながらも、「竹島外一島」は、当時「竹島とも松島とも呼んだ一つの島、鬱陵島」を指し示すと主張している。これは竹島問題研究会の座長・下條正男、研究委員・山崎佳子、塚本孝などの共通した論理であった。ここでは、竹島問題研究会で「竹島外一島」の存在事実に言及した事実だけでも大きな変化であった。この存在を受け入れる場合、日本が主張する「固有領土論」の論理が完全に失われてしまうためだ。しかし、これもまた存在することもしない「名称伝導論」22)を導入して、あたかも当時、明治政府で鬱陵島と独島の名称に混乱があったように議論を展開している。

    22) 「名称伝導論」は、川上健三により提起されたもので、明治初期の各種「竹島開拓願」によった名称混乱を、シーボルトによって形成されたものとしている。しかし『竹島考証』などにも明確にあらわれるように、日本政府は竹島と松島を明らかに区分して使っていた。ただ海軍省の海図(地図)では、当時ヨーロッパ流入の地図の影響で、鬱陵島を松島と記録して、独島をリアンクル(Liancourt)と記録しているだけである。当初存在することもなかった名称混乱を引き込んだのは川上健三であり、この「名称伝導論」に誘惑され、これを前提に論理を展開する国内(訳注:韓国)の研究者も多い。

    そして太政官指令より後に発生した「松島開拓願」などの資料を利用して、太政官指令の中の外一島=松島を鬱陵島だと主張する誤りを相変らず犯している。川上による名称混乱論を導入するために、各種「開拓請願書」の事例を数え上げて、当時の日本政府が鬱陵島を松島だと呼んだと主張する。

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  152. (以下、Q83塚本の引用  191中段10行目~下段5行目)
    ここで注目すべきことは、明治時代に「松島」が鬱陵島を示していたという事実だ(Q58)。西洋の地図と海図では、鬱陵島に松島という呼称を付けていた。島根県問疑書の添付資料にある松島は、江戸時代の日本の呼称である松島(現在の竹島)であった。しかし幕末から明治にかけて、西洋起源の知識が流入した結果、中央政府においては松島=鬱陵島、すなわち17世紀末の朝日交渉の記録にある「江戸時代の竹島=西洋地図の松島」であり、竹島、松島のどちらも鬱陵島を示すと考えていた。23)

    23)明治初めの1868~1880年、日本政府の公式記録のすべてで、鬱陵島=竹島、独島=松島の公式が成立する。政務官僚の認識もまた同じであった。ただ、唯一海軍省だけが、鬱陵島=松島という記録が海図と水路誌などに現れる。これは西洋から流入した海図での「鬱陵島=松島」という情報の影響によったもので、海軍省官僚でさえ天城艦の鬱陵島実測調査(1879、1880年の2回)を通じて「松島開拓願」「竹島開墾願」と西洋海図で言う松島が鬱陵島であることを確認することになる。したがって1883年7月に編纂された『水路雑誌』第41号からは「鬱陵島別名松島」という形式で表記することになった。しかし、海軍省の官僚さえ、海図の松島が日本で普遍的に言う竹島であることを知っていた。そしてこの海軍省を除いた、日本の中央政府、太政官と内閣、外務省と内務省の記録では、一貫して鬱陵島を竹島と記録していて、官僚らの認識もまた、鬱陵島=竹島であった。

    (訳注:この認識が問題である。このソン・フィヨンの記述は正しいか?)
    陸軍参謀部の地図は、鬱陵島を松島としている。

    (以下塚本の引用 191p下段6行目~192p後ろから4行目)
    太政官指令の前年1876年(明治9) 7月に武藤平学という人が外務省に提出した「松島開拓之議」の松島、1877年1月に島根県出身の戸田敬義が東京府に提出した「竹島渡海之願」の竹島はどちらも鬱陵島を指す。
    1876年12月にはさらに斎藤七郎兵衛が「松島開島願書并健言」をウラジオストック駐在の貿易事務官・瀬脇寿人に提出した。瀬脇はこれを伝達して1877年4月、外務卿・外務大輔の前に上申した。この上申書に対して、外務省公信局長・田邊太一は「松島は朝鮮の鬱陵島であり、私たちの版図ではなく、斎藤誰それの請願は許可できないと答えなければならない」と指示した。
    1881年11月には、大屋兼助等の出願を伝達する形式で、島根県から内務省・農商務省に、「日本海内松島開墾之願についての問疑書」が提出された。内務省は、1877年太政官指令を添付して外務省に問い合わせた後、1882年1月、島根県に対して「書面松島の件は、前の指令のとおり、本邦と関係がない件と心得るように」と指令した。24)

    24)第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』、191~192ページ.


    (訳注:以上塚本の引用、ここからソン・フィヨンの反論)
    この「太政官指令」に関連する問答は、「難易度☆☆☆」としながらも、太政官指令の存在を明示的に取り扱っている。しかしこれを否定するために、「太政官指令」の決定文の中の「竹島外一島」が、当時「竹島とも呼び、松島とも呼んだ一つの島、鬱陵島」を指し示すことに追い込むために、1876年12月の斎藤七郎兵衛がウラジオストック駐在貿易事務官・瀬脇寿人に提出した「松島開島願書并健言」(1877年4月外務卿に提出)、1881年11月大屋兼助等の出願を伝達する形式で島根県が内務省・農商務省に「日本海内松島開墾之願についての問疑書」などを、当時の政府官僚による名称混乱の根拠として提示している。
    しかし、これらの史料は、全て太政官指令が下された以後のもので、歴史学的にその以前の事件である太政官指令文に対して遡及して説明する説明力を持つことができない。その上、外務省に伝達された上申書に対しては、外務省公信局長・田邊太一が「松島は朝鮮の鬱陵島であり、私たちの版図ではなく、斎藤誰それの請願は許可できないと答えること」として明確に指示している。
    明治当初、明治政府の「名称混乱」は存在しなかったのだ。また大屋兼助による「松島開墾之願」に対しても、1882年1月「書面松島の件は、前の指令のとおり、本邦と関係がない件と心得るように」と指示を与えた。これら二つの場合の「松島」開墾願に対して、明治政府の内務省および外務省は、少しの躊躇することもなしに当時開墾を請願した島「「松島」は、朝鮮の鬱陵島」と明確に把握していた。すなわち1870年代後半以後続いた「松島(鬱陵島)開墾願」および「竹島(鬱陵島)開拓願」に対して、外務省はもちろん内務省も明確に鬱陵島を対象にしているということを知っていた。ここで提示された2個の「松島」(鬱陵島)開墾の請願は、当時海軍省が外国の海図をもとにした情報のためだった。ヨーロッパから流入した地図情報を基に明治の海図が作成されたので、鬱陵島は外国地図の「松島」(Matsushima)の名称のとおり、松島という名前が付与されていた。25)

    25)これは『寰瀛水路誌』、『朝鮮水路誌』などでも同一に現れる。

    (訳注:以下に『寰瀛水路誌』)
    http://dokdo.yu.ac.kr/bbs/view.php?no=102&board=b11&re_vars=UEhQU0VTU0lEPWFmMjM3YjQ4MzZiMDgwYTZlMDBmZWYyOGY2MjI0NDYyJmJvYXJkPWIxMSZzb3J0X2ZpZWxkPXRpdGxlJmFzYz1kZXNjJg==&PHPSESSID=af237b4836b080a6e00fef28f6224462

    以上の「太政官指令」に関する論理は、明治時代の「松島」という名称が、鬱陵島を示すということだったということだ。また、各種請願文で見るように、鬱陵島を竹島とも松島とも呼んでいたので、「竹島外一島」の「外一島」は松島だという事実はひとまず認めているが、鬱陵島の異称が松島だったので「竹島」も「外一島」も全て同じ島、鬱陵島を指し示すとのことである。これは従来の主張と同じである。26)

    26)この見解に対しては、すでに池内(2012)と竹内(2012)の研究ですでに十分に検討され、「外一島」が今の独島だという事実を明らかにしている。

    上の請願書を受けた外務省では、一時的に請願書の「松島」が「竹島」と同じ鬱陵島を示しているのか、そうではなくてその他に「松島」という別途の島があるのか、またその島の領有権はどうなっているのかなどを日本政府として確定する必要を感じた。しかし請願書を検討した外務省内では、甲乙丙丁の見解が分かれたので、島根県に問い合わせたり船を派遣して現地を調査することに決めたのだ。27)

    27) 請願書の内容および外務省内の詳しい議論については、川上健三『竹島の歴史地理学的研究』、古今書院、1966,31~46ページ.

    こうして、1878年6月、外務省の指示を受けた海軍少佐・松村安種が天城艦で「松島」確認を行うことになる。

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  153. [資料1]  (訳注:北沢正誠「竹島版図所属考」明治十四(1881)年八月)
    また海軍水路局の「水路雑誌」によれば、明治11年(1878年) 6月、海軍少佐・松村安種が天城艦に乗って朝鮮海を回航する時、その乗務員、海軍大尉・山澄直清、海軍少尉補・小林春三、同福地邦鼎などと松島に行った。吉田中尉が正午に本艦の所在を実測すると、北緯37度48分だった。また、午前7時58分に太陽高度を測定すると本艦所在は東経130度32分だった。これから針路を南東に変えて水程儀を持って測定したが、航海速度20里(訳注:原文は「航走スル二十里」)、松島から2里離れたところに達し、松島の中部を正南に眺めたとした。これが私たちの軍艦が松島を測量したことの始まりだ。その後、明治13年(1880年)、天城艦が再び松島に航海し、海軍少尉・三浦重郷などが親しくその土地に行って実地測量することになったが、その島の東岸に臨時停泊地を発見した。また、松島は古代韓国人が欝陵島と称したところで、別に竹島と称するものがあっても、それは小さい小島に過ぎないことを知ることができ、事情はより一層明瞭になったった。これで見れば、今日の松島は、すなわち元禄12年(1699年)に称した竹島であり、昔から私たちの版図外の土地だということがわかる。28)

    28)「又海軍水路局ノ水路雑誌二拠レハ、明治十一年六月、海軍少佐松村安種、天城艦ヲ以テ朝鮮海へ回航ノ際、其乗員、海軍大尉山澄直清、海軍少尉補小林春三、同福地邦鼎等ト松島ニ赴き、吉田中尉は正午本艦ノ所在ヲ実測シ、北緯三十七度四十八分ヲ得、又午前七時五十八分ニ大陽高度ヲ測リテ本艦所在ノ東経一百三十度三十二分ヲ得、是ヨリ針路ヲ南東ニ変シ、水程儀ヲ以テ測リ航走スル二十里、松島ヲ去ルニ里ノ処ニ達シ、松島ノ中部ヲニ望ム云云トアリ、是我軍艦松島ノ測量スルノ始メナリ。其後、明治十三年、天城艦ノ再ヒ松島ニ航スルニ及ヒ、海軍少尉三浦重郷等、親しく其地ニ至リ、実見測量スルニ及ヒ、該島東岸ニ仮泊ノ地発見シ、又松島ハ古代韓人称スル処ノ欝陵島シニテ、他ニ竹島ト称スル者アルモ叢爾タル小島ニ過キセルヲ知リ、事情愈明了ナリ。由此観之ハ、今日ノ松島ハ即チ元禄十二年称スル所ノ竹島ニシテ、古来我版図外ノ地タルヤ知ルへシ」(北沢正誠、「竹島版図所属考」、明治十四(1881)年八月、または『日本外交文書』第14巻、394ページ).

    訳注:原資料引用に間違いがあり、以下によって修正した。また訓点を加えた。
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/takeshimahanto-1881/

    これで松島をめぐる関係府省内の名称混乱は終息し、巷間で新しい島・松島として開拓を請願した島は、事実は朝鮮の鬱陵島で、以前に日本で竹島と呼んだものであったことを明確に認識することになり、名称混乱に終止符を打ったのである。日本外務省内の論議は明確になったが、海軍省の記録および海図では鬱陵島の名称に別名松島という名称が残される契機になったのだ。幕末から明治時代に至るまで、日本政府の鬱陵島・独島認識を点検するために、関連文書類及び海図等を通して、太政官と外務省、内務省、海軍省など関係各省が二つの島をどのように認識していたかを表わしたものがである。これを見ると、日本政府の各省が鬱陵島・独島をどのように認識したのかは明確だ。

     幕末・明治時期 日本政府の鬱陵島・独島認識
    時期*   太政官(幕府、内閣)** 外務省 内務省 海軍省 典拠
      鬱陵島、独島、鬱陵島、独島、鬱陵島、独島、鬱陵島、独島
    1837.2  竹島、松島               「天保竹島渡海禁止令」
    1870.5.15竹島、松島、竹島、松島         『朝鮮国交際始末内探書』
    1875             竹島、松島     『磯竹島事略』
    1876          松島 オリブツァ メネライ『朝鮮東海岸図』 海軍水路寮
    1876.10.5           竹島、松島      「地籍編纂」 内務省地籍係問疑
    1877.3.17竹島、松島、竹島、松島、竹島、松島    「太政官指令文」
    1878.1(1875.1.4)竹島、松島、竹島、松島    『日本地誌提要』巻50太政官地理課編
    1877.1戸田敬義「竹島渡海請願書」(東京府提出)『竹島考証』
    1880.9.13鬱陵島、鬱陵島            「天城艦」の実測
    [松島]       「水路報告」第33号
    1881.8  竹島/鬱陵島「竹島考証」(北沢正誠)
    1881.8.20竹島/鬱陵島「竹島版図所属考」(北沢正誠)
    1881.8.27~83.11.16.鬱陵島、鬱陵島 (松島)「朝鮮国欝陵島に邦人渡航禁止の件」(外務省(井上)と太政官(三條)の交換文書),『日本外交文書』
    1883.7松島「水路雑誌」第16号
    1883.7鬱陵島 [一名松島]「水路雑誌」第41号
    1886.12 (以下内閣)鬱陵島一名松島リヤンコルト列岩「寰瀛水路誌」第2巻2版
    1894.11鬱陵島 [一名松島]リヤンコルト列岩「朝鮮水路誌」全
    1895.6.25鬱陵島 (松島)「欝陵島引揚者の処置に関する件」、『日本外交文書』
    1896.4鬱陵島 [松島]リアンコールト岩『朝鮮全岸』、外務省水路部
    1902.10.16鬱陵島 リアンコ/松島『通商彙纂』第234号、「欝陵島事情」
    1904.9.29鬱陵島リアンコ鬱陵島リアンコ鬱陵島リアンコ「リアンコ島領土編入および貸下願」
    1905.1.28鬱陵島リアンコ/竹島「竹島領土編入閣議決定」関連文書
    1905.9.3鬱陵島リアンコ『通商彙纂』第50号「欝陵島現況」
    1907.3鬱陵島一名松島竹島「朝鮮水路誌」第2改版
    1911.12鬱陵島 [松島]竹島 [竹島]「日本水路誌」第6巻

    *注:資料はソン・フィヨン(2012a)から引用.
    * ( )内は執筆時期をいう。
    ** 太政官は民部省、兵部省など6省を管轄する最高行政機関として、存続期間は1868.6.11~1885.12.22で内閣制度が発足して廃止された。

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  154. 日本外務省は1869年12月にすでに竹島と松島を日本領土外とする認識が明確に席を占めることになった。外務省は朝鮮との新しい外交関係樹立を模索するために朝鮮の内政を探索するため、太政官の裁可を得て、同省官員佐田白茅、森山茂、斉藤栄を朝鮮に派遣した。佐田などは朝鮮倭館などで内偵した結果を報告書「朝鮮国交際始末内探書」として整理して翌年1870年5月15日に提出し、その中で「竹島・松島が朝鮮付属になっている始末(竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末)」と題名を付けた項29)で下記のように書いている。

    29)外務省と太政官が佐田一行に内偵を指示した項目は全部で13項目で、竹島・松島の経緯(始末)を調査したのは13番目の項目である。


    [[資料2] (訳注:『朝鮮国交際始末内探書』)
    竹島・松島が朝鮮付属になっている始末
    この件は、松島は竹島の隣島であり、松島の件に対しては今まで掲載された書類もない。竹島の件に対しては、元禄時期以後にはしばらく朝鮮から居留のために人を派遣したことがある。当時は以前のように無人になっていた。竹木または竹から大きい葦が育って高麗人参なども自然的に出る。その他に海産物(魚産)も非常にあると聞いた。
    右は朝鮮の事情を実地偵索して概略書面のようになっている。先に帰ってきて調査書類と図面を添付して、今回報告するところです。 以上.
    午(1870年) 4月
    外務省出仕
    佐田白茅
    森山茂
    斎藤栄30)

    30)「一 竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末
    此儀ハ、松島ハ竹島ノ隣島ニテ、松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之。竹島ノ儀ニ付テハ、元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨり居留ノ為差遣シ置候処、当時ハ以前ノ如ク無人ト相成。竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ、人参等自然ニ生シ、其余漁産モ相応ニ有之趣相聞へ候事。

    右ハ朝鮮事情実地偵索イタシ候処、大略書面ノ通リニ御座候間、一ト先帰府仕候依之件々取調書類絵図面トモ相添、此段申上候。以上。
    午四月 外務省出仕 佐田白茅 森山茂 斎藤栄」
    (『朝鮮国交際始末内探書』、日本外務省、1970年5月15日) (訳注1870年の誤り。)

    (訳注:以下により修正)
    http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/2a1betsu103-1868/

    この報告書でわかるように、外務省も竹島・松島が元禄時期以後に朝鮮領になったと認識していたのだ。しかし松島(独島)は竹島(鬱陵島)の近くにある島で、前者(松島)については今まで掲載された書類がなく、後者(竹島)についてはいくつかの事実があることを指摘している。このような認識は、外務省から朝鮮内偵の報告を受けた太政官も同じだったと考えられる。日本では、元禄時期以後、天保(1830~1844)時期にも今津屋八右衛門事件を契機に竹島への航海と遠海航海が禁止されたので、竹島と松島は日本の版図の外、すなわち朝鮮領だと考えていたのだ。

    さらに、この内探書と「太政官指令文」(“竹島外一島は本邦と関係がない島だ”)を通じて日本外務省は、鬱陵島と独島を竹島と松島と明確に認識していたし、さらに朝鮮領と認識していた。で見るように、天城艦の鬱陵島実測報告である「水路報告」第33号および北沢正誠の報告書「竹島版図所属考」を契機に、徐々に鬱陵島の名称を外交文書などで「鬱陵島」と明示することになったし、在釜山日本領事館報告書『通商彙纂』で独島の名称を「リアンコ」と使う時までは、「朝鮮国交際始末内探書」と「太政官指令文」 以後一貫して松島と認識していたのだ。したがって『100問100答』の、「太政官指令文」の「竹島外一島」等で当時の日本の中央政府は鬱陵島を松島と認識しており、当時の松島は鬱陵島を指し示すという主張は明白な事実歪曲だ。

    で確認できるように、外務省と同じように、明治初期の最高決定機関だった太政官と内務省でも、一貫して19世紀後半に至るまで、鬱陵島を「竹島」ないし「鬱陵島」として、独島を「松島」として認識した。しかし1900年以後、松島という名称は徐々に消えて、リアンクル、リアンコ、リャンコ、ランコ、ヤンコのような外来名称が一般化された。1905年、独島を島根県に編入し、「竹島」という過去の鬱陵島の名前で命名した以後には、公式文書では独島に対して竹島という名称が使われたが、山陰地方の沿海魚民は1945年敗戦になる時まで、相変らず独島をリアンコ島または、ランコ島と呼んだ。31)

    31)竹内猛 前掲書、71~72ページ.

    これに反し、ただ海軍省だけは、1880年、鬱陵島実測調査で各種開墾願の「松島」・「竹島」が鬱陵島であることを確認していながらも、海図や水路誌で鬱陵島を「鬱陵島別名松島」あるいは鬱陵島(別名松島)として、松島という名称を鬱陵島に使っていたのだ。したがって1877年当時の日本の中央政府が鬱陵島を松島だと認識したというのは全く妥当でない誤った主張であることを明確に確認することができる。

    (訳注:ここ論理不明。海軍が松島と認識していたのに、中央政府は竹島と認識していた、という証拠の文献はあるのか。)

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  155. 5. 結び
    竹島問題研究会の『第1期最終報告書』を欠かさずそのまま受け入れ、日本外務省のホームページ「竹島問題を理解するための10のポイント」に掲示することによって、「昔から独島は日本固有の領土だ」とする「固有領土論」は日本政府の公式見解になってしまった。しかし日本の固有領土では論理が成立しないのは日本史料を通じても明白だ。日本の官撰史料で独島が日本の地図ではないとの記録は「7か条答弁書」、「朝鮮国交際始末内探書」、「太政官指令」の記録だけ見ても明確だ。しかし「17世紀にすでに竹島(独島)に対する領有権が確立された」という日本政府の見解は、ひっくり返った水と同じことで、したがって1905年2月22日「竹島(独島)の領土編入」を通じて「竹島(独島)に対する領有権を再確認した」とする主張は苦肉の策にならざるをえない。この論理を創作した竹島問題研究会もまた、二つの背馳する論理を共に主張することによって自ら自己矛盾に陥ったし、この矛盾した論理を正当化するために、また他の事実歪曲を再生産しているのだ。

    ここで検討された「竹島渡海禁止令」と「太政官指令」に限定してみても、今回の『竹島問題100問100答』は、従来の竹島問題研究会と日本外務省が主張してきた明白な歪曲と意図的誤謬を繰り返す愚を冒しているだけだ。日本の官撰史料のどこにも独島が昔から日本の領土という記録はない。それにもかかわらず、17世紀竹島渡海の事実で日本の領有権が確立されたというが、「7か条答弁書」で見るように当時もともと渡海した大谷・村川両家と鳥取藩ですら、自分たちの版図だという領有認識がなかっただけでなく、朝鮮の領域であることを知っていたのである。

    ただ心配なのは、このような歪曲と虚構を巧妙に包装した「固有領土論」の論理が、そのように製作された『竹島問題100問100答』を通じて日本の一般大衆に急速に波及しているということと、文部科学省の学習指導要領解説書に反映されて、歴史的素養が全くない小学校の幼い学生たちにさえ「竹島は歴史的にも国際法的にも日本固有の領土であり、現在韓国が不法占拠を継続している」、「日本は平和的解決のために国際司法裁判所に回付することを韓国側に提案しているが韓国がこれを拒否している」として基本論理を領土教育で教えているという事実だ。今後アジアの未来を担って行く幼い学生たちに誤った領土認識と歴史認識を注入することによって、東アジアの平和と和解という未来を暗くさせているのだ。近代期に日本帝国主義が行った誤りと犯罪に対する歴史的認識を明確にして、これを反省して謝る、新しい東アジアの未来に対する配慮が必要な時点だ。そのような意味で事実歪曲がまた他の事実歪曲を再生産する連結の輪を断絶するためにも、もう独島に対する「固有領土論」の論理を下ろさなければならないだろう。

    【参考文献】
    ソン・フィヨン、「日本の独島に対する「17世紀領有権確立説」の虚構性」、『民族文化論叢』44, 嶺南大学校民族文化研究所、2010, 35~70ページ.

    ______、「「1898(明治31)年韓国船遭難事件に対する日考察(山崎佳子)」 批判」、『独島研究』12, 嶺南大学校独島研究所、2012a、61~91ページ.

    ______、「近代日本の水路誌に現れた鬱陵島・独島認識」、『大邱史学』 44(訳注:106号カ), 嶺南大学校民族文化研究所(訳注:大邱史学会カ)、2012b、141~170ページ.
    http://www.daeguhistory.org/original/106/8.%EC%86%A1%ED%9C%98%EC%98%81.pdf


    池内敏、「日本江戸時代の竹島-松島認識」、『独島研究』 6, 嶺南大学校独島研究所、2009,199~221ページ.

    第3期竹島問題研究会編、『竹島問題100問100答』 WILL3月増刊号、ワック株式会社、2014年3月.

    竹島問題研究会編、『竹島問題に関する調査研究最終報告』、島根県総務部総務課、平成19年(2007) 3月.

    Web竹島問題研究会編、『竹島問題に関する調査研究報告書-平成19年度-』、島根県総務部総務課、平成20年(2008)7月.

    第2期竹島問題研究会編、『第2期「竹島問題に関する調査報告」中間報告書』、島根県総務部総務課、平成23年(2011)2月.

    第2期竹島問題研究会編、『第2期「竹島問題に関する調査報告」最終報告書』、島根県総務部総務課、平成24年(2012)3月.

    池内敏、『竹島問題とは何か』、名古屋大学出版会、2012年12月.
    ______、「竹島/独島と石島の比定問題・ノート」、『HERSETEC』4-2,名古屋大学大学院文学研究科、2011.
    ______、「安龍福英雄論の形成・ノート」、『名古屋大学文学部研究論集』、史学55,2009.
    ______、「安龍福と鳥取藩」、『鳥取地域史研究』 10,2008.
    ______、「近世日本の西北境界」、『史林』 90-1,2007.
    ______、「隠岐・村上家文書と安龍福事件」、『鳥取地域史研究』 9,2007.
    ______、「「竹島/独島=固有の領土論」の陥穽」、『ラチオ』 2、講談社、2006.
    ______、『大君外交と「武威」』、名古屋大学出版会、2006.
    ______、「近世から近代に到る竹島(欝陵島)認識について」、『日本海域歴史大系』 第四巻近世篇Ⅰ、清文堂.
    ______、「17~19世紀欝陵島海域の生業と交流」、『歴史学研究』756, 2001.

    竹内猛、「「竹島外一島」の解釈をめぐる問題について」、『郷土石見』 87,石見郷土研究懇談会、2011.
    ______、『竹島=独島問題「固有の領土論」の歴史的検討』、報光社、2010
    (ソン・フィヨン・キム・スヒ訳、『独島=竹島問題「固有領土論」の歴史的検討』、図書出版成人、2013).

    島根県総務部、「特集竹島」、『フォトしまね』 161,2006.

    下條正男、『竹島は日韓どちらのものか』文春新書377,2004.

    内藤正中、『竹島(欝陵島)をめぐる日朝関係史』、多賀出版、2000.

    児島俊平、「隠岐漁民の竹島(欝陵島)行」、『郷土石見』21、石見郷土研究懇談会、1989.

    田川孝三,「竹島領有に関する歴史的考察」、『東洋文庫書報』 20(初出は1960年以前).

    堀和生、「1905年日本の竹島領土編入」、『朝鮮史研究会論文集』24,朝鮮史研究会、1987.
    梶村秀樹、「竹島=独島問題と日本国家」、『朝鮮研究』182,日本朝鮮研究所、1978.
    川上健三,『竹島の歴史地理学的研究』、古今書院、1966.
    山辺健太郎、「竹島問題の歴史的考察」、『コリア評論』7-2,1965.

    「近世資料」、『鳥取県史』第7巻(1976年).
    「竹島渡海禁止・渡海沿革」、『鳥取藩史』第6?(1971年).
    「日本海内竹島外一島ヲ版図外ト定ム」、『太政類典』 明治10年(1877).
    「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」、『公文録』内務省之部、明治10年(1877.3.17).
    「朝鮮国交際始末内探書」、『大日本外交文書』、明治3年(1870.4).
    『天保竹島渡海禁止令』(1837年).
    『隠州視聴合記』(1667年).
    「隠岐国四郡」、『大日本史』(1657年~1906年).
    「竹島」
    http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/(検索日:2014.4.10).
    http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/ (検索日:2014.4.10).

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  156. arare様

    お久しぶりです。

    >「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」は田辺太一の不変の認識と思います。

    これは、田辺自身の意見というよりは、外務省の中にあった多様な意見のひとつ、と読むのが文献の読み方として正当だと私は思います。「丁」をどう説明しますか?



    >しかし田辺は、1862年と1875年の小笠原諸島の領土交渉に関わっていますから、Argonautは存存せず、DageletはMatsushimaとする、欧米の地図を十分に承知していたでしょう。
    >そして田辺太一や渡辺洪基は、TakeshimaとされたArgonautが架空の島である以上、朝鮮に最も近い Dageletとされた松島が伝統的竹島=鬱陵島に相当することを理解していました。

    これを確認できるのは、どの文献ですか?

    >さらに漢籍にも詳しい田辺は、『高麗史』の「一云于山武陵本二島相距不遠風日清明則可望見」などから、伝統的松島が鬱陵島に属する于山であるとも認識していました。

    これも田辺自身の残したものから、実証できるのでしょうか?
    最初にあげた「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」のほかに、ありますか?

    >田辺はまた、欧米諸国との外交交渉を通じて日本の外交文書の不備を痛感していたので、外交の記録『通信全覧』の編纂を主導しました(田中正弘:近代日本と幕末外交文書編纂の研究.思文閣出版, 1998)。

    これは、本来の論旨とはどう関わるのでしょうか?

    >従って、「(開拓願いの)松島は朝鮮の鬱陵島」という田辺の認識は「歴史的」に学んだものであった、と私は確信しています。

    「歴史的」に、とはどういう意味でしょうか?
    arareさんの上の2文からは、地図の上で学んでいた、という趣旨にとれますが?

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  157. Mini-light님
    메이지(明治)10년 태정관지령(太政官指令)을 인용하는 한국측 독도주장의 익살스러움

    日本人として言いたいことを韓国語で発信してくださって、ありがとうございます。

    HPがあれば、リンク先を教えてください。

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  158. matsuさん、

    このブログの右欄の一番下の方の、プロ-ジャパニーズサイトの何と一番上にリンクがありますよ。めったに更新しないのでほぼ忘れ去られた存在ですが(笑)

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  159. ありがとうございました。
    韓国語での発信、お見事です。

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  160. matsu様

    responseに感謝いたします。出来る限り答えさせて頂きます。

    >>「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」は田辺太一の不変の認識と思います。

    >これは、田辺自身の意見というよりは、外務省の中にあった多様な意見のひとつ、と読むのが文献の読み方として正当だと私は思います。「丁」をどう説明しますか?

    北澤正誠『竹島考證』の丁即ち第二十三号文書は交信局長田邉太一の署名がありますから、私は田邉自身の意見と思います。matsu様は田邉自身の意見とは思われないのですか?


    >>田辺は、1862年と1875年の小笠原諸島の領土交渉に関わっていますから、Argonautは存存せず、DageletはMatsushimaとする、欧米の地図を十分に承知していたでしょう。そして田辺太一や渡辺洪基は、TakeshimaとされたArgonautが架空の島である以上、朝鮮に最も近い Dageletとされた松島が伝統的竹島=鬱陵島に相当することを理解していました。

    >これを確認できるのは、どの文献ですか?

    『竹島考證』の第拾四号文書や第十七号文書への田邉太一の附ケ札「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラス斉藤某ノ願意ハ許可スルノ権ナキ旨答フベシ」等です。また、記録局で『続通信全覧』の編纂に従事していた坂田諸遠は、第十九号文書「松島異見」で『隠州視聴合記』『大御國環海私図』等を引用して「松竹ノ二島アルハ勿論ニテ強チニ松島ハ竹島ノ別号トモ定メ難キ欤」と述べています。


    >>漢籍にも詳しい田辺は、『高麗史』の「一云于山武陵本二島相距不遠風日清明則可望見」などから、伝統的松島が鬱陵島に属する于山であるとも認識していました。

    >これも田辺自身の残したものから、実証できるのでしょうか?最初にあげた「松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」のほかに、ありますか?

    『竹島考證』の中で「松島は朝鮮蔚陵島に属スル于山である」という明確な表現は、第二十壱号文書の甲の意見「聞クカ如キハ松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と「交信局長田邉太一」名の丁第二十三号文書「聞ク松島ハ我邦人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリト」だけだと思います。


    >>田辺はまた、欧米諸国との外交交渉を通じて日本の外交文書の不備を痛感していたので、外交の記録『通信全覧』の編纂を主導しました(田中正弘:近代日本と幕末外交文書編纂の研究.思文閣出版, 1998)。従って、「(開拓願いの)松島は朝鮮の鬱陵島」という田辺の認識は「歴史的」に学んだものであった、と私は確信しています。

    >これは、本来の論旨とはどう関わるのでしょうか?「歴史的」に、とはどういう意味でしょうか?arareさんの上の2文からは、地図の上で学んでいた、という趣旨にとれますが?

    日本は歴史的文書と地図から小笠原諸島に関する英国の領有権主張を論破したことを示します。小笠原諸島は日本人が1670年に発見したが、放置していたので、1827年英艦が来航し英領を宣し、1830年には欧米人と太平洋諸島民が入植し、西洋の地理書や地図では英領とも記されました。そこで幕府は「小笠原島回収」を図り、1862年外国奉行水野忠徳以下、田邉太一・小花作助らを派遣し、住民に日本領を告げ、詳しい調査をしました。また、小野友五郎と塚本明毅は父島と母島列島の精図を作りました。坂田諸遠によって編まれたこれらの『小笠原島記事』から、1875年外務卿寺島宗則はイギリス公使パークスに小笠原諸島の日本主権を認めさせました(田中弘之『幕末の小笠原』中公新書, 1997)。

    明治新政府は1875年11月21日「小笠原再回収」のため田辺太一・小花作助らを派遣しました。既得権益の維持を図ろうとするパークスもまた、ロバートソン横浜領事に英軍艦で小笠原回収団の乗った明治丸を追わせました。田辺太一は、1875年11月24日住民に「再回収」を告げ、12月3日にはロバートソンと会談し「日本国による小笠原諸島の統治に異存はない」との言質を取りました(田畑道夫『小笠原島ゆかりの人々』文献出版, 1993)。

    ロバートソンは1876年3月15日「日本アジア協会」で “The Bonin Islands” と題する講演をしていますが、その知識の量には圧倒されます。もしロバートソンに応対した日本官吏の知識が、あやふやなものであったならば、小笠原諸島は英領となっていたでしょう。

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  161. あられ様

    小笠原の歴史紹介、ありがとうございます。
    田邊太一の活躍ぶり、よくわかります。この人はもっと照明があたっても良い人だと思います。

    竹島関連については、新しい文献の紹介は無いようでしたね。
    「甲乙丙丁」の問題については、以前にやったことの繰り返しになるので、これでやめたいと思います。

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  162. matsu様

    >田邊太一の活躍ぶり、よくわかります。この人はもっと照明があたっても良い人だと思います。

    田辺太一を正当に評価して頂きありがとうございます。

    明治初期には小笠原島と竹島=松島=鬱陵島が開発を競い合っていたようです。北澤正誠『竹島考證』によれば、何れも1876年7月に、武藤平學は第八号文書「松島開拓之議」で、我が西北之方松島は「皇国之裨益ニ成ヘキ島嶼ニシテ却テ南方ナル小笠原島ヨリモ一層専務之地ト乍卒忽被存候」、また児玉貞易はその建白書で、「彼ノ南方ナル小笠原嶋ノ如キモ既ニ着手ノ期ヲ稍失スルニ似タリ而シテ此島嶼ニ比較スレバ松島ハ一層ノ要島ナレハ速ニセスンハ有ヘカラス」と書いています。両者とも、小笠原島より速やかに松島を開拓すべきというものです。

    小笠原島回収を成功させた田辺は、これにはやや感情的になったらしく、第二十壱号「松島巡視要否ノ議」では甲云うとして次のように書いています「縦令該島ヲシテ韓藉ニ属セストモ南無人島ヲ開キ琉球ヲ藩トスルモ識者或ハ其冝ニ非サルヲ論ス現今ノ務方ニ国脉ヲ静養スルニアリ鮮ヲ煎テコレヲ擾ス計ノ淂ルモノナラス松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ况ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」

    「明治政府に出仕してからの田辺は常に沈黙無為を旨とし、政府の施政に吾不関焉(われかんせずえん)の態度をとることが多かった」(坂田精一:解説,田辺太一『幕末外交談』平凡社, 1966)とされる田辺にしては珍しく、激しい言葉を使って、開拓や巡視に反対しています。

    しかし後に、温厚な田辺は少し激し過ぎると思ったのか丁第二十三号文書では、上記の文章は全文削除し、「断然松島ヲ開クヘカラス」だけを残しました。

    そしてその後に、「又松島ノ未タ他邦ノ有ニ属セサルモノタル判然タラス所属曖昧タルモノナレハ我ヨリ朝鮮へ使臣ヲ派スルニ際シ海軍省ヨリ一艘ノ艦ヲ出シ之レニ投シ測量製図家及生産開物ニ明カナルモノヲ誘ヒ弥無主地ナリヤモ認乄利益ノ有無モ慮リ後チ任地ニツキ漸ト機會ヲ計リ縦令一小島タリトモ我北門ノ関放擲シ置クベカラサルヲ告ケテ之レヲ開クニシカザランカ故ニ瀬脇氏ノ建言スル所採ル能ハサルナリ」と、第二十壱号文書の乙の意見も取り入れ、直ぐに巡視すべきではないが、朝鮮に告げて開くべきだとも述べました。

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  163. 皆様
    海外の反応の翻訳サイトの一つである、カイカイ反応通信に、韓国の中学二年生が「韓国と日本の歴史について教えて下さい」という質問をしています。そしてその回答が、韓国人の水準を示していて面白いのでご一読をお勧めします。

    質問者
    こんにちは。
    私は平凡な中学二年生の女子です。
    私は日本が好きです。
    もちろん、歴史的には、今も問題を抱えていますが、それでも日本が好きです。
    おそらく、こんなことを言うと、悪口を言う方もいるかもしれません。
    それでも私は、日本と韓国が少しでも親しくなったらいいなと思います。
    だから、日本と韓国の間にある歴史について詳しく教えてください。

    韓国が日本を嫌う理由は、代表的に慰安婦、独島問題など、数多くの歴史的問題があることは知っています。
    私は、あるスマホアプリで、26歳の日本人と知り合いました。
    その人が、韓国と日本の歴史について色々と教えてくれたのですが、私が知っていたこととは、だいぶ違っていたので、嘘をついているのではないかとも思いました。

    皆さん、以下の点について、どうか真実を教えてください。
    1. 慰安婦は給料をもらっていたのですか?その人の話では、1ヵ月に約1000万ウォン程度をもらっていたと言います。また、慰安婦は韓国人だけではなかったのですか?そうでないのなら、どのような人種がいたのか教えてください。
    2. 私たちが日本を良く見ていないように、日本も韓国を良く見ていないと言います。その理由を教えてください。
    3. 漢江の奇跡が起きた時、日本は韓国に多くの援助をしてくれたのですか?
    4. 日本は私たちに謝罪をしたことがあるのですか?
    5. 独島に入ってきた日本人を韓国人が殺害したというのは本当ですか?
    6. 昔は、日本は韓国を好きだったと聞きましたが、これは事実ですか?
    7. 本当に和解する方法はないのでしょうか?

    どうか私に真実を教えてください。

    というものです。これに対して、歴史学を専攻しているという学生さんが回答しています。
    妄想コメントつながりで面白いです。

    日本語翻訳版はこちら
    http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/40158445.html

    韓国語の元版はこちらです。
    http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=1110&docId=202913533

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  164. 「妄想コメントつながりで」・・・・・・(笑)



     見て来ました。いや面白かったです。10年来、韓国ウォッチングをしていますが、全く進歩が見えないのは実に鬱島・・・・・もとい、鬱陶しい話です。

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  165. 독도는 한국의 영토입니다. 자신들의 영토라고 말하는 일본의 주장은 잘못되었습니다. 고대 지도에서도 한국의 영토라고 표기가 되어있습니다. 일본이 증거 자료로 나타내는 지도는 우리나라가 소유하고 있는 지도보다 최근에 만들어진 지도이며 우리가 가지고 있는 지도는 그것 보다 아주 오래된 지도입니다. 일본은 즉각 독도의 영유권 주장을 철회해야 하며 대한민국에 피해보상을 해야할 것입니다. 국제적인 망신을 더 이상 받지 않기를 원한다면 지금이라도 영유권 주장을 멈춰야 할것입니다. 独島は韓国の領土です。自分たちの領土だと言う日本の主張は間違っている。古代の地図でも韓国の領土だと表記がされています。日本が証拠資料として示す地図は、我が国が所有している地図より最近作成された地図であり、私たちが持っている地図は、それよりも非常に古い地図です。日本は直ちに独島の領有権主張を撤回し、韓国に被害補償をすべきものです。国際的な恥をこれ以上受けないことをしたい場合は、今でも島領有権主張を停止しなければすることです。 Dokdo is Korea's territory. Their territory, saying Japan's claim is incorrect. In ancient maps are marked as Korea's territory. Map showing Japan as evidence that you are owned by the country in recent years than we have made maps and map than it is a very old map. Japan should withdraw immediately its claim over Dokdo, and Republic of Korea will have to make restitution. Does not get more global disgrace if you want to stop will Even now is claimed. 独岛是韩国的领土。其领土,并称日本的说法是不正确的。在古地图被标记为韩国领土。日本作为证据显示,近年来,由国家拥有比我们已经取得了比它是一个非常古老的地图的地图和地图的地图。独岛,日本应立即撤出其索赔,韩国将有恢复原状。没有得到更多的全球的耻辱,如果你想停止现在甚至声称。 獨島是韓國的領土。其領土,並稱日本的說法是不正確的。在古地圖被標記為韓國領土。日本作為證據顯示,近年來,由國家擁有比我們已經取得了比它是一個非常古老的地圖的地圖和地圖的地圖。獨島,日本應立即撤出其索賠,韓國將有恢復原狀。沒有得到更多的全球的恥辱,如果你想停止現在甚至聲稱。 Dokdo ist Koreas Territorium. Ihr Territorium, sagte Japans Behauptung ist falsch. In alten Karten werden als Koreas Territorium markiert. Übersichtskarte mit Japan als Beweis dafür, dass Sie durch das Land sind in den letzten Jahren im Besitz, als wir haben Karten und Karte, als es eine sehr alte Karte ist gemacht. Japan sollte sofort zurücktreten seinen Anspruch auf Dokdo und Südkorea haben auch die Wiedergutmachung. Nicht mehr zu bekommen globale Schande, wenn Sie aufhören wird auch jetzt wird behauptet wollen. Dokdo est un territoire de la Corée. Leur territoire, en disant l'allégation du Japon est incorrecte. Dans les anciennes cartes sont marquées en tant que territoire de la Corée. Carte montrant le Japon comme une preuve que vous êtes détenue par le pays ces dernières années que nous avons fait des cartes et la carte que c'est une très vieille carte. Le Japon devrait retirer immédiatement sa revendication sur Dokdo, et la République de Corée devra procéder à la restitution. Ne devient pas honte plus globale, si vous voulez arrêter sera Même est maintenant revendiqué.

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  166. Alex,

    Your Japanese doesn't quite make sense to me. You should learn Japanese more hard.

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