竹島問題の歴史

13.12.11

1952 - Jan. - 『韓国沿岸水路誌』第一巻_韓国も竹島を「竹島」と呼んでいた

下の史料は、檀紀4285年1月5日、韓国海軍本部水路官室というところが発行した『韓国沿岸水路誌』です。「竹島」という名前で、竹島=独島が説明されています。(檀紀4285年は1952年です)

1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_11952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_21952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_51952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_91952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_31952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_4

図(表紙、奥付、「竹島」の部分、「鬱陵島と竹島」の部分)

同じ1952年の1月18日には、李承晩ラインが宣言され、韓国は竹島を自国領と主張しました。この本が編集・刊行されたのは、まさにその直前、ということになります。「竹島」の写真もあり、まさしく、今の竹島=独島です。

1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_7

図(「竹島」の写真)2枚

項目名は「鬱陵島と竹島(獨島)」となっていますが、「竹島」の説明部分には「獨島」の名前はありません。目次でも、大きな項目として「鬱陵島と竹島(獨島)」としながら、「竹島」は「竹島」のままです。

1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_8

図(目次)

「序」と「編集の言葉」の部分に、今年(=1951年)8月に「海軍水路官室」が出来て、4ヶ月の奮闘の末に、ようやく韓国は自前の『水路誌』を持つことが出来た、と書かれています。それまでは韓国には外国の『水路誌』しかなかった、としています。


1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_序1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_編集1952 01 『韓国沿岸水路誌』第一巻_編集2

図(序、編集の言葉)

当時の韓国外務省や水産局がプッシュして無理やり李承晩ラインの中に竹島を取り込んだ1952年1月以前には、韓国海軍においては、独島に対する強烈な領有意識はなかったのではないかと思われます。あるいは無関心、と言うべきでしょうか。そして、ここには、「新羅以来の韓国の固有領土である独島が、1905年に日本に奪われ、1945年、解放とともに祖国の胸に帰ってきた」という「独島の物語=神話」は、まだ全く存在しません。

そもそも、この本は、ほとんどが、日本側が出した(海軍省)水路部編『朝鮮沿岸水路誌』(昭和8年=1933年)の翻訳と思われます。4か月でできた、と書いてあることからも、それが伺えます。(右側の四角をクリック 原文を見る)(vol 第3編 朝鮮東岸 鬱陵島及竹島)

しかも、まったくの丸写しではなく、新しい資料が取り込まれており、1951年末ごろの、韓国海軍=韓国政府の、独島=竹島認識の一端がうかがえるものだと思います。

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朝鮮沿岸水路誌』(昭和8年=1933)韓国沿岸水路誌』(檀紀4241年=1952)の比較

朝鮮沿岸水路誌(89p)

竹島(タケシマ)   此ノ島ハ日本海上ノ1小群嶼ニシテ島根隠岐島前ヨリ大約86浬、鬱陵島ヨリ東南東方約50浬ニ位シ幅1鏈餘ノ狭水道ヲ隔テテ東西ノ相スル2島ト其ノ周ニ碁布スル幾多ノ小嶼トヨリ成ル(第89頁第25及26参照)。

韓国沿岸水路誌(91p)

竹島     섬은 東海上 1小群嶼로서 鬱陵島에서 東南東方約50浬 位置하며

1鏈餘水道를사이에두고 東西하는2 碁布하는

幾多小嶼로서이루고있다(第92頁第25及26参照)

(翻訳)この島は、東海上の1小群嶼で、陵島より東南東方約50浬に位置し、1余の狭水道を隔てて東西に相対する2島と、その周囲に碁布する幾多の小嶼から成っている。(第92頁対面対景図第25及26参照)

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朝鮮沿岸水路誌(89p)

島上ニハ前記ノ如ク家屋ヲ建築スベキ地極メテ乏シク明治37年11月軍艦馬ノ此ノ島ヲ査セシ際ハ東方島ニ漁夫用ノ菰葺小屋アリシモ風波ノ為甚シク破壊シアリシト謂フ。

毎年夏季ニ至ラバ海驢ノ為鬱陵島ヨリ渡スルモノ十名ノ多キニ及ブコトアリ彼等ハ島上ニ小屋ヲ構ヘ、毎約10日間居スト謂フ。

韓国沿岸水路誌(91p)

島上 前記외같이 家屋建築할만한 地域 稀少하다。毎年夏季가되면

海驢하여鬱陵島에서하는10名이라하며春季부터鬱陵島로부터 和布(미역)及전복採取10名漁夫하며島上小屋을만들어

毎回約10日間한다고한다

(翻訳)島上には、前記の如く、家屋を建築すべき地が極めて稀少である。

毎年夏季になると、海驢猟の為に鬱陵島より渡来する者、数10名と言い、また春季から鬱陵島から和布(わかめ)及び鰒等の採取に10名の漁夫が渡来し、島上に小屋を作り、毎回約10日間、仮居するという。

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朝鮮沿岸水路誌(90p)

位置 竹島ノ東方島ノ南端ハ明治41年ノ測定ニ據レバ北緯37度14分18秒、東経131度52分33秒ニ在リ。

韓国沿岸水路誌(92p)

位置竹島東方島南端 檀紀4241年測定하면 北緯37度14分18秒, 東経131度52分33秒에있다.

(翻訳)竹島の東方島の南端は、檀紀4241年の測定に依れば、北緯37度14分18秒、東経131度52分33秒にある。     注:明治41年=檀紀4241年=1908

21 comments:

  1. matsuさんの書かれたものを投稿します。資料提供もmatsuさんです。ありがとうございます。(遅くなってすみませんでした。)

    間違いがありましたらお知らせください。

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  2. *訂正

    「まえがき」の部分に、この年(=1951年)8月に「水路局」が出来て、



    「序」と「編集の言葉」の部分に、今年(=1951年)8月に「海軍水路官室」
    が出来て、

    *追加

    p92、序、編集の言葉の画像を追加しました。

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  3. これはまた貴重な資料の発掘ですね。戦後の韓国では、マスコミは既に1947年から「独島」という言葉を使って報道をしていたわけですが、海軍は「竹島」を使っていたのだからバラバラですね。これでは確かに「独島は古来からの韓国の領土」という認識は見えません。

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  4. 興味深い史料ですね。金東祚『韓日の和解』によれば、李承晩ラインを主導したのは自身であり、海軍や水産関係者の協力を得て線引きをしたとしています。これを1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約の署名前に完了して宣言するという目標を立てて8月末から9月にかけての10日ほどの期間に集中的に取り組んだと記しています。ただ李承晩大統領の決裁が得られず、このときは陽の目を見なかったと回顧しています。ここで言う海軍とは水路部のことでしょう。してみれば、竹島と独島が同一の島であり、韓国政府が領有を主張しようとしていることを海軍は知っていたのではないでしょうか。

    とはいえ、日本でも編入から半年近く経った5月になって「リャンコ島」とか「リアンコルド巌」などと言っている例がありますので、この1点だけで鬼の首を取ったかのように騒ぐのは避けるべきかと思います。事実は事実として押さえておくのは言うまでもありませんが。

    それよりも何よりも、この史料を見て感じたのは、他人の褌で相撲を取ることを厭わないのはいつの時代も変わらないのだなぁ、ということです。申景濬の時代と何ら変わっていないように思われます。そんな変な所に感心してしまいました。

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  5. 古い話で恐縮ですが、2011年8月3日のサーチナ(http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0803&f=politics_0803_002.shtml)で「米連邦政府機関の地名委員会は、1977年から「リアンクール岩」という地名とし、国務省などの主要行政部署のホームページの地図も同様に表記していると伝えられている。」と報道していました。1977年以前はどのように表記されていたんでしょう。また1977年から「リアンクール岩」と表記するようになった経緯をご存知でしたら教えていただけませんか?

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  6. 孫元一(ソン・ウォンイル 1909~1980)

    序を書いている、孫元一(ソン・ウォンイル)は、韓国初代の海軍参謀総長で、今も韓国海軍の潜水艦に名前を残しています。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%85%83%E4%B8%80_(%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%A6)
    孫元一(ソン・ウォンイル、日本語読み:そん げんいち、朝鮮語:손원일、ラテン文字:Son Won-Il, SS-072)は、大韓民国海軍の潜水艦。孫元一級潜水艦の1番艦。艦名は初代海軍参謀総長を務めた孫元一に由来する。


    そして、韓国海軍の「初代司令官」だそうです。

    大韓民国海軍の初代司令官、孫元一提督
    http://blogs.yahoo.co.jp/illuminann/2001635.html
    http://blog.naver.com/dapapr/110103023862

    さらに、韓国のwikiによれば、韓国第5代の国防長官だそうです。

    そんな人物が、1952年に、「竹島」を「獨島」に変えもせずに、そのまま残しているのが面白いです。

    http://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%86%90%EC%9B%90%EC%9D%BC_(1909%EB%85%84)


    そして、なんと彼の長男の孫明源(1941~)は、あの駐日大使だった金東祚(キム・ドンジョ1918~2004)の娘と結婚しています。これは驚き!

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  7. ソン・ウォンイル(孫元一、손원일1909年5月5日(陰暦) ~ 1980年2月15日)は、平安南道、江西出生、号は水郷、本貫は密陽。大韓民国の独立活動家であり、軍人、外交家、官僚である。
    孫元一は、臨時議政院議長であった牧師손정도(ソン・ジョンド)の2男3女の長男で、1945年解放後、「私たちの海は私たちの手で守らなければならない。」という一念で、1945年11月11日、海軍の母体の「解放兵団」を創設した。その後、海軍初代参謀総長、第5代国防部長官、初代西ドイツ大使などを歴任し、1980年2月15日逝去、ソウル国立顕忠院に安置された。
    特に、孫提督は、海軍参謀総長に在任期間中に、朝鮮戦争の仁川上陸作戦とソウル回復作戦に参戦し、韓国最初の戦闘艦である白頭山艦を米国で導入するのに大変な貢献をした。また、海軍兵学校(現海軍士官学校)、海兵隊などを創設したほか、戦史編纂室および海軍音楽隊などを発足させ、軍の志気高揚と組織体系改善の先頭に立った。今日、大韓民国海軍の父と呼ばれるほど、大韓民国海軍の発展に大きな功績と影響を残した。

    「大韓民国海軍の父」だそうです。

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  8. 1945年8月21日: 해사대結成
    1945年11月11日:解放兵団創設
    1946年1月15日:解放兵団総司令官
    1946年1月17日- 3月15日:海軍兵学校(現在の海軍士官学校)初代校長
    1946年6月15日:朝鮮海岸警備隊総司令官
    1948年9月5日:初代海軍総司令官歴任
    1948年12月10日: 海軍最初の提督に昇進
    1950年9月15日:仁川上陸作戦参加
    1953年6月28日:海軍予備役中将で予備軍編入
    1953年6月30日- 1960年5月26日:第5代国防部長官
    1958年8月1日- 1960年8月30日:駐西ドイツ韓国大使. 西ドイツ大使として任務が末だった1960年7月、コンゴ共和国独立式典に出席後、カメルーン、トーゴ、ギニア、マリ、ナイジェリア、モロッコ6ヶ国を親善訪問して、相互間の理解増進と外交関係樹立に関して原則的な合意を見た
    1960年12月24日午前、チョン・イルヒョン外務部長官は、「解任されたのに帰国しないで他国で職場を求めて居住することによって国家威信を墜落させている海外公館長らに強力な召還命令を発した」と言明した。召還該当者にソン・ウォンイルも含まれていた1963年9月5日:国民の党 中央委員会委員長・
    1966年:韓国在郷軍人会諮問委員長
    1966年11月3日:第12次アジア反共連盟韓国代表
    1972年:弘報協会長
    1972年- 1974年:韓国反共連盟(現在の韓国自由総連盟)理事長と顧問
    1976年4月30日:第9次世界反共連盟総会韓国首席代表

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  9. 1953年6月30日- 1960年5月26日:第5代国防部長官


    1954年に竹島を不法占拠した時の国防部長官、ということになります。

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  10. この『韓国沿岸水路誌』の「翻訳」のネタ本となった、昭和8年版の『朝鮮沿岸水路誌』については、すでに申奭鎬が「独島所属について」『史海』創刊第一号(1948年12月)の中で、独島を韓国領土とする根拠の一つとしてふれています。

    『朝鮮沿岸水路誌』は、最近1933年(昭和八年)に日本海軍省で『本州沿海水路誌』と同時に発刊した本で、これに朝鮮に附属する島嶼を総網羅し、その位置と地勢および産物を詳 細に記録したものであるが、その第3編 朝鮮東岸に、鬱陵島および竹島を記載してあり、独島を朝鮮に属する島と明記している。(「8 日本領有以後の独島」)
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html

    これで見ると、申奭鎬は、1933年の『朝鮮沿岸水路誌』の記述をもって「独島を朝鮮に属する島と明記している」、すなわち独島を韓国領土とする証拠の一つ、と考えていたわけですから、あるいは1952年に韓国海軍が『韓国沿岸水路誌』を出す時にも、申奭鎬の思考方法につられて「油断」して、「竹島」を「独島」と上書きをすることを怠ってしまったのかもしれません。

    『水路誌』は国境(領土)と関係なく書かれるもの、という常識を、海軍の人たちはもちろん知っていたのでしょうが。

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  11. 孫元一の序の 翻訳

    水路誌は、海運にあっての文献的羅針盤であり、海と戦う者の生命線である。港湾の形勢、島嶼の布置、水深および水路の実状とその変遷などについて、実地踏査と実測なくしては、航海の安全を期すことはできず、ただ国土上だけでなく、水産、海運業などの産業発展のためにも、水路誌が担当する任務とその効用価値は絶大なものがある。日本水路部所刊の書がなかったわけではなく、解放後、応急策としてはこれを用いざるを得ない実情であったが、我々の手によって実地調査と実測を実施すると同時に、輓近の変遷を照詳することは喫緊の課題であった。
    ここにあって、我が海軍本部水路官室が率先して、内務部建設局、商工部水産試験場、および国立観象台の援助を受け、四個月に亘る苦心の調査と実測、また各方面の報告および文献を蒐集し、八百頁に達する浩瀚な韓国水路誌の集大成を見たことは、まことに頼もしく、欣幸の事である。しかし、かの近世において、金正浩先生の畢生の刻苦踏査によって成り立った大東輿地図と大東地志を想起する時、いまだに我々の努力は充分とは言えず、この完璧を後日に期して、所定の改纂重刊期までの絶え間なき調査と実測と研究がより緊切だと言えよう。関係各方面の支援と、実務に当たる技術陣各位の労苦に、感謝と敬意を表わし、あわせて今後の変わりなき健闘を祈るところである。
    檀紀4285年1月 日
    海軍総参謀長 海軍中将 孫元一 識

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  12. この『韓国沿岸水路誌』の「翻訳」のネタ本となった、昭和8年版の『朝鮮沿岸水路誌』については、すでに申奭鎬が「独島所属について」『史海』創刊第一号(1948年12月)の中で、独島を韓国領土とする根拠の一つとしてふれています。

    『朝鮮沿岸水路誌』は、最近1933年(昭和八年)に日本海軍省で『本州沿海水路誌』と同時に発刊した本で、これに朝鮮に附属する島嶼を総網羅し、その位置と地勢および産物を詳 細に記録したものであるが、その第3編 朝鮮東岸に、鬱陵島および竹島を記載してあり、独島を朝鮮に属する島と明記している。(「8 日本領有以後の独島」)
    http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/12/blog-post.html

    これで見ると、申奭鎬は、1933年の『朝鮮沿岸水路誌』の記述をもって「独島を朝鮮に属する島と明記している」、すなわち独島を韓国領土とする証拠の一つ、と考えていたわけですから、あるいは1952年に韓国海軍が『韓国沿岸水路誌』を出す時にも、申奭鎬の思考方法につられて「油断」して、「竹島」を「独島」と上書きをすることを怠ってしまったのかもしれません。

    『水路誌』は国境(領土)と関係なく書かれるもの、という常識を、海軍の人たちはもちろん知っていたのでしょうが。

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  13. 孫元一の序の 翻訳

    水路誌は、海運にあっての文献的羅針盤であり、海と戦う者の生命線である。港湾の形勢、島嶼の布置、水深および水路の実状とその変遷などについて、実地踏査と実測なくしては、航海の安全を期すことはできず、ただ国土上だけでなく、水産、海運業などの産業発展のためにも、水路誌が担当する任務とその効用価値は絶大なものがある。日本水路部所刊の書がなかったわけではなく、解放後、応急策としてはこれを用いざるを得ない実情であったが、我々の手によって実地調査と実測を実施すると同時に、輓近の変遷を照詳することは喫緊の課題であった。
    ここにあって、我が海軍本部水路官室が率先して、内務部建設局、商工部水産試験場、および国立観象台の援助を受け、四個月に亘る苦心の調査と実測、また各方面の報告および文献を蒐集し、八百頁に達する浩瀚な韓国水路誌の集大成を見たことは、まことに頼もしく、欣幸の事である。しかし、かの近世において、金正浩先生の畢生の刻苦踏査によって成り立った大東輿地図と大東地志を想起する時、いまだに我々の努力は充分とは言えず、この完璧を後日に期して、所定の改纂重刊期までの絶え間なき調査と実測と研究がより緊切だと言えよう。関係各方面の支援と、実務に当たる技術陣各位の労苦に、感謝と敬意を表わし、あわせて今後の変わりなき健闘を祈るところである。
    檀紀4285年1月 日
    海軍総参謀長 海軍中将 孫元一 識

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  14. 「編輯の言葉」(盧明鎬)翻訳

    一、陸上百般の事業には、地図を必要とし、それは必ず社会発展過程の要素としてあらわれる。また、諸般の物象を直接に目撃して活動することが出来るので安全を図ることも出来る。反面、海上においてはどうであろうか? 人間の肉眼では到底、目撃・知得することが出来ない広漠たる海を相手とする。従って、その中で活動する者は、神秘なる海中を教示してくれる水路誌や海図等を必然的に要求することになる。そして、これは陸上で地図を必要とする、それ以上の必要性を、絶対的に主張することになるのも自他が共認するところであろう。もしも、このような要求条件が具現されなければ、その結果はどうなるか? これは、あたかも、盲人が杖もなく馳駆するようなものであり、貴重なる生命および船舶等を烏有に帰せしめる不祥事を招来し、直接・間接に国家社会に与える影響が多大であることは贅言を要しないところである。

    ニ、そして、最近高度化する科学の発達に随伴して、水路関係事業でも複雑深奥に亘る理論方式を要求することとなった。従って、これに関する測量調査および研究事項を一般に公表し、関係技術者の参考に供する一方、相互間の智識と経験の交換・討論を待って航海者に対する貴重な教示的役割として顕現しなければならないことも切実に要求されるところとなった。

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  15. 三、水路事業とは、単に一般航海用や海上交通の指針としての役割だけを果たすのに止まらない。それは通商・貿易、また産業の発達を促進させ、さらには世界経済の確立に寄与するばかりでなく、その応用は、すなわち軍事上、或いは学術上、許多の研究資料を作り出し、社会的、経済的、また文化発展に貢献する所が大きいので、一言以て之を蔽うのであり、これは即ち文明国家の形成要素としての水路事業であると言うことが出来る。欧米の海洋諸国家においても、早くも18世紀末葉から19世紀初頭にかけて、既に水路事業の必要性を認識してその事業の勃興を見るようになり、隣国・日本においても、約100余年前に兵部省水路局という機関の設置を見て、現在のような立派な文明国家を形成することになったのである。このような瞠目すべき発展過程の中には、勿論さまざまな歴史的・社会的原因もあったであろうが、海洋国家としての荘厳な威容をあらわすにあたっては、ただ水路事業の考えがその要素であったということは、非常に注目すべきことである。

    四、それでは、我が韓国の水路事業の実情は果してどうであろうか? 半万年の燦爛たる歴史を誇り、三面の海を望視しながら、社会発展要素としての水路事業は等閑視され、その実績すら微弱たるを免れないことを遺憾とせざるを得ず、その結果として、約15年前に調整された外国図誌を現在の航海者がやむを得ず使用しなければならないことは、国家的見地からも、如何にも寒心たると言わざるを得ず、国家・民族の前途を憂慮せざるを得ないではないか。かくの如き現実は傍観すべき問題ではなく、今年8月に海軍水路官室の創設を見たが、人材また財政難の隘路を免がれず、その業務の伸縮を海軍部内に局限せざるを得なかったが、元来、水路事業とは、一個のある部署にだけ隷属する局部的な性質のものではなく、国家的であり、より広い意味では国際的な性格を持つ事業であることを強調すべきであり、そこに流れる使命の重大性を我々は痛感しなければならないのである。

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  16. 五、上述したような環境の中で、本書『水路誌』が上梓されただけに、その内容にあっては、本来の意図が充分に遂行されているか、ただ恐れるばかりである。しかし、水路の指導、および案内記として未知の航海者の指針となると同時に、ひたすら航海と保安との引導橋としての役割を果たすため、当部の測量と、我が艦艇の航海報告、また各関係官公署の最近調査資料により、編者の力の及ぶ限りは、先進諸国が取っている伝統的な「システム」にのっとって、正確・詳細をなしえたのではないかと信じるばかりである。だが意外の誤謬がないとは言えず、それに対しては愛読諸賢の叱正を待ち、後日これを修正増補することとしたい。ただ、韓国有史以来、実地調査による最初の水路誌としてのこの一篇が、将来、新たな大韓民国水路事業建設のために少しでも裨益する所があれば、編者望外の喜びとするところである。

    六、終わりに、特に今般本書刊行に当たり、積極的協調を惜しまなかった一般海員、海運、水路、航海、および水産各関係諸賢に衷心から謝意を表するものであり、今後も挙国的で歴史的なこの水路事業の推進、発展のため、変わらぬ声援と鞭撻を冀願するものである。

    檀紀4285年1月 日 海軍少領 盧明鎬

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  17. 「海軍少領 盧明鎬」とありますが、少領は少佐にあたり、この人物が、水路誌編纂の実務にあたった、佐官級の実質的な責任者と思われます。

    「編輯の言葉」と言いつつ抽象的な言葉が並んでおり、具体的な情報性があるのは、
    「今年8月に海軍水路官室の創設を見たが」
    「韓国有史以来、実地調査による最初の水路誌」という部分だけのような気もします。
    発行が檀紀4285年1月(1952年)ですから、この「今年」は1951年と思われます。1951年8月といえば、ちょうど、ラスク書簡で、独島領有を拒否されたころですね。孫元一の序に、4か月の苦心調査、とありますから、11月か年末頃には原稿ができあがっていたのではないでしょうか。
    いずれにしても朝鮮戦争の最中であり、発行地がソウルでなく大邱であることを見ても、財政的にも人的にも、非常に厳しい条件下に編纂されたのでしょう。

    「当部の測量と、我が艦艇の航海報告、また各関係官公署の最近調査資料により」とありますが、ほとんどが日本の昭和8年版の翻訳です。

    少なくとも「竹島」については、実地の測量・調査も、各関係官公署の最近調査資料も、無かったのではないかと思われます。
    ただ、1947年8月の朝鮮山岳会の調査には、海軍が船を出していたと思いますが、このときの資料は活用されていないようです。

    この盧明鎬という人物については、ネットで検索しても、その後どうなったのか、出てきません。たぶん同姓同名の、高麗史専門の歴史学者がいるようです。

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  18. 大邱大学独島研究所、独島領有権捏造の系譜 発刊
    2011/12/29 大邱新聞

    http://www.idaegu.co.kr/new_gisa.html?uid=240731&&part=soc

     大邱大学独島研究所は 28日『日本の独島領有権捏造の系譜』(著者チェ・チャングン教授)を発刊したと明らかにした。
     独島領土学叢書の一つとして発刊されたこの著書は「独島が歴史的にも国際法的にも日本の領土と主張する日本の論理が捏造された」と言う内容を扱っている。特にこの書は従来の独島研究の歴史的、国際法的研究という方法論から脱皮して全く異なる新しい観点から独島領有権論理を強化する一方、日本の領有権主張を批判した。
     チェ教授は著書で、日本がいつ、誰によって独島領有権の論理を創作して今日に至ったかを3部にわたって暴いた。チェ教授は特に3部で、第2次世界大戦以後韓国政府が独島領有権を明確にするために平和線を宣言した時、これに抗議して日本外務省と島根県が領土専門家を動員、竹島が日本領土という論理を本格的に作り立てたと強調した。
     チェ教授は「この本は従来の独島研究の歴史的、国際法的研究という方法論から脱皮して全然違った観点から独島領有権論理を強化して日本の領有権主張を批判したという点で意義がある。」と述べた。

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  19. 「SCAPIN-677によって韓国に返還された。」などと慣習法を無視した独自解釈することこそ捏造というと思うのだが……。

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  21. 正月です。おめでたいニュースです。


    「独島編入1500周年」 行事続々
    新羅将軍異斯夫 于山国服属 領有権学術大会 • 探訪など多彩

    毎日新聞 2012/1/5
    http://www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=1136&yy=2012


     歴史学界と市民社会団体は、今年、新羅将軍異斯夫の于山国服属1500周年を迎え、独島を中心にした学術大会など多様な行事を準備している。
     独島学会は今年の春と秋の二回にわたり、独島が韓国固有の領土であることを多様な根拠で提示する独島学術大会を鬱陵島などで開く計画だ。東北アジア歴史財団は、今年、全国50余の高等学校で特講、体験学習を骨子とする「独島アカデミー」を進行して、独島編入 1500周年を迎え、学生たちと外国人たちを対象にした独島探訪プログラムも行う計画だ。また、韓国異斯夫学会は、来る8月1日から4日まで異斯夫将軍にスポットを当てる学術大会を、3日から5日まで異斯夫祭典を、それぞれ三陟で開く予定だ。
     独島学会のシン・ヨンハ会長(ソウル大学名誉教授)は、「今年は独島を韓国の固有領土と定めてから1500周年になる年というところに意味がある。」とし、「日本側が独島に関して盗人猛々しい発言をすることに対して、我が政府は独島を守るためにもう少し確固たる政策を樹立しなければならない。」と語った。
     東北アジア歴史財団の関係者は、「三陟は異斯夫将軍が于山国を征服するために出発した地として知られている。江原道は学術大会と祭典の期間に合わせて<異斯夫の日条例>を制定する予定」と述べた。
     新羅ネムル王の4世の孫である異斯夫将軍は現在の三陟と江陵の地方君主であったが、512年に于山国を征服して鬱陵島と独島を初めて我が国の歴史に編入させた。

    鬱陵 ホ・ヨングク記者

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