Notice that the map with the article shows Ulleungdo divided into three districts: Buk-myeon (北面 - North District); Nam-myeon (南面 - South District), and Seo-myeon (西面 - West District). The article is entitled "鬱陵島란 엇더한 곳인가" and is located on the Library of Korea Web site.
Gerry,
ReplyDeleteThanks for the posting.
But the newspaper clip was from 1934 (the 9th year of Showa).
They, Japanese readers, are arguing about a possibility that Korean government may have divided Ullengdo into two districts - North and South before they divided the island into three districts - North, South and West in 1906 when they changed the jurusdiction of the island from 江原道 to 慶尚南道 (on September 24th 1906 or 光武10年) because yabutaro-san found that a document in 「 鬱陵郡誌 」 (2007) mentions that there were two districts in 1900 (please see the following):
http://opac.ide.go.jp/webopac2/ctlsrh.do?bibid=BB20275155&listcnt=10&maxcnt=100
http://outdoor.geocities.jp/yabutarou01/uturyougunnsi.html
And matsu-san found out that there was an article "조선-일제 강점기 울릉도 지명의 생성과 변화" (朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化) in 『文化歴史地理』(18巻1号 2006年4月)문화역사지리 제18권 제1호 written by 김기혁 and 윤용출. It included the following table:
- - - - - - - - - - - - - - - - -
1900年 2面18か洞
(江原道鬱島郡)
南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞
北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 (管轄)竹島, 石島
- - - - - - - - - - - - - - - - -
The author of the book 鬱陵郡誌 quoated from this article but we haven't found the original document yet to prove that they really divided Ullengdo into two districts in the early years before they divided it into three districts in 1906.
Hi Pacifist,
ReplyDeleteThe Dokdo Museum has the following on its Web site:
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5월 31일 울릉도시찰위원 우용정과 부산 주재 일본영사관보 적총정보(釜山駐在日本領事館補 赤塚正補) 등 한․일 양국의 조사단이 울릉도에 도착하여, 6월 5일까지 일본인의 비행과 재목 도벌 및 세금징수 여부에 대해 조사하고, 島內의 實情과 島勢를 파악함.
6월 15일 우용정이 돌아와 보고서를 제출하고, 일본인의 조속한 철수와 울릉도 官制의 개편을 건의함.
10월 27일 칙령 제 41호(10월 25일)를 반포하여 울릉도(鬱陵島)를 울도(鬱島)로 개칭하고, 도감(島監)을 군수(郡守)로 바꾸므로써, 강원도의 27번째 郡으로 지방관제(地方官制)에 편입됨. 칙령에 의하면 군청의 위치는 태하동(台霞洞)으로 하고, 울도군수(鬱島郡守)의 관할구역은 鬱陵全島와 竹島(댓섬), 石島(독도)로 함.
도감을 군수로 개정하였으므로, 현임도감 배계주(裵季周)가 초대군수가 되었으며, 울릉군을 南面과 北面으로 나눔에 따라 독도는 울릉군 남면에 속하게 됨.
禹用鼎의 鬱島記와 보고서, 高宗實錄 권40, 官報 제1716호 光武 4年 10月 27日.
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It says that Uldo County was divided into North Myeon (北面) and South Myeon (南面) and that "Dokdo" was placed in South Myeon. It then gives three souces for the information, but none of the sources said the island was divided into north and south and that Seokdo (石島) was placed in the southern half. I think they are just making it up.
There is a reference to the island being divided into north and south, but it does not seem to have been a formal division. Here is the passage:
內部來去案(16), 內部大臣의 外部大臣에게의 「照會 第11號」
光武 5年(1901) 9月 25日條
照會 第十一號
上年 十月에 貴部 第十五號 第十六號 照復을 連接와 敝部로셔 第十九號 照會 便爲仰佈왓더니 經年 關序에 如何신 照復을 尙靳시와 至今紆鬱온중 現接 鬱島郡守 裵季周 報告書 內開 本島가 僻在海遇야 島中居民이 只以耕田爲業 而近年日人이 數數往來야 或伐規木고 或侵居民之事狀을 昨年分 視察官禹用鼎 已所洞悉者也라. 伊時에 招集日人裁判 則 日人이 更勿侵漁之弊로 自服矣러니 視察官 上京後로 在山槻木無一遺扁고 今年則 日人千餘名이 作黨突入야 全山南北分界와 七十餘戶 居生島中이고 分界之內 雖一草一木이라도 大韓之民은 勿爲犯斫케 고 島民尹殷中이 盖屋之事로 伐木作板이온즉 稱云渠山之木이라 고 勿犯케오니 大抵 渠國渠山之木이라도 不至此境이온 又況大韓之土地乎잇가. 日人之弊가 去去益甚이온즉 島中居民이 不得安堵야 至於渙散之境이고 大韓土地를 奪之於日人이온 故로 玆以報告오니 照亮신 後 特爲公決之地 伏望等因온즉 在島日人의 滋弊가 愈往愈甚야 犯斫木料 益無顧忌뿐더러 全島南北을 分界築室고 滿山木料 看作己有야 島中民 盖屋伐
木을 還爲禁止라오니 言念及此에 不覺寒心이라. 大抵 在島無恤之日人을 若不撤還오면 全島五百戶數千名人口가 渙散乃已이기 前後仰照가 非至一再이온바 尙今延拖하와 爲弊滋甚에 閔有犯極온즉 公法所在에 該日人之行悖 實爲兩國之羞라 玆更仰佈오니
照亮신後 日本公使에게 知照시와 在島之日本亂民을 定期撤歸케 시고 示明시믈 爲要.
光武五年 九月 二十五日
議政府贊政內部大臣 李乾夏
議政府贊政外部大臣 朴齊純 閣下
Hi Gerry,
ReplyDeleteIf they divided the island into two districts, South and North, whatever it was informal or formal, then the list in the article "조선-일제 강점기 울릉도 지명의 생성과 변화" (朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化) maybe right. It derived possibly from some documents from around 1900 although we still haven't succeeded in finding the original documents.
If the authors (Korean scholars 김기혁 and 윤용출) really saw such original documents similar to the list, then one can say that 竹島 (Jukdo) and 石島 (Seokdo) were recognised as located in North district in around 1900. (If this is true, Seokdo can't be Dokdo.)But if the authors only misunderstood the location of these islands, then this article means nothing.
A possiblity we are afraid of is that if Seokdo was recognised as an island in the north part of Ulleungdo in 1900, they may have vanished the documents to prove that in order to make the "Dokdo is Seokdo" theory sure.
BTW, the title of the article reads "Usanguk in the old times" to direct Ulleungdo. Did Korean people in 1934 know that Usanguk was Ulleungdo, not Liancourt Rocks?
ReplyDeleteIf so, this is another evidence to show that the theory "Usando is Dokdo" was made up at least after 1934 (possibly after 1950's when Rhee Syngman drew the Syngman Line to get Liancourt Rocks).
Gerry,
ReplyDelete"鬱陵島란 엇더한 곳인가" the link doesn't work.....if possible please give us more bigger detailed image to identify place of name? thanks.
The 18th column “Seeking Truth Based Solely on Facts(実事求是)” のコメント欄が長くなりすぎたのでこちらに移動します。
ReplyDelete>>1892年の文献有難うございます。知人に尋ねたらこのよう鬱陵島の文化の紹介のサイトがあり、其の中に、鄭處士述懷歌がありましたがまだよく読んでいません。
ReplyDeleteGTOMR さん素晴らしすぎです。実はこの鬱陵島の文化の紹介のサイト、以前見つけて重大な発見をしたのですが、見つからなくなって困っていたのです。
このサイトのこのページでは「干山島の神秘」という説話が竹島=独島のこととして語られています。
「韓半島の最東端島,独島話」
しかしこちらのぺージでは「干山島の神秘」は「デッソムの神秘」の別名として出てきます。デッソムというのは「竹嶼(ちくしょ)」の別名でありこのページの一番下にある関連画像も竹嶼の画像です。
「デッソムの神秘」
しかも「韓半島の最東端島,独島話」では、
普天教人たちが干山島と呼んだという独島の特徴的な自然景観がそのまま現われる話が 「干山島の神秘」という伝説だ.
とあり干山島と独島の自然景観が同じであると語られています。しかしながら、「デッソムの神秘」には、「その島には竹だけが生い茂っていた.」とありどう考えても竹嶼と自然景観が同じです。
さらに「韓半島の最東端島,独島話」では独島義勇守備大将洪淳七(ホンスンチル)の手記 『この地が誰の地なのに』からの引用として、
普天教人たちは干山島を捜して鬱陵島に入って来たし,彼らの捜す干山島が独島なのを分かってむりやりに独島に渡って遭難にあったりしたと伝わる.
とあって普天教徒が干山島は竹島=独島であると考えて遭難にあいながらも独島に渡ったかのような話になっています。
しかしながら私はこの話はどう考えても 『毎日申報』1913年6月22日の記事と同じことを語っているとしか思えません。
『毎日申報』1913年6月22日の記事
『毎日申報』1913年6月22日の記事にはこのようにあります。
●無人島の探検中止
鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある于山島という無人島があるとして、即ち、この○○○見していた鬱陵に移住する計画で、○○者を募集して、その費用が毎人○○○金四・・・・・約百余で帆船を借入れた後、三人乗組んで捜索しようと、出資○○決定して、賛成者が30名に達したのだが、右の于山島はその実在の謎題あって、○○10数年前に同地内の鮮人が共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。近年に航海路が頻繁になったのに、その現認したということが無く、また、その島は海図に記されておらず、仮に存在したとしても発見は容易ではなく、反って無益に費用を消費すると不遇だと、中止したそうです。
私はこの金元俊が普天教徒のリーダーであると考えます。于山島は存在が謎であって捜索したが見つからず結局あきらめたという話になっています。
私はこの話を洪淳七(ホンスンチル)大将が普天教徒が干山島は竹島=独島であると考えて独島に渡ったという話に歪曲したと考えています。
「干山島の神秘」の伝説は普天教徒の信じた伝説であり、その結末が干山島に行ったという漁夫たちの言葉を聞いて村人たちが干山島を探したが結局見つからなかったとなっているのは、普天教徒の干山島捜索が失敗に終わったことを暗喩していると考えます。
つまり「干山島の神秘」の伝説、洪淳七(ホンスンチル)の手記 の普天教徒の話、『毎日申報』1913年6月22日の記事、この来歴の異なる三つの文章は実は同じことを語っているのであって1900年代前半には竹島=独島は干山島(=于山島)とは見なされてはいなかった。このように私は考えます。
どなたか独島義勇守備大将洪淳七(ホンスンチル)の手記 『この地が誰の地なのに』の該当部分にどのように書かれているか調べていただけませんでしょうか。
Pacifist,
ReplyDeleteI have not found any old documents placing Jukdo (竹島) or Seokdo (石島) in any of Ulleungdo's districts (面). For example, if you search on 朝鮮地誌資料 on Korea's National University Web site and read the information for 鬱島郡 in the 慶尙南道 book, you will find that Jukdo and Seokdo are not even mentioned, even though other places, including villages, mountains, rocks, valleys, and coves, are mentioned. In fact, Gwaneum-do (觀音島) is not even mentioned.
Therefore, I suspect that 竹島 and 石島 were not considered a part of any of the districts (面) on the "main island," but were just added to the list based on the 1900 proclamation. That may be why the line on the 1918 map put Jukdo outside the North District (北面).
By the way, if you search on 土地調査, you will get a lot of interesting hits. There may be some interesting information among those documents, which are mainly written in Japanese.
GTOMR,
The map and article are too blurred to really read, even if they are enlarged.
Correction: The link is for the "National Library of Korea Web" site, not "Korea's National University."
ReplyDeleteThanks Gerry for your commnet "(竹島 and 石島) were just added to the list based on the 1900 proclamation".
ReplyDeleteYes, that is another possibility.
If this was the case, the two Korean scholars may have taken a simple mistake and added (管轄)竹島、石島 [(jurisdiction) Jukdo, Seokdo] after the North district placenames without changing a line.
GTOMR さんの発掘してくれた資料について解説します。
ReplyDelete>>1903年の資料では15洞になっているようです。
1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報告
鬱島郡守 沈興澤氏가 內部에 報告하되 該島居民이 各處에 居하야 十五洞이오 戶數난 五百戶이고 所産之物은 麥太甘藿이라.
これを見ると1903年当時の鬱陵島の洞の数は15であったことがわかります。金基赫(キム・ギヒョク)・尹用出(ユン・ヨンチュル)論文「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」の1906年の地名の欄の洞の数は18なので1903年から1906年の間に洞の数15から18に変化したことになります。
となると1903年より前の1900年の地名の欄の洞の数が18になっているの不自然です。これは金基赫・尹用出両氏が1900年当時の公式の地名の書かれた資料を入手していなかった可能性を示唆しています。
となると1900年当時石島北面所属を記した公式の資料は存在しないことになります。石島北面所属の記述はただの書き間違いの可能性が高くなってしまいました。。。
The following 1918 report lists Ulleungdo as having ten islets (一0 嶼):
ReplyDelete朝鮮土地調査事業報告書
光武五年九月二十五日(1901년 09월 25일) 照會 第十一號 に「全島南北을 分界」とあるのは当時鬱陵島が南面と北面の二面に分かれていたということだと考えます。
ReplyDelete一方、光武九年陰九月二十五日(1905년 09월 25일) の報告書に「八月初十日에 本郡西面南陽洞居 金永學」とあるのを見ると1905年8月10日にはすでに西面が存在しており、南北西の三面制に移行していたようです。
金・尹論文の1906年が3面18か洞 、1914年が3面9か洞 という記述、 matsuさんの教えてくれた1906年9月28日付「官報付録」の、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勅令第四十九号 地方区域整理件
第一条 地方府域は別表のように整理せよ
(以下略)
光武十年九月二十四日
別表
慶尚南道
郡府名 鬱島 原面 九 現面 九洞
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
という記述をあわせて考えると1906年の最初の頃は3面18か洞だったが、1906年9月24日にはすでに3面9か洞に移行していたということかもしれません。
Gerry,
ReplyDeleteI got to know these days it become accessible to some item on National degital library for foreing ip. e.g
1906.大韓地誌 and 1941.江原道誌 I already uploaded it before.
But, There are still inaccessible to some items because of copyright issue or ip-blocked.
And I dont know why NL viewer doesn't work..
-----------------------
Considering that they had order to "13洞” they had 13洞 at 1900.06?
On the korean dokdo study propaganda file. see:no276
漢字が文字化けしてしまい読めなかったので、韓国語OSでHWPを出力してからWordに貼り付けてもらったのですが、
文書の説明に「この資料は鬱陵島視察委員 禹用鼎が鬱陵島を発つ直前に鬱陵島 13洞 洞民たちに 日本人と結託して不法行為をする者は処罰するということを知らせた訓令だ.」と書いてありました。
原文がどこにあるのかはわかりません。訓令 十三洞
本官이 來此數日에 詳察島中 前後事實 則日人之違犯章程과 侵虐居民은 已無可論 而亦不無島民之符同締結과 興訛作奸之所致也라. 言念此에 尤切痛歎이기로 玆以今飭노니 從玆以往으로 島民中 若或有符同犯斫이거나 嗾囑起鬧이거나 爲其使喚야 引鉅運木等 雇役之端이면 一從本島監指摘馳報야 卽爲移囚于釜山警務署야 分等嚴懲을 斷不饒貸矣리니 愓念擧行야 無至抵罪 爲宜事.
再此亦中 今此令飭 各其洞頭民 這這曉諭 于該洞民人等處 俾無一民不聞不知之弊 爲宜事.
yabutarouさん
ReplyDelete貴殿の紹介された杉野さんの『毎日申報』1913年6月22日の記事は、未確認文字が多いので、昨2008年夏、アジア経研の図書館で全文字
確認して参りました。このサイトの以下に投稿済みです。
一応、ご確認下さい。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/04/location-of-usando-unknown-in-early.html
常連の皆さん御無沙汰していました。ところで、日本の宇宙基地で「希望」のない実験を韓国にさせるのでしょうか。
http://www.chosunonline.com/news/20090419000009
National degital libraryで鬱陵島を検索すると1933年に書かれた「 島行政一斑」なる 鬱陵島の公式資料が出てきます。
ReplyDeleteこれの第一章沿革に隆熙元年(明治40年)1907年「慶尚南道ノ所管ニ移シ全島ヲ南西北の三面に分カチタリ」(三面18洞)と書かれています。
さらに1914年(大正三年)に三面9洞になったとあります。
1907年より前の光武九年陰九月二十五日(1905년 09월 25일) の鬱島郡守 沈興澤報告書に西面という記述が出てきますが、もしかするとこれは大韓帝国中央で公式に認められたものではなかったのかもしれません。
1906年9月28日付「官報付録」に「慶尚南道 郡府名 鬱島 原面 九 現面 九洞」となっているのはなぜなのか全く分かりません。
藪太郎様指摘の資料をすぐ見れるようにしておきます。
ReplyDelete1933.島行政一班 鬱陵島編ついでに、上述の
1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報告もリンクつけるの忘れていましたので貼っておきます。
Mr Gerry,
ReplyDeleteIf you know please advise where we can check those documents attached 禹用鼎's reports Jun1900on korean propaganda website here(see:no284)
戶口成冊 一件
起墾成冊 一件日人結幕人口成冊 一件
日人犯斫槻木成冊 一件
本島人犯斫成冊 一件
監務報告 一件
本島等狀 一件
日人事實 一件
pacifist,
ReplyDeleteThank you for the summary. Excellent.
Gerry,
Forgive me for not giving you detailed translation. It's too long, complicated, fast-changing, and difficult to catch-up/understand fully for me.
小嶋日向守さん
最近いらっしゃらないなぁ、と、ちょうど噂していたところです!皆さんの地道な努力で、色々な情報が集まってきています。
ところで、自分の頭の整理もかねて、皆さんが持ち寄った資料を、雑ですが年代順に並べてみました。
1899.10.03.鬱陵島 出張復命書 送付 件
東海岸 東海岸
東洞 18戶 25명 茂洞 2戶 3명
北海岸 北海岸
竹岩 1戶 3명 寧洞 2戶 9명
侘洞 1戶 4명 玄洞 1戶 20명
通龜尾 1戶 9명
1900年 資料 : ? 金基赫、尹用出「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」『文化歴史地理』(18巻1号 2006年4月)
2面18か洞 (江原道鬱島郡)
南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞
北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 (管轄)竹島, 石島
1900?訓令 十三洞本官이 來此數日에 詳察島中 前後事實 則日人之違犯章程과 侵虐居民은 已無可論 而亦不無島民之符同締結과 興訛作奸之所致也라. 言念此에 尤切痛歎이기로 玆以今飭노니 從玆以往으로 島民中 若或有符同犯斫이거나 嗾囑起鬧이거나 爲其使喚야 引鉅運木等 雇役之端이면 一從本島監指摘馳報야 卽爲移囚于釜山警務署야 分等嚴懲을 斷不饒貸矣리니 愓念擧行야 無至抵罪 爲宜事.
再此亦中 今此令飭 各其洞頭民 這這曉諭 于該洞民人等處 俾無一民不聞不知之弊 爲宜事.
1901.09.25內部來去案(16), 內部大臣의 外部大臣에게의 「照會 第11號」
光武 5年(1901) 9月 25日條
照會 第十一號
上年 十月에 貴部 第十五號 第十六號 照復을 連接와 敝部로셔 第十九號 照會 便爲仰佈왓더니 經年 關序에 如何신 照復을 尙靳시와 至今紆鬱온중 現接 鬱島郡守 裵季周 報告書 內開 本島가 僻在海遇야 島中居民이 只以耕田爲業 而近年日人이 數數往來야 或伐規木고 或侵居民之事狀을 昨年分 視察官禹用鼎 已所洞悉者也라. 伊時에 招集日人裁判 則 日人이 更勿侵漁之弊로 自服矣러니 視察官上京後로 在山槻木無一遺扁고 今年則 日人千餘名이 作黨突入야 全山南北分界와 七十餘戶 居生島中이고 分界之內 雖一草一木이라도 大韓之民은 勿爲犯斫케 고 島民尹殷中이 盖屋之事로 伐木作板이온즉 稱云渠山之木이라 고 勿犯케오니 大抵 渠國渠山之木이라도 不至此境이온 又況大韓之土地乎잇가. 日人之弊가 去去益甚이온즉 島中居民이 不得安堵야 至於渙散之境이고 大韓土地를 奪之於日人이온 故로 玆以報告오니 照亮신 後 特爲公決之地 伏望等因온즉 在島日人의 滋弊가 愈往愈甚야 犯斫木料 益無顧忌뿐더러 全島南北을 分界築室고 滿山木料 看作己有야 島中民 盖屋伐
木 을 還爲禁止라오니 言念及此에 不覺寒心이라. 大抵 在島無恤之日人을 若不撤還오면 全島五百戶數千名人口가 渙散乃已이기 前後仰照가 非至一再이온바 尙今延拖하와 爲弊滋甚에 閔有犯極온즉 公法所在에 該日人之行悖 實爲兩國之羞라 玆更仰佈오니
照亮신後 日本公使에게 知照시와 在島之日本亂民을 定期撤歸케 시고 示明시믈 爲要.
光武五年 九月 二十五日
議政府贊政內部大臣 李乾夏
議政府贊政外部大臣 朴齊純 閣下
1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報告
鬱島郡守 沈興澤氏가 內部에 報告하되 該島居民이 各處에 居하야 十五洞이 오 戶數난 五百戶이고 所産之物은 麥太甘藿이라. 其○○組織하난 節次난 人民의 方便을 隨하야 磨鍊하려니와 在鄕 各浦에 在한 日人이 六十三戶인 日日伐木이 無限故로 郡守가 來駐하난 日檢을 請하야 談辦하기를 外國人이 內地에 入하야 材木을 伐去이 當初不法일더러 今己設部하얏슨 則 鬱島郡守의 管轄하난바 已往事난 勿論하고 玆今以後로난 不可伐木이오 ○○도亦嚴禁하라한즉 日巡査言內에 此島內에 伐木이 已過數十年이오 又貴政府와 日公使가 交涉하야 ○○○○가 無한즉 巡査난 不能禁斷이라하니 日公使에게 照會하야 妥商하라하얏더라.
1905年8月10日 光武九年陰九月二十五日(1905년 09월 25일) の報告書
「八月初十日에 本郡西面南陽洞居 金永學」
1906年7月13日 「皇城新聞」
「鬱島郡의 配置顛末」
1906年 資料:『舊韓國地方行政區域名稱一覧』(1912) 金基赫、尹用出「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」『文化歴史地理』(18巻1号 2006年4月)
3面18か洞 (慶尚南道 鬱島郡)
南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞
西面 龜岩洞 南西洞 南陽洞 石門洞 台霞洞 通九味洞 鶴圃洞
北面 羅重洞(羅里洞の誤記) 石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞
1906年(光武10年)9月24日鬱陵島(鬱島郡)は「江原道」から「慶尚南道」に所属変更
1906年9月26日「皇城新聞」
鬱陵島戶口
鬱陵島郡守가 內部訓令을 承準하와 該郡境界位寘와 戶口 帳籍을 今年 爲始하야 一一 調査하였는데 男이 合 一千九百十六口오 女가 合 一千一百十 六口오 戶數가 六百十四戶라더라.
1906年9月28日 「官報付録」
勅令第四十九号 地方区域整理件
第一条 地方府域は別表のように整理せよ
(以下略)
光武十年九月二十四日
別表
慶尚南道
郡府名 鬱島 原面 九 現面 九洞
1907年「慶尚南道ノ所管ニ移シ全島ヲ南西北の三面に分カチタリ」(三面18洞)
(1933年 「島行政一斑」)
1911年 「鬱島郡誌」 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)
行政区域「西、南、北の三面十八洞より成り」
「地方行政區域一覧」
1911年 「地方行政區域一覧」(明治44年6月1日現在) 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)
欝島郡は南面、西面、北面の三面制
1911年 韓国水産誌
部落は島をXりて遊ひ其数二十余あり、之れを分ちて南、北、西の三面と為す、左の如し
南面 芋洞(モンゲ) 道洞(トドン) 沙洞(アリクサ・サトン)
新里(ジンイー)長輿洞(チャンフントン)
西面 通亀洞(トンキミ) 石門洞(ソクムン) 南陽洞(ナムヤントン)
南西洞(チョソトン)鶴浦洞(ハクボドン)台霞洞(ソーカトン)
北面 玄圃洞(カモンサキ・ヒョンボトン)薪村(シンウォン)光岩(クァンアム)
昌洞(エイセンチャン・チョントン)竹巖(テーアム・チュクアム)亭石浦(チョンポトン・チョンソクボ)
1912年 『舊韓國地方行政區域名稱一覧』 (旧韓国地方行政区域名称一覧)明治45年(1912年)朝鮮総督府発行の1985年復刻版
鬱島郡 三面十八洞里
南面・・・・道洞、苧洞、新興洞、沙洞、玉泉洞、長興洞(6)
西面・・・・通九味洞、石門洞、南陽洞、南西洞、○岩洞、鶴圃洞、台霞洞(7)
北面・・・・玄圑洞、平里洞、羅里洞、天府洞、石浦洞(5)
1914年 (大正三年)に三面9洞
(1933年 「島行政一斑」)
1914年 資料 : 『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』(1917) 金基赫、尹用出「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」『文化歴史地理』(18巻1号 2006年4月)
3面9か洞 (慶尚北道 鬱島郡)
南面 苧洞 道洞 沙洞
北面 玄圃洞 羅重洞(羅里洞の誤記) 天府洞
西面 南陽洞 南西洞 台霞洞
もうひとつ、「石島が北面に属する」という論文を見つけました。
ReplyDeleteしかも『独島研究』なる雑誌に載っています。
南京蘭(ナム・ギョンナン)「鬱陵郡地名研究」『独島研究』第4号(2008年6月30日刊)
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といっても、実は、これは『鬱陵郡誌』(2007)と同じ内容の論文です。
『鬱陵郡誌』と同じように、1900年の、北面に「竹島 石島」が書いてあります。
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左の194ページの真ん中 (私のスキャンが下手くそで、よく見えなくてすみません)
しかし、こちらの『独島研究』のほうが長くて詳細で、どうやら、これが本来の論文で、その圧縮版(ショート・バージョン)が『鬱陵郡誌』に先に載ったのではないか、ということのようです。
よって、新しい論文を見つけたと言うよりも、藪太郎さんが見つけた『鬱陵郡誌』は、実はこの人が書いたものだということがわかった、という言い方をしたほうが良いかもしれません。
南京蘭(ナム・ギョンナン)氏は、最初のページの注に、嶺南大学校 民族文化研究所 学術研究教授、とあります。
『鬱陵郡誌』では鬱陵島の方言についても書いており、国語・国文学の系統の人のようです。
この論文「鬱陵郡地名研究」は、現地調査により、足で稼いだ、地名研究としては、非常に面白い内容だと思います。しかし、1900年のことを語る歴史の論文としては、杜撰さが目立ちます。
上記のように、初めの部分では、1900年の北面に、「竹島 石島」が書いてあります。しかし、本文の「北面」の部分では、まったく「竹島 石島」に触れていません。
「北面」の翻訳(211p)
1900年10月25日、郡制が始まると、この島を、
石浦洞の南の尾根を西南方向に上って行き、島の最高峰である聖人峯を経た後、
西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺、老人峯をすぎ、台霞洞の馬岩と南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その南を南面とし、その北を北面として、石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃の7つの洞里を管轄するようになった。(翻訳終わり)
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このように、1900年に「北面として、石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃の「7つの洞里」を管轄するようになった。」と記述しています。「竹島 石島」については、どこにいってしまったのか、全くふれていません。
参考に、「北面」の続きを翻訳して書いておくと、以下の通りです。
1906年、行政区域を再編し、聖人峯を中心に北東側境界はそのままにして、聖人峯の北面側の弥勒山、錐峯を経て香木嶺の終わりまでを境界として、その南側を西面とし、その北は北面として、(北面は)石浦 天府 羅里 玄圃 平里の5個洞を管轄するようにした。
また、1914年、郡面廃合により、平里を玄圃里に、石浦を天府洞に、羅里洞はそのままにして改編し、それぞれを3区に分けて3洞9区制となった。さらに、1952年4月、地方自治体実施により区制を廃止し、天府3か洞、玄圃2か洞、羅里洞の6か洞とした。さらに1965年10月、また天府洞を4か洞に、玄圃を2か洞として新しく設置し、羅里洞を「統」として、7洞1統制を実施してきた。1968年、羅里統を洞に変えて、8つの行政洞として編制したが、現在は里制を実施している。(翻訳終わり)
実は、もとの『鬱陵郡誌』のほうにも、この部分の記述は入っています。(98p)
ただし、これらの記述について、その、もとになる史料を、まったく注記していません。この人は、いったい何を見て、この文章を書いたんだろう、と、本当に、切に、思います。1900年段階で、このように具体的、かつ厳密に、行政区域を規定する、というようなことを、はたして大韓帝国はやったんだろうか、と心底思います。
鬱陵邑(南面)と西面についても、翻訳しておきます。
鬱陵邑(197p)(南面)
1882年(高宗19)鬱陵島開拓令が頒布され、島長制を実施した。1900年10月25日には、郡制を実施し、苧洞の臥達里の北側の尾根を南に向って登り、最高峰である聖人峯を経た後、西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺を経て、台霞洞(現 台霞里)の馬岩と、南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その西側を西面とし、その東側を南面として、道洞、苧洞、沙洞、新里(ママ新興か)、長興の5か洞を管轄した。1914年、郡・面廃合により、苧洞、道洞、沙洞の3か洞に統合し、各洞ごとに、3区に分けて3洞9区制を実施した。1952年4月、地方自治体実施により区制を廃止し、道洞2か洞、沙洞2か洞、苧洞はそのままにして、5か洞に編制した。1961年、道洞、苧洞、沙洞を自然部落、または洞勢により、それぞれ3か洞に改編し、9の行政洞として編制した。1979年5月1日、鬱陵邑に昇格して現在に至っている。
訳注:1906年の記述がない。この記述には、混乱か、抜けがあると思われる。
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(右ページの下)
西面(205p)
1906年、地方行政区域を整理して、南面の南陽、石門、通九味、西面(ママ南西か)、龜岩の5か洞と、北面の台霞、鶴圃の2か洞を編合して、西面を新たに設置した。
1914年、郡・面廃合により、通九味、石門、南陽と、南面の長興洞の一部を編合して南陽洞(現 南陽里)に、南面(ママ南西か)・龜岩を編合して南西洞に、台霞・鶴圃を編合して台霞洞(現 台霞里)に、改編した。その後、区制実施により、南西洞を2区に、南陽洞と台霞洞をそれぞれ4区に分け、3洞10区制となった。1952年4月、地方自治体実施により区制を廃止し、南西洞を2か洞、南陽洞と台霞洞をそれぞれ3か洞にして8か洞とした。1960年8月に、台霞洞を2か洞に改編し、7の行政洞とした。台霞洞は、1882年開拓令が頒布されると最初に移住してきた住民たちの本拠地であり、1902年まで鬱陵島の行政中心地であったため、鬱陵島では本来の土俗的な姿が最も多く残っている所である。
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(右ページの下)
この論文は、先にも述べたように、現在の鬱陵島の125の地名について、現地調査により、住民の証言から、その「由来」をのべた論文です。とても面白い論文ですが、この125の地名の中には、独島も石島も入っておらず、考察の対象外のようです。
この著者は、「石島が北面に属する」ということの持つ意味の重大性を、全く理解していないのではないかと思います。
やはり「史料操作の杜撰さによる間違い」だと思います。
それにしても、『鬱陵郡誌』はともかく、『独島研究』なる雑誌が、まったくノーチェックで、こうした記述を、よくもまあ、載せるものだと思います。
訂正です。 というより追加といったほうがいいかと思います。
ReplyDelete「竹島」(竹嶼)についての記述があります。
3-2-1)鬱陵邑の(2)苧洞のところに(200p)
「テソム」(注:竹島、という意味の韓国語)は、臥達里(ワダリ)の海岸から2キロメートルはなれた海中に位置する島で、本島と違い平坦なほうである。火山岩で河川がなく飲み水がないため、雨水を受けて利用する。その沿岸の水深はとても深く、開拓当時、竹が全島に生えていたため「竹が多い島」という意味で「テソム」と呼ぶようになった。
とあり、204pの一覧表では
テソム 竹が多い島 (異称)竹島(チュクト) とあります。
この論文は、現在の地名をならべて、その由来を述べる論文ですから、「竹島」(竹嶼)が鬱陵邑(旧南面)に属するのは当然ではあります。
1900年に「北面」に属していた「竹島」(チュクト)はどうなってしまったんでしょうか?
なお、125の現在の地名の中には、「石島」も「独島」も記述はありません。「石島」は現在の地名ではないからでしょうし、「独島」の地名の由来については、各所に書かれているので、記述の必要は無いと思ったのではないかと思われます。
1900年10月25日、郡制が始まると、この島を、石浦洞の南の尾根を西南方向に上って行き、島の最高峰である聖人峯を経た後、西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺、老人峯をすぎ、台霞洞の馬岩と南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その南を南面とし、その北を北面として、石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃の7つの洞里を管轄するようになった。
ReplyDeleteこの文章を読むと南京蘭(ナム・ギョンナン)氏は1900年時点での南面・北面の境界線がどこにあったかについての情報を入手しているようですが、それが何なのか分からないのは困ったものです。
1906年、行政区域を再編し、聖人峯を中心に北東側境界はそのままにして、聖人峯の北面側の弥勒山、錐峯を経て香木嶺の終わりまでを境界として、その南側を西面とし、その北は北面として、(北面は)石浦 天府 羅里 玄圃 平里の5個洞を管轄するようにした。
「聖人峯を中心に北東側境界はそのままにして」とあるのが重要です。これは1906年の行政区域再編で北面と南面との間の境界に変更がなかったことを意味していると思います。
竹嶼は現在南面の苧洞所属であり大正7年( 1918年)の陸地測量部の鬱陵島図にも竹嶼は南面所属になっています。
南京蘭(ナム・ギョンナン)氏のこの文章が事実であってなおかつ1914年の行政区域再編で北面と南面との間の境界に変更がなかったとすれば1900年当時竹嶼は南面に所属していたはずです。
となると竹島(=竹嶼)石島北面所属の記述は不自然ですね。。
これはもともとただのミスプリントだったものが、私が気が付くまで誰も気が付かずに様々な論文や書籍に引用されてしまったもののように思います。。。
もっとも、典拠が示されていないので断言はできませんが。
なお、125の現在の地名の中には、「石島」も「独島」も記述はありません。「石島」は現在の地名ではないからでしょうし、「独島」の地名の由来については、各所に書かれているので、記述の必要は無いと思ったのではないかと思われます。
ReplyDeleteそうでしょうか?『独島研究』は読んで字のごとく独島について研究したレポートであって鬱陵島についてのものではありませんから、「独島」の地名の由来について書かれていないのは明らかに不自然であると私は思います。
私はジェトロ図書館で慶尚北道の地名の語源について現地調査により、住民の証言から、その「由来」をのべた本を見つけました。
そこには洪淳七(ホンスンチル)の証言として「石島」=「独島」説が載っていました。
しかしながら私の集めた洪淳七(ホンスンチル)の手記の文章を見る限り、手記では1940年代またはそれ以前の話として語られている文章にも、1970年代頃の韓国における竹島=独島問題の研究水準が反映されているように思います。
is it correct or not that those place of name in "independent newspaper" on 1897 as follows?
ReplyDelete져포동,도동리, 샤동, 쟝흥동,남양동, 현포동, 퇴하동,신촌, 광암리, 텬부동, 락리동、(1개동 누락、)
Jeopodong, Dodongri, Shadong, Janghungdon, Hyeonpodong, Twehadong, Shinchon, Gwangamdon, Tyeonbudong, Rakridong ,one is missing
苧?洞 道洞里 沙洞 玄圃洞 台霞洞 新村 光岩洞 天府洞 亭石洞 羅里洞 (1個洞 漏落 地名一個がわからない)
I got a copy of Prof. Nam Kyeung-lan's article from matsu and re-scanned.
ReplyDelete表書奥付1900年 南面/北面 (p194-195)鬱陵邑(p197)(南面)西面(p205)北面(p211)As yabutarou noticed, her description about Ulleungdo's 2 villages(North and South) in 1900 has very unique from the one in 1906. She doesn't give us any sources she referred, so we can't figure out how she wrote this part. Are there any historical documents which shows the situation of villages and placenames of Ulleungdo in 1900 or not? If there is, does it say about Seokdo being placed in North Village?
Thank you Kaneganese, the images are much more clearer.
ReplyDeleteWhat I wanted to say here is as below ;
This article of Nam Kyeung-lan is the same one as Yabutarou-san has found.
See 1900(194p), it appears the same way that Chuk-do(竹島) and Seok-do (石島)belong to Buk Myeong(北面), the North district.
I think this article is a long version of 『鬱陵郡誌』(2007)and it describes more.
In the description of Buk Myeong (北面) (p211), she shows how to divide the North and South District in 1900.
This is the first information we have got and is very interesting. But Mis. Nam doesn’t show the original document she depended on.
And she doesn’t say “ 竹島and 石島 belong to 北面” in this part.
So I guess the first part she says “竹島and石島belong to北面” is only a miss copy of "조선-일제 강점기 울릉도 지명의 생성과 변화" (朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化) in 『文化歴史地理』문화역사지리 제18권 제1호(2006)
written by 김기혁 and 윤용출,
which has also a misprinting “(管轄)竹島, 石島” is wrongly placed.
Nam’s article is very interesting as a study of Ulleungdo’s place names.
But I think she didn’t even know the importance of describing ‘Seokdo belongs to the North district’ in Dokto issue.
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Kaneganeseさん ありがとうございました。
南北両面をどう分けるか、という記述について、彼女は、何らかの文献に基づいて書いているのは確実です。
(北面の記述)(p211)
1900年10月25日、郡制が始まると、この島を、石浦洞の南の尾根を西南方向に上って行き、島の最高峰である聖人峯を経た後、西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺、老人峯をすぎ、台霞洞の馬岩と南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その南を南面とし、その北を北面として、石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃の7つの洞里を管轄するようになった。
この部分は、これまで知られていない情報であり、正確に翻訳しているつもりではありますが、皆さんに、これでいいのか検証してもらいたい気持ちもあります。
また、地名を全部、漢字化して翻訳してしまいましたが、原文はハングルです。
この部分について、南京蘭氏は1900年のこととして書いていますが、
私は、おそらく1906年以降、あるいはもしかしたら1914年以降の、「日帝時代」になってからの、日本側が作成した文章を、1900年のこととして書いているのではないかと推測しています。
禹用鼎の視察直後の1900年の大韓帝国が、このような、具体的にして厳密な文章は書かない、と思っています。
また禹用鼎は、あの日程の中で、内陸部の調査を、ここまで精確にはできていないと思います。
GTOMR san,
The names are correct. You can see the list of the names in 独立新聞 on 表10 in p51 of Kim Ki-Hyuk’s article.
And there’s also a description about the information of 独立新聞 on p 50. 表9.
But the order of 漢字名称 you have shown is different.
>1900年の大韓帝国が、このような、具体的にして厳密な文章は書かない、と
ReplyDelete当時、「郡」までは法令で決められていたが、その下の面や洞の設定は誰が決めていたんでしょうね? 郡守の権限だったかも知れません。そうすると、それほど厳密な規定があったわけではなく、実際上取り扱われているところによる、という状況だったかも知れないですね。
それで、南面・北面の区分も法令の類ではなく、単に実務上の書類という形で存在し、論文執筆者もそれを見た、ということかも。
以上、一つの推測です。
matsu さん
ReplyDeleteこの部分について、南京蘭氏は1900年のこととして書いていますが、私は、おそらく1906年以降、あるいはもしかしたら1914年以降の、「日帝時代」になってからの、日本側が作成した文章を、1900年のこととして書いているのではないかと推測しています。
これについては私も全く同意見です。典拠が分からなければ信用しようがありません。
ところで南京蘭(ナム・ギョンナン)「鬱陵郡地名研究」で紹介されている鬱陵島の125の地名の「由来」の内、全羅道方言に由来するものはどのくらいありますか?
「石島」が「独島」になったのは全羅道方言に由来するものであるという韓国側の主張が正しいのであれば、鬱陵島には他にも全羅道方言に由来する地名がそれなりにあるはずです。
もし、1900年段階の、南面と北面を分ける当時の文書が本当に存在していて、韓国側の主張通り、石島が独島なのだとしたら、当然に「管轄区域」である「竹島 石島」については、「南面」に属するものとして記述されていなければならないわけです。
ReplyDelete逆に、「南面」に、「石島=独島」の記述がないとしたら、1900年段階では「独島」についての把握が出来ていなかった、という証拠のひとつにもなります。
そうは言っても、そんな文書はきっと無いだろうな、と私は思っていますので、こんな話も、ただのたわごとですが。
藪太郎さんのおっしゃる方言的な由来については、論文の中には、書いてあるものはほとんど無いように思います。論文全部を精密に読み切った訳では無いのですが、これは「現在」の125の鬱陵島の地名についての考察なので(2005年から2006年にかけて現地調査した、と書いてあります)、方言的な由来についての関心は、筆者にはあまりないようです。
それにしても「鬱陵邑」の記述で、1900年にあたる部分と、1906年にあたる部分が混乱しているようなのは残念です。
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鬱陵邑(197p右下にあり)(翻訳 再掲)
1882年(高宗19)鬱陵島開拓令が頒布され、島長制を実施した。1900年10月25日には、郡制を実施し、苧洞の臥達里の北側の尾根を南に向って登り、最高峰である聖人峯を経た後、西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺を経て、台霞洞(現 台霞里)の馬岩と、南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その西側を西面とし、その東側を南面として、道洞、苧洞、沙洞、新里(ママ新興か)、長興の5か洞を管轄した。1914年、郡・面廃合により、苧洞、道洞、沙洞の3か洞に統合し、各洞ごとに、3区に分けて3洞9区制を実施した。1952年4月、地方自治体実施により区制を廃止し、道洞2か洞、沙洞2か洞、苧洞はそのままにして、5か洞に編制した。1961年、道洞、苧洞、沙洞を自然部落、または洞勢により、それぞれ3か洞に改編し、9の行政洞として編制した。1979年5月1日、鬱陵邑に昇格して現在に至っている。
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「1900年10月25日には、郡制を実施し、苧洞の臥達里の北側の尾根を南に向って登り、最高峰である聖人峯を経た後、西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺を経て、台霞洞(現 台霞里)の馬岩と、南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、」は北面の記述と同じことを言っていますが、
このあとには、「北面」と「南面」を分ける記述が続かなければなりません。ところが、突然「西面」の話になってしまうのは、1906年の記述と混同してしまっているためと思われます。
また、南北両面を分けるにあたり、この鬱陵邑の記述「苧洞の臥達里の北側の尾根を南に向って登り」と、北面の記述「石浦洞の南の尾根を西南方向に上って行き」の「尾根」は、結局は「同じ尾根」になるのだと思いますが、島の北東部の一部が抜けてしまうようにも思います。
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さて、方言的由来、というわけではありませんが、
3)北面、(1)天府洞に(211p)
「カッセソム・観音島」 という項目があり、面白いので翻訳します。
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「カッセソム・観音島」は、ソムモクの海岸から100メートル離れた所にある、周囲が約800メートル程度、地勢が平坦な無人島で、島の形は、まるで左の足の裏のようである。深く掘れば水が少しずつ湧き出してくるので、水の味は塩からいが、それで飲料水の問題は解決することになる。開拓当時、慶州から入島した金さんという人が、船に乗って漁をしていて台風にあい、この島に避難した。寒さと飢えに震えていたが、夜になって火をつけると、カッセが数知れず飛んできて、餌を探しているところをつかまえ、焼いて食った所、とてもうまかったので、以後、この島にカッセをつかまえにやってきたということだ。カッセがたくさんいる島なので「カッセソム」(カッセ島)と呼んでいたが、いつしか「カッケソム」と呼ぶようになった。「観音島」という。
217pの一覧表
カッセソム カッセが多い島 異称 観音島
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カッセは、鳥の名前で、島の住民を飢えから救ったという、
禹用鼎の言う「鶴鳥」、皇城新聞1899・9・23に出る「霍鳥」だと思います。
観音島については、ただ「観音島という」、と書いてあるだけで、由来はありません。
駄コメを少々。
ReplyDeleteこの「鬱陵郡地名研究」の序文の冒頭には、「この論文の目的は、鬱陵郡の地名の由来と特性を明らかにするところにある。」とありますが、実際問題として、いったい何のために書かれたんでしょうね。
普通に考えられるのは、
(1)鬱陵島の地名の変遷が研究者の関心を引く価値があるものであって、研究者には別に竹島/独島問題と関連づけるつもりはない。
(2)鬱陵島の地名の変遷を通じて竹島/独島の領有権の歴史的根拠を見出そうとした。
のいずれかと思われるわけですが、どうも良く分からない。
それでも、今まで判明している内容からすると竹島/独島に関する説明がないわけだから、(2)ではなく(1)の可能性の方が
いくぶん高いように思われる。しかし、そうだとすると、今度は、それがなぜ「独島研究」という雑誌に掲載されたのかが分からなくなる。
「独島研究」の側が、鬱陵島に関する論文だからウチの雑誌に載せてよと頼んだ結果、そういうことになったんでしょうかね。
>韓国側の主張通り、石島が独島なのだとしたら、当然に「管轄区域」である「竹島 石島」については、「南面」に属するものとして記述されていなければならない
ReplyDelete韓国側の主張をあらかじめ代弁しておきます(笑)
「あのような遠い島に南面も北面もない。郡庁の直轄だから、郡庁のある台霞洞が属する北面に分類しただけだ。」
It maybe by the auto-translation text as follows; (i dont know why I cannot access the website)
ReplyDelete1921.11.01 동해의 一點碧인 鬱陵島를 찻고서 島内 一周の 四日間
太陽の熱をバッヌン 海面の 水蒸気, 聖人峰頭をゴッチルゾックごとに ??このゆりは ?雨. 数日の間を置いて 遠方来客の 困憊をプルオズムも満足するがまた 霽天の 軽風は 颯颯が 吹動下は 無冠宰相の 短策を 催促下野先に 北路を開いて 全島を料理するに値する 気焔を 吐するようにする. 道庁後山麓に今年や 一般夫の 開通地で 名伝する 沙工すごくという 杏南洞の 連鱗一 八板家を 俯瞰とまた方向を 変下は 等外新路から 苧洞(仕えるように)で移って 村翁の 指端に付いて 日露戦役に 爆沈になった 露艦の 戦跡を見物してまた 窮谷の悪路を踏んで 臥逹嶺に今年や 臥牛形の 竹島(大島)をゾマングハヤッダ. 竹島は 目下 本島 農会の 所有冬苗圃で竹林が 繁茂と森林その他 木茸と薬剤が 多産する外に 大豆と 玉蜀黍の作物も 不少下はこれだけでも 一家産の生活が 裕足ならないと言う. 島内には 朴在天と言う(のは)者が 本島開拓と同時にこの 無人島に入って行って 一戸を 新説と今まで結構自由な生活を享楽すると言う. しかし途中には植樹がアップソで警察署から一周 一桶水の供給をバッウムはあまりにも残念だ. また 石圃洞で向ける道に無人島である 観音島と 三本立の 怪岩を 一 一瞥と 燭台形の 竹岩を経って往年 慶北視察使 尹始炳が 本島を観察する当時記念でイルホム至恩 天府洞を 環視と 〓船倉という 昌洞の客舎で 一泊するようにドエヤッダ. 昌洞は 北面の中心地で村役場と警察貫珠再訴が引き継ぐ外に 目下 伸縮中の私学が引き継ぐ. これを 飢者甘食というのか 記者の 甘食というのかオッドトンジ 朝夕で食卓に上がるクァックセゴギと 貼鰒の 珍錯が 客子の欧米をドドオズムは実に 昌洞主婆の食べ物腕前を発揮することガッダ.
二日は幸いが 朴敬鎭軍医 指路にまた 于山古都の 洪門洞(本名 紅箭門洞)を経って 高坂を越して 石屏と 雲林に包囲された 羅里洞(一名 白合洞)の 大噴火口に入って行って 入島後 初めされる 白雲深処 七十余戸の 山村を見物をしてその道にすぐ 小羅里洞で移って 大噴泉を蹴るとドルオガッダ. この 湧泉の 水量は 一次の 十斗以上を超過して一度この睡眠に近付けば 骨冷, 魂清, 幻世のヌッギムを 堪禁する数が負う. こちらから海岸にゆり語 腹背で 漁船を 呑吐する<76> 孔岩と 意気沖天一 錐山(錐山)の 奇絶を 歴見と 光岩で 午餐を遊び歩いた後つい 朴君を去るようにドエヤッダ. 今後私の動作をがティするようになったことはただ 三尺を 短?だけだ. 生面江山でこのように 朴君の 慇懃一愛を海表示は千万案外だと思う私は 満腔の 謝意を示して 急急が 前路を聞いて 平里をゴッチオ 老人峯をヨブヘドで 玄圃洞(ゴムンゲ)にイルウロ 暫間 歇脚する道に海岸の 暗黒一 水石と 于山時代の遺物である 古墳の 数箇所を 一望とこちらから 香木洞の通路と 分岐になった 台霞洞の行路を 一貫下野 黄土坎(黄土金)を越して 台霞洞でナリョがで 一泊ハヤッダ. 黄土坎は鯨 海賊 捜討使が一次本島に入ればバンダの時こちらで 黄土を 取下野 帰朝後 鬱島賊捜討の証拠物をして 献上ハヨッダヌンデこの 黄土こそ 金色が 玲瓏一 纎塵が 浮動下は一見に 珍奇物でブェになる. 台霞洞は 本島 開拓初に 先着居民中 崔雲〓という者が自称 乗霞天台仙といって 洞名を 台霞だとハヤッダする. 本洞は 水稲が 油油一 洞内の地形図比較的 平坦したうえでしたがって 開島と言う文物が一番 賑盛した 邑市イヤッヌンデアズックも 百六十戸に 近一農村の状態があまり 彫残寸抱いてブェでまた 朝鮮新教育令を超越すると 日鮮共学制が実施されたことはあまりにもセサムスロブオブェインダ. 警察官 駐在所前に 建在一 城隍祠には 距今 七十余年前に 捜討使 南昊が 率来ハヤッダが 本洞 港で 溺死一 通引, 妓生のもうろくを慰安するという違令物で今まで 衣裳 二件が 依然がゴルニオイッヌンのはそれさえも 本島の 一箇 旧蹟距離(通り)になると言う. しかし常時 港内には風浪が 激高下野交通相不便がひどい欠陷にすると 往年 島庁を 道洞に移転した後 市況はまた 昔日の繁栄を見る数が負うようにドエヤッダ.
三日 アツムは 台霞洞 清渓川下流で 濯足と 軽歩をオムギオ 南陽洞で向けると進む途中に 不意驟雨の 沮止にあってから 半?にやっと 台霞嶺を越すとまた 怒号する 山風は 深壑をウルニオ 万?が起きて海面をドイドブホ ??この 蒸上する 怪霧は 全山を 一種二種 ?囲下は激甚にも行人の 魂胆を 戦慄するようにする. これこそ 天台麻姑の 幻戯がおこらないかハヤッダ. 夕陽は足で 樹枝にゴルニで 雨水に 流流になった 山路はマッツムネ険悪下野漕ぐ. する数アップシ 鶴圃洞, 水層洞, 亀岩 など香炉を変更すると 南西洞を経って 南陽洞で 直向. 私は廉恥を冒して 西面長 申泰翼君の助けを海 一夜の冷えないオッゲドエヤッダ. 南陽洞は 西面 十区の中心地で村役場がこちらに引き継いで 四十余名の青年を収容した私立学院が引き継ぐ外にまた閉校とダルムアップヌン 日人の小学校 名色も 一箇所が引き継ぐことをボアッダ.<77>
GTOMRさん
ReplyDelete鬱陵島の地名がたくさん出てくる面白い資料の紹介ありがとうございます。
なかなか接続しにくかったのですが、何回かトライして、入れました。
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-ma_13_041_0140
『開闢(かいびゃく)』という雑誌に載った鬱陵島探訪記のようです。
1923年は大正12年。掲載されたのは11月1日号ですが、記事が遅れて申し訳ない、と最後に謝っており、この年の夏の鬱陵島への旅行記のようです。
行政区画が変わった1914年からは9年しかたっておらず、その資料が残る1917年の『新旧対照~』からは6年後で、当時の地名や鬱陵島の有様が、興味深く描写されていると思います。
漢字をひろっても、ある程度意味は通ると思いますので、最後にのせておきます。
書いたのは、「李乙」という記者で、
出発したのが、夏至の後に来る3番目の庚(かのえ)の日である「初伏(チョボク・초복)」日午後1時、とありますから、7月中旬のことでしょう。
4日間で鬱陵島を陸路一周し、(7月)26日、帰路についたとあります。
出発地が、朴世堂の僧侶でも有名な「寧海」、そこから「竹邊」をまわって鬱陵島に入っているのも、昔からのルートがそのまま残っていたのでしょう。
翌日午前9時、道洞着。道洞で数日休んだあと、「島內一周の四日間」となります。
解らないところは適当にごまかして、とりあえず翻訳してみます。
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太陽熱を受けた海面の水蒸気、聖人峰頭を経るごとに降る雨は、数日の間を置いて遠方来客の困憊(疲労)を解くに満足させたが、また(天気がはれて)霽天の軽風が颯颯と吹動し、無冠宰相(記者のこと)の短策(探策?)を催促する。
まず北路を開いて全島を料理する気焔を吐こうと、道庁の後の山に上り、一般夫の開通地と伝える沙工を越え、杏南洞に連鱗する八板家を俯瞰し、また方向を変えて等外新路から苧洞(モシゲ)を越え、村翁の指差す日露戦役で爆沈したという露艦の戦跡を見物して、また 窮谷の険路を踏んで 臥逹嶺に登り、臥牛形の竹島(テソム)を眺望した。
竹島は、目下、本島の農会の所有する冬苗圃で、竹林が繁茂し、森林その他木茸と薬剤が多産する外に、大豆と玉蜀黍の作物も少なくない。これだけでも一家産の生活が裕足すると言うことだ. 島内には朴在天と言う者が、本島開拓と同時にこの無人島に入って行って一戸を新説(新設?)し、今まで結構自由な生活を享楽すると言う。しかし、島の中には食水(飲料水)がなく、警察署から一週に一桶の水の供給を受けているのは、まさに遺憾なことではある。
また石圃洞に向かう道に、無人島である観音島と三本立の怪岩を一瞥し、燭台形の竹岩を過ぎ、往年、慶北視察使 尹始炳が 本島を観察した当時、記念に一毫したという天府洞を環視(ひとまわり見て)、芮船倉ともいう昌洞の客舎で 一泊することとなった。昌洞は、北面の中心地で、面事務所と警察官駐在所がある外に、目下新築中の私立学校がある。
これを飢者の甘食(Hunger is the best source)というのか、「記者」の甘食というのか(記者なんぞは何を食べてもうまいという)、いずれにしろ、朝夕に食卓に上がるクァックセ(=カッセ「霍鳥」)の肉、貼鰒(=全鰒 あわび)の珍味が、客子の食欲をそそったのは、まさしく、昌洞の主婆(宿のおかみさん)が、料理の腕前を発揮したのではあった。
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もう、くたびれたので、このへんにします。
漢字をひろっても、ある程度意味は通ると思いますので、お楽しみ下さい。
「所謂 小王國の 沿革」として歴史を語っている部分がありますが、もちろん、当然ながら、「獨島」なんぞは出てきません。
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「開闢」第41号 1923年11月1日発行
http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=NIKH.DB-ma_13_041_0140
잡지명 개벽 제41호
발행년월일 1923년 11월 01일
기사제목 동해의 一點碧인 鬱陵島를 찻고서
필자 李乙
기사형태 논설
동해의 一點碧인 鬱陵島를 찻고서
李乙
동해에 突出한 鬱陵島야 너는 잘 잇드냐. 깁흔 곳에 숨은 네 얼골 속절업시 그리워하던 나의 열정 뉘라서 알아주랴 만은 琴湖, 兄山의 광야를 돌아서 日月, 石屛의 天險을 넘어 산 거듭, 물 거듭 文化調査의 거름, 今日이 나로서는 千載一遇의 絶好機이다. 더구나 아모리 하야도 結緣의 길이 업뎐 成年總角的인 나로서 맛츰내 너의 선을 보게 되얏슴에야 그 狂喜가 엇더하랴.
海國一夜의 인류애
출발점을 寧海 大津港으로 하게된 때는 正이 初伏日 下午 一点이얏다. 부두에 列立하야 一路平安을 齊祝하는 當地 인사 다수의 성원을 어든 나는 朝鮮郵船金海丸우의 一人이 되야 사정업는 기적 一聲 어느덧 觀魚臺를 뒤에 두고 竹邊을 향하야 北走한지 須臾에 다시 羅針을 돌니어 東折하야 烟波千里를 一瀉하얏다. 이로부터 斗轉月落刻 一刻 밤이 깁허지자 아아 의외 태산가티 일어나는 淘湧蕩漾하는 怒濤激浪은 점점 위험을 가하야 온다. 원악 船暈에 强氣가 부족한 나의 短軀는 발서 風打浪打 依地업시 寢臺中에서 격거못보던 회전운동을 시작하야 寸暇를 겨를치 못하얏다. 이것을 나의 약점에 붓칠 뿐이랴. 二百十七噸에 불과한 선체의 公麽를 凌駕하는 샙바람(南風)의 亂暴에야 엇지하랴. 그러나 一毛의 利를 다토던 이방인도 囊槖을 기울이어 慰耤하며 避席外面하야 제법 예절을 찻던 남녀도 서로 붓들고 呼天한다, 이러케 동일한 경우를 당한 舟中은 도리어 동병상련 四海一室의 자애가 橫溢하는 것 갓다. 이해의 충돌, 빈부의 차별, 계급의 爭鬪, 懊惱, 憧憬, 咀呪의 세계로부터 버서 난 이날 밤, 그야말로 나의 반생을 처음 늣긴 刹那!
해면에서 一瞥한 全島의 外形
一寸의 縷命을 櫓頭에 걸어노코 鰐浪鯨波에 나붓기어 가즌 고난을 備嘗하던 一夜는 다시 風靜浪息의 曙天으로 옴기어 彼岸에 접근하야 온다. 入港의 준비를 豫報하는 기적소리에 驚起한 나는 蒼皇이 갑판 우에 올나서서 망원경의<74>힘을 빌어 멀니 鬱島전체의 외형을 一瞥하얏다. 一手로 움킬 듯한 全島의 影子속에 凸峯凹壑이 원시림의 萬綠에 포위되야 紅日로 더부러 빗을 다토는 선명한 山色, 層岩絶壁이 병풍과 가티 茫洋한 해양 중에 둘니어 兀硉한 孤島를 수호하면서 侵迫하는 怒濤를 격파하야 永㥘의 戰을 지속함은 恰似 이 지도상으로 본 『지불올타』가 연상되며 따라서 絶海千秋의 로맨쓰가 적지 안은 別區로 알어진다.
山門이 半開된 道洞港
竹邊에서 一折하야 七十六浬의 전속력으로 풍랑을 破碎하고 寸寸推進하는 기선은 어느덧 曉色이 稀薄하야 오는 해안을 迂回하야 上午 九時 예정대로 道洞港에 碇泊되얏다. 가는 곳마다 四顧無親한 나에게 남달니 주는 것 업시 고맙은 사람은 경찰계의 종사자들인 듯 하다. 피난처로 알고 안심하야 상륙하는 약자를 붓들고 『당신이 00씨 이지요. 숙소는 어듸로 하실 터이오.』라고 뭇는 소리는 다시 蓬萊島의 眞境을 차자 들어오던 俗客의 신경을 變動케 하는 것 갓다. 그러나 엇지 되얏던지 절에 간 색시的인 나는 그들의 인도하는 대로 客苦를 풀게된 것만 다행으로 역일 뿐이다.
듯듯듯 거 건 듯건듯건댄 道洞(본명 道房)은 최초 日本人 岩鶴이란 자가 鳥取縣 방면으로부터 도래하야 이 곳에 雜貨商의 貨房을 舖設한 후 도민 다수가 蝟集하야 互相 교역함으로 本洞名을 道房이라고 하얏다 한다. 目下 洞內의 주민은 朝鮮人 百二十戶, 日本人 百三十七戶가 잇다. 本洞은 비룩 峽中에 介在하얏스나 全海岸中에 船隻出入의 가장 이편을 주는 관문이 되는 관계상 台霞洞으로부터 官公署가 이곳으로 移設된 후 수산조합이며 釜山稅關出張所도 본항 내에 逐次 排置되고 다시 日露戰時에 敷設되야 元山을 경유하야 각지 陸線을 연락하는 海底電線이 이곳으로 통과되고 또한 內日本의 境港과 직통되야 월 일회의 생산품무역의 互市를 개시하고 쌍방의 경제적 調和를 力圖하는 것이며 다시 매주<75> 定期郵船의 寄港日을 市日로 하야 내외의 物産이 집중됨을 보면 本洞은 실로 一島中 유일의 도시가 된다. 그러나 이곳도 발서 남의 세상가티 뵈인다. 烏賊魚의 産地라 한다 만은 그 이익이 뉘의 손에 도라가며 木物이 名産이라 하지만은 자본주의를 발휘하야 이권을 攫取하는 자 그 누구이냐?
島內 一周의 四日間
태양의 열을 밧는 海面의 水蒸氣, 聖人峰頭를 것칠적 마다 霏霏이 나리는 踈雨. 수일 동안을 두고 遠方來客의 困憊를 풀어줌도 만족하거니와 다시 霽天의 輕風은 颯颯이 吹動하야 無冠宰相의 短策을 催促하야 먼저 北路를 열어 全島를 요리할 만한 氣焰을 吐케한다. 道廳後山麓에 올나 一般夫의 開通地로 名傳하는 沙工넘이라는 杏南洞의 連鱗한 八板家를 俯瞰하고 다시 방향을 變하야 等外新路로부터 苧洞(모시게)으로 넘어가서 村翁의 指端을 따라 日露戰役에 爆沈된 露艦의 戰跡을 구경하고 다시 窮谷의 험로를 밟아 臥達嶺에 올나 臥牛形의 竹島(대섬)를 조망하얏다. 竹島는 目下 本島 農會의 所有冬苗圃로 죽림이 繁茂하고 삼림 기타 木茸과 약재가 多産하는 외에 大豆와 玉蜀黍의 작물도 不少하야 이것만으로도 一家産의 생활이 裕足하다고 한다. 島內에는 朴在天이란 자가 本島개척과 동시에 이 無人島에 들어가서 一戶를 新說하고 지금까지 제법 자유로운 생활을 향락한다고 한다. 그러나 도중에는 식수가 업서서 경찰서로부터 일주 一桶水의 공급을 밧음은 너무나 유감이다. 다시 石圃洞으로 향하는 길에 무인도인 觀音島와 三本立의 怪岩을 一瞥하고 燭臺形의 竹岩을 지나 왕년 慶北視察使 尹始炳이 本島를 관찰하는 당시 기념으로 일홈 지은 天府洞을 環視하고 芮船倉이라는 昌洞의 객사에서 一泊하게 되얏다. 昌洞은 北面의 중심지로 면사무소와 경찰관주재소가 잇는 외에 目下 신축 중인 사립학교가 잇다. 이것을 飢者甘食이라 할는지 記者의 甘食이라 할는지 엇더턴지 朝夕으로 식탁에 오르는 꽉새고기와 貼鰒의 珍錯이 客子의 구미를 도두어줌은 실로 昌洞主婆의 음식솜씨를 발휘하는 것 갓다.
二日은 다행이 朴敬鎭군의 指路로 다시 于山古都의 洪門洞(본명 紅箭門洞)을 지나 高坂을 넘어 石屛과 雲林에 포위된 羅里洞(일명 白合洞)의 大噴火口에 들어가 入島後 처음되는 白雲深處 七十餘戶의 山村을 구경을 하고 그 길로 바로 小羅里洞으로 넘어가서 大噴泉을 차자 들어갓다. 이 湧泉의 水量은 一次의 十斗이상을 초과하고 한번 이 수면에 접근하면 骨冷, 魂淸, 幻世의 늣김을 堪禁할 수가 업다. 이 곳에서 해안으로 나리어 腹背로 漁船을 呑吐하는<76> 孔岩과 意氣沖天한 錐山(송곳산)의 奇絶을 歷見하고 光岩에서 午餐을 노닌 후 그만 朴君을 떠나게 되얏다. 이로부터 나의 동작을 가티하게 된 것은 다만 三尺을 短笻뿐이다. 生面江山에서 이러케 朴君의 慇懃한 사랑을 바다보기는 천만예상외로 생각하는 나는 滿腔의 謝意를 표하고 急急이 前路를 물어 平里를 것치어 老人峯을 엽헤두고 玄圃洞(거문개)에 일으러 暫間 歇脚하는 길에 해안의 暗黑한 水石과 于山시대의 유물인 古墳의 數箇所를 一望하고 이 곳으로부터 香木洞의 통로와 分岐된 台霞洞의 행로를 一貫하야 黃土坎(황토금)을 넘어 台霞洞으로 나려가서 一泊하얏다. 黃土坎은 고래 海賊 搜討使가 일차 본도로 들어오면 반다시 이 곳에서 黃土를 取하야 歸朝후 鬱島賊搜討의 증거물을 삼아 獻上하엿다는데 이 黃土이야말로 金色이 玲瓏한 纖塵이 浮動하야 일견에 珍奇物로 뵈이어진다. 台霞洞은 本島 개척초에 先着居民中 崔雲奎라는 자가 자칭 乘霞天台仙이라 하고 洞名을 台霞라 하얏다 한다. 本洞은 水稻가 油油한 洞內의 지형도 비교적 平坦한데다가 따라서 開島이래 문물이 가장 賑盛하던 邑市이얏는대 아즉도 百六十戶에 近한 농촌의 상태가 그리 彫殘치 안어 뵈이고 다시 朝鮮新敎育令을 초월하야 日鮮共學制가 실시된 것은 너무나 새삼스럽어 뵈인다. 경찰관 駐在所前에 建在한 城隍祠에는 距今 七十餘年前에 搜討使 南昊가 率來하얏다가 本洞 항구에서 溺死한 通引, 妓生의 망령을 위안한다는 위령물로 지금까지 衣裳 二件이 依然이 걸니어잇는 것은 그나마 本島의 一箇 舊蹟거리가 된다고 한다. 그러나 항시 港內에는 풍랑이 激高하야 교통상 불편이 심한 결함으로 하야 往年 島廳을 道洞으로 이전한 후 市況은 다시 昔日의 번영을 볼 수가 업게 되얏다.
三日 아츰은 台霞洞 淸溪川하류에서 濯足하고 輕步를 옴기어 南陽洞으로 향하야 전진하는 도중에 不意驟雨의 沮止를 당한지 半晌에 겨우 台霞嶺을 넘어서자 다시 怒號하는 山風은 深壑을 울니어 萬籟가 일어나고 해면을 뒤덥허 濛濛이 蒸上하는 怪霧는 全山을 一種二種 匝圍하야 격심하게도 행인의 魂膽을 戰慄케 한다. 이것이야말로 天台麻姑의 幻戱가 안인가 하얏다. 석양은 발서 樹枝에 걸니고 雨水에 流流된 山路는 맛츰내 험악하야젓다. 하는 수 업시 鶴圃洞, 水層洞, 龜岩 등 향로를 변경하야 南西洞을 지나 南陽洞으로 直向. 나는 염치를 무릅쓰고 西面長 申泰翼君의 도움을 바다 一夜의 안식을 엇게 되얏다. 南陽洞은 西面 十區의 중심지로 면사무소가 이곳에 잇고 四十餘名의 청년을 수용한 사립학원이 잇는 외에 다시 폐교와 다름업는 日人의 소학교 名色도 一箇所가 잇슴을 보앗다.<77>
四日은 道洞으로 歸着하는 최종일이다. 南陽洞을 등지고 石門洞 幕洞의 동포를 위문치 못하고 섭섭이 凄雨중에 고령을 넘어 一息의 驅步로 通九味로 直走하야 雨歇을 긔다려 洞口를 一瞥하얏다. 本洞은 지명과 가티 桶內形의 해안협곡에 五十餘戶의 인가가 連甍하야 잇고 다시 路傍에 傾斜된 石碧面에 檢察使 李圭遠의 銘文이 잇슴을 보앗다. 이로부터 해안 一線의 坦道로 可頭峯압헤 당도하자 다시 강풍을 따라 일어나는 怒濤는 태산가티 모라들어 峯頭의 岩壁을 猛擊하야 交通을 遮斷한다. 아아 今回의 行程은 엇지 이러케 험악할 뿐인고. 그러나 百尺干頭에 一步를 躕躇치 안은 나는 이에 意를 決하고 파도의 進退하는 순간을 타서 무사통과하야 그 길로 다시 中嶺에 올나 滿山한 作物의 靑草를 둘너보고 長興洞을 바라보면서 新里로 나려와서 香肥한 猪肉과 美味의 甘蔗로써 배를 채우고 다시 활기잇게 전진하야 玉泉洞을 안전에 두고도 들어가지 못하고 바로 아룩사 라는 沙洞(본명 아래구석)으로 들어가서 蠶業傳習場을 歷覽하고 道洞으로 넘어오는 歷路에 炭酸 수원지를 차자 數盃의 淸凉劑로써 四日간의 煩惱를 痛滌하고 悠悠이 客店에 歸着하야 雜記帳을 정리하고 다시 島勢一班을 槪括하야 數題의 起草를 맛치고 나니 때는 임의 二十六日 下午 四時가 되얏다. 발서 硯池의 香煙은 사라지고 遠浦의 歸帆은 急을 告한다. 卽時 行李를 收拾하야 船頭에 올나서니 滿島의 風樹가 멀니 離恨을 먹음어 뵈이더라. 도라보건댄 日程의 短促과 天氣의 不調로 하야 예정의 행사를 원만이 진행치 못하게 된 것은 물론, 더구나 각각으로 변화하는 沿路의 풍경 그 중에서도 聖人峯의 殘雪, 羅里洞의 風穴, 草峰洞窟의 靈蹟, 西面의 水層層 등의 名區를 탐험치 못한 것은 무엇보다 이상의 유감이다. 그리고 地形 及 物相과 인사의 移動的으로 작성된 本島地名의 유래는 일종 史談거리가 적지 안타. 이것은 開島이래 全南 麗水郡 三山面 三島方面의 어부의<78> 다수가 本島 名産인 靑藿을 채취키 위하야 매년 三四月에 來集하얏다가 六七月이 되면 撤歸하야 이러케 來往이 頻數하는 동안 不知 中 그럭저럭 變稱된 것이 거의 전반에 亙하얏다 한다.
所謂 小王國의 沿革
鬱陵島는 新羅 당시 于山國으로 何瑟羅州(今 江陵) 軍主 異斯夫가 詭計로써 兼倂한 이래 점차 新羅의 衰頹로부터 高麗의 內訌과 李朝의 文弱은 맛츰내 도민으로 하야금 化外에 방임치 아니 못하게 되야섯다. 그리하야 無人跋扈하는 島人의 횡포는 逐年 연해일대를 蹂躪함으로 李朝 世宗時부터 月松(今 平海) 萬戶를 鬱島 賊搜討使로 兼任하야 수시 搜討한 결과 일시 本島는 無人島로 化하얏섯다.
그러나 全島沿岸의 막대한 漁利와 도내 무진장의 林産은 모다 內日本의 漁民 及 木商 등의 침략을 바다 다시 本島의 참상은 거의 危機一髮에 瀕하얏섯다. 그리하야 영토개척의 필요를 感한 韓廷에서는 즉시 廟議를 決하야 距今 四十一年前(癸未)에 鬱島開拓令을 발포하고 島長을 置하야 島務를 掌理한 후부터 내륙의 이주자가 激增하야 一島의 面目이 一新하야젓다 하며 이러함을 따라 光武 五年에 島를 郡으로 昇格하얏다가 日韓倂合의 際에 다시 島制를 頒布하야 금일에 至하얏다 한다.
그리고 本島의 주민은 아즉까지 石田草食이나마 도내의 天産物이 풍부하고 따라서 外圍의 刺戟을 受하는 事가 少함으로 남달니 낙천적 생활을 享하고 더구나 郡守級으로서의 행정, 사법의 전권을 행사하는 島司는 그야말로 一島의 왕자로 擬치 안을 수 업서 뵈인다. 이로써 보면 本島로서 동해상의 小王國이란 존칭을 밧음이 그리 남붓그럽지 안으리라 한다.
島內 日鮮人의 所有地價의 比較
區 分 田 畓 垈 雜種地
日本人 8,852 645 3,020 7
朝鮮人 14,810 4,159 5,922 1
多角的 趣味의 지형
本本本島는 朝鮮의 極東에 僻在한 絶海의 一孤島로 江原道 蔚珍郡 竹邊을 距하기 東北海上 七十六浬, 內日本 鳥取縣 境港을 距하기 南海上 百七十二浬의 부등변 오각형을 成하얏다. 도의 전체는 火成岩으로 成한 일대 死火山으로 울창한 원시림에 隱蔽되얏다. 그리하야 본도 명칭의 유래가 이로써 비롯하얏다 한다.
태고 噴火口의 外壁의 중앙에 聳立한 최고봉으로 해발 九百八十三米突되는 聖人峯, 本峯의 최고봉인 九百米突의<79> 卵峯, 九百六十六米突되는 彌勒峯의 諸峯은 모다 도내 북편으로부터 분화구의 좌우 羅里洞을 圍立하고 다시 각방면으로 分派된 支脉은 모다 해면을 향하야 急走하얏다. 그리하야 全島의 地勢는 直立한 山岳으로 成하얏슬 뿐이다.
다시 聖人峯으로부터 南面 苧洞灣에 注入하는 연장 一里의 溪水와 羅里洞 舊噴火口에 浸潤되는 雨水가 卵峯의 中腹(해발 四百米突)으로부터 약 十五六派의 水量이 되야 飛流直下 十四五町을 지나서 海에 注入하는 溪水, 이러케 蜀道의 險을 연상하는 방방곡곡 斷崖絶壁의 사이사이로 潺湲하는 溪流 혹은 急湍이 되야 雲林을 헷치며 혹은 飛瀑이 되야 天梯石棧을 넘어 그 變態無窮한 氣勢. 이러케 다각적 취미를 가진 本島의 지형은 실로 別有天地의 靈區인 듯하다.
島內 日鮮人의 敎育機關
校名 箇所 生徒數
尋常小學校 3 162
普通定校 1 139
改良書堂 12 190
朝鮮一의 貧民窟
본도 면적 四方里 七二, 三面 九洞里에 분포된 戶數는 千五百四十九戶(內日本人 一七六)이다. 개척이래 본도의 이주자의 다수는 生計末由者, 犯罪亡命者, 一時避難者 등으로 모다 遠慮의 乏한 者 뿐이라 한다. 目下 內外人을 불문하고 빈부의 懸隔이 別無한 資産程度의 低級됨을 보아도 一島는 전혀 貧民窟임을 넉넉히 증명하겟다.
먼저 농촌을 보면 전주민의 일상생활상 必須物로 하는 馬鈴薯, 玉蜀黍, 大豆가 主作이 되고 養蠶이 부업이 되얏다. 其 中에도 大豆와 養蠶의 豊凶은 농가의 경제를 좌우한다고 한다. 그리고 本島는 往昔 삼림시대에 在하야는 推積한 낙엽의 腐朽覆土한 天惠로 地味가 肥沃하얏스나 개도후 三十年間에 一掬외 비료를 施치 안코 耕食하얏슬 뿐 아니라 入鋤地의 대부분은 三十五度 이상의 急傾斜地요. 더구나 粘着力이 부족함으로 强風大雨의 계절이 되면 반다시 表土를 상실한다, 양분을 流下한다 하야 이러케 점차 소모되는 지력은 결국 농작물의 수확을 감소치 아니치 못하게 된다. 그러나 이 반면에 年年 五六萬圓에<80> 達하야 생산율을 증가하는 蠶繭의 수익은 도리여 도민의 喉渴을 免하게 하는 것 갓다.
다음 어촌을 보면 종래 烏賊이 어업을 주업으로 하야 생계의 資를 求하야 왓스나 大正 七年이래 계속되는 漁凶으로 하야 窮乏이 其極에 達한 어민의 대부분은 타지방으로 移去하고 지금 잔존한 자는 雜魚의 어업으로 약간의 수입과 기타노동으로 僅僅 糊口하는 중이라 한다. 그리하야 수년전까지 繁華의 중심지라 하던 본도 유일의 어항인 道洞도 맛츰내 寂寞江山이 된 감이 업지안타. 그러나 今春부터 점차 烏賊의 魚子가 沿海附近에 다수 遊泳한다함이 그윽히 어민의 신경을 예민케 하는 듯 하다.
다시 商界를 도라보면 종래 도내에서 상업에 종사한 자의 다수는 日本人의 雜貨商兼 仲買業者이얏다 한다. 어업부진의 영향은 맛츰내 金融의 逼迫과 商取引의 圓滑을 缺케하야 아모리 時勢挽回에 고심하얏스나 其効를 奏치 못하야 개중 資力이 有한 자는 모다 타처로 移去하얏다 한다. 그리하야 此亦 농사의 개량과 漁況의 회복의 新機運을 企待치 안을 수 업슬 뿐이다.
島內 住民의 1년간 生活費(各業別 槪算)
區分 上流 中流 下流
農 1,100円 400 120
漁 900 410 90
商 1,840 890 360
평균 1,290 570 190
비고 각 계급의 8할은 식료품 及 의복비로 外 2할은 기타 *비로 소비
有多無多의 多多島
본도는 잇는 것도 만커니와 또한 업는 것도 만타. 그리하야 웨 그리 만타는 것이 만으냐 하는 것이 이 지방의 笑話거리가 되얏다. 奇巖怪石도 만코 飛湍瀑流도 만코 急坂曲逕도 만코 春秋이면 全島를 剝皮袪骨하는 烈風淫雨, 三冬이면 八方封鎖하는 陰雪도 만타만은 文房具, 衣欌材로 四圍해안에 馥氣가 농후한 香樹, 家具 及 建築材로 山野到處에 叢立한 槻樅, 首飾品으로 眞冬柏油, 약재로 厚朴, 獨活, 前胡, 大黃, 기타 食用의 「멩이草」 등 천연의 名産이 풍부하다. 다시 동물로는 累年 全島의 慘禍를 暴注하던 田鼠類, 당시 窮境에 몰입한 島民의 飢饉을 救急하던 「꽉새」고기, 매년 생산이 過剩되야 百餘頭에 달하는 生牛의 移出, 冬節이면 七十錢에 불과하는 歇價의<81> 軟牛肉, 흡연자만 보아도 빨부빨부 啼逐한다는 烏子, 客子의 고민을 더하는 蚤虫, 곡물로는 米飯은 너무 滑澤하야 口味에 不適하다고 換食하는 玉蜀黍, 家家門頭에 버려노코 未成少年의 두뇌를 浸漬하는 濁酒, 이만하면 잇는 것도 어지간하거니와
다시 山野에는 山猫, 鼠類, 啄木鳥, 烏, 梟, 隼, 「꽉새」, 頭背의 毛色이 濃赤한 小雀외에는 아모것도 업고 가축으로는 牛, 羔, 鷄, 犬 외에는 아모 것도 업고 虫類로는 谿谷間에 凄息하는 蜈蚣, 人體의 搔癢物이 되는 蚤虱를 제한외에는 역시 아모 것도 업고 晉代의 衣冠을 버서노은 案頭에는 문화정도의 低劣을 들어내이는 天皇氏 木德王의 책자 외에는 其 亦 아모 것도 뵈이지 안코 金剛山이니 東洋-公園이니 떠들어 지방자랑에 口涏이 마른는 관청에도 繪葉書 一枚를 구경하기 어렵다. 자아 업는 것도 이만하면 그리 적지 안을 듯하다. 이제 이것을 서로 較計하면 잇는 것이 만은가? 업는 것이 만은가? 엇더턴지 만키만 한 것이 그리 조흘 것이 아니다. 그리고 잇서야 할 것은 잇서야 하겟다 만은 이와 반대로 업서야 할 것이 잇던가 잇서야 할 것이 업던가의 이것을 瞠察하야 其 壞士의 안정책을 강구하야 봄이 무엇보다 이상의 急일 것이다.
眞野島司의 囈語
『산마다 奇峯이요. 물마다 玉流라. 이러한 신비적 勝區를 그냥 世外視 할 수 업다. 적어도 東洋的 公園으로 개방한다. 본도에 한하야는 內鮮의 융화는 云爲할 필요가 업다. 만일 논한다하면 人爲가 아니요. 自然이다, 四面環海에 수산이 풍부하니 이것이 도민의 厚生物이요 山식물로 유명한 약초와 木物이며 岩間薄土에라도 一粒의 施肥가 업시 落種만 하면 油油成長하는 百穀, 어느 것이 도민의 福利되지 안는 것이 업다. 그리하야 明春부터 全島 농작에 綠肥를 실시하야 地力의 衰耗를 보충하야 三年 이내로 六十萬圓의 生産率을 增進케한다. 公立普通學校에 木工場을 확장하고 도내 무진장의 良材를 이용하야 歇價의 특제품을 島外로 移出하야 본도 특산의 聲價를 昻騰케 한다. 滿山蒭草는 牧畜에 적절하니 養牛의 獎勵를 倍前加勢하야 生牛의 移出高를 激增케 하겟다. 到處叢生한 山桑의 恩露로 年年 五六萬圓의 猝富를 致하는 본을 바다 다시 一千六百餘戶의 全島를 통하야 養鷄의 副業을 진흥케 한다』는 이상의 諸問題가 島司 眞野景象君의 鬱島發展의 大方針이라 한다.<82>
抑컨댄 「江東雖小亦足以王」이라는 泗上船夫의 말은 글로는 보앗다 만은 多年警界의 老軀를 잇글고 湖南으로부터 武陵으로 들어가 桃園의 囈語를 橫竪함은 도리여 漁舟子를 향하야 明珠자랑으로 大氣焰을 吐하던 魏人의 滑稽를 再演한 은 아모리 하야도 擧世의 苦笑거리를 주는 것 갓다. 보라! 산도 조코 물도 조타. 과연 勝地江山이다. 엇지 동양적 공원에 긋치랴. 그야말로 세계적 공원으로 개방할 만한 가치는 업스랴. 朝鮮郵船會社에 매년 一萬二千圓이라는 거금의 보조를 주어가면서도 아모리 火速的이라도 一週日後가 아니면 公文구경도 못하는 교통기관의 불완전은 엇지하며 인위적 융화에 몰두하는 統治圈을 초월한 지방이라고 狂喜自負하는 一方에는 어업의 불황으로 撤歸의 不得己에 出한 이래 無主空舍와 無異한 장소에 日鮮아동의 共學制를 실시한 台霞公立尋常小學校가 잇다. 이것도 新敎育令의 發布前 事라. 如何間 幸이라면 幸일 듯도 하다만은 一千二百圓이라는 不少한 地方費의 보조를 바다가지고 겨우 三名의 아동을 수용한 南陽公立小學校는 엇지된 셰음인가.
과연 一二 乞飯者의 救濟에 冒沒하는 其者들은 鐵面皮라고 唾罵함보다 차라리 동정의 淚水를 添酌한 木盃 一箇의 선사라도 잇슬 만하다... ...허허... ...엇지 이뿐이랴. 아동수의 多少는 불구하고 尋常小學校는 三面三校나 되는데 보통학교는 겨우 三面一校에 긋치얏는가. 이것이 朝鮮人의 負擔難일가? 당국의 塞責的 施政인가? 만일 朝鮮人의 負擔難이라 하면 南陽洞에 天府洞에 蒸蒸日上하는 私立校는 그 뉘의 血汗의 결정이라 하는가. 이것은 그만두고라도 동일한 시간, 동일한 노력, 동일한 客地, 또한 동일한 인류로서 昇級時마다 本俸의 一割을 加算支給하는 島手當金을 日本人에게 한하야 인류애를 무시하는 天人共鳴의 蕭墻의 불평은 엇지 하며 天惠와 地利만 全恃하던 농작에 綠肥를 施與하느니 不幾年內에 60萬圓의 생산증가이니 하는 이것도 皮相的에 불외하는 장담인 듯 하다. 死火山인 本島의 지형의 대부분은 급경사지로 지반은 「알카리」성의 암석으로 成한 數尺에 불과한 土皮로써 包被하얏고 토양은 화산재질이라 粘着力이 乏한데다가 풍화한 암석이 혼잡하얏슬 뿐 아니라 年年不絶하는 폭풍우는 地皮를 剝奪함에야 엇지 하며 특산을 천하에 소개한도 조타만은 本島의 대표적 명물인 香木, 槻木과 가튼 良材는 발서 日本 窃盜黨의 濫伐로 거의 멸망을 당하얏다. 그 瘡痍의 完治이야말로 幾十年의 長年月을 경과치 못하면 소망이 絶이다. 약간의 看色品으로야 뉘의 눈을 奢惑케 할가. 돈을 벌어야 한다는 데는 뉘가 슬타하랴. 養牛도 조코 養鷄도 조타만은<83> 屠牛는 三歲이상으로 제한하야 牝牛는 善賣되나 牡牛는 逐年 過剩되야 牧養者로 하야금 도러여 막대한 고통을 밧게 하고 다시 夏不上九十度 冬不下零十度라는 本島의 기후를 예측하고 그런 설계가 생기얏는지는 모르겟스나 冬寒에 산란치 못하고 설사 溫暖時를 당하야 산란한다 할지라도 卵 一箇價가 30錢이나 넘어서 上等料理店 所用밧게 못되는 더구나 보편적 商賣가 못되는 洋鷄四首를 每首 15圓이라는 不少한 공금을 주고 매입하야 全島에 분포하랴는 그 胸算이 那邊에 在한가?
年富力强하던 少時에는 猛虎도 잡아보앗노라는 상식경험이 兼富한 眞野君의 老鍊, 아아 이것이 君의 苦心織出한 腹案인가? 犬馬十年의 공로도 겨우 馘首를 면하고 遠竄을 당하얏다 함은 너무나 과언일가 하거니와 仙樓의 瓊漿玉液이 제아모리 香美타 하야도 田家의 粟食菜羹만 못하다는 것은 目下 本島 大小官員의 大同的의 하소연인 듯하다. 다시 先見의 明을 가지고 雲霞와 가티 蝟集하야 本島의 利權을 좌우하던 數千의 日本人의 부락인 연안일대는 임의 天寒白屋의 星稀한 荒村으로 化한지 오래거니와 더구나 開島이래 금일 忠淸明日 慶尙移去移來의 萍水生活로 姑息苟安하는 殘民 多數의 불안은 엇지하랴는가. 이것을 安定한다 하야 일시 彌縫的 宣傳에만 偏事하다가 如掌小島에 과잉되는 인구 즉 貧窮多族의 생활난은 엇더케 구제하랴는가. 그야말로 本島를 위하랴는 眞摯한 성의가 잇는가. 과연 잇다 하면 그러한 沒趣味하고도 不徹底한 甕算的 窮策일난 一擲하고 다시 松風蘿月에 煩惱를 露灑하야 鬱島百年의 大計를 取하야 봄이 如何.
謝白
靑松, 鬱島의 膾炙거리가 엇지 이뿐일 것이며 揭載의 시일이 엇지 이처럼 뒤떠러 젓스라만은 편집상 지면이 一步를 假借치 안는 데야 엇지 함니까. 청컨댄 讀者諸賢은 恕諒하시라.(本記者)<84>
<74 -84>
続きです。
ReplyDelete二日は、幸いにも朴敬鎭君の案内で、また于山の古都の洪門洞(本名 紅箭門洞)を経て高坂を越え、石屏と雲林に包囲された羅里洞(一名 白合洞)の大噴火口に入って行き、入島後初めてとなる白雲深処七十余戸の山村を見物すると、その道はすぐに小羅里洞に移り、大噴泉を探しに入った。この湧泉の水量は、一回に十斗以上を超過し、一度この水面に近付けば、骨冷, 魂清, 幻世の感を禁ずることができない。ここから海岸に下り、腹背に漁船を呑吐する<76> 孔岩と、意気沖天たる錐山(錐の山)の奇絶を歴見し、光岩で午餐をとった後、そのまま朴君を見送ることとなった。
今後は、私と動作を共にすることになるのは、ただ三尺の短い筇(つえ)ばかりである。生面江山(はじめての土地)で、このように朴君の慇懃なる好意を受けることになったのは、まったく望外のことと思った私は、満腔の謝意を示した。そして急急に前路を聞き、平里を経て、老人峯を横に見、玄圃洞(コムンゲ)にて暫間 歇脚したのち、海岸の暗黒の水石と于山時代の遺物である古墳数箇所を一望したのち、そこから香木洞への路へと分岐する台霞洞への行路をとって、黄土坎(ファントグム)を越え、台霞洞に下りて一泊した。
黄土坎は、古来、海賊捜討使がひとたび本島に入れば、必ずここで黄土を取り、帰朝後、鬱島の賊捜討の証拠物として献上したというが、この黄土こそ、金色が玲瓏で 纎塵が浮動する一見するべき珍奇物となっている。
台霞洞は、本島開拓の初めに、先着居民中の崔雲奎という者が、自称「乗霞天台仙」だといって、洞名を台霞と名づけたという。本洞は水稲が油油としており、洞内の地形も比較的平坦で、したがって開島以来、文物が一番賑盛した邑市であるというが、いまだに百六十戸近い農村の状態がそのまま残されている。しかし朝鮮新教育令を超越するとして、日鮮共学制が実施されていることは、あまりにも大げさに見える。
警察官駐在所前に建在している城隍祠には、今から七十余年前に、捜討使 南昊が率来して、 本洞の港で溺死した通引, 妓生の亡霊を慰安するという慰霊物で、今日まで衣裳二件が依然として残っているのは、それ自体本島の一箇の旧蹟であるという。しかし、常時、港内には風浪が激高し交通上の不便はひどい欠陷であり、往年島庁を道洞に移転した後は、市況はまた昔日の繁栄を見ることはできなくなったのである。
三日の朝、台霞洞 清渓川の流れで足をあらい、足取りも軽く南陽洞に向かって前進する途中、不意の驟雨の沮止にあい、半日にしてようやく台霞嶺を越すと、また怒号する山風は深い壑(たに)をゆるがせ、万雷が起きて海面をめぐり、濛濛と蒸上する怪霧は全山を一重に、二重にと匝圍して、激甚として行人(旅人)の魂胆を戦慄させるものとなった。これこそまさに天台麻姑の幻戯ではないかとさえ思われた。夕陽はもはや樹枝にかかり、雨水流流となった山路は、まさしく険悪なものとなった。仕方なく、鶴圃洞, 水層洞, 亀岩などの行路を変更して、南西洞を経て南陽洞に直向。私は廉恥を冒して、西面長の申泰翼君の助けを求め、一夜の安食を得るに至った。
南陽洞は、西面十区の中心地で、面事務所がここにあり、四十余名の青年を収容した私立学院があって、そのほかに、また廃校と変わらない日人の小学校が一箇所あるのを見た。<77>
四日は、道洞に帰着する最終日である。南陽洞をあとに、石門洞、幕洞の洞浦をたずねられないのを寂しく思いながら、凄雨の中、高嶺を越え、一息の駆歩で通九味に直走して、 雨のやむのを待ち、洞口を一瞥した。本洞は、地名の通り桶内形の海岸峡谷に五十余戸の人家が連甍してあり、また路傍には、傾斜した石碧面に、検察使李圭遠の銘文があるのを見た。ここから、海岸一線の坦道で、可頭峯の前に到着すると、また強風に付いて起きる怒涛は、泰山のようにもりあがり、峯頭の岩壁を猛撃して交通を遮断する。
ああ、今回の行程は、どうしてこのように険悪なばかりであるのか。しかし百尺干頭に 一歩を躕躇しない私は、ここに意を決して波の進退する瞬間に乗って無事通過すると、その道は、また中嶺に上り、満山が作物の青草である長興洞を眺めながら、新里に下り、香肥なる猪肉と美味の甘蔗とで腹を満たして、また元気良く前進したが、玉泉洞を眼前に見ても入って行くことができずに、すぐにアルクサなる沙洞(本名 アレクソク)に入って行き、 蠶業伝習場を歴覧したのち、道洞に越えて行く歴路に、炭酸水の水源地の冷たい数盃の清凉剤に四日間の煩悩を洗い流し、悠悠と客店に帰着して、雑記帳を整理し、また島勢一班を概括して数題を起草していると、時はすでに二十六日 下午四時となっていた。
すでに硯池の香煙は消えて、遠浦の帰帆は急を告げる。即時、行李を収拾して船頭に上がれば、満島の風樹が遠く離恨を含んで見えている。振り返れば、日程の短促と天気の不調に、予定の行事を円満に進行することが出来なくなったことは勿論, その上に、刻一刻変化する沿路の風景の中でも、聖人峯の残雪, 羅里洞の風穴, 草峰洞窟の霊蹟, 西面の水層層などの名区を探険することが出来なかったのは、何より以上の遺憾である。
そして、地形及び物相と人事の移動的に作成された本島地名の来由は、一種、史談の材料が少なくない。これは、開島以来、全南 麗水郡 三山面 三島方面の漁夫の<78> 多数が、本島の名産である靑藿を採取するために毎年三四月に来集し、六七月になれば撤帰するという、このように来往が頻数するなかで、知られざるうちに、あれやこれや変称になったことが、ほとんど全般にわたるのではないかと思われるのである。
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この中に出てくる地名を列挙しておきます。
道洞(本名 道房) 官公署
沙工、杏南洞、八板家、苧洞(モシゲ)、臥逹嶺、竹島(テソム)、石圃洞、観音島(無人島)、三本立、竹岩、天府洞、
昌洞(芮船倉):北面の中心地、(面事務所、警察官駐在所、私立学校)
洪門洞(本名 紅箭門洞)、羅里洞(一名 白合洞)、小羅里洞、孔岩、錐山、光岩、平里、
老人峯、玄圃洞(コムンゲ)、香木洞、黄土坎(ファントグム)
台霞洞:(警察官駐在所、城隍祠 清渓川)
台霞嶺、鶴圃洞, 水層洞, 亀岩、南西洞、
南陽洞:(西面十区の中心地、面事務所、私立学院、日人の小学校)
石門洞、幕洞、通九味、中嶺、長興洞、新里、玉泉洞
沙洞(アルクサ、本名 アレクソク):(蠶業伝習場)
(名所)聖人峯の残雪, 羅里洞の風穴, 草峰洞窟の霊蹟, 西面の水層層
三面 九洞里に分布する戶數は、千五百四十九(1549)戶。(內日本人 一七六(176))
なお、この文章は、「論説」に分類されていますが、
このあとの最後の部分では、かなり痛烈に、日本人の島司 眞野景象のもとでの政策を批判しています。
1923(大正12年)には、こうした言論があったのだなあ、と思います。
ただし、開拓時代以来の朝鮮王朝・大韓帝国の鬱陵島統治が、これに勝るものであったと言えるものでもないと思います。
なぜこの記者に、「獨島が奪われた」という話を、鬱陵島の人はしなかったのでしょうか?
ReplyDelete『開闢(かいびゃく)』という雑誌を調べてみると、抗日民族文化運動の拠点となっていた、とあり、何回も弾圧を受けて、発行禁止や押収の処分にあっているようです。
この探訪記事でも、鬱陵島における教育政策や産業政策に、かなり大胆に批判を加えています。こうした記者が現地取材に来たならば、もし本当に「獨島が奪われた」というような歴史的事実があったのだとしたならば、鬱陵島の人は、何らかの形で、あるいは率直に、その話を語っているのではないでしょうか?
記者は、道洞のみならず、昌洞、台霞洞、南陽洞にそれぞれ1泊して全島をまわっています。いろいろな人間と接触が可能だったはずです。こうした鬱陵島の人たちの心の中に、「獨島を奪われた」という記憶はまったく残っていなかったのでしょうか?
それを聞いたとして、この記者が、それを書くことを躊躇したでしょうか?
それが、この文章の中に、全くほのめかしもされていない、ということは、そんなことを言った人間はひとりもおらず、それはすなわち、そうした事実はなかった、ということを示しているのではないでしょうか。
↑ 上のmatsuさんの指摘に賛同1票
ReplyDeleteAnyone have a 鬱陵島 by 坪井九馬三 1921?
ReplyDeletealso wanna check
ReplyDelete李肯翊『燃藜室記述』 李景圭『論史』
Best n regards,
Chaamieyさん
ReplyDeleteありがとうございます。
韓国側が、独島は韓国領だ、と主張しはじめたのは、
1947年8月の韓国山岳会主催の第一次学術調査団以降、
文献としては、1948年12月、『史海』創刊号所載の
申奭鎬「獨島所属について」(獨島所屬에 對하여) がはじめてなのではないかと思っています。
それ以前、1905年の日本への領土編入から解放後にいたるまで、
沈興澤の報告と、その報告を引用した新聞報道、さらには、その新聞報道によった黄玹(『梧下記聞』『梅泉野録』)のほかには、韓国側は、「獨島が奪われた」という主張を、全くしていないのではないかと思います。
鬱陵島には、1906年、沈興澤の報告=島根県一行の訪問の時に、戸数700・人口5000ないし7000人、(奥原『竹島及鬱陵島』52p)、
この1923年『開闢』の記事では、1549戶が、住んでいました。
これらの鬱陵島の人々の中に、獨島が奪われた、という記憶は全くなかったのではないかと思います。
*金学俊『独島竹島 韓国の論理』157pに
1920年3月1日、大韓民国臨時政府が3・1運動の1周年記念式を上海で開いた時に、議政院(国会)議長の李東寧がこの事実に言及している、とありますが、その一次資料を見ていません。あるいは、李東寧の言及は、黄玹によったものだったのでしょうか。
GTOMR&matsu
ReplyDeleteThank you for introducing interesting documents. I'm going to make a new post for this one sometime soon. It is apparent that, in 1923, residents on Ulleungdo had no idea that "Dokdo" belong to Ulleungdo, not to mention of Korea. It coincides with the fact that the "Map of Daehanminguk(1922)" (대한민국 디도)" by independence-minded Koreans didn't even show "Dokdo".
興味深い資料の紹介と翻訳、ありがとうございます。そのうちこれも独立した投稿にして記録を残しましょう。領有権どころか、独島が鬱陵島の付属島、という認識さえまったく無かったことがよくわかります。1922年の独立派(?)による大韓民国図にも、鬱陵島までで、竹島はのっていませんでしたね。”于山島は倭の松嶋”と同じく、于山島も独島も、それらが実際どこにあるのかよく分からないまま、”独島は日本に奪われた”という概念のみが一人歩きししていたのでしょうね。それが1948年以降に反日・領土拡大主義に利用され、今もそれが続いているのでしょう。
1922 "Map of Daehanminguk" (대한민국 디도)”黄土”は珍しいものということですが、最近某所で美容に効くとして売っているのを見かけました。同じものなのかしら…まだ採れるのでしょうか?
This comment has been removed by the author.
ReplyDeleteI heard there will be held propaganda "neutral position sympodium about liancourt rocks at New York?
ReplyDeleteBut, Do they invite Shimane prefecture Takeshima resercher and Ministery of Foreign affairs of Japan as a commentator? I don't think they invite them and maybe they will spread their fablicated propaganda there.
http://news.mk.co.kr/se/view.php?sc=30000023&cm=%EB%AC%B8%ED%99%94%C2%B7%EC%97%B0%E
C%98%88%20%EC%A3%BC%EC%9A%94%EA%B8%B0%EC%82%AC&year=2009&no=236534&selFlag=sc&rel
atedcode=&wonNo=&sID=507
Isn't it simlar to the "international" symposium concerning Japan's annexation of Korea which took place a few years ago?
ReplyDeleteIt was held "internationally" but with the back-up of Korean government. As a reult, although, Korea's insistency was denied by British specialists.
So if the symposium will be held trully fairly and internationally, I would welcome it.
I don’t think the symposium will be held fairly.
ReplyDeletePlease see the names of the panelists.
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来月、ワシントンDCで独島シンポジウム
(ソウル=連合ニュース) ワン・ギルファン記者 2009.04.21 08:07:45 入力
내달 워싱턴DC서 독도 심포지엄
워싱턴독도수호특별위원회(위원장 최정범)는 다음 달 7일 워싱턴 DC 내셔널 프레스클럽에서 한국과 일본, 대만, 미국의 학자가 참가하는 '독도 국제 심포지엄'을 개최한다고 21일 밝혔다. 동북아역사재단이 후원하는 이번 심포지엄은 한국 학자의 일방적인 주장이 아니라 외국 전문가가 중립적 입장에서 객관적이고 심도 있게 독도에 접근하려는 행사로 독도와 관련해 미주에서 처음 열리는 국제학술대회이다.
ワシントン独島守護特別委員会(委員長チェ・ジョンボム)は、来月 7日ワシントンDC ナショナルプレスクラブで、韓国と日本、台湾、アメリカの学者が参加する「独島国際シンポジウム」を開催すると 21日発表した。北東アジア歴史財団が後援する今度のシンポジウムは、韓国の学者の一方的な主張ではなく、外国の専門家が中立的立場で、客観的に、深く独島に近付こうとする行事で、独島に関連してアメリカ大陸で初めて開かれる国際学術大会である。
행사에는 메릴랜드대 김필규 명예교수와 대만국립정치대 존 차오 박사, 조지타운대 크리스토퍼 조이너 박사, 세종대 호사카 유지 교수, 하와이 마노아대 존 밴 다이크 박사, 파이브 오션스 컨설턴트 노만 처키스 씨 등이 참석한다.
シンポジウムには、メリーランド大のキム・ピルギュ名誉教授、台湾国立政治大のチョン・チャオ博士、ジョージタウン大のクリストファー・ジョイナー博士、世宗大のホサカ・ユウジ教授、ハワイ・マノア大のジョン・バンダイク博士、ファイブ・オーシャンズ コンサルタントのノーマン・チョキス氏などが参加する。
최정범 위원장은 "해외에서 세계적인 권위자를 초청해 독도의 모든 것을 다루는 학술회의를 하게 돼 기쁘게 생각한다"며 "참여 학자의 발표 내용은 논문집으로 만들어 미국 의회도서관 등 주요 기관에 전달하고 당일에도 배포할 예정"이라고 말했다.
チェ・ジョンボム委員長は、 「海外で世界的な権威者を招待し、独島のすべてを扱う学術会議が行われることをうれしく思う」とのべるとともに、 「参加する学者の発表内容は、論文集を作って、アメリカ議会図書館などの主要機関に伝達し、また当日にも配布する予定だ」と語った。
김필규 교수는 "일본 정부의 망언에 감정적으로 대응하던 차원을 넘어 국제사회에, 또 우리 후세를 위해 역사적인 증거 자료를 남긴다는 점에서 이번 행사는 의미가 있다"며 "논리적으로 독도가 우리 땅임을 밝히는 계기가 될 것"이라고 밝혔다.
キム・ピルギュ教授は、 「日本政府の妄言に感情的に対応した次元を越えて、国際社会に、また私たちの後世のために、歴史的な証拠資料を残すという点で、今度のシンポジウムには意味がある」とした上で、「論理的に、独島が私たちの領土であることを明らかにする契機になるだろう」と述べた。
위원회는 워싱턴포스트, LA타임스 등 미국의 유력 신문은 물론 세계 각국의 언론과 연구기관에 심포지엄 개최를 적극적으로 홍보할 예정이다.
☎(미국) 301-468-0093.
委員会は、ワシントンポスト、LAタイムスなどアメリカの有力新聞はもちろん、世界各国の言論と研究機関に、シンポジウム開催を積極的に広報する予定だ。
☎ (アメリカ) 301-468-0093.
ghwang@yna.co.kr
(서울=연합뉴스) 왕길환 기자
(ソウル=連合ニュース) ワン・ギルファン記者
2009.04.21 08:07:45 입력 入力
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But I still want to get the papers by the professors, to find out mistakes and misunderstandings about the historical facts.
Korean know that they do not have fair sovereignty over Dokdo and is feeling uneasiness.
ReplyDeleteTherefore they will ask international support about the Dokdo dominium.
Such a symposium cannot be necessary if Korea has fair sovereignty over Dokdo.
I see, I agree with you - matsu and GTOMR, because the pro-Korean Japanese Prof. Hosaka represents Japan. It's not fair.
ReplyDeleteI ask a question, Who had been dead these days?
ReplyDeletehttp://killkorea.iza.ne.jp/blog/entry/1002860/
キム教授はパネル人選の過程後日談で“日本国内の学者3人に参加を要請したが1人は死亡、また他の1人は健康悪化で出席が不可能だった
Pacifist-san, that’s what I was wondering.
ReplyDeleteWho will represent Japan?
One more information about this says there is no “Japanese” scholar in the symposium.
http://www.dynamic-korea.com/news/view_news.php?main=DPL&sub=&uid=200900284594&keyword=
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International Scholars to Gather for Dokdo Symposium at National Press Club
Apr 21, 2009
The International Dokdo Symposium, sponsored by the Washington Coalition for Dokdo Islands, will be held at the National Press Club in Washington D.C. on Thursday, May 7, 2009 from 12-3 p.m., where international experts will discuss historical and legal perspectives on the rocky Korean islets whose sovereignty is contested by Japan.
A diverse body of professors and scholars from Korea, Taiwan, and the United States, as well as Korean and international journalists, are expected to attend the event, which is co-sponsored by the Northeast Asian History Foundation.
Dr. Coalter G. Lathrop of the Duke University School of Law will moderate the symposium and a variety of special presentations: "A Reassessment of Korea-Japan Relations: Acquisition of Dokdo/Takeshima and its Effectiveness" by retired University of Maryland professor Dr. Pilkyu Kim, "On Legal Dispute of Dokdo between Japan and Korea" by Dr. John K.T. Chao of the National Chengchi University in Taiwan, "The Dokdo/Takeshima Dispute: Rethinking the Interplay of Law, Diplomacy, and Geopolitics in East Sea/Sea of Japan" by Dr. Christopher C. Joyner of Georgetown University, "Japanese Distorted Logic Claiming Sovereignty over Dokdo: Historical Analysis between Japan and Korea" by Dr. Yuji Hosaka of Sejong University in Korea, "Addressing and Resolving the Dokdo Matter" by Dr. Jon M. Van Dyke of the University of Hawaii-Manoa, and “Dokdo: Western Involvement and the Case for Korean Sovereignty” by Norman Z. Cherkis of Five Oceans Consultants.
For further information about the International Dokdo Symposium and how to attend, contact organizers at (301) 468-0093 or DC.Dokdo@gmail.com.
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Maryland univ. Kim Pilkyu? (Korean)
ReplyDelete(韓国人か?不明)
Position: Pro-Korea
台湾国立政治大
John Chao
It can assumed that his major would be maritime conflict and so on
Position: no data
Georgetown Univ
Christopher Joyner
It can assumed that his major would be maritime issue, maritime law.
Sejong University
Hosaka Yuji (Korean, NOT JAPANESE)
famous for misleading claims without proper theory.position:Pro-Korean
Hawaii Manoa Univ John Van Dyke
without no consideration about Korean faabricated theory, he support korean claim.Position: Pro-Korean
Five Ocean ConsultantsNorman Z CherkisPosition:no data
Now:
Pro-Korean 3
Unknown 3
Pro-Japanese 0
It must be unfair parrot propaganda sympodium
matsu-san,
ReplyDeleteThe original news you mentioned included the following:
来月 7日ワシントンDC ナショナルプレスクラブで、韓国と日本、台湾、アメリカの学者が参加する「独島国際シンポジウム」を開催すると 21日発表した。
It says the sympsium would include a Japanese scholar, whom in the end was disclosed as Prof. Hosaka, a Japanese Korean.
So it is clear that this symposium will be held for a propaganda reason with the fixed result as "Dokdo is ours".
It's not an important symposium, the world will just ignore it.
3人の日本人学者は?
ReplyDelete今回のシンポジウムに招待されようとした3人の日本人学者について、考えてみました。
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GTOMRさん紹介のサイトはもう削除されてしまったようですが、
もと記事は、中央日報のアメリカ版のようです。
http://www.koreadaily.com/news/read.asp?art_id=827629
패널 구성은 역사학자 출신으로 독도특위의 학술위원장으로 참여하고 있는 김필규 교수가 맡았다. 김 교수는 “전 세계 해양법과 국제법 권위자 50명을 대상으로 독도에 관심 있는 10명을 추려내 행사 참여가 가능한 학자들로 구성했다”고 밝혔다.
パネル構成は、歴史学者出身で独島特委の学術委員長として参加しているキム・ピルギュ教授が担当した。キム教授は「全世界の海洋法と国際法の権威者50人を対象に、独島に関心のある10人を選出し、シンポジウム参加が可能な学者たちで構成した」と明らかにした。
김 교수는 패널 인선 과정 후일담으로 “일본내 학자 3명에게 참여를 요청했으나 1명은 사망, 또 다른 1명은 건강악화로 참석이 불가능했고, 나머지 1명도 ‘워싱턴 국제프레스클럽에서 독도가 한국땅이라고 주장했다가는 일본 땅에서 생명의 위협을 느낄 것 같아’ 고사했다”고 전했다.
キム教授は、パネラー人選過程の後日談として、「日本の学者3名に参加を要請したが、1名は死亡し、他の1名は健康の悪化で参加が不可能となり、残り1名も『ワシントン国際プレスクラブで独島が韓国の領土だと主張すれば、日本で生命の脅威を感じることになるだろう』と固辞した」と伝えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、この3人の日本人の学者は、一体、誰でしょうか?
以下は全くの憶測ですが・・・。
まず、「死亡した」人は、梶村秀樹先生ではないかと思います。
そして、「体調が悪かった」人は、あるいは、内藤正中先生でしょうか。
最後に、GTOMRさんは引用しませんでしたが、3人目の人が面白いことを言っています。
『ワシントン国際プレスクラブで独島が韓国の領土だと主張すれば、日本で生命の脅威を感じることになるだろう』
・ ・・さて、こう言って固辞した人は誰でしょう?
名前は浮かびますが、今、それを言うのは遠慮しておきましょう。
それよりも、ここで注目されるのは、このシンポジウムに呼ばれた日本人学者は、「独島が韓国の領土だ」と主張することを、あらかじめ予測されていたということです。つまり、そういう人しか呼ぶつもりがなかったことを、この談話は、はからずも暴露してしまっています。
このキム・ピルギュ教授の「人選の後日談」については、この中央日報だけしか記事にしていません。当日の記者会見には、ほかにもメディアが来ていたようですが、いわば、記者へのサービスの、なかば冗談のような談話ではなかったかと思います。
断った日本の学者も、そういう冗談として受け取られることを、あるいは意識していたのではないかとも想像します。
さてここで、「ワシントンに来て、独島が韓国領だと言ったら、帰国後には生命の危険がある」というような状況が、はたして今の日本にあるのでしょうか?
昔、梶村先生が右翼に狙われていた、という話はあります。
しかし、いまの日本に住んでいて、例えば、韓国側の代弁者のように言われている内藤正中先生にしろ、「生命の危険にさらされている」ことがあるのでしょうか?
一方で、反対に、韓国の状況はどうか、ということです。
もし、仮に、韓国人の学者がシンポジウムで、
「独島は、もしかしたら韓国領では無いのかもしれない」とでも言ったとしたら、本当に、帰国後に「生命の危険」があるかもしれません。
少なくとも「失職の危機」は、すぐに訪れることでしょう。民族の裏切り者として、家族までも迫害を受けるかもしれません。
よって、Chaamieyさんが指摘していた、
「独島については、韓国の学者は、思考を停止している」
という状況が、本当にあるのだと思います。
本当に自分の目で文献を読み、自分の頭で考えてみたら、独島が韓国領だとは、必ずしも言えないのではないか、ということを、勇気を持って言える「良心的な」学者が、韓国にもあらわれることを期待していますが、やはり今の状況では相当難しいと思います。
さて先日の英語版の記事をよく見ると、実はこれはアメリカ駐在の韓国大使館のページです。
仲間うちである韓国語のメディアは、「日本も参加する国際シンポジウムである」と、主催者に調子を合わせたものの、さすがに英語で発信する大使館のメディアとしては、今後の信用ということを考えると、「日本が参加する」というウソはつけなかったのだと思います。
また一方で、この事例は、韓国側が知っている日本人の学者といえば、そうした人たちしかいない、ということを示しているのではないでしょうか。
韓国側で論文が翻訳され、その内容が知られているのは、韓国側にとって気持ちの良い、自分たちに都合の良いことを言ってくれている論文だけのように思います。
韓国側が「妄言」と認識している論文は、たぶん韓国語や英語に翻訳された、きっちりした論文の形では、まったく紹介されていないのではないかと思います。
さらに英語で読める竹島に関する論文となると、その昔の、梶村氏のものと堀和生氏のものぐらいしかないのはないでしょうか。
いわば一方的な情報にしか接していない韓国の人たちのありようが、今の状況を作り出しているのではないかと思います。
田川孝三氏や、塚本孝氏の論文、さらには、島根県の竹島問題研究会の報告書のような文献が、ひろく韓国語や英語で紹介されるべきだと思っています。
その時に初めて、一方的な宣伝の場ではない、対話の機会が開かれる可能性が、ようやく生まれるのだと思います。
Prof John Chao at Taiwan political univ. we wrote a thesis about Takeshima/Liancourt.
ReplyDeleteJohn K.T. Chao, “On Legal Dispute of Takeshima between Japan and Korea,” Taiwan Ocean Law Review, 7(June 2008), 1-29.
And his lecture quotes pro-korean Van Dyke so It can assumed that John Chao also not neutral one?
matsuさん、
ReplyDelete>よって、Chaamieyさんが指摘していた、「独島については、韓国の学者は、思考を停止している」という状況が、
私、そういうこと書いてましたか、どうも覚えが無くて・・・・(^^; どこでしたっけ。
Chaamiey さま
ReplyDelete二つ前のポストの
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/04/18th-column-seeking-truth-based-solely.html
最後から7つ目のコメントを、私はそのように受け取ったのですが、
今読み返してみると、誤解しているかもしれません。そうであれば、取り消します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
論文「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」を取り急ぎ斜め読みして見ましたが、少々奇妙に感じることがあります。いや、それは見解の相違であって、別に奇妙ではないのかも知れませんが。
次のようなことです。
前書きでは、日本の挑発によって独島紛争が外交問題となっていると書き、資料として出て来る勅令41号の「石島」は何の説明も無く「=独島」と書いているのに、時代ごとの地名の変遷を解説するこの論文の中心的部分では、「石島は1905年に日本に強奪され、竹島と名付けられた」という類の説明は
ないですね。
朝鮮時代には地名がこう変化したとか、日本は併合後にこんなふうに地名を変えたなどと詳しく紹介しているにもかかわらず、ですよ。
私には、この論文の著者は、「石島」及び「独島」に関する説明を慎重に避けているように感じられます。それとも資料がないから書いてないだけなのか。「観音島」についても、「今は公式にはカクセソムという」とするだけで、前後の変遷は紹介されていません。
正確には論文全体を翻訳してじっくり読まなければ判断できないことですが、差し当たりそんな時間はとれそうにないので、一応の印象を書きました。
6:15 PM
・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このうち、
>私には、この論文の著者は、「石島」及び「独島」に関する説明を慎重に避けているように感じられます。
この部分を、「「石島」及び「独島」に関する説明」に、深入りする危険性を避けるため、「慎重に避けている」として、自分で考えるのを意識的にやめているのではないか、と受け取ったのです。
ジョン・ヴァン・ダイク教授は、韓国側に、国際司法裁判所に行くように勧めています。
ReplyDelete彼が、結果的に日本の味方であるとは、知りませんでした。
GTOMRさん紹介のハンギョレ新聞の記事の自動翻訳を、もと記事から翻訳しておきます。
http://toron.chu.jp/cbbs10/cbbs.cgi?mode=one&namber=3249&type=0&space=0&no=0
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/286503.html
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존 반 다이크 교수 “독도 영유권 한국이 이길 가능성 커”
ジョン・ヴァンダイク教授 「独島領有権、韓国が勝つ可能性大」
국제법 권위자 존 반 다이크 교수 “역사 증거 많아”
国際法権威者、ジョン・ヴァンダイク教授 「歴史的証拠多い」
세계적인 국제법 권위자인 미국 하와이대 존 반 다이크(사진) 교수는 8일 인하대 로스쿨관에서 열린 특별강좌에서 “비록 현재 한국이 독도 분쟁을 국제사법재판소에 제소하는 것에 대해 매우 소극적이지만, 국제사법재판소는 한국의 독도 영유권을 인정할 가능성이 매우 높다”고 말했다.
世界的な国際法の権威者であるアメリカ・ハワイ大のジョン・ヴァンダイク(写真) 教授は、 8日、仁荷大ロースクール館で開かれた特別講座で 、「現在、韓国は独島紛争を国際司法裁判所に提訴することに対して非常に消極的であるが、国際司法裁判所は、韓国の独島領有権を認める可能性が非常に高い」と述べた。
인하대 국제해양법센터(센터장 이석우 교수)가 6~9일 주최한 ‘동북아시아와 국제법’ 주제의 7개 연속집중강좌 프로그램에 초청받아 지난해 이어 방문한 다이크 교수는 “독도 영유권 문제의 해결 없이 주변 해양경계획정의 문제는 해결될 수 없으며, 명확한 해양경계획정 없이는 크고 작은 분쟁들이 지속적으로 발생할 것”이라고 전망했다. 그는 또 “한국의 독도 영유권에 관한 역사적인 증거는 일본보다 강하다”고 평가하고, “그러한 역사적인 평가가 국제사법기관에 의해 독도에 대한 한국의 주장을 받아들일 수 있도록 하기 위해서는 국제법적인 여러 원칙들을 설명하는 노력이 좀더 필요하다”고 지적했다.
仁荷大の国際海洋法センター(センター長 イ・ソクウ教授)が、6~9日に主催した「東北アジアと国際法」というテーマによる7回の連続集中講座プログラムに招かれ、去年に引き続き訪問したダイク教授は、「独島領有権問題の解決なしに周辺の海洋境界区画設定の問題は解決することができない。また、明確な海洋境界区画設定なしには、多様な紛争が持続的に発生する」と展望した。彼はまた「韓国の独島領有権に関する歴史的な証拠は、日本より強い」と評価し、「そういう歴史的な評価が、国際司法機関による独島に対する韓国の主張の受け入れにつながるためには、もっと国際法的な諸原則を説明する努力が必要だ」と指摘した。
동아시아지역 해양법 분야 전문가이자 대표적인 지한파 학자로 알려진 다이크 교수는 “독도는 무인도이므로 유엔해양법협약 제121조(3항)에서 명시하고 있는 대륙붕과 배타적 경제수역을 가질 수 없다. 따라서 한국의 울릉도와 일본의 오키섬 사이의 중간선이 한-일 양국 사이 해양경계선으로 획정되어야 한다”고 주장하고, 결론적으로 일본이 이를 받아들여야 할 것이라고 촉구했다.
東アジア地域の海洋法分野の専門家であると同時に、代表的な知韓派学者として知られるダイク教授は、「独島は無人島なので、国連海洋法協約第121条(3項)で明示している大陸棚と排他的経済水域を持つことはできない。したがって、韓国の鬱陵島と日本の隠岐島の間の中間線が、韓-日両国の間の海洋境界線として確定されなければならない」と主張し、結論として、日本がこれを受け入れなければならないと促した。
(주)대한해운 이진방 회장이 지난해 기탁한 해양법발전기금으로 이번 특강 프로그램을 마련한 국제해양법센터는 다이크 교수에게 ‘인하-대한해운 글로벌 해양법학자’ 직함과 함께 연구비를 지원할 예정이다.
(株)大韓海運のイ・ジンバン会長が去年寄託した海洋法発展基金により、今回の特講プログラムを準備した国際海洋法センターは、ダイク教授に「仁荷-大韓海運 グローバル海洋法学者」の職を用意するとともに、研究費を支援する予定である。
김경애 기자 ccandori@hani.co.kr キム・ギョンエ記者
기사등록 : 2008-05-08 오후 06:59:42 기사수정 : 2008-05-08 오후 07:44:59
記事登録 : 2008-05-08 午後06:59:42 記事修正 008-05-08 午後 07:44:59
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
訳注:仁荷大(イナ大学)はインチョン(仁川)にある大学。荷はハワイの意。
matsuさん、
ReplyDelete私が「慎重に避けているように見える」と書いたのは、いわゆる「思考停止」の状態とは違うと思っているのですが、このへんのことは、論文の性格が明らかでないので相変わらず推測の世界ですから、これ以上は書かないことにします。
ジョン・ヴァン・ダイク教授については、ひょっとしたら、韓国政府が自ら国民に対して国際司法裁判所で決着をつけようとは言い出せないので、彼に頼んで言ってもらっているんですよ(笑)
This comment has been removed by the author.
ReplyDelete-----Matsu wrote;e----
ReplyDeleteしかし、いまの日本に住んでいて、例えば、韓国側の代弁者のように言われている内藤正中先生にしろ、「生命の危険にさらされている」ことがあるのでしょうか?
一方で、反対に、韓国の状況はどうか、ということです。
もし、仮に、韓国人の学者がシンポジウムで、
「独島は、もしかしたら韓国領では無いのかもしれない」とでも言ったとしたら、本当に、帰国後に「生命の危険」があるかもしれません。
少なくとも「失職の危機」は、すぐに訪れることでしょう。民族の裏切り者として、家族までも迫害を受けるかもしれません。
-----quote end------
We knoww at least one foreigner in Korea who were fired from University coz he suggest Korean distorture claim on Liancourt Rocks.
And,,it is not only University staff but also junior high or high school teacher got unfairness who I know and are blamed from colleague he/she suggest Detailed Ulleundo Map and Rusk Document.
To gerry,
ReplyDeleteIf possible please establish independent thread/post about this?
1892. 鄭處士述懷歌Im not sure the text in Ulluegndo website is correct or not, need original docu.
Year Unknown 朝鮮地誌資料(Choose no.4 book- vol.5 鬱島)
ReplyDeleteThere are three 面 and list of 洞,Mountain, river ,and Valley, and Touge(pass).
1944. 朝鮮府群島面町里名一覽 ?田松圭 著 廣韓書林
南面 芋洞 道洞 沙洞 (三)
西面 南陽洞 南西洞 台霞洞 (三)
北面 玄圃洞 羅里洞 天府洞 (三)
Mr.Gerry wrote;
The following 1918 report lists Ulleungdo as having ten islets (一0 嶼):
朝鮮土地調査事業報告書Please advice which book and pages.
Kaneganese;
If you have a time, please create independent summary thread for this issue with collected resources.
GTOMR,
ReplyDeleteNo problem. But I need sometime to read them again.
1917. 08.25.朝鮮道府郡面町洞里改正區域表 李鍾禎編輯
ReplyDelete慶尚北道 鬱島郡 慶尚南道鬱島郡一円
慶尚北道 鬱島郡 三面 九洞 郡庁所在地 南面道洞南面 苧洞 道洞 沙洞 (三)
西面 南陽洞 南西洞 台霞洞 (三)
北面 玄圃洞 羅里洞 天府洞 (三)
Just ask a question
ReplyDeleteところで、南京蘭(ナム・ギョンナン)氏、(嶺南大学校 民族文化研究所 学術研究教授)によると、
「北面」の翻訳(211p)にはこのような記載がある
1900年10月25日、郡制が始まると、この島を、
石浦洞の南の尾根を西南方向に上って行き、島の最高峰である聖人峯を経た後、
西側に伸びる山筋にそって下り、台霞嶺、老人峯をすぎ、台霞洞の馬岩と南西洞の水層層の間の山の終わりまでを境界として、その南を南面とし、その北を北面として、石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃の7つの洞里を管轄するようになった。(翻訳終わり)
he refer to the Seven 面 on North Face.(石浦、天府、新里、平里、玄圃、台霞、鶴圃
Which book or source he quoted the description above?
because I couldn't find any source incruding Akasaka map on 1900 ,which describes 新里 and 平里
ReplyDelete彼女は、まったく根拠となる文献(一次史料)をあげずに、この部分を書いています。
ReplyDelete1900年、禹用鼎の視察直後の鬱島郡設置の段階で、このように南北両面の「境界線」を、個別・具体的に示す、地理学的・行政的に厳密な文書は、実は存在しない、と私は思っています。
なお南京蘭論文には、この地名に当たる漢字は書いてありません。その意味で、翻訳としては、地名は、ハングルをそのまま、カタカナで表記するのが正しいのかもしれません。
念のため、南京蘭論文の該当箇所をあげておきます。
ReplyDelete独島研究_4_p211 (2008.6.30)
それから最後の参考文献のページです。
独島研究_4_p229 (2008.6.30)
重要なので出し惜しみしないで出典を明らかにして欲しいです。それとも、単なる推量…?
Chaamiy様が発見された鬱陵郡誌、見えるところまで一応打っておきましたので、どなたか足りないところを継ぎ足してください。(最近眼精疲労気味で・・・)
ReplyDelete1911.06.20 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)中の「鬱島郡誌」
一、起原及沿革
本島の起原は太古に在ては●として詳かならさるも新羅本記
をみるに東海上に在し于山国(一名鬱陵島と云ふ)は地方百里人民○○し
て年年沿海村落○○●●●●之を憂ひ討伐の議起るや何吗●●
州軍主異斯夫(同●羅州は江陵郡の古●、冥州は???を云う)は于山国民は●●なるが故
に力を以て廠し難し宜しく智を以て之に勝つへしと提唱し知
証王十三年に異斯夫木獅子(木を以て獅子を造り身に五●を施し口に火●を吐くもの)を引率して于山国に抵り木獅子を観めし●事して曰く●等降らすは
直に此の猛獣を放ち虐殺すへしと国民之を聞き大に●れ遂に
降伏して方物を貢献したりと●るのみにして何の時代に於て
繁殖し何の時代に於て国を樹立し又何の時代に於て滅亡したるを知らんと雖李朝世宗の時代に於て金丸賊なる者本島を根拠として邊境を侵すの警報に接し朝廷月松萬戸(方今の平海郡)南臭を遣して之を討滅せしめ其ノ後三陟営将(方今の三陟郡)と月松萬戸とを隔年本島に派し賊巣を捜討して全く余類なかしむととを期し其の結果良民をも尚ほ本島に居住するを許さらるに至りしと謂ふ。
開国四百九十二年検察使李圭遠本島を視察し全誌吗山岳多くして平原少なきも多少工作の●●を存し且海産の遺利少なからさ
るを認め之を開拓するの●●●●き其の意見を具し奏講し●
るに朝廷之を喜納し翌年鬱陵島開拓令頒布せられ島長を●●
し島務を管理せしめたり●●●●か各道より続続移住者渡航し樹木を伐採して家●●●●●●●●谷に放ちて烟地を●●
農作を以て生活、●●●●●●●●●と其に肥前天草の漁民
及木工等渡来して漁業の基礎を立て●もの漸く多きを加へし
も冬期に入り漁業休止の時季は皆●帰国するを常として出雲方
面より渡来し永久的家屋の建設に着手し之と日時に雑貨を輸入して農産物との貿易を開始せり是し本島に於ける貿易事業
の●矢とす爾来日韓人共に年を遂ひて増殖するや公武五年鬱陵島及び島長の名称を廃止して更に鬱島郡及郡守と改称し隆熙元年更に江原道の管轄を離れ是を慶尚南道の所管に移したり
是し本島の現状を●出したる起源、沿革の大要なりとす。
二、地理 地勢
本島は西、南、北の三面●●●●●●●●●●重畳、地●
●薄にして水田に乏し●●●●●●●●●●傾斜せし地
盤に於て拓かれ道路は海岸を●ひて●●し其の沿岸は絶壁拳
つへからさる所多く且風浪当に荒きを以って歩行甚だ困難なり。
三、面積、戸口および気候
本島の周囲は十四里十八町、廣●東五里、南北四里面積凡
そ九平方里にして江原道蔚珍郡の竹濱を距る東北八十浬の
海中に在り。
朝鮮人戸数九百八十八、人口五千八百五十五、内地人戸数二
百七十、人口九百三十一を算す、気候は温暖にして養●に適
す●●夏季は雨量多く秋に入れは暴風多く普通農作に甚た
不利なり又冬季に在りては十一月より降雪して翌年三月に及
ふ。
四、山川??及森林の状況
本当の中央に在る高山を聖人峰と謂ひ其の高さ約千七百余尺
之に亞くを弥勒山と称す此の二山の山脈四方に延ひて波濤の
如く其の間奇巖怪峰乞立して千態萬状始と名状すへからす又
西海岸に当りて錐山と称する高峰あり其の状恰も錐に似たる
●●●●●の名あり
●●●●●多き丸以て渓流も亦従て多きも河流と称するに足る
へきものなし其ノ中聖人峰より出づるものは南面芋洞を貫通
して南に流れ海に注ぐ其の延長約一里あり朱沙川と称す之れ
本島中の主なる河流なり其他北面錐山洞に蹯踞せる山腰の
鞘や凹める所に数多くの巖石露出し其の巖石の間より湧水湧出
し錐山●となりて落下し西に向て流るること十四五町にして
○○○○
●●●●●●●●●●を●て続らすにも係らす港湾と称すへきものな
し と称する一小湾あるも水深五尋湾内狭小にし
て且晴●多きに依り汽船の繋留は絶対に不能に属し僅に帆船百五十石積より四百石積に至るまてのもの六七隻を繋き得るに過きす而も風浪常に荒きか故に多くは之の●●に●●くる
か●索若くは●網を以て之を繋留せざるへからす斯くの如くにして尚ほ年年難破の厄に逢ふもの多しと謂ふ。
本島は昔時に在ては全島鬱葱たる森林を成せしも漸次伐採開
墾して各所に火田を拓きたるを以て良木巨材の●滅を来せる
も今尚ほ全島に渉り蒼蒼たる森林一千町歩を超ゆと謂ふ
五、運輸交通
運輸交通は一年を通して釜山及浦項に五六●、日本境港に三
四十●の公開をなすに過きす而も三月より十月に至る比較的
海上静穏の時季に於てせさるへからす郵便物の輸送は是等の
便船に頼るの外策なきを以て其の不便の●●●こと●に甚し
きも幸にして電信は既に元山及出雲に開通せるに依り通信上
一部の欠点を補ひ得て之か為め要急の用務を弁し居るの有●
なり
六、耕地及不耕地
耕作地は重に畑にして水田は極めて少なく不耕地は森林の外な
しと謂ふに可なり而して既耕地の面積は水田八町歩火田三百
三十町歩にして不耕地即ち森林は既耕地即ち田畑の三倍に上
ると謂ふ
七、重要なる物産の価格及数量
ReplyDelete陸産物は大豆其の主意を占め薪、馬鈴薯、麦、玉蜀泰、●、
炭之に次く又海産物はスルメを主とし鮑、若布、天草、海苔之に
次く而してスルメ、大豆、鮑、若布、天草、海苔はもっぱら他に移出
するも馬鈴薯、麦、玉蜀泰、米、薪、炭は全く本島内に於て
消費せらる今其の山額及価額を表示すれは左の如し
<表を挿入すること>
八、商工、漁業
本島には市街なく又市場なし従て純然たる商店を構ふるもの
なきも内地人中地又は釜山より米、麦、酒、砂糖、蕎麵、木
綿、金巾其の他の雑貨を移入し其の居宅に於て商業を営むも
のあり是等の売買は多くは現金取引にあらすして一時現品を
貸売し其の代償おして大豆、スルメ、若布等の収穫物を其の収穫
期に於て支拂はしむ乃ち五月より六月まてを若布期とし七月
より十月まてをスルメ期とし十一月を大豆期とす
工業は全島を通して鍛冶工二、笠直工一、煙管工二あるのみ
面も極めて微微たるものに過きす
漁業は頗る有望にして到る所適応せさるなきも其中根拠地と
して重要視せらるる箇所は南面道洞即ち郡庁所在地なり此の
方面には機械船を使用して漁獲物の製造、移出をなすものあ
り漁業者は内地人二百四名、朝鮮人六十二名にして漁船計二百
六十六艘を有す此等の漁業は主として網を用いすして縄釣又
は「ヤス」に依る。
九、貨幣流通の状況
本島は交通不便なる海中の一孤島なるを以て商取引の多くは
古来物品の交換または手形に依り或は問々大豆を通貨に代へて
使用するの習慣あり故に貨幣の流通は或る内地人の一小部
分に行はるるに過ぎす
十、警備期間及び官公所
本島を開拓せし当時島長を置き島民の取締に任せしめたり爾
来日韓人の戸口漸次増加せるを以て光武五年に至り鬱陵島を
鬱島郡と改称し島長に代ふるに郡守を以てし同七年南面道洞
に郡衙を建築し●●●●●を設置するに至れり。
当時外務省は内地人保護の為警部一人、巡査部長一人、巡査
二人を駐在せしめ六箇月毎に交替し明治三十七年に至り警部
のみの駐在を廃止し同四十年日韓警察事務を合同せらるるや
韓人巡査四人を配置し同四十二年改めて日人巡査一人韓人巡
査二人を配置せしか同四十三年に至り今日の制度となれり。
税務機関としては隆熙二年一月始めて財務暑を設置し主事一
人を在勤せしめ徴税事務の執行に当らしめしか明治四十三年
十月に至り現時の郡庁に合併せらる。
十一 島民の性質、生活情態
島民は概して無学にして性質淳朴なり●として農業に依りて
生活を営めるも海岸に住する者は農業の傍ら漁業に従事し僅
に低度なる移植の●を得て生活●つつあり。
十二 教育の一斑
教育機関としては南面道洞に私立神明学校あるも設立日尚ほ
浅くして効果を見るに至らす其の他各所に数十の私塾あるも
其の価値を認められす。
十三 名所古跡
本島に聳える千峰萬堅は高く雲●に●立し奇巖怪石蒼海に倒
●して幾千歳の星霜を重ね依然として太古の風貌を保つも文
人をす墨客来らす実に本島風光の為に惜むへしとなす
十四 租税制度
(イ) 各税の起源沿革
本島開拓以来政府は島務費に充てんか為若布採取の所得十分
の一を海税と称して徴収したりしか光武五年島長制度を廃止
して郡を置かれ同七年三月に至り始めて郡守の赴任するに際
し国庫より金壱千円を下付し郡衛を建築し租税を徴収して一
島の庁費に充つることとなれるも当時本島の土地は水田なく
火田なるも山腹若は急傾斜地に散在して地質亦粗悪なるか為
●の一●府郡の如く結負を附し税額を決定する能はさるの事
●●りしを以て面積の廣狭を問わす唯土地の所有者一戸に戸
税として一箇年平均大豆六斗五升つつを賦課し其の当時の戸
数六百十四戸に対し三百九十九石一斗此の価格千五百九捨
六円四拾銭と島長時代より賦課し来れる海税年額約参百円を
徴収し其の内壱百円は歳入金として国庫に納入し残額は総て
之を庁費に充当せるも爾来年年其戸口を増加せる為隆熙二
年に至り此の制度を改め庁費は之を国庫より支出し別に財務
機関を設けて租税を徴収することとし、従来賦課せる戸税の半
額を減して壱円参拾銭となすと共に海税は之を徴収せす又内
地人移住者には多少土地を所有するものあるも是等は農作を
為ささるを以て毎戸平均参拾銭宛を賦課徴収するに止む其の
他酒税、煙草税、人参税、屠場税は隆熙三年より漸く其の徴
収を開始するに至れり。
(ロ) 現時の各税別 賦課物件及税額は左の如し
<表を添付すること>
(ハ) 島民の納税思想
光武七年丸●を設け租税を賦課したる答辞は島長制度を
郡守制度に改め●の一般府郡民同様の取扱を受くるに至りた
る際なるを丸まる丸●は痛く之n満足し納税上何等苦情を唱へ
さりしか○○○○●税務署を設置するに方り其ノ経費も亦之
に依りて○○○○○○のと誤解し徴税上称や憂ふへき現象を
呈した○○○○●其の疑惑を解くに至れり
前叙する如く本島●●●貨幣の流通を●くか為本島の主産物
たる大豆の収穫●●●●さしは納税を為す能はす故に其の収穫
時季即ち十一月上旬○○●租税の収納に着手し一箇月を出さ
るに納入を了するを●とす
GTOMRさん、お疲れさまです。あとは引き受けました。
ReplyDelete「鬱島郡誌」
ReplyDelete1911.06.20 「朝鮮総督府月報」第1巻第1号(明治44年6月20日発行)
一 起原及び沿革
本島の起原は、太古に在ては邈として詳かならざるも、新羅本記を見るに、東海上に在る于山國(一名鬱陵島と云ふ)は地方百里、人民慓悍して年年沿海村落を侵掠す。擧朝之を憂ひ、討伐の議起るや何琵羅州軍主異斯夫(何琵羅州は江陵郡の古號、郡主は大将軍を云う)は、于山國民は勁悍なるが故に力を以て敵し難し。宜しく智を以て之に勝つべしと提唱し、知證王13年に異斯夫木獅子軍(木を以て獅子を造り身に五彩を施し口に火焔を吐くもの)を引率して于山國に抵り、木獅子を観めし誑言して曰く、爾等降らずば直に此の猛獣を放ち○殺すべしと。國民之を聞き大に懼れ遂に降伏して方物を貢獻したりとあるのみにして、何の時代に於て繁殖し、何の時代に於て國を剏立し、又何の時代に於て滅亡したるを知らずと雖、李朝世宗の時代に於て金丸賊なる者本島を根據として邊境を侵すの警報に接し、朝廷月松萬戸(方今の平海郡)南昊を遣して之を討滅せしめ、其の後三陟営将(方今の三陟郡)と月松萬戸とを隔年本島に派し、賊巣を捜討して全く餘類なからむことを期し、其の結果良民をも尚ほ本島に居住するを許さざるに至りしと謂ふ。
開国492年、検察使李圭遠本島を視察し、全島山岳多くして平原少なきも、多少耕作の餘地を存し、かつ、海産の遺利少なからざるを認め、之を開拓するの希望を懐き其の意見を具し奏請したるに、朝廷之を喜納し、翌年鬱陵島開拓令頒布せられ、島長を官選し島務を管理せしめたり。此に於てか各道より続続移住者渡航し、樹木を伐採して家屋を建築し、火を山谷に放ちて烟地を拓き、農作を以て生活を営むものを生じたると共に、肥前、天草の漁民及び木工等渡来して漁業の基礎を立つるもの漸く多きを加えしも、冬期に入り漁業休止の時季は皆帰国するを常としたりき。然るに、日清戦争の頃に至り、永遠の事業を起さむとして出雲方面より渡来し、永久的家屋の建設に着手し、之と日時に雑貨を輸入して農産物との貿易を開始せり。是れ本島に於ける貿易事業の嚆矢とす。爾来、日韓人共に年を遂ひて増殖するや、光武5年、鬱陵島及び島長の名称を廃止して、更に鬱島郡及び郡守と改称し、隆熙元年、更に江原道の管轄を離れ、之を慶尚南道の所管に移したり。
是れ、本島の現状を造出したる起源、沿革の大要なりとす。
GTOMRさん
ReplyDeletechaamieyさん
ありがとうございます。書きおこしが終わったら独立した投稿にしましょう。
二 地理、地勢
ReplyDelete本島は西、南、北の三面18洞より成り、全島山岳重畳、地味瘠薄にして水田に乏しく、畑地は至る処の山腹又は傾斜せる地盤に於て拓かれ、道路は海岸を縫ひて延長し、其の沿岸は絶壁攀つべからざる所多く、かつ、風浪常に荒きを以って歩行甚だ困難なり。
三 面積、戸口および気候
本島の周囲は14里18町、廣○東西五里、南北四里、面積凡そ九平方里にして、江原道蔚珍郡の竹濱を距る東北八十浬許りの海中に在り。
朝鮮人戸数988、人口5,855、内地人戸数270、人口931を算す。気候は温暖にして養蚕に適するも、夏季は雨量多く、秋に入れば暴風多く、普通農作には甚だ不利なり。又、冬季に在りては十一月より降雪して翌年三月に及ぶ。
四 山河港湾及び森林の状況
本島の中央に在る高山を聖人峰と謂ひ、其の高さ約1,700余尺、之に亞ぐを弥勒山と称す。此の二山の山脈四方に延びて、波濤の如く其の間奇巖怪峰屹立して、千態萬状殆ど名状すべからず。又、西海岸に当りて錐山と称する高峰あり。其の状恰も錐に似たるを以って此の名あり。
本島山岳多きを以て渓流も亦従て多きも、河流と称するに足るべきものなし。其ノ中、聖人峰より出づるものは南面苧洞を貫通して南に流れ海に注ぐ。其の延長約一里あり朱砂川と称す。之れ本島中の主なる河流なり。其の他、北面錐山洞に蹯踞せる山腰の稍や凹める処に数多の巖石露出し、其の巖石の間より湧水湧出し錐山瀧となりて落下し、西に向て流るること十四、五町にして海に注ぐ。
本島は四面海を以って繞らすにも係らず、港湾と称すべきものなく、唯、南面道洞港と称する一小湾あるも、水深五尋、湾内狭小にして、かつ、且暗礁多きに依り、汽船の繋留は絶対に不能に属し、僅に帆船150石積より400石積に至るまでのもの6、7隻を繋き得るに過ぎず。而も、風浪常に荒きが故に、多くは之を陸岸に引揚ぐるが、鐵索若くは麻網を以て之を繋留せざるべからず。斯くの如くにして、尚ほ年年、難破の厄に逢ふもの多しと謂ふ。
本島は、昔時に在ては全島鬱葱たる森林を成せしも、漸次伐採開墾して各所に火田を拓きたるを以て、良木巨材の缼滅を来せるも、今尚ほ全島に渉り蒼蒼たる森林一千町歩を超ゆと謂ふ。
訂正
ReplyDelete一 起原及び沿革 のうち、
「郡主は大将軍を云う」
↓
「軍主は大将軍を云う」
五 運輸交通
ReplyDelete運輸交通は、一年を通して釜山及び浦項に五、六回、日本境港に三、四十回の航海をなすに過ぎず。しかも三月より十月に至る比較的海上静穏の時季に於てせざるべからず。郵便物の輸送はこれらの便船に頼るのほか策なきを以て、その不便を感ずること殊に甚しきも、幸いにして電信は既に元山及び出雲に開通せるに依り通信上一部の欠点を補ひ得て、之が為め要急の用務を弁じ居るの有様なり。
六 耕地及び不耕地
耕作地は重に畑にして水田は極めて少なく、不耕地は森林の外なしと謂ふに可なり。而して既耕地の面積は、水田8町歩、火田330町歩にして、不耕地即ち森林は既耕地即ち田畑の三倍に上ると謂ふ。
七 重要なる物産の価格及び数量
陸産物は、大豆其の首位を占め、薪、馬鈴薯、麦、玉蜀沗、米、炭、之に次ぐ。又、海産物はスルメを主とし鮑、若布、天草、海苔、之に次ぐ。而してスルメ、大豆、鮑、若布、天草、海苔はもっぱら他に移出するも、馬鈴薯、麦、玉蜀沗、米、薪、炭は全く本島内に於て消費せらる。今其の産額及び価額を表示すれば左の如し。
<表あり>
八 商工、漁業
本島には市街なく、又、市場なし。従て純然たる商店を構ふるものなきも、内地人中内地又は釜山より米、麦、酒、砂糖、麦麵、木綿、金巾その他の雑貨を移入し其の居宅に於て商業を営むものあり。是等の売買は多くは現金取引にあらずして、一時現品を貸売し、其の代償として大豆、スルメ、若布等の収獲物を其の収獲期に於て支拂わしむ。すなわち、五月より六月までを若布期とし、七月より十月までをスルメ期とし、十一月を大豆期とす。
工業は全島を通して鍛冶工2、笠直工1、煙管工2あるのみ。しかも極めて微々たるものに過ぎず。
漁業は頗る有望にして到る所適応せざるなきも、就中根拠地として重要視せらるる箇所は、南面道洞、即ち郡庁所在地なり。この方面には機械船を使用して漁獲物の製造、移出をなすものあり。漁業者は内地人204名、朝鮮人62名にして漁船266艘を有す。これらの漁業は主として網を用いずして、縄釣又は「ヤス」に依る。
九 貨幣流通の状況
本島は交通不便なる海中の一孤島なるを以て、商取引の多くは、古来、物品の交換または手形に依り、あるいは間々大豆を通貨に代えて使用するの習慣あり。故に貨幣の流通は、或る内地人の一小部分に行はるるに過ぎず。
十 警備機関及び官公署
本島を開拓せし当時、島長を置き島民の取締に任ぜしめたり。爾来、日韓人の戸口漸次増加せるを以て、光武5年に至り鬱陵島を鬱島郡と改称し、島長に代ふるに郡守を以てし、同7年、南面道洞に郡衙を建築し官属及び巡校を設置するに至れり。
当時、外務省は、内地人保護のため警部1人、巡査部長1人、巡査2人を駐在せしめ、六箇月ごとに交替し、明治37年に至り警部のみの駐在を廃止し、同40年、日韓警察事務を合同せらるるや韓人巡査4人を配置し、同42年、改めて日人巡査1人、韓人巡査2人を配置せしが、同43年に至り今日の制度となれり。
税務機関としては、隆熙2年一月、始めて財務署を設置し、主事1人を在勤せしめ徴税事務の執行に当らしめしが、明治43年十月に至り現時の郡庁に合併せらる。
十一 島民の性質、生活情態
島民は概して無学にして性質淳朴なり。主として農業に依りて生活を営めるも、海岸に住する者は農業の傍ら漁業に従事し、僅に低度なる衣食の資を得て生活しつつあり。
十二 教育の一斑
教育機関としては南面道洞に私立新明学校あるも、設立日なお浅くして効果を見るに至らず。その他各所に数十の私塾あるもその価値を認められず。
十三 名所旧跡
本島に聳える千峰萬壑は高く雲霄に屹立し、奇巖怪石蒼海に倒映して幾千歳の星霜を重ね、依然として太古の風勝を保つも、文人出でず墨客来らず、実に本島風光の為に惜むべしとなす。
十四 租税制度
ReplyDelete(イ)各税の起源沿革
本島開拓以来、政府は島務費に充てんが為、若布採取の所得十分の一を海税と称して徴収したりしが、光武5年、島長制度を廃止して郡を置かれ、同7年三月に至り始めて郡守の赴任するに際し国庫より金壱千円を下付し、郡衙を建築し租税を徴収して一切の庁費に充つることとなれるも、当時、本島の土地は水田なく火田なるも山腹若しくは急傾斜地に散在して地質亦粗悪なるが為、他の一般府郡の如く結負を附し税額を決定する能はざるの事情ありしを以て、面積の廣狭を問わず、唯、土地の所有者一戸に戸税として一箇年平均大豆六斗五升ずつを賦課し、その当時の戸数614戸に対し399石1斗、この価格1,596円40銭と、島長時代より賦課し来れる海税年額約300円を徴収し、そのうち100円は歳入金として国庫に納入し、残額は総て之を庁費に充用せるも、爾来、年年その戸口を増加せるため、隆熙2年に至りこの制度を改め、庁費は之を国庫より支出し、別に財務機関を設けて租税を徴収することとし、従来賦課せる戸税の半額を減じて1円30銭となすと共に、海税は之を徴収せず。又、内地人移住者には多少土地を所有するものあるも、これらは農作を為さざるを以て毎戸平均30銭宛を賦課徴収するに止む。その他、酒税、煙草税、人蔘税、屠場税は隆熙3年より漸くその徴収を開始するに至れり。
(ロ)現時の各税別、賦課物件及び税額は左の如し
<表あり>
(ハ) 島民の納税思想
光武7年、郡衙を設け租税を賦課したる当時は恰も島長制度を郡守制度に改め、他の一般府郡民同様の取扱を受くるに至りたる際なるを以って、島民はいたく之に満足し、納税上何ら苦情を唱へざりしが、その後、別に財務署を設置するにあたり、その経費もまた之に依りて支弁せらるるものと誤解し、徴税上やや憂ふべき現象を呈したるも、暫時にしてその疑惑を解くに至れり。
前叙する如く、本島は常に貨幣の流通を欠くが為、本島の主産物たる大豆の収穫を待たざれば納税を為す能はず。故に、その収穫時季、即ち十一月上旬において租税の収納に着手し、一箇月を出ざるに納入を了するを常とす。
(終)
1911.慶尚南道道勢要覧
ReplyDelete南面 芋洞 沙洞 玉泉洞 新里 長與洞 蓮荷洞 6
西面 通九洞 石門里 南陽里 窟岩洞 南西洞 鶴圃洞 台霞洞 7
北面 羅里洞 天府洞 平里 光巌洞 新村 玄圃 6
合計3面19洞里
남쪽에 있던 석도가 남면에 소속되지 않고 북면에 소속된 건 울도군 군청이 북면에 있었기 때문입니다. 무인도이어서 거주민 사무를 하는 남면 사무소에 소속될 이유도 없고 상업행위와 관련한 일본인 상대 외 기타 문제로 좀 더 상위의 군청에서 직접 관리하는 행정구역이지 인구도 없는데 면에서 관리하지 않기 때문입니다. 이유는 북면에 군청이 있었기 때문..
ReplyDelete감사합니다.
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ReplyDelete南にあった石島が南面に所属されず、北面に所属しているのは鬱島郡郡庁が北面にあったからです。無人島なので住民事務をする南面事務所に所属する理由もなく商業行為と関連した日本人相手のほかその他の問題として、より上位の郡庁から直接管理する行政区域で人口もないのに面で管理していないからです。理由は、北面に郡庁があったから。
ReplyDeleteありがとうございます。
おやおや、3年前に予告しておいたような説明が本当に出て来たが、これは資料に基づくものなのかどうか尋ねて見よう。
ReplyDeletechoiさん、
그것은 무엇인가 자료에 근거하는 설명입니까? 혹은 당신의 생각입니까?
Choiさん
ReplyDelete「石島が南面に所属せず、北面に所属していた」という歴史的事実は確認されていません。
それを前提とした、あなたの推測は、意味がないと考えます。
『鬱陵島誌』に、「石島は北面に所属」という記述がありますが、これは史料操作の未熟による誤謬と考えられます。
ただし、将来これに関する1900年前後の文献が発見されれば、それをもとに考えていく必要はあると思います。
Choi 씨,
ReplyDelete「石島는 남면에 소속되지 않고, 북면에 소속되 있었다」라는 것은 역사적 사실로 확인되고 있지 않습니다.
그것을 전제로 한 당신의 추측은 의미가 없다고 생각합니다.
『울릉도지』에는「石島는 북면에 소속」이라고 하는 기술이 있습니다만, 이것은 사료조작의 미숙에 의한 오류라고 생각됩니다.
단, 장래 이것에 관한 1900년 전후의 문헌이 발견되면, 그것을 바탕으로 고찰 할 필요는 있다고 생각합니다.