イガ島とマノ島(まの島)は、鬱陵島の約2.2km先にある隣接島の竹嶼を指す、日本の古名です。韓国人は現在この島を"竹島(ジュクド)"と呼んでいますが、以下の地図がはっきりと示すように、李氏朝鮮時代(1392-1910)には"于山島"として知られていました。
地図 1-6: 朝鮮時代の鬱陵島地図
韓国人はこの鬱陵島の隣接島の名称を于山島(ウサンド)から竹島(ジュクド)に変えることにしたのでしょうか?おそらく、日本式の名称に影響を受けたのか、もしくは単に"竹島"と呼ぶ方がより島の様子を正確に表わすと思ったのでしょうか?
鬱陵島の竹嶼における韓国人と日本人
1692年の日本の古文書(岡島正義「竹島考」や大谷九右衛門「竹嶋渡海由来記抜書控」)によると、日本の漁師(鳥取藩の村川家)は鬱陵島の隣接島である"いか島"に上陸しています。そこで、明らかにその島で漁をしていた韓国人(当時は朝鮮人)が採取して置いたと思われる鮑を沢山見つけました。右に示す1724年の日本の地図には、イガ嶋が描かれており、場所からして鬱陵島の隣接島である竹嶼であることは間違いがありません。この島は当時、韓国人によって于山島と呼ばれていました。この1692年の古文書は日本と朝鮮の両国の漁民が、竹嶼を訪れており、漁の基地として利用していた可能性が高いことを証明しています。右の地図では、当時日本人は鬱陵島を竹島と呼んでいたことも分かります。いかにしてこの問題がややこしくなり始めたのかお分かりでしょうか?この当時日本人は鬱陵島を"竹島"とよび、朝鮮人はその小さな隣接島を同じく"竹島"と呼んでいました。さらに、現在日本人はLiancourt Rocks を"竹島"とよび、韓国人は"独島"と呼んでいるのです。
1692年の日本の古文書(岡島正義「竹島考」や大谷九右衛門「竹嶋渡海由来記抜書控」)によると、日本の漁師(鳥取藩の村川家)は鬱陵島の隣接島である"いか島"に上陸しています。そこで、明らかにその島で漁をしていた韓国人(当時は朝鮮人)が採取して置いたと思われる鮑を沢山見つけました。右に示す1724年の日本の地図には、イガ嶋が描かれており、場所からして鬱陵島の隣接島である竹嶼であることは間違いがありません。この島は当時、韓国人によって于山島と呼ばれていました。この1692年の古文書は日本と朝鮮の両国の漁民が、竹嶼を訪れており、漁の基地として利用していた可能性が高いことを証明しています。右の地図では、当時日本人は鬱陵島を竹島と呼んでいたことも分かります。いかにしてこの問題がややこしくなり始めたのかお分かりでしょうか?この当時日本人は鬱陵島を"竹島"とよび、朝鮮人はその小さな隣接島を同じく"竹島"と呼んでいました。さらに、現在日本人はLiancourt Rocks を"竹島"とよび、韓国人は"独島"と呼んでいるのです。
地図 7: 「竹島松島之図」」(1724) (享保九年、鳥取藩が幕命により大谷、村川両家及び両島で漁労に従事していた水主について調進した地図。「竹嶋考」に所収されている。)
于山島と竹
1690年代に起こった日朝間の鬱陵島に関する領土問題(いわゆる竹島一件)において、朝鮮側は自国の漁師も鬱陵島を"竹島"と呼んでいる、と主張していますが、それを裏付ける韓国側の地図は一枚もありません。その主張が正しいかどうかはともかく、1800年代まで、朝鮮人は鬱陵島の隣接島である竹嶼を指すのに、"于山島"と"竹島"と言う名称をどちらも使っていました。では何故、当時の朝鮮の人々は"竹島"と言う名称で、鬱陵島の隣接島を指していたのでしょうか。1711年、朝鮮の朝廷から検察使として派遣された朴昌錫は、鬱陵島の地図(「鬱陵島圖形」)を描きました。右にその切抜きを提示します。鬱陵島の東岸沖に"海長竹田 所謂于山島(海長竹の林、いわゆる于山島)"と記入された小さな島が見えます。海長竹(海藏竹とも標記される)は、この韓国の情報によると、6-7メートルにも成長する竹であるとの事です。学名は、Arundinaria simonii で、日本では川竹、もしくは女竹と呼ばれるようです。この海長竹は、1694年の鬱陵島の検察記の中でも言及されています。次に挙げるのは、検察使の張漢相によるものです。 地図 8: 「鬱陵島圖形」(1711)
東方五里許有一小島不甚高大海長竹叢生於一面(東側五里ほどに一つの小さな島があるが、高大ではなく海長竹が一面に叢生している。)
検察使の張漢相は、ほぼ確実に鬱陵島2.2km東沖にある隣接島の竹嶼を指していたと思われます。"海長竹が一面に叢生している"と言う記述は、1711年の地図と全く一致するのです。
上の地図では于山島が鬱陵島の隣接島の竹嶼であり、その島には竹が生えている事を示しています。Liancourt Rocksには竹が生えるための土が無く、この事からも韓国人の主張するよう"于山島がLiancourt Rocks/独島"、と言う主張は事実ではありえません。しかも、何故韓国人は于山島と言う名称を竹嶼(竹島)に変えたのか、という問いの答えにはなっていません。
上の地図では于山島が鬱陵島の隣接島の竹嶼であり、その島には竹が生えている事を示しています。Liancourt Rocksには竹が生えるための土が無く、この事からも韓国人の主張するよう"于山島がLiancourt Rocks/独島"、と言う主張は事実ではありえません。しかも、何故韓国人は于山島と言う名称を竹嶼(竹島)に変えたのか、という問いの答えにはなっていません。
日本の地図と竹
右の地図は、明治政府が鬱陵島と竹島/Liancourt Rocks について調査した経緯をまとめた1877年の公文録に含まれる地図です。この地図では、鬱陵島(竹島)とLiancourt Rocks(松島)が描かれ、さらに、鬱陵島のすぐそばにマノ島と記された小さな島も描かれています。場所からして、これは鬱陵島の隣接島の竹嶼であることはほぼ確実です。マノ島の"マノ"は、おそらくマノ竹、と呼ばれた一種の竹の名前から来ていると考えられます。マノ竹は、日本の古文書の中にも現れます。それが正ければ、日本人は基本的にずっと鬱陵島の隣接島を"竹島"と呼んでいたことになります。 地図9: 磯竹島略圖(1877)
右に掲げた1696年の日本の地図には、鬱陵島、Liancourt Rocks(竹島/独島)、隠岐諸島を描いています。また、"まの嶋"と書かれた小さな島も鬱陵島の横に描かれています。先に申し上げた通り、日本人は当時、ある竹の種類を"まの竹"とよんでいたことが分かっています。"マノ"と"まの"は、単なる表記の違いだと考えられます。 地図10: 竹島松島之図(1696)
韓国人は于山島を見失い始めた
1800年代になっても朝鮮の地図では鬱陵島の隣接島を于山島として描いていました。しかし、竹島と言う名称が鬱陵島の検察報告に表れるようになります。つまり、鬱陵島に密航していた朝鮮人達が、于山島の代わりに竹島と言う名称を使っていた事を示しています。地図には変わらずに鬱陵島の横に描かれているのに、朝鮮の人々は于山島の存在について1882年まで見失ってしまったようです。下の文は高宗と鬱陵島の検察使であった李奎遠の間で交わされた会話の記録です。
1800年代になっても朝鮮の地図では鬱陵島の隣接島を于山島として描いていました。しかし、竹島と言う名称が鬱陵島の検察報告に表れるようになります。つまり、鬱陵島に密航していた朝鮮人達が、于山島の代わりに竹島と言う名称を使っていた事を示しています。地図には変わらずに鬱陵島の横に描かれているのに、朝鮮の人々は于山島の存在について1882年まで見失ってしまったようです。下の文は高宗と鬱陵島の検察使であった李奎遠の間で交わされた会話の記録です。
王曰く「検察使よ、前へ出よ」。李奎遠は前に進みました。
王曰く「近頃、鬱陵島に他の国の者が絶えず往来して島を占有する、という被害がでている。松竹島と于山島は鬱陵島の傍にあるはずだが、互いの距離はその産物についての詳細が分かっていない。君は特別にこの検察使に選ばれたわけであるから、しっかりと仕事をせよ。民を住まわせる村を作るかもしれないから、詳細な地図と記録をとるように。」
李奎遠曰く「于山島は鬱陵島のことです。つまり于山とは、彼の国の昔の首都の名前です。松竹島は島から30里ほど沖の小さな島です。産物は、檀香と簡竹です。」
王曰く「芋山島(于山島)あるいは松竹島と呼ばれるものは、輿地勝覽に記述がある。それはまた、松島、竹島とも呼ばれ、于山島と3つあわせて鬱陵島と呼ばれる島を成している。全てについてその事情を検察せよ。そもそも三陟と越松の土候が鬱陵島の調査を行っていたが、皆いい加減で島の外周しか検察していない。こうしたことが外国人による弊害を招いたのだ。」
李奎遠曰く「深く分け入って検察を行います。その島は鬱陵島の東にあり、時に松島とも竹島とも呼ばれています。しかし、そこにあるのは、松竹島で、松島と竹島と言う別々の島があるわけではありません。」
王曰く「それは前任の検察使から聞いたのか?」
李奎遠曰く「いいえ前任者とはまだ話をしておりません。しかし、これが前任者の話の要旨であると聞き及んでいます。」
李奎遠は鬱陵島の検察から帰還し、その東沖に二つの小さな島があることを報告しました。一つは竹島(現在の竹嶼)、もう一つは島項(現在の観音島)です。これらの島はどちらも、右に挙げた李の描いた鬱陵島の地図の一部で確認出来ます。李は晴れた日に鬱陵島の一番高い峯に上って探したけれど、于山島という名の島は見えなかった、と証言しています。于山島の住民は李に、于山島という鬱陵島の隣接島の話は聞いたことがあるが、どこにあるか知らない、と答えています。李は、于山島は鬱陵島の別名に過ぎない、と結論付けます。 地図11: 鬱陵島外圖(1882)
李の報告書があるにも関わらず、右の地図にあるように、韓国の地図では于山島を鬱陵島の隣接島として描き続けます。この地図は地理の教科書である「大韓地誌」の中にあり、大韓帝国の教育省が作成しました。地図12: 大韓全図(1899)
李の報告書があるにも関わらず、右の地図にあるように、韓国の地図では于山島を鬱陵島の隣接島として描き続けます。この地図は地理の教科書である「大韓地誌」の中にあり、大韓帝国の教育省が作成しました。地図12: 大韓全図(1899)
さらに、1899年の韓国の新聞、皇城新聞は鬱陵島を次のように記述しています。
蔚珍の東方沖の海中に、鬱陵と言う名の島がある。その島には6つの隣接した小さな島嶼があり、それらのうち于山島竹島(于山島/竹島)がもっとも主要な島である。大韓地誌には、鬱陵島は昔の于山国ことで面積は100里ある、と載っている。3つの峰がそびえている。
この記事は、于山島/竹島が同じ島であるかのように記述されていますが、それについては明らかでありません。それにも関わらず、大韓帝国の勅令41号が翌年発布されましたが、鬱陵島、竹島(竹嶼)そして石島だけが郡を構成することと明記されたのです。于山島は言及されず、石島が一体どの島を指すのか、明確では有りませんが、鬱陵島第2の隣接島である観音島であるか、もしくは単なる周囲の岩や岩礁の総称として使われたものと思われます。鬱陵島の隣接島という石島について、それを描いたり言及したりした韓国側の地図や文書が何も無い以上、単なる総称として使われた可能性の方が高いと考えられます。
消えた于山島
1903年までに、于山島は消え、謎の島となってしまったようです。なぜなら、次の1913年の毎日申報の記事が示しているように、鬱陵島の住民でさえ于山島がどこにあるのか分からなかったようだからです。
鬱島郡西面在住の金元俊さんが、鬱島(=鬱陵島)東北40-50里の位置にある無人島の于山島へ移住するために移住民を募集して、その島を探すことにしました。しかし、彼によると鬱陵島の島民が、10数年前にその于山島を共同で探索しようとしたものの、発見できなかったということです。また、その島は海図に記されておらず、何度か探索船を出したものの発見できず、中止したそうです。 每日申報 1913.6.22
この記事からわかるように、1903年における鬱陵島の住民でさえ、于山島を見失ってしまっていたようです。しかし、鬱陵島の北東40-50里にある、と言う噂はあったようです。ただ、1913年には、鬱陵島の韓国人がLiancourt Rocks(竹島/独島)を知っていたのは確実です。にもかかわらず、彼等は依然として于山島を捜していた訳です。ということは、彼等がLiancourt Rocks(竹島/独島)は于山島だとは考えていなかったことになります。彼等が于山島を発見できなかった理由はもちろん、それが単なる竹嶼(竹島)の忘れ去られた古名に過ぎないからなのです。
李承晩の領土横取りと于山島の再浮上
1945年日本が敗戦を迎えた時、韓国の大統領李承晩は日本の領土を奪う絶好の機会と見ました。彼は古代から日本固有の領土だった対馬の領有を主張しようとしただけにとどまらず、あるはずの無い謎の島までその領有権を主張しようとしました。アメリカが、彼の対馬と謎の島(波浪島)に対する主張を受け入れないことが明らかになった時、李は1905年から公式に日本の領土に編入され、しかも数百年前から地図に描かれてきた、竹島(Liancourt Rocks)に目を付け焦点を絞りました。しかし、李には問題がありました。韓国にはその領有権を主張する為の古い地図や文書が存在しなかったのです。そこで韓国は、古地図や古文書にある于山島が実はLiancourt Rocks である、という主張を始めました。しかし、事実はこれらの地図は于山島を鬱陵島の隣接島として描いており、Liancourt Rocksではないのです。韓国政府は、アメリカが日本との苦しい戦争を戦ったばかりで日本の主張を受け入れるはずが無いと思ったのか、アメリカ人が調査したり、何の疑問もはさまずに彼らの主張を受け入れると思ったのでしょう。しかしながら実際は、アメリカ人は疑問をはさんで調査をし、そしてこのLiancourt Rocksが日本に所属すると決定したのです。事実、次に挙げる米国国務次官ディーン・ラスクから駐米韓国大使に宛てた手紙(ラスク書簡)で、彼はこのように伝えたのです。
1945年日本が敗戦を迎えた時、韓国の大統領李承晩は日本の領土を奪う絶好の機会と見ました。彼は古代から日本固有の領土だった対馬の領有を主張しようとしただけにとどまらず、あるはずの無い謎の島までその領有権を主張しようとしました。アメリカが、彼の対馬と謎の島(波浪島)に対する主張を受け入れないことが明らかになった時、李は1905年から公式に日本の領土に編入され、しかも数百年前から地図に描かれてきた、竹島(Liancourt Rocks)に目を付け焦点を絞りました。しかし、李には問題がありました。韓国にはその領有権を主張する為の古い地図や文書が存在しなかったのです。そこで韓国は、古地図や古文書にある于山島が実はLiancourt Rocks である、という主張を始めました。しかし、事実はこれらの地図は于山島を鬱陵島の隣接島として描いており、Liancourt Rocksではないのです。韓国政府は、アメリカが日本との苦しい戦争を戦ったばかりで日本の主張を受け入れるはずが無いと思ったのか、アメリカ人が調査したり、何の疑問もはさまずに彼らの主張を受け入れると思ったのでしょう。しかしながら実際は、アメリカ人は疑問をはさんで調査をし、そしてこのLiancourt Rocksが日本に所属すると決定したのです。事実、次に挙げる米国国務次官ディーン・ラスクから駐米韓国大使に宛てた手紙(ラスク書簡)で、彼はこのように伝えたのです。
独島、又は竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関し、この通常無人島である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われない。
図1: ラスク書簡(1951年8月10日)
1952年のサンフランシスコ平和条約が竹島を彼等に与えない事を悟り、韓国政府は、竹島を不法に占拠する事を決め、未だに不法占拠したままです。
韓国政府は1952年のサンフランシスコ平和条約を読み間違えたのでしょうか?私はそうではないと思います。1954年に、ジェームズ・ヴァン・フリートが大統領特命大使として韓国を訪れます。その報告書、"ヴァン・フリート極東使節団による報告書(ヴァン・フリート特命報告書)"は次のように記述しています。
アメリカと日本が平和協定草案を作る際、韓国が独島領有権を主張したが、アメリカは独島の統治権は日本にあると結論を下した。これによりこの平和条約では、日本が所有権を放棄する島々の中にその島は含まれないなかった。
鬱陵島の隣接島である竹嶼の古名である于山島が、今では韓国によるLiancourt Rocks(竹島/独島)のばかばかしい主張を裏付ける物として利用されています。いつになったら韓国の歴史学者は、勇気を出して立ち上がり、真実を語ってくれるのでしょうか。
Good job, Kaneganese.
ReplyDeleteBy the way, some of the maps are not showing up because I have supposedly exceeded my bandwidth limit on Google's Page Creator site, which is where I have some of the maps stored.
Thank you, Gerry, for fixing maps.
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