A 31 May 1901 article in the "The Long Island Farmer" said the "
Nichi Nichi" (東京日日新聞) reported that a new island had been discovered between the Korean island of Ulleungdo and Japan's "Oki Archipelago." It also said that both Japanese and Koreans called the island "Yanko." Other Western newspapers also reported the supposed discovery, including the
Montreal Star. However, the
Tokyo Nichi Nichi Shimbun (東京日日新聞) seems to have been the source for the Western newspaper articles.
Does anyone know of the
Tokyo Nichi Nichi Shimbun (東京日日新聞) article to which these English newspaper articles are referring? Since "The Long Island Farmer" article was dated 31 May 1901, the Japanese newspaper article would have been printed before that.
|
13 April 1901 Article from "The Tokyo Daily Newspaper." This article is very similar to that in the Black Dragon Society publication, but it omits the reference to Russian sea charts and the sentence that says the island is not part of Joseon territory. This was probably done to fit the article within the limited space on the pages of the newspaper. |
|
14 April 1901 Article from "The Japan Times" |
|
"The Long Island Farmer, Jamaica, New York -- 31 May 1901 |
|
"The Straits Times," 22 June 1901 |
|
"Fulton County News," 4 July 1901 |
|
"The Pacific Commercial Advertiser, Honolulu," July 30, 1901 |
|
3 Oct 1901 Article in the "Plymouth Republican" |
|
27 July 1901 Article from the "Journal Junior" of "The Minneapolis Journal" |
There is an archive of Tokyo Nichinichi Shimbun(東京日日新聞) on the net, but unfortunately there are not newspapers of before 1912.
ReplyDeleteChaamiey, that is unfortunate, but I suspect someone will still find the article somewhere.
ReplyDeleteGerry,
ReplyDeleteIt is very interesting finding!
『地学雑誌』「四月中旬 東京發行の各新聞紙」might be Tokyo Nichi Nichi.
Please someone translate the article below.
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『地学雑誌』13輯148巻(1901.5)pp.301-302
● 日本海中の一島嶼(ヤンコ)
去る四月中旬 東京發行の各新聞紙は日本海中に一島嶼を發見せることを報せり、
其いふ所に從へは
韓國欝陵島を東南に去ること三十里 我日本國隱岐を西北に距ること殆んと同里數の海上に 未た世人に知られさる一島嶼を發見せり、該島は 未た本邦の海圖には載らす イキリスの海圖にも亦之を記せされとも 其島の存在は確實にして、現に欝陵島にありし日本人は晴天の日 山の高所より東南を望みたるに 遙に島影を認めたりといへり、今此の島發見の歴史を聞くに 一兩年前 九州邊の一潜水器船が 魚族を追ふて遠く海中に出てたるに、見慣れさる所に一島嶼の存在せることを發見し 喜んで之を根據地と定め 其四隣の海中を漁り回りたるに、此の邊魚族の棲息せるもの頗る多かりしも 海馬數百群を爲して潜水器船を沮みたれば 終に目的を終へすして引還したりといふ、此の船中にありし潜水業者の實見したる所なりとて報する所によれは 其島は長さ三十町に近く 丘陵甚た高からされとも 處々に蓁〓蕪穢、島形又極めて屈曲に富み 漁船を泊し風浪を避くるに最も便あり、只地上より數尺の間は之を鑚るも水を得ず 從て現今の所にては水産物製造場としての價値は乏しといふべし、故に學者實業家は猶充分なる探検を施すの餘地を留む、日韓漁民之を指してヤンコと呼へりといふ
以上の記事に據るに其位置固より確實ならず、想ふに此の島は未だ海圖に示されすといふも 其記事及び稱呼より之を察せば 恰もLiancourt rocksリアンコートロツクに符合せり、或は之を指すに非ずやと疑はるヽも 尚其精確なる斷定は精細なる報告を得たる後に非れは下す能はず、
且らく參照の爲めに 左に朝鮮水路誌第二版(明治三十二年水路部刊行)二六三頁よりリアンコート島に關する記事を抄録せん
リアンコールト列岩
此列岩は洋紀一八四九年佛國船「Liancourt」初て發見し稱呼を其船名に取る 其後一八五四年露國「フレガツト」形艦「Pall as」は此列岩を「Menalai」及「Olivutsa」列岩と名つけ 一八五五年英艦「Hornet」は此の列岩を探検して「ホル子ツト」列島と名つけり 該艦長「Forsyth」の言に據れば 此列岩は北緯三七度一四分東經一三一度五五分の處に位する二座の不毛嶼にして 鳥糞常に嶼上に堆積し嶼色爲めに白し 而して北西彳西至南東彳東の長さ約一里 二嶼の間距離約二鏈半にして 見たる所一礁脉ありて之を連結す●西嶼は海面上高さ約四一〇呎にして其形棒糖の如し 東嶼は較低くして平頂なり●此列岩附近は水頗深きか如しと雖 其位置は實に凾館に向て日本海を航行する船舶の直道に當れるを以て頗危險なりとす
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
And it is also related to the article written by 葛生修亮in March 1901.
(黒龍会『会報』第1集「雑報」1901.3.10 107~108ページ)
日本海中未發見の一嶋
朝鮮の欝陵島を東南に去ることを三十里、我帝國の隠岐國を西北に距ること又殆んど同里数の海中に於て世人未知の無名島あり 此島未だ英國の海圖にも載せられず 日本露西亜の海圖にも記されず 又朝鮮の版圖にも編せられず 然れども其島の存在することは事実にして、現に欝陵島より帰りたるものは晴天の日同島山峯の高處に於て東南の方に遥かに島あるを認むと云へり 今此島發見の歴史を聞くに 一二年前西國筋の一潜水器船魚類を尋ねて遠く海中に出でたる時 見馴れざる場所に不圖一島嶼あるを認め 悦んで此處に根拠を据へ其四隣の海中を漁り廻りたるに 魚類の生息することは非常なれども 不幸にして數百頭の海馬の群れに悩まされ 何分にも饒多なる魚類の捕獲を全ふせず、ホウボウの体にて逃げ帰らざるべからざることとなりぬ、其後此事を以て或水産家に糺したるに 潜水器船の同島に到りたるは季節恰も五六月の交なりし故 海馬の産期に当るを以て其妨害を受けたるものなるべしと云ふ 同潜水業者が實見せる所にては 同島は流れ三十町に近く丘陵甚だ高からざれ共處々雑草雑木を生じ 島形又極めて屈曲多く漁船を泊し風浪を避くるには頗る好地位に在り 但し地上數尺の間は之を穿て其水を得ざるを以て 現今の處水産物製造場としては未だ好都合なりと云ふを得ずとのことなり 去れど航海家水産業者の為めには尚ほ充分探険の価値あるべし 因みに曰く 日韓漁民は此島を呼んで「ヤンコ」と云へり
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【質問22】明治時代の『地学雑誌』に「日本海中の一島嶼(ヤンコ)」という記事があるようだが、どのような内容なのか。
ReplyDelete________________________________________
http://www.pref.shimane.lg.jp/admin/pref/takeshima/web-takeshima/takeshima08/iken-B.html
『地学雑誌』13輯148巻(明治34年5月15日)p.251の記事で、内容は、東京発行の各新聞に韓国欝陵島の東南三十里日本国隠岐の西北同里数の海上に未知の一島嶼が発見されたという記事が載った、海図には載っていないが島の存在は確実で現に欝陵島にいた日本人は晴天の日山の高所より東南を望めば遥に島影を認めたという、発見の歴史は一両年前九州辺の一潜水器船が魚族を追って遠く海中に出たところ見慣れない所に一島嶼を発見、周辺は魚族の棲息が頗る多かったが海馬数百群を為して潜水器船をはばんだので引還したという、日韓漁民これを指してヤンコと呼ぶという、想うにこの島はLiancourtrocksに符合する、参照のために朝鮮水路誌第二版(明治三十二年水路部刊行)二六三頁よりリアンコート島に関する記事を抄録する、云々というものです。
明治34年といえば、中井養三郎が"リヤンコ島"でアシカ漁を始める直前の時期に当たりますが、「九州あたり」の漁船が赴くこともあり、その方面の人にとっては未知の島だったということでしょう。地学雑誌は、CD-ROMによる復刻版も出ています。図書館等でご確認ください。
(事務局:総務課)(2009年10、11月)
葛生修亮『韓海通漁指針』(黒龍会 1903)123~124p
ReplyDeleteにも、以下の記事がある。
これは前掲の黒龍会『会報』(1901.3.10)の記事を書き直したものである。
△ ヤンコ島 欝陵島より東南の方約三十里、我が隠岐國を西北に距ること殆んど同里數の海中に於て、無人の一島あり、晴天の際欝陵島山峯の高所より之れを望むを得べし、韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、長さ殆んど十餘町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し、然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上數尺の間は之れを穿てども容易に水を得ずと云ふ、此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑、海鼠、石花菜等に富み、數年以前山口懸潜水器船の望を屬して出漁したるものありしが、潜水の際、無數の海馬群に妨げられたると、飲料水缺乏との為めに、滿足に營業すること能はずして還りたりと、察するに當時の季節は恰も五六月にして、海馬の産期に當りしが故に、特に其妨害を受けたるものならんか、又た附近に鱶漁の好網代あり、數年以来五六月の候に至れば大分懸鱶縄船の引繼き之れに出漁するものあり、昨年春季同處より歸航したる漁夫に就て之れ聞くに、出漁未た二三回に過ぎさるが故に、未だ充分の好果を得たりと云ふべからざれ共、毎季相應の漁獲あり、從来の経験上、其網代の状態、及び鱶類棲息の模様等より観察するに、將來頗る有望の漁場たるを疑はずと、同島は蓋し當業者の為めには尚ほ充分探檢の価値あるべし
・・・・・・・・・・・・・・
・『地学雑誌』に「九州邊の一潜水器船」とあるが、これは『会報』(1901.3.10)の「西國筋の一潜水器船」を誤解したものと思われ、1903年『韓海通漁指針』では「山口懸潜水器船」となっている。
また、
・附近に鱶漁の好網代あり、數年以来五六月の候に至れば大分懸鱶縄船の引繼き之れに出漁するものあり
とあり、「ヤンコ」付近は鱶の好漁場であり、數年以来「大分懸鱶縄船の引繼き之れに出漁するもの」があったことが知られる。
現竹島付近に大分県の鱶縄船が出漁していたことが分かる。
東京日日新聞(毎日新聞の前身)は国会図書館の新聞資料室にありそうです。
ReplyDeletehttps://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&local_base=GU_BR&doc_number=002743196
https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=direct&local_base=GU_BR&doc_number=002750007
マイクロではなく現物みたいですね。
ヤンコの情報 明治34年(1901)
ReplyDelete1901.3.10 葛生修亮の発表 黒龍会『会報』
1901 4月または5月 『東京日日新聞』(現在未発見)(東京の他の新聞も?)
1901.5.15 『地学雑誌』
Liancourt rocks リアンコートロツク との符合を指摘
? The Japan Times
1901.6.22 The Straits Times
1901.7.30 The Pacific Commercial Times
Gerry,
ReplyDeleteIs “The Straits Times” a Singapore based Newspaper?
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Straits_Times
and "The Pacific Commercial Advertiser”, was based on Honolulu, Hawaii?
http://chroniclingamerica.loc.gov/lccn/sn85047084/
“The Straits Times” says it was informed by the Japan Times.
So we may get some information by finding the Japan Times article
『帝国新聞』 韓国で発行のハングル新聞
ReplyDelete1901年4月1日
鬱陵島 東南三十里 海中に ヤンコという 島を 日本で得たが
その島は 天下地図に 載っておらずに
所産は 魚物だが 海の中に 馬が 第一に(最も、とても) 多くて
漁夫たちを たくさん 傷つけるという
울릉도 동남삼십리 해중에 양고라 하는 섬을 일본에서 얻어는데
그섬은 천하지도에 오르지아니하였고
소산은 어물인데 바다속에 말이 제일 많아
어부들을 많이 상한다더라
〇天下地図に載っていない
「此島 未だ英國の海圖にも載せられず 日本露西亜の海圖にも記されず 又朝鮮の版圖にも編せられず」
〇바다속에 말「海の中に馬」
海馬 「あしか」という認識は、果たして韓国側にあるのか?
〇「漁夫たち」は日本人か?
Yes, Matsu, the Tokyo Nichinichi Shimbun(東京日日新聞)seems to have been the source for all the other articles.
ReplyDelete近代デジタルライブラリーに、当時の新聞各紙の記事が集成された資料があり、
ReplyDelete新聞集成明治編年史. 第十一卷に、明治三十四年四・五月分が載っています。
しかし、ヤンコ島の記事は重要とは考えられなかったようで載っていませんでした。
新聞集成明治編年史編纂会 編 昭和15年8月発行
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920419
コマ番号にして
141/282 から154/282までが、該当期間です。見落としがあるかも知れません。
1901年
4月4日 三笠竣工近し
4月6日 神戸へ十一二時間可能か 東海道線速力増加
4月18日 比律賓平定 米国陸軍卿宣言
4月26日 江の島電鐵起工
4月29日 皇長孫御降誕在らせらる
5月5日 皇孫御命名式 裕仁親王と申奉る
5月11日 第四次伊藤内閣瓦解 西園寺公望臨時首相代理となる
5月12日 日比谷公園設計成る
5月14日 越後長岡 鵜殿団次郎記念碑
5月15日 秦 佐八郎 伝染病研究所血清薬院技師叙任
5月18日 大阪 梅田駅竣工す 東京京橋へ隕石落下
5月22日 日本女子大学開校
5月25日 渡邊洪基逝く 五十五歳
5月30日 新橋・神戸間急行十五時間に短縮
Gerry,
ReplyDeleteI found “NichiNichi”
『東京日日新聞』 1901(明治34)4月13日(3面)
○日本海中の一島嶼 韓國の鬱陵島を東南に去ること三十里、我帝國の隱岐の島を西北に距ることまた殆んど同里數(どうりすう)の海中に 未だ世人(せじん)に知られざる一島嶼(たうしょ)あり 此島未だ日本の海圖(かいづ)に上(のぼ)らず 英國の海圖亦之を記さざれども 其島の存在(そんざい)するは事實にして現に鬱陵島(うつりょうたう)に在りたる日本人は晴天(せいてん)の日同島山京(ママ 峯カ)の高處に於て東南の方に遙(はるか)に島影(たうえい)を認めたりと云へり 今此島發見の歴史(れきし)を聞くに 一兩年前九州邊の一潜水器船魚類を尋(たづ)ねて遠く海中に出でたる時 見馴(みな)れざる場所(ばしょ)に一島嶼の存在することを認めたれば 喜んで其島を根據地(こんきょち)として 其四隣の海中を漁(あさ)り廻(まは)りたるに魚類の棲息(せいそく)するもの頗(すこぶ)る多かりしも海馬數百群を爲して潜水器船(せんすいきせん)を遮りたれば終に目的(もくてき)を達する能はず元來(もとき)し方に引返し 此事を以て某水産家に質したるに●は該潜水器船が右の無名島(むめいたう)に至りたるは海馬の産期なる五六月の交なりしが爲め其妨害を受けたるものならんと云へりと 而して同潜水業者の實見(じつけん)したる所に依れば 同島は長さ三十町に近く丘陵甚だ高からさざれども 處々(しょしょ)雑草雑木(ざつさうざつぼく)を生じ 島形また極めて屈曲多く漁船を泊(はく)し風浪を避くるには最も便利なり唯、地上數尺の間は之を穿(うが)つも水を得ざるを以て 現今の處水産物製造場としては未だ好位地と云ふを得ざるも 航海家、水産業者の爲めには猶(なほ)充分(じうぶん)探険(たんけん)の価値(かち)あるべしとなり 因に日韓漁民は此島を指してヤンコと稱すといふ
(葛生)3月10日
日本海中未發見の一嶋
朝鮮の欝陵島を東南に去ることを三十里、我帝國の隠岐國を西北に距ること又殆んど同里数の海中に於て世人未知の無名島あり 此島未だ英國の海圖にも載せられず 日本露西亜の海圖にも記されず 又朝鮮の版圖にも編せられず 然れども其島の存在することは事実にして、現に欝陵島より帰りたるものは晴天の日同島山峯の高處に於て東南の方に遥かに島あるを認むと云へり 今此島發見の歴史を聞くに 一二年前西國筋の一潜水器船魚類を尋ねて遠く海中に出でたる時 見馴れざる場所に不圖一島嶼あるを認め 悦んで此處に根拠を据へ其四隣の海中を漁り廻りたるに 魚類の生息することは非常なれども 不幸にして數百頭の海馬の群れに悩まされ 何分にも饒多なる魚類の捕獲を全ふせず、ホウボウの体にて逃げ帰らざるべからざることとなりぬ、其後此事を以て或水産家に糺したるに 潜水器船の同島に到りたるは季節恰も五六月の交なりし故 海馬の産期に当るを以て其妨害を受けたるものなるべしと云ふ 同潜水業者が實見せる所にては 同島は流れ三十町に近く丘陵甚だ高からざれ共處々雑草雑木を生じ 島形又極めて屈曲多く漁船を泊し風浪を避くるには頗る好地位に在り 但し地上數尺の間は之を穿て其水を得ざるを以て 現今の處水産物製造場としては未だ好都合なりと云ふを得ずとのことなり 去れど航海家水産業者の為めには尚ほ充分探険の価値あるべし 因みに曰く 日韓漁民は此島を呼んで「ヤンコ」と云へり
(地学雑誌)5月15日
● 日本海中の一島嶼(ヤンコ)
去る四月中旬 東京發行の各新聞紙は日本海中に一島嶼を發見せることを報せり、其いふ所に從へは
韓國欝陵島を東南に去ること三十里 我日本國隱岐を西北に距ること殆んと同里數の海上に 未た世人に知られさる一島嶼を發見せり、該島は 未た本邦の海圖には載らす イキリスの海圖にも亦之を記せされとも 其島の存在は確實にして、現に欝陵島にありし日本人は晴天の日 山の高所より東南を望みたるに 遙に島影を認めたりといへり、今此の島發見の歴史を聞くに 一兩年前 九州邊の一潜水器船が 魚族を追ふて遠く海中に出てたるに、見慣れさる所に一島嶼の存在せることを發見し 喜んで之を根據地と定め 其四隣の海中を漁り回りたるに、此の邊魚族の棲息せるもの頗る多かりしも 海馬數百群を爲して潜水器船を沮みたれば 終に目的を終へすして引還したりといふ、此の船中にありし潜水業者の實見したる所なりとて報する所によれは 其島は長さ三十町に近く 丘陵甚た高からされとも 處々に蓁〓蕪穢、島形又極めて屈曲に富み 漁船を泊し風浪を避くるに最も便あり、只地上より數尺の間は之を鑚るも水を得ず 從て現今の所にては水産物製造場としての價値は乏しといふべし、故に學者實業家は猶充分なる探検を施すの餘地を留む、日韓漁民之を指してヤンコと呼へりといふ
『東京日日新聞』NichiNichiポイントは以下の通り
ReplyDelete○1900年10月『勅令41号』のあとであるが、韓国人も「ヤンコ」と呼んでいる。
○葛生修亮 黒龍会『会報』3月10日
→『東京日日新聞』4月13日(他の新聞も報道?)
→『地学雑誌』5月15日
とつながる
○『地学雑誌』はすでに リアンコートロツクと符合すると指摘
○東京日日新聞NichiNichi4月13日
→Japan Times(日付不明)東京で発行されていた英字新聞 現在未発見
→Straits Times(6月22日)シンガポール
○東京日日新聞NichiNichi4月13日
→Montreal Star(日付不明)Montreal, Quebec, Canada
同じ記事を引用
→The Long Island Farmer Jamaica, New York 5月31日
→Fulton County News Atlanta, Georgia 7月4日
→The Pacific Commercial Advertiser Honolulu, Hawaii 7月30日
Montreal Starのoriginalは未発見
「カリブ海」を例に出したことが受けたのか、アメリカ各地の新聞が引用している。
Montreal Starの記者が直接NichiNichiから翻訳することが出来たか?
(日本語が出来る記者が日本にいたか?)
やはりJapan Timesが間に入っているか?
「1年前に 1人の漁師が発見」したことになっているが、
NichiNichiは「一兩年前」(1~2年前)「一潜水器船」(チームであり漁師は複数と思われる)
情報は正確ではなくなってきている。
YANKO ISLAND.
ReplyDelete"The Long Island Farmer, Jamaica, New York -- 31 May 1901
YANKO ISLAND.
Facts About New Land Discovered In the Sea of Japan
That there should be room for discovery of an island in the sea of Japan at this time of day seems hardly creditable, says Montreal Star. It would almost be as much expected to make a discovery of the kind in the Caribbean sea. Yet, according to the Nichi Nichi, a Japanese paper regarded as reliable, it appears that an island was discovered at a point between Ul-long-do, island of Korea, and the Oki archipelago, about 30 miles off.
No maps heretofore have the island referred to. It is described as two miles long and about the same in width. Trees and grass are there, and it contains many inlets, affording good anchorage. The island was discovered by a fisherman about a year ago, he finding the waters about it fairly alive with sea horses. The new land is called Yanko by the fishermen of Japan and Korea.
"Fulton County News," 4 July 1901
YANKO ISLAND
That there should be room for discovery of an island in the sea of Japan at this time of day seems hardly creditable. It would almost be as much expected to make a discovery of the kind in the Caribbean sea. Yet, according to the Nichi Nichi, a Japanese paper regarded as reliable, it appears that an island was discovered at a point between Ul-long-do, Island of Korea, and the Oki archipelago, about 30 miles off.
No maps heretofore have the island referred to. It is described as two miles long and about the same in width. Trees and grass are there, and it contains many inlets, affording good anchorage. The island was discovered by a fisherman about a year ago, he finding the waters about it fairly alive with sea horses. The new land is called Yanko by the fishermen of Japan and Korea.-Montreal Star
"The Pacific Commercial Advertiser, Honolulu," July 30, 1901
YANKO ISLAND
That there should be room for discovery of an island in the sea of Japan at this time of day seems hardly creditable. It would be almost be as much to make a discovery of the kind in the Caribbean sea. Yet, according to the Nichi Nichi, a Japanese paper regarded as reliable, it appears that an island was discovered at a point between Ul-longdo, Island of Corea, and the Oki archipelago, about thirty miles off.
No maps heretofore have the island referred to. It is described as two miles long and about the same in width. Trees and grass are there, and it contains many inlets, affording good anchorage. The island was discovered by a fisherman about a year ago, he finding the waters about it fairly alive with sea horses. The new land is called Yanko by the fishermen of Japan and Corea.-Montreal Star
/////////////////////////////
"Strait Times," 22 June 1901
A NEW ISLAND
According to the Japan Times a new island has been discovered in the Sea of Japan. From statement appearing in the “ Nichi Nichi” it appears that the island is situated at a point between Ul-long-do island, off Korea, and the Oki Archipelago, off the coasts of San-in-do, the distance from either side about being thirty miles. No maps ever published contained any reference to the island, which is reported to be about two miles in length and about the same in breadth.
『地学雑誌』はすでに「リアンコートロツクと符合する」と指摘しているが、
ReplyDelete英字新聞の記者たちは『地学雑誌』を読むだけの日本語力がなかったのか、
「リアンコートロツク」と結びつけている記事はない。
Good job, Matsu. What is the source of the March 10 article?
ReplyDeleteNever mind. I just noticed the "Black Dragon Society" characters in a separate comment as the source of the March 10 article.
Deletematsuさんご苦労様でした。
ReplyDeleteスレ汚しっぽくて恐縮ですが、ちょっと関係があるので、引用して措きます。
渡邊洪基逝く
5月25日 東京日日新聞
「渡邊洪基氏の長逝 ○豫(かね)て重患を以て赤十字社病院に入院治療中なりし同氏は、病勢頓(とみ)に改りて昨日午前二時、五十五歳を一期として溘然(こうぜん)長逝せられたり。氏の朝野に於ける功績は旣に世人の汎く知る所、今や逝いて我政治實業界、共に複た其溫容に接するを得ず、悲哉。」
この記事から察するに、病状が急変して俄に還らぬ人となったようですので、まだ四月十三日の記事なら、渡邊洪基もまだ病床で記事を読めたり、見舞い客に話を聞けたのではないかと思います。彼なら、この島が旧松島であり、リアンコール岩だと理解できたのでしょうか。
もともと彼は、会津戦争では、日新館の野戦病院で負傷兵の治療に当たった医者でもあり、明治十八年、第九代東京府知事となり、このとき現在でも使われている東京都の銀杏のマークを採用したことなどを思うと、渡邊をより身近に感じますし、現竹島に関しては、歴史の偶然と皮肉を感じます。
葛生修亮『韓海通漁指針』(1903)雑誌掲載のもと原稿。
ReplyDelete黒龍会機関誌『黒龍』第2号 明治34年(1901)6月15日刊掲載
「韓国沿海事情」江原道(13P)に以下の記述あり。
鬱陵島の項目の中にある。「ヤンコ島」の見出しはない。
最後の記述により『会報』第一集に「日本海中未發見の一嶋」を書いたのが葛生修亮であることが確認できる。
欝陵島より東南の方約三十里、我が隠岐國を西北に距る殆んと同里數の海中に於て、無人の一島あり、晴天の際山峯の高所より之れを望むを得べし、韓人及本邦漁人は之れをヤンコと呼び、長さ殆んと十余町、沿岸屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し、然れども薪及飲料水を得るは甚た困難にして、地上數尺の間は之れを穿てども容易に水を得ずと云ふ、此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑、海鼠、石花菜等に富み、數年以前山口懸潜水器船の望を屬して出漁したるものありしが、潜水の際、無數の海馬群の為めに妨げられたると、飲料水の缺乏との為めに、充分營業することを得ずして還りたりと云ふ、察するに當時の季節は恰も五六月にして、海馬の産期に當りしを以て、殊に其妨害を受けたるものならんか、又た附近に鱶漁の好網代あり、數年以来五六月の候に至れば大分懸鱶縄船の出漁するものあり、昨年春季同處より歸航したる漁夫に就て之れ聞くに、出漁未だ二三回に過ぎさるが故に、充分の好果を得たりと云ふべからずと難も、毎季相應の漁獲あり、從来の経験上其網代の状態及び鱶類棲息多きとより観察するに、必らずや良好の漁場たるを疑はずと、蓋し同島は當業者の為めには尚ほ充分探檢の価値あるべきを信するなり(其要領は会報第一集に載せたり参照せよ)
葛生がヤンコの記述を鬱陵島の項目の中に含めたことが、後のいろいろな人の著作に影響していると思われる。
葛生自身に、「鬱陵島の属島」という認識があったのかどうか。
『地学雑誌』が指摘している「Liancourt rocksリアンコートロツクとの符合」について、葛生は全く触れていない。葛生は『地学雑誌』を読まなかったのだろうか?
また、葛生の一連の記述には、江戸時代の松島であることへの言及も全くない。
「江戸時代の松島である」ことは、関心がある人々の間でも忘れ去られていたのだろうか?
小嶋さん
ReplyDelete渡辺洪基がこの時期に亡くなっていたのですね。
彼は『地学雑誌』とも大いに関係があったので、「松島の議」のその後として、関心を持っていたと思います。
Gerry,
ReplyDeleteI also found "The Japan Times"
April 14th Sunday, 1901 (the next day of the Nichi Nichi article)
A NEW ISLAND
A new island has been discovered in the Sea of Japan. From a statement
appearing in the Nichi Nichi, it appears that the island is situated at a
point between Ul-long-do island of Korea and the Oki archipelago off the
coasts of the San-in-do, the distance from either side being 30 miles. No
maps ever published in this country or elsewhere are said to contain any
reference to the island, which is reported to be about 2 miles in length and
about the same in breadth. Trees and grass are said to be growing on the
isle which it is stated can afford good anchorage for many ships on account
of its containing many inlets. It was about a year or two ago that the
island in question was first discovered by a fisherman of Kyushu, who while
engaged I fishing, came across it and who found waters in its neighbourhood
full of sea-horses. The island is now popularly called the "Yanko" by the
fishermen of Japan and Korea.
///////////////////////////////
"The Strait Times" surely came from this article.
"The Montreal Star" decorated in a good way, but the information itself came
from the Japan Times article.
ジャパンタイムズJapan Timesは、日本人経営の英字新聞で、東京の内幸町にありました。
ReplyDelete『東京日日新聞』の記事が、すぐ翌日に翻訳されて記事になっていることからもわかるように、もちろん自己取材もしたのでしょうが、日本で発行されている新聞などの日本語の情報を、英語で発信する所に役割とニーズがあったものと思われます。
このケースでも、ジャパンタイムズが翻訳して伝えたがために、シンガポール、カナダ・モントリオール、ニューヨーク、アトランタ、ハワイ、と同一の記事による情報が拡散していることが分かります。
4月14日付け新聞の最後に
編修人 頭本元貞 発行人 武信由太郎(これは漢字表記)
発行所は 東京市麹町区内幸町1丁目5 とあります。(これはローマ字表記)
葛生修亮の黒龍会『会報』への報告は、かなり限られた読者しかいなかったと思われますが、『東京日日新聞』に報道されることで一般の人が知るところとなり、さらにこれがあったがために『地学雑誌』にも取り上げられて当時のインテリ層にも情報が入り、リアンコートロックとの関連も知られることになったと思います。
さらには『東京日日新聞』が英訳されることで、世界的に情報が伝わった、という流れだと思います。
葛生修亮は3回、ヤンコについて書いています。
ReplyDelete(1) 明治34年(1901)3月10日(黒龍会『会報』第1集「雑報」)
「日本海中未發見の一嶋」最初の報告
(韓国『帝国新聞』4月1日)
(『東京日日新聞』4月13日→『地学雑誌』5月15日)
(the Japan Times 4月14日)
(2) 明治34年(1901)6月15日(黒龍会『黒龍』第2号)
「韓国沿海事情」江原道 鬱陵島の項目の中
この段階で『韓海通漁指針』(1903)の原稿はほぼ出来ている
鬱陵島部分の記述は恒屋盛服『朝鮮開化史』(1901・1・29博文館)のパクリが多い
ヤンコについては葛生の独自情報
(3)明治36年(1903)1月4日『韓海通漁指針』(黒龍会 単行本)
江原道の中 鬱陵島の次に「ヤンコ島」の項目
内容は(2)とほぼ同じ
葛生修亮と「ヤンコ」については
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2008/08/1904-history-of-joseon-civilization.html
5/8/08 22:33
2008年8月5日の私のコメントを参照いただければ幸いです。
>「ヤンコ島」という名称についても、一見、いろんな人がそう呼んでいたように思えますが、ひょっとしたら、葛生修亮が得た「ひとつの情報」が、「こだま」のように広がっているだけかもしれません。
とこの時書きましたが、今もこの考えは変わっていません。
Good job, Matsu. It seem to have all started with the Black Dragon publication.
ReplyDelete常連の皆さんは御存知のことと思いますが、「黒龍会」という名称の「黒龍」とは黒い龍ではなく、黒龍江(アムール川)を指します。この団体の起源は、朝鮮での甲午農民戦争時に東学と連携しつつ清軍を挑発するために派遣された玄洋社の別働隊「天佑侠」ということになりますが、英語版のWikipediaでも、黒い竜と訳されていますから仕方がないのかも知れませんが、アムール会と訳した方が良いのかも知れません。
ReplyDelete外国の人に分かりやすい例としては、アニメ映画「千と千尋の神隠し」で、「白竜」が琥珀川の神であったように、東アジアでは、川すなわち龍であることが常識であり、これをDragonと訳してしまうと、侵略を肯定する「武断」の団体と誤解される危惧があります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Black_Dragon_Society
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%BE%8D%E4%BC%9A
さて、♪流れ豊かな黒竜江に関しては、日本人は歴史的に一種のロマンを抱いていました。
古くは、奈良時代の多賀城の碑文に、「去京一千五百里、去蝦夷國界一百廿里、(中略)、去靺鞨國界三千里」とあるように、アムール流域を含む靺鞨国は当時から常識的教養であったようです。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/Map_of_The_east_barbarian_5.png
鎌倉時代には、日蓮の弟子の日持上人が、北海道と樺太で布教活動をしたのち、アムール河流域に渡ったという伝説があり、蒙古襲来の時に、北方からの元軍の襲来を防いだのは、アイヌと安東氏らからなる、唐子と渡党の蝦夷であるという歴史的事実と、その末裔であるクイサリアイヌが、20世紀までアムール河口に住んでいたことなどを考えると、オホヤシマ(大八島)という概念からみた大日本国の最辺境部に属すると考えられるからかもしれません。これは、もともと縄文文化の広がっていた範囲や、古代の倭人の居住範囲と同様に、かなり広い地域を含めた「源日本人」の居住範囲であったと言えると思います。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2014/01/original-text-of-chinese-documents.html
アムール川河口付近のクイサリ氏族についての拙コメント
韓国蔚州郡大谷里 盤亀台岩刻画
http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TE/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=1145201
ヤンコについては、大きくふたつの問題があります。
ReplyDeleteひとつは、「ヤンコ」とよんでいた韓人漁夫は、どのような人たちで、どういう契機でそう呼んでいたのか。実際に竹島で漁労していた韓人漁夫がいたのか、その人たちは何をとっていたのか。
この資料から直接には、それはわかりません。実際にそういう韓人漁夫がいたのかどうか、ということも完全に証明されているわけでもありません。
もうひとつは、葛生修亮の『韓海通漁指針』以後にも、いくつかの著述で、「ヤンコ」が韓国江原道の鬱陵島の項目に書かれていることです。これをもって韓国側は、日本側が独島を韓国領と知っていて強奪した、という論理を主張しているわけです。
それは成り立つのか。
私の結論的に言えば、その後の著述は、葛生をそのまま「引用」して(パクって)いるだけで、実際に本人がいろいろ吟味したうえで、記述をしているとは言えないのではないか、ということです。
中井養三郎がリャンコ島を韓国領と「誤解した」(認識した)背景には、これまで言われている「海図」以外にも、こうした著述があるのではないかと思います。
「ヤンコ」という名前で非常に興味深いのは、日本側が「リャンコ」と呼んでいたのを、韓国人が「ヤンコ」となまったのではないか、ということです。
ReplyDelete語頭のRが落ちて、Ryanko(량코)がYanko(양코)になる。
日本人がリャンコと呼んでいるのを、韓国人がむしろ発音できずに、ヤンコになってしまったのではないか。
日本側の資料でリャンコと呼ぶ例を悉皆的に集めた研究はまだないようですが、ヤンコと呼ぶのはこの例だけではないかと思います。
もちろん、葛生の影響をうけた(あるいは、まる写しした)文献はたくさんありますが、葛生の例とは独立に、ヤンコという呼称を採集している例はないように思います。
Today, I noticed for the first time that the March 10, 1901 Black Dragon Society (黒龍会) article actually says that the island referred to as "Yanko," by both Japanese and Koreans, was "not attached to Korean territory" (又朝鮮の版圖にも編せられず). Is that translation correct?
ReplyDeleteHow did the writer of the March 1901 article know that both Japanese and Koreans referred to Liancourt Rocks as "Yanko"? How did the writer know the island was not a part of Korean territory? It seems the information must have been gathered from fishermen and residents on Ulleungdo. In other words, people on Ulleungdo most likely knew in 1901 the island was not part of Korean territory, even though Koreans today claim that five months earlier it was annexed as part of Uldo County in October 1900. The 10 March 1901 Black Dragon article does not support the Korean claim, and "Yanko" was not mentioned in the June 1900 Ulleungdo survey report of 禹用鼎.
Does anyone have a scanned copy of the original 10 March 1901 Black Dragon Society (黒龍会) article? I would like to post about it.
Gerry,
ReplyDeleteI am sending you the article of 1901 March. 10 黒龍会『会報』 第一集
You can see the article 日本海中未発見の一嶋 in the last part of the first PDF through the first part of the second one.
It is from a reprint edition in 1989.
Kuzuu Shuusuke 葛生修亮 was already back in Japan in Oct.1900 .
as 『韓国沿海事情』in the same edition indicates.
So, the time he got the name “Yanko” should be before that time.
He started his invensigation trip in Korea in Feb.1899.
Matsu
You can see some information from the contribution below.
ReplyDeletehttps://www.i815.or.kr/media_data/thesis/2012/20120201.pdf
윤 소 영*
1900년대 초 일본 측 조선어업 조사 자료에 보이는 독도
한국독립운동사연구 제41집 * 독립기념관 한국독립운동사연구소 연구원.
ユン・ソヨン*
「1900年代初めの日本側朝鮮漁業調査資料に見える独島」
『韓国独立運動史研究』第41集 2012.4 *独立記念館 韓国独立運動史研究所 研究員
I have already translated it into Japanese.
Matsu,
ReplyDeleteThe following PDF does not have a scanned copy of the original March 10, 1901 Japanese article. It only has a Korean translation of the Japanese article on Page 24. I already had this PDF. Are you talking about a different PDF?
https://www.i815.or.kr/media_data/thesis/2012/20120201.pdf
https://www.i815.or.kr/media_data/thesis/2012/20120201.pdf
Matsu,
ReplyDeleteI want a scan of the original March 10, 1901 article, which I am posting below. The article is already in Japanese, so it doesn't need to be translated into Japanese. I have translated it into English and want to post my translation with the original scan of the Japanese article.
---------------------
(葛生)3月10日
日本海中未發見の一嶋
朝鮮の欝陵島を東南に去ることを三十里、我帝國の隠岐國を西北に距ること又殆んど同里数の海中に於て世人未知の無名島あり 此島未だ英國の海圖にも載せられず 日本露西亜の海圖にも記されず 又朝鮮の版圖にも編せられず 然れども其島の存在することは事実にして、現に欝陵島より帰りたるものは晴天の日同島山峯の高處に於て東南の方に遥かに島あるを認むと云へり 今此島發見の歴史を聞くに 一二年前西國筋の一潜水器船魚類を尋ねて遠く海中に出でたる時 見馴れざる場所に不圖一島嶼あるを認め 悦んで此處に根拠を据へ其四隣の海中を漁り廻りたるに 魚類の生息することは非常なれども 不幸にして數百頭の海馬の群れに悩まされ 何分にも饒多なる魚類の捕獲を全ふせず、ホウボウの体にて逃げ帰らざるべからざることとなりぬ、其後此事を以て或水産家に糺したるに 潜水器船の同島に到りたるは季節恰も五六月の交なりし故 海馬の産期に当るを以て其妨害を受けたるものなるべしと云ふ 同潜水業者が實見せる所にては 同島は流れ三十町に近く丘陵甚だ高からざれ共處々雑草雑木を生じ 島形又極めて屈曲多く漁船を泊し風浪を避くるには頗る好地位に在り 但し地上數尺の間は之を穿て其水を得ざるを以て 現今の處水産物製造場としては未だ好都合なりと云ふを得ずとのことなり 去れど航海家水産業者の為めには尚ほ充分探険の価値あるべし 因みに曰く 日韓漁民は此島を呼んで「ヤンコ」と云へり
Gerry,
ReplyDeleteI've just sent you 4 PDF files which matsu sent to you and me this morning.
I hope it works.
Thank you, Kaneganese. I got it, and it works.
ReplyDeleteGerry.
ReplyDeleteI've sent you another file.
BTW,
Mr. Kojima suggested that 黒龍会 should be translated as not "Black Dragon" Society but "Amur River" Society. I kinda agree with him.
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2015/05/new-island-named-yanko-mentioned-in.html?showComment=1432714420599#c7617767781548075252
Okay, but won't most people know it as the "Black Dragon Society," especially considering the Chinese characters? Koreans have been claiming for years that the Black Dragon Society publication supported their claim to Liancourt Rocks, but this article clearly shows the Rocks was not considered a part of Korea. Anyway, I will add the "Amur River Society" name to the article somewhere.
ReplyDeleteThank you for sending the Japanese article, Matsu. Even though I did not receive it for some reason, Kaneganese received it and forwarded it to me.
ReplyDeleteGerry,
ReplyDeleteI also sent you the Nichi Nichi and the Japan times.
I hope you can get the PDF of the articles from Kaneganese.
Kaneganeseさま
ReplyDeleteご配慮ありがとうございます。語感あるいは綴りから来る印象というのは大きいですね。
dragonドラゴンといえば、キリスト教文化圏では、「悪と罪の象徴」であり、鋭い爪を持ち火を吐く伝説上の怪獣で、退治されるべき存在であり、「恐ろしい」という形容詞にもなる。しかも、この場合、この印象を強調するBlackという形容までついている。
ところが、東アジアでは、大河は、洪水をもたらす恐ろしいものである反面、土地を豊かにし、作物に必要な水を与える龍である。龍はまた、西洋と同様に伝説の怪獣ではあるもののそれは、「神獣」であり、龍を見ることは、瑞兆であり慶事である。つまり正反対の印象となる言葉です。
一方、ラテン語には、Amorアモルということばがあり、「愛」「愛の神」を意味し、クピド(キューピッド)としても知られています。
1970年代の流行歌で、ヒデとロザンナが「アモーレ」と絶叫していたのを思い出しましたが、フランス語のアムール(amour)、イタリア語のアモーレ(amore)は、ともに「愛」「愛情」を意味し、ラテン語由来の言葉です。
ロシア語にもАмурアムール(ラテン文字に転写するとamur)という単語があり、すなわちキューピッドであり、時には「情事」といった俗語としても使われた単語です。
偶然か否か、ロシア語で、全く同じ綴りのАмур(Amur)と書かれる大河があります。
このアムール河のアムールは、「黒い川」という意味であり、古くは、「黒水」と記述され、現代でも、黒龍江あるいは黒河と呼ばれています。Wikipediaには、黒龍会の由来として以下の説明があります。
「春になると川原一面にきれいな花が咲き乱れる。その、のどかで平和な美しい光景をシベリア横断を成し遂げた内田良平が見て感動し、東亜の理想はこの光景にあると大悟し、欧米列強諸国によって殖民併呑されたアジアを復興し、まるで極楽を思わせるかの様な、春の美しい黒龍江のようなアジアを建設することをライフワークとして誓った。その復興アジアへの内田良平の誓いこそが、黒龍会の名前の由来である。」
なお、前回の私のコメントが尻切れとんぼに終わってしまいましたが、アムール流域に住む人々に、縄文系日本人の母系遺伝子として知られる、ミトコンドリアDNAのハプログループM7aやM9bが見られることや、「靺鞨」ということばで、アイヌを示したらしい例として「莫設靺鞨」の語があることを付記しておきます。
北の縄文文化を発信する会
http://jomon-heritage.org/blog/books/294
オホーツクの古代史(北海道大学名誉教授) 菊池俊彦 著によれば
黒水靺鞨(沿海州)、流鬼国(樺太)、莫設靺鞨(北海道)ということです。
Matsu,
ReplyDeleteI don't know where your PDF files are going, but they are not showing up in my email, which is as follows: gerrybevers@gmail.com
Did you spell my name correctly in my email address?
Gerry,
ReplyDeleteI spent to
gerrybevers@gmail.com
I am not sure ‘where have all the files gone.’
Anyway I hope you can get the Nichi Nichi and the Japan Times from Kaneganese.
Kaneganese,
Sorry to bother you.
And thank you for your information.
小嶋様
黒龍会が「滿韓新圖」(1904)というのを出していますが、ここでも
Amur Association となっています。
https://ndlopac.ndl.go.jp/F/?func=full-set-set&set_number=022279&set_entry=000001&format=999
黒龍会の調査は大変に緻密であり、評価されるべきだと思います。
Matsu,
ReplyDeleteKaneganese sent me the files either yesterday or the day before. I added them to the post yesterday.
Anyway, the PDFs looked good.
matsu 樣
ReplyDelete調べてみたら、その地図は、 pacifist さんによって2007年にポスティングされていますね。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2007/12/1904220.html
http://blog.daum.net/sabul358/16249185
アルゴノートの混乱はあるものの、1904年段階で旧松島は日本領土という認識です。
二枚目の別版の満韓新図は、East Asian Library University of Califonia, Berkeley
ReplyDeleteの所蔵ということです。日英文表記ということで、pacifistさんがお示しのものより少し新しいようで、アルゴノートが消えていす。
http://www.lib.berkeley.edu/libraries/east-asian-library
ここで、
「黑龍會編輯滿韓新圖
Amur Assocciatio[n]'s map of Manchuria and Coria.
Kokuryukai Man-Kan shinzu」
を検索。
http://oskicat.berkeley.edu/search~S1/?searchtype=X&searcharg=Kokuryukai+Man-Kan+shinzu
吉川弘文館の地図が拡大できます。
こちらの満韓新図では、欝陵島(松島)となっていて、ボーツソール岩も描かれています。
http://luna.davidrumsey.com:8380/luna/servlet/detail/RUMSEY~9~1~24264~110014:Kokuryukai-Man-Kan-shinzu---Kokuryu?trs=2&qvq=q%3ABb_6%3Bsort%3APub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No%3Blc%3ARUMSEY~9~1&mi=1&sort=Pub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No
当然のことながら黒龍会の英文表記は、Amur Assocciationを用いていますね。
悪意のある翻訳によって、「退治されるべき悪の結社」というイメージ戦略から解散に追い込まれた経緯とも無縁ではないでしょう。
ポツダム宣言のとき有名な誤訳、「黙殺する(聞かなかったことにする)」を「無視する(あからさまに拒否する)」と訳された以上に、「わざと」だと思うのです。
恐らく意図的にやったのであろう歴史的な誤訳を、いまだに踏襲すべきか否か。
先日のワシントンポストの東京支局長がやらかした、「生ビール等、韓国屋台からお持ち込みはご遠慮下さい。ご協力お願いします。」を「"Don't bring your dirty Korean beer in here."」と翻訳した人物の汚らしさに通じるものがあります。
http://www.j-cast.com/2015/05/25236057.html
http://togetter.com/li/825819
http://togetter.com/li/826200
Matsu,
ReplyDeleteI would like to post in English this article: 『地学雑誌』13輯148巻(1901.5)pp.301-302
If you have it, could you send our go-between, Kaneganese. a pdf copy of the original article. If you do, I will translate the Korean version of the article in English.
Thank you.
Gerry
小嶋さん
ReplyDeleteありがとうございます。
「黑龍會編輯滿韓新圖」1904
http://luna.davidrumsey.com:8380/luna/servlet/detail/RUMSEY~9~1~24264~110014:Kokuryukai-Man-Kan-shinzu---Kokuryu?trs=2&qvq=q%3ABb_6%3Bsort%3APub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No%3Blc%3ARUMSEY~9~1&mi=1&sort=Pub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No
ここで重要なことは、同じ黒龍会が出した地図ですが、鬱陵島までしか描かれておらず、
「韓」の範囲に、ヤンコもリアンコート・ロックスも描かれていないことです。
『韓海通漁指針』1903の付図も鬱陵島までです。
韓国側は、葛生および黒龍会がヤンコを韓国領と見ていた、と主張していますが、この地図はその反証になります。
matsuさん
ReplyDelete重要な点を、補足いただきましてありがとう御座います。既に1901年の時点で、隠岐と鬱陵島のほぼ中間に位置する、「ヤンコ」の意識があったわけですから、1904年の日英両文表記の地図でも、現在の竹島を明らかに、韓国領ではないと明示した地図ということになります。
皆様
「生ビール等、韓国屋台からお持ち込みはご遠慮下さい。」の画像です。
https://pbs.twimg.com/media/CFvtOSRUgAArtr8.jpg
https://web.archive.org/web/20150604130255/https://pbs.twimg.com/media/CFvtOSRUgAArtr8.jpg
横道に逸れて恐縮ですが、この画像に関して、意外なことが分かりましたので追記します。
上の画像の貼り紙を見ると、一般的には、多くの屋台が出ているような街にある固定店舗の酒場で撮影されたものと想像しがちだと思います。しかし、下記のコメントによれば、この貼り紙は、酒場の店主が貼りだしたものではなく、JR品川駅港南口の物産展のもので、向かいにある韓国料理店の屋号が「韓国屋台」であり、そこで買った飲食物を持って駅の物産展に入らないで下さいという意味のものらしいです。
Anna Fifield氏の悍しさに絶句します。
http://www.j-cast.com/2015/05/25236057.html?ly=cm
010しながわきんむ 2015/5/26 01:29
これ品川駅江南口で定期的にやってる物産展の貼り紙じゃないかな?見たことあるような。
道の挟んですぐのとこに「韓国屋台」って居酒屋があるんで、そこからの持ち込みを断ってる貼り紙のはずだけど。
葛生修亮『韓海通漁指針』1903 1月
ReplyDelete国会図書館のサイトで見られます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/802140
冒頭に地図がありますが、鬱陵島までで、ヤンコもLiancourt Rocksもありません。
上掲
「黑龍會編輯滿韓新圖」1904
http://luna.davidrumsey.com:8380/luna/servlet/detail/RUMSEY~9~1~24264~110014:Kokuryukai-Man-Kan-shinzu---Kokuryu?trs=2&qvq=q%3ABb_6%3Bsort%3APub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No%3Blc%3ARUMSEY~9~1&mi=1&sort=Pub_Date%2CPub_List_No%2CSeries_No
とあわせて、重要な地図です。
26/5/15 01:01の拙コメントを読み直して、間違いに気が付きましたので訂正です。
ReplyDelete渡邊洪基が制定した東京都のマークは、銀杏ではなく亀の子マークの方でした。
東京都旗になっています